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気象庁は28日午前11時に平年より7日遅く、昨年と比較すると18日遅くな関東甲信地方が梅雨明けしたとみられると発表した。梅雨の期間は53日間で1951年以来、2003年と並んで4番目に長い梅雨であったが、梅雨期間の降水量は逆に少なく、東京で256mmであった。(平年値は296.5mm)関東甲信地方は、今後しばらくの間は晴れの日が続くと予報されている。梅雨は東アジアの広範囲の地域にみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて毎年巡って来る曇りや雨の多い期間で雨季の一つに数えられる。凡そ1か月から1か月半程度が、梅雨の期間である。関東や東海ではこの期間に降る雨量は平均300mm程度で、年間の約1/5がこの期間に降る。西日本では梅雨期に雨量が多く、東日本では梅雨より秋雨として降る方が多い。オホーツク海気団と小笠原気団が接近すると、主にその温度差によって停滞前線が形成される。北と南の気団が衝突すると東西数千kmに前線が発生し、数か月かけて少しずつ北上する。この前線付近では1月~2か月雨が降り続く。これが、梅雨である梅雨明け後から8月上旬くらいまでは「梅雨明け十日」といって、天候が安定することが多く猛暑が続くことが多い。東京では水源地の、降雪や春から降雨が少ない傾向が続いている。ダムの貯水量は満水時の55パーセントしかなく、水不足は春から言われており利根川水系では10パーセントの取水制限が続けられている。降雨が無いまま推移すると、都水道局は給水制限や断水という措置を取る非常事態に陥るかもしれない。そうなれば経済活動や都民生活に、大きな影響が出るのは必至である。幸い都に隣接しているが自治体も水系も異なり、現在のところ我が家への影響はなさそうである。梅雨が明けた今後は雨台風か雷雨に期待する以外、貯水量の回復を期待できない。被害が及ばない程度の、降雨が待たれるところである。28日の空は梅雨明けを宣言するように、真っ赤な夕焼けが現れた。空の赤さを眺めながら、暫くは降雨を期待できないと実感したところである。
2016年07月29日

庭へ埋めて保存していた種里芋を3月中旬に掘り出してビニールをかけて保温し、芽出しの準備を始めた。今年は比較的気候が温暖で5月に入ってから降霜が無かったので、芽が15cmにも伸びて葉を2枚展開した里芋65株の植え付けを連休明けに行った。定植後70日以上を過ぎて、すっかり里芋畑らしく成長してきた。里芋の葉は蓮の葉の表面と同じような構造をしていて、夜露や雨滴を弾き葉の表面を洗い流す効果(ロータス)がある。そのため葉の底部に夜露や雨滴が溜まる。10日後は、笹の節供・星祭りともいわれる月遅れの七夕である。七夕行事は江戸時代に五節供の一つとして定められたものだが、他の節句行事と同じで家庭環境や社会情勢の変化によって各家庭で行うことは稀となってしまった。七夕の原点は、中国の「乞巧奠(きっこうでん)」が由来とされる。「乞」は願い・「巧」上達・「奠」は祀るを意味している。7月7日の夜織女に手芸全般の上達を願う行事として、揚子江中流域を中心とした地域で盛んであったとされる。このことが6世紀に編まれた、年中行事記「荊楚歳時記」に出てくる。唐の玄宗時代には、盛んな行事であったとされる。これが奈良時代に遣唐使によって日本に伝わると、宮中や貴族の家で行われるようになった。願い事は裏側に細くて滑らかな毛が生えていて墨の乗りがよいことから、梶の葉に和歌を書いて願ったという。梶は榖やミツマタと同じように紙の原料として使われ、桑に似た葉をしている。諏訪大社の御神紋は梶の葉をモチーフにしたもので、諏訪藩主や諏訪氏一族の家紋として使われている。お盆に先立ち祖霊を迎えるために乙女たちが水辺の機屋にこもって穢れを祓い、機を織る行事が行われた。機を織るための棚を水の上に作ったことから、これを「棚機」(たなばた)といったのだという。機屋には神迎えや依りついた災厄を水に流すための、笹竹を飾り付けた。この行事と中国の乞巧奠が融合して、現在のような形に変化したとされる。7月7日の夕方を七夕(しちせき)と呼んでいたが、棚機に七夕を当てて「たなばた」と呼ぶように変化したものだという。江戸時代になると、笹竹に短冊を吊るすようになった。願い事を短冊に書いて笹に吊し川に流すのは、神事との混淆なのだという。里芋の葉に溜まる夜露は月の雫で、天水とされる。葉に溜まったこの露を集めて墨を摺り、その墨で願い事を書いて祀ると成就すると伝わる。蓮の葉にも同じように露が溜まるが、七夕に蓮の葉の露は集めない。七夕と蓮の結びつきが無いのは、蓮が神事でなく仏教と深く結びついている所以からかも知れない。子供の頃干天続きだと前日の夕方父が里芋畑に潅水して、露を集めやすくしてくれた。早朝の6時には、露集めに起こされたことを思い出す。ともあれ都会地では里芋の葉から露を集めることは至難の技で、やがてこんな風習は風化して消滅する運命なのだろう。今年の7月はいつまで梅雨が明けずぐずついた天気が続き、今のところ全く干害の心配はない。菜園の里芋は7月7日では未だ葉が小さく露も溜まりそうになかったが、月遅れのタナバタには1mを超えるほどの高さに成長しているものと思われる。露の採集は十分可能だが、肝心の笹飾りをする予定はない。
2016年07月28日

山荘に2株のニワウメがあって、小さな実が枝一杯に赤黒色に色づいてきた。同属のユスラウメは小鳥の標的になるが、ニワウメを狙う小鳥はいないと見えて秋まで木に着いている。花が色名とされている植物には薄桜・白菫・紅梅・葵・蒲公英・柘榴・竜胆・卯の花・長春・桃花・撫子・菜の花・楝・紫苑・勿忘草・露草・女郎花・躑躅・牡丹・菖蒲・杜若・藤・桔梗・菫・桜・萱草・桃など非常に数が多い。鮮やかな朱色に近いオレンジの薄い赤色で、唐棣と言われる色がある。唐棣はハネズと読み、朱華・唐棣・棠棣とも書かれる。この色は天武天皇の頃、親王や諸王の衣装の色として定められた色だという。(日本書紀)ハネズは庭梅(または庭桜)、あるいはザクロの花の古名とされる。しかしザクロの花は、鮮やかな橙色をしており、ハネズ色とは全く異なっている。ニワウメは葉が出る前に、淡い紅色の花を細い枝の上から下までぎっしりと咲かせる。5枚の花弁の中央の雄しべの真ん中に緑色の子房が見え、そこから雌しべの花柱が伸びている。卵形の葉は先が尖り、ぎざぎざの中にさらにぎざぎざがある二重鋸歯である。葉裏の葉脈に、毛を生じる。株立するのが、特徴である。ユスラウメより小ぶりな直径1cm未満の丸い核果が、8月ころに赤黒色に熟する。この実は生食可能だが堅くて酸味が強いので、あまり好まれない。焼酎に漬けると、仄かな色の着いた上品な味の果実酒ができる。万葉集に詠まれている唐棣花(はねず)はニワウメの古名で、棣はニワザクラの意味である。種子は生薬の郁李仁で下剤、利尿剤、血圧降下などに使われ、便秘、浮腫、不眠症に処方される。郁李根といわれる根は、歯ぐきが腫れたときに効果があるとされている。果実には一つの種が入っており、種を播いて実生苗を得ることが可能だが、ヒコバエを掘り取って植えた方が手っ取り早い。庭に植えられ梅に似た花を咲かせることから、その名前が付いたとされる。良く似た果実を実らせるユスラウメはニワウメとは近縁で、卵形の葉にはシワや毛が多く、花の子房や果実にも毛がある。5~6月頃に熟す実は、ジューシーで甘く美味しい。4月上旬頃に淡紅色や白色の5弁の花が咲く。ユスラウメには、葉裏全体に細かな毛があること。ニワウメは、樹形が株立ち状である。ユスラウメの実は6月頃には食べられるように熟し日にちが経つと落果するが、ニワウメは秋にならないと渋くて食べられない。また実は、晩秋まで枝先に残る。夏まけて 咲きたる唐棣花(はねず)久方の 雨うち降らば 移ろひなむか 万葉集 大伴家持(夏になってやっと咲いたはねずの花なのに、雨が降ったら散ってしまわないでしょうか)ニワウメは中国の山地に自生し、江戸時代に伝来したとの説がある。万葉の昔から唐棣花と呼ばれる種が存在ていることから考えると、古い時代には棣(ニワザクラ)を指した名前であったのかもしれない。日本へ伝来しニワザクラの「棣」に中国を表す「唐」を付けて、唐棣花となったものであろうか。
2016年07月27日

狼藉という言葉の出典は、史記の列伝である。狼は、下草を藉(ふ)み荒らして寝るといわれる。オオカミの寝所跡の草が踏み荒らされている状態から、無法な荒々しい振る舞いや乱暴な行いのことを指して狼藉と使うようになった。「藉」には、「敷く」や「踏む」「雑」などの意味がある。ここに出てくる「藉」は竹冠でなく艸冠で「籍」とは意味が全く異なり、「敷く」や「踏む」・「雑」などの意味である。史記の列伝の一つに、滑稽列伝(こっけいれつでん)がある。為政者を巧みな弁舌で諌めた斉の威王代の淳于髠(じゅんうこん)、楚の荘王代の優孟(ゆうもう)、秦の始皇帝代の優旃(ゆうせん)の伝記が含まれている。日暮酒闌合尊促坐男女同席履舄交錯 杯盤狼藉堂上燭滅主人留髡而送客羅襦襟解 微聞薌澤當此之時髡心最歡能飲一石(日が暮れて酒宴の盛りをすぎ、尊びあって座を促(うなが)し、男女が席を同じにして、くつが交錯して、杯や大皿が取り乱れて、堂の上の蝋燭がなくなり、主人がわたしを留めて客を送るとき、うすぎぬの短い上着の襟がほどけ、かすかに体の匂いを嗅ぎ、まさにこの時、わたしの心は最も歓び、一石を飲むことができるのです。)サルには猿・猴・狙・獨・狨・猓然・禺などの漢字が当てられる。サルの語源説は種々あってどの説が正しいのか判断はつかないが、知恵がある意味の「マサル」説、木にぶら下がる「サガル」説、煩く鳴き暴れて騒ぐ意の「サワグ」説、いたずらして「触(サワル)」説など多くがあるが何れも一長一短でどの説も素直に受け入れられない。里山に大群で出没して作物を荒らすニホンザルの群れの構成は、年々大きくなっているように感じる。群れの中には、何匹もの当年生まれの子供を抱いた雌サルの姿が見える。暖冬傾向と畑の作物を食べ栄養状態が良くなったことで、群れが肥大化した可能性もある。ハクビシン・アライグマ・イノシシ・シカなどの野生動物からの食害から守るには、電気柵の設置が効果的である。しかしサルは電線を伝い歩きすることからも分かるように、電気柵の設置でサルの食害を防ぐことは殆ど不可能である。山荘周辺ではそれまで姿もみなかったのに、20年ほど前からサルの集団が定期的に山から下りてきて田畑の作物を荒らすようになったという。我が家の菜園にも12年ほど前から出没するようになり、年々植えることができる作物の種類が減ってきた。先週の土曜日に夏野菜の収穫のために山荘へ出かけたところ、一週間の間にピーマンとシシトウを除いた全ての夏野菜がサルの乱暴狼藉に遭ってコンテナ2杯と目論んでいた収穫はゼロであった。その上未だ堅い長ネギ200本ほどが抜かれて、敷地のそこいら中に散らばっていた。ナス・キュウリは引き千切られて木が傷んだので、暫くは収穫が望めない。今までトマトやナス・キュウリに手を付けて悪戯をしても、根コソギ盗って食べてしまうことは無かった。年々人が食べる物はどんなものでも、サルが口にするように学習している。これでまた来年の、作付け可能な作物の種類が減ってしまったことになる。
2016年07月26日

都々逸にも歌われる文句に、「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿はユリの花。」という言葉がある。牡丹と芍薬は同じように見える花だが芍薬はすらりと伸びた今年伸びた茎の先端に、牡丹は分かれて横に出た枝に伸びた今年の茎の先に豪華な花をつける。百合は最大級とも言われる大きな花が、揺れるようで美しい。これらの花を鑑賞するには「芍薬は立って、牡丹は座って、百合は歩きながら見る」のが一番美しく見えると言った言葉だとの説がある。また美人を美しい花に譬えたもので芍薬は立った姿、牡丹は座った姿、百合は美女が歩く姿に譬えたとのだとの説がある。安永5年(1776年)発刊の滑稽本「無論里(ろんのないさと)問答」には、「踊の歌に曰く立ば芍薬 座居(とい)すりゃ牡丹 あるき姿は山丹(ゆり)の花」との記述がある。寛政末に成立した「譬喩尽」には、「立てば芍薬居(とと)すりゃ牡丹歩く姿は百合の花」の言葉が見える。一方漢方の世界ではこれは美人や花の美しさを競った言葉ではなく、「生薬の用い方」を譬えたとする説を唱えている。「立てば芍薬」の「立て」とはイライラと気の立っている女性のことで、芍薬の根を用いて痛みや筋肉の凝りを取る。「座れば牡丹」の「座れ」はペッたりと座り込んでいる女性を意味し、腹部に血が滞った状態のことで瘀血が原因となっている場合は牡丹皮を用いて改善する。百合の花が風に揺れるようにナヨナヨとした様子で歩くのは心身症である場合が多く、「歩く姿は百合の花」と譬えた。この場合は、百合の麟茎を用いると健康を取り戻せるという。西暦100年頃の中国で、最古の薬物書「神農本草経」が書かれた。この中には365種類の生薬が記載されており、それぞれ上薬・中薬・下薬に分類されている。芍薬・牡丹は、中薬に分類されている。上薬(上品)は君と為すと記され用いても人体に害が無く、長寿のためにも用いることができる。中薬(中品)は「臣と為す」と記され有毒と無毒のものがあって、その性質を考慮して適宜配合して用いる。下薬(下品)は「佐使と為す」と記され病を治す薬で有毒のものが多く、長期間服用することはできない。我が国には百合の代表的な種としてヤマユリ・オニユリ・カノコユリ・ササユリ・テッポウユリ・オトメユリなどがある。中でもユリの王様と言われるヤマユリは、花の大きさ・色・香りとも豪華で見事で群を抜いている。漢方の世界では血の巡りが悪く貧血状態でフラフラと歩く女性にも譬えられるユリだが、緑の中に立ちあがって沢山の花を咲かせその花の重さで垂れて咲くヤマユリはハッとするほど見事である。今の時期山間部の道路を走ると、あちこちの土手から垂れて咲くヤマユリの群生を目にする。「歩く姿は百合の花」のユリは紛れもなく、このヤマユリのことであると思われる。ヤマユリが好きで庭に何回か植えたが、土が合わないのか最初30輪も咲いたのに年々数を減らして5年ほどで消滅してしまう。16年前に山荘の庭に、2000円もするユリ根を3個植えた。毎年花を付け楽しみにしていたのに、7年後にサルかイノシシに見事に掘り出され盗られてしまった。ヤマユリは、多くの種を着ける。この種から実生でうまく育てると、7年もすると数輪の花を咲かせることができる。ヤマユリの麟茎を掘り出されてしまうまで、深い意味もなく毎年実った種子を庭に播いてきた。毎年雑草を掘り起こす手入れの行き届いた庭では、折角芽を出しても一年で雑草と一緒に除去されてしまうので花を咲かせるまで育つことは稀である。山荘の植え込みの中に、いつの間にか花を咲かせるようにまで育ったヤマユリを二株見つけた。山荘の庭からヤマユリが消えて7年もたっていたので、花を見つけた時はなぜこの場所に咲いたのか不思議に思えたのだが、冷静に考えると人為的に播種したものが育ったものに間違いない。今年も圧倒的な存在感で4輪と2輪の大きな花が咲き、庭に独特の強い香りを振り撒いている。「歩く姿が」美人の譬えでも生薬のことでも花の美しさでも何でもよいから、猿やイノシシの標的にされないでいつまでも咲いてくれることを願うばかりである。
2016年07月25日

花魁草遊女とは一般的には遊郭や宿場で男に性的サービスをする娼婦を言い、「客を遊ばせる女」の意味で用いられる。ところ変われば何とやらで、古代中国では「若い女性」を意味した言葉であった。「遊女」という呼称の元々は芸能に従事する女性一般を指したものであり、娼婦を意味するものではなかった。万葉集には「遊行女婦(うかれめ)」と書かれているが、これが平安時代になると「遊女(あそびめ)」と言われるようになった。遊女は鎌倉・室町時代には、傀儡女や白拍子、傾城・上臈と呼ばれた。安土桃山時代になると、女郎・遊君・娼妓といった呼称もあらわれる。江戸時代には京や大坂の遊郭の最高位の遊女は、太夫といわれた。江戸の遊郭で有名な吉原では、宝暦年間以降に太夫の呼称が無くなり高級遊女を「花魁」と呼ぶようになった。徳川家治が第10代将軍となった18世紀中ごろには、吉原の禿や新造などが姉女郎を「おいらん所の姉さん」と呼んだことが花魁の語源由来とされる。この花魁の名前を採って花魁草と付けた、主に北アメリカ原産の草花がある。またの名前を、草夾竹桃という。園芸店では、フロックスの名前で流通している。鮮やかなピンクの花の色からギリシャ語で、「phlogos(炎)」と呼ばれたのが名前の由来と言われる。花に近づいても認識できないほどの香りだが、花魁の脂粉の香りに似ているとして別名花魁草と言われるようになったという。白・赤・ピンク・白地底赤など種類は多彩だが、盛夏に咲くピンクの花は鮮やかである。花魁と同じように遊女を連想させる、その名もズバリの女郎花がある。秋の七草の一つに数えられ、チメグサ・敗醤の別名がある。この花は万葉の昔から庶民にも愛されて庭に植えて鑑賞され、切花にも用いられてきた。全草を乾燥させて煎じたものは生薬の敗醤で、解熱・解毒作用があるとされる。花は、生薬の黄屈花である。生薬では漢方方剤としてではなく、単味で利用されることが多い。花魁草の名前の由来とは全く異なり娼婦の別称としての「女郎」が語源ではなく、その美しさが美女をも圧倒することからへし(圧し)と言われとする説がある。他説では古くはオミナエシは「おみなめし」と呼んだとされこれから類推して、へしは「飯」であり花が粟粒に見えるところから女の飯という意味だとする説もある。花魁草が花魁の脂粉の香りを連想させるというのに対して、別名敗醤と言われる女郎花は切り取って活けて何日かすると部屋中に、また晩秋になって花期の終わりが近付くと庭一面に醤油の腐敗した臭いと表現される酷い臭気を放つようになる。フロックスは花持ちが悪く、女郎花は悪臭が出るので長期間の生け花には不向きである。山荘の庭は遊閣や遊里のように、華やかでも猥雑でもなくヒッソリとしている。この庭中に広がった花魁草と女郎花が同居して、今まさに盛りである。
2016年07月22日

山荘には黄色種のゴールドと緑色種ヘイワードの、二つのキウイ棚がある。16年前に植えたのだが当初ヘイワードは何回植えても雌木が活着せず、逆にゴールドは雄木が枯れてしまった。4年ほど植え直すうちにヘイワードの棚には雌雄の株が揃ったので、授粉作業は必要なくなった。しかしゴールドは漸く十数個の花が着くようにまで雄木が成長したところなので、人工授粉しないと結実しない。そこで例年隣家の早咲き種「孫悟空」の雄花を貰い受け、授粉作業をしている。5月23日とその一週間後に授粉作業をしたキウイが、2か月経った現在収穫期の大きさの8割ほどにまで肥大してきた。ゴールドキウイは極めて雌花の花着きがよく、受粉結実したまま放置するとまるで巨大なブドウの房状になり実は大きくならいで糖度も上がらず味の悪いキウイとなってしまう。素人は勿体無く思えて、折角生った実を摘み取ってしまうことには些かの抵抗がある。3年前の5月10日過ぎに、強い晩霜に遭って新梢の半分以上が枯死した。キウイの花は新梢に着くため、当然のことながら極めて花が少なく果実も少なかった。木が一年休んだ反動からその翌年には夥しい花が咲き、しかも人工授粉した殆どが着果した。まるで、茶色の実がなるブドウ棚のように見えた。摘果もしないで収穫までそのまま放任したところ、数千個もの収穫作業は小学生の孫二人と大人5人が半日掛りで行う羽目になった。収穫できたのはピンポン玉程度の大きさのものが大半で、なんとか食用になる大きさの2箱を残し結局コンテナ3箱分は埋却廃棄処分することになってしまった。晩霜も無く比較的順調に冬から春の気候へと推移したため、今年も大量に花を着けた。このまま放任すると2年前の二の舞になるので、何回かに分けて摘果することにした。6月中旬に4時間かけて1/3に間引き、さらに2週間後肥大が遅れているもの・傷や変形しているものを摘み取った。7月になって更に2回摘果を行ったので、結果的に最初の半分ほどを取り除いたことになる。枝に残したキウイは、順調に玉が肥大してきた。二千個以上も落としたのに、適正とされる玉の数より多過ぎるようにも見える。しかし今年の摘果作業は取り敢えずこの程度にして、10月末の収穫期まで育てようと考えている。
2016年07月21日

ヒョウタン(瓢箪)の原産地はアフリカで、食用や器の加工材料として全世界に広まった。最も古くから栽培された、植物の一つとされている。乾燥した種子には生命力があり、数年後でも高率で発芽する。容器や装飾品に加工されるヒョウタン(瓢箪)と干瓢の原料になるユウガオ(夕顔)は同一種で、苦味成分が少ないものを選別して栽培する間に食用に適するユウガオが作出されたと考えられている。ひさご・ふくべとも言われ、果実を乾燥して器や装飾品に加工したものもヒョウタンと呼ばれる。古くからヒョウタンを縦二つ割りにしたものは、水を汲む用途に利用され「ひさこ」と言われた。ヒサコ(ヒシヤコ)が柄杓の語源で、さらに「ひさこ」が瓢(ひさご)になったとされる。論語雍也篇に「子曰。賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也。」 (子曰く、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人はその憂いに堪えず。回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や。)がある。孔子の弟子顔回は清貧で、一汁一菜の生活を送っていた。そのため食器は汁を入れる瓢と、飯を入れる箪(薄く削った竹を編んだ器)しか持っていない。それを孔子は「一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん」と表現した。それを「箪瓢」と言ったが、平安時代に漢字の順序が入れ替わったことで瓢箪の名前になったのだという。通常瓢箪は上下が丸く真ん中がくびれた形の品種を指すが、その形状は球状・楕円形・棒状・下端の膨らんだものなどさまざまな品種がある。秀吉の馬印として有名な長さ8cmほどのヒョウタンが鈴成りになる「千成瓢箪」、長さ30cm直径15cmほどになる「大瓢箪」、先端だけが丸くなる小型の「つるくび瓢箪」などが一般に栽培される。ヒョウタンにはウリ科植物に特有のステロイドの一種苦味物質のククルビタシンを含有しており、有毒で嘔吐・下痢等の食中毒症状を起こすので誤食しないように注意しなければならない。縄文時代前期の遺跡から種子が出土しており、古くから人との関わりが深かったことが分かる。日本書紀には仁徳天皇が淀川に茨田堤(まむたのつつみ)を築く際(323年)、水神への人身御供にされそうになった茨田連衫子がヒョウタンを利用した頓智で難を逃れたと出てくる。堅い果皮部分を残して果肉部分を除去し、乾燥させ水や酒などの貯蔵容器として利用されてきた。千利休が花器として初めて使ったと言われ、楽器・浮きと漁具・装飾・農具・祭事用にも使われる。現在は水筒・酒器・調味料入れなどの容器の他、装飾品として加工されることが多い。なぜか長男がヒョウタン好きで頼まれて、昨年は自宅のグリーンカーテンとして日避けを兼ねて栽培したが沢山雌花は咲いたのに加工出来るまで育ったのは3個しかなかった。今年は4月ソメイヨシノが咲いたころポツトに播いて管理し、本場が出て降霜の心配が無くなった連休明けに山荘の菜園の隅に作った棚下へ移植して育てた。何個か生ったヒョウタンの成長の早さが驚くほどで、一週間の間に倍近くも大きく育っている。場合によっては、紐で吊る必要もあるのかなと思案中である。瓢箪を三つ揃えればで三拍子で六つで無病に通じるといい、縁起物として掛け軸や器・染め物などの意匠にも好んで使われる。 ものひとつ 我がよはかろき ひさご哉 芭蕉
2016年07月20日

山荘の所在地と同じ北杜市だが、清里は八ヶ岳の南東の麓で山荘は甲斐駒ケ岳の東麓に位置していてかなり離れている。清里高原は戦後の観光振興の影響を受けて発展し、昭和50年代には清里ブームが起こり首都圏から多くの観光客が訪れた。観光客目当てのペンションやショップその他店舗が乱立し高原の原宿とまで言われたが、バブル崩壊と共にブームは沈静化し訪れる人も疎らとなって店舗の閉鎖が相次いだ。現在は清里駅周辺がすっかり寂れてしまった中で、萌木の村と清泉寮はそれなりに訪れる人もあって今も善戦している。清泉寮と農場は清里開拓の父ポール・ラッシュによって、「日本聖徒アンデレ同胞会」のキャンプ場として建設されたのが始まりである。Kiyosato Educational Experiment Project(清里教育実験計画)の頭文字をとってキープ(KEEP)と名づけられた協会が、清泉寮やキープ農場を運営している。清泉寮は火災による焼失後、昭和32年(1957)に再建された。本館玄関の上には、Xマークがはめ込まれている。子羊は小さな羊で弱く頼りないものとされ、犠牲とされるものの譬えに使われる。子羊は罪を償うために捧げる生贄として供されたことから、キリスト教ではイエスを「神の子羊」ともいわれる。神がエジプト中の初子を殺したとき、仔羊の血を門口に塗ったユダヤ人の家だけは過ぎ越したという故事(過越)がある。穢れのない子羊の血を振りまくことで罪は赦されるとされ、キリスト教徒はイエスの血によって贖罪されるものと信じキリストを神の子羊として信仰している。キリスト12使徒の4番目のアンデレは、一番弟子ペテロの兄弟でガリラヤの漁夫であったと伝わる。アンデレはキリストが磔刑にされた後黒海沿岸やアジアで宣教活動に励んだが、ギリシァでローマ提督アイゲアテスに改宗を迫ったことによって激怒を買い磔による処刑された。アンドレは処刑に臨みイエスと同じ形の十字架では畏れ多いと申しでたことで、十字を半回転させたX形の柱に両手両足を括りつけられて処刑された。恰もコガネグモが巣に止まって、獲物を待つ姿である。ギリシァでX字型に括りつけられて処刑され殉教したアンデレは、絵画でもX字型の十字架と共に描かれている。南オーストラリア美術館(アデレード)には宗教画家マッティア・プレティ(1651)の、「聖アンドレの磔刑」の絵が所蔵されている。「アンデレの十字架」または「聖アンデレ十字」とは二本の直線が斜めに交差した文様のことで、X字型の十字架で処刑されたとされる聖アンデレに由来する。アンデレは十二使徒のひとりとして崇敬され、カトリック教会・正教会・聖公会などで聖人とされる。アンデレの十字架は、アンデレを守護聖人とする人や団体の旗・紋章として使われている。スコットランドの国旗やロシア軍の軍艦旗が有名で、ロシアには「聖アンドレイの守護勲章」がその例である。ポール・ラッシュがキリスト教の宣教師でありこの地を、「日本聖徒アンデレ同胞会」のキャンプとしたことから、清泉寮の紋章としてアンデレの十字架を玄関に設えたものである。
2016年07月19日

※藕(ハス)木刀茎や根は柔らかく、木刀を作るのに適さない。「独活の大木」と同じ意味の「役に立たないもの」の譬えとして使われる。地上で咲く花で見事なのはボタンやユリであり、水中から茎を伸ばして見事に開花するものとしてハスやスイレンが好まれている。長い間ハスの原産地はインドで、日本へは仏教と共に伝わったとされてきた。しかし2000年以上前の地層から種子が発見されたり7000万年前の化石からも出土していることから、日本には古くからハスガ自生していたとの説が有力となっている。花托の形状がアシナガバチの巣に似ていることから、ハスの古名は「はちす」といわれる。「はす」は、はちすの転訛とする説は分かりやすい。別名も多く、水芙蓉・芙蓉・不語仙・池見草・水の花などがある。漢字で「蓮」と書き表す他に、「荷」や「藕」もハスを表す漢字である。「蓮華」は清らかさや聖性の象徴として称えられることが多く、仏典では蓮と睡蓮を区分せず「蓮華」と訳していて仏教用語として古くから使われてきた。葉は水面より高く出水面上1mにも伸ばす茎には、通気のための穴が通っている。ハス(Lotus)の葉には撥水性があり、水玉ができる。これをロータス効果と呼ぶが、サトイモの葉にも同様の現象があり、この現象から学んで、衣服や塗料・さまざまな工学製品に応用されている。花期は7~8月で、一重から八重咲きまでの白やピンクの花を咲かせる。早朝に咲き、昼には閉じる。民間伝承でハスやマツヨイグサは開花時ポンッと音を立てると伝わるが、決してそのようなことは無い。もし音がしたら、かなりウルサイ朝になる。ハスの種子は極めて堅い殻に包まれていて、条件が良ければ数千年も生きたまま保存される。昭和26年(1951)千葉市検見川の遺跡で発掘された種子から発芽したハスは、2000年前(弥生時代後期)のものと推定され発芽に成功した大賀博士の名前を取って大賀ハスと言われる。中尊寺金色堂須弥壇から800年以上前の種子が発見され、発芽したハスは中尊寺ハスと呼ばれる。さらに埼玉県行田市の土中から発見された1400年~3000年前と推定される種子から発芽したハスは、行田蓮と呼ばれている。北宋の儒学者・周茂叔はハスを愛でた「愛蓮説」で、次のように書いている。水陸草木之花、可愛者甚蕃。晋陶淵明独愛菊。自李唐来、世人甚愛牡丹。予独愛蓮之出淤泥而不染、濯清漣而不妖、中通外直、不蔓不枝、香遠益清、亭亭浮植、可遠観而不可褻翫焉。予謂、菊華之隠逸者也、牡丹華之富貴者也、蓮華之君子者也。噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。(水陸草木の花、愛すべき者甚だ蕃し。晋の陶淵明、独り菊を愛す。李唐自り来、世人甚だ牡丹を愛す。予は独り蓮の汚泥より出でて染まらず、清漣に濯はれて妖ならず、中は通じ外は直く、蔓あらず枝あらず、香遠くして益清く、亭亭として浄く植ち、遠観すべくして褻翫すべからざるを愛す。予謂へらく、菊は華の隠逸なる者なり、牡丹は華の富貴なる者なり、蓮は華の君子なる者なりと。噫、菊を之れ愛するは、陶の後に聞く有ること鮮し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之れ愛するは、宣なるかな衆きこと。)この愛蓮説から「蓮は泥より出でて泥に染まらず」の言葉が、人の生き方説く教えとして使われるようになった。仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されている。如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻がある。人は死後極楽浄土に往生し同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想から、「一蓮托生」という言葉が生まれた。現在では古代ハスともいわれる、大賀ハスの子孫が全国各地に広まっている。何れも、一重大輪のピンク咲きである。朝露に濡れながら咲く花の美しさからは、周茂叔でなくても深い感動を与えられる。NHKの大河ドラマにも出てきた新府城は、新築わずか3か月で戦況不利と見た武田勝頼自ら火を懸けて滅亡への道を選んだ城である。八ヶ岳噴火で流れた、溶岩台地にある。この新府城址の近くに、余り人に知られていないハス池公園がある。千葉県から10株分けて貰った大賀ハスの子孫が植えられていて、2015年には129名によるハス根の植え付け作業が行われたという。このハス池公園は余り知られていないので、人が少なくてゆっくり間近で花を観賞できるのが何より嬉しい。町の広報などで「大賀ハス公園」の名前でPRされているが、個人の敷地だという。所在地 韮崎市穴山町5083JRでは穴山駅下車、車では甲府方面から七里岩ラインで穴山郵便局と穴山交番の間を北杜市方面へ約300m左側。7台ほど駐車可能な駐車場がある。 花言葉 雄弁 7月の誕生花
2016年07月15日

語感から受ける感じは近似しているが、なの一字の有り無しで全く異なる植物となる。漢文で「禁止」の意味で用いられる返読文字「勿」(~なかレ)を用いて「勿来」は「なこそ」と読ませる。来るな・来てはいけない、の意味で使う。同じように勿忘草と書けばムラサキ科の植物の、忘れな草のことである。この植物の名前には、次のような話が伝わっている。「中世ドイツの騎士ルドルフがドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうとして川に落ちた。なんとか花だけを岸に投げた後、ルドルフVergiss-mein-nicht!(僕を忘れないで)といって水に呑まれてしまった。」この言葉が、花の名前になったものだという。これを英語に直訳したforget me notを、明治38年(1905)に川上滝弥が日本語に訳して「勿忘草・忘れな草」の漢字を当て「ワスレナグサ」と読ませるようになった。花言葉の「真実の愛」「私を忘れないで下さい」も、このドイツの伝説に由来している。「な」の一文字がないだけで全く異なった意味を持つ、ワスレグサはユリ科の多年草である。中国では萱草と呼ばれ、金針や忘憂草とも呼ばれる。ワスレグサの花は一日花と考えられたため英語でDaylilyと呼ばれるが、2日後まで開花しているものもある。大伴旅人が大宰府に在って、故郷への慕情を断ち切りたいとの心情を詠んだとされる、「忘れ草 わが紐に付く香具山の 故りにし里を 忘れむがため」(万葉集)がある。この花を着物のひもにつけていると、憂さや嫌なことを忘れさせてくれるのだという。和歌に「忘れ草」と詠まれているのは、ヤブカンゾウやノカンゾウなどのことである。夏に、大ぶりで橙色の花を咲かせる。若芽は山菜として食され、根は生薬となる。藪のような場所に生育するから藪萓草で野原に咲くので野萓草と呼ばれると言うが、どちらも草はらや田畑の縁などの草地に自生している。なぜかワスレグサの花は歌の対象とされず、詠まれたのはもっぱら葉の方である。万葉の昔から憂いを忘れさせる草の意味で「忘憂草」と呼ばれ、万葉人たちは身に着ければ憂さを忘れさせてくれる草として歌に詠んでいる。ヤブカンゾウは花が八重であるのに対し、ノカンゾウは一重であるから花を見れば誰にでも容易に同定可能である。ヤブカンゾウの原産地は中国で、本州以南の野原や薮の縁などに自生している。ヒガンバナと同じ3倍体のため結実せず、もっぱらランナーによって増殖する。茎頂に、ユリに似た八重咲きで橙赤色の花を次々と開く。真夏のギラギラとした炎熱の太陽の下で咲く八重のボッタリとした花は、色がノウゼンカツラと似て暑苦しく余り好きではない。どちらかと言えば一重の幾分薄い色の花を咲かせるノカンゾウの方が、好みである。自宅近くの路端にはノカンゾウが多く咲いているが、山荘の辺りでは、ノカンゾウを見ない。ワスレグサの蕾を乾燥させたものを「金針花」といい、中華料理では水で戻してスープに入れる。生薬名は金針菜で、風邪・不眠症・利尿に効果があるとされる。萱草 垣毛繁森 雖殖有 鬼之志許草 猶戀尓家利忘れ草 垣もしみみに植ゑたれど 醜の醜草 なほ恋にけり (万葉集巻十二)忘れ草を垣のところまでたくさん植えたのに、この草には少しもも効き目が無くてよけいにあの人のことが恋しいの歌意である。※しみみ…隙間のないほどびっしりとの意味
2016年07月14日

カメムシは強烈な独特のにおいを発し作物の汁を吸いとる害虫で、嫌われ者である。この虫が干した布団に着いているのを知らずに、触ったりすると手を洗ったくらいでは臭いは落ちない。枝豆に付いているのを一緒に茹でたりすると、最早食用にならない。カメムシの臭い成分は親油性の、トランス2ヘキサノールと言われる物質である。植物にもカメムシほどではないが、間違っても芳香とは言えない臭気を発する「屁糞葛」と名前が付いた蔓性植物がある。アカネ科の多年草で種からあるいは蔓が地面に付くと節から根を出して繁殖する。茎を引っ張って途中で千切れて根が残るとそこから独立個体となって殖えるので、一旦敷地に侵入されるとなかなか退治できない。その名からも分かるように、いかにも臭そうな名前である。何時の頃からか山荘の敷地に侵入し、茎を引っ張っても途中で切れて一向に退治できない。今年もレンギョウの垣根の中から伸び出して、独特な花を一杯に付けた。根コソギにするのは困難だがこれ以上繁茂させないため、果実が着く前に根元の近くで引きちぎった。独特の臭いが手に付いて、なんとも不快である。中にはこの臭いを感知できない人がいると言うのも、不思議である。 最も嫌いで厄介な雑草にはスギナ・ドクダミ・ヤブカラシ・スベリヒューなどあるが、ヘクソカズラも優に嫌われものの5指には入る。近くに寄っただけでは臭気を発しないが葉や茎に悪臭があり、触れたり握ったりするとかなりキツイ臭いを発することが由来となって屁屎葛の名が付いた。この臭気の素はスカンクの出す臭気成分と同じ、メルカプタンだと言われる。古語ではクソカズラ(糞葛・屎葛)といわれ、万葉集にその名前が見える。別名のヤイトバナ(灸花)は花が灸をすえたように見えるところから付いた名前だが、屁糞蔓の方が直截的で一度聞いたら忘れられない。7月から9月頃が花期で、白色の花弁で中心部が紅紫色の花を咲かせる。この恐ろしく臭そうな名前に似ず、乾燥した果実や生の実はしもやけやあかぎれなどの外用民間薬のほか、生薬の鶏屎藤果として漢方で用いられている。かわらふじに 延ひおほとれる屎葛 絶ゆることなく宮仕えせむ (高宮王)万葉集(巻十六)(カワラフジの木に、愚直に這いのぼっているクソカズラ。その蔓さながらに、私め何時何時までも宮仕えしたいものです。)「屁糞葛も花盛り」の、諺がある。嫌な臭いがあって好かれない屁糞葛だが、愛らしい花をつける時期がある。「鬼も十八番茶も出花」と同じで、年頃の娘は不器量でもそれなりに魅力があることの喩として使われる。花言葉 人嫌い 誤解を解きたい 意外性のある
2016年07月12日

縁起の良い名前の蜘蛛とその名前を知ってはいても、今までついぞお目に掛ったことのない蜘蛛が山荘の周りに3匹巣を懸けているのを見つけた。このクモは体の形状が小判に見え目立つ大きな3本の黄色の横縞が由来となって、コガネグモ(黄金蜘蛛)と名付けられたものという。ジョロウグモの体色によく似ているが、コガネグモの腹部はジョロウグモやヨコナガコガネグモのそれに比較して遥に幅広く、黄色と黒の横縞の数は少なくはっきりしている。足は、直線的で太い。径30cmほどの真円に近い円形の網を張り、白帯をつけるのが特徴である。クモは網の中心で常に頭を下に向けて前2対と後ろ2対の足をそれぞれそろえて真っすぐに伸ばし、X字形に静止している。コガネグモは、この足の配置に合わせるように、網の上に糸の帯でできた白いジグザグの模様をつける。これを「白帯」または、「隠れ帯」と呼ぶこともある。ジョロウグモの楕円形をした腹部には黄色と水色の横縞模様があり、足は細長く曲がっている。巣は長径1mもある縦長の網を張り、白帯がない。その色から上臈蜘蛛と呼ばれたものが、いつの頃からか女郎に置き換わったとの説がある。コガネグモはコガネグモ科のクモでどこにでもいて広く知られているとされるが、目にするのはジョロウグモでコガネグモはほとんど見かけない。コガネグモは雌雄で、大きさが極端に異なる。脚部を除きメスは、2cm大にもなる。初夏に成熟し、メスの腹部には黒地に幅広い黄色の横縞模様がある。オスはメスの1/5程しかなく、鳥類と異なり極めて地味で体色は茶色一色である。網にかかった昆虫の振動に反応して接近し噛みついた後、獲物の体を回しながら糸を巻き付けて網の中央に運んで食べる。好事家の間ではクモ同士を戦わせる「蜘蛛合戦」で、コガネグモがよく使われる。中にはジョロウグモを用いる地域もあって両種とも良く似ているので混同されやすく、誤って呼ばれることがしばしばある。鹿児島県姶良市の40年続く伝統となっており、今年も6月19日に実施された。毎年8月に実施される高知県四万十市の行事では、「女郎蜘蛛合戦」の名前があるようだ。セミなどを捕るのに柄の付いた円形の枠にクモの巣から取った糸をかけ、鳥餅のようにして用いたという。今まで16年間山荘で見かけるのはジョロウグモばかりで、コガネクモを見かけることは無かった。例年山荘に着いて駐車場から山荘の玄関までの間は、棒を持ってクモの巣を払いながらでないと歩けないほどであったが、今年は時期が早いのかコガネグモに場所を占拠されたためなのかまだジョロウグモの巣は見かけない。
2016年07月11日

なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねむ(源氏物語第26帖 常夏) 「撫子(玉鬘)のいつも変らぬ優しい色を見たら、父である内大臣は、もとの垣根(母夕顔)のことをあれやこれやと詮索するだろうね。 」※常夏…撫子の別名芭蕉は四十四歳のとき、「酔て寝む撫子咲ける石の上」の句を詠んだ。真蹟短冊の前書きに納涼とあることからすると、この句は夕涼みの情景であろうか。奈良時代初期山上憶良が秋の七草に詠んだ撫子は、唐から伝来した石竹と区別するため在来種をヤマトナデシコ(ワラナデシコ)、伝来種はカラナデシコと呼ぶようになった。カラナデシコは現在、セキチクと呼ばれることが多い。芭蕉の詠んだ本句の意は、「夕涼みに河原へ出て見ると、撫子が咲き乱れている。酔って撫子を愛でながら、傍らの石の上に寝るのも趣向である。」となるか。カワラナデシコの花弁5枚は先が細かく裂け、線香花火のようになる。基本色の多くは淡い紅色だが、白い花を咲かせる種類もある。名の由来は、「吾子を撫でるように可愛い花」からきている。花が夏から秋の夏の間、長期にわたって咲くことから古名を「常夏」と呼んだという。北海道を除いて、全国に自生する。日当たりの良い場所を好み、草原や河原・路傍・山地の斜面・海岸の砂浜等に自生する。多年草で、越年した根から茎を叢生し草丈~80cmほどにもなる。伸びた茎はしばしば葡伏し、土に付いた茎から発根し増殖することがある。16年前には山荘辺りの連なった棚田の間を散歩すると、土手の到るところでカワラナデシコの花を見ることができた。しかし群生していたところでも、現在ナデシコの花を見ることは全くできなくなった。当時山荘の庭へ一株のカワラナデシコを移植したが、これが庭のあちこちに根付いて毎年花を咲かせる。花期は6月から咲くとされるが、山荘の庭では8月のお盆の頃から10月末の降霜がある頃まで次々と咲く。花は淡紅色が一般的だが白色もあり、淡紅色と白色の混ざっている個体もある。長年の間に白色の花が淡紅色に変化することがあり、先祖返りではないかと考えられる。自生地の開発や逆に放置され人の手が入らなくなったことよる植相の遷移、動物による食害等の影響で個体数は絶滅に瀕している。これとは別に10年も前に旧愚酔庵の庭から、紅白のナデシコを分けてもらった。こちらは草丈が約30cmと小振りで6月には開花するので、花は似ているが野生種とは異なりカワラナデシコの園芸種ではないかと思われる。不思議なことに赤花のナデシコは最初植えた場所で毎年開花するのだが、シロハナの方は毎年異なった場所に咲く。好日植物なのに今年は態々ヤマボウシの木の下の、半日陰に成る場所で花を咲かせた。植物なのに棲みやすい場所を探して、転々としているようにも見える。秋の七草はどれも漢方や民間薬として利用されるが、開花期の撫子全草を乾燥したものは瞿麦と呼ばれ民間療法で用いられる。種子を乾燥したものは瞿麦子と言い利尿・通経作用があるが、流産を誘発するので妊婦は用いてはならない。 カワラナデシコの花言葉 純愛 貞節細く糸状になった、ピンク色の花姿に因むといわれる。 7月14日・22日・28日の誕生花
2016年07月06日

シュウカイドウは、ベゴニア属多年草の球根植物である。中国ではベゴニアを「秋海棠」と書き、これをそのまま音読みにして和名となった。一方貝原益軒は大和本草で「花の色海棠に似たり。故に名付く」と記しているが、中国名のベゴニアを指す秋海棠が由来だとしたほうが通りがよい。シュウカイドウの別名は、仏様の装身具や本堂の天井などから下がっている装飾品の名前から取った「瓔珞草」である。シュウカイドウは最初の雄花が開花した後二股の花茎が伸びて次々と雄花を咲かせ吊り下げたように長く垂れさがって咲く。その様子を、仏具の瓔珞に擬えて付けたものであろう。江戸時代初め(1640年代)園芸用として中国から持ち込まれ、他のベゴニア属と比較して寒暑に耐え土地も選ばないことから急速に国内に広がった。現在では庭に植えられる他、半野生化してしばしば石垣などに群生しているものを見ることがある。夏~秋(8〜10月)に葉腋から紅色の花茎を伸ばして、淡紅色の花を咲かせる。雄花が咲いた後花茎がさらに2又に分かれて次々と伸び、新たな雄花が咲いた後その先端に雌花を下向きに咲かせる。雌花には三角垂の形をした子房があるので、雄花とは容易に区別できる。極端に左右非対称の葉の輪郭はハート型で濃い緑色をしており、花がない時期でも鑑賞に耐える。花が終わると結実し、茶色で羽を3枚持つ楕円形の実を付ける。極微細な種子が入っており、散布されて増殖する。また花後葉腋に数個のむかご(零余子・珠芽)が付き、晩秋に葉が枯れると地面に落ちて翌年芽を出して殖えさらに他に塊茎でも増殖する。俳句でも秋の季語とされ晩夏から秋の花であるが、我が家のシュウカイドウは早々と一番の雄花を咲かせた。昨年は天候が不順でしかも暖冬だったため、植物にさまざまな「不時現象」が見られた。今年も植物に狂い咲きや返り咲きなどの異常開花があるのだろうかと、早々と咲いたシュウカイドウの花をみながら思った。臥して見る 秋海棠の 木末かな 子規花言葉 自然を愛す 恋の悩み 片思い 未熟
2016年07月05日

いささか旧聞の話題だが6月第3日曜日は、何時のころからか父の日と言われるようになった。ワシントン州の6人兄妹のソノラ・スマート・ドッドは、父の男手一つで育てられたという。この父に感謝して今から100年以上前の1909年、父の誕生月の6月に礼拝(日本式では法事か)をしてもらったことが父の日の始まりと伝わっている。当時すでに母に感謝する「母の日」はあったことから「母の日と同じように父の日も」と教会に嘆願した結果、最初の祝典は牧師協会により翌年の6月19日に同地で行われた。約60年後の1966年第36代大統領リンドン・ジョンソンが大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日に定めた。その6年後には、アメリカの正式な国の記念日として制定された。母の日とカーネーションのつながりは、1908年5月10日にアンナ・ジャービスがフィラデルフィアの教会で亡母に感謝するために白いカーネーションを祭壇に飾り出席者に配ったことが由来とされている。その後健在の母に赤のカーネーションを贈り、無くなった母のためには白色のカーネーションを飾る習慣ができた。父の日とバラの由来としてはソノラ・スマート・ドッドが、墓前に白バラを供えたことが由来とされている。最初の祝典にはYMCAの青年たちが父が健在の者は赤いバラ、亡くなった者は白いバラを身につけたと伝えられている。母の日のカーネーションの由来を、真似たものであろうか。世界では6月の第三日曜日を父の日と定めている国が最も多いが、セルビアは1月6日で最も早く12月5日のタイが最も遅い。同様に母の日の起源は国によって様々であるため、月日も一様ではない。5月の第2日曜日が多くの国で採用され最も多いがノルウェーでは2月の第二日曜日とされ、ロシアは11月の最終日曜日で最も遅い。日本では昭和25年(1950)年頃から「父の日」という言葉を耳にすることが多くなってきたが、一般へはほとんど浸透しなかった。現に子供のころには、6月父に対してプレゼントを贈ったことは無い。商業施設での販売戦略としてプレゼントと抱き合わせで父の日を宣伝したことで、30年後の1980年代になってようやく行事として世間に定着した。毎年プレゼントが必要になるのは正月に始まり、母の日・父の日・誕生日・敬老の日・クリスマスなどがある。主として目下の者に金を贈る正月を除けば一般大衆が、商業戦略として取られるデパートなどの思惑の手の上で転がされている感じがする。特に子供は年間5回以上も気を使わなくては成らず、気の毒でもある。今年は長男が「八ヶ岳地ビール」に特別に注文して、名前入りのレッテルを張ったビールを贈ってくれた。能書きにはオールモルト・下面発酵・度数7パーセントとあり、2015年世界金賞受賞とある。このビールを作りだしたのは、キリンビールで「一番搾り」を生みだし40年以上ビールづくりに関わってきた職人だという。息子に感謝しながら、冷えたビールに酔った一夜であった。
2016年07月04日

5月23日と24日の2日間、6時間かけてゴールド種キウイの授粉作業を行った。14年前工務店に依頼して山荘の駐車スペースの上に、足場用パイプで6坪ほどの広さの棚を作ってもらいゴールド種のキウイを植えた。マタタビやサルナシと同じ仲間のキウイは雌雄異株のため、雌雄2本を植えないと結実しない。しかも種類ごとに開花時期が異なり、雌花の開花時期に合った雄木を同じ棚に植える必要がある。不思議なことに我が家ではゴールド種用雄木の「孫悟空」を何回植えても、数年で枯れてしまって授粉樹の用をなさない。雄木の孫悟空は、3千円と稍効果である。隣家にもキウイの棚がありゴールドキウイを植えているが、逆に隣家では雄木は育つのになぜか雌木が育たない。従来の緑色種のヘイワードは、通常黄色種より7~10日も遅れて開花する。昨年はゴールドの開花が若干遅れヘイワードの開花が早くなったので、ゴールドにヘイワードの花粉を使って授粉することができた。実った果実の果肉の色は黄色から緑までさまざまで、メンデルの法則を再認識するに十分な事象である。今年は降霜が5月には無くそのせいか昨年より約一週間早い開花で、ゴールドはすでに満開なのにヘイワードの雄花は全く開花していなかった。雌木が無くて不要の雄花を隣家から笊一杯分けてもらい、花弁を取り去って葯だけを広口瓶に集め水彩用絵筆を使って雌花に花粉を着ける授粉作業を2日間行った。脚立の上で終始上を向いて行う授粉作業は、肩や腰・腕が疲れ楽ではない。毎年授粉作業をしながらこれで果たして受粉・結実するのか多少の不安があるのだが、今年も全ての雌花がほぼ着果した。ゴールド種は緑色種と比較して花着きがよく、雌花はブドウの房状に連なって開花する。これに受粉してそのまま成らせると全ての玉に栄養が行き渡らず、ピンポン玉ほどの大きさの実にしか育たない。授粉2週間後から週ごとに3回育ちや形が悪いものや、成りすぎた枝からの間引き摘果作業を行った。初回は約千個、2回目は五百、3回目で数百個を落として結実した実の数を半分ほどに減らした。現在授粉後一か月、長径が5cmを超えるほどの大きさに育った。鉄砲虫に注意すれば特に病害虫も無いので以後は盛んに伸ばした新梢を整理するくらいで、収穫期の10月末まで特段手をかける必要はなく放置したままでよい。8年も前3回目に植えた雄木の「孫悟空」が枯れないで枝を伸ばしておりそれに開花すれば、授粉作業と隣家の雄花を譲ってもらうことも必要なくなるのではと期待している。
2016年07月01日
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