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今日当たりから、中学部の期末の結果が少しずつ入ってきている。 すでに判明しているものと予想点とが交錯しているが、結構いい感じの報告が多い。 目標は、全員が自己ベストを出すこと。 やはり普段からコツコツ真剣に取り組んできた生徒ほど、手応えも良さそうである。 S君は、得意教科で97点をはじき出した。よく一人で自習に来ていたが、その成果が少しずつ出てきている。 Yさんはすでに4教科返され、98点、97点を含む371点と好調である。平均93ペース。自己ベストは間違いない。 自己採点の予想では、「100点かも」「一つだけ間違えた」などという景気のいい生徒もいるが、大勢は週明けに判るだろう。 授業を休まず、対策にも参加し、家では眠い目をこすり頑張っている。 壁に真剣に立ち向かっている生徒には、出来るだけのことをして応援したい。 いつも好調の中1生も今回は鬼門だな。 特に理科社会、どこまで肉薄してくるか。 そして中3生はここまでで内申がほぼ決まるので、特に好結果を期待したい。 明日で、全中学のすべての期末が終わる。 中3生たちよ。 期末が終われば、いよいよ受験本番だな。 さあ、週末から入試祭りが始まるぞ。
2006.11.30
昨日の午前中のことだ。 教室へ向かう時、近くの書店の裏道を通ったのだが、ある物が散乱していた。 本のスリップ (管理カードとして挟まっている短冊のようなもの) だった。 およそ20枚はあろうか。破られたビニールも周辺に幾つか見られた。 恐らくコミックだろう。 ピンク色のスリップは講談社のものだ。 私は一瞬躊躇したが、書店まで戻り、状況を店員に告げた。 前職の性か、何だか素通りが出来なかったのだ。 「よく見てないですが、多分コミックだと思いますよ」 「そうですか、どうも済みません」 女性店員はさっそく学生バイトを回収に向かわせたようだった。 その後の処理と対応が何だか見えてしまい、やるせない気分になった。 本屋という仕事は儲からない。 低単価の商品だけに、数をさばかなくては利益が出ないのだ。 物販には仕入れの掛け値があるが、本の場合はそれが異常に高い。 大手取次の掛けは大体77~78%。 通称「ななはち掛け」と呼んでいるが、販売しても定価の2割強しか利益にならないのである。 「委託」といい、返品が可能なため、こういう厳しい設定が慣例化している。 雑誌や話題の本を日に200冊売っても、平均単価900円なら、18万円である。 これはあくまでも日商。 仕入れ値を引いた利益はその約2割。4万円程度である。 休みなく営業して、30日で120万円。そこから、家賃・維持費・雑費・給与を引くと、ほとんど残らない。 小さな書店なら、販売冊数はもっと少ないだろう。 レジの鳴る間隔を考えてみて欲しい。 とても人など雇えない。 欲しいベストセラーが頼んでも入らないという、流通の問題もあるが・・・。 そんな中で万引きが常態化すると、店はやがては廃業へと傾く。 私はそういう店を幾つも見てきたが、今や万引きは書店経営の死活問題となっている。 例えば1000円の本を1冊やられると、780円分の返品ができなくなり、それはそのまま店の損失になる。 その分を取り返すには同額の本を約3.5冊売らなくてはならない。 もちろん3.5冊売ってやっと元であり、何ら利益はないのだ。 高額な専門書・写真集・DVD・ビデオなどをやられると、月間ですぐ数十万の額になる。 年間200万円でも、損失は156万円。 何ヶ月分の家賃だろう。 先ほど委託と言ったが、委託といえど3ヶ月で掛け率の支払いが発生する。 だからこの156万円は、商品がない以上、売れたものとして取次に支払わなくてはならないのだ。 万引きの被害が最も多いジャンルはコミックだが、小中学生がゲーム感覚でやるから始末が悪い。 発見しだい警察に通報するというのは、もはやどこでもやっているが、私の時は小中学生なら親を呼び教育指導して帰らせたものだ。 何百人指導しただろう。 泣く子、震える子、土下座する子、終いには可哀想になり、肩をたたいて帰したものだ。 「もう、するなよ」 「はい・・・」 でも中にはまったく罪悪感のない子がいて、閉口したこともある。 子供たちの善悪の感覚も問題だが、その親たちの意識のなさにも驚かされることがよくあった。 ・・・・少し話がそれたようだ。 この手のエピソードはまたの機会にしよう。 商品ロスは、オープンディスプレイの店舗にとっての宿命。 もはや互いの根競べでしかない。 本屋の辛さが、苦しさが分かるから、今回は見過ごせなかった。 みんな頑張って暴走を食い止めて欲しい。 子供たちが健全な心で暮らせる街にするためにも。 立場は違うが、塾は子供と係わり、導き育てる仕事。 大人の視線で根気よく見守り、可能な限り協力していきたいと思った。
2006.11.29
今週は近隣中学の期末テストが一斉に行われる。 現在教室には、6校の中学から生徒が通っている。 一時期の9校と比べれば減ったが、それでも6校ともなると学校の進度も違い、対策が大変だ。 学区も3学区にまたがっているため、科目によっては教科書も違う。 進度のずれは、この2学期の後半が最も激しい。 教室ではそのずれをカバーしながら授業をし、試験の対策を練るが、いつも範囲表を見てはため息の連続だ。 同じ公立なら、もう少し連携して進度を合わせられないものだろうか。 いつも思う。 週末から翌週にかけて結果が出揃うだろうが、この結果について私は自分なりの見方をするようにしている。 よく450点を超えたら食事に招待という記事を目にするが、わが教室では一切やっていない。 ラインを引き、それ以上の者にだけ勲章を与えるように称える。 私は、そういう行為自体があまり好きではない。 そもそも学校が多すぎて同列で語れないという問題もある。 前回の中間テストでは、ある中学の理社の平均点は合計で90点だった。 他の3科で95点ずつ取り、理社でそれぞれ35点上乗せしても445点。 35点の上乗せとは、学年トップクラスであり、至難のわざだ。 学年平均が320の学校と、270の学校を、同じ俎上では語れない。 だから基準が曖昧なうちは、今後もご褒美は一切考えていない。 教室では90点以上取った者を掲示しているが、これは科目単位の努力と個人の持つ高い能力をクローズアップさせたいからだ。 数学が苦手でも英語ですごい結果を出す者がいる。 光る部分をより細かく拾い上げ、やる気に繋げてあげたい。 そういう意図で、科目単位の勲章は掲示を続けている。 毎回の頑張り度は、本人が一番知っている。 前回よりどれだけ努力し、どれだけ結果として出たか。 その汗の結晶としての値を、正当に評価して褒めてあげたい。 褒められる者がいつも常連であるシステムなど意味がない。 みなに光を当て、励まし、エールを送り、笑顔をもたらしたい。 「頑張ったな」 「やるな、すごいじゃん」 生徒の鼻高々な、照れともつかぬ表情は最高だ。 1年に1回でもいい。 笑顔でくしゃくしゃにしてあげたい。 打ち込んだだけの見返りを、ここに堂々と掲げてあげたい。 そんな気配りこそが、 本人にとって何にも替えがたい、価値ある勲章なのだと思っている。 450点に負けない、次に繋がる価値あるものなのだと思っている。 みなが同じ空気を吸い、自分のラインを懸命に模索している。 そして、 底辺の仲間の背中を、励まし押してあげる。 そんな泥臭い作業が似合う教室だ。
2006.11.28
「テスト対策」に参加しない生徒たち 参加を促せば そのつど曖昧な返事をし 面談をしても 家庭に手紙を送っても どんなコメントを添え いくら その大切さを説いてあげても 結局いつも 姿を見せないお前 仲間はみな平等だから 少しでも力になってあげたいから 塾はおまえのプリントを用意して待っている いつも残るそのプリントは メモ用紙になり お前の笑顔とは別の次元で ひっそりと山積みになっている 勉強が分かるのなら 構わない 分からないから 闘いの大切さを説いている 分からないなら 闘いの匂いを感じ取って欲しい 目の前のすべきことが どんなに面倒であっても しなければならない時があるのだ 喰らい付いてみる価値が分からないなら 教えてあげるよ ここで この場所で この時に それでも来ないのなら もう成績の保証は一切できないと思いなさい お前は勉強が嫌いでしょうがないと言う でもそんなことは とうに分かっていること どうせバカだから どうせやっても無理だから そんな常套句を並べ いつも逃げているお前 だから何だよ だから楽をむさぼるのか 明日からの可能性をつかむのは 一体誰なんだよ お前なのか 他人なのか そんなに嫌いなら そんなに中途半端なら 試験など受けなければいい 何の準備もせず 向上心のかけらも無く ただ保身のために適当に受け この情けない点数はどういうつもりだ こんなにも目の前に溢れている 有意の光を お前は掬おうともせず 背を向ける 空を切ったら また向かっていけばいい 焦る必要はないのだ 何度も何度も 向き合っていく少しの勇気を持ち 常に遠くを見つめていればいいのだ 曖昧な感覚は やがて形になり お前の豊かな表情を作るだろう この教室には 先輩たちが歩んできた汗と涙が染み付いている それは苦しみを笑顔に変える 価値ある記録 やらずに済めば 誰だって逃げていたい だがそれは無理なのだ 分かって欲しい みなが経験し乗り越えてきたように 自力で立ち向かわなければダメなのだ 克服するための道具を集め 知恵をしぼり 時として 自らの誇りを掲げてみる 足跡と前方の小道を しっかりと双眼で見据えるのだ もっと自分を大切にして欲しい きっと何度も言われた言葉だろう お前は楽を選び 自分をぎりぎりにまで追い込んでいるつもりだろうが 本物の追い込みとは ぎりぎりまで攻め込んでいく 勇気ある姿のこと 適当に済ませて ごまかしたいのなら 今後もごまかし続ければいいだろう だがな ぼろが出て泣くのは誰だと思う お前だけのことではない それは 親や周りの人たちをも悲しませることなのだぞ 自分を大切にすることは 周り人や係わり合いのすべてを大切にすること ここは熱いぞ 自分を磨く成長の糧を拾いに来い みんな待っているぞ 足腰に根を張り 自分のすべきことを模索するのだ 己を知り 一歩前へ踏み出すこと ゼロなら1から始めればいい 探しに来い 夢を描きに来い そのためのシナリオは ここにある お前の名のファイルとともに・・・
2006.11.27
子供たちはこういうのが大好きなんだな。 ひとつ書くと、どんどんみんなで書き込んでいく。 意外性って面白いと思う。 塾らしくない刺激と、そこに反応する子供たちの本音。 私はいつも、その発想と展開をそっと見守っている。 息抜きスペースとして、わが教室はこういう空気も大切にしたい。 写真は1週間前のもの。 今や「ロッテリア」も加わり、強烈バトルと化している。 「マック」は50票に迫る勢いで、すごい人気の高さだ。 重複のいたずらもかなりありそうだけど。 肝心な「モス」は、現在3票で最下位。 ああ・・・・オープン後が思いやられるぞ。
2006.11.26
「そんなんでは、ダメだ」とは言わなかった・・・・ 25日土曜は期末テスト対策が集中して行われた日。 朝7時に教室を開け、9時から対策開始。 1、2年生を午後3時まで指導、その後3年生と入れ替わり、夜10時過ぎまで檄を飛ばし続けた。 指導も8時間となると結構ハードだ。 問題は最後の指導教科、中3理科の時だった。 「塾長~、今回の理科はワークと問題集から出すって先生がいってましたよー」 「先生、理科のプリントやるんなら、社会やりた~い」 「100%問題集から出すらしいし、それだけやってればいいしー」 その情報はすでに聞いていたが、彼らがしっかり独習し頭に叩き込んでいるかというと、はなはだ疑問があった。 私は「必ず95点以上を取ること」とボードに書き、彼らに訊いた。 「いいか、満点を狙えよ。お前ら、本当に大丈夫なんだろうな?」 前もって問題が分かっているのなら、95点は常識だろう。 みんな問題集はすでにこなしたというので、力を確認する意味で、まとめプリントを1枚やらせることにした。 何のことはない。解かせてみれば、案の定みんなボロボロだ。 赤ペンの正答がプリントをどんどん埋めていく。 何をしている。 お前も、お前も、一通りやって理解したのではないのか? 期末が指定の教材から出るのなら、それを入念にマスターしておくのは当然として、この定着の甘さは何なんだよ。 ほとんどの生徒が、知識として身についていない、表面だけ取り繕った状態。 そんなんでいいのか? 今回の期末の対策は、そのまま入試対策でもあるんだぞ? 小手先でテストをかわし、楽をしようと思っていないか? 多角的に対策を練り、本物の定着を図ってこそ後日大きな収穫につながる。 入試というものと、テストというハードルを、別次元で考えてはいけない。 みんながやっている行為は、穴だらけの知識を埋める作業を、結局もう一度やり直すということだ。 気持ちは分かるぞ。 だがな、 気がつけよ。 気がついて欲しい。 そんなに時間がないか。 私は、そんなんではダメだと語気を強めようと思い、とどまった。 逃避してはいけない。 頭脳は、聡明な知識の集積であって欲しい。 しっかりと入試を見定め、みな貪欲に突き進んで欲しい。 そして、本物の実力にこだわって欲しい。 完璧を目指し・・・ 試験後の特訓風景が頭をよぎった。
2006.11.25
この1年、教室で創られた空気を辿る。 そこには笑顔があり、涙があり、温かい言葉がある。 長い歴史を持つ教室ではないが、ここには大きな光がある。 目に見えない、みな一人一人をともす灯り。 君たちはその下で何を思い、何を演じてきたのだろう。 どんな日も仲間はやって来る。 思い思いの感情で、表情で、ここに何かを求めに来る。 この1年の記録たち。 そっと机に床に壁に染み付いた、みんなの声や仕草。 疲れたよな。 元気出せよ。 また明日がんばろう。 笑い声の中、語り合う風景が見える。 今年もあと1か月と少しか。 教室はみんなのための『サロン』を目指している。 疲れたら、おいで。 勉強で悩んだら、おいで。 知恵と明日の可能性を探しにおいで。 いつも灯りをともして待っているぞ。 玄関を閉める時、 生徒たちの元気な声が聞こえるような気がした。 ここにあるものは、みんな君たちのためのもの。 ひと月早いプレゼント。 メリークリスマス・・・・
2006.11.24
先日の朝日新聞の投書欄に、算数の計算(立式)についての意見が寄せられていた。 ご主人が娘に教科書に沿った教え方をしなかったら、妻に叱られたというものだ。 ちょっと紹介したいと思う。《以下全文》 妻が小2の娘に、文章題の掛け算式の立て方を教えていた。娘は、4人に5枚ずつ色紙を配るから「4×5」と式を立てた。ところが、妻は「5×4」の順序でなければいけないという。 私は「どちらも正解。なぜそうなるのか説明できればいいんだよ」と口をはさんだら、「学校では×になる。混乱しちゃうじゃない。そんなに言うなら、あなたが責任持って教えて」と、妻に叱られてしまった。 確かに教科書には「1つぶんの数×いくつぶん=ぜんぶの数」と書かれているし、家庭学習の教材では「4×5としないように」と、わざわざ朱書きされている。想像するに、「考え方さえ合っていれば、どちらでもいい」と教えるのは手間がかかるし、子供を混乱させるからかも知れない。 しかし、答えにたどり着く道がいくつもあるのが算数である。それこそが算数の醍醐味。自分が導き出したやり方を認められてこそ、自信と興味が深まる。算数に限ったことではない。 娘に「先生がダメと言ったら、お父さんが先生に説明してあげる」と言った曇りのない口調とは裏腹に、「学校の通りに教えるべきか」と、気分は晴れない。 全国紙なので、ご覧になった方も多いかと思うが、確かに考えさせられる内容だ。 「そんなもん、答えが分かりゃいいんだ」と思われる諸兄も相当いるはずだ。 教科書の考え方で解析してみよう。 基本的に、《何を求めるのか》によって式の立て方が変わってくる。 この場合は「全部で何枚必要か」と、《枚数》を求める問題なので、「基本となる枚数×人数」で表される。 例えばこれが割り算なら易しい。 「20枚の色紙を5人で分けると、1人あたり何枚か」=20÷5 「20枚の色紙を4枚ずつ配ると、何人に配れるか」=20÷4 それぞれ使う数字が限定されていて、順番も逆にするわけにはいかない。 掛け算の場合は、数を逆にしても同じ答えになるので混乱する。 「基本となる数」をどこに置くかという概念は、小学生の段階でしっかり身につけておきたい。 高学年になると文章題がどんどん出てくるが、算数嫌いになる筆頭の単元だ。 その苦手意識は、中学での文字式、方程式、連立の文章題へとつながっていく。 だから加減乗除の概念と、正しい立式を、初めの段階でしっかり学んでおく必要がある。 「3人が箸で食事をしている。箸は何本か」 「3人がけの長椅子が4台ある。何人座れるか」 「3組で将棋をやっている。将棋盤の数はいくつか」 暗算ではなく、正しく式が立てられるだろうか。 こういう架空の問題を数多く与え、感覚を身につけていくべきなのだろう。 この投書に対する意見が後日載っていたが、その方は「文章に応じて式を作るという、論理的思考の指導を、もっと学校で密にすべきだ」と唱えている。 大人になると簡単な計算なら暗算で済ませてしまうが、その根本には正しい数の概念があるはずだ。 「1×2」と「2×1」では、大違いなのである。 「A×B」のAは基本の数、Bは倍数なのだということを、もう一度おさらいしてみるのもいいかも知れない。 それにしても何で例題が色紙なのだろう。 「色紙を配る」なんて一生掛かっても経験しないのでは? もっと現実的で身近な楽しめる題材を使えば、子供たちの興味も湧くのではと思う。 私なら色紙ではなく、マンガやテレビを題材にした、もっとインパクトのある物を配るだろう。 ドラえもんのレアカードを4人に5枚ずつ配ったら、全部でドラえもんが何人いるか。 そうそう、 ブロックごとのドラえもんの数だけ見て、素直に掛け算すればいいんだね。 問われているのは、ドラえもんの数なのだから。
2006.11.23
何やら女子が二人で書いてました。 出来栄えはどうか? 「何があっても挫折しないぞ」 そうそう、その気持ちだよな。 我が教室の“標識” 設置工事から、けっこう経つけど 意識はそこそこ浸透したかな? 今日は休日だからどうのこうのと言うヤツが必ずいるけど・・・ みんな、自分の尺度で踏ん張ればいいんだね。 だから教室の細かい規制も、一切していない。 立ち止まり、自分の描くイメージを大事にしよう。 でも、この標識、好きだなぁ。 こんなもんでしょうか、岡本先生。
2006.11.22
高校3年生の大学推薦合格の知らせが届いた。 いつも真剣に「学び」と向き合っていたTさん。おめでとう。 先月にすでに一名合格しているので、二人目の吉報だ。 Tさんは学校では常に成績上位。日ごろの努力がしっかりと実を結んだ。 医歯薬の専門をしっかりきわめて、ぜひ立派に成長していって欲しい。 きみはすべきことが何か、もうしっかり解っているから、素晴らしい大人になれると思う。 貪欲に学び、経験し、また本音丸出しの笑顔を見せに来いよ。 先月合格のMくんは、何でも気軽に話せるすごくいいヤツだ。 目指す職種もしっかり持っていて、語り方も中学の時と比べて成長したなあと思う。 先月の最終日に見せた敬礼、さまになっていたぞ。 法律の知識しっかり学んで、明日の社会に役立ててくれよ。 二人併せて6年の付き合いか・・・・ 彼らが巣立っていくたびに、白髪が増えるような気がする。 嬉しい知らせに、乾杯。
2006.11.21
生徒たちに試験の目標点を訊いてみる。 「あんまり出来ないから60点くらい」 「前回より3点多い65点」 「今回ヤバイから55点も取れればいいほう」 「何とか頑張って70点いくかいかないかってとこ」 バラバラなのは当たり前だが、どうしてみんなこう低い点を言うのだろう。 面談でもよく指摘するが、彼らのこの目標はほぼ達成されないで終わるだろう。 すでに勝負に負けているのである。 私は実力の現状分析を訊いているのではない。 今の力を知り、残りの期間でどこまで伸ばせるか、その到達点を訊いているのである。 人は60点でいいと思えば、そのラインに合わせた対策を行う。 そして大抵はその手前の得点で失速して終わる。 作業の途中に甘えが介在するからだ。 それは70点でも80点でも同じだ。 では仮に80点取りたければどうするか。 簡単である。 目標を90点にし、そのためにどうするかを考えることだ。 まず高い目標を掲げ、達成のための方策を思案する。 道具と時間を練り、細かい計画を立て、すべき範囲と量を明確にする。 私はよく「計画は割り算で立てよ」 と言う。 割り算とは、目標に沿ってすべき量が全体としてあり、それを達成するために時間ごとに消化すべき量を逆計算するという手法だ。 例えば100を5日でやらなければならないのなら、1日に20、あるいは1時間に幾つと割り算し、ノルマとしていく。 それを、昨日10やった、今日は5やった、明日は15やろうかなどと、その時の気分で「足し算」の手法を取っているから、いつまで経っても納得する達成に届かないのだ。 期限付きの学習で、「足し算」 は絶対にやってはいけない。 私なら目標は120点にする。 そして完璧を目指し、すべきことを模索する。 限りなく高得点を出す仲間に方法論を学び、必死に知恵と可能性を集める。 モチベーションを高めるために、120点と朱書きして部屋に掲げる。 プリントから出ると言えば、鬼のような形相で紙面ごと丸暗記するだろう。 ワークから5問出すと言えば、全200問を指の感覚がなくなるまで演習し、完璧を期すだろう。 そういう作業の結果転がってくる得点が、本来の目標であるべきなのだ。 60点で・・・・などと言っている時点で、もう勝敗は決しているのである。 日本人は控えめの人種と言われるが、スポーツなどでも「とりあえずベスト8が目標です」などと言ってるから予選落ちになる。 目標を優勝に置くのだ。 そして現実として到底及ばないのなら、思案し、分析し、達成のための計画を練るのである。 何が足りないのか。 まず今日、いや今この時に、何をすればいいのか。 周囲に可能性に満ちたヒントはないか。 時間は一体どれだけあるのか。 最終的にどこまで極めれば達成できるのか。 ここまでこだわり、初めてやっとベスト8が見えてくる。 「とりあえず・・・」 と言っている者との根本的な違いは、このように、自分を高めるレベルの設定が出来るかどうか、そして達成のための逆計算が出来るかどうかなのだ。 私の息子たちは200点満点の公立高校入試の本番で、それぞれ、189点、172点を取った。 彼らが置いた目標点は、ともに満点であったことは言うまでもない。 満点など取れるものではないと思っている者は非常に多い。 では90点なら取れるのか。 その10点差の根拠はどこにある。 「ミスが許されるから」 という理由だけなのなら、ただの甘えではないか。 満点を照準に置くからこそ90点が約束されるのである。 「何点取れるかな」 などと、今の実力の評論なんてどうでもいい。 「よし、これをやってこれだけの点をはじき出してやる」という、有意の行動こそ収穫をもたらすのである。 100点取れないよ、ではない。 100点取れるかな、でもない。 100点を取りにいくのである。 より高く、挑んで欲しい。 条件はみな一緒。 結果の出方は、本人の気持ち次第なのだ。
2006.11.20
中学生の今回の期末試験は、すべて翌週(27日~の週)に集中している。 そのため、今週はみなその準備と完成に追われる、慌しい週になる。 特に中3生は必死だ。内申の決まる最後の定期テストとなるわけで、1点でも多く取るために、早くも色々な情報が飛び交っている。 ここが出ると言ったとか、今回は○○先生が作るらしいとか、○組は範囲が終わってないから試験範囲も短くなるとか。 まあ、いいのだが、あまり小手先だけで点を取ろうと思うなよ。 あらゆることを想定し、全体を押さえておけば問題はないのだ。 反復して絶対量を覚え、知識が即答できるようにしておこう。 大いなる結果が表れることを期待している。 週末はテスト対策を行う。 前にも言ったが、ここに参加する前に、自分である程度の完成をさせておくこと。 対策授業は、「新しい知識とプラスαを得る場」「自らの知識を定着させる場」「傾向を知り完成に磨きをかける場」であり、「受身で参加し、教えてもらう場」ではない。 毎回、まったく準備をしていない《たわけ者》が必ずいるが、今回はそういう者を発見したら処分を考えようと思っている。 友達と仲良く参加し、いつも相談して解いている、ピクニック気分の生徒も同じだ。 本番も相談して解くのか。 自分が何をすべきか、よく考えろと言いたい。 己を律することの出来る人間は強い。 対策の風景を10秒見ただけで、普段の学習姿勢が見えてしまうものだ。 自己との闘いを、自分の中のどの位置に置くか。 精一杯、悔いのないこの1週間にしよう。 仲間が10やったら、自分は11やるのだ。 単純な勝利の法則である。 そして、次の3点を意識してみなさい。 時間ごとの学習密度を上げよ 頭にイメージできるように、徹底して表やリストにまとめよ 涙が出るくらい書きまくり反復せよ 以上。
2006.11.19
scene1 中3理科の天体の授業で、なかなか理解できない「自転」と「公転」の合体問題をやっている。 自転は24時間で1回転。だから1時間で15度ずれる。 公転は365日で1回転。だから1か月で30度ずれる。 問題はこれが合わさった時だ。 「11月1日午後8時にオリオン座がこの位置に見えた。では2か月後の1月1日の午後7時にはどの位置に見えるか」 「11月1日午後8時にオリオン座がこの位置に見えた。3か月後の2月1日に同じ位置で見るためには何時に観測すればいいか」 「11月1日午後8時にオリオン座がこの位置に見えた。午前零時に同じ位置で観測できるのは何月1日か」 こういう問題だが、大抵の生徒が頭を抱える。 問題のパターンはこの3方向のいずれかなのだが、どうも自転と公転のメカニズムがよく分かっていない。 それでも類題をこなし、解法のコツを教えていくと、少しずつ正解が増えていく。 この手の問題が苦手なTさん。 いつも「分かりませーん」と威張っていたが、何がそうさせたのか、急に正解を連呼し始めた。 理解度の高い生徒の返答よりも、むしろ早いくらいだ。 一体、どうしたのだ。 私も面食らったが、本人も何だか分からずに嬉しそうだった。scene2 地理の時差計算の問題でもっとも引っかかり易い「飛行機旅行」の問題。 「11月1日午後8時に東京を発ち、7時間飛行機に乗って東経30度のカイロに着いた。到着した時、カイロは現地時間で何月何日の何時か」 という問題だ。 Tさんは相変わらず「分かんないよー」と威張っている。 少しは考えろと詰め寄っても、「だって、分かんないんだってばっ!」と断言する始末。 ところが色々説明し、手順を解いてあげたら、急に正解を出し始めた。 「じゃあ、これが分かったやつからスルーで休憩」 と、類題をみなで競わせたら、なんとトップ当選。 挙句に分からないで悩んでいる友達に、詳しく教えてあげているではないか。 その教え方のセリフを聞いていたら、何と私が説明した言葉と寸分狂わぬ正確さ。 恐るべしTさん。 うーん、一体どうなっているのか。 ひょっとしてこいつ、物凄いヤツかも知れない。 よし、今度、天体と地理を合体させて時間を求める問題でも出してやろうか。 私にそんなことを考えさせる、嬉しいエピソードだった。 中1の時から一緒にコツコツやってきた、おとなしいTさん。 先日も率先して理社一問一答の追試を受けに来たTさん。 歴史と理科1分野はそうはいかんぞ。 でも君の元気な本音と笑顔は、先生大好きだ。 明日からがやけに楽しみだな。
2006.11.18
先週末の「教育スペシャル」で紹介された、司馬遼太郎の言葉。 すでに塾ブログでも取り上げられているが、改めて読み返してみると、著者の深い洞察力と広大な海のような温かい心が伝わってくる。 文章は平易ではないが、この凛とした透明感は何なんだろう。 自然を愛し、そこに芽生え刻まれた人間の歴史を尊び、常に未来を見据えるように文字を刻んできた、著者の深い慈愛が、まるで碑文のようにここにある。 君たちは、いつの時代もそうであったように、自己を確立せねばならない。 ・・・自分に厳しく、相手にはやさしく。 という自己を。 そして、すなおでかしこいという自己を。 人間は、助け合って生きているのである。 このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは。いたわりという感情である。 他人の痛みを感じることと言ってもいい。 やさしさと言いかえてもいい。 「いたわり」 「他人の痛みを感じること」 「やさしさ」 みな似たような言葉である。 この三つの言葉は、もともと根から出ているものである。 根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。 その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。 きみたちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。 もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。 以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。 君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばはらない。 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。 私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。 書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。 (原文より) ああ痛かったろうな・・・・という、いたわりの感情が、そして自分に厳しくする自律の心が、自己を確立していく・・・・。 著者の説く 「たのもしい君たち」 が、力強く大地を踏みしめ歩いている姿。 人と人の繋がりを自覚し、堂々と、野性的にみなが共生していく未来。 自己を追いつめ、子供たちが救いと愛と言葉を求める現代に、 ささくれた、この硬質な現代に、 何と優しい響きだろう。 今日もニュースは悲しい知らせを報じる。 こんな気持ちがどこかにあれば、君は小さな光を見つけたかも知れない。 せめて身近な我が生徒たちに、この素晴らしい言葉を伝えたい。 自分の明日を、未来を考えてみることは価値のあること。 そして、もし忘れかけているものが探せたら、君は雄飛する夢に向けて一歩進めるかも知れない。 そう思い、生徒たちへ原文を添えた手紙を贈った。
2006.11.17
色々あって 言葉が見つかりません 子供たちの明日を 何とかしてあげたい 教室に笑顔の大輪を咲かせたい おまえの才能は こんなにも素晴らしい おまえたちの未来は こんなにも刺激に満ちた 可能性で溢れているよ そう 語りたい そして全員を楽園へと導きたい だが この手で掴みきれないもどかしさが 現実の隙間で息づいている 講師がいて 生徒がいて この箱で 何を働きかけることが出来るのか 何を掘り下げ 何を与え 何を記録していけるのだろうか いつも いつも 明日への形ある活力を ここに描き 天に向けて聳える 雄大な知恵を育み続けたい 手の及ばない所で 喘いでいるきみを この優しい椅子に引き寄せたい 色々考えた システムを変えるべきか どうすべきなのか 君たちの笑い声の奥で 箱が迷路のように歪んで見える 週末までに 結論を出したい
2006.11.16
公立高校の前期試験まで、77日となった。 「もう、あと77日しかない」 と思うか。 「まだ77日もある」 と思うか。 よく解釈のし方が大切だと言われるが、みんなはどう捉えているだろう。 いくら陽転思考を掲げても、行動が伴わなければどうにもならない。 「もう77日しかないから、よし、今日から真剣にやるぞ」 「もう77日しかないから、どうせやっても間に合わないな」 「まだ77日もあるなら、完成まで十分間に合う」 「まだ77日もあるから、今日のところは適当に流そう」 解釈によってどうにでも変わる。 解り切ったことだが、精神論は諸刃の剣なのだ。 ただ、これだけは言える。 『今日の3時間も、入試前日の3時間も、同じ3時間である』 試験の1ヶ月前には、 「あと1週間あれば、あれも出来た、これも出来た」 と思う。 試験の1週間前には、 「あと3日あれば、あのテキストを見直せたのに」 と思う。 試験の3日前には、 「あと1日あれば、これを覚え、これだけ実力が上がったのに」 と思う。 試験の前日には、 「あと3時間あれば、入念な総チェックが出来たのに」 と思う。 誰もが繰り返す、後悔の記録。 あと3日と思うのなら、3日前に始めていればいい。 あと3時間と思うのなら、今日3時間こなせば済むことだ。 毎年この時期になると、精神論では語れない現実が見えてくる。 計画を練り、カレンダーに実績の歩みを残していきなさい。 そして反省とリカバリーを繰り返すのだ。 攻めは最大の防御。 みなが一線に並ぶ腕比べの日は近いぞ。 時を、1分の刻を、大切にしなさい。
2006.11.15
いかに解りやすく説明できるか。 いかに良いシステムを与えるか。 いかに生徒に即した親身な授業を実践するか。 いかに理解させて得点力をつけていくか。 塾人は生徒と向き合い、考えを巡らすが、実はこれ以上に大切なものがあると私は思っている。 塾にとっての最大の使命とも言えるもの。 それは、 「いかに家庭で学習させるか」ということだ。 教場で集めた知識が、どのような形で生徒に定着していくか。 まるで宇宙のような捉えどころのないテーマであるが、この定着こそ起承転結の結にあたる。 それは我々の教えるという作業の帰結点でもある。 冒頭の4項目が大切なことは言うまでもないが、これらは手段であり、目的ではない。 生徒も我々も汗をかき、互いに成長を目指して腐心する。 しかし、いかに最良のシステムで、いかに中身のある指導を施しても、定着がなされなければただの自己満足だ。 定着には科学的な反復が必要であり、そのためには目的に沿った比例数的な時間が不可欠だ。 絶対的な時間。 家庭における膨大な、そして調整のきく時間。 この使い方をどう意識するかで、力の差も比例数的に広がっていく。 塾で宿題を出すのは、家で復習に取り組ませ、定着を促すためであるが、実は個人のペースで問題を解いていてもなかなか力は付かない。 ほんの数枚のプリントで定着が図れれば苦労しない。 実際、プリントの宿題などは、解いていて分からなければその場で確認も取れず、空欄のままである。 終了すればその後の発展もない。今日やるのか、明日やるのかという問題もある。 私は思う。 家庭での課題を与えるのなら、暗記物にシフトすべきであろう。 そもそも家庭での時間の使い方はみなバラバラであり、攻め方も違う。 家庭では塾で取り組めない、絶対的な時間のかかる課題をこなすべきである。 量を決めた暗記は、締め切りに合わせてさえいれば、やり方も自由だ。 確実にインプットしていく過程では、終了はない。 覚えるという行為は、問題プリントと違ってごまかしのきかない作業であり、反復しながら自分なりの完成を目指さなくてはならない。 塾ではその完成度をチェックする。 100できた者、50しかできない者。 1週間の取り組みの成果が、どれだけ密度の高い「時」を維持できたかが、そこで記録として残る。 家でやらないから伸びないとよく言われるが、こなすべき題材を見直してみることは大切だ。 もう一度言う。 ダラダラと少量の問題を解いていても、成績は絶対に上がらない。 自分のペースで自己解決していて、上がるはずがない。 天秤で量られた、甘えのきかないノルマを与えること。 脳が飽和するくらい、もっと攻めさせること。 確実に血肉になる時間消化術を真剣に考えること。 我々の歩む果てにある目標は、常に同じであることを前提に、 師にも生徒にも言いたい。
2006.11.14
「分かったか?」 「はい」 指導歴のある諸兄には、この「はい」がどういう意味を持っているか、もうお分かりだと思う。 生徒が10人いれば、この「はい」が示す意味合いはみな違う。 授業の中のほんの数分の説明で、本当に理解し、意識に焼き付け、自身の揺るぎない糧にできる者などまずいない。 大抵は「はい」の後に言葉が省略されている。 「はい、(分かったと思います)」 「はい、(・・・多分)」 「はい、(何となく・・・)」 「はい」を真に受けて終了できれば苦労しない。それは三流講師のやりとりだ。 我々はその心理にまで踏み込み、理解のレベルを上げようとする。 生徒に質問する。 「ほう、すごいな。本当に分かったんだな? じゃあ、一人ずつ訊くぞ」 生徒たちの顔色が変わる。 ボードに書いた図やポイントを30秒間だけ眺めるように指示する。 ボードにびっしり書かれた大小の乱雑な文字。 そして次に、大切と思える箇所を部分的に消し、赤で番号を書き込んでいく。 生徒たちには、その穴埋めを考えさせ、各自ノートに書かせる。 10個あれば、大抵は半分しか分からない。 グループで捉えた付け焼刃の知識なので、違う空欄に用語が交錯する。 「お前ら、これで本当に分かったのか?」 その後、個別に口頭で質問すると、その曖昧さはさらに際立ってくる。 「これ、さっき言ったよな」 「え・・・・ええ」 「分かったんじゃなかったのか?」 「・・・・・」 中には8割ぐらい押さえている者もいるが、ひどい者になると2割にも満たない。 生徒の意識にはもの凄い個人差がある。 《何となく分かった》でも、分かったと判断してしまう者。 納得するまでは、何度でも執拗に訊いてくる者。 解りたいという意思が、意欲が滲んでいるか、そうでないか。 眼をみれば分かる。 彼らが帰宅し、今日の課題にどう取り組むか、学んだものをどう肉付けしていくか。 それも突き詰めれば、目の前の知恵をどう捕獲しようかという、今この時の授業の姿勢が物語っている。 分かった気になっている者は、家で何もしない。 分かりたい者は、家で知識の加工を始める。定着のための二次作業だ。 授業で10言って10分かる者がレベルが高いわけではない。 6しか分からなくても、その後の一連の作業がしっかりできる者が高いのだ。 だから、素直に自分の理解度を認めなくてはならない。 己を知り、非を知り、より高い完成を目指していく。 力量を知るのである。 肝心なのは1ヶ月後の到達点であり、それが量るべき真のレベルなのだ。 分かったつもりだけの、空白の授業はむなしい。 ボードを消し、ここに何が書いてあったかを考えさせる。 そして、板書そのものをイメージとしてインプットさせていく。 刺激を与える手法として、私はよく使っている。 次の授業でそのイメージが残っているようなら、レベルは確実に上がっているだろう。
2006.11.13
小学生のうちに正しい学習姿勢を身に付けておくことは大切だ。 小学生、特に高学年は、生活の中で自立に向けて様々なことを学んでいく。 道徳・ルール・思いやり・誇り、そして自分を高めるための知識。 遊びも悪ではない。遊びの中で身に付けるスキルは、自己形成に欠かせないものだ。 私もよく遊んだが、友達と感覚を共有し合い、助け合い、互いに学ぶことが多かった。 課題が生まれれば相談し、ルールを決め、役割を考えながら、そしてちっぽけな思想のようなものをちらつかせながら、何か大切なものを得てきたような気がする。 小学6年ぐらいになると、自我が強くなり親への反抗が始まるが、それは子供から脱皮しようとする自己形成の表れであり、歓迎すべきことだ。 大切なのは、その心の芽生えを周囲がどう導いていくかである。 当たり前なことだが、語り合うという行為はすべての基本だ。 疑問や悩みを持った時、あるいは歓びや感動に溢れた時、人は言葉を交わし一体化を求めようとする。 その受け皿は、小学生ならば親であり、それは他に代替のきかない絶対的な存在だろう。 子供が中学生ぐらいになると、言うことを聞かないと悩む親が増える。 毎年、毎年、後を絶たない。 塾の場合その内容は、「勉強しろと言ってもやらない」「何度も言うと反抗する」といったものが大半だ。 そういう話を聞くたびに、《悩みのベクトルがずれている》と私は思う。 親は言うことを聞いてくれないので困るのだろうが、悩んでいるのは親よりもむしろ子供なのではないか。 他者との比較で劣等感を持ち、思うようにいかないジレンマを抱え、すべきことの内容も善悪も知りながら、手順と価値が見い出せずに日々もんもんとしている。 親はその一つ一つをひも解き、対等に語り合う勇気を持つべきだ。 大抵の親は「自分の子供のことは私が一番よく知っている」と思っているが、その考えを捨てるタイミングを誤ると、干渉からやがて管理に流れてしまう。 語り合うためにはその「管理する」という感覚を一度リセットする必要がある。 親は気を使い、「何でも相談しなよ」「どうしたいか言ってみな」と語るが、子供が「別に」と言えば、そこでコミュニケーションが断たれてしまう。 そこに、目に見えない管理の匂いを子供が感知するからではないだろうか。 関係が崩れていくと、「お願いだから話して」「頼むから止めて」「お願いだから勉強して」と、我が子にお願いするようになる。 進もうとしている方向、望む姿は何なのだろう。 親が望むことと子供がすべきことのズレをしっかり捉えない限り、この歪みは埋まらない。 相談しなさいと相手のアクションを待つ必要もない。 逆に子供に親自身の悩みや課題を相談してみてはどうだろう。 対等の信頼関係には、親優位の意識を払拭することも大事な要素であり、それは相手の立場と存在を認めることにもなるだろう。 少なくとも週1回、家族で話し合う時間が欲しい。 互いに課題やテーマを出し合い、出来事を語り合い、考えをヒントを拾いあう。 そこでは、親も子供になるべきだ。 ブレインストームの形をとり、「聞いてあげる」ではなく、「本音を語り合い、さらけだす」のである。 この「さらけだす」ことが普通にできる家庭は強いと思う。 子供を成長させるには、様々な体験と学びの機会を与え、自らの内部的な力を育んでいく必要がある。 その一環として学校教育があり、学習する時間が設けられている。 学び、体験することは「知」を得ることであり、それは明日からの生活におけるエネルギーに繋がる大切なものだ。 自ら意欲的に学ぼうとしない子供たちは、周囲の環境や人との関係において、何を優先すべきか、そして何を糧として蓄えなくてはならないのかという、根本的な「学び」を得る機会が疎遠であったケースが多い。 人間は、感情と誘惑に日々闘っている。 日常から心を開く付き合いができれば苦労しないが、努力は必要だろう。 冒頭の「学習姿勢」とは、飽くまでも「姿勢」であって、成績を上げよということではない。 何が大切なのかを判断するための知恵。 興味を発見し掘り下げていく勇気。 得手、不得手を知り、工夫し克服していく力。 そういったものを頭にまとめ上げていくことであり、体験により自力で乗り越えていくコツを掴むということだ。 小学生と言ったが、そのタイミングは人によっては中学、高校なのかも知れない。 「知」の深さを知る旅は、人生、延々と続くもの。 その新芽に水と肥料を与え、陽を当ててあげることがいかに大切か。 最初の姿勢はその後の10年の成長を左右する。 すべては周囲の働きかけであり、いかに本人が素直に考えられる形を作れるかであろう。 子供が信頼できる環境の中で、自ら価値を探し、動き始めた時、 本物の成績は後からついてくるものだ。
2006.11.12
社会の時差の問題が苦手な生徒が多い。 実際に海外に行ってなければピンと来ないのだろう。 でもオリンピックやワールドカップなどで、地域ごとに時刻の違いがあるということは、感覚的に分かっているようだ。 時差計算をする時に、まず押さえなくてはならないのが、日付変更線の位置。 そこから左(西)へ新しい日付は動いていく。 地球が逆方向に自転しているからだが、そのメカニズムが理解できないと、問題を解く時に大変てこずることになる。 一番いいのは、世界地図を開き、今の時刻を書いた付箋を、机のちょうど日本の経度の位置に貼り、地図だけを右に動かしてみることである。 時刻が、あるいは日の出が、どういう順に変わっていくか、感覚が身につくまで何度もやらせる。 そのうち日付変更線のすぐ左(西)の地域が、世界で最も早く新しい日を迎えるのだということに気付くだろう。 日本もそのトップグループに入っているのだということを印象付ける。これは大事だ。 そして日付変更線をまたぐと、日付の変化が生じることを学ぶ。 そこがマスターできれば、次は地軸である「北極点」を中心とした地図で、1時間あたりの経度のズレを学ぶ。 360÷24=15度。この15という数字は当然丸暗記だ。 同時に本初子午線を教え、東経と西経の大陸分布を捉えさせる。 そして日本が東経135度であることから、ロンドンと東京(明石でもいい)の時差を計算させる。 135÷15=9時間。これも丸暗記だ。と言うか、この9時間という値は、時差計算では何度も使うはめになる。 ここまでできれば、少し口頭で問題を出してみるといい。 ロンドンと東経75度の都市との時差、日本と東経60度の都市との時差、というように。 実際に試験問題を解く時は、午前・午後の概念をはっきりさせておく必要がある。 私がよく勧めるのは、「24時間計時による計算も出来るようにしておく」ということだ。 例えば、「日本が11月11日午後6時の時、ロンドンは何月何日の何時か」というような問題の時、午後6時を18時として計算する。18-9=9時。日付変更線はまたいでないので、当然同じ日付だ。 ここまでやったら、次は西経の都市の問題。 日本と西経75度のニューヨークの時差を求める時は、まずロンドンまでの9時間に西経75度分の時差を足せばいい。逆回りの裏技もあるが、かえって混乱するのであまり触れないようにしている。 時差計算で最も間違えやすいのは、飛行機で旅行し、現地への到着時刻を求める問題。 「11月11日午前6時に東京を発ち、8時間後にカイロ(東経30度)に到着した。到着時のカイロの現地時刻は、何月何日の何時か」 というような問題。さあ大変だ。色んな要素が絡んでいるので、一つずつひも解いていかなくてはならない。 こういう問題の時は、必ず『出発時の現地時間を先に計算する』ことが大切だ。 カイロは東経30度なら、東京都の時差は7時間。 ということは、出発時の現地時間は10日の午後11時。 そこから8時間後に到着したわけだから、11月11日の午前7時となる。 これができるようになれば、時差計算はほぼパーフェクトにこなせるようになる。 時差に使う、「1時間=15度」は天体の動きにも出てくる。 よく覚えておこう。
2006.11.11
中学3年の理科は、「酸化と還元」と「天体」が範囲だ。 天体は楽しい。 生徒たちも前回の「運動とエネルギー」よりは、多少興味を持って取り組んでいる。 だが、色々と教えていくと、常識と言える部分が欠落している生徒もたまに出てくる。 太陽が南側を回帰することを知らなかった者、地球は自ら光っていると思っていた者、地軸に傾きがあることを初めて知った者、月が太陽系の惑星だと思っていた者。 何年か前には、天動説を信じている者もいた。 宇宙には壮大なロマンがある。 私はよくそこを意識して、雑学を散りばめながら授業を進める。 恒星から光の話になり、「光は秒速30万キロ、1秒で地球を7周半する」ことに触れる。 そしてその光を持ってしても、数億光年かかる距離に天体があるということを話すと、生徒は一様に驚く。 銀河の話や、ビッグバン、巨星、星座の知識、惑星の詳細、電波望遠鏡、天体観測術、日食と月食、宇宙生物、SFの話、スペースシャトル、隕石と火球、宇宙観測史など、興味を引く題材は幾つもある。 だがこういう内容は今の教科書では習わない。 天球の図を使い、南中高度や日の出の時刻を求めるたり、ペン先の影が中心Oにくるなど、考えてみればどうでもいいことだ。 オリオン座が2ヵ月後の同時刻に何度ずれてるかなど、実社会に出てからクソの役にも立たない。金星の満ち欠けもそうだ。 なぜもっと子供たちの興味を引く、ワクワクする内容を履修させないのだろう。 最近の子供たちは、理科離れや科学常識の欠落が顕著だというが、教科書を見ているとそれも頷けるような気がする。 冒頭の、常識が欠けている生徒なども、大事な部分を楽しく学ぶ機会がなかったからだろう。 もっと雑学のシャワーを与え、頭にイメージを描かせることが必要に思える。 子供たちのイメージの広がりを、計算や物理的な世界に収束させ、結果として興味を損なっている。 とても残念である。 また、できれば天体は中1で習いたい。 若いほどイマジネーションは豊富であり、この壮大なテーマは目の輝く中1の世界だと思う。 中学でいきなり、光・音・力などの味気ないものを習うから、理科嫌いが増えるのだ。 1分野と2分野のバランスもあるのだろうが、別に1年生は全部2分野でもいいではないか。 私はそう思う。 酸化と還元では科学反応式が不可欠だが、みなこの反応式が書けずに苦労する。 矢印の左右の原子の数を合わせるといっても、なかなか合わない。 私はいつも係数を付けずに、まず化学式を並べてみろと指導している。 そして次に気体に2(ツー)を付けて分子にする。 中学で習うものは、一般的には水素と酸素だ。 最後に係数を付け、矢印の左右をあわせる。 この手順で大体みな書けるようになるが、中には何が気体なのか分からない生徒もいたりする。 還元では「炭素」が出てくるので、炭素は気体じゃないぞとよく説明する。 それでも炭素分子を書き、合わないと頭を抱える者が必ず出てくる。 そこで炭素は炭(すみ)だということを分からせるため、しばらく前から教室に炭を展示している。 これも雑学である。 脱臭などの空気の浄化作用もあり、一石二鳥だ。 今後も理科の常識や雑学をどんどん掲示、展示していきたいと思っている。 学校では教えない知識の楽しみを仕掛けたい。
2006.11.10
昨日ある中学1年の女子と面談した。 親御さんも一緒だったが、ここに来て勉強が不安になり、塾を探しているとのこと。 途中、苦手教科の話になり、特に数学が解らないと言う。 小学校までは算数はそこそこ出来ていたらしいが、中学に入り「負の数」から早速つまずき、もやもやを引きずっているようだ。 『マイナスを引く』という概念が理解できないと言うので、即興で3分間レクした。 メモ用紙に「-2」と大きく書き、本人に渡す。 「これは何かのペナルティと思ってね。とにかく君はこの減点を持っているんだ。テストの点で考えてもいいよ」 そして、そのメモを私が奪い取る。 「いいか、マイナスを引くってことは、マイナスを取られちゃうってこと。今みたいに、マイナスがなくなるってことだ」 「どうだ? マイナスがなくなって、君自身の点は上がったかな、下がったかな?」 マイナスを引くとプラスになるという概念が何となく解ったのか、ニコニコしていた。 その後、マイナスのメモを渡すという動作で、負の数の加法も学んだ。 さらにプラスのメモも使い、加減法を少しだけ説明した。 行ったり来たり、まるでばば抜きだ。 生徒は何度か頷き、嬉しそうだった。 恐らく紙面上の計算で法則ばかり考え、頭が混乱していたのだろう。 「マイナス引くマイナスはプラスなんだっ!」と、ただ決め付けるからいけない。 身近なもので色々考えてみると、理解し易かったりするものだ。 エレベーターの昇降でもいい、スゴロクでもいい。 数の概念をもっと触れさせてあげたい。 もう君は、『-5-(-3)=2』などとしたりはしないだろう。 家でよく見直しておくんだぞ。
2006.11.09
1題目 英検 今回初めて準会場として塾で実施した英検。 中学生は全員、1次試験を合格することができた。 中3で準2級もいたが、見事合格。3級のメンバーにはスコア56という優秀な生徒もいた。 さあ次は2次試験と、機運が高まっていたときの出来事。 試験は今月の12日(日)に行われるが、何とその日に学校公開日(参観日)をあてがっている中学があったのだ。 いつも話題のT西中である。 学校は英検の2次までは考えなかったといい、どうやらスケジュール通りに実施するようだ。 多数の生徒が教師に頼んだそうだが、日程変更は無理の一言。 検定が午前にある者は、学校か検定かどちらかを選べと言われたらしい。 そもそもこの学校の日程。 翌日の月曜を振替休日としており、さらに火曜の「埼玉県民の日」につなげた連休を意図的に計画しているのが見え見えなのである。 検定が午後の者は早退して行くらしいが、午前の者は早退も遅刻も時間的に無理なので欠席にするという。 わが教室の2次受検者にも3年間無欠席の皆勤賞が2名いて、こんなことで欠席になるとはと半べそかいていた。 保護者からも電話が来たが、学校にもっと強く交渉すべきだと告げるだけで、塾ではどうにもならない。 他塾や一般受検などの1次合格者も多数交渉し、何とか学校が取りまとめて検定時間を午後に調整してもらうことになったが、何ともお粗末なゴタゴタだ。 でも早退はしっかり付けるらしい。 強く言わないと腰を上げない。 中3受験生が何のために英検を受けていると思っているのか。 隣の中学では学校で団体受検しているというのに、取り組む意識の差に開きがありすぎる。 揚げ句に、「塾に時間調整を頼んでもらえと言われた」「3級までは塾で調整できる」などという生徒も出る始末。 はあ? 重なってるのは学校行事の日程でしょ? 塾にどうしろと言うのか。何処からそんな話が出るんだよ。 生徒たちの学ぶ努力、もっと見てあげろよ。 2題目 サル さそり先生ではないが、わが教室にもサルがいるようだ。 最低限のルールが守れず、何度説明しても理解と行動が伴わない。 ごみを散らかし、騒ぎ、遊びにうつつを抜かし、いつも周囲に迷惑を掛ける。 彼らの去った後は、落書きと、物の散乱と、調度の乱れと、菓子のごみと、レシートと、ガムと、ペットボトルが、教室内、踊り場、階段、駐輪場に溢れる。 学ぶ時は学んでいるようだが、気が抜けた時と自習時間が危ない。 もちろん塾の行き帰りも。 今日も早く来て騒いでいたので、呼び出し「喝」を入れた。 ところがその後の自習中もやかましい。 しかも彼らが立ち去った後の机周りは、修羅場だったという(これは講師に聞いた話で、すでに直した後だった)。 悪さはすでに何度も目撃されている。今日もガムを何度も掃除した。 言って善悪が分かるのが人間。 言ったその日に繰り返すようでは、もはや修正不能。 ルールを守れないのならば、上等である。捕獲してあげよう。 泣くなよ。 私を怒らせることがどういうことか教えてあげよう。 真剣な仲間に不快を与える者は、私の裁量でどうにでもなることを。 じっくり教えてあげよう。 仲間を裏切ることは、ここでは許されない行為。 何度言っても分からないお前たちよ。 明日だな。 最近、こんな話ばかりで申し訳ない。 明るい話題が欲しい・・・
2006.11.09
表のガラスに、実績をベタベタ貼っている塾は多い。 細かい数字を見せるためもあり、路面で1階であるケースが多い。 しかし、これ、あまり度が過ぎると見苦しいものだ。 多少のPRは必要にしても、レベルの高さを匂わせる節操は守りたい。 わが教室の周辺にも、ハイパー不動産のような塾がいくつかある。 それはもう、もの凄い。 「○○名合格!!」はもとより、「成績急上昇!」「わかる!」「できる!」「めざせ○○!」と、漠然とした文字がガラス面にカラフルに並ぶ。 驚いたのは個人成績を上昇例としてすべて公開している塾だ。 名前はイニシャルだが、偏差値の上昇値と教科を一枚ずつプリントし、100件近くも貼り出している。 でもよくよく見ると、教科は国・数・英・理・社・3科・5科の7種類もあり、どうも同じイニシャルが重複しているようにも見える。 あまり深読みはしないようにしよう。 でも同じ仕事をしていれば、坪数で生徒数がどの程度かは想像できるが。 塾を探している人にとって忘れてはいけないのは、肝心な指導内容である。 それはとにかく体験してみないと分からない。 派手な宣伝や、美辞麗句、入塾時の割引などに惑わされず、ぜひ塾の本質を冷静に見極めて欲しい。 しばらくすると、追加で料金が加算していかないか。 部活などで忙しいのに、強制参加のセミナーや講習はないか。 時間や曜日の融通はきくか。 実績は上位生のものではないのか。 生徒を集めるだけ集め、使い捨てていく塾を私はいくつか見てきた。 いろいろ確認し、慎重に判断したいものだ。 「やってみたけど合わなかった」と、幾つも転塾するのは、明らかにマイナスだ。 長いこと付き合っていると、味が分かり、結果が付いてくる塾が必ずある。 教室長の人柄も大切な要素だ。 そういうところは、大手と違ってあまり宣伝しなくても、くちコミで活気付いている。 不思議と、見た目に地味な塾に多いものだ。
2006.11.08
100本のロウソクがある 君は1本ずつ火を点けていく 1本 2本 丁寧に並べ立てていく 炎は君の知恵の象徴 ゆらゆらと神々しく 天に向けて語る生命のように 緋色と黄金色とに染め抜かれた 知識のかたまり 20本 30本 40本 君は振り返り 消えかけている炎に気が付く いや すでに何本か消えている 君は慌てて戻り 火を点け直す 41本 42本・・・後ろが気になる いよいよ風も吹いてきた ロウソクは傾き 無言の悲鳴を上げている 君はまた戻り 火を点け直す 一つ点けると 隣が消える それを点けると 今度は遠くの方が消えそうだ 21、10、17、4、33、15、26、8・・・・ 進まない・・・・ ふと 周りを見る 5本まとめて火を点けている人 先に並べてから一気に火を点けている人 みな工夫していることに気付く 君はなるほどと思い 真似てみる 50本 60本 順調だ だが 消える早さは変わらない 常にあちこちを注意していなければならない 思案に暮れる君を ある人が笑っている その人は 何とたった1分で すべての立ったロウソクに 火を点けたらしい 君はそのロウソクを繁々と見た そこには100本の束ねたロウソクが まるで太い幹のように立ちはだかり 大きな炎と黒煙を上げていた 不安定なものも 寄り集まれば安定する 一点に集めれば 注意も一点にだけ集中すればいい そして集まることによって 互いに相乗効果を生み 大きな力となる 知恵の集め方のヒントか・・・・ なるほど・・・・ きっと君は明日 500本のロウソクに火を点けているだろう
2006.11.07
このブログは生徒もその保護者も目にしていると思うが、今日は講師たちに向けて語りたい。 普段はあまり「管理」というものを前面に出さず、講師の持つ能力を、各個人の裁量の中で教室に発揮してもらっているが、わが塾の姿勢と進もうとしている方向を再確認してもらうために、敢えて厳しいことも言いたい。 目にした生徒なり、保護者なりがどう思うかは分からないが、そのリスクは私が背負おうと思う。 わが教室の指導スタイルは、「少人数制の個別指導」を軸としている。 1対1から1対5までを、生徒の学力、資質、性格、目的に沿って、ニーズに擦り合わせながら教科とコースを決定していく。 生徒本人と、そして親御さんと面談し、生徒が歩んできた経緯や環境、そして今現在の塾で学ぶ上での姿勢と期待、それらを入念に打ち合わせ判断し、コースを決め、担当を決めていく。 本人が一番やる気が持てるベストなクラス設定をし、塾との係わりの中で日々生徒が実際にやる気を持ち、学ぶ喜びを感じ、それが成績に反映され、同時に知と道具を与え、語り、正負の正の方向へ導き、人としての育成に係わるということを含め、様々な家庭の期待に沿う形を具現していくことが最終目的でもある。 そこには私の理念がある。 生徒たちの笑顔と活力。 疲れ、悩んでいる生徒に手を差し伸べてあげる。言葉を交わし、体験を語り、学びを通じて明日の活力を与えてあげる。 私の理念は、ただ成績を上げるために生徒を管理することではない。 学ぶ喜び。学ぶことは、知恵を得ることはこんなに素晴らしいこと。そして、学び得たものを活かしていく場面は山のようにあること。 それらをひも解き、大切さを教え、導いていく。 生徒たちはみな素晴らしい能力と可能性を持っている。今成績が悪くても、それは今日までの経緯がそうさせているだけなのだ。本質的な能力は単純な物差しでは測れない。 それをどう測り、どう分析し、どう加工し、どう教導していくか。これは理想論ではなく、講師が捉えなくてはならない、至極単純な業務なのだ。 マニュアルが確定しており、すべてその通りに運営できれば確かに楽だ。そのような塾も多数あるだろう。 では、奔流に乗れないはみ出した生徒は切ればいいのか。どんなに分からなくても、計画通りにこなすことが本来の塾の姿と言えるのか。 私はそうは思わない。 100人いれば100通りの疑問があり、それを受け止めるにはマニュアルを超えた人としての広さと深さを持った器が絶対に必要だ。 塾は学習するところで、教育を吹き込んだりカウンセリングをするところではないという人もいるだろう。さあ、果たしてそうだろうか。 私は、塾にはカウンセラーとしての性格も必要だと思っている。いや、必要だと断言する。 教室には毎日多数の生徒が訪れ、様々な営みを展開していく。 落ち込んだ者、ハイな者、目を輝かせている者、俯き加減の者、笑顔にあふれた者、ポーズを取る者、寡黙な者、みんな生活の匂いを背負い、健気に時を共有していく。 人の営み。 それはドロドロしたものであり、光の強弱もベクトルも違えば、簡単には語り尽くせない。 その集まりの中で我々は指導を始める。個によってバラバラな状況に直面し、総括できないジレンマが生じる。 その度合いにもよるが、個に根ざした向き合う姿勢があり、心を開かせ、方向を共有することで初めて次のステップがあるはずだ。一律では縛れない。少なくとも私はそう思っている。 それは楽しく和ませるということではない。精神を引き寄せ、活気付かせるということだ。 自分のペースに合わせるのではなく、生徒のペースに合わせていく。思うようにいかないと焦る必要はないのだ。 ただ楽しいだけの授業はその時は良くても、後々にマイナスを生む。目的は飽くまでも学び、結果を出すこと。それは生徒も親も講師も同じだろう。 成績を上げ、本物の笑顔を咲かせる。難しいが、その目的を忘れてはならない。そして講師はそのために必要な具象、抽象、すべてにこだわって欲しい。 自分の受け持ったクラスに誇りを持ち、リズムを、核心を律して欲しい。 今日私はあるクラスを叱責した。 その講師には申し訳ないが、わが教室の講師たちにも是非みなで考えてみて欲しい。 生徒があめ玉を口にしていた。口から棒が出ていて、話もろくに出来ない状態。私が彼の頭をテキストで叩き、叱った。彼はすぐ口から出したが、何故そんな状態で授業をしているのか。私は講師に言った。 「先生、しっかり注意してください」 「注意してますよ」 「注意してますって、今食べてたでしょう」 「今もやめろって言ったところですよ」 「しっかり止めさせてください」 「いくら言っても聞かないんです」 こだわって欲しいのだ。 自分のクラスに、自分が教えている内容に、自分が師だということに。 確かに何度言っても分からないヤツはいる。 だが、師にとって求められることは、「言った」という行為ではなく、その結果が「どう帰結したか」ということなのだ。 生徒がここに何しに来ているのか、目的を解らせることから始めなくてはならない。その根本が崩れてしまうと、いくら講師が熱弁しても結局舟は難破してしまうのである。 厳格に縛れということではない。ここでの「ルール」と「立場」を説けということなのだ。 互いの立場が曖昧なクラスは、生徒の自発的な姿勢も弱い。 もちろん楽しく運ぶことは必要だが、それは師の意図的なリードであり、馴れ合いであってはならない。 私はよく講師に友達感覚で接してあげよと言うが、それは生徒を萎縮させずに心を開かせるためだ。 友達感覚で馴れ合うことと、友達感覚で導くことは違う。 私ならあめ玉を口から出すまで授業はしない。というか、参加させない。 舐めたまま授業を始め、語るということは、その程度の取るに足らない関係と授業内容を認めるということ。 これはこだわりでも何でもない。 諭さなくてはならない、常識のスタートラインであろう。 そして今日。すべての業務が終わり、ドアの外に出ると、ホールに敷き詰めてあったシートがグシャグシャになっていた。 開校以来のひどい状態だ。 生徒の仕業だろう。誰がやったか見当は付くが、そんなことはどうでもいい。 私が残念なのは、講師たちがそこを通って帰ったはずなのに、誰一人として直すこともなく、ましてや私に報告さえもしないということだ。 少なくとも6人の講師が、その惨状を見て素通りしている。帰宅する生徒たちとクロスしており、中には生徒と一緒の者もいたはずだ。 誰も直さない。 生徒たちはその状況を見てどう思っただろう。 素通りする講師を見てどう思っただろう。 自分がやったわけではないから・・・そんなものだろうか。 ここは学びを教える場であり、同時に人として守るべき道徳を教える場でもある。その教えるべき講師が子供の非と同列で傍観しているだけだとしたら、何ともさびしい。 いや、残念である。 生徒の前で正しいことをパフォーマンスせよというのではない。素直に出てくる心の問題である。 ホールや階段にごみが落ちていても拾わない。授業後の床に散乱していても、机にペットボトルがあっても、机や椅子が乱れていても、ボードに落書きが残っていてもそのまま帰る。 私が毎日授業後どんな思いでごみを拾い、机を直しているか。 それが私の仕事なのだが、みんな何か大切なものを忘れてないか。 この教室で生徒を迎え、一緒に空気を創り、汗を流している我々が目指している大切なものを。 ミーティングをしようと思う。もう残念な思いはしたくない。 わが講師たちはみな素晴らしい能力を持っている。その資質を互いに出し合い、認識し合い、生徒たちに注いで欲しい。 この教室をみなで運営し、こだわりのあるより良い時空間にしていきたい。 変えなくてはならない。 明日のために。 みんなの笑顔のために。 そう感じた。
2006.11.06
多忙が続く中、徹夜もたたり、土曜は一日中つらかった。 対策授業をしていても、ストレスからか疲労からか、胃腸がずっと重い。 午前中の「社会・理科一問一答試験」のとき、みなの前で解答を打ち込んでいたが、2回ほど眠気に襲われフラッときた。 案の定、「ASEAN」を「ASESN」などとし、生徒に指摘される始末。 夕方に試験を受けに来たOさん。終了のとき居眠りをしていて気付かず、済まなかった。 「お疲れさま」のメモ書き、ありがとう。 午後は社会・理科の北辰過去問を少しやったが、その中で知識の差が結果に繋がるということを改めて伝えた。 例えば社会の問題に、こんなのがある。 『この国では、ヒンディー語が公用語であるが、かつてこの国がイギリスの植民地だったこともあり、英語が共通語になっている。また、この国のどこへ行っても食べることができるのがカレーで、北部では小麦粉でつくったパン(ナンやチャパティ)を、南部では米飯をカレーにつけて食べるなど、その食べ方は地域によってさまざまである。』 地図中から、インドの記号を書かせるものだが、用語さえ知っていれば容易に答えられる。 「この国では、ヒンディー語が・・・・」 ここまでで答えられるかどうかなのだ。 私などは「ヒンデ・・・」までで見当が付き、次の「ィ」で国が確定できる。 もちろんその後の文章も目で追うが、それは文頭で出した答えの裏づけ確認に過ぎない。 もし《インド=ヒンディー語》を知らなければ、イギリスの植民地→英語→カレー→ナンと知っているものを探すのだろうが、結局どこで判明できるかは知識の差でしかない。 一体この国はどこだろうと探しながら文章を読み続ける者と、最初に出した答えを検証しながら読んでいく者との違いは、明確に結果に出てくる。 仮に正答を導き出したとしても、解答欄を埋めるのに1分かかった者と、5秒で終えた者との差は、他の設問にかける時間を考えればもの凄く大きい。 だから知識を蓄えよと何度も言うのだ。 他にも、「蔵屋敷」の資料から「天下の台所」の説明文があり、「このある都市」を地図から選ばせるという問いがあった。 超ベタな設問だが、これも「蔵屋敷」の資料を一瞥しただけで、日本地図の「大阪」の位置をイメージできなくてはならない。 設問の流れを読むのである。 「えーと、この資料なんだっけ、見たことあるんだけどな」とか言ってるようでは、既に勝負はついているのだ。 知識を可能な限り蓄えること。 そのためにはクイズ感覚で捉えていく機械的な暗記と、設問を解く場数を踏み、そのパターンを感覚的に身につけていく必要がある。 知識の量を100から500、500から1000にしていく。 一問一答の正答率は、見事に普段の試験の点に比例する。 それは高校入試も同じ。その大半が知識量で決まるものなのだ。 もう一つ、「大塩平八郎」の人物画の資料を見て、「この人物が起こした乱のあとの出来事として当てはまるものを選べ」という問いがあった。 選択肢は、「外国船打払令」「生類憐みの令」「ぺリー来航」「島原・天草一揆」の4つで、それぞれ文章になっている。 もうお分かりであろうと思う。 資料で大塩が分かるかどうか、その乱の時代の位置づけが年表として分かるかどうか、それぞれの選択肢の時代が、その前後の背景を含め捉えられるかどうか。 結局、知識なのだ。 知っていれば勝てる問いなのである。 これは平成15年11月の問題だが、たまたま我が家に息子の時の同じ問題用紙を発見した。 息子も当時中3生で、北辰テストはすべてファイルしてあるのだ。 息子の問題用紙、この最後の設問では、問題文の「乱のあとの出来事」の部分にラインが引いてあり、選択肢にはそれぞれ年号が書き込まれていた。 もちろん、大塩の年号も大きく書かれている。 問われている部分にラインを引き、それに対する答えを知識で応じる。 知識の有無がどれだけ結果を裏付けているか。 その時息子は地理で一つ落としただけで、紙面には知識の書き込みが山のようにあった。 息子たちは二人とも何故か社会が得意で、北辰では二人揃って平均偏差値70超え、満点も何度も出している。 その力はなにもせずに付いたものではない。 他者に負けじと、膨大な知識を吸収したからである。 知識は互いに助け合い、点を取るコツを生む。 ちょうど今日、わが受験生は北辰を受けているが、きみの頭には自信に繋がる知識がどれだけあるか。 一問一答、これからどんどんやるぞ。 追試が嫌なら、文句を言う前にインプットしろ。 1000問を超えたとき、点を取れる実感とともに、 可能性は無限大に広がるはずだ。
2006.11.05
子供たちの眼の輝きはみな違う 活動的で元気に振る舞う子 目立たない いつも視線を逸らす子 笑い 語りかけてくる子 彼らの日常のほんの一部に この教室があり 幾多の擦れ合いの中で 資質も性格も 感情も生活の匂いも 複雑に溶け合い 融合し 輝き 舞いながら時を刻んでいく どれだけ心が和むか どれだけ明日のために与えられるか 教室という箱の中で 我々は空気を感じ 言葉と姿をフィルムに記していく だがそんな時にも必ず大きな力が背後にある 聡明な 言葉のない力 眼である 経験のない10代 ほんの限られた 身辺の人たちから影響を受け 悩み 訴え 自分を探していく 経験を重ねながら 目の前の幸福を手さぐりし みんな 大人の味を知ることで いつしか成長を確認していくだろう 人を味方にし 血肉を築く者がいれば 人にかしずき 怯え 自分を閉ざしていく者もいる 10代の通過点で きみの表情は どんな「かたち」を見せているだろう 大きな野望があるのなら その手で堂々と拾えばいい どろどろとした感情は 自分を磨く道具なのだ いつも遠慮し 構え 夢を見失った子供は 絵に描いた迷路のような表情の 狭い視野の眼しか持てない 普段 語らない 俯いてばかりの子に 素晴らしい眼の輝きを見るときがある 日々の歪みを背負いながら 健気に頑張るその姿 この教室で出来ること 100のうち たった一つでもいい ゆっくりと心に刻んでいけ きみの眼は誰よりも力強い 焦らずに前を見て いつもの空気を吸い しっかりとカバンに詰めていけ それはきみにとっての財産 大人になる過程で やがて一巡りし ふたたび 本当の意味の 祭りの日が来る
2006.11.04
プリントを配る いきなり最初から始める者 指示を待つ者 用紙を2つに折る者 ザーッと流すように目を通す者 真剣に見入る者 視点が違う方に向いている者 「アーッ! これ知ってるぅ!」などと騒ぐ者 「1番からですか?」と訊いてくる者 会話に夢中で 気付きもしない者 「何これーッ」などと文句ばかりの者 無言で 勝手に出来るところから始める者 まず丁寧に 右上に名前を書く者 「ねえねえ、これって」などと隣と話し始める者 ペンをクルクル回してスタンバイOKな者 頬杖を付いて 待ち状態な者 「やっていいんですか?」と訊いてくる者 「やるんですか?」と訊いてくる者 「どれやんの?」と訊いてくる者 「ねえ、やっていいの?」と隣りに訊く者 別の紙に 夢中にイラストを描いている者 配られた瞬間にトイレに席を立つ者 「分かんなーい」と解く前に放棄してくる者 ふんぞり返って他人事のような者 おもむろに3番から解き始めている者 懸命にシャーペンの芯を入れ替えている者 日付から書き始める者 「マジかよー」と面倒くさそうに言う者 右下の図版に落書きを始める者 「先生、何分ですか?」と時間を訊いてくる者 肩に力が入り やる気満々な者 生徒たちがスタートラインに立つ瞬間 それは マラソンの号砲を待つ姿のように いくつもの心が見え隠れし 素直な表情が動いていく 可能性を抱えている 様々な光る個性たち この間合いは 何故だか いつ見てもおもしろい さあ 開始の合図はどう出そうか・・・ この瞬間 わたしも間合いを 何故か いつも 大切なものと意識し始めている
2006.11.03
「日本漢字能力検定」2級の問題の一部が事前に漏れるという事件が起きた。 先月29日(日)実施予定の問題のうち、四字熟語などの一部の問題が、前日のうちにネットに流れていたというものだ。 手元に先日実施した控えがあるので、問題の掲示板を覗いて比較してみた。 うーん、確かに問題や正解が書き込まれている。 その書き込みの主は、どうやら高校生らしく(と、本人が言っている)、前日の土曜に学校で実施されたという。 本人は自慢のつもりで書いたのだろうが、月曜になって検定協会に発覚し、ニュースに取り上げられる大事に至った。 漢検のHPにもお知らせが出ているが、問題の部分は削除して採点し、希望者には再受検の対応も行うという。 ニュースでは四字熟語の20点分を引いた180点満点で採点するとなっている。 だが私が見たところ、類義語・対義語の問題もそっくり書き込まれており、さらに四字熟語の意味も調べておけば答えられる問いもある。 実際、50点分がその対象だ。 協会にもその確認の電話をしたが、現在調査中という。 恐らく後ほど、150点満点での採点に訂正されるだろう。 だが150点は全体の4分の3。しかも削除分野があれば、総合力が正しく測れないのではないか。 その点をどう判断するのだろう。 この事件はとても深刻な問題を抱えている。 英検もそうだが、準会場や団体で行う場合は、主催と実施の信頼関係で成り立っている。 試験問題は事前に届くわけで、その管理と扱いはモラルの問題だ。 この高校が何故前日に行ったのかは解らないが、会場指定を取っておきながらとんでもない違反であり、守秘義務の不履行である。 うちは正しく日曜に実施し、時間まで協会の指示に準じた。 生徒のスケジュールや負担を考えての日曜実施だったが、休み返上で塾人が頑張っても、こういう非常識な学校があるから、いつまでもトラブルが絶えない。 この高校は一体何を考えているのだろう。 生徒ではなく、明らかにルール違反を行使した学校の責任である。 見つからなければ構わないという感覚は、この度の履修漏れに通ずるものを感じる。 生徒の書き込んでしまう感覚もそうだが、常識と大人の考え方を再考して欲しい。 今回の件は、準会場の信頼に繋がる極めて大きな問題だ。 また、採点方法の変更により不合格になった者にどう説明するのか。 受験生ならば、受験前の最後の検定であろうに。 長年、漢検と付き合ってきたが、こんな後味の悪い回は初めてだ。
2006.11.02
高校受験を迎える中3生たちも、いよいよ本番モードに入ってきた。 明日(日付が替わったので今日)の朝刊には、H19年卒業予定者の「進路希望状況調査」が掲載される。 10月1日に行った一斉調査の結果として、公立の高校別、学科別の志願倍率が地方版を埋める。 毎年、この数字をもとに、みな少しずつ志望校の絞り込みが始まる。 模試の志望校記入、その判定、3者面談、12月の第2回状況調査、年明けのその発表。 今までの成績推移と、合格可能性と、行きたい高校を複雑な天秤に掛ける時。 最終志願までの駆け引きを行う時期がとうとうやってきた。 みんなの希望は知っている。 可能性はみなバラバラだが、希望はぜひ大切にして欲しい。 何倍だろうか。 数字の現実は受け止めなくてはならないが、安易に動いてはいけない。 中にはまだ決められないでいる仲間もいるが、焦ることはない。 いや、焦ってはいけない。 行く高校はただ一つ。 偏差値では量れない、自分だけの高校をじっくり探すのだ。 今後、まだ何度も煮詰めていく段階が待っている。 冬の日も、夏の日も、雨の日も風の日も、ここで頑張ったこと。 辛くて泣いたあの日。 作り笑いが板につき、重いカバンを提げて帰ったあの時。 疲れても、落ち込んでも、夜遅くまで壁と向き合ったこと。 忘れるなよ。 そして笑顔をここに持って来い。 あと3か月で何ができるか、これからが本物の自分と闘う時。 1日24時間。 変わらない時の流れは今も刻んでいる。 今までみんなを見守っていた教室のシンボル。 ウリ坊・・・ こいつもたった独り、健気に頑張っているぞ。 逆さまにされても、木にぶら下げられても、 泣きごとも言わず、ずっとみんなを応援してきた。 寒い季節はそこまで来ている。 お母さんの温もりを知らないウリ坊。 だれかマフラーでもプレゼントしてあげて。 そして一緒に春を迎えに行こう。
2006.11.02
以前どこかで見た。 確かパラドクスの原理を解く数学だか心理学だかの本だったと思う。 「この命題を真剣に考えると眠れなくなるよ」という注意書きと共に、次のような文章が書いてあった。 ある会の余興で、参加者全員に紙とペンが配られる。 司会が言う。 さあ皆さん、1から100までの好きな数字を一つ書いてください ただし条件として自然数に限ります 小数、分数、その他の捻った数字はだめです 皆さんの中で、2番目に大きな数字を書いた方に 豪華景品を差し上げましょう いいですね、1、2、3・・・100までの数字一つですよ さあみんな考える。 100は1番大きい数だから、明らかにダメだ。 では、99はどうだろう。 みんな100を書かないのだから、99は最大の数になってしまう。 では、98はどうか。 99が最大の数になるのだから、みんな99以上は書いてこない。 そうすると、98が書かれる最大の数になるはずだ。 だから98もダメだ。 では、97か。 98が最大の数になるとしたら、みんな98は書かない。 ということは、97が最大の数になってしまう。 じゃあ、96か・・・ でも97はみんな書かないのだから、96が最大の・・・・ この読み合戦が延々と続いていく。 参加者は数字に詳しいメンバーばかり。 全員、分析は得意とし、必死の読み合戦が続く。 どうだろう。 確かに99以上書くヤツはいない。 ということは、98を書けば最大になってしまうこと。 ではみんな97以下なのか。 ということは、97が最大になるから96を・・・・ 仮に、2を書けば1に負ける。 1を書けば、みんなが1を書いてきた時に勝てない。 さあ困った。 あなたならどうしますか? しばらく眠れなくなりますよ。
2006.11.01
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