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参院選前そして参院選後、共に政府を擁護する声や自治労を批判する声が上がっておりますが、これは誠にナンセンスな事だと思うので、一言言わせて頂きます。 私は、政権政党も労働組合も基本的に一緒だと思っております。 なぜなら、それらは全て官僚機構を基本として、互いに手を取り合って下級労働者を食い物にするからです。 社会保険庁の年金資金流用やずさんな管理体制、仕事に関する手抜きなど色々問題になっておりますが、この支持命令は、監督官庁と労組トップとの談合での決定をトップダウンで実務労働者に伝えているに過ぎません。 つまり、政府官僚と労働官僚の互いの利益の合意点がトップダウンされているのですから、現場の実務労働者はある意味被害者と言っても良いのかもしれません。 周知の通り、健全な気概を持って公務員になった人々が、時間を追う毎にやる気を失わせてしまうのはなぜか、お役所で幾らかでも仕事をした経験のある方ならご存知だと思いますが、バイトの人間にさえ、シャカリキに仕事をする者がいたら仕事をするなと止める所ですから押して知るべしです。 どっぷり公務員仕事になれた古株が、主任になり、係長になり、課長になりして行く中で、トップダウンに従う重要さを狡猾さに変えて身に付け、暇が故に我が身の利殖しか考えなくなる。 公務員の不祥事の実態なんてこんなものです。 結局、そんな中で、異色の頑張り屋は、出世どころかどんどん立場を悪くして、気が付けば閑職に追い遣られるといった悪循環を生み出すのですから、役所などという物が良くなるはずはないのです。 そんな構造を作っている獅子身中の虫は敵対するはずのお互いの陣地で舌を出して笑っているのです。 一方が良くて一方が悪いなどという社会構造などこの世に存在するはずも無く、お互いの悪い所が、相乗効果となって一層悪い社会を創造して行くのです。 役人(労働官僚も含めて)の仕事については、監視の循環システムと言ったような仕組みを考えなくては、この国は駄目になってしまうでしょう。人気blogランキングへ
2007.07.31
騒がしかった世間もぐっと静かになり、祭りの後の後片付けに追われているといったところでしょうか。権力闘争によって行われる政治は、市民の真の幸福を呼ぶ事が出来るのだろうか・・・???government of the people , by the people , forthe people .の大原則を今日の政治は余りにもないがしろにしてはいないだろうか・・・???市民も政治家(国会、地方議会議員)もお互いに希薄となった政治に対する認識が、自分自身の誇りをも失わせているような気がする。社会が変われば、確かに政治の在り方も変化して行くだろうが、その根底には、民主主義を選択した以上民主主義の根本理念が貫かれていなければ、最早、民主主義政治とは名ばかりのものになってしまう。アメリカ合衆国の押し付け民主主義と声高に叫ぶ方々もあるけれども、この60年間、戦争もせず、只管国民生活向上に向け走って来られた事は、何にも増して幸運であったと言わざるを得ない。然しながら、豊かさをもたらした社会は、贅沢三昧な精神構造を創出し、市民は逆に倦怠感さえ感じ始めている。それは、間延びした社会構造が、バーチャル世界の様相を呈し、現実を正視出来ず、恐怖を嘘でごまかして、嘘が嘘を呼ぶ連鎖社会を生んでいるからに他ならない。政治家は、泥舟に乗った日本国民を、鉄の船から、いよいよ深みに向けて押し進め、決して泥舟に同乗しようとはせず、ひび割れた泥舟のヒビを粘土で修理するよう叫びながら、安心するよう説得するのである。ヒビを修理しようともせず、修理さえも泥船の乗船者に行わせ、決して泥船が沈むことが無いと、叫びながら深みに導いて行くのである。鉄の船に乗った政治家、役人、金持ち、フィクサー達は、一度乗った鉄の船から下船しようなどとは思わないのであり、仕舞には鉄の船で、泥舟に体当たりすることも厭わないのである。誰かが、泥舟が如何に危険かを叫べば、泥舟に乗った人々はパニックとなり、我先に鉄船に乗り移ろうとし、鉄船に乗った人々に危害の及ぶ事もあろうから、誰も、泥舟の危険を叫びはしない。今回の選挙結果は、決して、泥舟に乗った人々が、泥舟の危険に気付いたのではなく、ヒビ割れに気付いた何人かが、修理しなければ沈んでしまう事に気付いたに過ぎない。政治家たるもの、鉄の船を降りて、泥舟にのり移り、泥舟がもう直ぐ沈むことを叫ぶ位の気概が無くては、本物の政治家とは言えないのではあるまいか・・・!!!??
2007.07.30
明後日は、参議院議員選挙です。結局、馴れ合い政権(現国会議員全員の)は変わるどころか益々市民に悪政のツケを回して来る事に成るのでしょう・・・!!!やたら、自民、公明批判を煽って、野党応援をする論調の見えるブログにせよ、マスコミにせよ、あなた方が煽れば煽るほど、与党にとって起死回生の後押しとなる事をよくよく考えなければなりません。 過去にも、与党が余りにも劣勢と言う事で、皆が安心し、蓋を開ければ与党の勝利に終わった選挙は幾つもあるのです。 まあ、どちらが増えても、悪政は変わらないと断言しているのですから、どうでも良い事なんですけれどもね・・・!!!真に誠、正直、気概、清廉、覚悟を有する者は、嘘をつかないものでしょう・・・?そうであるならば、堂々と、市民の批判の矢面に立って、市民の本気を引き出すのが、本物の政治家、まつりごとを取り仕切る者の心意気というものでしょう。 腹黒い、私利私欲の怨念を見透かされても、尚、利権の権力にしがみつこうとする政治家の何と多いことか・・・!!!!隠さずに、宣言せよ、徴兵制の復活も、軍隊の必然性も、天皇制復活も、戦前道徳教育の復活も、なぜ全て正直に意図していると言えないのだ・・・!!!軟弱、守銭奴、売国奴の汚名を着せられても仕方のない所作ではないのか・・・???亡国の憂いを覆さんと企てるのなら、なぜ本気で向かわないのだ・・・!!!市民を欺き、騙し続け、踏みつけにして、生かさず殺さず、そこまでして権力が欲しいのか・・・???安倍、麻生、小池、高市、稲田、中川、山谷、平沼、島村、西村、下村、石破、石原、小野、谷垣、その他大勢の、市民に顔向け出来ない獅子身中の蛆虫ども、いう事があるなら正々堂々言うてみろい。
2007.07.27
前回の記事、ザ・日本会議の中で日本会議国会議員懇談会会長を麻生太郎氏としておりましたが、現在は平沼赳夫氏のようで、前後が逆転してしまっていたようです。訂正してお詫び申し上げます。魑魅魍魎の政財界とは、市民の間でも恐らく周知の事実でありましょうが、これ程おどろおどろしい集団もなかなか無いのでは、と感心してしまいます。何せ、元軍属から閨閥、神社、仏教の統率者、最高学府の教授、文化界の家元、司法界の長などありとあらゆる支配階層から成るこの集団は、まるで帝国日本のマフィアのようでもあります。岸信介、佐藤栄作に続く麻生、安倍の閨閥、戦犯家系はもとより、瀬島龍三氏のように元職業軍人から転身し財界の首領に伸し上った人物、板垣正氏のように陸軍大将板垣征四郎氏(A級戦犯死刑)を父に持つ人父親が石原慎太郎に心酔し、選挙に敗れた挙句エジプトに逃避しアラビア語をマスターして、再びエエトコのお嬢さんの復活に賭ける小池百合子氏、人生の悪戯から革新派から超タカ派に転身し政界の渦に飲み込まれ散っていった父を持つ中川昭一氏、リベラリストから日本のネオコンと呼ばれるほど、右翼の大物日本連合総裁、朝堂院大覚から寵愛を受ける高市早苗氏など、信義と言うものを全く持たないええ加減な欲ぼけ人間達は如何にして日本の権力を我が物にせんと日々暗躍しているのであります。この集団に加わっている人々は、メンバーを見れば押して知るべしの様な輩ばかりなのです。その中に、民主党の議員も沢山紛れ込んでいると言う事は、所詮、自民党崩れの多い民主党というのも、やはり、小市民の当てに出来る存在ではないのです。小沢一郎氏が一体どんな手腕で、烏合の衆の民主党を率いておいでになるのかわかりませんが、暗殺されるなどと言う事がないように、上手に生きて行って欲しいものであります。市民の皆様方には、くれぐれも、今回の選挙に立候補している、自民、民主の日本会議派の立候補者にはお気をつけなされたしと案ずるものであります。人気blogランキングへ
2007.07.26
政治に詳しい人達は、既にご存知の方も多い事だとは思いますが、一度是非、この日本会議のホームページを御覧になると、参議院選挙のことであれこれ主張されている声が幾分変わるのではないかと思う次第であります。 日本会議は右派保守系市民団体となっておりますが、はっきり言って右翼の(もっと言えば、閨閥議員や財界、宗教界、その他ジャンルの日本を牛耳る権力者達)の集まりです。 よくブログに登場される日本軍、大日本帝国、自民党、官僚を賛美される皆さんのご意見は、彼の団体の感化ではないかと思うほど、かなり凄いものがあります。 この団体には、国会議員懇談会という組織もあり、前会長が平沼赳夫氏であり、現在は麻生太郎氏のようです。 民主党議員も多数所属しており、大日本帝国再びの夢をぶち上げているような、誠に危険で、現在の日本が、なぜこれ程市民に対して冷たい国になったのかの理由の一つが垣間見れます。 ずっと、日本の支配権を独占する輩の正体を探っておりますが、この上に、どうもその正体らしきものが存在しているようであります。 基本的に、日本は、神道を基調とする右翼的支配権者の力から脱してはいないようであります。因みに、副会長 谷垣禎一氏 副幹事長 小池百合子氏 副幹事長 安倍晋三氏 会長代行 中川昭一氏であります。人気blogランキングへ
2007.07.25
外国人が、日本人に抱く幼稚性とは一体何処から生まれたんだろう。特に、青年期の日本人に外国人が接した時、この国の若者は、自国の歴史も文化もろくに知らず、自己主張の出来るアイデンティティと言うものを全く持ち合わせていないと誤解とは言えないようなコメントをする事がある。日本の歴史認識を正しくすると言う事は、つまり、日本の庶民が、支配者階級に飼い慣らされてきた時代の流れを正確に把握すると言う事であろう。日本の歴史(大和政権が確立された頃を日本の曙とするならば)に於いて、庶民は常に天皇を中心とした中央集権国家の下に置かれ、如何なる庶民派の勢力が台頭しようとも、天皇に弓引く事は天下の大罪とされて来た。つまり、日本に於いては、天皇は神であり、唯一人間界から乖離した存在であり、何人も犯すべからざる存在であった。故に、日本では、外国から渡来した宗教は戒律を強く前面に押し出す事は出来なかった。なぜなら、日本に於いて神は天皇であり、他の神など存在する場所など何処にも無かったからである。通称聖徳太子が仏教によって国の平和を築こうとしたという話も、つまりは、教義としての仏教を、治世の道具として使用したに過ぎず、尚、天皇が神である事には変わりがなかったのである。それ以後、時の治世者は宗教を治世の道具にしてきたけれども、統治の基本とする事はなかった。キリスト教が入って来た時でさえ、治世者は利用出来る内は散々利用しておいて、邪魔になると判断した瞬間、これでもかと言うほど弾圧したのである。そこには、庶民の意思など一切反映されるものではなく、庶民は支配者の意思の赴くままに、操られてきたのである。明治維新以後も結局は、天皇を中心とした立憲君主制が守られ、庶民の意思が治世に反映される事はなかったのである。その事は、庶民から自ら考え、主張し、自らの力で勝ち取る力を失わせてしまったのである。第二次大戦後の民主主義でさえ、アメリカ合衆国からの贈り物であって、庶民が勝ち取ったものではないのである。元々民主主義というものの土壌が無かった日本(長年の封建制度が自立の気概を失わせてしまった)では、一体民主主義とは如何なるものかという事から勉強せねばならず、そうこうしている間に旧支配者階級が息を吹き返し、日本的封建制と民主主義が合体した歪な日本社会が醸成したのである。巨大権力に守られ、何も考えず、飼い犬のように、飼い主に守られる生活は何と楽で、居心地の良いものか、これを手に入れた日本の庶民は、再び、支配者の意思の赴くままに操られる生活を選択したのである。こんな所から、主体的な意思を持った人間が創造されるはずも無く、何事にも矛盾や疑問を持たない、理不尽な常識も甘んじて受容れてしまうような、無抵抗な民族が生まれたのである。
2007.07.23
何か、現在の日本の市民は、安易に社会の流れを肯定し過ぎてはい無いだろうか・・・?現在あるものをどれだけ批判し続けても、何も変わりはしないという事を知らなければならない。肯定しつつ批判するという事は、即ち、認める、許すと言う事になってしまうからである。どれ程、無駄に税金を使おうが、賄賂を贈ったり、貰ったりしようが、これまでの政府は、それらを国民に全て弁済したと言えるだろうか・・・???全て、うやむやの内に、水に流してはいませんか・・・?そんな小市民を政府は相手になんかしていませんよ・・・!!!怖いのは、闇の黒幕やら、マスコミヤクザやら、結局、汚職が闇の資金源と化し、お人よしの市民はいい面の皮なんですよ・・・!!!まずは、全てを疑って掛かる事こそ賢明だと思うのであります。
2007.07.20
ブログでも数多く取り上げられている表題のテーマ、日本国総理大臣安倍晋三氏の総理就任時に述べられた言葉であります。その後、様々な人々が、一体、"美しい国日本"とは如何なるものを差して言うのかと訝しがっております。きっと彼らは、安倍総理の言わんとする所を誰より心得ているにも拘らず、敢えて、総理自身の口から発言させようとしているのでありましょう・・・!!!?そこで、ここいら辺で誰かが代弁して、うすぼんやりとした輪郭だけでも神棚に祭った方が良いと考えましたので、美しい国/日本 について述べさせて頂きます。恐らく、まず第一に想像するのは、総理の頭の中には、幕藩体制の最も整った頃の徳川幕府の封建社会制度があると思われます。士、農、工、商の身分制度が敷かれ、士である政を行う階級には、農以下の身分階級は逆らえない特権があった。(と勘違いをしている。)身分の高い、出来の良い子息を儒学や朱子学で思想感化し、国家のシンクタンクで特別培養し国家権力を限りなく強固なものにして行く。当然、権威や権力に迎合する分子を培養するのであるから、国家の中枢に反逆する事なしに奉仕する官僚機構が構築される。教育により国家権力に迎合する権威的教育者を登用し、学制改革や教員資格制度の改革により学校をより思想統制の取れた教育機関とする。それによって、国家権力、国策により従順に追随する分子の育成を図り、定められた自らの運命を甘んじて受容れる人間を創造していく。反体制有識者と言われる人間に弾圧を加える事で、体制の不満分子を一掃し、日本の過去の歴史認識を全て塗り替え、日本の歴史的行動を全て肯定する。このことで、日本の歴史的行動の過ちは美化され、日本の最大の汚点である第二次世界大戦の戦犯達も名誉回復され、日本軍そのものの蛮行も美化される事になる。働かない者、働けない者は国の恥辱であり、非国民とされ国土から追放し、ホームレスや自活能力のない者は、日本国民に非ずのレッテルを貼られ、収容所に収容して臭い物にはフタをする。詰まる所、美しい日本を実現するには、身分の低い不満分子は必要なく、主体的行動能力の無い、国家に従順な下僕程の意味しか持たない人間しか必要ないのであり、国家権力を握った体制派で国家の中枢を動かし、体制派の言うとおりに行動する日本国民が、馬車馬のように働いて血税を納め、生かさず殺さず支配され、波風の立たない国、虐げる者と虐げられる者がはっきりと区別された国になる事が、即ち、美しい国/日本の原点であります人気blogランキングへ
2007.07.20
改憲は大いに結構である。但し、改憲するからには、それなりの覚悟があっての話しである。改憲即ち日本国憲法を改めるのであるから、まず、日本国憲法を一度全否定しなければならない。国民投票法案などという姑息な方法で改憲ではなく改正などするのは、許し難き暴挙である。ブロガーの皆さんは、殆どの場合、政党批判や、政策批判、政府批判をなさっておりますが、これは、取り敢えず、現政権や政府の政策、政党そのものをお認めになっているからなので、流れに乗っているという事になりますので、これはいけません。たかが小市民、されど小市民でありますから、非現実的と言われようが、何であろうが、自らの考える理想主義的社会を念頭に、発言すべきであります。元に戻って、改憲は日本国憲法を改める訳ですから、まず国家の根本理念を決定しなくてはなりません。第一に、現今の通り欧米型の民主主義国家として歩んで行くのか、昔に戻って立憲君主制国家として歩んで行くのか、はたまた軍国主義国家として歩んで行くのか、選択肢は沢山あります。まず、この時に、国民投票をしなくてはなりません。この時は、問答無用の全国民による投票(誰一人欠ける事のない)が必要となり、どんなに労力を費やしても棄権の選択肢を持たない国民投票にしなくてはなりません。第二に、国の主権が何処にあるのかが決まって初めて、国家政策を議会運営するのかどうかの判断をしなくてはなりません。つまりこの時点で現政権のそのままの存在は否定されなければなりません。第三に、民主主義を選択するのであれば、必然的に主権在民という事になるでありましょうから、大統領制、議員内閣制など、どのような国家運営をするのか、運営制度を決定する必要があります。このときに、民主主義を選択しなければ、小市民の出番はありません。と言うような訳で、中途半端では有りますが、国民投票法案などと言うおかしな法案は、まず民主主義国家に於ける市民からすれば違憲以外の何者でもありません。結局、現存政党の誰もが我が身可愛さの余り、こんな大事なことさえも、国民無視が当り前のように、通してしまうのです。
2007.07.19
ブログの中にも、度々登場する歴史を学べという言葉は一体何を意味しているのでしょうか・・・?人間の今日までのストーリーを紐解いて、人間の行って来た行動を体系的に整理して、人間の過去を知識として頭に詰め込んでも余り意味の無い事だとは思いませんか・・・?第一、4000年、5000年という膨大な過去の歴史的事実の証明なんて事は、今、現在に渡って学者と呼ばれる人たちが検証努力しても、解らない事だらけの上に次々と歴史を塗り替えるような新事実ばかりが浮かび上がって来るではないか・・・?これまでの歴史学というのは、余りにも国家権力の意図による史実の捻じ曲げが反映されており、歴史学者の研究によって出てくる史実は余りにも衝撃的な内容である。 つまり、どんなに捻じ曲げられようと、現在に至った人間の歴史的事実は、現代の人間社会に深く刻み込まれているのであり、そこから学ぶべきものは、如何なる状況に置かれた時にでも人間がどうあらねばならないかを学習する事である。 歴史を学べというと、現代では余りにも太平洋戦争を起点とした日本対アジア諸国(特に韓国、中国)の歴史認識問題のように言われるが、国の成り立ちからいちいち紐解いて行けば、論点も自ずと随分変わって来ようというものである。 個々の人間は、恐らく有史以後大きくは変わっていないのであり、変わって来たのは、時の権力者どもの在り方(統治の仕方)である。 日本でも、中国でも、韓国でも、アメリカ合衆国でも第二次大戦前の個人の個人に対する感情はかなりの部分で友好的であったはずである。 それをぶち壊し、互いを鬼畜のような関係に煽り立てたのは、互いの権力者どもだったという事を、しっかり認識しなければならない。 そんな中での日本軍の蛮行は、日本人として恥ずべき行為(強い者が弱い者を踏みにじる)であったし、時の権力者どもが、アメリカ合衆国に宣戦布告して、堂々とアメリカ合衆国とのみ戦闘をしたというのであればまだ救われたのかも知れない。 今次の参議院選挙でも、結局政党などというものが、権力闘争の具現者という域を逃れない限り、どの政党が権力を握ろうとも社会は大きな変化を望むべくもないであろう。 小市民である我々に残された道は、とことん権力者達を監視し、批判の声を上げ続けるしかないのである。
2007.07.18
最近思うのですが、元々、ブログとは何のために始まったのかという事です。ホームページを立ち上げるのは、かなり面倒なので簡単に自分のページが立ち上げられて、自己主張やコミニュケーションが取れるというようなものだったと思うのですが・・・?という事は小市民レベルの、所謂、庶民の生の声の集まる場所であったはずなんですよね・・・!!!?ところがどうでしょう、最近は、こんなものを利用してやたら金儲けの話やら、政府や右翼、左翼の犬よろしくちょっとした知識をひけらかして、事実を隠蔽して、汚い日本を余計に汚してしまうような心無い発言が多いような気がします。法律がどうとか、条約がどうとか、市民レベルでそれ程意味のあることでしょうか・・・???この国が、本来市民レベルの盛り上がりから作られた国ではない事ははっきりしています。軍国政府が勝手に戦争を仕掛け、国民を欺き、敗戦を迎え、敗戦国として、アメリカ合衆国の軍門に下らざるを得なかった事態を誰が招いたのか、市民の力だと言えますか・・・?時の権力者とは、そういうものをひっくるめて責任を負わねばならない、それが市民を支配する権力者の在り方というものでは有りませんか・・・?何時の時代も小市民達は、権力の反対側にあっても、権力の握る力(警察力、軍事力など)によって従わざるを得なかったのではありませんか・・・?私が、信義という言葉を大事にしたいのは、人がどうあれ、権力がどうあれ、他国がどうあれ、自分はどうなんだ、という事が一番大切だと思うのです。日本という国があって日本人が居るわけではなくて、モンゴロイドを基盤にした混血人種が一番多く住んでいて、その人達が社会を為し、社会同士の争いを続け、何となく建国した国が日本であるという事です。何となくは、日本が世界を知らなければ、ここは日本です、主権を持った国ですと、他に対して宣言する必要など無いからです。恐らく、主権とか、国体とか、権力者達にとって都合の良い事を言わなければ、もっと自由に他国の人々と交流も出来ただろうし、日本という国の在り方も変わっていたのだろうと思います。小市民とは、自分の生活が一杯一杯で、とても、権力を握って小市民を牛耳ろうなどという考えは起こさないものです。小市民に大事なのは、小市民を食い物にしようとする権力者に対して、自分達の主張をしていく事しかないのでは有りませんか・・・?小市民の一人として、権力者の側を賛美、肯定しようとする人々は自分の足元をもう一度良く見てみることですよね・・・・!!!!
2007.07.11
現在居住する八尾市の史跡です。 心合寺山古墳(と書いてシオンジヤマコフンと読みます。)は河内地方最大の前方後円墳で5世紀前半頃に造られた墳丘と墳丘の長さがおよそ160m位あります。 写真の一つはこの墳丘から大阪の中心部を見渡したものですが、なるほど、この場所からの眺めは支配者(日本的には神か・・・?)が死後も見守るには適当な場所かも知れないな、という気がします。 今日まで伝承されている八岐の大蛇伝説を思い起こす時、八尾という地名が何となく無関係ではないような気がするのは私だけでしょうか・・・? 太古の昔、大和政権が誕生するまでの、河内の国には、恐らくそれらに影響を与えた大きな文化の存在が有った様に思われます。 八尾の史跡道という形で整備されて来ていますので、一度辿って見ては如何でしょうか・・・!!!?
2007.07.09
1、教育とは何ぞや・・・? 教育とは、限りなく躾に近い、社会生活での主体的人間形成の確立を実現する事である。 世界或いは、地球上の人間社会の単体を見回す時、教育というものが、人間社会の形態を大きく左右するものである事が理解出来る。 社会が成熟しない、ある意味、人間一人一人の人権が認められない社会では、教育などというものは、少数の支配者にとっては却って邪魔なものであり、教育らしき制度という意味では、自らを守るために特定の階級にのみ施された国家権力強化のための国策という意味である。日本でも、民衆の文化が栄えた江戸時代でさえ、幕府にとって民衆がより先鋭な文化思想を身につけることを拒んでいたと言えよう。なぜなら、教育とは、その時代に於けるあらゆる情報を知識として、それを自らが主体的に判断する力を身に付ける作業であり、市民がそれぞれに身に付けた判断力は、やがて、集団化して思想となり、幾多の異なる集団が存在する事によりうねりとなって、国家の基盤を揺るがせる基になって行くのである。幾つもの、異なる判断力を持った集団は、お互いを牽制しあって、ある意味均衡の取れた社会を構成することもあるが、時に特定の集団が、軍事的権力を握った場合には、社会的弾圧に繋がって行く。今の時代は、正に、そのターニングポイントに差し掛かっていると言っても過言ではない。平和な時代が余りにも長く続いたことにより、人間が学習する機会を失い、明治維新前夜の浮かれた時代に、突然黒船が・・・?という同様の社会状況が訪れようとしている。 何もしないで生きていける時代が、永遠に続くはずも無く、ある意味、この時代を余力ある時代であるとするならば、人間力の貯金を、今こそ大胆に実行しなければ、時代の波に再び遅れをとることになりかねない。 本来最も深く歴史認識について考え、最も勤勉であった団塊の世代の人々は、今次定年退職を迎える機会に当って、仕事にかまけ、子育てを曖昧にし、社会が激動した時代に、おもっいっきり暴れるだけ暴れて、後は野となれ山となれよろしく敵前逃亡し、今は、のほほんと定年を迎えるのを待っている罪軽からず、罪滅ぼしとして、教育現場で再度徴用の役について頂くというのは如何なものであろうか・・・!!!?時代が移れば、教育の質も、形も変わって行かなければ、時代に則した人間は育たない事など自明の理である。戦後30年で既に初期の日本型民主主義教育は終わったとして、次のステップ(グローバルスタンダード)へ向けてスタートを切らねばならなかった。時の怠慢政府は、昭和初期の学校制度を今日までずるずると引っ張り続けることによって、罪も無い若き命を失い続けて、今後一体どう責任を取っていくつもりなのだ・・・!!!??最近のおやおや(親親)は何でもかんでも、自分の子を主役にしないと気が済まないらしい。鏡の前に立って一度じっくり生んだ自分の姿を中身まで眺めて欲しいものである。子供の個性を親が捻じ曲げることによって起こる悲劇は、今後も止む事が無いであろう(こんな教育制度が続く内は)から、早急に、6、3、3、4制などの制度は廃止して、義務教育が必要ない家庭などは、国庫補助による教育費負担を打ち切り、教育従事者の専門性向上と年齢制限の撤廃を切に望むものである。
2007.07.06
更に何百万人もの人々が死なないために原爆投下は正当な手段であった。これで良いのか日本人・・・!!!!!!!!!!!日本軍も大日本帝国も最低、最悪であった事は、否めない事実であり、もっと嫌悪に値する存在であった事も確かである。けれども、その圧政の下に騙され続けた無垢な小市民に何の罪があるだろうか・・・?あるとすれば戦争などという野蛮行為を軍国政府に煽られて一緒になって賛成した点くらいである。そんな、お馬鹿さんな小市民に対して核爆弾を投下して殺しつくすなど、何処に正当性を見出せと言うのだろうか・・・????????歴史認識の欠落した人間は現代社会にも沢山存在するのは、周知の事実ではあるが、現代人にとって60数年前の戦争責任が問われるものではない。むしろ、戦争の責任をどう考え、反省し、国際社会の一員としてどのように国際社会に対峙していくか明確に打ち出し、行動を示さなければならない。再出発した人、国、会社、その他失敗を犯す全てのものが、一度の失敗で全てを失うものではなく、失敗こそが、より良いもの創りに向かわなければならない。欧米の考え方が全てを支配するのではなく、彼らの矛盾した力の哲学を根本から見直させなくては、世界の平和など訪れはしない。日本の勘違い(欧米列強に並ぶ事、対等の力を持った、世界征服が出来る)が生んだ悲劇は、列強の苛め無くして有り得なかった。現在、日本が世界に出て行っても扱いは、東アジアの黄色い猿が住む小島国ではないか・・・!!!???他人の大地を根こそぎ占領、征服しておいて、その上、原爆投下が正当であったなどとコメントする国などいつかは黙らせないと大変な事になりますよ・・・・!!!!!!!!!!!!人気blogランキングへ
2007.07.04
昭和の後半、いや、第二次大戦後から女性の地位(表向きに)は飛躍的に向上した。アメリカ合衆国型の民主主義の定着により、男女不平等が当り前の日本の社会に、男女同権、レディーファーストの思想が一般に広がって行き、封建社会の根強く残る農山村にも浸透して行った。但し、戦前の日本でも、知的、精神的に進んだ人々の間ではごく当り前の事として受容れられていたという事実も否定できない。然しながら、大半の小市民、農民、労働者の間では、女性は男性の前を歩かず、常に男性を立て、嫁しては、夫に従い、家に縛られ、奴隷のような立場を余儀なくされて来た。現代、女性の支持なくしては、政治権力の座を守る事も難しくなって来た。柳沢厚生労働大臣発言にも見られるように、昔の人は女性は家に居て子供を育て、家事万端をそつなくこなし、夫に対し内助の功を発揮する事こそ美徳とされて来た。逆手に取れば、そうならなくなったこの時代は彼の政権中枢に居座る方々からすれば、非常に遣り難い社会状況になって来たと言えるのである。元々、おんなというものを馬鹿にして、女は踏みつけて行くものだという、DNAに染み込んだ精神構造は、そう簡単には変更がきかないのである。ただ、昨今の女性達を見ていると、チャンス到来のこの時期に、女性の小さな集まりでは、その結束力を発揮するのにも拘らず、大きな流れをものにするための大きな集団作りが出来ない弱みがあるようである。何せ、子供を生む事の出来るのは、女性だけである。これは、女性としては最大の武器でもある。女性が、子供を生めるという事は、即ち、国家のボーダーを握っているとも言えるのである。あの最低最悪の大日本帝国軍でさえ、戦争を始めるに当って生めや増やせよという一大宣伝文句を使って人口(兵隊予備人口)増加を奨励したのである。国家というものに、人がいなくなったら、ただの陸地である。人がいるからこそ、社会が出来、国家などというややこしいものが構築されていくのである。だとすれば、女性の居ない国家など存在するはずも無く、女性こそ国家の根幹を担う最大の存在であると言って間違いないのである。子供や、老人や、病人や、ごみ亭主の面倒を本当に見れるのは、女性達ではないですか(本当に頭が下がる想いです。)今こそ、出鱈目ばかりの男政権を倒し、真に女性達の心の内を体現出来る政権作りのために、女性達よ団結の輪を繋げて欲しいと念ずるものであります。
2007.07.04
いよいよ今月は、参議院議員選挙である。マスコミはやたらと選挙投票率の低さを批判しているが、大きく考えるとそれ程選挙投票率は問題ではないような気がするけれども如何なものでしょうか・・・?というのも、最近よく言われている事なんだけれども、会社や組織に於いて真面目に働いている(背負っている)人は、全体の20%程なんだそうである。私もこれまで生きて来た中で、見てきた会社の実態は大体そんなものだと共感するところである。あくまでも、作業と仕事を区別した場合のことなのであるが、これを日本の国全体に当てはめてみると、日常生活を送っている人間が全て政治の事について考え何らかの行動をとっているかと言えば、さにあらず、その殆どが他人任せの無関心で過ごしているのが実態である。とするならば、逆にどうでも良い票が政治に反映されるというのは如何なものかという考え方もあり得ようというものである。もしも、農村に住む人々の人の繋がりだけの票が全部消えて、都市部のみの票が生きるとしたら・・・?無論、農村に住む人々を馬鹿にしている訳ではなく、農村部とは育った者にとって根強く生きる封建制が人のシガラミを強く反映する所だと分かって言っているのだけれども・・・!!!都市部だけの人間が政治に関して真面目に考え行動していると言うわけではない。むしろ、農村部の人々の方が政治にたいして切実な思いを感じている部分があるのも事実である。結局、人のシガラミに左右されず、自分の考えを持って、誠実な判断の出来る人間が選挙投票した時、一体この国の政治体制はどうなるかという事である。果たして、自民党政府は現状のような政権政党で居続けることが出来るのでしょうか・・・???出来るなら選挙投票率が上がらなければ良いとのたもうた自民党のお偉方のために、一度、皆さん投票率が20%を割る位まで投票に行かない宣言をしてみたら如何なものでしょうか・・・!!!但し、柵(しがらみ)投票に行く人は絶対に行かないという条件付きですが・・・!!
2007.07.02
先日久間防衛大臣が地元長崎で原爆が長崎、広島に投下されたのは、時節の状況を鑑みるに、戦争終結の手段として仕方の無いことであったと発言をした。以外にもこの発言について、それ程大きな批判の声も上がらず、世論の注目を浴びなかったのは不思議でならなかった。長崎、広島は確かに日本軍の軍事基地としては、大きな役割を演じてきたかも知れないが、あの時点で、殆ど軍事的な機能を果たしていなかった、しかも市民しか住み得なかった場所に原爆を投下するなどという暴挙は如何なる理由、理屈、論理も通らない人類史上に残る汚点である。恐らく、日本の軍事政府は、既に原子爆弾の存在には気付いていたはずだし、情報部(諜報活動の観点からしても)では確実にその情報を掴んでいたと思われる。アメリカ合衆国としては、明らかに事前通報すべきであったし、日本軍としても真摯に受け止め対応しなければならなかったはずである。合衆国としては、善良な市民が生活を営む陸地に向けて原爆を投下する前に、許す事は出来ないが、海上への見せしめ投下も可能だったはすである。全く絶望的な西欧人の身勝手な論理で虫けらの如く核分裂の火で人を焼き尽くしてしまうなど、言語道断の仕業としか言いようが無い。まして、地元長崎で核の炎に焼き尽くされた人々の心情や子孫達の気持ちを思い遣ればとてもこんな発言など出来なかったはずである。先日触れた従軍慰安婦問題で、軍の強制連行の事実を否定する御仁達も恐らくは原爆投下の正論を語られる事だとは思うが、ある日突然よその国の軍隊の兵隊が民家に踏み込んで来て、父母は容赦なく首を切られ、娘は強姦された挙句慰安婦として強制連行されるという事実を軍の強制連行が無かったなどと仰る方々はどういう風に捉えておられるのだろうか・・・???これと一緒で軍事政権などというものは、市民からすれば、最悪の権力組織でしかなく、力による圧政がもたらす悲劇は、人間の想像を遥かに超えたものになるという事をしっかり認識して欲しいものである。
2007.07.02
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