2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全19件 (19件中 1-19件目)
1
「それはどういうこと?」「お前の父は、お前の母に恋をした。いや、恋というより、自分でもどうしようもない狂ったような妄執だったのかも知れぬがの。とにかく、想いの強さは本当だった。それだけは疑いはない。だが、それほどまでに強く求めた母を、父はだんだん憎み始めた」「どうして?」「それは、愚かな疑いだった。お前の母と一緒になって、すぐにお前が生まれた。だが、お前の母は父の屋敷に来る前に、わしの妻であった。そして、生まれた赤子は、母親には似ておるが、父親にはほとんど似ていない。それで、思ったのだ。この子は本当に自分の子だろうかと」 高野聖は溜め息をつき、唇を歪ませた。「わしはその話を聞くまで、そんなことは考えたこともなかった。確かに、あり得る話ではある。だが、強引に自分のものにしておきながら、それを信じてやらねば、母の立つ瀬がなかろう。その上、愛する女が自分以外の男に身を許しその子を生んだかも知れぬということが許せなかった父は、母を責め蔑んだ。もちろん、はっきりとそう口に出して言う勇気はなかったがな。お前の父は本当に愚かだった。今なら、それがはっきりとわかる」「なぜ?」「お前は確かに顔は母似だが、手足の形や体つきは父によく似ている。さっき、そこの五輪塔に座っていた時の格好など、幼い時の父の姿そのままであった」
2007年03月31日
コメント(0)
新発意は父が哀れになった。だが、その身勝手さはとうてい許すことは出来ない。「でも、どうして母上まで捨てたの? 一緒につれて逃げればよかったのに。母上はずっと父上に会いたがっていた。きっと戻って来てくれるって信じてた。最期まで父上のこと待っていたんだよ」 そう言いながら、新発意の脳裏には母の最期の姿が浮かんで来た。あの最期の言葉も……。新発意は力なく項垂れて呟いた。「母上は、死ぬ前にこう言ったよ。お前さえ生まれてこなければ、父上に捨てられることもなかっただろうに、と」 それを聞いた高野聖は、長い間黙って遠くを見つめていた。ねぐらへ帰る烏の声が、桜の梢をよぎる。やがて、高野聖は言った。「あれは、やはり知っておったのか」「知っているって、何を」「……お前の父が出奔したのは、妻殺しが露見するのを恐れたためばかりではなかった。本当は、自分自身の存在、それ自体が厭わしくなったからなのだよ」
2007年03月29日
コメント(0)
高野聖は額に滲んだ汗を拭った。「奥方の兄は、妹の失踪をずっと不審に思っていた。自分でもずいぶん手を尽くして探したが、どこかへ立ち寄った形跡すらない。婚家に疑いを持つのは当然の成り行きだ。しかし、江戸にいる間は身動きが取れないし、高禄の姻戚に不審を言い立てるのにも憚りがあった。それが、大目付という役目つきで筑前に戻ってこられたのだ。早速、妹の失踪の原因を糾そうとしたのも当たり前であろう」「それが、父上が姿を消した理由?」「そうだろうな。奥方の兄は、苛烈な人柄だった。事が露見すれば厳罰は免れぬ。下手をすれば、自分だけでなく家族の命まで危うい。それならば、いっそ自分が姿を消してしまえば、すべてがうやむやな霧の中に包まれたままで終わるのではないか。そう考えたそうだ。浅はかと言えば浅はかだ。当主が後継ぎも決めずに不名誉な出奔などすれば、家は取り潰され家族が路頭に迷うのは必定。だが、その頃はもう半ば頭が衰弱しておってな。とにかく、ここから逃れたい。もう何もかも捨てて、どこかへ行ってしまいたいと、そう願うばかりであったそうだ。それで、ある夜、誰にも何も告げずに家を出た」
2007年03月28日
コメント(0)
「だが、お前の姉は父親にはあまり懐かなかった。抱き上げても泣くばかりでな。父親の方も、兄弟がおらず側で赤子を見たこともなかったから、どう接すれば良いのかわからなかったそうだ。それで、だんだん疎遠になってしまったらしい。だが、娘の可愛くない父親などいるものか」 新発意は姉が哀れだった。何も知らず、ただ父母を恨んで、一生一人で生きていくことを選んだ姉。「奥方を殺してからは、まるで日毎にずるずると地獄へ引き摺り落とされて行くようだったと、お前の父は言っていた。心はいつも乱れ、小さな物音にさえも怯えるような日々。まるで自分が自分でなくなるようでな。三年も経つ頃には、もう城でのお役目さえ満足に果たせなくなってしまった。そんな時だったのだ。奥方の兄上が、江戸からお戻りになることになったのは」「奥方の兄上?」「奥方の兄は家督を譲られて以来ずっと江戸詰めであったのだが、江戸での功績が認められて藩の大目付に抜擢された。なかなかの切れ者でな。脛に傷を持つような藩士たちは内心恐々としておった。そして、その兄が一番先に手をつけようとしたのが、妹の失踪についてだったのだ」
2007年03月27日
コメント(0)
新発意は、暗い火影に揺れる姉の物怪のような顔を思い出した。「それに、その眼が自分を激しく非難しているように見えたそうでな。てっきり、娘は父親が母親を殺したことに気付いているのだと思い込んでしまったのだ。知っていながら、黙って恨んでいる。それが恐ろしくてならなんだと言っておった。それが、何も知らなかったとは……」 高野聖は深い溜め息をついた。「お前の姉には、可哀想なことをした。父は娘を疎んじていたのではなく、ただ恐れていたのだ。それも、娘は預かり知らぬ父の罪のためにな」「でも、姉上は父上から可愛がられたことがないって言っていたよ」 高野聖はわずかに微笑んで言った。「それは、あれが覚えておらぬだけのこと。あれがまだ赤ん坊の頃には、わざわざ京で人形を誂えさせたり、まだ食べられもせぬ菓子を買って来たりしたものだった」 高野聖の微笑みはまるで自分の娘のことのように優しかった。
2007年03月24日
コメント(0)
高野聖は新発意の瞳を見つめながら、苦しげな口調で続けた。「奥方は本当にそうしたかったのであろうよ。自分を踏みつけにした夫を苦しめ、憎い女がのたうちながら死ぬのを見たい。そう思うのも仕方あるまい。だが、奥方は誇り高く心根の優しいお方であった。どれほど憎く思っていようと、人を殺すことなど出来ぬ。ただ、腹いせに夫を苦しめようと、嘘の脅し文句を言っただけだったのだ。だが、そんな言葉を真に受けて、罪もない者を無残に殺してしまったと、お前の父は涙を流して悔やんでおったよ」 高野聖の落ち窪んだ目にも、涙が滲んでいる。「奥方を殺してから、お前の父の心の中は片時も休まらなかったそうだ。いつも奥方の死顔が目に焼き付いて離れなかった。特に、あの恨むとも、哀しむとも、憐れむともつかぬ、苦しげで虚ろな眼がな。そして、その眼と同じ眼差しで自分を見る者がいる。それに耐えきれなかったと」「姉上のこと?」「おそらくそうだろうな。お前の姉は奥方にそっくりだ。浅黒い肌も、頬骨の高い痩せた顔も、低い声さえもよく似ている。まるで奥方の霊魂が乗り移ったかのように見えたのであろう」
2007年03月23日
コメント(0)
新発意はそれを聞いて驚いた。もしかしたら、母の死の原因は……。「それを聞いたお前の父は、思わず逆上して、腰に差していた脇差を抜いてしまった。そして、気がついた時には、奥方は血塗れの蔵の床に倒れておったそうだ。責めるような、苦しげな目を開いたままでな。お前の父はすぐに自分のしたことに慄き、奥方の死体を引き摺って、裏庭の隅にあった古井戸に投げ込んだ。そこはもう何十年も前から使われておらず、釣瓶も朽ちて、ただ蓋のしまった井戸の口が笹薮に覆われているだけだ。お前の父は子供の頃祖父に教えてもらったのでその廻りでこっそり遊んだそうだが、この話を聞くまでわしですらその井戸があることを知らなかった。お前の父は井戸の周りと蔵の中を元通りに直すと、すぐにお前の母の部屋へ行き、薬を全て取り上げて医者に調べさせた。だが……」 高野聖の顔が苦渋に歪む。やはり、母の死はその時の薬が原因だったのだろうか。訴えるような目で見つめる新発意に、やがて高野聖は疲れたような吐息をもらしながら言った。「薬には、何の毒も入ってはいなかった。ただの咳止めでな。お前の母にはその頃から労咳の気があったが、それほどひどくはなかった。その頃時々気分が悪そうにしていたのは、お前を身ごもっていたからだったのだ」
2007年03月22日
コメント(0)
新発意は驚いてすぐには言葉も出なかった。 高野聖も向こうを向いたまま黙っている。新発意はしばらく無精髭に覆われた高野聖の横顔を眺めていたが、ようやく勇気を振り絞って聞いた。「誰に?」 高野聖は顔中に疲れと苦渋を滲ませて、ゆっくりと振り返った。そして、一度溜め息をつきながら夕空を見上げた後、静かに語り始めた。「わしもずっと奥方の行方が気がかりだった。二人で旅をしている間中、何度もお前の父に訊ねたが、江戸に行ったらしいと言うだけで何も答えてはくれなかった。だが、昨年死の病に伏した時、もう長くはないことがわかったのであろうな。ある夜、枕元で看病するわしに、何もかも話してくれた」 高野聖は、遠くに沈み行く夕日を見つめながら言った。「奥方を殺したのは、お前の父だ。奥方は、表向きは平静な態度を崩さなかったが、心の中はほとんど狂わんばかりに乱れていた。今まで愛情を尽くして仕えてきた夫に裏切られた苦しみと、愛しい男を他の女に奪われた哀しみでな。それでも、武家に生まれた女の嗜みと正妻としての高い誇りで、何とかこらえていた。だが、お前の父の人目も弁えぬ振る舞いは、奥方の心を踏みにじり、その辛抱の限界を超えさせてしまった。それで、あの日奥方は夫を屋敷裏の蔵の中へ呼び出し、今まで聞いたこともないような激しい口調で、その情けない振る舞いと不実を責めた。そして、最後にこう言ったのだそうだ。元々身体の調子がすぐれぬお前の母が以前から飲んでおった薬には、この屋敷に来てからずっと石見銀山の毒を少しずつ混ぜてある。あの女ももうすぐ死ぬであろうと」
2007年03月20日
コメント(0)
高野聖はしばらく俯いて、震える両の手を眺めていた。日に焼けた顔は、ほとんど黒く見えるほど青ざめている。やがて、高野聖は聞き取れぬほど小さな声で呟いた。「何も知らなかったとは……」 新発意はあの時の姉の気味の悪い浅黒い顔を思い出しながら言った。「姉上は、いつも自分は父にも母にも捨てられた娘だって言うんだ。特に、実の母上からもお別れさえ言われずに置き去りにされたことが、本当に辛そうだった」 高野聖はしばらく俯いたまま考え込んでいた。そして、何かを決心したかのように微かに頷くと、ゆっくりと顔を上げて言った。「お前の姉は、母親から捨てられたのではない。奥方は娘のことは大事に思っていた。躾の厳しい上士の家の出のせいで、子供を可愛がるすべは知らなかったがな。捨てるなど、考えたこともなかっただろう。娘の元から姿を消したのは、ただ……」 高野聖は言いよどんだ。だが、一心に答えを待つ新発意の澄んだ瞳にぶつかると、逃げるように横を向いて呟いた。「殺されたからだ」
2007年03月17日
コメント(0)
「母上のこと?」「そうだ。もちろん、奥方は取り乱されたりはしなかった。わしにも詫びのようなことを言ってくれたよ。だが、屋敷内は次第に変わっていった。いつも何か暗い澱んだものが漂っているようでの。わしら屋敷に仕える者はずっと不安に思っていたが、その暗さが極みになったと思った頃、奥方は誰にも告げずに姿を消してしまわれたのだ」 新発意はずっと疑問に思っていたことの一つを聞いてみたくなった。「奥方は、一体どこへ行ってしまったの」「さあ、それは誰にもわからぬ」「でも、姉上はもう亡くなったって言うよ」 それを聞いた高野聖は、俄かに青ざめて口をつぐんだ。膝の上で組まれている両手が小刻みに震えている。高野聖はかすれた声で訊ねた。「お前の姉は、お前に何か言ったか?」 新発意は首を横に振った。「姉上も、何も知らない。ただ、夢に母上が出て来るって。でも、もう死んでいるのがわかるって」
2007年03月16日
コメント(0)
「だが、そうかと言って、それは世間では許されることではない。特に、奥方がおられる時はな。あの奥方こそ、哀れなお方じゃ。奥方は、確かにさほど美しくはなかったが、しっかりとした賢いお方でな。わしもお屋敷ではずいぶんかわいがってもらったものだ。お前の父とて、母と出会わなければ、奥方と別れようなどと考えもしなかっただろう。だが、何の不足も感じていないとはいえ、ことさらに愛しく思っていたわけではない。いわば、良き奥女中頭を持ったようなものでの。奥方のことをその程度にしか思ってはいなかった。男とは、まことに愚かで勝手なものよ」 高野聖は少し声を立てて笑ったが、その口調は苦かった。「それだけならまだ良いが、本当に哀れだったのは、奥方が心のある方であったことよ。奥方が夫を心から慕っていたことは、屋敷内に仕えていた者なら誰でもわかる。夫を大切にするあまり、実の娘のことすら上の空になるほどであった。だが、それほどまでの心を込めた献身も愛情も、全ては無残に裏切られることになろうとは」
2007年03月15日
コメント(0)
新発意は高野聖が哀れになって言った。「やっぱり、父上はひどい人だ。どうしてそんなことをしたんだろう」「子供のお前にはまだわかるまいな。男と女の仲というものは難しいものでのう。たとえ許されぬ間柄であったとしても、一度火がついてしまってはもうどうしようもない。わしの愚かさが、お前の父に火をつけてしまったのであろう。お前の母にもな。そして、その火が相対死にしても良いと思うほど強いものならば、誰もその二人を引き離すことは出来ぬ。これはもう、呪いのようなものでの。学問や武道で培ってきた克己心など、ものの役にも立ちはしない。お前の父と母が、世間の思惑も、周囲の者たちの非難も、地位も誉れも、全てを捨てても共にいようとしたのは、そういう強い想いがあったからであろうよ」 新発意は姉の言葉を思い出していた。母の元へ入り浸る父を、姉はまるで汚らわしいものであるかのように言ったが、新発意には何となく父の気持ちがわかるような気がした。あんなに美しかった母だもの。 新発意はまた母のことを思い出して、目に涙が滲むのを覚えた。高野聖は腰に下げた手拭いを新発意にそっと渡すと、話を続けた。
2007年03月13日
コメント(0)
新発意は母と姉の話が食い違っていたことを思い出して、高野聖に聞いてみようと思った。「父上は、母上を迎えに来たの? それとも……無理矢理奪って行ったの?」 高野聖はどうやら詳しい事情にもどこまでか通じているらしい新発意に驚きながらも、ませた問いをする幼い口調に思わず微笑みながら答えた。「さあ、それはどうかな。ただ、ある日の夕方、わしがおとないの声を聞いて家の戸口へ出ると、長屋の門の前にお前の父が立っておった。見たことのないような、恐ろしげな形相でな。目は血走り、とても正気には見えなかった。そして、わしを押し退けるようにして家に上がり込んだかと思うと、奥から妻の手を引いて出て来て、そのまま連れて行ってしまったよ。わしはただ呆然として見送ることしか出来なかった。無理矢理と言えば、無理矢理か。だが、妻がお前の父の腕に縋り付くようにして、わしの方を見ようともしなかったのは事実だ。助けも呼ばず、嫌がりすらしなかった。わしはその時ようやく己の愚かさに気付いたのよ」 高野聖は寂しそうに笑った。
2007年03月10日
コメント(0)
高野聖の顔に苦渋の色が滲む。その顔を見て、新発意は母の桜の枝の昔語を思い出し、そっと訊ねた。「母上のこと……?」 高野聖はしばらく打ち沈んでいたが、やがて穏やかな優しい眼差しで続けた。「お前の母ほど可愛い赤子はいなかったよ。父に連れられてお前の母の家に行く度、時を忘れてあやしたものだ。いずれこの子がお前の嫁になるのだといわれて、どれほど嬉しかったことか。長ずるにつれてどんどん美しくなって……わしはお前の母が自慢だった。それで、祝言を挙げる前に、お前の父に見せたいと思ったのだ。わしが人に自慢できるのはお前の母だけだったのだから……」 そこで、高野聖は皮肉に唇を歪めた。「だが、それがあんなことになるとは。お前の母を引き合わせた日、主人はひどく陽気で明るく振る舞っていた。だが、その顔色は真っ青でな。わしは次第に恐ろしくなっていった。祝言を挙げた日も、なぜかひどく心がざわついて落ちつかなかった。妻は今まで通り従順で愛らしかったが、どこかいつも上の空だった。わしは幾度か心配事でもあるのかと訊ねたが、首を振るばかりではかばかしく返事もしない。だが、祝言の日から十日も経たぬうちに、その理由がわかった」
2007年03月09日
コメント(0)
「どうして、自分だけ帰って来ようとは思わなかったの? みんな父上のことをひどい人だって言うよ。どうして見捨てて戻ってこなかったの?」 高野聖は桜から新発意へ目を戻し、位牌を懐にしまうと、少し微笑みながら言った。「さあ、どうしてかな。わしにもわからぬ。ただ、あのお方は決してひどい人ではない。わしにとっては良い主人だった。わしの一家は、代々あの家に仕えておってな。わしも子供の時から始終出入りしておったから、お前の父のこともよく知っておる。幼い時から利発な御子で、文を読ませても、木刀を取らせても、かなうものが誰もいなかった。それに人柄も明るくて優しかった。あれほど仕えやすい主人もそれほど多くはいまいよ。出自も播磨以来の古い家柄で、奥方も上士の家から迎えておる。どこを取っても傷一つない。当然、主君のお覚えもめでたく、城内の方々の評判も芳しかった。これからどれほど出世なされるか、いずれは家老職まで拝命されるのではないかと噂されることすらあったほどだ」 高野聖は遠い昔を思い出す懐かしげな目で語り続ける。「わしなど何一つ勝てるものはない。だが、不思議と腹は立たなかった。というか、むしろそれが誇らしかった。わしの主人は藩内随一の俊傑よと、事あるごとに自慢したものだ。あまりに差がありすぎると、人は嫉妬すら覚えぬものと見える。わしにとってあのお方は太陽のようなものでな。眩しすぎて、じっと見つめることすら出来なかった。だが、そんなわしを、あのお方はよく重宝がって頼りにしてくれた。こんな愚かで見栄えのせぬ若党に、格別の目を掛けてくれた。それがわしにはありがたかったのだ。だから、あのお方をどうしても見捨てることが出来なかった。そして……あの時も、否やを唱えることすら出来なかったのだ」
2007年03月07日
コメント(0)
新発意は雷に打たれたように動けなくなった。高野聖は西の空に掛かる茜雲を眺めながら続けた。「高野山でお前の父を探し当てた後、わしは必死になって筑前へ戻るように懇願したが、どうしても聞き入れては貰えなんだ。それで、結局はわしもそこで出家して、一緒に旅から旅の高野聖となり諸国を廻る羽目となった。お前の父とはずいぶんあちこちを旅したものだ。北は出羽の国から、南は周防長門まで、二人で檀家に札など配りながら説教を語って歩いた。だが、お前の父は決してこの筑前には立ち入ろうとはせず、とうとう昨年の冬、旅先の三河で俄かに病んでな。必死に看病したが、一月ほど寝付いた後に死んだ。わしは弔いを済ませた後、この位牌を作った」 高野聖は懐から布に包まれた粗末な位牌を取り出した。「これだけでも、故郷の地へ戻してやりたいと思ってな。菩提寺は無理だろうから、わしの知り人の縁寺にでも置いてくるつもりだ」 新発意はその位牌を手にとって眺めた。粗末な白木の板には、大層達筆な文字で、新発意にはわからぬ戒名が書いてある。 新発意は俄かに父の死というものが心の中に染み入って来たようで、思わずその位牌を握り締め、声をあげて泣いた。高野聖はその幼い泣き声が胸に迫るのか、そちらを見ようとはせず桜の梢を見上げていた。 新発意はひとしきり泣いた後、そのような高野聖の顔に、故郷の桜を眺めることのできた深い安らぎの想いを見て取り、思い切って訊ねてみた。↓福岡市の西方を流れる室見川河畔の桜。私にとっての「故郷の桜」です。でも、だんだん木が歳を取っており、新たに植えることも大人の事情?でできないとのこと。数十年後には見られなくなってしまうのかもしれません。。。
2007年03月06日
コメント(0)
「父上のことを知っているの?」 新発意は目を見開いて訊ねた。高野聖はまたしばらく空を仰いでいたが、新発意の方へ向き直って言った。「わしはお前の父とずっと一緒だった。お前の父が姿を消した後、わしは屋敷から暇を取り、その後を追った。最初は、無事に見つけて連れ戻すつもりだった。それで、わしは方々で聞きまわり、日に夜を継いで探し続けた。そして、とうとう上方でその行方を突き止めた」「父上はどこに?」「お前の父は高野山へ入っておった。わしが訪ねた時は、もう既に出家しておってな。名も身分も隠し、高野山の別所の隠亡どもの群れに混じっておられた。なかなか見つからぬはずよ。高野山は只でさえ罪人の隠れ家となるほど入山の厳しい深い山。その上に、あのような下郎どもと共に暮らしておられようとは……」 新発意はもう我慢しきれなくなって、高野聖の言葉を遮って訊ねた。「父上は……父上は今どこにいるの?」 高野聖は憐れむような寂しい微笑を浮かべて、ぽつりと言った。「もう、死んだ」
2007年03月05日
コメント(0)
新発意は姉の話を思い出した。高野聖は新発意を手招いて、一緒に桜の木の下に座らせた。そして、まじまじと新発意を見つめて、今どこにいる、その姿は何だと訊ねた。新発意は承天寺に入ることになった経緯を話した。 それを聞くと、高野聖はまた顔を歪めて俯いた。そして、かすれた低い声で呟いた。「れっきとした黒田藩士の子が、名もない小僧として寺に入るとは……。無理もない。お前の父は皆に見捨てられても当然なことをしたのだからな」 そして、重ねて姉のことを訊ねたので、新発意は姉の行方についても高野聖に教えた。 高野聖はしばらく天を仰いで、桜の梢を見つめていた。その顔に、夕方の風に煽られた無数の桜の花びらが散り落ちていた。高野聖は長い間そうしていたが、やがて気を取り直したように言った。「お前、説経節が好きか?」 新発意が頷くと、高野聖は少し微笑んで言った。「この話はな、この筑前国で本当にあったことだそうだ。博多から南へしばらく下った所に、大宰府という古い古い役所の跡がある。その近くに、昔、苅萱の庄という里があってな。この説経の苅萱道心は、そこの殿様だったということだ。石童丸という子供の名も、この博多を流れる石堂川に因んだものかも知れぬ。筑前国の出の者には、ことの他懐かしい演目でな。お前の父はこの説教を語るのが大層上手だった」↓これが「石堂川」(御笠川)。高速道路の手前に見える橋が、石堂橋です。
2007年03月03日
コメント(0)
高野聖は急いで立ち上がると、新発意の腕をぐっと掴み、また顔を見据えながら震える声で言った。「お前の母の名は何と言う?」 新発意が小さな声で母の名を答えると、高野聖はますます青ざめた顔で痛い程新発意の腕を掴んで言った。「よく似ているはずだ……母はどうしている? 今どこにいるのだ?」 新発意は掴まれた腕を振り解こうとしてもがきながら答えた。「死んだ」 高野聖はふいに新発意の腕を離した。顔から血の気が引き、呆然とした目は虚ろだった。そして、元いた桜の木の下にへたりと座り込んでしまった。 新発意は痛む腕をさすりながら、奇妙な素振りを見せる高野聖を不思議に思って訊ねた。「母上を……知っているの?」 高野聖はしばらく顔を歪ませて俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げて言った。「ああ……お前の母とは古い知り合いだよ」「どういう知り合い?」 高野聖はなおも首を傾げて考え込んでいたが、少し照れたような微笑を浮かべて言った。「わしはお前の母を赤ん坊の時から知っている。母には親の決めた許婚がいたという話を聞いたことはないか?」 新発意が頷くと、高野聖は言った。「わしがその許婚だった男よ。お前の家に仕える若党だった」
2007年03月01日
コメント(0)
全19件 (19件中 1-19件目)
1
![]()

![]()