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本年は多くの方にご助力いただきありがとうございました。 奄太郎、心の底から御礼申し上げます。 とりわけご愛読いただいている方々、コメントを書いていて下さる方、いつもありがとうございました。 明年も改めて初心から始めるつもりで運営させていただきたく思っております。 今後とも多くの方のご指導、よろしくお願いいたします。 奄太郎
2005年12月31日
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上 柴又帝釈天 御神水 私の地元で有名なお寺といえば柴又帝釈天です。 ご存知「男はつらいよ」シリーズで必ず出てくるお寺ですね。寅さんの家である「虎屋」はここの門前町にあります。 寅さんの映画の歌に必ず出てくるのがこの「寅さん産湯の井戸」。 なぜかこの低地帯にお水が湧き出ています。本当の自然水かわかりませんが、地元のじいちゃんばあちゃんが水を持って帰っています。 飲んでみると確かに水道水ではないようですが、とりわけ美味いともいえないような・・・ 初詣や東京に来た折、ここにきたらぜひ飲んでみてください。ちなみに初詣は人が殺到するので地元ここには近寄りませんが。
2005年12月30日
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個人的なことですが、今日でやっと仕事を納めることができました。 この一年、仕事でも色々なことがありましたが、なんとか皆さんのお力で乗り越えることができました。 なんといってもこのブログを始められたことが一番の出来事だったかもしれません。5月から今年は続くことができました。 改めてありがとうございます!!歴史ブログはまだまだ続く!!
2005年12月29日
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上 火熨斗でお手入れ 着物も年末になると生洗いや洗い張りをするお客さんが多くいます。 今は専門業者や専門店しかやらないでしょうが、着物が一般着だった時代、当然普通の町人が自分の着物をお手入れしてました。 江戸時代、そんなとき重宝したのが上の火熨斗(ひのし)です。これは鉄のひしゃくのなかにあつい炭をいれて使います。これから着物の最後の手入れをしようと火にあぶっています。 今で言うまさにアイロンですね!! ただ火事の原因にもなるので気をつける必要があったでしょう。江戸の火事の中にはこれが原因というのもきっとあると思いますね。 今の時代は専門店や専門業者に任せた方がもちろんいいですね!! 着物のお手入れ、ぜひしてください。
2005年12月29日
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会社の忘年会が終わりました。 忘年会の場所は横浜の広東料理店。中華街ではなかったですね。 私、日本で中華はたまにしか食べないのですが、中華特有のえらい量が多くて6人でいってかなり残しました~。 まあまあ美味しかったのですが、ちょっと油がありました。(当然か・・) 今日はこのままゆっくりしたいと思います。あと一日!頑張るぞ~!!
2005年12月28日
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仕事が終わった直後ですが、今日は私の会社の忘年会があります。 当然なのですが、私も「盛り立て役」として参加命令がでました。 本日は夜までかかってしまいそうです。酒飲めないんですかどね~ ご愛読いただいている皆様、今日の記事はこれだけになってしまうかもしれませんが、どうかご容赦ください!!
2005年12月28日
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上 「新宿源」塩バターコーンらーめん ちょっと今、仕事の方小休止してます!またすぐ戻らなければ! 仕事していたら美味しいものが食べたくなったので、以前食べたらーめんの画像をみてみました。 上のらーめんは新宿南口にある「北海道らーめん源」というお店の塩バターコーンらーめんです。 私は太麺が大好きなのでそばもうどんもパスタも固いコシのあるものに限りますね。たまたま入ったら太麺のお店でよかった! 休みになったらまた食いに行くぞ~。友人との忘年会はいつも新宿だし!!
2005年12月27日
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以前にお話しましたように明日はデータ作成の最終日です!今日はかなり大変になると思いますが・・・なんとかやり遂げるです!! でもまだ残ってることあるな~この不安感、試験の前みたいだ。 多くのコメントのご返信、申し訳ありませんがしばらくお待ちください!! 明日になればゆっくりできますんで~!!
2005年12月27日
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ニュース、新聞によるとセブン・アイ・ホールディングスが西武百貨店やそごうなどを傘下におさめるそうだ。 イオングループを抜き売上高が最高の流通グループが出来上がりました。 これは流通業で飯を食べているものにとっては業界を問わず大ニュースです。 今から10年ほど前は5大流通グループがありましたが、相次いで破綻、統合を進めて大きく2つ、(ユニーグループを入れれば3つ)に集約されてしまいした。 資本主義が進むとこのような「寡占」という現象が起こってきます。これは少々危険な現象があるといえます。なぜなら戦前の日本が戦争に走った理由の一つが「寡占による資本主義の破綻」だったからです。 今の時代だからこそ、時代にとらわれないベンチャー企業が必要だと思います。
2005年12月26日
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上 神田明神楼門 江戸っ子は初詣好き!というより年中お寺、神社めぐりが大好き。 色々な寺社が人気があったのですが、そんな江戸っ子に大人気だったのが神田明神です。神田明神といっても神田にありません。これは江戸時代に今の御茶ノ水の裏のところに引っ越したためです。 この神社は本来大黒主命という古事記に出てくるちょっと天然ボケした神様、いわゆる大黒さんを祀っている浅草寺などとともに江戸が出来るずっと前からありました。 のちに平安時代に平将門が反乱を起こして死んだときの彼の首塚があることから将門が合祀され今に至っています。 平将門は平清盛と同じ平家一門。関東にて兄弟げんかが発展し反乱を起こして勝手に「新皇」になり関東だけ独立国にしてしまう。 のち京都から送られてきた軍隊により鎮圧、処刑される。 こんな反乱を起こした将門がなぜ人気があるのか?というと当時、京都の貴族政治がうまくいかなくなり、特に地方に力が及ばなくなったため地方人の「反京都主義」が根底にあるといわれています。 今も昔も権力に立ち向かう人は人気があるのね・・・・・
2005年12月26日
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上 白木屋(昭和20年代) 今の女性の和装とクリスマスにはとある関係がありました。 かつて日本橋には白木屋呉服店という三越とならぶ江戸時代からの老舗呉服店があり、明治には白木屋デパートというデパートになっていました。 日本には江戸時代の終わりにクリスマスが入ってきて明治には上流階級を中心に普及、大正期にデパートが火付け役となり定着していきました。 昭和7年、クリスマス前の白木屋にはクリスマスツリーや電飾でクリスマスを強調していました。そんな中そこからの漏電が原因でデパートが火に包まれてしまいました。 中の客も販売員も大騒ぎになり、救出活動が行われました。 屋上には一部の着物姿の販売員が取り残され、ひもで救出しようとしたのですが、当時肌着をつけないで着物を着ていた女性は下から見られることの恥ずかしさからそのひもが使えず。死亡者がでてしまいました。 この「白木屋デパート火災事件」をきっかけに和装にもそれにあった肌着が開発されるようになりました。 今では和装用の肌着が普通にありますが、そのようなもの一つにも歴史の中に犠牲者があって出来たものなのですね。当時の女性は大変だったんですね。 白木屋デパートはのちに東急に売却され東急百貨店となりましたが、現在はそれも閉店。再開発され、まったく違う姿になりました。
2005年12月25日
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今は午前2時近く、フジテレビのさんまのサンタの番組を見ながらデータ書類と格闘しています。 さんまのサンタを流しているとたまたま自分の地元の話が出てきて受けました。私の住む町はかつて明石屋さんまがすんでいました。他に売れない時期の芸人さんなんかが住んでいました。 自分のよく知る町の話でさんまが動揺している姿に思わず笑ってしまいました。 おっと!データ作成しないと~ 追伸、コメントいただいた皆様、ちょっと返信させていただくのが遅くなるかもしれませんが、必ずお伺いしますのでしばらくお待ちください。
2005年12月25日
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今日はクリスマスイブ、明日はクリスマスというのに書類の山に今日もうずもれ明日の休日もうずもれる予定の奄太郎です。 ちょっと歳末に寂しすぎます~ というわけど今日は憧れのグリーン車で帰宅してしまいました!!(来年のボーナスのころまで乗れないだろう・・・) たまにはいいもんですね~。中国では物価が安いので高級車に乗るのが当たり前ですが日本ではなかなか・・・ 500円余分にはらった甲斐があったかなかったかは、今度の水曜日提出の私の報告書のできばえで解るでしょう。 さぁ~頑張るぞ~
2005年12月24日
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上 蟹入りアラビア―タ 今日はクリスマス・イブですね。私はしっかりと仕事に行きます!!着物屋にはクリスマスは関係ありません!! それどころか28日締めの仕事が詰まっていてとってもすばらしいクリスマスになりそうです。 それがわかっていたので、クリスマスをしてきました。男同士で(涙) 上は東京浅草橋にある下町イタリアンイルメルカートの「蟹入りアラビアータ」です。さりげなくクリスマスツリーがあるのが涙ぐましいです。 食べた感じは、麺がちょっと細いですね。また蟹の身はあまり食べれないです。どちらかというと蟹のダシをとったという感じですね。ただそのダシは麺とからまって美味しくでていますね。 私のクリスマスはこれ食べておわりました~みなさんよいクリスマスを~
2005年12月24日
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ニュースで今知りました。驚きです。 浅草寺の本尊はとってもちいさい観音さんで秘仏なのでみることはできません。それが盗まれたら江戸っ子が黙っちゃいません!!下町が総力をあげて犯人を捕まえるでしょう。 しかし今回盗まれたのは本尊の観音ではないとか・・・・しかし許せんぞ!! 犯人よ早く観音さんを返しなさい!!江戸っ子たちは怒っているぞ!!
2005年12月23日
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上 芦引絵 部分 日本は意外と男色、いわゆる男の同性愛がかなり昔からありました。カレがカレを持ってしまうんですね!! いつごろから始まったかは解りませんが、歴史に名前が出てくるのが平安時代中期(今から1100年ほど前)ごろです。 なんでそんなことになったのか?これは男女差別が根底にあるのです。 古代は同性愛は禁止されていました。だって子孫ができないから。 でも平安時代ごろになると女性の力が男性より下がってきてしまうのです。理由は長くなるんで、こんど詳しくお話しましょう。 そこで男性同士が付き合ってしまう風潮がお坊さんを中心に起こってきます。お坊さんは元来結婚できませんからね。「女がだめなら男はいいでしょ」という感じですね。 上の画は室町時代、比叡山延暦寺の僧玄恰(げんい)が若い稚児(男の若者)を好きになり手をつないで家の中へ入っていくシーンです。う~んラブラブ?ですね。 ちなみに私は男性より女性が好きです!!!!!
2005年12月23日
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今日は東京は寒風が吹きまくっています。冬嫌いの私にとっては少々きつい季節です・・・ こんな日にもかかわらず夕方から某社社長と会合することになってしまいました~ よく知る仲ですが、彼がもうすぐ外国へ行ってしまうため今日しかなかったのです。 夕方の新橋近辺で凍えて死にそうな人がいたら私と思ってください!
2005年12月22日
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江戸城大手門 今でも試合の前には「下馬評」がおこなわれますね。この「下馬評」とはどんな由来があるのでしょうか? 江戸時代、全国の大名は参勤交代をしていましたが、江戸城に登城するときは必ず写真の大手門からはいりました。 大名さんは例の大名屋敷からもちろん大名行列を組んで多くの家来とやってきます。1人で歩いてくるわけではありません。 その時この門には「下馬」という看板が立っていました。「この門より先は馬の乗り入れ禁止」ということです。したがって家来の多くはこの門の前で大名が下城するまで待っていたわけです。 大名は全国にいましたから、青森の大名の家来もいれば鹿児島の大名の家来も来る。当然方言まるだしで家来同士の交流がこの門の前で行われました。これが「下馬評定」の由来です。 東京の大手町にはこんな由来があるのです。
2005年12月22日
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どこの会社も同じだと思いますが、暮れになると、営業成績やら集客動員数字やらいろんなデータを要求されます。 担当部署の関係でそんな情報をひっぱり出して歩いているんですが、これが膨大な量になってしまい・・・ これを正月休み前までにどうやっつけたらいいのか・・・・ 今、大変途方にくれております。しかし明日は気分を変えて歴史ブログをやってみたいと思います!! 乞うご期待!!
2005年12月21日
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上 鎌倉 和賀江島 上の写真は鎌倉の海の写真です。遠くに江の島がぼやけて見えますね。 その海に砂利の浅瀬がありますね。誰が見ても自然に出来たものに見えると思いますが、実はこれ、人口的に作ったものです。 鎌倉時代、鎌倉に町ができて船により物資が鎌倉に集まってきたのですが、鎌倉は遠浅なので船が着岸しにくかったのです。 そこで幕府は鎌倉の海に船が着ける「人港湾」を作りました。これが上の「和加賀江島」です。残る中で日本最古の港湾建築です。もちろん国の史跡に指定されています。 しかし、石が散逸し始め、今では引き潮のときにしか顔を出さなくなってしまいました。 鎌倉に行かれたら、お寺めぐりと同時にこんな遺跡を見に行くのもいいのではないでしょうか?引き潮のときだけなので、見れたらラッキーですね。
2005年12月21日
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今日、病院に行って血液検査をしてきたのですが、お医者さんから恐ろしいことを言われてしまいました~。 「奄太郎さん、ちょっとコレステロール値が高いですね。まぁ大変というものでもないし太っているわけでもないから心配いらないけれど、ちょっと食事の量、調節してみてください」 キャ~!!人生で初めて言われてしまった・・・自分とは関係ないと思っていたのに・・・・ せっかく私の「個人的な食」をここで取り上げていこうと思っていたのに・・・ ただ、食を楽しまないわけにはいかない!!そこで、「奄太郎の食」は「奄太郎の健康食」を取り上げていきたいと思います。「低カロリーで美味しいもの」を探して載せていきたいと思います。 こちらもご期待ください!!
2005年12月20日
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上 静岡名産 紅ほっぺ 前述しました巨大イチゴが上の写真です。その名も「紅ほっぺ」 静岡の伊豆は冬でも暖かいのでいちごなよくとれます。 一番のシーズンはもつと寒くなってからだそうですが、食べてみると甘くて美味しかったです。 このイチゴ、味はいいんですが問題はこの大きさ!普通のイチゴの2.5倍はあると思います。 こんなビッグサイズ、始めてみました。 食べてみたい方、ぜひJA伊豆の国に聞いてみてください。
2005年12月20日
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何度かこのブログに登場している、私の親友である伊豆のIからイチゴがとどいた。 その名も「紅ほっぺ」伊豆の特産だそうだ。 ふたを開けてみるとびっくり!普通のイチゴの二倍以上の大きいいちご・・・食べてみたら本当に美味しいんだこれが・・・ 画像はあとでアップしますので、期待を膨らませてお待ちください!!
2005年12月19日
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上 石山寺に詣でる孝標女(牛車内) 「更級日記」という古典を聞いたことがある方は多いと思います。今回はその作者について触れてみたいと思います。 この物語を書いた女性は誰かわかっているのですが、名前がわかりません。そこで彼女のことを父親の菅原孝標の娘なので「菅原孝標女」といいます。あの菅原道真の六代目の子孫です。今から約950年前の人です。 彼女のお父さんは今の千葉県知事でしたので彼女はそこで育ちますが、大変な文学少女で物語を読んでは都にあこがれていました。 父親の任期が終わり念願の京都に行くのですが、そこで「源氏物語」をもらって乱読して宮廷生活や光源氏にあこがれていました。 しかし、彼女には不幸が次々と起こります。 とても親切な継母がいたのですが父親との不仲で離婚してしまいます。 住んでいた屋敷が全焼して可愛がっていたペットの猫が焼死します。 仲のよかった姉が出産のとき死去してしまいます。 身内の不幸が続く中、孝標娘は結婚もせず宮仕えに出ますが想像していたことと全く違い息苦しく止めています。 当時としては遅く30代で結婚。フツーのサラリーマン貴族でした。夫も県知事で各地を回るのですが、彼女はついていかず京都にのこり、はかない恋愛もしていたようです。 地味ながら誠実な夫がその後死去し、彼女は今までの「憧れ」中心の考え方から転換し、信仰心をもつようになり、お寺詣でを始めます。「源氏物語」にあこがた若いころから。51歳になっていました。 彼女は多くの肉親の死後、筆を執って今までの回想録を書き始めました。それが「更級日記」です。 今でものこる更級日記は900年前も今も変わらない女性心にあふれています。
2005年12月19日
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日本中がえらい寒波に覆われているようですが、私の住む東京はその中でも温暖化の影響か?まだ暖かいんですね。 それでも寒いです~ 雪国出身の友人がこんなことをいっていた。 「雪が降ったときの方が降ってないときより暖かい」そうな。本当なんですか?初めてしりました。 私がこの間いった北中国はすでにマイナス気温に陥っているとこれも友人から聞きました。 明日も寒波が残るそうです。みなさまお体をお大事に・・・・
2005年12月18日
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上 牡蠣とほうれん草のパスタ この絶品パスタは東京代々木のトスカーナの季節のメニューです。 私はここのパスタがたまらなく好きで何度も足を運んでいます。とりわけクリームソース系が美味しい!! ここのパスタの特徴は歯ごたえのある太い麺を使っていること。私は冷麺だろうが、らーめんだろうが、そばだろうが固くて歯ごたえのあるのが好きなのでたまりません。ちなみに納豆とミートソースのパスタなんてのもあります。食べたことはないんですが・・・ この店のクリームソースパスタは海老や鶏肉のものもあり、牡蠣が食べれないという方でも大丈夫!!また牡蠣もとても新鮮で火が通っているので生牡蠣が苦手という人でも食べれると思います。 これを書いているうちにまた行きたくなってしまった奄太郎でした。 東京にはカレーだけでなくパスタの美味しい店も穴場的にあるので今後ご紹介していきたいと思います!!乞うご期待!!
2005年12月18日
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牡蠣のシーズンになりましたね。 巷でも牡蠣を扱ったメニューが増えているような気がします。 ただ、牡蠣が苦手という方も多いかと思います。私が実際そうでした。しかし最近好きになりよく食べるようになりました。 そこで次回ブログでは私のお奨めする「絶品牡蠣のパスタ」のお店を紹介しましょう。 ※牡蠣の苦手な方申し訳ありません!!
2005年12月17日
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上 千葉マリンスタジアムのオリックスファン 私、ブログではあまり触れないのですが、大の野球好きです。しかもオリックスという地味な球団のファンを25年もやっております(阪急以来)。 そのオリックスの前監督、仰木彬氏が先日他界されました。突然の訃報で今は言葉も出ません。 上の写真は今年8月26日の千葉マリンでロッテと試合を観にいったときのオリックスファンです。この時監督を見たのが最後になりました。 オリックスは人気がないのでお客があまり入らず監督はよく客席に出てきて子供たちや仰木監督らしくキャバ嬢らにサインを書いている姿をよく見ました。 パリーグを支えてきた方がまた1人この世を去りました。 心からご冥福をお祈りすると共に今日一日は喪にふしたいと思います。
2005年12月16日
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上 源頼朝画像 神護寺蔵 義経のことに触れたのでその兄で対立した頼朝についてお話しましょう。 源頼朝はまだ義経が子供のころすでに父と一緒に対立する「平治の乱」に参加、敗走後捕まり平清盛に送られ死刑を命じられますが清盛の母が若年なので助命し、伊豆に島流しされます。 しかし、関東で自分の土地をもった「武士団」が京都から背を向け始めていることに目をつけ、また彼らに推されて平氏打倒を掲げ反乱を起こします。 失敗を繰り返しながらも味方が増え始め義経ら兄弟の活躍でついに滅ぼしてしまいます。 のち京都に圧力をかけ義経と対立して北の藤原氏を滅ぼし武士団の独立政権を作ります。 鎌倉時代は鎌倉幕府が支配していたと勘違いしている人がいますが、京都が支配していた地区も多くあくまで国内の政権でした。 だから鎌倉が中心になったのでなく鎌倉と京都と二つの政治機構が存在していたので鎌倉時代は「ダブル政権時代」でした。 頼朝は幕府成立から数年後、落馬が原因で死去します。53歳でした。 頼朝死後。子供たちが暗殺という悲劇にあい幕府は北条氏のものへと変質していきました。義経は早く死にましたが、頼朝の子供たちも20代で死んでいきました。
2005年12月16日
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上 源義経画像 中尊寺蔵 少し体調を崩したにもかかわらず、多くの励まし、本当にありがとうございます。少し休んでたいしたことはなさそうなので、早速「義経」の続きを書かせていただきます。 頼朝と対立した義経は頼朝に対抗するため兵を挙げますが敗退。吉野山に前述した静御前らとにげこみ、消息不明となりました。いまでもよくわかっていませんが、大胆にも京都に潜伏していた可能性が高いです。当時の貴族階級は「親義経派」が多くいたのです。 しかし、義経をやっつけるお触れを持っている頼朝の力がつよくなるとついに京都にいれなくなり、かつての縁を頼り平泉へ向かうのでした。 平泉では秀衛に迎えられるのですが、その秀衛が死去、息子泰衛が頼朝との対立を避け義経を追い詰め殺害に追い込みました。 義経31歳、首はお酒に漬けられて頼朝のいる鎌倉へ送られました。泰衛も家来に殺害され藤原氏も滅びます。 義経がいまだに人気があるのは鎌倉に新興勢力を形成しはじめた頼朝に対して京都側が嫌がっていたというのがベースにあるのでしょう。義経が追われていても助けた人が必ずいたはずです。 上の義経の画像は美男という彼の印象をくつがえすものです。彼を実際に描写したものかはわかりませんが、疲れきっている彼の姿が垣間見えるように思います。 やっぱり義経は美男だったと私も思いたい。
2005年12月15日
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みたいです。帰社後、「義経」の後編を書く準備していたのですが・・・ 帰りの電車からちょっとおかしかったのですが・・・・ 大変申し訳ありませんが、「義経」後編、ちょっと明日、書かせていただきたく思います。ちょっと寝ればよくなりますから! 楽しみにしていただいていた方、申し訳ありません!次回をご期待ください!
2005年12月14日
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上 藤原秀衛と義経 安田ゆきひこ画 今日は、大河ドラマでおなじみの源義経についてです。 義経は源義朝の子供で、兄頼朝とはお母さんがちがう兄弟になりますね。 義経が生まれた直後、お父さんが平治の乱で平清盛に負けて死んでしまうので、義経は他の兄弟と一緒でお寺に預けられ鞍馬寺に住みました。 のちにお寺を出て諸国を放浪し、ついには岩手の平泉の藤原秀衛のところに身を寄せます。この放浪について具体的なことはよくわかっていません。ドラマではかなり虚構されていたのではないでしょうか? それから、伊豆に流されていた頼朝が平氏に反乱をおこすと秀衛の反対を押し切りそこに参加。次々と軍功をあげ、平氏を滅亡させています。 鎌倉で父義朝の供養のためのお寺を創っていたところに義経からの手紙を受け取り、頼朝は目的を達したことを知ることになりました。 ただ、京都滞在時に頼朝に無許可で任官していたため頼朝と不仲になり(というより後白河をはじめ当時の貴族が武家を分裂させるためのお約束の政治謀略に義経がはまった)鎌倉に入れず、京都に戻ります。 この後は次回ブログで!! ※藤原秀衛の「ひら」がパソコンで出せず違う字を使いました。ご了承ください。
2005年12月13日
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昨日、大河ドラマの「義経」がおわりましたね。 私は全体を観ることは出来ず、断片的にしか観れませんでした。 多くの方がご関心があると思いますので、次回ブログでは「義経」を取り上げてみます。 考えてみれば義経自身を取り上げたことがないんですよね。 義経ファンの方、ご期待ください!(期待はずれだったら申し訳ありません!!)
2005年12月12日
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上 仙台城推定復元図 政宗が築いた仙台城はちょうど城下町である仙台市の一番西側にあり、山の上から仙台の町をみることができます。 この図でみると崖の上にあるのが「本丸」といって政宗が築いたものです。崖下には広瀬川が流れていて、西側の山は森になっていて、天然の要害になっているのがわかります。う~ん、敵も攻めにくいですね~。 でもここでひとつ問題が・・・戦争が起きない平和な世の中になって、このような攻めにくいお城が必要なくなってしまったのです。「お城」はただの「政治をするところ」になります。 政宗は晩年、仙台城を息子の忠宗に譲り、自分は郊外に「若林城」という堀つき屋敷で政治を取っていました。 政宗死後、忠宗はついに崖上の城が不便になり、その北側崖下に「二の丸」(図の上の部分)をつくりそこに住んで、政治もそちらで行います。 のち、本丸は全く使われなくなり、地震や火事の影響で建物もなくなっていきました。「お城」が単なる「役所」なったのです。 仙台を訪れる方が「仙台城」といって観光するところが崖上の本丸部分ですがそこには江戸中期にはお城らしくなかったということです。ちなみに二の丸は東北大学のキャンパスになり全く建物が残っていません。 仙台城は江戸時代という平和な時代に本末転倒していきました。現在本丸部は国史跡に指定され石垣の復元やどのような変遷で変化したのかなどを調査中です。仙台に行かれる際は全盛期の上図を想像してぜひお立ち寄りください。
2005年12月12日
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上 伊達政宗 身長159センチ 血液型B型 「独眼竜」とはいわずと知れた戦国時代から江戸時代を生き抜いた伊達政宗のことですね。 彼は子供のころの病気で片目を失ってから目が一つしかなかったのですが、上の肖像画、目がちゃんとありますね。 伊達政宗は生前に描かれた肖像画には両目をちゃんと描くよう命じていたといわれています。政宗死後、木造が造られたのですが、これはちゃんと片目になっています。 彼は山形の米沢城で産まれのち、会津に乗り込み東北最大の戦国大名になります。 しかし、西から豊臣秀吉の支配が進み、降伏します。秀吉に許してもらった代わりに、会津から宮城の岩出山というところに左遷されます。 秀吉死後、徳川家康と通じ、関が原で家康の味方になり、岩出山から交通の便のよい千代に本拠地をうつし「仙台」と命名します。 のち、家康の孫、徳川家光まで仕え、激動の人生を終えることになりました。 政宗のお墓は仙台に復元されていますが学術発掘調査で身長155センチ、血液型はB型だと判明しています。 政宗が残したものはやはり東北一の大都市「仙台」でしょう。 次回ブログでは仙台に政宗が築いた「仙台城」の当時の姿を見てみましょう。
2005年12月11日
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このブログが少々変わったことは、ご覧になった方はご存知かと思います。 これは、お正月バージョンとして「紫」を入れてみました。 紫は古来から「高貴な色」として着物などにもよく使われる色ですね。 皆様がご覧になって感想をお持ちのかたがおられましたら、アドバイスいただければ幸いです。 皆様いい年を迎えましょう!!
2005年12月10日
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上 神保町 共栄堂 スマトラカレー 神保町は大好きな町ですが、いわずと知れた「カレーのメッカ」でもあります。 そのなかで私が大好きなのが共栄堂 のスマトラカレーです。 普通のカレーとは違いなんともいえない味、辛くもなく甘くもない独特の味は格別です。 ぜひ神保町にお越しの際は食べてみてください!! 皆様からいただいたお返事、仕事のため今日少々遅れます!申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。
2005年12月10日
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上 瑞泉寺庭園 鎌倉にはたくさんのお寺がありますが、京都のような小さいながらもすばらしい庭園はあまりなうように思います。 実は、もともとすばらしい庭園はたくさんあったと思われますが、鎌倉は京都と違い、近世になると一農村になってしまい埋もれてしまったというわけです。 そんななか当時の鎌倉庭園の遺構をよく残しているのが上の瑞泉寺の庭園です。これは夢窓疎石という鎌倉末期の有名な禅僧が作庭したものです。 彼は京都の天竜寺の庭も造っていますね。 鎌倉はご存知のように山に囲まれ山際にお寺があるケースが多いのですが、その山際を少し削ってがけにしたところに庭園が造られることが多く、この庭園はその典型です。 大きな穴(やぐらという)が崖にあり、殺風景な感じはしますが、当時の禅寺庭園の典型として有名です。 最近は円覚寺の庭園のように当時の庭園が復元されつつありますが、鎌倉にもっと日本庭園ができると鎌倉に行ってみたいと思いますね。
2005年12月09日
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気がついてカウントをみると30000アクセスを超えていました。 いつも思うのですが、私のつたないブログは多くの方に支えていただいているのだと改めて感じます。 ご愛読いただいている皆様、ありがとうございます。 今後ともよろしくお願いいたします。 本日は少し後もう一つ記事を書かせていただきますので楽しみにお待ちください!!
2005年12月09日
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東京駅 大正三年 復元される東京駅は上のようになります。 この東京駅は創業当時1915年(大正3年)の絵です。ちょうど前ブログの写真の逆側から見た絵ですね。 今の赤レンガは建物部2階建てですが、当時は3階建て。改札口(両側)には今と違ってドームがのっていて今より大きかったのです。ちなみにこのドームの中の天井には鷲が羽ばたく姿の彫刻が多数あり、下から見上げると鷲が羽ばたいているように見えていました。 東京駅は真ん中が天皇家用の出入り口で両側のドームが普通の改札です。この南側ドームの両側が東京ステーションホテルというホテルになっています。私が学生時代アルバイでおせわになりました。 ここのホテルはもともと日本初のハヤシライスで扱った精養軒が運営していましたが、のち直営になり多くの旅行客や文人にも愛されたホテルでした。 今の駅舎は私の大学時代の思いでもあるので取り壊すのは残念ですが、大正期の雄大な東京駅も見たいものです。 新駅舎が復元されると、丸の内のおしゃれな店や綺麗な最新ビルの中に「大正時代」の赤レンガが雄大に見えることでしょう。 新しい観光名所ができること間違いなしですね。
2005年12月08日
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現在の東京駅 東京においでの方なら、見たことがある方が多いのではないでしょうか?東京駅の赤レンガの駅舎。東京のシンボルの一つです。 東京駅が開業したのが大正三年。それまでは新橋駅、上野駅が始発駅でした。創業当時の東京駅、実は今のものとは少し違っていて、もっと大きかったのです。当時の技術を総決算したような日本一どころかアジア一の駅舎でした。 戦時中の空襲で立て直されたのが今の東京駅舎ですが資材不足の影響もうけて縮小されてしまいました。 この度この駅舎が大正時代のものに復元されることが決まりました。今、オフィス街からブランド店が立ち並ぶ丸の内に大正時代の駅舎が現れることになります。 次回ブログではその大正期の東京駅をお伝えしましょう。
2005年12月07日
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上 静御前 この静御前をご存知な方は多いことでしょう。今日はこの静御前のことについてお話しましょう。 彼女は白拍子(男装して舞う、遊女を兼ねることも多い)の元祖を母にもち、自分も白拍子になりました。 のち、源義経の側室となりますが義経はおにいちゃんの頼朝と対立、彼女は義経と行動を共にし西へ逃げますが、吉野山で義経と別れて彷徨っているところを拘束され京都を経て鎌倉に送られることになります。 鎌倉では命は助けられましたが、義経についての事情聴取が行われ、また鶴岡八幡宮に舞を奉納するよう命じられ有名な舞を披露し敵方の鎌倉人も感嘆したといいます。ただこの舞、今の八幡宮の舞殿で踊ったという人がいますがそれは間違い、あの建物は江戸時代に造ったものです。 頼朝の奥さんの北条政子の計らいもあり許された静でしたが、義経の子供を妊娠していました。「男なら殺す」と予告されていて産まれたのは男の子でした。その子供はそのまま鎌倉の由比ガ浜に投げ捨てられたといいます。 まだ十九歳の静には大変なショックだったでしょう。 のち、静は京都に戻されますが、いつ死んだとかの消息はわかっていません。 鎌倉散策の折には彼女に思いをはせる人が多いんでしょうね、今でも静は義経と並んでえらい人気があるようで、こんなHPをみつけました。 みなさんも時代の犠牲になった静に思いをはせてみてください。
2005年12月06日
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秋葉原駅中 スパイス カツカレー 私のブログにリンクを貼っていただいている菜々子さんが先日の宅建に見事合格されたと嬉しいご連絡をいただきました。 私は素人ですが宅建は結構手ごたえのある試験であると聞いていたので本当にお見事です!! 奈々子さんは美味しいトンカツがお好きだということで、この間食べたカツカレーが美味しかったので画像をお送りします。最近はアキバでも美味しい食事が出来るようになってきました。 最近「アキバネタ」が多いのですが、私は決して「アキバ系」ではありません。どうしても交通の関係上よく行くのですが、あそこには流石に入れませんね~。 この間見慣れぬおしゃれな喫茶店があるので何も考えず入ってみたら、今はやりの「メイド喫茶」ですぐ逃げてしまいました。 私のことより菜々子さん、本当におめでとうございました!!
2005年12月05日
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小石川後楽園 通天橋 音羽の滝 小石川後楽園は東京のドまん中にある緑のオアシスになっています。ご存知のかたも多いと思いますがここは水戸徳川家の江戸屋敷の庭部分が残ったもの。 以前もご紹介したことがあるのですが、ここの庭園の面白いところは日本全国の名所をミニチュアで再現しているところでしょう。 ミニ清水寺、ミニ嵐山、ミニ渡月橋、みに中仙道、ミニ龍田川といった具合です。 上の写真の橋の下にはせせらぎが流れているのですが、小さな滝があります。これがミニ音羽の滝、そうです、京都清水寺のがけ下にあるあの滝なのです。この写真左の山上にミニ清水寺がありました。(現存せず) 江戸時代、全国の大名たちは江戸屋敷を持っていましたが、このようにミニチュアを作るのが流行っていて他にも多くありました。しかし見事に残っているのはここの庭園でしょう。 後楽園は紅葉の名所でもあります。この写真に写る木々もいまではおそらく真っ赤になっていることと思います。 東京にお越しの際はぜひ、ここでのんびりとお過ごしください!!
2005年12月04日
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上 鎌倉推定復元図 鎌倉は東京からも近く、散策されるかたも多いことと思います。そんな鎌倉には電車で行く人が多いのではないでしょうか? 今は普通の家が立ち並んでいますが、当然昔は違っていました。 最近発掘調査が進み鎌倉時代の街並みがわかっていkました。 上の絵は今の鎌倉駅西口(八幡宮にいく反対側)の一部を発掘して描かれた当時の700年ほど前の鎌倉です。 上の向かって右側に上級武士の屋敷があり、上の広場の部分はその家来の家、広場は武術の練習するスペースだったと思われます。 下の小さな家が一般の商家だったと思われます。 鎌倉においでの際はぜひこの絵を想像して散策してみてください!! 追伸、本日、事情によりご返信が少し遅れてしまいます。申し訳ありませ んがコメントいただいた方、よろしくお願いします。
2005年12月03日
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上 秋葉原 李朝 海鮮冷麺 今日は久しぶりに食事ネタでいってみたいと思います。 私、プロフィールにあるように大の「冷麺好き」なのですが、冷麺は値段が高いことが多く、食べるとき財布との話し合いになってしまいます。 今回は給与が入ったことで少々「強気」に出てしまい冷麺をいただきました。 上は東京秋葉原と御茶ノ水間にある「李朝」という韓国料理屋にいき「海鮮冷麺」を食べました。冷麺に海鮮物があるとは珍しいと思ったのです。 出てきてみると、お~っ、海鮮がのっています!!どんなものがあるかというと赤貝、イカ、アナゴ、ウニまであります!さらに目玉焼き、もやし、九条ネギ(このトッピングがいい)、カクテキがつきます。 食べてみると麺もコシがあってよかったです。 お近くの方、地方の方は東京に来た折にいかれてみてください!!
2005年12月02日
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石山寺縁起絵巻 部分 上の女性は石山寺にいる紫式部の姿です。 この画の設定は源氏物語のストーリーを今後どのようにしようか、彼女が遠くの景色を眺めて考えている姿だといわれています。 御簾をあけて遠いところを眺めながらぼんやり考え事をしている姿が見事に書かれていると思います。 でも、これは虚構の話で、紫式部がここで源氏物語の草稿を練ったことはなかったといわれています。 源氏物語は当時のベストセラーで式部のところに今後のストーリーを聞きに来る人もあったようですから、石山寺でなくても京都で式部がこのような作家さんのような「考え事」をめぐらしたでしょうね。
2005年12月01日
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