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逆鱗という、言葉がある。韓非子が出典の故事で、逆鱗は龍のあごの下にある逆さに生えた鱗だという。韓非子の故事から、「触れてはいけないもの」を意味するようになった。絶対的権力を持つ天子や帝王にも、触れてはいけない逆鱗(考えや意見)があるという。紀元前2世紀末にかけて成立したとされる韓非およびその一派の著作55編を収めた「韓非子叢書20巻55篇」に、「嬰逆鱗・逆鱗にふる」がある。この韓非子叢書は法治主義に基づく思想を説き起こしており、秦に始まる官僚国家創建の理論的支柱となったものである。夫龍之為蟲也、柔可狎而騎也。然其喉下有逆鱗径尺。若人有嬰之者、則必殺人。人主亦有逆鱗。説者能無嬰人主之逆鱗、則幾矣。(夫れ龍の蟲たるや、柔にして狎らして騎るべきなり。然れども其の喉の下に逆鱗の径尺なる有り。若し人之に嬰るる者有らば、則ち必ず人を殺す。人主も亦逆鱗有り。説く者能く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾し。)そもそも龍という生き物は、従順な正確で、飼いならして乗ることができる。しかしその喉元には逆さに生えた一尺ほどの鱗がある。もしこれに触れる者があれば、龍は必ずその人を殺してしまう。君主にもまた逆鱗がある。君主に説く者は、君主の逆鱗にふれないでいられるなら、ほぼ説くことに成功したと言える。兵範記-保元3年4月21日(後白河近臣の藤原信頼の権勢)に、「竜顔逆鱗之至」と出てくる。二十一日庚戌早旦政所舎人御厩舎人等、咋日打車輩、以邦綱朝臣、爲御使被召献内裏之處、勅答不分明、返下部等、依相公申、已及大事、邦綱朝臣并御、随身武成被召内了。龍顔逆鱗之至、其咎可及下官云々(二十一日、庚戌。早旦、政所舎人・御厩舎人等、咋日、車を打つの輩、邦綱朝臣を以て御使とし、内裏に召し献ぜらるるのところ、勅答不分明。下部等を返す。相公の申に依りて、已に大事に及ぶ。邦綱朝臣并びに御随身武成、内に召されおわんぬ。龍顔逆鱗の至、其の咎、下官に及ぶべしと云々。)二十一日、庚戌。早朝、邦綱朝臣が使者となり、下部等で咋日車を破損させた者達を、内裏に召し差し出したところ、天皇のご返答がはっきりしないままに、下部達は帰された。参議が申し上げたことより、全く大変な事態になってしまった。邦綱朝臣と御随身の武成は、内裏に召し出され、天皇のお怒りは、その処罰は、私にまで及ぶであろうと言う。出典の韓非子叢書は法治主義思想を説いたものであったのに、現在では「逆鱗にふれる」は「目上の人に逆らって、激しい怒りをかう」という意味になっている。隣国では過去4年間に100人を超える要人が、意見を言ったり苦言を呈したことで家族までもが処刑されたと伝わっている。世襲に依って最高指導者に就任しその絶対的権力を保持するための暴走の結果だとされ、この所業はフランス革命時代の恐怖政治あるいは暗黒政治そのものである。そこには、法治主義思想の欠片も見出すことができない。
2016年02月29日

「泣く」とは人が悲しみ・苦しみ・痛み・悔しさなどのために涙を流すことで、涙には声を伴うことが多い。これらの感情とは逆に、余りに嬉しくて涙を流す場合は「嬉し泣き」と使われる。まだ泣くまでにはいたっていない寸前の状態は、「泣きべそ」である。この場合の「べそ」とは不愉快で口をへの字に曲げている表情で、「へしぐち(圧し口)」の「へし」が転化して「べそ」になったと言われる。江戸以前からの東京っ子であった義父は、押さえつけたり押したりすることを「おっぺす」と言っていた。物を力任せに折ることは、「へし折る」と使う。このおっぺすの「ぺす」は、「へす(圧す)」から転じたものであろう。べそをかくの「かく」は「掻く」の意で、あまり好ましくないものを表面にだす意味で「恥を…・汗を…・鼾を…」などのように使われる。いろはがるたの「な」は、上方では「なす時の閻魔顔」・尾張では「習わぬ経は読めぬ」であり、江戸では「泣きっ面に蜂」である。「なす時の閻魔顔」は、「済す時の閻魔顔、借りる時の地蔵顔」を省略したものである。「習わぬ経は読めぬ」は、習わ無ければ経を読めと言われても読めないように、知らないことをいくらやれと言われてもできないことをいう。これが江戸いろはがるたになると真逆の、「門前の小僧習わぬ経を読む」となるのは面白い。上方落語に、「算段の平兵衛」がある。サイコロ博打で大負けする場面に、「泣きっ面に蜂」が使われている。「勝負っ」スッと開けたらサイコロが二つ重なってまんねん「これは賽塔の賽というて中盆がもらう」て、どないしても取られへん。もう終いには着るものも無いようなってしまう。そうなると歯車が悪う回りだしたんですなあ、八分までまとまってた話が崩れてしまう「こいつはわしが儲けよ」と思てたやつをトンビに油揚げさらわれる。「弱り目にたたり目」、「泣きつらに蜂」、「貧すりゃ貪する」、「藁打ちゃ手ぇ打つ」、便所行ったら先い人が入っとった」ちゅうぐらいなもんで、どないもこないもしゃあないようなってしもた。「泣きつらに蜂」は悲しみ・苦しみ・痛み・悔しさなどのために泣いている顔を、さらに蜂が刺すということから不運や不幸が重なることをいう。この場合のつらは面で、沖縄ではブタの顔の皮を「面の皮」から「チュラガー」という。類義語には、落ち目に祟り目・傷口に塩を塗る・瘤の上の腫れ物・転べば糞の上・損して恥かく・頼む木の下に雨漏る・踏んだり蹴ったり・病み足に腫れ足・弱り目に祟り目など多くがある。2月下旬になりあちこちから花の情報が寄せられるようになってから、一転寒の戻りが来た。しかしこれで平年並みの気温だと言い、如何に今年の冬が暖かであったかが分かる。暖かい春が待ち遠しいのだが、一方では10年ほど前から春先が憂鬱な季節となった。この時期天気予報では晴雨・寒暖・風の予報に加えて、杉花粉の飛散予報も流している。降雨・低温状態の日はまだいいのだが、その後に来る晴天と強風の日には抗アレルギー薬を服用しても頭痛と鼻水・流涙・クシャミなどで耐えられないほどである。花粉症に加えて寒暖の気温変動に対応できない老体の故なのか、2~3日前から風邪の症状が出て将に泣きっ面に蜂状態ではある。
2016年02月26日

ザトウクジラは個体数の減少を理由として、昭和41年(1966)に商業捕鯨が禁止された。南極周辺にはかつて10万頭ものザトウクジラが生息していたといわれるが、捕鯨によって一時3000頭まで減少したのだと言われている。平成17年(2005)の調査捕鯨検証会議では、ザトウクジラは10年~20年後には初期資源量まで回復するとの予測がされている。クジラの背側が黒色、腹側が白色であることから「くろしろ」と言っていたことがクジラの語源との説がある。そこから黒白の幕を、鯨幕というのだという。ザトウクジラは「坐頭くじら」で、和名は背ビレと背中の瘤の形が座頭が琵琶を背負った姿形に似ていることに由来すると言われる。ザトウクジラの体長は11~16m、体重は30tほどある。長く大きな胸ビレは全長の3分の1にも達し、上下の顎にはフジツボに覆われた瘤状の隆起がある。喉には幅広い畝が、12~36本ある。成獣では息継ぎしないでも、30分以上も潜水して泳ぐ事ができる。ザトウクジラは集団でまとまって移動し、北半球にも南半球にも見られる。夏は主に極の近くで捕食をして棲み、冬は温かい海域へ移動して出産・繁殖・子育てをする。シベリア海域に生息しているザトウクジラが、冬期に多くの個体が沖縄周辺海域へ回遊してくる。沖縄ではクジラを観光資源にして12月下旬~4月上旬の期間、ホエールウォッチングが行われる。どのツアーも万一クジラを見られなかった場合には、全額返金保証を掲げている。ただし一人でもクジラ或いはイルカを見たり遠くにブローを見た場合は、返金対象外とされている例が多い。クジラが息をした際に水しぶきを頭上に大きく上げる行動をブロー(シオフキ)というが、白く見えるのは潮ではなくクジラの息が白く見えているのだという。慶良間諸島の海域では10数年前まで島の高い山に見張り番を置いて、クジラの現れるのを見張って船を出していた。近年は個体数がふえたこともあり、本島周辺でも良く観察されるようになったことから本島から4時間少しのツアーに参加すればほぼ100%観察可能になった。そのため島のホエールウォッチング事業は、衰退したという。那覇の泊港から渡嘉敷島・座間味島・阿嘉島・粟国島・久米島・渡名喜島・北大東島・南大東島へのフェリーと高速船が出航している。今までも何回か高速艇やフェリーから、クジラを見ることがあった。先日渡嘉敷島にフェリーで、往復した。泊港から出航して30分ほどして、船長から「右前方にクジラが見える」との船内アナウンスがあった。多くの客が、甲板に向かうと、前方には数隻の船が集まっていた。遥か遠くに、ブローの白い煙が上がったのをたった一瞬見ることができた。沖縄周辺の海路を往き帰している人や漁業関係者にとって今では、クジラとの遭遇は珍しい事では無くなっている。
2016年02月25日

秋田の方言で名詞の語尾に「っこ」がつけられることは、多くの人が知っている。身近なものでとくに自分の所有するものに対して、「っこ」をつけ愛着の念やそのもののありがたさ・かわいらしさなどを表す。なべっこ(鍋)・わらしっこ(子供)・サトッコ(砂糖)・おずけっこ(味噌汁)・どじょうっこ(泥鰌)・ふなっこ(鮒)・つぐえっこ(机)・おぢゃっこ(お茶)・ちからっこ(腕力)などのように使われる。標準語でも、「根っこ」・「端っこ」などのように用いられる例が僅かに見られる。これが秋田では、ほとんどあらゆるものにつけられる。ただ余り大きなものに対しては、使われることはない。秋田県の郷土料理に、「だまこもち」がある。潰したご飯をビンポン玉ほどの大きさに丸めたものでだまこ、やまもちともいう。主に鍋に入れて食べられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。「だまこ」の名前は、丸い球の「だま」に秋田方言の「っこ」がついたものとされる。秋田ではきりたんぽが有名だが、だまこは八郎潟周辺の地域が発祥で山仕事の樵が弁当の飯を斧で潰したものが起源といわれ、これがきりたんぽの原型になったとする説もある。元は八郎潟のワカサギや鮒・白魚などの魚の出汁を使った鍋であったが、干拓によって手に入り難くなったこれらの材料に代わって現在の鶏肉を入れる形に変化した。鶏がらや煮干しで取った出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ・セリ・ごぼう・きのこ・長ネギなどの具を入れるのはきりたんぽ鍋とほぼ同じである。普通に炊いた粳米のご飯を潰して、直径3センチほどの球形にする。きりたんぽは棒に巻き付けて炭火などで表面を焼くが、だまこは焼かないでそのまま鍋に入れる場合が多い。家庭によっては、煮崩れを防ぐ意味で塩水に浸したり火で炙ったりする場合もある。材料 4人分米 4合スープ 鶏がら1羽分・しょうゆ・みりん具材 鶏もも肉200g・鶏・胸肉200g・ごぼう(ささがき)1本・きのこ(まいたけ・しいたけ・エノキなど)・厚揚げ・シラタキ・白菜・長ねぎ・長ネギご飯が炊けたら炊飯器から内釜を取りだし熱いうちに、磨りこぎで潰す。潰れたら団子に丸める。我が家では生のままでは団子が汁に溶けだして汁が濁るので、220℃のガスレンジで12分ほど焼いて薄い焦げ目をつける。出汁に適量の醤油で味付けをし、セリと長ネギ以外の具材を一緒に入れて火にかける。鍋が煮立ったらだまこと残りの長ネギ・セリを入れて、再度煮立ったら出来上がりである。秋田県とは全く縁もゆかりも無いが、30年も前尺八の秋田県出身の仲間の家で本場だまこ鍋を囲んでから見よう見まねで我が家でも時々作るようになった。寒い夜にふつふつと煮えるだまこ鍋を囲むと心も体も温まり、この料理は家庭団欒にも一役かっている。
2016年02月24日

沖縄那覇で有名な祭りに、ハーリー(伝統漁船のサバニのレース)・ジュリ馬(遊女に扮して、馬の頭の飾りものをつけ「ユイユイ」と声をあげて道路を練り歩く。)と大綱挽がある。那覇大綱挽の発祥は1450年頃といわれ琉球王朝の祝い事や、中国からの冊封使(さっぽうし)を歓待するために王朝挙げて行われた催しであったとされている。那覇大綱挽については1713年の「琉球国由来記」にも記述があり、沖縄最大の伝統行事でとされる。古文書に「綱挽の儀は、国家平穏、海上安全の祈祷として挽き来たれ」とある。沖縄の稲作文化を基礎に、中国と日本の文化が融合して独特の大綱挽へと発展したものといわれる。西東に分かれて挽きあう綱は陰と陽の結合を意味し、女綱(みーんな)と男綱(ぅーんな)を頭貫(かぬち)棒で結合させ人類繁栄を願う行事である。昭和10年(1935)から途絶えていたものを本土復帰の前年の1971年に、市制50周年記念事業として復活させ現在に至っている。1995年「世界一の藁綱」とギネスで認定されたこともあり、世界一の綱挽として定着している。毎年28万人もの見物客が訪れるといわれ、体育の日の3連休の中日(日曜日)に那覇市の国際通りで行われている。観光客も綱挽に参加でき、綱挽が終わると挽き綱の藁縄の端を縁起物として貰うことができる。巨大な綱の両端は頭貫(かぬち)といい輪の状態になっており、雌綱の輪に雄綱の輪をくぐらせ頭貫棒(かぬちぼう)を通して結合する。この一連の作業を「かぬちちじ」といい、大綱挽の中でも重要な場面で大いに盛り上がる。綱挽は16時30分に鉦子(しょうぐ)の合図で始まり、30分間東西で綱を引き合い勝敗を争う。巨大な本綱には、280の手綱が付いており、誰でも参加できる。綱挽で使われる「那覇大綱」を再現した常設展示場が、希望ヶ丘公園に完成し2014年4月8日にお披露目された。ここに展示されている綱は常設用に新しく作られたもので、雄綱・雌綱合わせて長さ14m重さは約7tだという。実際の綱挽きでは近寄れないため綱の頭のかぬちを間近に見ることは殆ど不可能だが、一部であってもその巨大さに圧倒される。希望ヶ丘公園は、国際通り「てんぷす那覇」のエスカレーターから2階を抜けたところにある。多くの観光客は喧騒の国際通りと牧志第一公設市場を見て通り過ぎ、ひっそりとした希望ヶ丘公園まで足を運ぶ人は殆ど見かけない。案内してくれた浦添市に棲むМ氏も、この展示施設を始めて知ったという。以前大卒同期会で那覇を訪れた日に、丁度かぬちちじが始まった時間で付近の道路が大渋滞しており会の開会が遅れたことがあった。同行した家内は綱挽きに参加して、綱に触り挽き綱の切れ端の一部を貰って来て暫く飾られていたがいつの間にか無くなった。
2016年02月23日

晩春葉茎の付け根に着いた芽が、葉が伸び出すより前に花茎を伸ばす。これが蕗の薹である。蕗の薹はふきの花の蕾で、花が咲いた後に地下茎から葉が伸びるがこれが蕗である。延喜年間(901~923年)に編纂された日本現存最古の薬物辞典(本草和名)や平安時代に編纂された漢和辞典の新選字鏡に食用とした布々岐(フフキ)の名前があり、平安中期に編纂された延喜式(927)にはフキの栽培に関する事項が出ている。葉柄や葉は漬け物などにし、花雷は薬用として利用したとされる。平安時代にはフフキ、室町時代以降にはフキと呼ばれるようになったものと思われる。苦味は毒性のあるものに多く、動物は避ける傾向にある。人でも幼い子供は苦味のある食品は、避ける傾向にある。しかし大人になるとビール・茶・コーヒー・サンマの内臓・ニガウリなどの適度な苦味は、好んで飲食される。蕗の薹はてんぷらや和え物にして、芳香と苦味で早春を味わう。フキの古名はフフキであるが、その語源由来説には様々ありハッキリしない。冬に黄色い花が咲かせることから冬黄(フユキ)、用便の後紙の代用として使用したので「拭き」から、葉広茎(ハヒログキ)・広葉茎(ヒロハグキ)・葉大草(ハオフキ)、葉吹き(ハフキ)・風吹き(フフキ)など様々な説がある。我が家の庭に40年も前信州の実家からと都内の家内の実家から移植した二種類の蕗が、今では狭い庭を占拠するまでに広がっている。例年晩秋に葉が枯れた場所に小指の先ほどの芽が着き、2月終わりから3月初め頃蕗の薹が花を開く。苞が少し開いて花の頭が見える頃が、蕗の薹の採取時季である。今年は例年より10日も早く、庭のあちこちに蕗の薹が頭をもたげて来た。ナイフで地際から切り取ったものは、このところの降雨で苞の中にかなりの泥が入っている。何回かに分けて十分な流水で洗い流し、ゴミと泥を落として綺麗にする。鍋にタップリの水と洗った蕗の薹を入れ、そのまま火にかけ沸騰してからさらに3~4分煮て火を止める。冷めたら流水に取り苦味を残す場合は素早く水から上げるが、苦味が苦手の場合はさらに水に晒す。笊に上げ手で堅く握って十分水を切ったら、微塵に刻む。刻んだら鍋に入れ、削り鰹節パックを蕗の薹の量に依り3~4パック・味醂・日本酒・醤油を同量加えて中火で煮詰める。この方法は家内の母から50年も前に教えられたもので、家内の兄妹は6人いるが、義母のレシピを引き継ぐのは私だけである。醤油は最初分量の2/3だけを入れ、途中で味を見ながら好みの味に成るよう残りを加える様にする。この時蕎麦つゆを少量加えて味を調えると、柔らかな味に仕上がる。水気が無くなったら火を止め蓋付きのタッパーか瓶に入れ冷蔵庫に入れておけば、2週間以上保存可能である。今回は照りを出すため、味醂に加えて少量の蜂蜜を使った。昨日作ったものを今朝の食卓に乗せたが、今年もまた素晴らしい蕗の薹の佃煮ができ上がった。庭の蕗に感謝して、一足早い春を口から味わった所である。
2016年02月22日

肉とレバーの刺身川淵深ケレバ而チ之ニ帰シ、山林茂レバ而チ禽獣之ニ帰シ、刑政平ラカナレバ而チ百姓之ニ帰シ、礼義備ハレバ而チ君子之ニ帰ス。(川底が深いとそこに魚や鼈が集まり、山林が茂るとそこに鳥や獣が集まるように、刑罰が正しいと、そこに、民衆たちが集まり始め、礼儀が備われば、そこに、君子たちが集まり始める。)ここでは水中に棲むものの代表として、魚と鼈(スッポン)が挙げられている。古くはドロガメと呼ばれていたものが、江戸時代以降になってスッポンの名前に代わったと言われる。スッポンという名については、江戸川柳に「スッポンの名は飛び込んだ時に付け」とあるように水に飛び込むときに出る音からとする説のほか、ポルトガル語で男性器を「スボ」と言い頭の形がそれに似ているからとする説。水辺の何処にも出没するところから、「シュツボツ」とする説。「スホンスホン」と聞こえる、鳴き声由来とする説など様々である。1877年に編纂された博物図教授法(安倍為任)に、「鼈は諸国の池沼に産すれども九州殊に多し其甲甚薄く其肉甚美味なり人好て之を食ふ」とある。自然界では、本州以南に生息している。もともと本州・四国・九州に在来していたが、沖縄など南西諸島に生息する種は、海外から人為的に持ちこまれたとされる。「雷が鳴っても離さない」と言われるように何にでも咬み付き噛む力は強いが、咬み付かれたらそのまま水に漬けると放して逃げる。クサガメなどと異なり水中だけでなく、陸上でも動きは非常に素早い。食性は雑食で魚類・両生類・甲殻類・貝類、稀に水草等を食べる。1回に、10-50個の卵を産む。鳥類の卵と異なり、黄身だけの円球状である。無理問答に「…果物(なりもの)でもないのに金柑というがごとし」とあり、その色形から隠語で「金柑(キンカン)」といっていたことがわかる。各地の縄文・弥生時代の貝塚からスッポンの骨格が出土しており、古くから食されていたことが判明している。スッポンスープや雑炊・吸い物は、高級料理とされ、甲羅・爪・膀胱以外はすべて食べることができる。スッポンの活血は、日本酒やワイン・リキュール等のアルコールで割って提供される。ショットグラス一杯が出されたが、アルコールでマスキングされてスッポンと識別できる特段の味も臭いも感じなかった。昔から滋養強壮の食材とされおり、その肉は水っぽく蛋白質、脂質は少ないためカロリーは低いが必須アミノ酸・コラーゲンやリノール酸・カルシウム・鉄・V.A・V.B1が多いという。個体によっては、かなり強いスッポン臭がある。このスッポンの臭いは、餌に由来すると言われる。スッポンを原料にした食品が、精力増強・滋養強壮効果の効能効果をうたって販売されている。これら精力剤や栄養ドリンク・健康食品の原材料には、甲羅を乾燥させた「土鼈甲(どべっこう)」を粉末にしたものが使われている。スッポンが、人に寄生虫を媒介するとの観察・研究事例は無い。ただ一頃輸入ミドリカメから高率でサルモネラ菌が分離され食中毒を発症した事例もあるように、スッポンもサルモネラ菌を保菌していることは想像に難くない。2013年に和歌山でスッポンの活き血・スッポン鍋を原因食とする、4人のサルモネラ食中毒の発症事例がある。名護市港1丁目13-5に、うなぎ・握り寿司・すっぽん料理の店がある。ホテル名護キャッスルの近くで、対面にはココストアーがある。旧正月3日に学友М氏の接待で、スッポンのフルコースとウナギのかば焼き・白焼きをご馳走になった。スッポンは以前に何回か生き血と鍋を経験したことがあるが、生血・生き胆・肉とレバーの刺身・生の卵・鍋・雑炊までのフルコースは始めてであった。折角のМ氏の心使いであったのだが卵は真円で濃い黄色が美しいのに加熱でぼそぼそに成り、スープやその後の雑炊以外には値段程の価値があるようには感じなかった。スッポン料理には味とは別に、体に効くという精力増強・滋養強壮の神話分が価格に上乗せされているのだろうと感じた。
2016年02月19日

学友М氏の別邸が、今帰仁村乙羽岳の中腹にある。約1万2千坪のヤンバルの原生林に手を入れ、10数年かけて大金をかけて道路・水道を敷設し、石と樹木を設えた広大な庭園を造ったのだが未だ完成していないという。この広大な敷地に建つ別邸のリビングからは眼下に、今帰仁村の中心部と古宇利島が浮かぶ東シナ海を一望できる。古宇利島にはアダムとイブの伝説があって、古くは恋島(クイジマ)と呼ばれこれが古宇利島になったと伝わる。「その昔、島に空から裸の男女二人の子供が降ってきた。彼らは天から落ちる餅を食べて幸福に暮らしていたが、ある日餅が降らなくなったら困ると考え、毎日少しずつ貯えるようにした。そうすると、二度と餅は落ちてこなくなった。二人は浜に下りて、魚や貝を捕って労働によって糧を得て生活するようになった。ジュゴンの交尾を見て、男女の違いを意識し恥部を枇榔の葉で隠すようになった。この二人の子孫が、琉球人の祖となった。」古宇利島は沖縄本島からは1.5km離れており、島への交通は今帰仁村運天港から約15分で一日数便の船しかなかった。そのため架橋要望が強く、平成8年(1996)県道として建設費120億円で建設することになった。難工事でもあり計画より3年遅れて平成17年(2005)2月に総工費270億円(9割は国からの補助)で完成し、全長1.96kmの古宇利大橋の供用が開始された。完成当時沖縄県の離島架橋で無料通行できる橋としては最長であったが、2015年開通した3540mの伊良部大橋にトップの座を明け渡して現在は2番である。古宇利島の人口は平成24年現在367人で、現在古宇利島への路線バスはない。古宇利大橋の架橋については、現在も一部になお根強い費用対効果論が燻っている。2月11日にМ氏の案内で2回目の古宇利島訪問をしたが、1.96kmの直線橋上には自分が乗った車以外には走る車がなかった。古宇利島の島民のうち7割は農業に2割が漁業で1割がサービス業への従事と言う。2013年11月に、古宇利オーシャンタワーがオープンしたことによりサービス業への従事者の割合が増えるかも知れない。古宇利オーシャンタワーには、世界の貝が1万点以上展示されている。自動運転カートと貝の展示が名桜大学近くにあるナゴパイナップルパークと酷似した内容となっているのは、どちらも同じ会社が経営していることによるものであろう。タワーの展望台は標高82mにあって、島周辺に広がるエメラルドグリーンの美しい海や古宇利大橋が一望できる。古宇利島大橋の先には今帰仁村、大宜味村や国頭村まで遠望できる。入園発券場から展望台入り口まではカートで7分間だが、カートがオーシャンタワー入り口まで案内する。入園料800円は、内容から見て決して安くは無い。開園後2年以上経過しているが、園は未だ整備途中で駐車場も拡張中である。景色と貝の展示だけでは、今以上の集客は難しいのではと考えさせられた。現在多くの観光客は、美ら海水族館でUターンしてしまう。古宇利島まで足を伸ばさせるには、橋と海・オーシャンタワーの他に足を運びたいと思わせる魅力がもう少し欲しい。大金を投じて作った大橋活用のためにも、あと一工夫欲しい所だ。
2016年02月18日

わが国では明治6年1月1日に出された「改暦ノ布告」により新暦に代わったことにより、正月行事も新歴で行われることになった。沖縄では方言で正月を、ソーグァチという。現在の沖縄では新正月が主流となっているが、昭和47年(1972)本土復帰前までは大陸と同じ旧正月であつた。日本の正月は大陸と同じ旧暦で行われていたが明治6年1月1日に出された「改暦ノ布告」により、正月行事も代わった新歴で行われることになった。沖縄では本土復帰の前に琉球政府が「新歴への正月一本化」を推奨したことが契機となって、沖縄のほとんどの地域は新暦で行われるようになった。しかし名護や糸満など漁業の盛んな地域や南西諸島には旧暦の行事が多く残っており、正月も旧暦で行われる。なかには旧と新のどちらも、祝う家庭が一部に見られる。旧暦では、今年の1月1日は2月8日である。旧暦1月1日から数日間が旧正月(ソーグヮチ)で、3日は初起こし(ハチウクシ)と言われる仕事初めの日である。4日は、火の神迎え(ヒヌカンウンケー)を行う。7日は七日節句(ナンカヌシク)で七草粥を作るのは新暦と同じだが、セリ・ナズナ・オギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの七草ではなく沖縄では高菜・ダイコン葉・蓬(フーチーバー)などの野草を入れる。那覇の国際通りや牧志公設市場は、沖縄観光名所となっていて年中肩が触れ合うほどの賑わいを見せている。沖縄の珍しい食材が安く購入でき、食堂で家庭料理が安く味わえるなどガイドブックやマスコミ等に頻繁に取り上げられるようになったため、沖縄を訪れた人は必ずこの地を訪れるほどである。本土では正月は殆どの地域がグレゴリオ暦の1月1日からだから、2月の正月など頭の隅にも残っていなかった。2月9日から学友を訪ねる事になり、昨年のうちに那覇市内のホテル予約のために空室を調べたのだが、定宿ホテルだけでなくネットで検索した全てのホテルに空室が無かった。仕方なく社団法人の会員施設を何とか予約したのだが、何故この期間に何処のホテルも満室なのか理解できなかった。9日に長男からリクエストのあった「島ラッキョウ」等を買うため、牧志公設市場を訪れて合点がいった。市場の各店舗は戸締りされていて、「正月のため営業を休みます」の張り紙があったのだ。周囲の何店舗かは開いていたが、いつも肩が触れ合うほど混雑するのに人通りも殆ど無く閑散としていた。ホテルの満室も、「ソーグヮチ」が原因であったのではと思った。那覇は東京より1時間も日暮れが遅いのだが、流石に7時を過ぎると真っ暗になる。その頃国際通り近くの松山公園辺りで、少し低めの日本のものとは異なる小さめの花火が20分以上にわたって連続して打ち上げられた。学友に訊くと那覇市内には中国・香港・台灣・韓国などの出身者も多く、新年を祝っての花火であろうとのことであった。
2016年02月17日

加熱殺菌畑泥棒と言う言葉がある。主に育てている花や木、野菜などの農作物を盗むことで、刑法では窃盗と言われる。これを行う者は、盗賊・どろぼう・ぬすっとである。枕草子二百四十五でひどく恐ろしいものとして、盗人が挙げられている。せめておそろしきもの。夜なる神。ちかき隣に盗人のいりたる。わがすむ所にきたるは、ものもおぼえねば、なにとも知らず。ちかき火、またおそろし。(ひどく恐ろしいもの 夜鳴る雷。近所に盗人が入ったこと。私が住む所にやって来た時は、無我夢中だったので、何もわからない。近所の火事も、同様に恐ろしい。)また徒然草141段では盗人を引き合いに出して、「衣食足りて礼節を知る」について説いている。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人を縛め、僻事をのみ罰せんよりは、世の人の餓ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒の産なき時は、恒の心なし。人、窮まりて盗みす。世治らずして、凍餒の苦しみあらば、科の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。(その人の気持ちになって考えてみれば、本当に愛して思いやっている親や妻子のためならば、恥を忘れて盗みでさえも働くだろう。であれば、盗人を縛り上げて間違いだけを厳しく罰するよりは、為政者は世の中の人が飢えないように、寒くないようにする政治を心がけて欲しいものである。人間は安定した生活がないと、安定した正しい気持ちを持つことができない。人間は困って追い詰められたから盗みを働いてしまうのだ。世の中が治まらずに、飢えや寒さの苦しみが蔓延しているならば、家族のために罪を犯す者は絶えないだろう。人を苦しめて、法律を犯さざるを得ない状況にして、犯罪者を罰するというのは、可哀想な仕打ちである)更級日記初瀬詣では、盗賊の恐ろしさが書かれている。「高名の栗駒山にはあらずや。日も暮がたになりぬめり。ぬしたち調度とりおはさうぜよや」と言ふを、いとものおそろしう聞く(ここは盗賊が出ると名高い栗駒山ではないですか。日も暮方になっています。皆さん、武具や手回り品を手放さないようにというのを大変怖いことだと聞いている)育てている花や果樹・野菜などを盗む窃盗は、兼好法師が何と言おうと許せない。収穫時期になると、イチゴ・モモ・ブドウ・リンゴ・ナシ・スイカ・トウモロコシなどが狙われる。これらの作物の栽培を生業としている人にとっては、死活問題でもある。我が家の庭には富有柿・柚子・山椒が植えられていて、柿は生食・柚子と山椒の葉はハーブとして利用している。柿は高い枝に実を着けるので簡単には盗ることはできないのだが、山椒と柚子は1.5mほどの大人の背丈があれば塀の外から庭に手を入れて簡単に取ることが可能である。木の芽が葉を広げる頃になるとシルバーエイジの女性連が、通りがかりに集団で芽を摘んでいく。柚子は手を庭の中まで伸ばして、毟り取って行く。自転車で乗りつけその前籠に、かなりの数の柚子を摘み取っていた年寄りを見付けて注意したことがある。曰く「沢山なっているから貰っている」と平然と言われたが、許可なく黙って取っていけば立派な窃盗である。一声かければ気持ちよく分けて上げられるのに、暫くは気分の悪い思いをした。今年も、柚子湯や料理では使いきれないものが木に沢山残った。そのままにして置くとヒヨドリと盗人の標的にされるので、全て収穫して柚子果汁を作ることにした。家内を助手にして全ての柚子を摘み取ったが、かなりの量になった。人力で絞ったジュースの量は、4000mlにもなった。ただ柚子酢のPHは2.5~4.5とかなり酸っぱくて、そのままでは飲用できない。適量の砂糖を加え寒い日にはお湯で、暖かい日にはオンザロックで飲んで重宝している。取る物が無ければ盗る人も無く、気分の悪い思いをすることも無い。これで、来年まで心安らかな日が続く。
2016年02月16日

ひんぷんガジュマル 三府龍脈碑 公園のガジュマル沖縄には、様々な仕組みの魔除けがある。石敢當(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)・獅子(しーさー)・屏風(ひんぷん)などがその例である。ひんぷんとは門と家屋の間に設けられ、目隠しや風を母屋に導くため石積み・板・生垣などで造られた壁のことで、さらには悪霊が家の中へ入るのも防ぐのだという。 ひんぷんの名前がついたガジュマルの巨樹が、名護市にあるガジュマルはクワ科の常緑高木で屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林や緑陰樹として広く植裁されている。幹はよく分岐し枝葉は四方に繁茂し、気根が地上に着くとやがて幹となる。樹冠の広がりが、美しい。近くに木があると他樹を支えとして成長し、やがてガジュマルの成長が進むと支えの樹を枯死させてしまう。各地に大樹のガジュマルの木があるが中でもひんぷんガジュマルは樹齢 300年ともいわれ、、樹高は19m・胸高の幹周は10m・樹冠の広がりは直径30mもあり最も大きな木とされている。名護市のシンボルとされ、街へ悪霊が入らないようにひんぷんとしての役割も担っていると信じられている。幸地川に架かる「あなだ橋」の袂にあり、名護大通り(県道84号)の真ん中にあって道を左右に二分している。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温が、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため「三府龍脈碑」を建てた。この石碑がひんぷんのように見えることから、ヒンプンシー(屏風石)と名付けられた。三府龍脈碑は戦火で破壊されたが1962年に托本から石碑が復元され、ガジュマルの樹下に設置された。ヒンプンシー(屏風石)のあるガジュマルであるところから、ひんぷんガジュマルの名前で呼ばれるようになりいつしかガジュマルに町のひんぷんとしての役割を持たせるようになったものである。平成9年(1997)国の天然記念物に指定された。ガジュマルはクワ科の常緑高木で屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林や緑陰樹として広く植裁されている。幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂し、気根が地上に着くと根を張って空中の根は幹となる。始め他の樹木を支えにして成長するが、やがて支えの木を絞め殺して独立した木となる。ひんぷんがじゅまるはリュウキュウマツの大木を支えに成長し、1695年頃にはすでに有名なガジュマルとなっていた。やがて支えのマツは枯死し、ガジュマルのみが成長をし続けていったという。2002年の台風16号により幹が傾き倒木の危険性が指摘され、枝の剪定・支柱の追加、施肥などの対策が行われた。しかし木の勢いは戻らなかったことから2010年に再度大規模な枝の剪定を行い約一トンの枝が切り落とされた。ひんぷんガジュマルの遺伝子を残すため、剪定枝を挿し木して育てているという。素人目に見た限りひんぷんガジュマルは、生き生きと成長を続けているように見える。ひんぷんガジュマルから30mほど離れた幸地川下流がガジュマル公園となっていて、棕櫚を抱き込んだ一繋がりに見えるガジュマルの大樹がある。無数に垂れる気根が見事で、「キジムナー(妖精)が住む所だから悪戯しないで」の張り紙があったが幼女がガジュマルの気根でターザンごっこをしていた。あなだ橋の上から幸地川を眺めると、初夏の陽光を受けた水面がきらきら輝く水深50cmほどの流れにボラの幼魚が群れていた。
2016年02月15日
鎌倉時代以前にネギは葱と書いて、「き」と読まれていた。ネギは独特の臭いがあるところから、臭気を意味する「き」が語源になったものという。根を食用にすることからねき(根葱)の意味で、室町時代以降になってネギと呼ばれるようになった。ネギには冬葱・比止毛之・祢木などの表記がある。比止毛之はひともじで、女房言葉の呼称がそのまま残ったものである。室町時代初期に宮中に仕える女官たちの間で、上品な言葉遣いだとされて使われ始めた表現が女房言葉である。女房言葉の代表は「お」がつく言葉で、その多くは女官たちの隠語が発祥である。女房詞には「お」の付く単語の他に、「~文字」型と言われるものがある。かもじは髪の毛を、寿司はすもじなどという。「しゃもじ」や「ひもじい」なども、同じである。「ひともじ」の名前の由来は、葱(き)の一文字であったことによるとの説が有力である。紀元前から中国で栽培されていたとされ、体をあたため疲労を回復する薬用植物として利用されたという。特有の臭いの素は硫化アリルで、ビタミンB1の吸収を高める働きがあるとされる。関東で好まれて栽培されて来た白ネギ(根深ネギ)と関西の青ネギが主流だが、現在ではどちらのネギも全国で食べられるようになった。ネギは一年を通して流通しているが、柔らかく甘くなって美味しくなるのは晩秋から春先にかけてでその時期が旬である。家庭菜園での栽培では、晩秋にならないと食べても堅くて美味く無い。ネギには基本的に葉色が濃いが低温に弱く分けつが少ない黒柄系と、葉色は薄く低温に強く分けつが多い合柄系およびその両方の中間のものがある。現在は従来の野菜に加えて様々な技術によって、新しい野菜が作出されている。ネギも例外では無く、夏にも収穫可能な黒柄系F1ネギの種子が販売された。夏に収穫可能であれば、暑い時期に多く食べる麺類の薬味としても重用できる。ただ種の播種時季が1月から2月と最も厳寒期になっていて、発芽適温は18~22℃となっている。冷涼地では畑が凍土になっていて、とても播種できる状態ではない。たとえ路地播きが可能だったとしても、適温を保つことは到底不可能である。試みに1/3量の種子をプランターに播種して、ビニールで加温することにした。もし低温のため発芽しなかった場合には、残った種子を桜が咲く頃畑に播種し何としても夏採りに挑戦したいと考えている。
2016年02月08日

朝日新聞5日朝刊伯・仲・叔・季とは兄弟姉妹の順序を表す言葉で、伯は長子、仲は次子、叔は三子、季は末子のことを言った。おじには伯父(伯母と)叔父(叔母)の漢字が使い分けられるが、通常は両親より年長の兄か姉の夫または妻を伯父(母)と表し、年下は叔父(母)である。儒教により長幼の序列に厳しかった中国では、兄弟姉妹の順序を表すのに区別して「伯・仲・叔・季」が使われた。日本では生まれた順に男や郎の前に「一・二・三・末・とめ」などと冠するのと同じで、名前の前に「伯・仲・叔・季」が使われたこれらの文字を見れば何番目に生まれたのかが凡そ判断できる。父・母の兄や姉を「伯父」・「伯母」、父母の弟や妹を「叔父」・「叔母」の使い方もそれにならっている。漢文や日本史の史料等に「季父」とあれば、「父母の末の弟」を意味している。魏は220年~265年)は45年間しか続かなかったが、三国志で日本にも良く知られた王朝である。魏の初代文帝(曹丕)の著書「典論」に、「伯仲の間」の言葉が使われている。「文人相軽、自古而然。傅毅之於班固、伯仲之間耳。」(文人がたがいに相手を軽んじることは、古からあることです。(後漢の章帝のときに宮廷に仕えていた)傳毅と班固においては、(その才に)優劣はありませんでした。」典論の伯仲は互いに似ていて両者の能力にあまり差のないことの意味で、匹敵・拮抗・互角などの意味で使われている。つまり長子と次子とでは歳も近いことから、力や知識・能力に差が無いところから伯仲という言葉が生まれたものである。今年は11月8日に、アメリカの大統領の本選挙が行われる。各州で実施される党員集会・予備選挙で民主・共和両党がそれぞれの代議員を選び、夏の政党全国党大会で党の大統領候補を正式に決定する。本選挙に向けて民主・共和両党の候補を決める予備選が、2月1日のアイオワ州党員集会で幕を開けた。続いてニューハンプシャー州では、9日に予備選挙が始まる。州や党によって異なるが党員集会は基本的に話し合いで、予備選挙は投票によって勝者を決める。2月1日アイオワ州では、1774の選挙区で党員集会が開かれた。わが国の公職選挙法では、得票数が同じときは当選者を「くじで定める」とされている。オハイオ州の民主党党員集会では6会場で「同票」だった結果、コインによって勝者が決められた。集計は終始クリントンが先行していたが、集計が進むに連れて差が縮まって拮抗し、どちらが勝利するかサッカーの後半終盤をテレビ観戦しているような気分であった。集計率99%の段階でまさに得票は伯仲しクリントン49.9%、サンダース49.6%と大接戦と報道された。この結果を受けたクリントン側は残り1%で逆転されることはあり得ないとの情勢分析から勝利宣言を出し、間もなくサンダースサイドは敗北を認め先ずはクリントンの一勝となった。不謹慎ながらこれから11月の本選まで、様々なハプニングが起こるであろうことを考えると目が離せない。
2016年02月05日
昭和初めに作られた童謡に、「まめまき」という作者不明の歌がある。♪「おにはそとふくはうち、ぱらっぱらっぱらっぱらっまめのおと」までは一番・二番の歌詞とも同じで、その後に一番では「おにはこっそりにげていく」、二番は「はやくおはいりふくのかみ」である。現在節分と言い慣わされているのは、豆まきの行事と関連付けられた立春の前日を意味し暦にもこの日だけ節分として載っている。本来は立春の他に、季節の分かれ目とされる立夏・立秋・立冬の前日も節分である。春を迎えるということは新年を迎えるのと同じように大切な節目だったことから、立春の前日だけが節分として残ったものである。豆まきは室町時代になって追儺に桃の枝で行われていた鬼やらいの儀式が、炒った豆で鬼を追い払う行事へと変化したものである。追儺儀式は中国を起源としており、論語「郷党篇」には追儺儀式についての記述が見える。これが平安初期に日本に伝わると、旧暦の大晦日に行われていた宮中の追儺と結びついて鬼払いの儀式に変化し定着した。徒然草第一九段に、「追儺より四方拝に続くこそ面白けれ。…」とある。季節の変わり目には、邪気が入りやすいと考えられていた。そこで新年を迎える前に邪気を払って福を呼び込むため、宮中行事として追儺が行われるようになったとされる。豆まきの行事は、追儺の豆うちを起原としている。瑞渓周鳳の1446年から73年にかけて書かれた日記「臥雲日件録」には、豆をまくとき「鬼外福内」を唱えたとの記載が見える。災害・病・飢饉など人知を超えた恐ろしい出来事は鬼の仕業と考えられており、目に見えない邪気は陰(おん)、また隠れていて怖いものは「隠人(おんにん)」でこれらが変化して鬼の概念が生まれたとする説もある。鬼が牛の角と虎の牙を持ち虎の皮の褌をしているのは、鬼門の丑寅(牛虎)の方角に住んでいることに由来するという。大豆は五穀の一つで穀霊が宿るとされ米と共に神事に用いられてきたこともあって、鬼を追い払うのに米より大きな大豆が使われるようになった。またまめの語呂が魔の目に豆をぶつけて、魔を滅(豆)するにも通じている。豆と鬼の話としては鞍馬山に鬼が出たとき、毘沙門天のお告げで大豆を鬼の目に投げつけて退治したという話が伝わっている。オニは強い臭いと鋭く尖ったものを嫌うと言われているので、鬼が忌避する臭う「鰯の頭」と尖っている「柊の葉」を家の戸口に置いて鬼の侵入を防ぐ風習が江戸時代に生れた。この習わしが由来となって、「鰯の頭も信心から」という言葉ができたとされる。戸建なら兎も角、マンション・アパートなど集合住宅では鰯の頭と柊の枝で作った焼嗅を取り付ける場所がないので、この風習も殆ど無くなった。ただこの日を当てこんで、スーパーでは食用の鰯が多く売られる。何年か後には、鰯を食べて体の中に棲むオニを追い出す儀式に変化して行くのかも知れない。代々江戸っ子の家内の実家では、オニは外から始めてそれぞれ2回ずつ唱えたといい、信州伊那谷の自分の実家では一回ずつ唱えながら豆をまいていた。各地の寺で有名人や芸能人による豆まきが行われてニュースになるが、川崎市の千蔵寺では「福は外鬼は内」と唱え、ご本尊の不動明王の前では鬼も改心するからと成田山新勝寺では「福は内」だけだという。鬼頭・鬼沢・九鬼など鬼がつく苗字は、ざっと数えて90以上もある。これらの家では、「鬼は外」と唱えない場合が多いと言われる。子供を育てる時代には細々と豆まきを続けて来たが、それぞれ独立した後は豆まきをしなくなって久しい。今から40年も前には節分の夜7時を過ぎるとあちこちから豆まきの声が聞こえ、翌日は道路に踏まれて潰れた豆の残骸を見ることがあったが、現在では道路に豆が散っているのを見ることはなくなった。恐らく家庭で節分に豆をまく風習は、餅搗きと同じように平成の時代で消えて無くなってしまうのかも知れない。
2016年02月04日

四書五経の四書は儒教の経書のうち「大学・中庸・論語・孟子の4書物の総称」で、四子・四子書とも言われ五経への入門の書物とされる。四書の一つ「大学」に、良く知られた「小人閒居為不善」と言う言葉が出てくる。現在わが国では多くが、閑の文字を用いて閑居と読ませている。原文では所謂誠其意者、毋自欺也。如悪悪臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必慎其独也。小人閒居為不善、無所不至。見君子而后厭然、揜其不善、而著其善。人之視己、如見其肺肝然。則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必慎其独也。とあり、閑では無く閒が使われている。閒は門と月からなり、門の間から月の光が差し込んで間(あいだ)という意味を表したものだという。間は※かんの異体字で、同じ意味・発音である。本文中の「小人」はその前の「君子」との対義語で、何の取り柄も無い凡人のことである。小人閒居為不善の意味を「凡人は暇があるとよくないことをするので、暇が無い方がよい。」と曲解している人が多い。小人閒居為不善の「閒居」は仕事のない暇な時間ではなく、独り静かにいるという意味である。小人閒居して不善を為す、という言葉の閒居が「一人でいるとき」という意味になるのは、その前に故君子必慎其独也(君子は一人でいるときでも、必ずその身を慎むのである。)とあり、その後の小人閒居為不善と対句になっているからである。そこから小人閒居為不善は「凡人は一人でいると(他人の見ていないところや他人に知られずにすむ場合)、善からぬ悪さをするものだ」の意味と理解するのが正しい。ところで建歴2年(1212)の晦日に鴨長明が書きあげたという方丈記の五に、「日野山の閑居」、六に「閑居の気味」と閑居と言う言葉が出てくる。閑居の気味には、「夫、三界は只心ひとつなり。心若やすからずは、象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣も望みなし。今、さびしきすまひ、一間のいほり、みづからこれを愛す。おのづから、都に出でて、身の乞となれる事を恥づといへども、帰りてこゝに居る時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。若、人このいへる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、其心を知らず。閑居の気味も又かくの如し。住まずして、誰かさとらむ。(もし人が私の言っていることを疑うなら、魚と鳥とのありさまを見るがいい。魚は水に飽きない。魚でなければその心を知らない。鳥は林にいることを願う。鳥でなければその心を知らない。俗世間を離れた閑静な住居も、また同じである。住んでもみないで、誰が悟れようか。)方丈記の閑居は、「俗世間を離れた閑静な住居。」の意で用いている。「小人閒居して……。」の本来の意味がどうあれ、今の社会情勢では世俗を離れて一人静かに暮らすととらえるより「暇に任せて悪事を企む」の方が時代を反映しているように思える。鴨長明は「寄居蟲(ごうな)は小さき貝をこのむ。」と言って、自分の庵の小さいことの説明(言い訳)に使っている。※ごうなは、ヤドカリの古名日野山(現在の京都伏見区)に、釘を一本も使わない小さな庵を建てて移り住んだ。方丈記の名前にもなったとされる庵は、「その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは七尺が内なり。」とある。歳を重ねるうちに、四畳半ほどの広さで天井が2m位の長明が日野山で住んだという茶室より小さく簡素な庵での暮しもあっていいのかなとも思えるようになった。
2016年02月03日

「身から出た錆」は、江戸いろはかるたの「み」の札である。これが京都では、「身は身で通る裸ん坊」である。身一つあれば何としても生きてゆけるという肯定的な意味である。人間は本来無一物の裸で生まれ、焼かれる時も裸であるという意味である。名古屋や大阪ではこれが、「蓑売りの古蓑、身うちが古み」と変る。医者の不養生・医者の若死に出家の地獄・易者身の上知らず・学者の不身持ち・駕籠舁き駕籠に乗らず・鍛冶屋の竹火箸・紙漉きの手鼻・髪結い髪結わず・髪結いの乱れ髪・紺屋の白足袋・左官の荒壁・算術者の不身代・儒者の不身持ち・大工の掘っ立て・坊主の不信心・椀作りの欠け椀・紺屋の白袴など多くの類義語がある。「身から出た錆」の身は、「刀身」のことである。鞘に収まっていると判らないが、刀の手入れを怠ると刀身から錆が出ていざという時に使い物にならず自分自身の命(身)をも落とすことになる。そこから刀の「刀身」と自分自身の「身」をかけ、自分の行いのために自分自身が苦しむようになることを「身から出た錆」と言うようになった。江戸いろはかるただけが、「身から出た錆」である。類義語には、悪事身に返る・悪事身にとまる・仇も情けも我が身より出る・因果応報・因果は巡る・自業自得などがある。身から出た錆びには、「~しなかったことによって」の意味があり不作為だが、他の類義語はなにかをした結果だから逆の作為である。江戸時代になって天下太平の世が続くと、刀を抜く機会が無くなり手入れが疎かになっていった。刀は鉄であるため、手入れを怠ると直ぐに錆が出てしまう。刀を抜いた時刀に錆が浮いて腐っていては、刀が何の役にも立たないことになる。身から出た錆の身とは、手入れを怠ったために錆びが浮いた刀身のことである。そこから転じて自分が原因となって発生した失敗や困難を、「身から出た錆」というようになった。落語の「たちぎれ線香」、「…これもまぁ身から出た錆……どや、店の方みな元気か」。「猿後家」では、「…これも身から出た錆だと思い、四国巡礼の旅に出ようと思ったのですが…」。「てれすこ」では、「つまらないことをいったばかりに、おまえにも迷惑をかけてすまない。こんどわたしは打首だ。いや、身から出た錆だから仕方がない。因果な亭主をもった不運とあきらめてくれ。」「竹の水仙」で、「身から出た錆とはいえ、なんとも不憫だな。」「花筏」では、「自分が土俵で叩き殺されても身から出た錆びだが…」。など多くの場面のセリフで使われている。イソップ寓話に良く知られた、「アリとキリギリス」がある。「夏の間アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはバイオリンを弾いて歌って過ごす。冬になってキリギリスは食べ物を探すが見つからずアリたちに食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏は歌っていたのだから、冬には踊ったらいいだろう」と食べ物を分けて貰えなかったキリギリスは飢えて死んでしまう。」キリギリスが飢えて死んだのは「身から出た錆」で、自業自得だとの話に終わっている。この寓話にはせっせと貯め込んでいる者(蟻)は、冷酷でケチであるという他に、遊んでばかりいないで(キリギリス)常に将来への備えをするべきだ、との二つの寓意が隠されている。今さら蟻になってせっせと貯め込むことは不可能だが、キリギリス(自業自得)にだけはならないようにと常に自戒をしている。
2016年02月02日

沖縄でサクラといえば、早咲きサクラの寒緋桜のことである。濃い紅色の大型花弁をやや下向きに咲かせる。北部の本部や名護のサクラが有名で、毎年1月20日頃から2月初めにかけて2週間ほどが見頃になる。サクラの蕾は寒冷に晒されることで、休眠打破される。そのあと積算温度が一定に成ると、開花する。したがって九州・本州・北海道では暖かい地方から北部・高地へとサクラ前線が進むが、温暖な沖縄では寒冷感作を早く受ける北部の山頂から咲き始め、低地・暖かい地方へと本州と逆に咲き進む。今年沖縄の寒緋桜の開花は、暖冬の影響から開花が約10日も遅れていて見ごろは2月初旬からと予想されている。ソメイヨシノより1か月近くも早く咲く、寒サクラ・大寒桜(安行寒桜)・河津桜・修善寺寒桜・オカメ桜など早咲き桜で知られている。何れもソメイヨシノの花の豪華さには、比べ物にならない。しかしウメ以外に花の無い時期に咲く早咲き桜を見ると、春の到来を告げているようで気持ちが明るくなる。河津桜は、歴史が比較的新しい。1955年に土手に咲いているのを偶然発見したもので、1974年に「河津桜」と命名された。樹齢50~60年と言われる原木が、発見者の自宅の庭先に現存している。昭和43年(1968)頃から、このサクラの接ぎ木苗が多く出回るようになり各地に植栽されるようになった。河津桜は自家不和合性により、自分の花粉では結実し難く実を着けることが少ない。そのためソメイヨシノと同じように河津桜の殆どすべては、原木と同じ遺伝形質を持つクローンである。通販では接ぎ木15cmポット苗が、1700円ほどで売られている。今年の年末年始は、かつて経験したことが無いほどの暖冬であった。例年と異なる気候に戸惑って季節を勘違いした植物は枯れ残ったり、早めに咲いたりしたものが多く目に付いた。一転1月半ばを過ぎて降雪がありその後関東に流れ込んだ寒気によって除雪した雪の山は一向に融けないまま残っていたのだが、流石に31日には全て解けて雪の陰も見えなくなった。毎年2月末に咲く自宅近くに植えられた河津桜を楽しみにしているのだが、今年は1か月も早い31日に、雪解けと共に開花した。今年は植物の季節が、1か月近くも早いような気がする。余りに早く季節が動くと、5月中旬には思わぬ陥穽が口を開けて待っていることがある。標高600mを超える山荘の5月の平均気温は15度、湿度60%前後で五月晴れの日が多い。日中気温上昇により植物の生育は盛んになるが、放射冷却により最低気温が氷点下になり晩霜被害を受けることがしばしばである。2年前の5月10日過ぎの強烈な降霜で、地域特産の甲州百目柿・キウイ・庭の花木に加えて山の樹木の新芽も凍って真っ黒に枯死した。今年の気候で季節を春と勘違いした植物の芽が、余り急激に伸びないでいて欲しいものである。
2016年02月01日
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