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不用品整理の中で一番困っているのはアルバムです。百科事典のような重厚な装丁の立派なアルバムに綺麗に整理されている写真を見ると、燃えるゴミに出すのを躊躇してしまいます。母に『捨てるよ』というと、いいよとは言うものの何か表情が寂しげなんです。しかたなくうちに積んであるんですが、すごく場所取っててずっとどうしたものか気になってました。ついに意を決して、アルバムを一つずつ見て、中から数枚をピックアップして残りは捨てることに。一番昔のアルバムには父の学生時代の写真や結婚前のいろんな女の人が写ってる写真がありました。その中に、谷津遊園の写真が何枚かあったんです。昭和32年6月10日谷津遊園と書かれていて、風景しか写ってないのでデートじゃないみたいです。1982年に閉園して、従業員さん達のほとんどは東京ディズニーランドに移ったようですが、私が子供の頃には潮干狩りとか遊園地とか遊びに行ってましたよ。いまは谷津バラ園になってるそうですが、当時もそれっぽいのが一角にあったようです。象とかペンギンとかいたんですね。これは知りませんでした。大観覧車があったのは覚えてます。海とつながってた気がするんですが、白鳥もいたんですね。昭和32年7月に撮った、これは父と父の祖母、私のひいおばあさんの写真です。ひいおばあさんも長生きで、子供の頃、会いに行ったの覚えてます。この頃って、第1次社交ダンスブームだったんでしょうかね。まだ父と知り合う前の母は、ダンスホールに通い詰めてマンボ踊りまくってたそうです。やっと金曜だ!ビール、飲も。
2023/09/22
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4歳から住んでいた東京下町の家は、似たような住宅が隙間なく立ち並ぶ新興住宅地でした。同世代の子供が多く、遊び相手には不自由しません。路地をはさんだお向かいの家には、同じ年のゆきちゃんと2つ年上のひでみちゃんが住んでいました。ゆきちゃんはよく大きな声で『怪物くん』のテーマ曲を歌っていたんです。藤子不二雄Aさんが亡くなったというニュースを聞いて、突然ゆきちゃんのことを思い出しました。小学校低学年だったときに、ハンサムで有名だったゆきちゃんのお父さんが亡くなりました。確か脳溢血だったと思います。まだ42歳の若さでした。ご近所中が集まってお通夜の料理を作ったり、葬儀の手伝いをした覚えがあります。子供達は、なかなか神妙にじっとしていられないんですね。近所のお母さんたちが持ち寄ったお通夜の料理をつまんだりふざけたりして叱られてました。悲しい事柄というより、たくさんの人が集まるお祭りみたいな感覚です。お葬式が終わって数日経った雨の日曜日のことでした。外からこもったような笑い声が聞こえて窓から顔を出すと、ゆきちゃんが一人、玄関の軒下にうつむいて座っていたんです。笑い袋のボタンを何度も押しては数秒間続く電子的な笑い声を聞き、それが雨の音に混じって妙に物悲しく響いていました。子供心にその姿がかわいそうだなあと思ったんですよ。ゆきちゃんは笑っていませんでした。もともと色白な男の子だったんですが、余計に白く見えたのを覚えています。慰めの言葉など思いつかないので咄嗟に『怪物くん』のうたを歌いました。オレは怪物くんだ怪物ランドの王子だぞオレの指先一本で、一本で大怪獣もでんぐり返るぞ1、2の3、4でたたんでのしたドカバカボンドカバカボカボンドカバカボンドカバカボカボンゆきちゃんは顔を上げて私を見つけると、ちょっと笑って家に入ってしまいました。怪物くんというと、今でもその時のことを思い出します。
2022/04/08
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秋の彼岸も過ぎ、ここのところめっきり日が短くなりました。仕事から帰る頃には薄暗くなって、虫の声が聞こえています。昨日、家に帰ると玄関の外灯がついていました。これまで点けた事が全くなかったので、間違えてボタンを押したのかなと思っていたんです。大将が仕事をやめて家にいるようになってから、1年9ヶ月。いつも私が仕事から帰るときれいにスリッパが揃えられていて、それだけで心が暖かくなりました。床もいつもピカピカ。仕事帰りにスーパーに寄って重い買い物袋下げて帰宅しなくても良くなったのも大きなメリットです。主夫が家にいるって言うのがこんなにありがたい事だとは知りませんでしたよ。玄関で鍵を出すのが面倒だというと、夕方には鍵を開けておいてくれるようにもなりました。『玄関の外灯つきっぱなしだったよ。』と言うと、それは私を迎えるためにわざと点けたんだと言います。その一言で、昔の記憶が一気にフラッシュバックしました。まだ私が子供だった頃、母は私に玄関の外灯をつけて父のスリッパをそろえるようにと命じました。それは一種の儀式のようなもので、出張が多かった父の帰りを家族が楽しみにしているんだと言うメッセージでもあったんです。帰宅した父がそれをどんなふうに受け止めていたかは考えもしませんでしたが、今やっと分かりました。帰る家がある嬉しさ、帰宅を喜んでくれる人のいるありがたさ。外灯の明かりが『待ってたよ。』と言ってくれているような気がしました。
2021/09/30
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池袋から西武池袋線で約10分。1926年に開園した遊園地としまえんが今月末、94年の歴史に幕を下ろします。子供の頃はよく遊びに行ったんですよ。閉園を前にテレビで特集されたりしているので、見るたびに懐かしさが溢れてきます。中学・高校の頃、友達と一緒によく行きました。流れるプールは1965年からあるそうですね。浮き輪でひっくり返って飲んだ塩素臭い水の味まで思い出します。流れに乗るとすごく泳ぎが上手くなった気がするんですよね。流れるプールって、としまえんが世界初なんだそうです。ウォータースライダーも大好きでした。何度もやりすぎて水着のお尻に穴が開いたんですよ。バカですね〜。友達に指摘されるまで気がつかなかった情けない思い出があります。一番の思い出は飛込み台。10代の頃って無謀なことをしでかすじゃないですか。私も3段になった高いところから飛び降りて腰痛めたんです。えび反りしちゃって。そのせいでしばらく部活休んでましたね。後遺症はずいぶん長く続いて、競技ダンス始めてやっと治ったんです。ジェトコースターやバイキング、乗り物にも色々思い出がありませんか?夏は花火も上がりましたよね。いわゆるメリーゴーランド、カルーセルエルドラドという名前だそうなんですが、ここのは世界最古級らしいです。前髪のある馬が1頭だけいて、それに乗るのがツウだとか。米津玄師の『感電』のPVにも映ってましたね。跡地には ハリー・ポッターのテーマパークが2023年にオープン予定とのこと。ここ何十年か全く行ってないし、最後までにもう一度行くとは思えませんが、遠くの空からたくさんの楽しい思い出をありがとうと言いたいと思います。さようなら。
2020/08/20
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今日は両親の結婚記念日でした。金婚式のお祝いにクルーズに行ったのがつい最近のように感じます。今でも実家のリビングルームにその時の記念写真が飾られていました。先日、父の弟にあたる伯父さんから父の若い頃の話を聞いたんです。初めて聞くような話しばかりで驚きましたね。なんと10代の頃、俳優を志していたそうです。養成所の試験も受かって、芸名まであったのだとか。『かがみ りゅうたろうって言うのよ。知ってた?』父の妹にあたる叔母が言います。え===!! どっかで聞いた占星術師みたいな名前ですこと。『お兄さん,いい男だったもんね。』『かっこよかったのよ。』『いっつもおしゃれでね。』そういえば『おやじに薪でぶっ叩かれてやめた』って話しを聞いたことあるような気がしてきました。でもまさかそこまで本格的だったとはね。私が歌手になりたいと言い出したとき、母の猛反対に比べると比較的ゆるい反対の仕方だったのは自分の身に覚えがあったからなのかもしれません。サラリーマンの父しか知らないので、どんな演技をするのかちょっと見てみたかったですね。
2014/10/10
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植物と同じで、年を取ると人間も枯れて行くものなんですね。今日から夏期休暇に入った私は、以前から約束していた通りブルーベーリーをお土産に実家に遊びに行きました。平日の都内は車より電車で行く方が時間が読めるので、久しぶりに電車とバスを乗り継ぎ2時間かけて帰省です。私の実家は東京下町の寅さんで有名な葛飾柴又の近所。最寄り駅はJR総武線の新小岩というところです。ゴロゴロ鞄にブルーベリーをいっぱい詰め込んで駅を出ると、見慣れた風景が一変していました。『バス停がない!』駅前が再開発されていたんです。東京オリンピックと関係あるんでしょうかね。バス利用者は多いはずだから無くなるはずはないので、きっと移動したんだろうとほぼ真昼の炎天下、バス停探して歩きましたよ。ようやく見つけて、そこに列んでいた奥さんに聞いてみました。『いつごろ変わったんですか?』今年になってからだそうです。安全地帯のような場所にあった想い出のバス停が撤去され道幅を広くしただけでなく、私が物心ついた頃からあった陸橋は取り払われ、タクシーも整然と客待ちする場所ができてとってもすっきりしましたね。工事してる期間を全く知らないということは、この駅に降り立つのが相当久しぶりだということのようです。実家では暑いのにエアコン入れてませんでした。年取ると温度感覚が鈍るんでしょうね。父親の運転で近所の和風ファミレスに行き、ランチを食べながら話して感じたのが冒頭に述べた『年取ることは枯れて行くこと』ということです。以前は天丼やハンバーグ定食をがつがつ食べていた父が、すっかり食が細くなって今は干物のように痩せています。なんと私より体重が軽いんです。自分が重すぎるせいもありますが。水分が抜けて旨味が凝縮されて行くように、大らかな父はより大らかに、おしゃべりな母はよりおしゃべりに性格が強調されてきた感じです。父の手を触ったらとても冷たいんです。『なんでこんなに冷たいの?』でっかい動脈瘤が見つかってハンデ3のシングルプレーヤーだったゴルフもやめてしまい、鉄棒で大車輪を見せてくれた頃の筋肉質の身体も今はありません。大好きだった木が枯れて行くのを見るようで寂しい気持ちになりました。そんな私の気持ちを察してか、父が笑って言いました。『心が温かいからさ。』そうか!そうだよね。父はいつも私の救世主だった。心があったかいのが一番。泣きそうになりながら私も一緒に笑いました。
2014/07/28
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もうすぐ七五三の季節になります。私が子供のころは数え年で祝うみたいな風習が残っていて、満6歳のときにお祝いしてもらいました。着物が窮屈で、早く脱ぎたくてたまりませんでしたね。記念写真もふてくされて写ってます。保育園の同級生の中には満年齢で翌年やるという子もいて、まちまちだったんです。今はどうなんでしょう。この数え年という概念、最近ラジオで江戸時代の数の話しをやっていてようやく意味がわかりました。インドで6世紀頃生まれたとされる数字の0(ゼロ)。日本に入って来たのは幕末以降らしく、それまでは子供が生まれるといきなり1歳だったそうです。お母さんのお腹で生きてるんだから0より1の方が理にかなってる気もします。それで数え年は実年齢より1歳上なんですね。正月を迎えると1つ年をとる数え方なので、12月31日に生まれた子供は1日にして2歳になったとのこと。0歳から始まり誕生日ごとに年を加算する満年齢に移行したのが明治35年。でも慣例的にまだ数え年は生き続け、七五三を始め厄年とか昔からの風習の中には今でも使われているようです。ところで成人式の20歳。ハタチって読みますけど、これなんでそう読むかご存知でした?1、2、3、4…は『ひー、ふー、みー、よー』と数えますが、それで行くと20は『はた』または『はたち』なんだそうです。30歳過ぎのことを『みそじ』とか言いますけど、30は『みそ』40は『よそ』50は『いそ』と続いて100になると『もも』と言うそうですよ。山口百恵ってなんで『ももえ』なのかと思ってましたけど、そう言う昔の数え方だったんですね。20は何で『はた』と言うのかというと、両手両足の指を使って数を数えていくと20が限界なので端(はた)だそうです。百(もも)は桃が木にいっぱいなってて数えられないくらいたくさんみたいな意味とのこと。それなら柿でも栗でもいい気がしますね。誰が最初に言い出したんでしょう。ラジオを聞いてて気になったのは10(とお)の次の11って何て数えるのかということ。調べてみたら『とあまりひとつ』だそうです。『とおひー』じゃないんですね。もう一つ豆知識。サザンオールスターズの『真夏の果実』の中で『四六時中も好きと言って』と歌ってますがこの四六時中。意味は4かける6で24時間、つまり一日中ということなんですって。ご存知でした?でももとは二六時中と言ったそうです。昔は時間の数え方が『子(ね)の刻』『丑(うし)の刻』と一日12刻だったので、2かける6で12という訳です。だじゃれ継承ですわね。おあとがよろしいようで。
2012/09/28
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『迷子のお呼出を申し上げます。』行楽先やショッピングモールで場内アナウンスのお世話になった経験はありませんか?珍しい名前だと必ず誰か知り合いが聞いてて、後になって言われるんですよね。『放送聞いたわよ。この前、あの店にいたでしょう。』恥ずかしいったらありませんよね。それが2度3度となると。【送料無料】goldbug 迷子防止ぬいぐるみアニマルハーネス Animal Harness パンダ【smtb-KD】同窓会で迷子と血液型の関係について話題に上がったんです。A型の子供は迷子になり難いとか、B型の子供は自分が迷子になっているという意識がないとか。友達の話しによると、B型の子供はすぐどこかに消えて、少し知恵がついてくると自らインフォメーションセンターに出向き、母親の名前をいってアナウンスしてもらうので、まるで母親が迷子みたいな印象を世間に与えると言うんです。私もB型なんですが、思い当たる節があります。Angel Dept./エンジェルデプト 迷子ひも付きリュック 新・大きいアクマの迷子リュック レッドあれはまだ学校に行く前ですから4才か5才の頃。精一杯のおしゃれをして、母親に連れられ銀座のデパートに出かけました。屋上にはミニ遊園地があって、最上階はレストランだった気がします。母親がバーゲンかなにかに夢中になってる隙に、ちょっと冒険にでちゃったんですね。階段付近をウロウロしてるとジュースの販売機を発見しました。『これ、知ってる!』【送料無料】マイメロディ おしゃべりショッピングプラザ【soryo-tk】昔の販売機は紙コップを置いてお金を入れるとジュースが降ってくるタイプでした。私はコップをセットすると、じーっとそれを見つめながらジュースが降って来るのを今か今かと待っていたんです。もちろんお金なんて持ってませんから、ひたすら待ってたんですね。するとどこのどなたか知りませんが、優しいお兄さんがお金入れてくれたんです。 [楽天最安値に挑戦]【送料無料】【ラッピング無料】マイメロディお札スイスイ!Hiジュース『おー、やったぞ。』私は天から降って来たジュースを大切に抱えると、満面の笑みでお兄さんにお礼を言いました。お兄さんには連れの女の人がいて、多分彼女にいいとこ見せようとか思ったんでしょう。デート中に迷惑な話ですが、私はそのお兄さんが気に入ったのでついて行くことにしました。カップルは仕方なく自分たちもジュース飲むことにして、販売機の側に置いてあったテーブルに着きます。『どこから来たの?お母さんは?』そういえばうちのママちゃんはどこに行ったんだろうな。あくまでも自分が迷子という意識はまるでないんです。母親の方がどこかに行ったと思ってたんですね。ゆっくりジュース飲んでればそのうち来るかなくらいの気持ちです。そこへ思った通り母親が現れました。一人じゃなく、デパートの制服を着た人も一緒です。しかも相当慌ててる様子。『ママちゃん。こっちこっち。』私の甲高い声を聞きつけて母親がすごい形相で向かって来たのを覚えてます。ジュースをおごってくれたやさしい二人にさよならを言う間も与えられず私は母親に引きずられて行きました。ものすごく怒られましたね。お尻ペンペンの刑ですよ。ただジュース飲んでただけなのに。まあ、これがB型ってことなんでしょうか。
2012/07/26
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世の中にはいろんな不思議なことがあるもんです。先日ラジオで面白い話を聞きました。江戸の時代、本所七不思議の一つに『置いてけ堀』というのがあったそうです。本所というのは今の墨田区、錦糸町のあたり。堀で魚を釣ろうとすると、『置いていけー、置いていけー』という声が聞こえるんだそうです。みんな怖くなって釣った魚を置いていくんですが、中には無視して持って帰ろうとした剛毅な江戸っ子もいたんですね。そしたらなんとその人、堀の中に引きずり込まれちゃったそうなんです。この辺は話しに尾ひれがついてるのかもしれませんが、とにかくそんな訳でそのお堀は釣り禁止の『禁止堀』となり、それがいまの錦糸町(きんしちょう)という地名の由来だとのこと。江戸の都市伝説ってわけです。錦糸町と言えば下町育ちの私にとっては子供のころのお出かけスポット。『映画を見るなら楽天地』で、母親に連れられよく怪獣映画や寅さんを見に行ってたなじみの場所なんです。最近は駅前のサンライズホール。関東の競技ダンサーにとってはおなじみの試合会場ですが、地名にそんな逸話があるなんて初めて知りました。だいたい今ついてる東京の地名は江戸時代についたものが多いらしいですね。地名もそうですけど、普通に使っている『おいてけぼり』という言葉に江戸の七不思議が絡んでいたことも面白い発見でした。そんな堀、錦糸町のどこにあるのか私は知らないんですが、きっと危険ということで埋めたかフタしたか、今では目につかないようになっているんでしょうね。
2011/08/02
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『だれか好きな人いるの?』バケツを挟んで愛の告白は続いていました。『いるよ。』『だれ?教えてよ。ボクも言ったんだからさ。』そのときすんなり私も言えばばよかったんですよね。1年の時からハンサム君が好きだったんです。でもタイミングを逸しました。まじめ君が来ちゃったんです。『なに話してんの?』間の悪い男っていますよね。『あのね、好きな子だれか教えてくれるんだって。』おいおいハンサム君、なんでそれをまじめ君にも言うかな。『だれだれ?』私は『あとで』と言って帰り支度を始めました。だって告白って皆に言うもんじゃないでしょ。家が逆方向だから、帰るとなったら今日は見逃してくれるかなと思ったんです。ところがですよ。掃除が終わるのを待っててくれた近所のチエちゃんと一緒に学校を出てからも、みんなゾロゾロついてくるじゃありませんか。ハンサム君だけじゃなく、まじめ君も虫博士まで。なんでおまけみたいのもいっぱいついて来ちゃうかな。とうとう家に帰るまで言えず、そのまま近所の空き地で戦争ごっこなんかして遊んで日が暮れそうになってみんな帰りました。学校から家まで1キロくらいあるんですが、その日から彼らはよくこっちまで遊びに来るようになりましたね。目医者に通っていたので毎日という訳ではありません。ワイルドな遊びが多くてよく怪我しなかったもんだと思いますが、空き地に土管が積んであって、そこで基地作ったりして戦うんです。数日後、遊んでる時に小雨が降り出して、急いで隠れた土管の中でハンサム君と二人になったので、私も意を決して告白しました。だからどうなる訳でもなく、それからも敵になったり味方になったりしながら戦いは続き、お誕生日会にはそれぞれの家でおよばれしたり、自転車に乗れるようになってからは土手で競争したり、今で言うグループ交際でしょうね。私が入院したときは、お母さんと一緒にお見舞いにきてくれて、アンクルとムの小屋の本をくれました。一つだけ忘れられない事件がありました。夏休み前の教室でのことです。リカちゃんが私のところに来てこう言ったんです。『最近ハンサム君がうちに遊びにこなくなったのよね。そっちで遊んでるんだって?』ちょっとビビリました。小2でもこんな大人の恋愛ドラマみたいな展開があるもんなんですね。幼稚園の時からつきあってたリカちゃんは、ハンサム君にフラれて新しい女と思われる私にヤキ入れに来た訳です。『戦争ごっことかしてるんだけど、リカちゃんも来る?』 リカちゃんはきれいな服でバイオリン弾いてるようなお嬢様ですから多分戦争ごっこには加わらないと思いましたけど、なんと仲間と数人で様子を見に来たんですよ。私たちはホントに土管を渡りながら石投げ合ったりして危険な遊びしてたので、それを確認するとさっさと帰っちゃいましたけどね。グループ交際は小3の終わりまで続きました。みんなで秋の明治神宮に行って落ち葉やドングリを拾った写真が残っています。その時も虫博士は一人で虫集めてたな。4年になってクラス替えすると、みんなそれぞれまた新しい友達が出来て自然と会わなくなってしまいましたが、ハンサム君のことはいつも心のどこかにありました。このころって、そろそろ男女が分かれて遊ぶようになっていたし、別のクラスっていうだけで遠距離感があったんですね。同じ学校でもほとんど顔を合わせませんでした。最後に会ったのは4年生の秋ごろだったと思います。私がクラスの女の子達とわいわい言いながら学校の階段降りてきた時に、反対から上ってきた彼とすれ違ったんです。ちょっと視線が合って、お互いに『あっ』って思ったんですよね。彼が不登校になって転校したという噂に心を痛めたのは5年生のときでした。(おわり)
2011/05/14
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小学校に入学するというのは、人生の中でも大きな節目の一つです。最初は慣れないのでなんとなく今までの保育園や幼稚園の仲間が集まったりします。このころはまだ母親が仕事をしている家庭というのは少なくて、保育園に行っていた子は微妙な劣等感があったんです。貧乏だからお母さんも仕事してるんだ、みたいな。私も保育園派でしたので、近所の子たちがかわいい送迎バスで幼稚園に行くのを憧れを持って眺めていました。保育園で仲良しだったなおみちゃん、はるえちゃんとクラスが別々になり、新たな交友関係がスタート。幸い同じクラスのすぐ近くの席に保育園の時からの友達、まじめ君がいました。彼はちょっと要領が悪いところがあるんですがとっても真面目で優しい子でした。今では信じられないかもしれませんが、家でお味噌汁の出汁をとるのにいつも鰹節の塊を削っていたんです。それは私の役目でした。ところが時々失敗して、自分の指も削っちゃうんですよね。まじめ君は包帯グルグル巻きだった私の面倒をよく見てくれたんで割と好きだったんですが、恋花とまではいきませんでした。私が同じクラスで密かに思いを寄せていたのはハンサム君。背が高くてスマートで勉強も出来たので人気者だったんです。噂によるとお金持ちで家庭教師もいるとのことでした。私とは住む世界が違う幼稚園派に属していたんです。もうすでにつきあってる子もいて、リカちゃんという子なんですが、やはり幼稚園派のお金持ちで、家はピアノやバイオリンを教える教室をしていました。二人は下校時間になると手をつないで帰って行って、今から考えると小学1年生なんだから別に普通なんですけど小さな嫉妬心を燃やした覚えがありますね。それから1年が経ちました。2年生になってもクラスはそのまま。クラスの中に虫が大好きで、虫のことなら何でも知ってる虫博士がいました。女の子に話しかけられるとすぐ真っ赤になって面白いので時々からかったりしてたんですが、ハンサム君とまじめ君、そしてこの虫博士は仲良しグループでした。梅雨に入る少し前の新緑の美しい今のような季節だったと思います。席順で掃除当番が決まっていて、同じグループにハンサム君とまじめ君がいました。男子はだいたい掃除なんていい加減で遊んでばっかりなんですが、この二人はまじめに掃除してましたね。机を移動して、ほうきで履いて、そのあと雑巾掛けするんです。私が廊下でバケツに小さな手を入れて雑巾を洗っていると、ハンサム君がやってきました。二人で同じバケツに手を入れてるのにちょっとドキドキ。『ねえ、好きな子いる?』な・なんなの?このおもむろな問いかけに、お地蔵さんのように固まっていると、ハンサム君は言いました。『ぼくはいるよ。』知ってるよ。リカちゃんでしょ。ところが彼はまっすぐに私を見たまま小さく親指を私に向けたんです。え? あたし?その瞬間、私の周りから重力が消えました。小学校2年生の春。初めての告白にボーっとなった私はバラ色の優しい風に包まれてふわふわと空へ舞い上がって行くようでした。(つづく)
2011/05/13
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初めて見た芸能人て誰ですか?大将とテレビ見てるとき、何かの番組でその話題が出たんです。『初めて見たのって誰かな。』二人して小学校の頃の記憶を辿って、しばし遠い目。『ボクは青江三奈。』大将の青江三奈の話しは何度か聞いたことあるんですよね。琵琶湖のほとりに紅葉パラダイスっていう温泉と遊園地がくっついたような宿泊施設があって、大将が家族でそこに出かけた時の話し。お父さんが『青江三奈ショー』を真剣に見てる背中を見て、彼は『父』ではなく『男』としてのお父さんを感じたそうです。私の方は、小学校4年くらいだったと思います。近所の電気屋さんで大売り出しのキャンペーン企画として芸能人を呼んだんですね。『スターが来るらしいよ。』ってことで、しばらく前から近所中その噂で持ち切り。『誰がくるんだろうね。野口五郎とか来ないかな。』おばさんたちも大盛り上がりで、口コミの噂はエスカレートして、テレビに映るかもなんて話しにまで発展して行きます。そしてイベント当日。ご近所さん全員集合の大盛況でした。電気屋さんの前に設えた小さな舞台で、社長が『この町の由来』みたいなことをしゃべって、そのとき初めて自分の住んでるところが鹿島神宮と深いつながりがある町だって知ったんですよ。お楽しみ抽選会もあったり、建て前(上棟式)でもないのにおひねり撒いたりもして、必死に小銭拾った記憶があります。さて、いよいよお待ちかね『スター』登場。誰が出て来るのかと思ったら、『日吉ミミ』でした。わーー!パチパチパチ周りは盛り上がってましたけど、わたしたち子供は顔を見合わせてヒソヒソ。『誰だっけ?』『あたしたち、テレビに映ってるのかな。』残念ながらテレビ局の人は来てませんでしたね。こいび~とに ふられ~たのよくあ~る はなし~じゃないか~みんな合ってるのか合ってないのかよくわからにような手拍子して、テレビでしか見たことないスターに大盛り上がりですよ。さすがに黄色い声は飛びませんでしたけど、おじさんたちが『みみちゃん!』とか叫んだりして、めったいにない町の一大イベントに湧いた一日でした。皆さんが初めて見た芸能人て誰ですか?
2011/01/13
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私が生まれたのは寅さんで有名な葛飾柴又のすぐ近く、下町情緒あふれる街でした。近所の駄菓子屋のおばさんはいつもおまけしてくれたし、向かいのコンドーさんの家には二人のお姉さんがいて、自分の家のようにあがりこんでは夕方遅くまで遊んでもらっていたものです。そこに4歳まで住んでいたんですが、庭に一本の桃の木があったんですね。いまでも桃は果物の中で一番好きで、この季節スーパーの入り口近くに並んでいる桃のいい香りに誘われてついつい手が伸びてしまいます。さて、その桃の木なんですが、桃栗三年柿八年といいますから3年以上経っていた木なんでしょうね。実がなるんですよ。いい匂いがするのでいつも寄って行って見上げてたんですね。ある日、その中の一つが地面に落っこちてたのを発見してしまいます。それは天からの贈り物のように美しく私を誘いました。もちろん食べましたよ。3歳くらいの子供って何でも口に入れますからね。今となっては甘かったのか酸っぱかったのか全然覚えていませんが、一つだけ忘れられないことがあります。口の中がアリンコだらけになったこと。庭で背を向けて立ちすくんでいる小さな私を見つけて、母はどうしたのかと近寄ってみたそうです。口の周りを歩き回っているアリンコを目と指で追いかけながら、その小さな女の子は笑っていました。『ママちゃん、これ。いったり、きたり。』アリンコ踊り食いですわね。まあアリンコ入りチョコレートなんかあったりしますから、食べても害はないと思いますが、バカタレです。落ちているものは食べちゃダメだってきつく言われましたけど、道に落ちてるものってなんで魅力的なんでしょうね。その後も懲りずにいろんなものを食べ、その度に怒られましたがそれでも生きてるんですから胃腸は丈夫な方なんだろうと思います。もも、魅力的ですよね。また天から降って来ないかな。アリンコなしで。去年は2,000箱も売れた極上桃です!当日の朝採れたての桃をその日のうちに出荷しています!【送...価格:2,480円(税込、送料込)
2010/07/29
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なぜか分からないけど『そういうもんだ』と信じていて、ずーっと後になって間違っていたことに気付く、みたいなのありませんか?思い出すだけで心の中で『あ″ー!』って叫んでしまうような情けない思い込み。私は『チーズ』でした。皆さん、写真撮るときどんなかけ声で撮りますか?私が子供の頃、『チーズ』っていうのが主流だったんです。一体誰がそんなこと言い出したのか、なんで(写真=チーズ)なのか、私には意味が全然分かってなくて、それでもいつも『はい、チーズ』っていって言われるままに、『チーズ』って言ってたんですよね。そのせいで、私の子供の頃の写真は全部口が『ズ』の形になって写ってるんです。みんな笑ってるのに、一人だけ口がタコみたいに尖ってるんですよ。中学になってから、『シャッター押すまで、チのところで止めとく。』ってことを友達に教えられて、己のアホさを嘆きましたよ。なんで『チーズ』なのか、どうしていままで疑問に思わなかったんだろう。ああ、私の小学校時代の写真は全部抹殺して欲しい。笑顔で写真に写るためならなんで、『カニ』とか『工事』とか『おうち』とか、口が最後に笑った形になる単語にしなかったんだろうなんて、『チーズ』って言い出した知らない人を責めたり。寅さん映画だったか『チーズ』を『バター』と言って写真撮ってるシーンで偉そうに笑ってましたけど、『ター』の方が『ズ』よりマシなくらいですよ。皆さんはそんな思い込み、ありませんか?
2010/04/27
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ピッタリに直してもらった靴を試合で履こうと思って、ならすために練習で履いてみました。ところがやっぱり痛くて履いていられないんですね。今までずっと履いて来た靴に戻そうにも、これより1センチ大きいものでしたから、小さい靴に慣れると今度はユルすぎて踊りにくいんです。よくいままでこんなブカブカの靴で何年も踊ってたな。おまけに足首が靴擦れで擦り剥けてしまい、ますます他の靴も履いてられなくなってしまいました。10分おきに靴をいじってる私に大将も愛想が尽きた様子。『もうピッタリじゃなくてもいいから踊れる靴くださいって言って来なよ。練習できないじゃない。』それで、先週休暇とって靴屋さんに行きました。小心者なのでいざとなると全然強く言えないんですけど、今日はサイズがでかくてもいいから痛くなくて踊れる靴をもらうつもり。ずっと履いてた大きい靴の方も持って行って、ピッタリの靴との中間サイズを買おうと思っていたんです。鼻息も荒くお店に入ったんですけど、やっぱりダメでした。『どこが痛いんですか?』『はい、ここなんです。右側の上から二本目の紐です。』あらあら。大きい靴買うんじゃなかったっけか。もう直してもらいに行くの3回目ですからね。社長も『またか』って感じかもしれませんが、快く引き受けてくれました。さらに私の履き込んだ1センチ大きい靴を見て、『これも履けるようにして上げましょうか?』え?そんなこと出来るんですか?ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、私の大好きなオペラの一つです。先週テレビでやっていて、思わずつかまってしまったんですが、主人公はハンス・ザックスという靴屋の親方なんですね。お店の裏から靴底を叩くトントンという金槌の音が聞こえて、思わずハンス・ザックスの歌が浮かんできました。女性の店員さんと共同作業で、私の2足のサイズの違う靴が直されて行きます。ときどき軽やかな笑い声が聞こえて、なんか私もうれしくなってきました。『はい、これで履いてみて。特注品ですよ。』ゆるゆるだった靴がピッタリの靴に大変身。あまりなじみがなかったんですが、ダンスシューズの靴底って3層くらいになってるんですね。その一番底の部分が、まだカットされてなくて、足にピッタリになった上の層からはみ出していました。『ここは、うちで自分でカットしてくださいね。』私が何の疑いもなく『はい。』と答えると、なぜか社長が店員さんと顔を見合わせて『ほらね。』と言います。『優しい方なんですよ。』女性の店員さんが社長に言って笑います。意味が分からずどうしてかと尋ねると、頭から胸の辺りをぐるっと指差して『この辺に、出てるんですよ。』ますますポカンとする私。『冗談に決まってるじゃないですか。ちゃんとカットしますよ。』と社長。『真面目な方なんでしょうね。』と店員さん。私ったら、冗談も分からないほど気持ちに余裕がなかったんでしょうかね。(だってあさって試合だもん)さらにかかとが紐ですれないように、結び方をかえるよう薦められました。リカルド・コッキのパートナーのユリアさんがそうやって履いてる写真がカレンダーになってるんですけど、紐を足首から回してクロスにするのではなく、靴底を通してクロスに結ぶんです。そうすると、もっと足首が自由に使えるようになるんですね。踵についてる紐を通すループもカットしてくれました。こんなにいろいろやってもらうのって、実は普通にお願いすると時間もお金も相当かかると思うんですけど、全部おまけしてくれたんです。はるばる3回もお店に通った甲斐がありました。私の足が、あっちこっち傷だらけでかわいそうな感じに見えたんでしょうか。『大きい靴をいつも履いて踊ってるとね、だんだん足が横に育って来ちゃうから気をつけて。はい、お待たせいたしました。』ずっと踊れるダンスシューズが欲しかったんです。それがいっぺんに2足も手に入るなんて嘘みたいです。上野のハンス・ザックスさんに感謝。通販や格安の靴も魅力的でしたが、ここまでしてもらうともう他で買う気がなくなりますね。靴を買うなら、やはりお店に足を運ぶ方がいいですよ。ご興味ある方、お店のサイトはこちらです。
2010/03/15
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じゃんけんのかけ声っていろいろあるんですね。私の子供のころは『最初はグー』なんてことは言わずに、いきなり『じゃんけんポン』だったんですよね。『じゃんけんポイ』ってのもありました。小学校の上級生が『ちっけった』って言ってるのを聞いて、それが流行したこともありましたね。この言い方ってどこが発祥の地だったんでしょう。そういえば一時、長い前振り口上が流行ったこともありました。一般に後出しって言うのはズルいってことになりますけど、早く出しすぎるのはアホなんです。普通は『じゃんけんポン』の『ポ』のあたりで何か出しますね。ところがあるときから、正確には覚えてないんですが、だれかがこんな感じのこと言い始めたんです。『じゃんけんポックリげた、白いげた。』みんな引っかかって、『ポ』のあたりで出しちゃってこれはウケましたよ。そんなのがどこからやってきたのかもう全然覚えてませんが、だんだん長くなって行った記憶があるんです。『じゃんけんポックリげた、白いげたまごがおいしかろうと、いっぽんだてホイ、ホイホイホイ。』ホイの何回目で出すか、けっこう集中してましたよ。だいたい一番大きい子が主導権を握ってるんです。先週『秘密のケンミンSHOW』というTV番組で、福岡では『じゃんけんし』っていうのを聞いて、そういえば博多のいとこたちがそういってたような気がするなと思い出しました。滋賀の大会に出た時、子供たちが階段でグリコをやっていて、そのときは『いんじゃんホイ』って言ってたんですよ。関西はみんなそうなのかと思ったら、大将は『じゃいけんホイ』だと言います。京都はさすがゆるい感じでいいですねえ。手の出し方にも流派があるみたいなんですよね。チョキって、どう出します?Vサインみたいに人差し指と中指出すのが主流でしょうか。たまに親指と人差し指の指鉄砲タイプも見かけたりします。随分前ですが、ギリシャ人とじゃんけんしたらチョキが鉄砲でしたよ。あとパーを出す時に手のひらをどっちに向けるかもいろいろあるみたい。私の場合は手のひら内側ですけど、手のひら下向きとか上向きのタイプも見たことあります。『こんなの知ってるか?』みたいな面白いじゃんけんのかけ声、もしご存知でしたら紹介してくださいね。
2010/02/15
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先日実家に遊びに行ったとき、テレビでこんなニュースやってたんです。『大阪でヨーロッパ原産のかたつむり大発生』これを聞いて母が敏感に反応しました。それは私が小学校1年生の頃のお話です。新興住宅街でしたので通っていた小学校に生徒が増えすぎて校舎も先生も足りないということで、『二部学級』なるものが始まったんです。低学年の生徒を二つに分けて、午前の部、午後の部で授業。私も近所のマリちゃんもその日は午後からの授業の日でした。昼からって言うと何か気が緩んじゃうんでしょうかね。登校途中でマリちゃんがでんでん虫見つけたんです。『かわいいね~。もっといるかな。』梅雨の時期だったのかでんでん虫いっぱいいたんですね。私もマリちゃんも夢中になってでんでん虫集めて、もう学校のことなんかすっかり忘れていました。思いっきり道草ですよ。実はそのとき学校でも家でも大変な騒ぎになっていたんです。『お宅のお子さんがまだ学校に見えてないんですけどお休みですか。』家に電話が行きました。母は仰天したそうです。もう随分前にランドセルしょって出かけてましたからね。『誘拐....?』とか思っちゃったんでしょう、たぶん。うちは東京の下町でご近所付き合いが盛んなところですから、あっというまにこのニュースは町内会に知れ渡り、ほとんど町中総出で捜索活動が始まっていました。一方マリちゃんと私は、いろんな虫に興味がわいてますます昆虫採集に熱が入っています。『あ、バッタ!』空き地の草むらの中にどんどん分け入って、学校のことも時間のことも完全に忘れていたんです。でんでん虫たくさんとれて、大収穫。とそこへ、突然の乱入者。『いたぞ!こっちだ、こっちだ。』草むらにうごめいていたちっちゃな黄色い帽子が見えたんでしょうね。あれ?おまわりさん。近所のおじさんたちも。走ってきたマリちゃんのお母さんは真っ赤な顔でマリちゃんをひっつかまえると、いきなりバッチバチ叩き始めました。担任の先生がちょっと恐い声で言いました。『学校はどうしたの?』マリちゃんはビー泣きしてとても答えられる状況にありませんでしたので、わたしが代表してお答えしました。『あの~、でんでん虫がたくさんいたので...。』母は怒りを必死にこらえていたんでしょうが、私が『ほら。』といってこの大収穫の『でんでん虫』を見せたことで堪忍袋の緒が切れた様子。せっかく一生懸命集めたでんでん虫を私から奪うと、草むらにぶちまけました。家に帰ると待っていたのは『お尻ペンペンの刑』。いまでも『かたつむり』の話題になると必ずこの話しが蒸し返され、その度に私は返す言葉がなく、大将は大笑いです。なんであんなにでんでん虫に魅力を感じたのか、謎です。
2009/07/17
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小学校の頃、仲良しだった女の子の一人にチエちゃんという子がいました。家が近くて入学当初からクラスも一緒でしたので、いつも学校から一緒に帰ってきていた仲良しさん。チエちゃんのお父さんは、おもちゃとかお菓子とかを卸す自営業を営んでおられましたので、その恩恵を受けてよくいろんなものをもらっていたものです。 母親同士も仲が良くて、ある日、新宿コマの『北島三郎ショー』に一緒に行く話が持ち上がったんです。多分チエちゃんのお父さんの仕事関係でチケット何枚かもらったんでしょうね。小学校低学年ですから演歌なんて全然おもしろくないし、私もチエちゃんも全く乗り気じゃなかったんですが、子供だけ置いて行く訳にも行かず、成り行き上ついて行くはめになってしまいました。最初は広い劇場でみる生の芸能人にファンじゃないけど結構盛り上がって、おじさんたちのかけ声に混じって『さぶちゃん!』なんて生意気にかけ声かけてたんですけど、ショーも半ばにさしかかるともうすっかり飽きてしまいました。私の席は列の端っこで後ろも通路になっていて、多分入場制限なんかの時に使うのであろうチェーンがぶら下がっていたんです。舞台を漫然と見ながらチェーンをいじって遊んでるうちに、大変なことをしでかしてしまいました。鎖の隙間に差し込んでた指が挟まってぬけなくなったんです。始めは『入ったんだから抜けるだろう。』くらいの軽い気持ちだったんですけど、回しても引っ張ってもどうしても抜けないのでだんだん焦ってきます。舞台では時代劇みたいなお芝居が始まりチャンバラなんかで盛り上がってるのを尻目に私は抜けなくなった指と格闘を続けていました。このまま取れなかったら、きっと置いて行かれる...。よくおもちゃ売り場で捕まってる私は『おいてくよ!』って母に言われてましたからね。隣に座ってたチエちゃんがゴソゴソしている私に気づきました。『どしたの?』『指が取れなくなっちゃったの。』『お母さん呼ぼうか?』『よばないで。だいじょぶだから。』私にはピンチのときに『お母さんを呼ぶ』という発想はありませんでした。ボコボコに怒られるに決まってますから。4歳のときに家の前のドブに落ちたときも、じっと黙って橋桁にぶら下がってたくらいです。(ご興味のある方はこちら)チエちゃんは一緒に引っ張って抜くのを手伝ってくれましたが、めちゃめちゃ痛いのであとは自分でするからと言って孤独な戦いにもどりました。舞台ではこの日のゲストが紹介されてます。ひょっとしてもうすぐ終わりかも。まずいよ。このまま新宿コマ劇場の鎖につながれて、人知れず暮らして行くかわいそうな少女なんかを想像したりして、もう鎖と奮闘するのに疲れてきちゃったんですね。でもさんざん鎖と格闘してきたおかげで手が汗ばんできてたのか、なんかの拍子にツルっと抜けたんですよ。心底ホッとしました。もう死ぬかと思った。(相当オーバー)それ以来、テレビで北島三郎が出てくるたびに鎖につながれた新宿コマの思い出がよみがえってくるんです。その新宿コマも2008年の大晦日で閉館しました。
2009/05/25
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ダンスでよく聞く足の障害は外反母趾ですが、私の場合は有痛性外脛骨(がいけいこつ)です。聞き慣れない名前ですよね。小学校の高学年になって部活動が始まると、ミニ・メロスは陸上水泳部に入りました。走ってばっかりのクラブなんですが、私は当時部活以外の日でもほぼ毎日走っていて『今日は町内を14周したよ。』なんて親に自慢してたりしたもんです。ところがある日、ふと足を見るとくるぶしの子分みたいなのが右足に出てきてて、押すと痛いんですね。母に連れられて接骨院に行ってみると、さっそくレントゲン。先生は私の足の骨の写真を眺めてくるっとこちらを向くと、度肝を抜くような話をされました。『普通の人にはない余分な骨があるね。』どんだけショックだったことか。『どうしても痛い場合は手術。』なんて言われて母親と二人、どんよりした雰囲気のまま家路についたのを覚えています。こんなことクラスの男子にでも知れたら絶対『妖怪』とか言われるから一生の秘密だ。社会人になって職場で同じ悩みを持つ同僚に出会ったときはすっごくうれしかったですよ。でもこれって、人類の10人に1人は持ってる骨なんだそうですね。普段は痛くないんですけど、過度な運動したり、特に底が固い靴では衝撃がもろに来るのでよくないみたいです。あと、体重が増えたりするのも原因の一つとのこと。しばらく様子見てたらそのうち引っ込んじゃったのでそれっきり忘れてたんですが、最近またこの『くるぶしの子分』が顔を出してきたんですよ。先日クイックステップ練習してて、なんか足が痛いなと思ったらこいつでした。スタンダードの靴って、靴底固いですよね。(と、靴のせいにしてみる)過度の運動なんかしてませんから、あと考えられる原因は体重増加なんです。(これは思い当たる)最近は土踏まずをサポートするグッズなんかもいろいろ販売されるようになりましたし、大将はすでに愛用してますんで私も何か使ってみようかなと思っています。有痛性外脛骨に関してもっと詳しく知りたい方はこちらをご覧さい。
2009/04/16
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白雪姫と王子様は、彼のお城で7人の小人が出席して結婚式をあげました。そしてみんなずっと幸せに暮らしましたとさ。Then Snow White and the prince had a wedding in the prince's castle with seven dwarfs. They all lived happy ever after. 白雪姫の物語はこんな風に終わりますが、この最後の<Happy ever after>がタイトルになってる歌ですから、きっと幸せなラブソングなんだろうと思っていたんです。今から20年ほど前に流行って、ラジオでもよくかかっていました。車のCMとかドラマにも使われてたんですね。ところが、よく聞いてみると、どうも逆なんです。アフリカの人権差別問題アパルトヘイトを歌った曲でした。ジュリア・フォーダムの「Happy ever after」この曲が一度だけ競技会のルンバでかかったことがあります。そのときの様子は<第160話>意味深な言葉に書きました。好きな曲でしたからノリノリで踊れたんですが、ちょっといわく付きの試合だったんですね~。まあ、いつものことですが....。曲の方はこちらからどうぞ。Julia Fordham 『Happy Ever After』Don't ask me why I'm running out of laughterThere's tears in these eyes, not happy ever afterAnd I thought it was plain to seeAnd I thought the whole world could beAnd I thought we'd be happy ever after.You could say that I'm living in a pipe dreamIt's just looking back, things are never what they seemAnd I hope I can safely sayAnd I hope most things go my wayAnd I hope they'll be happy ever after.Down in Southern Africa no happy ever afterNot now, but soon foreverWhile they're sitting comfortably In that white winter cityHow can we be happy ever after?Um by yayEst ce le South AfricaSo don't ask me why I'm running out of laughterThere's tears in these eyes, not happy ever after.And I thought it was plain to seeAnd I thought that maybe you and meAnd I thought we'd be happy ever after.Um by yayUm by yayUm by yayEst ce le South Africa
2008/06/20
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(注)このお話は、西の王子様、東の魔女、南の守護神に続く最終話です。白雪姫は王子様と幸せに暮らすはずもなく、劇が終わると何事もなかったかのようにいつもの保育園生活に戻りました。ところがここで、100年の恋も冷める様な事件が勃発したんです。なんと、西の王子様がおもらししちゃったんですね。『きったねー。』『えんがちょ。』子供はストレートで残酷ですね。私の中でも『世界で一番カッコいいやつ』だったのが、『クラスで一番情けないやつ』に急降下ですよ。初恋はあっけなく終わりました。(短かかったな~)さて、父は出張が多い仕事でしたが、家にいる時は必ず一緒にお風呂に入りました。当時はカラオケなんかありませんから程よくエコーの効いたお風呂は絶好の歌い場だったんですね。父もきっと、いいストレス発散になってたんじゃないでしょうか。アカペラ・メドレーで民謡を歌い、気が向いたら歌謡曲なんかも歌っていました。若い頃、北海道で大儲けをした父は東京に出て、そのお金をパーっと一週間で使い果たしたそうです。宵越しの金はもたね~ってことでしょうかね。その後、気楽な稼業と言われていたサラリーマンになり、母と知り合って東京で身を固めます。大らかな性格の父は、よく私の人生相談にものってくれました。まあ、小学校上がる前の子供の人生相談なんて知れてますけど、子供にとってはそれが世界で一番大きな問題だった訳です。「ねえ、パパちゃん。なんでわたしが悪い魔法使いのおばあさんになったんだろ。」ついに心にずっと引っ掛かってたことを聞いてみました。パパちゃんなら何でも知ってるし、いつも味方になってくれることが分かっていたからです。父の答えは明白で、それは天啓のように私の心を打ちました。「そりゃあ、一番お歌が上手だからでしょ。」あ、そっか!!そういうことか!わたしが悪い子だからじゃないんだ。ほっとして、うれしくて、涙が出てきました。私はお風呂につかったままバシャバシャ顔を洗いました。そっか~。いっつもお風呂で歌ってるから、歌が上手だったから、だからいっぱい歌う魔女なんだ。私が今でもパンド活動を続けている、そのルーツはここにあったんですね。父のこの言葉で、自分は悪い子じゃないんだ、自分は歌が上手なんだっていう小さな自信が生まれました。こんなふうにほんの少し人の気持ちを上に向けてくれる人に、私もなれたらいいなと思っています。
2008/06/19
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(注)このお話は、西の王子様と東の魔女の続きです。私が魔女役になったことで、母は大いに張り切っていました。『奥様は魔女』なんていうドラマがあったりして、魔女にいいイメージをもっていたのかもしれません。衣装はそれぞれの家庭で用意することになっていました。九州生まれの母は子供の頃に両親を亡くして兄妹がバラバラに親戚に預けられ、辛い子供時代を送ったそうです。服なんか欲しくても買ってもらえなかったので、その反動が大人になって顕著に現れ、自分の服はもとより私の服も買いまくっていました。『パンタロンが欲しいな。』その頃流行っていた裾が広がったパンツなんですけど、私が一言いうとそれこそ大人買いのまとめ買いで一気に10本くらい買って来てしまって、色鉛筆みたいに色違いのパンタロンを毎日とっかえひっかえ履いて行く子供時代でした。贅沢なはなしです。でも、このお遊戯会の衣装は『お母さんの手作り』って言う決まりがあったんですね。そんなこと出来るのか、うちの母は?洋裁なんかしてるとこ見たことなかったですからね。でも、作ってくれたんです。感謝の涙にむせびます。でもやっぱりどこか変だったんですね。「これってさ、白雪姫が着るみたいなドレスじゃない?」段々フリルの純白ドレス。私は魔女なんだけど、これでいいの?子供心に先生に突き返されるんじゃないかって気がしたんですけど、それでも嬉しかったので早速着てパタパタ家の中を走り回りました。(その頃からよく走る子だったんです)でも、大失敗をやらかします。パタム!!ころんじゃいました。(このへんの失敗ぶりも今と同じだ)実はこのドレス、紙だったんです。怒られましたよ。すぐ破っちゃって...。さて、衣装を着て練習のとき、ノリで修復された段々フリルの純白ドレスは明らかに白雪姫を喰ってました。先生は頭をひねって、ステージの脇のピアノにかかっていた黒いカバーを私にかぶせます。確かにこの方が魔女っぽい。でも先生、これ重い。ずるずるずる。折角ママちゃんにドレス作ってもらったのに見えな~い。『最後の歌が終わったらマント脱いでいいよ。』今でもその歌覚えてます。♪白雪姫がいなければ~、世界で一番誰よりも~、わたしがきれいでうつくしい~、わたしがきれいでうつくしい~♪毒リンゴ渡したら、かっこ良くマント脱いで思いっきり目立ってやるじょ!
2008/06/18
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子供の頃のお姫様のイメージっていうと、かわいいスカートの似合う髪の長い女の子でした。そのイメージにまさにピッタリだったのは、はるえちゃんだったんです。ですから、白雪姫がなおみちゃんに決まった時は、正直ちょっと驚きました。しかしそれよりさらに最悪なことがあったんです。私、なんだったと思います?なんと、白雪姫に毒リンゴ食べさせる魔法使いのおばあさんですよ。人生ってこう言ったささいなことから、その後の成長方向が大きく変わって行くんですよね。この物語に出てくる唯一の悪役、王子様の敵、それがこの私だったんです。私の人生は終わったと思いました。(早すぎますね~)白雪姫に抜擢されたなおみちゃんはとっても嬉しそうでしたが、あんまり浮かれて、なんだかみんなの反感を買ってしまい、「なおみちゃんなんて、黒いくせに白雪姫なんて変だよ。」なんて言われて泣かされてました。なおみちゃんはちょっと浅黒いボーイッシュな女の子だったんです。割って入った先生は、子供たちにちゃんとした理由を用意していました。さすがですね。「なおみちゃんはね、この組で一番大きな女の子だから選ばれたのよ。だって、小人さんたちより背が低かったら変でしょ。」みんな子供ながらにも『なるほど』と納得したもんです。どれが七人の小人なのか分かんなくなると困りますからね。でもそれじゃ、あたしは?何で悪い魔法使いなんですか?先生、私は悪い子なの?聞きたくても怖くて聞けませんでした。お母さんたちのお迎えを待っていた夕方のお砂場で、私は一人、トンネルを掘っていました。そこへはるえちゃんがやって来て、一緒にトンネルを掘り始めます。「白雪姫、なおみちゃんだったね。」「はるえちゃんがなると思ってたんだよ。髪の毛長いし。」はるえちゃんは小鳥の役でした。かわいいし、いいよな。あたしなんか、魔女だよ。しかもおばあさんだ。私達はしばらく黙ってトンネルを掘っていました。反対側から掘っていたはるえちゃんの手が私の手に触って、私達はキャッキャッと喜び合います。ふと見ると、なおみちゃんが皆から仲間はずれにされて下駄箱のところで一人ポツンと立っていました。何だかかわいそう。私が悪役で悩んでるように、なおみちゃんも白雪姫になったことで悩んでるんじゃないかと思いました。なおみちゃんは悪くないのに。だって、先生が勝手に決めたんだもの。はるえちゃんと私は泥だらけのちっちゃな手を振って、大きな声で叫びました。「なおみちゃんも、おいでよ!」「いっしょにトンネル掘ろう!」恋のバトルは一次休止。またいつもの仲良し三人組に戻りました。しかし私はまだ悩んでいたんです。なんで、わたしが悪い魔女なんだろうって。(注)このお話は、西の王子様の続きです。
2008/06/14
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尊敬から愛が生まれるなんて言われますが、私の初恋もどきはそうして始まりました。保育園の年長組だった時の話です。その頃の遊び友達はだいたい住んでるエリアで区分されていました。保育園のあった場所から見て東側に住んでいた私は、仲良しさんもみんな同じ東エリアの子供たちだったんです。特に良く遊んでいたのは、なおみちゃんとはるえちゃんの二人。西側に住んでる子たちとは同じ組でも『知り合い』レベルの付き合いだったんですね。さて、国語の時間だったんでしょうか。先生が、『自分の名前書けるかな?』なんておっしゃって、一人ずつ黒板に出て名前を書いて行ったんです。鉛筆で書くみたいにちっちゃく書く子もいれば、それは字なのか?みたいなのを書く子もいて、全く統一性のない寄せ書きの様な黒板でしたが、一人だけ異彩を放っている子がいました。フルネーム、上手な漢字で書いたんです。みんな『すげー!』とか『かっこいー!』とか、その子は一役ヒーローですよ。で、私の心の中に小さな恋花がポっと咲いたんです。「このひと、天才かも知んない。」漢字で名前書けるくらいで天才はないだろと思いますが、そんなこと出来る子はほかにいなかったし、いままで遊んだ事無い西エリアの男の子でしたけど私の中で一気に『知り合いレベル』から『世界で一番カッコいいやつ』までポジション急上昇。よく見ると背も高くてカッコいいじゃありませんか。今まで遊んでた東エリアの男の子たちが相対的にレベルダウンして見えちゃいましたよ。仲良しのなおみちゃんとはるえちゃんと3人で、積極的に西エリアの仲間に入って遊ぶようになります。人生の縮図を見るようですね。保育園でもこんなドラマがあるんです。私達三人は、東エリアの男の子たちに『裏切り者』みたいな感じでちょっといじめられましたが、恋の炎はそんなもんじゃ消えませんよ。女は強いんです。さらに火に油を注ぐ様な事件が起こります。お遊戯会で『白雪姫』のミュージカルをやることになり、王子様役にはその西の王子様が抜擢されたんです。さあ、だれがお姫様役なのか、女の子たちは大変な騒ぎでした。
2008/06/13
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今日で、横浜の名物だった氷川丸とマリンタワーの営業が終了しました。経営の悪化が原因ということらしく、なごりを惜しんだ方々が大勢詰め掛けたようです。母はなぜか横浜が大好きで、私がまだ子供の頃、横浜界隈の散策は年中行事になっていました。桜木町で降りて、山下公園を歩き、中華街で遊んで必ずゲッペイを買って帰ってくるんです。マリンタワーも一度ならず上りました。一番強烈に覚えているのは、マリンタワーの下で福袋を売っていてそれを買ってもらったことです。多分、小学校2年くらいだったと思います。『おうちに帰ってから開けるのよ。』私は、うちに帰るのが待ちどおしくてたまりません。電車を乗り継いで東京下町の自宅までは二時間ほどかかりました。帰って大喜びで開けてみると、中から出てきたのはゴム製のトカゲや蛇、蜘蛛にカエル、それに秘密の針金を引っ張ると中からバネ仕掛けの変なアラビア人が飛び出す魔法のランプ。泣きたい気持ちでした。なにこれ。福袋には『男の子用』と『女の子用』があったんですが、お店の人が私を見て男だと思ったのか、どう見ても『女の子用』の福袋ではありえない中身でした。それでも、近所の子をゴムの蛇で脅かしたりするのは結構楽しかったし、変なアラビア人が飛び出す魔法のランプも友達にすごい受けてました。大将も子供の頃、横浜に何度か来た事があると言っていました。お父さんが船乗りだったので、長い航海から帰るときにはお母さんと一緒に京都から出迎えに来ていたそうです。マリンタワーのライトアップが消された瞬間をテレビで見たとき、ふと、いろんな思い出が頭の中を走りぬけて行きました。
2006/12/25
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ドレスアップした小さな女の子が、お父さんに抱っこされてワルツを踊っていました。先日、パーティで見かけたとても素敵なワンシーンです。私はカメラを持って走りましたが、混雑したフロアの中、あっという間に見失ってしまいました。男性は人の波を縫うように、大きなステップで美しいワルツを踊っていて、まるでその女の子の白いドレスが、海原を走る小さなヨットのように見えました。それは、にゃんこのめさんの家のおチビちゃんと、お父さんのコピラさんでした。シャッターチャンスを逃した私は、カメラ片手に席に戻ってきて鞄に仕舞おうとした時、ふと、とても昔の記憶が鮮やかに蘇るのを覚えて思わず手が止まりました。明るい居間、古いステレオ、ヨハン・シュトラウス、父の大きな足の上に立って一緒に踊っている自分。私が4才ぐらいの記憶だと思います。大きな水玉のワンピースを着た母が手を叩きながらそばで笑っています。私は落ちそうになるのをこらえながら、必死に父の足にしがみついていました。これが私のファーストダンスの想い出です。ずっと後になって、同じように娘を足の上に乗せてステップする父親のシーンをテレビか何かの映画で見て、あの時の父はこれを真似たんだなって思ったことがありました。グレンミラー物語だったか、愛情物語だったか、なにせ古き良き時代のアメリカ映画でした。今では競技会に来ても『腹が減った。』とか言い出して、一次予選で帰ってしまうような父ですが、そんな風に一緒に踊ったことがあることを思い出して思わず微笑んでしまいました。父は覚えているかな。でもきっとおチビちゃんはこの時のことをずっと覚えていて、私と同じようにときどき思い出しては微笑むことでしょう。お父さんと一緒に踊ったワルツの、頬をすり抜ける風のことを。
2006/08/16
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今日は七夕。皆さんどんな願い事をされたのでしょうか。子供の頃、私が一番沢山短冊に書いたのは「目がよくなりますように。」というお願いでした。<第109話> 夢が叶うまでの時間でお話ししました通り、仮性近視だった私は、その治療の目的もあって、よく星を見るようになりました。東京のぼんやりした夜空には、せいぜい2等星くらいまでの星しか見えないのですが、毎晩見ているうちに次第に興味がわいて来て、星の名前や星座にまつわる神話を調べたりするようになりました。小学校高学年になってくると宇宙がビッグバンと呼ばれる大爆発から始まったこと、いまでも宇宙は膨張を続けていること、星にも一生があること、なんかを本で読んで知るようになり、ますます宇宙の神秘に魅せられて行きます。近所のめがね屋さんに飾られている望遠鏡が欲しくて欲しくて、そこを通るたびにショーウィンドウにぺったり張り付いて、なかなか離れませんでした。しかし、親は決して「買ってあげる」とは言わず、早くしないと誰かに買われちゃうんじゃないかと、いつもドキドキしながら、地道にお小遣いをためていきました。小学校6年のとき、ついに念願かなってその望遠鏡を手に入れました。始めて見たのは月でした。私が自慢の望遠鏡を家の前にだして、レンズをのぞきながら調整していると、近所の子たちがどんどん集まってきました。 月がレンズの真ん中に入ったとき、「こんなに明るいのか」と、本当にビックリしました。クレーターもはっきり見えて、私が「うわー!すごい!」なんて言ったもんですから、みんな「見せて,見せて。」とぎゅうぎゅう押し寄せてきます。親たちも集まって来て、「何が見えるの?私にも見せて。」なんていわれて、私はうれしくてしかたがありません。「ちゃんと,並んで。順番だよ。」交通整理してくれちゃう子まで出て来て、見た人が、口々に「すごいねー。あれがクレーターなんだね。」「随分明るいんだね。」なんていうもんですから、後に並んでる人たちは、早く見たくて首を乗り出しています。まるで、友達にペンキ塗りをやらせてあげている、トム・ソーヤみたいな気分でした。月は以外と運行が早いので、ちょっとほっておくとすぐにレンズからはみ出してしまいます。「そろそろ見えなくなるよ。」と呼ばれると、微調整のつまみを使って、また月をレンズの真ん中に入れ、並んでる人はおとなしくそれを待っていました。月は、誰のものでもありませんが、「私の月」を見せてあげてるような感じです。今から考えると、大した望遠鏡ではないんですが、お小遣いを貯めて、やっと買った望遠鏡は、いまでも捨てられずに実家の押し入れに入っています。【ミザール】天体望遠鏡ST-700(入門用)惑星面の細部・月の小クレーターまで観測可能!!MIZAR K-90M【新品です!!】【ミザール】天体望遠鏡K-90M(高性能)
2005/07/07
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私が4歳の時に引越してきた東京下町は、周り中同じような家が立ち並ぶ新興住宅街でしたが、まだ随分自然も残っていて、浅草の「朝顔市」や「ほおずき市」の出荷もとでもあったので、園芸農家も多い地域でした。家の前には、幅2メートルくらいのコンクリートで固めた用水路があって、細い橋げたが、はしごのように等間隔でかかっていました。大人に見つかると怒られるので、誰も見ていないときを見計らって、子供たちは、度胸試しのようにして渡って遊んでいたものです。用水路には、フナやハゼなんかがいたりして、父は面白がって手製の釣り糸をたれていました。私はそばで遊んでいましたが、そのうち飽きて、平均台のような細い橋げたを行ったり来たり渡って遊び始めました。何度かやっているうちに、だんだん調子に乗ってきて、ケンケンで渡ったりしたものですから、ずりっと落ちてしまったわけです。その日は、母が洗濯や掃除を終えたら、午後みんなでお出掛けすることになっていて、よそ行きの服を着ていました。私は用水路の細い橋げたに両手でつかまり、「まずいことになった。」と、小さな心を悩ませていました。「よそ行きの服なんだから、あんまり遊んでよごしちゃだめよ。」っていわれてたのに。よりによってドブにはまっちゃったよ。4歳ですから、当然足はつかないので、そのまま手を放したら死んじゃうかもしれないのに、そんなことは思い付かないわけです。「ベランダでお洗濯干してるママちゃんに見つかったら大変」そう思って、私はその細い橋げたに身を潜めてじっとしていました。父はすぐそばで、なあんにも知らずに魚釣り。しばらくして、ベランダから母の声が聞こえました。「あの子、どこいっちゃったの?」のんきな父は、「さあ、そのへんで、遊んでんだろ。」ちがうの。私はここ。そろそろつかまってる手がしびれてきました。その時、母の悲鳴のような叫び声がして、私は思わず手を放しそうになってしまいました。「大変よ!落ちてる落ちてる!!」母は、ベランダから用水路に飛び込んでくるような勢いでした。魚釣ってた父と、その時目が合いました。お互い、気まずい感じです。父は、「なんでちゃんと見てないの。」といって、母にめちゃめちゃ怒られ、そのお陰で私のよそ行き服がどろどろになったことに関しては、あんまりお咎めなしでした。しかし、この用水路は、深くて流されたら海まで行っちゃって、お魚に食べられちゃう「世界で一番こわい」ものなんだから、二度と橋げたを渡っちゃだめと、さんざんお説教されました。それで懲りて、二度とわたらなかった?まさか。世界で一番こわいのは、ドブじゃなくて、母ですから。≪お中元≫ほおずき4本立(愛知)≪送料込み≫巨大輪混合 朝顔(718)白花夕顔(769)菜園ネット20cm目 1.8X9m
2005/06/10
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小学校の低学年のころ、私の住んでいた下町には、実にユニークな友達がたくさんいました。なかでも、マリちゃんは名前の通り、顔はマリみたいにまんまるなんですが、とても運動神経が発達していて、「あたしはね、JACに入るんだ。」と、いつも言っていました。JACというのは、真田広之や志穂美悦子といったアクションスターを生み出した、ジャパン・アクション・クラブ。千葉真一の弟子達が集う場所で、所属しているスタッフはスタントなんかをこなしたりする、凄い人ばかりです。トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」という映画でも、素晴らしい立ち回りを披露する真田広之は、何と、日本舞踊玉川流の名取でもあります。私は、よくマリちゃんと一緒に、バクテンや、バクチュウの練習をしていました。身体が凄く柔らかいマリちゃんは、ブリッジの状態からバクテンが出来て、私みたいに思いっきり助走しないと出来ない人間とは作りが違いました。その頃の私の夢は、歌手になることでしたから、別にバクテンができなくてもいいんですが、「一緒に、千葉真一の弟子になろう!」なんて言われて、それも、いいかな、なんて漠然と考えていました。弟子にならないにしても、真田さんはかっこいいな、と思っていて、それは、ずっと続いていました。大学に入ってバイト先で、偶然にも真田さんのマネージャーの奥さんと知りあいになって、直筆のサインをもらうことが出来ました。それはもう、私にとっては家宝のような色紙ですが、結婚するときに実家に置いてきてしまいました。マリちゃんは、どうしているんだろう。縁日で買ってきた色とりどりのヒヨコを一緒に面倒見たり、学校さぼって一日中、でんでんむし捕まえたりしたマリちゃん。先生もPTAも総動員で、私たちを探して、「でんでんむし、つかまえてたのよ。」といったら、母親は切れて、折角集めたでんでんむしを、全部空き地にぶちまけました。ダンス競技会のプログラムで、「マリ」という名前をみると、彼女ではないかと、思ったりします。ラスト サムライ 特別版-DVD-〔送料無料キャンペーン中〕坂本龍馬 ◆20%OFF!<DVD> [TDS-5094]たそがれ清兵衛キル・ビル Vol.1-DVD-〔送料無料キャンペーン中〕新・影の軍団 第五章 服部半蔵VS陰陽師
2005/05/10
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ヒーローというと、真っ先に誰を思い浮かべますか?歴史上の人物、アニメやドラマの登場人物、ウルトラマンやガンダムのようなキャラクターを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。小学校の低学年、多分2年生くらいだったと思いますが、体育で逆上がりを習いました。授業中に出来る子と出来ない子がいて、私は出来ない方に入っていました。家に帰ってその話をすると、次の週末、校庭開放に行って、父が教えてくれるということになりました。「学校に行ってた時ね、パパちゃんは鉄棒の選手だったんだよ。」校庭開放に行くと、小さい子供用の鉄棒では、足をひっかけてグルグル回って遊んでいる女の子たちがいました。その横で、わたしの逆上がり特別授業は始まりました。一人では、何度やっても上がれないのに、父がひょいっと手を添えるだけで、魔法のように逆上がりが出来てしまいます。それを何回か繰り返しているうちに、身体がタイミングを覚えて、とうとう一人で出来るようになりました。父は、私を砂場にある一番高い鉄棒の所に連れて行きました。「危ないから、ここにじっとしてるんだよ。」そういって、高い鉄棒にぱっと飛びつくと、どんどん大きく揺らして、大車輪を始めました。私は、あっけにとられて、お砂場で小さくなって、じっとその様子を見ていました。父がグルングルンと回るたびに、太陽の光が見え隠れして、最後に砂場に着地するまで目が離せませんでした。なんで、こんなに凄いこと出来ちゃうのに、オリンピック選手にならないのか、私はとても不思議で、父にそう尋ねました。「凄いことが出来ても、みんながオリンピックに出るわけじゃないんだよ。」きっと、もっと凄いことも出来るけど、秘密にしてるに違いない、と私は思いました。なぜなら、地球が危機に直面した時に戦う秘密戦士だからです。父は、小さな私の心の中で、絶対的なヒーローになりました。
2005/04/06
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「ほら、またあの子が来たよ。」父は子供の頃、得意の民謡を大声で歌いながら、おばあちゃんの家に遊びに行っていました。その歌声が遠くから近づいてくると、何かおやつを用意して、おばあちゃんは縁側で待っていてくれたのです。私も父のまねをして、2歳の頃から、民謡を歌っていました。お風呂に入ると、歌がこだましてとても上手に聞こえるので、父と一緒に延々と民謡メドレーの合唱。ソーラン節~八戸小唄~会津磐梯山~大漁節~花笠音頭~相馬盆歌~真室川音頭~東京音頭~コキリコ節~おてもやん~黒田節~北は北海道から南は九州まで。大人になって、私は、新人歓迎会で花笠音頭を歌い、この昔取った杵柄は活かされました。そんな歌の上手だった父が、喉頭ガンに冒されてしまいました。ロングサイズのたばこを一日2箱、何十年も吸っていたのですから、決して不思議ではありません。父はマスコミ関係の仕事をしていました。幸い、早期発見だったことと、他に転移が見られなかったので、手術の必要はなく、放射線治療だけですみました。しかし、風邪をひいただけでも痛いのどを、放射線で焼くのですから、唾を飲んでも涙が出るほど痛いそうです。父は、艶のある声を失いました。私も、洋楽に入れ込んでいたので、もう、この家の民謡の灯は、完全に消えてしまったのでした。それから数年が経って、夕食後に母とミカンをほお張りながら、テレビを見ていたときのことです。突然、テレビの音とは違うメロディが、耳に飛び込んできました。「めでたあ、めでたあ~の、若松さあまあよ~」ハッと息を呑みました。お風呂から聞こえてきたのは、花笠音頭。私が母の腕を掴むと、母はもう、泣いていました。「歌ってる!」この家に、また、民謡が響く日が来るなんて、信じられないような驚きでした。私は、だれに感謝したらいいのか、この喜びをどう表現したらいいのか、分からずに、ただ、ボロボロ涙を流しながら、「歌ってる、歌ってる。」と何度も繰り返して、母と手を取りあって泣きました。いまでもこのときのことを思い出すと、感動の涙がにじんでくるのです。生きているって、本当に素晴らしい。日本民謡傑作選日本民謡大全集 甲信越編日本民謡大全集 北陸・東海編日本民謡大全集 近畿編日本民謡大全集 関東編日本民謡大全集 北海道編日本民謡大全集 北九州編日本民謡大全集 南九州編
2005/04/05
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探し物をしていて、懐かしいものを見つけてしまいました。16歳の頃の淡い恋心を歌った曲です。私が作詞して、曲は昔のバンドのメンバーが作ったもので、コンテストに応募して入賞し、何とNHKFMラジオで流れたんです。1回だけ。部活のために朝早いバスに乗って通学していた私は、ある日、そのバス停でこの下町にはそぐわない、フェルメールの「天文学者」みたいな高校生と出会います。整った目鼻立ちに銀縁の目がね、肌は透き通るような白さです。普通の学生服なのに、それをシャープに着こなして、まるでオートクチュールに身を包んだ貴公子のようでした。数日は、朝、そのバスに乗るのが楽しみで、だからどうするわけでもないのですが、「今日も会えた」日には一日が楽しく過ごせたものでした。「きれいな人だな」と、思ったのは私だけではなかったようで、その時間のバスが、やけに女子高生が並んで混むようになりました。しまいには、30メートルくらい並ぶようになってしまい、バスに乗れないほど混んできたので、しかたなく、もう少し早い時間のバスに切り替えました。すると、なんとそこには、別の見目麗しい高校生がいるではありませんか。この町はいったいどうなってしまったのだ。モデル事務所でも出来たのか、ジャニーズの出張所か。そして、このバスも混んでいました。あるとき、その二人が兄弟であることが判明。私はどちらかいうと、弟の方がタイプでした。テレビ映画で見たカーレースものの主人公にちょっと似ていたので、その人の名をとって「フェビアン」と心の中で呼んでいました。告白するほどの勇気はないので、フェビアンの横顔をよくノートにスケッチしていました。日記にも時々登場。学校で友達に話したら、私にもそんな奥手な一面があったのかと驚かれました。しかし冬のある日、突然の急展開を迎えます。こんなことは初めてでした。帰りのバスも一緒になったのです。外は、小雪が降り出していました。私はそのとき、「ライ麦畑でつかまえて」の文庫を読んでいたのですが、斜め前に背筋を伸ばしてまっすぐ前を見つめたまま座っている彼の横顔が気になって、同じところを何度も読んで、すっかり目が泳いでしまっていました。いよいよバス停について、一番後ろに座っていた私は、扉の方に向かおうとすると、彼が私のすぐ前に立ち上がりました。こんなに背中が近くにあるのは初めてだったので、ものすごくドキドキしたのを覚えています。フェビアンは先にバスを降りました。私は雪が降っているのに、ちょっと躊躇して、かばんから傘を出す間に、おばあさんが降りていきました。ようやく傘を取りだして、バスを降りた瞬間、その時だけ時間が止まったような気がしました。彼の笑顔を初めて見たのです。そしてその笑顔は、すぐ後ろを歩いているおばあさんに向けられていました。私は、ハッとして立ち止まり、気まずそうに何か言おうとしていた彼と目が合ったのです。彼はそのままくるっと背を向けて、信号を走ってわたっていってしまいました。それが、フェビアンを見た最後でした。彼はひょっとしたら、すぐ後ろに歩いているはずの私に何か言いたいことがあったのではないかと、あとになって後悔し、朝のバスも時間をいろいろ変えて乗りましたが、それ以来、一度も会えなくなってしまいました。それから4年後、私は偶然バイト先でフェビアンのお兄さんに再会します。ちょっとだけ話をして、彼らが短い間、私の住む下町に暮らしていたこと、その後すぐに引越してしまったことを聞きました。いつかまた、ダンスの競技会か何かで、フェビアンに偶然会えないかな、なんて、その懐かしい曲を聞いて思ったりしました。フェルメール作品カタログ真珠の耳飾りの少女【豪華プレミアム限定版】【ZMBY-1840】 =>20%OFF!《発売日:05/01/14》美の巨人たち フェルメール「牛乳を注ぐ女」/ミレー「晩鐘」≪ポニーキャニオン DVDキャンペー...
2005/02/15
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うちの斜向いは「書道教室」でした。私もご近所付き合いの一環として、小学校に上がる前からその書道教室に通い始めました。そこは子供の社交場。いってみれば、遊びに行く前の、待ち合わせ場所みたいなもんでした。小学生になると、冬休みの宿題に「書き初め」というのが入ってきます。父も一緒に書き初めをしますが、何年経っても、書道教室に行っているはずの私の方が下手くそでした。父は、母との結婚のお許しを得るために、毛筆の手紙を書いて母の郷里に送ったそうで、そのレトロさに圧倒されて、結婚を許されたとか言う話を聞いたことがあります。要するに、達筆なのです。中学に入る前に、書道教室が引越してしまったため、もう通わなくてもよかったのですが、母が、どこからか「いい先生」を探しだしてきて、そっちに通うことになりました。新しい先生は、大きな自宅の一室を教室にしている、82歳のおじいさんでした。教室はしーんとして、誰一人ふざけあう子供もなく、私はいままでとあまりに勝手が違うので、かなり腰が引けていました。白髪混じりの太い眉の下には、キリっとした光を放つ目がこちらをじっと見つめていて、私のいい加減な気持ちを見透かされるようでした。実際の先生はとてもやさしくて、真面目に取り組めば熱心に指導して下さいました。単なる近所付き合いで始まった書道も、中学生になるころにはかなり上達し、まだまだ父には及びませんでしたが、特待生候補にまで到達しました。これが、どのくらい凄いかといっても、今となってはどっちでも言い話ですが、高校から大人クラスに変わるとき、スライドして準五段になれるのです。そのあとは、たしか、五段、準師範、師範となっていくんだったと思います。プロゴルファーがだめなら書道家か?親の目論見はよく分かりませんが、何せ、高校1年まで書道を続けて、五段になりました。今となっては、パソコン全盛ですから、年賀状も筆では書きませんし、役に立つのはご祝儀袋に名前書く時くらいです。うちには硯も筆もなく、あるのは筆ペんだけ。そして未だに、父にはかなわないのです。毎年、立春を迎えると、父は色紙に「立春大吉」と筆で書き、それをみんなが一番集まるダイニングの壁に東向きに貼ります。それに、どんな意味があるのか、実は分からないのですが、なんとなく縁起がいいし、結婚してからは2枚ずつ書いてもらって、一枚うちに貼っています。去年の分も、捨てるのももったいないので、うちではとっておいてあります。今日は立春。きっと今ごろ、「今年はどんな字にしようか」そう考えながら、父は机に向かって頭をひねっていることでしょう。 ”義理人情” 書道家が書く漢字Tシャツ 書道作品を引き立てる上品な台紙色紙掛 扇面
2005/02/04
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真夜中の大音響は、隣の2階の床が抜けた音だったんだそうです。お隣は、ご夫婦で学校の先生だったので、2階にも本がたくさん積んであって、その重みに耐え兼ねて床が抜けたと言う話です。その事件があって、次の日曜日はどの家でも、2階の重い荷物を下に下ろす作業でおおわらわ。勿論うちもそうでした。本棚は全部一階に下ろし、私も本を運んで階段を何往復もしました。節分の夜。この人情味あふれる下町の家々から、子供たちの声が響きます。「ふくはーうち、おにはーそと」お隣の学校の先生の家は控えめです。「福はうち。ホホホ。鬼は?外。ホホホ」変な照れ笑いが入るので、よけいおかしく感じられました。私の家では、父と私が大声を競っていました。母が、「恥ずかしいから今年はちょっと小さめに」なんていうので、ますます面白がって大声で叫びました。「ふくはーあ!うちっ!!」こんなに叫んだら、福だってびっくりして寄り付かないんじゃないかというような大声です。ふと、下を見ると、近所のおじさんやおばさんが集まってきてます。「お、ギャラリーが来たよ。」父と私はますます張り切って、声を上げました。絶好調です。すると、母が出ていって、ペコペコ挨拶してます。何やってんだろうね。あれ?こっち指さしてるよ。「どうしたの?」私が叫ぶと、近所のおじさんが、下から叫びました。「喧嘩してんのかと思って、見に来たんだよ。豆まいてんのか。ハハハ」父と私は大笑いしました。母はかんかんに怒って、2階に上がってきました。父と私の「豆まき大声競争」は、このあとも懲りることなく、ずっと続きました。中学2年まで住んでいたこの家は、今ではすっかりリフォームされて、バレー教室になっています。【2005年 節分大バザール】つくだに屋さん厳選・節分記念福袋福は内!福袋(5000円)
2005/02/03
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私が4歳から14歳までの10年間住んでいた家は、同じような作りの家が立ち並ぶ、東京下町の住宅街。小さな子供のいる若い夫婦が次々と移り住んできて、町内会の行事も活発でした。近所で夫婦げんかがあると、みんなで仲裁に入り、旅行に行ったら、向こう三軒両隣には必ずお土産を買ってくる、そんな人情味あふれる所でした。子供たちも同じような年代なので、遊び相手には不自由しません。近くのアパートで火事があったときは、今どき信じられないような話ですが、消防車が来るまでバケツリレーをしました。「青空アパート」という名のアパートの2階でガス爆発が起こって、大きな火の手が上がり、夜中過ぎにもかかわらず次々とご近所さんが大集合。幸いアパートの住人はみんな避難して、火元の人も飛び降りてねんざした程度の怪我ですみました。翌日、焦げた匂いのたちこめたアパートの近くで、子供たちはこわいもの見たさに集まって、ガラクタ集めをして遊びました。見上げると、2階の屋根が吹き飛んで、その名の通りの「青空アパート」。みんなこのダジャレが大いに気に入って、家に帰って親達に自慢したものです。「ねえねえ、おかあさん。あのアパート、ほんとの青空アパートになってたよ。」この事件は、私が小学校の4年くらいの時に起こって、それからしばらく、眠るのが怖くなった記憶があります。寝ている間に、火事になったらどうしよう、という不安からです。こんなこともありました。町中が寝静まったある夜、空気を揺るがす大音響が響き渡りました。「ドッカーン!!」眠っていた家々に、次々と明かりが灯り、パジャマ姿のまま、一人、また一人と家から出てきました。私は「出ちゃだめ」といわれたので、2階の高窓から、目だけ出して覗いていました。「トラックがどっかに突っ込んだような音だったな。」「飛行機が落ちたんじゃないの?」「ガソリンスタンドが爆発したのか。」みんな口々にいろんなことを言っています。外に出ている人はますます増えて、子供たちも出てきました。私も、出たくてウズウズしてきました。隣のおばさんが玄関に現れ、何か話してしきりに頭を下げています。それを聞いた人たちが、次々に帰っていくではありませんか。なになに?私も一生懸命聞こうとしますが、おばさんの声は小さすぎて聞こえませんでした。(つづく)消火用布バケツ消火布ファイアーストップ
2005/02/02
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ハワイで現在行われているソニー・オープンin ハワイで、日本の丸山茂樹選手が大活躍をされています。プロ選手の人数が一番多いのがゴルフということですから、その中で勝ち上がっていく実力、精神力はずば抜けたものがあるのだと思います。女子ゴルフ界にも、宮里藍選手が登場して、随分話題になりました。私が最初にゴルフクラブを手にしたのは9歳のときでした。ゴルフ好きの父にくっ付いて、近くの練習場に行き、いつもファンタオレンジを買ってもらって、練習を眺めていました。「ちょっと、打ってみる?」見ているだけに飽きてきた私は、喜んで打席にたちました。父がグリップの握り方、スタンスの取り方、フォームを説明してくれて、私は思いっきりクラブを振りました。「あれ?どこに飛んだの?」遠くに張ってあるネット、その手前にたっている旗、私はキョロキョロボールの行方を探しました。「当たらなかったよ。」足下を見ると、ボールはセットしたところにのかったまま。空振りです。9歳の私にはクラブは重くて長過ぎました。今度は、9番アイアンを貸してもらって、ボールから目を離さずに、力の限り叩き付けました。「ドスッ」鈍い音がして、ボールがチョロチョロ転がっていきます。私は急いで芝生に出て行く前にボールを捕まえました。そんな始まりでしたが、その日から、父が練習場に行くときは必ず付いていくようになりました。重たいコインをガコンと投入すると、かご一杯のゴルフボールがガラガラ落ちてきます。それを二つ両手に持って、父に一つ、私に一つ。私も専用の打席を一つ用意してもらって、クラブも9番アイアンから、7番、5番、スプーン、ドライバーとだんだん打てるクラブが多くなっていきました。数ヶ月たったころには、打った球が真っすぐネットに当たるまで飛ぶようになり、練習場のおなじみさんから「うまいね。この年からやってたら、絶対プロになれるよ。」なんておだてられて、父もとってもうれしそうでした。うちにいるときも、暇さえあれば居間の絨毯の上で、パターの練習です。父はクラブをもっと飛ぶように自分で改造していました。シャフトを伸ばし、グリップを替え、ヘッドにおもりを貼って、ドライバーを「物干竿」と呼んでいました。会社でゴルフサークルを作り、その会長になって、よくコンペで優勝杯を持って帰ってきました。私と母は、コンペに関しては無関心でした。商品がゴルフ用品だったりすると、特に無関心で、それが、生活用品だったり、商品券だったりするときだけ、反応しました。今から考えると、優勝するのは結構大変ですから、父はさぞかし張り合いがなかったろうと思います。次第に身長も伸び、力もついてきた私は、ますます練習場で目立つ存在になっていきました。練習に来ていたおじさんたちも、打つ手を止めて私のスイングと球の行方を見守り、コーチをしていた父もさらに熱が入ってきました。カメラを持ってきて、スイングの連続写真を撮ってフォームを研究したり、プロにアドバイスをもらったり、このままいくと、本当にゴルフプロまっしぐらかと思われる時期がありました。人間には本当にいろいろな可能性があるのだと思います。私は中学に入ると、あれだけ熱心に取り組んでいたゴルフをあっさりやめてしまいました。その時使っていたゴルフセットは、部屋の片隅でほこりをかぶったまま。就職してゴルフにはよく誘われましたが、一度も行くことはありませんでした。余談ですが、丸山選手は同じ小学校だそうです。学年が違うので、全く交流はありませんでしたが、うちの向かいに住んでしたりょうちゃんというお兄ちゃんとは同級生で、よく一緒に遊んでいたということです。父は、いまもゴルフを楽しんでいます。父の兄弟は全員シングルプレーヤーですから、兄弟コンペは非常にレベルの高いものだそうです。いまさらとても入っていけそうもありません。何かに打ち込んで、それを極めたいと思う遺伝子を受け継いでいる私が、いま、燃えているのは社交ダンスなのです。COUGAR【クーガー】TOUR-X17点ゴルフセットバックカラー(ブラック・グレー)レディース、ゴルフクラブセット英国ダンロップ Tour Elite(キャディーバッグ付き)送料・代引き...[PSP-新品] みんなのGOLF ポータブル◆「福袋」◆
2005/01/17
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今年初めての日の出を見ました。太陽が東の窓から差し込んで、部屋をオレンジ色に染め、その中に自分の陰が映し出されるのを見るのは、冬ならではの、すがすがしい感動でした。早起きしたのは、年中行事である初詣に行くためです。毎年3日に、浅草寺にお参りに行きます。10時を過ぎると交通規制が始まり、雷門の周りは通行止めになるので、いつも朝早く出て、まだ仲見世が開く前に行くことにしています。蔵前橋通りを浅草に向かうと、途中に学問の神様で有名な亀戸天神があります。今日も、合格祈願の受験生で大変なにぎわいになることでしょう。私が高校三年の時、通っていた予備校に大好きな英語の先生がいました。教え方が明快で無駄がなく、その先生のおかげで随分英語が好きになりました。先生に質問に行ったとき、「年賀状を出したいので住所を教えてください。」とお願いすると、こころよく教えてくださいました。予備校で唯一の女性の先生です。何を書いたのかよく覚えていませんが、たぶん、志望校にぜひとも合格して、どうのこうのと書いたのだと思います。先生はお返事をくださいました。「優秀な成績で試験に合格されますように」その時まで私は、合格することのみに焦点を絞っていましたので、「優秀な成績で」という響きは、とても新鮮でした。合格は当たり前、さらにその少しだけ上の「優秀な成績で合格する」という目標を示していただいたおかげで、試験までのラストスパートはとても気合いの入ったものになりました。そして、「合格」というのが、死ぬか生きるかではなく、単なる通過点にすぎないように思えて、とても気が楽になったのを覚えています。マラソンやトライアスロンのように、過酷なレースでは、単なる「完走」を目指すより、「いいタイムで」完走することをめざした練習をする方が、きっと、ゴールに到達する確率が上がるのではないでしょうか。この先生のおかげで、私は目標をほんの少し上に設定するようになりました。そうすることによって、「合格」や「完走」のような、水際ギリギリを狙うより、楽にそのラインを超えることが出来る気がするからです。受験生の皆さんにはこれからが正念場。大学に合格するかしないか、それはとても重要な要素だとは思いますが、もっと大切なのはその先の大学生活、そして卒業してからの人生です。目標をほんの少し上に設定して、その先の未来を思い描き、自分がその途上にあるのだと考えてみるのはいかがでしょうか。【Luna lazuli】彼氏にプレゼント♪幸運を運ぶラピスで勝負☆合格祈願にも! 数量限定ストラップ念願バット 合格祈願
2005/01/03
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四谷怪談で有名な、東京四谷に、聖イグナチオ教会という、大きな教会があります。ここでは、毎年クリスマスを祝うキャンドルサービスが行われ、先着順500名までがキャンドルをもらえて、それを持って、街を歩く、というイベントがあります。私が高校1年の時、クリスマスの近いある日、テレビで、「ブラザー・サン、シスター・ムーン」という映画を見ました。13世紀のイタリアに実在した聖フランシスコの物語です。裕福な家庭に生まれ育った彼は、騎士として戦争に行きますが、病気になって生死の間をさまよい、それがきっかけで魂の目覚めを体験します。富と名誉に結びついた教会を否定し、雪の原野に一人、石を積んで教会を建て始めるのです。初めはばかにしていた友達も、彼の澄んだ瞳を見て、自然の中に生きる喜びを知り、一人、また一人、仲間が増えていきます。私はこの映画に、いたく感動しました。「これだ!」と、思っちゃったわけです。といっても、何が出来るわけでもなく、とりあえず、貯めていたお小遣い全てを、大した額ではありませんが、歳末助け合いに寄付しました。もっと、なにか出来ることはないか、と思っていると、冒頭でお話しした、聖イグナチオ教会のキャンドルサービスの記事を見つけたわけです。親には「友達とでかける」といって、その年のクリスマスイブ、四谷まで行きました。もちろん、本当は一人です。教会にはもう、大勢の人が集まっていました。長めの白いロウソクのまわりを、紙で四角く囲って、炎が風で消えないようにしてあって、その4面に賛美歌が書かれていました。夕方5時頃、そのキャンドルに次々と火がリレーされて、私のキャンドルにも灯がともりました。もうすっかり暗くなった教会に、たくさんの小さな明かりが星のように揺らめき、それは美しい光景でした。そのキャンドルをもった長い行列は、教会を出発して、街を静かに進んでいきます。リーダーの方が、次に唄う賛美歌の番号を指示されると、みんなが次々に唱和し、冬のキーンと冷えた空気の中に厳かな歌声が広がります。私は、というと、このにわか造りの「ナンチャッテ・クリスチャン」ですから、賛美歌なんて知りません。でも黙ってると変なので、「クチパク」で、参加してるふりをしていました。繰り返しその4曲を歌うので、そのうち覚えて、だんだん調子に乗ってきました。しかしそれよりも、ちょっとした心配事がありました。私のもらったキャンドルは、ちょっと作りが悪くて、グラグラしていたのです。ロウソクを囲んでいるその賛美歌の紙を、しっかり押さえておかないと、火が燃え移りそうでした。やがてキャンドル行列は、再び教会に戻ってきました。なんだか、とってもすがすがしい気分。周りの方と和やかにお話をして、つい、キャンドルから気をそらしてしまいました。グラグラキャンドルは、あっというまに周りを囲っていた紙に炎を移して、燃え上がりました。「あちっ!」思わず、手を放してしまって、燃え上がったキャンドル台は聖イグナチオ教会の乾燥した芝生に火をつけました。周りにいた人たちも、あわてて、消化に参加して、みんな燃え広がらないように、芝生と火元のキャンドルを足でバフバフ踏ん付けました。「すみません、すみません」と、みんなに謝りまくりながら、ボロボロになった、キャンドルの残がいを拾い集めました。焦げた芝生はどうしたらいいんでしょう。まずいです。これは、非常にまずいです。クリスマスでよかった、と思ったのは、すべてのクリスチャンがこの日ばかりは、一年で一番慈悲の心に満ちあふれ、どんな罪でも許しましょう、というモードになっていることです。周りの方々も、リーダーの方も、みんな、何かを許したくてしょうがない気分だったのではないでしょうか。私の罪は許されました。しかし、エデンの東へと追放されたカインのように、もう2度とそこに参加することはありませんでした。 ブラザー・サン シスター・ムーン【PDA-235】 =>20%OFF!《発売日:04/06/25》 エデンの東(新品CD)
2004/12/26
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毎年クリスマスの季節になると、「今年のクリスマスは何事もなく過ごせるだろうか」という不安が、一瞬なりといえども脳裏をよぎるのです。私が小学校3年のクリスマスイブのことです。冬休みにはいって、宿題さえ考えなければ、あとは、クリスマスにお正月、楽しいことばかりです。まだ、サンタを信じていたし、家族で囲むクリスマスの食事も楽しみでした。この年は、父が、チョコレートケーキを買ってきてくれました。食いしん坊の私でしたが、なぜか、この時ばかりはお腹が痛くて、ろくにケーキが食べられません。ただ、目の治療で、痛みに対して我慢強くなっていたので、じっとこらえて、ご馳走に手を出しますが、とうとう、耐えきれず、「お腹が痛い」とうったえました。母は、折角作ったご馳走を食べないなんて変だと思ったようですが、よく、お腹を冷やして痛くなることがあったので、「ストーブの前で、寝てなさい」といいました。私は、いわれた通り、ストーブの前に横たわり、両親が美味しそうにご馳走やケーキを食べているのを痛みに堪えながら見ていました。自分が「マッチ売りの少女」になったような、たまらなく惨めな気持ちでした。翌朝目が覚めても、まだ、痛みは続いていました。お腹が痛くて真っ直ぐ立てないので、腰を曲げたまま、近所のかかりつけのお医者さんにいくと、先生は、父に、病院を紹介するから、一刻も速く連れていくように告げていました。「入院」という言葉に、自分がなんだか悲劇のヒロインになった気分がして、少し嬉しかったのを覚えています。病院に行くと、先生から連絡がいっていたらしく、大きなガラガラいうベットに乗せられて廊下をどんどん進み、他の患者さんを押しのけての緊急手術でした。背中に大きな注射を打たれ、お腹がチョキチョキ切られている音が聞こえました。後から聞いた話ですが、急性虫垂炎で、腹膜炎も併発していて、あと30分遅かったら、盲腸が破裂して死んでいたということで、両親は肝を冷やしたようです。特に母は、幼いころ、自分の母親を腹膜炎で亡くしていたので、手術を待つ間、「母だけでなく、私の子供まで同じ病気で奪わないで下さい」と必死に祈ったそうです。盲腸は、暖めるとよけい大きくなるのが早いそうなので、我慢強いお子さんをお持ちの方は、お気をつけ下さい。私はその後、チョコレートがのどを通らなくなりました。多分このことがトラウマになっているのだろうと思いますが、いまでもチョコは苦手です。冬休みが明けて、始業式。その日は雪が降っていました。体重が半分になって、骨と皮になっしまった小さな少女は、それでも学校に行きたいといいました。しかし、学校までの1キロ半を歩ききる体力はなく、途中で力尽きました。もう、前にも後ろにも一歩も進めません。頬に降り掛かる冷たい雪。このまま死んだらどうしよう、と思いました。心配になって、あとからついてきた母に、私は連れ戻されました。そのまま風邪をひいて寝込み、結局、1月一杯は学校をお休みしてしまいました。このことがあってから、私は雪が降ると学校を休むようになりました。関東地方に雪が降ることはめったにないので、それでもなんとかやって来れたのです。今でも、雪が降ると、出かけるのにかなりの気合が必要です。好きなダンスの競技会でも、雪が降ったらパスしたいくらいです。子供の頃の体験は、結構、人生全般に大きな影響を与えるものですね。
2004/12/25
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