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今年は、山のドングリが不作だという。山荘の道路沿いの土手に、16年前世田谷区の公園から拾ってきて蒔いたクヌギのドングリが芽生えて幹の径25cmにも成長した。昨年はかなり実を着けたが、今年はドングリが見えない。北杜市から昨日は竹宇の甲斐駒登山口辺りに、今日は清里にツキノワグマが出たとの一斉メールが入った。クマも冬眠前の体力を付けるための餌探しで大変なのだろうが、里へ出てきて不用意に人と遭遇して傷害事件を起こさないで欲しいものだ。クマやリス・カケスなどの動物が好んで餌とするドングリは、ブナ科のカシ・ナラ・カシワなどのコナラ属凡そ20種の樹木に生る果実の総称である。万葉集に、クヌギのドングリの殻斗で染めた衣に寄せた恋歌がある。美しく若い女性より共に慣れ親しんできた糟糠の妻の方が最も勝ると詠んだもので、「紅は うつろうものぞ 橡のなれにしきぬに なほしかめやも」(紅で染めた衣はきれいだが、すぐに色褪せてしまう。橡で染めた衣は地味でも、慣れ親しんだ衣服に勝るものはない。)である。万葉集4109大伴家持つるばみ(橡)は、クヌギあるいはそのドングリの古名である。クヌギのドングリは、径2cmとドングリの中でも大きな球形で半分は殻斗に包まれている。ドングリは縄文時代から人の食料とされてきたが、タンニンやサポニンを大量に含んでいて渋抜きをしないとそのままでは食べることができない。木の名前の他にドングリあるいは殻斗の煮出し汁で染めた、衣服や色のことも「つるばみ」と言われる。ドングリや樹皮・葉より殻斗から最も色素が出るとされ、つるばみはドングリでは無く殻斗で染めたものとする解説書もある。媒染に灰汁を用いれば薄茶色の「黄つるばみ」になり、鉄を用いたものは「黒つるばみ」と呼ばれ黒色に染まる。奈良時代には比較的手に入り易かったため、身分の低い者が着る衣服の色であった。平安中期になると四位以上が着る袍の色とされ、さらに仏教の広まりとともに法衣や喪服にも使われるようになって高貴な色とされるようになった。万葉集4109の「紅は…」は33歳の大伴家持が、越中の遊女左夫流と浮気している部下の史生尾張少咋を戒めた歌である。この後本妻が都から越中へ乗り込んできたことで、町中が大騒ぎになったとある。浮気がばれての騒ぎはいつの世でも、世間の格好の話題になる。クヌギの名には「国木」からとする説と「食之木(くのき)」からとの二説があるが、「つるばみ」の語源については不明である。「…ばみ」は「はむ」と同源と考えられるところから、つるには食べるに関係した意味があったのかもしれない。「つるばみ染め」については平安時代中期に編纂された「延喜式」にすでにその記述が見え、古くから染料とされてきたことが分かる。つるばみに「櫟」「椚」「橡」の字が当てられることもあり、他の樹木の名前と混乱錯綜している。「和漢三才図絵」では、「久奴木」「和漢薬」では「都留波美」と書かれている。花言葉 おだやかさ5月に栗の花のように垂れ下がって咲く花に、なぜ穏やかという花言葉がついたのか理解を超えている。万葉集には4109の他に、橡が出てくる恋歌が六首ある。橡の衣は人皆事なしと言ひし時より着欲しく思ほゆ 1311橡の解き洗ひ衣のあやしくもことに着欲しきこの夕かも 1314橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ 2965橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも 2968橡の 衣解き洗ひ真土山 本つ人にはなほしかずけり 3009橡染めの布は麻衣なので、洗うと硬くなる。そのため、砧で「再打ち」するのだという。(橡の衣を解いて洗うとき又打つように、古女房が最も良いものです。)
2016年10月28日

我が家に径30cmの大きさの、七宝焼きの皿がある。七宝焼き作家が死亡したことに依り、遺族から沢山の作品を家内の従妹が譲り受けたものの中のひとつである。芸術を解さない身にとっては皿の表に描かれた絵が抽象に過ぎて理解できないが、想像力を最大限に働かせて見ると中央にドレスを翻して軽やかに舞う若い女性が見えるような気もする。仏教は一般に6世紀半ばの欽明天皇期の538年に、経典とともに百済から倭国へ伝来したといわれている。仏教経典には身に付けていれば霊力によって災厄から身を守ってくれるという、「七宝」と呼ばれる七種の宝が出てくる。佛陀為大眾開示有七種布施,可獲殊勝果報。七是房舍施,讓父母、師長、沙門、婆羅門可以在屋舍中自在地行住坐臥。這樣的布施,來世能夠受用自然而成的宮殿舍宅;未來成佛,能得諸種禪定及無量三昧功徳屋宅,這是第七種布施的果報。出典雜寶藏經.卷六(七六)七種施因緣仏教経典の広がりと共に、「七種(くさ)の寶」も信仰の形で人々の心に浸透していったものであろう。万葉集では山上憶良が「古日」という名の幼子の死を悼む長歌の冒頭で、「七種の宝」より死んでしまった子こそが自分の大切な宝だと詠んでいる。「世の人の尊び願ふ 七種の宝も我はなにせむに 我が中の生まれ出でたる 白玉の 我が子古日は……」(巻5・904)世の中の人全てが尊んで欲しがる七種の宝も、私には何になろうか。私たちの願いに願って生まれた、真珠のように美しく大切なわが子古日は…」の意である。「七宝」(しっぽう・しちほう)・「七珍」と呼ばれる七種の宝は、極楽浄土の荘厳さを表現する際の譬えにも使われる。仏教では七や三という数字は「吉祥数」とされ、七宝のような寶を身に付けていれば霊力が災厄から身を守ってくれると信じられていた。大乗仏教経典の「無量寿経」と「法華経」では、七種の種類に違いがある。無量寿経では「金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙」が、法華経では「金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰」の七種が上げられている。※瑠璃は「青色の玉」・玻璃は水晶のことで後にガラスも含む・硨磲はシャコ貝のように綺麗な貝殻・玫瑰(マイカイ)は中国に産する紫色をした美石あるいは赤色系の宝玉花のハマナスにこの文字を当てることがある。日本伝統工芸の「七宝焼(七寶瑠璃)」は、「七宝のように美しい焼き物」が語源由来とされている。※七宝を、材料にして作られるからという説もある。「犬棒かるた」の「る」は、「瑠璃も玻璃も照らせば光る」である。石ころに交じっていても青色の玉(ラズベリー)や水晶に光を当てると光り輝くように、優れた才能や素質を持つ者は、どこにいても際立つという譬え。また、そういう者は活用次第で能力を存分に発揮するということ。経典で教える七寶は現代では金を除けばそれほど高価なものはなく、世の中の人全てが尊んで欲しがるようなものでもない。七寶から派生した焼き物の名前とされる七宝焼きは、高価なものでは数十万を超えるとも言われ本家の七寶の価値を遥に凌駕している。
2016年10月27日

守株(シュシュ)という、故事成句がある。「守株」は、守株待兎(くひぜをまもりてうさぎをまつ)から出た言葉である。紀元前3世紀に活躍した中国の法家の思想書韓非子五蠹篇に、「宋人有耕田者。田中有株。兎走触株 折頸而死。因釈其耒而守株 冀復得兎。兎不可復、而身為宋国笑。」と出てくる。(宋人に田を耕す者有り。田中に株有り。兎走り株に触れ、頸を折りて死す。因りて其の耒を釈てて株を守り、復た兎を得んことを冀ふ。兎復た得べからずして、身は宋国の笑ひと為る。 ※耒(すき)・冀(こひねが)ふ)宋にある農民がいた。畑の隅に切り株があり、ある日そこにうさぎがぶつかり首の骨が折れて死んだ。鋤を捨て、再びうさぎを待ったが二度と来なかった。農民は、国の笑いものになった。韓非は古の聖人の行ったような徳治を行うべきという儒家の主張を批判し、「昔の統治方法をそのまま用いるのではなく、時代に合わせて変えるべきだ」という文脈の中でこの説話を用いた。即ち古い習慣に捉われてし全く進歩がなく、しかも臨機応変の能力がないことの比喩として用いたものである。四文字あるいは二文字熟語の「守株待兎」あるいは「守株」という成句は韓非子の五蠹(ゴト)篇が出典である。国家を木に譬えその木を蝕み弱体化させるのは、学者・雄弁家・やくざ者・権力者の側近・商工従事者の五匹の蠹だとしている。多くの日本人が口ずさんだ歌で大正13年(1924)に北原白秋が作詞し、現在も歌われる「待ちぼうけ」という唱歌がある。白秋は詞の終わりに、「これは満洲の伝説です。満洲の教育会用童謡として作ったものです。」と書いている。「待ちぼうけ」では偶さかの幸運を当てにして時を無為に過したり、楽をして金儲けをしようと考えないで勤勉を旨としてコツコツ働けと言う意味の詩となっている。僥倖を当てにして、無為に時を過ごす愚行を戒める内容で使われている。韓非子の中に、「聖人(儒教でいう理想的な人間)とは、昔にとらわれ一定不変の基準に固執する者ではない。聖人とは、現在を問題としその解決をはかる者をいうのである。」とある。前例を踏襲することは楽で、批判を受けることも少ない。ところが、新たな改革を図ろうとすると報われないことが多く徒労に終わることも多い。その最たるものは、役所の仕事であろう。トップが代わって異質な考え方や仕事の進め方が入って来ると組織は混乱し仕事が停滞して、場合によっては収拾がつかなくなることもある。今の都政は守株という事なかれ主義を排し長年の間に溜まった膿を一気に絞りだす勢いだが、都民の暮らしや社会経済活動に制動を掛けるようなものであってはならない。「角を矯めて牛を殺す」ことの無いよう、都民の暮らしが上向くような改革が緩やかにしかも着実に進捗することを祈るばかりである。
2016年10月26日

手の意味を国語辞典で引くと、「人体の肩から先の部分。手首・てのひら・指先などをさすこともある。また、動物の前足をいうこともある。」と出ている。両生類以上の脊椎動物は、前肢と後肢二対のアシを持っている。ヒトでは前肢を手、後肢を足と区別する。二対の基本的な構造はほぼ共通だが、鳥類の前肢は翼である。哺乳類の四肢には、生態に応じた形状の進化がある。樹上生活をする動物の多くの前肢には鉤爪があり、これを樹木に引っ掛けて移動する。サル目では物をしっかりと掴むことのできる構造を進化させ、鉤爪の代わりに指の末端を補強する役割を持つ扁爪が発達している。クジラ・アザラシ・アシカなどの海生哺乳類の多くは、水中生活に適応して鰭の形に変化させている。有蹄哺乳動物では蹄が発達し、指は退化しているものが多い。前肢と下肢は、ほぼ同様の構造をしている。漢字で表す場合ヒトでは「手足」を用い、哺乳動物には肢、昆虫では脚が使われる。動物学では猫や犬のように4足歩行をする動物の前肢を「手」とは呼ばないが、「猫の手も借りたい」という慣用句がある。その言葉の後に「…ほどだ。」あるいは「…ほど忙しい」と続ける。猛烈に多忙で、「人手」が足りないことの意味である。忙しくてどうしようもない時には、全く何の役にも立たない猫の手であっても借して欲しいという意味の慣用句である。「猫の手…」の言葉は今では殆ど死語となった言葉で明治まで使われていた類義語の、「犬の手も人の手にしたい」という慣用句が元になっているとされる。いつから犬が猫に入れ替わったのか判然としないが、遅くとも明治の終わりころまでは「犬の手…」という使い方が主役だったとされる。犬は縄文期から人に飼われていたが、奈良時代に中国から伝来した猫は江戸の初めには貴重な動物でまだ一般に飼育されるまで広まっていなかった。もっぱらネズミの駆除のために野放しで、人との関わりが犬ほど濃密でなかったことも「犬の手…」が最初に使われるようになった一因でもあったのだろう。甲斐駒ケ岳の麓ではすっかり稲の刈り入れが終わり、秋の気候を楽しむ暇も無く強い西風が吹く季節となった。10月の終わりはゴールドとヘイワード種二つの棚のキウイの収穫と、60株以上の里芋の収穫・畑仕舞・咲き終わった草花の処理・伸びた植木の剪定などの冬支度で忙しい。土方と同じで、雨が降っては外の仕事はできない。天気の様子を見ながら計画しなければならず、140km離れた山荘の冬支度は一年で最も肉体を使う。今年はついに子供や孫たちも、家内さえも手伝ってくれない。何の役にも立たないが、「猫の手」でも助けがあったらとつい思ってしまう。
2016年10月25日

標高が600mを超える南アルプスの麓では秋が深まるとともに、最低気温が10℃を下回るようになりいよいよ薪ストーブの出番となった。ストーブの上に銅製の薬缶を乗せ湯が湧いて注ぎ口から立ち昇る湯気と薪の燃える炎を見ていると、暖かいばかりでなく心が安らぐのはなぜであろうか。飲むための湯を沸かす道具には鉄・ステンレス・アルマイトなどの金属の他、土でできたものがある。鉄で作られたものは鉄瓶、土できたものは土瓶という。鉄以外の金属でできたものは薬缶だが、英語では土瓶以外はケトル(Tea kettle)という。茶道で湯を沸かす道具は、缶や瓶で無く釜と呼ばれる。土で造られたもので本体と同質の取手がついているのが「急須」で、同形のものに竹や蔓るなどで編んだ吊り手のついているのが「土瓶」である。土瓶は直接火にかけることもでき、湯沸しとしても使われる。土瓶で沸かしたお湯はやかんで沸かした湯よりも、お茶の味が深くなると言われている。やかんは土瓶形をした、主に湯沸かしに用いられる道具である。薬缶のようにつるつるになった禿げ頭は、やかんあたま(薬缶頭)と呼ばれることがある。「ちりとてちん」や「転失気」などと同工異曲の、「薬缶」という落語がある。この世に知らないものはないと、広言する隠居をへこまそうとして八五郎が挑む話だ。「茶碗は、置くとちゃわんと動かないから茶碗。土瓶は土で、鉄瓶は鉄でできているから。「じゃ、やかんは?」「やでできて……ないか。」「いや、これは水わかしといった」「それをいうなら湯わかしでしょ」「だからおまえはグシャだ。水を沸かして、初めて湯になる」「はあ、それで、なぜ水わかしがやかんになったんで?」「これには物語がある。昔、川中島の合戦で、片方が夜討ちをかけた。かけられた方は不意をつかれて大混乱。ある若武者が自分の兜をかぶろうと、枕元を見たがない。あるのは水わかしだけ。そこで湯を捨て、兜の代わりにかぶった。この若武者が強く、敵の直中に突っ込む。敵が一斉に矢を放つと、水わかしに当たってカーンという音。矢が当たってカーン、矢カーン、やかん。」「矢が当たってカーン」が語源というのは、勿論落語の世界の話だ。漢字では「薬缶」と書くように、その語源は薬に関係している。奈良時代以降中国の僧や遣唐使などにより、主として煎じて飲む生薬(漢方薬)が伝えられた。生薬を煎じるのに用いる道具は金属で造られ、注ぎ口があって直接火にかけることができた。薬缶のかんは「鑵」で、鑵にはつるべ・瓶・金属製の容器(罐詰など)・湯沸かしの器の意味である。生薬を煎じるための「鑵」が語源となって、「薬鑵」の言葉ができた。薬鑵は初め「やくくわん」と表記され、やがて「やくあん」となり「やかん」となった。江戸時代になって茶を飲む風習が庶民にも広まると、煎じ薬用の器の用途はやがて湯を沸かすための道具として用いられるようになっていった。現在は様々な形態の洋風薬缶が作られており、それらはケトルの名前で販売されている。70年も昔教室の達磨ストーブの上で湯気を上げていた、アルマイト製の大型で丸い薬缶は近頃あまり目にしなくなった。土瓶で沸かした湯で入れたお茶は美味い、銅製の薬缶は早く湧く、鉄瓶はポットに移しても冷めにくいと言う人などありそれぞれである。薪ストーブの上に乗せた厚手の銅製やかんで湧いた湯で入れた茶は、同じ水を自宅でステンレス製やかんに入れガスで沸かした湯で入れたお茶より確かに美味い。ただしこれはやかんのせいでは無く、薪が燃える炎を見ながら味わうというハロー効果のせいかも知れない。
2016年10月24日

「匂い松茸、味湿地」という言葉がある。茸の中で松茸が最も香り良く、食べるならシメジが美味いという意味だ。松茸は天然ものしかなく栽培・養殖ができない茸であるため、高価である。一方シメジも天然物はなかなか見つけられなく、一般の人の口には入らない希少な茸である。今店頭でシメジとして販売されているのはヒラタケやブナシメジの類で、諺にいうシメジとは異なり人工栽培されたキノコである。今年の松茸発生は彼岸頃から始まって、10月中旬に最盛期を迎えた。15日頃急激な気温低下もあって、次第に発生か少なくなっていた。都会に住む人や松茸の産地に住んでいても松茸狩りに興味のない人は全く知らないが、金木犀の開花と松茸の発生には奇妙な一致がある。金木犀の開花する気象条件は、松茸が発生を始めるそれに近い関係がある。金木犀の香りがすると、ぼつぼつ松茸採りの話題が多くなる。今年は彼岸過ぎに金木犀が開花し、合わせて松茸入荷や松茸狩りの話題が聞かれるようになった。9月中には、一斉に金木犀の花は散った。10月中旬過ぎに季節が1か月も逆戻りし30℃を超えるほどの気温が何日か続いた後街中で、再び今秋2回目となる金木犀の香りが漂い始めた。長野県には名だたる松茸の産地が何か所もあり、実家のある南信州も産地として有名で茸専門に扱う全国に有名な店舗もある。その店の話によると一旦松茸の入荷が少なくなっていたが、雨後で気温が低下した19日頃から再び入荷が増加しているのだという。金木犀の開花と、松茸の発生には明らかに正の関係があるように思われる。今年は松茸発生がピークの、10月9日に実家の松茸山へ入った。弟はあっという間に18本を探し当てたが、自分は弟が探し当てた松茸を採取して写真を撮っただけで探し当てることはできなかった。採った松茸のうち16本を貰ってきて、松茸ごはん・土瓶蒸し・焼き松茸にして食べた。松茸の下拵えは布巾で拭く人もあるが、手早くすれば溜め水で洗った方が綺麗になる。石突きを丁寧に削ぎ落した後、笠の上から根元に向けて洗ったら水を吸う前にキッチンペーパーで素早く水気を拭き取る。焼き松茸は丸ごと焼くより裂いてから焼いた方が香りが立つので、笠に切れ目を入れて指先で根元に向けて4~6切れほどに裂く。裂いたらホイルなどで包まず、小量の塩か酒を振りかけてから直火の網焼きにした方が香りが立つ。20cmを遥かに超え焼き網からはみ出すほど大きな松茸を焼いて食べた。焼き立て熱いうちに食べると、日本人に生まれて良かったとしみじみ思う至福の時間に浸ることができる。4年ほど前小学生だった孫は、松茸料理の香りを「クサッ!」と言って顔を背けていたが今年は何故か好んで食べたという。今年の信州松茸の発生は恐らく、10月中で終わりになると思われる。ぼつぼつ高齢になってきたこともありいつまで松茸狩りができるだろうか、未だ松茸狩りの季節が終わる前からもう来年の金木犀の開花が待ち遠しい。
2016年10月21日

トネリコの名前は、写径を行う際にこの樹の皮の煮汁に墨を混ぜて練ったものを使ったことから、トモネリコと言われたものが転訛したとの説がある。 敷地が広かった昔は、花梨・樫・木斛・黐の木・木犀・槲・山法師・エゴノキなどが専ら選ばれていた。近年は敷地が細分化されて狭隘になったこともあって、中低木が歓迎されるようになっている。この20年ほどの間にシンボルツリーとして急激に植栽が増えてきた木に、モクセイ科のアオダモ(アオタゴ)がある。バットがこの木で作られることから、野球好きの家庭では記念樹としての人気が高い。自宅周辺を歩くと100mほどの路地を歩いただけで、10軒以上の庭先に見ることができる。自分個人としてはそれほど見応えのある木ではなく、シンボルツリーとしては旧来の樹木を選ぶ。落葉樹で放任すれば樹高は15 mにもなるが、剪定に耐えるので刈り込んでコンパクトに仕上げることが可能で比較的狭い場所にも植栽が可能である。アオダモは初夏に余り目立たない、細長い花弁の白花を群れて咲かせる。モクセイ科トネリコ属の樹は「梻(タモ)」といい、樹皮を水に浸して紫外線やLEDライトで照らすと浸漬水が青い蛍光色を発することが名前の由来となっている。アオダモの名称の由来を調べると殆どの書物や事典の説明では、枝や樹皮を水に漬けると青色になると説明されている。しかし実際は藍や紅花の抽出液のように、白布を入れても青い色に染まるわけではない。成長が緩徐であるため木質は堅く粘りのある材質で、野球のバットやテニスラケット・家具材として用いられている。 成長が緩やかなことから一旦伐採すると木材が利用可能となるまで長期間を要するため、最近ではアオダモを育成する会が作られ計画的に植樹が進められている。NPO「アオダモ資源育成の会」は社団法人日本野球機構からの助成金・一般寄付金・折損バットから作ったグッズ等の販売収入を原資にして、平成12年から北海道の各地で毎年アオダモの苗木の植栽事業を行っている。日本では沖縄を除いた山地に普通に自生していると言われるが、注意して見ていなかったせいか南信州ではこの木を目にしたことは無い。11月初めには種ができるので、その種子を鉢に採り播きすれば簡単に増やすことができる。 花言葉 幸福な日々 未来への憧れ
2016年10月20日

日本で春の花といえば桜を、秋の花では菊を思い浮かべる人が多い。菊は日本の花として定着しているが、栽培されるキクと言う和名の植物は中国で作出されたものが伝来したとされ野生のものはない。キクによく似た野生の植物を総称して「野菊」と言い、多くの種がある。キク属の花は頭状花序と言う多数の小さい花の集合体で、1枚の花弁がスプーン型に発達する舌状花と花弁が小さく5裂する管状花とを持っている。キクの花は外側にスプーン型の舌状花が並び内側には黄色い管状花が密生するのが基本だが、栽培種では形の変わったものもある。背が高くならず茎に葉がついた姿のもので秋にキクの花と同じように頭状花序と管状花を咲かせるものを、野菊と総称して呼ぶことが多い。キクの同属植物は、日本に15種ほどが数えられている。イソギクのように舌状花がなく菊らしくない花もあるが、多くは野菊と言えるものである。株立ちで茎は立ち、葉を互生し管状花は黄色・舌状花には白・黄色などのものがある。シオンは茎が高く2mにもなり、茎の先端が多数枝分かれして花が多数付き舌状花は白か紫を帯びる。この種は栽培され野菊扱いされない。中には数は少ないが、野生で小型の場合はシオンでも野菊で通りそうな草姿をしている。ノコンギクは野菊の代表種とされ、山間部から人里まで普通に見られる。花は薄紫の、ヨメナによく似た花を咲かせる。紺色が濃い種は、コンギクの名で栽培種として扱われている。北海道にはエゾノコンギクがあり、色は鮮やかである。名前の由来は紺色の花を咲かせる菊からで、ノコンギクは「野生のコンギク」の意味である。本州中部以西の道端によく見かける野菊に、薄紫の花を咲かせるヨメナがある。地下茎が横に這いあちこちから枝を出すので、群落を作りやすい。茎は立ち上がって枝を出し高さは50~100cmに達する。エゾノコンギク(蝦夷野紺菊)3号ポット667円ほどで販売されており、決して安くは無い。花を見ただけではヨメナとノコンギクの判別は難しいが、ヨメナの種には冠毛がないので、花が終わった花序があれば一目でわかる。慣れないと見極めが難しいが、ノコンギクには葉の両面に毛がありヨメナはぼぼ無毛なので判断の一助となる。旧愚酔庵の庭から15年も前に一株いただいたノコンギクが、今では山荘の庭一杯に広がって大きな群落を作っている。特段手入れは必要ないが、今年は広がりすぎた株を少し手入れする必要が出てきた。開花した枝数本を取って「鶴首の花器に」挿すと、まるで着物の小紋模様を見るような美しく清々しい。好きな花の、一つである。
2016年10月19日

トラ(日光東照宮絵馬) ヒョウ(標準原色図鑑全集) 雄ライオンと雌ヒョウの交雑種レオポン(標準原色図鑑全集)「豹子死了皮留在世間 將好名聲留傳於後世」は新五代史王彥章傳に、武将の王彦章が残した言葉として記載されている。新五代史とは後梁の開平元年(907年)から、後唐・後晋・後漢・後周の顕徳七年(960年)までが記載された歴史書である。王彦章が敵に捕縛された際「豹は死して皮を残す、人は死して名を残す」を言い放ち、助命せず自ら進んで処刑を受けたという。「豹は死んでも立派な皮を残すのだから、人は死んだときに名声を残せるような生き様をすべきである」という意味である。建長4年(1252年)の鎌倉時代に編まれた「十訓抄」は、10綱の徳目を主題に和漢の教訓的説話を各綱の例話として編成した子供向けの啓蒙書である。編者あるいは作者については諸説あるが、現在のところ明確となっていない。平安朝を中心に大和物語 ・江談抄・古事談など先行して刊行された日本の説話集や中国の史記・漢書など多くの書物から引用して280話を収めている。十訓抄の「訓」は「クン」でなく、「キン」と読むのが正しいとされる。その第四綱は人の上を誡むべき事で4の1に、 「行基菩薩、菅原寺の東南院にして、終りをとり給ひける時、弟子共に教へいましめていはく、口の虎は身を破る。舌の剣は命を断つ。口を鼻のごとくにすれば、のちあやまつことなし。虎は死して皮を残す。人は死して名を残す。これを書き留めて、かの遺言と名づけて、今に伝ふ。」とある。十訓抄の「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」は、王彦章の言葉とされる故事が出典であることは明らかである。昔の中国では「勇猛でたけだけしい」ことを言い表すのに、虎と豹と合わせた「虎豹」を熟語として用いた。三国志に205年曹操の指揮の下、曹純が「虎豹騎」を率いて袁譚を討ち取ったと出てくる。原典が豹であったのに、これを引用した十訓抄では何故虎になってしまったのであろうか。豹はアフリカ大陸からアラビア半島・ユーラシア大陸まで広く分布し、虎は絶滅した国も多く現在はインド、インドネシア(スマトラ島)、タイ王国、中華人民共和国(雲南省、チベット自治区)、ネパール、バングラデシュ、ブータン、マレーシア(マレー半島)、ラオス、ロシアに生息しているとされている。動物学者の高島春雄は、当時は分類の知識がなく豹を虎の雌と考えていたと説明している。さらに虎も豹も日本にはいないことから実物を目にする機会は無く、虎の雌が豹だと勘違いして王彥章傳を引用し豹を虎に変えてしまったのだろうと説いている。戦後雨後の竹の子のように各地にできた私立大学は、駅弁大学と陰口をたたかれた。大学を卒業したころは日本経済に好転の兆しは見えたものの、まだ就職が厳しい時代であった。野村芳太郎監督の映画「大学は出たけれど(1955)」の題名そのままに、就職難の時代であった。教師を揶揄した「でもしか先生」なる言葉が流行した時代でもあったことから、これを捩って公務員を志望するものは「でもしか公務員」と自虐したものである。都は自治体では試験制度が最も確立されており、入都時の身分は雇員で一年後に試験に合格して初めて吏員となった。東京都二代目の東竜太郎知事から辞令を受けて途中自治法の改正もあってS区へ転出したが、美濃部亮吉・鈴木俊一知事時代を都職員として過ごした。その後知事は2名が国会議員が2名は行政経験のない民間人から選出されたが、一人は5000万円を受け取り他の一人は2流ホテルを家族で利用するのに公金を使ったことが判明した。この二人は知事の資質が問われ、任期途中で辞任に追い込まれた。さらに一人も任期途中で辞任しているので、三代続いて任期途中に辞任する異常事態となった。このうち3人の知事は豊洲市場移転に深く関わって、最も責任が重いはずなのに問題の経緯について誰もが黙して語ろうとしない。市場移転問題に絡む今の都のあたふたぶりを見て、かつて築地市場に勤務したことのある身にとってはまことに嘆かわしいことこの上ない。知事公選になってから現職を除いて都知事に19人が就任しているが、後世に名声を残したと言える人ははたして何人いるだろうか。
2016年10月17日

雄しべと奇形花弁 雌しべ季節で七十二候とは古代中国において考案された季節を表す方式のひとつで、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のことである。日本では江戸時代に暦学者の渋川春海らによって、日本の気候風土に合うように改訂した「本朝七十二候」が作成された。現在は明治7年(1874)に本暦から日常生活に関する部分だけを抜き出して、一般の人が使いやすいように改定した、「略暦」に掲載された七十二候が使われている。立冬初候(11月8日~11月12日)は、「山茶始開」である。「つばきはじめてひらく」と読み、山茶花が咲き始める時期としている。山茶を「つばき」と読むのは、「山茶(さんさ)」が漢語ではツバキ(椿)属一般の名前であったことに由来する。サザンカはツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹で、別名イワハナビ(岩花火)やヒメツバキ(姫椿)と呼ばれる。原産地が米国オレゴン州からカリフォルニア州にまたがるロッキー山地とされるスベリヒユ科の常緑多年草レウィシアの和名が、サザンカの別名と同じ「岩花火」である。サザンカの方が岩花火の別名をはるか昔から使っていたので、レウィシアがその名前を横取りしたことになるのだが、「岩花火」の名前はレウィシアの花を表すのにピッタリでこちらのほうに軍配を上げたい。漢字で「山茶」と表記すれば中国では、ツバキ属の全てを指している。山茶花の本来の読みは「サンサカ」であるが、日本で音が倒置していつの間にか「ササンカ」となり現在の読みの「サザンカ」に転化して定着したと言われている。四国西南部・九州・沖縄原産のサザンカは、属間で容易に交雑するので園芸品種が豊富で300種類以上もあるとさる。これらは基本的には、サザンカ系・カンツバキ系・ハルサザンカ系の3群の系統に分けられている。サザンカ系は野生のヤブサザンカから作出された園芸品種で、10月頃の早い時期に花を咲かせるのが特徴で花弁は一重や二重である。カンツバキから作出された品種群は花弁の数が多いことが特徴で、八重咲きや獅子咲きなど咲き方も華やかなである。11月中旬〜2月に花を咲かせる。サザンカ群と交雑しやすいことから、区別が難しい品種がある。サザンカと椿の交雑品種群は一重から八重咲きまで咲き方や花色が多様で、花の大きさも様々である。現在町なかの庭や公園に植栽されて見られるものの多くは、大輪八重咲きで色彩も白・ピンク・赤から絞りなど豊富である。我が家の庭で50年以上もヒッソリ咲く早咲きサザンカは、径6cmと小輪一重咲きのピンクで10枚の花弁を持つ。二段咲きではないが、雄しべの中に2~3片の奇形花弁が混じっている。同定はしていないが、ヤブサザンカ系の種として間違いないと思われる。10月に入って毎日一輪二輪と咲いていたが、このところの気温低下もあってか急に花の数を増した。花数に比較して結実する数は少ないが、チャ(茶)に似た種子を付け自然落下でも芽を出すほど極めて発芽しやすい。 山茶花を 旅人に見する 伏見かな 西鶴
2016年10月14日

シロハナホトトギス 先祖返り ホトトギス 雌しべ 雄しべの葯名前を鳥の名前からもらった植物に、ホトトギス(杜鵑草)がある。ホトトギスの胸にある斑点模様が、花全体に見られるところから付いた名前である。東アジアに19種類が確認されているが、そのうち10種類は日本固有の種類とされる。直射と乾燥に弱い植物であるため、山野の林下や林縁・崖や傾斜地などの比較的日当たりが少ない場所に自生する。楕円形で長い葉が互生し、表面には毛が生える。最も一般的な種のホトトギスは関東での花期は、金木犀が咲き終わった頃の10月中旬に咲き始める。雌雄同花で上向きに咲き、直径数cmの6枚の花弁を持つ花は種類によって一花が2~4日間咲いている。顕微鏡で見ると雌しべが持つ毛の先には、透明な蜜球のような玉を付けているのが分かる。山野に自生するヤマホトトギス(山杜鵑草)は、北海道から九州まで広範囲に分布する。草丈は50cmほどとホトトギスに比較して低く、開花期間は2日間と短い。ホトトギスの中では最も早く、初夏には開花する。花は茎先と葉腋に着き白色で紫色の斑点が入った白色の花被片には、紫色の斑点が入る。蕾が頂点から割れて、中央から折れるように広がって花が咲く。花被片は上部で水平に開いて他のホトトギスソウのように反りかえらず、花被片の下部に黄色の斑点が入らない。花糸には、紫色の斑点を欠く。ヤマホトトギスの葉は、ルリタテハの幼虫の餌である。幼虫に食べられてしまうせいか、花は余り目立たない。ホトトギスは日陰でも育つ秋の花として、園芸植物として利用価値が高い。園芸品種としてはシロホトトギスがあるほか、ホトトギスとタイワンホトトギスの交配種も「ホトトギス」として出回っている。これらの中で最もポピュラーとされる種はホトトギス(杜鵑草)で、草丈は1mと高く花は葉腋に1~3個ずつ付き花の寿命は長くて一花が4日間咲く。ホトトギスは山野草として人気があり夏以降に花が咲くことから、夏の季語として親しまれてもいる。「啼いて血を吐く」と言われる独特な鳴き声を持つ、鳥のホトトギスには幾つもの伝説がある。昔の中国に長江流域に、貧困を極めた蜀という国があった。そこにある男が現れ農耕を指導して、蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に帝位を譲り、望帝は山中に隠棲した。望帝が死ぬとその霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来ると鳴いて民に告げるようになったという。この伝説にもあるようにホトトギスが古来より「霊鳥」とされていたことから、その名前を貰った花も気高く格調高い花として親しまれるようになったのだという。メガルガヤ(雌刈萱)・リンドウ(竜胆)・コウヤボウキ(高野箒)・ユウゼンギク(友禅菊)・オケラ(朮)・ヤハズススキ(矢筈芒)・シマアシ(縞葦)などと取り合わせて茶花や生け花として古くからよく用いられている。我が家にはヤマホトトギス・シロハナホトトギス・ホトトギスの三種類があり、それぞれ時期を違えて咲いてくれる。園芸種のシロハナホトトギスは9月中旬に開花する。元は白花だが先祖返りをして、ホトトギスと同じ濃い紫色の斑点を持つものやその中間色も出現する。他の種は年々株を大きくするのに、シロハナホトトギスは3~5年で嫌地により全体が消滅してしまう。山荘の庭に足の踏み場もないほど一面に生い茂っていたシロハナホトトギスは、今では1/10ほどに減っていつ消えてもおかしくない状態になっている。今年は自宅の庭へ移して、育苗したいと考えている。 花言葉 永遠にあなたのもの 秘めた意志 永遠の若さ
2016年10月13日

関東・甲信では今年の9~10月の日射量が、記録的に少なかった。10月も相次いで発生した台風の影響もあって、秋も深まったのに澄んだ青空を見ることは殆どなかった。10月に入って秋雨前線が優勢な太平洋高気圧に押し上げられて、10月としては観測史上初めてという真夏日が3日も続いた。この強力な高気圧が衰えそれに伴って秋雨前線が南下した7日を境にして、真夏と秋の冷涼な空気とが入れ替わり嘘のようにすっかり秋めいてしまった。秋の空気になると青空に夏の積乱雲に代わって、空の高いところに真綿を引き延ばしたような白色で筋状の薄い雲が現れるようになる。この雲は気象用語では巻雲と呼ばれる国際分類十種雲形の1つで絹雲と書いたり、すじ雲・はね雲・しらす雲とも呼ばれることがある。-40℃以下のところに現れる、雲である。細い雲片一つ一つは輪郭がはっきりしていて、絹のような光沢があって陰影がない。巻雲の多くは太陽光を遮ることがないほど薄く、巻雲を通して見る太陽は眩しく太陽に懸っても光が地上まで届くので影が出来る。巻雲のスジが真っ直ぐな時は間もなく雨が降るサインで、曲がったり乱れていたりする時は翌日も晴れることが多い。学術名Cirrusというがこれはラテン語の巻き毛を意味するところから、「巻雲」と訳され表記されていた。しかし巻には「ケン」という読みが常用漢字に無いとの指摘を受け、1980年代に巻に代えて「絹」の字が当てられた。8年後の1988年に再び「巻雲」表記に戻ったが、現在もその名残が残っている。そのためその時代に学んだ人は、今でも絹の文字を使用していることが多い。青空をバックに浮かぶ白で縮れ毛のような・筋のような・引き伸ばした真綿のような薄い雲の巻雲は、夕暮れの時は太陽が沈んでも赤やオレンジに染まった夕焼け雲となり美しい。10月9日は前線が列島を通過したので大気が不安定となり、明け方から各地で前が見えないほどの豪雨となった。しかし甲信地方の雨は、昼前にすっかり上り午後3時過ぎるころには雲の切れ目から時折薄日が射すようになった。9日一日で夏と秋の空気が入れ替わったことが、肌にも感じられるほど劇的に変わった。10月9日は、月齢8で上弦であった。午後5時半を過ぎる頃には雨雲がすっかり取り払われ、半月の月が午後5時50分に南中した。午後5時19分の日の入りとともに影の南アルプスと次第に赤く染まった絹雲、上弦の月の共演が見られた。上弦の月とは新月から満月にかけての間の月で、下弦の月は満月から新月にかけての間の月の事を指す。新月から数えて9日目が上弦、満月から8日目が下弦である。上弦と下弦は同じ半月だが、これを見分ける簡単な方法がある。上弦の月と下弦の月では、見える時間がまったく異なる。上弦の月は昼間出て深夜に沈み、下弦の月は深夜に出て昼間に沈むことを覚えておけばよい。夕方南から西の空に見える半月は「上弦の月」で、朝見える白い半月は下弦の月ある。山と夕焼け半月の共演は、夕焼け雲が急速に色褪せるまで15分ほども続いた。
2016年10月12日

高松の この峰も狭に笠立てて 満ち盛りたる 秋の香のよさ 万葉集巻10の2233 作者不詳(高円山の峰も狭しとばかりに、見事に香り高くきのこの傘が立ったことよ。)高松とは奈良市の南東部春日山の南に連なる標高432mの高円山のことで、その山に足の踏み場もない程に生えた松茸が盛んに香り立っている様子を詠んだ歌である。この歌に詠まれた傘を開いて香りが立つ茸は、松茸以外には無い。ところできのこは、漢字では「茸」と表わす。茸の文字は艸と耳が合わさったもので、会意兼形声文字である。艸は「並び生えた草」と「耳」から、耳に似た形をした草が「しげる」意味となる。耳の形をした艸とは「きのこ」のことで、ここから「茸」という漢字が成立した。音読みすることは殆どないが「ジョウ」あるいは「ニュウ」と読み、訓読みでは「きのこ」あるいは「たけ」または「しげ(る)」と読む。現在は「たけ」または「きのこ」以外の読み方では、殆ど使用されていない。多くの人は「たけ」は音読みで「きのこ」が訓読みと誤解しているが、「たけ」も「きのこ」も訓読みである。茸と一口に言うが、地球には推定で150万種類以上もの菌類が生息するとも言われておりその殆どは未知の種でこのうち75,000種が同定されているに過ぎない。この150万種もの中で縄文中期(紀元前2000年頃)から、日本人に親しまれ食されてきた茸に松茸がある。最盛期であった1941年(昭和16年)には、12000tもの収穫があったと記録されている。しかしその後山の荒廃とともに収量は減少し続け、2013年(平成25年)には僅か38tにまで落ち込んでしまった。将に、山の宝石である。松茸は、栄養が少なく比較的乾燥したアカマツの単相林や広葉落葉樹との混合林に生える。菌糸体の生育温度範囲は5~30℃と幅が広いが22~25℃が適温とされ、秋になって金木犀が咲く頃から子実体(まつたけ)の発育が活発になる。松茸独特の強い香りはマツタケオールといわれ日本人の多くが好む香りだが、靴を履いた後の靴下の匂いと似ているとして嫌う人もある。孫は大量の松茸の香りを嗅いで、「ゲ…。臭…。」と顔をそむける。高緯度冷涼な地域での発生は8月末頃から始まり、比較的温暖な低緯度地帯では11月末頃まで発生がみられる。我が家の孫は例外でマツタケに対する執着する心は、太古から日本人の遺伝子に刻みこまれているのではないかという学者もいるほどである。松茸はその名前のようにアカマツの根に寄生して発生し相利共生の関係を有するが、樹齢30年~40年が最盛期で80年を超えると発生が止まると言われる。マツタケの子実体は、「しろ」と呼ばれる直径数メートルの環状集落を作って発生する。地表に落枝・落葉などが堆積して腐葉土を作り富栄養化が進むと、徐々にマツタケは発生しなくなる。菌糸から子実体の基が形成されるようになるには降雨が必要であり、降水量と子実体の発生本数には正の相関があることが明らかになっている。8~9月の降水の間隔と量は、発生本数に大きな影響を与える。夏の気温との相関関係については、夏の猛暑は松茸の発生に余り関係ないことが分かっている。夏の猛暑は地中温度にあまり影響を与えないため、影響は受けにくいのではと考えられている例年松茸狩りをする人は、経験から金木犀の開花が松茸発生時期となることを知っている。里に仄かな香りが漂い出すと、あちこちから松茸の話題がニュースとなって流れる。松茸は長野県が全国一の29t・80%の収量を誇っており、二位の岩手県11%を大きく引き離している。中でも南信州下伊那地方は、全国的に松茸の名産地として知られている。某村では山の宝石とまで言われる松茸を使った学校給食が、児童・生徒に毎年提供される。10月中旬には、実家の松茸山へ毎年「松茸狩り」に出かける。今年は9日に、弟に車で案内してもらった。午前中豪雨だったが11時になると、激しく振っていた雨がピタリと止んで日が射してきたので軽トラックに乗って出かけた。山に入ってすぐ弟は、大振りの松茸が一直線に連なって5本生えているのを見つけた。これを写真に撮って採取している間に、もう次の5本を採っている。結局弟は全部で、18本1kg以上の松茸を探し当てた。自分はと言えば辺り一面探したのだが、今年は一本も見つけることは出来なかった。夕食に焼き松茸で食べるという2本を除いて、残りの全てを貰って帰った。翌朝はたっぷり松茸が入った松茸ごはん・土瓶蒸し・焼き松茸で、日本の秋を味わった。残りの8本は正月用に石付きの土を落としてからアルミホイールで包み、更にラップで包んでジッパー付きのビニール袋に入れて密封し冷凍した。日本人で良かったと思いながら、日本の秋の味を心行くまで満喫したところである。
2016年10月11日

グンバイヒルガオ(軍配昼顔)はサツマイモと同じヒルガオ科のサツマイモ属で似た花の形をしているが、朝顔は他物に巻きついて高く立ち昇るのに対して海岸の砂浜に自生し地上を這う多年生草本である。沖縄の海岸砂浜では、極普通に見ることができる。満潮でも潮が満ちてこない程離れた砂浜からアダンの林の下まで、本土の葛のように下の砂が見えないほどに繁茂する。多年生草本であるが、気温が低い本土では夏季に芽生えても越年できない。日本では鹿児島県から沖縄県の海岸と、大分県佐伯市の元猿海岸に生育が確認されている。沖縄ではアミフィーバナ(雨降り花)やハマカンダーと呼ばれることがある。葉の先端部に浅い切れ込みが入った楕円形の形が、軍配団扇に似ていることからグンバイヒルガオの和名が付いた。自生地では夏季を中心に1年を通して、5~6cm程のサツマイモの花に良く似た薄紫色の花を咲かせる。花の後莢状の中に4粒の種子を作り、乾燥すると莢が裂けて種子が飛び出す。種子は海流に運ばれることで、分布を広げる。サツマイモ属であるためアリモドキゾウムシの宿主植物となり、サツマイモと同様に検疫の対象とされ島外への植物体の持ち出しは禁止されている。強風・高温・海水にも耐える丈夫な植物で、花は美味では無いが食卓の飾りになり食べることも出来る。雨の季節に咲く花は、「あめふりばな」と呼ばれることが多い。「あめふりばな」と呼ばれる花は全国に多数あって、その名の由来も地方で異なる。由来で最も一般的なのは「花を摘むと雨が降る」と言われることからで、「花が咲くと雨が降る」あるいは「雨が降ると花が咲く」などの他、「雨の季節に咲く」や「雨に映えるから」などもある。この花が咲くと雪でなく「雨が降る」という、寒い地方独特の意味で言われる花もある。雨降り花と呼ばれる花には、ヒルガオ・ホタルブクロ・ツリガネソウ・ギボウシ・イチリンソウ・シロツメグサ・コケリンドウ・スミレなど数多い。グンバイヒルガオが沖縄方言でアミフィーバナ(雨降り花)と呼ばれるのも、花を摘むと雨が降るとの言い伝えからである。サツマイモの葉茎のことを沖縄方言ではカンダバーというので、ハマカンダーは浜に生えるサツマイモの意味で付けられたものであろう。 花言葉 優しい愛情 絆
2016年10月07日

1945年6月19日の看護隊解散後,壕を出て,国頭に脱出を図ったが,砲撃の中,負傷した喜舎場敏子は,アダンの影に横たわるしかなかった。仲宗根政善(1983)「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」角川文庫渡嘉敷島では米軍の上陸に際し594人が死亡したが、住民の約半数の368名は集団自決であった。中島みゆきが唄う、「阿檀の木の下で」という歌がある。♪「波のかなたから流れて来るのは 私の知らない貝殻ばかり 波のかなたから流れて来るのは 私の知らない寿歌ばかり 遠い昔のあの日からこの島に人はいない みんなみんな阿檀の木になった 波のかなたから流れて来るのは 私の知らない国歌ばかり」沖縄の海岸地帯一帯に自生するアダン(阿檀)は、高さ3mほどの密集した群落を作る常緑の小高木である。太い枝が横に展開し枝から支柱根(気根)を垂らして地中に入り込むので、木が安定し台風の強風にも耐える。戦火に追われて多くの人はガマに逃げ込んで火炎放射や銃撃で、あるいは穴の中で自決した。手記にもあるように、気根の密生したアダンの林の中に隠れて生き延びた一部の人がいる。葉の着き方や形は、ユッカランのそれに似ている。アダンの葉の辺縁部や主脈には、鋭い棘がある。その刺は主脈の先近くでは先端へ、根本近くでは下を向き、中間では上下交互に並んいるため、どちら向きにも刺さる不思議な形で生えている。気根が密生し刺が生えた大振りの葉でうす暗いアダンの林の奥に潜り込めば、外からは人が潜んでいることを察知し難い。しかし戦争と言う異常事態でさえなければ、この中に潜り込もうと試みる人はいない。アダンは雌雄異株で夏季に雄株は約20cm房状の、雌株は球状で小型の花を着ける。結実すると、径15~20cmのパイナップルに似た集合果を着ける。アダンの果実を見たことが無い人は、よくパイナップルと間違える。個々の果実は長さ5cm幅 4cmほどの倒卵形をしていて緑だが、熟すと黄色に変わって甘い芳香を発するのもパイナップルに似ている。果実は一見美味しそうに見えるが実は硬い繊維質に包まれていて、可食部を取り出すには手間がかかり量も僅かで味もあまり良くないため食べるには適さない。現在アダンの利用は殆どなくなったが、昔はアダンの果実でアンダンスー(アンダは油、ミスーは味噌)を作り、葉は煮て乾燥させパナマ帽等のまた細く裂いて筵やカゴを編む糸として利用されていた。早朝誰もいない波静かなビーチを散歩する時アダンやその茂みに、ふと戦争の悲しい出来事やかつて生活の一部にも利用されていたという匂いを感じて感慨深い。
2016年10月06日

標準原色図鑑全集沖縄渡嘉敷島に初めて渡った10年前、ビーチの砂浜に開いたスナガニの巣穴を初めて見た。素手で掘り返したが、30cmほど掘っても出てこないので、捕まえることを諦めた。スナガニは日本に、3種類が分布する。渡嘉敷島に生息するスナガニの甲幅は3cmほどだが、横になって入るため巣穴の径はせいぜい2cmほどしかない。甲は長方形で、背中側にやや膨らんだ形をしている。鋏の大きさは左右不対象で、大きな方の鋏の内側には顆粒列が並んでいる。歩く脚は体型に比較して、長くてがっしりしている。眼柄の先に大きな極めて視力の良い複眼を持ち、巣穴に入るときは眼柄を目の横の窪みに畳んで収納する。このカニは保護色で、体色を変化させることが知られている。落ち着いている時は複眼以外が薄い赤一色だが、興奮・緊張すると黄褐色から黒褐色に変化する。捕獲すると、殆どの場合灰色をしている。また若い個体は白黒のまだら模様でコメツキガニにも似ているが、スナガニは俊敏なことで区別がつく。砂浜の満潮線付近に、1mほどもある深い巣穴を掘る。潮が届かない位置に直径が2~3cmの円形の穴があれば、スナガニの巣穴と考えて間違いない。コメツキガニも巣穴をほるがスナガニは、波打ち際から離れた満潮になっても波が届かない高い位置に比較的大きな巣穴を掘るのが特徴である。食性は雑食で夜巣穴から出て動物の死体や藻類などを探して食べる他、砂浜にいる生きた小動物も捕食する。日昼は非常に警戒心が強く、大きな動くものが近付くと素早く巣穴に逃げこむ。人が接近すると数10m以上離れていても地上を飛ぶように走って巣穴に逃げこみ、一旦巣穴に逃げこむと物音がする間は出てこない。巣穴まで遠い場合は時速16kmほどの早さで海に向かって走り、そのスピードはカニ類中最も早いと言われる。直線的に走るばかりでなく急な方向転換も得意で走る方向に人や障害物があると、それを避けるためその速さで方向転換をする。動きが速く巣穴も深いため、巣穴を掘る以外捕獲することは難しい。英語でスナガニは、Ghost crab(幽霊ガニ)と言われる。「すばしっこく影のように走り去る」「素早く巣穴に隠れることから、見えていたものが急に見えなくなる。」「保護色のため、夜の砂浜では、影だけが動いているように見える」などが、名前の付いた由来とされる。夜、波打ち際を懐中電灯で照らしながら歩くと幾つもの白い個体が、猛烈な速さでひらひらとまるで飛ぶように海の方へ走っていくのを見ることができる。早朝も比較的多くの個体が巣穴から出ているので、夜間と同じように見られる。その様子は将に、Ghost crabの形容がぴったりである。よたよた横歩きをするカニしか見たことが無い人には、飛びまわるように走るのを見てこれをカニだと認識することが難しい。波打ち際まで走って来ると素早く海中の砂の中に潜ってしまうので、捕まえることは至難の業である。今ではすっかり歳をとって30mほど先の海までさえも行かなくなってしまったが、娘が飼っていたトイプードルの「クロ」はスナガニを掘るのが得意であった。数年前渡嘉敷島に来た「まさはる君が行く!ポチたまぺットの旅」撮影では、娘のホテルにテレビクルーが宿泊しクロは主役となって得意のカニ掘りを披露していた。
2016年10月05日

世界大百科事典沖縄県那覇市からフェリーで約70分のところに、渡嘉敷島がある。沖縄戦で最初に米軍が上陸し、住民の約半数にあたる368名が集団自決した悲劇の島として知られている。有数のダイビングスポットと2つの海水浴場があり、自然環境にも恵まれているため、最近は多くの観光客や修学旅行客で賑わっている。統計によると年間来島者が、島内人口の100倍以上の10万人を超える観光の島となっている。島には渡嘉敷独特の幾分茶色懸った砂浜とマリーンブルーの海が特徴の渡嘉敷(とかしく)と阿波連二つビーチがある。早朝ビーチを散策すると海から陸の間に、まるでマウンテンバイクで走り回ったような跡が無数に見られる。その跡はアダンやグンバイヒルガオの茂み中に消えており、大抵は跡をつけた動物を見ることは無いのでどんな動物が付けた跡なのか事情を知らない人には分からない。夜明け前後に注意深く砂浜を歩くよたよたと動く、拳大もある貝を見ることがある。摘み上げてみると、貝殻に入ったヤドカリで有ることが分かる。このヤドカリは熱帯域に広く分布するオカヤドカリで、成体が海岸付近の低樹や岩石の下などの陸上で生活するのが特徴である。他のヤドカリがあまり水上に出ないのに対し、成体は海岸付近の陸上部で生活するのが特徴である。オカヤドカリはヤシガニと同じ仲間で、漢字では陸宿借または寄居虫と書き表される。ヤシガニに似て他のヤドカリよりも脚や鋏脚が太く頑丈で、ヤシガニに良く似ている。オカヤドカリは沖縄県のどこにでもいて釣り餌としての人気があり、専門の捕獲業者も存在した。日本に返還された昭和47年(1972)天然記念物の指定を受けることになったが、個体数も多かったことから指定業者に限り数量を限定して捕獲が認められるようになった。しかし、個人が砂浜からオカヤドカリを直接採ることは文化財保護法違反となる。オカヤドカリは、夜店などで吊るした紐に昇らせながら売られているヤドカリと同じ種類である。陸上で生活するオカヤドカリだが、柔らかい腹部を乾燥から防ぐための水を貝殻の中に蓄え、鰓呼吸も行う。陸上に生息するが、水分を補給・交換するため海辺から遠くは離れることはできない。居住するために入り込む貝殻は、陸生から海産の貝殻まで何でも利用する。ヤシガニと同様オカヤドカリも時には、木の高いところまで登ることがある。渡嘉敷島には数多くの個体が生息しており、アダンの林や、グンバイヒルガオが群生している付近に座っていると回りから「プチプチ サラサラ」とオカヤドカリの動く音が聞こえる。成体は死んだ魚介類やアダンの実等なんでも食べる雑食性であるが、比較的植物食を好み一度に摂食する量は少ない。早朝阿波連ビーチを散歩しているとき、アダンの林に向かって歩く一匹のオカヤドカリを見つけた。海に帰れなくなったと早トチリして、お節介にも波打ち際に運んでやった。何回運んでも、陸の方向に向かって歩きだしてしまう。多分このヤドカリは雌で、放卵して再び陸に戻る途中だったのではないかと考えられ、ヤドカリにとっては大きな迷惑だったに違いない。
2016年10月04日

9月26日の朝窓を開けると、甘い独特の芳香に気が付いた。今年もこの季節に忘れないで律儀に開花した、キンモクセイの香りである。キンモクセイの花を少し離れてみると黄色の塊に見えるが、実際は極小さい4枚の花弁を持つ合弁花オレンジ色の花が多数群がって咲いている。雌雄異株だが日本で植えられているのは殆ど雄株なので、結実しない。小花は雄しべ2本と不完全雌しべを持っている。花の芳香はギンモクセイよりも強いとされるが、どちらかと言えば温和なギンモクセイの香りの方を好む人も多い。香りの主成分のγ-デカラクトンには昆虫特にモンシロチョウへの忌避作用があるとされ、花に集まる昆虫を見ることは少ない。しかし虫媒花の植物であるから、原産地にはこの香りに集まる昆虫もいるのであろう。中国南部から江戸時代に日本へ渡来し、主に庭木として観賞用に植えられている。キンモクセイは強い香りを放つことから臭気をマスキングするため、昔は汲み取り便所の近くに植えられることが多かった。さらにこの香りがトイレの芳香剤として合成され1970年代から1990年代まで使われていたため、トイレの香りを連想する年代がある。中国では白ワインに漬け込んだ「桂花陳酒」や、花茶の「桂花茶」がある。梅酒のようにホワイトリカーに漬けるとキンモクセイの花色の酒になるが、香りが強くて飲みにくい。金木犀にまつわる、次のような中国の伝説がある。金木犀は元々は月に生えており、中秋に月が金色に輝くのはこの花が満開になるためである。中秋の名月の夜女神の嫦娥が月宮殿の窓辺から下界を見下ろしていたところ、杭州の西湖の水が風に砕けて金色に輝きそれは美しい眺めであった。嫦娥が波の動きに合わせて思わず桂花の幹を叩いて拍子をとると、金木犀の花や実が雫のように地上に零れ落ちこれから芽が出て、杭州辺りに根付いて広まった。香りと言えば香りが好まれる食べ物に、マツタケがある。マツタケを採取する人は、金木犀が咲くのが待ち遠しいという。昔から金木犀が咲くとマツタケが出始めると言われており、金木犀の開花がマツタケ発生の合図になっている。南信州伊那谷には村有林で採れたマツタケを学校給食に提供している村もあるほどで、昔からこの地方はマツタケの名産地として知られている。ここ数年実家の松茸山へマツタケ狩りにでかけるが、毎回10数本ゲットしてくる。今年も金木犀が咲いて、マツタケ情報が届くようになった。時に唐ぶりに終わることもあるが3連休中日の9日に、今年も松茸狩りに挑戦する計画である。 金木犀花言葉 謙虚 謙遜 存在感を主張する香りからは、花言葉の意味を到底想像できない。
2016年10月03日
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