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もうこの内容に触れるのはやめようと思っていたが、余りにもユニークなニュースが飛び込んできたので書いてしまおう。 高校の履修漏れは、公立から私立へ矛先が向けられている。 私立は単位に対する意識が高いのか、履修漏れというよりも「これをやれば、やったことにしよう」という工作の匂いが強く感じられる。 まだ相当数が隠蔽されているだろうが、知っていて形だけ整えているのならば、いわば確信犯だ。 今日のニュースは、埼玉のS高校。まじま先生のお膝元の進学校。 何と、「オーストラリアへの修学旅行参加で、必修の世界史Bを履修済みとしていた」というものだ。 ここまでやるかと、思わず笑ってしまった。 理系の3年生、111人が、昨年夏に「海外研修旅行」として豪州へ7日間行ったそうだが、それにより3単位が認定されたという。 時間割上の世界史の時間は、数学や英語にあてがっていたというから、完全な確信犯だ。 校長曰く。 「キャプテン・クックなどについても学び、現地で国際交流もした」 この人、一体何を考えてんの。 じゃあ、京都に修学旅行に行った高校は、日本史が履修済みになるのか? 海外の現地で会話をすれば、オーラルは履修済みになるのか? 大笑いである。 県教委から 「無理がある」 と指摘を受け、現在補習の対策の追われているらしい。 そりゃそうだ。大無理だろう。 しかも、こんなこと2年もやっていたというから驚きだ。 言われる前に気がつけよな。 教員もさ、生徒もさ。
2006.10.31
29日(日)は漢字検定の日。 準会場として初めての実施だ。 さあ、どこまで努力の成果が出るだろうか。 頭を抱えていた生徒もいたが、漢字ほど日頃の取り組みがものを言うものはない。 紙面を見て、自分が受けた頃を思い出した。
2006.10.30
先日の『ちびくろさんぼ』の模範解答なるものが手に入った。 多くの方にご意見を頂いたので、この場で結果をお伝えしたい。 (1) 次の資料からは、日本国憲法がかかげる 「法の下の平等」 が実現されていないことがわかる。資料から社会に存在するどのような差別が読み取れるか、答えよ。 資料=絵本『ちびくろさんぼ』の表紙の写真 この問いの何が問題なのかは、前の記事を参照していただきたい。 そして模範解答は恐らく 「外国人差別」 あたりだろうと予想していた。 しかし、答えは、 「人種差別」(黒人差別も可) ・・・・・? 法の下の平等とは、日本国憲法によって国民の平等を保障したもの。 資料のどこが、《憲法による日本国民の保障》が守られていないというのか? これって憲法の話ですよね。 黒人差別? 噴飯ものである。 貴重な時間を割いて頂いた皆さんに対し、このような結論で申し訳なく思う。 こんな捉え方で採点し、成績を付けているのが現状なのだ。 考えてしまう。
2006.10.29
教室の向かいの塾が慌しくなってきた。 今月初めに撤退の話を書いた、あの塾だ。 ここ数日、授業をしている様子もなく、資材の整理と運搬に明け暮れている。 ここ3週間で問い合わせが4件ほどあったが、先方の在塾生かも知れない。 今のところ面談もなければ、体験もない。 ちょうど、中間試験の結果をにらみ、各塾で生徒の動きが活発になる頃だ。 日々、動きを注視している。 午後の漢検対策。 いつも意欲のある中1生たち。 真剣に解く表情に、学びの原点を見たような気がした。 その財産を崩すことなく、大切に守り続けて欲しい。 私が与えられるものは何でも与えよう。 これから必ず訪れるであろう試練。 その向こうには、温かい素敵なゴールが待っている。 みんなで合格しような。 明日は本番だ。 土曜の公民補習は、結局7名で行った。 やる気がある者だけでよい。 受け身にならず、しっかり着いて来い。 今日やった、「小選挙区制」「内閣不信任案決議」・・・ みな、他の中学ではとっくに終わっている内容だ。 いい意味で焦り、追いつき、力を蓄えようではないか。 翌日に漢検受検を予定している仲間たち。 遅くまでよく頑張ったな。 君たちは今夜、一つ可能性を拾い集めた。 足場をよく見て。 自信を持って。 前期まであと100日を切った・・・・
2006.10.29
1題目 本日付で退塾となる中2の生徒がいた。 色々あったが、学び方や学習姿勢をもう一度見直したいという申し出があったのが先月。 私も何度か授業をし、夏の特講も担当した。 8月半ばの記事で、泣きそうになりながらも達成し笑顔を見せてくれたあの子だ。 あの夜の笑顔、ものすごく素敵だった。 そして今日が彼女の最後の授業。 終了後、ひとこと声を掛けようと思ったが、すでにいなかった。 1年以上ここで一緒にやってきて、挨拶もなし。 そんなもんかなあ。2題目 中学の中間テストの結果が出揃ってきたので、生徒に得点記入用紙を配る。 まだ集計は取れないが、全体的に中位クラスの伸びが目立つ。 点をスラスラ書く者がいれば、書き渋る者もいた。 提出された用紙を見ると、いつものように空欄がある。 例によって点数を忘れたのだ。 これも以前記事にしたが、何とも情けない話だ。 必死になって受けたテストの点数を覚えていない。 一体、何を考えているのか。 何しにここに来ているのか。 こういう生徒はいつも常連中の常連。 前回注意したのに、またしても。 そんなもんかなあ。3題目 T西中の社会科のテストは散々取り上げたが、今度は理科だ。 今回の3年の中間テスト、平均点がもの凄く悪い。 それもそのはず、なんと全部入試問題のコピーなのだ。 調べてみたら、3年前の他県の公立の問題をあちこちから集め、図も設問もそのまま転記している。 しかも「運動とエネルギー」なので、難問ぞろい。 電話帳は以前から一部で使われていることも知っていたが、今回は大問全部、100%。 とんでもない手抜きである。 それでもって、「平均点低いねー」とか言ってるらしい。 後日また斬る予定。 あのネー、教えていない応用も出てるよ。 学校の先生って、もっと自分にこだわるものだと思っていた。 テスト問題って、師としての自己表現なんじゃないの? そんなもんかなあ。4題目 中3公民の授業進度が余りにも遅いため、塾で土曜補習を始めることになった。 模試に、いつも習っていない部分が出るようでは困る。 学校の進度など、もうどうでもいい。塾がペースメーカーになる。 入試に向けてどんどん履修を進め、年内の完成を目指す。 そして、明日(今日)がその第一回目に当たる。 生徒たちには、事前に申し出るようにとボードに書いた。 以前、プリントも配った。保護者会でも触れた。 そうしたところ、申し出てきたのはたったの4名。 希望制にしたのが間違いか。 お前ら自力で出来るんだな。よく分かったよ。 後で泣くなよな。 よし、集まった有志にだけ、私の粋を与えよう。 うーん、それにしても4名か。 そんなもんかなあ。
2006.10.28
高校の履修漏れが、全国規模で泥沼化してきている。 この事件、どうやら他人事ではなくなってきたようだ。 昨日付けで、とうとう息子の高校名もリストに加わったのだ。 コースによる小さな漏れらしいが、生徒全体に与える影響は大きい。 息子は現在2年生。来年の卒業年の選択教科に大きな負担が出ることは否めない。 受験に不要な必修教科も加わるのだろうか。しかもコース決定後の3年生で。 埼玉の公立高校については、全学校から問題ないという確認を取ったらしい。 詳細は今後の調査待ちのようだ。 上の息子は公立だが、この冬受験だ。 本年のみ特例などとして、受験制度の変化がないことを願う。 当初、必修の世界史だけだった今回の事件。 次々にボロが出て、今日までで全国約300校、4万数千人の履修漏れが発覚している。 盛岡の高校では、世界史B・家庭基礎・情報A・芸術の計10単位、350時間の不足が明るみになった。 世界史は4単位なので、なんと70時間。 他にも理科総合・公民分野と教科も多岐にわたり、さらに500人を超える全生徒が未履修という高校まで出てくるなど、収拾がつかなくなってきている。 伊吹文科相は、「授業を受けた生徒との間に不公平が生じないよう、決められた時間の授業は行うべきだ」とし、3月末までに消化できればいいと言う。 さらに、卒業式の日程の調整にまで言及している。 国は強気のようだが、実際現場で数百時間の消化ができると、本気で思っているのだろうか。 毎日時間数を増やし、土日や冬期休暇も返上し授業をこなせば、時間的には間に合うだろう。 だがこれは自習ではなく、授業である。 現場に専門を教えられる教諭が、どれだけの数いるというのか。 仮に、ある高校の世界史を教えられる教諭が2名しかいなかったら、交代で、しかも全クラス回るスケジュールを考えてみて欲しい。 音楽などの芸術教科は担当が一人の場合も多く、もっと悲惨だろう。 不可能である。 それとも体育館などに集めて一気にやろうと言うのだろうか。 国と教育委員会の決定内容によっては、次に現場からクレームが出て来ることは必至。 生徒たちも黙っていないはず。 昨年までの卒生の単位はどうなのだ。履修漏れが山のようにあるのではないのか? 今の浪人生たちの調査書はどうなるのだ。未履修を履修済みとして単位を与えていたのなら、文書偽造ではないか。今年もそれを使うのか? 生徒たちの受験の前に不安を煽り、さらに時間を奪い、一体何をやっているのか。 生徒たちの望むカリキュラムを優先したとはいえ、結局この始末。 センターまであと何日? 情けないの一言だ。
2006.10.27
70点を取ったよ 君は心底悔しがり、親も落胆する。 君はまあまあと思うが、親は残念がる。 君は少し後悔するが、親はそこそこ納得している。 君はこんなもんだろうと納得するが、親は無言のまま。 君は最高の笑みを浮かべ、親も努力を称えてくれる。 君は反省しきりだが、親はいつものままだ。 君は少し嬉しいが、親は認めてくれない。 君は落胆に沈み、親はそっと励ましてくれる。 君は自分を誉めるが、親の表情は厳しい。 君は成功に有頂天だが、親は無関心だ。 君は敗因を懸命に探すが、親の言葉は冷たい。 君はひどく憔悴し、親はやたら気を使っている。 君は跳びはねて喜び、親の態度も温かい。 君はあっけらかんだが、親は妙によそよそしい。 君は大泣きだが、親は何も語らない。 君はどうでもいいと思うが、親はとてもこだわっている。 君は怒られると怯えるが、親は頑張ったねと言ってくれる。 君は実力だと思うが、親は実力はもっとあると言う。 君は空元気で、親も深くは語ろうとしない。 君は努力を認めて欲しいが、親は小言だらけだ。 君は・・・・・ 親は・・・・・ 芽に水をあげるか それとも 芽を摘んでしまうか ほんの些細な態度に たった一言の価値に 気付く親がいれば 気付かない親もいる・・・・ 今日もまた そして明日も 可能性の命はうごめいている
2006.10.26
T西中の3年社会科の試験問題が手元にある。 月曜に行われた中間テストだが、果たして内容はどうだろう。 範囲は基本的人権の新しい人権までと、途轍もなく遅いが、じっくり見させてもらったところ、なかなかよく出来た問題が揃っているというのが率直な感想だ。 社会のテストはよく「用語知識」があれば解ける問題が多いが、この先生、何のこだわりか、考えさせたり文で書かせたりする問題を程よく散りばめている。 1学期もそうだった。 当然、生徒には不評だが、私から見て、内容は悪くないと思った。 この力量を何故進度に発揮できないのか、その点が残念だが。 憲法の条文の穴埋めなども、例えば25条は、 「すべて国民は、( )で( )な最低限度の生活を営む権利を有する」のような、単語補充ではなく、 「すべて国民は、( )の生活を営む権利を有する」と、大胆に文で括っており、このこだわりの感覚が好きである。 さて、これらの問題の中で一つだけ納得のいかない部分があった。 タイトルにも書いた、『ちびくろさんぼ』の出てくる問いである。 (2) 次の資料からは、日本国憲法がかかげる 「法の下の平等」 が実現されていないことがわかる。資料から社会に存在するどのような差別が読み取れるか、答えよ。 これが原文通りの設問であるが、資料として、絵本『ちびくろさんぼ』の表紙が印刷されている。 私は初め「外国人差別」であろうと思ったが、よく見てみると「法の下の平等が実現されていない」とある。 法の下の平等? 要するに日本国憲法の文言に反しているということだ。 「法の下の平等」とは、平たく言えば、法の傘下では誰もが平等であり、差別をせずに個人を尊重すべきだということ。 そしてそれは憲法によって保障されており、憲法に照らし合わせることで、国としての共生社会を作っていくことでもある。 いわゆる平等権で習う差別の種類は限られている。 教科書に登場するのは次の5つ。 「アイヌ民族差別」 「部落差別」 「障害者差別」 「男女差別」 「在日韓国・朝鮮人差別」。 最後のものを「外国人」と括ることも出来るが、憲法を適応するわけで、在日であることが条件になってくる。 主題になっている憲法第14条はこう謳っている。 「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」 主述関係をよく見ると、「国民は・・・・差別されない」となっている。 「人種差別」や「民族差別」は現代社会の問題点ではあるが、わが国に定住していない外国人には、「法の下の平等」は保障されていないということになろう。 『ちびくろさんぼ』は人種差別であるとして、絵本は絶版になり書店や図書館から消えた。 その経緯は、表記やストーリーに偏見があるとする海外の流れを受けたものであり、憲法違反が原因ではなかった。 かつての「タカラ」や「カルピス」のキャラクターもそうだが、黒人偏見を規制する動きの中での顛末である。 これらを考えてみても、今回の問題の、「法の下の平等が実現されていない」という部分は、資料との不整合がどうしても否めない。 日本国憲法は国民に対して第14条を保障している。 敢えて法に背いているとするならば、これは出版上の表現、いわゆる「言葉狩り」ではないか。 公共の福祉による自由権(表現の自由)の制限である。 これは憲法とはまったく別のもので、人権侵害に基づく法的規制の一種である。 重い内容で恐縮だが、大事な部分なのでこだわっている。 この先生の解答は想像するに「在日外国人差別」で終わりだろうが、もしそうするなら、資料にはもっと違う「生活写真」なり「文」なりがあっただろうと思う。 絵本の表紙を飾り、タイトルだけで判断せよというのだろうか。 出版物には、表紙のワンショットでは読みきれない様々な背景があり、展開があり、裏があるもの。 「法の下の平等が実現されていない→差別を読み取る」という作業に、『ちびくろさんぼ』を引き出すのが適切かどうか。 社会やこのテーマに詳しいブログ上の諸先生に、ぜひ意見を訊いてみたい。 時間がありましたら是非コメントお願いします。
2006.10.26
街を秋の空気が被いはじめ、教室の周辺も枯葉で溢れている。 教室の前の通りは「けやき通り」と言い、南北に約4キロ、欅(けやき)の街路樹が続いている。 毎年この季節になると落葉し始め、12月頃には枯れ木に、そして春になると芽を吹き、夏には力強い繁みを湛える。 この生命力の強さにはいつも驚かされる。 我々のように子供たちを育てる仕事をしていると、この無言の営みは心に大きな感慨と励みを与えてくれる。 繰り返される生命。 初夏には若葉が揺れ、夏には蝉が奏で、鳥が巣を作り、いつも温かい表情を忘れない。 それは、ちょうど子供たちの心が揺れ動き、様々な表情で教室を彩っていく姿に似ている。 子供たちは1年を通じ、欅とともに育ち、やがって巣立っていく。 その頃、裏通りでは桜が満開だろう。 互いに呼応するように、街にメッセージを添えてくれる街路樹たち。 太い根はアスファルトを持ち上げ、落ち着いた幹は無言で天を突き刺す。 今日も舞う枯葉の山は何のメッセージか。 やがて木枯らしに舞い、教室のドアを叩く冬が来る。 大木はそんな時も、行き交う子供たちの営みを、言葉を、見つめているだろう。 私は思う。 葉が散り枝だけになっても、じっと待ち続ける姿。 それはきっと、春を迎えるために頑張っている、1年で最も充実した時なのだろう。 子供たちよ、負けるなよ。 目の前の大木を見上げてごらん。 枝葉の隙間に、君が忘れかけていた言葉が見えないかい。 教室にある観葉の枯れ木にも、秋の彩りを添えた。 季節は秋。 欅に負けず、羽ばたくことを誓う。 忘れかけていた言葉・・・・きっとあるよ。
2006.10.25
予想外で 素晴らしい! ちなみに私は違います・・・
2006.10.24
テスト対策などでは、その場で質問の時間を設ける。 もちろん個別の質問も受けるが、私はよくこのようにみんなの前で質問を発散させることがある。 テーマや視点を全員で共有したいということもあるが、むしろ質問は恥ではないということを各自に認識させることが目的だ。 こういう時間を何度も繰り返していると、生徒たちの学習へのこだわりが見えてくる。 基本的な内容が分からないと恥ずかしそうに訊いてくる者がいれば、一方でかなり高度な理由説明を求めてくる者もいる。 私としてもアドリブになるので、真剣だ。 一つ一つに真剣に耳を傾ける生徒は、総じて成績がいい。 逆に、他者の質問だからと軽視し、よく聴いていない生徒は、成績が芳しくない。 名指ししても質問が出ないと、よく逆質問をすることがある。 以前、一人も質問してこないので、「じゃあこっちから質問するぞ」と振ったことがある。 みんな一様に下を向いて、指されないことを願っている。 まるで学校の授業風景だ。 その顔色や様子を見れば、誰が理解していないかぐらい分かる。 その時は結局全員に質問したが、答えられたのは3人だけだった。 何をやっているのか。 残りのメンバーには居残りを命じた。 一度だけ、生徒同士で質問させたこともあった。 質問の返答は指名された者が行い、相手が答えられなかったらスルーとした。 次の質問はその指名された者が行い、次々と回していく。 10数名やって、なんと全敗。最後に優秀な2名だけが残った。 この2人は凄かった。 難問を出し合っているにも係わらず、互いに4問正解を重ね、譲らない。 結局私が引き分けを告げたが、解答の度にどよめきが起こったものだ。 あまり実利がないので、それ以降やっていないが。 よく聴いていない生徒は成績が悪いと言ったが、信じられないのはこんなケースだ。 ある生徒の質問に私が答え、詳しい解説をした後のこと。 「他に質問ないか」と私が訊くと、前の生徒とまったく同じ質問をしてくるヤツがいることだ。 「今、説明しただろ」 「えっ、そうですか?・・・すいません」 「おまえ、全然聴いてないだろ」 「いえ・・・・・」 「この板書はなんだ」 「あ・・・・」 こんな感じだが、聴いていなければ機会損失なのだということに気付いていない。 質問は恥ではない。どんどんすべきである。 たとえ30あっても一向に構わない。 もちろん教科書を見れば分かるような質問は愚だ。 ひと通り自分で学び上げ、そこから出てきた疑問を投げかける。 逆質問でモジモジうつむくのなら、先に自分から穴を埋めればいい。 その姿勢は結果に対してプラスはもたらしても、マイナスであることはない。 またやるぞ。
2006.10.24
必要最低限なことだけを行うということは、ある意味素晴らしい方法論だ。 不要なものを排除していくと、大切なものが見えてくる。 それは生活の節々に使える考え方だが、こと「学び」に対してはどうだろうか。 「学び」にその姿勢を取り入れると、目先の学習にだけ終始し、応用や深みが得られなくなる。 指示された、「しなくてはいけないこと」だけ処理する。 それ以外は余計なものとして括られ、逃避が始まる。 その線引きには個人差があるだろう。 自分で本当に不要と判断したものなのか、あるいは評価対象外だからなのか。 私が危険と思うのは、後者の場合だ。 評価対象外をやる暇があったら、評価される部分を入念にやる。 これは誰もが考えること。別に悪くはない。 問題なのは、そういった行為が習慣化すると、拾い忘れた空白がどんどん生じ、修正できなくなるという点である。 価値を自分で判断し取捨する分にはいいが、他者の流れに乗って安心していると、とんでもない方向に迷ってしまうこともある。 そして、もう一つ問題がある。 「指示されていないものには、する価値があるのか」という疑問に、「ある」という仕組みが作られていないということだ。 そういうシステムに、社会が、教育が流されてしまっている。 昨日の日記に「しょうがない」というコメントを頂いたが、正にその通りだろう。 でも教育の現場を考えてみれば、全国一律の教材で同一の授業を進めているわけではない。 進度も、教師の提示するプリントも、重点もみんな違う。 しかし、都道府県や地域で見れば、入試というものがあり、ここでは一律の問題を解かなくてはならない。 学校の成績と入試の結果には微妙なズレがある。 それは、私は本人の「攻め」の姿勢の差であろうと思っている。 守りに入った者と、攻めを重ねて課題を征服した者とでは、当然、底力に開きが出る。 与えられたものだけと言う者に限って、実際にはそれすら入念にやっていない者を何人も見てきた。 守りを信条とするのなら、せめてしっかり守れと言いたい。 守備が固まれば、自然と攻めに視点が転じていくものではないか。 学校で《まとめる》という課題が出される。 テストで《短文の記述》が出題される。 その教科の授業で文章指導をしていなくても、そういう課題や問題は必ず出る。 どう評価するのだろう。 文の書き方は国語担当の仕事? そんなわけがない。 評価基準が曖昧なうえ、結局オールラウンドの力を持つ者が認められる仕組みになっている。 ならば紙面を埋められるように、知識を蓄えるしかない。 応用が効くように、守備範囲を広げ、練習するしかない。 ひねりに対応できる生徒は、常に攻めている生徒だ。 攻めの経験を重ねると、自信と思いっきりが自然と身に付いていく。 だから、間違えてもいいからとにかく書こうとする。 成功はそういう行為の反復を経て、ジワーっと訪れてくるもの。 私の経験ではそういう生徒が多かった。 表面のみの学びに流れていく。 その原因が「絶対評価」「ゆとり教育」にあると言う識者もいるが、果たしてそうだろうか。 教科書も薄くなり、発展内容も部分削除され、確かに学ぶ量は減った。 でもそれが今の教育であり、生徒はその中で頑張っている。 絶対評価は「生徒対教師」の1対1の構図であり、教師の裁量で評価はどうにでも転ぶ。 基準の曖昧さは否めないが、実際現場ではかなり「相対評価」に近い付け方をしていると聞く。 Aさん、Bくん、Cさんを比較して、Aさんが4ならBくんも4、Cさんは3というように。 他者との比較がなければ、評定はもの凄いことになるだろう。 だが、クラスの半数が5だったり1だったりというケースは聞いたことがない。 そうなれば調査が入るのだろうが。 生徒が表面のみの学びで妥協してしまうのは、テストの得点が絶対だからだ。 点を取れば頭がいいという構図がある限り、みんなそこを照準に守りに入る。 塾はその後押しをし、点を取らせるのが使命だ。 だが塾は一方で受験という、もうひとつの大きな使命を抱えている。 第一ステージをクリアしても、最終ステージをクリアできなければ意味がない。 その意味で外せない部分は提示を続けていく。 経験とデータから必要と思われる密度の高いものを与えていく。 これも塾人の裁量である。 こちらが与えるものを必要とするかしないかは、生徒本人の選択の問題。 その選択眼はやはり信頼関係のうえに成り立ち、一つ一つ攻めるという行為に繋がっていくのだろうと思う。 知識のシャワーを浴びることは、素晴らしい可能性を拾えるチャンスでもある。 手元の結果を出しながら、時おり発展して攻めていくことも構想してみよう。 応用が効く実感は、やがて社会に出て行く時に、無限の広がりを見せてくれる。 それは自力で得た財産でもある。
2006.10.23
学びにおける「攻め」の姿勢が失われている。 と同時に、思考力の低下や、言葉の貧弱さもかなり深刻である。 子供たちの攻めの姿勢が崩れ始めたのはいつからなのだろう。 指導していると、幾度となくその疑問を感じる。 学校で習っていないことに触れると、「まだ習ってませんよ」 発展内容を説明すると、「学校で教わってません、教科書にあるんですか」 ここは重要だぞと言うと、「テストに出るんですか」 さらにまず出るだろうと付け加えれば、「ホントですね、もし出なかったらどうします」 と来る。 「出るかどうかだと? そんなの知るかよ。テストは俺が作るんじゃねえだろ。まだ習ってない? だから今習ってんだろうが。大事だからやってんだよ。お前はテストのために勉強してんのか? 学校でやんなきゃ、そのまま何にもしないのか」 というのが本音だ。 学校の授業時間が減り、細部にまで触れられない。 生徒もそれが慣れになり、教師の触れた部分だけ押さえればいいという考えを持つ。 要は、テストさえクリアできればいい。 凌げればいい。 テストに出ないものは、たとえ大事なものであっても学ぼうとはしない。 面倒くさいのだろう。 勉強が好きでもなければ、余計なことをするのもかったるいのだろう。 本来学習というものは、「自己の学び」が主体であり、指導されたことや得たものを自分で嚥下し、発展加工させて蓄積していくものである。 それは一種の情報収集であり、自ら必要なものを探し、知恵の根幹を構築していくという性質もあわせ持っている。 与えられたもので済めば苦労しない。 この「攻め」をわすれた「守り」の姿勢は、長期で展望すると非常に危険だ。 自分で探し、考え、自分なりの《形》を生産していくという行為から遠ざかると、「まとめ上げる」ということが出来なくなる。 課題が与えられた時に、紙面を埋める言葉が見つからない。 すぐ他者を頼り、相談を始める。 学校の宿題なども、評定に係わる部分はせざるを得ない。 この内容で記述のテストを行うと言われれば、やるしかない。 さあ、 与えられたものをただ受け身で消化していた者は、まとめる術を知らない。 そして揚げ句に、「どう書けばいいですか」と丸投げしてくるようになる。 「こう書いたんですが、どうでしょうか」ではなく、どうすれば○をもらえるか、結論だけ記せば終わりという感覚だ。 何とも短絡的であるが、こういう生徒は結構いるものだ。 どうすればいいか。 どうすべきか。 その部分を、事例に触れながら、また書きたいと思う。
2006.10.22
今日も生徒たちが集まり、教室の空気を創っていく。 何の拘束もなく開かれたこの箱に、みんなそっと足を運んでくる。 辛いことがあっても、怪我をしても、足を引きずりやってくる。 荷物を肩に手に、様々な表情で物語を探しにやってくる。 この週末も、金土の2日で都合86名の仲間が教室を彩った。 86足のスリッパと、86席の椅子。 そして86の言葉たち。 重複しているメンバーもいるが、みんながここに来てくれる歓びが日増しに強まる。 「ありがとうな・・・みんな頑張れよ」 土曜のテスト対策が終わった、夜中の薄暗い教室。 ガランとした空間にみんなの陰を辿り、 独りそっと呟いていた。 乱れた机と消しゴムのカス、ごみの山、忘れ物、散乱したスリッパ。 台風の後のようないつもの風景が、今日は妙にいとおしかった。 最後まで向き合った16名の中3の仲間たち。 塾長一人だけになった教室に、明るい笑顔を添えてくれた君たち。 全員、忘れないよ。 そうだね、焼肉食べような・・・・みんなで打ち上げしような。 君たちの成功を願う。 いつまでも。
2006.10.22
どうすれば試験でいい点が取れるか 色々な場面で考えてみるといい 一流シェフは なぜ料理が上手いのか ダンサーは なぜ身のこなしにキレがあるのか 大工の棟梁は なぜいとも簡単に道具を扱えるのか 司会者は なぜあんなに早くしゃべれるのか クイズ王は なぜあんなに色々なことを知っているのか 羽生は なぜタイトルを失わずにトップに居続けられるのか プロの書家の作品は なぜいつも形がよく鮮やかなのか イチローは なぜ毎年200本も安打を打てるのか 咄家は なぜいつも流暢に語ることができるのか プロボウラーは なぜあんなにストライクが続くのか みんな何故お前より優れているのか それは 練習を積んだからだ 簡単なことなのだ 成績を上げたいのなら 試験で高い得点を取りたいのなら 矛先をしっかりそこに向け まず足場を固めなさい そして到達点を目指し 練習しなさい 迷い考える前に 日々足跡を刻んでいきなさい 訓練は熟練を生み やがて血肉になるだろう 何のことはないのだ 試験の点など 己の在りかたでどうにでも転がる 人生に於ける 途轍もなくささいな一章 お前はそんなちっぽけなものすら掴めない そんなものすら越えられないのか 越えてみろよ 今夜お前は どんな努力を残した 昨日の足跡は 頭の中のどこにどうしまってある 目の前の課題にどこまで自分を委ねることができるか 練習し努力を重ねていくと 幾つもの岐路が現れるが 道に迷ったらどうしようではなく 道に迷っても突き進むのだ 今日と闘い そして今やり遂げるのだ 道標に頼ってばかりいるな 地図に頼って行動を鈍らせるな がむしゃらに 前に進んでいけばいい そんな熱い時を 自ら演じていけばいいのだ じっと手のひらを見詰めてみなさい さあ その手で何を掴めばいい 逃げ惑い 敗者になるか 涙と限界に挑み 勝者の資格を勝ち取るか 試験で点を取るためにはどうすればいいか もう一度言おう 今この時を逃げずに 辛くても練習を重ねること 目標を見定め 突き進むこと 執念と限界の淵で 繰り返しながら得た知識の量は お前の武器となり財産となり 大きな可能性を約束するに違いない すべて お前しだいだ
2006.10.21
またまた《T西中の社会科の先生》の続報。 相変わらずマイペースの授業が行われているそうで、もう、何て言うか素晴らしい。 週明けの月曜が中間テストなのだが、既報のように果たしてこのペースで終わるのかという疑問があった。 そこで、17日の日記で 「今週中にテスト範囲すら終わるのかという心配が出てきた」 と書いた。 が・・・・・・みごと的中。 終わりませ~~ん。 先生曰く、「あとは、よく読んでおくように」 何ですかこれ? 一体何考えてんの? 終わらなかったところは、人権保障・新しい人権・国際社会の部分。 ここでは「参政権」「請願権」「公共の福祉」「国民の3大義務」「環境権」「知る権利」「プライバシーの権利」「自己決定権」「世界人権宣言」「臓器移植」などを習う。 現代社会を理解するうえで、絶対に外せない重要な内容ばかりだ。 日照権、個人情報保護法、表現の自由、ドナーカードという発展テーマを習い、理解を深めるべき部分でもある。 それをどうして・・・・ すでに問題は作成済みなので、範囲の修正ができないのだろうが、お粗末すぎるぞ先生。 私が教師なら、最後の2回ぐらいで必死に範囲までは触れようとする。 自分で範囲を告知したんじゃないの? だったら終わらせるのが義務じゃないの? 授業で履修したことの理解を試すのが定期テストなんじゃないの? 授業でやってないところで成績付けていいの? 2学期の成績って内申に絡んだ大事なものじゃないの? しかも生徒が先取り学習すると怒るとは何事なんだろう。 あんたの授業で終わらんから、みんな必死にやってるんじゃないのか? まさに 「知る権利」 「自己決定権」 だ。 今週ある生徒が、「授業進度が遅いのでは」と先生に告げたところ、この先生キレたらしい。 「俺は俺のペースでやる。文句言うんなら、もう何もせん!」 内容的にはこんな流れだが、この生徒かわいそうに、マークされてしまったらしい。 他塾に通う生徒らしいが、このように他の塾でも喧々囂々なのだろう。 これじゃ、当然だ。 いや、クレームを付けるのが健全だ。 何か、直前にプリントを配布したというが、どうも未履修部分の穴埋めのようだ。 よくやっておけと言っても、先生、習ってないから分かんないよー。 このブログをよく見ている塾生曰く。 「先生、今日のネタ決まりだね」 何とも生徒からリクエストまで出てしまう、この先生のつぼに入った凄さ。 超越した話にもはや脱帽である。 うーん、あと2日でどう対応しようか。 敵をちょっと侮りすぎたかも知れない。
2006.10.20
私はこのブログを、自身の意識の捌け口として綴っている。 思ったこと、感じたこと、伝えたいこと。 日々の体験や体感から、時として過去の出来事をひも解き、記憶を辿りながら、子供たちを中心に据えたメッセージとして記している。 そこに偽りはなく、誰に向けて書いているのかという、対象に対する意識も、具体的には設けていない。 今日あったことが事実であり、過去の経緯の総括が「今」であるならばそれも事実であり、別に気取ることもなく自分の波長で自然に記している。 書き始めた頃、私は自分の教室を 『サロンという名の教室』 にしたいと語った。 その思いは今でも強く、私が日々この仕事と係わる上で、イメージの根幹となっている。 私の言葉には常に子供たちの笑顔があり、苦悩がある。 現実の中で動き回る彼らの風景を追い、空気を探り、体温を感じてみる。 難しい行為だが、自らがその深みに嵌り、思考を重ねてみることがこの仕事の原点だと思っている。 戒めも叱責も、時に厳しい言葉も何度も書いたが、そんな時も意識下で常に子供たちの笑顔を描いていた。 学ぶということは大切なことであり、可能性を高める素晴らしいことなのだ。 やがて大人になり必要になる知恵を、我々が体験をもとに語ってあげる。 価値を説くことも、学びの方法を伝えることも、私にとってはすべてその流れの中にある。 物語を描くのは子供自身。 そのために出来ることを模索しながら、今の自分があるのだろう。 知恵を用意し、語り、笑い、そして心を開く作業。 地味ではあるが、私は「指導」という言葉よりも「教導」という言葉を大切にしたい。 ただ教えられて得た点ではなく、自ら踏み込んで獲得した点にこそ価値がある。 私が「攻めろ」と言うのは、早くその感覚を身に付けて欲しいからだ。 攻めて学び、得たものには、汗の匂いと力強いエネルギーが染み付いている。 その財産を分け与えてあげたい。 笑顔とともに。 ブログ上の表現は自由である。 その内容がどうであれ、ルールや道徳に反しない限り、本人が活字で塗り込んでいるものに優劣はない。 少なくとも私はそう思っている。 過去ログを開けば分かるが、私は私的な日々の生活は一切記していない。 殆どが教室や生徒、そしてその周辺の内容だ。 それは冒頭にも書いた、私のブログに向かう姿勢であり、こだわりでもある。 以前書いた、『太陽の下』の想いのように。 私は自分のスタンスで必要な言葉を探し、これからも思いを綴っていく。 毎日誰かが開いてくれる有り難味を感じながら、子供たちを軸に据えた絵を描いていくだろう。 それがどんなに泥臭いものであっても、 全国に向けたメッセージであり、私にとっての日々の誇りでもある。
2006.10.19
小学6年生の塾生たち みんな素直に生き生きと教室を彩ってくれる 12名の仲間たち いつも元気な笑い声と 真剣な姿勢を見せてくれる まだ遊びも試練も 涙する苦しみも知らない 湧き上がる感動も 本物の恋愛すらも知らない 11歳と12歳 君たちの成長を 私は教室の陰でずっと見てきた 3年生だったS君も もうすぐ中学生か 入ったばかりの頃 1年生の妹とよく喧嘩して怒られたな 何度も泣いていたよな その妹も今は4年生 二人ともあんなに小さかったのに 大きくなったもんだ うんと運動して 身体を鍛えるんだぞ そして強くなれ 受験の追い込みに入ったE君 おまえは少し抜けてるところがあるから 最後の詰めは慎重にやれよ でも 思ったことをどんどん話してくれるところは大好きだ その姿勢は伸びる才能を感じる 努力家だけに少しずつ結果は出ているぞ あと少しだ 2年間の集大成 これからが本番だぞ 一緒に入った 仲良しのTさん Fさん いつも快活に 教室を明るくしてくれる君たち 我がままか 自己主張か 最近特に元気がいいな 好きなことに没頭し 身の周りや生活に考えを巡らす年頃 勉強だけでなく 興味のあることに心底惚れ込んでみよう きっと 楽しい中学生活が待っているぞ いつも姿勢のいいK君 家でもしっかりやってるか 高い能力を持っているおまえのことだ 少しやれば理解できるだろう 授業中の眼の輝きを そのまま大切にして欲しい きっと素晴らしい未来が待っているだろう 先生にどんどん主張しろよ おまえの打ち込む姿は誇りだ 最近よく話してくれるM君 苦手な算数の方はどうだ テストも少しは良くなったか おまえは頑張り屋だから やる気になれば一気に花開く 今度英語も始めて 半年後が楽しみだな スポーツなら負けないおまえ 色々なことに本気でぶつかり 汗と涙を体験してみよう 何でも相談乗るぞ 週1回 英語だけのS君 妹と一緒に入ったが すぐに慣れて いつの間にか主のようだな おまえのいいところは 気兼ねなく話せること そして 爽やかに挨拶が出来ること でも 英語はいいが この間の模試の算数は何だ? 真剣になればすごい吸収力を持っている さあ頑張ろうや 友達と一緒に入ったEさん 友達が引っ越してやめた後も 意欲的に取り組んでるよな きみのすごさは 誰よりも明るく元気で 表情が豊かなこと あと 負けず嫌いで芯が座っていること 一緒にいて楽しいということは 素晴らしいことだ 中学でもきっと 友達がいっぱいできるだろう テストの追試 100点取った根性は素晴らしかったよ 入ってまだ日の浅いYさん S君 Tさん E君 みんなこの教室で 自由に自分を表現して欲しい 楽しいことも悲しく辛いことも みんなここに抱えて来なさい ここは君たちの広場 勉強だけではなく もっと大きな夢をみんなで分け合おう 先生たちはいつも君たちのそばにいるぞ 昨日締め切った北辰テスト 6年生から 5名の申し込みがあった 中学生ですら敬遠するテストに 君たちは前向きに取り組もうとしている 素晴らしい限りだ 期待しているぞ みんな もう少しでランドセルも卒業だな 想い出をいっぱい詰めて 立派な中学生になれよ 桜咲く頃の勇姿 春が楽しみだ
2006.10.18
T西中の社会科の先生は、相変わらずやってくれているようだ。 毎度のことだが、また書かせていただく。 この件に関しては殆ど裏ブログと化しており、申し訳なく思うが、生徒たちが口を揃えて文句を言っている以上書き続けるつもりだ。 中間の試験範囲は「憲法」の終わりまで。 この進度だけでも閉口するが、これだけ遅れてもまだ授業ペースは相変わらずだという。 今やっと、基本的人権や平等権をやっているらしいが、今週中にテスト範囲すら終わるのかという心配が出てきた。 周辺の他中学では、次の次の章、「財政」「社会保障」まで進んでいる。 進度の開きは教科書80ページ分だ。 この先生、授業中に記入形式のプリントを配ったそうだが、生徒が自主的にそれを埋めたら怒られたという。 先取り、と言うか、率先して試験範囲の学習をすることが何故いけないのか? いまやっていることを真剣にやれということなのだろうが、進度は一体どうなのさと言いたい。 私は生徒にどんどん先をやれと言っている。 今月初めの校内学力テスト(業者テスト)では、案の定習っていない公民の分野が出た。 「そこは答えなくていい。全部空欄のままで」と回って指示したそうだが、何ともお間抜けな話だ。 そんなことで正確な実力判定ができるのか。教科別の得点配分も変わってしまうだろうに。 最近はこの教科書はダメだと放り投げているらしいが、本当ならちょっと問題だ。 教科書は授業の中心にすえるべき、生徒と歩調を合わせるべき絶対的なものだ。 その辺の感覚が私には理解できない。 確かに川口市が採択した教科書は私も最低だと思うが、生徒の前で否定し、評論家になってもしょうがない。 代わりがないのだから。 新任3年目の若い先生。 テーマごとに丁寧で熱心な素晴らしい授業をしているのかも知れない。 だが、塾生がいつも不平不満を漏らすのは何故か。 全体を大きく捉え、ペースを考えていかないと、教科書も終わらない危機がいよいよ現実になろうとしている。 これらはすべて生徒から聞いた話なので、実際とのズレも多分にあるだろう。 誤解なのかどうか、一度公開授業を見学してみたいものだ。 でも進度については言語道断。 半月後の「学力テスト」と「北辰」。三権分立まで出ますよ。 さあ、どうします。 それでも先取りはダメと言いますか。 追)ぶつくさ言っててもしょうがないので、中間の結果で勝負します。 わが塾生から学年トップを出しましょう。 今回は気合を入れますよ。
2006.10.17
中学生たちの中間テストがまた始まる。 一部の学校ですでに終了しているが、殆どが来週前半に実施される。 2学期の流れを作るテスト。みんなしっかり対策を立てているか。 中1生は相変わらず活気に満ちている。 自習に来る者をはじめ、日々の表情と意欲が素晴らしい。 夏の英単語、漢字のコンテストから、その流れははっきり出ていた。 29日の漢検も中3と同数の申し込みだ。 1学期の定期テスト2回の平均が、430点の女子チーム。 得意教科で100点を狙い、420超えを実現しよう。 男子も頑張れ。今回は男女で競争だ。 中2生はどこまで喰らい付いて来れるか。 みな力はあるのに、何故か上昇志向が薄い。 何故やらない。死ぬ気でやれば、いくらでも点が取れるのだ。 そろそろ本気を出し、好結果を残してみよう。 範囲表に沿って、今から山のように暗記をしなさい。 いつもの反省。それは中途半端な曖昧な知識が多すぎることだ。 前回100点取ったSさん。もう一度死守しよう。力は付いてきた。 中3生は内申に係わる正念場。 もううんざりだろうが、1点を大切にしなさい。 全教科90以上、450超えができる底力のある仲間もいる。 目標は自己ベストプラス10点。 学校帰りに何度も自習を繰り返し、努力を重ねてきた成果。 慎重に紙面に注ぎ込み、笑顔をものにして欲しい。 暗記が苦手と言ってるTさん。知識がいつも曖昧なAさん。 人生で中3の2学期中間は1度だけ。悔いを残すなよ。 この残りの6日間、己の限界に挑むのだ。 いいな。 土曜に対策補習を行う。 点の取りたいヤツは集まれ。 ただその前日までに、自分で9割は完成させておくこと。 対策当日に半分も分からないヤツ、「知らない」「分からない」を連呼するヤツ。 自ら努力もせずに、参加すれば何とかなると思っているヤツ。 そういうヤツには点はあげない。 いや、来なくていい。 対策補習は、弱点や課題の穴埋めをする最終仕上げ。 別の視点を学び、演習を通じ応用と定着を図る場。 頭脳に完成された絵を描いてから席に座りなさい。 意欲の漂う聡明な瞳で、姿勢よく。 いいか。 受け身の場ではない、自ら攻めるのだ。 皆に忠告しておくぞ。
2006.10.17
三本勝負を行った場合 一勝二敗の時が 最も勝機に満ちている 二勝すると油断が生じ 気の緩みが芽生えてくる 三勝すれば安心し 自らの成長を止めてしまう 一つも勝てなければ 自信を失い 意欲の灯が消えていく 一つ勝ち 二つ負けるとは すなわち 弱点をさらけ出すこと 自分の方が劣っている 力がない という悔しさを示すこと それは 上への目標を生み 向上心へと繋がっていく 人は 置かれた環境の中で 機運を感じ 自分なりの充実感を 常に追い求めるもの 負けを知り 悔しさを感じた時の次の行動には 自らを戒め 可能性を拾おうとする 強いポジティブな匂いがする これは考えてみれば どこまでも続く 終わりのない原理 もし仮に成長し 二勝できるようになったなら 新たな次のカベを自分で探し 課題にしていけばいい 自ら高い位置に目標を掲げ 挑んでいくのだ うぬぼれてはいけない 目先のことに満足してはいけない 二勝して納得するか しないか 成長のカギはそこにある 学業でも 日々の生活でも 弱さを認めるさり気ない行為に 次のステップが隠されているものだ 常に一勝二敗の 上昇志向を意識する この求め続ける姿は 成功を得る過程で 知恵と技術を呼び込み やがて自らの糧を育てていく 一度 自分の対戦記録はどうなのか 頭の中でさぐってみてはどうだろう
2006.10.16
本日、英検実施中。 準会場として初めての検定である。 みんな真剣だなー。 いつもこうなら素晴らしいのだが。。。
2006.10.15
昨日の生徒のその後であるが、お母さんに来ていただき、洗いざらいお話した。 何度か面談しているので、状況は大体把握されていたが、ここ数日の様子と今回の件を伝え、塾方針に納得していただいた。 今の塾との係わりでは、受験生としての最大の目標である「合格」が保証できない。 このまま引っ張っても何よりも本人のためにならない。 ぜひ自分なりの方法で活路を見い出して欲しい。 そのようなことを伝えた。 塾というシステムに合わなかったこと。 期待されていることを知っていただけに、親御さんには申し訳なく思う。 底力のある生徒なのに、何故自分を高めようとしないのか。 その何故を解きほぐし、良化させていくヒントを与えることはできる。 しかし、それは表面上の誘導であり、深く踏み込み強制させることは出来ない。 塾には同様の課題を背負った生徒がいて、毎年指導記録を残していく。 我々はその経緯を知っているからこそ、目の前の生徒に手を差し伸べようとする。 そのタイミングとベクトルが見事にはまれば功を奏すが、すべてがそう行くとは限らない。 良かれと思い掛けたアクションが、不要を超えてマイナスに転ずることもあるだろう。 踏み込めるのはここまでという、眼に見えないラインがある。 難しいが、これが塾の限界か。 厳しく管理する。 優しく聞いてあげる。 コミュニケーションを図る。 声掛けを励行する。 生徒と接する時のスタンスは塾ブログでもよく語られるが、突き詰めてみればみな綺麗事なのかも知れない。 現場では数十、数百のものが複雑に絡み合い、もっと泥臭いインスピレーションが交錯する。 単なる立場のやり取りでも、心理合戦でもなく、もっと普遍的な原点に近い何かが必ず渦巻いている。 人と人として、生理的な温度や波長のようなもの。 その見えないものを、我々は嗅覚を頼りに捉え、接し、語ってきた。 笑顔を励みに、成功を美化しながら。 その裏にある陰の部分をどこかに溜め込んでもきた。 私は一度、自分の過去の生徒ファイルをひも解いてみたいと思う。 生徒一人一人の表情や仕草、汗、悩み。 もはや記録にない「それら」に、陰と陽を捉えながら。 そして、今の仲間たちに還元できるものを突き詰めてみたい。 子供たち一人一人には人格があり、それらはみな違う光を放っている。 子供たちはその光を操り、我々の前で演技をする。 我々は感動し拍手を送る観客なのか。 我々は採点、評価する審査員なのか。 我々は共に盛り上げ演じてあげるゲストなのか。 我々は指導し、シナリオを描くべき演出家なのか。 我々は彼らの足場を作り、背後で見守る裏方なのか。 果たしてどれなのか。 考えてみたい。
2006.10.14
やりたくないのなら やらなければいい 何も縛る必要もない やりたくないのなら 塾に入り数ヶ月 色々な教えを説き 指導を重ねてきた お前に合格して欲しいから お前にとってつまらない知識をかざし 厳しく語り続けてきた でももう終わりにしよう 明日 お前に退塾勧告を行うことにした いつも遅刻をし 何度も手ぶらで来ては 忠告を受け 先日 取りに帰させたら 家に誰もいないと言って戻ってきたよな 宿題はするつもりもなく 遅刻 道具 宿題の改善を約束させたら 「へぇ?」と煮えきらず 7、8回繰り返しても 結局しっかりとした返事はしなかった 《持ってくりゃいいんだろ》というお前の半分笑った表情 私は机を蹴り倒そうとしたが ぐっと足をこらえた 1か月ほど前のことだ その後の授業でも 私が問題や指示を与えると お前は常に「やんの? 面倒くせえー」を繰り返し 宿題も道具も不完全なままだったよな 先日の他の先生の授業の時は 途中で帰ってしまったこともあった そして 今日 お前の取った態度は絶対に許さない 当然のように遅刻してきて 謝罪もなく椅子に斜に構え テスト範囲表を聞けば 「知らねぇー」 今 学校ではどこをやってるかと聞けば 「分かんねぇー」 私が2度3度聞いても 「聞いてねえから知れねぇ」とふんぞり返り まるで他人事のように そっぽを向いたままだ おい お前 誰の授業を受けに来ている ふざけるのもいい加減にしとけよ 中間まであと10日 たらたらと 何しに来た 「テストで点取る気はあるのか?」 私が聞くと お前はかったるそうに答えたよな 「多分、あんじゃね?」 3度聞いても お前は 面倒くさそうに多分という言葉を反復したよな 多分あんじゃねだと? お前はテメエのことも分からんのか 他人事のように いつまでかっこつけてる お前の頭の中なんぞ お前以外に誰も分からないんだよ 「やる気がないんなら帰れば?」 いても意味ないだろ 目的もないんなら 私の言葉に お前は躊躇することもなく荷物をまとめて立ち去った そうか お前の判断で授業を放棄し 塾の責任者である私に背を向けた以上 この行為の責任はしっかり取ってもらう 私は塾長 その行為がどういう意味か よく考えてみるんだな 私は断じて許さない そして今後一切 教室への出入りを禁ずる これだけ尽くしても 未だに塾というものの目的が分からない ふらっとここに来れば 何とかしてくれると思っている 受験まで3ヶ月少々 何をしたらいい 甘えて甘えて 楽をむさぼり どこまでも逃げ惑うか しっかりしろよ受験生 人生は1回 やり直せないのだ 決まりも守れず 道徳も知らず ずるずるとどこへ行くのだ 目を覚ませ お前は何様なんだよ 自分の尻拭いは自分ですればいいだろう だがな お前のために尽くしてくれる親は泣かすなよ 残念だが じっくり考え この残された期間を大切にして欲しいと思う 現在の延長で通っても結果は出ない それ以前に意味がないだろう 山のように猶予を与えたが それでも改善されず 塾に 私に 背いた以上 今後 継続不能と判断する
2006.10.13
う~ん、私も見てみたい・・・ なかなかナイスな企画だなー 水曜か待ち遠しいぞ!!
2006.10.12
塾を開く時には色々と市場調査をするものだ。 そのへんを疎かにして、失敗した例をいくつか知っている。 生徒数などは市区役所に出向き、学校や学年ごとの人数をまず調査する。 さらに地域や学区ごとの密度まで調べておく。 そして何よりも現地で生徒たちの登下校コースを観察することだ。 この日々のルートとの絡みが後々大きな影響力を持ってくる。 次に大事なことは、街における主婦たちの動きである。 買い物では、集客力のある店はどこなのかを見る。 銀行や公共機関はそばにあるか、駐車場のあるホームセンターはないか。 大き目の書店やコンビにが近くにあるか。 商店街と住宅街との導線ラインに位置しているか。 日祭日は親子連れで賑わっているかなどを全体調査する。 何よりも開発の期待が持てる人口増加地域が望ましい。 都市開発計画で凡その当たりはつくが、やはりマンションがどんどん建っている区域が狙いだ。 旧い団地はダメ。核家族や若夫婦の比率が数年後を保障する。 これらが終われば、次は同業の立地を地図に落としていく。 電話帳や専用のガイド、ネットなどでまずカバーしていく。 次にそれらを現地調査する。必ず昼と夜の両方行う。 動き回ると、路地の陰に小さな塾がいくつも見つかる。 そして大手を中心に、夜の自転車の台数を曜日ごとにリスト化する。 これは必須だ。お迎えの車も調べるとよい。 生徒数と塾の立地がまとまったら、最も好条件の物件に絞っていく。 今ひとつなら、見送るべきだ。 面倒がらずにまた他地域で同じ作業を繰り返す。 賃料、広さを含め、必ず好条件の物件があるものだ。 現地調査の時、旧そうな店や喫茶店などで街の様子を聞いてみる。 また、肝心な物件の周りは特に注意したい。 排気ガスや騒音は大丈夫か。 街路樹も落葉樹の場合は、季節により日当たりが替わる。 水害が出ないかどうかも、先ほどの店の主人などに聞いておくとよい。 ビルのテナントで、空きが複数ある場合は要注意だ。 何か理由があると考えるべきだろう。 また、空きがある場合は、後から何が入ってくるか分からない。 契約相手が業種限定かどうかも大家に確認しておく必要がある。 冒頭の失敗例のひとつはこのケースだ。 開校後3か月で、上の階にピンク産業が入ってきた。 最悪である。 塾に隣接されると困るもの。最後にいくつか挙げておこう。 ピンク産業 (テレクラ・ピンサロの類い、ヤバイ) 深夜営業の飲み屋 (調理のにおい、酔っ払いの問題) 怪しいクラブ (客も店もただ怪しい) パチンコ屋 (うるさい、タバコ臭い) 宗教団体の事務所 (近寄れない) ゲームセンター (生徒に悪影響) 葬儀屋 (縁起悪い) アダルト系の古本屋 (店頭がいかがわしい) コミック専門店 (生徒の溜まり場になる) 雀荘 (夜うるさい、客質の問題) サラ金 (従業員?の問題) マルチ商法の店 (おばちゃんばかりで怪しい) 携帯ショップ (やかましい) 塾 (・・・・・) これらが隣りにあったら、親御さんも普通は敬遠するだろう。 この業界の良し悪しではなく、塾と並んだ時のイメージの問題である。 最後の塾は、どちらかを選んでくれるかも知れないが。 立地というものは難しい。 何が来ても対応できるように、事前に教室の存在をしっかりさせておきたい。 そして、いざという時に動けないのなら、この業界は止めたほうがいい。 まず、生徒の「通塾環境」と「安全」を守るのがこの仕事。 生徒のために塾長は命がけなのだ。
2006.10.12
世界情勢が怪しいこともあるが、新聞などには様々な略称が目に付く。 中学でも公民の最後で国連関係を学ぶが、その前に知っておくべきものは授業でも逐次取り上げている。 高校入試の前に押さえておきたいものは、せいぜい30程度。 私の授業での教え方の一部を、ちょっと紹介したいと思う。 まず、覚えるリスト。 EU ヨーロッパ連合 ASEAN 東南アジア諸国連合 NIES 新興工業経済地域 APEC アジア太平洋経済協力会議 FTA 自由貿易協定 OPEC 石油輸出国機構 NATO 北大西洋条約機構 NAFTA 北米自由貿易協定 UNICEF 国連児童基金 UNESCO 国連教育科学文化機関 WHO 世界保健機関 WTO 世界貿易機関 PKO 国連平和維持活動 PKF 国連平和維持軍 PLO パレスチナ解放戦線 IAEA 国際原子力機関 IMF 国際通貨基金 UNCTAD 国連貿易開発会議 NGO 非政府組織 NPO 非営利組織 ODA 政府開発援助 GNP 国民総生産 GDP 国内総生産 NPT 核兵器拡散防止条約 START 戦略兵器削減条約 CTBT 包括的核実験禁止条約 IOC 国際オリンピック委員会 これだけやっておけば、公立入試はまずクリアできる。 さあ、ここでアルファベットの頭文字に注目してみる。すべて英語である点がヒントだ。 「I」で始まるものは「国際・・・」(international のI) 「W」で始まるものは「世界・・・」(world のW) 「UN」で始まるものは「国連・・・」(United Nations のUN) と、かなり意味で分類できる。 「世界貿易機関の略称を書け」と問われたら、「世界」だから「W」から始まると推測できる。 このような教え方をしている先生方も多いとは思うが、ただ機械的に暗記させるより明らかに定着はいいようだ。 また、「ODA」などのようなものは「オダ」と覚え、イメージ化しても構わない。 織田裕二が政治家になって、発展途上国に援助をしていると覚えればいい。 私などは、特に丸暗記が苦手な生徒には、こういうインプットの仕方も使っている。 「N」はのび太、「G」はジャイアン、「D」はドラえもんとか、工夫しながら印象付けてみる。 邪道だが、それでも点が取れれば急場の凌ぎとしては有効だ。 今年は「核」や「平和」に関するものが狙われる確率が高い。 特にそのへんは入念に、意味も背景もしっかり抑えておくこと。 EUのゴロ合わせを真剣にに考えている生徒がいて、そんなのそのまま覚えろと一喝したこともあるが・・・・ 一つ始めると、何でもそれに頼るのが、現代っ子の難点だ。
2006.10.11
今日から暫く連続出勤である。 検定とテスト対策で、日曜が3週連続でつぶれる。 今まで15日連続程度は何度かあるが、今回は24日連続だ。 う~ん・・・ 何の因果か。 もう若くないので、正直厳しい。 体の持つ限り気合いで突き進むつもり。 もし日記が途絶えたらかなりヤバイと思ってください。 生徒たち、お前らも気合入れろよな。 あと、この期間、トラブルだけは勘弁してくれ。 差し入れ無用。 笑顔だけでじゅうぶんだぞ。
2006.10.10
『国語力』について多くの方が意見を述べられている。 意見や感想は別に構わないが、その意見が信条になり、指導における方法論にまで展開してしまうのはやや危険ではないかと、多くの記事を拝見して感じた。 我々塾の指導者は直接生徒に教授していく立場にあり、一介の傍観者とは違う。 どう思うかは勝手だ。 だが、その思い込みのベクトルがどうであれ、生徒に向けられ大きな影響を与えるのだということを日々認識していく必要がある。 私は自身を、基本的に「国語は簡単には語れない」というスタンスに置いている。 国語は言語であり、わが日本においては「日本語」を意味する。 国語力という大上段のテーマならば、その日本語を細分化し、緻密な論拠をもって明文化していく必要があろう。 そこには様々な論文があり、バイブルと言われるテキストがあり、学びや生活の両面から見た生徒の現状、いわゆるサンプルによる分析も必要だろう。 指導要領、白書、学校や塾や通信や家庭教師などの指導現場における状況なども不可欠だ。 そんな資料と余力がどこにあるか。 私には到底できない。 ブログで語られている国語力とは、読解力や語彙力の低下をベースに、表現や文章の力を含んだ、いわゆるペーパーテストにおける総括的な国語の力の比較を指しているのだろう。 ならばそれは塾を中心に語られている比較であり、国語力の根本からずれている。 家庭を軸にした場合、学校を軸にした場合、友人との間の言語世界、メールやPCにおけるやりとり、社会生活上のコミュニケーション、いずれも一つの基準で語ることはできないはずだ。 ペーパーテストの結果分析ならば、それは「国語科の得点力」であり「国語力」ではない。 国語の点が悪い生徒でも社会生活は営める。 不特定の人と日々会話を交わし、街に出て行動を考え、書店で立ち読みし、活字や音声で様々な国語に触れながら生活をこなしている。 テストには点を取らせないための問いや、ひっかけ、あるいは難解な設問が必ず存在する。 得点の差は、それらをカバーできるかどうか、要するに鍛錬の質と量で明確に出てくる。 テストの得点を上げるための方法論は存在する。 だがそれは考えてみれば、設問のパターンを熟知し、スコアを上げるための「慣れ」を身に付けることであって、国語力そのものを上げることではない。 もちろん熟知し身に付けるためには、基礎となる語彙力は必要だが、それは「知識」として区分すべき性質のものだろう。 本来の「国語力」とは全員が潜在的に持っているものだ。 それは感性や感覚、より抽象的な概念などにも潜んでいる。 絵画や映像などにも国語があるのである。 私は以前、大手の「○会」の通信添削で、国語の添削員をやったことがある。 生徒の表現は多種多様で、中には素晴らしい感覚の解答を書きなぐってくる者がいた。 思わず唸る解答に○をあげたいと何度も思ったが、採点マニュアルにそぐわなければ減点であり、無得点になるのだ。 私はそれらの光る解答にこそ、むしろ強い「国語」の力を感じる。 実際に試されているのは、分析力、観察力、即断力であり、要領である。 そう考えると、得点を上げるための視点を学び、方法論を身に付けることは、一概に「国語力」を磨くとは言い切れないのではないか。 私は採点しながら、評価の限界を感じたものだ。 絵画を見てどういう感想を持ち、どういう言語で表現できるか。 これこそまさに「国語力」であろう。 その感想には各人の経験や生活、多岐に渡る知識がにじみ出てくるだろう。 色々な角度からの意見を拾い、概念を全員で包括していく。 そういう生命感ある感覚を育てていくのが、理想の国語教育なのだろうと思う。 「これはこう答えなければダメ」 授業や試験を通じ、子供たちは長期に渡り一方的な断定型の教育を受けてきた。 答えは一つではない。 指導側も分かってはいても、切り出せないもどかしさがあった。 抽象はより具体にしなければならない。もちろん、壮大なテーマで討論する時間もない。 それがいま置かれている学校の技量であり、教科書の限界であろうと思う。 今の教科書は作品主体であるが、もっと言語的要素を盛り込むべきだと感じる。 年齢を重ね、やがて社会生活を営む上で有用な知恵と技術を与えていく。 個性に沿ったセンスを磨くことも必要だ。 高校生になり、新聞が読めない、敬語を知らない、果ては初対面の人とコミュニケーションが持てない。 こういった若者が増えてきている原因の一つは、味気ない活字読解=国語という植え付けを繰り返して来たことにある。 書き記したものも細かく矯正され、そこには○と×はあっても△はなかった。 だから国語というと構えてしまい、書くことができない。まとめられない。 国語とはそういうものではなく、もっとラフなイメージの愉悦空間なのだということを再認識させることが大切だろう。 個を重んじる傾向にあるならば、是非の導き方も慎重にせねばならない。 道徳に沿った判断が正しい。これは解る。 だが本人の感覚による意見に対し、何が是で何が非なのか。 明確なマニュアルが存在しない以上、大変難しい課題が潜んでいる。 国語はすべての学問の基礎になる。 と同時に、社会生活の土台でもある。 家庭内で言葉を磨くことはいくらでも出来るだろう。 塾の限界は、国語を根本から説いていく時間がないことであり、結局得点をターゲットに置いた演習と技術を与えることに終始せざるを得ない点だ。 家庭では読書も会話もどんどんすればいい。 国語と意識せずに、豊富な体験と言葉のシャワーを浴びること。 「国語力」というものはその時間とともに、じっくり培われていくものだと思う。 国語の力が低下しているとみな嘆くが、我々大人の波長に合わない点を確認し合っているだけではないのか。 今の子供たちの言語、それはそれで素晴らしいではないか。 最近そう思えてきた。 そしてそこから始めてみようと思っている。
2006.10.09
あの「赤いやつ」が私は好きではない。 電車の中で高校生がよくやっているが、本当に成果があるのか疑問に思う。 最近ではかなりの数の要点集や参考書に付いているが、暗記法として生徒に勧めたことは一度もない。 むしろ止めろと指示している。 理由は幾つかある。 まず第一に見づらい。 見づらいということは、目に負担がかかり、視力の低下につながりかねない。 暗い所で目を細め、姿勢も悪く・・・移動中なら揺れながら・・・長期のリスクを考えるととても健全とは思えない。 書物や文書というものは、内容以前に読みやすい印字であることが条件だ。 黒い活字を基本に、バックとの濃淡を明確にすることで読みやすくなる。 新聞の活字がすべて黄色の場合をイメージして欲しい。 20分で頭痛が起きるだろう。 赤フィルターを掛けると、赤以外の周りの活字も淀み、くすんでくる。 明朝体の細い活字などは、かすれてはなはだ見づらい。 カラー印刷の場合は、オレンジ・薄茶色・黄色なども消えてしまう欠点もある。 そもそもフィルターを掛けるということは、教科書の用紙が真っ赤になった状態と同じことだ。 その用紙にぼやけた字が浮いているのである。 読み易いはずがない。 もう一つの理由は、出来上がったものに頼ってしまい、自分でまとめる習慣が損なわれることにある。 要点集は物によってはよく出来ているが、本当のポイントだけであり、内容の薄さは否めない。 赤フィルターで隠れる「赤い用語」は、よく考えてみればテキストの編集者の判断によって選ばれたものだ。 実際には、隠れない黒い活字にも、暗記すべき重要語句がかなりある。 またA→B、B→Aの両面からの反復も一切出来ない。 それらをクリアするには、やはり自分で要点をまとめリスト化するのが一番であろう。 必要なリストはみんな違って当然。 しかも書き、まとめる行為は、記憶定着に最大の効果がある。 要点集は、「超基本用語の確認レベルまで」と割り切って使うべき道具である。 以前、テキストを2冊用意して1冊に墨入れをするという学習法を書いたことがある。 1冊は墨入れし問題編として、もう1冊はそのまま解答編として使う。 要点集も同じ方法で、いくらでも「必要語彙」を増やすことができる。 穴埋め問題もこれなら対応できる。 解答編はバラして、問題編に挟み込んでもいい。 工夫すれば素晴らしい教材が自分で作れるのだ。 赤フィルターの利点もあるのだろうが、私は好まない。 「書き、まとめる」という、頭に叩き込む行為の発露からずれていると思うからだ。 赤と緑のフィルターとマーカーがセットになった新兵器も売られているが、邪道だ。 それでも使うなら、私ならフィルターではなく「紙切れ」で隠す。 一問一答形式なら、十分対応できる。
2006.10.08
中3受験生の保護者会があった。 色々と話をさせていただいたが、言い足りなかった気がする。 3年半のお付き合いになるお母さん。 つい先日、手続きをしたばかりのお母さん。 一人一人の背後に、生徒の仕草や表情が重なる。 受験の成功には、家での過ごし方が不可欠。 この子の場合、家ではどんな過ごし方をしているのだろう。 塾での普段の様子から、そんなことも想像できてしまう。 わがままな態度も、言動も、無気力なそぶりも、笑い声も。 妙にリアルに思い描ける。 成績を知っているだけに、親御さんの気持ちがよく伝わってくる。 塾としてもその伸び率の責任を負っているだけに、気が引き締まる。 受験まであと4か月を切った。 勉強法などの話もしたが、結局本人が動かない限りどうにもならない。 だが甘えているヒマはないのだ。 「言ってもやらない」「言えば文句言う」 どこでも同じだ。 心をどう操作し導けるか、鬼に徹することも愛情である。 これから先、頑張れなどという曖昧な精神論はいらない。 今日100を覚え、200を記録として残していかなくてはならない。 今日やるかやらないか、それでグングン差が開いていく。 100を実行するのである。 何度も繰り返す。 30や50ではない、100出来るかなのだ。 知恵に上限はない。 言い換えれば、知力に限界はない。 残りの日々を最大限に活かし、ぜひ素晴らしい結果をもたらせて欲しい。 目の前に可能性は溢れている。 保護者会の最中にも、中1生が自習に来た。 部活のあとの時間を真剣に自分のものにしようとしている。 お母さん方は、その姿を見てどう思ったか。 その時、当の受験生は家で何をやっていたのだろう。 結局、日々の出来高が貯金になり、結果につながる。 通帳管理は親の仕事。 これから先の日々は、その累積結果がすべてだ。
2006.10.07
1 テストが近づき、授業で暗記すべき重点を指示すると、「今やっても、忘れちゃう~」とか言う生徒。 忘れちゃう~だと? じゃあお前はテストの前日に、すべてまとめて暗記するのか? ほう、大したもんだ。そんな時間と集中力をいつから手に入れたのだ。 じゃあ聞くが、前回のあの点数は忘れずに取った点なのか? それ見ろ、直前にお茶を濁して、結局点が取れないではないか。 忘れるのは気合が足りないからだ。 仮に忘れたなら、見直せばいいだろう。 インプットは1回ではない。 何度も見直し、反復し、定着させていくものなのだ。 汗を掻いて必死に暗記している先輩たちを見習え。 ワークに「ちょ~でる!!!!」なんて書いてる暇があったら覚えろよ。 教えていて悲しいぞ。 今やらないから結果が出ないのだ。いい加減に気付けよ。 今やっても、わすれちゃうだと? じゃあいつやれば忘れないのだ。 結局、口実を作って逃げているだけではないか。 断言しよう。 そんなやつは直前にいくらやっても忘れるだろう。 いや、直前になってもやらずに逃げ続ける敗者だ。 俺は、いまやれと言っている。2 塾のカバンの中身がいつもゴチャゴチャで、肝心な道具が揃っていない生徒。 宿題を忘れる、テキストを忘れる、今日使うプリントを忘れる。 お前、今日で何回目だ。 ないということは、もう完全にマスターしたっていうことだな。 ならばP38の12行目からの要点解説を諳んじてみろ。 どうした? おい、未熟なら、商売道具を必死こいて抱えて来いよ。 肝心な筆記用具もないではないか。 芯のないシャーペンをどうやって使う。 使ってみろ。 折れた定規でどうやって線を引く。 2か月前の連絡プリントが、何故カバンに入っている。 スナック菓子の空袋がノートの間に挟まっているではないか。 何だこのコミックとCDは。 ここに来る目的をじっくり考えてみろよ。 5教科のテキストをいつも全部持ってくるやつも同じだ。 カバンに入れたまま、家で取り出しもしないだろう。 何故使わないものを、毎回重そうに持ってくる。 おい、今日の授業は何なんだよ。 必要なものだけを過不足なく詰めて来い。 それが学びの第一歩。 携帯だけは忘れないで握りしめてくるお前。 そろそろ頭を使えよ。
2006.10.06
塾の経営というものは難しいものだ。 地域には子供たちが必ずいて、小中学校を中心に据えた学区を作り、学びと集団生活と地域活動を行っている。 公園の元気な小学生、集団ではしゃぐ中学生、買い物をする親子。 子供たちの元気な姿が、笑い声が、皆の自然な営みが、いつもの街の色を作り出している。 塾はその区画に忽然と現れ、生徒を集め始める。 看板が掲げられ、チラシが撒かれ、甘い言葉と常套句で生徒を吸い寄せる。 学区にうごめく子供たちには家庭があり、生活があり、そして悩みがある。 学校ではまかない切れない、学びに対する悩み。 塾はその受け皿として特色を打ち出し、あちこちで競争を始める。 無料体験、兄弟割引、入学金免除、特待制度、無料補習、合格実績。 限られた区画の中でパイを突つきあい、やがて淘汰されていく。 必要とされるものの判断は、結局子供たちの親であり、それぞれの家庭の中に帰結する。 塾の市場の原理には、単に力や規模や財力や戦略では片付けられない曖昧なものがある。 それはある意味で運なのかも知れない。 友達の多い核になる生徒を抱え込んだ塾は安定するが、その対極にある生徒ばかり増えると、不思議と長期展望がもてなくなる。 母親のくちコミは大きく、評判はスーパーや病院や回転寿司と同等に、あっという間に広まる。 評判の修正が効かないのもこの業界。 改装や売り出しや営業時間の操作で集客を図れないのもこの業界。 ビルドの陰に、必ずスクラップが隠れている。 今日、一本の電話があった。 わが教室の向かいにある塾の室長からだった。 10月一杯で教室を閉めるという。 そのための生徒の受け入れの依頼だった。 自転車もなく厳しそうに見えたが、とても経営が成り立つ生徒数ではなかったようだ。 人数を聞いてびっくりした。 この周辺には、通塾圏だけでも大手塾・個別塾をあわせると、何と19校舎もある乱立地帯。 いつどうなるか分からない未知数の区画なのだ。 春ではなくこの時期に撤退を決断された経緯を察するに、同業として心が痛む。 生徒の何割が希望するか分からないが、今後よく打ち合わせた上で、わが教室でよければ可能な限り受け入れたいと思う。 システム、学費など、クリアすべき相違点が今後の課題だろう。 中3生も数名いるらしい。 生徒にとっては不運なタイミングだが、そういう状況ならなおさら何とかしてあげたいと思う。 新しい仲間たち。ぜひわが教室に遊びに来て欲しい。 そしてみんなの笑顔と活気を体感して欲しい。 よかったらここで一緒にやろう。 いつもドアを開けて待っているから。
2006.10.05
過去の模擬試験や入試の過去問を生徒に解かせる時に、以前から気になっていることがある。 専用の解答用紙があればいいのだが、ない場合の時。 ノートや紙に答えを列記していくと思うが、その書き方が何ともお粗末なのだ。 『1ア2(1)(2)大きくなる313、4ウエ5206 7a×b8 から』 こんな文字の羅列を、ノートの一行にびっしり書いている。 解説しよう。 問1=ア、これはいい。問2の(1)は解らずに無答。(2)は大きくなると答えている。 (1)の後にスペースがないので、見づらい上に正解が書き込めない。 「大きくなる」の次の問3との間にも隙間がない。答えは1と3、13ではない。 問4もウとエだが、問5は20、問6は無答である。この問4~6の連続は区切りがないのではなはだ見づらい。 問7はaが×、bは無答。またスペースがない。次の問8は理由説明だが、最後の「から」しか書いていない。正答を書き込むスペースはない。 問3の後だけ点を打っているが、統一性もなく、私から見れば本人にしか分からない記号の羅列だ。 揚げ句に、正解を書き込む余裕がないため、答え合わせの後は赤文字が欄外にはみ出してゴチャゴチャになっている。しかもたった3行の中に。 一体何をしているのかと思う。 答えもアに×をしてウを書き込んでも意味がない。アが何で、ウが何なのか。そこまで把握して、ポイントを書き込んで初めて意味があるのである。 どうしてみんな、こんな小さな字でくっつけて書くのか。 せっかく苦労して解くのなら、もっと機能性を考えて欲しい。 私が気になる生徒によく指示している言葉がある。 「答えはタテに書け。1問につき1行を使って」 問いごとに行を替え、ページの左側に、上から下へタテに解答を列記していく。記号も記述も1行使う。 右側のスペースは、ポイントと要点記入のために空けておく。 誤答の直しはもちろん、記号の指す意味で大切なものも書き込んでいく。 要するに1ページ全部をを答案として捉え、重点を書き込んだリーフを作成するのである。 模試や過去問の設問はせいぜい30問程度。 36行のノートにちょうど収まり、残った下段は、自分なりの暗記事項を工夫して書きとめておく枠組みとして使える。 もちろんページの上段には、問題の出どころを書く。16年静岡県公立のように。 どこまで工夫できるかは本人次第だが、ノートは絶対にゆったり使うべきだろう。 そして文字は大きく。 「過去問・模試ノート」というものをぜひ作ろう。 解答用紙を自分で作り、要点をファイルしていく。 ノートは60ページもある。どんなに解いても、まず1冊を使い切ることはない。 小さな字で1行にびっしり書いて、ただ○つけしたものを溜め込んでいる君。 そこの真ん中の×が続いている所、「エ」と「オ」と「正しい」って、内容は何なの? 何が正しいの? 問題はどこの入試問題? 効果のある問題の解き方。 それは、解答用紙の作り方ひとつで大きく変わるものだ。 できるヤツは、すでにやっている。
2006.10.04
毎度やり玉に挙げてしまう、地元中学の社会科の先生。 今日もひとこと言わせてもらいたい。 私の社会の授業は、複数の中学の生徒が混ざった状態でユニットを組んでいる。 ここ暫くは地理・歴史を中心に進めてきたので、大きな問題はなかったが、今日、中間に向けた公民を手がけて愕然とした。 中学3年の10月といえば、普通の進度ならば公民の「経済」の単元を学んでいる頃。 恐らく地方自治が終わり、消費のメカニズム、流通と生産などを手がけている頃のはずだ。 その後11月までに市場経済・公定歩合・需要と供給・税・福祉などを学び、12月に地球環境・国際社会・世界平和と進み、年明けに時事問題や資料解説、総ざらいなどを行えばちょうど入試に間に合う。 ところがだ、その中学の社会はついこのあいだ歴史がやっと終わり、先週から公民に入ったという。 驚きを通り越して。腰を抜かしそうになった。 当然まだ「核家族」あたりをやっているわけで、「憲法」はおろか、「基本的人権」「社会権」「新しい人権」「選挙」「政治」「三権分立」「地方自治」などにはまったく手を付けていないことになる。 終わるのか? いや、終わるわけがないだろう。 生徒たちの不信も高まり、先生に聞いているそうだが、どうやら先生は己のペースを変えずに突っ走るらしい。 埼玉には私立の合否に係わる「北辰テスト」というものがあるが、その範囲にも大幅な遅れを取っている。 だがこの先生、何と、北辰に合わせるつもりはないと豪語しているらしい。 前回の校内実力テストにも習っていない範囲が出たというが、当たり前だ。 公民をやってないんだから、当然だろう。 今月の実力テスト、来月初旬の北辰では、その開きはもっと顕著になるだろう。 生徒たちのブーイングを総括すると、この先生、無駄な話が多いという。 伝聞なので一概には言えないが、ワンテーマで1時間が終わることもざらだという。 核家族の授業では、「サザエさん」「ちびまる子」「ドラえもん」「しんちゃん」を題材に工夫した授業が行われたらしいが、それで1時間が費やされたという。 視点はいいとして、肝心な進度が眼中にあるのかと疑ってしまう。 授業の工夫の前に、まず「公民」全範囲を完成させることが先決ではないのか。 それが生徒へのプレゼントであり、教師の義務であり、生徒たちもそれを望んでいるはずだ。 中1ではないのだ。尻に火がついた期限付きの中3生なのだ。 また、「高度経済成長」などに触れる第1章は軽く飛ばしたらしいが、どうなっているのだろうか。 「三種の神器」「マスメディア」「ワイマール憲法」「モンテスキュー」などもほとんど触れていないというが、本当だとしたら一体何をやっているのだろう(もっともこれは生徒の話なので真偽は不明)。 いずれにしても、教科書はあと120ページ以上残っている。 12月までに終わらせるらしいが、到底無理だろう。 せいぜい選挙か地方自治まで。あとは見ておけとなることは容易に予想が付く。 仮に超特急で終わらせたとしても、そんなのは表面を流しただけで授業じゃない。 考えさせたり、課題を抽出させたり、調べ学習をさせたりするのが本来の姿。 一気にやれば用語の嵐で手に負えない生徒が多発する。 下手すると期末の範囲が100ページなどという、前代未聞劇が起こるかも知れない。 だから塾では防禦策を敷くことにした。 来週から毎週補習を実施する。 入試の7%を占め、前期試験にも絡んでくる公民は侮れない。 総理も代わり、国内世界ともに時事ネタが豊富な年だけに注意したい。 ああ、それにしてもどうなっているのか。 「サザエさん」に時間掛けるんなら、安倍新内閣や選挙、国会の話でもして欲しいと思うのは、私だけだろうか。 遅れているのは知っていたが、さすがに9月はピッチ上げてくると思っていたのに、相変わらずとは。 そんなんなら、夏休みにでも補習授業しろよと思ってしまった。 また批判だらけになってしまったが、実際のところかなりヤバイ。 うーん・・・・とにかく何とかしよう。
2006.10.03
ブログを立ち上げた頃に書いた記事を、少し掘り下げたい。 以前、『自分のカルテ』という記事を書いた。 自分の弱点を一冊のノートにまとめ、反復しながら見直すことを勧めたものだ。 このノートは、使い方によってはもの凄い効果を生む。 10月といえば、各学年とも折り返しが過ぎて弱点がはっきりしてくる時期。 蓄積された「失敗」と「もやもや」を、一度リスト化し、自己診断してみる。 受験生ならば、まとめの総括として必ず取り組んで欲しい作業だ。 カルテの作成にマニュアルはないが、一般的な方法と留意点をここで再確認しておきたい。 まずカルテは科目ごとに作る。 そして必ず、差し替えと追加ができるルーズリーフにすること。 インデックスをうまく使い、項目ごとにファイルを重ねていく。 英語ならば、「単語」「連語」「発音」「文法」「会話表現」「読解」「英作文」「書き換え」のように細分化しておく。 そこに、中間・期末・ミニテスト・塾ワーク・塾プリント・問題集・学校ドリル・塾内公開模試・北辰・校内学力テストなどの間違えた部分を転記していく。 もちろんジャンルごとに分類記入し、弱点を累積していく。 その時に「1期」(=1学期期末)のように、自分なりの記号を明記しておくとよい。 問題が長い場合は、切り取って貼ってもいい。 模試などは、切り貼りの方がかえって目に留まる効果がある。 数行あけて解答を記しておく。工夫して色分けすると見やすいだろう。 再確認する時のために、くれぐれも行をあけておくことだ。 ノートはゆったりと使いたい。 こうして集めた弱点リストは、自分が再チェックすべき重点の蓄積であり、攻略しなければならない知識の塊でもある。 病気でいえば、気になる症状を列記したものであり、処方箋のデータベースであろう。 このカルテは他人が作っても意味がない。 自分で作成し、差し替えながら追加と消去を繰り返し、何度も何度も繰り返し克服し、治療していくものなのだ。 氾濫している身の周りの教材やテストを総チェックし、その中で必要なものだけをカルテに集約していく。 間違い以外でも、未知の知識や役立つ情報、うまくまとまっている一覧などは、切り取り貼ってしまえばいい。 テキストが穴だらけになろうが構わない。 すべてをカルテに集約すればいいのだ。 そのカルテさえ見れば、弱点のすべてが、知るべきことのすべてが収まっている。 テキストも、テストも、保存版ではない。 丁寧に扱う者に限って、見直しは殆どしないものだ。だから私は破壊を勧める。 目的は注目すべき部分にどれだけ攻め込み、頭に叩き込むかなのだから。 カルテはボロボロになるまで使い込めばいい。 できれば愛着が湧くように、名前を付けてあげるといいだろう。 試験会場にはその1冊があればいいという状態に持っていく。 差し替え、書き込み、貼り付け、色を塗り、ラインを引き、命を吹き込んでいく。 自分の頭脳の分身がどんどん迫力を増し、君はやがて手放せなくなるだろう。 カルテを作るのは自分自身。 自己診断に感情はいらない。 作成の時には、失敗と未知を囲み込むドクターになりさえすればいい。 そして自らの処方箋に沿って反復治療をしていく。 淡々と。 きっと君は、表れる効果に病み付きになるだろう。
2006.10.02
先月の学習量はどれくらいだったか。 こんな受験生がいる。 平日は学校の授業が終ったあと、教室で3時半から夜9時まで学習。 日祝土曜、10日間のうち、模試などのない日はやはり学校へ行き、午前10時から夜9時まで学習。 模試の日も、残りの時間は同じ時刻まで自習。 夜10時半、帰宅後に食事を済ませ、午前零時から平均午前2時半まで部屋で学習。 完全自宅学習の日は、約13時間集中学習。 平均で見ると、平日は8時間、休日は模試を含めれば12時間は学習していることになる。 月間で280時間。 成果云々は抜きにして、この時間は何を意味するのか。 テレビや漫画や携帯やゲームでダラダラと過ごし、毎日30分しかやらなければ、1か月で15時間。その差は265時間だ。 その受験生は今日も模試を受け、学校で居残り自習をし、やはり10時半に帰ってきた。 息子である。 センターまでカウントダウンが始まったこともあるが、学校全体が受験モードに入っている。 生徒たちの意識も高く、毎日各クラス10名前後が制限時間まで居残り自習をしているらしい。 予備校に通う者も含め、受験生としてそれが当たり前の環境になっている。 毎年、伝統の風景らしいが、管理面で先生にも立ち会っていただき、学校としての気運と熱さが伝わってくる。 勉強については私はノータッチだが、少しは学力は付いたのだろうか。 「勉強は時間の長さではなく中身だ」と言う者がいるが、果たしてそうだろうか。 何もしていない者に限ってそのようなことを言うものではないだろうか。 真剣に時間と闘えば、必ず光が見えてくる。 人の10倍時間を費やして、収穫が同等ということはない。 少なくとも私はそう思うのだが。 さあ、 みんなはどこまで真剣だろうか。
2006.10.01
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