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海外のタイレストランでよく見られたタイカレーは、レッドカレーとグリーンカレーが殆どだろう。その他はケングパーや、ケングソムくらいでしょう。実はタイの「ケング」は、100種類近くあることは知らない人には、吃驚するでしょう。 「ケング」とは、「主材料を調味料(香辛料も含める)と汁になる液体で調味するもの」。そして、大きく種類を分けると、2種類がある。「ケング・チューッド」=唐辛子や香辛料の辛さが全くない汁もの。香辛料を使わない種類。日本で言えば、おすまし汁、スープ。もう1つは「ケング・ペッド」=辛い汁もの(唐辛子や香辛料で)。 それぞれの「ケング・チューッド」と「ケング・ペッド」はさらに種類が沢山ある。材料や味付けによって違うものに展開していく。 「ケング・ペッド」には、ケング・ペッド・プリックデング(=辛い赤唐辛子汁もの=「レッドカレー」)、ケンキャウワーン(「グリーンカレー」)、ケングパー、ケングソム、ケング・オム、ケングクアー、ケングルアング、ケングハング・レー、ケンクラティ等々。 また、このケング・ペッド・プリックデング(レッドカレー)の類いに含めるものがパッペッ、シュシー、パップリッキング、ケングパッ等。同じ原料ですが、汁をつくらないでの炒めるもの。 代表的によく作られ食べられた日常のものは、やっぱりケング・ペッド・プリックデング(レッドカレー)とケンキャウワーン(グリーンカレー)。 さて、この2種類の大きな違いは、もちろん色と風味だが、細かいところには余り知られていないだそうです。画像は、赤貝のレッドカレー。貝類はタイカレーにはとっても難しい。味の調整と貝自体の味を出すことや、臭みを押さえる等にはとっても手間かかるということで、あまりどこでも作れない。どんなレストランにもメニューに載らない!
2007/11/30
数年前にとっても美しい橋が、現国王の最も長く御在位記念と祝いとして造られた。常に綺麗な環境を保ちなので、ドライブに人気スポットとしてバンコク住民の誇りで、外人や田舎から来る人々に紹介したくなる。 その歴史的な橋の名前は「サパン・カンチャナピセーク」(=50周年御在位祝い)。バンコクから北への高速道路。北への渋滞をさけることができ、非常に人気となった北へのルート。 しかし、今年は、さらに新しくできた高速のつる大橋がバンコクの新名所となった。前できた「サパン・カンチャナピセーク」と比較的な存在となる。 どちらの方が綺麗でしょうか?と、バンコク住民の話題中。このわけで、自分の肉眼で確かめるために新しくできた橋(下の2の画像)を走る。ドライブの目的地となっている。
2007/11/27
今、バンコク首都で最もホットホットな話題中「サパン・ヲンウェン・ウッサハカム」つる大橋。 バンコクからサムップラカン県境のプラパデング地区工業団地へのアクセス。チャウプラヤ川の出口(タイ湾当たり)を渡って行く。高速道路なので渋滞知らずで普通でこの距離が2~3時間もかかるところを、数十分で行ってしまう。 また、美しさと上からの景色がとっても人気。今月開通したばかり。交通費が無料ですが、限定期間中のみ。
2007/11/27
美味しいサツマ芋が出回っている。やっぱり焼き芋が一番美味しい。この寒い長い夜には焼き芋が欲する! しかし、少し里芋がまだ残っている。段々と寒くなるとイモ類が持たないので、何しようかと悩んでいた末、里芋の香りが懐かしく思い出した。。。子供の時によく父と美味しく食べたもの。 今日はこの里芋ご飯に決めた。日本のサツマ芋ご飯、栗のご飯等ににているが、この里芋ご飯の方が好き。 「里芋ご飯」材料: A)蓮の実(茹でたもの)200グラム 里芋サイコロ状に切ってオープンで5分焼く1~2カップ シイタケ10本、セロリ2~3センチの長さに切って1カップ 中華ソセージ(甘いソセージ)サイコロに切ってフライパンでできるまで空炒める2カップ B)ご飯(ある程度冷まして固まってない状態に)3~5カップ ニンニクみじん切り(3かけ)調味料:マッキーソース、中華醤油(ワイトソース)作り方: 1)ニンニクと油で炒めて香ばしくなるとA)の総べてを入れて一緒に炒める。調味料を入れて味を整える。 2)ジャーに入れてスイッチを入れて10分間蒸らして出来上がる。 3)お皿に盛り、コショウをまぶしてサーブ。キュウリ等生野菜を添えるといい。****蓮のみがなければ、ピーナツを代用も可能。生ピーナツを皮を剥いてから茹でて使う。****中華ソーセージがなければ、焼き豚肉を代用して下さい。
2007/11/25
現在、新感覚な社会人は求めることによって、進化したタイ料理は(流行り言葉は)「タイフューションメニュー」となった。 その広がりは無限大だが、タイのアイデンティティを守らなければならない。とは、出来上がった形や味、盛り付け等、また、材料をどう活かしてゆくだろうとも、「タイらしき味」を保守しなければならないという、タイ料理界の専門家、権威者が示した。。。 今日紹介する「肉のドライカレー」はその1つのいい例である。タイ全国に知らされ長年認められてきた「タナッシー王子」(タイ料理の第一人者、巨匠)のオリジナルメニューです。 ほかほかもち米や、ご飯とはとっても美味しい。生野菜(キュウリ、レタス、白菜等)をともに。 作り方も簡単、材料が揃えば5分でできる。 肉のドライカレー 材料: A)牛挽肉 300 グラム B)生ショウガ、ニンニク、ウコン=各小さじ1(みじんきり) クミン(粉末)小さじ1/2 粉唐辛子1大さじ C)人参(サイコロ)、グリーンピー、トマト(サイコロ)=各1/4カップ 粉コショウ、塩、パクチ-、赤小玉葱(輪切りし揚げる)=各適量 水1カップ 作り方: 1)中火に熱したフライパンにB)の材料と適量のサラダ油で炒める。 2)A)を入れ、少し色が変わったら水を入れて全体良く混ぜた後、C)を入れて炒める。 3)塩とコショウで味を調整し、肉ができ香ばしくなると火を止める。 4)お皿に盛り、パクチ-と揚げ小玉葱を散らしてできあがる。*****クミン、ウコンがなければ、レモングラスとカレー粉(日本製のカレールーでも)を代用して、レモングラスはみじん切り2大さじ、カレールーは溶かして2大さじ程度。*****お肉はできるだけ脂肪が少なめに。牛か豚でも結構。牛肉は臭みを消すのにウコンやクミン(代用のレモングラス)は欠かせない。
2007/11/22
多過ぎたグリーンカレーの残りは、煮込みとより美味しくなりし、濃い味には素麺かけて食べるとちょうどいい味でしたが、それでもまた残る! さて、鶏肉とマクアープアング(小玉ナス)を足してよく味が滲んだら、オムライスにしてみよう。。。 フライパンに溶き卵を流し込み大きな一枚に焼いてお皿にとっておく。 ご飯を同じフライパンに入れて(油を入れる必要がない)少し香ばしくなると、適量のカレーを入れてよく掻き混ぜて「グリーンカレーチャーハン」になるよう。 お皿に卵を広げ、チャーハンを入れて綺麗に包み、少し顔出して、スイートバジルと赤唐辛子を見せるように。出来上がり。。。 包みは、手巻き寿司のようでも、手紙封筒が開けたよう形、巻寿司のようにして5センチの長さで輪切りしてさらに白いココナツミルク(少しねばり状)でかける等の、楽しくて美しい形をつくっていく。。。 これは、接待にもオシャレな一品ができる。
2007/11/19
日本では、「豊かな、実る」という意味の吉祥形を表わすには、果物だとザクロが代表的だそうですが、タイでは「バナナ」が一般的です。 この画像のようなバナナは、特に実るが非常に見事で、長い長い、まだまだ先端に大きな花弁(赤い部分)の下には小さなバナナになるのが一杯、延々になっているから「永遠」に「豊かな実る」の意味ですね。 お寺の「トーットカティン」祭り(お坊さんに衣をあげる祭り)や、お寺の建物(本堂や、お坊さんのお住まい等)の修理、新築への寄付等には、村のイベントを合わせることにします。そのとき、境内にバナナの実を飾る習慣がある。 この「クラアイ・ロイ・ウィー」=100房バナナを持って来ると、人々が非常に喜んで歓迎する。
2007/11/18
このページに料理の事をしばらく書かなかった事に気が着くことは、数日前の『「タイ人」のソムチャイさんの聞きたい、。。』ページ(http://thaiyorozu.blog93.fc2.com/)で、ファンの読者から質問を受けた記事を書いた後です! その質問は、筆者自身が好きなタイ料理を10品に上げて欲しいとのことです。実は好きなのがそれより何倍もあった!ただ10品だけじゃ。。。と、思いながらまだ沢山残っているのは、なんとなくもったいなかった。。。 さて、筆者の大変好物のタイ料理のもう一種がある。しかも、今までこの種の料理をコメントしたことがなかった!少年時代、材料がなくても理解しなくむりやりに母をせがんで作ってもらったまでに!そのくらいの大、大好物! それは、「ロン」です。ヤム、ケング(スープ、カレー)等と全く違ったもの。 基本はココナツミルクに、香辛料と主菜を煮込み。これが生野菜と食べるもの。洋風で言えばディップの一種かも知れない。ディップに近い!本格な純粋タイ料理です!画像は、「ロン・ヌアーケム」です。干し牛肉を主菜にして煮込み。とっても美味しいものなので、お試しに是非。もろ味噌(大豆の粒がある種類)で一緒に煮込みのが一般的です。このロンをご飯と食べると、他のおかずがいらない! 吃驚したのは、トーストにでも非常に相性がとってもよかったこと!
2007/11/16
1784年、バンコクを首都として王宮とエメラルド寺院を造った2年後、ラマー1世王は、バラモン教のお寺と赤い鳥居みたいな物凄く高い「サウチングチャ-」を街の中央に建てることを命じた。 その後、ラマー5世王時代、その辺をガス工場を造るために、現在の位置に移動した。 スコータイ時代からアユタヤ時代に続き、バンコク時代もさらに継続した国の殆どの儀式は、バラモン教の儀式を仏教儀式と共にやる。このため、バラモン教は王室に大事され後援される。 バラモン教のお正月は陽暦の12月にあたる。元旦から10日間は宇宙の創造神様「イスアン神」は人間界(地球)を遊びに来るとの信仰。この期間中をバラモン教教師は、イスアン神を迎える儀式を行われる。 お迎える式は、この巨大ブランコに乗って空中を高くへ揺れ、「神様」を迎えること。この儀式は王室の大事な儀式の1つとなって、長年継続して、ラマ-7世王に終止された。 オリジナルのサウチングチャ-は、ラマ-6世王時代に、木材商の「ルイズ社」からチーク材献上によって、廃しされ、新しいブランコがつくられた。それがまた1959年に修理されて高さは21.15メートルになる。 50年ぶりの今回は、全部新しく造って入れ替わられた。北部のプレー県から巨大チーク丸太を提供し、バンコク都庁は祝う行事を主催することになった。プ-ミポン国王は9月12日の開会式にお出でになられた。祝いは2泊3日間で、全国からの数万人が「サウチングチャ-」へ訪れた。
2007/11/15
今回の新しく出来た巨大ブランコ(サウチングチャ-)の材料は、プレー県からの提供で、最高級チーク丸太が展示された。 お祝2泊3日間展示コーナーで多くの人々は、その大きさに吃驚と感動した。(直径3メータ-以上)
2007/11/15
この「チャ-チャック」とは、南タイの方言で「お茶を入れる」という意味。 お茶とは紅茶に似ているもの。入れ方は画像のように、両手を上下にしてできるだけ180度に近い(ほぼ一直線)形に、片方は受ける他方は注ぐ。 見ると楽しくて夢中になる。やるひと(お店)はあまり真面目さで緊張感が漂っていた。。。 かの間の9月11~13日の、ワッスタッ寺前のサウチンチャ(巨大ブランコ)の取り替えた祝いがあった。その2泊3日間で全国のタイ人がお祝に来た。夜が出店と全国各地方の伝統文化、芸術、演劇等催しがあった。 その中に、南タイの文化展示コーナーで、このお茶コーナーがあった。「チャ-チャック」お兄さんの演技で人々が集まってくる。結構売れた。(客が注文しないと、その一回やっては終わってしまうからです。ようするに、注文してくれる客がいなければ、演技終わった後でお茶の入れ物がそのまま置くことになる。。。客がいればそれぞれのコップに開けてしまうと、また「チャ-チャック」が始められる。。。このような繰り返すですので、見てからは座って飲んでから去る。
2007/11/13
ラ-マ7世時代、タ-チャ-ン(現在は国立劇場所在地)にボクシングスタージャムが造られた。 ここで事件となった試合いが起きてしまった。挑戦に来たカンボジアボクサーは、顔面や上半身数カ所にタイボクサーの麻紐巻挙固の強力なパンチ、力のある蹴りで即死した。。。。 1929年、やって来たフィリピン選手のようにクラブをはめる事を、政府はタイボクサーは紐巻きの変わりにクラブ使用することを求めた。このことによって、タイ古代(伝統)ボクシング攻め方(パターン、型)が無くなりつつになった。クラブ使用のため、手で相手を捕まったり、引っ張って投げたりすることができなくなるからです。 この時代にスアンルム公園に(後、ルンピニ・スタージャムと言う)ムアイタイ試合を毎週土曜日に開催し始めた。この時、国際式に合わせて、対戦場(リング内)を2組みの赤と青に分け、審判2人、リング上のレフリー1人、鐘鳴らしでラウンド合図を始まった。この年の最終試合の12月30日(土曜日)に、股間保護(性器)のため1人選手がパンツの下に鉄菱(鉄製サポーター)をかけたことで、以後タイボクサーは皆鉄菱を着用することになった。 ラ-マ8世王時代、第二次世界大戦に日本軍はタイ上陸したことによって、ムアイタイはスタージャムで出来なくなったため、昼間でバンコク市内の各映画館内でやった。数カ所の映画館はボクシング試合があるため、ボクシングファンは映画館へ行くことが楽しみになった。。。 1945年、ラチダムナン・スタージャム開設。試合い時間は毎週日曜日の16:00~17:00時、全5ラウンド、各ラウンド3分に2分休憩を設けた。国際試合に共通するため、ボクサーの体重を各級に分け、フライウィ-ット112パウンド以下、バンタム級は118パウンド以下等。 1959年日本人事業家「ノグチ」が日本人ボクサーをタイへ挑戦することで、ムアイタイ界にとっては大きなイベントとなった。ノグチ団員は総べての試合をビディオーを収録して日本へ持ち帰った。「キック・ボクシング」と言う言葉を一方的に創ったが、タイ本場ではこの言葉を反論し受け止めない姿勢で反発した。 そもそもタイ国技だったため、タイは「ムアイタイ」を固定し、ムアイタイを継続呼ぶ。強いて英語的な言葉にすると、「タイボクシング」で正式な言葉に使用した。その一番「受けられない」理由は、「蹴る」だけを強調したボクシングのあり方は、本家ムアイタイのイメージをダメージとなる恐れでした。 ムアイタイは、膝、肘、臑、足の甲、足の裏等々を使うテクニックがあって、総べての使用で「攻撃攻防術」である。単なる「蹴る」ボクシングではないからである。約700年も伝わって来た国の「宝物」である伝統的な武術とした。 この意味で、試合や対戦の事だけは「ムアイタイ」ではない。対戦始まる前の恩師への祈り、お礼として「ワイクルー」踊り(下の記事)も含めて「ムアイタイ」と言うことです。 いろんな国がある国の国技を持って行き自国でマスタ-してからスポーツにするともに元のところの名称を変えてしまうと、いろんな国に呼び名によって、元祖のそのもののアイデンティティー、プライド侵害問題となることも考えられる。 1960年、ムアイタイ選手は18才から38才に規定ができた。 1961年、「キングズカップ・ムアイタイ」(国王賞)が始まって現在まで至る画像は、日本人選手と対戦した「本物」のムアイタイボクサーの「美しい場面」。「本物」なので、攻撃術はよくできている。このスナップは、「ショー」ビジネスで「買われた」偽選手ではできないこと。 飛び上がって、空中で相手の顔面や首を強く蹴ること。これが足の甲で額へ直撃。首でしたら一発で失神となる。
2007/11/13
ラ-マ6世王時代に第一次世界大戦が突入、タイは同盟国に参加した意味でフランスへ軍隊派遣した。団長を勤めるハッサディン中佐はムアイタイ好きなので、向こうでムアイタイをヨーロッパの人々に見せた。これが、海外でムアイタイを始めて披露した。 終戦後1921年、始めて定期的な試合が執り行なわれた。スタジアムはスアン・ク・ラブ学校の校庭を利用した。選手は手を麻紐で巻き、腕紐と半パン、クッション付き菱を着用(ボクサーが蹴られたり踏みつけられたりする衝撃を防ぐために性器のところへクッション付き菱を着用)。裸足と上半身が裸。 ある時、非常に人気選手へ挑戦者との試合いではノックアウトされた人気者となる結果に、観戦者は新強者へ祝うのため試合場へ入り込んだ。 このように観戦者によって混乱することを考え、試合い場を平地から台となる120センチの高さに上げ、直径3センチの縄で四方を囲み、選手とレフリーの乗降口と階段が設けられた。時限担当者は時計2台を見張って、1ラウンドが3分で、太鼓を鳴らすことに 全11ラウンド。相手が転倒すると、重なる攻撃はいけないで隅に待つことの形式が、始めて掟が決めた。また、試合中に伝統音楽伴奏も取入れた。 このような定期的な試合いを求める国民に応じて継続することになった。戦事に軍隊の補助するために、軍事訓練を受けた民間人(すでに廃止)の活動資金資源として、「入場料」を始まった。 地方から新強者がやってくる度に、バンコクの人気選手と相手になると、新聞記者が写真と記事を新聞広告にする。これも、ムアイタイにとって始めての試合い広告ができた。 当時の歴史的なイベント試合いで入場料で最高に売り上げとなったのは、中国からやって来た挙術師(中国式古代ボクシング)との試合い。中国選手は顔面に強いフックに伴い、首に蹴られてノックアウトした。審判に10カウントしても起きられなかった。画像は、攻撃手(赤)が飛びながら相手(青)の側面(横)をあてに力強く蹴る。これは、非常に危険で、人によっては肋骨折れることもある。激痛と息詰まりは倒れて起きられない「ノックアウト」になる。
2007/11/11
ラ-マ2世は、少年時代からムアイタイを習った。当時の一番強いムアイタイ選手の処へ通っておられた。16才になった時は王宮内のムアイタイをさらに訓練された。宮殿裏庭をムアイタイ練習所兼ねてムアイタイ試合場とお造りになられた。 また、それまでの「ランマッド・ランムアイ」を「ムアイタイ」に呼び方を変わるように命じた。 ラ-マ3世は、同じく少年時代から宮内ムアイタイ専門教師から習ってマスターされた。 ラ-マ4世は、少年ムアイタイ代表と選ばれ、王宮前広場(サナムルアング)の年次祭りにムアイタイと剣術を公衆前で披露された。この時代は西洋文化が始めてタイへ少しずつ伝わって来たが、ムアイタイは国技としての人気強さが変わらなかった。 ラ-マ5世はムアイタイとスポーツが大好きで、宮内のムアイタイをマスターされた。ムアイタイ活動をさらに力入れ、各地方のムアイタイチャンピオン選抜をするように命じられた。優秀した選手をバンコク首都へ送り、宮内ムアイタイ軍に入団させ、国王守備軍とする。また、それまでの国の年次祭りの他、宮廷の冠婚葬祭、国賓迎賓会にもムアイタイはスポーツ的な試合いを開催するようになった。 ムアイタイと合わせてタイ伝統音楽演奏は、この時から始めた。 1887年、タイの始めて教育局(文部省)を造られたラ-マ5世王は、国技のムアイタイを大事にされる意味で体育師範学校と陸軍士官学校のカリキュラムにムアイタイを盛り込むようにと命じられた。 ラ-マ5世王時代はムアイタイの最高潮であった。画像は「ムアイタイ」と言う言葉のタイ語文字でいれるボクサーパンツは、外人に人気となった商品。実際のボクサー用よりも、色と模様はさまざまで観光客のお土産コーナーでよく売れている。
2007/11/10
ラッタナコーシン(バンコク)王朝時代 この時代のムアイタイは国技とされた。ラ-マ1世王からラ-マ4世王までの86年間は国の年次祭り(王宮前広場=サナムルアングでいろんな遊戯、演芸、寸劇等を催す)に国のムアイタイ選手権が開催された。 この時に試合のラウンドが始めて設定した。穴があるヤシの殻側の半分を水に浮かし、穴から水は入り段々と殻がしずんでいく。完全に沈んでしまった時には1ラウンドとして、時限かかりは太鼓を鳴らしてワンラウンドが終わることを告げる。一息の休憩して次ぎのラウンドに継続していく。採点がなく、終了ラウンドもない。相手がノックアウトか負かすと申すまで対戦が続く形式。 ラ-マ1世王が少年時代からムアイタイがお好きで、何処にでも開催するムアイタイ試合を必ず見に行かれる。1788年にフランス商人兄弟が商船でタイにやってきた。レスリングが得意だった弟は、下町でムアイタイ遊び庶民を見て面白がった。自分の洋式レスリングとボクシングでムアイタイと戦ってみたいと、国王側近者であったお蔵担当役人に対戦を申し入れた。 申し出の報告を受けられた国王は、大将であった弟様に相談された。ムアイタイが得意だし、国王専属ムアイタイ選手たちをまとめ役でもあった弟様大将は御自ら宮廷専属最強ボクサーを選び出した。「ムーンプラーン」と言う人であった。フランス人兄弟は勝てる自信満々で国王と賭けるということに提案した。話し合いによって、負ける側は50チャングを勝利側に払うとの約束できた。(当時のお金の最高価、1チャング=80バーツ、現在は約数10万バーツ相当) 試合はエメラルド寺院の裏広場。正方型で各20メートル縄で四方の高さ70センチのポールに結んでぐるりと囲み、正面は国王の席が設けられた。規定は採点なし、勝負までやり遂げる。始まる前、全身オイル薬草を塗った「ムーンプラーン」選手は腕(脇の下)にお守り紐を結び、人の肩車に乗って会場まで送ってもらった。 背が高いフランス人は接近して肩や首を掴もうと集中攻撃した。ムーンプラーン氏は防護しながら、蹴って殴りした。接近されないために一歩離れては蹴る事で、フランス人相手は何もできなかった。このままでは負けそうになった弟をみて、フランス人兄貴は囲いに飛び入り、弟から離れないようにムーンプラーンの後ろへ構った。これが、兄弟合わせて2対1戦になったと見えたタイ人たちは囲いに入り兄貴と戦った。大勢いたフランス人も中へ入り込み、フランス人とタイ人のムアイタイ集団戦いになってしまった。フランス人全員は大なり小なりそれぞれ怪我に食わされた。国王はフランス人に薬と按摩師で当てた。怪我を処理した後、フランス商人はムアイタイの印象をもちながらタイ港を出発した。。。画像は「ハッコーアイヤラ」型(=像の首を折る)、古代型の1つですが、今はこのテックニックが未だ使っている。相手の首を引っぱりながら膝を強く顔面に入れる。。。。
2007/11/09
アユタヤ後期は、ビルマ軍に2度目と敗戦した1767年、奴隷として自国へ連れられたタイ男たちの中に「カノムトム」という人がいた。7年経った1774年にヤンゴンの巨大パゴダ完成祝いに、「アンワ」ビルマ王は両国民のボクシング対戦を見たくて、タイ人奴隷の中にムアイタイ術が上手い人を探し出すと命じた。ビルマ軍と1対1のボクシング戦を、王座の前で開かれた。 しかし、あの無名な奴隷のタイ男その独りが、休みなく継続の全10戦での10人ビルマ軍を全勝した。アンワ王は非常に驚いた末、「カノムタム」氏を褒美として自由させ、母国のタイへ帰還させ、「タイ人は強い、リーダーがしっかりすれば、国がダメになる事はないだろう。。」と言ったらしい。 このために、「カノムトム」氏は「ムアイタイ」の父とされ、あの勝戦日である3月17日は「ムアイタイ記念日」と定められた。この記念すべき日とは、勝利したムアイタイは始めて海外宣伝された。 アユタヤ時代にまたもう1人のムアイタイ名人がいた。ピチャイ市ウタラディット県の地元と周辺町までに「ムアイタイの権威者」とされた「チョイ」氏である。幼児からムアイタイ名師の元で特訓を受けた後、16才までムアイタイで稼ぎ生計した。その後、さらに、雑技と刀術を雑技師の中国人に師弟したため、県と広い周辺地域は、ムアイタイや武術で挑戦者がいなくなり、噂が広がった。鄰の「タ-ック」県を治めた「シン」(藩主)にスカウトされ、藩儒として王宮へ送り込まれた。 アユタヤ王朝を滅ぼして住留したビルマ軍団と戦って追い払った後、国を再建のため数百人の軍人と国民をともにアユタヤから南方へ下り「トンブリ」を新首都と宣言し新しい時代の「トンブリ王朝」を始まった「シン」将軍 (シン藩主)は、自ら「トンブリ」初代王と宣言した。この時、藩儒の「チョイ」氏を御褒美として、地元のピチャイ県へ藩主と命じた。 1771年、ビルマ軍は再びタイへ挑発した。チェンマイを侵略し、ピチャイ県へ「チョイ藩主」と激戦した。戦場となったピチャイ県でチョイ藩主は守り抜けた。使用していた両刀は折れてしまったまでの戦いは、「プラヤ・ピチャイ・ダーッブハク」(=折れ剣刀将軍)と、人々に呼ばれた。 国を再建し復興期間中のトンブリ時代14年間は、ムアイタイはさらに盛んになり、ムアイタイが強い名人が多く現れた。国の方針としてムアイタイは全男子に必需技能としたため、教習所が沢山でき、日常練習していた風景が街中どこでも見られた。ターックシン王の両腕となる軍人たち(10数人)全員がムアイタイが完璧、武術も上等者であった。 ムアイタイが最高に盛んになって、国技で「スポーツ」としての感覚に展開し始めた。各教習所、各流派の弟子で「ムアイタイ対戦」がよく街のイベントとして行われた。この時代のムアイタイ対戦は、1対1で採点なし時限なしだった。相手がノックアウトかお手上げの敗北申すになるまでの戦い。場所はたいていお寺の広場。選手は必ずやる事は、額に白い紐で潜って後頭部に結び目をつくり、片方か両方の脇の下の腕に白い紐を結び付けた。画像は、「チョラケーファーッド・ハーング」(=尻尾を投げるワニ)。現代でもできるボクサーが少ない攻撃型。相手に後ろ向いて足で肩か首を強く打ち。難しいでしょうか、この場面はどの試合いにもめったに見られない。
2007/11/08
人種学によって、タイ民族はモンコーリア人種に属し、一般的には寒帯民族より身体が小さい。平均身長は157.5センチで、体重も少なく、ガッチリした体格。色が薄ブウンに黒い髪の毛で体毛が少ないし、ヒゲや顎ヒゲが薄い。熱帯に位置した領域のため、大部分が川沿いを生息し、イカダや船は交通機関となる。衣服は簡単で少なめ、帽子と靴を必要としない。 周辺にいろんな異国民と隣接する国であるため、始終戦いがあった。男は暇時に武術と手ぶらでの攻撃術を練習することは当然なことであった。 武器をもたない手ぶらな自分を守り技術としてできた自然な武技である「ムアイタイ」は、スコ-タイ時代(1238年~1354年ごろ)のラームカムヘーング大王の碑文が明記してあった。 外敵に対する守備と攻めるには短刀、刀、槍等の武器と合わせて四肢の利用、つまり、蹴り、膝、肘で攻める術の練習は常時であった。スコ-タイ時代の男は皆、「ムアイタイ」が「男前としての必需性」であった。また、国を守る義務としての招聘への自己準備としたことでもあった。 当時の有名な専門「ムアイタイ」教習所は、ロッブリ町(現ロッブリ県)の「サモーコン」という教習所だった。そして、どの村にもお寺の広場を利用してお坊さんが教えることに励んだ。 スコータイ時代の「ムアイタイ」教授のあり方は、まず、身体づくりとしては水汲み、お米の脱穀作業、薪を割る、川を泳ぐ、ツル木をのぼり等の体力づけから次ぎの段階は、腰巻き布を固めて玉状にしたものを木に吊るし的として、拳で殴り、足で蹴り、膝、肘を当たる練習。この他には、バナナの幹を蹴り、練習相手(ペア)とパンチ、フック、相手を倒す等。終わりには川へ泳ぐことで、汗塗れを洗いとともに筋肉を和らぐためである。夜には道徳と宗教心を勉強し、今までのムアイタイの攻める「型」を復習して就寝。 スコ-タイ時代、「ムアイタイ」は王位後継者教育の高等教育項目であると、当時の記録があった。初代の王様は、13才の王子(次世代の王様)をロッブリ町(現ロッブリ県)の「サモーコン教習所」へ留学させた。1275年~1317年まで、ラ-ムカムへーんグ大王は戦術書を書かれた。その中には「ムアイタイ術」が強調された。後の時代の識者とされた「リタイ」王は、王族専用「学習院」での学びは知識だけではなく、ムアイタイが含めた武術をも実践的に熟練された。
2007/11/07
バンコクで開かれた「タイ日友好親善120年記念コンサート」での歴史展示コーナー。 国交樹立歴史に関する写真が多くあります。珍しい写真や、始めて公開された写真があります。 この画像(ポースター)は、コンサート会場(ホール)入り口前に設置した。 両国の王室交流スナップ写真、上中央右手の白い洋服はラマ5世王と明治天皇の代表者がタイ訪問写真。 上右、中央はラマ6世王と当時日本人外交代表者。 上左、前列の中央は、和服でのラマ7世王と王妃殿下(右手)。 下前は両国の現国王と天皇陛下ご夫妻、王族。
2007/11/05
先月(10月)13日の朝、タイ現チャックリ-王朝第9世王「プーミポン国王」は、右半身が少々異常な状態となられた。宮内専属医師の診察結果によって、左脳膜表に貧血だとわかった。集中治療のため即入院となられた。 シリラ-ッ病院での先端技術機で診察したことによって、左脳膜表に貧血状態(脳硬塞ではない)によって右半身は力入らない状態になられた。また、大腸に炎症が見つけた。 宮内庁の発表したその日から全国国民はシリラ-ッ病院へ駆け付けた。病院内での「訪問帳」を祈り著名するためであった。 宮内庁は定期的に治療とご容態を、マスメディアを通して国民へ報告発表する。 日々治療とリハビリテーションによって、現在は、普通な歩行状態までに、杖なしでの長時間立つ、食欲等が回復し、大腸がよくなられた。 今日(11月4日)までの、国民著名は100万人と経った。。。しかし、100万人目は誰だとは分からないらしい。記帳簿に番号が付けていなかったためだった。全世界からの著名を送ってきたタイ人や外人も多くあったとの事。 ほぼ同じ時期に、国王のお姉様「プリンセス・カラヤニー」は左脳硬塞となられ、入院とリハビ中。
2007/11/04
ムアイタイや、剣術等伝統的な武術をもってスポーツ的な対戦する前には、選手は必ず「ワイクルー」する。 ムアイタイ選手は対戦前に、ワイクルーをしなければならない。昔からいまだにも厳しく守る。 ワイクルーとは、単なる踊るではない。本目的は、試合場の主宰者への御挨拶である。昔、国王の命令によって開催したため、お席前に試合をすることで、国王を拝む意味である。同時に教えた恩師、巨匠に祈りとお礼を表わす。このような意味が込めたワイクルーであるため、ワイクルーすることによって、選手は落ち着き、勇気付けとなります。 ワイクルーのあり方は、各派閥によって違います。このため、相手が同じワイクルーのポーズでしたら、同じ恩師だと分かり、互いに対戦しない。もう1つの利点が、ワイクルーによって、相手の体格、弱点等が見られる機会となります。対戦する相手への攻撃仕方を考案を検討着くためでもある。。。
2007/11/03
またタラッドーンワーイの珍しい、レトロなものを紹介したいと思います。 今日の画像はココナツ椰子ですが、普通ものではありません。これは全国どこでも滅多に見つけられません。 まず、中身の白い部分。普通のものだったらもっと白くて、より薄い。搾ってミルクを採るために細かく刻み(機械で細かいシップス状にする)用のものは、5~10分の1の厚みでしょう。汁を飲む若いものならば、殻も実ももっともっと薄い。 そして、この厚い実の中央部分は、寒天のような透明でやわらかくてとろとろですが、弾力がある。厚い実は真っ白よりもアイボリー色。これも柔らかくて噛むと薄甘くて香ばしい。柔らかい寒天と歯応えのあるアイボリー部分と和えて、言葉では説明できない美味しさ! ぜひ、このおような「マプラオ・ウーン」が見つけたら、お見逃さなく買ってお味を楽しんでみて下さい。 画像では、ここがこの一個で60バーツ。安くないが、ものの珍しさで考えると、安い!このように出来たものは、同じ木でも毎回出来ないものです。何年か一回か、それきりでもう普通のものにしかならない。しかも、あるだけのものです。種類ではないから、作ろうと思っても、努力しても出来ない!だから、60バーツは全部でも買い溜めたいですね。(冷凍してソフトクリームのようになるとだして食べるからです!) また、これを、アイスクリーム用の冷蔵庫に入れて売っているところもある。(「あった」と言いたい。実は、今はどこへ探しても難しいかも知れないが、子供の時代には家の近くに(バンコクでは)1軒だけがあった。。。それでも時々(数カ月に一回か、3~4個しかない!)でした。 この半冷凍製品はまた、格別に上手い!寒天の部分はソフトクリームに近い状態で味が人為的では絶対に作れない!今は、(近来数十年とも言えるかも知れない)見つけたことがない。。。
2007/11/02
サムッサーコーン県のタラッドーンワーイ(川沿い、水上市場)でのレトロな雰囲気が300年前から未だに充満している。この市場を歩くと地元人々の食生活がよく分かる。独特なものがたくさん見られる。 訪れる内外観光客が多い日々には活発化となり、売り物は地産地消から観光客向きにならざる得なくなった。けれども、量的でありながら質的でもあることを、ここの人々が堅く守ることで、この市場の人気となる。 売り物の殆どは念入りの手作りばかりで業界では無敵。大量生産型の大都会(バンコク等)は比べにならない。 画像はタイ人気のお菓子のひとつ。年中いつでも食べれるもので、「タブティムクロッブ」という。(タブティム=ザクロ、クロッブ=ぱりっとした歯ごたえのある食感) 画像の上に薄き色がこのタブティムクロッブの中身。くわいを皮向き、サイコロに切って茹でてから、ザクロに見るような色着けた片栗粉で衣して茹でる。出来上がる状態は光沢で透明ながら色が不均等で本当にザクロそのものに非常に似ている。 大きな入れ物に売っているこのお店は、午前10時頃から始まり、午後3時頃にはもう完売。。。 美しいだけではない。お味は非常に美味しくできているからです。中身が茹で過ぎず、かた過ぎない。衣は歯ごたえがあるようなプリプリした。全体にはまた薄い味がしている!これが、不思議で「傑作」としか言えない。 一回食べてみて虜になり、また行きたい。バンコクからこれを買いに行くためだけでも。。 一般では、どこでも中身の味があまりしない。くわいや、イモ類の「マンケオ」を代用しても殆どが味がしない。衣にも味がない。シロップとヤシミルクの汁によって美味しく食べる氷りおやつですが、ここのものならば、汁に頼らなくて充分美味しくなるもの。 このような田舎の無名な庶民で手作りは、大都会の有名なレストランや専門お菓子屋さん、権威の料理教室の講師でも真似できない!
2007/11/01
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