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私は森田先生の「鶯の綱渡り」という宴会芸の話を聞いて自分でも取り組んできた。これがやっと実を結び、引っ張りだこ状態になってきた。名刺には、持ち芸として「アルトサックス演奏」「どじょうすくい」「浪曲奇術」「獅子舞」をうたっている。アルトサックスの演奏曲は100曲以上である。最大300名程度のところでソロ演奏できるようになった。多少緊張するが大きな失敗はしていない。今や老人ホーム、町内会のイベント、老人会などで引っ張りだことなった。9月の敬老会シーズンには、ほぼ土曜日曜日、祝日の予定が埋まった。それも1日2ステージを掛け持ちである。普段は勤めがあるために、土曜、日曜、祝日以外はお断りすることが多い。昨日は、午前中は紙芝居大会のオープニングと外での呼び込みでチンドンミュージックを流した。曲は子どもに合わせて、「日本昔ばなし」「アンパンマンのマーチ」「散歩」「崖の上のポニョ」「それいけカープ」などだった。夕方からは町内会の夏祭りに呼ばれた。ここでは、おなじみのチンドン興行のほかに、「どじょうすくい」も披露した。その他、「傘踊り」「南京玉すだれ」「エイサー」などがあった。昨日は沖縄のエイサーが一番盛り上がった。最後は観客の人と一緒に踊りまくっていた。夏祭りのような大勢の人が来る時は、派手な衣装に、威勢のよい踊り、三味、太鼓などの鳴り物がいいようだ。チンドン演奏や獅子舞は50名までが適当だ。どじょうすくい、浪曲奇術は20名程度が映える。依頼を受けた場合はイベントの場所(屋外か、屋内か)、人数は何人か、年代の主力は何十代かを見極めて演目を組み立てる必要があると感じた。これからどこでも老人が増えてくる。老人会、敬老会、町内会、あるいは地域まちおこしなど人が集まる場所では私のような一人一芸を持った人は引っ張りだことなることは確信している。名刺を何人かに配っているが、時々私にも打診がある。出かけているうちに一人一芸、二芸を持った人とたくさん知り合いになった。これが大きかった。今は声をかければ都合がつけば、きてもらえる状態にある。但し、これはお金儲けではダメだと思う。基本はボランティアである。呼ばれるところは何人で出かけても、1万円以内というところが多い。交通費程度である。ところが弁当、持ちかえりビールなどはほとんどついてくる。私が現在プロデュウスできるのは、チンドン屋、三味線のグループ、民謡、手品師、日本舞踊、フラダンス、ウクレレ演奏、南京玉すだれ、傘踊り、ささら踊り、どじょうすくい、落語家などである。私は将来は森田理論の普及と思っているが、こちらもやりがいがありそうだ。森田理論学習で学んで手掛けたことが、広く多くの人に受け入れられて、喜ばれ、自分も生きがいを持てて最高の気分である。ちなみにこれらに取り組み始めたのは約5年前のことである。
2016.07.31
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一昨日はマンションの管理人の仕事をしていた人たちと暑気払い兼カラオケに行った。気の合う仲間5名だった。私は音痴でカラオケが大の苦手だった。「食わず嫌いの一品」だったのである。誘われるままに何回も参加しているうちに雰囲気が好きになった。上手な人の歌声を聞いているとこちらまで楽しくなってくる。それにしても最近はカラオケが上手な人が多いいのに驚く。私以外の4人とも上手なのだ。どこで練習しているのだろうかと不思議に思っている。私は積極的に歌うというより、人が3曲歌って、催促をされて1曲歌うというスタンスをとっている。全くの音痴では自分も楽しめないし、聴いている人も決して気分はよくないだろう。でも歌というのは自分に向いた歌いやすい曲があるものである。それをyou‐tubeの歌声に合わせて家で練習している。何回も歌手の歌声を聴いて練習をしていると、まあ恥をかかない程度にはなる。私の歌う歌はいつも決まっている。歌詞カードで探してはじめて歌うという曲はない。リストアップした曲しか歌わない。「長生き音頭」「しあわせ音頭」「還暦祝い唄」「夢追い酒」「二人酒」「博多時雨」「栄冠よ君に輝け」である。「奥飛騨慕情」もリストアップして何回も練習していたが、上手にならないのでやめた。「博多時雨」が一番しっくりくる。次に「還暦祝い歌」である。「長生き音頭」は面白おかしく歌う曲なので、うまい下手は関係ないようだ。昨日歌の上手な人が「あなたは山川豊の「夜桜」が合っているかもしれない」と教えてくれた。早速you‐tubeで聴いてみた。今度はこれをモノにしてみたいと思っている。冷たい世間の 無情より骨身にしみる お前のやつれ顔あなたと生きて行けるなら苦労も愉しいと俺を気づかう 片えくぼ可愛いやつだよ お前ってやつは
2016.07.30
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51歳の男性の方で、職場で疎外されて悩んでいる人の相談です。ある製造業の会社員です。25年勤務しているのですが、職場の雰囲気になじめず、皆から信用もなく蚊帳の外のような状態で悩んでおります。具体的には、仕事のミスが多かったり、それに対して上司がぼろくそに言ったりして、また皆の前で罵倒するため、下のもの、女子等もみんな自分をバカにしているみたいです。誰も自分に必要以外は話しかけてこない。自分は腰痛があって重いものを持つことができないが、誰も手伝ってくれない。症状としては、ビクビクして仕事が手につかない。自信がない。腰痛があり、自分の体が思うように動かない。自分の体が自分でないように感じる。頭がふらっとする。倒れるのではないか。こんな状態で社会生活を営めるのだろうか。廃人になるのではとかの恐怖、判断力の低下などがあります。あなたの悩みは対人恐怖症でつらい人生を送ってきた私と同じです。私の場合は不眠やうつがありましたので精神科にかかり抗不安薬や睡眠薬をもらいながら会社勤めをしておりました。今考えるとあまりにもつらい時は、自分ひとりで悩まずに精神科にかかったり、カウンセラーの力を借りることも有効ではないかと思います。私の場合は集談会の仲間たちとの温かい交流や助言が一番効きました。自助グループは同じ悩みを抱えている人たちの集まりですので安心できます。ピア・カウンセリングの傾聴、受容と共感の体験は役に立つと思います。是非気に入った集談会を見つけて、継続して参加されることをお勧めします。そして1年ぐらい参加していると世話活動に参加されるとよいと思います。私は図書係、副代表幹事、代表幹事、支部委員などの役割を任されました。それに一生懸命に取り組んでいました。特に一泊学習会の企画や実施は大変役に立ちました。みんなと役割分担しながら、問題点を一つ一つつぶして準備をしてゆきました。そしてなんとか無難に終えた後は充実感でいっぱいでした。そういう経験を集談会の中で何度も経験させていただきました。その経験がそのまま会社の中で活かすことができるようになりました。懇親会の幹事役。会社の移転などの責任者にも指名していただき、1年がかりで遂行しました。それから人をまとめて仕事を遂行するような仕事を任せられるようにもなりました。集談会は小さな社会のようなものです。少々失敗してもみんな大目に見てくれます。ここでできる範囲で訓練を積んでゆけば、仕事の段取り、対人関係の持ち方を習得できます。活用しない手はないと思います。それから腰痛ですが、お医者さんや整体にはいかれていますか。器質的な痛みでしたら治す必要があると思います。あなたの今の置かれている状態は、森田理論でいうと精神交互作用で観念上の悪循環が起きていると思われます。意識や注意が自己内省的で、ネガティブで悲観的な方面に向かっています。さらに行動面の悪循環が起きています。いわば蟻地獄に落ちているような状態です。そうなると「生の欲望の発揮」という面が蚊帳の外に置かれているのです。ここが問題です。バランスが崩れて自分が神経症で苦しむ原因を作りだしているのです。一刻も早く蟻地獄から這い出ることが当面の目標となります。あなたのよいところは、休職したり、休暇をとったりしないで会社に出続けておられることです。今はそれを継続されることをお勧めします。「月給鳥という鳥になって餌を捕ってくる」のだという目的はしっかり持っていてください。そのあとは、このブログで取り上げているように、実践課題への取り組み、メモを利用したきめ細かい行動・実践へとステップアップしてゆかれるとよいと思います。あなたは今の会社での人間関係をアドバイスで一挙に解決したいと思っておられると思います。それはちょっと難しいと思います。「急がば回れ」という言葉があります。神経症の悩みの解決も不安に正面切って挑むよりも、外堀を埋めていくという方法が一番確実で間違いのない方法だということを認識していただきたいと思います。
2016.07.29
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結婚相手に「やさしい人」を求めることが多い。大平健氏によると、旧来の語法では、「やさしい人」とは、相手が自分の気持ちを察してくれて、それをわが事のように受け容れてくれるときに感じるものでした。自分が「やさしい」気持ちになれるのも、自分が相手と同じ心持になった時のことでした。いずれの場合も「やさしさ」が双方にとって心地よいのは、自分と他人の気持ちのずれがなくなり、一体感が得られるからでした。そういう状態になるためには、お互いに相手の考え方や行動をよくわかった上で、相手に寄り添った言動が必要になります。集談会でいえば、自分の悩みをよく聞いてくれて、共感して受容してくれる。そして適切なアドバイスをしてくれるような人のことだろうか。ところが、大平氏によると、最近の「やさしさ」はそういう人間関係の在り方とは違ってきたといわれる。一歩踏み込んだ生々しい人間関係を避けるようになってきた。そういうかゆい所に手を差し伸べてかゆみをとってくれるような「やさしい人」は敬遠されるようになってきたという。そういう人を「うっとうしい人」、「わずらわしい人」として避けるようになってきた。つかず離れず適度の距離を置いて、相手の心の痛みは見て見ぬふりをするのが相手を思いやることなのだと思っている。相手の嫌がるようなことから目をそらして、静観してあげるのが「やさしい人」だというのである。手出し無用だというのだ。土足でズカズカと自分の心の領域に踏み込んでおせっかいを焼かれるのもイヤだし、おせっかいを焼くのもイヤだというのである。たとえば、欲しくもないものを売りつけたり、売りつけられたりすることは敬遠する。売りつけて断られると自分が傷つくし、押し売りを断ると相手が傷つく。人に頼みごとをするのも、他人から頼みごとをされるのもしり込みしてしまうのも同様の理由からである。こうなると、人間関係は必然的にあたらずさわらず表面的なものになってしまう。森田理論学習では、時と場合に応じて、つきず離れず適当なバランスを取りながら人間関係を築いていくのを「不即不離」という。森田では人間関係ではベタベタと付きまとってはいけない。かといって全く離れてしまうのもいけないという。時と場合に応じて、ひっついたりあるいは離れたり臨機応変な対応が大切であるという。この考え方は大平氏のいう考え方と同じなのであろうか。私が思うには、大平氏のいう「やさしい人」というのは、お互いに心がとても傷つきやすい人である。ちょっとした傷つきで心がかき乱されて、日常生活に大きな影響が出てくる。それなら、親密な人間関係を築くことを避けてしまおうという考え方である。旧来の人間関係は同じ町内ではみんなが子どもの教育を担っていた。年頃になれば結婚相手を紹介したりしていた。相互の人間的交流は今と比べ物にならない。普段から私生活のすべてにわたって助け合っていい面も多かった。ところがそうした親密な人間関係の半面で、個人の自由に干渉してわずらわしい面もあった。現代では他人に束縛されて、自由がないというのは息が詰まる。その気持ちが一番強い。他人と情愛のこもった人間関係を築きたいというのは頭の中に理想としてはある。しかし実際問題としては、深入りして、熱い人間関係を構築することは、自分の自由が束縛されて息が詰まってくるので、当たり障りのない表面的な人間関係を基本姿勢としているのである。では、こういう人間関係の考え方、基本姿勢で臨むことは問題はないのだろうか。私は問題が大ありだと思う。こういう考え方をする人は、モラトリアム人間に近い。自分の目の前に現れた問題や課題に対して蓋をして先送りしてしまうのである。一時的には楽になるが問題が解決したわけではない。むしろ問題を引きずり、どんどん増悪して自分を苦しめてしまう。今現在を真剣に生きるということから見ると、夢の中で生活しているような状態である。こういう人の特徴は、さまざまな問題に対して決断できない。迷ってばかりで解決の糸口が見いだせない。いつまでもウジウジと葛藤を繰り返す。「いちおう」「とりあえず」という言葉が口癖になっている人が多い。これは自分の言動は急場しのぎのものであり、仮の見解である。自分が本当に求めているものは別にあると思っている。今現在生きているという自覚に欠けているために、ぼんやりとして離人感に苦しめられることもある。次に今現在熱中できるものが何もないと思っている。今していることがはたして自分が本当に望んでいることなのか。自分は本当に人生を謳歌して楽しんでいるのか。全く自信が持てない。人生は幸せの青い鳥探しだと思っている。だから30歳になっても、40歳になっても自分探しの旅を続けている。でもこれといったものが見つからない。またそういう人は、他人に深入りをしないから憶測で相手の気持ちを判断するようになる。事実を確かめないで、先入観で、ネガティブな決めつけをおこなっている。勝手に自分ひとりで納得しているので、人間関係は希薄なうえに、疑心暗鬼でいっぱいになるのである。こうしてみると現在の表面的な「やさしい人」というのは、精神的に葛藤を抱えて苦しみやすい人だと言えるような気がする。これらを改善していくには、今現在のことに真剣に向き合う癖をつけていくことが大切である。それは森田理論学習とその実践で得られることであると考える。(やさしさの精神病理 大平健 岩波書店参照)
2016.07.28
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羽生善治さんは、将棋では「先を読む」ということは当然大事にされている。と同時に、「大局観」で、パッとその局面を見て、今の状況では、どうすべきかを直感で判断することも大切だといわれている。晩年の大山康晴15世名人と10局ほど対局された時に感じたことがあるそうだ。大山先生は「局面を読む」ということをされていない。我々は、100手、200手と膨大な量を読んで指している。大山先生は「おおよそこんなあたりだろう」と、すぐに指される。読んでいないのだが、手がいいところに行く。自然に手が伸びているのだ。それがピタッという感じで、まさに芸であった。大山先生はどちらかというと、「大局観」の視点に重きを置いて将棋を指しておられたように思う。サッカーの日本代表監督の岡田武さんもこれによく似たようなことを言われている。「感性というのは、ロジックではなく、全体の空気を感じたりすること、センスという意味もあるし、感性というとどちらかというと、理屈や戦術論、ロジックじゃなくて、全体視。全体を感じて、そこからくるフィーリングみたいなもの、僕の中ではそういうイメージ」サッカーの世界でも国際試合になると、決して技術や戦略だけでは勝てない。インスピレーションのようなものが国際試合では特に重要になってくる。志岐幸子さんは、このように「全体を感じる」ことができているときは、必死に思考を巡らせて物質界の状況をとらえようとしているのではないといわれる。むしろ、それまでこだわっていた技術や戦略などの「外側の知性」を思い切って捨てることが大事です。外側に向いていた意識のスイッチが、内側への世界へと切り替わり、「内なる知識」が入ってくる準備が完了したときに「全体を感じる」ことができるようになる。この無意識の世界との交信、ひらめきはとても貴重なものだといわれています。これを別の視点でいうと、普通「集中すること」は、たいていの場合、狭い一点に焦点を当てることのように思われます。しかし、本当の意味の集中とは、肉体よりもずっと広い範囲に当事者の意識が及ぶことで、広い範囲のことを感じられる状態の事です。そういう無意識の世界に入ると注意が広い範囲におよんで調和がとれてくるのです。(「ゾーン」の法則 志岐幸子 祥伝社 226ページより引用)ここで言われていることは、勝負というものは目の前のことだけに目を奪われていると抜け落ちてしまうことがたくさんある。感性とか無意識の世界というのは、一つのことだけに意識が向くのではなく、空の上から現場を俯瞰するような状態になるのだと思います。この考え方は森田理論学習でも全く同じことが言えます。つまり、森田理論において学習用語を細かく学習することも必要です。しかし、それは後回しにしてもかまわない。大事なことは「森田理論全体像」をまず学習することが大切だということです。初めての場所に行く時は地図が役立ちます。そういう大局観から森田理論をとらえるという学習がどうしても避けては通れないと思います。手あたりしだい学習すれば、何か得るものがあるだろうという学習方法では、労多くして実入りは少ないのではなかろうか。というよりも混乱を招くような気がしています。森田理論を早く身につけたいと思われるのでしたら、基礎編の学習を終わられたら、ぜひ「森田理論の全体像」の学習に着手されることをお勧めします。さて、次に「集中すること」の意味を語られている。これは森田先生の言われている事と合致している。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を聴いたり、ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。森田先生は神経症というのは意識や注意が自分の気になる一点に固定された状態である。これが谷あいの小川を流れる水のように、たえず自然の流れに沿って動いていれば、神経症になることはない。その状態は意識や注意がひとところに留まらない「無所住心」の世界であるといわれている。森田理論では、集中というのは、「無所住心」のような心理状態に入っていることをいうのである。
2016.07.27
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日大野球部に常識では考えられないすごい選手がいる。千葉翔太選手である。身長157センチ、57キロのとても小柄な選手である。この選手は今持っている技術に磨きをかけると、プロ野球でも食っていける可能性があるという。その技術は何球もファールで粘るカット打法だ。150キロを超えるストレート。切れのある変化球。それらをカットし続ける技術を身につければ、たしかに相手ピッチャーにとっては意欲とスタミナに問題を生じる。高校は花巻東高校。日本ハムの大谷翔平選手は1年先輩で、甲子園では一緒にプレーしていた。準々決勝までの千葉選手の成績は10打数7安打、出塁率は15打席12出塁である。最速153キロのスピードボールを持つ安楽智大(現楽天)擁する済美高校には、3安打。準々決勝の鳴門戦では相手エースにカット打法でなんと一人で41球も投げさせた。バットコントロールには天性のものがある。さらに努力で技術をものにしている。しかしこれをみた大会本部から「意図的にカット打法を続けた場合はバントとみなす」と注意を受けた。3バント失敗でアウトにするというのだ。努力して身に付けた技術なのになんとも非情な裁定だ。このカット打法に将来性を見出して、惜しみない応援をしているのは元阪神の赤星憲広さんだ。赤星さんもプロ野球選手の中では小兵だった。170センチ、66キロだった。赤星さんは守備がよかったのが印象に残っている。ホームランは打てなかったがコンパクトな打撃には定評があった。2001年から9年間阪神に在籍し、通算打率2割9分5厘、出塁率3割6分5厘であった。立派な成績である。その赤星さん曰く。「カット打法の技術をプロで身につけている人はいない。それに磨きをかけてファールで何球も相手投手に投げさせる。選球眼をよくしていけば、四球で塁に出ることができる。千葉君は出塁率で勝負できる選手だ。投手はファールを続けて10球も打たれれば集中力が途切れる。またむきになって抑えようとするので、平常心が保てなくなる。そこに活路が見出される。それが結果的にチームに貢献することになる。たとえアウトになったとしても、それだけでも存在価値は十分ある。千葉選手を見たいというファンが球場に押し掛けるかもしれない。ただ今の打撃を見て感じたことがある。もっと強い打球を打つ必要があることだ。前に飛ぶ打球が弱いとプロでは定位置より前に来て守る。するといい当たりでも簡単にアウトになる確率が強くなる。強い打球だと前に来て守れない。足で稼げるヒットも増えてくる」とかく体が小さい、ホームランが打てない非力な選手はそれだけでプロ入りはダメなように思ってしまう。こういう方向で自分の能力を見出して、鍛え上げてプロ入りの可能性を探っていくという発想の転換に驚いた。人間の可能性というのは、どんなところにあるのか分からない。簡単にあきらめてしまうことはもったいないと感じた。ぜひ成功した姿を見せてほしいものだ。
2016.07.26
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森田理論は「加点主義」の考え方だろうと思う。決して「減点主義」の考え方ではない。この「主義」という言葉は「かくあるべし」につながる言葉であり、あまり好きではないが、適当な言葉がないので、そのまま使わせていただく。「加点主義」というのは、出発点は0である。何もないところから出発する。無から有を生みだすということである。希望や目標はいくら持っていてもかまわない。それを目指して、段階を踏んで努力精進を重ねていく。その時大きな壁や数多くの失敗にくじけそうになることもあるだろう。そんな時は希望や目標が達成して、幸福感に包まれ自信がみなぎる姿を想像することだ。気分転換を図ってまた再び重い腰をあげて挑戦していくことだ。森田先生によると昔富士登山では強力という仕事があったそうだ。普段は麓でお百姓さんをしている。富士登山の時期がくると、その期間だけ強力の仕事をする。山小屋等に生活物資を運ぶ仕事である。始めた当座は足腰が悲鳴をあげて、トイレでしゃがむこともできなくなるという。そこで痛くて仕事にならないからと寝込んでしまえば、仕事にはならない。ところがその痛みをこらえて仕事を続けているうちに、だんだん慣れてきて、登山のシーズンを通して仕事ができるようになる。徳川家康は「人生は重い荷物を背負って坂道を登るようなものだ」といった。「加点主義」の人は、目の前に現れた壁を乗り越えようとする強い意志を持っている。そして粘り強く努力する人である。そういう生き方が自然に身についている。それに引き換え「減点主義」はどういう人か。私の高校の「現代国語」の先生の場合、テストに○は一つもつけない。間違ったところに×だけをつける。戻された答案用紙を見ると殺風景だった。ここをもっと勉強して直せといわれているような気がした。私は勉強して正解だったところをもっと評価してもらいたいものだと思った。評価されることが励みになってさらに勉強の動機づけになるという点を分かってもらいたかった。この教師は一体生徒の人格をどう考えていたのかいまだ疑問である。「減点主義」の人はいつも100点満点の味方をしている。立ち位置が今の自分の状態にはない。頭の中で考えた、完璧な状態に置いている。そこから、不完全な現実、状態を見降ろしているのである。実際にはそういう状態にあることはほとんどないにもかかわらずである。完全、完璧以外は受け入れることはできないという固い信念を持っている。60点、70点は、100点よりも、むしろ0点に近いと思っているのである。そうなると、できたところに自信を持つことよりも、できなかったところが気になって自分を否定するようになる。100点の状態が当たり前であり、そこから現実と比較してマイナス10点、20点と引いていく考え方をとる。そういう「減点主義」の人は、生きることが苦しくなる。それは完全というのは頭の中ではあり得ても、現実の世界にはほとんどあり得ないからである。そういう人は、物事本位に向かわないで、その人の人格に問題があり、人間そのものを欠陥商品のようなものに考えて、実際そのように取り扱ってしまう。人間は人間に生れて来たことに意味があり、その存在価値を認識して、価値を高めていこうとする気持ちは持ち合わせていないようです。森田理論学習を積み重ねて、どの程度修養がすすんでいるのかを判定するには、自分や他人、物を見たとき、その人が「減点主義」で見ているのか、「加点主義」で見ているのかを検証してみれば簡単に見分けがつくのである。
2016.07.25
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スポーツ選手でよく「ゾーン」に入ったということを聞く。「ゾーン」に入ると、あとで考えると雑念や邪念が消えて無心の境地になっていた。無我夢中の境地になって、普段練習でできていたことがそのまま発揮できる。目の前の競技に集中している。プレッシャーを感じることなく最高のパフォーマンスが出せる。それ以上に目に見えない何かが味方してくれて思っていた以上の成果が出せる。その時は、自分自身なんともいえない満足感、達成感、充実感、幸福感を感じる。天真爛漫で至福のひとときを味わっているのである。「ゾーン」に入った世界は、争うこともなく、気分は高揚していて、しかもリラッススして精神的に迷いがなく満ち足りた気持ちになる。これらは彼岸の世界、霊的な世界、宇宙的無意識の世界はいっていることを連想させる。またこれはユングの「普遍的無意識」あるいは「集合的無意識」と言っていることに合致しているように思える。意識世界でしがらみでがんじがらめになっている状態から抜け出して、本来持っていた人間の奥底にある無意識が目覚めている瞬間であるともいえる。「ゾーン」を体験した人は、また勝負を度外視してもその時の心境になりたいと思うという。それぐらい心地よい満ち足りた状況なのである。「ゾーン」にはいった選手や芸術家のパフォーマンスは、それを見ている人にも感動を与える。つまり無意識の奥深くのところで共鳴現象を起こしているものと推察される。その時の状況を、水泳の高飛び込み競技の寺内健選手は次のように言う。(高飛込とは、5m、7.5m、10mの高さに固定された台からプールに飛び込みその美しさを競う競技です。寺内選手は4度のオリンピックに出場している)「飛び板の先端に降りる軌道を自分で作りだすことは本当に難しいです。そこさえうまくいけば、もう後は自分の空間をつくれるんです。試合で不安なときは飛び板が短く見えます。板が短くなると、飛び板から足が飛び出てしまい、演技にはなりません。試合で調子がいい時は板が長く見えるので、かなり大きく使えます。その差は50センチぐらいに感じられます。板に乗ったあとは自分が演技するパフォーマンスが、コマ送りの写真みたいな形で、静止画でポンポン出てきて、その通りはまるという感じです。シドニーオリンピックの時には自分の足跡が先に見えました。調子の悪い時は、身体の周りになんか、ねちょねちょしたものがとりついているような感じですね。調子のいい時は、そういうものが全部取り払われて、さらに自分の身が3分の2ぐらいになったような感じで、スピード感がすごいですね。飛び込みの演技は入水するまでにかかる時間は約1.6秒なんです。調子のいい時は3秒ぐらいに感じられます。調子の悪い時は0.5秒か、長くても0.9秒ぐらいにしか感じないです。1.6秒に感じる時は、多分空間を大いに使えているということではないですかね。1.6秒をみっちり使っているということだと思います」飛び板が長く見えたり、入水時間が長くなったように感じたりするというのは不思議です。そう言えばプロ野球の川上哲治氏は140キロのボールが止まって見えたといっていました。長島茂雄氏はボールがソフトボールぐらいに大きく見えたといっていました。「ゾーン」に入ると自分の有利なように状況が変化したように錯覚するのだと思います。この「ゾーン」入ることを森田理論ではなんといっているのか。これはずばり「ものそのものになりきる」ということだと思う。これについては明日以降さらに投稿してみたい。(「ゾーン」の法則 志岐幸子 祥伝社参照)
2016.07.24
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2014年の日本人の平均寿命は男性が80.50歳 、女性が86.83歳であるという。これを長いと見るか、短すぎると見るか人それぞれであろう。これをもとにして考えると、平均以下で亡くなる人もいるわけだから、普段元気な人は人生90年時代に突入していると考えている。その人たちの平均余命はどれぐらいか。60歳になった人の余命は約30年である。女性はそれよりも7年ぐらい長い。70歳になった人の余命は約20年である。80歳になった人は残り10年である。高齢になってくると1年が経つのはとても速くなる。あっという間に一生を終えてしまうことになる。だから一日一日を「日々是好日」にしてゆかないと悔いが残ると思う。そのためには、森田理論学習でいうように、日常茶飯事に「ものそのもの」になりきって丁寧に取り組みくむことが基本である。雑事を軽視して、もっと生活を楽しもうと考えている限り意味のある充実した人生は過ごすことはできない。それともう一つ大切なことがある。課題や目標を持って生きることである。頭を使い、身体を活用して生きている限り、心身の廃用性萎縮は起こりにくい。いったん廃用性萎縮が起こると回復はほとんど不可能であるという。そのために残りの人生をある程度の期間に分けて目標を設定することが有効であると思う。例えば60歳になったら、70歳までにやりたいこと。70歳になったら80歳までにやりたいこと。80歳になったら90歳までにやりたい大まかな目標を設定しておく。それをさらに60歳から65歳、65歳から70歳、70歳から75歳、75歳から80歳、80歳から85歳、85歳から90歳と5年刻みで6つに分けて目標を立てておく。これを10年連用日記に目標として書いて置く。そしてその年になった時に振り返ってみるのである。思っただけでも楽しそうだ。達成できていると自分で自分をほめてあげることができるのではなかろうか。私の場合は60歳から70歳までは森田理論を深める時。生活の発見会の集談会で学習を継続する。またこのブログはその一環である。仕事も現役続行である。70歳までは働きたい。その他チンドン屋として老人ホームでの慰問活動に力を入れる。70歳から80歳は身につけた森田理論を社会に還元する時期だ。今やりたいのはネットの掲示板を利用したステップアップ学習会の主催である。ネットを使った個別相談にも乗りたい。森田で救われる人は多いのだから私の掴んだ森田理論をできる限り伝えてゆきたい。それから田舎での自給生活を満喫してみたい。憧れは晴耕雨読の生活である。80歳から90歳は最終まとめの時間に充てたい。今までに掴んだ森田理論をある程度整理して後世の人に役に立つように本などにして残してあげることを考えている。今までの人生を振り返りながら、味わいのある残りの人生をしみじみと噛みしめてみたい。大きな目標に引き続いてさらに5年ごとの小さな目標も設定しておきたい。そして亡くなるときに「神経症で苦しんだこともあったが、おおむねいい人生だった」と言えるようにしたい。
2016.07.23
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元気をなくすセルフ・トークの代表例が紹介されていました。1、 私って、ダメなヤツ(最低、最悪)2、 私には、いいところなんて1つもない。3、 私は、何もできない。4、 私って、まるでバカ(頭が悪い)。5、 私って、まぬけ(ドジ、のろまなど)だから、どうせ何もうまくできるわけない。6、 バカみたいに思われるから、私は何も言わないほうがいいんだ。7、 私って、全然カッコ悪い。8、 自分なんて、嫌いだ。9、 私はだれにも愛されていない。私ってかわいそう。10、 私なんか、生きていてもしょうがない。死んだ方がいいんだ。11、 私には、酒(あるいはタバコなど)さえあればいい。そうしたら、あとはどうでもいい。12、 すべて○○(例えばあいつ)が悪いんだ。いつか仕返ししてやる。(生きる自信の心理学 岡野守也 PHP新書 85ページより引用)これらは、自己嫌悪、自己否定、決めつけ、先入観、事実誤認、ネガティブ、マイナス思考、責任転嫁のオンパレードである。森田理論でいう「かくあるべし」も強い。うつや神経症の人が陥りやすい思考パターンである。こういう人は、基本的に減点主義の思考パターンに陥っており、マイナスのセルフ・イメージが次々と悪循環を招いている。生きることは苦しみの連続であり、極端な人は生まれてこなければよかったと思っている。しかし世の中には、頭の中にプラスのセルフ・イメージが次々に浮かんできて、好循環を呼び込んでいる人もいる。こういう人は基本的に加点主義の人である。そういう人は、客観的な事実に基づいて自己肯定、自己承認、自己受容ができている。他人に比べてどうしても追いつかないところもあるが、他人に比べてよくできることもある。プラスとマイナス面の両方を過不足なく見ることができる。また自分の存在は家族や世の中に役に立つ存在であると思っている。自分にはある程度の力もあるし、生活能力、経済力、仕事遂行能力もあると自信を持っている。マイナス思考の人は、少しでも、プラス思考の人の考え方を取り入れたいものである。どんなところに気をつけたらよいのでしょうか。1、 まず性格の見直しである。森田では、神経質性格にはマイナス面ばかりではない。マイナスが10あるとすれば、プラス面が10備わっているという。今はマイナス面ばかりに注意を向けて、10のところを15にも20にも拡大している。バランスがとれていない。今やることは神経質性格のプラス面の見直しである。バランスをとるためには、この際、マイナス面は見なくてもよい。プラス面ばかりを拡大してみることによって、やっとバランスがとれてくる。では、どんなプラス面があるのか。まず感受性が豊かであるということである。普通の人が気がつかない細かいことによく気が付く。感性が豊かなため音楽、絵画など芸術作品をより深く味わうことができる。他人の気持ちもより深く察することができる。次に神経質者は粘り強い。一度取り組み始めると、簡単にはあきらめない。目的や目標を達成するまで頑張る傾向がある。さらに好奇心が強い。多方面にいろんなことに興味や関心を示して取り組んでみるという人が多い。学習意欲も強く、細かく分析する力もある。自己内省力があり、反社会的な行動はとらない。人を傷つけることも少ない。何よりも向上発展欲が強く、努力家である。2、 他人と比較するということに関しては、他人と比較して自分の現状や状態をしっかりと見極めることを勧めている。事実を事実としてしっかりと認めることを勧めている。他人が持っていて自分にないものがあると、発奮して能力や技術の習得に情熱を燃やす動機づけになればそれでよし。自分の持っていない他人の能力や技術に対して、尊敬して敬意を示すのもよし。あるいは自分は別の分野の能力に磨きをかけていく道を選択してもよい。一番問題なのは、相手のよいところと、自分の悪いところを比較して劣等感に苦しむことである。反対に相手の悪いところと自分のすぐれているところを比較して優越感を感じるのも問題である。事実をそのままに認めるだけにすることが大切である。決していい悪いと是非善悪の価値判断をして自己否定に走ってはならない。3、 「やっぱり」「どうせ」というのを「決めつけ」という。「いつも」「何をやっても」というのを、「過度の一般化」という。「最低」などというのを「極端化」という。「○○すべき」というのを「かくあるべし」思考という。これらは認識の誤りです。認識の誤りはまだまだあります。認識の誤りの特徴は、a,考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。b,マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。c,事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。d,完全主義、「かくあるべし」思考に陥っている。これらは森田理論学習の中で修正していくことが大切です。
2016.07.22
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森田理論学習は何のためにするのですかと聞かれたら、2つあると思います。一つは当然のことながら、神経症を克服するためです。一般的にはこれが中心的な考え方だと思います。神経症に陥り、生活に支障が出てくると一刻も早く治したいというのは人情だと思います。森田先生にしろ、高良先生にしろ、水谷先生にしろ、そのために先頭に立って治療に当たられました。その後、我々の会は長谷川洋三氏に引き継がれました。その組織は社会に受け入れられ、順調に会員は増えてきました。しかしそれも1990年代前半までで、その後は衰退の一途をたどっています。社会不安障害学会によると日本には、社会不安障害を抱えている人が300万にも上ると言われているにもかかわらず残念な結果となっている。その中には森田適応者も多いはずだ。森田の自助組織としては、せめて3万人とか5万人の会員がいてもいいはずだと思うのである。なぜこのようなことになっているのでしょうか。この原因について、私なりに考えてみました。1、1990年からの10年間は失われた10年といわれている。北海道拓殖銀行、山一証券のような大企業でも倒産した。そのころから非正規労働が主流となった。派遣社員、アルバイト、パートで必死に食べていくことで精一杯になった。一般的に社会全体が神経症で心の問題を抱えているような余裕がなくなった。つまり森田理論学習をする人のすそ野が急速に縮小してきたのです。2、神経症の治療環境が激変してきた。森田療法では入院森田療法、外来森田療法。そして精神科医による薬物療法。臨床心理士によるカウンセリング。精神分析、認知行動療法、内観療法など治療の窓口が広がってきた。今や神経症に陥った患者さんは、治癒という面では幅広い間口が存在する。いわば厳しい目で治療方法を選択できるようになってきたのである。治療という面からすると、即効性を求めて他の療法に流れるのは自然の流れであろう。3、最近は純粋に神経症だけという人は少なく、うつや統合失調症、躁鬱病、パーソナリティー症候群、発達障害、アルコール依存症、ひきこもり、不登校、出社拒否などの合併症を抱えている人が多くなった。森田先生の時代は純粋な森田神経症の人ばかりであった。ところが今の時代は、悩みや症状が複合化しているのである。これらに素人が対応することはとても難しい。我々の能力を超えている。必然的に専門医療機関に流れていくのを食い止めることはできない。これらが複雑に絡まってきたのである。これらに加えて、我々の自助組織の森田理論学習の内容、学習の方法、学習のすすめ方、運営の方法などが旧態依然として進歩や変化がなくマンネリに陥っているとすればますます窮地に追い込まれてしまう。すると我々の森田理論学習団体としての存在理由はなくなってしまったのであろうか。私はそうは思わない。我々自身が、会の目的やコンセプトを見失っているだけだと思う。それを見直せば十分に立ち直る可能性はあると思う。その前提として、我々の会は神経症を克服するという暗黙で最大の目的を捨てるか、かなりの程度その比重を下げることだと思う。そして森田理論学習の原点回帰することだと思います。それは、神経質性格を持った人が、味わいのある人生を送るために、その基礎となる考え方を森田理論で学習して、実践・応用の仕方を身につけることだと思います。我々はこれに人的資源とノウハウを集中すること、フォーカスすることだと思います。もしこれをおろそかにすれば森田理論学習団体としての役割は終えることになるだろう。そして新たな再出発を待つしかなくなると思う。だから神経症に陥った人を蟻地獄から這い出させるというのは、この際医療機関に任せたらどうでしょうか。すると医療機関と競合しなくなります。我々が対象とする人は、主に蟻地獄から這い出て苦しみながらも社会生活を堅持している人を対象とするべきだと思うのです。蟻地獄から這い出たといっても、「かくあるべし」をはじめとする認識の誤りは抱えたままです。そういう状態では社会に適応することは困難です。生きていくことは依然として苦しいばかりです。そういう人は多いと思います。この分野は医療機関、カウンセリングでは、時間的余裕もなければ、手におえない部分だと思います。この分野になりますと、我々の森田理論学習団体などの自助グループの独壇場となります。それを確固たるものにするためには、自らの立ち位置を自覚して、自分たちの役割を変革していく強い意志を持つことがカギになると考えます。
2016.07.21
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生活の発見誌では年末になると「苦しみの最中にある人へ」という特集が組まれる。私はそれを切り離して1冊の本にしている。その中から回答者のアドバイスとは別に自分の考えを述べてみたいと思う。28歳の女性の相談。最近特に、休みの時に一人でいると恐ろしくなると気があります。このまま家にいてはどんどん年をとるだけではないかと。一緒にいてほっとする男性に巡り会いたいということばかりが頭にあります。恐ろしいのですが、誘われればコンパに行ったり、最近では、パソコンの出会い系サイトで会うこともあります。男性に慣れる意味もあり、少しでも気に入った人に会っています。私は中学生のころから対人恐怖がひどく、学生生活はつらいものでした。いじめられても、自分を抑えて我慢してきました。誰一人助けてくれませんでした。人への不信感、強い対人不安を持ち、ふるえながらも、学生時代はアルバイト、現在は事務の仕事を4年間続けています。素敵な男性を見つけて付き合いたい。そして人並みに結婚して幸せな家庭を持ちたい。人間として、一人の女性として当然の欲求だと思います。その欲求を達成するためにはどうしたらよいのか考えてみましょう。あなたは誘われればコンパに行ったり、最近では、パソコンの出会い系サイトで会うこともありますと言われています。それも一つの手段です。でもちょっと危険で、よい結果に結びつく確率は少ないのではないでしょうか。それ以外には、信頼できる友達、親、親戚等自分の身の回りにいる人に声をかけて、「いい人がいたら紹介してね」とお願いしてみてはどうでしょうか。自分で見つけきれないときはこの手もあります。その他、趣味や習い事はされていますか。これは公民館活動などを見たり、町の広報誌を見たり、カルチャーセンターの案内を見たりしているといくらでもあります。自分の興味がある分野に参加してみると他の人との交流が始まります。若い男性が多く参加している場合は交際のチャンスも生まれます。またそういう人の中には大抵世話好きな人がいるものです。そういう人にそれとなく声をかけてみましょう。そういう意味では集談会などの学習会への参加なども人と知り会うチャンスが生まれます。あとボランティア活動への参加、地域のイベントへの参加などもあります。自然災害への支援、ハイキングや祭りのスタッフなどいくらでもあります。とにかくいろいろと人と接するチャンスにアンテナを張って実際に参加してみることが大切です。自分に素敵な男性を見つけたいという気持ちがあれば、願いはきっと叶うでしょう。次にあなたは強い対人恐怖でつらい人生を送られてきたといわれています。でも人への不信感、強い対人不安を持ち、ふるえながらも、学生時代はアルバイト、現在は事務の仕事を4年間続けています。これは森田理論から見ると素晴らしいことなのです。自分をほめてあげてもいいことなのです。普通は投げやりになり、会社勤めを辞めて家で悶々とした生活を送るというパターンにはまってしまう人もいるのです。そうなると意識や注意が内向して、自分を嫌悪したり否定したりして苦しむようになるのです。その悪循環にはまり込まないために仕事を4年間続けてこられたというのは大変評価できます。そうはいっても人の言動に左右されて、イライラしてしまう自分がいるのも事実でしょう。これは私の苦しかった状況と一緒です。この原因は、あなたの考え方の片寄り、認識の誤りにあります。それらを多少緩めてやると今現在抱えている苦しみや葛藤はかなり軽減できます。もう少し具体的にいうと、あなたは「自分はすべての面で他人に受け入れられなければならない」という「かくあるべし」が強いのではないかと思います。その願いが強ければ強いほど現実との間でギャップが生まれてきます。あなたは現実のみじめな自分を否定して理想の自分に引き上げようとされているのです。あなたの苦しみはそのギャップを埋めようとするその態度の中にあるのです。楽になるためには完全で完璧な理想の自分を捨てて、現実の自分に寄り添う自分に変えることなのです。今は「この人は何を言っているの」と反発されるかもしれません。でも私の体験からすると、森田理論学習でこのことをしっかりと学習されて、事実を素直に受け入れるという態度を体得された時、あなたが生まれ変わり、新たな人生の出発点になることが目に浮かんでくるのです。
2016.07.20
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2016年6月16日に「まとめ」のしかたについて投稿した。この連休を利用して、実際に私の場合に当てはめて考えてみた。内容が6月16日の項目とは少し違っているので再度投稿してみようと思う。なおこの内容は生活の発見誌の学習会シリーズ「まとめ」のしかたに掲載予定である。詳しい内容は掲載された時に読んでみてください。「まとめ」の利点は、森田理論に沿って自分を客観的に分析できます。それを集談会などで体験発表をするといろんな感想やアドバイスがもらえます。「まとめ」は自分が森田理論を体得して飛躍するためには、どうしても通らなければならない関門のようなものです。こんな有意義な体験ができるのは、集談会に参加して学習している人に与えられた特権だと思います。次の項目を参考にして各自ご自分のまとめをしてみてください。なお「まとめ」は一回したら終わりというのではなく、節目、節目で行うことが大切です。1、 自分の現在あるいは過去にとらわれていた症状について書いてみましょう。その症状は、自分の生活にどのように支障をきたしていましたか。あるいは症状によってどのような生きづらさを抱えていますか。2、 視点を変えて自分が望んでいる「生の欲望」はなんであるのかを考えてみましょう。3、 神経症に陥っている人は不安、恐怖、違和感を目の敵にして、取り除こうと格闘しています。あるいは気分本位になって逃避しています。その誤った努力方向をまとめてみましょう。4、 次に精神交互作用を断ちきるために、森田理論学習で学んだこと、自分が個別に取り組んでみたこと。その結果どのように変化してきたのかまとめてみてください。5、 認識の誤りについて、自分の陥りやすい認識の誤りについてまとめてみてください。その中でも最大の認識の誤りは、「かくあるべし」です。ご自分の「かくあるべし」はどんなものがありますか。「かくあるべし」が神経症の苦悩の発生と生き方にどんな影響を与えていたと思われますか。森田理論学習の中で分かったことなどをまとめてみてください。自分の陥りやすい認識の誤りは分析しておいた方がよさそうです。たとえば次のような傾向はないかどうかということです。・神経症で苦しんでいるのは自分ぐらいのものだ。普通の人はいつも楽しそうだ。・症状さえ取り去ることができれば、私の人生はバラ色になるはずだ。・人は自分の欠点、ミス、失敗を見てバカにしているはずだ。絶対に見逃してはくれない。人に批判されるようになると生きてはいけない。・頭で納得しないで軽率に行動すると、必ず失敗をして笑い者になると思う。・白か黒、ゼロか100というように、物事はどちらかにはっきり決めてしまわないとイライラする。程よい加減というものはないと思う。バランスをとるとか考えたこともない。・細部のことばかり気になり、全体を見ることをしない。視野狭窄に陥ってしまう。・本来の「生の欲望の発揮」を目指さないで、症状や不安をとることばかりに心血を注ぐ。そうしないと自分の明るい未来はやってこない。・一つでも欠点があると、自分は生きている価値や資格がないのではないかと思う。とるに足らないことが、すぐに人生の大きな問題に発展してしまう。本人はそのことに気がつかない。・物事をいつも悲観的、否定的に見てしまう。両面を見て判断するということをしない。・物事を実際に確かめることをしないで、今までの経験や先入観で決めつけてしまう。・完全、完璧という理想に凝り固まっていて、その通りにならないと我慢できない。・雑事は自分のする事ではない。もっと意味のあること、クリエイティブな創作活動をするべきである。・自分にはいいところは一つもない。欠点をすべて修正して人並みにしたい。・感情のおもむくままに行動し、好きなこと、やりたいことを自由にやれるようになりたい。・いつも変化に合わせて自分を変えていくよりも、固定して動かないことが一番安心できる。6、 森田では「かくあるべし」から脱却するのは、事実に反抗しないで、事実を受け入れることだといわれています。森田理論学習で気のついたこと、発見したことをまとめてみてください。そして現在事実本位・物事本位の生活実践がどの程度できているのかもまとめてみてください。7、 最後に、自分の神経症の回復は次の3つの視点に照らしてどのような段階にあるのかをまとめてみましょう。a、精神交互作用の悪循環は打破できていますか。b、思想の矛盾(事実や現実を頭で考えた理想に近づけようとする態度のこと)の打破はできていますか。c、「生の欲望」に沿った生き方をめざしていますか。
2016.07.19
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なんでも鑑定団に出るような高額な壺を落して割ったとする。しまった。取り返しのつかないことをしてしまった。どうしょう。森田でいう初一念である。ここから出発すれば、「おしいことをした。残念だ」という気持ちになる。それは持ち主と同じ気持ちを共有するということになる。共に残念がり、悔しがることになる。お互いにベクトルがあっているので問題がこじれない。実際には、自分のやってしまったミスを認めて、すぐに報告する。その時叱られるかもしれない。なじられるかもしれない。素直に謝るだけである。でも責任回避をしようと画策した場合に比べて雲泥の差になるであろう。そして壊れた壺を拾い集めて、掃除をする。その後事後処理をどうするかについて関係者と相談する。こういうミスや失敗は次によい結果をもたらす。雨降って地固まるようなよい結果になる。この先このような高額商品を扱う時は慎重になる。そして壊れないようにさまざまな工夫をするようになる。二度と同じ過ちはしないようになる。ところがよくありがちな別の対応をとる人がいる。まずは森田先生の言われているようにすぐに言い訳をする人である。人に責任転嫁したり、そもそもこのようなものの存在を否定するのである。このタイプの人は意識や注意が自己保身に向かう。高額な壺のことは自分の意識の外に放り出してしまう。自分が叱責されたり、非難されたりすることをなんとか回避しようと思うのである。人が見ていなければこわれた壺を隠してしまう。いかにも盗まれたかのように装ってしまう。あるいは接着剤で巧妙にカモフラージュしてしまう。しかしその事実が明るみに出た時のことを考えると生きた心地がしなくなる。神経症で苦しんでいる人はこんな状態である。もしもお金で許してもらえるなら、同等の商品を買ってきて弁償して済まそうとする。いくら高額であっても、自分の人格を否定されるよりはそちらの方がよいと思ってしまう。こういうタイプの人は森田理論学習で「純な心」の体得を身につけたほうがよい。次のタイプの人は罪悪感に苦しむ人である。自分の犯したミスの大きさに恐れおののいて固まってしまい身動きできなくなってしまう。時には失禁してしまう。ついには「死んでお詫びをするしかない」と考えてしまう。小さなミスをすぐに自分の一生を左右するような重大なミスに膨れ上がらせてしまう。こういう人は、交差点で車の接触事故を起こすと、全部自分に非があるように感じてすぐに謝ってしまう。常識では交差点の事故では100%自分に過失責任が発生することはない。事後の保険会社同士の和解交渉に問題を生じさせてしまう。この手の人は不幸な出来事をいい悪い、正しい間違いと二分法的に決めつけてしまう人である。実際にはその中間という場合が多いいにもかかわらず、両極端に振れてしまう。ルールや規則、法律に縛られて融通性に欠けて臨機応変な対応ができなくなっている人である。こういう人はすべての出来事は相互関連性の中で起きていることであり、100%自分の責任ではないと分析して自分を許してあげることも必要です。そのために「責任円グラフ」を書いてみてみることをお勧めする。円を描き、出来事に対する責任の所在を客観的に分析してみる方法である。自分の責任、自分以外の人の責任(配偶者、父、母、祖父母、兄弟姉妹、友達、上司、同僚等)、あるいは自分の身の回りの責任、世の中の責任、自然の責任などなどに分けてみることです。自分の責任の部分だけ責任をとればよいのである。これは認知療法の中で取り入れられている事です。
2016.07.18
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マツダスタジアムはコンコースがあって内野でも外野でもどこでも観戦できます。今年はチケットが手に入りません。25年も優勝から遠ざかっている球団です。マエケンが抜けたあとでチャンスが巡ってくるとは思いませんでした。私が応援しているのは鈴木誠也選手です。
2016.07.17
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金城幸政さんの話です。「思考」は現実にならない。「思い」は現実になる。「思考」「思い」はどう違うのか。「思考」とは脳で考えたことで、「思い」とは心で決めたことです。例えばダイエットに挑戦するけれども、リバウンドを繰り返して一向にやせることができないという女性がいます。「自分の思いすぎかもしれませんが、最近、みんなの視線が私のウエストにいくんです。あきらかに太ったという意味で・・・。実際に、以前買った服がどれもきつくて入らない。みんなから太ったと思われるのもイヤだし、いつまでも昔の体型を保っているといわれたいじゃないですか。だから、なんとかしてやせたいんです」金城さんは、この女性は、以前着ていた洋服が着られなくなったことで、他人の視線が気になり「太った」といわれたくないと思っているのであって、決して「やせたい」とは思っていないのです。つまり「やせたい」というのは「太った」といわれたくないための手段であって、純粋な思いではないのです。やせることで得られるメリットをあれこれ思考するのではなく、「やせたカッコいい肉体で、健康でありたい」と心からの思いを持っているかどうかが肝心なのです。この話はしっかりと目標を定めて、純粋に目標に向かって実際に努力していくことの大切さを言われていると思います。あいまいな願望だけでは目標は達成できない。目に見えるはっきりした目標の設定が必要だということです。ボクシングの世界チャンピオンが、「世界チャンピオンになろうと思っても、誰もが世界チャンピオンになれるわけではない。でも世界チャンピオンになった人は、チャンピオンになりたいという大きな夢を持っていた。燃えるような夢がなかったら決して世界チャンピオンになれない」と言っていた。森田理論学習では、「目標は大きく、実践目標はこきざみに。小さな成功体験を積み重ねること」という。明確な目標を持って、その目標をいくつかの小さな目標に設定し直して着実に前進してゆきたいものである。それから金城さんは「今できることはひとつしかない」という森田の指針を次のように説明されている。ゴルフの指導をされるとき、「右ひじを開かないでください」と何度も言います。その理由は、肘が開いてしまうと、ゴルフシャフトの向きが変わって打つときに不安定になってしまってしまうからです。肘はできるだけ動かさないようにしたほうがいいんですよ、というとみんな大きくうなずきます。ところが球を置いて打ってもらうと肘が開いてしまう。それは「肘を固定しながら、球をまっすぐ飛ばそう」と、同時に2つのことをしようと思うからです。「フォームを覚えたいなら、「まっすぐ飛ばす」ことは今の課題じゃないよ。今はとにかく、肘を動かさないことを覚えてみてください。本当にうまくなりたいんだったら、一つずつ習得してください。」「2兎を得ようとするものは1兎も得ず」ということである。(「あんたのなかのやんちゃな神さまとつきあう法」金城幸政 サンマーク出版より引用)
2016.07.17
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以前スナックに行った時、そこでアルバイトで働いているホステスさん曰く。「私はお父さんが大嫌いだった。アル中で、酔うと私たち子どもに暴力をふるった。だから大人になって結婚する時は、お酒をあまり飲まない人と結婚しようと思っていた。ところがいざ結婚してみるとお父さんとよく似たような人だった。あれほど毛嫌いしていたのにどうしてなんだろうね」私はこの話を聞いて「共依存」という言葉を思い出していた。たとえば男性でギャンブルが好き、酒が好き、女好き、宵越しのお金をあまり持たないような生活をしている人がいる。酔うと呂律が回らなくなるが、何となく憎めない。その人のことをあからさまに非難する人はいない。でも「あの人はちょっとなあ」という人はかなり多い。割と二枚目の人が多く、人に合わせるという意味では天性の資質を備えている。全くヒモのような生活に甘んじている人もいれば、仕事はなんとかこなしている人もいる。人を押しのけてまで、自己主張を繰り返すことはない。同棲を繰り返し、結婚してもしばらくすると別れ、また次の女性と付き合っているというような人である。「あんたこんな生活を続けているとみじめな老後を送ることになってしまうよ」と忠告したくなるような人である。本人は今のままの生活に満足しており、生活スタイルを変えようという気持ちは持っていない。ところが不思議なことに、そんな男性を見ると、胸騒ぎを抑えきれない女性がいるのである。私の力でなんとかまともな人間に立ち直らせてみたい。私にはその能力があると思っている女性がいるのである。周りの人はあんな生活能力もない、お金や女性にルーズな人と付き合っては、あなたが不幸になるよと盛んに忠告するのだが、聞く耳を持たない。そして一緒になって一見楽しそうに生活しているように見える。ところがそんな蜜月は長くは続かない。男性が女性にすべての面で依存して、何もしないでぶらぶらと毎日遊んで暮らしているのに耐えられなくなってくるのである。女性が「いい加減にしてよ」と堪忍袋の緒が切れてしまうのだ。そして予想通り別れる。でも別れてもすぐに男性も女性もまた同タイプの人と付き合っているのである。男性は女性に経済的な面、愛情面で全く依存して、しぼりとるだけ絞りとるといった状況である。すねてみせたり、暴力をふるったり、謝ってみたりするが目的はひとつである。女性の方は、人間としては問題のある男性を立ち直らせるという目標、課題を持つことができる。本来人間というのは実存的に生きる意味を求めている存在である。女性にとって生きる目標を見つけたということは大きいのである。したがって、この依存関係は双方にとって少なからずメリットがあるのである。だから共依存が成り立つのだ。問題なのは、この依存関係は将来に向かって展望が開けてくるものではないということだ。男性は完全依存できる女性が存在することで骨抜きにされてしまう。自分では何もできない情けない人間になってしまう。楽で楽しい生活はできるかもしれないが、本当の意味で人生の喜びは味わうことはできない。女性は男性をかいがいしくめんどうを見てほほえましいように見えるが、その目標は男性の生きがいを骨抜きにしているのだ。そういう目標を持つことは他人を不幸にする。本来あなたのやりたいこと、夢の実現に向けて舵を切りなおすことが必要である。そうすることで将来に向かって展望が大きく開けてくるのではないでしょうか。なお共依存は男女の間のみならず、親子の間にも発生するのである。
2016.07.16
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認知療法では、認知とは「ものの受け取り方や考え方」のことをいいます。また認知療法では、この物の考え方が一面的になっていることが問題であるという。しかもそれは楽観的な見方ではなく、悲観的で否定的な見方をすることが大半である。「否定的認知の三徴」として、自分自身のこと、周囲との人間関係、将来に関してのことの3つをあげている。自己嫌悪、自己否定、攻撃的で対立的な人間関係、悲観的な将来予測のことである。これらが生きづらさを生じさせているとみている。主な認知の誤りは次のようなものである。1、 自分勝手な思い込み。自分が着目していることだけに目を向けて、根拠が不十分なのに、自分の考え方が正しいに違いないという決めつけるクセです。私はいつもミスをしてばっかりだ。「いつも」「必ず」というのは要注意です。2、 良い悪い。正しい間違い。0か100。白か黒。二分法的見方。ファジィ、あいまいさは受け入れられず、極端に両方に振れてしまう。3、 理想主義。完璧主義。森田理論でいう「かくあるべし」で現実、現状を否定して理想に近づけようとする態度。4、 よくないことが起こると、自分のせいだと、罪悪感を感じて、自己嫌悪・自己批判をしてしまう。5、 深読み。相手の気持ちを一方的に推測して、そうに違いないと決めつけてしまうタイプです。相手が時計を見ると、自分の話に興味がないのだと決めつけてしまう。6、 先読み。自分で悲観的な予測を立ててしまうクセで、そのために自分の行動を制限してしまい、予想通り失敗してしまうことがあります。たしかにこういう認知の誤りを抱えていると、柔軟性、協調性に欠けて自己嫌悪、人間関係が悪化して生きづらくなってきそうです。認知療法では、現実に目を向けながら、一面的な見方を両面的、多面的な見方ができるように誘導していく心理療法です。森田理論ではこの中の3番目を取り上げて、事実から目を離さないで事実を受け入れていくための提案を数多くおこなっている。ただ認知の誤りはそれだけではないということである。事実を受け入れて、事実に服従する態度を養成する前に他にもやるべきことがあるのです。それが3番目以外の認知の誤りや片寄りの修正である。認知療法では「思考記録表」を使って認知の修正をおこなっている。中身は次のような手立てで行う。1、 状況を書く。例えば、商品発注の入力ミスをして得意先に間違った商品がつき、上司から叱責された。2、 その時の気分を書く。落ち込み。憂うつ。恐怖。苛立ち。その中でも恐怖が突出していた。恐怖の度合いは90%ぐらい。3、 行動。次の仕事が手につかなくなる。茫然としていた。4、 自動思考を書く。自分はよくミスをしてしまう。自分は何をやってもうまくできない。自分にはこんな仕事は向いていないのだ。会社での居場所がなくなってしまう。でも自分よりもミスが多い人がいるのに、上司はその人のミスはあまり叱責しない。それは不満に思っている。5、 自動思考の根拠を書く。仕事量が多いのでチェックする時間がない。自分のやった仕事に対してよくケチをつけられる。対人折衝が多い仕事は対立することが多くて、集中して仕事ができない。そもそもあの上司はエコひいきするので嫌いである。6、 自動思考の反証を書く。ミスといっても人よりは少ないと思う。処理件数の割には少ない。間違えないように念入りにチェックはおこなっているつもりだ。神経質な私には営業職よりはまだ発注業務の方が向いている。会社ではボーナスの査定も上の方だし、仕事の取り組みはそれなりに認めてくれている。昇格もさせてくれた。だから自分が否定するほどダメではないかもしれない。7、 適応思考について書く。この仕事はパソコンで数多くの発注をするので、少しは間違いが発生するのは仕方がない。間違い発生にビクビクするのは性格だから仕方がない。たまに起こるミスを自分の一生を左右するように考えるのは論理の飛躍である。それよりもミスをした時は早く上司に報告して、指示を仰ぐ。得意先に非を詫びて謝罪する。正規の商品手配を早期に行い被害を最低限に抑える。苦しいが、気を引き締めて次の仕事に取り掛かる。上司がエコひいきするといっても、仕事ができる部下は大事にしてくれるので、仕事で成果を出そう。8、 気分の変化を書く。落ち込み。憂うつ。恐怖。苛立ち。あまり変わらないが、恐怖感は少し薄まった。恐怖の度合いは60%ぐらい。9、 今後の課題をかく。自分の仕事内容を自分でチェックすると間違いが発見できないことがある。仲間と相互にチェックするという基本を徹底したい。そうすれば自分一人で苦しむこともなくなる。ミスをした時は、基本通り報告を早くして、上司や得意先の信頼感をさらに増加させたい。
2016.07.15
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森田先生は薪割りについてこう説明されている。薪を割る時には、斧も手元も、少しも念頭に置かないで、ただ打とうとする薪の一点にのみ注意を集中して、斧を打ちおろせば、必ず最もよく命中する。これに反して、もし心が、自分の態度や手元の方に集中する時には、その目的物に対する工夫はそっちのけになってしまって、ただいたずらにハラハラしないように・手の震えないようにとばかり、無理な努力をして、手元はますますぎこちなくなり、10遍20遍いつまで稽古をしても決して上達の見込みはない。神経症の治りにくい人は、必ずそのうまくできること・そのコツのところ・自分の今まで思いがけなかったこと等に対して、それぞれこれに感心し・なるほどと思うことはしないで、「どうも自分は不器用で、あんな風に、うまくできない」「自分は何事にも、すべて研究心が足りない」と言うふうに考えて、薪割りの実際の事には、少しも身が入らず、いたずらに自分の心の内面ばかりを見つめて観察している。はなはだしきは、薪の方は見ないで、目を閉じて、話の文句ばかりを考えているという風である。そしてその時の日記には、「薪割りの講話で、非常にうるところがあった。我々は何事にも研究心を進め、興味を起こすようにしなければならぬ」という風に書いて、薪割りのことはケロリと忘れて、ふりむきもしない。早く治る人は、必ず早速手を出して、薪割りを始める。そして教えられたとおりにやってみると、思いがけなく直ちに適切に割れるようになる。そこでますます自分自身の工夫も起こり、ますます興味も出てくるのである。(森田正馬全集第5巻 P640、641、644より引用)この話で森田先生は何を伝えたかったのか。目的、目標、課題から決して目をそむけてはならないということだろうと思う。それらは森田理論では「生の欲望の発揮」ということである。「生の欲望の発揮」は生きている限り、燃やし続けなければならない。さらにその考え方を進めていくと、日常茶飯事から目をそむけてはならない。しんどいから、面倒だから何もしない。お金さえ出せば人がやってくれる。少しくらい手を抜いても誰も見ているわけではないということになると、どんどん怠惰な生活に陥ってしまう。それに慣れてしまう。すると神経質な人は、自分の意識や注意が、不快な気分や身体の違和感に向かって暴走を始めるのである。「生の欲望の発揮」というのは堅苦しい言葉に聞こえるかもしれない。中身を見てみると10段階ぐらいのレベルがある。最初はイヤイヤ仕方なくである。そこから段階を踏んで弾みをつけてゆく。そしてそのうち一人一芸に挑戦できるようになると、飛行機が離陸するスピードに達してきたという証であると思う。
2016.07.14
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先日大阪の街で感じたことを書いてみたい。大阪でエスカレーターに乗るとみんな右側に並んでいる。左側は空けていてそこは急いでいる人が、歩くところである。エスカレーターに乗ってまで急がねばならないという雰囲気があるのが大阪と言う街である。事実何人もの人が私を追い越して行った。私の住んでいる広島では基本的に右に立とうが左に立とうが自由である。そもそもエスカレーターは立っていれば自動的に動いてくれるものだから、それに輪をかけて急ぐ必要はないと考える。急いでいても、前に人がいれば、そこで立ち止まってしまうのが普通だ。「お兄さんどこに立ってますんや。どいてんか」と言われるようなことはない。「狭い日本 そんなに急いで どこへ行く」という川柳を教えてあげたいと思った。次に、電車を待つホームや電車内でやたらスマートフォンを操作している人が多い。これは広島でもよく見かけられる光景である。確かに対面式の電車内では前に知らない人がいると目の置き場がない。以前は狸寝入りか本を読むか、あるいはあちこち視線を移動させていた。それが今はスマホに変わったのである。でもホームや歩きながらの操作はどういうことなのだろうか。そんなに急いでメールチェックをする必要があるのだろうか。急いで情報をとる必要があるのだろうか。あるいは外出してまでゲームにはまっているのだろうか。そうだとするとゲーム中毒ではないか。それから地下鉄に乗ると「女性専用車両」というのがある。私は何も分からず「女性専用車両」にのってしまった。当然女性ばかりである。吊革に大きく書いてあったので、次の駅で移動する羽目になってしまった。これは女性に自由に化粧をしてもらうためのサービスの一環なのだろうか。それなら鏡やレースのカーテン、一輪ざしでも飾ったらどうか。それは違うだろう。ずばり痴漢対策なのだろうと思う。事実不審な迷惑行為をしている人を見つけたら駅員に一報してくださいとなんどもアナウンスされていた。迷惑行為とは奇声を発したり、スリを働く人のことでもない。これは内外に向かって「大阪は痴漢大国ですよ。女性の方は注意しましょう」とアピールしているようなものではないだろうか。男性は肩身の狭い思いをしていることだろう。小さな親切大きなお世話と言いたい。「女性専用車両」は大阪の風物詩だなと思わず納得してしまった。地下鉄中央線堺筋本町の先の中央区公民館にいった。その前の道路に驚いた。一般道の上に高架道路があった。それはどこでも見られる光景である。そこにはその上にさらに高架道路が作られていた。そんなに折り重なった空中道路を作りあげても大丈夫なのかと思った。大阪には有名な上町活断層がある。地震が起きたとき倒壊する恐れはないのだろうか。倒壊するとそれだけでも大変な被害となる。また大阪には格子状に地下鉄網が張りめぐらされている。交差するところは地下鉄の線路の下にさらに地下鉄が走っていることになる。災害が起きたときに大変な惨状が発生することにはならないのだろうか。災害の後で見直しても遅いのにと思わず思ってしまった。以上大阪では日本の縮図を見せられた気がする。それは人々をスピード、効率性、物質至上主義、儲け主義一辺倒で追い込んでいく日本社会の最先端の姿である。もっと早く、より多くの正確な情報を集めよう。人に後れをとったら落後者になる。人との競争には勝つ以外にはない。もっと先を急いで一刻も早く目標に到達しよう。もっと効率性を高めよう。もっと安いものを、もっと美味しいものを、もっと刺激のあるものを、もっと楽しいものを。もっと、もっと、もっと・・・・・。そのためにストレスが溜まりに溜まっている。その姿はいつまでも飽きずに糸車を回し続けるハツカネズミを連想させる。たえず物に憑かれたように常に動き回ることで、心の安定を得ている。このハツカネズミにそんなに糸車を回すのは大変だろうからと言って、モーターを取り付けて補助すると大変なことになる。すぐにストレスを起こして生きていけなくなるのである。大阪の人にも同じようなことが言えるのではないか。生きていく中で身につけた体質のようなものである。暇がある。お金がない。何もすることがない。遅い。もたもたする。要領が悪い。考えすぎ。等はご法度なのだ。それだけは絶対に避けなければという無意識の共通認識が成立しており、それに向かってみんながいっせいに突き進んでいる。あなたにたっぷり時間を与えます。最低限の食料水はあります。条件はこの部屋を出ないこと。自由に自分のやりたいことをして充実した時間をお過ごしくださいと言われたとします。たえず、視線を外に向けて、動き回ることで精神疾患に陥らないように心の安定を得てきたものにとって、これは過酷な拷問のようなものです。精神の安定構造がガラガラと崩壊していくのが目に見えるようです。こうしたもっと、もっとと追い立てられる以外の生き方はないのだろうか。これは決して大阪の人を批判しているのではない。自分たちの暮らしぶりを見直すヒントにしてもらいたいのだ。心証を害した大阪在住の方には心からお詫びしたい。
2016.07.13
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エリス・Aの「論理療法」は認知療法とよく似ている。「認識の誤り」は森田理論学習では、「劣等感的差別観」「部分的弱点の絶対視」「劣等感的投射」手段の自己目的化」について学ぶ。あるいは「かくあるべし」は最大の認識の誤りだろう。「認知の誤り」では、それ以外にも多くのことを学ぶ。「拡大解釈と過小評価」「過度の一般化」「完全主義・二分法的思考」「恣意的推論」「選択的注目」「個人化」「結論の飛躍」「自分の感情を根拠に決めつける」「すべき思考」「レッテル貼り」以上10項目である。これらはこのブログですでに何回も取り上げて説明してきたので、内容を知りたい人は検索してみてください。エリス・Aはどのように説明しているのか見てみよう。ABCDE論というのがある。次の項目に沿って書き出してみる。A-出来事B-信念 簡単に言うと考え方の事です。これにはラショナル・ビリーフ(健康的な考え方)とイラショナル・ビリーフ(認知の誤りを含んだ考え方)がある。C-結果 どんな感情が生まれ、どのような行動をとったのか。D-論理的否定 Cに対して論駁・反駁をおこなう。今まで自分の持っていたものとは、違う別の考え方をする。違う別の感じ方をする。違う別の行動をする。E-結果(効果)の考察をおこなう。健康的な考え方に変化して、日常行動に変化が現れることをいう。例えばA-仕事でちょっとしたミスをして、上司からみんなの前で叱られて恥をかいた。B-自分は何をやってもうまくできない。自分は能力のないダメな人間だと思った。C-みんな自分のことを能力のないお荷物のように思っているはずだ。こんな自分は会社を辞めたほうがいいのではないか。自分は生きていても苦しいことばかりだと思う。D-たしかにミスは自分の不注意だった。でもそんなミスは誰でも起こしている。人間のやることだからいつもすべて完全ということはない。Cで考えたことは、自分の憶測にすぎない。決して事実というわけではない。また小さなミスや失敗をすぐに自分の人生の一大事に拡大してしまっていた。E-ミスについては他の人に迷惑をかけたので謝ろう。そしてすぐに修正をするように動こう。自分の勝手な思い込みで自分を窮地に陥っていたことが分かった。そういう傾向の強い人間であり、一人相撲をとって自作自演の芝居をしているようなものだった。こういう時は、自分の考え方の誤りを友達など第三者などにも聞いてみるようにしようと思った。エリス・Aは「信念のバランスシート」ということも言っています。これはまず用紙の一番上に自分の分析したい「態度・行動」「信念・感情」を書きます。そしてその下に、上下二つの欄をつくり、上側に「その態度・行動をとることのデメリット」もしくは「その信念・感情を持つことのデメリット」を思いつく限り書き出します。次に下側に「その態度・行動をとることのメリット」もしくは「その信念・感情を持つことのメリット」を思いつく限り書き出します。そして、デメリットとメリットを比較します。論理療法ではこの「メリット」の部分に対して反駁してゆきます。例えば、戸締りが気になって何度も確認作業をしてしまう。「デメリット」としては、会社や学校に遅れてしまう。外出時にも気になる。日常生活に支障が生じる。「メリット」としては、泥棒が入らないから安心できる。「メリット」の部分の反駁 今まで泥棒が入ったことがない。泥棒がきても簡単には入れないように2重3重に警備をしている。よく吠える犬がいる。警報音が鳴るようにしている。防犯カメラを設置している。警備保障会社に通報がいくようになっている。これだけの備えをしていれば、自分はドアを閉めた音、手での確認作業だけでOKだ。遅刻しなくなると会社や先生や友達から非難されることがなくなる。またゆとりがあるので、身支度や忘れもの等をしなくなる。あわてなくてすむので気分的にゆったりできる。これは物事の片方の面だけにしか注意が向いていなかったことに気づかせる。ものごとにとりかかるのをためらっている場合には動機づけとなる。また迷ったとしても、損得両面があることが分かるので、広い視野で考えることができる。
2016.07.12
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昨日はメンタルケア心理専門士の第2次試験のために大阪に行った。「○○について答えよ」という問題を予想して準備していった。実際には、そういう問題が1問と模擬カウンセリングが2題だった。当てが外れて、すっかりあがってしまってしどろもどろになってしまった。模擬カウンセリングでは、普段集談会でよく問題になるシーンだったが、相手の話に共感して受容するということが不十分であった。終わった後、大阪に単身赴任をしていた時によく通った西長堀の中央図書館に行ってみた。ここは心理学、教育関係の本が充実している。私の好きな場所の一つだ。今日は「マンガで学ぶフォーカシング入門」という本を読んだ。フォーカシングというのは、今までよく分からなかったが、森田に似たところがあるということが分かった。フォーカシングでは、よい気持ちも悪い気持ちも、それがそこにあるということを認めてあげて、その気持ちに居場所を与えてあげようとします。一つの出来事や気持ちに時間をかけて立ち止まってそのまま味わうということ。注意を向けることによって、まだはっきりしない感じ、感覚を、体の解放感、感じを伴う気づきに変えていく。感じたら、あれこれ考えを押し付けたり、無視したりせずに、関心を持って、そのまま「それってどんな感じかな」と感じる。「何を感じているか」ではなく、「そのことを思い浮かべていると、どんな感じがするか」を重視する。実際には一人では難しいので、ベテランの人と一緒にペアで行う。また実際には、絵やポストカードを描いたり、切り絵を作ったりする。フォーカシングの考え方は、沸き起こってきた感情に素直に向き合うということだと思う。私たちは沸き起こってきた感情によいとか悪いとか、正しいとかまちがいだとか価値の判定をする。そして自分にとって気に入らない感情を無視したり、その感情から逃げたり、無意識の領域に押しやろうとする。森田理論では「感情は自然現象だから人間の意思の自由はない」という。フォーカシングはまさにそこのところを扱っているカウンセリングであるということが分かった。
2016.07.11
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事実について玉野井幹雄さんの話です。昔武士が茶会に招待されたとき、茶室に入るのに刀を持っていては失礼になると思い、刀を持たずに入ったところ、師匠から「武士たるものが刀を肌身から放すとはなにごとか」といって叱られたそうです。そこで次に参加する時には、刀を持って入ったところ、同じ師匠から今度は「茶室に刀を持って入るとはなにごとか」といって叱られたというのです。もし普通の人は、このように以前と違う対応をとられると混乱をきたし、動揺すると思います。また首尾一貫しないその場、その場の対応に対して腹立たしく思うでしょう。その師匠の品格を疑うと思います。その武士は、何の言い訳もせずに、師匠のいうとおりにしたということです。この武士は過去の言動に関係づけないで、目の前の事実に従ったということです。玉野井さん曰く。師匠の過去の言動は過去の事実であって、現在の事実ではありません。森田先生の事実に従えというのは今現在の事実に従えということです。過去の事実よりも現在の事実に焦点を当てているのです。(いかにして神経症を克服するか 自費出版 玉野井幹雄 238ページより引用)森田の「事実唯真」から見ると、まさに素晴らしい対応であると思います。銀河系宇宙を見ても、惑星はたえず猛スピードで動き回っています。その変化を止めるということは存在そのものが崩壊してしまうということです。ですから私たちのできることは、その時の変化に合わせて、変化に対応していくだけということになります。この話は、私たちがつい口に出している「事実に素直に従う」という態度の養成は、よほど真剣に取り組まないと自分のものにはならないということだと思います。目の前に現れた事実は、どんなに理不尽で受け入れがたい物であっても、基本的には従わざるを得ないのです。とかく私たちはその事実がよいとか悪いとか、正しいとか間違いであるとか評価をします。是非善悪の価値評価は自分を苦しめる側面を持っているということは、十分に認識しておく必要があると思います。朝令暮改という言葉があります。相続税の法律や道路交通法等の法律は、今まで通用していた法律などが変更されて、全く異質のものに作り替えられます。この場合基本的には是非善悪の価値評価をするのではなく、現在の法律に従うということだと思います。節税のために、私は昔の相続税法に従って申告納付をしたいといっても、そんな主張を聞いてくれる税務署はありません。心理学にダブルバインドという言葉があります。たとえば母親が小さな子どもに、「危ないからお母さんから絶対に離れてはだめよ」といいました。ところが少し経ってから「うっとうしいからお母さんにベタベタ付きまとわないで」と反対のようなことをいうことです。一事が万事、こういうふうに大人から育てられると、子どもはどちらの言葉を信じてよいかわからなくなるからダメだという考え方です。ところがこれは、交通量の激しい道路では「危ないからお母さんから絶対に離れてはだめよ」というのは当然の事です。公園等で遊んでいる時は、「ベタベタ付きまとわないで自由に遊んでみなさいよ」と言うことも理解できます。ようするに、この場合もその時その時の状況に合わせて、適切に対応するということが基本ではないでしょうか。こんな笑い話があります。一学期の終業式の時、ある高校の校長先生が、全校生徒の前で、「この夏休みは受験生にとってとても大事な時です。テレビなど見る暇はない。勉強に専念するように。」といいました。夏休みが終わって二学期の始業式の時、「君たちはあの横浜高校の松坂の熱闘を見たか。ピンチにも果敢に真っ向勝負を挑んでいたではないか。あの気迫に学んで受験戦争を乗り切ろう。」といいました。あまりのちぐはぐな言動に生徒から笑い声が起きたということです。これも先の例と同じで、今現在の事実に従うのが森田だと思います。我々は過去の経験をもとに是非善悪の価値判断をして、現在に対応しています。それが「かくあるべし」を作り上げ、自ら窮地に追い込んでしまっている原因になっています。それだけ今の事実・状態・現状に素直になって生きていくということは、生半可な気持ちではできないということです。
2016.07.09
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カウンセリングを受ける人は当然ながら心の問題を抱えている人である。カウンセリングを受けるとは、心の苦しみや葛藤を改善することである。カウンセラーのところに行くと、まずクライエントの状況を把握するために受理面接がある。場合によっては知能・発達検査、性格検査、投影法による無意識に抑圧されている欲求・葛藤・行動の傾向・思考様式などの検査もある。家族に面接することもある。クライエントの現病歴、主訴などがきちんと把握できると本格的なカウンセリングに入る。カウンセリングはカウンセラーから心の悩みを直接取り除いてもらうと思っているとあてが外れる。本来のカウンセリングとは、カウンセリグを受けることで、自分の考え方の片寄りや誤り等に自らが気づき発見することにある。カウンセラーから「あなたの考え方の片寄りや誤りはこんなところにあります。」と指摘してもらうことではない。自分で気づき発見できるというところがポイントである。そういう気づきや発見があれば、改善しようというやる気や意欲が湧いてくる。問題解決のために半分は乗り越えたようなものである。そうなればカウンセラーは、その人にあった心理療法をいくつか紹介して、指導して推移を見守るという流れになる。この時点で、森田療法、認知行動療法、論理療法、交流分析、内観療法、家族療法、ロゴセラピー等約30もの心理療法が用意されている。あくまでも基本はカウンセラーから「あなたが心の問題で苦しんでいるのは、こんな考え方の片寄りや誤りがありますよ」と指摘してもらうことではないのである。クライエント自らが気づき発見できるヒントを与えてもらうのである。たとえ人から答えを与えられて、納得して理解したところで、改善のための行動への動機づけとしては心もとない。成果は上がりにくいのである。すぐに自分の考え方の誤りや偏りを指摘してくれるカウンセラーは素晴らしいように見えますが、それはやり手のカウンセラーに見えるだけで、本当の意味でクライエントの味方になってくれるカウンセラーではない。「ずばりあなたの心の苦しみや葛藤の原因は、こんな物の見方の片寄りや誤りにあります」と診断を下すようなカウンセラーは敬遠した方がよい。クライエントが自分で発見する楽しみを奪ってしまっているのである。クライエントの気づきや発見を見きわめ、気長に待ち続けてくれるカウンセラーが好ましい。とはいえ、カウンセラーは、話し合いの中でクライエントの「物の見方の片寄りや誤り」はある程度分かっていることが必要です。それがないとクライアントに「物の見方の片寄りや誤り」に気づいてもらうようにヒントを与え続けることができない。ただ単にクライアントとの悩みを共感的受容の気持ちで聞いているだけということになってしまう。それでは親切な世話好きな人に愚痴を吐き出して気持ちが少しだけ楽になるだけにすぎない。カウンセリングはそういうことはラポートの形成といって大切にしているが、手段であって決して目標ではないのである。だからカウンセラーは学習と経験が必要なのです。そういう意味では、森田先生は一流カウンセラーの側面を持っておられました。臥褥療法はカウンセリングでいえば「知能・発達検査、性格検査、投影法による無意識に抑圧されている欲求などの検査」にあたります。森田適応者かどうか見られているわけです。そして作業療法が本格的なカウンセリングにあたります。面と向かって話し合いはされていませんがカウンセリングの精神が宿っています。森田先生は作業療法の意味についてはことさら説明されていません。また神経症が治るということをこんこんと説明されていることはありません。でも作業をする中でほとんどの入院生が神経症を克服するコツを掴んでいったのです。たとえばマキ割の最中に忽然と森田理論の真髄を掴んだ入院生がいました。これはカウンセリング理論に照らし合わせてもすごいことだと思います。そのエッセンスは私たちが日々学習している森田理論学習に引き継がれているのです。そして入院生が退院して行ったあと、形外会等では神経症の克服のための理論的側面を具体的に説明されているのです。つまり体得が先で、森田理論の理解は後付けだったわけです。
2016.07.09
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森田理論は決して難しい理論ではありません。森田理論が神経症で悩んでいる人たちに是非とも分かってほしいことは2点だけです。1番目は、「生の欲望の発揮」に邁進する生活態度を身につけてほしいこと。2番目には、原則として「事実・現実・現状」を受け入れて生活する態度を身につけてほしいこと。以上です。実にシンプルな理論だと思いませんか。森田理論学習では、この2点を、手を変え、品を変えて説明しているだけなのです。でもいろんな人から説明を聞いているうちに、骨太の大目標は片隅に追いやられて、枝葉末梢の理論の学習に終始しているような状態ではないでしょうか。もう少し説明してみましょう。1を身につけるためには、まず「不安と欲望の関係」について、徹底的に理解する必要があります。その中でも不安は欲望がある限り必ず発生するものであり、取り除くことはできない。という考え方はしっかりと頭の中に入れてほしいと思います。欲望と不安の関係は、車のアクセルとブレーキの関係にあたります。森田理論では、欲望と不安はバランスがとれていることが重要になります。人間の本来の生き方としては、「生の欲望」を前面に出して、その次に、欲望が暴走しないように不安等を活用すればよいのです。ところが神経症に陥っている人は、「生の欲望の発揮」が忘れ去られて、不安をなくすることばかりに注意を集中しています。そのことを手段の自己目的化に陥っている状態と見なしています。その結果神経症に陥り、生活に支障をきたし、生きていくことがつらくなっているのです。森田理論は、不安は自然現象であり、人間の意思の自由はない。だから不快な嫌な感じは治らない。治してはいけない。直さなくてもよいと教えてくれています。次に「生の欲望の発揮」は、いろいろあります。その中でもまずは、日常茶飯事、雑事の徹底、規則正しい生活を基本にして取り組んでいくことが最も大切だと思います。「ものそのものになりきる」「物の性を尽くす」「一人一芸」などもあります。そして最終的には、不安を抱えたまま、生の欲望にのって一歩ずつ前進を続けることです。2番目について説明します。神経症で苦しんでいる人は、現状・現実・事実を受け入れることができない人です。「かくあるべし」という理想主義的な考え方をして、現状・現実・事実を痛烈に批判、否定、拒否している人です。「こうでなくてはならない」「こうであってはならない」という視点に自分を置いてから発想しています。自分が雲の上のほうにいて、地上でアップアップしながら生活している自分や他人を批判、否定、拒否しているのです。自然にわき起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感なども目の敵にしているのです。その状態は、自分の頭で考えていることと、現状、現実、事実とが大きく乖離しているのです。そして神経症で苦しんでいる人は、いつも観念の世界の味方をしているのです。現状、現実、事実の世界の側にいる人は責められて苦しいばかりです。これが自分という一人の人間の中で行われていることが大問題なのです。森田理論では「かくあるべし」と現実の解離に苦しむことを「思想の矛盾」で苦しむといいます。この不安との格闘はとても深刻なものとなります。これを解決するためには、観念の世界に住んでいる人が、すっと事実の世界に降りてくると楽になります。森田理論では、その解決方法として、自分の立ち位置を雲の上の観念の世界ではなく、現状、現実、事実の世界に変更してゆきましょうと声を大にして言っているのです。そのためにはどんなことが必要なのか。事実を決めつけや先入観で見ることなくよく観察して正確につかむ。事実は抽象的ではなく具体的赤裸々に話す。事実は一面的ではなく多面的に見られるようにする。森田では両面観といっています。「かくあるべし」を少しずつ減らしていく。そして、「純な心」「私メッセージ」を生活の中に取り入れていく。事実だけを見つめて、安易に是非善悪の価値判断を持ち込まないようにする。そしてすべてのものを自分の思い通りにコントロールしようとしないこと。森田療法の目標は症状を治すことにありますが、森田理論学習の目標は以上の2点にあるということをしっかりと認識したいものです。
2016.07.08
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私は人に頼みごとをすることが嫌いである。その心理を考えてみた。まず人に商品を買ってもらうために、セールスをすることが嫌なのだ。それは相手にお金の負担をかけるからだ。たとえば以前専門書の訪問販売の仕事をしていたが、専門書を大学の先生等に勧めることが苦痛なのである。でも仕事だから仕方なくやっていた。それもさぼりながら、かつかつクビにならない程度の仕事ぶりであった。専門書というのは必要だと思う人が買えばいいという考え方だから、販売しようという意欲は湧いてこない。深層心理としては、断られて自分の自尊心がズタズタに切り裂かれることに耐えられないのである。それから集談会等で世話役になってくださいということが言えない。また、発見会の会員になってくださいということが言えない。それらは会を維持するためには必要不可欠だということは分かっているのだが、どうしても逃げ腰になってしまう。「できません」「会員になるつもりはありません」などと断られるのがイヤなのである。だからそんな役回りは他の人にお願いしている。考えてみれば以前の会社で業務の仕事の責任者になった時もそうだった。大まかな仕事は振り分けていたが、誰かが病気で休んだ時など、他の人に仕事を振り分けることができない。振り分けてイヤな顔をされたり、あからさまに「自分の仕事で手いっぱいなのでできません」などと断られるのがたまらなく嫌なのである。だからそんな時は自分で背負いこむことが多かった。そのために夜遅くまで残業をしたり、土曜日曜日も出勤することが多かったように思う。断られると自分のプライドや自尊心が傷つく。また自分の人格がダメだと否定されるような気がする。自分は自分で守らないと生きていけないように感じるのだ。相手には相手の都合があって断っているというのは言葉では分かるのだが、どうしても受け入れることができない。これはその後心理学を勉強して、幼児期の愛着障害が影響していることは分かっている。また子どもの頃、アルコール中毒の父親に暴力を振るわれていたため、大人になって他人から見捨てられるのではないかというトラウマに襲われるのである。いわゆるアダルトチルドレンなのである。回避性人格障害、対人恐怖症というのも根は同じである。次に人に頼みごとをすることが嫌いな人は、人から頼まれ事をされるとうまく断ることができない。私は以前の会社で、次の日に有給休暇で休むことになっていた前日に、ある営業マンから次の日にやってもらいたいという仕事の依頼を受けた。「明日は用事で休むので、他の人に依頼してください」といえばよかったのに言えなかった。でも断るとその営業マンから憎まれ口をいわれるのではないかと恐れたのである。そこで表面上快く依頼を受けて、他の同僚に頼んでおいた。ところが次の日その同僚がその依頼の仕事を忘れてしまっていたのである。あとでその営業マンから烈火のごとく叱られた。彼の信頼は全く損ねてしまった。一事が万事、私は人からの依頼事項を断ることが苦手である。この心理も、相手の依頼事を断ると、相手の機嫌を損ねてしまう。あからさまに嫌味を言われることもある。少なくともよく思われることはない。仲間外れにされたり、陰でいろいろと自分の悪口を言われることがたまらなく苦痛なのである。つまり物事本位ではなく、内へ内へと注意が内向して自己防衛本能のみが膨れ上がってしまうのである。これは手段の自己目的化で精神交互作用を繰り返し、神経症が固着していく過程と全く同じ現象が起きているのである。私の知り合いに稽古ごとの師匠をされている人がいる。その人はちょっとずうずうしいと思うぐらい頼みごとをしてこられる。このあいだもコンサートのチケットを半強制的に売りつけてこられた。またよく高額な懇親会を企画しては強制的に参加依頼をされる。自分の習い事の勧誘も言葉巧みに誘われる。この人の場合は「ダメでもともと」という気持ちがあるようだ。「うまくいけば儲けもの」というような気楽な気持ちであらゆる人に声を掛けている。手あたりしだい、数打つわけだから、ある程度の成果は出されているようである。だから我々のように殺気立ったところはない。断っても「ア-、そう、残念ね。じゃ今度はお願いね」で一見落着することが多い。根に持たれないので助かっている。これから言えることは、いつも自分の気分を問題にしていると、すぐに蟻地獄に落ちてしまう。頼みごとをするのにはそれぞれ理由がある。頼まれごとをされるときもそれぞれ目的を持ってされている。その目的や目標をしっかりと見つめて行動していないと、すぐにネガティブな自己防衛の罠に落ちてしまうような気がする。
2016.07.07
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論理療法を開発したエリス・Aは、自殺願望のクライエントに「死ぬな」とは言わない。人間には生を選ぶ自由があると同じように死を選ぶ自由もあるという思想があるからである。そこで「死ぬな」というかわりに「死ぬことは君にとってどんな意味があるのか、私に分かるように説明してくれないか」と発問する。説得するよりは、まず相手の気持ちをわかろうとする。クライエントは「死ぬな」といってくれる人がいないとなると、生も死も自分の肝ひとつということがしみじみと分かってくるので、生とは何か、死とは何かを真剣に考えざるを得なくなる。死の選択に慎重になる。では相手を分かることは具体的にどんなことか。身体状況(例-病気、空腹、疲労等)、思考(例-認識歪曲、知識不足、価値観の傾向等)、感情(不快、幸福、臆病等)、行動(例-回避、積極的、自己顕示等)の4領域について、情報を集めることである。情報を集めるとは、日常の立ち居振る舞いをよく観察すること。ありきたりの会話に終始せずにときおりは相手の核心に触れる会話(相手が「よくぞきいてくれました」と思うようなこと)をすることである。(自己発見の心理学 国分康孝 講談社現代新書 70ページより引用)「かくあるべし」が強い私たちは、すぐに観念で考えた、自説を持ち出して相手を自分の意のままにコントロールしようとする。そういう人は対人関係にいつも躓いている人です。それは森田でいう「思想の矛盾」に陥るからです。そういう人が人間関係に持ち込んでいることは次のようなものです。相手を非難する、説教をする、命令する、指示する。禁止する。叱責する。これらのすべてがダメだというわけではないが、弊害が多すぎる。脅迫、強制して、相手を自分の考え方に従わせて、事がうまく進んだと思っている。自己満足すればするほど、事態は悪化していく。そういう人はアドラーのいう友好的な横の人間関係を築こうとしている人とは違う。いつも他者を自分のいいなりに支配しようとしている縦の人間関係に縛られて身動きできなくなっている人である。そういう人は少し付き合っただけですぐに分かる。そして敬遠したくなる。そして多かれ少なかれ、胸の内に沸々と反抗心が芽生えてくる。ロジャーズの来談者中心のカウンセリングの基本は、クライエントに対して、無条件の肯定、共感的理解であるという。そのためにカウンセラーに徹底した受容、再陳述、反射、明確化を求めている。我々も「かくあるべし」で相手を説得しようとした時は、「相手のことをもっと分かってからにしよう」という気持ちに立ちかえることが大切であると思う。
2016.07.06
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子どもを育てるにあたっては、好奇心が強くて、積極的で、意欲的な子どもに育てることが何より大切です。そういう子どもは、神経症に陥ることは少なくなると思います。ところが、あまりにも子どもの自由自在にさせていると放縦児になってしまいます。放縦児というのは、欲望に対してほどほどということがなく、欲望が暴走している状態です。人間にはもともと欲望が暴走しないように、抑制機能が備わっているものです。ところが、親が過保護に育ててしまった結果、抑制機能が働かなくなっているのです。自発性の育成を前面に押し出しながらも、ぜひとも自己統制力も同時に身につけさせたいものです。自己統制力はどのように身につけさせていったらよいのでしょうか。平井信義氏によると、自己統制力のしつけは1歳から始めることが重要だと言われます。例えば、時間でもないのにお菓子をほしがったときに、「時間まで待ちましょうね」という提案をします。その提案をしたならば、親たちがそのけじめをきちっと守ることが大切です。子どもがどんなに泣いたり騒いだりしても、親が提案したことについては親自身がきちっと守ることです。デパートやスーパーに子どもを連れていくと、「あれを買って、これを買って」とせがみます。これは出かける前に今日はお菓子とかおもちゃは買わないけど、それでも一緒に付いてくるか、家でお留守番をしているか子どもたちに選択させましょう。あるいは今日は108円までなら自分の好きなものを選んでもいいよと伝えておきましょう。そして約束したことは子どもも親も絶対に守るようにしましょう。そこを「今日だけは特別よ」などと妥協していては、子どもは親を甘く見てしまいます。次に小学校高学年になると、こずかいは毎月ある程度の額をあたえて、こずかい帳のつけ方を教えましょう。親の月々の予算の立て方や家計簿の付け方を、小さいうちから見せながら教えてゆきましょう。ボーナスの使い方は家族で相談しながら決めている家があるそうです。必要な支出を除いた後のわずかなお金の使い方を家族会議で決めるのだそうです。次に、どこのうちでも子どもはお年玉をたくさんもらいます。小さいうちから多額のお金を子どもに渡すのは感心しません。小さいうちは親が管理して貯金しておくのがよいのではないでしょうか。でもそれは子どもが将来必要なときに使うお金であり、親が勝手に使えるお金ではないことは自覚しておきましょう。しつけで大事なことの一つに子どもにも家事の役割分担をすることがあります。家族がそれぞれ家事の役割分担をして協力し合うことはぜひとも実行したいものです。幼児には食器の後片付けや掃除、小学生になれば食事作りに参加する機会を与えて、家族に奉仕する心を育てることが大切です。でも家によっては家事を手伝ったら駄賃を与えているというのがあります。お金を与えるという習慣がつきますと、お金をくれなければお手伝いをしないことにもなってしまいます。気をつけたいものです。それからなんといっても親が欲望を抑えて生活をしているという姿勢を子どもに見せるということが大切だと思います。森田理論学習をしている人は普段から「少欲知足」の生活を心がけておられることと思います。「子どもは親のいうことはしないが、親の後ろ姿を見て育つ」と言います。親がお金を無駄遣いしないように気を配り、最大限に活かして使う姿勢は子どもが自己統制能力を身につけることに役立つと思います。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.07.05
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乗用車にはふつうナビがついている。私にとってナビは電話番号さえを打ち込めば、後はナビが勝手に誘導してくれるものと思っていた。ナビの本を見て使い方の学習をしたことはなかった。先日の伊勢旅行でそれだけでは不十分だということを骨身にしみて感じたので、昨日はナビの本を学習してみた。分厚い本でうんざりしたが必要なところを重点に学習した。今まで困ったことは次のようなことだった。1、 電話番号を入力しても登録されていませんと出る。大雑把に近くを紹介されてしまう。2、 一般道を走行したいと思っているのに、高速道路が近くにあると必ず高速道路を指定されてしまう。あらかじめ一般道を指定していないと、近くのインターチェンジで高速に乗るように案内が続く。3、 一般道を選んでも、自分のあらかじめ思っているコースとは異なった道路を指定されてしまう。4、 はじめての高速道路の場合、出入り口が複雑で、いろいろ迷って間違いそうになることがある。5、 市街地では目的地はわかっても駐車場がわからないことがよくある。6、 観光地では渋滞につかまることがある。7、 私は以前古いナビを使っていたときに、一方通行の道路を案内されて、警察に捕まったことがある。こんな状態だから、ナビをうまく使いこなすことができなくて、自分が勝手にイライラして、半分くらいしか信用していなかったのである。学習して分かったこと。目的地を設定する方法はいろいろとある。その中でも電話番号は一番手っ取り早い。でも登録されていませんと表示される時はどうするか。そんな時は「マップコード」を打ち込むことで全国津々浦々ピンポイントで設定できることが分かった。マップコードはどうして探すかというと、私はパソコンで行っている。スマホでもできると思うがまだやったことはない。Mapionのホームページを出す。上のほうにある検索場所に行き先を打ち込む。すると行き先の候補が出てくる。横に緑の地図と表示されたところをクリックする。地図が表示されて、目的地の真ん中に赤い+の印があることを確認する。その状態で右上に「+便利ツール」をクリックする。別枠が現れ、一番下の「地図URL」をクリックする。するとマップコードが現れる。マップコードは数字で表示される。これをメモしておいてナビに打ち込むのだ。これは、細かいピンポイント指定ができる。たとえば広島駅南口駐車場も確実に指定できる。だから目的地周辺でイライラして不安になることは少ない。さらに間違いやすい高速道路出入り口もピンポイントで設定できるのである程度安心だ。自分の走行コースが決まれば目的地を次々に5つぐらいピンポイント指定すれば、指定通り走行してくれる。市街地では駐車場を探すのが一苦労だ。そういう時は駐車場表示機能があることが分かった。その他にも渋滞情報などもあることが分かった。テレビで「食わず嫌いの一品」という番組があったが、私の場合も、学習しないでナビは難しくて使いにくいと決めつけていたようだ。これを機会にして、もっとナビを使いこなすようになりたいと思った。
2016.07.04
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森田療法と相性がよい心理療法に内観療法がある。内観療法に好意的な森田療法家は多い。それは神経症に陥るような人は自己中心性が強く、自分を中心に世の中は回っているという厚顔無恥、誇大、顕示欲の強さが抜け切れないからである。これは幼児期に過保護に育てられたために、大人になっても王子様、お姫様感覚が抜けきらないのだといわれている。神経症でもどん底から抜け出して多少良くなった人が、我が物顔で「かくあるべし」を振りかざして、周りの人に多くの迷惑をかける例をたくさん見てきた。その解消法として内観療法がある。私は5人ぐらい「集中内観」を受けたという人を知っている。「集中内観」は内観研修所や病院で、原則として7日間集中して内観に入ることである。その中で一人だけは内観は全く効果がないといわれていた。ところが他の4名の方は最後には涙が止まらなくなってきた。大変良かった。人にも勧めたいといわれていた。ちなみに私も大阪に単身赴任していた時、大阪内観所で1日内観を受けた。内観所は全国にある。インターネットで調べてみてほしい。正直言って1日内観では内観のよさはわからなかった。だからここで説明するのもおこがましいのだが、ある程度の雰囲気は分かるので投稿してみたい。大阪内観所は普通の家を改造したようなところだった。簡単な内観の説明を受けて早速内観に入った。部屋の四隅に屏風を立ててあり、そこに4人がそれぞれ内観を行うのである。たたみ半畳ぐらいの広さだった。1時間に一回ぐらい世話役の人が訪れて、「今はどんなことを内観されていましたか」と聞きに来られた。聞くだけでアドバイスなどはない。寝ていないかチェックをするために来るのだろうか。時にはお茶等の差し入れもあった。内観はメモをとらないで進めていくものらしいが、私は何を内観していたか分からなくなるので簡単にキーワードを書き留めていた。内観は次の3つの項目を調べていく。1、 人からしてもらったこと。お世話になったこと。2、 他人にしてあげたこと。3、 他人に迷惑をかけたこと。これを幼児期、小学校低学年、高学年、中学生、高校生と年代順に過去から現在まで調べていく。対象は身近な母親、父親、祖父、祖母、兄弟姉妹から始めていく。一緒に調べていくのではなく母親との関係を調べる時は母親だけに集中するのである。最初はあまり思い出せないのだが、思い出そうと努めていると芋づる式にいろんなことが思い出されることが分かった。私の場合は1日丸々母親との触れ合いについて調べていった。母親は舅、姑、伯父、叔母たちの大家族の家に嫁ぎ、人間関係で苦しみながらも、農業、家事、育児、食事の準備で懸命にその日一日を生きてきたのだと分かった。弟や妹が次々に生まれ、自分にはあまり手をかけられなくなり、祖父母に任せきりになったのだと思う。その点長い間不満に思っていたのだが、そんな中で不器用でイライラして里へ帰ったりしながらも、母親にとっては精一杯の愛情を注いでくれていたことが分かった。内観療法のよいところは、自分のことを客観的な視点から事実を見れるようになることである。そうすると悩みはたいていは自分ひとりの一人相撲であるということに気がついてくる。最後には感謝の念が沸々とわきあがってきて、わがまま勝手な自分の行動や考え方に対して懺悔の気持ちでいっぱいになる。ふつう最後は、申し訳ない気持ちで涙が止まらなくなるようです。すると他人に対する接し方も変わってくる。家族に対してはもちろんのこと、友達、会社の人、隣近所の人、親戚の人たちとの付き合い方が変わってくる。しかし集中内観が終わると何日かするとその時の気持ちは忘れてしまう。持続的に効果を保つためには内観を一人で続ける「日常内観」が必要であるという。毎日1時間から2時間、前半は過去の自分を調べ、後半は昨日や今日一日の自分を調べる。通勤時間や早朝、就寝前に日常内観を一生続けていくのが本当の内観者であるという。
2016.07.03
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生活の発見誌28年7月号に水谷啓二先生の「純な心」の説明がある。入院生が炊事をしていて皿をわった時の話です。「しまった。おしいことをした。なんとかならないかな」思わず驚いてつなぎ合わせてみる。あるいはまた、掃除機を持ってきて人がケガをしないように、こわれた破片を片付ける。これが「純な心」です。ところが、みんな一瞬「しまった」という心はひらめくんだけれども、自分でははっきり自覚しない。そこで、すぐに第2念、第3念というものが起きてくる。こんなところへ皿を置いておくのが悪い。いまさらつなぎ合わせても仕方がない。このことを人が知ったら笑うんではないか。あるいはアイツはどうもそそっかしいといわれるんじゃないか。能力のない奴と見なされるのではないか。森田先生にしかられるかもしれない。考えただけでも気が重くなる。その時にどう言い訳をしたら許してもらえるだろうか。等と考える。こわれた皿のことはもはや頭の中にはない。これは「純な心」からどんどんかけ離れてしまっています。「純な心」は同じ過ちはしない。それは自己内省ではなく、物事本位に頭の中も体も動いているからである。今度近くに皿があれば、割れないところに移したり、すぐに片づける。こういう人は自分の心が皿に向いているので、自分とその皿の持ち主の気持ちが、その大事な皿そのものになって、残念という気持ちが一致しているので、ともに惜しみ、ともに悲しむという「共感」の心が生まれる。「また叱られる」と思うような人は何度でも同じ過ちを繰り返す。注意しなければと、左右を見渡し、ハラハラした落ち着きのない行動をとる。これは皿に心が向いてなく、自分の心に注意が向いているからである。「どうぞお許しください」と言えば、その皿はどうでもよい。自分が許してもらうことができれば、一件落着という気持ちが強いから、持ち主と一緒に品物が惜しいという共感は持てず、ますます小言をいわれるということになる。入院生の場合、こっそり外出して、どこかで皿を買ってきて返してみたりする。返したのだから自分のミスを無かったことにしようとしている。こんな人は神経症から解放されることは程遠い。また第2念、第3念から出発する人は、もともと神経質性格を持っているために、すぐに自己内省して悲観的になり自己否定するようになる。どうも俺みたいに内気な奴はだめだ。俺は不器用だ。こういう人間では、社会にでて立派に成功することができない。ああ情けない。死んだ方がよさそうだ。ちょっとしたことを、自分の今後の人生を左右するような大問題に発展させてしまうのである。いつも核爆弾の発射ボタンを押すかどうかというような選択に迫られるのである。つまり容易に自暴自棄になり、なんでも投げやりな気持ちになってしまう。ではそういう人はどうすればよいのか。「純な心」は誰にも湧いてくる。しかしそれは一瞬であり、ともすれば見過ごされてしまう。そのあとで第2念、第3念がのさばってくるという流れになっている。ほとんどの人はその流れになっている。そして普通は第2念、第3念の感情に基づいて対応策を観念的に決定しようとしているのである。ここが問題なのである。だから第2念、第3念の感情が湧いて来た時に「ちょっと待てよ。これって純な心だろうか。それとも2念、3念だろうか」と少し立ち止まって考えてみればよいのである。そして最初に湧いてきた「純な心」を思い出してみることである。「純な心」が思い出せればしめたものだと思う。そういう癖をつけることである。なかなか自分のものにならないと思う。最初は10個あれば1個ぐらい立ち戻ることができれば十分である。うまくいかないのは想定済みなのである。罪悪感、自己嫌悪に陥る必要はない。そういう方向に向かっているということが大きな意味を持つ。そしていつか遠い将来そういう能力を身につければよいのだ。だいたい能力の獲得というのは試行錯誤を繰り返すものだ。二歩前進一歩後退の繰り返しの方が確実に自分のものになる。でも、この「純な心」の体得は事実本位の生活態度を身につける上では、ひとつの大きな柱となるということを忘れてはならない。
2016.07.02
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私たちは症状で苦しい時は、なんとか苦しみから逃れようとはからいを始める。心理学では、不快、不安、不満がある状態は「不適応状態」にあるという。その不快、不安、不満な気分を解消するための意識活動や行動を「適応機制」という。「適応機制」は14通りある。難しい言葉だが、「機制」とは、それによって一時的な安心を得ようとするものである。普通の人間なら誰にでも起こりうるものである。森田理論学習ではこのことを特に「やりくり」「はからい」「逃避」といわれるものである。どんなものがあるか見てみよう。1、 攻撃機制 不快、不安、不満に対して直接相手に攻撃を加えることで解決を図ろうとする。2、 昇華 性的欲求不満や腹立たしさなど、社会的に容認されない欲求を、音楽やスポーツなどに打ち込むことによって発散させようとすること。3、 補償 自分の欠点や弱点、劣等感などを感じている部分に対して、他のすぐれている部分で優越感を感じることで心理的安定を図ろうとすること。たとえば、運動が苦手という人が、数学や物理などで頑張ろうとするようなこと。4、 代償 目標や衝動が満たされないときに、他の人や、動物、物、別の目標に置き換えて不平・不満を解消させようとすること。たとえば酒を飲みたいときに、ノンアルコール飲料のビールで代用するようなこと。5、 転移 家庭で溜まったストレスを、学校で弱い者いじめで発散するようなこと。6、 逃避 うまく適応できない状態からたまらずにすぐに逃げてしまうこと。病気を口実にしてやるべきことからの逃避。仕事をさぼって喫茶店やパチンコなどをする。勉強をしないでテレビや漫画を見たり、ネットゲーム等をすること。7、 否認 受け入れたくない欲求や現実、不快な体験から目をそらすこと。そのものを確かめようとしない。絶対に受け入れることができないと、最初から目をそむけている。8、 抑圧 不満や葛藤などの原因となる欲求や動機を無意識の領域に押し込む機制。しかし抑圧された欲求は解決されたものではないため、夢や失錯行為などの症状に現れる。9、 白昼夢(空想) 「自分は本当はもっとすごいことができるのだ」などと思って傷ついた自尊心を癒そうとしているようなこと。10、 合理化 言い訳をして自分を納得させようとすること。大型バイクが欲しいのに、買うお金がない。そこでバイクで事故を起こすと死亡事故につながる。死亡事故に遭わないためには原付の方がいいのだと自分を納得させようとする。11、 投射 ある人に結婚を前提にお付き合いしたいと思っている。でも断られるのが怖い。そういう受け入れがたい感情を自分が認めることは大きな不安がある。そこであの人はもともと、自分のことは何とも思っていないのだと勝手に否定的な決め付けをおこなう。12、 反動形成 受け入れがたい衝動や欲求が抑圧されて、それとは反対の行動で現れること。本当は好きでたまらない異性にいじわるばかりをする。13、 知性化 本能、衝動、欲望などをコントロールするために、社会規範や道徳、社会的ルールを持ち出して、抑えつけようとすること。観念や思想から出発して、本来の欲望を押さえつけること。14、 同一視(摂取、取り入れ) 森田理論学習でいうように不快、不安、不満等の感情は反発しないでそのままに受け入れる。その感情を十分に味わい「やりくり」「はからい」「逃避」などはしない。こうしてみると1から5までは、エネルギーの旺盛な人で不快、不安、不満をなんとか解消しようと積極的に立ち向かっている人である。2、3、4は生の欲望の発揮に通じる。1、5は、本人はストレスは発散できるかもしれないが、人に迷惑がかかるものでありお勧めはできない。6と7は、私のような回避性人格障害の人がとる方法である。情けない自分を自分で攻撃して自滅するタイプである。この傾向のある人は人生そのものが悲惨である。8から13までは、自分の気持ちをごまかして無理矢理納得させようとしているものである。いろいろなごまかしの方法があることが分かる。これが神経症に苦しむ道につながるものである。森田理論学習で目指しているのは14の道である。
2016.07.01
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