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こんな折り込み広告が入っていました!? ヒマがあるとこんなのを書いている子ども達です。
2008.02.25
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事情により、しばらくの間ブログは不定期になります。事情とは、一定期間のプロジェクトに没頭するためです。期間は6月いっぱいがメドです。デイリーは無理でも、おだずま流の仙台・宮城・東北の勉強を、週に1度や2度は記事にして行きたいと思います。できるだけ。また、リンクさせて頂いた皆さんの記事は毎日読むつもりです。おだずまジャーナル編集長 小田島樹成 謹白
2008.02.20
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東芝の西田社長は今日19日、HD-DVD規格による次世代DVD事業の撤退を正式に発表した。次世代DVDはソニーなどのブルーレイディスク規格に統一されることになる。同時に北上市と三重県四日市市の2カ所にフラッシュメモリー工場の新設も正式に決定。 北上市内でのフラッシュメモリー新工場建設は、半導体製造装置最大手の東京エレクトロンの宮城県進出(10年)と合わせて、大型進出が相次ぐかたちとなる(19日日本経済新聞記事)。岩手県はすでに、半導体関連企業が多く、集積回路や製造装置の製造品出荷額が東北トップ。宮城の村井知事も記者会見で朗報と喜び、自動車産業と合わせて両県の相乗効果を期待した。 ところで、一方でHD-DVD規格撤退で、五所川原市の子会社東芝メディア機器への影響も懸念される。何か明暗分かれるという感じだ。
2008.02.19
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今年も設置しました。例年この時分になるといつ出すべきか迷うのですが、一念発起して出しました。下の子が手伝ってくれました。これが我が家のおひな様。10年目くらいでしょうか。殿が太刀を右に差し、笏(しゃく)を左手に持っているのは、娘が左利きなので合わせた、のだそうです。
2008.02.18
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この際正確に知識を蓄えよう。知っているようで曖昧な、東北の大河北上川の改修と流路変更の歴史について。1 前史最も古い改修は、宝亀11年(780)から24年にわたって坂上田村麻呂が行った舟運を目的とした低水工事とされる。また洪水対策も原野を田畑にするのに応じて行われてきた。北上川の舟運は各豪族の関心事であり、安倍氏により河畔に城柵が数多く建立されていたとされる。現在も、一関市川崎に石積みの跡が確認でき、石積みの技術が存した以上当然河川改修も行われていたと考えられる。(慶長以前の流路図)2 伊達宗直の改修1604年に登米に移された白石(伊達)相模宗直は、慶長10年(1605)に暴れ川北上川河道の変更に着手。北上川を川面付近で遮断し、約5年の歳月をかけ、米谷へ湾曲させて二股川に合流させる堤防(相模土手)を完成。息子の宗貞と親子二代にわたり北上川改修工事は続けられた。こうして森と吉田の流路はなくなり、北上川は平野の東に寄せられ、かつての流域は広大な新田として開発された。(宗直工事後の流路図)3 川村孫兵衛の改修伊達政宗は仙台藩の基盤をより強固にするため北上川をはじめとする河川の改修と利用を押し進めようと考えた。そのため、長州出身で冶金や土木にすぐれた川村孫兵衛を招き、数々の治水・利水事業を手掛けた。中でも最大の功績は、元和9年(1623)から4年の歳月をかけた北上川改修工事。柳津-飯野川間の遮断、北上川・迫川・江合川の流路を和渕で合流させ、後に、その合流に北上川の西流を戻すことで、北上川、迫川、江合川の三大河川を一本化し、舟運路としての北上川の機能を飛躍的に高めたものである。この付替工事により、河口石巻は、江戸廻米の一大集積地となり、奥州の中心的な港として栄えた。(川村孫兵衛工事後の流路図)孫兵衛は1648年に没するまで牡鹿郡門脇村に住み、屋敷跡が普誓寺とされ、墓が残っている。しかし、孫兵衛の改修では、迫川、江合川は北上川に合流させられ、川幅が絞られたこの合流点上流域では毎年のように水があふれた。繰り返される氾濫に人々は水山(盛り上げた土の上に建てられた小屋)を作り、洪水と共存した生活を営むことを余儀なくされた。4 明治以後明治13年(1880)から35年にわたって、河口の石巻から盛岡まで、航路改良を目的とした低水工事を実施。明治43年の2度にわたる大洪水をきっかけに明治政府は北上川改修に着手。明治44年(1911)から昭和9年(1934)にかけて、河口部の放水路として開削を実施。柳津から飯野川までの新水路の開削、追波川の拡幅による新北上川の整備という抜本的な改修が行われ、飯野川可動堰の完成をみる。昭和22年、カスリン台風は登米市中田町大泉で北上川の堤防を破り、翌23年アイオン台風が再び北上川流域を襲い、迫川などの支川で破堤氾濫を引き起こす。これら多大な被害を受け、従来の治水計画を再検討とし、上流部(岩手県内)には5大ダム(石淵、田瀬、湯田、四十四田、御所)を整備し、下流部でも洪水調整のためのダム建設を行う、上下流一貫した北上川改修計画を確立。昭和53年には飯野川可動堰に代わり、北上大堰が竣工。現在もこれらの計画を基本に治水事業が行なわれている。(明治以後の流路図)■参考 北上川下流河川事務所のサイト(河川改修の歴史) 『宮城県の歴史散歩』山川出版社、2007年 978-4-634-24604-1■関連する過去の記事 北上川流域の「水山」(08年2月11日
2008.02.17
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東松島市の野蒜海岸と宮戸島は橋でつながり、自由に道路で行き来できるが、もともとは自然の水路で隔てられていた。この松島湾と石巻湾をつなぐ水路が、昨年秋に大量の砂の堆積でふさがってしまった。嵯峨渓遊覧船乗り場の南側から宮戸島・二本松鼻まで、もともとは幅150メートル、長さ200メートルあった水路だが、ここ数年の間に、砂がたまり始め浅瀬状態になり、昨年10月末に一気に埋没。埋没は初めてのことで、完全に陸続きになってしまった。松島湾側からすると、鳴瀬川などから供給される栄養分が松島湾に注ぐ重要な水路で、東名前にはノリとカキ養殖の有力な漁場がある。海水の循環が途絶えたため、特産の養殖カキに被害が出始めている。危機感を募らせた地元の養殖業者が県や市に抜本的な対策を求めている。砂は、1984年に石巻工業港防波堤の建設が始まってから、たまるようになったという。地元漁業者の間では、南防波堤の延長に伴い潮流に変化が生じ、大曲浜の砂が流れるようになったという考え方が主流だが、はっきりした原因は分かっていない。水路を管轄する県は、船の航路を確保するため毎年、約一千万円をかけて、しゅんせつによる砂の撤去作業を実施しているが、堆積のスピードに追いつかないのが現状。15日には、県、市、漁協、学識経験者らで組織する潜ケ浦(かつぎらうら)地区海域環境対策コラボ事業検討懇談会が設置され、初会合。県は埋没した水路の応急対策を説明するとともに、恒久対策の整備方針や工法選定スケジュールなどを示した。応急対策は四月から水路復元を目指して埋没現場を延長百メートル、幅十-十五メートル、深さ三メートルにわたって掘削する。しかし、地元漁協幹部から「せっかく掘っても、海が荒れた場合はまた埋まってしまう。恒久対策を示して対応してほしい」との意見が出されたため、応急対策は検討し直すことになった。また「近くの航路が浅くなっており、しゅんせつしてほしい」との要望も出された。(三陸河北の記事などから)野蒜から宮戸地区に入ると、しばらく海沿いに県道が走るが、このあたりは以前は海だったと聴かされたことがある。工業港建設より前から堆積は進んでいたのだろうか。自然の力。漁業関係者の立場と行政(財政)の役割など、考えると難しい課題だ。
2008.02.16
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岩手県初の県立中学校の名称が内定したそうだ(岩手日日新聞記事)。平成21年4月開校の「一関一高に併設する県立中学校」だ。名称は「県立一関第一高等学校附属中学校」とし、6月の県議会で正式決定の見通し。校名検討の内容として、「県立一関中」「県立一関第一中」では現在ある「一関市立一関中」と混乱すること、「附属」を冠することで中高一貫校を表現できること、などが示された。また旧一関藩校名を入れた「附属教成館中学校」などの案も示されたが、単純に附属中の方が分かりやすいとの意見でまとまった。なお、公募については併設で選定に制約があり、他県の例がほとんどないことから行わなかった。また、校歌は高校と同一、校章も高校とほぼ同様とする、という。以上が報道の内容だが、なるほど附属中という表現はシンプルで良いと思う。また安易に公募に走らなかったのも教育委員会や学校の見識を感じる。藩校の名を用いるのも一案だが、やっぱり最も自然なこの案が良いと思う。わが宮城県の中高一貫(併設型)は、二華中・二華高と決まった(資料)。母体となる県第二女子高も共学化するから一緒に改名したもので、中高が同じ名称で統一されており、これもわかりやすいと思う。ところで名称公募については、宮城県では石巻好文館高校の例がある(資料)。公募を悪いとは思わないが、私は設置者が地域と経緯を踏まえて大局に立ち、また声なき声も聴いて責任をもって命名すべきと思う。市町村合併でも実はそう思っているのだが、校名はなおさらそう思う。第三女子校の共学化後の新校名を現在募集しているが(資料)、なんか軽薄で無責任さを感じてしまうし、しかも半年くらいの長期間で募集するというのも、一体何なんだろうと思う。公募を嫌うのは私個人の特殊な感性かも知れない。県教委というより、学校関係者(同窓会など)の意思などで左右されている事情もおそらくあるだろう。現に公募する場合しない場合さまざまだから。とすれば、関係者の意識もどんなものなのだろうか。言い過ぎか。■関連する過去の記事 中高一貫校と東北(08年1月15日) 藩校サミットin鶴岡(07年6月21日)
2008.02.15
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昨夜は焼き肉。祖母のお薦めの「かずの豚」3パックを6人で食べた。柔らかくておいしい。私もたぶんそのうち1パック分くらい食べたような気がする。今朝起きると、ちょっと体が豚肉の白身っぽいような感じ。食べ過ぎか。かずの豚のおかげだ。SPFとか書いていたな。ところで、鹿角なら、なんで「かづの」と表示しないのだろう。気になっている。
2008.02.14
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仙台駅で手にした福島県の冬の観光パンフ。社団法人福島県観光連盟『うつくしまほんものの旅 2007冬号』で、県内スキー場の情報が満載。私は、福島県内のスキー場は猪苗代とあだたらを訪れただけで、しかもずーっと昔のことでいずれもあまり記憶がない。ぱらぱら見ていたら、日本一好いているスキー場、と銘打った「三ノ倉スキー場」が目に留まった。雲海を眼下に滑走する写真も印象的。ガラガラで空いているよ、というPRをチャッカリしているスキー場。気になる。場所は喜多方市(旧熱塩加納村)だ。一応、福島県の統計で入り込み状況をみてみた。平成19年版福島県勢要覧(観光客入込状況 平成18年)多い順に並べてみると(見落としがないことを祈って)...----------1 会津たかつえスキー場 316,408人2 アルツ磐梯スキー場 265,1593 猪苗代スキー場 214,6224 グランデコスノーリゾート 189,0695 猪苗代リゾートスキー場 113,2406 あだたら高原スキー場 107,4007 裏磐梯猫魔スキー場 104,787(以上が10万人以上)8 だいくら山9 羽鳥湖10 ひらた11 箕輪12 ラビスパ裏磐梯13 沼尻14 南郷15 会津高原高畑16 たまかわ17 リステル18 裏磐梯 35,30019 塩沢 27,459(そして堂々最後に...)20 三ノ倉スキー場 14,413人----------というわけで、掲載された中では確かに最も少ない入り込み。リフト2本は待ち時間なし。駐車場も無料、食事も村営で格安のおいしい喜多方ラーメンが食べられるそうで、結構穴場のような気もする。でもやっぱり仙台からは足が遠いのが実感。たかつえスキー場が最も入り込みが多いのは、ゲレンデが豊富で関東から来ているからなのだろう。そんなスキー場ももちろん良いけど、県北部のさりげなく空いているスキー場も何だか面白そうだ。ちょっと思い出すのだが、宮城県内では白石スキー場が実は好きだった。たぶん最近では年間入り込み3万か4万くらいだろう。最近訪れていないが、やや新しいセンターハウスとは別に、脇にある古い休憩所が、これが実に良かった。2階に上がるとストーブがあってヤカンでお湯が沸いていて、カップラーメンに湯を入れる人や、寝ころんでいる人がいる。かなりくつろげた。三ノ倉スキー場がどんなところかわからないが、そんな肩肘張らない、華やぎとは無縁の(失礼!)くつろげる所なら、なお良い。
2008.02.13
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昨日の動物園(日記)を思い出したようで下の子がパソコンで絵を描いていました。ご紹介します。何も指導していないのですが、7歳にしてはパソコン使いの要領が良いようです。
2008.02.12
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朝から快晴。下の娘と八木山に出かけた。雪の中アフリカの動物たちはどうしているだろうか。やっぱり慣れない雪にとまどっているように、見える。カバは固まっているし、キリンも元気がない。アフリカゾウは雪を食べていた。遠い昔ハンニバルに率いられてアルプスを越えた先輩達を思い出すのだろうか。ライオンもトラも横になっていた。写真にはアフリカ園ではなくて動物園の下の方の動物たちもいます。中右がリャマ。下左がカンガルー。下右がレッサーパンダ。長春から来たレッサー君は一番寒さに強いような気もします。シロクマ君はさすがに元気だった。しかし本物は撮影に失敗したので、これでご勘弁を願います。そんな活気の失せた雪のアフリカ園で、ひときわ輝きを放つのが、やっぱりベーブルース像ですね。動物たちも頑張れ。仙台にも間もなく春だ。と言いたいが明日明後日は真冬日の低温とか。
2008.02.11
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水山とは初めて知ることばだった。不勉強を恥じる。小学1年生でも書ける字句だが、わが宮城の生活に根ざした風景だ。■登米市視聴覚センターの記録映像「永遠の伝承 遊水地帯に生きた先人の遺構 水山」 (旧豊里町のもののようだ) 国土交通省資料 宮城県登米振興事務所資料 東北学院大学の研究室のサイトの資料北上川や迫川流域は水害常襲地帯でもあったので、2m程度の微高地を作り、水害に備えた。これが水山である。水山には井戸も備えて長期間の水害に対処した。江戸時代には買米制のため一般農家には蔵はなく、近代以降に蔵のある水山の風景が出現した、という。(『宮城県の歴史散歩』山川出版社、2007年 978-4-634-24604-1)
2008.02.11
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もうやめる、と何度も宣言している上の子のピアノ。騙し騙し続けているようなものだが、たまに熱中している時もある。親に言われて向かわされるのを嫌うようで、なかなか難しい。先生の薦めで2度目のグレード検定を先月受けた。よそのお嬢様達は待っている間も母親と音楽の話などしていらっしゃるのに対して、わが娘はラフなトレーナー姿で持ち込んだ本を読み耽っている。緊張感もないようだ。せめて検定の先生に対する礼儀だけはしっかりやって欲しい、と思わずにいられない。さて、その結果が先週通知された。合格でしかも全項目A評価。喜んだらしく、日中に祖母の携帯からメールまでよこした。実はその数日前にネットで合格は知っていた。前回は画面をみて一緒に喜んだものだが、今回はあえて教えなかった。自分の運命は自分で知って欲しいというのと、場合によっては「落ちる」ことも経験して欲しいと思ってもいた。いずれにしても親が騒ぐ話でない。本番に強い子なのか。あるいは検定主催者側でもこの段階では政策的に(失礼!)高い評価を与えるのだろうか。祖母にお小遣いまでもらって、有頂天になっている娘。出ないと宣言していたコンクールにも出場するようだ。前向きになっているという点で、良いことなのだろう。たまには挫折も味わって、その上で今度は自分の意思で主体的に取り組むようになって欲しい、などと考えるのは親の勝手か。いや存外に既に自分の意思で動いているのかも知れない。見ていない所で練習しているよ、というのもウソではないかも知れない。親が自分の見ている範囲で親の思うように動けばいい、という観念をもっているから気になるだけ、なのか。しつけの段階は過ぎただろうから(それも問題は残しているのだが)、親も大人になろうか。■ピアノ検定の効用を考える(07年4月11日)
2008.02.11
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魔よけに関する本を読んだ。古今東西の魔よけの形と由来を紹介する入門編で、随所でなるほどそういう意味だったのか、と思わせる。紋章や道具だけでなく、鰯の頭、猿、シーサーなども紹介されている。人類がどんな思いを込めて魔よけに努めてきたのか、とても興味深く読んだ。■岡田保造『魔よけ百科 かたちの謎を解く』丸善、2007年 978-4-621-07876-1西日本が中心かと思いきや、東北に関する記述も結構あったので記す。1 五芒星(安倍晴明判紋とも) いわゆる星マーク。一筆書きで書けて閉鎖性を持つことで、悪霊を監視する「目」の結び目が多く、また魔力を封じ込める効果があると考えられ、先史時代から洋の東西を問わず呪符とされてきた。(私は地球防衛軍の流星マークを思い出す。) 我が国の五芒星は西洋あるいは中国から伝来し、5つのカドが、密教でいう五大(地水火風空)や陰陽思想の五行(木火土金水)を表し、五行相生説や五行相剋説と結びつけられた。 我が国最古のものは7世紀の阿古山古墳(鳥取市)石室壁面。上野国分寺と国分尼寺(群馬県)に挟まれた河川敷の祭祀遺跡。 また、古代出羽国の役所であった払田(ほった)柵(秋田県)の祭祀遺跡の土器に墨書されている。915年の十和田火山大噴火に対する祓いの祈りとみられている。2 目籠 かつて東北や関東では御事始め(2月8日と12月8日)に目籠を籠の先にかぶせて軒に立てかけた。この日に来る鬼を撃退するために、多くの「目」を用意するのだ。また、目は五芒星(六芒星といった方が近いが)に似ている。3 九字 中国の葛洪(かっこう)の道教思想の本『抱朴子』にある護身の呪文。臨兵闘者皆陣列前行の9字。これを図形化した縦5本横4本の井桁が九字紋として用いられる。 9世紀の国家北方経営の拠点胆沢城(奥州市)近くの住居跡からこの図が刻まれた土器が出土。 修験道や日蓮宗では九字之大事という秘法がある。修験者は護摩を焚く時、九字を唱えながら空中に紋を切る。4 ×印 弥生時代の島根県荒神谷の銅剣などに刻まれ、古墳時代の但馬地方などの土器に書かれている。明らかに信仰的なものとしては高松塚古墳壁画や薬師寺金堂本尊台座の青竜像の首にある。アイヌ民族の神に捧げる酒箸や修験者の錫杖にも付く。 会津若松城では現存の5つのすべての虎口(入り口)の石垣に×印が刻印されている。5 双六 インドのエローラ石窟寺院の床に十字形の双六が彫られている。パチシと呼ばれ、インドで一千年を越える伝統をもつ。イランのペルセポリスのテラスにも、古代エジプトの双六セネトに似た双六が彫られている。 我が国では北国鎮護を祈る達谷窟毘沙門堂(平泉町)の入り口階段土台石に同様のものがある。 トルコのエフィソス遺跡では大道上に数種のゲームの模様。これらは神の意志を問うための祭具とされる。また古代エジプトのものは死後の安寧を祈るものとも。6 反閇(へんばい) 中国夏王朝の始祖禹が治水のため全土を巡った時、痛めた足を引きずるように歩いたのを禹歩(うほ)と呼び、道教で清めと魔よけの呪術的歩行法となった。足跡を9つ残す歩行法ある。我が国に渡って反閇と呼ばれ、陰陽道、修験道の呪法となり、また芸能にも受容された。奈良時代には新築の時に土地を踏み地霊を鎮める行為が万葉集にも詠まれている。平安以降は陰陽師が貴族の外出などに際して祓いの反閇を踏んでいる。 江戸時代になると魔除けの九字を意味する三方陣盤の1から9の数字を順に踏むと招福除災が約束されるとして、ひろく庶民まで大きく刷られた三方陣盤の上で自ら反閇を踏むようになった。 芸能では、奥三河の花祭りで反閇が踏まれる。また北上の鬼剣舞の名は反閇から付いたという。いずれも修験者がもたらした作法。相撲も地霊を踏み鎮めるもの。7 鉱山 危険な作業だけに坑道には呪符刻印がある。奈良大仏の銅を産出した長登銅山(山口県)の坑口前の岩にも呪符の星印と×印が彫られている。17世紀頃のものでは、山形県の野辺沢銀山で排水用の疎水坑に十字などの刻印が彫られ、近くに祀られる山の神の神紋は○に十字。----------最後に、画像は知人のトルコみやげの魔よけ。この本にも出ていた。東南アジアから地中海沿岸にかけて、青い一つ目のお守りが邪視(危害を加える眼差し)を退けるとされる。
2008.02.10
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我が庭の「かまくら」の名残り雪。今日は消えそうです。■関連する過去の記事 かまくら(08年1月27日)
2008.02.09
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最近新聞広告によく出る。よしもとお笑いEXPOin仙台というやつで、お笑いタレントの顔が一堂に揃って、出演予定とか決定とか書かれている。何日か前のには、うなずきコンビが出ていて、出演決定、と。今までは出ていなかったと思う。吉本とどういう関係なのかこの世界のことは知らないが、とにかく目にとまった。ビートきよしと洋八さんだ。私はビートきよしが好きだが、最近はめったにTVでも見ない。仙台に来るなら見たいな、と思う。■過去の記事 山形出身の芸人(07年3月27日)
2008.02.09
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日本製紙の環境偽装とKスタ命名権問題は一応決着したようだが、宮城県と仙台市以外で初めて塩竃市が命名権取引に乗り出す(市サイトのお知らせ)。さる1日、塩竃市は市体育館の命名権の購入先を募集すると発表した。希望価格は年500万円で3年程度。公共スポーツ施設にふさわしい企業を求めるそうだ。2月から当分の間随時受け付け、ということだ。そこで、おだずま流で考えてみた。由緒ある歴史のまち塩竃(塩竃市サイトでは塩「竈」の文字を使っているが)にふさわしい企業とネーミング。塩竃にゆかりの企業で勝手に考えました。1 カメイしおがま体育館(やっぱり塩竃発祥の企業と言えばカメイでしょう。亀井文藏氏が名誉市民です。)2 塩竃うらがすみアリーナ(佐浦さんがスポンサー)3 亀喜すし哲しらはた体育館(とにかく寿司屋を並べて寿司海道をPR)4 やまやワールドリカースタジアム5 守屋記念総合体育館6 おだずまジャーナル東北ギムナジアム(これは無理です。500万円出せないので。)ふざけた方に持って行ってしまったが、まずは、どこか企業が名乗りを挙げてくれれば良いと思うのが本音です。
2008.02.08
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国道6号線沿いに看板があり、西に折れるとすぐ山門が見える。曹洞宗の大雄寺(だいおうじ)で、一門亘理伊達氏の菩提寺。武石氏の小堤城跡の場所になるそうだ。当初は信夫郡小倉郷(現福島市)にあって陽林寺と称したが、伊達実元(成実の父)の戒名にちなみ雄山寺とし、慶長9年(1604年)に現地に移転。のち3代藩主綱宗の諡号の雄山をはばかり寺号を大雄寺と改める。画像の正面は成実の霊屋である。霊廟の中には成実の木造彩色甲冑像があるという。霊屋の左手で堂宇の補修工事だろうか、足場が組まれて職人さんが登っていた。冬のおだやかな陽を受けていたが、やっぱり亘理は暖かい。仙台は氷点下続きなのに、気温が7度くらいだった。成実は、勇猛にして才知あふれる武将。TV画面の三浦友和の印象も残るが、実は私は子どもに成実の名を付けたかった。娘が生まれ、それでも「なるみ」と読ませて名付けようかと思ったほどだ。亘理2万3千石は、伊達成実が領主となり明治まで14代にわたって治めた。亘理城(御館)は現在の亘理高校、旧舘公園。戊辰の戦では仙台藩の降伏文書調印が亘理城で行われた。亘理町は由緒ある宮城の要の地で、城下町の風情も幾分残っている立派な町なのだが、宮城県全体の中で見ると、現在の交通の枢軸から外れているためもあってか、注目が集まらないような感じもする。私の勝手な印象に過ぎぬかも知れぬが。実際に6号線を南下しても、現在の国道は旧市街地を通らないから町を感じ取ることもできない。しかし、歴史も食べ物も豊かなところだ。ホッキ、はらこめし、いちご、何度か我が家でも訪れている。鳥の海に新しい温泉施設もできたから、またゆっくり訪れてみたい。■参考 『宮城県の歴史散歩』山川出版社、2007年 978-4-634-24604-1
2008.02.07
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写真は栗原市一迫の川口納豆。村松博士製法との文字。しばらく前のことなのだが、栗原市(旧花山村)の道の駅で見かけた瞬間に、記憶の堆積層に埋もれたものにカチンと当たったような感覚をおぼえた。小さい頃の納豆といえば、こんな独特な折りたたみ方をした赤い紙の包装だった。家で食べていたのもこの納豆だったと思う。あるいは、当時はどこの納豆も同様の包装だったのかも知れないが、たぶんこの川口納豆だったのだと思う。川口納豆さんのホームページ(これでしょうか。他に紹介記事)を見ると、昔ながらの地域企業として顔の見える信頼感がある、などと勝手ながら思っている。地域企業などという枠に納めては失礼か。商品は全国に広がっているのだろう。栗原発、宮城発バンザイ。我が家は納豆一家。上の娘などは幼少の頃に食べさせたお陰?か、朝はもちろん、夕食にも納豆パックを引っ張り出して食べている。妻とその母は昨冬の納豆ブーム崩壊後も平常ペースで食している。生協さんのパックだが、たまには川口納豆にしようか。食べ応えがあって美味そうだ。子ども達にも知って欲しいし。さて、6時です。そろそろ朝飯にするか。■関連する過去の日記 納豆大国? 山形と仙台(07年3月8日) 納豆ブームを考える・続(07年1月22日) 納豆ブームを考える(07年1月13日)
2008.02.06
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宮城県の市町村図を見ると、仙台市と境を接するのは、市では多賀城市と名取市だけ。町では色麻町、大和町、富谷町、利府町、七ヶ浜町、村田町、川崎町。平成の大合併も仙台周辺では進んでいない。宮城県全体を見渡すと、県北部はだいぶスッキリした。大崎市から栗原市、登米市、石巻市、東松島市まで、県北は大きな「市」が隣り合うようになった。これら5市は涌谷町と美里町をはさんで大きな円環のようでもある。しかし実はこの円環は最後の東松島市が大崎市に惜しくもタッチしていないのだ。鳴瀬川沿いに旧鳴瀬町(東松島市)と旧鹿島台町(大崎市)が近接しているものの、美里町(旧南郷町)と松島町が、鳴瀬川上付近にわずか300メートル程度境を突き合わせているために、両市はタッチしていないのだ。残念。しかし、大崎と東松島は「市」としてグルリとつながっているということはできる。すると、宮城県は、北から(1)気仙沼市、(2)大崎市から東松島市までの未完成ドーナツ、(3)仙台市を含む塩竃市から岩沼市までのエリア、(4)角田市と白石市の県南コンビ、の4つの「市」エリアに整理されていることになる。岩沼市と角田市も近くまでは寄っているのだが、亘理町と柴田町の境が阻んでいる(槻木大橋から下流の阿武隈川水面上1キロちょっと)。もしつながっていれば、仙台から「市」つながりで角田、白石経由で福島県方面につながるのだが。しかし、宮城県だけで考える必要もない。そう、仙台市は山形市や東根市とも接しているから、県境を取り去って考えると、仙台からどこまで「市」伝いに行けるのだろうか。例えば気仙沼まで行けないか。それが今回のテーマである。(ルールとしては、道路があるかどうかは無関係。水面上の境は、河川や湖沼については隣接しているものとし、塩竃市と東松島市のように海上の場合は隣接していないものとします。)それでは、仙台市をスタートしましょう。まずは山形県側に出ることになる(山形市、天童市、東根市)が、(1)南は南陽市まで行けるが、米沢市につながらないから、福島県側に展開できない。(2)北は尾花沢市まで。新庄市にはつながらない。尾花沢市も宮城県の大崎市には隣接していないことから、結局はこれ以上展開できないことがわかった。もし大崎市に戻ることができれば、さらに栗原市、一関市を経由して気仙沼市に到達できる。そして、陸前高田市、大船渡市、釜石市、遠野市と次々と伝って盛岡市や二戸市まで行ける(岩手県市町村図)。また、秋田方面には、湯沢市を経由して秋田市を含む秋田県内全市を制覇できる(秋田県市町村図)。秋田は合併が進んだから「市」のエリアも広いのだ。そして、秋田も岩手も「市」エリアは青森県境まで達しており、岩手県(二戸市)からは展開できないものの、秋田県からは堂々と弘前市や青森市や五所川原市までつながっている(青森県市町村図)。秋田県の単一の一大「市」エリアと岩手県の最大の「市」エリアは当然つながっているから、結局のところは、北東北3県の主要な市を含むエリアが一連の隣接したものとなっており、ここに気仙沼市を含む宮城県北部の「市」エリアもつながっている、ということになっている。これをかりに「みちのく都市大連合」とでも呼べば、これに外れているのは、むつ、三沢、八戸、久慈、宮古の各市だけである。面白いことに、山形県内だけでみると内陸部の「市」エリアとつながっていない酒田市や鶴岡市も、由利本庄市を経由してこの「みちのく大連合」とつながって新潟県境にまで達している(新潟県の市には隣接しない)。従って、「みちのく大連合」の南端は、日本海側では鶴岡市、太平洋側では東松島市、ということになる。もし最上郡の合併とか、せめて舟形町が市になれば新庄市経由で大連合につながる。宮城県で言えば、例えば利府町が市になれば、仙台エリアが大連合とつながるのだ。こうなれば、仙台市も大連合の仲間入り。そして、南方面には、例えば柴田郡の市昇格があれば、仙台市から、福島県は福島市からいわき市、そして合併で市エリアの広い茨城県を難なくスルーして、何と東京までつながっているのだ。現状でも白石市や角田市は東京とつながっている。こんな目で地図を見ていると、マインスイーパを想い出した。
2008.02.05
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北海道と東北は多くの名力士を輩出してきた。まずは谷風梶之助。寛延3年(1750年)宮城郡霞目村の農民金子弥右衛門の子の与四郎として生まれる。母は名取郡袋原の出。17歳で仙台出身の関ノ戸億右衛門に見いだされ、後に伊勢ノ海部屋に属す。最初は秀ノ山と名乗り、明和6年(1769年)に達ケ関(伊達関)森右衛門で江戸相撲の初土俵。安永5年(1776年)谷風梶之助に改名。安永10年に当時最高位の大関に昇進。寛政元年(1789年)にはライバル大関の小野川喜三郎とともに横綱の免許を与えられた。寛政7年(1795年)感冒のため現役のままで病没。なお、横綱については明石志賀之助を初代とする説もあり、谷風は4代目ともされる。谷風の江戸相撲は通算258勝14敗、引き分け16、預かり16、無勝負5、と圧倒的な勝率であった。この谷風の出自には異説もある。秋田の鹿角郡小坂の余路米の中村家に生まれたとする。明和年間の大凶作で母子が家を出て盛岡を経て霞目に再嫁した。このときの子が谷風だというのである。さて大横綱となった谷風梶之助の名を最初に名乗ったのは、鈴木善十郎という人物で、元禄7年(1694年)磐城国刈田郡宮村に生まれた。江戸相撲で大関を倒し、大坂でも活躍。讃州高松藩のお抱え力士となったので讃州谷風とも呼ばれる。この初代谷風は、9年間一度も負けない強さを見せたが、紀州藩お抱えの八角楯之助に京都二条河原で敗れる。相手の八角は立ち会いで谷風をじらす戦法をとっており、「待った」の元祖とされたという。初代谷風の顕彰碑は白石城跡にある。初代谷風よりさらに半世紀ほど前、宝永年間か正徳年間に没した谷風丹右衛門がいる。羽州鶴岡の五日町に生まれ、本名福山五郎吉。最初は月之峰を名乗り、やがて谷風丹右衛門と称する。庄内藩領内を手初めに諸国をめぐり、西国にわたっても谷風にかなう者はなかった。当時の相撲は、投げ殺しなどの荒技が残っていたが、ちょうど「土俵」が登場した頃で、丹右衛門は相撲改革を意識し、持ち出しや吊り出しなど、相手に危害を与えない技を本分としたという。成績などの記録は残っていないが、庄内の相撲関係書『大泉金剛記』によると、徳川将軍家から日本一を意味する称号を授かったという。以上の3人の「谷風」のほかに、大力士として丸山権太左衛門がいる。正徳3年(1713年)登米郡中津山(登米市米山町中津山字城内)に、領主大立目氏の家老芳賀楽右衛門の子銀太夫として生まれる。銀太夫は仙台藩主伊達吉村に随行して江戸に向かい、黒川郡出身の七ツ森折右衛門に入門。最初は技も全く知らなかったが怪力を発揮し、享保17年(1732年)丸山権太左衛門の四股名で大関になる。大坂、京都でも人気を博した。寛延2年(1749年)長崎巡業の際筑後柳川で疫病にかかり現役のまま長崎で病没。18年間の土俵生活で負けたのはたった2回だけという。この丸山が相撲界の元締め吉田司家から横綱免許をもらったとする伝承もあり、さきの明石志賀之助を初代とする伝説などから、明石を初代、丸山を第3代、谷風が第4代とする説がある。さて、東北の横綱は何人いるだろうか。後掲書の整理によると、----------青森 6岩手 1宮城 1秋田 1山形 1福島 なし----------ということだ。山形は柏戸、岩手は宮城山、秋田は照国、だろうか。宮城山は明治28年一関市山ノ目の出身。最初は岩手川の四股名で後に宮城山に改名。大正11年に大坂相撲最後の横綱になる。照国は湯沢市(旧雄勝町)出身、昭和14年新入幕の後最年少で横綱に昇進。宮城は谷風なのだろうが、一般には宮城出身としては秀の山雷五郎、大砲万右エ門も挙げられているようだ。王国青森県は、鏡里、若乃花 (初代)、栃ノ海、若乃花 (2代)、隆の里、旭富士という顔ぶれのようだ。さすがだ。■関連する過去の記事 名門二所ノ関と東北(08年2月3日)■参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年 978-4-89544-466-8
2008.02.04
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日本相撲協会は北の湖理事長四選を決めたが、新理事には九重(元千代の富士)、二所ノ関(元関脇金剛)の2親方が新任された。いずれは九重親方を理事長に据える方針だそうだが、名門二所ノ関の名は東北に由来するとのことだ。現在の二所ノ関(部屋)の年寄名は、最初の親方である二所ノ関軍右衛門(初代)に始まる。宝暦11年(1761年)南部領黒沢尻で生まれた。本名小田島音蔵。南部藩のお抱え力士となり、滝ノ上音蔵として二段目デビュー。天明8年(1788年)に錦木塚右衛門と改名。この名は南部領鹿角の歌枕である錦木塚(現在の鹿角市十和田字錦木)を織り込んだもので、藩領の雅名を四股名にした南部氏の期待がうかがえる。文化元年(1804年)には角界の最高位大関に昇進、文化3年に二所ノ関軍右衛門と改名。奥州街道の仙台領との藩境には、鬼柳関所と相去御番所があり、あわせて二所ノ関と呼んでいたことにちなんだものである。文化4年の二月場所を最後に引退し、南部相撲の頭取となって後進の育成を続け、文政6年(1823年)に没。二所ノ関はその後幕末から江戸相撲の年寄名となり、名門二所ノ関部屋につながっている。■岩手県立博物館資料
2008.02.03
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我が家にも電波時計があるが、何年ぶりかで何故か出てきたその説明書に、受信する標準電波は情報通信研究機構により福島長波局(40khz)と九州長波局(60kHz)の2カ所から出ている、と列島の地図を示して説明されている。たしかにこの2地点を中心とすると上手に列島をカバーできるような図になっている。ところで、何で東は福島と県名で呼び、西は福岡と称しないのか。そんな素朴な疑問もあって、電波時計や標準時について調べてみた。そもそも時間や時刻はどう定義されているのか。一秒の長さは1967年からセシウム原子の量子力学的な定義となった。この原子時計に基づく時系(原子時)により、国際原子時(TAI)が1958年からスタート。しかし日常生活のために、地球の自転に基づく天文時系に合わせた世界時(UT)に準拠するように調整が図られる。これが協定世界時(UTC)である。地球の自転速度は潮汐摩擦などで変化するため、世界時と協定世界時の間にズレが生じる。そこで世界時との差が0.9秒以上生じないように、協定世界時に1秒を追加又は削除するのである。これがうるう秒で、1972年以来行われている。この結果、協定世界時(UTC)は国際原子時(TAI)に対して33秒遅れている。日本標準時(JST)は機構の原子時計によって生成され、協定世界時を9時間進めた時刻として配信される。標準電波(JJY)を送信する国内初の長波帯標準電波送信実用局が、福島県の「おおたかどや山標準電波送信所」で、99年6月に送信を開始。01年にはバックアップと西日本への供給として「はがね山標準電波送信所」が開設。(以上は機構サイトの説明 説明 から)同サイトの日本標準時をみると、確かにTAIとJSTの差が33秒あって、おもしろい。ついでに私のパソコンの内蔵時計が何秒ずれているかも教えてくれる。さて、福島長波局と九州長波局の話に戻ると、福島局は福島県・田村市都路町/双葉郡川内村で、九州局は佐賀県佐賀市富士町/福岡県前原市に位置するそうだ。県をまたがる後者は、その理由で九州局を名乗っているだろう。と勝手に推測。(機構サイトから局の写真)地図を開いてみると、田村市(都路)と川内村の境界線上に、大鷹鳥谷(794.0m)がある。しかし長波局の表示などは一切ない。一応川内村側から頂上に通じる道路があり、さらに尾根(市村境)沿いにも道の表示があるから、ここに施設があるのだろう。「おおたかどや」で山全体を示す名前だろうから、本当は更に「山」と付けるのは変な気もするが、まあ良いだろう。この付近だと、阿武隈山地の大滝根山(1192.5m)が高くて自衛隊レーダー基地もあるのだが、施設共用はできなかったのだろうか。川内村ホームページを見たが、大滝根山の航空自衛隊レーダー基地は紹介していたが、こちらの紹介がないのが、残念。という訳で、堂々東北は福島から、IT最先端、そして日本のスタンダードを発信! ということでした。■関連する過去の記事(川内村) 川内村「村営塾」を考える(07年4月17日)
2008.02.02
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農薬入り中国製ギョーザの衝撃。しばらく冷めやらないだろう。食の安全に対する内外の企業や関係者の意識が厳しく問われる事件だ。ところで、事件の本質とは全く別の話なのだが、厚生労働省や農林水産省の各HPの公式資料では、「中国産冷凍ギョウザ」と記されていた。新聞では「ギョーザ」だ。どうでも良いのだが、気になった。餃子は、ひらがなで書けば「ぎょうざ」だろうから、ギョウザが自然な気もする。しかし中国式発音に由来するのだろうから外来語だと考えれば、カタカナ表記で、しかも長音記号を用いてギョーザとするのも一理あるように思う。大山(おおやま)さんの会社名がアイリスオーヤマと表記されるような関係だろうか。疲れていると、小さいことばかり考える。
2008.02.01
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