全16件 (16件中 1-16件目)
1

左;棉・右;オクラ ワタ 雌しべと雄しべ オクラ 雌しべと雄しべ昨年の零れ種から発芽し育ったワタに多くの実が着き、隣のオクラはボツボツ花が終わる時期なのにワタは未だ盛んに花を咲かせている。ワタは本来多年生植物であるため、霜が降りる頃まで花が咲き続ける。開花してから時間の経過とともに、花弁の色が変化する花がある。代表的な植物としては、スイフヨウが挙げられる。スイフヨウは酔芙蓉とも書き、早朝真っ白に開花した花は昼過ぎ頃からピンクに変化し夕方には濃いピンクに変わる。同じアオイ科に属するワタの花も早朝クリーム色で開花し、夕方には紅色に変化する。どちらも早朝開花し、夕方には凋む一日花である。その他にも開花した花の色が、時間と共に変化する植物が知られている。譬えばスイカズラ科のハコネウツギは、白からピンクに変化する。一日花では無いので二色が混在して、知らない人は躑躅やサツキヤウメ・ハナモモのように白と赤の咲き分けと勘違いする。アカバナ科のマツヨイグサやコマツヨイグサは、花が萎むと赤く変色する。同属でもその数が少なくなり滅多に見られなくなったオオマツヨイグサの花は、色変化をしない。日本でワタは、一年草として扱われるが、本来は多年草で温暖な地域では冬を越して育つ。約40種が、知られている。花は大形の五弁花で種類によって、クリーム・白・紅色などがある。紀元前2500年頃から、インドで繊維作物として栽培されていたとされる。目的が繊維を採るための栽培であることから、美しい花を咲かせるのに花については余り知られていない。ワタもオクラも根についた共生菌の力を借りて生育するので、初期生育速度は極めて遅い。ワタでは特に遅く、発芽してから共生菌が付くまでの1か月ていどは大きく生育をしない。気温が高い方が、生育が早い。風媒花だが、受粉できなかった花は落果する。落果を防ぐためには、人工授粉することで確実に結実する。花だけ見ればオクラとワタの花は似ていて区別を付けにくいが、茎葉などの草姿や果実が明らかに異なることから判別は簡単である。顕微鏡観察では雄しべ・雌しべの形態も、明らかに異なっているが、花粉は球形で酷似している。山荘の近くの休耕田に黄花のワタが栽培されているが、こちらの花色は経時変化をしない。戦後は多くの家で繊維を採る目的でワタの栽培がおこなわれたが、現在は栽培地を滅多に見ることはできない。大量に作付栽培されているワタは恐らく繊維採取が目的ではなく、ドライフラワーとして結実後の茎に付いた果実を室内に飾るための栽培で有ろうと思われる。我が家でも昨年は大量に綿と種を採取したが種子と綿を分ける作業が非常に面倒なうえ採っても使い道も無いので、今年は専らドライフラワーにして部屋を飾ろうと考えている。
2016年09月28日

水引(みずひき)とは、祝儀や不祝儀の際に用いられる飾りのことである。贈答品や封筒に飾り紐として付けられ、その形や色により様々な使い分けを行う。水引は紙をくるくると巻いて紐状にした紙縒り(こより)に糊を引き、乾かして固めたものを飾り紐として用いる。名前の由来として紙縒りが元の紙の状態に戻らないようにするため、糊水を引いて乾かし固めた。紙縒りを着色した水に浸して、引きながら染めたなど幾つかの説がある。水引を贈答品に掛けるようになったのは隋から小野妹子が答礼使を伴って帰国したときに、答礼使の持参した貢物に紅白の麻紐が結ばれていたことから宮廷への献上品に紅白の麻紐を結ぶことが習慣になったものだという。これが室町時代になると、麻紐から紙縒を糊水で引いて固めた水引紐に替わって行ったといわれる。水引には封印・魔除け・人と人を結び付けるという意味があって、結び目は引けば引くほど強く結ばれるようになっている。平安時代からコウゾやミツマタの栽培と和紙作りが盛んであった南信州伊那谷の飯田では、江戸時代藩主が武士に内職として製法を習熟させたのが始まりとも言われている。飯田では国内生産の約70%を製造していて、伊予市で作られる伊予水引が国内第二位の生産量である。 紙縒りの水引に似ているところから、ミズヒキの名前がついたタデ科の植物がある。日本全土に分布する多年草で、半日陰の林下や路傍などに生育している。紙縒りの水引と区別するため敢えて「ミズヒキソウ」という別名で呼ぶ場合もあるが、標準和名は水引と同音の「ミズヒキ」である。開花した花茎を上から見ると赤色に見え、逆に下から見ると白く見える。和名は細くて長い花穂が、見る方向に依って紅または白に見えるところから水引に譬えて付けられたものである。茎の中空には、白色の髄が詰まっている。葉は幅広い楕円形でやわらかく、芽出しの頃には黒い斑紋(油点)があることが多い。茎の先端から数本の長い花茎を分枝して伸ばし、米粒ほどの疎な小花(萼)を穂状に着ける。花弁に見える萼は散らないため、長期間花が咲いているように見える。地味な草花で、目立たない。変種の白花のミズヒキは、ギンミズヒキと呼ばれる。庭に一株あると風情があるが、簡単に結実して種を飛ばし殖えるのでうっかり庭へ植えるとあちこちに飛び火したものを抜くのに苦労する。 花言葉 慶事 祭礼
2016年09月27日

今の時期亜高山地帯を歩くと、林縁の灌木に絡みついた蔓草に多数の毬形果が着いているのを見ることがある。一見すると、カナムグラやホップの花に見えなくもない。そのためホップの花を知っている人は、しばしばホップと勘違いする。この花の和名は「唐花草」、ビール醸造に欠かせないホップは「西洋唐花草」である。どちらもかつてはクワ科に分類されていたが、現在はアサ科に分類される蔓性多年草である。カラハナソウは、ホップの変種として分類されている。カラハナソウは北海道および本州中部地方以北に自生し、灌木に絡みついて5mほどにも伸びて茂みを形成する。茎に小さな棘が密生し葉はざらつき、縁に鋸歯を持つ。普通葉は3裂するが、手のひら状に裂けているものもある。雌雄異株で雄しべ5本萼片5枚からなる雄花は疎らな総状花序で、秋に咲く淡い黄色をした雌花は2個の花が1個の苞に包まれ松毬状の苞が重なり毬状となる。カラハナソウの松毬状の実にはホップと同様の香りがあるが、苦味成分はホップと比較してはるかに少ない。卵円形の毬状果穂は、短い柄をもって垂れ下がる。この花の花穂の形が似ているところから和名の「カラハナソウ」の名前がついたとの説があるが、この花から唐花模様や唐花紋を連想するにはかなりの無理があり、それほど似ているようにも思えない。ホップには果穂の熟した苞の内側にある黄色の腺が密生してつくが、カラハナソウでは数が少ない健胃・鎮静・利尿の薬効があり、乾燥させた果穂をお茶のように煎じて用いる。ホップにも催眠・鎮静・利尿・食欲増進・消化促進などの薬理的作用のあることがよく知られており、またホップ抽出物に含まれるホップフラボノールには、花粉症症状を軽減する効果があることがサッポロビールによって発見された。(2006年6月)結晶性苦味配糖体フムロンやルプロンが薬効の有効成分であり、フムレン・ミルセンが香り成分である。現状は、ビール醸造以外の用途にはほとんど使われていない。明治4年(1871)に北大の前身である開拓学校の教頭の、アメリカ人トーマス・アンチセルが野生のホップを見つけてビールを作ったが、苦味が無くまずいビールしかできなかったという話が残っている。トーマス・アンチセルがホップだと思った植物は、実はカラハナソウだった。その後明治9年(1876)頃ホップの苗を輸入して育て、北海道で本格的なビール醸造が始められたという。ホップやカラハナソウに触れることにより、稀に接触性皮膚炎を起こすことがある。蔓をよく伸ばすことから、グリーンカーテンとしての利用方もある。
2016年09月26日

我が家の庭の柿の木の下に夏ミョウガと秋ミョウガが混植してあるので、8月初旬から10月初旬まで切れ目無く収穫可能である。以前はソバやソーメンの薬味にしたり、味噌漬け・天ぷら・汁の具・刻んで生のまま削り鰹節をかけて食べたりと様々に利用したが今では余り食べなくなって、大量に収穫してももっぱら知人や親戚に差し上げるようになった。ミョウガはその名が延喜式にも出てくるので、恐らく1200年以上前の平安時代には伝来していたものと考えられている。江戸の庶民はよほどミョウガを好んだのか、ミョウガを大規模に栽培していてそれが地名となったところが文京区にある。かつて茗荷谷町と言われたが合併でその名は消え、現在僅かに地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅と茗荷坂にその名が残るだけになった。茗荷谷の地名由来については、この場所にあったお稲荷さんに祈願すると冥加が得られるという言い伝えから冥加谷→茗荷谷となったとの異説もある。温帯の東アジアが原産のミョウガはショウガの仲間で、花穂および若芽の茎が食用とされる。染色体が二倍体の場合、その子は常に親の遺伝子を半数ずつ持つ二倍体となる。三倍体以上の個体では正常な花粉や卵細胞が形成されないため、正常な種子は稔らない。ミョウガは雌雄同株で雄しべ・雌しべとも揃っている両性花が開花するが、5倍体のため結実しない。繁殖は種子に依らず、もっぱら地下茎による栄養繁殖である。ヒガンバナや九州・四国に産するシロハナタンポポと同じように栄養繁殖の場合、常に親と同じ形質を持ついわゆるクローンである。ミョウガは地下茎から、葉と花を別々に地上に出す。普通ミョウガといわれるものは花穂で、地上部の茎・葉に見える茎状のものは偽茎と言われ春の若芽はミョウガタケといって食用にされる。ミョウガの花穂内部には、開花前の蕾が3〜12個程存在する。クリーム色の花は一日花だが、新しい花が次々と咲く。同じ仲間でどちらも香辛料として利用されショウガは辛味が強く加熱しても味が飛ばないが、ミョウガは味が弱く加熱によって香りが失われる。ミョウガの花器は、白い雌しべの花柱の中を黄色の雄しべの花糸が貫通して突き出る特殊構造をしている。ショウガとともに伝来した際香りの強い方を「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだことをその名称由来とする説がある。まことしやかな俗説には「釈迦の弟子周利槃特が自分の名前も忘れるほど物忘れがひどいため、哀れに思った釈迦が首に名札をかけてやった。しかしこの名札を掛けていることさえ忘れてしまい、死ぬまで自分の名前を覚えることができなかった。やがて年老いて死んだ周梨槃特を埋葬した墓に、見慣れない草が生えた。終生名札をぶら下げていた周梨槃特に因んで、この草を茗荷と名付けた。この言い伝えと、ミョウガを食べると「物忘れがひどくなる」という俗説がセットになって広まった。実際にはミョウガを食べて脳が活性化するという実験結果があるが、記憶力が減退するデータは得られていない。
2016年09月23日

御前の燈炉の火消なんとしけるを、御宝殿の内より金の扉を押開き、玉簾を巻上て、丱童一人出現し、燈をぞ挑ける。(源平盛衰記巻第十二)むかし、男、密に語らふわざもせざりければ、いづくなりけむ怪しさに詠める。吹く風にわが身をなさば玉すだれひまもとめつつ入るべきものをかへし、とりとめぬ風にはありとも玉簾誰が許さばかひまもとむべき。(伊勢物語六十三吹く風に)これらの文章に出てくる「玉簾」は、玉で飾ったすだれか、すだれの美称として使われるている。しかし一般に玉簾と言えば、植物のタマスダレを想起する。タマスダレはヒガンバナ科タマスダレ属の球根草で、レイン・リリーの別名がある。原産地ペルーから明治時代に渡来し現在は園芸用に広く植えられており、しばしば逸出し野化しているものを見ることもある。丈夫で育てやすく、分球で殖える。葉は細い棒状で土から直接立ち上がり、伸ばした花茎の上に上向きの白い6弁花を一花開く一茎一花の植物である。属名のZephyranthesは、ギリシャ語のzephyros(西風の神)+anthos(花)を表す合成語である。またCandidaは、「純白の・輝きのある」を意味している。タマスダレの花は、20cmほど伸びた花茎の頂点に純白で美しい花を一花だけ咲かせる。日が当たる頃に開花し夕方に閉じるを繰り返し、3日ほど咲く。タマスダレという和名は白い小さな花を「玉」に、葉の様子を「簾」に擬えて付けられたものである。別名レイン・リリー(雨ユリ)といわれるのは、雨後に一斉に花茎を伸ばし開花することに由来する。園芸店などでは「ゼフィランサス」の名前で通っているが、属名なのでゼフィランサスにはタマスダレ以外の植物も多く含まれており本来はタマスダレのみについての呼び名としては不適正である。本種には不思議なことに結実し難いものと反対に種子をよく付ける個体群があり、増殖は殆どの場合球根の分球による。ヒガンバナ・スイセン・キツネノカミソリ・アマリリス・ハマユウなどのヒガンバナ科の植物は、有毒アルカロイドのリコリンを含有する。タマスダレも葉や鱗茎にリコリンを含んでおり、誤食すると嘔吐・痙攣の症状をおこす。10年前の6月29日、さいたま市の小学校で行われた総合学習授業で、ノビルと間違えて2日前に校庭で採取したタマスダレの葉を調理して食べた児童15/18人が吐き気の食中毒症状を呈したが、全員その日のうちに回復した。(厚労省自然毒のリスクプロファイル)タマスダレは生け花の花材にされるようなことも無く主として植え込みを観賞する花なので、間違えて摘んだりしない限り中毒の危険性はそれほど高くない。
2016年09月21日

市役所の高齢福祉担当部局から、「ご長寿の皆様へ」という手紙が届いた。馬齢を重ねているうちに、いつの間に長寿者の仲間入りをしたのか些か憮然たる思いでもある。総務省は6月29日、平成27年国勢調査「抽出速報集計結果」を公表した。日本の人口は1億2,711万人でそのうち65歳以上人口は、3,342万2,000人(26.7%)である。超高齢社会を反映して65歳以上人口の割合は、調査開始以来最高となったと分析している。「高齢者」に明確な定義は無いが同義語として老人、年寄(お年寄り)などの言葉がある。また、高齢者は老年と呼ばれる場合がある。高齢者のことをシルバーあるいは年長者、年寄りの意味でシニアとも呼ぶことがある。鉄道にはシルバーシートがあったし、JALやANAの国内線はシルバーあるいはシニア料金を設けている。高齢の線引きは曖昧且つ主観的であるため、何歳が高齢者かの判断は容易ではない。人は生物学的発達段階では、新生児・子供・成人・老人に区分することができる。新生児・子供は肉体的・精神的に未発達段階の世代であり成人は充実・発達した段階で、老人は肉体的精神的に衰退した世代である。これを社会的・文化的事象から、子供・大人・老人の3つの段階に区分できる。子供は生産・経済活動のネットワークに届いていない世代、大人はその生産関係のネットワークの中心的な担い手となっている世代である。老人はそのネットワークでの役割を終え、後世代に活動を託した世代であるといえる。大辞林第三版では老人とは、年をとった人・年寄りと出ている。老人福祉法に老人の定義はないが、具体的な施策対象は65歳以上を原則としている。世界保健機関 (WHO) の定義では、65歳以上の人のことを高齢者としている。我が国には明確な年齢区分は無いが、公的機関が行う人口調査では65歳以上を「高齢者」としている今年の敬老の日は、9月19日であった。敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨として、昭和41年(1966)に国民の祝日に関する法律が改正され9月15日を敬老の日として国民の祝日に制定された。平成13年(2001)の祝日法改正によって、平成15年(2003)から9月の第3月曜日となった。敬老の日の起源については、現兵庫県多可町で、昭和22年(1947)9月15日に「敬老会」を開催したことが始まりとする説が支持されている。旧野間谷村で「老人を大切にし年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から、農閑期の9月15日に敬老会が開催された。翌年の第2回「敬老会」で名称を「としよりの日」として村の祝日とすることが提唱され、やがて全国にその趣旨に賛同する声が高まって行ったのだとされる。既に後期高齢者医療保険対象者になった私たち夫婦に、昨日子どもと孫から花と祝いのチョコレートが届けられた。戸孫の、心づかいが嬉しい。町会自治会では75歳以上の人を対象に毎年紅白饅頭を配布しているが、今時饅頭を貰ってありがたがる年よりはいない。回覧版で受給対象者を調査しているが、いままで一度も申請したことは無い。自分が負担した町会費を、こんな事に使用されるのは我慢が出来ない。会費はもっと有効に使うべきであるし、剰余金が生じるなら会費の額を減額すべきとの考えは邪道と言うべきなのだろうか。
2016年09月20日

ヤブランは日本全土の山野の藪の中などに自生している、常緑性の多年草である。日陰でもよく育ち一年中同じ草姿を保っていて性質が強く丈夫で手のかからない植物なので、庭園の樹下や縁石周りなどに植栽され広く利用されている。現在はアスパラガス等と同科のキジカクシ科に分類される例が多いが、ユリ科に分類される例もある。極小さい紫色の花を、50cm以上も伸ばした花茎の上半分ほどにびっしりと穂状に咲かせる。葉は細長く、先は垂れる。花期は8月から10月で、高さ30〜50cmの花茎を伸ばしその上半に車軸状に3~8個集まった多数の花を斜め上向きに穂状に着ける。長さ約4mmの、淡紫色の花被片を6枚有する。径6mmと小花なので、注意深く観察しないと花の形までは確認できない。本種は同じように植栽して利用される、ジャノヒゲと良く似ている。ジャノヒゲは葉が細く花が下向きに咲き青紫の果実を着けるが、ヤブランの果実は黒いことから区別ができる。ヤブラン属には5種あるが、そのうち日本に自生するのはヤブラン・ヒメヤブラン・コヤブランの3種である。葉に斑が入ったものや花色の異なるものなど、20種ほどの園芸用に改良された品種がある。栽培や流通が多く良く目にするのは葉に黄色の縦縞が入る、ゴールド・バンデッドである。ジャノヒゲ(蛇の鬚)は漢方では「麦門冬」と言われ、滋養強壮や催乳・咳や痰に処方される生薬である。同じ科のヤブランにもジャノヒゲと同じ効能があるところから、漢方では「大葉麦門冬(だいようばくもんどう)」の名前でジャノヒゲと同様に用いられる。名称の由来は、林縁などの藪に自生して葉が蘭に似ていることから江戸時代に藪蘭と名付けられたと伝わっている。 10月26日の誕生花 花言葉 謙虚この他に「忍耐」を花言葉とするものもあるが、どちらもこの植物が自己主張せず日陰でヒッソリと咲く様子から付けられたものとされる。
2016年09月16日

コスモスの仲間に、キバナコスモス(黄花コスモス)がある。コスモスには、大春車菊(オオハルシャギク)」の名前がある。春車菊は北アメリカ原産のキク科の一年草で、「ハルシャ」は国名のペルシャの意である。花の模様が蛇の目傘に似ているところから、ジャノメソウ(蛇目草)の別名がある。これに大が付いた大春車菊の名前は、モリアザミ・ノハラアザミ・ミネザクラ・ワサビ・ソメイヨシノなど多くの植物の命名者である、東京帝大第2代植物学教授松村任三が明治20年(18987)に名付けたという。桜の花に似て、春らしい雰囲気を持っていることから付けられたとの説がある。同じメキシコ原産であるコスモスの仲間に、キバナコスモス(黄花コスモス)がある。こちらは同属ながら短日植物ではないため、日長に関係なく開花する。周りにつく舌状花はコスモスと同数の普通は8枚で、先は3つに切れ込んでいる。現在では、逸出した本種が路端や土手で野生化しているのを見ることができる。原産地メキシコでは、標高1600m以下の地域に自生している。日本へはコスモスより20年以上遅い、大正初期になってから導入された。しかし普及したのは半世紀近くも経った昭和30年代後半(1960)になってからで、日本で赤花品種が作出されてからである。葉の幅が広く切れ込みが深いので花が無い幼苗の頃は、コスモスよりむしろマリーゴールドに似ている。6月~11月と長期間にわたって直径3〜5cm程度の黄色、あるいはオレンジ色の花を咲かせる。成長に伴って枝が良く分岐するので、花殻摘みや夏場に切り戻しなどの手入れをすると一層長期間楽しむ事が出来る。コスモスより茎・根が風雨に耐え、倒伏することはめったにない。 花言葉 野性的な美しさ繊細な感じのコスモスに比べて野生的なであるところから、その野草的な雰囲気に由来するといわれる。
2016年09月15日

小花が周りから開花し始めたキク科の花は植物の中で、一番進化した種とされる。キク科の花に見られる花序は、キクやタンポポのように小さな花がたくさん集まって一つの花のように見える形態が主な特徴である。肉眼では確認し難いが多数の小花が集まって、一つの花の形を作っているのが実体顕微鏡ではっきり確認できる。こような花を頭状花序または頭花といい、基部の萼に見える部分は総苞片という。頭状花序を形成する小花には、筒状花(管状花)と舌状花の二種類がある。一般的にキク亜科の植物は花が筒状花のみか、ヒマワリのように外側に花びらを持った舌状花と内側に花びらがない筒状花を合わせ持っている種がある。キク科に属し普通コスモスと言えばオオハルシャギクを指し、和名は秋桜である。秋桜をコスモスと読ませるのは当て字で、もともとは秋に桜の花に似た花を咲かせるところから「あきざくら」と言っていたものである。8枚の舌状花を持ちぎっしりと付いたコスモスの小花の先は、一つひとつが5つに裂けている。和名のように秋に、ピンク・白・赤・絞りなどの花を咲かせる。本来一重咲きだが園芸種には舌状花が丸まったものや、八重咲きなどの品種がある。コスモスは原産地メキシコから海を渡りスペインのマドリッド王立植物園で栽培され、1791年にコスモスと命名されたという。日本へは1880年代後半に渡来し、観賞用として花壇などに栽植されるようになった。今では代表的な秋の草花だが、各地で逸出したものが野生状態になって開花しているのを見ることができる。コスモスという名前は、ギリシア語の「美しい」「秩序」「整然とした」という意味の、kosmosに由来している。短日植物のため、街灯などの光が当たっていると花を咲かせないことがある。園芸品種では一定の気温があれば、日長に関係なく開花する早咲き系がある。早咲き品種は種まきから約3か月後に開花するので、開花させたい時期を逆算して種まきを行う。秋咲きは6~7月に種まきをすれば、10~11月に開花する。沖縄では2月の終わりころには、早くも花壇で咲いているのを見ることができる。草丈が2mを超えるほどに高くなり、開花時期と強風が吹く時期が重なる。強風に弱いので支柱を立てないと、倒伏して土に着いた部分から発根し広がって醜くなる。山荘の菜園が未開墾の頃、70坪ほどの広さ全面にコスモスを栽培したことがある。花の時期には写真を撮ったり見物に来た人もいたが、花の後の残骸の始末が結構重労働となるため3年で栽培を止めた。その頃のこぼれ種が、現在も隣地に毎年花を咲かせている。 花言葉 乙女の真心 調和 謙虚
2016年09月14日

地獄篇・煉獄篇・天国篇の3部から成る「神曲」は、イタリアの詩人で政治家でもあったダンテ・アリギエーリ(13世紀~14世紀)の代表作である。ユリウス暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)に暗い森の中に迷い込んだダンテは、古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会って彼に導かれて地獄・煉獄・天国と彼岸の国を遍歴して回る。ウェルギリウスは、地獄の九圏を通ってダンテを案内し、地球の中心部「魔王ルチーフェロ」の幽閉されている領域にまで至る。そして地球の反対側に抜けて煉獄山にたどり着いたダンテは、煉獄山を登るにつれて罪が清められていき煉獄の山頂でウェルギリウスと別れる。ダンテは山頂で再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天へと昇りつめ霊感によって神の本体を感知できるようになった。オーギュスト・ロダンが制作したブロンズ像「考える人」は、思索にふける人物を描写した像として誰もが知っている。しかし初め、「詩人」という名前が付けられていたことを知っている人は少ない。ロダンの没後この作品を鋳造した鋳造職人が、「考える人」という名称を付けたものだというのが通説になっている。1905年に開館したパリ装飾芸術美術館の門をダンテの「神曲」から着想を得て制作し、それを「地獄の門」と名づけた。「考える人」はその地獄の門の上に置かれ熟考するダンテを表そうとした像だとする説と、ロダン本人を表しているのだとする説などがある。日本に4体を含めて世界に30体のオリジナルブロンズ像が展示されていて、ロダン死後に鋳造された像は26体もが展示されている。こんなに有名な像なのにブロンズ像の手の位置を覚えている人は誠に少なく、正確に描写できる人はこの像を知っている人の半数にも満たないと思われる。腰かけた左膝に右腕の肘を突きそろえた指は軽く曲げその甲を下唇から顎にあて、左手は左足の膝頭に手首を軽くあて指先は右足の方を向いている。実際にこのポーズを取って見れば分かるが、体をかなり左に捻ることになり余り沈思黙考には適さない姿勢に思える。左腕は左膝に置いて、右肘は右膝に置いた方がリラックスできる。神曲の中で神の領域にまで達したとするダンテと比べて、常日頃余り深刻に悩んだり沈思することが無い凡人には理解できないポーズである。
2016年09月13日

ハナスベリヒユ マツバボタン畑に一旦入り込むと除去が大変困難になる雑草の一つに、スベリヒユ(滑莧)がある。地を這って分枝し葉は長円形の多肉植物で、乾燥に極めて強いので抜き取っても土に着いていると再び根付いてしまう厄介な植物である。夏期枝先に、黄色の小さな花を咲かせる。殆どの花が結実し、果実は熟すと上部が取れて黒色の細かい種子が散らばる。科名のPortulaca(ポーチュラカ)は、ラテン語の入り口を表すportula(小さな扉)が語源で、熟した実が裂け開く様子からつけられ名前だという。Portulaca属は、食用にもされる。茎葉の持つ酸味はリンゴ酸に由来し、独特な滑りのある食感を持つのが特徴でもある。日本全土で見られ耐乾燥性があって、日当たりの良い場所であれば到る所に自然に生える。「スベリヒユ」の名は、茹でた際に出るぬめりに由来するとされよく知られているマツバボタンやハナスベリヒユなどと同属である。ハナスベリヒユは、一般的には科名のポーチュラカの名前で呼ばれる。マツバボタンよりスベリヒユに葉茎は酷似し、径7cmもある美しい花を咲かせる。日本へ伝来したのは昭和60年代(1985)で、栽培が広まって多くの人に知られるようになってから比較的日が浅い。一重や八重咲きの白・オレンジ・ピンク・黄色・赤など、マツバボタンに似た花を咲かせる。日の出とともに開花し昼頃には凋んでしまう一日花だが、品種改良されたものでは夕方まで咲いているものもある。多年草だが寒さに弱く越年には12℃以上が必要で、霜に当たると枯れてしまう。鉢植えにして、室内で5℃以上を保持できれば越冬する。多数の雄しべと雄しべから片側に飛び出し、先端が5裂して錨のようになった一本の雌しべを持つ。実体顕微鏡では雄しべから花粉が飛び出しているのが確認できるが、殆どの種は不稔性質のため結実せず種子を採取することは不可能である。比較的安価なので春先降霜の心配が無くなってから苗を購入し植えた方が確実で、伸びた茎を挿し木すれば庭一杯に簡単に増やすことが可能である。スベリヒユと同様に生でも加熱しても食用可能だが、余り食べたと言う人の話は聞かない。 花言葉 無邪気 自然を愛する いつも元気
2016年09月09日

しま瓜と呼ばれるものには地青縞瓜(じあおしまうり)、はぐら瓜・佐賀県多久市道祖元(さやのもと)地区で古くから栽培されてきた在来品種青縞瓜、愛知県の伝統野菜のかりもり瓜、まくわうりなどがあって品種が多彩である。信州伊那谷地方で古くから漬けもの専用に栽培されてきた縞瓜は、それらの中では小型ながら最も縞模様が綺麗でくっきりしており歯触りも抜群である。昭和30年代までは、何処の農家でも自家用の粕漬けや味噌漬け用に栽培されていた。現在は食生活の変化もあって米が昔ほど食べられなくなったことから、自家製漬けもの用にしまうりを栽培する家が極端に減っている。妹のところでは10年ほど前から再び粕漬けを作って、毎年秋の初めに一樽を送ってくれていた。4年前からしま瓜の粕漬けを自分の味で作って見たくなり、自家栽培を始めた。7月の上旬にジャガイモの収穫後種子10粒を播き地這え作りで5株も育てると、20kgを超えるほどの収量がある。粕漬けには、せいぜい3kgほどしか必要ない。勿体無いがせっかく育てたのに、残りは全て廃棄していた。先週伊那谷をドライブして農産物直売所を覗いてみると、一つ500gほどのしま瓜が150~200円ほどで売られていた。粕漬け以外の利用法を尋ねたところ、即席漬けも美味しいと教えられた。早速菜園から一個を収穫して持って帰って、即席漬けに挑戦した。しま瓜は500g程度のもの1個をよく洗って二つ割りにし、中のワタと種子を丁寧に取り除く。ここまでは、粕漬け作りの工程と同じである。即席漬けではこれをさらに3mm厚さのイチョウ切りにして、後から熱した調味液を注ぐため鍋またはステンレスのボールに入れる。刻んだしま瓜に一かけらの生姜をみじん切りし、さらに30~40cmの昆布を3cm長さで細切りにして乗せる。調味液はザラメ砂糖60~70gに、食酢と醤油をそれぞれ同量の55ml加えて量が半分程度になるまで煮詰める。煮立った調味液を刻みしま瓜と昆布、みじん切り生姜の上から振りかけてよく絡め、暫くそのまま放置する。冷めたらチャック付きビニール袋に入れ、空気を抜いて冷蔵庫で1日置けば食べられる。粕漬けに比べて、非常に簡単で手数も時間もかからない。簡単に作れる即席醤油漬けだが、粕漬けとは異なった乙な味わいがある。少し甘味が気になる人は、ザラメを加減して自分好みの味を作り出せばよい。
2016年09月08日

鎌倉中期に原型が成立し暦応年間に完成したと伝わる全3巻の百科事典「拾芥抄(しゅうがいしょう)」に、蕎麦という文字が出てくる。ソバは古代には、「そばむぎ」・「くろむぎ」と呼ばれていた。そばという名前は、実が三角錐をしているところからついた呼び名とされる。ここで言う「そば」はもともと稜角(尖った角)のことで、稜(そば)のある麦だから「そば」と呼ばれるようになったとする説がある。1100年頃の平安時代後期になると、「くろむぎ(黒麦)」の名称は使われなくなり、代わって「そばむぎ」が略されて「ソバ」の名前で呼ばれるようになった。蕎は一字でソバだが、その昔そばむぎと称していたこともあって南北朝時代に「蕎と麦」を合わせて「ソバ」と読ませるようになったものであろう。ソバは蕎麦切りで食べるのが、最も一般的である。最初はそば掻きのようにしたり、団子にして焼いて食べていたものであろう。ソバ切りが出てくる最も古い文書は、長野県大桑村須原の定勝寺に保存されている寄進記録とされる。甲州市木賊に、臨済宗建長寺派の無住寺の棲雲寺(栖雲寺)がある。1416年の上杉禅秀の乱で敗れた武田信満は、木賊山で自害して果てた。奇しくもここから4.6km下った田野地区には、武田勝頼が自害した景徳院があり勝頼の墓所となっている。天目山は武田家が二度滅亡した因縁の地でもある。この棲雲寺の境内に「蕎麦切り発祥の地」の堂々とした碑が建てられているが、開けた畑の無い険しい山間の地でソバ栽培がされていたとは俄かに信じ難く後代になって作られた伝説ではないかと推察される。秋に収穫されたソバの実を使用して秋から冬の初頭に作られるソバは香りが高く、味も格別であるとして新蕎麦または秋新(あきしん)と呼ばれている。通の人には夏新より、一段と価値あるソバとされるが、ソバ好きながら両者の区別やそのありがたみは良く理解できない。全国的には平成16年のソバの作付面積は58,200haで3%減少したが収量は12%の増加で、長野県でも近年ソバの栽培が盛んである。長野県は作付面積第2位だが特に上伊那地域は、近年急速に「そば処」として名前が出るようになり作付も収量も増え続けている。今の時期農免道路を走ると、一面真っ白なソバ畑を眺めることができる。中でも伊那市・駒ヶ根市・飯島町・箕輪町が目だって多く、箕輪町は、街を上げてソバ栽培に力を入れている。「赤花ソバ」の栽培では、日本一だという。赤ソバと白花ソバは製粉してしまうと素人には全く見分けがつかないが、食べると赤ソバは若干堅く食感が異なるという。ソバはアブラナ科植物と同じように簡単に交雑しやすい植物のため、同じ区画に近接して二種類のソバを栽培をすることはできないのだという。箕輪町では「赤ソバの里」の名前で交配昆虫の飛来が不可能な隔絶された土地を大規模に開発して赤ソバを栽培しており、今ではマスコミにも登場して知名度が上がってきている。中央自動車道伊北インターから車で10分ほどのところにある「にこりこキッチン たべりこ」では、第三セクターの運営で赤ソバの盛りとご飯など30種類ほどのバイキング料理が提供されている。料金は大人1300円だがシニア料金があって、150円の割引がある。若干早く着きすぎたので併設の農産物直売所「にこりこ」で時間を潰して、開店を30分待つことになった。今年5月以来2回目の訪問だが、今回も盛りソバを三枚食べ十分満足してレストランを後にした。
2016年09月07日

いつのころからか通人の間で「網ホウズキ」という言葉が定着し、今では立派に存在感を示している。殆どの人は網の袋に入ったホウズキの実を「アミホウズキ」とは呼ばないし、この状態のものに特別な呼び名があるとも考えていない。世界大百科事典や国語辞典・広辞苑などにも、そんな名前の記載は無い。ホウズキは、漢字で鬼灯・または酸漿と書かれる。6~7月に、淡いクリーム色かかった白い5弁の花を咲かせる。花は同科の、ナス・トマトやジャガイモの花に似ている。関東で行われる新暦の盆の頃には、緑の袋(萼)も中の果実も熟して赤く変わり始める。この赤い袋に包まれた果実を死者の霊を導く提灯に見立て、枝付きで盆棚に飾る。昭和30年代頃までは、ホウズキの果実を丁寧に揉んでヘタのところに小さな穴をあけて中の種とワタを取りだし主として女の子が口中に入れ「グチュグチュ」鳴らして遊んだ。今では子育て中の若い母親でホウズキを鳴らし方を知らないし、鳴らすことのできる人は極めて少なくなってしまった。とりわけ60歳代以上の女性にホウズキを好のむ人が多いのは、子供の頃に遊んだ経験があるからかも知れない。盆に精霊棚に飾ったホウズキを貰い受けて、種子から育てた苗を山荘の菜園の隅に植えて15年になる。害虫のホウズキカメムシさえ注意し支柱に誘引して倒伏しないようにすれば、殆ど手がかからない。ホウズキは赤くなった時期に採取しないで放置しておくと、虫や雨によって自然に萼の袋の赤い皮が無くなって脈が残り、中に赤い果実を付けたまま網状になる。これを人工的に作出するには赤くなったホウズキを水に沈めて放置し、腐敗してきたら取りだして流水で丁寧に洗い流せば網に入ったきれいな「アミホウズキ」が出来上がる。腐敗臭を取り除いて、乾燥させれば完成である。今年は菜園に大量に生ったのが、7月終わりと8月の初めの2回、猿の集団に襲われ赤く鈴成になったホウズキの果実だけ取られてしまった。それでも40個ほど収穫して、アミホウズキを作った。以前家内の従妹にプレゼントしたところ、和紙を張ってこれを嵌め込みなかなか風情のある行燈風電気スタンドを作った。親戚の集まりがあって持参したのだが、ちょっとした飾り以外に利用法が分からず綺麗・可愛いとは言うがそれほど感動は無かったようだ。
2016年09月06日

犬は有史以前から家畜化され人と密接に関わって暮らしてきたが、猫は平安時代少し前に大陸を経由して日本に入ってきたとされる。忠実な動物として人と密接に関わってきた犬は犬神さまとして崇拝されることもある一方、猫には「化け猫伝説」が生まれた。センター試験の古文で1998年度の追試験に、作者不詳とされる「曽呂利物語」からの出題があった。曽呂利物語は近世怪異小説の一源流とされ五巻五冊からなり、寛文三年(1663)に刊行された仮名草子である曽呂利物語三の五に、「ねこまたの事」がある。「ある男が狩猟でぬたまちといって山から鹿が下るのを庵で待っていると、その場に女房が訪れたので男は不審に思って矢を放つと女房は消えた。男が家に戻ると門口に血が夥しく流れていたが、女房は家で無事であった。血の跡を辿っていくと、飼っていた古猫が死んでいた。それで、猫は長く飼わなくなった。」同じ怪奇物語「宿直草」は五巻五冊から構成され、延宝五年(1677)に刊行されたが作者は不詳である。そこにも猫又が、「ねこまたといふ事」として出てくる。「摂州萩谷の安田某、のたまちという狩を好む。ある夜更けに母がわが名を呼びながら来る。怪しみ、思い切って矢を放つと、母は大声をあげて帰った。血の跡を辿っていくと、わが屋敷の隠居所の門口まであった。内には母が恙なくおり、なお血の伝う簀の子の縁下を見ると、母の可愛がる虎毛の猫が死んでいた。これは猫股だろうか。死んだのが猫であったのは、この男の幸運である。」寛延二年(1750)頃に成立したと伝わる「因幡怪談集」には「石河又太夫、猫またを半弓にて殺す事」があり、話は「宿直草」と類似している。猫又(猫股)とは日本の民間伝承や、古典怪奇物語・随筆などに数多く出てくるネコの妖怪のことである。藤原定家が治承4年(1180)から56年間記録した日記、「明月記」がある。その中で天福元年(1233)8月2日、奈良県において猫胯が一晩で数人の人間を食い殺したとの記述がある。明月記に出てくる猫又は、「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されている。「猫又」の名前が初めて登場したのは、明月記とされている。徒然草89段(1331年頃)には、「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」と記されている。貞享2年(1685)の「新著聞集」で紀伊国山中で捕えた猫又は猪ほどの大きさとあり、安永4年(1775)の「倭訓栞」では、猫又の声が山中に響き渡ったと記述されている。さらに時代が下がって文化6年(1809)の「寓意草」では全長2.8mとあり、最早猫の大きさではない。越中国には人を食い殺したとされる猫又山があり、会津で猫又が人間に化けて人をたぶらかした山として猫魔ヶ岳の名前がついた山がある。建長6年に成立した「古今著聞集」(1254)には、嵯峨の飼い猫が猫又に変身して守り刀をくわえて山中へ逃げ出したとある。飼い猫が年を経ると、化けて人を食ったり攫ったりするようになるとしている。江戸中期の安斎随筆(伊勢貞丈)には「歳経たネコは尾が二股になり、猫又という妖怪になる」とあり、新井白石は「老いたネコは、猫股となって人を惑わす」と記述している。江戸時代以降飼い猫が年老いると猫又に化けるという話が一般化し、「ネコを長い年月にわたって飼うものではない」という俗信が日本各地に生まれた。猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源とする説がある。ネコはその眼光や習性から魔性のものと考えられ、死者をよみがえらせる魔力を持つとの俗信がある。ネコを殺すと七生まで祟られるなどとも言われ、そうした俗信が元となって猫又伝説が生まれたのではないかとされる。
2016年09月02日

夏野菜の人気ランキングは、トマト・エダマメ・キュウリの順である。最も人気が高いトマトは大きさと色には違いがあるが、どれも似ている。ランキング第3位のキュウリの仲間には大きく分けて、マクワウリのように甘味があり果物のようにデザートやおやつとして食べられるものと、甘味がなく生食や漬物などにして利用されるものとの二つがある。キュウリの仲間のしま瓜は、信州伊那谷で明治30年代の100年以上も前から自給用野菜として栽培されてきた甘みのない品種である。戦後暫くは何処の農家でも収穫した大豆を使って、味噌を各家庭で仕込んでいた。塩付けしたしま瓜やキュウリ・大根・ニンジンなどを味噌樽の中に沈めておくと、立派な味噌漬が出来上がる。しま瓜は緻密な肉質のため漬けものに加工すると独特の風味が引き立ち、漬物への加工特性の高い品種とされている。子供の頃味噌汁に味噌を入れるとき間違えて漬けものを入れとしまうと、汁の味が極端に薄くなってしまうことがあったが、煮たしま瓜の味噌漬けも乙な味ではあった。しま瓜に似た長大縞瓜やハグラウリなどの品種があるが、しま瓜は伊那谷固有の品種とされている。シマウリは粕漬けや味噌漬け専用として栽培されていたもので、種子は飯田市の種苗業者が維持しているという。濃緑の果皮に、鮮やかな緑の縦縞模様が特徴である。ウリとは異なり、果実が熟しても糖を形成しないため甘くならない。長大縞瓜やハグラウリなど似た品種があるが、それらと比較してしま瓜は肉質はしまり歯切れよいイノシシの仔はウリ坊と呼ばれるが、色こそ違えまさにこの瓜の模様から着いた名前だと納得できる。春に直蒔きして地這いで栽培すると、夏には直型7cm・長さ18cm・500gほどになり収穫期を迎える。山荘は長野県との県境に近い山梨県にあるのだが、山梨県内では似た「ハグラウリ」は売られていてもしま瓜の種を売っているのを見たことは無い。ネットで探すと伊那市の種苗店では一袋250円ほどで購入できるのだが、送料が500円も必要とあって馬鹿らしい。飯田市内に住む妹は昔から自家用にしま瓜の粕漬けを作っていて、数年前までは一樽分を送ってもらっていた。2年前に自前で作って見たくなって断ってしまったが、種子の入手に困った。今年は信州訪問の序でがあったので妹の家に寄って、種子を30粒ほど分けてもらってきた。粕漬用として収穫する場合の種蒔きは6月ころからとされるが、70坪ほどの山荘の菜園は、その頃はジャガイモや里芋、トマト・ナス・キュゥリ・インゲン・ピーマン・シシトウ・長ネギなどがあってしま瓜を播種する場所がない。7月初めには春分の頃植付けたジャガイモの収穫が終わり、その後作として地這いのキュウリとしま瓜を播種した。8月末になって、10kgほど収穫できた。一旦塩漬けしたしま瓜は、天日に半日ほど干さなくてはならない。台風10号の影響とその後の天気予報を参考にして、30日に塩づけ作業をした。しま瓜は二つ割りにしスプーンで中のワタと種を丁寧に掻きだし、塩を果肉が見えないくらいに入れる。容器に皮目を下にして一列に並べ、重しをして一日置くと澄んだ水が瓜の上まで上がる。容器から取り出して、塩出しはせずそのまま4~5時間天日乾燥する。台風の抜けた31日はピカピカの晴天となり、干すには最適の日和となった。
2016年09月01日
全16件 (16件中 1-16件目)
1


