2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全18件 (18件中 1-18件目)
1

不審に思う良房に目も向けずに、文徳帝はしばし考え込んでいるようだった。そして、声を震わせて良房に尋ねた。「明子には度々祈祷を施したと言うが、何の験もないのか? 高徳の僧を呼んでみたか?」「もちろんでございます。先頃も、真言宗の真雅らを集めて祈祷をしたばかりで」「天台の者たちはどうだ。何なら、私の護持僧の円仁を呼んでも良いが」「恐れながら、既にお願いいたしました。それに、お弟子の円珍には明子の護持僧にもなってもらいましたが、効き目はございませぬ」 それを聞いて、文徳帝は暗い溜め息をついた。額に皺を寄せて、青ざめた唇を噛んでいる。どうやら本気で明子のことを案じているらしい。 そのような文徳帝の顔を、惟喬親王はしばらくじっと眺めていたが、ふと何かを思いついたのか、文徳帝の御前に進み出て言った。「そう言えば、この間私が交野へ鷹狩に行った時、土地の者が奇妙な噂話を聞かせてくれました」「どんな話だ」 文徳帝は身を乗り出した。良房も惟喬親王の側ににじり寄り、耳をそばだてている。「何でも、大和国の葛城山の山頂に、金剛山というところがあって、そこに一人の修験者が住んでいるのだそうです。その修験者は大層優れた験力を持っていて、自らは山の頂にいながら、下の里まで鉢を飛ばして食べ物を受け取ったり、谷川まで瓶を遣わして水を汲んだりするのだとか。里の者もこの修験者を頼りにしていて、病者が出ると金剛山まで米などを運んでいくそうです。そうすると、たちまちのうちに病者は元気になり、どんなに祓っても落ちなかった物怪もたちどころに消え失せるとか」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月29日
コメント(1)

白々しい顔で噂を広めているらしい業平に、良房は腹が立ったが、このように明子のことが公になっているのでは仕方がない。それに、どれほど祈祷をしても明子の苦しみが治まらないのは事実だ。これ以上の対処が見つからず、困り果ててもいる。良房はしぶしぶ言った。「実は、その通りなのです。いや、明子が天狐に取り憑かれているなどということはございませぬ。ただ、何やら物怪が現れておるのは本当のことで」「物怪? 何の物怪だ」 そう問う文徳帝だったが、良房はさすがに、明子に取り憑いているのはあなたや私に恨みを抱いて死んでいった者たちでございますと答えるわけにはいかない。良房は首を振りながら言った。「それはわかりませぬ。ただ、近頃では毎夜物怪が現れて、明子は眠ることも出来ぬ有様。何とかしなくては、明子の命も危ぶまれまする」 それを聞いていた文徳帝の顔は、ひどく青ざめてきた。 今まで明子のことなど気にも留めぬ様子であったのに、一体どうしたことだろう。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月28日
コメント(0)

そんな良房の気持ちが伝わったのだろうか。珍しく、文徳帝の方からお尋ねがあった。「明子はまた染殿へ戻っていると聞くが、ひどく具合でも悪いのか。このところ頻繁に里へ下がっているようだが」 文徳帝の表情には、確かに心配の色があった。不安げに視線をさまよわせ、少し唇を震わせている。ふと文徳帝の心の内を垣間見た気がして、明子を思う良房は嬉しかった。「御心配には及びませぬ。いつもの持病の頭痛で」「それならば良いが。先頃、奇妙な話を聞いたのでな」「何でございますか」「明子は天狐に悩まされているという」 何と、そのような噂が広まっているのか。しかも、主上の御耳に届くほどに。 良房の悩みは深くなった。「奇妙な話なら、私も聞いたことがある。近頃、夜になると染殿の屋根の辺りに怪しい光の玉がさまよっているそうだ。それも、一つや二つではなく、時には夥しい青い光が集っていることもあるという。なあ、業平」 惟喬親王はそう言って、業平を振り返った。業平は頷きながら言った。「染殿の后は、近頃ひどく天狐に悩まされ、どれほど有徳の僧を集めて祈祷をさせても、一向に験が現れないとか。殿上の間でも、もっぱらの噂でございます。この間、真言の僧を大勢集めて盛大に祈祷を催されたのも、后のためでございましょう?」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月27日
コメント(0)

惟喬親王は相変わらず明るい笑みを浮かべたまま、良房に言った。「良房か。久しぶりだな。今、主上の御前で私の和歌を披露していたところだ。主上にも女官たちにも笑われてしまったがな。業平に直してもらって少しはましになったが、我ながら下手な歌だ。私の和歌の師である業平は、さぞかし恥ずかしかったことだろう」「滅相もない」 業平は鷹揚に微笑んで言った。笑うと、片方の頬にえくぼができ、近寄りがたい完璧な美貌に、何とも言えない愛嬌が加わる。傍らで数人の女官たちが、その横顔をうっとりと見つめていた。「私は皇子の師匠ではございませぬ。ただ、時折共に詠み交わして頂いているだけで。皇子の和歌には、さすがに位がございます。私ごときがとても教えられるものでは」「ほら、責任逃れをしている」 惟喬親王は声をあげて高らかに笑った。 そんな若々しい惟喬親王の姿を、文徳帝は半ば下ろされた御簾の向こうでにこやかに見守っていた。良房の前ではあまり見せたことのない笑顔である。その顔は、奇妙なくらい先ほど東宮御所で見た惟仁親王に似ていた。 こんなに似ている親子なのに、文徳帝は東宮御所を訪ねることもなく、惟喬親王にするように親しく内裏へ呼び寄せたりすることはない。東宮御所に居を移した明子を召すこともない。 良房は、なぜこのように冷遇されるのかわからず、悔しさが込み上げてくるのを覚えた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月26日
コメント(0)

あの競馬の位争いの後、名虎は傷を負ったのと失意のせいで、自分の屋敷に引き篭もるようになった。そして、一年も経たないうちに病で死んだ。 惟喬親王方に組していた貴族たちも、良房は位を奪ったり左遷したりして、既に大方始末した。遊蕩者で和歌を詠むしか能のない業平は、そのような者たちの中の無害な生き残りに過ぎない。 もうこれで良房の前途を遮る者は誰もいなかった。良房がついに太政大臣にまで昇り詰めたのも、完全に宮中の実権を掌握しきった証だと言えるだろう。 その後、有力な後ろ盾を失った惟喬親王を、良房は後に小野宮と呼ばれることになる立派な邸宅を造って住まわせ、ずっと庇護してきた。それは、惟喬親王を鍾愛する文徳帝への心配りと、かつての敵対者さえ厚遇する自らの寛大さを強調するためだった。別に、東宮位を惟喬親王から無理矢理奪った罪滅ぼしではない。良房には、政争に打ち勝つためには相手の死さえ辞さない苛烈さがあった。 とはいえ、惟喬親王に対して、何の感慨もなかったわけではない。むしろ、何かの拍子に、憐れむような、いとおしむような気持ちが湧いてきて、ひどく狼狽することもあった。そんな、敵方の者さえ魅了するような不思議な力が、惟喬親王にはあったのである。 そのような良房の逡巡も、自らの魅力も、知ってか知らずか、惟喬親王は良房に対していつも丁寧で親しみ深い態度を崩さなかった。 それは、本当に良房に対して自分を庇護してくれることへの感謝の気持ちを表していたのだろうか、それとも祖父名虎の無念や自らの失意を心の奥底にひた隠した仮面だったのだろうか。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月21日
コメント(0)

内裏の清涼殿に足を踏み入れると、奥から明るい笑い声が聞こえてきた。低い声がそれに応じて、静かに和歌を吟ずる。女官たちの溜め息がそれに続いた。 良房が御簾を掲げて中に入ると、文徳帝の御前には二つの後姿があった。 一つは、長い黒髪を後ろで束ねた童形ながら、すっきりとした濃い縹の直衣を身につけている。 久しぶりに見る惟喬親王だった。 もう一つは、浅緋色の袍をまとっており、良房の足音を聞きつけるとゆっくりと振り返った。男の良房でも思わずはっとするほどの美貌である。どこか頽廃を帯びた切れ長の眼差しに、しっかりと結ばれた薄い口元。漆黒の鬢から零れ落ちた一筋の後れ毛が頬にかかっているのさえ、何とも言えず艶で美しい。 女官たちが溜め息をつくのも無理はない。在原業平だった。 業平は、惟喬親王の母である静子の姪を妻にしている。名虎にとっては、孫娘の婿だ。名虎の嫡子の紀有常とも親しく、惟喬親王の御所にも何かと出入りしているらしい。今日も、惟喬親王の供をして、御所までやって来たのだろう。 業平に続いて、惟喬親王も良房に気づいて振り返った。傍らに腰を下ろして頭を下げる良房に、にっこりとした微笑を浮かべて会釈を返す。 今年で十四歳になる惟喬親王は、いつでもこのように堂々としていて屈託がない。 たとえ相手が良房であっても。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓業平が纏っていたのは、こんな感じの装束だったのかな。緋色はあまり男性的な色じゃないけど、超美男の業平だったらOKかも。この写真の装束は冷泉家のものです。現存する唯一の公家建築のお宅は、同志社大学にめり込む(?笑)ような感じで建っています。一般公開されることもあるので、機会があったら是非どうぞ♪
2007年12月20日
コメント(0)

良房は素読する惟仁親王の傍らで、額に懐紙を当てて汗を拭きながら、ある一人の陰陽師の言ったことを思い出していた。その陰陽師も結局明子の物怪を祓うことは出来なかったのだが、染殿を辞去する時にそっと良房に告げた。「明子様に取り憑いた物怪たちは、明子様本人に恨みがあるわけではございませぬ。あれらはすべて、あなた様との政争に破れて滅んでいった者たち。本来なら、あなた様に害をなすことを望んでいるのです。しかし、あなた様は身体も頑健で心魂も強靭。その上、藤原氏の氏の長者として、春日大社の神々の御庇護を受けておられます。とても、物怪ふぜいが取り憑くことなどできませぬ。物怪というものは、恨みのある者に近づけぬ場合、もっともその愛顧を被っている者に取り憑いて、自らの無念を晴らそうとするものです。明子様は身体も弱く、心根もやさしいお方。怨霊どもにとっては、この上ない憑坐でございましょう。それに、明子様をお苦しめすれば、結局は明子様を目に入れても痛くないほど可愛がっておられるあなた様をも、お苦しめすることになるのですから」 良房はその陰陽師の言葉を、祓えの験のないことへの言い訳かと思っていたが、確かに良房が立身していくにつれて、明子の元には頻繁に物怪が現れるようになった。 それは、言葉を変えれば、良房がそれだけ多くの者たちを陥れ、失脚させ、ついには怨霊と化すほどの恨みをかって来たということだ。太政大臣になった今では、そのような者たちはもう数えきれないほどの人数になっているだろう。その中には、昨夜の物怪のように、無念のあまり自ら入水して果てた者もいるらしい。 そのような夥しい死霊や生霊が、この良房の栄華の象徴ともいえる染殿に巣食っているのだ。何とかしなければ。いずれあの者たちは、明子をとり殺してしまうだろう。 良房は、東宮御所を辞して内裏へ戻ってからも、ずっとそのことばかり考え続けていた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月18日
コメント(0)

「何ということだ。あれほど有徳の僧を集めて何度も祈祷をさせ、高名な陰陽師を招いて祓えもしたというのに。ますますひどくなるばかりではないか。この染殿にいるのが良くないのだろうか。もう東宮御所に戻った方が……」「いえ、明子様はお戻りにはなりたくないそうでございます」「なぜだ」「元々人交わりがお好きではございませんので、御所は心が休まらぬと申されます。それに、御所でも他の別業のお屋敷でも、長くいるともう耐えられないほどご持病の頭痛がひどくなられるそうで。この染殿に、どうしても戻って来てしまうと申されるのです」「そうか。あれの頭痛は見ているのが辛くなるほどひどいでな。無理もない。だが、このままにして置くこともできぬだろう。一体どうしたら良いのだ」 良房は頭を抱えてしまった。かといって、継子にも何か妙案があるわけではない。 今まで既に、天台であろうと真言であろうと高位の僧には全て声をかけ、験がないと言っては南都の僧たちまで呼び出して祈祷をさせた。陰陽寮中の陰陽師を集めて盛大に祓えをしたこともある。だが、はかばかしい効果は現れなかった。 しばらくいろいろ考えては見たものの、二人とも新たな方法は思い浮かばず、昨夜は一旦継子を下がらせたのだった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月17日
コメント(0)

「子曰く、政を為すに徳を以てす……」 良房は、文章博士の後について論語の一節を繰り返す惟仁親王の声を聞きながら、ぼんやりと東宮御所の庭を眺めていた。 じりじりと照りつける真夏の陽光の下で、微かな陽炎が揺らめいている。風はなく、ひどく蒸し暑い。 良房は直衣の襟元を寛げ、手に持っていた蝙蝠扇を広げて胸に風を入れた。懐紙で拭いても拭いても、汗が噴き出してくる。「譬えば北辰の其所に居りて、衆星の之にむか共うが如きなり」 甲高い幼い声が愛らしい。 惟仁親王は今年で八歳になる。みずらに結った、艶やかな漆黒の髪。切れ長の一重目蓋の目が印象的な、白い細面の顔立ち。薄縹の童水干を身にまとった小柄な体つきまで、父親である文徳帝の幼い頃にそっくりだった。 母親の明子には不思議なほど似ていない。だが、良房にとっては、最愛のただ一人の孫だ。 良房は目を細めて、素読をする惟仁親王の明るい声を聞きながらも、昨夜の継子の話を思い出して考え込んでいた。 深夜にもかかわらず良房の寝室にやって来た継子は、今宵もまた明子の元に異形の者が現れたことを告げ、青ざめた顔できっぱりと言った。「もうこれ以上、このままにはして置けませぬ。この染殿へ下がってきて以来、こう毎晩のように恐ろしい物怪が現れるのでは、明子様の御身が持ちますまい。このところは、夜もほとんどお休みにはなれないご様子。食も細くなられ、ますます痩せてしまわれて。このようなことを続けていては、明子様のお命まで危ういと存じます」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月14日
コメント(0)

「でも、わたくしは怖い。恐ろしい溺死人のような老いた者が、その隅の暗がりから這い出てきて……」 それを聞くと、若い女房たちはひっと声をあげて、その暗がりの近くから飛び退いた。継子はそのような女房たちをたしなめると、明子を強く抱きしめて言った。「わたくしがきっとお守りいたします。そのようなものに、あなた様を連れ去られてなるものか。わたくしがついておる限り、もうそんな恐ろしい目にはお合わせいたしませぬ。それに、すぐに僧たちを呼び集めて、ご祈祷をさせましょう。どうぞ、ご安心あそばして」 継子の腕の中でようやく少し落ち着きを取り戻してきた明子は言った。「祈祷はついこの間もしたけれど、またすぐにこのような……。だんだん祈祷の験がなくなってきたような気がする」「そんなことがありますものか。明子様の護持僧には、真言宗の真雅殿をはじめ、当代一の祈祷僧をあまた集めております。きっと、明子様をお守りくださいますよ」「そうであろうか。このところ、いつもの頭痛がだんだんひどくなるばかり。それに、夜になるとあのような恐ろしいものが現れて。特に、父上様が太政大臣になられてからは、より一層……」 疲れ果てたように褥に横たわった明子を、継子はしばらく見守っていた。 そして、何か思いつめたような面持ちで、明子の世話を女房たちに任せると、部屋を出て行った。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2007年12月13日
コメント(0)

明子はもう死に物狂いで、その手を振り放そうともがいた。だが、身体は重く石のようで、どうにも動かすことができない。 そうしている間にも、老人の手は明子の足首を掴んで引き摺って行く。明子はずるずると褥から引き下ろされ、帳台の間を抜けて、部屋を満たす暗闇の中に引き摺り込まれそうになった。 明子は必死に悲鳴を上げようとするが、声が出ない。 それでもなお、身を捩っていると、何とありがたいことだろう。ほんの少しだけ、左側の手が動いた。明子はたまたまその手に触れた、明かりの消えた燈台を掴み、渾身の力をこめてそれを引き倒した。 燈台は乱暴にひっくり返ったかと思うと、側に置いてあった青磁の香炉を叩き割って倒れた。 辺りには、夜の闇を破るようなけたたましい音が鳴り響いた。 その音を聞きつけて、乳母の継子が飛んで来た。帳台の外で、息も絶え絶えに伏している明子を助け起こす。明子は震えながら継子に縋りついて言った。「助けておくれ。恐ろしいものが足を掴んで、わたくしを連れ去ろうと……。きっとまだ、あの隅の暗がりにいる。あれを、あれをあっちへやって……」 継子に続いて、女房たちが次々と側にやって来た。みんな近くで横になってはいたが、つい眠り込んでしまっていたらしい。 恐ろしさのあまり、震えてはかばかしく言葉も出てこない明子を、継子は優しく背を撫でて励ました。そして、女房に命じて明るく灯った燈台を何台も持って来させ、椀に入った白湯を明子に飲ませながら、宥めるように言った。「明子様、しっかりなされませ。このお部屋には何もおりませぬ。もう大丈夫。わたくしがついております」↑ふと思いついて登録してみました。よろしかったら、押してみてください♪↓ちょっと見づらいですが、袿をかけている衣桁の右隅にあるのが「燈台」(高燈台)。大きめ蝋燭一個分くらいの明るさなので、たとえ十台持ってきたとしても現代人の感覚ではかなり暗~いです。お化けが出た後なんかには、そうとう怖いかも。。。
2007年12月11日
コメント(0)
明子は大声で悲鳴を上げたつもりだったが、ただひっという息を呑む音が漏れただけだった。 そんな明子を残った片目で見つめながら、老人の首は帳台の帳を抜け、ゆっくりと明子の褥の方へ近づいてくる。その首はよく見ると、既に肩から腐り落ちたのか、胴体から延びる左の手の上に乗せられていた。そして、腐りかけた右の手が、骨の剥き出した指を蠢かせて、褥の上に這い登る。 明子は少しでも逃れようと身を捩るが、まるで石と化してしまったかのように動かない。 老人の右の手は、ゆっくりと明子の身体にかけられていた袿の裾をまさぐり、とうとう明子の足首を探り当ててぐいっと引き掴んだ。 明子は必死に、その手から逃れようとした。だが、そのぞっとするほど冷たい濡れた手は、明子の足首を掴んで離さない。そればかりか、ゆっくりと力を込めて、明子の身体ごと引き摺って行こうとする。 そして、乱れた黒髪の陰からのぞいている明子の慄く瞳を見つめながら、にんまりと恐ろしい笑みを浮かべて言った。「おいでなされ……我らと共に、地の底へ……」
2007年12月10日
コメント(0)
褥の上にうずくまる明子に向かって、東の対の丑寅の隅の暗がりから、何かとても黒いものが、ぶわりと染み出して来た。ずるり、ずるりと、濡れた重いものを引き摺るような嫌な音がする。 それは、御簾の向こうの板敷きの間を、じりじりと這い進んで来るようだった。 あのにおいが、だんだん強くなる。 明子は恐怖に震えた。 明子の寝間の仕切りとなっている御簾が、ゆらりと大きく揺れた。何者かが御簾の隙間から身をねじり入れて来たのだ。そして、そのままずるずると進み、とうとう明子の帳台の帳の陰までやって来てしまった。 あのにおいは、もう耐えられないような強さになっている。 明子は恐ろしくて逃げようとするが、身体は動かず目を閉じることすら出来ない。 すると突然、帳の隙間から、震える明子の目の前に、ぬうっと突き出て来たものがあった。 暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるそれは、ぐっしょりと水に濡れ、半ば腐りかけた老人の首だった。 眼孔から片目が抜け落ち、歯が剥き出しになった崩れた唇にはおぞましい微笑のようなものが浮かんでいる。↓平安時代の高貴な人のベッド「帳台(ちょうだい)」。中はこんな風に設えられています。枕の下にちょっとだけ見えている薄い敷物が褥(しとね)。敷布団のように綿がたくさん入っていないため、きっとごちごちの寝心地だったことでしょう(笑)。現代のような四角い掛け布団もなく、身体の上には自分が着ていた袿や寝具用に薄く綿を入れてちょっと大きめに仕立てた着物型のもの(写真はこれですね)を掛けて寝ていたようです。今は帳の一部が上げられていますが、寒い時やプライバシーを確保したい(汗)時は全部下ろせます。
2007年12月08日
コメント(0)
こんな記憶はいくつもある。 夏の暑い夕暮れに、池の釣殿で笛を吹いていた薄縹直衣姿の青年。望遠亭と名づけられた染殿自慢の唐風望楼の上で、頬杖をつきながら遥か北山の峯々を眺めていた、角の生えた奇妙な生き物。 明子の目にははっきりと見えたそれらが、他の誰に聞いても見えないのだという。 あまりしつこく聞くので、女房たちはだんだん明子のことを気味悪がりはじめた。良房にもあまりおかしなことを言うものではないとたしなめられたし、女房たちに嫌な顔をされるのも悲しいので、次第に明子は何も言わなくなってしまったが、今でも明子の周りにはたくさんの奇妙なものが見える。 だが、この類いのものを、明子は恐れているわけではない。それらはただそこにいて、自分勝手に歩きまわったり、こちらを無遠慮に眺めたりしているだけだ。 本当に恐ろしいのは……。 明子は袿の中で身を縮めながら思った。 本当に恐ろしいのは、あの染殿独特のにおいと共に現れる、あの者たちのことだ。 あの者たちはいつの頃からか、たびたび明子の目の前に現れては、明子を苦しめた。 明子はあの者たちが恐ろしく、夜の暗闇の染殿で寝るのが怖かった。それで染殿で泊まる時はいつも灯りを灯したまま眠るのだが、あの者たちが来る時にはそれもいつのまにか消えてしまう。恐ろしさのあまりどんなに叫ぼうとしても、身動きも出来ず声も出ない。隣に誰かが寝ている時でさえ、どんなにもがいて訴えても、誰も目を覚ましてくれなかった。そんな恐ろしいことが、この染殿では度々起こるのである。 ほら、今も……。↓この時代はまだ大陸文化の影響を色濃く残していたせいか、染殿には中国風の展望用の高い建物(望遠亭)があったのだそうです。実際どんなものだったのかはわかりませんが、中国風というからにはこんな感じだったのかな?(この写真は平安神宮)
2007年12月07日
コメント(0)
明子の不思議な体験は、もう物心ついた時から始まっていた。 初めの頃は、それほど恐ろしいものではなかった。 あれは確か明子が四歳か五歳くらいの頃であっただろうか。 ある日、明子が一人で東の対の簀子から庭を眺めていると、側の遣水のほとりに植えられていた卯の花の下に、小さな女の子がしゃがみこんでいるのが見えた。 卯の花と同じ白い衵を身につけた女の子は、明子を見るとにっこりと笑った。大きな屋敷で姉妹もなく育った明子は、初めて同い年くらいの女の子に出会ったことが嬉しくて、女の子に手招きすると、一緒に簀子から降りる階に座った。そして、長い間二人でおしゃべりをした。何の話をしたのかは今では思い出せないが、ただとても楽しくて時の立つのも忘れていたことは覚えている。 だが、明子は急に後ろから乳母の継子の手に抱き上げられた。びっくりして継子の顔を見ていると、青ざめた継子は震えながら言った。「一体、一人で何をお話しておられたのです」「一人じゃない。知らない女の子と」 明子はそう言って、先ほどまで二人で一緒に座って話し込んでいた階を指差したが、そこには誰もいなかった。↓幼い女の子の装い「衵」(あこめ)。この写真の少女が一番上に着ているものです。子供が動きやすいようにか、大人の装束と違って身の丈より短く仕立てられています。袴も同様で、大人のような長袴ではなく、足先の出る切袴を穿いてますね。色は濃色。未婚の女子の色とされています。ちなみに、大人の女の人は紅の袴を穿いてました。
2007年12月06日
コメント(0)
生まれて以来、明子はこの染殿で最も長い時間を過ごしてきた。まだ子供だった頃はもちろん、宮中へ入内してからも、何かにつけてこの染殿へ戻ってくることが多かった。 明子は身体が弱くて、すぐに体調を壊してしまうたちだ。宮中で重病に陥ったり死んだりすることは大変忌まれることなので、具合が悪い時は出来るだけ速やかに里へ退出しなければならない。 また、明子にとって宮中は、女たちの権謀術数渦巻く恐ろしいところであり、とても心穏やかに過ごせる場所ではなかった。 だから、少しでも気分が悪かったり、他の妃との間で何かつらいことがあると、明子は里であるこの染殿へ下がってきた。今回の里帰りも、持病の頭痛があまりにもひどく、ほとんど起きられなくなってしまったからだった。 だが、明子は好んでこの染殿へ度々下がって来ていたわけではない。実を言うと、明子はこの美しい屋敷を心から恐れていたのである。 しかし、恐れれば恐れるほど、逆に明子を魅了する不思議な力が、この染殿にはあった。それは、例えるなら、高い岸壁から眼下の逆巻く波涛を眺める時の感覚に似ていた。恐ろしくて堪らない。だが、何者かが誘惑して手招きしているような、吸い寄せられて落ちて行くことに甘い快感を覚えるような。そんな逃れがたい魅力だった。 どうしてそんな感覚を覚えるのか、明子にはわからない。だが、明子は染殿を恐れつつも、この屋敷に足を踏み入れるたびにその奇妙な力に魅了され、どうしても染殿を離れることができなかったのである。 そこで、どれほど恐ろしい思いをしたとしても……。
2007年12月04日
コメント(0)
じじじじ……じっ。 燈台の灯りが、風もないのに揺らめいて消えた。 明子はまだ少し痛む頭を押さえ、褥の上にそっと置き上がった。 急に明かりが消えたせいで、辺りはいつもにも増して色濃い闇が満ちている。 明子はもう一度灯りを灯してもらおうと女房を呼んだ。だが、皆なぜか返事をしない。少なくとも、いつも宿直をしてくれる乳母の継子は、明子の側で横になっているはずなのに。 明子は急に不安になって、辺りを見まわした。そして、先ほどからだんだん強くなってきた例のにおいが、今ではもう噎せ返るほど立ち込めているのに気づいた。 明子は思わずぞっとして身をすくめ、闇から逃れるように袿を引き被って褥に伏した。 じっとりと饐えた黴のような、それでいて死人の腐肉を思わせる、奇妙な甘い染殿のにおい。 そのにおいが強くなると起こる恐ろしい出来事に、明子はこれまでどれほど苦しめられてきたことだろう。
2007年12月03日
コメント(0)
ふふふと、真雅は嫌な笑い方をして、真済を見下ろした。真雅の周りの僧たちの目も、見下げ果てたといった冷たい光を帯びている。誰一人として、以前のような憧れと尊敬を込めて真済を見つめるものはいなかった。 皆、自分のことで精一杯なのだ。これからの自分の生活を脅かすような失態を演じた真済を、だれも許そうとはしなかった。 真済はそのような真言宗の衆の有様を見届けると、おもむろにゆっくりと立ち上がった。そして、居並ぶ者たちに目もくれず、静かにたった一人で堂宇を出て行った。 青々と剃り上げられた頭に、飾りのない僧衣をまとった細身の長身。風にそよぐ墨染めの袖の陰で、手に握られた菩提子の数珠が揺れている。 金堂にいた者たちは、ものも言わずにその後姿を見送った。誰も真済を追おうとするものはいなかった。 そして、その後姿を最後に、そのような真済の姿を目にしたという者は、誰一人として二度と現れなかったという。
2007年12月01日
コメント(0)
全18件 (18件中 1-18件目)
1