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あのやうなる後生大事の輩を いざや仏に斎ゑとて 信濃の国善光寺奥の御堂に 親子地蔵と斎ひ籠め 末世の衆生に拝ませんがためぞかし 今当代に至る迄 是疑わなかりけり 親子地蔵の御本地を語り納むる 所も国もめでたう豊なりけり 低く、遠い地鳴りのような響きを持った声が、微かな余韻を残しながら風の中に消えた。 説経節『かるかや』を語り終えた高野聖は、しばらく目を閉じて余韻を確かめた後、ゆっくりと顔を上げて新発意の方を見た。 新発意は五輪塔に腰掛けたまま俯いていた。説経節が終わったのにも気付かぬ様子だ。 高野聖はしばらく新発意を眺めていたが、その顔色は次第に変って行くようだった。無精髭の生えたやつれた浅黒い顔の中で、瞳だけが奇妙な輝きを帯びて光っている。 高野聖はなおも新発意を見つめていた。そして、何度か躊躇した後、かすれた声で新発意へ呼びかけた。「おい、小僧」 一人で物思いに耽っていた新発意は、思いがけず高野聖に声を掛けられたので、驚いて顔を上げた。その新発意の顔を、高野聖は青ざめた顔でじっと見ている。新発意はあまり強い視線で高野聖に見つめられるので、怖くなって立って行こうとした。↓これが「濡衣塚」です。御笠川(石堂川)の岸辺の高速道路の真下に、ひっそりと立っています。こんな変なところにあると思っていなかったので、最初なかなか見つからなくて苦労しました(笑)もちろん、昔からここに立っていたのではなく、元々は川の西側にある聖福寺の門前にあり、江戸時代になってこの川の東側に移されたのだとか。それが河川改修のため、ほんの数年前に現在の場所へ移されたのだそうです。
2007年02月28日
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この説経節を聞き終わったなら、新発意はまた寺に戻るしかない。それはわかっていたけれど、辛くて切なかった。 そして、その思いが募るほど、自分を捨てこのようなさだめに突き落とした父が憎かった。一つ月一つ日 同じ辰の一天と申には 往生を遂げ給へば 北に紫雲の雲が立つ 蓮華花降り 異香薫じて芳しく 心言葉も及ばれず この世でこそは 親とも子とも姉弟とも御名乗りなけれども 来世にては 親とも子とも 一家一門 六親眷族 七世の父母に至る迄 一つ浄土へ御参りある 人はいずれ死ぬ。 死んだら、一体どこへ行くのだろう。 寺では、それは浄土だと教えられる。蓮の花が咲き乱れる、それは美しいところだそうだ。 その浄土に、死んだ母はいるのだろうか。行方の知れぬ姉の母も。そして、父も……。
2007年02月27日
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煙しむればの 静かに骨を拾い取り あらいたわしや 道心の心の中こそ哀なり もし父が生きているのなら、父は母が死んだことを知っているのだろうか。惨めに死んでいった母のことを、少しは哀れに思ってくれるだろうか。それとも、母のことなどもう忘れ果て、どこかで別の誰かと暮らしているのだろうか。 一体、今、父はどこにいるのだろう……。その後に 石童丸は 父道心の手に掛かり 髪をば四方浄土ゑ剃りこぼし 髪剃りての戒名に 道心の道の字をかたどり 道念坊と名を付けて 母の死後、新発意は寺に入るしか道はなかった。 なりたくて僧になったわけではないから、新発意に道心などあるわけがない。このまま寺で修行をして、一体何になるのか。だが、他に行くところもない。 実を言うと、新発意は今、寺を飛び出してきていたのだった。 今朝、和尚に叱られてことの他機嫌の悪かったある年嵩の小僧が、その腹いせなのか、新発意が大切にしまっておいた母の形見の小さな櫛を取り上げて、便所の肥壷の中へほおり投げてしまったのである。新発意はあまりに哀しく情けなくて、もうこれ以上我慢できぬと、とうとう寺を飛び出してしまったのだった。 そして、当てもなく辺りをさまよい歩くうち、この説経語りの高野聖と出くわしたのである。
2007年02月24日
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死骸にがわと取り付きて 押し動かいてわつと泣き 抱き付きてはわつと泣き 面と顔ほ押し添へて さこそ最期の御時に 某を恨みさせや給ふらん 深き恨な な召されそ 変る心のあるにこそ 変る心のない程に 御生を問ひて参らせんと 御懐のその中より剃刀を取り出し 髪を剃うとなさるるが 十三年その先に捨てたる御台の事なれば 好み悪みが思われて 剃刀の立て所も見も分けず まだ幼い新発意は、男女の愛のことなど知らない。だから、父と母の真実の姿がどのようなものであったのか、本当のところはよくわからなかった。 だが、新発意には許せなかった。母をあのような孤独と苦悩の中で死なせた父が。麗しかった母の思い出をあのような醜い怨霊のような姿にしてしまった父が。 新発意は寂しかった母の弔いのことを思い出す。 母は説教の中の御台のように、夫に死顔だけでも見てもらうことはなく、その懇ろな弔いを受けることもなかった。そして、新発意と姉だけに送られて、無縁仏の眠る粗末な墓地に葬られた。 きっと母の魂は、心清らかに彼岸へ旅立つことも出来ず、今もこの辺りの虚空をさまよっていることだろう。
2007年02月23日
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父道心は是を聞き 人のなひこそ嬉しけれと 妻戸をきりきりと押し開き 屏風取つて見給へば あらいたわしや 御御台わ 北枕に西向きて 往生遂げておわします 母の今際を思い出して、新発意は身体がぶるぶる震えるのを覚えた。 心の底に秘めてきたはずの記憶。 優しく美しかった母の面影を愛するあまり、新発意は母の死の情景を胸の奥に封印してきたのだった。それは、新発意の存在も母の愛も、全てを無にしてしまう恐ろしい記憶だったから。 新発意は目を閉じて激しく首を振り、甦った思い出を振り払おうとした。だが、出来なかった。 ほつれた髪が乱れかかった、幽鬼のように痩せ衰えた顔。新発意の手を捉えて離さない冷たい指。口元から血の泡を滴らせながら囁いた最期の言葉……あれは一体どういう意味だったのだろう。 新発意はそれを誰にも尋ねることができなかった。
2007年02月21日
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母はやおら床の上に起き上がった。もう母にそのような力はないと思っていた新発意は驚いた。 だが、そればかりか、母は床の上を這いずって、戸口の方へ行こうとする。新発意は懸命に母を押し留めた。母はそれでも新発意を振り切ろうとしたが、やがて力尽きたのか、ささくれ立った古畳の上で動けなくなった。 新発意は母を床へ戻そうとしたが、幼い彼には母を抱きかかえる力はない。新発意は破れた布団を引き摺って来て母の身体の上に掛け、水で濡らした手拭いを額に乗せることしか出来なかった。母は荒い息を吐きながら、途切れ途切れに言った。「ああ、もう時がない……どこにおられるのですか……どうか、帰って来て」 新発意はどうすることも出来ず、ただ母の傍らで泣くばかりだった。 その時だ。 母はふいに新発意の手を掴み、病者とも思えぬ物凄い力で握り締めた。新発意が痛みのあまり振り解こうとしても、骸骨のような指で爪を立てたまま離さない。 そして、母はゆっくりと顔を上げて新発意の目を見つめると、ほとんど聞き取れぬようなかすれた声で囁いた。「……お前さえ生まれなければ、あの方はわたしを捨てたりしなかっただろうに」 そう言ったとたん、母は新発意の膝先に夥しい血を吐いて昏倒した。そして、姉が医者を連れて戻ってきた時には息はなく、血の海の中で絶命していた。 新発意の手を、血の滲むほど強く握り締めたまま……。
2007年02月20日
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なふなふいかに母上様 さても石童丸をばの たづきも知らぬ山中に 誰やの者に預け置き 斯く成り果てさせ給ひたぞ 行かで叶わん道ならば さて斯う申某も 共に御供を申さんと 流涕焦がれたださめざめとぞお泣きある 母が死んだ日のことを、新発意はまざまざと思い出した。 その日の朝、母はびっくりするほど大量の血を吐いて、息も絶え絶えになってしまった。 さすがに姉も覚悟したのだろう。すぐに医者を呼びにやり、病が移るからと滅多に母の部屋へ入れなかった新発意を呼び寄せて、母の枕元に座らせた。 しばらくぶりに間近で見る母の顔は、血の色が失せて青黒くくすみ、かつての美貌の影もない程に痩せ衰えていた。母はもうほとんど意識がなかったが、ひび割れた唇でしきりにうわ言を言った。多くは父の名だった。 姉がなかなか来ない医者を催促するために家を空けた僅かな間、母はふいに意識を取り戻し、もうほとんど見えぬ目で辺りを見渡した。そして、かすれた声で呟いた。「父上の足音がした。外へ行って見て来ておくれ」 もちろん、そんな音はしない。新発意は首を横に振ったが、母はなおも耳を澄まして言う。「いや、確かにした。ほら、父上の声も」
2007年02月19日
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石童丸きこしめし 塚の辺に倒れ伏し のふのふいかに父御様 これは胎内に七月半で捨てられし嬰子が 生まれ成人仕り これ迄参りて御座あるの さてこの塚のその下からなりともよ 今一度 石童丸かよと 言葉を掛けて給われのと 流涕焦がれてたださめざめとぞお泣きある 説教の中の石童丸と一緒に、新発意も泣いた。 一度だけでも父に会いたい。そして、もう一度母を父に会わせてやりたかった。 母は日が経つに連れてだんだんと弱っていき、ある日ひどく血を吐いた。それからはもう起き上がることは出来ず、物も食べられなくなってしまった。 母が見る見るうちにやせ細って行くのに、新発意は耐えられなかった。新発意は毎日近くの鳥飼八幡宮まで行き、母の病が癒えるよう一心に祈った。 だが、母は血を吐き続け、医者も匙を投げた。近所の者も、病を恐れて寄り付かない。 ただ姉だけが、ずっと母の側にいて看病をしてくれた。母は身分のある姉の世話になることをずいぶん心苦しがったという。だが、姉は愚痴一つ言わず、最期まで面倒を見てくれたのだった。↓これが「鳥飼八幡宮」。主人公が住んでいたことにしている地行にあります。福岡で特に有名な神社というわけではないので、私もしょっちゅうその前を通りながら中に入ったことはありませんでした。でも、今回撮影のために入ってみると、意外にも境内は結構広く、古い石碑などもいろいろ残っていました。由緒ある神社だったのね。。。
2007年02月18日
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父道心はきこしめし 我が立てたる卒塔婆があらばこそ 旅人の逆修のためにお立てあつたる高卒塔婆の傍へ連と行き これこそ御身の父道心の御墓所と教へ給ふ 姉が言ったように、姉の実母は既に死んでしまったのだろうか。そうであるならば、未だに行方の知れない父の方も、もう死んでしまったのではないか。 父の墓へと導かれる苅萱の物語を聞きながら、新発意はそう思った。 だが、生前の母は父がまだ生きていると信じていたようだった。母はよく新発意に言ったものだ。「父上はきっと生きておいでです。そのうち行方も知れるでしょう。そうしたら、二人で父上に会いに行きましょうな」 その頃には、母は既に病が進んでほとんど起きられない身体になっていたのだが、そう言う時にはいつも新発意を励ますようににっこりと微笑んだものだった。瞳の優しく潤んだ夢見るような表情を、今でもよく思い出す。 新発意は歯を食いしばった。結局、そんな日は訪れなかったのだ。 哀れな母を思って、新発意の目に新たな涙が溢れた。
2007年02月17日
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姉はしばらく昔を思い出すような目をしていたが、新発意が姉の実母のその後を問うと首を振った。「母上がその後どうなったのかは誰も知らぬ。江戸の伯父上の元へもお出でにはならなかった。伝手のある限りいろいろ探したが、結局行方は知れない。わたくしはもう母上はこの世の人ではないと思っておる。あれほど誇り高かった母上じゃ。おそらくどこかで自害して果てられたのであろう。父上への抗議か、自らの行く末を悲観してか……母上のお心はわからぬが、これほど探して見つからぬなら、そう考えるしかあるまい。それにわたくしは時々母上の夢を見ることがある。いつものように髪に一筋の乱れもなく地味な小紋の小袖を着て、じっとわたくしを見つめておられた。だが、わたくしには母上がどこか別の世界におられるのがありありとわかるのじゃ」 そういう姉の顔は、ひどく気味が悪かった。その上、暗い灯火の元では本来の色の黒さが増し、とても美しいとは言えない。醜女であったという姉の実母はこんな顔だったのだろうか……。
2007年02月16日
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そこで、姉はふっと眉を寄せた。寂しげな陰が、その額をよぎる。だが、姉はそれを振り払うかのように新発意をきっと見つめると言った。「そこへ、お前の母が現れた。母上は相変わらず落ち着き払ったままであったよ。父上との間には娘のわたくししかおらぬ。嫡子をもうけるために側室を置くのも世間ではよくあることと、お前の母に離れを与えきちんと世話もしておった」 姉の瞳にいつも暗い陰が宿る。「だが、父上のお振舞いは常軌を逸しておった。夜も昼もお前の母の部屋へ入り浸り、病気と称してろくにお城へも出仕なさらない。母上のお立場も考えず、親戚の諌めにも耳を貸さなかった。わたくしはその頃まだ八歳であったが、あの頃の我が家の有様をよく覚えておる。表立って諍いの起こることはないが、家の中はいつも澱んだ皆の煩悩や怨念で満ちているようであった。父上がほとんど狂気のようにお前の母にのめり込んで行けば行くほど、母上はますます立派に振る舞い、何を言われても押し黙ったままでの。何を考えておられるのか全くわからなかった。でも、やはり母上も腹に据えかねたのであろう。ある日突然、家を出てしまわれた。父上は母上の文机の上に江戸詰めの母上の兄を頼って家を出るとの書置きがあったと申されたが、実家におられた実母のお祖母様にすら何も言わずに出奔されるとは奇妙なことだと、城下でもずいぶん評判になったそうじゃ」
2007年02月13日
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父道心はきこしめし 問うまいものを悔しやな 見れば我が子の不便やなと 忍涙は塞きあゑず 石童丸は御覧じて のふいかにお聖様 さて某がこの山で七日の間尋ぬるに 御身のやうに心の優しき 涙の脆きお聖に会ふたが今が初なり 御存ぢあつたは一定なり 御存じありて候はば 教へて給われ お聖様 姉はいつか、姉自身の母のことも話してくれた。その口調にも、どこかひどく辛辣な響きがあった。「わたくしの母上は、確かに立派なお方ではあった。千石取りの大組(注)の家に生まれ、女子としての教養も嗜みも申し分ない。下々の者にも慕われ、家の切り盛りも上手いと評判じゃった。だが、あまり美しい方ではなかった。わたくしの色の黒いのも、母上からのお譲りよ。そのせいか、なかなか嫁入り先が決まらず、ようやく父上との縁組が整った時には、母上は既に二十四歳にもなっておられた。父上は母上より四つも年下での。その上、家禄も母上の実家の半分しかなかった。それでも、父上は藩内での評判も良く、その美貌が噂になるほどのお方であったから、母上は満足しておられたのかも知れぬ。わたくしの目から見ても、それは甲斐甲斐しく父上に仕えておられた。まあ、母上の本当の心持ちはわからぬがな。母上はいつも落ち着き払ったお振舞いを崩さず、ご自分の気持ちを表にあらわさぬお方であった。わたくしもよく世話はしていただいたが、可愛がってもらった覚えはない。お膝に甘えたり、子守歌を歌っていただいたりしたこともなかった」*注「大組」…福岡藩では、千石くらいから上のクラスの武士をこう呼んでいました。住んでいたのは現在の大名や天神辺り。この辺は今では福岡一の繁華街ですが、明治頃まではまだ大きな屋敷があって、結構静かな場所だったのだそうです。
2007年02月10日
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「そのことは母上から聞いた。でも、母上は父上が迎えに来てくれたと……」 新発意が言い返そうとすると、姉はせせら笑うような嫌な表情で遮った。「何が迎えに行ったものか。父上は祝言の挨拶に来たお前の母の美貌に目が眩んだだけよ。それで、身分の低い奉公人の妻なら自分の好きなように出来ると、若党の家へ押しかけて無理矢理屋敷へ連れて来た。それも、自分を慕っておった若党の好意につけ込んで、お上へ訴えもさせずわずかな見舞金をやっただけで黙らせてしまった。まあ、父上は武士の身分を鼻にかけておられたし、元々下々の心のうちなど気にも留めぬお方じゃ。若党が唯々諾々と自分に従うのが当然と思っていたのであろう。それに、あの若党も腰抜けでの。妻を主人に奪われながら、まだ我が屋敷に仕えておった。父上が出奔した後、暇を取ってどこかへ行ってしまったがな。わたくしもまだ覚えておるが、どこかおどおどとした冴えぬ男であった」 姉は薄く笑った。暗い灯火の下で奇妙にゆがむ姉の顔は、意地の悪い物怪のようだった。
2007年02月09日
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でも、新発意は自分の両親のことをそんな風に思いたくはなかった。それで、親戚の者や近所の口さがない連中のそんな言葉を聞く度、新発意は思わず耳を覆ったものだった。 だが、いつも側にいる姉の口からは、そう度々逃れることは出来ない。親と子の機縁・契の深きよの 石童丸はたち帰り 父道心の衣の袖に縋り付き のふいかにお聖様 物が問いたう御座あるの この山に道心聖や御座あるの 御存じありて御座あれば 教へて賜れ お聖様 新発意とて、父や母のことを知りたくないわけではない。他の、もっと思いやりのある優しい口からならば、両親についての物語を聞いてみたいと思ったことはある。 だが、姉はいつも暗い眼差しで新発意を見つめながら、棘のある囁きを繰り返した。「父上は本当にわがままで、人を人とも思わぬ傲慢なお人柄だった。もちろん、たいそう人好きのする方だったと言う者もおるがな。わたくしは信じてはおらぬ。そのようなお方だったのなら、あのような非道が出来るわけがない。我が家に代々仕える若党から、祝言をあげたばかりの許婚の妻を奪ったのじゃから」
2007年02月08日
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父道心は 奥の院から花を肩に打ち担げ 奥の院より御下りあると 石童丸の御上りあると 行と戻の無常の橋にて 行き違ふてお通りある 親が子ともお見知りなし 子が又親ともゑ見知らず 行き違うてぞお通りある 高野聖の語りは、佳境に入っていた。 時折手に持ったササラを叩きながら、目を閉じて熱心に語り続ける。聞く者といえば、ちっぽけな新発意ただ一人なのに。 だが、その哀感を込めたもの寂しい調べは、確かに新発意の胸を打った。 新発意の瞳から涙が零れ落ちる。新発意は袖口でそっと涙を拭いながら、父と母のことを考え続けていた。 世間の人は、父と母のことをずいぶんひどく言う。 父のことは、女子にうつつを抜かして不義理を尽くした挙句、君恩も省みず脱藩した上、代々続いた名家も潰した、武士の風上にも置けぬ男。 母のことは、一度嫁しながら、別の男の元へ走った恥知らずな女。その上、その男の順風満帆だった人生を狂わせ、終いには破滅させてしまった妖婦とまで言われている。
2007年02月07日
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御台この由きこしめし さて自らは それならば ゑ上るまいかの 悲しやな あの子壱人上さうか さりながら あの子はの 母が胎内に七月半の御時に捨てられし嬰子の事なれば 現在父に尋ね会ふたりとも ゑ見知るまいの 悲しいやな あの時、母は新発意を腕に抱き、哀れむように呟いた。「たった三つで父上と生き別れて、そのお顔もおぼえて覚えておらぬとは。もし道で行き遭うても気付くまい……」 新発意は母の傍らにあった鏡を取り上げて、覗き込みながら聞いた。「父上に、似てる?」 母は新発意の髪を撫でながら言った。「お前は父上にはあまり似ておりませぬ。濃い眉の辺りと手の形が少しだけ。後はどこもかしこもわたしに似ている。ほら……」 母は後ろから一緒に鏡を覗き込んだ。鏡の中には、良く似た顔が二つ並んでいた。色白で細面の、どこか寂しげな面輪。 新発意は今でも辛い水仕事に耐えきれなくなると、しばらく手を休めて水鏡に見入ることがあった。 暗い水面に、ぼんやりと母の顔が浮かんでいる。だが、その面影は、恋しさが募って思わず零れ落ちた涙で、歪んで消えた。
2007年02月06日
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母は少し考えた後、優しく微笑みながら答えた。「奥方様はご立派な方で、わたしをいじめたりはせず、いつもやさしく接してくださいました。物静かで、何事にも控えめで、それでいて賢くしんが強くて。だれからもしっかりした奥方だと慕われておいででした。でも、ある日突然姿を消してしまわれた。わたしもどうしてなのか知りません。父上は、あれは自ら身を引いたのだと申されましたが……おそらく、辛いお気持ちを胸に秘めておられたのでしょう。わたしも同じ女であればわかります。でも、どうしてまだ幼かった姫様まで残しておいでになったのか……」 母はふいにぎゅっと新発意を抱きしめると、奥で洗い物をしている姉の方へ憐れむような目をやった。「でも、よほどの事があったのでしょう。思えば、奥方様がいなくなってから、父上もすっかり変わってしまわれた。わたしには相変わらずお優しかったけれど、いつも何かに気を取られているように落ち付かず、すぐに苛々として周りの者を叱ったり。特に、姫様には辛く当たられることがあってお可哀想でした。奥方様の身内ばかりか、ご自分の親戚中の者たちから責められて、お城の上役の方々からもずいぶん御叱りを受けたそうですから、父上もお辛かったのでしょう。結局、父上まで姿を消してしまわれたのも、無理もないことなのかもしれませぬ」 母は寂しそうに笑った。
2007年02月03日
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「あれを初恋というのでしょうね。わたしはそれまで殿方のことを愛しいと思ったことがなかった。それに恋がこれほどまでに激しく苦しいものだとも。でも、親の決めた縁を拒むことは出来なくて、わたしはとうとう許婚の元へ嫁いでしまいました。哀しくて、辛くて、夫となった人には申し訳ないと思いながら、思い切ることが出来なくて……。でも、父上はわたしを迎えに来てくれた。それがどんなに嬉しかったか。わたしはもう何もかも捨てても良いと思った」 母はしばらくの間目を閉じ、胸にそっと手を当てて、思い出を懐かしんでいた。「それから、わたしは父上のお屋敷で暮らすようになったのですよ。もちろん、父上には奥方がおられることも知っていたし、妾の身分でいるしかないこともわかっていました。でも、父上と一緒に暮らせるだけで、わたしは幸せだった。わたしは屋敷の離れにお部屋を頂いて、父上は時間がある限り私に会いに来てくれました。わたしもとても離れていることは出来なかった」「母上が父上のところへ来たから、姉上の母上はどこかへ行ってしまったの?」 姉の母が失踪していることを聞いていた新発意は、そう無邪気に問うた。
2007年02月01日
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