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資本主義も共産主義も社会主義も民主主義も経済システムや社会システムの形態に過ぎず、その根本には人間が如何に生きるべきかの哲学が存在しなくては、意味が無い。つまり、地球上の人間の最大多数の最大幸福を考える上に、その基本となる考え方が哲学と言って良いであろう。人間が、物を生産する事無く生きていた時代は、動物が群れを作って食物を確保するのと同じで、ボスを中心とした群れ、血縁集団社会が存在していたと考えられる。それはつまり、猿の集団行動と同一であったと考えられる。それは、人間で言う所の絶対君主制のような社会であり、群れの全てが、ボスの命令一下、服従し、生活行動をとっていたと考えられる。但し、そこには、文明社会に於ける人間のように、生産した財産(食糧を中心とした)を蓄えるという事が無かったため、ボスの命令は、血縁で結ばれた群れであるが故、全体の食糧確保が根底にあり、群れの維持、存続が公平に行われるような無意識の哲学が存在していたと思われる。動物の自然界では、この無意識の哲学が存在しており、自然界では、この事が、自然のバランスを取っているのだと考えられる。人間が、道具という文明の利器を持ち、生産するという知恵を持ち始めた初期の頃は、血縁集団(群れ)の単位もせいぜい数十人単位の小集団であっただろうから、ボスの統率力と集団内の公平性というバランスは保たれていたと考えられる。然しながら、同様の集団が増えると、集団同士での争いが生まれ、争いに勝った集団は負けた集団を取り込んで大きくなり、そのことで、生産力が上がり、また、別の集団と争い集団が大きくなって行く事の繰り返しが、多様な血縁関係の集団(集落と言う社会)を形成し、集団のボスは集落という社会の長となり、生産活動は更に増して行く事になる。すると、生産力の拡大によって生まれる余剰財産について、最初は公平な分配が行われていたものが、長の血縁関係者への優遇などの分配の不公平性が生じ始め、集団内での闘争が生まれる事となる。余剰生産物は贅沢の入り口のようなもので、人間が生きて行く最低限の食生活は、恐らく、幾分満たされない所にあるのかも知れない。元々、無ければ、争いの原因にもならない余剰生産物のお陰で、互いが殺しあう事態に発展し、人間はそこで恨み、妬み、憎しみなどの怨恨の情を獲得したのかも知れない。そんな、小さな集団の争いの繰り返しは、大集団を生む事になり、最早そこには、最大多数の最大幸福なる哲学は存在せず、食うか食われるかの下克上の世界を創出する事になる。つまり、社会が一段先の段階に進もうとする時には、必ず、決まって大きな戦乱の時代がやって来るのである。それは、歴史を辿って行っても明らかなように、多数の小集団が互いに争い、幾つかの集団が纏まって、大集団を形成し、大集団同士の抗争が、一つの国を形成して行くような過程を辿り、国という一つの限界点を迎えると、再び内部での抗争が起き、沈静し、再び起る事の繰り返しである。そんな人間の愚かさを見ながら、真摯に人間というものを見つめ直す人間が現れ始めると、必然的に、人間とは何ぞやの疑問が生じ、それが学問となって研究され始めるのである。人間とは何ぞやの原点には、人間が生きている、と言う前提があり、宗教などのように、教義をどうにでも使い分けて、ある時には、人を殺す事も正当化するようなものとは違い、人間自体についての学問であるが故に、結論を言えぬ難しさがある。極論すれば、共産主義や資本主義などの経済形態主導の社会学や社会主義や民主主義などの政治形態主導の政治学は、人間の本質を考えない、権力者側から見た治世学のようなものであり、人間社会の矛盾点を解き明かすものではない。然しながら、本来、学問は人間社会の存続のためにあり、その根底には、人間社会に於ける全人類の最大多数の最大幸福としての公平性が無くてはならない。仮に、現代に於ける資本主義経済全盛の世の中で、資本力のあるものだけが社会経済を動かし得る者だとすれば、他国の難民問題や、貧困問題など考えなくても良い事になる。そこには、やはり、人間が如何に公平に生きなければならないか、と言う哲学が息づいているからこそ、全世界が全体として解決しなくてはならない事として、考えられるのではないだろうか。日本の現代社会も資本主義経済の中に民主主義と言う社会形態があり、日本人の殆どが、不平等、不公平という感覚を少なからず抱いていると思われる。社会の歪みは、結局、贅沢の偏りにあり、その事が解決されれば、日本に於ける社会問題は殆どが解決される事になるであろう。物の豊かさこそが、人間社会の歪みを作り出し、人間同士の争いを生み、憎悪だらけの世の中を生み出す。そこには、人間が本来持つべき人間とは何ぞやの探究心の欠片さえ持ち合わせず、争いだけが増幅される人間社会が待っている。哲学こそが、人間社会の矛盾解決の最高の学問と心得る。人気ブログランキングへ
2007.10.31
昨日、やしきたかじんの"そこまで言って委員会"という番組に元防衛庁審議官であった太田述正という人がゲスト出演しておられた。彼の御仁、なかなかの頭脳の持ち主との事、今時、世間を賑わす守屋元防衛事務次官と同期入庁の元官僚経験者であり、民主党から郵政民営化選挙に出るために退職し、選挙には落選したらしい。彼の言い回しが、遠回しというよりは、完全に一般人を馬鹿にしたような(番組中ではシニカル:冷笑的だと言われていた)物言いにも聞こえ、挙句、焦点の見えない話し方だったものだから、出演者全員から非難の集中砲火を浴びておられた。頭の良し悪しは別にして、太田氏の吃音(ドモリ)ながら笑うという話し方は、私が見ていても気持ち悪く怒りよりも可哀想という念が沸き起こって来たものである。恐らく、彼の吃音の原因は、官僚時代の過度のストレスも原因しているかも知れないが、彼の発言の中に見た私の推測では、確かに頭の良い事が災いして、自分の当然と思って発する言葉が理解してもらえず、その事が、長年積み重なって、発言の前に一度フィルターをかけるものだから、思考のスピードと言葉に表す神経のスピードが合わず吃音となっているように感じられた。彼の発言の中で、最も注目すべきは、国民がどうぞ好きなように使って下さいと税金を納めるから、防衛省などという、元々憲法違反の機関に軍事予算を付けるものだから、官僚は、それでは自由に使わせて頂きますという事になるので、それをどうこう言われたらたまったものではないというような主旨の発言をなされていた。本来、彼の言いたかった事と言えば、国民が主権を握るこの国で、官僚や政治家を好き勝手にさせているのは、そもそも国民の責任である。防衛省など、一番下っ端の省庁は、年間5%位(それでも5兆円位)の予算でしかなく、他の上級省庁(財務、外務、通産といった所か・・・???)は、政治家と吊るんでもっとえげつない、汚い遣り方でマネーロンダリングをしているではないか・・・!!!?結局、官僚として留まっていても改革なぞ出来ないので、職を辞して、政治家として改革の旗頭となるべく選挙に立候補したのだと・・・!!!?凡そ、このような事を言いたかったのではと、察する。しかし、彼も、官僚経験が長いものだから、自分達の知る情報が、如何に下々に対して閉ざされたものであるのかと言う事を見失っているのである。人間は、情報として入って来るもの以外を知識として蓄える事は不可能である。然しながら、私が、何時も言いたいのは、人間を注意深く観察し、その行動を見透かす事が出来れば、凡そ、どのようなものであるかは察しが付くのである。彼の、一般庶民を見下した物の言い方は、さも、自分達は何でも知っていて、何時まで経っても、お前達は何も知らないで、役人にご奉仕する奴隷のようなものだと言っているようで、非常に不愉快にさせられたのである。彼の言いたい事は分かる、が、しかし、そうであるならば、中央省庁や政治家(特に自民党系,民主党も含む)との間で、何が行われ、それが如何に国民を馬鹿にしたものかと言う事を白日の下にしらしめすべきではないのか、知識階級、又は、それに近い階層は、とっくにそんな事は掴んでいるにも拘らず、行動を起こせないのは、彼の言う馬鹿な、何も考えない無責任な国民が大多数をしめるからでは無いのか・・・そんな国民も、自分達が如何に巧妙に騙され、奉仕をさせられているかに気が付けば、自らの利益に敏感な下々も本気で怒りをぶつける気になるのではないのか・・・!!!善良な、勇気ある、力強い官僚経験出身者の暴露を切に願うものである。人気ブログランキングへ
2007.10.29
つい5分位前に、今年のメジャーリーグベースボールのワールドシリーズがレッドソックスの辛勝で幕を閉じた。今年は、日本人メジャーリーガーが3人も出場したと言う事で、日本でも大いに盛り上がった事だと思う。結局、レッドソックスのスィープ、4連勝であっけなく終了してしまった。時の運とはよく言うが、あれよあれよのワイルドカード進出を決めたコロラドロッキーズには、1週間以上開いたワールドシリーズまでの間隔が応えたようである。特に、打力で勝ち上がってきたチームにとっては、投手力という安定した力を基盤に戦うチームとの対戦は、荷が重かったのかも知れない。野球、ベースボールは、一にも二にも投手力であり、守備力がものを言ってしまう。ベースボールの世界では、攻撃が優先されるため、ピッチャーの投げる投球も、野球とは逆にバッター優先のボールからカウントされるが、ピッチャーがボールを投げて初めてゲームが成り立つスポーツという観点からすると、日本の野球の遣り方の方が本当なのではと思ったりする。最近は、道具が良くなって、バッター有利のゲームになりつつあるが、野球、ベースボールの醍醐味はやはり、ピッチャーが如何に打者を抑えるかにかかっているのであり、ピッチャーが弱い試合は勝負事として見るゲームにならない。いろいろ戦術はあろうと言うものだが、ベースボールの基本は、ピッチャー対バッターの一騎打ちでありこれが崩れると、このスポーツの醍醐味は半減する。そういう意味では、今年のワールドシリーズの第2戦、3戦、4戦には見るべきものが多少あったかも知れない。ただ、両チームとも、この時期、投手の疲弊度も頂点に達しており、特に元々投手力の弱いコロラドロッキーズには気の毒なシリーズになってしまった。何にしても、松坂、岡島の所属するレッドソックスが制覇して終わったワールドシリーズは、実力差がはっきり現れた試合となってしまったようである。全ての両軍の皆さん、本当にお疲れ様でしたとエールを送りたい。人気ブログランキングへ
2007.10.29
私にとって、プロゴルファーは青木功しかない。それ程、青木功のゴルフ、人生に魅せられている。野球少年だった青木プロが、千葉の片田舎で貧乏な家庭の事情でゴルフ場のキャディーを始め、それが縁となってゴルファーの道を歩むきっかけとなった話など、我々の幼い頃の未だ貧乏だった田舎暮らしを思い出して、羨ましく思ったり、我が身の不甲斐なさを感じたりして、楽しんでいる。同じB型血液の流れる者として、枠に嵌る事を嫌い、国や民族、宗教などの上に人間が存在するのではなく、まず人間個人、個人があってこそ、その他の物がついて来るという生き方を実践する青木プロの姿(青木プロが、そのように意識されているのではなく)、そのように感じさせるプロの生き方が、私にとっては、とても愛しいもののように思えて来るのである。ジャンボ尾崎全盛の頃、並び称されたコンコルド青木は、個人的には、様々な人間としての試練を乗り越えて、実直にゴルファーの道を歩み、ジャンボのように外側来る華やかさではなく、内なる華やかさを演出したゴルファーとして一時代を築いたと認識している。何と言っても、彼を見ていると、懐の深さを感じる、テレビでしか見たことの無い私だが、彼の姿を見ているだけで、昔懐かしい匂いを感じ取る事が出来るのである。今後とも、世界の青木として、限りないご活躍を祈りたいと思う所である。人気ブログランキングへ
2007.10.29
人間の意識脳は、2%しか働かないという事実があっても、人間が寄せ集まると、その2%は限りなく100%に近付こうとするのだろうか・・・???もし、そうであれば、近い将来、人間の生み出したものに人間の能力は追いついていかなくなるのは明白である。2%の働きを1%アップさせるのも至難の業だとするならば、人間は、もっと、科学的な歩みをスローダウンさせる必要があるのでは無いだろうか・・・???人間の生み出した科学的な創造物は、此処何百年かの間に格段の進歩を遂げたが、それに伴う創造物の生み出す環境破壊を始めとする弊害の対策は同一歩調では進んで来てはいないのである。科学の発展に人間が追いついて行けなくなった頃から、人間の頭脳を使うという行為は反比例するように減退し、そんな中で、高学歴何ぞという意味の無い権威的なものが持て囃され、本来必要な実力(生きて行く活力)が軽視されがちで、いよいよ人間の生き抜く力が弱体化している。自殺者が多くなっていくのも、大した意味の無い物ばかりが氾濫する社会で、人間、本来身に付けなくてはいけない生命力を軽視し、大事な物が何であるかの判断力さえ失わせてしまっているからである。お金が無い、貧乏である、仕事が無い、頭が悪い、顔が悪い、性格が悪い、運動神経が無い、などなど、そんなもの糞食らえである。人間が生きて行くのに必要なものは、お金でもなく、能力でもなく、増して、顔や性格でもなく、生きて行こうとする意志のみである。生きて行こうとする意志さえあれば、何としてでも生きる術は見出せるもので、必死に生き抜こうとする者に世間はそれ程冷たくは無いのである。団塊の世代、それ以前の世代が、機械に強かったり、運転が上手かったり、体力があったり、根性があったりするのも、生きるために、兎に角、生きる術を身に付けなくてはならなかった、機械が自分の代わりに何かをしてくれる時代では無かったからである。かといって、彼らは、あの時代、余裕無く暮らしていたかと言うと、充分に心に余裕を持ち合わせていた即ち、夢が彼らの満たされない時空を埋めていたのである。彼らの創った、夢の世界では、便利さが、人間に時間的、経済的余裕を与え、人間は、もっと自由に勉強に勤しみアカデミックな社会の構築が出来ると信じて懸命に生きてきたのである。ところが、人間の弱さとは、そんなもので、与えられれば、与えられる程、自らそれを掴みに行く事に怠惰になるだけで、努力とは、貧困の中でしか生まれない事をしるのである。頑張れとか、根性だ、とか言って、叱咤激励すればするほど、人間は、嫌気がさして反対をむくものである。赤ん坊が、放っておいたら、何とか意志を伝えようと泣きじゃくって親を呼ぶように、人間は手を掛けなければ、自分から何とか生きようとして要求するものである。今の世の中、人間の力では、どうにも成らない事ばかりなのだから、自分が目一杯生きようとしても、心に余裕を失うばかりである。一歩下がって、成るようになる精神で生きる事こそ世の中の好転に繋がると存ずる。人気ブログランキングへ
2007.10.26
そもそも人間は、自らの意志によって生きているのではなく、宇宙の全ての偶然によって生かされているだけのことなのである。なぜなら、本来人間は、自分の意志によって生を受けるのでもなく、自らの意志によって呼吸をして生きている者では無いからである。なぜなら、人間の呼吸は、自律神経によって支配されているのであって、体性神経によって動かされているわけではない。仮に、体性神経によって呼吸系他、生体維持機能システムが制御されるとしたら、恐らくは、この世に留まる事を許されないであろう。人間の脳の性能(処理能力)は、最新のコンピューターを1万倍大きくしたものの能力に匹敵するそうである。然しながら、人間の脳は、それの持つ能力の2%しか発揮されていないのである。2%と言うのは、あくまで意識水準で働く脳の事であり、無意識水準、所謂、自律神経系で働く脳は、コンピュータと同じ原理で作動することからして、2の(10の13乗)乗の数の遣り方で情報を処理しているのだそうである。つまり、人間が自立だとか何だとか言っても、所詮、自らの意志で生きているのではなく、自らが判断出来ない生体システムの中で動いているに過ぎないわけである。自らのものである筈の脳の機能コントロールが、自分に託されていないと言う現実は、即ち、自らの生体維持装置がある日突然狂って誤作動を始めたとしても、自らには誤作動を制御できる権利を与えられていないに等しいのである。難病だとか、膠原病だとか言われるものは、もしかしたら、こういう事なのかも知れない・・・???偶然によって支配されている生命体、人間は、如何にも、自らが、自らの意志によって生きているかのような傲慢さを展開させつつ、その偶然性に戦いを挑んでいるような馬鹿げた社会を構成している。人間は、もっと謙虚になって自らを見つめ直し、宇宙というものについて真摯に考えて見るべき時ではないかと思う次第である。人気ブログランキングへ
2007.10.25
今や全国的に注目を集める宮崎県知事である。恐らく、芸人崩れの素人政治家に何が出来るのだと、訝っておられた方々は半端な数ではなかったはずである。然しながら、今日の宮崎県の隆盛ぶりを見れば、一時の流行ではない事が分かるであろう。なぜ、彼が、これ程までに県知事として全国の注目を浴びるようになったか、そして、その成功の原因とは何であったのかお解かりになるだろうか・・・!!!???確かに、たけし軍団所属の芸人として、またマスコミが作ったスキャンダラスな彼の姿が全国的に勇名を馳せたことによる人気に裏打ちされた部分は大きいと思うが、それは、あくまで知事に当選するまでの事であり、それ以後の知事としての彼の政治手腕が無かったとしたら、今頃、袋叩きの憂き目をみていた事であろう。素人政治家であるという事は、中央政界に於ける多数の中の一人の場合、その軋轢によって自らの政治信条さえ粉々に砕かれる事になるのだが、地方とは言え、誰にも邪魔されず、政権のトップとして、その与えられた権限を発揚出来るのである。つまり知事自身の手腕が、直接形となって現れ易いという事であるから、地方自治の成果は、知事個人の力量に比例すると言って良いであろう。彼の、一番の良さは、目線が庶民レベルにあり、庶民の生活向上には、地域特性を充分生かした独立独歩の地域の自立が無くては、地方自治体の活性化は有り得ないとする所にある。そして、柵の無い、素人政治家であればこそ、周りに気を遣う事無く、政策の立案が出来、お上の力を頼る事ばかりに腐心する腐った関係を断ち切れる所にある。然しながら、政治とは、生き物であるから、対面に生きる人々は苦々しく思っているに違いなく、おそらく、権力支配の構図の中で利権を貪っていた人々の反撃は必ずあると思う。その時こそ、彼の真の力が試される時であり、その時こそ、宮崎県政に於ける彼への支持が評価となって現れるであろう。四十を超えてからの学問は、先の目的がしっかり固まる頃の人間にとって最も受容れ易い時期なのかも知れない。外国では、年齢によって物事を始めたり、やめたり、諦めたりする観念がないため、幾つになっても挑戦する気概溢れる人々が多いような気がする。日本でも最近やっと大学などの門戸開放により、年が行った人々の就学が増えて来たが、もっと、もっと気軽に学べる環境が増えていけばと思う所である。人気ブログランキングへ
2007.10.23
日本国は、本当に日本株式会社のようになりつつある。そもそも、政治と市民が対抗軸にあるのは、全く以っておかしな具合である。日本国は、誰の物か・・・???天皇制に縛られていた頃の日本であれば、取りも直さず、天皇の領土であったに違いない。言い換えれば、そこに住む住民は、すべからく天皇の奉仕者であった訳である。第二次世界大戦の敗戦で日本国民は、天皇の呪縛から解放はされたが、権力支配からは開放されなかった。民主主義などという聞こえの良い言葉に騙された国民は、尚、旧支配者達の呪縛から開放される事は無かったのである。農地解放、財閥解体という連合軍から出された、自国権益を隠蔽する迷彩のような命令は、旧特権階級の力ある者達にとっては都合の良い戦略であり、共産化を恐れた連合国(アメリカ合衆国)は、全てを解体し全ての国民が、公平に1から出発する事を許しはしなかった。そのために、現代に於いても、明治以来の差別は厳然として残り、家柄だの、出自だの、身分だのという言葉が、今日に至るまで根強く残っている。結局、合衆国は、日本を傀儡政権にするために腐心し、レッドパージまで行って、日本が共産化するのを必死で食い止めたのである。共産化するのが、良いとか悪いと言うのではなく、それが、同時代人の多くを占める指向だったとしたら力ずくで押さえ込んだのは、占領政策の一環だったとは言え、それ以後の支配階級に支配者階級と被支配者階級の存在の正当性に対する言辞を与えたようなものである。元に戻って、日本の政治が、一向に国民主体にならないのは、所謂、政治が支配者階級のものであり、被支配者階級は、何時まで経っても支配者階級の奉仕者に過ぎないという証でもある。それ(階級社会)が資本主義社会と言われれば、それまでなのだが・・・!!!公僕と呼ばれる国民の奉仕者であるはずの公務員が、踏ん反り返って国民に奉仕させるのも、言ってみれば、占領政策の時に、共産主義ないし、それに類似する思想の持ち主を公職から追放したという事実が、とらうまのように現代に引きずられているからに他ならないのである。つまり、公務員が、真に国民の奉仕者たる意図を理解し行動したならば、それは必然的に、共産主義的要素を孕む、全員に公平、平等の理念が付き纏い、資本主義的弱肉強食の自由民主主義とやらには、そぐわなくなるからである。過去に於いても、現代に於いても純粋な共産主義国家など創生された事実はないのであって、皆が見た、見ていた、見ている共産主義などは、単なる独裁主義でしかなく、これから先も、本来の意味で共産主義と呼べる国家など誕生するべくもないと思う。多くの博識な方々が、一昔前に口にされていた、日本は今や一番共産主義に近い国家である、と言う意味は、見かけ上は、他国に比べ、貧富の差が少なく、増して、階級社会でありながら、官僚(公務員を含め)や大企業以外では、厳格な階級社会が見られないからである。また、政治の世界でも談合中心の政治体制が敷かれていた事から、政権中枢の階級が判然としない状態が続いているのも、その一端ではなかろうか・・・!!!???此処に来て、小泉純一郎氏のような、権力を振り翳して断行する政治手法を取る政治家が出現した事で、日本の共産主義的自由民主主義も変貌を遂げようとしている。日本株式会社の組織変貌が、社会格差を助長し、明らかに力あるものと弱者に切り分け、はっきりとした階級社会を生み出そうとしている。株式会社である故に、株式を所持しない底辺の社員は虫けら同様の兵隊であり続け、力ある者も、出身階級と貧困であるが故に差別を受け続けるのである。日本国民は、日本株式会社に雇われているのではなく、日本国政府の主たる権利者であるはずである。その主権者が、自分達の政府によって苦しめられ、その政府と闘い続けるというのは、全く笑止千万な事態だと心得る。人気ブログランキングへ
2007.10.22
三年前に植えたナツメ(クロウメモドキ科ナツメ属)の木が、今年やっと鈴なりの実を付けた。私達の子供の頃は、山野を駆け巡ってそこに生っている柿の実や栗、アケビ、そしてナツメなどの木の実をおやつ代わりに食したものである。最近は、つくづく贅沢になって、フルーツは元より、お菓子までブランド品でなければ食べないような時代になっている。我々の頃は、蜜柑でも、産地で無い場所に育った、ごつごつとして見てくれも悪く、皮のやけに分厚いものでも、自然の甘みがとても美味しいと感じたものである。最近の果物やお菓子などのおやつが、甘みばかりを追求した素材本来の匂いや味を失った人工人気ブログランキングへの創造物に思えてならない。都会では、既に私達の世代の人々の間でも、ナツメがどのようなものなのか、ナツメ自体を知らぬ人が居るのを知って、今回我家で出来たナツメをご紹介しておこうと思った次第である。当然、茶道に興味の無い方でも、日本人であれば、お気付きの事だと思うが、茶道にはつきもののお道具であるお茶入れ(棗)とは、どちらが先か後かははっきりしないようだが、ナツメの実の形、色がそっくりなため、その名に由来すると言われている。人気ブログランキングへ
2007.10.18
もう随分昔の事になるが、日本通運が民営化された当時から民営化って、どうしても理解出来ずにいた。なぜなら、元々、国民の血税によって作られた国家機関、即ち、国民の財産が、ある日突然私有財産化されるのであるから、どう考えても納得が行かないのである。少数のお金持ちや、天下り官僚に言わせれば、民営化によって株式が上場され、何れ市場で売買される事によって、国家財産の回収が出来るとでも言いたいのであろうが、何処か、胡散臭いとは思いませんか。そもそも、あまり詳しく民営化のからくりについて述べたものが無いので、あれこれ考えてみたのだが、株式を発行して会社を作る際には、ある個人が何人か発起人となって自らの財産を株式発行のために出資するのだが、国家機関である国民の財産から株式を発行するとなれば、国民にそれなりの株式か、配当がなくては辻褄が合わなくなる。まして、何の関係もない人間が、いきなり、民営化される会社のトップとして就任するというのも、どう考えても間尺に遭わないと思えるのである。通常、例えば、郵政のような巨大機関を設立するとなれば、莫大な資金と膨大な労力と時間が必要となる。まして、国民の財産で膨らんだ、郵政の持つ資産は、これまでに無い、大きな民間会社を形成する事になる。国民の税金のお陰で働いていた公務員もそのまま(後にリストラが待っていようとも)民営化会社の職員として採用される。国民は、いつまで、無償の奉仕を続けるのか、国民にとって何のメリットが、いや、国民が納めた血税によって成り立っていた国民の財産は何処へ行ってしまうのか、どう考えても、騙されているとしか思えない仕業である。貧乏人には関係ないこと、庶民は黙ってすっこんでれば良い事なんだろうか・・・????JRだって、元々、国民が貧しい時に、必死に払った、それこそ血税によって作ったものなのに、国民はそれ程大きな恩恵を被っているのだろうか・・・!!!???大勢の命を奪う事はあっても、JRの支配者達はのうのうと利権に張り付いてはいないのか・・・???その殆どが、未だに天下り野郎ばかりではないか・・・!!!???誰か、民営化の正論を言える人があれば、是非、教えて頂きたい。人気blogランキングへ
2007.10.12
拝啓多くの体制認知派の皆様へコメント欄の文字数が500文字となっておりますので、記事欄でのお答えになってしまう事をお許し下さい。度重なるご批判を頂いております当ブログでは有りますが、当初より私は、私の持論として、人間とはどうあらねばならないか、どうあるべきか、また、人間の本質とはどういうものかについて書き綴って参りました。元々、私は、歴史の中で起った様々の事象一つ一つを取り上げて、そのこと自体の研究解明をする者ではありません。過去の現実に起った事象の情報ソースも各個人によって違えば、また、自らと意見を異にする情報ソースには目を向ける事さえしない方々もおいでになります。現代に於ける現実の出来事さえ、100%確実な情報など、我々市井に住まいする者にとっては、それを斟酌する以外ない状況もあります。何度も言っております通り、私は、社会通念上の右とか左という意識を持ち合わせてはおりません。強いて申せば、庶民の側、被支配者の側、体制非認知派とでも言ったら良いのでしょうか・・・!!!ただ、あくまでも、日常の事象をあれこれ取り上げて、ああでもない、こうでもないと念仏を唱える如き事はしたくないと考えております。私が、禅問答と言うのは、既に投稿しております記事の中でも申し上げておりますが、何れ全てが灰燼に帰す人間の営みの中で、現代に生きる人間が、最良の道を選択しながら生きる道とは、一体如何なるものなのかと言う事の問いかけのようなものであります。つまり、多くの当ブログへのご批判を頂く皆様も、何れ死を迎え、現世に於いて行った、善行も悪事も全てあの世にお持ちになって旅立たれるわけであります。私は、善行の推進者ではありませんし、彼の方々が、自らの子孫のために、善行を尽くす意味で、あれこれ行動なさるのも、自らのこの世の春を楽しまんが為行動なさるのも否定など致しませんが、敢えて申せば、この世に生きる人間に、絶対などなく、また、求める真理も何処にあるのか、何処に行けば求められるのか、その指針さえ掴めないのが人間だと思っております。度々ご指摘になる、当ブログの抽象性など、むしろ当り前だと思っております。ただ、人間にとっては、余りに長い歴史の中で、人間が行動してきた事象を観察して行きますと、自ずと人間の、ある状況に陥った時の行動が見えてくるものであります。私自身、究極の局面に迫られた時、一体どのような行動をとるのか、想像も付かない現状であります。だからこその故に、常に、人間について、あれこれ考え、いざと言う時の対処のために生きているようなものであります。ご批判を頂く皆様は、自らの持論に余程の自信をお持ちの方々と見えて、何でも肯定的に捉えて生きておられるのは、随分幸せな方々だとご推察致します。私などは、人間について、常に疑念の念ばかりが湧き上がっていて、この世に信じれる物など何処にあるのかと、未だに、迷える子羊のようなものであります。くさなぎ氏などは、ご自身のブログも拝見でき、ある程度、どのようなお考えの方なのかが垣間見えも致しますが、sword様など、一体何処でご自分のお考えを推察出来るのか、皆目見当がつきません。他のブログで講釈垂れる時は、ご自分のブログにも即刻辿り着けるようにしておくのが道理だと思いますが、如何なものでしょうか・・・???以上、述べて参りました通り、何と言われましても、私の述べるブログ記事が抽象的なものにならざるを得ないのは仕方なき事であり、あなた方とは、どうも一線を画す性格のものでありますれば、今後のご批判も極めて真摯に受け止めたいとは存知ますが、ご期待にお答え出来るようなご返答が出来ない事も、更にご容赦頂きたくお願い申し上げます。 敬具人気blogランキングへ
2007.10.11
みんな今ある現実が全てと思ってはいませんか・・・!!!???もしも世界中の食糧が不足してきた時、人間は、食糧を増産する事をしないで、奪い合って生きる闘争を選ぶのでしょうか・・・!!!最早、近い将来、地球上の全ての生き物が、食糧不足に曝されるというのは避けて通れない事実である。武器が無くては、生きていけない現実があると言う人々に言いたい、日本でも、いつ暴力犯罪が起るかわからない時代になったから、個人が武器を所持すべきなのか、と・・・???武器が無かったら、対抗出来ない現実があるから、武器を持たなくては地球上で生きて行く術が無いなどと・・・本当だろうか・・・????世界中の殆どの人間が武器など所持していない現実があるのに、みんな武器を持って立ち上がれとでも言いたいのだろうか・・・???確実に、世界の大勢は、武器を如何にして無くすかを命題としているのに、これから武器を増やそうと考えるのは如何なものか・・・???国家権力とやらに迎合し、自らも、支配階級に付いて市民を支配しようと企む所以ではないのか・・・??平和を望み、武器廃絶を望む人口と、その反対側に居座る勢力では、明らかに平和を望む人口が多くはないのか・・・???少数で軍事力を握り、大多数の市民を暴力的力の下に支配する輩を認め、自らも暴力による支配を望むからこそ、出てくる言葉ではないのか・・・????地球上から、生への糧が失われ、生きる望みが失われようとする時、武器などと言うものが、何の役に立つのだろうか・・・???核兵器より、ミサイルより、大砲より、マシンガンよりも一振りの鍬の方が役に立つのではないか・・。今、恵まれし現実は、ただ儚き夢のようなもの、未曾有の天変地異が起らぬと誰が断言できようか・・?大いなる大自然の力の前には、人間の力など、嵐の前の塵に同じではないのか・・・???いつまで、人間のエゴイズムが通用する時代が続く事やら、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏・・・。人気blogランキングへ
2007.10.09
沖縄戦での悲惨な集団自決は日本軍の命令にあらず・・・!!!???と、反論なさっている方々は、恐らく、この本当の責任が、昭和天皇にあると言いたいのだろうか・・!!米国が、沖縄上陸作戦を開始した時期に於いて、最早、日本の敗戦、況や、日本軍には抵抗する力など残ってはいなかった。自分の会社を考える時、販売拡販の戦略を取ろうにも、販売する製品、所謂、弾が無くては打ちようが無いし、戦う材料とて無い状況の中で、如何にして戦うか、じっと辛抱の時である。これよりもっと酷い状況の中、一億総玉砕などという馬鹿な精神主義で、捕虜になるなら自決しろという教育を行い、その通りに死んで行った人々に対して、追い討ちを掛けるような言動は如何ともし難い。日本軍の誰かによって、個人的(一人一人)に命令が下されていなかったなら、日本軍の命令は無かったと言えるのか・・・!!!???日本軍の赤松さんに責任を丸投げしたら、その他の軍人、軍属には責任は及ばないのか・・・!!!???そうでは無いだろう、むしろ、沖縄戦を自ら戦わず、陣後から命令を送っていた、戦闘指揮官達もお目にかかった事の無いような所から、命令は出ていたんでしょうが・・・!!!???私は、単に、日本軍の命令云々の問題では無いと考える。日本軍の命令指揮系統、その時の戦況、日本人の意識など様々な状況を考えた時、日本軍は、最早、勝てる望みの無い、守るすべも無い戦いを自暴自棄的に続け、沖縄の一般市民を守る事無く、エゴイスティックに戦場の露と消えて行ったのである。逆らえない命令、精神コントロールも無いままに、人間は只管死を望んだりしない。もし、日本軍(赤松さんではなく)に責任が無かったとしたなら、その責任は、時の日本軍の総帥であり、日本国の最高権力者であった昭和天皇に責任を負って貰わねばならぬ事になる。だがしかし、どう考えても、あの時代、精神主義的に日本国王であった事は認めざるを得ない天皇ではあっても、実務上、その下に控える時の実質的最高権力者達によって、日本の舵が切られていた事を考えあわせれば、その暴力的武力の実質的最高統帥者こそ、この問題の最高責任者だと断言せねばなるまい。人気blogランキングへ
2007.10.05
何処のブログサイトでも、最近やたら反日勢力への・・・とかいった記事が目に付くのだが、彼の人達は一体何を言おうとしているんだろう・・・???ブログランキングトップの博士の独り言なるブログでも、かなり知的レベルの高い博士なんだろうか、英語版の記事まで創って、声高に叫んでおられる。そもそも、反日とは、戦後日本の戦争責任の取り方の姿勢に関して業を煮やした、韓国、中国の人々(その運動家など)が言い出した言葉だと思う。その人々が、指導的立場に立って後進を教育、指導した事から、長い間 (国交が正常化され、お互いの国民の往来が自由になるまで) お互いが本当の他国民の姿を理解し合えないまま反目する時が過ぎていった不幸な時代が存在することになった。現在の日本は、反日勢力によって云々されるほど、世界の中で脆弱な立場にあるとは思えないし、世界情勢は、最早、日本抜きでは考えられない所に来ている。日本が、尊敬されている国という意味ではなく、あくまで、国際的な金融、経済、科学技術に及ぼす影響力の大きな国としてであるが・・・!!!?最近では、アニメーションに於ける日本の海外進出も目覚しいものがあり、歴史を遡れば、第何期かの日本ブームの波が、あちこちの国で起きている。反日勢力迎撃を唱える人々は、当然の事のように、日本国内にもその矛先を向けているのであるが、概ね日本人は、自国に誇りを持ちたいと思っているし、日本国籍を積極的に捨てたいと思っている人は殆どいないように思える。国内に向けて反日勢力迎撃を唱える彼の人々は、日本人として誇りを持ちたいという人々が、日本人の誇りを取り戻そうとして反省すべき事実を認め、その責任を果たさねばならないと考える事に、反日勢力だと罵り、むしろ日本の犯した重大な人としての過ちを認めようとしない。今、開発途上国の日本を知る人々の中には、積極的に(たとえ日和見であっても)日本人になりたい人達も増えて来ている。誠に、嬉しい限りではないか、日本の文化を理解しようともせず、悪戯に欧米かぶれして、日本人を捨てるような振る舞いを見せる、昨今の特殊な若者達よりも、ずっと真摯に日本を理解しようとする人達の方が、これからの日本にとっては必要になって来ると思われる。韓国、中国の若者達も、本当の日本を知っていけば、日本を鬼畜の国とは思わないし、それどころか、日本の良い所を随分宣伝してくれている。お互い、本当の人間の肌の温もりを感じる事無く、反感を募らせていっても、何も生まれるものは無いのであって、大きな現実を包み隠した正当性など、いくら大声で強調しても、今回の相撲協会の騒動のような、プライドの欠片も無い人間性の発露となってしまうだけだと思わざるを得ない。人気blogランキングへ
2007.10.04
「日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけた。ほぼ四百年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発を途中でやめ、徳川時代という世界の他の主要国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築き上げた。わたしの知る限り、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な地位を占めている。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力している。日本の示した歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものである」(ペリン)ノエル・ぺリンはアメリカ合衆国の大学教授であり、学者であったようだ・・・???私は、この人の名前を今日初めて認知した。1970年代後半に彼が書いた、"鉄砲を捨てた日本人"の中に出てくる一節が上に上げた文章である。私は、常々、豊臣秀吉が行った政策で、唯一認められるものがあるとすれば、それは、刀狩令だと思っている。確かに、時の天下人=日本の支配者として、市井に武器が大量に存在するというのは、下克上の戦乱の世に於いて、いつなんどき、寝首をかかれるのか分からない恐怖があったのも真実だったろうし、戦乱の世に明け暮れた世の中を平和なものにしたかったのも、偽りの無い事実であったと思う。戦国の世は、下克上と呼ばれる程に、誰もが支配者になるべく戦さを好んだように思われるが、それまでの日本の歴史中、支配システムが機能していた時代が、概ね平和な世の中であったように、その大部分を占める一般人(殆どが農民)は、戦など誰も望んではいなかったと思われる。天下統一とは、没落した、或いは、堕落した支配体制の復興と復活を目指したものであり、仮に、天皇を中心とした幕府体制が機能していたならば、誰も天下人になろうなどとは考えなかったであろう。話が逸れたが、何時も私が思うのは、民主主義というのは、国家の政治システムや体制を言うのでは無くそこの国家社会に於いて、民衆及び人権が第一義に守られている、考えられている、のであれば、そのシステムは問題ではないと言う事である。然しながら、人民を支配する側に立つ人間が、常に人民の幸福や人権を尊重して治世を行えるかと言うと歴史は、その難しさを証明しているのである。結局、一般市民にとって、戦争程愚かしく、迷惑なものは無いのであって、戦争を企てるのは、何時も支配階級にある者のエゴイズムでしか無い、という事を考えるにつけ、武器の開発、使用が人間の幸福に繋がるとは、絶対にあり得ない事だと断言する。人気blogランキングへhttp://blog.with2.net/link.php?516602
2007.10.02
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