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仙台駅で手にした青森の観光ガイドブック。(東北新幹線新青森開業プレキャンペーン09年12月~10年3月 青森県観光連盟発行)冬の青森の魅力が満載だが、青森の味の紹介として、「青森味噌カレー牛乳ラーメン」が写真付きで出ている。一体どんな味だろう、と想像もつかない。牛乳とカレー味なら、川崎町の牛乳ラーメンを娘とよく食べたのでイメージもできるが、味噌風味に、トッピングのバター、と来ると、きっと美味しいのだろうが、さて実際に食べてみないとわからないだろう。問合せ先として 青森味噌カレー牛乳ラーメン普及会事務局長大西さん と実に具体的に書かれていて携帯電話番号まで記されている。併記されたサイトの中には、やっぱり大西さんの携帯が。新幹線開通をにらんで、普及にかける意気込みを感じます。会員店は5店のようです。そう言えば、サイトの文章を読んで思い出したのですが、青森市は即席めんの消費が日本一。ご当地ラーメンとして、頑張って欲しいですね。青森に行ったらコレ、というくらいに。私も近いうちに食べてみたいです。■関連する過去の記事 即席めんを好きな青森の人(07年1月6日)
2009.11.30
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三好京三先生の本を読んでいたら、かつて教員生活の舞台だった衣川村(現奥州市)の大森分校は平成10年に閉校したが、平成15年に文部科学省の廃校リニューアル50選に選ばれたそうだ。(『北上川神楽囃子』チクマ秀版社、2003年)岩手日報の記事も引用されていて、環境庁の事業を導入して平成3年5月にふるさと自然塾として蘇り、環境教育の拠点として活用されている、という。文部科学省サイトの廃校リニューアル50選によると、廃校施設利用に際し、その有効活用に積極的に取組んでいる事例を全国から選定したもの。東北関係では、4県から9事例が選ばれている。抜き出してみた(市町村名は当時)。県市町村施設名称用途旧学校名廃校年岩手県葛巻町森と風のがっこう自然エネルギー・自然体験活動等の研修施設小屋瀬小学校上外川分校平成8年岩手県衣川村ふるさと自然塾自然体験等交流施設衣川小学校大森分校平成10年宮城県志津川町さんさん館滞在型宿泊施設(地域農産物等活用型総合交流促進施設)林際小学校平成11年宮城県牡鹿町網小医院診療施設(入院・デイサービス有)網長小学校平成9年秋田県男鹿市加茂青砂ふるさと学習施設国登録有形文化財加茂青砂小学校平成13年秋田県西木村多世代交流施設山鳩館高齢者生きがいデイサービス・デイケア事業、保育事業、多世代交流事業上檜木内中学校平成11年秋田県平鹿町平鹿町屋内スポーツセンター全天候型スポーツ施設浅舞中学校平成9年山形県白鷹町滝野交流館集会施設滝野小学校平成10年山形県酒田市上田コミュニティ防災センター社会教育施設上田小学校平成9年
2009.11.29
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前回は、隣接都道府県数について考えたが(隣接県の数の問題(11月28日))、勢いで市町村の隣接数を考えてみた。都道府県なら長野の8が最高というのは、小学生でも知っているだろうが、市町村のレベルとなると、最近合併も進んだこともあるのか、あまり人口に膾炙していないような気がする。わが宮城県の地図を見渡すと、やはり仙台市と大崎市が目を引く。仙台市は、名取市、多賀城市、村田町、川崎町、七ヶ浜町、利府町、大和町、富谷町、色麻町、山形県尾花沢市、東根市、山形市、と何と12もある。大崎市については、数えると、登米市、栗原市、美里町、涌谷町、松島町、大郷町、大衡村、色麻町、加美町、山形県最上町、秋田県湯沢市の、何と11市町村に及ぶ。これもすごい。東松島町とは、まさにタッチの差で接していない(下記の記事)。仙台に並ぶことができずに、残念。■過去の記事 仙台から「市」続きでどこまで行けるか(08年2月5日)地図を眺め続けていくと、東北では、郡山市が11だ。ほかでは、盛岡市が10、弘前市も10、いわき市や山形県小国町の9、など。仙台市や大崎市、郡山市はおそらく全国的にも、かなり上位だろう。一般化して言えば、内陸部の盆地を中心として、市域が広く、なおかつ周囲に合併の進んでいない市町村が多い場合に、隣接自治体数が多いということになりそうだ。全国の地図を見渡す時間がないのだが、隣接数の多そうな都市を拾ってみた。名古屋市 17横浜市 7相模原市 11松本市 15京都市 12大阪市 11久留米市 13熊本市 9名古屋が全国一だろうか。
2009.11.29
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大崎市真山のカンガルー騒動。昨夜のナイトスクープは今朝録画で、子供達と一緒に見ました。番組特有の脚色があるのですが、とにかく地元の多くの方々が目撃していることは間違いないようです。そして、今日の大崎タイムスによると、何とカンガルーをラベルにした、オリジナルの日本酒を売り出す、とのことです。真山地区の大場酒店さん(岩出山字上真山)が、新たな地域おこしのためにと「真山カンガルー酒」として売り出すとのこと。ラベルは店主の大場さんが、カンガルーがおなかの袋から日本酒のびんをのぞかせたデザインを考えたそうです。地元の酒屋さんですから、地域の方々の顔の見える関係でしょう。カンガルーの親子をそっとしてあげたいという温かさもありました。地域の心の盛り上がりに、夢としゃれっ気を添えて、カンガルー酒。いいじゃないですか。単なる一発の受け狙いではなく、地域の土と心を感じる取組ではないでしょうか。20日近く酒を断っている編集長。急に飲みたくなりました。■関連する過去の記事 大崎市のカンガルー(11月26日)
2009.11.28
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9歳の娘とクイズをした。宮城県と隣り合っている(面している)県はいくつか。秋田は当たったが、新潟も接しているんじゃないの、と思っていたようだ。だって、福島と山形が隣り合っていて直接通行できるんだから、新潟が宮城に面しているなら、福島と山形の間に忍び込まないとダメになるだろう。あ、そうか。地図の四色問題を思い出したが、子供の頭の中にも東北の地図のイメージが広がっているようだ。つい最近まで、東北には新潟を含むと思っていたようで(それでも良いのだけど)、今年の八月になって同級生と話をしていて、福島が東北だったと気づいたのだそうだ。地図を通して、地域の個性を楽しんだり、或いは幾何学やグラフ理論に興味を持ったり、いろいろと興味を深めてくれればいいが、そんな大それた事はともかくとして、それでは、クイズを切り替えて、福島から山形、秋田、岩手の順に通っていけますか、と問題を出す。答えは、できます。では、岩手から宮城、秋田、青森の順には。行けます。岩手から山形は、ダメです。さて、次には、各県がいくつの県と隣り合っている(面している)か、のクイズに移った。つまり、マインスイーパのような問題だ。宮城県は、4つ。正解。青森は2つ。少ないね。秋田は、4つ。岩手は、3つ。大きい割には意外だね。そう、秋田と宮城が忍び込んでいるから。では、福島はどうか。宮城、山形、新潟、栃木、茨城は問題ないが、もう1つあるのが、群馬県。沼山峠から尾瀬に歩いたのだが、その時この子はまだ3歳。というわけで、福島は6県と隣り合っている。東北のチャンピオンだ。では、全国の都道府県のチャンピオンはどこか。すると、娘が長野、とズバリ答えた。知っていたのだろうか。海無し内陸県がマインスイーパの数字が多くなるのは、必然ではあるが、例えば、群馬と山梨は5。岐阜も長野同様に、県土が広く、周囲に山脈を背にしているから、隣接は7県と多い。埼玉の7は、それ本当かと思うが、栃木とわずかながら接しているし、長野、山梨等と接して数を稼いでいる。■埼玉と栃木の接続について過去の記事 東北街道筋と首都圏ボトルネック問題(08年11月16日) 東北自動車道と群馬県(07年4月23日)
2009.11.28
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道路地図を眺めていたら、福島県の石川郡古殿町に、こんな表記があった。「阿武隈山地のマッターホルン」と。鎌倉岳669.1mのところに書いてある。隣県とはいえ、福島県は広いし、まだまだ訪れたこともない町が多い。よく知らないところばっかりで、大変恥ずかしいのだが、とにかくこの「マッターホルン」が気になる。独立峰で、よっぽど尖っているのだろう。ところが、田村市(旧常葉町)の鎌倉岳967.1mも、(田村の)マッターホルンと呼ばれているようで、鎌倉岳なるマッターホルンが、2つもあるようだ。一応、公的な説明を見る。古殿町公式サイトの鎌倉岳の説明。鎌倉から嫁いだ娘が故郷を恋しく思ったことが名の由来という。山頂からの景色はすばらしいようだが、画像をみても、どうもマッターホルンという感じはしない。うつくしま百名山(田部井淳子さんが選定委員長)には、どちらの鎌倉岳も含まれているが、東北百名山には、常葉鎌倉岳が選ばれている。田村市のサイトの説明では、山頂に荒々しい花こう岩が露出、とある。画像を見ると、確かにピークは尖っているようだ。ここで、思う。道路地図の「マッターホルン」は、阿武隈山系の2つの鎌倉岳の存在に惑わされて、表記すべき場所を誤ったのだろう、と。
2009.11.27
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河北新報によると、大崎市岩出山でカンガルー目撃情報が飛び交っているそうだ。7年ほどま前から、これまで10人以上が見ているとのことで、体長1から1.5メートル、親子でいたとの報告も。カモシカの誤認ともされるが、耳がベロンとしていて明らかに異なる、と目撃者の談。場所は真山地区。岩出山から一迫に至る県道栗駒岩出山線、つまり松山街道(陸奥上街道)の通る美しい中山間地のあたりだと思うが、ここに生息しているのだろうか。大変興味のあるニュースだ。ふらっと河北によると、明日TVでも取り上げられるとか。■関連する過去の記事 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日)
2009.11.26
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来月25日にオープンだそうだ。今朝の河北新報によると、昨日(24日)に、王将フードサービス(京都市)が正式発表した。直営店で、一番町4丁目に2階建て座席数77。コーヒーショップ跡地を利用。ついに登場ですね。京都や大阪で友人達と王将に行ったのはもう、20年近くも昔のこと。ご当地で食べるのが味だ、とは言え、やはり仙台でも食べられるというなら言うことなし、ということでしょうか。心待ちにしていた人たちも多いはず。今後数年で仙台を中心に東北に数十店舗だそうです。地元はんだやも一番町4丁目に堂々復活していることですし、東西の庶民派グルメの一大対決! いや、食べ歩き堪能! といきましょうか。
2009.11.25
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朝に書いた「三世代同居率」についてだが、平成17年国勢調査による集計を基にしているので、山形県のサイトに出ているのが、最新データとなるようだ。(前の日記 三世代同居率の高い山形県(09年11月24日))国勢調査のデータ(表番号の8番)は、第一次基本集計の一部として集計されている。この表から、各県別に、一般世帯数に占める「3世代世帯」数の割合を割り出してみるとわかる。実際には、山形県のサイトに全国の都道府県の割合と順位が出ているから、便利だ。これを見ると、 1位 山形県 24.9% 2位 福井県 20.2 3位 秋田県 19.3 4位 新潟県 19.3 5位 富山県 19.0 6位 福島県 17.8 7位 岩手県 17.3 12位 青森県 15.2 18位 宮城県 13.5 45位 大阪府 4.5 46位 鹿児島県 3.7 47位 東京都 3.1などとなっている(上位、下位の各県と東北6県を表示)。 マップもあるので理解しやすいが、概して言えば、東北、北陸、山陰が同居率は高いグループ。なるほどとも思えるのだが、面白いと思うのは、北海道(43位)や鹿児島(46位)は逆に下位グループであること。九州や四国は、全般的に下位だ。若い世帯の独立の風が高いか、それともお年寄りが元気なのか。また、山形県のサイトには説明がないが、国勢調査結果データには、15大都市が記載されているので、当ジャーナルで「同居率」を計算してみた。同居率の高い順に並べてみる。 静岡市 11.0 % (参考 静岡県 13.7% 16位) 仙台市 5.9 (宮城県 13.5 18位) さいたま市 5.3 (埼玉県 7.2 35位) 名古屋市 5.2 (愛知県 9.0 31位) 北九州市 4.9 (福岡県 7.2 36位) 京都市 4.7 (京都府 6.5 41位) 千葉市 4.3 (千葉県 7.4 33位) 横浜市 4.0 (神奈川県 4.7 44位) 広島市 3.9 (広島県 6.8 39位) 神戸市 3.7 (兵庫県 7.1 37位) 福岡市 3.4 川崎市 3.2 札幌市 3.1 (北海道 4.9 43位) 大阪市 3.1 (大阪府 4.5 45位) 23区 2.8 (東京都 3.1 47位)とすると、全国の大都市の中では、仙台はずいぶんと三世代同居率が高いことになる。大学や支店の多い仙台は、学生や単身者も相対的に多いはずだろうが、首都圏などはもっと世帯の分離が進んでいるということになる。
2009.11.24
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15年ほど前の本に、山形県は、将棋の駒と、センベイの薄さと、三世帯(ママ)同居率の高さが日本一、と書いていた。将棋は今でも有名だし、センベイは、酒田のオランダせんべいだろうが(CMがなつかしい!)、三世代(一般にはこう言うだろう)の同居率は現在でも全国一なのだろうか。時間が無くて詳しく調べられないが、山形県のサイトに資料があった。平成17年時点のデータだが、ダントツで日本一で、24.9%とある。2位福井を5ポイント近くも引き離している。地域別では最上地方が多いようだ。
2009.11.24
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中山道(なかやまみち)は、仙台城下と根白石を結ぶ街道で、根白石街道とも。ぬかるんだ急な坂道には、根白石の人々が地区に分けて道普請を割り当て、枕木を敷き、砂を入れて、大事に守り育ててきた。藩政中期頃までは、仙台方面には、現在の早坂下橋を渡り、東へ500メートルほどの戸平山(現在の北中山)を通っていた。これが急な坂で、「這い坂」と言ったのがいつしか「早坂」となったという。この周辺は切り立った断崖が続き、早坂峠も中世の山城の城郭の一部であった。昭和3年にバスが開通したときに早坂峠ではなく、七北田経由だったのも、中山道の険しさを示す。ところで、根白石から仙台に行くには、3つのルートがあった。1つは、中山道(根白石街道)としてよく知られる、実沢早坂下橋から中山峠、判場、菊田町、北山羽黒神社を経由して城下に出る道で、仙山線根白石踏切のあるルートである。第2に、新道と呼ばれるもの。蒜(ねぎ)屋敷前から七北田川を渡り、六堂屋敷を通る。早坂下橋を通らずに、現在の六堂屋敷橋のルートだと思われるが、この橋は何度も洪水で架け替えられた。主に実沢の人たちが使ったルート。現在の南中山と長命ヶ丘の両町堺あたりを通って、川平に出た辺りから北環状線沿いに南下して(おそらく現在の青葉区と泉区の境界線どおりでないか)、第一の中山道に合流する。第3には、古内道。根白石から、実沢古内(柳澤寺)、泉館山高校、明成高校、滝道、荒巻本沢から、旧来の道と合流して北仙台又は北山に入るルート。根白石や実沢など各村の人々が道路普請に従事して開拓した道路。粘土質で少々の雨でもぬかるんだため、天候に合わせて利用していたという。現在でもバス通りとして残っている道路が、おおよそそれなのだと思われる。■参考 『根白石』新しい杜の都づくり泉区協議会発行、1997年この本は、大正や昭和初年に生まれた地域の方々の経験談などをもとに書かれています。そのため、当ジャーナルの記事リストとしては、近現代の区分にも整理いたします。■関連する過去の記事(中山道、根白石) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)
2009.11.23
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登米市の「はっと屋台村」に出かけてみました。旧登米町寺池の物産センターで、賑やかに開催しております。今日は、かっぱハーフマラソンも行われており、会場前の道路をランナーが走りすぎていきました。我が家は、 あずきはっと、 韓国風はっと、 伊達の赤豚カレーはっと、 もっこりニラはっとなどを食しました。2百円や3百円で、いろんな味が堪能できるというのは、良いアイディアです。その他、店頭の試食も楽しみました。三陸道が登米まで開通しているため、交通もスムーズでした。正確には、「第3回はっと屋台村」というようです。皆さんも是非訪れて下さい!明日23日まで。会場は、とよま観光物産センター「遠山之里」です。宮城の明治村として観光名所となっている小学校旧校舎の、すぐ脇です。
2009.11.22
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仙台市の歴代市長をみると(例えば仙台市公式サイト)、15代 岡崎栄松 昭和21年 6月17日~昭和22年 4月 5日 16代 岡崎栄松 昭和22年 4月 5日~昭和26年 4月 4日 17代 岡崎栄松 昭和26年 4月25日~昭和30年 4月12日 18代 岡崎栄松 昭和30年 5月 2日~昭和32年12月17日 19代 島野 武 昭和33年 2月 2日~昭和37年 2月 1日とある。戦後の公選市長としては岡崎栄松が昭和22年から務めているが、公選3期目(第18代)だけが、任期が2年半で途切れ、次の市長(島野)就任まで2か月弱の空白期間がある。ここが、最高裁による選挙無効判決とやり直し市長選挙の歴史を物語っている。昭和30年4月の仙台市長選挙は、4選を目指す岡崎栄松候補と新人の弁護士島野武候補の事実上の一騎打ち。この結果、550票あまりの僅差で岡松候補が上回ったのだが、島野派が開票事務に不正があったなどの異議を申し立て、昭和32年10月25日、仙台高裁は選挙無効の判決を下す。これによって、やり直し市長選挙が昭和33年に行われる。島野武候補が、松川金七候補に2828票の差をつけて当選した。
2009.11.21
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という程でもないのですが、こう胃腸が弱っていると、飲みたいとも思いません。もともと酒飲み、というほど強くはないのですが、今日でまる9日間アルコールは一切摂取しておりません。人生で、このようなことは何年ぶりでしょうか。こうなったら、断酒記録を伸ばしましょうか。しばらくは酒や、油モノ、味の濃いモノ、中華モノは受け付けないような気がするので、記録も続きそうです。思い出すのは学生時代のとある冬。1週間、何にも食べられず、かといって腹痛も何もなく、ただ単に食欲がないのでした。何も食べないというのはウソかも知れませんが、リンゴをすり下ろしたモノぐらいしか食べていないはずです。1週間目に、一応病院に行こうと考えて、唯一診察券を持っていたのが大学病院なので、自転車で行きました。そしたら、1階の売店で急に食欲を感じて、サンドイッチを買って食った、という思い出です。もう、二十何年も前のことです。あれも、感染性胃腸炎だったのでしょうか。明日からは暦通りに休みたいと思います。できれば、子供達と、どこかのイベントでも訪れてみたいです。白石のうーめんなら、胃腸にやさしいとか。酒をやめて、胃腸に優しい食生活で、性格も穏やかになるでしょうか。最後に、一句。酒やめて 人生見直し 再出発
2009.11.20
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昨日、三越にはお歳暮の特設コーナーがオープンして、2千種類以上の商品が並んだそうです。いよいよ年の瀬ですね。それにしても寒いここ数日。子供たちが体調を崩さないか心配です。報道では、秋田の由利本荘市の保育所でノロウイルスの集団感染だそうで、胃腸をやられている私には、まさに胃の痛むようなニュースです。ここしばらくは、控えめの食事で、内容も味の濃いものや油などは避けています。腹が減ると、胃がかすかに悲鳴を上げている感じがし、かといって食べるとまた、重い感じがします。数日前までの、キリキリ痛むのはだいぶ緩和されましたが、まだまだ本調子にはほど遠いです。薬も切れるので、もう一度かかりつけの先生に診てもらおうかと思っております。がんばれ、オレの胃腸。
2009.11.19
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庭の樹も色づき、いつしか鳥たちも、何種類か数多く舞い降りるようになっておりました。秋も深まりました。
2009.11.18
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先月全焼した二戸市金田一の座敷わらしの宿を再建しようと、全国から募金などの動きがあるのだそうだ。福岡にも金田一にも、まだ訪れたことがない。九戸城跡など是非行きたいと思うし、緑風荘はよく写真で見るので、火災の現場写真を見たときは本当に残念だった。子供の頃は、岩手県の先生方が作った副教材として、夏休みなどに読み物が配られた。郷土の話も入っていて、座敷わらしも含まれていた。「ざしきぼっこ」と表現していた。何件かの体験談をまとめたような構成で、各部分は必ず「そんなのが、ざしきぼっこです。」と結ばれていたのを記憶している。誰も居ない座敷からザーッ、ザーッとほうきの音がする。顔なじみの子供10人で遊んでいたら、いつしか数えると11人いるのだが、どの子も顔なじみだ、などの話だった。我が家の9歳の娘が、最近怖がりになって、トイレにも付き合わされることがある。座敷わらしの話をしてやると、あれは良い神様なんだよ、と強がっているが内心こわいようだ。ところが、最近居間に、小学校から借りてきた怪談の本が何冊か置いてある。当然この子が借りてきたのだが、怖いから興味があるのか、借りて読んだから怖いのか、とにかく、子供にとっては奥の深い、いわばロマンのようなものなのだろう。私にとっても、金田一や福岡は未踏のロマンの地だ。
2009.11.17
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数日間食欲がなく、日中の低温のためか寒気もあったため、夕方かかりつけの病院に立ち寄りましたが、風邪が胃腸に来たか、ひょっとすると感染性胃腸炎かも、とのことでした。この時期だとノロが有力でしょうか。熱はないのですが、念のため熱が出ても大丈夫な胃腸薬を処方してもらいました。いつもの病院に行くと、なぜか落ち着くし、薬をもらうだけでも安心するものです。本日はもう寝ます。
2009.11.16
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岩手県出身の三島駒治は、東三番丁に夜間の東北法律学校を設立して校主となる。郷土の振興と東北の発展を企図し、岩手益友会、東北青年会を組織して、志気高揚を図ったが、未だ東北帝国大学もなく、関東関西には法律学の学校が十指に余るに対して東北には法律の学校がないことを遺憾に思い、私財を投じ、多数の有力者の後援を得て、明治33年(1900年)10月に宮城県知事から設立の許可を受けた。また、駒治は妻よしと協力して、東北女子職業学校(三島学園の前身)も設立した。東北法律学校の校主三島駒治・よし夫妻は、明治36年(1906年)10月に、東三番丁に東北女子職業学校を設立。駒治は経営、よしは校長として校務を担当した。当初の生徒は本科11名、別科7名などわずか23名であったが、裁縫技術の習得とともに女子教育により近代的で高度の要素を取り入れようという独特の教育方針だった。1913年、清水小路に移転し、やがて三島学園女子高校と改称。大学、短大、高校、幼稚園を擁する総合学園となった。現在は、大学が東北生活文化大学、短大が同短期大学部、高校は共学で東北生活文化大学高等学校、ますみ幼稚園・保育園がある。高校のサイトには、学校法人と設置学校の変遷が、わかりやすく図で示されている。案外とこうした解説は少ないものだ。親切な配慮がすばらしい。
2009.11.15
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風邪やインフルではないが、体がだるくて、仕事もせずに朝から家にいた。仙台藩の船乗り津太夫たちの世界一周の旅物語を一気に読んだ。半年以上にわたる漂流と現地人との遭遇。苦難の大移動。先に露国に漂着した日本人との出会い、大西洋と太平洋の一大航海などなど、数奇な体験と見聞だが、紛れない史実だ。イルクーツクで息絶えた吉郎次のため、墓石を建て、練習を重ねた太十郎が墓碑を書いた。現実に、明治になって当地で墓が確認されているが、異国で失った仲間の供養には胸を打たれた。ロシアの生活では、酒は食事の付きもので、種類も多いが、日本のように酔いつぶれる者などいないとの点は面白かった。当時の皇帝とも会話し、進んだ文化に触れ、極寒の地や猛暑の赤道を含めて丸い地球を一周し、4人が生地奥州仙台に戻った。長い滞在の末ロシア人として現地に残る者もあったが、帰国に際してのそれぞれの判断も複雑な思いが去来しただろう。外交は拒絶しながら列強の内政に強く関心を抱いた幕府や藩の上層部からは、無学の水夫の見聞で役に立たないと見切られた面もあったようだが、それはともかく、極限を生き抜き、そして偶然と運命に翻弄された彼らの悲喜こもごもの実話として、価値が高いと思うのである。■読んだ本です。安倍忠正『いしのまき若宮丸漂流始末 初めて世界を一周した船乗り津太夫』1986年、三陸河北新報社発行(発売ヤマト屋書店)表紙と挿絵は浅井元義さんです。今年の秋の表彰で新聞にお名前を拝見しました。■関連する過去の記事 日本人初の世界一周 若宮丸漂流民(07年9月25日) 松島在住の浅井元義さんの画集に出会う(05年12月26日)
2009.11.14
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昨日のラジオでやっていた。東京の大学の寮に入った人が、トイレに行きたくなって、「おしっこつまった」と言ったら、トイレが詰まったと勘違いされたという逸話。私もこの年まで、おしっこがつまる、が方言だとは気づかなかった。全く自然な表現だと思っていたので、ちょっと意外。じゃあ、皆さんはどう言うのだろうか。トイレに行きたい。おしっこ出る。おしっこ漏れそうだ、とか。方言、というよりも、言葉の用法の地域差、という事かも知れないのだが、この話で思い出すのは、学生時代に関西方面から来た友人に指摘されたこと。仙台では「ゴミを投げる」というが、「投げる」というと勢いよく遠くへ飛ばす感じがする。「捨てる」でしょう、と。なるほど。ちなみに、「投げる」は関西では「放る」だ。また、物をなくすことを「落とす」と仙台は良く言う。これは友人の指摘ではなかったかも知れないが、落とすというと、例えばホームから線路に落としたように、空間的な上下関係を連想する。普通に置き忘れたときに「落とす」「落とし物」はちょっとおかしい、と。実は私もそう思っていて、これは仙台周辺の局地的な用法かも知れない。
2009.11.13
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9 養賢堂教育の充実指南役の間で儒学学説の対立があり、養賢堂不振の一因であった。仙台藩は、山崎闇斎の学統を引く学派が主流だったが、幕府の昌平坂学問所に学んだ大槻平泉は、寛政異学の禁に従い、朱子学に統一する。文化8年(1811年)、書学、算法、礼法の3学科を追加。商人や百姓の学ぶものとされた算術を藩校で教育したのは珍しい。勘定所の役人に商人や百姓の家の出身者が登用される例が多いのも、このためで、仙台藩でも宝暦5年(1755年)の大凶作で窮迫した藩財政を立て直すため、献金で武士の身分を取得した豪商安倍清右衛門を出入司に抜擢している。庶民出身の平泉は、財政再建のために算術に長けた人材の育成を重視したのであろう。文化9年には、兵学、槍術、剣術が設置された。ロシアに対する国防が急務となった背景があるのだろう。長崎遊学の経験もある平泉は、文政4年頃、蘭学方を新設し、蘭学教育を行わせた。蘭医の庄司玄琢に担当させた。平泉の後任として嘉永3年に学頭となった大槻習斎は、洋学の充実を図り、蘭学局を設け、また、小野寺丹元にロシア学を担当させた。この頃の養賢堂は、12の学科を備える総合学園となった。開国前後には、英語も洋学科に取り入れられる。これを基盤として、明治初期には官立宮城外国語学校(のち官立宮城英語学校)が開校する。幕末には、西洋式軍備にも関わる。学頭大槻習斎と兵学主任の小野寺鳳谷らが中心となり、西洋式軍艦の開成丸建造や大砲の鋳造を行っている。10 蔵書の充実文化9年には養賢堂の蔵書は1万353冊。天保6年には、1117部、1万7183冊に増加している。明治維新の混乱で多くが失われたが、一部は明治14年設立の宮城書籍館(しょじゃくかん)に移管されている。宮城県図書館の前身である。11 修業のしくみ学生に自由に選択履修させる方式。入学は8歳から許可され、修業期間は限定されないが、17歳までに素読試験に合格しないか、各学科の試験に3回落第すると退学させられる決まりであった。通学生と寄宿生があり、通学生は幕末期には千人以上いた。寄宿生は、定員はないが役員として入宿する者には二人扶持が支給され、一般の生徒は自費で二人扶持相当の米を納めた。教科書用の漢籍類は、養賢堂で出版した。教科書は自前で用意させたが、貧しい生徒には貸与した。学田経営や出版事業、有志の献金のため、生徒からの入学料や謝金は徴収していない。こうして、貧しい子弟にも配慮していたのである。12 医学館の創設養賢堂と称する以前から医学講師を置いていたが、大槻平泉の提案により、文化12年、百騎丁(東二番丁)に医学館の設置が決まり、文化14年完成。文政2年には末無掃部丁に御薬園を設けて、本草学を教えた。13 青柳館文庫医学館構内には、青柳文庫が設けられた。文政12年に青柳文蔵が蔵書を願い出て建設され、天保2年に完成したもの。文蔵は、宝暦11年、磐井郡東山の松川村の医家に生まれ、江戸で医学を学んだ経験もあり、2万冊の書籍を所蔵していた。文字文化が庶民にも浸透し、仙台でも出版が盛んとなり、国分町には多くの出版関係者が存在していた。こうした庶民層の文化的向上を背景に、青柳館文庫は、一般の人々にも公開され、我が国公共図書館の先駆と称されている。■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年■関連する過去の記事 仙台藩と学問(1)藩校の開設と芦東山(09年11月3日) 仙台藩と学問(その2)養賢堂(09年11月5日)
2009.11.12
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明治38年6月、長野の財閥片倉組による「仙台製糸場」が設立された。蒸気機械と300の従業員を抱える大工場で、東八番丁に設立された。現在の榴岡三丁目と思われる。明治41年10月に、皇太子(のち大正天皇)が盛岡行啓の途中に立ち寄り、品井沼干拓工事をご覧になり、仙台ではこの工場を見学。女工の多さを見て、この女性はみな宮城県人かと御質問された。工場長は、宮城県人はひとりもおりません。みな、山形県人と福島県人でございます、と答えた。さらに、なぜ本県人を採用せぬのか、との御下問に、「宮城県人は怠け者で採用すると損をします」と答えた。これが問題となり、この工場長は間もなく転任した。ちなみに、片倉財閥系のこの工場は第1次大戦後の世界不況の後も残り、戦後の昭和31年正月に閉鎖された。さて、工場長の発言は、明治末年に宮城県人が他県に比べて怠け者と見られていたことを伺わせるが、仙台・宮城人怠け者論は、根強く昔からあったようだ。幕末の肝付兼武については以前に記したが、兼武は、仙台藩はよい土地を有して貧乏している、自分なら3年で藩を豊かにしてみせる、と述べている。またある武士は、仙台の士風は嫉(ねたみ)、薩摩の士風は暴、金沢の士風は固、と三大藩の気風を評した。明治9年天皇行幸の際も、14年行幸の際も、知事の報告文には「近年怠惰の風もややあらたまり」との調子で、決して勤勉とは書けなかった。県庁三能吏に数えられ、土木事業に力を尽くした早川智寛が、第四代仙台市長の時、外米の無償交付を受けた人が酒屋に寄って酒に替えた話を聞いて、「どうも仙台藩は怠け者だ」と言ったと伝わり、旧仙台藩士に決闘を申し込まれたので、手をついて謝ったという。宮城県に企業が興らなかったのは、資本がないほかに、従業員が理屈が多くて実行の伴わないからかも知れない(後掲書で佐々さんがこう書いている)。■参考 佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂、1979年 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年■関連する過去の記事 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日)
2009.11.11
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昔は事件名に被害者の名をハッキリと使ったものだ。昨夜のTV番組で、吉展ちゃん誘拐事件と3億円事件を取り上げたものがあった。宮城県でも、昭和20年代に誘拐事件があった。また、昭和50年代には仙台で3億円ならぬ9億円の盗難狂言事件があった。昭和27年2月11日、小牛田町の小学1年生大治ちゃんが下校途中に不明となり、3月2日、校庭西側の麦畑で他殺体で発見された。この間、被害者宅には身代金を要求する脅迫状が届き、検出された指紋掌紋と照合させるため、町民の指紋登録運動が起きた。この結果、同町の浪人中の男が犯人と断定された。この男は、指紋を登録しないと疑われると思って登録した、という。宮城県内で初めての身代金目的の誘拐殺人事件。町民の自発的な指紋登録運動や、犯人が教育者(校長)の息子だったことなど、話題となった事件である。9億円盗難狂言は、昭和54年のことだ。6月18日午前10時半、仙台市中央三丁目の会社社長伊藤富美夫は、応接室に置いていた土地代金9億4200万円がなくなったと仙台中央署に届け出。同書で捜査の結果、借金の返済に窮した伊藤氏の狂言と判明。同氏は仙台高裁控訴中に、自殺した。ネットでは、昭和56年10月八木山橋で投身、と記すものがある。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年 ほか
2009.11.10
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本格的な登山には無縁のため、知らなかったのだが、登山の世界における仙台は、まさに世界をリードする都市だそうだ。まず、世界的な登山家の槇有恒。明治27年仙台生まれで、二中、慶應義塾へ。昭和31年、未踏のヒマラヤ第8峰、マナスル遠征隊の隊長として、5月9日と11日にマナスル登頂に成功する。ヒマラヤの8千メートル級の巨峰は13座あるが、最高のエベレストはじめ7峰は既に登頂され、他の6峰は人類を退けていた。8,125mのマナスル征服は東洋人として初めてであるとともに、日本の科学技術と精神力を世界に知らしめた。この業績で不朽の名を残した槇有恒は、仙台市名誉市民、文化功労者。マナスルというと、私は記念切手をまず思い浮かべる。カタログで見た記憶があるから。次いで、世界のピッケル王、山内東一郎について。登山の世界で「山内ピッケル」と言えば、命を守る信頼度の高い名品である。KS鋼に加えてニッケル・クローム鋼も合わせることで、優れた性能を示し、1936年立教大登山隊がナンダコット峰登頂に使用して世界に認められた。皇太子などにも献上されている。山内東一郎は、明治23年青森県生まれ。鍛冶屋の徒弟を経て、仙台高等工業学校に就職。学校が東北帝大に吸収されたため、本多光太郎が所長の鉄鋼研究所(現在の金属材料研究所)に勤務。ある時、外国製の登山用ピッケルを見せられて関心を持ち、大正15年大学を辞職して山内鉄工所を開設。優れたピッケルを作り出した。昭和40年暮れに自宅の火災で仕事場を失い、八木山に新しい仕事場ができる矢先の昭和41年4月4日、76歳の誕生日に生涯を閉じた。自らは名声を求めず、ひたすら鞴(ふいご)を吹き、ニッケル・クロームを打ち続ける名工であった。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年
2009.11.09
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秋晴れの日曜、七ヶ浜の「ボッケと収穫祭」に立ち寄ってきた。ボッケ汁をいただいて、また、ホタテやカキの焼きたてを食した。新鮮な野菜も売っていて、家人はトマトを買っていた。むすび丸君は今日も出動。ご苦労様です。地元特産品ぼっけの観光キャラクターボーちゃんが居れば面白かったのだが、居なかった。ちなみに、七ヶ浜町は、「しちがはままち」と読み、漢字表記の「ヶ」は大きな文字ではない。同じ県内の七ケ宿が、大きな文字の「ケ」を用い、「しちかしゅくまち」と濁らないこととは、好対照だ。ここで、七ヶ宿は大きな「ケ」と決めつけたが、岩手県金ケ崎町のような明確な表記法の方針を(後掲の日記を参照)、七ヶ宿町役場が持っているかどうかわからない。今回は、財団法人地方自治情報センターのサイトで確認した。ここの表現なら、各市町村に確認して表記しているはずだ、と思って。表記を厳密に分別していると思われる同サイトから、「ケ」「ヶ」市町村を引っ張り出してみる。ちなみに、「ケ」「ヶ」の文字の大小は、役場の「住所」の表記でも連動していた。大きな「ケ」の市町村に○印を付す。----------青森県外ヶ浜町 そとがはままち同 鰺ヶ沢町 あじがさわまち同 六ヶ所村 ろっかしょむら岩手県金ケ崎町○ かねがさきちょう宮城県七ケ宿町○ しちかしゅくまち同 七ヶ浜町 しちがはままち茨城県龍ケ崎市○ りゅうがさきし埼玉県鳩ヶ谷市 はとがやし同 鶴ヶ島市 つるがしまし千葉県鎌ケ谷市○ かまがやし 同 袖ケ浦市○ そでがうらし東京都青ヶ島村 あおがしまむら神奈川県茅ヶ崎市 ちがさきし長野県駒ヶ根市 こまがねし岐阜県関ケ原町○ せきがはらちょう佐賀県吉野ヶ里町 よしのがりちょう宮崎県五ヶ瀬町 ごかせちょう----------東日本に多いようだ。17カ所が見つかって、大きい「ケ」が6で、小さい「ヶ」は11だった。金ケ崎の記事を書いたときには、同町が全国に紹介したら、14自治体中10は小さな「ヶ」を採用していた、と報道されていた。■関連する過去の日記(ケとヶなど) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日) 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(07年8月3日) 金ケ崎町は大きな「ケ」で決まり(07年9月29日)
2009.11.08
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朴沢三代治は仙台生まれで裁縫の名手といわれ、明治10年(1877年)8月、宮城師範学校に女子師範学科が設置されると、裁縫科教員となった。仕立業を営み、傍ら藩士の子女を集めて、将来裁縫を生業とする者に独特の教授を行い、明治12年(1879年)には、本荒町(現一番町)に松操裁縫塾(松操私塾)を創立して、日本の裁縫教育に革新的な一斉教授法を創始した。研究心が旺盛で、常に紙と鋏を持ち、寸暇を惜しんで考案と改良を重ねた。明治17年(1884年)には教授方法を摘記した「裁縫教授書」を編纂し、文部省が小学校裁縫科教科書に採用した。東北の福沢諭吉とも讃えられ、藍綬褒章を受ける。明治28年(1895年)亡くなる。学校は戦後、朴沢女子高校となり、昭和49年川平に移転。平成4年に明成高校と改称(平成14年共学化)。一方で、学校法人朴沢学園は昭和42年、仙台大学を開学した。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年■関連する過去の日記 朴沢の話(09年5月13日)
2009.11.08
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仙台生まれの志賀理和は長谷家に嫁いで病弱な夫を10年後に失う。幼い頃から養母に針仕事や行儀作法を習っていた理和は、明治3年(1870年)、北一番丁に長谷塾を開いて裁縫を教える。明治20年(1887年)、私立学校の認可を得て、私立長谷柳絮学校と改称。和裁の技術は東北一とされ、長物習わば長谷につけ、と言われた。長谷理和は1911年に教育功労者。大正7年(1918年)死去。柳絮とは、白い柳の綿毛のことで、それが四散して地に根をおろして柳の木を茂らせるように、女性ともしっかりと家庭を築いて欲しいという願いから名付けられたという。支倉町の長谷柳絮のことである。平成9年には長谷柳絮福祉専門学校設立、そして今年平成21年には「仙台青葉服飾・医療福祉専門学校」と校名を変更した。長谷柳絮の名は学校法人名に残っている。赤痢菌の発見者で仙台市名誉市民の志賀潔博士は、創立者の甥にあたり、教壇に立ったこともあったそうで、博士による校名の由来を示す書額が残っている(学校法人長谷柳絮学園サイト)。戊辰の敗戦と維新の混乱にあったはずの仙台で、和裁の技術と女子教育によって新しい時代を支えようとした遥かなる建学の心に、思いを致したい。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年 学校法人長谷柳絮学園サイト
2009.11.07
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子どもの頃、岩手県内の市で唯一、江刺市には鉄道が通っていなかった。小学校の先生には、全国を見渡しても、市で鉄道が通っていないのは江刺だけだが、これは米を煙から守るために鉄道に反対したのだ、と教わったし、確か江刺の「金札米」のTVコマーシャルでも、その逸話を紹介していたように記憶している。こども心に悔しく思ったため、地図を見回して、栃木県の大田原市は駅がないじゃないか、と言ったら、中心部は東北線から外れたが市域に鉄道は通っているとかいう説明だった。残念に感じたものだ。今では奥州市となったが、旧江刺市域には新幹線が通り、立派な新幹線の駅(水沢江刺駅)もある。もっとも駅舎の位置は旧水沢市だが。というわけで、合併が進んで新市も登場した現在、東北で鉄道のない市は一体存在するのだろうか。まず、青森県。従来から市だった区域を中心に合併が進んだ新市は当然にOK。町村が合体した新市を見ると、つがる市(五能線木造駅など)、平川市(弘南鉄道平賀駅、奥羽本線碇ヶ関駅など)岩手県は、町村から市になったのが、八幡平市。花輪線が通って大更、平舘など各駅。宮城県。泉市が一時期「鉄道なし市」だったが、地下鉄開通で解消。栗原市はくり電が消えたが大丈夫(新幹線くりこま高原駅など)、登米市(石越など3駅)、東松島市(仙石線)もOKで、すべての市が鉄道も駅もアリだ。秋田県では、町村から新市をみると、にかほ市(羽越本線象潟駅ほか)、仙北市(秋田新幹線・田沢湖線角館駅ほか)、潟上市(奥羽本線、男鹿線各駅)、北秋田市(奥羽本線鷹ノ巣駅、秋田内陸縦貫鉄道)山形県は、町村だけで新市となったのがないので、省略。福島県では、本宮市(東北本線本宮駅)、伊達市(阿武隈急行保原駅ほか、東北本線伊達駅)、田村市(磐越東線船引駅など)だ。以上、東北の市はすべて鉄道が通り、駅もありました。
2009.11.07
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下の子は小学校で角度を習っている。分度器を使ったりして、悪戦苦闘。どうも苦手のようで、例えば90度を越えた角度の意味がピンと来ていないようだ。180度以上にぐるっと回って270度とか答えさせる問題になると、混乱しているようだ。三角定規の二種類のうち、90度、60度、30度の例の三角形を元にして、三角形の内角の和が180度だというところから考えさせる問題、また二等辺三角形の2つの角は等しいとか、ポイントがわかれば良いことなのだが、どうも数字に目を奪われてポイントを把握できないような雰囲気だ。時計の針を回したり、上のこと一緒にいろいろ教えて、たぶん理解したと思う。昨日持って帰ったテストはひととおりできていた。
2009.11.06
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5 重村の藩校改革学問所は、場所が城下の西北で通学に不便で、また小規模のため高橋玉斎が建議した礼法・弓術もできなかった。指南役の対立もあって講義がしばしば休止された。そこで、7代藩主重村は、宝暦10年(1760年)11月、通学の便を図るため、城下の中央部である北一番丁勾当台通東南角(現在の宮城県庁)に移転。重村はこれに先立ち布令を発し(5月)、近年学問所に出席する者が少なくなったのは家臣の学問への志が薄く、父兄も学問を奨励しないからであり、学問所を移転し、従来の素読・講釈では学問を究めるのが難しいから、討論会も開くことにするので、怠りなく出席するように、と説いている。重村はまた、藩校を凡下身分(足軽、小人など侍身分に入らない最下層の家臣)にも開く。庶民のためには家塾・寺子屋の開設を奨励。学業の向上した者を選んで江戸に遊学させ、私費による遊学も請願により許可するとした。宝暦5年は冷害で年貢が激減し藩財政は危機に陥った。翌年に藩主となった重村は、農村復興と藩立て直しには身分を問わず学問に励ませ人材を育成すべきと考えたのであろう。重村の学問奨励策で、身分序列にかかわらず能力によって人材が出入司や郡奉行に抜擢されることになった。また、重村は宝暦10年、藩医の別所玄李(実有)、翌年に常盤玄安(定軌)を医学講師に任命して学問所で医学書の講義を行わせた。それまでは藩医や町医者に入門して学んでいたが、藩の医員が増加し実力不足の医師も増えだし、また家中や民間の医師需要も高まったことに加えて、自然災害により生活や衛生の状態が悪化したため、藩として医学教育に乗り出したものであり、仙台藩の医学教育の始まりである。明和8年(1771年)には重村みずから養賢堂と書した扁額を学問所に下賜。明和9年7月より、学問所は養賢堂と称するようになる。安永9年(1790年)には、奉行芝田信憲が多額の私金で学寮と書庫を増築し、蔵書数千巻を寄贈。養賢堂には新たに学頭職が置かれ、同年6月、初代学頭に、高橋周斎(以仲)が任じられる。歴代学頭 高橋周斎 遊佐文治 高橋容斎 田辺楽斎 大槻平泉 大槻習斎 大槻磐渓 新井雨窓6 林子平の献策重村の養賢堂整備にもかかわらず出席者は少なかった。冷害による餓死病死者が出て、農村の疲弊と藩財政窮迫はますます深刻化し、特に天明(1780年代)の大飢饉は藩体制に打撃となった。人材育成が喫緊の課題となっていた。林子平は明和2年(1765年)に藩当局に藩政全般を建議した中で、学政にも論究した。(1)才能ある人材を得るために学問が重要だが、現在は儒学教典の講釈を受動的に聴講させるだけで、人材は育たない、(2)学問に学派は不要で、学校の敷地を広げ学生の読書部屋を設け、特定学派に偏らずさまざまな書物を備え自由に読書させればおのずと才智は生じる、(3)天文台を建て天文・算術教育をすべき、(4)学校拡充と書物購入の費用は、武士百姓町人に4、5銭ずつ上納させる、(5)家臣は学校に怠りなく出席するよう命じ、陪臣や凡下身分でも希望すれば出席を認める藩当局は聞き入れなかったが、子平は天明元年(1781年)と同5年にも建議し、養賢堂とは名ばかりでその実はお粗末と批判した。いずれも却下されたが、後に大槻平泉により何点かは実現されることとなる。7 大槻平泉の学制改革文化6年(1809年)、9代藩主政千代(周宗)は大槻平泉を学頭御用に命じる(同7年に正式に学頭)。大槻平泉は、磐井郡中里村の大肝煎の家に生まれ、博覧強記の志村東嶼に学び、次いで江戸に出て大学頭林術斎の門人となり、昌平坂学問所で朱子学を学ぶ。諸国遊歴の後、文化3年に仙台藩に儒官として召し抱えられ、同5年に仙台に下って養賢堂で講釈を行っていた。平泉は政千代から学制改革構想をまとめるよう命じられ、師の林述斎の意見を仰ぎ、文化7年に学制改革案を提出。その骨子は、次の通り。(1)学舎の拡充。医学部門を独立し医学官を設立。城下3、4カ所にも学校を設置(2)学問を社会に普及させるため、養賢堂で印刷出版事業(3)学校の財政基盤確立のため、一万石の新田開発(4)学頭による藩学政と教育の一元的な管理(養賢堂のみならず藩の教育全般を管理)(5)儒教教典と礼儀作法を中心としながら、歴史、詩文、地理、書道、算術など広く学ばせ、上達したものは右筆見習いや勘定方見習いとして研修(6)優秀な学生を毎年2、3人他国へ遊学させ、他国からも受け入れる(7)学習の進歩を試験して優秀な人材を藩に推薦。奉行や学校係が定期的に学校を見分。学頭が優秀な人材を直接藩主に推薦。(8)儒役の世襲制の廃止と他職との人事交流全体として実用的な人材の育成と人材抜擢のシステム確立が重視されている。儒役の世襲制廃止もこの目的のためである。8 養賢堂の充実大槻平泉は嘉永3年(1850年)まで40年近く学頭にあり、財政基盤確立や施設拡充に努めた。文化8年(1811年)に新田開発高1万2千石を学田とし、その年貢収入を運営費に組み入れた。学田は各地に設定され、仙台市内には荒井や根白石に養賢堂の字名が残っている。また、出版、硝石(火薬原料)、製造、機織りなどの事業も始めた。さらに有志の献金により養賢堂は独立採算を実現。生徒からの入学料や謝金はとらなかった。文化9年(1812年)、同11年には周辺の屋敷を召し上げて施設を順次増設。中心となる講堂は、敷地2町歩、25室からなる広壮な建物で、文化14年完成。表門はそれ以前に完成し、表小路に面した門構えは人々を驚かせた(維新後に南鍛冶町泰心院に移築)。最後に文政6年(1823年)孔子を祀る聖廟が落成。江戸に滞在する家臣の子弟の教育のため、文化7年(1810年)江戸上屋敷に、順造館という藩校を設けた。日銀総裁や東京府知事を務めた富田鉄之助も学んだ。平泉は教育を行き届けるため城下の3、4カ所にも学校を設けることを建議していたが、平泉の子の習斎(清格)が学頭を務めていた嘉永4年(1851年)に、二の丸に近い川内中ノ坂通に支校を開設したにとどまる。これは、小学校あるいは振徳館と呼ばれ、学頭添役(副学頭)が経営し、主に付近の大身武士の子弟を教育した。安政4年(1857年)には庶民教育のため養賢堂構内に日講所を開設した。江戸時代後期には庶民教育の寺子屋が普及していたのだが、困窮民が増大し一揆や打ち壊しが続発し治安が乱れていたため、庶民の教化と人心の安定をねらったものである。■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年■関連する過去の記事 仙台藩と学問(1)藩校の開設と芦東山(09年11月3日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)仙台藩の人材育成にかけた藩の姿勢、またその内容はどうだったのか。勉強しようと思いました。大藤先生の一般向けの著書を読んでおります。3回か4回に分けて記す予定です。
2009.11.05
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河北新報の菅野正道さんの連載(11月4日)に、根白石が取り上げられていた。----------根白石は、仙台城下に存在した14の宿場町には含まれないが、町の出入り口と中程で直角に曲がる道路と両側に家が建ち並ぶ様は、宿場町そのもの。記録に宿場町とは現れないが、かつては仙台から宮床に通じる街道があったという伝承も残っている。また、幕府の法令を掲げる高札場が、仙台藩では宿場町以外にも例外的に根白石に存在した。根白石はある時期に、おそらく江戸時代のごく初期に宿場町であった可能性が高い。仙台城下以北の奥州街道は、富谷や七北田の宿場町が形成された元和期(1620年前後)に完成するが、それ以前の経緯ははっきりしない。そこで、奥州街道が根白石を通って宮床へ抜けていた可能性が考えられる。宿場町は、旅人を宿泊させるだけではなく、重要な機能として物資の輸送がある。すなわち江戸時代は宿場町ごとに荷物を積み替えるのが原則で、通過する物資の量を勘案して宿場町には輸送に携わる人が集住していた。直線道路の全長が600メートルに及ぶ根白石の町の規模は、七北田(推定500メートル弱)を上回る。おそらく、根白石が宿場町として機能したのは十数年程度の短期間だったのだろう。(当ジャーナルで要約と再構成)----------根白石は、奥州街道の宿場町として、短い期間だけ位置づけられたということになろう。ところで、以前朴沢について記したように、奥州街道は往古は朴沢を通って宮床に抜けていた、とされている。とすると、宿場町という制度自体が江戸期に始まったもので、街道が参勤交代の道路であるとともに、人の出入りや交易を把握し管理するための公的施設として明確に位置づけられたことと関連しているのだろうか。すなわち、街道じたいは戦国以前からあるのだけれども、本陣や高札場、馬の継立てなどが整備された宿場町の制度は江戸期のもので、根白石については、従来の奥州街道ルート(奥州山街道、秀衡街道)に沿って宿場町とされたが、その後、街道ルートが富谷とされてしまった、ということだろうか。■関連する過去の記事 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)
2009.11.04
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2日の月曜は午後からどんどん寒くなった。私は早めに仕事を切り上げて帰宅を急いだが、車内に表示される外気は、ぐっと下がって6度。暖房の電気を今季はまだ入れていないこともあって、子供達が心配でもあり、内心急ぎながらラジオを聴いていた。NHKの6時台の、私も一言!夕方ニュース。もう終わりかけていたが、マイカー通勤を止められるか、という話題を取り上げたようで、エンディングでも触れていた。高校生リスナーからお便りで、自転車通学で定期代を浮かしていたというのがあって、伊藤博英アナが、私も高校の時は自転車通学でした、仙台なので寒かったです、と話していた。あれ、伊藤博英さんは、以前テレビの全国ニュースを読んでいたあの方でしょう。NHKサイトのプロフィールによると、岩手県遠野市出身、思い出の味としては、気仙沼のさんまに戻りがつお、花巻のわんこそば、遠野のひっつみ、とあります。岩手県なら、紅白の司会もした阿部渉さんも奥州市(水沢高校)だ。ちょっと昔だが、高橋圭三さん(花巻市)もおられる。伊藤さんの話に戻るが、NHKのプロフィールにはないが、高校は仙台二高だそうで、仙台市内を自転車で快走しておられたわけだ。私も学生の時分は、自転車で市内を走り回ったものだ。アルバイトで原付を買った事もあったが、故障したのだったろうか、最初は実家から取り寄せた自転車で、次いで先輩から借りたロードレース用の自転車で、北仙台から286まで、私の軽快な行動範囲だった。最近めっきり寒くなった。思い出すのはある年の冬だ。とりわけ低温が続いた冬だった。朝は新聞店のバイクで配達。夜は自転車で仙台市内を縦走して、これまたアルバイトの塾へ往復。昼間と夜中に、勉学と睡眠。アパートも寒いから、未明に起きるためにコートを着てコタツで寝ていた。単位もギリギリ取得できたが、あの生活を考えれば今は本当に安穏としたものだ。伊藤アナウンサーの仙台自転車生活で、ふと思い出した。
2009.11.04
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1 江戸期の教育をめぐる背景江戸時代に武士が文武を兼備する教育を施すため、藩校が設立された。背景には、(1)17世紀後半に泰平の世を迎え、武断政治から文治の政治に転換したこと、(2)17世紀末ころから、商品貨幣経済が発展してさまざまな社会経済問題が発生し、幕府諸藩はこれが対処を迫られたこと、(3)18世紀半ばから、幕藩体制が揺らぎ始め、体制立て直しのための人材が求められたこと、が理由としてあげられる。幕府では儒官林家の塾があったが、儒学を好んだ5代将軍綱吉が元禄3年(1690年)に移して湯島聖堂とし、諸藩士や浪人庶民を相手に公開講釈を行った。寛政改革で文教振興を図ろうとした老中松平定信が、寛政2年(1790年)に、学派争いをやめて教育の効率化をねらい、聖堂の教育研究を朱子学に一本化した(寛政異学の禁)。寛政9年には、林家の施設であった聖堂を幕府直轄とし、昌平坂学問所とする。昌平坂学問所は正規には幕臣と子弟を対象としたが、書生寮で諸藩の留学生も受け入れたので、郷里に戻って藩の儒官として藩校教育に当たることとなる。藩校は、大部分が18世紀になってから設けられた。従来から藩の役職は家格で決まっていたが、藩士と子弟に組織的な教育が行われるようになった江戸時代後期には、能力による人材抜擢が行われ、藩政改革や維新を推進することとなる。2 仙台の藩校開設前史5代藩主吉村の時代、商品貨幣経済の進展により出費が増大し、諸藩と同様仙台藩も財政難に陥っていた。特に、先代の綱村は豪壮な社寺の造営を行い、仙台城の改築、幕府から命じられた日光東照宮の普請などが重なり、凶作も頻発して財政難は深刻となった。その負担は家臣や領民に転化されて人心も離反した。吉村の時代は、藩財政の立て直しと人心刷新が課題となり、人材の育成が自覚されて藩校設立の建言が相次ぐこととなった。まず、奉行の遠藤文七郎守信が享保6年(1721年)に意見書の中で、文武の教育と人材抜擢が急務と訴えたが、吉村は出費を省いて家臣領民の負担軽減が先決で、無理に学ばせても実効は期し得ない、とこれを却下した。遠藤は享保13年にも意見書を出し、父兄が無学であるから子弟の教導もできず、大身小身とも学文をさせるべきと力説するが、容れられない。芦(蘆)東山は、享保6年(1721年)に26歳で藩の儒官に採用されると、早速吉村に7ヶ条の意見書を提出し、その中で、学校の設置と賢才の挙用を進言したが、取り入れられなかった。享保20年には具体的な学問所設立案を作成して再度進言。他方で、豪商の鈴木八郎右衛門は、息子が東山門下生であったことから、学問所建設費として1500両の献金を東山に申し出、東山はこれをもとに学問所を設立し、微禄の藩士嫡子には奨学金を支給して身分の別なく勉学できるよう具体案をつくって上申した。しかし、これも採用されなかった。享保20年には、同じく儒官の高橋玉斎(与右衛門以敬)も学問所開設を建言。これは、藩士旧宅を転用し、小規模で簡便な方法で、学問と礼法弓術を学ばせるという案で、財政窮迫の折からこの案が吉村に採用された。3 藩校の開設元文元年(1736年)11月、北三番丁細横丁西南角の藩士旧宅を修復して、藩校である学問所(学文所)が開設された。主立(学問所長)には高橋玉斎、講釈及び読書指南には、高橋玉斎、芦東山、遊佐毅斎(運蔵好篤)、佐藤吉之丞成信が任命される。午前7時から10時までは素読、その後が講釈で、儒教の教典を教材とした。また、学式により席次や礼儀作法も厳しく定められた。開設に際して、藩主吉村は次のように申し渡した。当世の学文の風として、自分の知識を鼻にかけて人の非才をあざけり、その身の行いはかえって不学の者よりよろしからざる者もいる。あるいは詩章文字を事として実学の意なき者が多い。このような学風であっては学問所設立の趣旨に反する。一章一段をもって、身を修め、心を正し、正意に向かい、専ら人倫を明らかにし、忠孝を励まし、士風をおこすことを勧めるよう教育すべし。4 芦東山の幽閉高橋玉斎の案に沿って設立された学問所だが、玉斎らと芦東山の対立という問題を当初から抱えていた。東山は元禄9年(1696年)に磐井郡渋民村の肝煎の家に生まれ、仙台城下に留学、やがて学才が見込まれて藩の代表的な儒学者田辺整斎(希賢)の門弟になる。整斎は、京都の生まれで、伊藤仁斎、山崎闇斎など江戸時代前期の代表的な儒学者に学び、綱村に招かれて仙台藩儒官となった人物である。東山は藩の費用で京都に遊学し、山崎闇斎門下の浅井義斎と三宅尚斎に学び、帰国後吉村から儒官に抜擢される。吉村の参勤交代に随行して江戸に登った際に、幕府儒官の朱子学者室鳩巣に高く評価される。一方の高橋玉斎は、仙台藩儒官遊佐木斎(好生)の門人。木斎は、田辺整斎と同様、山崎闇斎に師事した人物で、整斎とともに門人を多く育て、仙台藩の学問の基礎を築いた。このため、仙台藩の学問は、儒学と神道を合一した闇斎の学風の影響を強く受けていた。東山も闇斎の門人に学んだわけだが、鳩巣との交流を通じて朱子学に傾倒するようになり、学風の面で東山は玉斎ら他の儒官とは立場を異にすることとなった。一関市大東町の芦東山記念館所蔵文書によると、東山は、学問所の空き地に小屋を自身で建てて移り住み、読書指南も1人で行いたいと申し入れ、これに対して玉斎らは、御上の命による学問所であり指南も命によるものであるとして、東山の申し入れを拒否している。学問所設立前の構想の面でも前述のように対照的だった玉斎と東山だったが、玉斎の案が採用されたことに納得しない東山は、開設直前の元文元年10月、朱子学の祖を祀る朱子祀堂と義塾の建立を願い出、さらに翌元文2年にも佐藤成信と連名で願い出るが、いずれも却下。このため、東山と成信は、学式に定められた座列の問題を取り上げて藩首脳に意見書を出した。すなわち、学式には家の身分格式の序列、次いで長幼の順に従う、とされていたが、東山は身分格式にかかわらず長幼の順のみで着席すべしと主張。また、藩の重役が視察に来たときには役人が講師席の最上位に座っていたのを、当日の講釈を担当する講師が最上位で、役人はその背後に座ればよい、と主張した。東山は庶民の出身であり、上下の秩序にはこだわらない平等主義的な思想の持ち主であった。しかし、首脳部の怒りを買い、その思想が広まるのを恐れた藩によって、元文3年(1738年)に重臣石母田氏に預けられ、その知行の加美郡宮崎、後に栗原郡高清水に24年の長きにわたって幽閉される。この間、東山は室鳩巣から勧められていた刑法書の執筆に専念し、当時の主流である応報刑論に対して教育刑を唱えた大著「無刑録」を書き上げた。無刑録は、我が国の近代的な刑法論書の先駆として後に評価され、明治10年に元老院から官版として刊行されている。■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年■関連する過去の記事(芦東山) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)仙台藩の人材育成にかけた藩の姿勢、またその内容はどうだったのか。勉強しようと思いました。大藤先生の一般向けの著書を読んでおります。3回か4回に分けて記す予定です。
2009.11.03
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寝る前に子どもにクイズを出した。宮城県で一番長い市町村名(かな数)は何だ。けせんぬま? 惜しい。答えは、みなみさんりく(南三陸)。ところで今気づいたが、ひがしまつしま(東松島)も7文字でトップだ。合併で合成地名が増えた関係で、全国的に長い市町村名が増加したのかも知れない。そこで、行きます。東北の市町村名、長さくらべ!(表記文字数ではなく、かな数で。また、拗音や撥音も一文字に数えるルールにします)■青森県 ひがしどおり(東通村)が6字で最長。 五所川原市、外ヶ浜町、鯵ヶ沢町、田舎館村、板柳町、中泊町、風間浦村が5文字で続く。見渡すと、青森県は長い地名が多い。短いのでは、むつ市、佐井村。 長さで言うなら、かつて存在した大湊田名部市は、文字数でも仮名数でもビッグな存在でしょう。いきなり2文字(むつ市)に激減しましたが。■岩手県 りくぜんたかた(陸前高田市)が7字で最長。表記文字数でも4文字で最長。 ちなみに、陸前高「た」と読む。高「だ」ではないそうだ。でも現地の人は濁って発音するように思うのですが。 続くのは、はちまんたい(八幡平市)の6文字。大船渡市、一関市、奥州市、雫石町、金ケ崎町、平泉町、岩泉町が5文字。金「ケ」崎の文字に注意、ですね。 短いのでは、久慈市、紫波町、野田村。■宮城県 ひがしまつしま(東松島市)と、みなみさんりく(南三陸町)が7字で最長。 短いのでは登米市、利府町、加美町。 もともと宮城県には長い合成地名は多くなかった。短いのなら山元町のように旧地名の1文字ずつを繋いだのはあるが。そんなわけで、平成の合併で登場した2市町がトップです。■秋田県 ゆりほんじょう(由利本荘市)が7字。八郎潟村、東成瀬村が6字で続く。上小阿仁村は5字だが、表記文字ではトップタイ。 短いのは、男鹿市、羽後町。■山形県 長い地名が少なく、5字が最長。しんじょう(新庄市)、かみのやま(上山市)、おばなざわ(尾花沢市)、おおいしだ(大石田町)、まむろがわ(真室川町)、しょうない(庄内町)の5字。 基本的に漢字表記2文字で、発音は4音節という素直なパターンが多くて、気持ちいい。短いのは、遊佐町。■福島県 やっぱり、あいづわかまつ(会津若松市)で、7字。表記の4文字も最長。次ぐのは、南会津町、会津坂下町、会津美里町の6字。合併で消滅したが、熱塩加納村、会津本郷町なども長かった。会津関係が多いですね。強い地元意識でしょう。 短いのは、伊達市、小野町。なお、表記でいうと、塙町が1文字で最短。東北では唯一だ。以上の結果、東北のチャンピオンは、 陸前高田市、東松島市、南三陸町、由利本荘市、会津若松市でした。やっぱり合成地名か。
2009.11.03
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当ジャーナルが応援するG木村投手が昨日、日本シリーズの大舞台に登板した。試合はダルビッシュの一世一代の復帰登板で日本ハムが快勝。しかし、私はリードされたジャイアンツが木村を登板させることに期待していた。そしてついに、8回のマウンドへ。無事に2アウトを奪って自責ゼロ。目の前のスポーツ新聞では、1面は当然ながらダルビッシュの力投。そして、記録の欄では、丁寧なことに推定年俸が示されている。ダルビッシュは東北高校出身、5年目で年俸27000万円。同年齢の木村は、同じ5年目で年俸は520万円と、出場した選手中で最低。まさにケタ違いというところだが、人気も実力も日本のエースとなったダルビッシュと、同じ試合のマウンドに堂々立った、そのことだけでも木村投手に拍手を送りたい。岩手県民の皆さんも同じように感慨を覚えているのではないだろうか。8回先頭の糸井にカーブを左飛安打されるが、鶴岡犠打の後、金子をシンカーで見事に投ゴロに打ち取る。次の打者田中で投手は金刃に交替。緊張もしただろうが、落ち着いてよく打ち取った。まずは快投と言いたい。(イーグルス救援陣をふと思い出しながら。)新聞全体を読み渡すと、やっと小さく初登板した木村投手のコメントが出ていた。「久々の登板だったが実戦から離れているのは忘れて投げた」と。明日以降も、当然出番があるだろう。何が起きるかわからない日本シリーズ。苦節5年目の一軍昇格の年に見事にシリーズ登板で、チャンスをものにしよう。頑張れ木村投手。
2009.11.02
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昨日(1日)盛岡市で基礎疾患のない2歳の女児が亡くなった。国内で最年少の死亡例だそうだ。新型インフルエンザは加速的に流行している。我が家でも子供達が今日は休校になったが、若干の引き延ばし効果に過ぎない。ワクチン接種が始まった。医学薬学の専門的知識は全くないが、新フルのワクチンを、現代の技術でもっと量産できないものなのだろうか。
2009.11.02
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30日午前に秋田県能代市で発生した突風は、秋田気象台の発表によれば、この現象は竜巻と認められ、藤田スケール2の可能性があるという。痕跡は長さ3.2km、幅100mの帯状に分布。風の強さは最大で秒速69メートルに達していた可能性がある。報道によると、竜巻の通過前後に耳鳴りがあった(魁新報)、雷の後ジェット機のようなゴオーッという爆音があった(河北新報)。黒い渦がトタン屋根の破片を巻き込みながら近づいた、という生々しい証言もあった(河北)。また、ビー玉くらいのひょうが降った(毎日)。雷と雨がすごくて、仏壇の前で手を合わせていたご老人の証言もあった(毎日)。被害としては、民家や事務所の屋根を吹き飛ばし、ガラスを割り、倉庫をつぶした。また、普通乗用車1台が、約10メートル動いて国道7号沿いの側溝に落ちた。バーンという爆発音がして外を見ると、車が小刻みに跳ねながら移動していた、という(魁)。秋田地方気象台はこの日午前、能代山本地域を含む県内全域に3回にわたって竜巻注意情報を出していた。寒冷前線の通過に伴い、明け方から大気の状態が不安定に。被害の発生時には、付近を活発な積乱雲が通過したという(北羽新報、河北)。なお、能代より早く午前7時20分ごろ、青森県深浦町黒崎で突風が発生、工場のトタン屋根が吹き飛ばされ、電柱1本が折れた。青森地方気象台は、突風を竜巻と確認した(河北)。私は竜巻に遭遇したことはない。米国のような大規模なものは少ないが、日本でも年間17件程度は発生しているそうだ。9月が多く、都道府県別では鹿児島、沖縄、北海道、宮崎、高知の順で件数が多いのだそうだ。気象庁のパンフレットやリーフレットでは、東北では秋田県が圧倒的に件数が多いようだ。過去45年間の発生分布図のドットの数を目で拾うと、秋田が12件くらい。他の5県は3件程度にとどまる。■関連する過去の記事 北海道の竜巻?被害(06年11月8日)
2009.11.01
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