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だが、いずれはああなるだろう。 真済は辺りを見まわした。小さな筏には、十人ほどの人間が乗っていた。いや、人間だったものと言った方が良いか。 筏の上には、全身が白くなるほど蛆虫に覆われた腐乱死体が、耐えられないほどの悪臭を放ちながら、いくつも横たわっていた。五日ほど前に死んだ者たちだ。 この筏には、最初三十人ほどの人間が乗っていた。だが、食べ物もなく飲み水さえ手に入らない日々が続くうち、やがて一人、二人と死んでいった。 最初のうちは皆悲しみ、憐れんだ真然が経文を唱えて弔った後、死体を海へ流してやっていた。だが、日が経つにつれて、やがて誰にもそんな気力はなくなっていった。 そして、死んだ者は腐るに任せ、ただ空を見上げて嘆いているうち、いつのまにか周りは死人だけになっていた。真然ももうすぐその仲間入りだ。 私もだが……。 真済はがっくりと項垂れた。 こんなところで死にたくない。いや、死んでなるものか。 何のために、今まで血の滲むような苦学をして、仏典の研鑚を積んできたのだ。すべて、遣唐使船に乗って入唐留学し、仏教の奥義を極めるためではないか。そして、いずれはあの師を越えてみせる。 それが、真済の唯一の宿願だったのだ。それが、こんな形で破れるなんて。 真済は歯噛みしてうめいた。
2007年06月29日
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真然は、真済の傍らで、白い半眼を見せたままうめいていた。 何という浅ましい姿だろう。 髭の伸びた顔も、脱げかけた衣からのぞいている胸も、剥き出しの手足も、すべてがまるで黒い墨のように日に焼けている。あまりにも焼けすぎたせいで、ひどい水ぶくれになった辺りは皮膚が破れて爛れ腐り、夥しい蛆虫の住処と成り果てていた。むかつくような腐臭が鼻を突く。顔は骸骨のように痩せ尖り、うつろな白眼はまるで死んだ魚のようだった。 今や、高尾の僧たちを密かにときめかせた美貌の面影など、かけらほどもない。一個の腐肉と化したかのような真然の姿が、真済には疎ましかった。 だが、自分の蛆のたかった両の手を見て、真済は皮肉に唇を歪めた。 私とて、同じようなものではないか。 今傍らで横になっている真然の姿は、そのまま今の真済の姿だった。まだ真済は意識があるだけましかもしれないが。 真然は三日前からほとんど気を失ったまま目を覚まさない。 三日前、最後に雨が降った時、ひどく海が荒れた。真然は押し寄せた波に煽られて、命綱だったたった一つの木の手桶を海へ流してしまったのだ。これで、雨が降っても雨水を貯めておくことが出来ない。 真然は絶望したのか、それきり気力を失って、筏の上に倒れ臥したまま身動き一つしなくなってしまった。先ほどうめいたところをみると、まだ辛うじて生きてはいるらしい。
2007年06月27日
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暑い。 顔の皮膚がちりちりと音を立てて、焼け焦げているかのようだ。 ゆっくりと波に揺れる小さな筏の上で、真済はその微かな痛みを感じて目を覚ました。 まだ夜が明けてからそう間もないはずなのに、見上げる空は濃い群青で、日の光を遮る雲一つない。白い翼をした鳥が一羽、頭上でくるくると舞っている。きっと、自分が息絶えるのを待っているのだろう。 真済はひび割れた唇を開いた。息が出来ない。もう唾も出なくなった口はからからに渇き、うめき声すら出せなかった。 一体、あれから幾日が過ぎたのだろう。 十日を過ぎる頃までは数えていたが、日が経つにつれて恐ろしくなって止めてしまった。頼みの綱のにわか雨も、もうここ三日、一滴も降っていない。周りを海原に囲まれていながら、決して飲むことが出来ないとは。真済は水を求め、喉を鳴らして喘いだ。 その喘ぎに答えるように、傍らから微かなうめき声がした。 ああ、真然もまだ生きているのだ。 真済は気力を振り絞って、仰向けに横たわっていた身体を起こした。
2007年06月26日
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清和院は驚いて叫んだ。「なんと、あの鬼は人であったのか」 継子は遥かな昔を思い出すような目をして言った。「あの鬼の名は真済。元は僧でございました」「僧?」「はい。それも、並の僧ではござりませぬ。弘法大師空海の高弟として知られ、後に僧正の位を得て、世に紀僧正と呼ばれるようになった高僧でございます」「そのような有徳の僧が、何ゆえ鬼などに」「それを今からあなた様にお話いたしましょう。わたくしは常に明子様のお側に控え、全てを見聞きして参りました。長い間内裏に勤めたせいで、恐れ多くも御帝や、良房様や基経様をはじめ、朝廷の方々のこともよく知っております。真済についても高尾神護寺や東寺の僧たちから聞きました。時には、あの鬼自らがわたくしに語ったこともございます。それをみんな、あなた様にお話いたしましょう」 そして、継子は次第に深くなっていく夕闇の中で、静かに語り始めた。 おぞましくも、哀しい物語を……。
2007年06月25日
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「すべて……?」「はい。わたくしは明子様がまだ襁褓のうちからお側に仕え、それ以後傍らを離れることなく過ごして参りました。内裏でも染殿でも、昼であろうと夜であろうと、お側を離れたことはございません。そして、あの方の身に起こったことをすべて、この目で見、耳で聞いて参りました」「だが、私の問いには答えられまい」 清和院は苦々しく言った。「それは一体どのような問いでございます」 継子は真っ直ぐな目で清和院を見つめた。その視線に耐えきれず、清和院は顔を背け、鋭い声で吐き捨てるように言った。「私の父は一体誰だ」 継子は目を見開いたまま清和院の顔を見つめ続けている。清和院は俯いたまま、掠れた声で呟いた。「……あの鬼ではないのか」 継子はなおもしばらく清和院の顔を見つめていた。清和院は答えを聞くのが恐ろしく、拳を握り締めて俯いていた。だが、やがて継子は溜め息をつきながら言った。「滅相もないことでございます。鬼があなた様の父などと。なぜ、そのようなことをお考えあそばしたのやら」「嘘はつかないでくれ。私は本当のことが知りたいのだ」 清和院が叫ぶように言うと、継子はそっと清和院の手を取って頷いた。「嘘は申しませぬ。あなた様の父君はまぎれもなく文徳の帝。それは間違いございません。それに……」「それに?」 継子はどこか哀しげに微笑んで言った。「それに第一、あなた様がお生まれになった頃、あの鬼はまだ人の姿をしておりました」
2007年06月23日
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「一体私に何の用だ。母上の話なら聞きたくない」 清和院はきつい口調で言ったが、継子は怯みもせず、真剣な眼差しで清和院の目を見つめて言った。「いえ、どうしても聞いて頂かなければなりませぬ。この度の譲位のこと、このように荒れて御酒を召し上がっていること、すべて母上様が元でございましょう」「そんなことはない」「お隠しくださいますな。わたくしにはわかっております」「お前に何がわかる!」 清和院は声を荒げて叫んだ。血走った目を向ける清和院に、継子は憐れむような視線を投げかけて言った。「わたくしはあの夜、明子様の寝所の脇にある塗籠に控えておりました。そして、あなた様が忍んでおいでになったことも、そこで何を御覧になったかも、よく承知しております」 清和院は絶句して、継子を見つめた。継子は低い声で続けた。「あなた様が母君様の秘密をお知りになり、どれほど恐ろしく辛い思いをなされたか、お察しいたします。世をはかなみ、ついに譲位をお決めなされたことも、無理はござりませぬ。ただ、あなた様が未だに何かに鬱々と悩み、酒浸りになるほどお苦しみだという噂を聞き、わたくしはあなた様に全てをお話した方が良いのではないかと思うようになったのです」
2007年06月22日
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「無礼な。一体誰だ」 清和院が声を荒げると、女房はさらに肩をすぼめながら言った。「百済継子様と申される方でございます。母君明子様に長年お仕えしている命婦だとか」 母の名を聞いて、清和院ははっとした。あの染殿の夜以来、母には会っていない。母の名は、清和院にとって今は疎ましいものだった。 だが、母の側に仕える者が、一体自分に何の用だろう。清和院は何となくそれが気になった。 それに、今自分を苛んでいるこの恐ろしい疑惑を解く鍵が、何か見つかるかもしれない。真相を知ることは恐ろしい。だが、このまま疑惑を胸に抱いたまま苦しんでいては、自分はいずれ気が狂ってしまうだろう。そう思うと、少し勇気が湧いてきた。 清和院は女房を促し、掠れた声で言った。「許す。ここへ通せ」 女房が下がると、入れ違いに年老いた女が膝行して部屋に入って来た。そして、清和院の前で平伏し、小声で詫びを言った。「身分もわきまえず、このように推参いたしましたこと、どうぞお許しくださりませ」「もうよい。顔を上げよ」 清和院がそう言うと、老女はゆっくりと顔を上げた。それは、あの染殿への行幸の日、母の傍らに控えていた老女房であった。「そなたは、あの折りの」 清和院が驚くと、継子という命婦は頷いた。
2007年06月21日
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それは、自分の父は誰か、ということだった。 清和院は優しく穏やかだった父の文徳帝の顔を思い浮かべた。幼い頃に亡くなったのでもうずいぶん朧になってはいるが、その高貴で端正な面影を我が父として長い間敬愛してきたのだ。 それが、もし違っていたのだとしたら。自分には帝位についている資格はない。そう思うといたたまれなかった。それが、譲位を決めた一つの理由でもあった。 だが、どうやったら、真相を知ることができようか。 母が鬼と愛し合うようになったのは、一体いつからだったのだろう。もしかしたら、あの鬼との関係はずっと前、まだ自分が生まれる前からだったのかもしれない。入内前からあの鬼と愛し合っていた母は、帝の后として内裏に入った後もあの鬼のことが忘れられず、たびたび染殿へ帰っては鬼と睦み合った。そうして、自分を孕んだのだとしたら……。 清和院は手に持っていた素焼きの杯を庭へ投げ、頭を抱えてうずくまった。 とても耐えられない。 清和院は酒の入った瓶子を乱暴に取り上げると、注ぎ口に直に唇を押し当てて酒をあおった。 そこへ、一人の女房が遠慮がちにやって来て、小さな声で取り次いだ。「院にお目通りを願う方が参っておられます」 清和院は邪魔が入ったのを不愉快に思い、邪険に言った。「誰にも会うつもりはない。帰れと言え」 しかし、女房はなおも困ったように俯いて言う。「それが、どうしてもお会いしたいと、先ほどからそこへ控えておられまする」
2007年06月19日
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譲位を言い出したのは、その翌日のことである。 基経は当然、はじめは相手にもしなかった。清和帝はまだ若い。それに、後を譲るといっても、東宮はまだ九歳だ。 だが、清和帝は自分もその歳で即位したことを楯にとって、決して後に引かなかった。あまりにも強情な清和帝にさすがの基経も困り果てたという。 だが、よく考えて見れば、同じ藤原北家の母を持つ親子二人のどちらが帝位にあろうとたいした違いはない。むしろ、穏やかな性格とはいえもう立派な大人の清和帝よりは、幼い子供の方が扱いやすいのではないか。それに、今度は自分の娘を帝の妃として後宮に送り込むことも出来る。野心家の高子は厄介だが、うまく扱えば何とか丸め込めるだろう。 おそらく基経はそう踏んだに違いない。結局は清和帝の譲位に賛成することになったのだから。 譲位はその年の内に行われ、翌年の正月に陽成帝が正式に即位した。清和帝は太上天皇となり、内裏を出て、粟田院に定めた仙洞御所へ移り住んだ。 それ以後、ほとんど世の中との交わりを絶って、ここで酒浸りの日々を過ごしている。だが、いくら飲んでも、清和院の心は晴れなかった。 鬼と激しく抱き合う母の姿。それはあまりにも淫らで浅ましく、その衝撃は清和院の心から、母への敬慕も愛情も一挙に拭い去ってしまった。そして清和院は、最愛の母を疎ましく思いはじめると同時に、この世への愛着すら何もかも失ってしまったのである。 だが、それだけではない。あの夜以来、一つの重大な疑惑が、清和院の心を蝕んでいたのだ。
2007年06月16日
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清和院は、夕暮れの物寂しい庭の景色を眺めながら、一人で酒を飲んでいた。 粟田院の庭はどこか荒れ果て、すさんだ主の心を映しているかのようだった。この粟田院は、鴨川の東にある基経の山荘だ。時折遠くから微かに鴨川の川音も聞こえてくる。 清和院は昨年譲位し、東宮であった息子の貞明親王が新しい帝に即位した。陽成帝である。 陽成帝の母の高子は有頂天になっていた。こんなに早く我が子に帝位が回って来ようとは、思っても見なかったのだ。これで思う存分宮中で権勢がふるえる。今まで遠慮がちに接していた基経にも、もう何の気兼ねも要らない。何しろ、国母なのだから。 基経も陽成帝の摂政に就任していたが、今までのように高子を無視できなくなった。もともとあまりそりの合わない兄妹だ。これから様々な確執が生まれて来るに違いない。 だが、清和院にはそんなことはもうどうでも良かった。何もかも忘れてしまいたかった。それで、浴びるほど酒を飲み、酔いつぶれて眠る夜々も多かった。 だが、あれが忘れてしまえようか。 忘れようとするたび、あの恐ろしい鬼の笑みが眼に浮かぶ。それに、鬼の首を抱きしめ、陶酔の喘ぎ声を上げる母の姿も。 清和帝は、あの夜どうやって自分の寝所に戻ったか覚えていない。だが、それきり眠ることも出来ずに、夜具を引き被ったまま震えていた。そして、朝になると基経が引き止めるのも聞かずに、用意が間に合った僅かな者だけを供にして、急いで染殿を発った。
2007年06月12日
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そこで目にしたものは、清和帝の想像を絶するものだった。 帳台の中は、灯台一つついていないのに、蒼い燐光の揺らめきで満ちていた。 そして、その中心で母の白い肢体を組み敷いている者は、なんと鬼だったのである。 こちらに背を向けたまま荒々しく母の脚を広げ、豊かな胸にしゃぶりつくようにして圧し掛かった鬼は、獣のようなうめき声を上げながら母の身体を弄んでいた。鬼の身体からは青白い炎のようなものが立ち昇り、陽炎のように揺らめいている。死人の腐臭のような異様なにおいが、清和帝の鼻を突いた。ざんばらの乱れた蓬髪が腰まで伸び、その青黒い背中の肌を覆っている。母を押しつぶしている大きな身体は優に八尺はありそうで、母の身体を突き上げるたびに引き締まった筋肉が盛り上がった。 鬼は荒い息を吐きながら、母の髪を握って引き絞り、仰け反った母の首筋に青黒い舌を出して這わせる。だが、母はそれを嫌がろうともせず、いとおしげに鬼の首を、その白い滑らかな両の腕で抱きしめた。そして、鬼のうめき声に劣らぬほど高い声で、耐えきれぬように喘ぐ。白い肌は興奮で紅に染まり、豊かな髪が乱れて鬼の身体に絡みついていた。鋭く伸びた汚い爪のついた鬼の手に握られた乳房には、茱萸の実のように赤く尖った乳首が見え隠れしている。 あまりに浅ましい母の姿に、清和帝は思わず眼を覆いたくなった。だが、身体が凍りついたように動かない。ただ、ごくりと息を飲むのが精一杯だった。 その音が聞こえたかのように、鬼はまだ激しく腰を動かしながら、ゆっくりと振り返った。 濁った金色の眼が、金属のような冷たい輝きを帯びて、清和帝の眼を射貫いた。口は大きく裂け、分厚い唇から鋭く尖った牙が覗いている。 そして、鬼はその口から涎を滴らせながら、鈍く光る金色の眼で清和帝の眼を見据え、にやりと唇を歪ませた。 それは、清和帝を嘲笑うかのような、皮肉な微笑だった。
2007年06月08日
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だれか、いる。 清和帝はそう思った。だが、それは母ではない。明らかに男の声だ。 そのうめき声に混じって、母のあの甘く細い声も聞こえてくる。すすり泣くような、切ないような、喜悦の声。それが、男女が交わる時の閨声であることに気づいて、清和帝は身体が凍りつくのを覚えた。 母が密かに男と通じていたなんて。 清和帝は今までそんなことを考えてみたこともなかった。あの完璧に美しい天女のような母が、夫でもない男を近づけ、夜毎愛し合う姿など想像も出来ない。 しかし、今明らかに、この帳台の帳の向こうには、誰かが母といる。 清和帝はそっと手を伸ばし、帳の布に手を触れた。 母親が男とまぐわう姿など見たくはない。だが、一体誰と……。 清和帝はそれを知りたい気持ちと知りたくはない気持ちで思い乱れ、帳の端を指で掴んだまま震えていた。 清和帝の脳裏に、色好みで知られた数人の公卿たちの顔が思い浮かぶ。いや、もしかしたら、いつも一番身近にいるあの基経かも。基経と母は本来従姉弟同士だ。たとえ結婚したとしても、何の差し障りもない。いつものしたり顔で母を抱き寄せる基経の姿が目に浮かび、清和帝は怒りではちきれそうになった。 確かめずにはおれない。 そう思った清和帝は、帳を握った指に力をこめ、一気に帳を掻き分けた。
2007年06月06日
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それはきっと、母に直接聞かなければなるまい。そうでなければ、今までのように適当に誤魔化されたり、当たり障りのない嘘を言われたりするだろう。 清和帝は決心して、夜具の上に起き上がった。 今夜こそ、はっきりと母に聞いてみよう。 清和帝は身体に掛けてあった単を一枚肩に羽織り、音をさせぬようそっと立ち上がった。そして、部屋の隅で眠りこけている女房を起こさないよう気をつけながら、足音を忍ばせて寝所を抜け出した。 妻戸を開け、寝殿の簀子に出ると、外は真の闇だった。月もなく、星一つ輝いていない。辺りは静まり返り、虫の音すら聞こえなかった。 清和帝は闇の中を手探りで、母の住む東の対へ向かった。 昼間基経に連れてこられたから、母の寝所はだいたいわかっている。清和帝は息を殺し、誰にも見咎められないよう注意しながら、東の対の妻戸を開けて中に入った。 対の屋の中は静まり返っていた。側で宿直をする女房もいない。昼間、母の傍らに控えていたあの老女房さえいなかった。 だが、それは清和帝にとって幸いだった。これで、誰にも邪魔されずに母と話が出来る。そう思うと、清和帝は少し安堵して、そっと御簾を持ち上げ、母のいる帳台に近づいて行った。 その時だ。 帳台の中から、低いうめき声がした。まるで、地の底から響いてくるような、獣じみたうめき声だった。↓平安時代の建物の説明★金色の金具のついた観音開きの扉が「妻戸(つまど)」、建物の周りに廻らされた人が通れる廊下の部分を「簀子(すのこ)」、庭に下りる階段を「階(きざはし)」、半分だけ上げられた窓?の部分が「半蔀(はじとみ)」です。これは京都御所の一部分なので近世的なアレンジありかな?(多分、平安時代は半蔀の内側には白い障子がなく、御簾が下ろされていたのでは?)
2007年06月05日
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それどころか、たとえ母の話をしていたとしても、その場に清和帝が来ると急に話を止めてしまう。 ある時、藤壺へ続く渡殿で、良房と基経が額を突き合わせて何やら話をしていた。二人とも深刻な表情で、立ったまま小声を交わしている。 藤壺女御の元へ行こうとして、たまたまそこを通りかかった清和帝は、二人が母の名を口にしたのを耳にした。それで後ろから、母上がどうかしたのかと声を掛けた。その時の二人のぎょっとした表情は今でも忘れられない。二人とも物怪でも見たかのように、青ざめて口をつぐんでしまった。 一体二人はあの時何の話をしていたのだろう。清和帝は何度か聞いてみたが、何を聞いても誰も何も答えてはくれなかった。 誰もが何かを隠している。それも私にだけに。 清和帝はその時確信した。だが、彼はそれ以上追求しようとはしなかった。周囲の者の異様な反応、そこかしこで交わされている不穏な囁き。それは、何となく不吉で禍々しいものを連想させた。 心から愛し敬っている母の秘密。清和帝はそれを知るのが怖かったのだ。 だが、今は違う。 清和帝は何があっても愕かない自信があった。自分もいつまでも子供ではない。文武百官を率いる万乗の君たる帝だ。この国で起こることで自分が知らないことがあって良いわけがない。したり顔をして、自分に何もかも隠そうとしている基経も憎らしかった。 だが、それよりなにより、清和帝は母のことが知りたかった。母がなぜあんな眼をして自分を見るのか、どうして自分のことなど忘れてしまったかのようなのか、知りたかった。
2007年06月02日
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母があんな目をするようになったのはいつ頃からだったろうか。 清和帝がずっと幼い頃から、母は身体が弱く引き篭もりがちではあったが、その瞳はまだ優しく輝きながら自分を見つめてくれていたような気がする。それが、いつのまにか変わってしまったと感じたのは、確か自分が帝の位に即位したあたりだったように思う。 その頃、清和帝はまだわずか九歳にすぎなかったが、あの時の周囲の慌しさや混乱をよく覚えていた。母が変わったのは、まだ若かった父の文徳帝が、たった数日寝込んだだけで俄かに崩御してしまった衝撃のせいだろうか。それとも、幼い我が子が帝の位につき、それを補佐して朝廷を率いて行かなければならない重圧に、耐え切れなかったからだろうか。 幼かった清和帝には、その時の詳しい事情はわからない。 だが、その頃から、母の身辺には何か暗い秘密のようなものが立ち込めるようになった気がする。 母の側にはいつもほんの数人の女房が仕えているだけで、めったに晴れがましい席に出て来ることはない。内裏の女主人であるはずの皇太后に、わずかな侍女しかついておらず、宮廷の行事にも出席しないというのは、異例のことである。 それに、清和帝の前で母の話題が出ることはほとんどなかった。清和帝はいつも母に会いたくても会うことが出来ず、せめてその噂だけでも聞きたいと願っていた。だから、良房や基経はもとより、側に仕える女房に到るまで、機会があるごとに母について聞いてみた。だが、皆は口を揃えて、お元気でお過ごしでございますとか、いつもあなた様のことを思っておられますとかいうだけで、何の質問にも答えてはくれない。
2007年06月01日
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