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長い間一緒にやってきた生徒と別れるのはやはり淋しいものだ。 毎年この時期に訪れる塾の卒業。一緒にバカ騒ぎした連中がもう明日から来ないのかと思うと、何だか切ない気分になる。 先日、最後の授業のあとにホワイトボードにメッセージを書いてくれた、Tさん、Aさん。みんなが帰ったあと一人で読んでいたら、何だか泣けそうになった。勉強できなくてゴメンなんて謝ることはないよ。最後まで立派に頑張っていたのは塾長も知っている。高校では出逢いと体験を重ね、しっかりとした大人に成長していくんだぞ。そしてまた遊びに来い。 一人また一人と仲間たちを見送りながら、色々な出来事を回想する。楽しいことも辛いことも、まだ浅い記憶の中に鮮明に残っている。夏期講習にいつも遅刻していた常連たち、私が怒った時すみませんとうな垂れていた君、コピーをいつも失敗していた君、雪でふざけ合ったこと、真剣に将来を語り合ったこと、みんな素晴らしい思い出としてここにある。ありがとうと言いたい。 今日は公立高校の後期試験の日。終了後、悪友たちがまた集まってきた。数学が難しかったとか言いながら、顔はさわやかだ。ここ1年続いた試験の嵐もやっと終わった。明日の面接で入試もすべて終わる。自分を信じ努力してきた者には、発表の日に明るい結果が訪れるだろう。みんなご苦労さん。桜咲く、新しい門出の前夜祭に乾杯しよう。 明日からまた新しい1年が始まる。教室には卒生が残してくれたものがあり、後輩たちがまた新たな思い出を刻んでいく。まだ他人事のように醒めているあいつ。勉強が嫌いなやつがどこまで変わるか、毎年その変貌が楽しみでもあり、やり甲斐でもある。枯れかけた観葉植物から芽が出てきた。教室を改造する予定の今年。何かいいことがありそうだ。
2006.02.27
私は「勉強」という言葉が嫌いである。勉強の本来の意味には「精出すこと」「骨折ること」「自ら励むこと」といった、漢文的な道徳を善しとする苦しみの姿勢が漂っている。意味合いとしては、学問の奥義を探究するために苦労し勉め励むということだ。刻苦勉励の言葉がそのまま当てはまる。 今の時代で考えた時、これほどナンセンスな言葉はない。その道一筋の仙人みたいなオッサンならともかく、世の中の普通人がロウソクの傍らで学問を究めようとしている姿など想像しただけで笑える。ましてや勉強という言葉は、一般的に子供たちの身辺世界で多用されるものである。目の前の子供たちを見ている限り、言葉の本来の意味と現実との落差はすさまじい。 今の子供たちは「骨を折り、勉め励む」ことをしない。何かに夢中になることもあるだろうが、それは自身の快楽に根ざした単なる「没頭」であろう。骨を折り苦労することを知らないから、表面上の軽い知識ばかり増える。軽い知識は根を下ろさず、いつの間にか消え、新しいものにすげ替えられていく。それが悪いと言っているのではない。主題は勉強との相違である。 自分の勉強部屋があり、勉強机があり、計画表には勉強時間と書き、親は勉強、勉強とけしかける。何か違うのではないか。子供たちがなぞっているのは目の前にある“つまらない”問題であり、宿題であり、ある意味で実用的な手順であり、命題としての勉強とは大きくかけ離れている。 一方で「学習」という言葉がある。これはうまくできたもので、「学び習うこと」らしい。学問究明が勉強なら、その過程におけるスキルを身に付けることが学習だと言う。もちろん派生する知識を吸収していくことも学習。子供たちの営みを考えた時、勉強よりもこの学習という言葉のほうが意味は近いようだ。勉強は大人になってからゆっくりと価値が見え始める作業なのだろう。 それにしても一体いつからこの二語が混同されるようになったのか。確かに学習机とは言うが、普通、学習部屋とは言わない。親も学習、学習とけしかけたりしない。暗黙の言い伝えなのか。幼児教育から高校教育までは、未熟な自己を知り、磨き、知恵を知り、方法を模索していく過程。今の時代で考えれば「学び習うこと」のほうが明らかにしっくり来る。 子供たちと接しながら時おり深刻に思うことは、その学習すら「学」と「習」がバラバラで、一連の作業になっていない点だ。しかも学ぶ姿勢が受け身であり、残っていくものも常に希薄なままだ。私は勉強という言葉は嫌いだが、勉強の持つ可能性は大いに認めている。学習は量で測れるが、勉強は量ではなく深さで測るもの。だからこそ学ぶ時には、深く根ざすことが大切なのだと言われるのだ。 「学習塾」と呼ばれる仕事をしている以上、何を学ばせ、何を習わせるのか、真剣に考えてみる必要がある。与えられるものは何か。子供たちの記憶に残していくものには何があるのか。今日も明日もこれでいいのか。このままでいいのか。勉強ができないという子供たち。彼らにしてあげられることには何があるのか、もう一度列挙してみようと思う。そして、勉強などと構えずに、目前の課題をこなしていく術を教えていこうと思う。学びから生まれる知恵。そして質にこだわりながら。
2006.02.21
主役が移ろうとしている。 在校生が学年末試験に頭を抱えるさ中、受験生たちはとうとうカウントダウンに入った。週明けの月曜に行われる公立高校の後期試験。まだ最終進路の決まらない15名の生徒が、入れ替わり教室を埋めながら必死に追い込んでいる。先週末の対策授業も頑張った。中2生、中1生もその空気になじみ、妙に静かだ。 中3クラスでは合格組と後期突入組が混ざり合い、講師たちの工夫を凝らした指導にもますます熱が入る。少人数編成の空気があちこちで緊張している。学校が終わるとすぐ駆けつける受験生も増えた。家だとだらけてしまうと言うS君。連日の自習でコピーはもう何枚取っただろう。 中2生からの補習の申し入れも出ている。緊張の空気がいい意味で彼らの表情に伝わってきた。セミ受験生がいよいよ動く準備を始めている。1年前、勉強などかったるくて嫌だと言ったあいつも、あいつも。少しずつ自分の足元を見つめ、教室の次の主役が自分であるということに気付き始めている。 今、受験を控えた15名に「激励文」を渡している。私の言葉と講師一人一人のコメントをまとめた簡単な冊子だ。ありふれたフレーズもあるだろうが、ほんの一部でも君たちの励みになってくれればそれでいい。合格組を含め今週末で君たちの大半は抜けていく。これはその勇姿に贈る言葉でもある。長い生徒で3年。一人一人がこの教室と自分との関わりの深さを、そっとかみ締めて欲しい。 在校生の学年末試験も、入試と前後しながら来週ですべて終わる。思えば昨年も一昨年も同じような時期があった。卒業とともに主役が入れ替わる2月末。巣立っていく者への準備が一つずつ終わり、残る者たちの息づかいが聴こえ始める。成長を感じさせる予感。毎年この時期にだけ漂う、何とも不思議な力だ。 子供たちのこの瞬間を見るたびに、私はこの仕事をしていて良かったと思う。成長の証しにジャージの色が更新されていく。来年の受験生は1期生と同じ色になった。やがて春になり桜が咲く頃、また新しい仲間との出会いがあるだろう。そして、またこの教室で1年間共に成長し、旅立つ日には大輪の花を咲かせたいと思う。私はそんな彼らに来年も激励文を渡すつもりでいる。
2006.02.20
教室には様々な生徒がいて、それぞれが不思議な空間を創っている。温かいもの、硬質なもの、そして流れるもの。まるで生き物のように、互いに接点を求めながら乾いた空気を染めていく。 駅からやや離れた商店街の一角に、生徒を受け入れ始めて3年。数百の子供たちがこの狭い教室の中で演じてきた物語を、酒を飲みながら回想する。目を閉じると、景色の明暗とともに、やや色あせた長いフィルムが記憶の底でゆっくりと甦る。 そこには出会いがあり、別れがあり、何よりも掛け替えのない生命感が印されている。生き生きとした声。繰り返される成長の息吹。未知の可能性を持った原石の匂い。 何処まで続くのだろう。 共に歩んできた過去を辿り、再び今の生徒たちに重ねていく。昨日も今日も変わらない。いつも変わらない。何度も見た笑いと温もりのある風景。 私は教室の空気を肌で感じながら、思う。あいつも、あいつも、きっと何かを求めに此処に来ているのだろうと。 片手には学んだ知識を握りしめ、もう片方の手では自分の描くキャンバスを必死に探している。明日からの姿を模索し、夢と悩みの淵で猫のように何かをじっと待っている。秘められたそんな空気がふと滲み出るとき、一瞬ではあるが、流れを変えようと空間が動き始める。様々な表情の君たち。様々な輝きを持つ君たち。 私の手のひらにはまだ3年の歴史しかない。だが、今はまだ浅いゆえに、君たちの営みはこぼさずに掴んでいられるだろう。悩み多き三期生。その過去と未来に乾杯しようではないか。 君たちは今日も教室を埋めていく。何人もの仲間が入れ替わり使ってきた机と椅子。消えない落書き。小さなキズ。みんなが描いてきたそれぞれの物語がそこにある。 次は君たちが描いていく。明日から始まる物語の続き。いつもの変わらない姿でここに来て欲しい。そしてほんの一部でも素直に主役を演じればいい。この教室には感情の流れる不思議な空間が似合っている。学び、感じ、得たものは何か。君の探す白いキャンバスはきっと此処にあるだろう。
2006.02.15
『桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す』 好きな、というよりも、気になる史記の言葉である。桃やスモモは何も語らないが、その実の魅力に誘われて人が集まり、下には自然と径(こみち)ができるものだ。転じて、「徳のある者には語らずともやがて人々が集まってくる」という例えだ。 自ら塾という道を選び、人に教える立場になった今、この言葉の意味を独り考える時がある。魅力のある素晴らしい塾には、派手な宣伝などしなくても自然と生徒が集まってくる。経営学から見れば奇麗事のようにも感じるが、果たしてそうだろうか。では、ここでいう魅力とは何だろう。 私は、“桃李成蹊の教えはむしろその内部に求めるべき、求心的な力であろう”と思っている。外見ではない組織としての魅力。言い換えれば、それはもっと人と人とが接触する部分での、ドロドロした匂いに感じられる体感的な魅力である。 塾生が帰り際に世間話をしに寄ってくる。「塾長ーっ、ヤバイっすよ」「ん?何がよ」「もう、メロメロっつーてか」「ほら早く帰れや、タコ坊主、風邪ひくぞ」「んじゃあ、どーも」「ヤバイんなら土曜補習来いよ」「もち、来まーす」「しごくぞー」「マジ、お願いしますでーす」深い意味はない、どうでもいい会話だ。だがこの生徒は心のはけ口をどこかに求めている。おどけながら。照れながら。そして出口に向かう前に、私のために径を作ってくれている。 こういった些細な日常の積み重ねは、やがて大きな求心力になるだろう。私はそう信じ、人同士の接点を大事にしてきた。私はまだ桃李にはほど遠いが、語り、けし掛けていく立場の私に、逆に語りかけてくる生徒がいることは大切にしたい。講師を含め、まず内部の魅力を高めていく。力を付けていく。 教材も、指導システムも、環境も、色も、すべてがこの教室という《箱》を原点に始まった。ゼロから始まり、まだ進行形ならば、その一つ一つにもっと手を加えられるはずだ。いや、加えなくてはならない。生徒が求めるものは外見としての《箱》ではない。《箱》の内部にある温もりや言葉、そして人の創り出す魅力に集まってくる。 私はもっと今の生徒たちを動かしたい。私や講師の間を、通路や机の隙間を。床がすり減り、径ができるくらいに。その径はやがて外に延び、道標のある道となり、いつしか大きな奔流に橋をかけるだろうか。 塾にとっての桃李成蹊とは何だろう。有りふれた風景。繰り返される毎日。動かない、常に受け身の教室の中で、私はゆっくり生徒たちの動きを目で追っている。どこからか笑い声が聞こえた。私は下駄箱に並んだ靴を眺め、そしてもう一度、この《箱》の原点を探ってみようと思った。
2006.02.13
受験熱がヒートアップするさ中、中2生の保護者と生徒を集めた入試説明会を行った。18年度入試がまだ終わっていないこの時期に実施したのには訳がある。まだ機運が乗らない中2生に、早期から受験というものを捉えて欲しいということと、この1年間、保護者との間にも意識の共有をしっかりと育んでいきたいという思いからだ。 保護者10名、生徒5名。数は決して充分ではないが、紙切れ1枚のお知らせで休日の夕時に集まっていただいた皆さんには申し訳なく思う。特に、部活後に疲れながらも、遅れながらも駆けつけてくれた、目の前にいた5人の生徒を私は忘れない。 先日も日記に書いた、意欲がうまく結果に表れてこない純粋なYさん。明るく振る舞いながら、実は考え悩んでいる、繊細なKさん。目的をしっかり持ち、自分を律しようと健気に演じ続けているOさん。常に自己の在り方を求め、存在に力を感じさせる真摯なTさん。優しい笑顔の裏で、時おり鋭さと淋しさが見え隠れするHさん。君たちの意欲とひたむきさに、私も真剣に応えたいと思う。 昨日の本来の目的は保護者会であったが、私は何故だかこの5人を語らずにはいられない。入試制度や今後の展望などを話した後、勉強法についても触れたが、ぜひみんなに、そのほんの一部でもいいから実践して欲しいと思う。学習には必ず方法がある。必要ならばいつでも語ろう。 私は、ここ数年、自分の息子たちに学習の仕方を随分と教えてきた。その方法は、量をものにし、反復しろという単純なものだ。かなり厳しく当たったが、やがて平凡な成績は一気に伸びた。当たり前のように伸びた。時間は大していらない。きっかけがつかめれば、自ら回転していく。息子たちは今、自分の方法論を探しながら県内有数の進学校に通っている。 「頑張る」という言葉をよく聞くが、今はそれだけではダメだ。もっと科学的に考え、実践していく必要がある。今年は特に、その私の考える部分を与えていきたいと思っている。喰らい付いてくることができれば、資質などいらない。構える必要もない。きっかけなのだ。 受験の雰囲気が続く中、みんなはやがて来る波を感じ始めているだろうか。昨日来たみんなも、来れなかったみんなも、大きな波が来る前に一度自分の在り方を描いておこう。悩み多き中2生たちよ。辛いことに遭遇しても前を見続けよう。そして、中3生の補習後で声が嗄れていた昨日の私を思い出して欲しい。私が何を語ったか。晴れた如月の夕刻。無言で教室を去っていった5人の君たちだけが知っているはずだ。
2006.02.12
昨日までで、私立高校受験組は何とか全員合格を果たせたようだ。努力の成果が実り、まずはおめでとう。中には事情があって出席日数の足りない生徒も数名いてぎりぎりまで心配したが、無事吉報を手にしてくれた。調査書ではなく本人を見てくれた高校に感謝したい。 さて、今日は公立前期入試の発表の日。前期は定員の4分の1程度しか取らないので、毎年極めて厳しい入試になる。後期を含めた全生徒が、“受かったら儲けもの”の感覚で受験してくる。今回のうちの生徒たちも、殆どが4~6倍の難関だ。「受かるわけねえよ」「死んだ」「可能性0%」と、2日の入試の後は悲惨な会話が飛び交っていた。 それでも去年は7倍で合格を手にした生徒もいるし、あきらめてはいけない。でもおまえら本当に内申低いからなあ。まあ後期に照準を合わせてやってきた訳だし、今日の結果でペースを乱したりしないことだな。そう言いながらも、もう2時を過ぎている。午前8時半発表なのに、まだ一人も連絡が来ない。今日はみんな直帰のはず。あのなあ・・・・。 「おまえら全員集まれ!」と言いたい。
2006.02.09
『いよいよ追い込みの時。執念で覚えまくろう。本番では知識の量と正確さが勝負を分ける。いいか、今しかできない。辛くて涙が出るくらい本気でやるんだぞ。この2週間で公立なんてどうにでも転がる。第一志望、完走せよ! 残りの期間、理社の見直し、作文練習、英作文のテーマ別英文作成(準備)、リスニング練習に重点を置くこと。特に理社は文章記述問題で大差が出る。自分のテキスト・ノート・模試ファイルなどで総チェックはぬかりなく。1週間前の2月20日が入試と思い、完成に持っていけ。いいか、眠ければ顔を洗え。時間との闘いだ。ギリギリまで体に注意して、この山を乗り切ろう。ライバルはやっているぞ! 困った時はいつでも来い。そしてお前の最終章をこの教室で描いてみろ。』 これは、ある生徒に宛てた私のコメントだ。 私の教室では、指導内容に総評を添えた「学習記録」を毎月生徒の自宅に送付している。本来は保護者宛てだが、よく、このように本人にもメッセージを書き添えることがある。用紙の隙間に一気に赤で書く。はみ出して裏を使ったこともある。 受験が迫っている生徒には私も気合が入り、ぼろくそに書き綴ったこともある。保護者はそれを見て何と思ったことか。だが私は常に衒いのない本音をこいつらにぶつけたいと思い、書いている。沈んでいる時も、成功した時も、指摘しなければならない時も、まるで親父になりきって書いている。 生徒が卒業し巣立っていく時、必ず添える言葉がある。 「立派になって、親孝行するんだぞ」 わがままを言い、心配を掛けながらも塾に通わせてもらった感謝の気持ちを忘れずに。私のメッセージがどこまで伝わるか分からないが、こんな作業にこだわっている。味気ない関係が多いだけに、伝え合うという行為が捨てられない。 冒頭の生徒も受験生。今が一番辛い時。今日も志望校のランクを下げようか迷っている。私はそんなキミに勇気を持てと言いたい。古い人間だから、うまく伝えられないが、悩んでる間の歩みにこそ価値があるのだよ。もう遠くに光は見えている。だから迷わず走るのだ。 ちっぽけなこだわりは勝手にすればいい。だが、大局は見失うな。行きたい高校はどこなのか、可能性はゼロなのか。一度すべてをリセットしてみよう。春夏秋冬汗をかき、這いながら食らい付いてきた自分を素直に感じてみよう。きっと今すべきことが見えてくるはずだ。 私はなぜ生徒にこだわるのか。 全生徒に書くコメント。家に持ち帰り深夜に赤ペンを握る。それこそ眠い目をこすりながら。きっと書き続けるメッセージそのものが、私のこだわりなのだろう。言葉は時に鮮やかな映像を描く。迷っている子供たちに何を与えられるか。励ましながら、叱りながら、その答えを探しながら、もう何年も言葉を贈り続けている。生徒が頑張っている限り、私もまだペンを持ち続けるつもりだ。たとえ本人が見なくとも、あいつにも、あいつにも、ばかな親父になりきって。
2006.02.07
教室には苦しんでいる生徒が何人もいる。 夢を持ち、現実に揺れ、疲れながらも勉強する目的を探しにくる生徒たちがいる。 競争を排除すると謳い、贅肉だけでなく骨までそぎ落としてしまった教科書。その冊子のようなものすら終わらない授業。解りづらい教師。山のような提出物。 目の前にあるものは何だろう。 皆が塾に通う時代になり、自力ではい上がることを求められ、いつしか試験による優劣の匂いを感じ取ってきた生徒たち。 彼らは大それたことを言わない。普通であればいいと言う。あいつらとは住む世界が違うし。どうせ頭悪いし、上を目指して何なの? 意欲のライン際で辛うじて自分を認めようとしている。勉強に自分の存在を、価値を見い出せない仲間。 そんな生徒が今日も荷物を手にやってくる。 私たちがすべきことは何なのか。一人一人にしてあげられることは、無限大にもゼロにも感じられる。学び始めて10年足らず。彼らの視野はまだ狭く、親が家庭が学校が期待するものをつかめないままだ。学ぶことの楽しさを伝えられれば苦労しないが、時間が足りない。 家で教えて欲しい。子供の考えを受け入れ、せめて意欲のラインをはっきりと描けるようにして欲しい。子供が握りしめているもの。その素晴らしい価値を認め、将来につなげていく作業。学ぶことは大それたことではなく、その過程に必要な道具として取り入れていくものなのだ。 子供たちは正直だ。 本音を言い、目的を探しに来る生徒をこれからも支えていこうと思う。学ぶ技術を与えることは簡単だが、その使い方を教えることは難しい。力を引き出し、せめてぎこちないながらも、使えるんだという自信を持たせてあげたい。 まず自分を知り、目の前を見てみよう。ごちゃごちゃしたものをよく見てみよう。何がある。さあどうする。そのための一歩が、今日の授業だ。
2006.02.05
伝えたいことが生徒の中にスーッと入っていく時がある。 それは入念に準備された授業よりも、むしろ予想しない流れの中で起きることが多い。 授業の展開が狂い始めた時、何とか自分のペースに修正しようとする若い講師たちもいるが、そんな時、私はまず生徒たちの様子を見る。型が崩れるには何かしらの理由がある。空間を埋めているリズムはないか。じっと待ち、生徒の波長を聴く。 沈黙の時も、騒がしい時も、しばらく彼らの生の姿を受け入れてみる。一日の終わりの社交場がこの瞬間ならば、その流れを止めることだけが授業の型ではないはずだ。2分、3分。師の沈黙に気付き、今度は彼らが私の出方を待っている。やがて語り始める時、彼らの視線は正確に私を捉えている。強引に進める時には見せない輝きだ。 空気を壊さない限り、彼らは言葉に絡み付いてくる。フィルムが切れて場面が変わる時のタイミング。伝わるという感覚はそんなほんの一瞬に垣間見ることができる。授業が一つのストーリーとするならば、意識して変化を取り入れてみる。語りのリズムだけで彼らは大きく動き、表情も変わる。 大切な言葉が根付いていくヒントは、生徒の観察に始まる。空気を読み、刺激を盛り込む。そして展開の中で時を操作し、泥臭いわなを仕掛けていく。授業に決まった型などない。方法論もない。あるとすれば使い物にならないマニュアルだけだろう。 教える側における真の能力とは、一方通行の錆びついた指導力ではない。いかに生徒の心をつかみ、残せるか。いかに次に繋がるものを丁寧に塗りこむことができるか。そして、どこまでこだわれるか。私には生徒に伝えたいことがある。だからこそ生徒の感覚を、その時の流れを、正面から受け入れ続けている。
2006.02.03
中1、中2の模試の返却は、欠席の2名を除き終了。今回の成績は、今後の指導の方向を決定付ける強烈なものだった。みんな頑張っているんだろうが、到達度がこれでは手を打つしかない。絶対評価に甘え、校内の成績が本当の実力と思っていた生徒たち。偏差値というものは好きではないが、相対評価の怖さが少しは身にしみただろう。 今回は一人ずつ面談をし、学習のコツや姿勢、計画性、具体的な方法論について話した。特に1年後に受験を控えた中2生には、強烈なトークも炸裂。高校に行きたいなら今日から時間管理を見直せと、真剣に言って聞かせた。日々甘え続けて、後に苦労するのは自分自身。心配な生徒には私のコメントを書いたレッドカードを添えたが、その意味を解って欲しい。 この生徒は今後どこまで伸びてくるんだろう。そして1年後にはどんな姿で授業を受けているんだろうか。面談で一人一人の反応や表情を見ていると、何となく判ってしまうから不思議だ。真剣な表情で頷き、質問し、前向きに取り組もうとしている2年生のYさん。キミはきっと伸びてくると思う。いや、必ず伸ばしてやる。意欲はあるのにいつも空回りしてしまう。そんな危機感に救いを求めている生徒を私は放っておけない。 学ぶことは時には辛いこともある。将来のため、自分の財産のためなどと言っても、キミたちにはまだ分からないだろう。勉強がかったるいと口を揃えて言う1年生たち。何からどう始めたらいいか一緒に考えよう。キミ達の先輩も2年前同じことを言った。意欲もなく、かったるそうだった。でもその先輩たちは今日、自力で入試の門をくぐろうとしている。 受験生の真剣さを見て何かを感じたのか、ここ数日下級生が静かだ。気配りのプリントは配ったが、それ以上に何か大きな変化を感じる。生徒たちは先輩の姿を見て成長していくのか。卒業シーズンに毎年訪れる暗黙の空気。学年が入れ替わり、やがて来る順番が少しずつ見え始める頃。自然と芽生えてくる姿勢は教室だけが知っている。
2006.02.01
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