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開校から丸三年が経った。この教室を慕い、通い続けてくれている仲間たちと、また新たな年度を迎える時がきた。桜咲くこの季節。幾たびの別れと出逢いが、また新たな教室の顔を作ろうとしている。 この教室に通う生徒たちは皆いいヤツだ。明るいヤツ、無口なヤツ、元気に騒ぎまくるヤツ、真剣なヤツも疲れた表情のヤツも、みんな自分だけのかっこいい力と光を持っている。原石の光だ。この輝きこそ素晴らしいものなのだということを教え聞かせながら、私は指導を続けてきた。教育者になりきったバカな塾長だが、彼らの持つ資質を認めそこに方向を描いてやるやり方にこそ、本物の成長が築かれると今でも思っている。 どんな子供も他者と比較したり、集団の環境にねじ込もうとしてはいけない。これはこの仕事で多くの子供と接して学んだことだ。問題を起こす子供も個で見てあげればいい。そして大人が今すべき正しいやり方を教えてあげればいい。簡単ではないが、学習とは個の質を磨くために行う行為である。他者との比較やシステムの活用や集団の中でどう学ぶかは、手段であり目的ではない。目的は何かを常に描かせ、必要なアイテムを揃えてあげる。環境などというものは、個人の捉え方でどうにでも変わる。教室のルールなども塾側の幻想にすぎない。生徒一人一人がどう感じているかなど、数時間の希薄な関係の中で判るわけがないのだ。ならば個を育てるために環境を操作する。 私も小学、中学と塾に通っていたが、今振り返ると味気ない思い出ばかりだ。当時はまだ学校に権威があり、教師とのやりとりから学んだことも多かった。教師に殴られ、誉められ、励まされ、仲間とともに見つめ合い学んだ時代。塾はその補習としての存在、いわば邪道だった。私の前で塾の先生はいつもマシンのように語っていた。相談も、冗談も、悩みもない、割り切った空気が今でも記憶に残っている。 現在の学校では教師から学ぶことが少ないという。教育者との関係が希薄になり、私淑という言葉も死語となった今。塾の役割も過去とは違い、子供たちの心を支える仕組みが見直されてきている。国の支援のない私塾で、ソフトもなく我流でケアを手がけるのだから大変である。過剰なサービスをケアの本質と履き違えている大手塾もあるようだが、本来のケアとは善悪を明言し、道を拓いてあげる徳育でなくてはならない。個の内部を育てつつ、自らの力で対処していく過程をサポートする。本物の学力とは、その試行錯誤のうえに築かれた土台の上に自力で重ねていくものである。 何だかテーマがズレて壮大になりつつあるのでここまでにするが、とにかく私は生徒たちの秘めた力を大切にしたいと思う。教室も4年目を迎え、色々考えることもあるが、生徒と向き合う姿勢だけはこだわっていきたい。今の世の中。子供たちに「お前ってこんなに素晴らしいんだよ」と教えてあげる人が少なすぎる。せめて私だけは、彼らに自信を与えてあげたいのだ。バカ言って、怒鳴って、一緒に笑いながら。
2006.03.31
私は教室の中で怖い存在らしい。 私は思っていることを隠さずに告げる。生徒に対しては、ダメなものはダメとはっきり告げる。ダメと思うことを曖昧にしても何にもプラスはない、そう信じて日々嫌われ者に徹している。塾長うざい、むかつく、大いに結構。だから何だと言いたい。対等に語る前にまずルールを守り、姿勢を正しなさい。この教室で学び教わり何かを得たいと思うのなら、己の非と未熟さを知り立場をわきまえよ。まだ世間の平和なルールと自分の都合に甘えている子どもであることを自覚せよ。 私にとってのその姿勢の発露は、子どもたちを常に半年1年という長いスパンで見ていることにある。今日の接点は明日以降の生きざまにつながり、やがて形になる時が来る。この学び舎で教わり得た物が、価値の見い出せないしこりであってはならない。ルーズにすることは簡単だ。さあ、果たして1年後にこの子はどうなっているか。私は常に踏み入って考えている。自律させること。学び、成績を上げるためには、テクニック以前に何よりも大切なことだ。 いつも楽しく笑いの絶えないクラスがある。講師に締めろと指示するが、一向に変わらない。笑いとルーズとは違うが、過度の笑いは塾に不適応であるばかりか、腑抜けの塊を脳に植えつける。此処に来る目的は何か、その根本を生徒に諭さねばならない。授業の時間は神聖であり、知を彷徨う刺激に満ちたものであるということを諭さねばならない。 講師たちよ、何処まで踏み込んで体を張っているか。言うことを聞かないと音を上げる前に、生徒との間にそういう楽な環境を敷いてきたのは誰なのか。私に苦を語るならば、その勇気をもって生徒に語って欲しい。数ヵ月後の姿を描き、自らをリセットして欲しい。私が巡回すると、それだけで静かになる子どもたち。語らずとも静かになるのは何故なのか。 私は自分の授業でよく雷を落とす。言い聞かせても調子に乗ってふざけている生徒。テキストで力任せに机を叩く音と怒声が教室全体に響き、みな振り向く。悪いことは悪いと非を認めさせ、恥をかかさせなくてはならない。それはすべて信念に基づいている。教室全体の指導の質を確認し、淀んだ空気を戒めるという意味合いもあるが、ほとんどは自然体での行為だ。顔を洗って来い。やらねえんなら帰るか。何度も言った。子どもたちの表情は言葉の蓄積とともに真剣になっていった。不思議でも何でもない。親以外で怒ってくれる人と初めて出会い、それが目の前にいる教わるべき立場の師だと解ったからだ。 笑顔の溢れる温かい教室。私は自分の教室をこう標榜しているが、勝手な振る舞いを善しとしているわけではない。正しい学びから湧き上がる悦びと笑いが個の中に築かれることを目指している。未知の海に漕ぎ出た子どもたち。灯りを照らしながらも、命に係わる舵取りには厳しく当たる必要がある。泣こうが喚こうが、西北西が正解ならその方位に導く道を敷いてあげなくてはならない。望むからと自由を与えることは、真の自由ではない。私は厳しさの中に譲れない、いや譲ってはいけない誇りをもつべきだと考える。子どもたちに価値を与えられる立場は誰なのか。大人たちが誇りを失った時、子どもは何を頼りに進んでいけばいいのか。こんな小さな教室の世界にさえも、今の社会のズレが集約されているような気がしてならない。
2006.03.22
私の塾は生徒を選ばない。 塾の都合で能力に基準を敷き、入塾テストやらで生徒を選別し、揚げ句にラインに届かない者を切るというやり方を近くの塾ではやっている。大したもんだ。優秀な生徒には併願を強要し、一人で何校という実績がそのまま塾の実績として広告の活字に踊る。一方ラインぎりぎりの生徒は経営を支えるお客さんとして貴重な財力源となる。生徒の大半はこの範疇だ。ほんの数名の広告塔とそれを支える絶対多数の生徒たち。能力でクラスは分けられ、保護者には常に危機感が与えられ、上のクラスに昇るためにという名目で様々な追加履修が用意されている。当初チラシに書かれていた学費とのギャップに愕然とし、やがてうちのような個別へ流れてくる。解らないままどんどん進んでいき宿題が追いつかない、やる気がなくなってきた、何とかしてくれと。 宿題を大量に出すのは、成績が伸びない時の逃げ口を敷いているに過ぎない。そういう塾は決まってこう言う。お宅のお子さんは宿題をしっかりやってこないですからねえ、やってくる子との差は出るでしょう。さあ困った。宿題をやろうにも解らないから進まない。やがて堂々巡りでどつぼにはまる時が来る。授業は上の空、テストの点は上がらず、塾に行った気になって日々を消化していく。もちろん上のクラスに上がれるわけもなく、週回数や教科数、講習会のコマ数だけが増えていく。親は言う。あんたがしっかりやらないからだと。やがて幻想が現実になる時、転塾の兆しが家庭に流れ始める。チラシを集める親の傍らで、当の本人は何処でもいいよと冷めた表情だ。一体、何をやっているのか。親も子も、この塾も。 塾が方針に沿って生徒を選ぶのは自由だ。だがそれは明確なシステムと目的と計画があり、それらを手順を含めて公表した上で、消化できないという具体的な理由説明がなければならない。システムを買う買わない、軌道に乗る乗らないは生徒側の判断。ほんの1時間足らずの入塾テストで、あるいは面接だけで、その子の1年後が判ったら大したもんだ。現在のその子の姿を、学力を、生活背景を、過去をすべて受け入れ、どうすれば伸びるかを真剣に考え、何よりもまず指導実践し、励まし育成していこうとするのが塾ではないのか。指導を試みないで何が判る。 ピラミッドの底辺にいる多数の生徒たちは、みな勉強の方法を知りたがっている。親に反抗する子供も、テストを5分で終えて寝ている子供も、ツッパって問題を起こす子供たちでさえも、本音を訊けばみな知りたいという。その智慧と手順をコーチングできるのは誰なのか。私が生徒を選ばないというのは、生徒個人の持つ可能性を高めたいからに他ならない。ゼロならまず1にする。偏差値40を45にしてくれという親。底辺の苦しみを受け入れ、方法をひも解いてやることも大切な仕事と捉えている。それは私の中では、60を65にしてくれということと同じ基準だ。 入塾テストの結果を下方修正し、後に塾内テストであたかも伸びたかのように誇張する。そんな塾があると聞く。馬鹿げた戦略だが、それを真に受けてしまう親子もいる。危機感は生徒本人が持つのはいいが、親が過剰に持ってはだめだ。中1以上であれば、親は冷静に分析し、尻を押すサポートに徹すればいい。親が前に出るケースの時は子が伸びない。正面に座りまくしたてる親。尻込みするか、他人事のような死んだ表情の子供。入塾時の面談で思うことだ。 世の中に塾は無数あるが、本当に個に対応できる神のような塾がいくつある。みんな似たり寄ったりではないか。サービス合戦は飽和を迎え、売り文句も陳腐そのもの。「できる」「わかる」で本当にできるようになったら、とっくに生徒で溢れている。上位校100名合格。そりゃそうだろう、校舎が100近くあり、一人でいくつも受かってるのだから。塾の質を問う時、普通と秀逸の境界は生徒ごとの伸び率に集約される。そこを見抜き、わが子をどのシステムに乗せるか慎重に考えない限り、失敗は繰り返される。「この子には大勢のクラスは合ってなかったみたい」と軽く言う親。何度も見た、親身な指導というものを知らない疲れた子供たち。笑顔を与えてあげたい。 だが傷は絶えない。
2006.03.20
3月も後半に入り、いよいよ新学年を迎える時期。教室の生徒たちも卒業と入学による入れ替わりが進み、徐々に新年度体制ができつつある。小学6年生の塾生も春からは制服を着た中学生だ。桜咲くこの季節、新しい顔ぶれと共に新たな息吹が芽生え、教室には新鮮な期待の光があふれている。 高校受験の卒生たちはみな希望する高校へ進み、新たな一歩を始めることとなった。全員志望校への進学おめでとう。合格を目指し共に歩んできた者にとって、皆の笑顔は何よりの喜びだった。高校では未知のことに挑み、視野を広く持ち、試練に耐えうる強さを培ってほしい。義務教育が終わり、今こそ自らが本物の主役を演じるべき時。自分にとって大切なものを見つけ、本当に大切に大切にしっかりとこだわり続けてほしい。10年後、20年後に、その意味がきっと解る時が来るだろう。 さあ新年度。今年は色々なことに挑戦してみたい。まず春先に室内を改装する。そして教務力を高め、指導システムを強化する。面を食らうのは慣れた講師かも知れないが、教室のハードもソフトも大きく改善することにした。以前に進化という言葉を使ったが、まさにその形容に相応しい「かたち」の第一工程を完成させたい。 私はいつも半期ごとに机の配置を替えるようにしている。気分転換のために自分の部屋の配置替えをし、学習効率が上がることがあると思うが、塾も同じだと思っている。常に新しい風景を求めたい。刺激と期待に満ちた教室には生徒に足を運ばせる力がある。今回は大幅に動かし、動線も根本から替える予定だ。また新たに生徒のためのコーナースペースを設ける。塾らしくない塾への実験、その第一歩である。 地元では15日に中学の卒業式が終わり、22~23日に小学校の卒業式が行われる。うちは大手進学塾ではないので広告も余りまけないが、子供たちにかける情熱には負けない自信がある。みな進学し、生徒の入れ替わるこの季節、ぜひ教室を覗きに来て欲しい。そして一人でも多くの仲間が係わりながら、みんなで扉の中に生まれる新しい世界を創っていきたい。 夢物語になるか。その布石をまず私が敷こう。
2006.03.18
公立高校後期受験組の発表が7日にありましたが、現在のところ全員から合格の知らせが届いております(一人だけ不明)。みんなこの日のために頑張ってきたわけで、とにかく第一志望校合格おめでとう。みんなで慰労会やるから集まれよ。笑顔の報告、塾長も嬉しかったぞ。 以上、とりあえず結果報告のみです。 後日詳しくお知らせいたします。
2006.03.10
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