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山荘入り口に植えた白樺に、柔らかな薄黄緑の葉が展開した。同時に、15cm以上もある紐状花穂を長く垂らした。雄花の方が、雌花より少し長い。シラカバは雌雄同株のため、一本の樹で受粉する。紐状に花穂を垂らす植物にはシラカバの他身近なところでは、クリ・サワグルミ・イヌシデ・ヤシャブシ・キブシなどがある。樹皮が白いところからその名前となったとされる白樺は、シラカンバやシラカバとも呼ばれるが名前は必ずしも学問的に統一されていない。シラカバ・ダケカンバ・ウダイカンバなどカバノキ属の木は、どれも同じように樹皮が白いことが特徴である。シラカバとよく似たダケカンバ(岳樺)は、シラカバより標高が高い場所に分布する。シラカバの樹皮は白いがダケカンバはシラカバより赤茶色で、葉に光沢があることから区別できる。亜高山帯の森林限界近くでは、純林に近いダケカンバ林となる。ウダイカンバは中部地方以北に自生し、樹皮は濡れていても火が点くほどよく燃える。その特徴から鵜飼いの松明に用いられており、鵜松明(ウタイマツ)が転化してウダイになったとの説がある。カバノキ属の「カバ」や「カンバ」の語源は、万葉集に出てくる「かには」だとする説がある。味澤相 妹目不數見而 敷細乃 枕毛不巻 櫻皮纒 作流舟二 真梶貫 吾榜来者 淡路乃 野嶋毛過 伊奈美嬬 辛荷乃嶋之 嶋際従 吾宅乎見者 青山乃 曽許十方不見 白雲毛 千重尓成来沼 許伎多武流 浦乃盡 徃隠 嶋乃埼々 隈毛不置 憶曽吾来 客乃氣長弥 (山部赤人)(あぢさはふ、妹が目離れて、敷栲の、枕もまかず、桜皮巻き、作れる船に、真楫貫き、我が漕ぎ来れば、淡路の、野島も過ぎ、印南嬬、辛荷の島の、島の際ゆ、我家を見れば、青山の、そことも見えず、白雲も、千重になり来ぬ、漕ぎ廻むる、浦のことごと、行き隠る、島の崎々、隈も置かず、思ひぞ我が来る、旅の日長み)櫻皮は、かにはと読む。この「かには」をサクラの樹皮とするものと、樺のことだとする説がある。樺とする説では、「かには」が転化して「カンバ」になったのだとしている。「かには」は元は樹皮全般のことを指していたのだが、やがて樹皮を利用する木を「かには」と呼ぶようになったものとしている。アイヌ言語では「白い樺皮のとれる木」がシラカンバを指し、ダケカンバは「神の樺皮がとれる木」で、ウダイカンバは「本当の樺皮がとれる木」を意味しているという。カバノキ属の樹は樹皮を剥がし易いため、昔から樹皮を細工に使われてきた。シラカバから早春の30日ほどの間だけ採取される樹液には、糖・アミノ酸・タンパク質その他多種類のミネラルが含まれている。この樹液はキシリトールの原料として用いられるほか、各種製品に利用されるようになっている。白樺はその樹皮が美しいので庭園にも植樹されるが成長が早い分木質は疎で、太い木でも雨に当たると1年もすればぼろぼろに腐ってしまう。しばしばカミキリムシの幼虫のテッポウムシが大きなトンネルを掘り、場合に依っては枯死してしまう。土地を購入した際不動産屋がサービスで、1mほどのシラカバの苗木を10本植えていった。16年経過して生き残っているのは2本と、その樹から種子が飛んで生えたもの3本とが庭にアクセントを付けている。4月から落葉前までの間にうっかりシラカバの樹下に車を止めると、ヤニや花粉・種子塗れになってしまうので注意が必要である。 花言葉 あなたをお待ちします 光と豊富 忍耐強さ
2016年04月28日

原野を別荘地として造成し暫く放置されていた土地を購入して建てた山荘の周りに、自宅近くの植木センターで購入した植物数百種類を運んで植栽したが、1/4ほどは山里の気候に合わなかったのか枯死してしまった。生き残った山黄桃が、今年は平年より若干早く枝一杯に五弁の白い花を咲かせた。子供の頃梅雨の時期になると、実家や近くの家の庭先で真っ赤に熟したユスラウメを摘んで腹いっぱい食べたものである。葉の緑と真っ赤な実のコントラストが好きで植えたのだが、山荘に植えた樹には花は見事に咲くのだが赤い実では無く白い実が数十粒しか生らない。ユスラウメは中国原産で、花や果実を観賞し実を採るために庭先等に植えられる。藪立ちして、2mほどの樹高になる。サクランボに似た、1cm弱の漿果を付ける。枝は開帳性でよく分枝して2mほどの樹高になり、白色の花をニワウメのように枝の下から上までびっしり咲かせる。自家受粉で結実し、基本は赤色だが白実を付ける品種もある。直径1cmに足らない丸い果実には極浅い縦筋があり、サクランボと同じで表面に毛を持たない。サクランボは全体が赤色にはならないが、ユスラウメは熟すと日の当たらない部分でも果実の全体が瑞々しい赤色になる。白色の果実は艶やかな白が目立ち、収穫の時期を知ることができる。中国が原産で江戸初期に渡来したとされ、主に庭木として栽培される。リンゴ・ナシ・サクランボ・モモ・ウメ・スモモなどと同じ、バラ科に属する。ユスラウメは、漢字では山桜桃と表記する。ユスラ・ウメのユスラについて、枝を揺すって実を落とした。枝が上部で繁茂するので、風で揺らぐ。朝鮮語の移徒楽(イサラ)が転訛したなどとする説がある。ユスラウメの果実はウメの実やサクランボに比較して極小さく、また樹高も低い。子供のころでさえ、枝を揺すって採取したことなどは無く一つずつ摘んだ。枝が風に揺れるのは、ユスラウメの樹の特徴ではない。樹高が低く寧ろ枝はかなり堅くガッチリしているので少しくらいの風で枝垂れ桜や柳の枝のようには揺らいだりしない。原産地の中国から伝来したのに、朝鮮語が名前の由来になったとする説にも無理があるようだ。日照があって水はけのよい場所で有れば植放しでも良いが、枝が込み合うと枯れ込むことがあるので中までよく日が当たるように混み合った枝は間引いてやる。花芽は前年伸びた枝に付き、自家受粉するので一株で実を着ける。サクランボを漢字で「桜桃」と表記するので、果実が「桜桃」に似てより小さく野趣的であるところから「山」をつけて作った当て字であろう。別名に、ユスラ(繋梅)やユスラムメ(英桃)がある。実は6月ころに熟して、サクランボと同じように艶のある美しい赤色となる。甘く微かに酸味のある実は多くは生食されるが、果実酒やジャムに加工することもできる。 花言葉 郷愁・輝き子供のころ食べたことへのノスタルジーと、艶々した実は宝石の輝きを思わせるのであろう。 4月28日の誕生花
2016年04月27日

室町時代初期に観阿弥の息子世阿弥によって作られたとされる謡曲、「二人静」がある。センリョウ科センリョウ属のフタリシズカは、謡曲から取ってその名前を付けたものだという。「吉野勝手明神の正月7日の神事に用いるため女が菜摘に出て菜を摘んでいると、一人の女が出てきて「私を哀れんで、一日経を書いて弔って下さい。」と頼んだ。名前を尋ねると、弔ってくれれば幽霊になって出て名前を明かすと言って消えた。帰ってこの出来事を神職に報告しているうちに、女の顔や言葉つきが変わってきた。神職が「誰が憑いているのか」と問うと「静である。」という。舞いを見せて欲しいとの神職の願いに、女はかつて静が勝手明神に収めた衣裳を着けて舞うと、いつしか静の幽霊も現われて舞を舞い、神主に回向を頼んで静の霊は消えていった。」というのが謡曲二人静の荒筋である。昔の人は、粋なことを考える。フタリシズカは茎の先に多くの場合2本の穂状花序を出す。この花を謡曲二人静に擬えて、その名前を付けたのだと言う。同じセンリョウ科には似た草姿で、花序が一本の植物がありヒトリシズカという。フタリシズカからの連想で、命名したものと考えられている。葉は光沢のある4枚が輪生していて芽出しの頃から茎の先に1本の穂状花序を出し、ブラシ状の小さな白い花をつける。一本の茎には一本の花序しか出さないので、一本だけ見れば「ヒトリ…」だがこの植物は群生するので「静あるいは密やか」という形容は当てはまらずむしろ賑々しい。ヒトリシズカには、ヨシノシズやマユハキクサの別名がある。標高630mの場所にある山荘の近隣の山には、今の時期明るい樹林地の至る所にヒトリシズカがこんもりと群がって咲く。このヒトリシズカは本来、「吉野静」と呼ばれていたものと思われる。観阿弥作の説がある能「吉野静」が名前の由来とされ、静の美しい舞い姿に擬えた名前とされる。植物への命名はフタリシズカが先、とする説がある。能吉野静(よしのしず)の後に謡曲二人静(ふたりしず)ができ、植物に名前をつけたのはフタリシズカが先でこれに対応して今では別名とされている吉野静をヒトリシズカと呼ぶようになったとするのが妥当であろう。 マユハキグサは眉掃草で、一本立ち上がる穂状花序を近づいて良く見ると白いブラシのような花穂をしているのが分かる。その花形から、化粧道具の眉掃きを連想して付けられたものである。どちらかと言うとむしろあまり一般的でないマユハキグサが、ヒトリシズカの花姿を最も適切に言い現わしている。山荘が完成した16年前に、隣の山中からヒトリシズカの一株を移植した。夏の強い直射を避けてサツキの隣を選んで植えたのだが、この場所を嫌ってブロックの階段下の乾燥が激しい場所を定住地に選んで勝手に引っ越しをしてしまった。強い日光や霜を遮るものが無く乾燥も激しい過酷な場所にもかかわらず、毎年大きくなり今では60本以上もの株になった。さらに、1mほど離れた場所に分家をした。かわいそうに今年も既に数回の降霜に遭って、葉の一部が黒変している。中国では生薬名を及已(キュウイ)といい、根の煎液を散寒・去風・解毒・皮膚病・悪瘡に外用すると言われるが、日本で使われることは無い。花言葉の静謐・隠された美・愛にこたえてなどは、能や謡曲の静御前から連想したものであろう。
2016年04月26日

火と石で表されるセキという文字は、「石(義符兼声符)+義符」の会意兼形声文字である。セキは漢字ではなく国字で、セキ器は半磁器あるいは焼締めともよばれる「焼き物」のことでStone wareの直訳と言われる。耐火度が高く可塑性に富んだ土を原料とし、これに釉を掛けて比較的低温で焼成したものは陶器、高温で焼成されて吸水性がなく叩いた時に金属音を発するものが磁器である。セキ器は陶器と磁器の中間の性質を持つ焼き物で、施釉も絵付けも行わないで1100~1250℃で焼成される。セキ器は堅牢で耐水性があり、瓶・壷・水差し・茶器・食器・花器などの日用品から装飾品まで幅広く作られる。陶器や磁器にはない素朴な地肌の風合いが魅力的で、好事家に好まれる。古墳時代に、朝鮮から伝わった技術によって作られた器を須恵器といっている。須恵器を作る技法が元になって、備前焼・信楽焼・丹波焼・大谷焼などのセキ器が作られるようになった。岡山県伊部地方には「邑久古窯跡群」と言われる、古墳~平安時代の須恵器窯跡が多数点在しており、ここで造られていた須恵器窯が備前焼の元祖といわれている。備前焼は日本六古窯の一つで、備前市伊部地方で盛んであることから「伊部焼」の別名もある。焼成の過程で灰が降り掛かって生じる自然釉や、火襷・牡丹餅など多くの模様が現れ珍重される。現代では、人為的にそれらの模様を作りだす方法が工夫されている。焼成するとき作品に触れる酸素の多寡によって、酸化焼成と還元焼成に分けられる。電気窯は、完全な酸化焼成であり、薪・ガスなど燃料を用いる窯では多めの空気を吹き込みながら燃焼させ温度を上げて行くが、このときの窯は電気窯より酸素量が少ないが酸化焼成である。一方還元炎焼成は燃料を用いる窯で空気の供給を少なくして不完全燃焼させ、窯の中に一酸化炭素を発生させる。高温時に空気を遮断して発生した一酸化炭素が素地や釉薬に染み込み、土や釉薬の酸化鉄が還元されて鉄に戻る。「青備前」は還元焼成で得られるが、特殊な方法として焼成中に塩を投じて焼成することで作りだす技術が確立されている。鎌倉時代初期は還元焼成で、後期には酸化焼成による現在の茶褐色をした家庭雑貨の水瓶や擂鉢など実用本位の陶器が焼かれるようになった。江戸前期の焼き物は「古備前」とよばれ、今では好事家の垂涎の的になっている。室町時代から安土桃山時代に隆盛を極めた備前焼は、江戸時代に入ってから茶道衰退とともに人気が無くなり再び水瓶や擂鉢・酒徳利など実用品の生産に向かうことになった。この当時のものが近郷の旧家にかなり所蔵されていて、今もオークションに多数出品されている。重要無形文化財「備前焼」の保持者金重陶陽は、魯山人など弟子を育てその中から多くの人間国宝を輩出している。さらに桃山時代の器作りに回帰を図り、芸術性を高めて人気をとりもどし世に備前焼の存在を広めた功績者である。備前焼は釉薬を使わず、酸化焼成で焼かれる。そのため堅く締められた赤みの肌、窯変が作る模様にはどれ一つとして同じものがない。土の配合・寝かす期間・掘りだした場所などによって、仕上がりが違ってくる。金重陶陽は、10年寝かせた土を使っていたとされる。備前焼観賞の模様には様々なものがあり、代表的なものとして次のものが上げられる。灰が融けて、器の肌に付く事によりできる模様を胡麻という。窯入れの際運搬のために器に掛けた藁が残って、それが直火が当たらない場所では緋色の模様を作る。緋襷と言って観賞の模様の一つだが、現在は人工的に作りだすために藁を巻き鞘などに詰め直接火の当たらない場所で焼くことで、肌全体は白く藁のあった部分は赤い模様として人為的に作ることが可能となった。備前焼で初めてガス窯を導入して緋襷の安定した焼成に成功したのは人間国宝山本陶秀の長男だと言われ、発色の元になるエキスで人工的に緋襷を生み出す「緋紋」、エキスの中に灰を混ぜることで複数色を作る「緋彩」などの技法を考案した。焼成時に作品の上に器を置くと、その下が白くなる。その模様を、牡丹餅とよんで珍重する。備前焼は、還元焔では肌が青くなる。初代藤原楽山が考案した塩青焼という塩を用いた手法では、独特の青備前を作ることができる。灰や熾きに接触した部分だけが強還元焼成になり、色変わりの発色をする。窯の中のロストルという火格子(桟切り)で良く発色するので「桟切り」という。焼きあがりの際作品の周りに炭を投入することで、人工的に作りだすことができる。一昨年金重陶陽の弟の子金重愫の丸山窯を、岡山在住の学友の案内で訪ねた。窯元では最も小品のグイ飲み一つが5万円とかなり高価であつたが、義兄は何の躊躇も無くその場でポント購入した。花器は70万円と言っていたが、とても手が出ないので岡山空港の売店で作家物6千円のグイ呑を土産に購入することで我慢した。昨年末陶器市で備前焼の大壺を見付け購入して以来、半年で驚くほど多くの備前焼を買い入れてしまった。並べて見るとまるで骨董店の店先の様でもあり、壮観でもある。一つ一つに個性があって、面白い。家内は黙って見ているが内心では呆れかえっているのではと思われ、ボツボツ購入を止めようと思っているのだが…。
2016年04月25日

山荘の完成と同時に植えた庭の花木の、凡そ2割ほどが土地と気候に合わず枯死してしまった。庭梅はその中でしっかり根付き、毎年枝一杯に花を咲かせる。今年も4月中旬からはねず色の花が、枝にギッシリと咲いて満開になった。ニワウメ(庭梅)はバラ科の植物で、4月頃葉が出る前に2~3輪ずつ固まった花が枝を覆うほどに咲く雌雄同体の虫媒花である。ニワザクラとその花の形がよく似ているが、ニワザクラは八重でニワウメが一重なので区別できる。原産地は中国で、江戸期に日本へ渡来し観賞用として広く栽培されるようになった。中国では「郁李」と書き、生薬名にもなっている。日本の古語では、唐棣花(はねず)と呼ばれたとの説がある。唐棣花は昔から花を観賞するために、庭に植栽されて来た。大伴家持の詠んだ歌には、万葉集一四八五「夏儲而 開有波祢受 久方乃 雨打零者 将移香」(夏まけて 咲きたる唐棣花(はねず)久方の 雨うち降らば移ろひなむか)がある。ただしニワウメガ中国から伝来したのは江戸期とも言われており伝来年代が正しければ、大伴家持が歌に詠んだ唐棣花はニワウメではあり得ないことになる。これらから考察すると古語ではねずと言われたのは庭桜のことで、庭梅とは別の植物だと考えられる。ニワウメは5弁花の薄紅色をした花を咲かせ、花後に径1cm以下の大きさの果実を着ける。赤黒に熟した果実は新緑の葉に良く合い、鑑賞価値がある。花の姿が梅に似て、庭に植えられることが名前の由来になったという。 秋に熟した果実は生食できるが、果皮と種子の間にはユスラウメの1/3程しか漿液がなくヤマザクラの果実に似て酸が強いので美味い物ではない。果実には種子が一つ入っていてこの種子を蒔いて増やすことも可能だが、沢山生じるヒコ生えを根から切り分けて殖やす株分けが一番手軽である。極めて花着きが良いので、咲いた枝で有れば株分けした翌年から花を見ることができる。バラ科植物のウメやモモ・リンゴ・サクラなどの仁には、青酸配糖体のアミダグリンが含まれている。アミダグリンは腸内細菌のβ-グルコシダーゼで加水分解され、有毒のシアン化水素を形成する。果実を食べる場合は、種子を噛み砕かないように注意が必要である。種子は生薬名を郁李仁(いくりにん)といい、仁は下剤・利尿剤・血圧降下などの目的に使われ便秘・浮腫・不眠症に処方される。 花言葉 願望
2016年04月22日

4月下旬になって、漸く甘夏柑(カワノナツダイダイ(川野夏橙)が果物店の店頭に並ぶようになった。到来物の夏蜜柑を使って作ったマーマレードが気に入って以来、この時期に一年分のマーマレードを作るのが年中行事となっている。手間さえ惜しまなければ購入する必要は全く無く、自家生の方が寧ろ美味しい。つい先日まで店頭には皮の色は同じオレンジ色だが若干早生で、果肉が紅色の紅甘夏しか並んでいなかった。昨日店頭に、生産量全国2位という熊本産の甘夏が並んでいた。発災後に出荷されたのか、それ以前かは判らなかったが、マーマレードに加工するため3パック12個を購入した。震災被害に対するささやかな、協力の心算もあった。マーマレードは矢張り綺麗なオレンジ色のものが、見た目にも美味しそうに見える。自宅で採れるヤマモモ・キウイフルーツ・ブルーベリー・ラズベリー・ユズなど様々な果実でジャムを作るが、甘夏だけは購入して作る。果実に砂糖を加えて煮熟したものは全てジャムだが、日本農業規格では皮を除いた果肉部分で作ればジャムと呼び、皮の部分を使って作ったものはマーマレードと呼ぶ。もし蜜柑の果肉だけを使って作れば、ジャムに分類されるのだろう。マーマレードは、オレンジ・夏ミカン・ユズ・グレープフルーツなどで作られる。日本でマーマレードを最初に作った果実が、花梨に良く似た「マルメロ」であったところからとする語源説がある。現在のようなマーマレードの発祥は、スコットランドとされている。柑橘類の果皮の表面には球形の油胞が無数に存在し、リモネンをはじめとする精油が含まれている。一般に油胞には果肉よりも豊富な香り成分が含まれこれが、苦味成分となっている。果皮の内側は白く柔らかい綿状をしている。マーマレードにする場合生食では捨ててしまう、果皮の内側の白く柔らかい部分も皮と一緒に利用する。マーマレードのレシピはいろいろあるが、加工方法は圧力鍋を利用すると最も簡単に作ることができる。購入してきたら先ず、甘夏の果皮を束子で良く洗浄し総重量を計測しておく。次いで4つ割りにして、皮と実を分ける。皮は5~10mm幅・50mm位の長さに細切し、圧力鍋に入れ強火で蒸気が噴き出すまで加熱する。シューっと強く蒸気を吹きだしたら、火を止め自然に冷めるまで放置する。冷めたら中身をボールへ開け、水を4~5回替えながら一晩曝す。何回か手で押して、色水が出なくなるまで水を変える。果肉と砂糖を混ぜる前に、皮の苦さが抜けたかどうか確認して置く苦味の苦手な人は、この工程を念入りに行わないと仕上がりが苦くて食べられなくなってしまう。果実は、嚢と果肉と分ける。ホーロー引きの鍋に果肉と皮を入れたら、砂糖を最初に計量した重量の60%を目安に加えて中火でトロミが付くまで焦がさないように掻き廻しながら注意して煮詰める。途中で味を見て甘さが不足していたら好みの甘さになるように砂糖を加える。ペクチンを含有するので、ゲル化剤としてペクチンを添加することを要しない。瓶に詰めてからの消毒は、他の瓶詰と同じ作業をすればよい。この消毒さえ完全にできれば、冷暗所で1年間の保存は可能である。
2016年04月21日

菜の花や 月は東に 日は西に 与謝蕪村この句は春の夕暮れを詠んだ句として余りにも有名で、人口に膾炙している。蕪村が、神戸六甲山地の摩耶山を訪れた際に見た情景とされる。摩耶山から見る空には月と太陽が同時に出ており、一面の畑には黄色い菜の花が今を盛りと咲いている夕景を詠んだ句である。昭和20年代までは日本の春には、何処でも普通に見られる農村風景でもあった。アブラナ科の菜類・ダイコン・カブ・キャベツやブロッコリー等も花を咲かせるが、この当時菜の花と言えば油を採る目的で栽培された菜種のことであった。戦後も暫くの間農村では、自家栽培した菜種から食用油を採っていた。そのため菜種は、全国各地で栽培され春には菜の花を普通に見ることができた。現在土手や河原に咲く菜の花は菜種と同じように見えるが、そのほとんどが緑肥としても栽培されるセイヨウカラシナで蕪村が見た種類とは異なる菜の花である。種類は異なっても、独特で濃密な同じ香りを持っている。養蜂業者にとって菜の花は重要な蜜源となっており、「なの花蜜」が採取される。この句が詠まれたのは、安永3年3月23日(1744)とされている。新暦の3月23日は、旧暦では5月3日に当たる。句が詠まれた年の3月の夕方の空に月が昇るのは10日頃からで、満月は29日だから23日に太陽と共に空に在ることは無い。菜種の花は満開になっていなくても、既に咲き始めていたと思われる。太陽が西の空に沈む夕暮れ時に月が東に見えるのは、満月の前後である。今年3月の満月は、3月24日であった。旧暦の5月3日、当時の畑に菜の花が咲き夕暮れ時に月と太陽が同時に見えたのは新暦3月の下旬であったと考えるのが妥当である。このことから菜の花畑と東西の空の月と太陽の様を、後になって合体させて詠んだ句と考えることもできる。風も無く穏やかで独特の春の緩い空気に包まれた4月19日の夕刻は、月齢11.7の少し歪な月が4時40分に東の空に昇った。空に浮かんだ雲を茜色に染めながら、西の空に日が沈んだのは6時18分だった。蕪村が見たとされる月とは30日の差があるが緑肥として作ったセイヨウカラシナの黄色の花は、菜の花独特の香りを振り蒔いて未だ盛んに咲いている。昨日は太陽と月が空に暫くは同居したと思われるが、外へ出て実際に確認したのは6時20分で既に日は沈んだ後であった。ベランダに出て空を見上げながら、蕪村も342年前同じ月を同じ季節に眺めていたのだと考えると思わず「菜の花や…」と声に出して呟いていた。
2016年04月20日

山荘の庭に16年前鉢から下ろした色変化の花を咲かせる大晃錦と、黒味掛った赤色一重の黒光の二種類4株の2mを超える大株のボケが満開になった。大晃錦は一枝に、深紅と白との斑・紅など様々な色合いの径5cmにもなる八重の花を咲かせる。砂地で酸性の痩せた土が適合したのか瞬く間に大株に育って、花の季節にはその存在感を示す。ただ毎年伸びて暴れる枝先の剪定と、マイマイガやアメリカシロヒトリ・イラガ・アブラムシが発生するのでその殺虫消毒が欠かせない。花の時季は艶やかで美しいのだが、他の季節は枝先の大きな棘も邪魔になり映えない花木である。ボケは樹が古くなったり樹勢が衰えると、ごつごつとした不定形の握り拳大の果実を着ける。この果実が瓜に似ているので、木になる瓜(ボッカ)が「ぼけ」に転訛したとの説がある。原産地中国から平安時代に渡来したとされ、日本全国で植栽され自生もしている。華やかな花が愛され庭木や盆栽・生け垣・切り花として観賞されている。日本原産のクサボケ・中国のマボケ・ボケの3種が基本だが、品種改良によって現在200品種以上が登録されている。渡来してから明治に至るまで、園芸品種としての発達はほとんど無かった。大正時代になって新潟市と川口市を中心としたボケのブームが起こり、「東洋錦」・「日月星」が作出され昭和40年代には数多くの品種が発表されたこともあってボケブームが勃興した。キク・ダリア・ボタン・シャクヤク・バラ科の花木や果木の根の傷から土壌細菌の病原菌アグロバクテリウムが感染すると、根に瘤が発生して樹勢が衰退しやがて枯死してしまう。一旦根頭がん腫病が発生すると土を入れ替えるか消毒して病原菌を死滅させない限り、この病気にかかりやすい植物を植えることができなくなってしまう。植え替えや移植・挿し木等は、病原菌の活動が少ない秋分の日以降に行う様にする。庭に植え付ける場合の適期は秋10月~11月、春は2月~3月である。挿し木や根伏せで、簡単に殖やすことができる。挿し木は枝先を10cmの長さに切り1時間ほど水に浸けて吸水させた後赤玉土に挿す。根伏せは太めの根を10cmの長さに切り分け、赤玉土伏せ床に横に寝かせて薄く土をかけて明るい日陰で管理する。果実から実生苗を作ることも可能だが、親の花が咲くか保障はできない。その点挿し木根伏せはクローンなので、親の性質をそのまま受け継ぐ。木瓜と書く家紋があるが、この場合ボケでは無く「モッコウ」と読む。花のボケと家紋とは、何の関係も無い。モッコウ紋はきうり(胡瓜)の切り口から考案されたとか、地面に作られた鳥の巣を図式化したものだとの説がある。信長が木瓜紋を使用していたことは、有名である。土の様な意味があるのか、ボケの花言葉は「平凡・早熟・先駆者」等とされている。
2016年04月19日

春浅く未だ山の木々の葉が展開する前に山肌に明るく咲くミツパツツジは、サクラや桃の花に比べても引けを取らない美しさである。山荘の200坪ほどの敷地に16年前、10株のミツバツツジを植えた。植えた時季の所為か、多くは地上部が枯れてしまった。3株は再生しなかったが残りは翌年株元から萌芽し、今では大きな株に育って3mにもなった。山荘の周りに植えた垣根のレンギョウや、4株の大株のボケ・ユキヤナギ・花桃等に混ざって満開となり存在感を示している。ミツバツツジは漢字では三葉躑躅と表記し、関東地方から近畿地方の太平洋側に広く分布し雑木林に自生する落葉低木である。花は葉を出す前に開花し花が終わってから、葉が出る。枝先に付く葉が三枚であることが、名前の由来となった。ヤマツツジ類の多くは雄しべが10本なのに対し、本種は5本であることで簡単に判別ができる。こんもりと咲く沢山の花とその色が美しいため和風・洋風どちらの庭にもマッチする花木として古くから庭木としても植えられているが、住宅地近くの里山では盗掘の影響から個体数を減らしている。ツツジ類の中では最も早く咲く所から付いたイチバンツツジ(一番躑躅)、この花が咲くとジャガイモの植頃になるとしてイモウエツツジ(芋植躑躅)あるいは花の色からムラサキツツジ(紫躑躅)・オマキツツジ等の別名でも呼ばれる。南信州伊那谷では岩盤の痩せた場所に育つ所から、イワツツジと呼んでいた。高さは4mほどになり、自然樹形で咲いた花は見事になるから、場所さえあれば特に剪定しないでそのままにした方が見応えがある。落葉した枝先に付けた上を向いた一個の蕾から、2~3個の花を横向きに咲かせる。横向きの花は、雨水が溜らない工夫でさらに吸蜜昆虫が蜜を吸いやすい構造となっている。花冠は径4cmの漏斗形をしていて深く5裂し、平らに開く。花柱は、5本の雄しべよりも長い。ミツバツツジは他のツツジ類と異なって挿し木では根を出さず、接ぎ木では活着しないため種から殖やす以外に方法が無い。一般には、苗を購入して植栽する。しかし根が浅く、掘り取る際に細根を傷めるとしばしば根付かないで枯れることがある。きちんと根回しした、根鉢のしっかりしたものを選ぶ。植え付け時期は3~5月と、9~10月である。種から育てる場合は種子が弾ける前に採取して採り蒔きするが、開花までは長期間かかる。根が浅いため乾燥に弱く、夏場に水切れすると葉を落としてしまい蕾が付かないので注意が必要である。木曽谷の南木曽の400株・竜頭ノ滝他各地にミツバツツジの名所があるが、八王子市の「夕やけ小やけふれあいの里」のミツバツツジは公称三千本とも言われ一面の空気が赤紫色に染まって目を見張るほどの景色である。花言葉 平和 自制心
2016年04月18日
華やかに春を染めたソメイヨシノの花は春の雨と風に依ってすっかり散り四囲の樹木が新芽を吹いて、今や何処に桜の樹があったのか判別できない位季節が移ってしまった。地上や樹上にはサクラに代わって、様々な花々が競って咲き始めた。昔からこの時期をこよなく愛した人々は、春の一日をさらに刻で区切って楽しんでいる。一般通念上春の季節と言えば、3月から5月の期間を指し、万物が冬の眠りから目覚め新しい始まりを迎える季節でもある。春の語源は、草木の芽が「張る」・田畑を「墾る(はる)」・気候の「晴る(はる)」などが由来とされる。二十四節気の節切りでは立春から立夏の前日までを言い、旧暦では1月から3月までを指す。天文学的には、春分から夏至までとされている。良く知られた成句に、春宵一刻値千金春がある。春の宵は趣深く、そのひとときの時間は千金にも値するという意味で、「一刻」とはわずかな時間のことで30分ほどのことである。出典は中国北宋代の政治家・詩人・書家の蘇東坡の春夜と題する詩で、「春宵一刻直千花有清香月有陰 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈」と詠じている。日本では春の宵の素晴らしさの詩とされるが実際は、女を侍らせた宴席を抜け出して庭の鞦韆(ぶらんこ)に乗る女と酔い覚ましをしている光景を詩にしたものである。「春宵一刻直千金」は、中国では男と女の恋情の場面に使われる。同じ北宋の政治家・詩人・文章家の王安石は春の夜の静かな情趣を詠じた詩「夜直(とのい)」で、「金爐香尽漏声残 翦翦軽風陣陣寒 春色悩人眠不得 月移花影上欄干」と春の夜の静かな情趣を詠じた。ご殿の不審番についているのだから、春の素晴らしさで眠れないでは無く眠らないであろうか。唐代に活躍した李白は春の濃い暗闇の中、春風に乗って街中に広がる笛の音で古里を偲んで「春夜洛城聞笛」と題し、「誰家玉笛暗飛聲 散入春風滿洛城 此夜曲中聞折柳 何人不起故園情」の詩を作った。日本では清少納言が枕草子の冒頭で春は秋と並んで気候は最も良い時期だが、春の季節の中でも「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」と曙の素晴らしいことを述べている。春は、夜がほのぼのと明けようとする頃が良いという。滝廉太郎は「花」で♪「春のうらゝの隅田川 のぼりくだりの船人が 櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき、見ずや あけぼの露浴びて われにもの言ふ櫻木を 見ずや 夕ぐれ手をのべて われさしまねく青柳を、錦おりなす長堤に くるればのぼるおぼろ月 げに一刻も千金の ながめを何にたとふべき」と詩っている。ここに出てくる「げに一刻も千金の」は、明らかに、蘇東坡の「春夜」からの借りものである。人に依って春の一日の好きな時間帯は宵・闇・曙とさまざまだが、それぞれの時間にそれなりの趣があり結局は春の季節は素晴らしいということになるのだろう。サクラをこよなく愛した西行法師は、「ねがはくは 花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ」と詠んだ。新暦では、3月末頃に当たる。如月の望月のころとは二月十五日(満月)のことで、太陽暦では三月末に当たる。西行の熱愛した、桜の花盛りの時期に死にたいという願いをこめた歌である。西行は満月と皆既月食を見た翌日の建久元年二月十六日(1190)、七十三歳の生涯を閉じた。
2016年04月14日

現役時代公務で、壁崩壊直後の東西ベルリンを訪れたことがある。公式訪問した西ベルリンのあるKindergartenには13か国の子供が通園していて、給食の献立に苦労すると園長が語っていた。肉食についてはユダヤ教・イスラム教・ヒンズー教など、それぞれの教義で禁忌とされる食物がある。食に関する伝承に、合食禁と言われるものが存在する。一緒に食べると取り合わせが悪いとされる食材のことで、多くは胃腸障害が起きるとされている。日本で普通、食べ合わせと言われるものである。日本の合食禁は中国における本草学における相互薬理作用の研究と陰陽五行思想を食材にあてはめたものから出たものが多いとされ、科学的根拠の無いものが殆どだが中には医学的に正しいとされるものも存在している。天平宝字元年(757)に施行された基本法令「養老律令」の職制律に、天皇の食事に合食禁を出した場合典膳は徒罪(懲役) 3年の刑に処されるとある。南北朝時代に洞院公賢が著した「拾芥抄」や、貝原益軒の「養生訓」にも多くの合食禁が記されている。バナナは北緯30度から南緯30度までの一帯で栽培され、生食や加熱して食べられている。コンゴ共和国・カメルーン・中央アフリカ・タンザニア等の、赤道を中心にしたアフリカでは主食として食べられている。今の子供の多くは見向きもしないバナナだが、昭和初めには卵と同じように栄養食としての一面があり日本では生産できないため高価な果物であった。明治36年(1903)になって、初めてバナナが公式に輸入されるようになった。台湾が輸入先であったが当時は高価で、病気の際の栄養補給に食べる位でなかなか庶民の口には入らなかった。10年後には輸入量が増えたこともあって「叩き売り」の方法で売られるようになり、手に入りやすくなったが大戦により輸入が止まった。安価でいつでも気軽に食べられるようになったのは最初の輸入から60年後の、輸入自由化以降のことである。バナナは糖質やビタミン・ビタミン・ミネラルも豊富に含んでおり、病後の栄養補給食としても有用である。ブドウ糖など吸収してすぐにエネルギーになるものと、でんぷんのような時間をかけてエネルギーに変換されるものがバランスよく含まれているため、即効のエネルギー補給とエネルギーの持続性が期待できる。しかし一方ではソラマメに含まれる成分が結核菌の抗菌薬「イソニアジド」に作用して交感神経を刺激し、頭痛や高血圧を起こすことが知られている。ソラマメと同じ成分が、バナナやパイナップルにも含まれている。そのため「イソニアジド」を服用している時は、バナナは食べないほうが良いと言われる。パブロン鼻炎カプセルSやコンタック600プラスなどの市販薬に含まれているプソイドエフェドリンは鼻や咳に効く成分で、チラミンを含有するバナナによって血圧上昇を起こすことがあり合食を避けるべきとしている。バナナに含有される糖質はそれぞれ吸収時間が異なり、エネルギー補給が長時間持続する。運動前に食べて置くと良い、と言われる所以である。バナナが多く含有するカリウムにはナトリウム(塩)を排泄し、血圧を下げる効果がある。さらにカリュウムには、運動によって起こる痙攣を防ぐ働きがある。カリュウムが不足すると、筋肉が弱って障害が起きる。孫たちは昔から日本にあったリンゴやミカンは好んで食べるが、バナナには見向きもしない。食べ合わせと言われる俗信にもバナナの害は言われていないので、安価な果物を安心してもっと食べても良いと思われるのだが。一年中殆どの日が「○○の日」として勝手に制定されているが、殆どは国民に浸透していない。「日本バナナ輸入組合」は、8月7日を「バナナの日」として制定している。この日をバナナの日としたのは語呂合わせ以外に意味が無く、バナナを大いに売ろうとする魂胆見え見えである。 ぬれてうつくしいバナナをねぎるな 山頭火
2016年04月13日

大豆を若採りして、茹でたものがエダマメである。奈良・平安時代から、若い莢を茹でて食べていたとされる。鎌倉時代に日蓮から信徒に宛てた礼状「松野殿女房御返事」に、「…、枝大豆・ゑびね、旁の物給ひ候ひぬ」とある。江戸時代には、枝豆売りの商売があったという。当時は文字通り枝のまま茹でたものが売られており、それを持って歩きながら食べたとされる。「枝付き豆」あるいは「枝成り豆」が語源で、やがて「枝豆」に変化したものである。関東地方では、4月中旬から五月中旬が播種時期とされる。枝豆の収穫は播種後凡そ70日とされるので、7月にはビールの抓みとして収穫可能に成る。地温が十分であれば、播種後5日ほどで発芽する。マメ科の植物は移植を嫌うので、畑への直蒔きを奨めている。数年前一袋分播種した枝豆が、ドバト・キジバト・カラスに引っ掻き廻され食べられて全滅したことがある。そのため一般には直蒔きが奨められているが、防鳥の意味もあって敢て本葉2枚に育つまでポットで育苗することにしている。大豆・インゲン豆は埋めたマメが地上に持ち上がって発芽するが、豌豆ではマメが地中で発芽し茎が伸びて葉が展開する。地上に豆を持ちあげて発芽するエダマメは地上に持ちあがった時協力しあって双葉を開くので、一箇所に2~3粒蒔き最終的に一本を間引いて2本立てにする。ダイズ・インゲンマメは鳥の大好物で、地中にあっても鳥に穿られるばかりでなく、発芽して地表に出た豆も食べられてしまう。畑全体を防鳥ネットで覆う方法もあるが、本葉2~3枚になるまでポット栽培する方が簡便である。ポットに播種し防鳥と保温のために、ビニールや寒冷紗を掛ける。作業をしていても数mにまで近付いて人を恐れなくなった都会のキジバトやドバトは、一見可愛いのだが畑を荒らす害鳥であることには変わりない。一瞬何が起きたか判らずポカンとしてきょろきょろとする様子を、ハトの動きに譬えて「鳩が豆鉄砲を食う」あるいは「鳩に豆鉄砲」という。実際には至近の距離で豆鉄砲を食らえば、キョトンとして目をキョロキョロするばかりでは無く驚いて飛び去ってしまうに違いない。特に地上のキジバトは絶えず丸いピンクの眼を見開いて、頭を持ち上げたりして挙動が落ち付かない様子をしている。そんな姿を何処からか餌の豆が飛んできて当たった時の様子に見立てて、こんな言葉が生まれたものであろう。子供の頃は自分で細竹を採取して来て加工し、豆鉄砲を作って遊んだものである。ただし食糧の豆を無暗に弾にするわけにはいかず、新聞紙を千切って濡らし小さく丸めたものを弾にして子供同士打ち合って遊んだものだ。その弾が偶々顔へ命中しても、それほどの痛みを感じたことの記憶は無い。3月末にポットに蒔いた大豆が、漸く本葉2枚になった。これ位に育てば、ボツボツ移植時期である。植付け準備をしておいて、週末には定植する予定である。
2016年04月12日

タチツボスミレは日本を代表するスミレで、海岸から標高2千mの山地まで全国に分布し紫色の可愛らしい花を咲かせる多年草である。花の咲いた後に、茎を長く伸ばす。地下茎はゴツゴツと木化し、葉茎は数本が叢生して枝分れする。托葉は2cmほどのハート形で、深く羽裂するので他の種と区別することができる。3~5月の花期の茎は延び上がらないので、根出葉のように見える。墨壺・墨入筆・炭入・墨入などを語源とする説がある。…日本国語大辞典(1973)牧野富太郎は、墨壺を語源としている。子供たちがスミレの花を引っ掛けて引っ張り合い、「相撲とれ、相撲とれ」と囃子て遊んだところから「相撲とれ」が転訛して名前になったという説もある。貝原益軒は「大和本草」でこの説を引用して、「古歌に、菫とよみし物是なり。花紫なり。又白花あり。京都にてすまうとりと云う。筑紫にて殿の馬と云う。小児、其花にかぎある所を両花相交え、かけて引て戯とす。相撲の形に似り。」としている。タチツボスミレは立坪菫と表記するがこのツボは坪庭(壺庭)のことで小さな庭を意味し、花茎を伸ばして立ち上がっているように見えることに由来する名前との説がある。万葉集には菫が2、つほすみれ2の4首が詠まれている。山部赤人は「春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽野乎奈都可之美 一夜宿二来」と詠んでいて、古くから身近にあって親しまれて来た植物である。このことから七世紀には、既にスミレの名で呼ばれていたことが分かる。清少納言は「枕草子」六五の冒頭で、「草の花は 撫子、唐のはさらなり、大和のも、いとめでたし。女郎花。桔梗。朝顔。刈萱。菊。壺すみれ。」と書いている。松尾芭蕉も野ざらし紀行に「山路来て 何やらゆかし すみれ草」と詠んでいるが、この「すみれ草」はタチツボスミレだと思われる。花言葉の「つつましい幸福」は、庭先などでひっそりと咲く花姿から付けられたとされるが、実際には逞しい植物で気に入れば庭中に広がる。5月花季が終わった後に薄緑をした閉鎖花を立ち上げ、外部からの受粉を拒否して開花しないまま結実する。熟すと莢に軽く触っただけで弾けて中の種子を飛ばし、勢力範囲を広げていく。その意味では決してつつましくは無く、寧ろ逞しい植物である。我が家の庭には移植したわけでもないのに、4種ほどの花色・葉の大きさ等の異なったスミレが群れて咲いている。
2016年04月11日

東京では3月21に、気象庁から桜(ソメイヨシノ)の開花が発表された。実際には発表より早く開花した場所や木もあるのだが、靖国神社の特定の木が標本木とされており、その木に5~6輪咲いたことを職員が確認した段階で気象庁が開花を宣言する。今年は休眠打破が起こるべき時期が暖かくて、目覚めが十分でなく蕾の成長が始まらなかったことから昨年より数日早まったのみで、予想以上に開花が早まることは無かった。桜前線と言われる桜の開花は南の暖地から北・高地へと順に咲き進むのに今年は一部で逆転現象が起きたのも、気温が高くて休眠打破が上手く進まなかったせいだと言われている。然も開花が発表されてから暫く真冬の低温と曇天が続いたため、例年開花から7日前後で満開となるのに今年は10日もかかった。その分花持ちがよく、開花後も低温傾向が続き6日まで半月も花を楽しむことができた。徒然草第137段で吉田兼好は、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。(花は満開のときのみを、月は雲のない状態のもののみを見るものであろうか。降っている雨に向かって月のことを思い、部屋にこもって春が暮れていくのを知らずにいるのもしみじみとして趣が深い。今にも咲きそうな梢、散って花がしおれてしまっている庭などこそが見どころが多い。)と書いている。兼好はさらに続けて「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色こく万(よろづ)はもて興ずれ。花の本には、ねぢより立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、万の物、よそながら見る事なし。」と書いている。教養がある人はむやみに風流を好む様子には見えないし、味わう様子もあっさりしている。田舎者で無教養な人に限って、木の下に行って酒を飲み高歌放吟し枝を折り取ったりすると断じている。兼好が言わんとしていることは判るが世捨て人と異なり、俗物にとっては枯れ木や葉ばかりの木を見るより矢張り満開の花を近くで見たいと思うのは人の常である。桜の樹の下に敷いた茣蓙の上で車座になって飲食する風習は、かなり以前から行われてきたものと考えられる。兼好がこんな状況を見たら、また嘆くことであろう。ただ日本一早く毎年1月末に桜まつりが行われる沖縄北部の桜並木では、下に茣蓙を敷いて飲食する姿は全く見られない。花が、ソメイヨシノほど華やかでないせいかも知れない。日本の花見は奈良時代から、貴族の行事として行われていたといわれる。初めは梅が対象であったが、平安時代に桜に代わった。「花」が桜を指すようになったのも、この頃からとされる。「日本後紀」に嵯峨天皇が弘仁3年(812)に「花宴の節」を催したとあり、桜の花見はこの頃から貴族の間で急速に広まり日本人の桜好きの原点となったとされる。広重の「浪花名所図会 安井天神山花見」(1834年頃)には、今の花見と同じように、踊りに興じ花見弁当や酒を広げ三味線も描かれている。江戸いろはかるたの「は」は、「花より団子」だ。東京の桜は6日の強風と降雨で、殆ど散って若葉が目立つようになった。桜の花が散る様から発生した、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」や「月に叢雲、花に風」・「花は桜木、人は武士」など様々な諺や成句がある。小野小町は桜に寄せて自らの容貌の衰えを、「花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」と嘆いている。劉廷芝は「白頭を悲しむ翁に代る」で、年々歳々花相似 歳々年々人不同 と詠んでいる。 願わくは来年も花のように、「人相同」であって欲しいものである。
2016年04月08日

8月ころ夏の炎天下で濃いオレンジの花を咲かせる、ヒオウギ(桧扇)がある。この花は漢名で射干(しゃかん)と呼ばれるが、ヒオウギの草姿に似て人家近くの森林周辺にも群生するシャガに同じ「射干」の漢字を当てる場合もある。シャガの開花期は4月から5月ころにかけてで、白っぽい紫色をしたアヤメに似た花を咲かせる。冬でも葉の枯れない常緑性の多年草で、花は短命で一日で凋むが次々と新しい花が咲く。花弁に濃い紫と黄色の模様のあるのが、特徴である。根茎は短く横に広がって、立錐の余地がないほどの群落を形成する。草丈の高さは50cm程度になり、艶のある緑色の葉が左右から出る。陰地でも良く育ち群生する所から、庭園の樹下やグランドカバーとして植栽されることが多い。ただ一日花が枯れると見苦しいので、綺麗に見せるには毎日花殻を除去しなければならず人手がかかる。中国が原産とされかなり古い時代に、日本へ伝来した帰化植物である。ヒガンバナと同じように三倍体のため結実しないため種子によって増えることはできない。日本に存在する全てのシャガはソメイヨシノやヒガンバナと同じように同一の遺伝子を持つクローン植物とされ、現在のように全国に広がるためには人の手が加わって行われたものであろうと推察できる。原産地中国には二倍体の個体があるため花色、花径などに多様な変化が見られるシャガがあるという。葉がヒオウギに似ているところから中国で射干と呼ばれるヒオウギと勘違いして、シャガに射干の文字を当てたのだとされる。射干の音読み「シャカン」が転訛して、「シャガ」の名前になったとする説が多い。シャガには「著莪」の漢字を当てるが、射干や胡蝶花などと表記されることもある。ヒオウギは民間薬として、根茎を胃腸の機能回復や去痰の目的に利用される。シャガは、民間薬としての利用もないようである。近くの団地の植え込みの周りの到る所で、シャガの花が盛んに咲きだした。一つ一つはアヤメに酷似して美しいのだが、殆どの人は群がって咲いている花に余り興味を示さず手折る人も無くこの花に対して無頓着である。余りにありふれていて、雑草位にしか思っていないのであろうか。花言葉 反抗 友人が多い「反抗」は、剣状の葉と日陰で花を咲かせることに、また「友人が多い」は根茎を伸ばして群落を形成することに由来するとされる。
2016年04月07日

路傍のカラスノエンドウが、ピンクの愛らしい花を咲かせている。この植物は路傍や堤防などで雑草化して、どこにでも自生している。熟して落ちた種から秋に発芽し、春には幼児の背丈を超えて60cm以上の草丈になる。茎の巻きひげで他のものに絡みついて伸びることもあるが、多くは直立する。早春の3月ころには豆科特有の小型の紅紫色の花を咲かせる。エンドウの莢に似た果実は熟すと黒変し、晴天の日に莢が裂けて捩れる力を動力源にして、種子を弾き飛ばして撒布する。カラスノエンドウの通り名が一般化しているが、標準和名はヤハズエンドウ(矢筈豌豆)でソラマメと近縁の越年草である。矢筈豌豆の名前の「矢筈」とは矢を射るとき矢の末端の鳥の羽が付いた弦に掛ける部分のことだが、葉の先端が窪んだ姿がこの矢筈の形に似ていることから付けられたものである。漢名では「野豌豆」の名称で呼ばれるが、酷似した植物に3種がある。最も大きい野豌豆には「烏…」、最も小さいものに「雀…」、その中間の大きさのものはカラスとスズメの間の意味で「カスマグサ」と名前が付けられた。カラスとスズメを対比して名前がつけられた植物には、他に「…ウリ」がある。カラスノエンドウの「ノ」の意味と標記を、所有格の「の」と勘違いして「カラスのエンドウ」と読んだり書いたりすることは間違いである。カラスノ・エンドウやカラスの・エンドウ、からすの・えんどうではなく、カラス・ノエンドウが正しい。一説にはこの植物の莢が熟すと黒くなることがカラスエンドウの名前の由来としているが、これでは何故カスマグサなどと言う不思議な名前がつけられた植物があるのか説明が付かない。野は栽培のエンドウと区別したもので、「の」は「野(Field)」の意味である。原産地はオリエントから地中海辺りと考えられており、古代この地方では栽培されていたのだという。そのため若芽や若い豆果は食べることが可能で、熟した豆も炒って食用にできる。しかし好事家以外はこの植物を山菜として採取するのを余り見かけないし、話題にもならない。食べたことは無いが、多分余り美味くは無いのであろう。現代では作物としての栽培利用は皆無であり、雑草とみなされている。民間療法では種子を黄疸・浮腫・マラリ・、鼻出血・月経不順・浮腫に用い、全草を胃炎に用いる。花言葉 小さな恋人達
2016年04月06日

日本全国の山里にイノシシの個体数が増え、農作物に被害を与えていることが話題になる。イノシシは、大和言葉の、「ヰ(ウィ)」と肉(シシ)が語源だとされる。非常に神経質で、警戒心の強い動物である。普段より見慣れないものなどを見かけると、それをできるだけ避けようとする習性がある。イヌと同程度に嗅覚が敏感で、神経質な動物である。基本的には自然界で、植物の根や芋・ドングリなど・タケノコ・キノコなどを餌としている。地中の芋類は嗅覚で探し、吻と牙で掘り起こして食べる。雑食で昆虫類・ミミズ・サワガニ、ヘビなどの動物も食べる。里に出て味をしめると食味が良く簡単に手に入る農作物を求めて、人家近辺の畑を荒らす。ブタと同じように本来は日中に餌を求めて徘徊するのだが、ヒトの活動域では夜間の活動が多い。イノシシが10年ほど前から山荘周辺りまで下りてきて、菜園や畑の作物を根こそぎ荒らして行くようになった。サル・シカ・ハクビシン等による被害が多いが、芋類ではイノシシによるものが多い。一晩のうちに、畑が全滅することもある。害獣の防御にはウルフピー(狼の尿)・トタンや塩ビ柵・防獣網等で囲むなどの方法があるが、完全防御ができなかったり費用がかかり過ぎるなど費用対効果の上で難点がある。イノシシの防御にそれらの方法を種々試してみて、初期投資としての資金はかなり高額になるが数年間利用可能である上に完全防御できることを考えると結局は電気柵の設置が最も有効であることが分かった。単一乾電池8個或いは車載用12Vバッテリーの他100v電源も使用できるが、小規模であれば安全性から電池使用が推奨できる。電源装置からワイヤーに1万Vmもの高電圧電流を通電させるが、電流が微弱であるため感電事故に至る心配はない。しかし100V電源を張った線に直接引き込んだ柵では、何件もの事故が起きている。2009年に淡路島で電源装置を使わないで、100V電源から直接ワイヤーに電気を流して電気柵で感電死。2015年には静岡県で自作の電柵ワイヤーが切れて川に垂れ下がり、川に入った7人が感電し男性2人が死亡している。さらに、後日責任を感じた設置者は自殺している。電気柵に触った際人体が受けるショックは、冬場車の乗り降りの際に静電気の放電で受けるショック程度である。電気柵を完全な状態に設置しても野生動物は餌を得るために集団で電気柵を破損させたり、柵の下を掘るあるいはジャンプして越えるなどの行動を取ることがある。その場所に合った高さ・間隔で、ワイヤーを張り、日常的に設備管理を行う必要がある。電源装置の出力端子の+を、電線に接続する。-端子は、地中に挿し込んだアースに接続する。電線に動物が触れて地面と繋がると、電牧器→電牧線→伝導体(動物)→地面→アース→電牧器の回路が繋がり伝導体に電流が流れる。正しく設置された適切な電気柵を適正に管理して使用すれば、動物は簡単に侵入しなくなりほぼ100%の効果を上げることが可能で、コストパフォーマンスの面で非常に優れた獣害対策である。電気柵を張っても侵入されることがあるが、張り方に問題がある場合が多い。下段の電線は25cm以下とし、線が野菜や草に触れて漏電しないようにする。アースは十分深く打ち込む等を守れば、イノシシの侵入を防止することができる。電気柵を設置する以前は芽が15cmほどに伸びた5月下旬と収穫期間近な6月末になるとイノシシが侵入して、ジャガイモが全滅した。電気柵を導入してからは、イノシシの侵入が全く無く効果抜群である。今年も神代桜の開花に併せて4月初めにジャガイモを植え、電気柵を設置した。昼間畑に出るイノシシを見かけることは皆無なので、パルス信号を送り出すのは夜間のみにセットしている。3年間の経験で恐らく今年もまたこれで完全に、イノシシを撃退・防御することが可能だと判断している。
2016年04月05日

桜の向こうに残雪の甲斐駒ケ岳4月に入ってから天気が安定せず満開となった東京の桜はかなり強い昨夜からの雨に打たれて、すでに路上に白い花弁を散り敷いている。土曜日は関東の太平洋沿岸のみ天気が悪く、比較的内陸の甲府盆地以西では薄日が射す穏やかな天気となった。南アルプス甲斐駒ケ岳の麓に位置する北杜市のソメイヨシノは、東京に比べて例年10日ほど遅れて開花するのだが今年はすでに4分ほども開いていてそれほど差がない。特にエドヒガンの多いこの地方では、標高500mを超える山の中腹まで満開となって山全体に点々と桜が咲いているのが見える。私は16年間毎年山高の神代桜を見ているが、家内が満開の桜は数回しか見たことが無いというので農作業の序に案内することにした。神代桜は農作業を始める時季の目安にも成っていて開花すると、菜園へジャガイモを植え付ける適期となる。山荘の標高は、620.96527mである。神代桜のある山高實相時は山荘から車で7分ほどの段丘にあり山荘よりかなり高いように感じるのだが、実際には標高574.90692mで57.5mも低い所にある。山荘からは一旦125mの495.7694m地点まで下がってから、坂を登るための錯覚である。山高神代桜は大正11年(1922)に国指定天然記念物の指定をされており、北杜市武川町山高の実相寺境内にあるエドヒガンザクラである。實相寺のホームページでは、樹齢2000年以上とされる。エドヒガンは桜の代表的なソメイヨシノに比較して格段に樹命が長いので、国内には有名な古木が多数存在する。1990年に新日本名木百選として指定されこの中には、同じエドヒガンの真庭郡吉念寺の醍醐桜(樹齢700年)も入っている。樹齢1500年とされる国指定天然記念物の岐阜淡墨桜もエドヒガンである。三春滝桜は樹齢1000年と言われている、ベニシダレザクラで山高の神代桜と併せて日本三大桜と称されている。巨樹・老木であるためこれらの古木には、それぞれ後世の人が作ったと思われる様々な謂れが伝わっている。日本武尊が東征の際植えたのが、この神代桜だとされ。凡そ800年前の鎌倉時代通りかかった日蓮が、すでに樹勢が衰え始めているのを見て祈ったところ蘇ったという最もらしい伝説もったわっている。實相寺の境内には三大桜の淡墨桜の子孫や臥龍桜の他、今や巨大に育った久遠寺の枝垂れ桜の子も見事に枝を広げている。50年から100年樹齢の種々の桜30本と畑には輪作で順番に10万本ともいわれるチュゥリップ・水仙がギッシリと植えられ、文字通り桜に一層の花を添えている。無残なほどに朽ちた幹は哀れだが、それでも毎年頑張って健気に花を咲かせている。これには多くの努力が払われており、再生のために1986年から20年間ほど幹の上をトタン屋根で覆っていたが屋根を取り払った。さらに樹下の南側を通っていた市道に車止めを設置して、車両通行禁止にしさらに根元の土を入れ替え根元柵をして立ち入りを禁止した。(2006年)仏教に生者必滅会者定離が、平家物語には驕れる者久しからずの言葉がある。これはヒトだけでなく、生物全般に当てはまる真理である。神代桜は2千年の時を経て、痛々しいほどの樹になってしまった。花や樹冠だけを見れば他にもっと見事な樹が沢山あるが、幹が朽ち果てようとしてもなお咲き続けるこの樹が懸命に生きている生命力とその尊さに感動するのである。
2016年04月04日

コーヒー・紅茶は世界の多くの国で普通に飲まれ、日本では緑茶が日常不可欠な飲料である。取手の付いたカップが使われるコーヒーや紅茶を出す場合、取手を相手から見て右に向けて出すのが「アメリカ式」で、左に向けて出すのを「イギリス式」と呼ぶ人もいる。欧米ではスプーンはカップの向こう側で日本は手前、スプーンの柄は右に向けて置くのが主流とされる。「天平1(729)年聖武天皇が宮廷に百僧を集め大般若経を読踊し、行茶の儀をして茶を賜う。」(奥儀抄)とあることから、中国から伝わった緑茶はこの頃には一般にも知られる飲みものになっていたものであろう。普通茶道と言えば抹茶道を言うが、煎茶にも煎茶道といわれる作法がある。寶瓶と言われる急須や湯冷まし等を用いて煎茶や玉露などの茶葉に湯を注いで飲む形式の煎茶道は、茶道とは別のものとの考え方がある。煎茶の茶葉は、一番茶と二番茶の早摘みのものを用いる。寒冷紗などの覆いを掛けて遮光した葉を使う玉露とは異なり、そのまま露天で栽培される。茶店では普通70℃の湯を注いで、30~60秒ほど浸出することを勧めている。茶葉によっても異なるので、甘みと苦み・渋みの調和がとれる温度と浸出の時間や好みで異なる。二人分で茶葉は4g以上を用い、上級茶では低い温度で普通茶はそれより10℃ほど高い温度の湯を200ml注いでから30秒置くとの意見もある。煎茶道では必ず湯冷ましを用いるが、日常では寧ろ湯呑と急須だけを用いることを推奨している。湯呑に熱湯を注いで適温に覚ました湯を、直接急須に注いで浸出して注ぐ。こうすれば湯呑が温まり、美味しいのだという。「煎茶」のはじまりは文字通り「煎じる茶」で、茶葉を煮出していた。生茶葉を蒸して培炉で乾燥させただけであったが、その後揉みの行程が入るようになると急須を用いて淹れる簡便な茶が殆どとなった。煎茶の葉の形状は細く針状をしていて、新芽の新鮮な香りを保持した一番茶が良いとされる。表・裏・江戸の所謂三千家が独占的に支配している茶道と異なり、煎茶道と称する流派には全日本煎茶道連盟に加盟する39流派のほか、非加盟の小流派も多数乱立しているといわれる。煎茶道の開祖は江戸初期に黄檗宗を開いた、隠元と伝わっている。茶道の形式化への反発に加え、形式にとらわれない「煎茶趣味」が文人の間で急速に広まった。侘びを重んじた「茶の湯」に対し煎茶愛好者は、古代中国の隠棲する賢人のような自由と精神の風流を重んじた。江戸時代の黄檗宗の僧「売茶翁」亡き後は茶を美味しく味わうための技術追求に加え、茶道の作法を参考に形式や礼法を定めた「宗匠派」と呼ばれる一派が生まれた。1960から20年間ほど煎茶道は隆盛期を迎えたが、煎茶の大衆化が進むにつれ煎茶道への関心は薄れてきて現在連盟の動きは停滞しているといわれる。煎茶道で使用される主な道具には宝瓶(泡瓶)・茶銚等の名称で呼ばれる急須。極小型のぐい飲み程の大きさしかない茶碗(茗碗)。茶托・湯冷ましその他がある。5人一組が茶室に並び亭主は急須一杯を湯呑5杯に注ぎ、盆に載せて客に振舞う。もちろん煎茶道では、茶筅は必要ない。煎茶道の道具は、1960年代に盛んに作られた。50年の間に煎茶道の衰退や嗜んでいた人が亡くなったりしたことも重なって、使われなくなった骨董的価値のある道具が市場に多く出回るようになっている。かなり以前から備前焼に魅かれ、小物を集めていた。今年になってから大壺3つ、花瓶、湯呑茶碗、ぐい飲み、煎茶道茶碗5客を衝動買いしてしまった。3月終わりに無形文化財備前焼き作陶家の作品で、友箱入り煎茶セットが売りに出された。別段煎茶道に興味があるわけではないのだが、後50年もしたら骨董価値が出るかもと欲張ったことを考えながらつい買ってしまった。備前焼を集めるために小遣いもかなり注ぎ込んだので、今年はこれで最後にしようと思いながら箱から出して並べたものを眺めている。
2016年04月01日
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