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護摩壇の炎の中に、何やら銀色の輝きが現れた。それはしばらく炎と共に揺らめいていたが、急に渦を巻くようにして凝縮したかと思うと、次第に人のような形をなしていく。 真済が見つめているうちに、その銀色の光は、夥しい抜き身の剣を蓑のように纏った一人の童子の姿になった。童子は凛々しい顔立ちで、右手にひときわ長い剣、左手に索を持ち、両足で黄金に輝く輪宝を踏みしめている。 真済は驚いた。 これが、噂に聞く護法童子というものか。経典には書いてあるが、本当にいるとは思わなかった。 護法童子は、真済の唱える真言が高まれば高まるほど、その銀色の輝きを増し、それはやがてもう目を開けていられないほどの強い光になった。 真済はふと考えた。 この護法童子は、自分の唱える真言に伴って現れたものだ。もしかしたら、さっきの魑魅魍魎のように、自分の思い通りに操れるのかもしれない。 真済はひときわ高く真言を唱えながら、心の中で強く命じた。 その死神を追い払え! すると護法童子は、ひらりと高く舞い上がって灰色の影に躍りかかったかと思うと、右手に持っていた剣で一刀両断に死神を切り裂いた。 二つに割られた影は、そこら中を這い回りあたふたと逃げ惑う。それを護法童子は目にも留まらぬ早さで掴まえ、左手の索でぐいっと縛り上げた。 そして、もがき暴れる死神を片手で軽々と持ち上げると、真済に向かって一礼して、護摩の炎の中に消えていったのである。
2007年07月31日
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真済は、内心では仏の慈悲すら信じていないような男だ。祈祷をしたからといって、実恵が助かるとは思っていなかった。 人は死ぬ時は死に、生きる時は生きる。祈祷の功徳など、ほんの気休めだ。それに、さっき死神がやってきたのを、真済は見ていた。 実恵は助かるまい。 そう思っていた真済だったが、侍僧の必死の懇願を無視するわけにもいかない。それに、病気平癒の祈祷をするのは、僧たるものの大事な勤めであり、当然の義務だ。 真済は仕方なく侍僧に頷き、実恵の寝かされている僧坊へ向かった。 褥の上に横たわっている実恵には、既に意識がなかった。卒中でも起こしたのだろうか、妙に大きな鼾をかいてはいるが、土気色の顔をして身動き一つしない。 真済は弟子の僧たちが急いで設えた護摩壇に向かった。そして、ゆっくりと大仰に居住まいを整えると、印を結んだ手で数珠を振り立てながら、大声で真言を唱え始めた。 高尾に戻ってから祈祷をするのは初めてだ。真済は気力を失ったあまり、日々の勤行すら億劫で、身体の不調を理由にずっと自分の僧坊に篭りっきりだったのだ。 久しぶりに嗅ぐ芥子の匂いと勢いよく焚かれた護摩の煙が辺りに満ちる。その煙の向こうにいる実恵を、真済は横目で眺めた。実恵の枕元には確かにあの灰色の影が蹲っている。 実恵の死も時間の問題だ。諦めるしかあるまい。 そう思って、護摩壇の方へ目を戻した、その時だった。
2007年07月30日
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その時、僧坊の閉じられた半蔀の向こうを、何かがゆっくりと通り過ぎて行くのがわかった。 薄い灰色をした、老人とも老女ともつかぬような皺ばんだ姿の影だ。何やら長い裾のようなものをずるずると引きずりながら、低い唸り声をあげて寺の廊を渡って行く。それは、あれから何度か見たことのある死神のようだった。 今夜、誰かが死ぬな。 真済はそう思っただけで、また文机に顔を伏せようとした。 すると、一人の若い侍僧が、真済の僧坊へ駆け込んで来た。侍僧は肩で息をつきながら、真済に言った。「実恵様が、先ほど俄かにお倒れになって、御危篤でございます」 実恵は、真済と同じく空海の十大弟子の一人に数えられる高僧である。真済には兄弟子に当たり、真済が遣唐船の一件で留守をしている間、高尾の神護寺を護っていてくれた。そして、今もなかなか人前に出ようとしない真済にかわって、弟子の僧の世話や寺の庶務を手伝ってくれていたのである。 その実恵が倒れたと聞いて、真済は少し驚いた。先ほどの死神は、何とあの実恵を連れにやって来たのか。 真済は人望の厚い実恵があまり好きではなかった。穏やかな笑顔で苦もなく人に慕われ、暖かい雰囲気はすべてのものを憩わせる。真済は自分にはないものを持つ人間がいつも苦手だった。 だが、侍僧は実恵を敬愛しているのだろう。必死の面持ちで、真済の袖に縋りついて言った。「どうぞ、一刻も早く御祈祷を。実恵様をお助けくださりませ」
2007年07月25日
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ききっ、きっきっ。 うるさい、またあいつらだ。 真済は顔を上げ、薄暗い僧坊の隅を睨みつけた。 部屋の隅には、一尺ほどの背丈の黒いものが蹲っていた。暗闇の中で歯を剥き出しにし、金色の目を光らせている。「消えろ」 真済が強い口調で命じると、その影はぱちりとはじけるような小さな音を立てて消え失せた。 魑魅か魍魎か。或いは付喪神の類いかも。真済にはよくわからなかったが、異形のものはあらゆるところにいるらしく、飽きるほどしょっちゅう目に入る。 実は、真済にはあの鬼火の夜以来、一つの力が備わっていた。 それは、人には見えぬはずのものが見える……ということである。 鬼火の授けた力なのか、それとも人肉を食った呪いなのか。よくわからないが、魔界の異形のものや、死んだ人間の霊、山や木に宿る小さな神々に到るまで、真済には今まで見たことのなかったあらゆる不思議なものが見えるようになった。 だが、真済はそんな力を持ってしまったことが薄気味悪かった。それで、真然にも誰にも、そのことを話していなかったのである。 ところが、その力は高尾に戻って来てからますます強くなってしまったようだ。近頃では、心の中で強く念じて命ずれば、そのようなものたちを自分の思い通りに動かすことまで出来てしまう。それはきっと、この高尾という神秘的な力を秘めた霊峰の呪力のせいなのかもしれない。
2007年07月24日
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呆然としている真済をなだめるように、常嗣は優しい口調で言った。「この博多でゆっくり養生し、元気になったらゆるゆる京へ戻るがよい。もう、そのように手配しておいた」 真済は何とか宿舎へ帰り着き、真然に唐行きがなくなったことを告げた。真然はそれをあっさりと受け入れた。よほど、今回の海難がこたえていたのだろう。 だが、真済はそれを受け入れることは出来なかった。何のために、今まで必死の苦労を重ねてきたのだ。何のために、人の肉まで食って……。 真済は入唐できなくなることなど信じたくはなかった。ここで諦めるような男ではない真済は、あらゆる伝手を頼って乗船許可を求め歩いた。 しかし、海難の生き残りなどという不吉な者は、どの船も受け入れてはくれない。誰に聞いても、今回の遣唐船はおろか、もう二度と真済を乗せてくれるような船は現れないだろうと言った。命を失う危険の高い航海では、これほどまで徹底的に海難を予感させるものを忌むものなのだ。 終いには朝廷へ嘆願の文まで出したが、とうとう決定は覆らなかった。そして、呆然と見送る真済の目の前で、三艘の遣唐船はついに唐を目指して出航していってしまったのである。 真済と真然は、それから一月ほど経ってから京へ戻った。 真済は失意のあまりふさぎ込んで、なかなか立ち直ることが出来なかった。身体は不自由になってしまったものの、懐かしい京へ帰ることを心待ちにしていた真然の方が、ずっと元気に見えるくらいだった。 高野山へ登る真然と別れて、高尾の神護寺に戻った真済は、自分の僧坊へ篭り人との接触を絶ってしまった。 これから一体どうしたらよいのだろう。 真済はたった一つの宿願だった入唐留学の夢を失ってしまったのだった。そして、夢と一緒に、生きる希望も去ってしまったようだ。 真済は絶望の溜め息をつき、文机の上にうつ伏した。
2007年07月21日
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翌年の七月、遣唐船は再び編成を組み直して、博多を再度出航した。 昨年真済の乗っていた第三船は大破して、今は影も形もない。それでもたった二人くらい他の船に便乗させることなど何でもないはずだ。真済はそう思って、博多で悠々と吉報を待っていた。 だが、博多に戻って一月が過ぎても、何の音沙汰もない。こちらへ戻ったことは既に報告してある。なのになぜ、何も言って来ないのだろう。 真済はしびれを切らして、遣唐大使の藤原常嗣に会いに行った。常嗣は真済の顔を見ると言った。「もう身体は良いのか。真然は達者か」 そのどこか歯切れの悪い口調に、真済は不安になって聞いた。「私も真然も、もう元通りで何の差し障りもありませぬ。どの遣唐船に乗せていただけるか、お指図をお待ちしております」 常嗣は気の毒そうな顔をして、真済から目を逸らしながら言った。「実はな。昨日ようやく、京の朝廷から使者が来た。再度遣唐船を出航させよとの正式な御命令だ。派遣する船は三艘。だが……その船には、難にあった第三船の生き残りを乗せることは罷りならんと言うて来た。すでに、そなたらのかわりに入唐留学させる詔益僧や留学生も、京を発ってこちらへ向かっているそうだ」「なんと……」 真済は絶句した。 迂闊だった。危険を伴う遣唐船の航海には、一度海難にあった者を忌む習慣があったのである。
2007年07月20日
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真済の頭は大きな槌で打ちのめされたように真っ白になった。ただ、そこにあるものを貪り食いたいという、気も狂わんばかりの欲望が真済を支配した。 目の前に浮かんでいた鬼火が、誘うように揺らめく。 次の瞬間、真済は顔を臓物の中に突っ込み、死肉を貪っていた。腹の中を全て食い尽くすと、今度は腕の肉に噛りついた。 鬼火は満足したように揺れている。 だが、真済はもう鬼火すら目に入らなかった。ただひたすら、噛み、引き裂き、飲み込んだ。味などわからない。ただ、ほのかに甘さを感じたことだけは覚えている。 そして、腹が一杯になるまで、何体もの死人を食い散らし、いつのまにか気を失ってしまったのであった。 島の住民に助けられた後、真済はなぜあんな小さな筏が海に浮かんでいるのに気づいてくれたのかと尋ねたことがある。 尋ねた島の男は言った。「あの前の夜、岸辺に舫っていた船を見回りに行った時、暗い海の上に不思議な光が浮かんでいるのに気づきましたのじゃ。それは見たこともないような蒼い光で、たいそう恐ろしかったが、次の朝その光が見えた辺りを眺めていると、何かが浮かんでいるような気がしましてな。それで、島人みんなで相談して、船を出して見ることにしたのでござりまするよ。まことに、あなたような尊い高徳のお坊様には、仏の加護があるものでござりますな」 男は感嘆したように、しきりに頷きながら言った。 あれは鬼火だった。仏の差し向けた加護の光などではない。 だが、真済は鷹揚に微笑んで、高徳の聖のふりを続けていた。 蒼い鬼火と死肉の味……それを暗い秘密として自分の胸の底に押し込んだまま。
2007年07月18日
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助けられた日の前の晩、真済は自分の死がもう間近に迫っていることを悟った。 限界だった。 意識は朦朧とし、もう一度気を失ったら、それきり再び目を覚まさないであろうことが、真済にはよくわかっていた。 だが、真済は生きたかった。何としてでも生き延びたかった。 その時、霞んだ真済の目の前を、青い光がゆっくりと横切った。ゆらゆらと上下しながら、真済を誘うように浮かんでいる。気がつくと、筏の上には夥しい数の蒼い光が揺らめいていた。 鬼火だ。 真済ははじめて見る鬼火を、震えながら見つめた。 蒼く妖しい光は美しかった。真済は鬼火に魅せられた。 しばらく見つめていると、ひときわ大きくて美しい鬼火が一つ、真済に近寄ってきた。そして、真済を一個の腐乱死体へと導いた。 腹が裂け、蛆のたかった臓物がはみ出している。耐えられぬような腐臭が立ち上った。 だが、その腐臭の中に、何か微かに甘い香りがするのに、真済は気づいた。真済はごくりと唾を飲み込んだ。 喰いたい。 突然、激しい欲求が真済の身体を突き抜けた。
2007年07月17日
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真然は潰れた声で真済に言った。「もう、身体は治ったのですか。やはり、私などとは鍛え方が違うのですね。筏に乗っている間も、いつも本当に感心しておりました。よくあのように端然としておられるものだと。さすがは、大師様がことのほか重んじられただけのことはある」 憧れすらこもった真然の眼差しを、真済はあいまいに瞳を動かして避けた。そして、唇を歪めて、微笑ともつかぬ表情を浮かべながら言った。「ただ、御仏を念じていただけのこと」 その謙虚な答えに、真然はまた感心したのか、そっと微笑んで目を閉じた。眠ってしまった真然の傍らから、真済はゆっくりと立ち上がると、もう夜露の下り始めた暗い庭に降りた。 隅に流れる小さな遣り水の辺りを、生き残りなのか、季節はずれの蛍がふわりと舞っている。その青白い光を見て、真済はぞっと鳥肌が立つのを覚えた。 真然は知らぬことがある。 なぜ、私がこのように達者でいるのか。 死人の上に浮かぶ蒼い鬼火。ほのかに甘い死肉の味……。 真済は死人の肉を食って生き延びたのである。
2007年07月14日
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真済と真然は、壱岐の島民に助けられ、やがて博多へ移された。 後で聞いたところによると、あの台風のせいで四艘の遣唐船はそれぞればらばらになり、しばらく沖を漂流した後、他の三艘は何とか岸にたどり着くことが出来たのだそうだ。遣唐大使の藤原常嗣も無事だった。 しかし、真済の乗っていた第三船だけは悲惨な末路を辿ったらしい。百五十名ほど乗っていた乗員のうち、転覆した船から手製の筏に乗り移ることの出来たのは、わずか三十余名。そして、二十三日間の漂流の果てに生き残ったのは、真済と真然のただ二人だけだったのである。 ほとんど死にかけていた真然はなかなか回復せず、ようやく動かせるようになるまで二月もかかった。 真済の方は、島民の粗末な小屋でゆっくりと休み、滋養のあるものをたっぷり食べると、十日も経たないうちに元の身体に戻った。腐り爛れていた腕や足の傷はしばらく痛んだが、その端正な顔には蛆に食われた跡もなく、日に焼けてかえって精悍さが増したくらいだった。 一方、真然の方は悲惨だった。身体中が爛れ、あの愛らしい美貌も蛆に食われた。片目は見えなくなり、足の指も三本失っている。 真然は意識を取り戻すと、助かったことが信じられぬのか、傍らに坐っていた真済を恐れて身じろぎした。以前と全く同じ姿の真済を見て、もうあの世にいるのかと思ったらしい。そして、そうでないことがわかると、涙を流して喜び、真済の驚くべき回復ぶりに驚嘆した。
2007年07月13日
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そして今や、三十人もいた生き残りは、真済と真済を残して、全員死人となって筏上で腐乱している。 真済は、傍らで奇妙な形に腕を突き上げたまま萎びている一つの死体を眺めた。しばらく見つめていると、かつて眼球のあった暗い穴から、船虫のようなものがぞろぞろと這い出してきた。真済は思わず吐き気を催した。 嫌だ。こんな姿になるのは絶対に嫌だ。 真済は嫌悪のあまり、脚をもつれさせながらその場に立ち上がった。頭がふらふらして倒れそうだ。 だが、その時だ。 ふと目をやった遠くの海が、何やら少し膨らんで見えた。真済はひどく霞む目をこすって、もう一度海を眺めた。確かに、水平線の向こうに盛り上がった島のようなものが見える。 そして、その島からこちらに近づいてくる小さな舟も見えた。次第にはっきりと見えてきた舟の上には、粗末な衣を来た男が数人乗っている。どうやら、手を振っているようだ。 真済は気力を振り絞って、ぼろぼろになった僧衣の袖を振り返した。 ああ、助かったのだ……。
2007年07月11日
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この時期に多い台風に襲われたのである。 海は大荒れに荒れ、あっという間に四艘の船は引き離されてしまった。そればかりか、真済の乗っていた船は、激しい横波に煽られて、なんと転覆してしまったのである。 幸い、嵐は早くおさまり、柱に掴まったりうまく綱を身体に巻きつけたり出来た者が、三十人ほど溺死を免れた。その中には、真済と真然も含まれていた。 だが、こうしていてはいつ船が沈没するかわからない。真済たちは船の建材をうまく引き剥がして、何とか小さな筏のようなものを作り上げた。そして、その筏に乗り移り、運を天に任せて漂流することになったのである。 やがて、この小さな筏の上は生き地獄になった。人々は僅かな食べ物や水を取り合って、互いに醜く争った。海に突き落とされて殺された者もいる。そうでなくても、体力のない者や気力の衰えた者から、飢えと渇きで次々に死んでいった。 幸い、真済と真然は僧侶という尊い身分のせいで、食べ物を奪われることも狂暴になった者たちに襲われることもなかった。だが、真然は飢えと恐怖で気が狂わんばかりになっていた。そして、筏の隅に端座して瞑目したまま微動だにしない真済に感嘆の目を向けた。 だが、別に真済は達観していたわけでも、穏やかに死を迎えようとしていたのでもなかった。 何のことはない。真済はただいたずらに騒いだり動いたりしないことで、自分の体力を温存していただけだったのである。そして、心の中では死に物狂いで真言を唱え、まるで仏を脅しているかのような激しい勢いで祈り続けていた。 死にたくない。何としてでも、唐の国へ辿りついてみせる。 その執念だけが、真済を生かしていたのである。
2007年07月10日
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幸いなことに、真済の努力は意外に早く実を結んだ。 真済の高い学識と地位に似合わぬ若さに興味を持った嵯峨院が、桓武帝の御世から三十余年ぶりに派遣することになった遣唐船への乗船許可を、特別に真済に与えてくれたのである。 真済は有頂天になった。これほど早く望みが叶うとは。 真済は意気揚々と、朝廷から正式に派遣される請益僧として、遣唐船に乗り込んだのである。 藤原常嗣を大使とする第十七次遣唐船は、承和三年に難波の港を出航した。 四艘の船に分乗したのは、総勢六百人あまりである。 真済の乗った第三船には、同じく空海の門弟であった真然も乗っていた。真然は空海の甥にあたり、伯父に可愛がられて、若くして高い地位についていた。 真済は、愛らしい顔立ちで苦労知らずのこの若造が嫌いだった。だが、無邪気な真然は、真済を兄弟子と慕って始終傍に寄って来る。真済は船の中でも書物を読みふけり、真然と顔を合わさぬよう隅の船室に篭って、早くこの航海が終わって唐の国へ辿りつける日を夢見ていた。 ところがである。 五月に難波を出航した遣唐船は、連日の悪天候のため、九州に辿りつくだけで二ヶ月もかかってしまった。そして、ようやく七月になって四艘が博多に集まり、改めて唐へ向けて出航したが、三日も経たぬうちに大変なことになってしまったのだ。↓博多湾の眺め。左の島が能古島(のこのしま)、右が志賀島(しかのしま)。その昔、志賀島は潮が満ちると島、潮が引くと砂洲で繋がった半島になっていたとか。現在は細いながらもしっかりと陸に繋がって、車道も鉄道も通っており、福岡市民のレジャーの地となっています。遣唐船はきっとこの二つの島の間を通って、日本海の荒波の中へ旅立っていったのでしょう。
2007年07月09日
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そう思った時、真済の目の前に新たな目標が現れた。 師の空海を超えるということである。 師の徳を慕ってその道を護るのではなく、師を超えて新しい道を開くのだ。つまり、かつて師がしたように、新しい仏教を学び、それをこの国で教え広め、独自に新しい仏教の一流派を開くのである。 それには、唐の国へ渡り、最新の仏教の教えを学んでくるほかはない。 真済の目標は定まった。 遣唐船に乗り、入唐留学すること。そのためなら、自分の命さえ危険に晒す航海であっても厭わない。どれほどの苦難が待っていようと、どれほど犠牲を払わなくてはならないとしても、絶対に唐の国へ渡って仏教の奥義を極めてみせる。 真済は決意を固め、その日から師との交流すら控えて、ただ一人でより一層勉学に励んだ。 師の空海はそんな真済の姿を見て密かに首を振ったが、あえてなにも言わなかった。そして、真済の行く末を心の中で案じながら、承和二年に世を去った。 その頃には、真済は既に高尾の神護寺を任されるほどの高僧になっていたが、さすがに空海の死は真済を打ちのめした。だが、その重石が取り除かれた時、真済は逆にどこかで不思議な解放感を感じていた。 もうこれで、自分の前で立ちふさがる巨大な存在はいなくなった。もはや、その愛顧を飢えた犬のように求めることも、その影すら恐れ敬うこともない。 真済はもはや完全な自由を得たのだった。後は、入唐留学を果たすだけだ。↓こちらが神護寺の本堂。京都の市街からはちょっと離れているけど、空気がきれいで静かな良い所です。機会があったら、是非行ってみて♪
2007年07月07日
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だが、そこに到る道程は、真済にとって苦難と孤独と怨嗟に満ちたものであった。 真済は空海に認められるために、勉学と修行以外のすべてものを犠牲にした。まだ朝も暗いうちから勤行に励み、夜は月明かりの中で経典をひも解いて、ほとんど満足に寝る間もない。仲間の僧たちはおろか、親兄弟との交流すら絶って、ただひたすら一人で研鑚を積んだ。 その高い学識を誉め称えられ師に目を細められるたび、周囲に巻き起こる嫉妬にも、果敢に立ち向かって行かねばならない。空海がまだ年若い真済に伝法阿闍梨の位を許した時など、高尾山中が非難の声で埋まり、密かに呪詛する者さえいたほどだった。そんな中でさえも、真済は何食わぬ顔をして、人々の怒りや批判を弾き返していかなければならなかった。 そんな日々の中で、真済は知らぬうちに多くのものを見失っていた。人との関わりは、すべてが損か得か、もしくは競争だった。仲間との若者らしい交流もなく、女はおろか寺の稚児を愛したこともない。思いやりや優しさの暖かさも知らず、御仏の慈悲すら心の底から信じていたわけではなかった。 そうして時を過ごしていくうちに、いつのまにか真済は、何ものにも動かされることのない鋼のような強い意志と、自分こそがこの世の誰よりも優れているという高い自負を持つ男になっていたのである。 そして、そのあまりにも高すぎる傲慢なほどの自負は、やがて師の空海へ向けられるようになった。 いつか、この師に追いつきたい。いや、追い抜いてみせる。↓神護寺の境内はこんな感じ。この時の参詣の目的は、国宝の「源頼朝像」(教科書なんかに必ず載ってるやつ)を見るためだったんですが、思いがけず他の展示物の中に真済さんの肖像画を発見!(撮影禁止だったのが残念) 実際の彼は、とても鬼になんてなりそうにない普通の立派なお坊さんのようでした…ごめんなさい。。。
2007年07月06日
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真済はその年の内に、空海の門に入り、弟子の末席に加わった。 出家することに父はずいぶん反対したが、真済の決意は変わらなかった。 だが、父も内心わかっていたのだろう。このまま学問を続けていても、先は見えている。わが身のつたなさを振り返れば、息子が自分の道を自分で切り開きたくなるのは当然だ。父は真済の決意が固いことを見て取ると、自分で紀末成に頼み込んで、空海の門下に加われるよう骨を折ってくれたのである。 それからの真済は、高尾山にあった空海の密教道場で、死に物狂いで修行した。その頃、この高尾山の一帯は、真言や天台の密教寺院や修行道場が建ち並び、唐よりもたらされた最新の仏教の聖地として隆盛を極めていた。そのような清新な雰囲気のある場所で、空海のような最高の師について修行できたことは、真済にとってまたとない幸運であったと言えるだろう。 真済にとって空海は、はじめ手の届かない雲の上の存在だった。その明晰な頭脳、仏教に対する情熱、密教への深い理解、芸術的な才能……何を取っても、他に太刀打ちできる者などいない。 そればかりか、空海は他の者が持っていないものすら持っていた。それは、計り知れない人間としての大きさである。空と海。師はまさにその名の通りだった。清も濁もともに受け入れる度量の広さ、生きとし生けるものへの深い愛情。 真済は師を知るごとにその人に魅せられ、少しでも追いつきたいと必死に勉学と修行に打ち込んだ。そして、瞬く間に兄弟子たちを追い抜いて、その頭角を現していった。 そんな真済を空海もやがて認め、新進気鋭の学僧として特別に目を掛け重んじてくれるようになる。そしてついに、真済は空海の十大弟子の一人にまで数えられるようになったのである。↓一昨年のGWに、高尾の神護寺へ行ってきました。この神護寺も空海ゆかりの密教寺院の一つ。マイカーでないとなかなか行きづらい山奥で、今はかなり寂しい場所ですが、当時はこういうお寺がたくさんあったんでしょうね。
2007年07月05日
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僧はにこやかな笑みを浮かべながら、自分を取り囲む民衆に向かって手を合わせていた。そして、その一人一人に、頷きながら耳を傾け、力づけるように肩を叩き、時には豪快な笑い声を上げながら語りかける。 人々はまるで長く別れていた親にでも会ったかのように、涙を浮かべて熱狂した。地面にひれ伏して拝礼するさまは、さながら生きた菩薩を崇拝しているようにさえ見える。 真済は驚いて、側に立っていた取り巻きの一人を捉まえて尋ねた。「あのお坊様は、一体どなたか」 男は微笑んで答えた。「弘法大師、空海様でござりまする」 益田池の修築工事は、真円という僧を中心にして行われていた。その真円の師である空海が、その日たまたま工事を視察するために、高市郡を訪れていたのである。 真済はあっけに取られて、しばらくその様子を眺めていた。 これほどの歓迎を受ける者など、他にいるだろうか。たとえ帝がこの場にお出ましになったとしても、この足元にも及ぶまい。 そういえば、空海は土木技術に関しても大家であり、その手がけた事業には彼を慕う信徒たちが、先を争うようにして大勢手伝いに集まってくるという。さっき真済が声を掛けた男も、そんな人々の一人なのだろう。 真済はじっと空海の姿を見つめていた。 綺麗に剃りあげた頭の下で、暖かで穏やかな笑顔が輝いている。それでいて、その瞳は鋭く、何もかも見通すような強い光を帯びていた。 その自信に満ちた笑顔と、すべてを超越し得たかのような深い眼差しは、少年の真済を魅了した。 そして、その時思ったのだ。 この人のようになりたい……と。
2007年07月04日
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もっと大きなことがしてみたい。 自分ほどの才能があれば、きっと何か世の人々を驚かすような大きなことが出来るはずだ。 まだ少年だった真済は、そんな野望に胸をときめかせた。 だが、一体何をすれば良いのか。真済にはなかなかわからなかった。 ところが、真済が十二歳になった時、ある衝撃的な出会いが待っていたのである。 ある日、真済は父の供をして、大和の国の高市郡へ行った。そこでは、益田池という大きな万農池の修築工事が行われており、父はその国家的灌漑事業の指揮者の一人である紀末成に会いに行ったのだ。 末成は同じ紀の同族で、大和の国の国司でもある。父は間近に迫った自分の除目のために僅かな応援を求めると共に、自慢の息子を紹介して今後後ろ盾になってもらえるよう頼みたかったのである。 だが、真済が益田池で手にした幸運は、国司の庇護や国家的事業への関心ではなかった。 真済はそこで、生涯の師に出会ったのである。 真済が父と共に益田池の辺を歩いていると、どこからか大きな歓声が上がった。不審に思って眺めていると、その辺りで溝を掘ったり土を運んだりしていた工人たちが、鍬やもっこをほおり出し、先を争うようにして駆け出して行く。目で追うと、工人たちの飯場の前に、何やら黒い人だかりがしていた。 興味を持った真済は、紀末成を探す父と別れて、その人だかりの方へ行ってみた。 人々は押し合いながら、手を合わせたり平伏したりしている。涙ぐみながら念仏を唱える者、せめてその衣の裾にでも触れたいと必死で手を伸ばす者すらいた。 そして、その人々の中心には、一人の僧が立っていたのである。
2007年07月03日
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真済は京都左京の紀氏の家に生まれた。 父は巡察弾正大弼を勤めた紀御園である。紀氏は古くから続く名族だが、今は往時の栄光などしのぶべくもない。父の御園も、職名こそ威勢は良いが、位階はせいぜい正六位に過ぎなかった。 真済は物心つく前から、ずば抜けて頭が良かった。 仮名など一度見ただけで覚えたし、難しい真名であっても五歳になる頃にはすらすら読めたものだ。親も周囲の者たちも、皆彼のことを神童と呼んだ。そして、その将来に大いに期待をかけた。 真済は六歳になった時、高名な儒者について儒学を学び始めた。論語や孟子はそれなりに面白かったし、韓非子など法家の思想にはかなり心を引かれたこともある。だが、そのうち真済はわかってきた。 このまま儒学を学んで何になるだろう。 儒学は国を治めるための学問だ。だが、真済のような下級役人の子供がいくらがんばったところで、国を動かす大納言や大臣になれるわけがない。 それは、父を見ていればわかる。父は多くの下級官人と数限られた職を争い、わずかな伝手を求めて奔走し、七重の腰を八重に折って権門にへつらった。そうして、ようやく家族を養っていくのが精一杯だったのである。 そんな父を見て育った真済は、朝廷で権勢を得て国政を動かしていくことなど、そうそうに諦めた。 かといって、このままただ学問として儒学を学び続けたとしてどうなるだろう。六位の官人の子供では、大学にすら入れない。式部省の入試を突破して何とかもぐり込んだとしても、大学は本来殿上人の子弟のためのものだ。身分だけがものをいう閉鎖的な世界では、自分のような小役人の倅など物の数にも入らない。 第一、どれほど学問を極めたとしても、せいぜい大学寮に入って文章博士になるのが関の山だろう。真済は学者になることなどに興味はなかった。
2007年07月02日
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