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塾内で実施した模試の結果が届いた。 今回も面談の場で一人ひとりに返却していく。生徒は欲していないだろうが、私の感情がぶつけられる恒例の行事だ。授業中に教室を回り、淡々と呼び出しを繰り返す。順番は決まっているわけではない。「テスト返すから来い」。不意を衝かれた生徒はみな動揺の表情だ。隣のクラスの生徒がチラと私を見る。次は私かも・・・・まるで赤紙の世界だ。 私が先に面談テーブルに着くと、少し間を置いて生徒が近づいて来る。みな一様に伏し目がちだ。そりゃそうだ、偏差値40以下じゃ何言われるか分からない。私はこの時の生徒たちの仕草を何百回も見てきたが、性格が素直に表れるので面白い。普段強がっているやつが、妙にオドオドしている。いつものポーズを取ってるつもりが、テストの手応え(かなりヤバそう)が頭を交錯し、葛藤と闘っている様子が見え見えだ。だったらもっといい点取れよ。反省し、次に活かせばいいだろうが。確か前回も、前前回も、その前もそうだったよな。あのなぁ。 状況によっては私もボロクソに言うが、それは努力と改善をせずに「だって分かんないんだもん」とか言ってるやつに対してだ。何度やっても同じ、だって分かんないんだもん。面談では姿勢は崩れ、視線も上の空だ。以前こういう生徒に、「ふざけるな、この野郎! お前は何様だ! 模試さんに謝れ!」と怒鳴ったことがある。温厚だった私にとって、考え方を変える契機になった時だ。その生徒は少ししゅんとなったが、その後も成績が変わることはなかった。結局、力になれなかった塾長。今の私ならきっと泣かしているだろう。そして後日笑顔で励ましているか。 今回の模試は中2生の結果が極めて悪かった。普通の悪さではない。眩暈がするほどひどい。全員が束になってまるで黄泉の世界なのだ。前回も同様に悪く、面談で檄を入れたが効果はなかった。彼らは一体何を考えているのか。試験後の見直しはおろか、問題を捨てている者すらいる。姿勢が改善されない限り、とうとう危険な領域に踏み入ってきた。甘えの限界である。この学年、一人残らず徴集し、反省会だ。執念の呼び出し組を含め、夜遅くに全員が揃った。対策授業ですら半分も揃わない彼らが、全員目の前にいる。 「お前ら高校行きたいか」の問いにみなが頷く。だったら気合を入れろ! 反省しろ! いつまでも甘えるな! 私の語気も高まる。名を伏せ、成績の悪い順に全員の素点をボードに書く。名指しで誤答例を挙げ、みなで見直しを行う。意図的に次々と恥をかかせ、生徒が笑いざわめき、やがてふくれ始める。だったらこんな基本問題正解しろよ。答えられなかった自分に危機感を持てよ。しおらしい者、ぶりぶり言う者、帰ろうとする者。様々な表情が異様な空気を作る。うるさい。座れ。たった40分間に何度言ったか。どうしたら成績が上がるか、勉強法の解説と今回の見直しを明日祝日(29日)に行うから全員集まれと告げる。そして次の定期テストが悪かったら、私の強烈な雷が落ちると予告した。 さて、祝日。待機する私を訪ねてくる者はやはり誰もいなかった。大方予想していたが、お前らも大したもんだな。敬服しよう。勉強が嫌いというのは罪ではない。問題なのは、彼らが本来の勉強のスタイルを掴みきれていないということなのだ。それが残念でならない。甘えが当たり前になり、つけが溜まり苦労するのは時間の問題。いつまで園児の絵日記のような平和な毎日を過ごすのか。生活に自らの力で苦しみを溶かし込んでみろ。苦しい日を、苦しい時を肌で感じてみろよ。辛さに対する免疫はすぐには育たない。時間が掛かるから今なのだ。今日なのだ。塾に来る目的は何なのか。学ぶことが目的ならば、その方法を真剣に考えてみなさい。そして分からなければ教えに従うのだ。素直になった時、きっと自分の視野がいかに狭いかに気付くはずだ。 第二段階として月曜から個別面談を進める。最初は誰か。
2006.04.30
猫ギター先生の『先生、そこ習っていません』には著しく共感する。 確かにそういう生徒は伸びない。『一生習うな』も、まさに私の台詞そのまま。一体、塾に何しに来てるのかと思う。 模試の最中でも「これまだ学校でやってませんよ?」とまるで私に非があるかのように睨む者がいるが、「だから何だ」と言いたい。じゃあ習った所はできてるかというと、そういう者に限ってボロクソだったりする。習ってないからできないと粗探しする前に、まず習った部分をスラスラ埋めてみろよ。それとも習ってればできたとでも言うのか? 新しい発見を好む生徒は必ず伸びる。学びに未知の領域がなかったら笑い話だ。習っていませんという生徒は私の教室にもわんさといるが、じゃあ止めようと言うとでも思っているのか。私の場合は「だったらお前は聞かなくていい」「一ヵ月後に後悔するなよ」と言って先に進めている。結局そいつも聞いているが。 何かを得ようと学びに来ているのなら、未熟なりに真摯に向き合ってみろ。習っていませんって、当たり前だろう。これから山のように習うべき教わる立場は誰だ。そういう台詞に学びの発展はない。免罪符にも何にもならない。私もこのように思う。
2006.04.25
子供たちを管理し縛ることは簡単だが、果たして塾ではどこまですべきかというのは大きな命題である。 禁止事項を山のように掲げ、毎日ピリピリした空気が漂っている塾があると聞く。教室には自律、努力、必勝、静粛、集中、質実剛健などの文字が躍り、講師の声以外は紙と鉛筆の機械的な音しか聞こえない。集中させ成果を求めるやり方としては批判はしないが、こういった環境について来れるのは、実は選別された上位のメンバーだけというオチがある。 生徒の大半は息苦しい空気を嫌う。学校でくたびれ、塾でさらにくたびれようとは思わない。楽しめる、語れる、おどけることのできる雰囲気を求めに来る。ウチのような勉強嫌いの生徒が多数いるような塾では、空気への気配りは切実である。そもそも「静粛」などと貼っても読めない。読めないから効果もない。かと言って墨書きが「静しゅく」では情けないだろう。 壁に大言壮語を飾るのは構わないが、その同じ教室ですべての学力の生徒をまかなおうとするから違和感が生じる。入り口や廊下に貼る情報や注意や連絡事項も同様である。真摯に受け止める生徒、真剣に見入る生徒の脇で、まったく意に介さない、見向きもしない生徒がバカ騒ぎしている。傍から見ていると異様な光景だが、学習意欲も塾に対する捉え方も異なるA君からZさんまでをひと括りには出来ない難しさがある。語りかけ、促すことで凌いでいるが、本来なら彼らの波長に素直に入り込める表示があるに越したことはない。そのためにはレベル分けした何種類もの表示が必要になるが、それもまた馬鹿馬鹿しい。 ウチでは出入り口付近にホワイトボードを設置しているが、忘れた頃に何度も落書きしていくヤツがいる。前に大事な日時連絡がイタズラで書き換えられていて閉口したことがあったが、今ではもう慣れたと言うか、微笑ましく感じられるようになった。そう来るならこうしてやろうと、互いに知恵比べをしている。そうかと思えば、中には『ありがとう』とか『最高』とかそっと書いてくれる生徒もいて、思わず泣けてしまう。表示や伝達は塾側から一方的に与えるものではなく、生徒がどう感じているのかをも聞き入れ、皆に与えていく作業も必要なのかも知れない。生徒の生の声を受け入れるために、私は近々伝言板を独立させて設けようと思っている。カラフルなイラストとごちゃごちゃした文字。私や講師の返事と感想。やる前から映像が浮かぶ。 以前、私は塾則なるものを書いて教室に貼ろうと思ったことがあった。実はまだやっていないのだが、それには訳がある。《ここのルールはお前らが作るものだ》という考えが私の根本にあるからだ。お前らみんなが考え、体で感じ、自分の、そして皆の役割と反省の中で、こうあるべきだという形をじっくり生み出してみろ。どうだ難しいだろう。禁止事項と行動のヒントは与えるが、それを腰据えて料理するのは彼らである。「私語禁止」「集中しよう」など、陳腐な紙切れ一枚で済めば苦労しない。貼っても効果がないのなら、やり方が間違っていると認識すべきだろう。もっと語れよ。そして主役である生徒たちをもっと泳がせよ。ヒントを山のように与えてあげればいい。そして声を聞く。教室の課題はその狭間から滲んでくる。 紙に書く内容を決めるのはその後だ。 私はそう思う。
2006.04.25
記憶する時のヒントをひとつ語ろう。 記憶の定着には反復が欠かせないが、ここではそれを抜きにして考えてみる。 いくら覚えてもすぐ忘れる。これは情報を正攻法で詰め込もうとするからだ。 いかにインパクトのある情報を作れるか。また、いかに非現実的なイメージを描くことができるか。記憶はこのズレが強烈なほど鮮明に残る。情報を操作し、加工してみる。活字を追っている限り限界が来る。記憶とは映像を軸とした五官そのものなのである。 ドラえもんを例に考えてみよう。ドラえもん、のび太、しずか、スネ夫、ジャイアン。もちろんイメージできると思う。テレビの声も頭に浮かぶだろう。では色はどうだろうか。ドラえもんの体が青で、鈴は黄色。じゃあのび太は・・・このへんで曖昧になってくる。 表面の情報を受け身でなぞらえていると限界が来るためだ。五官を使いイメージを加工してみよう。ドラえもんならばその匂いや触覚にまで踏み入ってみる。ザラザラか、湿っているか。体温はどうか。そこから先はオリジナルの世界だ。好きに加工していい。 何を言いたいのかというと、知識の暗記には工夫し掘り下げていく作業が必要だということである。そこには不条理な組み合わせもありうる。例えば、ジャイアンをドラえもんに重ねてイメージしてみる。これは歴史上の人物を漫画の主人公に重ねてみることに通ずる。 理科では花こう岩を教科書用語として覚えようとするからいけない。深いマグマが噴出してくる様子を映像として捉え、ルーペを手に結晶を観察し、火山性の焼けた臭いをイメージするのである。発想がどこまで広がるかで印象の度合いも変わる。 歴史で北条氏が何時代か分からなければ、サザエさん=鎌倉時代とし、カツオを北条時宗にイメージしてしまえばいい。よくある語呂合わせも使い方によっては有効である。暗記法には、何が正しくて何が間違っているかなど決まりはない。 正攻法で覚えられる者はその方法で頑張ればいいが、苦手な者は情報を自分の身近な物やお気に入りの物、あるいは詳しいものに関連付けて覚えるイメージ加工法を勧める。与えられた状態をいじり、くくり方も変えてみるのである。 私は用語をつなげてストーリーにしたり、よく頭文字を連ねて丸暗記したりした。30年経っても忘れない知識は、味気ない教科書の受け身暗記では培えない。定着へのヒントは部屋の中、通学路、テレビ、漫画、食生活など、山のようにある。 歴史ついでにもう一つ。 用語と時代を結び付ける方法として、よく生徒に言っているやり方がある。自分の家の中を各時代に分けて、それぞれ用語を貼っておくというものだ。玄関=古墳時代、洗面所=飛鳥時代、トイレ=奈良時代、台所=平安時代、というように決め、玄関には埴輪があり、洗面所には十七条の憲法を貼っておく。 このやり方だと例えばテストで雪舟が出てきても、リビングに貼ってあったから室町だとすぐ分かる。慣れたら年代も書き加えていけばいい。入り組んでいる明治・大正・昭和の戦乱期に絞って貼ってもいい。日英同盟がどこにあったか。ひと月もすれば流れは殆ど頭に入っているだろう。これには家族の協力も必要だが。
2006.04.17
どこが解らないのかと生徒に聞くと、「ぜーんぶ」と答えるつわものがいる。 経験の浅い講師なら目が点になり「さあ、どうしようか」ということになるだろうが、私の授業でそんなことを言おうもんなら悲劇の始まりである。ふざけて言ったのならなお許さない。「全部だな。よおし。おまえ最近泣いたことあるか?」「えっ? いえ・・・」「じゃあ少し泣くか。病気ならとっくに入院だし、全部治さなきゃな。辛いからいくら泣いてもいいぞ」「あの・・・」「あと言っとくけど、今から俺の指示はすべて守ってもらうから。特訓楽しみだね。最高だぞ。弱いところ早く治るといいな」・・・目が点になるのは生徒の方である。 いかに中身のある授業をしても、生徒の心を操作できなければ伝わっていかない。機先を奏すわけではないが、私の場合はこういうやりとりも有りとしている。立場を明確にさせ、強烈な関係性を植えつける。解らないから教わりに来てるんだろう。ならば姿勢を正してよく聴け、と。その根本を築き損ねるとろくな結果を生まない。私ももちろん弛めるときは弛めるが、教えの場に於いては適度な緊張が絶対必要だと思っている。 全部解らないという生徒の場合、これもある意味で本音なのだろうが、真剣に自己分析もせずに甘え切っている態度を取っているのならば断じて許してはいけない。医者の前で「どこが悪いのですか」と訊かれ、「全部」と答えるやつがいるか。欠落している部分は本人が一番知っている。よく、「弱い所がどこなのか、やりながら一緒に見ていこう」とかいう講師がいるが、そんなまどろっこしいことをする必要はない。本人に訊けばいいのだ。攻めるべき部分はどこなのか。自分で考え、取り組んでこそ真剣になれる。いつまでも受身で伸びてこない生徒は、この絞り込みが下手な生徒だ。自分にとっての課題が本当に判らなかったら、それは授業ではなくカウンセリングであろう。 私は生徒たちに《自己矯正の優先順位》を考えよと言いたい。塾でどうすればいいかを探す前に、どうしたいのかを明確にして臨んで欲しい。自分から攻めなくてはならない。スポーツ選手が自分のプレイを何度もビデオで研究するように、今までの営みを自分で振り返るのである。カルテは作ってやる。だがそれを活かすには本人の凛とした姿勢が必要なのだ。我々教える立場の人間は専門医にはなれるが、全能者にはなれない。なれるという人がいるなら、私はそれは幻想だと思う。ここが解らない、ここが苦手。生徒の求めてくる欠けている部分を埋めていく。結局のところ、こういった地道な構図の積み上げが結果に繋がるものなのだ。だからこそ自分のすべきことは一体何なのかを知らしめる必要がある。無気力を晒す前に、生徒にはもっと真剣に悩めと言いたい。私は悩んだ結果の言葉なら、自らの全力を注ぎ受けて立つ。
2006.04.13
子供たちが語り合い、学び、成長していける空間。今日の嫌なことを忘れ、人と接するなかで自ら学ぶことの悦びを知り、明日もその次も自分だけの宝を自由に探しに来れる。そう、いつも仲間がいて、刺激に満ちていて、笑顔とともにワクワクする感動の絶えない教室。塾らしくない塾。そのイメージは固まりつつある。この箱はみんなの想像を超え、サロンという名の教室へ。月末からの連休で大きく動く。一歩ずつ光を蓄え、描ききり伝説を創りたい。
2006.04.09
「塾に2年も通っているのに成績が上がらない」 先日、あるお母さんが訪ねてきた。この春で中3になる男の子だという。 話を聞くと、そこは1クラス10名前後の補習主体の塾で、本人は週2回休むことなく今でも真面目に通っているらしい。宿題はしっかりこなしており、友達との目立った問題もなく、先生の面倒見も悪くはないという。教材やプリントなどの管理もそこそこ出来ているようだ。なのにテストをするといつも半分ぐらいしか答えられない。この前は20点を取ってきて、しかも隠していたので、少し厳しく問いただしたという。本人は次は頑張ると言うが、どう頑張るのかと聞くとはっきりとした答えが返ってこない。親から見るとどうもやる気が感じられず心配なのだという。 毎年、何人も似たような相談を受ける。 成績を上げたいと心底思っているのは男の子本人なのだろうか。それとも母親なのだろうか。 もし本人がそう思っているのなら、方法論を説いてあげなくてはならない。身の周りの道具をこう使えと。だがこういったケースでは、往々にして親子間に意識のズレがあったりする。親は塾に通わせれば分かるものと思い込み、子供は何となく塾に通い何となく分かった気になっている。よくあるパターンだ。 行動を起こし成功させる上で大切なものは、本人の考えに基づいた動機付けである。目標もなく、ただシステムの流れを反芻していても結果は出ない。仮に出たとしてもそれは慣れから来たもので、本物の力ではないだろう。どうしたら我が子のモチベーションを上げることが出来るのか。今回の相談ではその部分が曖昧であり、親が管理しすぎているかなという印象を受けた。スケジュール管理はすべて親が行い、宿題やプリントなどもよく点検するというが、その前にまずしてあげることがあるのではないか。通塾目的の共有→役割の実践という肝心なラインが希薄すぎる。 もう一つよくあるケースに、「机には時々向かっているが、何をしてるのかはよく分からない。宿題もちゃんとやってるんだか。プリントなどの管理もまったくできず、注意すれば文句を言う」という相談がある。典型的な親側のお手上げパターンで、女の子を中心に最近非常に多い。家での様子をお母さんに詳しく聞くと、「さあ、どうだったかしら」とまるで他人事のようだったりする。テストは親に見せないので、点数も知らない。中には前の学期の通知表の成績さえも覚えていない人がいる。あれも知らない、これも分からない。毎日長時間顔を合わせている家族にすら分からない課題を、塾で勉強しながら探すことが出来るのだろうか。部屋で何をしてるのか分からなかったら、せめて分かるまで追求して欲しい。対策は現状が見えなければ立てようがない。 以前にも書いたが、テストやプリントをどんどん捨てる子供がいる。テストは得点を競うゲームではない。見直し、活用し、長期に渡って使い込むものだ。何を間違えたかはもちろんだが、何が出来てこの得点なのかも調べる必要がある。何度も何度も見直す。三歩進んで二歩さがる。これは教科書やノートも同じで、進級と同時にヒモでくくるのは間違いである。少なくとも2学年は遡ってとっておくべきだ。手垢で汚れたそれは自分の学んできた軌跡であり、学習とは学年を前後しつつ、行ったり来たりしながらゆっくりと定着していくものだからだ。学習は点ではなく線で捉えなくてはならない。テストや教材を捨てるという行為は、過去の記憶を頼りに今の目の前の敵と実力勝負すること。テストは常に満点、記憶は完璧なのだろうか。 成績を上げたい。簡単に言うが、手順と方法が伴っていなければなかなか上がるものではない。相談の例で動機付けについて触れたが、まず《目的・目標》と《実践への代償》というものを本人と家族とでよく話し合うべきだ。代償とは別にご褒美のことではない。実践、努力することによって何がどうプラスに動くかを明確にするということだ。食卓などでプラス要素を片っ端から列記してみるとよい。普通そんなことはしないよと言いながら、伸びずに堂々巡りをしている人はいないだろうか。動機付けを鮮明にさせるということは、成績推移の根幹につながる大切なことだと私は思っている。鮮明であればあるほど成績は伸びる。なぜならそのための方法を自分で模索しようとするからだ。 親の言うことを聞かない。勉強しないで遊んでばかりいる。確かにこれでは成績は伸びない。だが子供たちは皆ひそかに好成績を取りたいと思っている。親にも誉めてもらいたい。力を認めてもらいたい。友達にも自慢したい。天狗になるそのきっかけがないのである。組み立てが間違っているのなら一度リセットしてみることだ。塾には道具もマニュアルも揃っているが、そこは逃げ道ではない。自分の歩んできた道を辿ることが結局近道になる。成績についての相談を受けるたびに、いつもそう呟いている気がする。次は一般論を掘り下げ、もっと具体的な方法について話したいと思う。
2006.04.09
人間は失敗を重ね恥をかくべきだと思う。 何度も失敗する人間がいる。その度にいやな思いをし、苦しみ挫折する。だがそこには何故こうなるのかという学習が存在する。彼らは与えられた教訓を力にし、やがて自分にとっての本物の方向を模索し始める。人間が成長していくこの流れにおいては、恥というものがヒントになるはずだ。 失敗を糧にできる人間は大いに恥をかく。悔しい思いをする。その度合いが大きければ大きいほど彼らは強く反動しようとし、能動的に考え活動し始める。再度失敗しても彼らは自ら考え、課題を取捨し進んでいくだろう。学習機能を持った人間は強いのだ。だが皆が皆そうであるわけがない。問題なのは、この恥をかくことを忘れた人間が多いということだ。 失敗しても恥ずかしいと感じない。悔しいとも思わない。これはある意味、危険な感覚である。私の教室にもこれに近い生徒が何人かいる。単に無気力では片付けられない、異質な空気を放つ生徒。彼らの理論はこうだ。 「だって解るわけないじゃん。頭わるいもん」「失敗? 知らないよー。住む世界違うし」。分かるやついるかと聞けば、「はーい、分かりません」と手を上げて答える。その間2秒。考えようともしない。周囲が真剣に取り組めば取り組むほど壁を築き、そこに自己の中心を置こうとする。彼らにはテストの点も意味をなさない。恥という概念以前の感覚の相違が根強く生きている。 この生徒も、学習というものに価値を感じさえすれば、失敗を防ごうと努めるはずだ。生活の中で大切なものは一体何なのか。仮に塾で学ぶ時間がその末端であっても、特別扱いは本人のためではない。目標を作り、成功と失敗の意味を教え、恥の感覚が身に付くまで繰り返す。 外界との壁を作り、自分だけのルールで妥協しているようではダメだ。みんなが出来ているのに自分だけ出来ない。この空気に恥を感じなければ次のステップには進めない。そして、努力し出来るようになった時の励ましと、努力しないゆえに出来ない時の非難を明確にしていく。根気のいる作業である。 恥をかくという感覚は、年齢ごとに色々な形で体験していく。遠足で帽子を忘れた。体操着を忘れシャツで参加した。授業中居眠りをしてみんなに笑われた。上履きを忘れた。宿題を忘れ立たされた。自己紹介がうまくできずからかわれた。先生の悪口を言ってたら後ろにその先生がいた。リレーでバトンを落とし最下位になってしまった。保護者のいる発表会で自分だけ目立つ大失敗をしでかした。ラブレターが見つかった。 こういった学校での恥の経験は、大人に成長していく上で貴重なものである。恥の数はいわゆる「いい子」よりも、多少ワルでわが道をゆくタイプの子に多いはずだ。問題なのはそれをどう捉え、どう加工し、どのように心に刻み込んでいけるかである。そこにはヒントになる親や師や友の言葉が必ずある。 私は子供たちによく汗をかけと言うが、それは思いっきり行動に出ろということだ。新しい何かに立ち向かう時、大切なのは体を押し動かす勇気であり、信念であろう。迷うならば前に出る。トライするための汗は、やがて必ず自分の財産に結びつく。失敗も恥も決して悪いことではない。 一流のスポーツ選手が今の技や強さを出せるのは、山のような失敗と恥と挫折を、発想転換によって自分のものにしたからである。世の中はうまくできていて、簡単に成功した者は長く続かないという。奢れる者は久しからずか。それは何度も恥をかき、精神を太く鍛えてきた者だけに分かる感覚であろう。 恥を知らない人間は脆(もろ)い。 恥を避ける人間は視野が狭い。 素直に恥を晒すことのできる人間は、失敗ばかりしていても実は頭がいいのである。頭がよくなりたかったら、冷や汗もんの恥を一杯かけ。特に成長期の子供たちにとっては、毎日がその真剣勝負の舞台なのだ。
2006.04.04
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