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次にカウンセラーの見分け方を矢幡洋さんの本から見てみましょう。腕のいい精神科医と腕の悪い精神科医の間では雲泥の差がある。カウンセラーの場合は「天地の差」があると言われています。ちなみに矢幡さんは臨床心理士です。カウンセリングを受けようと思ったら、どんなカウンセラーを選ぶかはとても重要になります。悪いカウンセラーを選んでしまうと、お金と時間が無駄になってしまいます。矢幡さんはよいカウンセラーを選ぶコツについて次のように説明されています。カウンセリングを開始して10分か15分か話をしてみて、その間に「自分がどのような問題を抱えているのか」がひとりであれこれ考えている時よりも明確になってきたというような実感を感じられるかどうかです。このように、話をしているうちにだんだんと問題がきちんと整理されてくるのであれば、カウンセリングについて基礎的な知識を持ったカウンセラーだということができるでしょう。反対にあなたが自分の問題を説明してもカウンセラーの呑み込みが悪かったり、どこか勘違いして受け取っているように思われるのであれば、カウンセラーにとって必須の「他人の話を傾聴する」ということができていないのでしょう。また、確実な証拠がないことを断言的にいうカウンセラーは、まず間違いなく悪いカウンセラーだと思って差し支えないと思います。矢幡さんはカウンセリングにも副作用があると言われます。たとえばこんな人がいました。満員電車に乗っていると急に呼吸が苦しくなって困っている女性がいました。いわゆるパニック障害です。この女性がその悩みを解決しようとしてどこかのカウンセリングルームに行きました。その時あなたのパニック発作の原因は幼児期の母子関係のトラウマにあると言われました。その方はカウンセリングを受けた後で、「満員電車に乗れない」という問題に加えて、「幼児期のトラウマを解決しなければならない」という別の問題が新たに発生したのです。これは今まで荷物が一つだけだったものが、もう一つ余計な荷物が増えたようなものです。この方はトラウマを解決しない限りパニック障害は治らないと思いこんでしまいいろんな治療法を受けて回るようになったのです。悪いカウンセラーは「あなたが電車の中でパニックになるのは、幼児期のトラウマが原因です」などと自分の枠組みの中で人を決めつけようとします。相手の話を聞くよりも「すぐに空しい気持ちに襲われるでしょう」「ときどきイライラに襲われるでしょう」などという言い当てをすぐに仕掛けてきます。また小難しい専門用語を連発します。「マニマ」「転移」「スプリッティング」などです。長いこと経っても効果があらわれないことについてクライアントがクレームをつけると、「そのようにいうこと自体がボーダーラインの症状なのだ」と正当なクレームを無効化したり、また「あなたが、私の言うとおり毎日、行動記録をつけないから、効果が現れないのだ」などと、クライアントのせいにして、逆に非難してくる。本来カウンセラーは、サービスの提供者であり、その技術が料金に見合うか否かのみで善し悪しを判定される存在だと割り切るべきだと思います。さて、カウンセリングの問い合わせをしてくる人の中には、「ただ話をするだけなのに、本当に効き目があるのですか」というような質問をする人がいる。これについては、神経症は「言葉」の存在によって、形成された部分が大きいのです。逆に言うと、言葉によって、それを解きほぐすことが可能なのです。大抵、心の問題で悩んでいる人は、頭の中で自問自答を繰り返すうちに自分で気がつかないながら堂々巡りに陥って、蟻地獄のような場所から脱出できなくなってしまっていることが多いのです。カウンセラーとの対話によって、気がつかなかった問題の見方に気づかされ、解決の糸口が見つかる発見的な効果があるのです。言葉というのはそれだけの力があるのです。解決の糸口を探し出すことを促進するような会話のテクニックというものが存在するのであり、カウンセラーというのは、治療的な会話のトレーニングを受けた「言葉の専門家」なのです。以上を参考にして間違いないセラピストを探しましょう。「立ち直るための心理療法」(矢幡洋 ちくま新書 97ページから108ページ要約して引用)
2016.04.30
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精神科医の診察を受けるにあたって注意したいことはなんでしょうか。「立ち直るための心理療法」(矢幡洋 ちくま新書)から見てみましょう。精神科医の教育は薬理を中心に教えられています。心理療法に重点を置いているところは非常に少ないのです。分かりきったことですがセラピストではないということです。精神科医の主な仕事は、精神病やうつの症状を見つけて薬を処方することなのです。現代は心の病気もかなり医学的に解明されています。またいくらカウンセリングで症状を克服したいと思っていても、症状がきつい時は現実的ではありません。まずは薬物療法を受けることが大切です。カウンセラーのように時間をかけて話を聞いてもらいたいということは無理な面があります。最近は心療内科という看板を掲げている医師が多くいます。この中には、元来は内科専門の医師が心の問題に興味を持つようになって心療内科という看板を掲げたという人がいます。その一方で精神科医が精神科という名称では受診に来にくいだろうということで心療内科という科目名をあげている場合があります。このことは治療に影響を与えます。たとえば、元々精神科医の場合は内科が専門ではありませんので、何か別の身体的な病気が潜んでいることを見逃したり、ちょっと難しい内科疾患への対処方法に慣れていない場合があります。元来、内科出身の医師の場合、精神薬の使い方に十分な経験がなく、こわごわ一番弱い睡眠薬や安定剤を出して見るだけという場合も時々見かけられるそうです。神経症の場合、「夜眠れない」「イライラする」「食欲がない」など生理的なレベルで症状があらわれている場合は、矢幡さんは精神科に行って軽い睡眠薬や安定剤などを処方してもらうことを勧められています。改善できるところからさっさと改善して、つぎの心理療法にすすんだ方がベターであると言われています。その上で矢幡さんは精神科医の腕前には雲泥の差があると言われています。たとえば、長年入院しても症状が変わらず、スタッフも家族も「もうこれ以上よくならない」と諦めていた患者さんが、腕のよい精神科医に担当が変わった途端に症状が治まって退院したというような例がありました。大学病院や複数の精神科医がいるところでは、どの精神科医がいいかをよく知っているのは看護師さんだそうです。看護師さんの情報を活用することで間違いのない医師を見つけやすくなります。一般的によい医者といわれる人は次のような特徴があります。今の病状についてきちんと説明してくれる。治療の方針をきちんと説明している。薬の効果を親切に説明してくれる。副作用があるとどんな副作用があるかを説明してくれる。療養中本人が心がける点について説明がある。病状についてですが、精神科の場合ははっきりした病状を告げてくれないこともあります。それは社会の偏見が強く、患者さん自身も病状を告げられると必要以上のショックを受けてしまうということがあるからです。病名によっては益々追いつめられた気持ちになることもあるのです。また精神科の病気は、病気同士の境目があいまいであるという点もあります。以上を基礎知識として間違いのない精神科医を選びたいものです。
2016.04.30
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私は対人恐怖症で苦しんできました。人から批判される、叱責される、馬鹿にされる、無視される、からかわれるということに我慢できないのです。そういう場面が予想される時はいつも逃げていました。DSMでいうところの回避性人格障害です。その主な特徴は、1、批判、否認、または拒絶に対する恐怖のために、重要な対人接触のある職業的活動を避ける。2、恥をかかされること、またはばかにされることを恐れるために、親密な関係の中でも遠慮を示す。3、社会的な状況では、批判されること、または拒絶されることに心がとらわれている。4、新しい活動にとりかかることに異常なほど引っ込み思案である。これらは私の生き方にぴったりと当てはまります。でも嫌な場面から逃げて精神的に楽になるのは、ほんの最初の一瞬だけです。後は後悔や罪悪感に苦しむようになります。また仕事に取り組まないので退屈で空虚感に苦しむようになります。また人に嫌われたくないと思って行動しているのに、いつもノルマが達成できず仕事が滞りみんなに軽蔑されるようになります。そして自分でもそんな自分を自己嫌悪、自己否定ばかりするようになります。将来への希望は持てなくなり、不安にさいなまれるようになります。生きることが八方塞がりになり、迷路に入り込んだようなものです。私は今で回避性人格障害のマイナス面ばかり見てきました。でも最近別の角度から自分を見れるようになりました。もし、訪問営業から逃げてさぼってばかりいる自分を叱咤激励して、無理やり仕事を続けていたら自分はどうなっていただろうか。胃潰瘍になり、体調が崩れ、ガン、血管障害などの病気にかかっていたのではないか。あるいは重いうつ病や精神疾患にかかっていたのではないか。またアルコール依存症、ギャンブル依存症に陥っていたのではないか。対人関係の改善に益々注意が向いて重い神経症の泥沼に入っていったのではないか。心身ともにボロボロになり、廃人への道をひた走っていたのではないか。そうならなかったのは、自然にそういう状況を回避するという行動が自分の身体や心を守っていたのではないか。仕事をさぼり、人から軽蔑されながらも、テニス、スキー、トライアスロン、国家資格取得などに取り組んでいたことが、心の破綻を防いでくれていたのではないか。回避するというのは危険を感じていち早く心身の破綻を守る行動だったのではないか。回避するというのは自分を生命と心の安定を保つというプラスの面があったのではないか。自然治癒力の表れだったのではないか。よくぞその力が機能してくれたものだ。その結果重い病気や精神疾患にもかからなかった。さらに自殺にも追い込まれなかった。さらに言えば、そのおかげで森田理論の学習を熱心にするようになった。つまり人生の大きな課題や目標も持つことができたのだ。いったん回避して自分の将来の人生をしみじみと考えるきっかけとなったのだ。自分に向いている職業はなにか。対人恐怖を克服するということはどういうことか。対人恐怖症という特徴を持ちながらそれを活かすことはできないか。神経質性格者の生きる方向性とは何か。人間が生きるということはどんな意味があるのか。これらが今では森田理論学習のおかげで明確に見えるようになってきた。回避性人格障害という際立った特徴がもしなかったとしたら、森田理論には縁がなかった。また自分人生についてしみじみと考える機会はなかったはずである。するとその日暮らしで満足して、味わい深い人生を送ることはなかったであろうと思うのである。だから回避するというのはつらい苦しい体験ではあったが、長い目で見ると自分の人生に大きな役割を果たしていたのである。だから逃げまくって自分の心身を守っていた自分をほめてあげたいと思うのである。それが今の充実した人生につながっているのである。100点満点の人生だ。
2016.04.29
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チェルノブイリの原発事故が起きてから30年になる。いまだ終息を見せていない。周辺600キロ以内は高い放射能が検出される。近くの街は完全に廃墟となった。もう1000年ぐらいは人は住めないという。周辺住民はいまだにガン、白血病、奇形児などの健康被害に苦しめられている。現在巨大シェルターで爆発した原子炉を覆い放射能の拡散を防ぐ作業が進められている。今後100年のうちにプルトニュームの処理方法の開発を待つのだという。それまではこれといった有効な手立てはないという。原発は現在の人間の手におえる代物ではないのだ。住民の一人は、この事故は核爆弾が落とされたのと同じだという。一瞬で多くの人の命と自分たちの故郷を失った。子孫には多くのつけを先送りにしてきた。ドイツでは原子力発電所の解体作業を勧めているが、核廃棄物の処理に手をやいている。地下1000メートルに保管場所を作っているが、そこが地割れすると、破壊される可能性がある。保管容器が破壊されプルトニュームが溶けだすと、地下水が汚染されるというのだ。核廃棄物は放射能を出し続け、自然と人間を破壊していく。地震の多い日本でも沢山の原発がある。その使用済み核燃料棒の処理方法はいまだ解決のめどは立ってはいない。こんな無責任な政策があるだろうか。原子力の開発はいまだ人間の手に負えるものではない。しかし原子力潜水艦、原子力空母、爆撃機に搭載されている。また戦争、テロ集団に利用される不安も解決されていない。将来そうしたものが大都市を標的にして炸裂することはほぼ間違いのないところだろう。そうすればただちに報復攻撃を受けて、多くの人命と人の住めない世界を作りだすことだろう。それも一部の人間の暴走で容易に実行できることなのである。原発は電気をふんだんに使いたいという人間の欲望に応えてのものである。電気をふんだんに使うというあくなき欲望の暴走は人間に悲劇をもたらす。森田では欲望は不安によって制御されなくてはならないという。欲望と不安はバランスをとることが最も大切であるという。そのためには電気の消費を抑制して、原発0にしていくしかない。計画停電などが起きると確かに不便である。でも、自分たちの命の安全とどちらを優先するかと言われれば、答えは決まっている。あくなき欲望の充足はなんとしても歯止めをかけなくてはならない。ほどほどの生活、我慢できる人間を作らなければならない。そして心豊かに生活できる道を探してゆかなければ人類の将来は暗くなるばかりである。そのために森田理論の考え方を広めてゆかなくてはならない。
2016.04.28
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日本という国はここ50年で取り返しがつかないほど悪くなってしまった。それはすべての人がお金に振り回される生活を余儀なくさせられてしまったことだ。お金が潤沢に入ってこないと生活が立ちゆかない仕組みが出来上がってしまったのだ。日本人はお金を獲得するために日夜長時間労働に従事せざるを得ない。あるいは休日返上のサービス残業などである。そこから離脱することは許されない。人間がお金に隷属させられる時代に完全に移行したのだ。もしドロップアウトを望めば死しか残されてはいない。つまり生活の中での喜び、楽しみ、生きがいを喪失してきたのだ。この急激な変化がここ50年間で起きたことだ。何百年間も、何千年もかけて作り上げてきた日本人の生活、伝統が一挙に破壊された。もうもとへは戻れない大変革であった。これは改悪といわずしてなんと言おうか。50年前の生活を振り返ってみよう。50年前の生活はどこの家も自給自足が基本であった。ご飯はかまどで炊いていた。その材料は山から調達していた。その材料を使って風呂も炊いていた。そこで出来た炭はこたつで暖房に使っていた。そのために、山はきれいに手入れされていた。山では炭焼きもしていた。山はマツタケなどのきのこ、ゼンマイ、タラの芽などの山菜、筍などがたくさん生えていた。田圃は牛馬で田起こしをしていた。田植えは5軒ぐらいでチームを作り共同作業で行っていた。全戸の田植えが終わると、泥落としという催し物があった。美味しいものをたくさん作って懇親会を開いて親睦を深めていたのだ。田圃の畦には大豆、小豆などの豆を植えていた。これで味噌、しょうゆ、豆腐などを作っていたのだ。田圃の周りの草はきれいに刈り取られて牛馬の餌になっていた。牛馬を飼っていたのでたい肥も十分に調達できていた。どこまでも自然循環が貫徹されていた。畑には季節ごとにさまざまな野菜を作っていた。百姓と言われるぐらい種類も多かった。少量多品種栽培が基本だった。それを使って加工食品もふんだんに作っていた。うめ、柿、栗、竹なども植えられて食料となっていた。季節の花がそこらじゅうに咲き誇っていた。タンパク質は主にニワトリ、川で捕れる川魚が中心であった。刺身は祭や正月に限られていた。家はかやぶきであった。葺き替えには近所の人が手伝いに来ていた。家族が生活していくためには、隣近所の人たちとの協力関係が欠かせなかった。水の管理、河川の管理、山の管理、共同の農作業など多くの面で助け合っていたのである。当時はテレビはなかった。農作業の節目のお祭りや催事が娯楽であった。また自然相手に魚釣り、季節ごとの花、季節の恵みが楽しみそのものであった。そうした生活の中で苦しいながらも活き活きとした生を紡いできたのだ。50年後、それらは苦しい、きつい、しんどい、面倒、きたないということでどんどん駆逐されていった。価値観が変わったのだ。物欲、快適、便利、清潔、快楽等を追い求める方がより価値があるとみんなが思ったのだ。その変化は驚くばかりである。電気、ガス、下水道、テレビ、乗用車、洗濯機、冷蔵庫、農機具、瓦の屋根などが完全に田舎に定着した。農機具を使いこなすための耕地整理も行われた。その結果、今や里山は荒れ放題。田畑は牛馬がいなくなり化学肥料だらけ。農業は生活のためではなく儲けの手段となった。農作物の産地化が進められ、単一作物しか作らなくなった。野菜を作っても猪が掘り返す。夜は熊もでるのでうかつに外出できなくなった。食べ物は今や近くの大型ショッピングセンターに頼ってばかりである。なかには農家でも弁当の宅配に頼っている人もいるありさまだ。また地域の絆はほとんどなくなった。それどころか、田舎で生活できなくなった人が都会に出てゆき、地域としての維持管理が出来ない「限界集落」があちこちに出来てしまった。つまり田舎では毎日お金がないと生活できない仕組みが完全に出来上がってしまったのだ。そのお金を儲けるために自分の生活の楽しみ、生きがいを引き換えにせざるを得ない状況に陥ってしまったのだ。その変化は真綿で自分の首を絞めるように静かに無意識のうちに行われたのだ。田舎がこんな状態だから、都会暮らしの人はそれ以上にお金に振り回された生活に陥っている。その代表としてコンビニの全国展開がある。コンビニは24時間営業である。食料を始め最低限の生活必需品はすべて手に入る。便利で快適で手っ取り早い。でもコンビニに頼った生活は、本来の日常生活の創意工夫や楽しみを奪い、人々のかかわりを分断し、拝金主義を代表とする人間のロボット化を確立した象徴として見えてしまう。イギリスには日本のコンビニにあたるものはいまだないという。生活重視のイギリスにコンビニが全国展開するようになった時は、もはや人類全体の心の危機ではなかろうか。世界中に覇気のない、無気力な人間と、いつもイライラしてすぐに暴力を振るう人間を大量に生み出すようになることだろう。
2016.04.27
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イギリス人で日本人の妻と国際結婚した人が東京に20年暮らしている。その彼が次のように言う。たえず目に見えないスピードに背中を押され、もっと新しいもの、もっと珍しいこと、もっと便利な暮らしを手に入れるために働き続ける。家に帰る頃には疲労困憊してベッドに倒れこみ、泥のように眠る。街を歩く自分の視線はたえず何かを探してキョロキョロと落ちつきがない。つまり、彼はイギリス人であるのに、東京の中で物欲に走り、働くか、寝るか、買うかの毎日を送っているという。そんな彼でもイギリスに帰るとピタリと妙な心臓の高鳴りが止まるという。まずイギリスでは日本のような人をせき立てる感じがしない。世の中のペースはまるで止まったかのようにゆるやかなので走る必要がない。そこで見る街の景色は子どもの頃とさして変わっていない。そこで次第に我に返っていくわけだよ。たとえば、あんなに家族との時間を削ってまで働く必要はなかったな。毎日の生活が送れるだけの収入があればそれでいいんだとかね。日本では僕は何かにとりつかれていて、イギリスに帰るとその魔法が解けていく気がするんだ。ところが、そんなペースもいったん日本に帰ってくると、元の木阿弥になってしまう。ただがむしゃらに働き、欲しいものをむさぼるように買い、手に入れていく。そのために全員がいっせいに競争し、走り続ける。イギリスではこんな現象を「ラットレース」と呼ぶ。こんなレースに、彼は日本に戻るなり自動的に組み込まれてしまうのだ。再び走り始めると、一人取り残されないようにどこまでも頑張り続けなければならない。そんな暮らしの中で息切れしている人が多いからこそ、そのストレスが物を買う行為につながっていくのだ。短絡的に、衝動的に抑えきれない物欲にかられ、いつまでも本質は満たされない。イギリスの美しい街並みを眺めていると、連なる家々に深い伝統や歴史を感じる。また田舎の民宿に泊まると古いながらも丹念に手をかけた飾られた客室に、日本の我が家はどうだったのかと思い返す。生活習慣にしてもそうだ。日本は給料が高く、イギリスは安い。日本食は健康的でイギリスの料理はハイカロリー、しかも大味で美味しくない。日本のシャワーは水圧が強く爽快で、イギリスは水が少ししか出ないため体を洗うのに時間がかかる。一つ一つのポイントを比較してみると日本の方が優れているように思える。でもどちらの国で暮らしたいかというと迷うことなくイギリスだ。心豊かな暮らしが出来るのは間違いなくイギリスの方であると断言できる。その日本も戦前までは農業が発達し、歴史があり、物がなく、質素な暮らしを続けてきた。日本の環境は今のイギリスにとてもよく似ていた。でも今や小さなアメリカだ。かつての日本には素晴らしい伝統があったのに、人びとはそれを忘れ去ってしまっている。だから今の日本の家や暮らしの中には何もないんだ。(古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家 井形慶子 大和書房より引用)
2016.04.26
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先日田舎に帰省した。この季節山は一斉に芽吹き華やかになる。今の時期はハナミズキ、牡丹桜、山つつじが満開である。実に気持ちがいい。ところが心が痛いのは松の木がほとんど枯れ果ててしまっていることだ。枯れ木だらけになり見るも無残だ。私の田舎は赤松が多く日本一の松茸の産地だった。今は松が枯れてほとんど生えてこない。だから山に行く人自体いなくなった。原因は松くい虫の運ぶセンチュウのせいだと言われている。でも松くい虫は昔からいた。松自体に体力がなくて病気を追いかえすだけの力がなくなっているのだと思う。これは山を放置し手入れを怠った人間の仕業だったのだ。人間にはガン細胞が毎日数千単位でできている。それを食いつくす体力がなくなるとガン細胞が増殖して最後には命を落としかねなくなる。それと同じ現象が里山で起きている。その結果、我が田舎では、山の木をすべて切り倒して檜を植えることになっている。すべて国の全額補助金を使っての事業となる。だから誰も反対する人はいない。でもこれは一種の対症療法だ。これで里山を利用して生活するという道は完全に息の根をとめられることになる。山からたきぎやマキ、炭を調達することは永遠に閉ざされてしまう。つまり完全に貨幣経済の流れに人間の生活が飲みこまれてしまうということを意味しているのだ。人間が貨幣経済に飲み込まれてしまうことは、資本の論理がすみずみまで貫徹されてしまう。それは人間の活き活きとした生きる喜びを感じさせてくれる生活を拒否してしまうことになる。日々の生活の営みの中で生を満喫して、他者との交流を心ゆくまで楽しむことはできなくなってしまう。人間に生れてきてよかったという感動を味わう道は永遠に閉ざされてしまう。多くの人間はどうにもならない慢性の抑うつ感に襲われて、なんとか生命だけを維持する存在になり下がってしまった。人間が生きるとはこんなものだと多くの人が思っている。食べられるだけで十分ではないか。あまり贅沢を言ってはいけないと思っている。本当は別の生き方もあるのに、井の中の蛙状態だから思いもよらないのである。人間はこんなに愚かな存在だったのだろうか。これはここ50年で起きた取り返しのつかない大変革だったのである。1990年代にインターネットが普及してからは、その速度を急に加速してきた。金まみれ、物欲まみれの生活は人類の将来を破滅に向かわせているように思えてならない。
2016.04.25
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井形慶子さんのお話です。私がよく知るイギリス人の家族はロンドン中心部の1DKのフラットに暮らしていた。母親はハイドパークのそばにある中堅ホテルで働き、父親は失業中で、時々夜間のみ近所のパブを手伝っていた。そして8歳になる小学生の娘。母親の仕事は早いため、娘を小学校まで送り迎えするのは父親の役目だった。ところが、彼は前の日に飲みすぎたり、明け方帰宅したときなどは昼まで眠り続けた。そんな日は、娘は学校に行けず、リビングで一人でテレビを見たり、本を読んで過ごしていた。私は、自分が少々眠いぐらいで子どもを一人ほったらかしにして、ベッドで眠り続ける父親に疑問を持った。また、その父親は娘にお昼を作ることもしない。私は娘が不憫になり、友人である母親に、これでいいのか思い切って尋ねてみた。すると彼女曰く。「たしかに学校は大切だけど、家でだって勉強は教えられるわ。私や彼が娘をサポートすればいいんだから。だから、娘が学校を休んで家庭で過ごすことは悪いことじゃないのよ」その言葉はこちらに反論の余地がないほど自信に満ちていた。事実、母親は昼過ぎまで寝ている父親を無責任となじらなかったし、父親も食事ぐらい用意しろと母親を責めることはなかった。そう言えばこの子は、一人でよく本を読んでいた。マンガ、童話、テキストと一人リビングに座って、楽しそうに本の世界に浸っていた。また、夕方頃から父親と二人で公園に行っては、絵を描いたり、白鳥に食パンを食べさせたりもしていた。日本では両親がこんな考え方をしていると必ず問題視される。なかには育児放棄、ネグレクト扱いされ児童相談所に通報される危険性がある。イギリス人は、子どもを学校に連れていくのが教育のすべてではないという考え方がある。自分たちの判断で個性的な教育を実践している夫婦は多い。それに引き換え日本の子どもたちは、学校を休むなんてことはもってのほか。いじめられて不登校になっても、大人たちが手を変え品を変えて学校に戻すことが一番だと考える。学校から帰ってくると、今度は塾やスポーツ教室で一日中振り回されている。つかのまの休みはテレビゲームに没頭している。今や学校教育の中身が薄れてきているのに、それでもまだ受験にしがみつき、受験こそは重要な人生の分かれ道だと多くの人が信じている。つまり、日本人はあまりに既成の価値観や情報に「こうするべき」と縛られ、こざかしく生きているのではないかという気がする。この考え方には、一流大学をでて、一流の会社に就職する。そして高収入を保障されないと物質的に豊かな生活は出来ない。ましてや結婚して楽しい家庭は持てないという幻想を持たされている。これだけお金のかかる生活を押しつけられると、いつ自己破産するとも限らない。定年退職しても年金だけではダメだ。退職したときに相当の金融資産、値打ちのある不動産を所有していないととても老後は不安だ。そういうお金まみれの価値観でみんな動かされているのではなかろうか。そのレールに乗ったとしても、人間教育が出来ていないのですぐに躓くことは目に見えているにも関わらずである。これは生活スタイルの考え方が根本的に間違っているから起きることだと思う。そのことをしっかりと自覚するためによい本がある。井形慶子さんの「古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家」(大和書房)という本である。この本はイギリス人の生活ぶりを紹介しながら、日本人が失った本来の人間の生き方に警鐘を鳴らしている。今の自分の生活スタイルを見直すきっかけになると思う。ぜひ読んでみてほしい。
2016.04.24
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イギリスでは築100年、それ以上の古い家が多い。そういう家にホームステイした人は、水圧の低い、霧雨のようなシャワーには耐えられないようである。何しろ日本ではジェット噴射のようなシャワーを思う存分使っていたのだから。それだけではない。どこの家庭でも湯船にはあふれんばかりにお湯を張り入浴を楽しんでいたのだから。ところがイギリス人は今なおどんな家に泊まっても、霧雨のようなシャワーを使い続けている。もともとイギリスでは、天井裏にあるタンクにお湯を貯めてそれを家中で使う。お湯は何度かバスタブを満杯にすると簡単になくなってしまう。だからお湯を制限なしに使うことはできないのである。日本人の場合はこんな状態が続けば大きなストレスに見舞われる。日本人は、どんなにお金がかかってもすぐに修理を依頼する。そして便利で快適な最新設備に切り替えてしまう。それがまともな人間の生活だと思っている。イギリス人はそんな方向にはゆかない。頑固で、怠慢で投げやりという訳ではない。イギリス人にはちゃんとしたそれなりのポリシィを持っているのである。それはなにか。イギリス人は昔からの生活スタイルを守っていこうとする意思がある。便利で快適だからといって簡単に今までの生活スタイルを変えてはならないと信じている。家や家具にしても時間をかけて気に入ったものを慎重に選ぶ。そこには妥協はない。周囲と調和がとれているかどうか。自分の生活スタイルにマッチしているかどうか。でも選びぬいて一旦自分のものにするとそれらをとても大事にする。手間暇をかけて、どんどん修復しながらみがきあげていく。60年以上も経った家、アンティーク家具などに無上の心の安らぎを見出す。そういう生活を楽しんでいる。もともとイギリス人は何かにつけて不便だからといってすぐに改善しようとはしない。それは、便利さのみ追求していると、多額のお金が必要になり、人間がお金儲けに振り回されてしまうことをよく知っているからだ。あるイギリス人曰く。「これも個性ですよ。古いイギリスの家が持つ性格の一つなんです。この前、友達を訪ねてアメリカに行ったら、たしかにゴージャスでした。ジャグジーやサウナまでついているし、シャワーもいきおいよく出る。それは、まるで娯楽施設のようだったけど、1週間の滞在中、私たちはずっと落ち着かなかった。体を洗うのにイギリス式なら少しの水で事足りるけど、アメリカ人はあれだけジャージャーお湯をあふれさせて毎日使い続ける訳でしょう。なんだか罪悪感を感じたわ」私たちは森田理論学習で「物の性を尽くす」ということを学んだ。「物の性を尽くす」とは、物、自分、他人、お金、時間の持っている価値や能力を十分に発揮して活かし尽くすことだと学んできた。ところが今の日本では「使い捨て」「大量消費」「快適さ」「便利」「付加価値」のもとに、「物の性を尽くす」こととは反対の道を突っ走っている。日本人は新しい機能付きの新商品が出ると、今まで使っていたものは捨ててすぐに買い替える傾向がある。でも、それらを手にするために、拝金主義に陥り、お金に振り回されるようになってきた。物はあふれるほど持っているのに、心の底から充足感を得ることはない。お金を稼ぐためにとても窮屈な生活を余儀なくされている。心の中にポッカリと大きな空洞を抱えているようなものである。生活を楽しむゆとりがなく、あくせくと金儲けばかりに邁進する生活をずっと続けることが正解なのだろうか。日本人はお金儲けに振り回されて、生きる楽しみや充実感をどこかに置き忘れているような気がする。私にはイギリス人の考え方がまともなような気がしてならない。(古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家 井形慶子 大和書房参照)
2016.04.23
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日本には昔、戸主が歳をとると、家督を子どもに譲って隠居をするという習慣があり、生活に困らない楽隠居の身分を「うらやましいもの」と考える社会通念があった。しかしこれは、老人がいつまでも大家族の支配者として頑張っていては、後継ぎがいつまでも支配者になれないので、隠居という体裁のいい名のもとに、老人を引退させたものと思われる。実際には楽隠居になって仕事がなくなると、急に老けこんでしまい、世間の人もあまり相手にしてくれなくなるし、隠居させられる身にとっては、決して幸せではなかった。現代でも定年退職すると、全く仕事から引退する人がいる。定年退職する前でも、子どもが家を出てゆき、教育費がかからなくなる。家のローンを払い終えた。親の遺産が転がり込んできた。生命保険が入った。宝くじなどで一山当てた。等などの理由で消費生活一辺倒の生活に入る人もいる。これについて水谷啓二先生は次のように言われている。経済的に豊かな生活をしていても、何らかの意味でやりがいのある仕事をしていなければ、何となく生きがいが失われ、社会からも閉め出されたように思われて、人間として生きる張り合いがなくなるであろう。これらのことによっても、仕事をすることは人間本来の欲望であって、決して金をとるため、あるいは経済生活を維持するための、単なる手段ではないということが分かる。森田先生も、「作業欲」は人間の根本的な欲望であると言われている。もし、人から運動もしくは作業を取り除いたならば、そこに生命はない。たとえば、小児たちは、身体的にも精神的にも、目が覚めている間は、寸時もじっとしていることはできない。もしこの小児に対して、運動と作業を全く抑制したときには、その苦痛はいかばかりであろう。大人でも、ひとたびこれを隔離し、何もさせなかった時には、はじめてはなはだしい退屈の苦痛を感じ、盛んな運動作業欲にかられるようになる。これが人の自然である。私どもの心身が、たえず活動を営んでいることは、あたかも私どもの心臓や消化器などの内臓が、一時も休息することのないのと同様である。作業に当たっては、つねに身体的および精神的の機能がよく調和的に働いているのであるが、もし身体的の作業が抑制され、あるいはその機会が奪われた時は、自然に考察、思想などの精神的な方だけが働くようになり、些細な自己の内的感覚にも気づくようになり、これを異常と思い、病的と判断するときには、ますますこれに対する考察や取り越し苦労をたくましくするようになり、しだいに病的感覚を養成するに至るのである。これから言えることは、神経質者は考察、思想などの精神的な方だけが異常に突出して働くような状態に陥りやすい。人間にはもともと運動欲、作業欲も備わっているのでそのバランスを意識する必要がある。精神的な方だけが異常に突出していれば、相当運動欲、作業欲の活性化にエネルギーを投入する必要がある。(慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社参照)
2016.04.22
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プロのピアノの演奏家は完璧に弾きこなしているかというと、どうもそうではないらしい。常識的に考えても、10本の指を使って猛スピードで正確に鍵盤を叩くことは至難の業だ。先日プロの演奏家が言うには、間違えてもうまくごまかす方法があると言っていた。テレビで一流のプロのピアノ演奏家がいかに正確に弾けるかを争っていた。するとお手付きなしで弾き終わった人はいなかった。確か「子犬のワルツ」とか「トルコ行進曲」のような曲だったと思うが、少ない人で5カ所、多い人では50カ所も、それ以上もミスタッチしていた。でも素人の我々はそんなに耳触りというほどのことはなかった。指揮者の岩城宏之氏も間違いはいつもつきまとう。ごまかしながら指揮をしているうちに曲が終わってしまうのが実態だそうだ。カープの黒田博樹投手は、ピッチャーは打者に打たれるのが仕事だという。普通素人が考えると、打たれるピッチャーはできの悪いピッチャーのような気がする。黒田投手はいい打者は3回に1回はヒットを打つ。プロ野球ではそういう打者ばかりが打席に立つ。だからある意味打たれるのは当たり前のことだ。打たれる確率が2割から3割あるスポーツなのだ。だから打たれて再起不能なほどあとに気持ちを引きずってはいけない。その前提で練習をして、試合に臨む。打たれても芯に当たらずにちょっとずれていればヒットになる確率は少なくなる。またたとえ何本連打されても得点に結びつかなければ万々歳だ。たとえ得点をとられても最少失点で切り抜けられれば責任を果たしたことになるのだ。ピッチャーという仕事はそういうものなのだ。そういう時に絶対に抑えなければならないという気負いがあれば、その時点でピッチャーはバッターに負けている。余分な力が入る。打たれないようにコースを狙いすぎてボールになる。すると打たれる確率が4割にも5割にも跳ね上がってくる。自分の責任が果たせなくなる。そのうちプロ野球の世界から追い出される。黒田投手は、いつも打たれるのが当然という気持ちで、逃げないでボールに変化をつけて思いきってストライクでバッターに勝負を挑む。私もアルトサックスを吹いているが100%の出来でよかったと思うことはあまりない。練習は120%の出来にまで仕上げているのだが、本番ではちょっとしたことにとらわれて、なんでもないところで間違う。今では80%の出来で100%の成果を上げたと思うようにしている。間違えることは想定済みなのだ。それを聞いている人にあまり違和感を与えないことに神経を使う。一番してはいけないことは途中で演奏を止めてしまうことだ。さらにそれを表情に出してしまうことだ。間違えても、途中から演奏の流れに合流する。パフォーマンで間違いも愛嬌と思わせればしめたものだと思う。私たち神経質者には予期不安があって、うまくゆかなかった時どうしようという気持ちが強く働く。もし失敗したら恥を掻く。みんなの笑いものになってしまう。そんな思いをするなら最初から何もしない方が無難であると思いがちだ。だからしり込みして何もしない道を選んでしまう。それでは結果として暇を持て余すようになり、生活に張り合いがなくなる。また逃避してふがいない自分を自己嫌悪するようになる。失敗に学んで将来に活かすこともできないので能力を伸ばして成長することもできない。将来的に成功の達成感や感動を味わう人生の醍醐味は決して味わうことはできない。集談会で人は3000回の失敗を積み重ねてやっと普通の大人になっていくのだという人がいた。我々はその1回の失敗をもなんとか避けようと努力しているのではなかろうか。3000回の失敗の数を重ねることを目標にして、失敗の数の集計をしていくようにしたらどうだろうか。
2016.04.21
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みなさんは家の中にものがあふれかえっているということはありませんか。実は私もそうです。タンスや本箱、引き出しや机の上にものがあふれています。私の場合服、カバンや靴、本、CDやカセット、慰問活動で使う小道具、小物類、ファイルや書類などでいっぱいです。最近はどの部屋も満杯で余分な収納場所はもはや存在しません。そこで一部屋をつぶして天井まで届く収納場所を作りました。ホームセンターで材料を買って裁断してもらい、電動ドリルを借りてなんとか出来あがりました。自分でも満足できるものができました。これである程度のゆとりはできました。でも考えてみると、これからまたどんどんとため込むとすぐに満杯になるのは目に見えています。そこで思いきって本、CD、小物類、ファイルや書類、領収書類の処分に手をつけました。その時これはとっておくと後で役に立つのではないかと思うものもたくさんありました。それで思い切りがつかないので、処分するものと残すものの基準を作りました。これから先6カ月から1年以内で使用する予定のあるものだけを残すようにしました。本はもう2度と見ることはないという本は資源ゴミに出しました。CDやビデオテープももう2度と見ないだろうと思うものは思い切って資源ゴミに出しました。クリアファイル、その他ファイルもまだ使えるものがたくさんありましたが、処分しました。後資料や書類、カタログ類ですが意外に古いものがたくさん出てきました。これらは田舎に持ち帰り焼却することにしております。古い領収書類も同じです。電化製品の取扱説明書なども不要なものは焼却です。年賀状も何年も前のものはすべて処分します。後あと使わなくなった小物類、薬、化粧品類ですが思いきって処分しました。意外にたくさんあります。家電製品で不要なものは近くのリサイクル店に電話するとすぐに引き取りに来てくれました。今後はカセットテープや着ることのなくなった服を思い切って処分したいと思っています。今後は毎月場所を決めて、1時間ぐらい時間をとり、処分品の選別をしてゆきたいと考えています。そして絶えずため込まないように気を配ってゆきたいと思います。森田理論学習で嫌な感情はため込まないで流していくことを学びました。しかし自分の持ち物は後生大事にため込んでおりました。シンプルライフを望んでいながら実態は反対になっていたのです。これではかけ声だけになってしまいます。一貫性がありません。反省しています。これからは入ってきた同じ量のものは吐き出すようにしてゆきたいと考えています。
2016.04.20
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篠田桃紅さんは自分の中に湧いてくるものを、目に見えるようにしているわけで、言葉に置き換えられないから、墨絵にして表現していると言われる。篠田さんの墨絵の抽象画というのは、想像力のない人は理解できないし、面白くない。最初は何も感じなくても、じっと見てこれはなんだろうなと思ってみる。でも、そういうふうにしているうちに、何となく感じることができるようになってくる。何も最初は感じてなかったけれども、一本の線、一つのちょっとした色からも、何かを感じるようなものなんです。自分自身が変わってくることもわかる。昨日はこういうふうに見えていたのに今日はこういうふうに見える。自分がそれだけ、進歩したんだか、後退したんだか、分からないけど、とにかく見えるものが変わってくる。それは当然ですよ。人は、毎日変わっているんですから。私の描く抽象画はあってもなくてもいいようなものです。でもそれが心に沁みるという人もいる。あるヨーロッパの銀行家が、「難しい交渉事をしなくてはならないときは、あなたの絵を見てから交渉に臨んでいます」と言ってくれたことがあった。さーっとした線の勢いを見て、「勇気をもらう」と。私の絵を見て気持ちがすっとした、何となく見るたびに自分が活き活きとしてくる、というような気持ちで見てくれる人もいるのでしょう。少しでも心動かされる人がいれば、描いた甲斐があると思います。でも、そういうことが一切なくても、自分はやりたいことをやった、という満足感が一番ですよといわれる。抽象画というのは、先入観を除外してじっと作品を見てみる。するとそのうち何らかの感じが湧きおこってくる。そこから連想していろいろと考えを巡らせていくというのが醍醐味なのかもしれない。気づきや発見の契機になるのがその作品の持つ力なのだろう。そういう気持ちで篠田さんの作品を見てみたい。(百歳の力 篠田桃紅 集英社新書引用)
2016.04.19
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103歳の墨絵画家に篠田桃紅さんという方がおられる。この方はいまだ認知症とは程遠く頭脳明晰な方である。その方は43歳の時にニューヨークに2年ほど住んでいた。ニューヨークには400以上のギャラリーがあるが、その中に10ほど一流ギャラリーというものがある。篠田さんはその中の一つバーサ・シェファーズ・ギャラリーで偶然に作品展をやる機会を得た。そこで絶大な評価を得たのだ。当時、ジョン・キャナディという、ニューヨーク・タイムズ紙きっての、大変な美術批評家がいた。キャナディに否定的なことを書かれたら絵は一枚も売れないと、畏れられていた。その人の絵画を見る時の態度は徹底していたそうだ。キャナディの信条として、アーティストには決して会わない。書きたいことを書きたいから。アーティストに会うと、何となく情も移るだろうし、先入観が判断を鈍らせる。だから作品だけを見て批評する。もちろんその背景には、豊かな見識、広い視野、審美眼を持ち合せている。篠田さんは、キャナディ氏にあるパーティで偶然会った。気兼ねなく話をしていたら、キャナディ氏は、作品にタイトルがないほうがいいという。タイトルがあると、想像の範囲が狭められて見るということになる。自分は絵からいろんな想像力が湧くから、タイトルで自分の想像を限定されたくないのだ。キャナディ氏はタイトルはあっても見ないようにしているそうだ。このキャナディ氏の態度は森田理論学習をしているものからすると衝撃である。キャナディ氏は400もあるギャラリーのすべてを回っているわけではない。一流と言われている10のギャラリーを主に回って作品の批評をしているのだ。それはこれらのギャラリーのオーナーは一流の作品を選ぶ高度な審美眼を持っているからだ。その上でキャナディ氏は先入観を排して、自分の鋭い感性を頼りに作品を見て批評していく。人間関係、縁故関係に影響されることはない。作品がすべてで、作品だけで判断する。我々も森田理論を本当に自分のものにしようと思ったら、先入観や決めつけを排して事実そのものに向きあう姿勢を欠かすことはできない。事実を土台にして生活できるようになることを森田では目指している。キャナディ氏の心情はとても共感できる。(百歳の力 篠田桃紅 集英社新書参照)
2016.04.18
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私はアダルトチルドレンです。父親はアルコール依存症で肝臓を悪くして、52歳の時に心不全で亡くなりました。私はその父親のもとで物心ついたころから、過干渉で、叱責されながら育ってきました。それが大人になって、いつもビクビクオドオドして対人関係で問題を抱え、生きにくくなった原因ではないかと考えています。アダルトチルドレンの特徴は次のようなものがあるいわれています。1、 常に親や他人の顔色をうかがい、自己主張が全くできない人になります。どうしてそうなるのか、というと、常に相手の機嫌をとっていないと、相手は自分から去っていく、見捨てられてしまう、と思っているからです。他人中心の生き方をしていますので生きることが苦しくなっています。2、 自分で自分を否定しています。自己嫌悪に陥り、自己評価が低くなります。自分の中に二人の人間がいて、絶えずけんかをしているようなものです。一人の自分の中でたえず葛藤があります。また他人からの叱責や罵声に極度に敏感になり心が休まりません。3、 自己評価が低いために尊大で誇大的な傾向の人もいます。過剰に自分を目立たせようとするのです。不必要な努力をしているために疲れ果てています。4、 見捨てられるのが恐ろしく、他人の誘いや要請を断ることができません。それが重荷になり、最終的には人間関係が逃避的になります。そして孤独感、寂しさに苦しみます。5、 自分より弱い人、自分の世話を待っている人に出会うと、その人を支配し、離れられないようにします。つまり共依存関係にしがみつきます。人を一方的に支配し、さらに嫉妬深くなります。6、 他人の言葉や振る舞いを好意的に解釈することができず、悪意の目で見てしまいます。怒りや恨みを鬱積させて、ときにこれが暴発することもあります。はけ口を求めて暴力的になるだけではなく、反対に抑うつ、無力感、喘息、潰瘍性大腸炎、摂食障害、薬物依存、ギャンブル依存などに陥る人もいます。7、 離人感が出てくる人もいます。例えば、「自分が自分でないような感じ」「自分がなぜここにいるのか分からなくなった感じ」「自分と外界とが薄い膜に隔てられているような感じ」「自分の行為が自分から発しているように感じられず、それを漫然と見ているような感じ」(アダルト・チルドレンと家族 斎藤学 学陽書房参照)私の場合5番目を除いてすべて当てはまっています。特に大学卒業後に訪問営業の仕事についた時、対人恐怖がもろに出てきました。お客さんからの断りの言葉を聞くと、自分を否定されたような気持ちになりました。そのうち仕事に行くことができなくなり、仕事をさぼるようになりました。すると上司や同僚から軽蔑されるようになりました。また自分で自分を否定するようになり、生きていくことがとても苦痛になりました。最終的にはその仕事は9年で退職しました。今考えるとアダルトチルドレンの場合は職業の選択はある程度限られるのではないかと思います。対人関係作りが難しいわけですから、対人関係の少ない仕事を選ぶべきではなかったかと考えます。出来れば普段は自分一人でも出来るような仕事がよかったのではないかと思います。それを極めていくマイスターのような仕事が向いているのではないかと思っています。次にアダルトチルドレンにとって、森田理論は役に立つのかどうかということですが、私は大いに役に立つと思います。人に見捨てられては生きていけないというのは、これは体に染みついたようなものですからなかなかぬけることはないような気がします。でも、自己嫌悪、自己否定していた自分を森田理論学習で折り合いをつけていくことは十分可能であると思います。つまりあるがままの自己を肯定できて、自分を活かして生きていくことはできると思います。私の場合は、「かくあるべし」のからくりを学び、事実を認めていくという経験を積み重ねて、事実本位の態度を身につけることによって、ありのままの自分をそのまま認めることができるようになってきたと思います。また規則正しい生活に丁寧に取り組み、雑事を大切にするようになりました。また一人一芸を磨きあげることで生きることが楽しくなってきたような気がします。アダルトチルドレンの本質的なところは何ら改善は出来ていないのかもしれません。でも神経質性格でよかった、これからは自分の与えられた命の限り精一杯生き抜いてゆきたいと思えるようになりましたのでこれで十分だと思っています。集談会でもアダルトチルドレンの話は時々出てきます。なかなか改善は難しいようです。でもある程度改善できれば、社会に適応することが可能となり、仕事を持って生活できます。また生きることを心の底から楽しめるようになれると考えています。アダルトチルドレンの人には是非とも森田理論学習をお勧めしたいと思います。
2016.04.17
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昨夜から緊急地震速報がで続けています。携帯の警報音を聞くと恐ろしくなります。被災地は大きな被害がでています。今夜から大雨になるようです。被災地の方々には言葉もありません。広島でも本震の時は震度3でした。めったにないので動揺して、テーブルの下に隠れました。昨夜はほとんど寝ることができませんでした。念のためにヘルメットをかぶっています。家具の固定はある程度していますが本格的に見直そうと思っています。
2016.04.16
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子どもにとってショックな事実を隠したり、向き合うことを避けていると大人になって大きな問題となります。トラウマ、解離障害という問題です。例えば居間で夫婦げんかがあり、怒った母親が皿を投げた。それがガラス戸にあたって、ガラスと皿が割れて大きな音がした。父親も怒って家を出て、その時バタンと大きな音で玄関のドアを閉めた。子ども部屋にいた幼い娘が両親の怒鳴り声やガチャン、バタンという音を聞けばショックです。子どもは不安になり居間を覗きに行きます。この時家族機能が健全であれば、不安そうな子どもは母親に抱きとめられます。次に何があったか母親から説明があります。翌朝、娘が食堂に行くと父親はすでに食卓についていました。娘は父親からも昨夜の説明を聞かされます。父と母が仲よくしていたので、娘はすっかり安心します。そして「昨夜のようなこともあるのだな、あってもそれで自分の世界が壊れてしまうわけではないのだな」ということを感じとります。ショックと癒しをとおして、娘はひとつの体験を積み重ねたのです。これはこの夫婦けんかが、子どもの頭の中にストーリーとしてきちんと整理して記憶されているということになります。するとあとであんなことがあったなとストーリーとして思いだすことができます。ところが次のような家族もあります。娘が居間をのぞいてみると、母親は後片付けをしていますが何の説明もありません。娘は茫然と立ちすくんでいましたが、しばらくすると「もうパパは帰ってこない」という自分なりの解釈をして部屋に戻ります。彼女は「頭が真っ白」で「何も感じない」という感情鈍麻の中に閉じ込められます。翌朝食堂に行くと、父と母は食卓に座っていましたがお互いに無言です。娘の不安は癒されず、「そのことは語ってはならない」という父母のとり決めたルールだけが娘の意識を支配します。やがてこの記憶は回想不能になります。このことは娘の生活歴の一部が欠損したことになります。でも娘を脅かしたショックは体の記憶として残っています。記憶が断片的で身体の違和感のみが強烈な印象として分離されて記憶されているのです。するとこの娘は大人になって、人びとの怒鳴り声やガチャン、バタンという大きな音を聞くたびに「頭が真っ白」になるのです。このような家庭ではこのようなことが繰り返されていると推測されます。すると、これらのトラウマに伴う不安、恐怖、怒りなどが感情鈍麻によって消去されたり、回想不能の体験として人格に統合されない状態になります。このことを慢性ショック、解離性障害、離人症、離人感等といいます。これらはもともと嫌な事実に正直に向き合わずに、あいまいなままで放置してきたことが問題です。事実はストーリーとして整理されて落ち着かせないと、分断されてその時の心身のパニック状態だけが記憶として残されることになります。森田理論では事実をよく観察するということを勧めていますが、事実を軽視すると、このように子どもの心の健全な成長に悪影響を起こすということに留意する必要がありそうです。これらのトラウマは癒されなければなりません。そのためには各自の子ども時代のトラウマとショックに立ち戻って、当時の事実とそれに伴う情緒を回想するという作業が必要になります。それにはそうした苦しい作業が可能であるような「安全な場」「安全な人間関係」が必要となります。一般的にはカウンセラーですが、それ以外にはセルフ・ヘルプグループが考えられます。(アダルトチルドレンと家族 斎藤学 学陽書房参照)
2016.04.15
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現代の神経症の治療に絡むものにどんなものがあるのか整理してみました。1、 まず薬物療法があります。でもこれは不安などをやわらげるもので根本的な神経症治療ではないとおもわれます。つまり神経症は器質的な病気ではないからです。不安をやわらげるという意味では自律訓練法やマインドフルネスもこの範疇に入るでしょう。2、 次に認知の誤りや偏りを修正していく療法があります。認知の誤りが神経症を引き起こしているので認知を修正していくやり方です。代表的なものは認知療法、論理療法です。その他精神分析、ゲシュタルト療法、フォーカシング、内観療法、サイコドラマ、意味療法も大きく見ればこの範疇に入ると思われます。3、 次に行動療法があります。代表的なものは認知行動療法です。不安階層表に基づいてエクスポージャを行います。4、 次に人間関係を改善していく療法があります。そのものずばり人間関係療法です。交流分析、アサーション、アドラー心理学、家族療法などもこの範疇に入ります。5、 受容や共感をベースにした癒し療法があります。ピア・カウンセリング、自助組織活動、一般的なカウンセリング等です。これは私が大まかに分けたもので御批判はあろうかと思います。またこれ以外の療法も数多くあると思います。その点ご容赦ください。さて一番の問題は森田療法をどう位置付けるのかということを考えてみましょう森田療法は、「不安はそのままにしてなすべきをなす」といいます。そこには行動療法的な意味合いがあります。でも森田のいう行動というのは、「生の欲望の発揮」という意味であり、人間の根源的欲求に迫るものだと思います。またここで「不安はそのままに」といっておりますが、これは森田理論独自の考え方です。他の療法が不安を取り去るということを目的としているのに対して、不安を邪魔者扱いしないで活用していこうというのが大きく違うところです。次に森田では認知療法的な側面もあります。認知療法では神経質者が陥りやすい認知の誤りを10項目ぐらいに分析しています。森田療法ではこの中の特に「かくあるべし」が最大の認識の誤りであるといっています。「かくあるべし」を小さくしていくことが、思想の矛盾を解消して葛藤や苦悩をなくしていく道であると強調しています。「かくあるべし」を小さくしていくためにはどうしたらよいのかというと、基本的には「自然に服従」「事実本位」の生活態度になればよいという立場です。森田理論は事実の取り扱いに特に力を入れている療法だと言えます。こうしてみると森田療法は対症療法ではない。行動療法的側面は、「生の欲望の発揮」の面からとらえ直す。そして肝心なことはその奥にある「欲望と不安」の調和の自覚を深めていくこと。認知の誤りの修正は認知療法のいう「認知の誤り」を付け加えて学習する必要がある。しかし最大の認知の誤りである「かくあるべし」の学習は今まで通り中心にすえるべきだと考えます。そして事実中心の生活態度を身につけるということがとても大きな課題となるのだと思います。こうしてみると森田療法は先にあげた多くの部分を包括しており、さらに独自の理論を持っているので新たに第6項目として分類されるべきものであろうと考えます。さらにいえば森田理論は神経症治療の側面ばかりではなく、人間教育の側面が大部分を占めているのではないかと思います。
2016.04.14
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少年院では、生命の尊さを認識させ、共感性、思いやり、責任感等豊かな人間性を育てるための指導や対人関係を育てるための指導を積極的に盛り込み、実施しています。具体的には、小動物の飼育、野菜・草花の栽培・美術・文芸作品等を活用した情操教育、社会奉仕活動、陶芸、SST(社会的スキル訓練)等の方法が実施されています。少年院の一日は、一般に、朝起き、布団をたたみ、顔を洗い、掃除をし、という身体を動かすことによって支えられています。こうした生活を通じて、作り上げられた身体であるからこそ、職員の言葉を受け取れるようになるのだと思います。その意味で、ごくごく平凡な生活を心を込めて行うこと自体が、少年を変えているというのが実態です。(現代の少年非行を考える -少年院・少年鑑別所の現場からー 法務省矯正局編 78、80ページより引用)少年院では面接などを通じて、日々自分の犯した罪を反省させて、改心した人を社会に送り返しているのかと思っていましたが実際は違うようです。これは表面上森田先生の行われていた入院療法とよく似ています。森田先生の入院療法は、臥褥から始まり、軽作業期、重作業機、生活訓練期へと続きます。入院生はその間主に作業をしていたわけです。清掃、整理整頓、植物や小動物の世話、肥え汲み、風呂焚き、飯炊き等です。森田先生は入院生の作業ぶりを見ながら、問題点は折にふれて指導されていました。でも入院生を一堂に集めて、森田理論を一から順序だてて説明されていたのではありません。そういう意味では入院生に不満があったかもしれません。高い治療費を支払って、神経症を治してもらいに来たのに、作業ばかりさせられていたのですから。でも森田先生は、最初から森田理論を観念的に教育していく方法は、益々神経症を強化するばかりで効果はないと言われていました。少年院にやってくる少年、少女たちにも犯した罪の重大性についてこんこんと説明し諭したところで、彼らの矯正にはほとんどなんの役にも立たないのだと思います。それよりも規則正しい生活を習慣づけること。日常茶飯事に全力で取り組むこと。その中で感じを高めていくこと。そして気づきや発見を増やしていくこと。意欲ややる気を高めて外向きの生活に転換していくこと。ここが肝心なところです。先に身体感覚を養うことを重要視されていました。この順序が反対になると効果的な指導にはならないのだと思います。つまり森田理論で治癒過程を学ぶことは後付でよいのです。それよりも集談会に参加しているとよくなっている人がいる。魅力的な人がいる。その人の側に近寄り、その人をよく観察することだ。その人の日常生活はどうなっているのか。雑事の取り組み方はどうなっているのか。今どんなところに力を入れておられるのか。森田理論の生活への応用はどうされているのか。その人はどんなアドバイスをしておられるのか。そして、その人の生活をそっくりそのまま真似るということがとても効果的だと思います。私は森田理論学習によって考え方がまるっきり変わりましたという人はおられますが、それだけでは不十分だと思います。その人の生活がどう変化してきたのか。これが最も肝心な点だと思います。理論はある程度までいくとスピードは鈍化してきますが、反対に生活面はどんどんとスピードを上げて進化してくるというのが実感です。
2016.04.13
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山崎房一さんが嫁・姑の問題でこんな話を紹介されています。その方のご主人は3人兄弟で、みんな東京や千葉に住んでいる。3人の嫁に嫌われている口うるさい75歳の姑さんは山梨で一人暮らしをしている。この嫌な姑が5月に、それぞれ1週間の滞在予定で兄と弟の家へ泊まり、最後にこの方のところへやってくることになっている。ところが、兄や弟の家では、冷たい態度で、みんなから邪魔者扱いされた。そこで1週間を3日に切り上げて、この方のところにやってくるという連絡が入った。この方は兄弟の嫁さん以上にこの姑さんを憎んでいた。許せないと思っておられた。過去に子どもが交通事故で亡くなった時、ひどい仕打ちをされた事があったからだ。でも、その気持ちはそのままにして、実際の対応は演技をしてみようと考えられた。駅に迎えに行った時、「おばあちゃん、ようこそ。待っていたのよ」と姑の小さな手荷物を持ち、手をとって案内をした。家に着くと、「これはね、おばあちゃんが来られるので一番上等なのを買ったのよ」といってとっておきの羊かんを出した。おばあちゃんはうれしそうだった。この方はおばあちゃんに優しい言葉をいっぱいかけた。お風呂の湯加減を見てあげたり、肩をもんであげたりした。居心地が良かったのか、1週間の予定を延期して12日も滞在して山梨に帰って行った。その夜9時ごろ、家におばあちゃんから電話がかかってきた。夫が出た。おばあちゃんは「とても楽しかった。ありがとう」と言っていたそうだ。夫が喜んで感謝してくれたので、その方もうれしかったそうです。それから数日して、おばあちゃんの夢を見た。どんな夢だったかは忘れたが、私の枕は涙でぬれていた。山崎房一さんに対応を相談したとき、「悪い姑はどんなに憎んでもかまいません。でもその気持ちを言葉や態度には出してはいけません。演技をしなさい」というアドバイスが役に立ったそうです。するといつの間にか姑に対する今までの憎しみ、恨みはすっと消えていたそうです。森田理論では憎しみや恨みの感情は自然現象だから、どうすることもできないといいます。それらを抱えたまま、行動は感情とは切り離して考える。適切な行動が、自分と相手の人間関係をしだいに改善していくのだと思います。(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所参照)
2016.04.12
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普通腹が立っていると顔の表情や溜息などの態度に表れます。ところが小さい頃に、親から「そんな小さいことでぐずぐず言わないの」「みっともないねえ」などと言われ続けて成長する人がいます。自分の不快な感情を否定され続けると、無意識に解離という現象が起こります。解離というのは人間の防衛反応です。人は耐えがたくつらい感情が喚起されるような状態にさらされると、無意識にその感情を感じないように防衛するのだそうです。その結果、すごくつらい、しんどいという気持ちが強いのにもかかわらず、反対に明るく元気そうに話したり振る舞ったりするのです。つまり心の中と表面上の言動の不一致が起きているのです。しかしネガティブで不快な感情をそのまま抱え込んでしまうので、しだいにストレスがたまってきます。葛藤や苦しみを抱えたままになるのです。いつかははけ口を求めてさまようことになります。そしていつか噴出してきます。例えば、家ではいつもにこにこして穏やかに過ごしている子供が、学校に行くと、些細なことできれて、暴発し、喧嘩沙汰をおこしたりするのです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という症状があります。これはこの解離が原因と言われています。この障害の特徴はフラッシュバックです。つらい思いをした身体感覚や激しい怒りや悲しみ等が一挙によみがえり、一種のパニック状態になるのです。どうしてそんなことが起きるのか。我々が経験する出来事は、認知、感情、身体感覚、イメージ、音などの情報がストリーとして記憶されています。一連の流れとして記憶しているのです。ところがあまりにもつらい経験があると、認知、感情、身体感覚、イメージ、音などのまとまりが切り離されてしまう。解離した状態で記憶されるのです。つらさを弱めたり、感じないようになっているのです。人間がつらい体験をいつまでも引きずらずに生き延びるためなの適応手段なのです。普通のPTSDは激烈な戦争、災害、事件、事故、喪失体験等が原因です。最近は複雑性PTSDということが言われます。複雑性PTSDは、主に家庭の中での親の育て方が原因となっています。特にネガティブで不快な感情を認めて受け入れてもらうことがなかった子どもたちがその犠牲者です。そうした感情を持ちこたえることができない。次の行動に向かうことができない。いつまでも不安、不快な感情にとらわれて、取り除くための格闘をしてしまう。あるいは困難に出会うとすぐに逃げ出してしまう。ですからどんな感情も価値判断しないですべて無条件に受け入れるということはとても重要なことなのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2016.04.11
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山崎房一さんの詩です。「自分の最大の敵は自分」自分にとって一番恐ろしいことは自分が他人の目で自分の欠点を責めたてて自分の存在を否定すること自分にとって一番心強いことはどんなことがあっても自分が自分の味方になって自分を守ることです自分にとって自分は自分の安住地でなくてはなりませんこんな詩もあります。自分を大切にする人は人を大切にします自分を粗末にする人は人を粗末にします自分を愛する人は人を愛することができます自分が嫌いな人は人にグチばかりこぼします自分を好きな人は自分を伸ばします(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 70、77ページより引用)森田理論の真髄に迫る詩だと思います。的確に表現されています。自分を好きになる人は現状の自分を拒否、無視、抑圧、否定、批判などしなくなります。あるがままの自分で十分だと思っています。自分の持っているものを活かして生きています。決してないものねだりはしません。自分の夢や希望をしっかりと持っている人です。そういう人は他人をも拒否、無視、抑圧、否定、批判などしなくなります。他人を「かくあるべし」でコントロールしようとしなくなります。あるがままの他人で十分だと思っています。他人と意見が異なる時は、お互いに話あって解決しようとします。他人も自分の持っているものを見つけて、それを最大限に活かしてほしいと思っています。不安や不快な感情に対しては取り除いたり、逃避することはしない人です。そういうものは自然現象だからやり過ごすことしかできないと思っている人です。不安や不快な感情に振り回されることがありません。感情と行動は切り離して考えることができる人です。その時、その場にふさわしい行動がきちんととれる人です。地震や台風などの自然災害や生命の危機、経済変動などにはあらかじめ十分な備えをしている人です。それ以上の自分の手に負えない災害や運命、変動については、潔く受け入れることのできる人です。これらを一言でいうと、「自然に服従して、境遇に柔順」ということです。事実を出来るだけ詳細に見つめることに専念し、「かくあるべし」で決めつけることが無く、是非善悪の価値判断をしない人です。事実本位、事実回帰の道を着実に歩んでいる人です。そういう人は「人生の達人」だと思います。
2016.04.10
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これから定年退職を迎える人は是非森田理論を活用してもらいたいことが2つある。一つは退職した途端に緊張感を一挙に緩めないということだ。ソフトランディングを心がけましょうということだ。仕事をしていた時は、基本的には毎日が緊張状態にある。きちんとした身なりをして、毎日決まった時間に家を出ていた。ところが定年退職した途端に、ネクタイをしめたりスーツを着ることはなくなる。夜更かしをして朝起きる時間もまちまちになる。寝たいだけ寝るので朝が遅くなる。その上昼間ウトウトするとすぐに昼寝をする。口が寂しくなるのでお菓子を間断なく食べている。仕事をしないので暇を持て余すようになる。マージャンや将棋、囲碁などのネットゲームにはまっている人もいる。テレビを一日中つけている人もいるそうだ。外出するのは食材を調達したり、買い物、趣味のパチンコや軽いスポーツなどである。このように生活が緊張状態から弛緩状態に急激に変化しやすいのだ。これはまずいい。森田先生は、風邪をひくというのは、外で寒い思いをして家に帰った時、こたつにもぐりこんで転寝のようなことをするときに起きるといわれています。緊張した糸がプツリと切れて、急に弛緩状態になった時に風邪などが忍び込んでくるのである。精神状態が緊張感がなくなることが問題なのだ。弛緩状態になることが悪いのではなく、その変化を急激に起こすことが問題なのである。このようなときは、まず服を着替えたり、郵便物を開封してみたり、鞄の中の持ち物を見たり、熱帯魚や観葉植物の手入れをしたりする。つまり緊張状態を徐々に緩めていくことが大切なのである。こたつに入ってゆっくりするのは、食事を済ませ、風呂から上がってからにするとよいのである。定年退職してほっとして急に緊張状態を弛緩状態に移行してはならない。定年後仕事をしない人は、出来れば定年前からしてみたいこと、やりたいことを20個ぐらい用意しておくとよい。それらに手をつけているうちに次第に生活が落ち着いてくるのではなかろうか。もう一つ是非応用してもらいたいのは配偶者との関係である。これは森田理論の「不即不離」を応用してもらいたい。よく定年退職後はずっと二人で過ごすという人がいる。朝から晩まで何をするのも一緒である。買い物にも一緒に行く。こういうのは「濡れ落ち葉」状態というそうだ。くっついて離そうと思っても離れない状態だ。どちらかというと共依存状態だ。お互いの世話をすることによって自分の生きがいや居場所を確保しているのである。それがなくなると生きがいを無くしてしまう。こういう人間関係はほほえましいようであるが、破綻しやすい。こういう状態で世間とのつながりを断ち老老介護状態に陥るとさらに危ない。そのうち介護不能に陥ると途端に生きることを放棄してしまう人もいる。また配偶者が亡くなってしまうと、生きる目的を失ってすぐにあとを追って亡くなる人も多い。森田では人間関係のコツは「不即不離」にあるという。夫婦の関係でも例外ではない。あまりにもひっつきすぎてはいけないし、また全く無視して離れ過ぎてもいけないという。ひっついたり離れたりが自由に臨機応変にできることを目指しているのが森田理論だ。だから定年退職後は夫婦がそれぞれ自分たちの好きなことを自由にのびのびとやっていく。基本的にはそれぞれの道で生活していく。でも細かいところでは助け合って協力していく場面は多い。そういうところではお互いに助け合っていく。そういう方向を目指していく。これから定年退職を迎える人は、是非とも森田理論を応用して活用してもらいたいものだ。
2016.04.09
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よくテレビで日本体育大学の「集団行動」というのがある。大勢の学生がきびきびと動く。交差しても隣の人とぶっつかることはない。これとよく似たようなもので、マーチングバンドがある。学生や県警音楽隊等の、楽器を演奏しながらの寸分たがわぬ行進には興奮を禁じ得ない。一服の芸術作品を見るようである。これらは誰かがプログラムを組み、カリスマ指導者がいて、強力なリーダーシップのもとで全員が努力精進した結果である。みんなで協力して一つの作品を作ろうという気持ちがないとなかなかできることではない。でもこれは、もう一面で人間も鍛え上げれば機械やロボットのように正確に動くことが出来るということを証明しているようにも思う。これと同じようなものに軍隊の行進がある。上官がいて全員に同じ服を着させて、同じような行動をとらせる。全体が一糸乱れぬ行動を要求される。足の挙げ方、手の振り方、顔の向きまで統一される。普通では考えられない統制力が要求される。これらは普通の人間には難しいかもしれない。それは普通の人は、人から一方的に指示、命令されて動くことに反抗するからである。自分で好きなように自由に行動したいという欲求を持っているからである。つまり人間には気があるのである。普通の人間は意味のある生き方をしたいと思うと同時に、さぼりたい、楽をしたい、もっと楽しみたいと思っている。つまり機械やロボットのような論理では人間は思い通りに動いてはくれないのである。人間性を無視して指示、命令、強制などで人を動かそうとすると無理が出てくるのではなかろうか。私たちは森田理論学習の「かくあるべし」でそのことを学んだ。その一つを自動車の組み立てラインで見た。そこではベルトコンベアーの上をゆっくりとこれから組み立てられる自動車が動いていた。組み立てに必要な部材は横の方からロボットアームによって運ばれて所定の位置に取り付けられる。人間はネジを締めたり、他の部分との連結作業をしていた。ロボットと人間の共同作業だった。どちらかというと、人間が機械やロボットに合わせているような感じだ。ラインの途中で仕事が遅れてくると、その部分の警告灯がくるくる回り、けたたましい警報音が鳴る。するとすぐにお助けマンといわれる人がやってきて仕事を手伝う。決してラインを止めてその人にゆっくりやらせるということはない。ガイドに「あの人たちはどれほどの期間同じ仕事をしているのか」と聞いてみた。すると最低2年であると言われた。精神障害を発症することはないのかと疑問が湧いた。自動車は日本の基幹産業である。でもそこで働く人たちの労働環境は厳しいものがあるのではなかろうか。人間が人間らしく働いているとはとても感じられなかったが、世間ではこれが当たり前のことなのだろうか。
2016.04.08
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「太陽の塔」をデザインした岡本太郎さんは、「生きることは遊びだ」と言っている。「生きることは遊びだ。お遊びじゃないよ。お遊びは無責任なものだ。だからお遊びなんて、いくらやったって空しんだよ。いのちを賭けて、真剣な遊びをやらなくちゃ」「趣味なんかで人間はほんとうに生き甲斐を感じて、全人間的に燃焼することはできない。私は好奇心も強いし、何にでも新鮮な興味を覚えるタチだから、ヒョコヒョコと動き回っているが、それは自分の貫いている生き方のスジにかかわってくるものだから面白いのだ。遊びだが、その瞬間に全存在がかかっている。命がけの真剣な遊びなんだ。」「目的が大切なんじゃない。目的を定めて、突き進む、その姿勢、ダイナミズム、緊張感こそ生きている意味がある。それをみんな勘違いして、目的達成、目標まであと何歩、と自分をウツロにしている。目標に振り回されているから、達せられなければ、がっくり落ち込んでしまうし、達成されればしたで、あとどうしていいか解らない。空しくなってしまう」「たとえ成功しなかったとしても、その人は存分に遊んだ、十分に生き甲斐を味わったはずだ。だからそれでいいじゃないの。結果はどっちでも、もう報われている。遊びというものはそういうものなのだ。過程が問題なのだ。やっているときが面白いのだ。何かを達成して終わる、というものではない」(いま生きる力 岡本敏子 青春文庫より引用)岡本太郎さんはここで大事なことを2つ言っているように思う。まず「お遊び」と「遊び」は違うということだ。「お遊び」は神経伝達物質のドーパミンを出して、快楽神経のエーテン神経を刺激するものだと思う。でもこの手の快楽は決して長続きするものではない。「お遊び」で継続して快楽を得ようとすると、絶えず刺激を与え続けなければならない。また慣れると快楽が薄まってしまうので、しだいに強い刺激を与えることも必要である。ギャンブル、飲酒、グルメ三昧、異性との交際等が代表的なものだ。「お遊び」は人生の醍醐味という点からすると底が浅い。本来の「遊び」というものは、目先の刹那的快楽を追いかけるようなものではない。自分の関心や興味のあるものに取り組んでいくうちに、気づきや発見が次から次へと出てきて、感じが高まっていくものだと思う。そして課題や目標が進化し発展していくものだと思う。これは本来の人間の生き方にかかわるものである。こういう生き方を続けていくことが出来る人は素晴らしいと思う。森田的生き方もまさにそこにある。二番目に岡本太郎は、森田理論でいう「努力即幸福」のことを述べている。たとえ目標が達成できなくたって、十分に楽しめた。生きがいを味わったということに意味があるのだ。目的を定めて、突き進む、その姿勢、ダイナミズム、緊張感こそ大切なところだと言っている。目標達成至上主義に陥ってしまうと人生は苦痛になってしまう。全くその通りであると思う。
2016.04.07
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長谷川洋三氏に「行動が性格を変える」という本がある。集談会の世話役をしていると、自分の神経症の苦しみは訴えられなくなる。それを言っていると、世話がおろそかになる。人の悩みを聞いて、きちっとメモする。そのうちに「ああ、そうだ、あの人どうしてるかな」と思って、電話をかけたり、手紙を書いたりする。そういう行動をしていると、いつの間にか自分の悩みを忘れている。集談会の運営をどうするか、来月のことだけでなく、再来月のことも、半年分のことも、一年分のことも考えようとか、世話人の負担が重くなりすぎないように、役割分担も考える。そういうことをしていると、「ああそうだ。自分のことは明日考えよう」ということになる。その明日が明後日になり、しあさってになりしているうちに、だんだん忘れていく。それが症状が消えていく一つのステップだった。集談会の世話活動をすると症状に振り回されることがなくなる。生活の発見会でよくいわれることである。集談会に始めて参加する時は、頭の中の大半は症状でいっぱいである。症状が治るという事はその割合が少しずつ低下していくことである。目の付けどころが内へ内へ向かっていたものが、少しずつ外へ外へと向かって、現実の生活が前進していくようになる。世話活動というのはその一環である。世話活動に一生懸命に取り組んでいくと、会社の仕事にも応用が効く。雑仕事も丁寧にこなすようになり、仕事の質が上がっていく。それと私が新たに提唱したいことがある。集談会ではどこでも自己紹介がある。自分の症状。最近の生活、健康、人間関係、趣味などをみんなの前で発表する。多くの人はメモをとって聞いている。このメモは自分の症状の解放にとってとても貴重なものである。神経症の成り立ち、神経質性格、不安と欲望、立ち直りのきっかけ、森田の生活への応用の仕方などのヒントが満載である。これを活用したいものである。ある人はこれを持ち帰り、家で一人一人の顔を思い浮かべながら、その人に今度会った時はどういう言葉をかけていこうかという事を考えられる。どういう点が共感できたのか。どういう点が評価できるのか。どういう点で壁にぶち当たっているのか。いろいろと試行錯誤をしていくのである。その際役に立つのは、あ行、か行・・・とインデックスをつけて分類しておく。その人の該当する欄に今回の自己紹介を書き加えていく方法である。こうすると同じ話は書き加えなくてもよいし、過去の自己紹介の内容も一目瞭然である。1年ぐらいの記録があればかなりのことが分かる。するとより的確な会話ができるのである。こういう活動をしていると、自分のことよりも相手になんとか立ち直りのきっかけを見つけてもらいたいという気持ちが出てくる。気持ちが内向から外向的になっていくのである。その行動はとりもなおさず自分の症状克服に役だっているのである。
2016.04.06
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大分県の高崎山のサルは、基本は野生の猿だが、ある程度人間に飼いならされている。観光客が威嚇したり危害を加えない限り、サルの方から人間に危害を加えることはない。だから近くで飼育員の説明を聞きながらサルの観察ができる。群れはA群、B群、C群と3群だったが、縄張り争いでA群は負けて消滅した。現在はB群とC群だけだ。平成28年1月現在、B群732頭、C群790頭だそうだ。これは世界最大級の群れだそうだ。オスのサルの序列ははっきり決まっている。若くて力があるものの序列が上かというとそうではない。その群れの中で長く生活している順に序列が決まる。長生きのサルは30歳ぐらい(人間でいうと100歳ぐらい)だそうだ。上から5番目ぐらいまでの序列のサルは尻尾を上にあげている。威厳を示しているのだろう。ところが仮に自分より上の序列のサルが目の前に来ると、サッと尻尾を下げて敬意を示す。たとえ目の前に食べ物があっても、下の序列のサルが食べるということはない。先輩のサルを立てているのである。サルは歳をとり体の自由が利かなくなると、群れから離れて一人で死んでいくという。またオスのサルは4歳ぐらいになると群れを離れて、他の群れに移ってしまう。奇形児が生まれないように自然にそうしているそうだ。メスのサルは同じ群れ内にとどまり一生を過ごす。若くて力のあるオスザルは人気がある。さらに思いやりのあるサルは人気がある。飼育員の話によると、自己中心的な行動ばかりとるオスザルはメスザルから嫌われる。普通はつがいのような関係になり、オスザルの周りにいて毛づくろいをするメスザルがいる。ところが自己中心的なオスザルにはメスザルがよりつかないそうだ。そうしたオスザルが一匹木の上に登りはげしく木を揺らしていた。あれはメスザル達に俺はこんなに力があるのだと見せつけているのだという。でもメスザルたちの視線は冷たい。嫌われているのである。これは自己愛性人格障害の人の特徴そのものだった。この障害の特徴は、無自覚と過剰警戒の2つである。つまり自己中心で他人に対して配慮が全くできない人。さらに自分はすごい能力を持っておると思いこんでおり、必要以上に見せびらかす人である。サルの世界にも同じようなタイプのものがいることに驚いた。そういうタイプは社会の中に溶け込むことが難しいのである。
2016.04.05
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最近テレビCMで目立つものに美容整形の宣伝がある。一重瞼を二重瞼に変える。顎の骨を削る。鼻の形を変えて高くする。シワを取り除く。体毛の除去。バストアップを図る。等など。この手のCMはまだ他にもある。太った体型を短期間でやせさせるエクササイズや健康機器。健康食品等など。禿げた頭をカモフラージュする植毛やかつら。こちらは2社が争奪戦を演じている。毎日毎日これらの宣伝がテレビで放映されている。刺激をかきたたせているのである。この風潮は如何なものだろうか。これらは今のありのままのあなたでは、社会には決して受け入れられませんよと指摘しているように見える。現在の自分の容姿を全否定して、見栄えのよい自分に作り変えないと生きてゆけないのだとメディアを使って思想教育をしているようなものである。せめて人並みの容姿に作り変えましょうよ。それがあなたを幸せに導く道です。それをCMでこれでもかこれでもかとあおっているのである。人が振り返ってくれるような自分に変身出来れば、その時点で初めて自信を持って積極的に行動できるはずだ。そういう幻想をふりまいているのではないでしょうか。これは神経症に陥るパターンとよく似ている。神経症の場合は自分の抱えた不安に取りつかれる。なんとか取り払わないと気になって仕方がない。そして取り除こうとやりくりを始めるのである。でもその不安はとれないばかりか、どんどん増悪していく。そして最後に蟻地獄の底に落ち込み、自分の力では抜け出ることはできなくなる。これらは根本的にやり方が間違っているのである。美容整形にしても、最初はちょっと気になる程度だったのだと思う。少し他人とは違うようだ。ところがそこにばかり注意を向けているうちに、引き返すことのできないどつぼにはまってしまったのだ。そして儲けの餌食にさせられてしまったのだ。どこで歯車がくるってしまったのか。神経症にしろ、整形にしろ、問題なのは現実、現状、事実の全否定にある。事実を端から否定して「かくあるべし」で自分を追い込んでいるのである。自分という一人の人間の中に二人の自分がいて、片方の自分が現実の自分をよい悪い、正しい間違いだといって価値判断していじめているのである。本来は同じ自分なのだから、折り合いをつけて、自分を最大の味方にしてしまえばよさそうなのにそうはなっていない。美容整形でいったん変身できても、体質が変わっていないので、また別の生きづらさが必ず発生するようになるだろうと思う。さらにその人が神経質性格を持っているとすると、まさしく神経症を発症することは容易に想像できる。美容整形で多額のお金を使うよりも、ありのままの自分を受け入れるという姿勢が先にこないとならない。自分に折り合いがつけられれば、自分のありのままをさらけ出すことができるようになる。なにも隠すことがなくなる。すると葛藤がなくなるので、生きづらさが解消される。そうなると初めて生活することが楽しくなるのである。
2016.04.04
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先日岡山で「心の健康セミナー」がありました。その時、日本のガン治療の名医100人選ばれておられる、すばるクリニックの伊丹仁朗医師より、最近のガン治療最前線について興味深いお話がありました。かって結核は不治の病のように思われていましたが、今は結核で死ぬような人はめったにいません。それと同じようにガンで亡くなる人がいなくなる日が、まもなくやってくるだろうということでした。それは今効果がはかばかしくない、手術、抗がん剤、放射線治療等ではありません。FAS阻害剤と近赤外光線免疫療法です。まさに目から鱗のような話でした。送っていただいた資料に基づき簡単に説明いたします。まずFAS阻害剤による治療とは何か。ガン細胞は猛烈な勢いで分裂と増殖を繰り返しています。その際多量のエネルギーを必要とします。そのエネルギー源は脂肪酸というものです。その脂肪酸を作るために必要な酵素があります。これがFAS(脂肪酸合成酵素)です。FAS阻害剤は、この脂肪酸合成酵素の働きを抑制するものです。つまりガン増殖のエネルギー源を断つ治療法なのです。ガン細胞を兵糧攻めにするということです。マウス実験では投与後1日経過しただけで、ガン細胞が破壊され、大幅にその数が減ることが確かめられている。アメリカで作られたFAS阻害剤はC31というものです。このFAS阻害剤はガン細胞に特有なFASだけに作用するという。だから正常な細胞には影響を与えないので、副作用が全くないそうです。これは2013年5月にNHKスペシャル「がん-人類進化が生んだ病」で紹介されたそうです。つぎに近赤外光線免疫療法とは何か。これはガン患者に、ガン細胞だけに特異的に結合するヒト型モノクローナル抗体と光感受性物質IR700の複合体を投与する。これに近赤外光を照射する。すると光感受性物質IR700が化学反応を起こしてがん細胞を破壊する。これでガン細胞は1、2分で破壊される。これも正常細胞は破壊しないので体に優しい療法である。また近赤外光自体は体には害はなく、体表から5、10センチの深さまで届く。オバマ大統領が2012年1月の一般教書演説でガン撲滅の新治療法として紹介している。この開発は、アメリカ国立衛生研究所で日本人の小林久隆氏が主任研究員を務めている。2015年4月からアメリカで臨床試験を開始。国策として臨床試験を支援するオランダやシンガポールでの臨床試験も予定されている。伊丹仁朗医師は、今闘病中の方は、実用化に目途がつくまでは、出来る限り手を尽くしてがん治療に取り組みましょうと言われておりました。伊丹先生は、その方法を30にまとめて紹介されている。「絶対にあきらめないガン治療・30の可能性」という本です。伊丹先生と私の接点は、その中の森田理論を応用された「生きがい療法」です。2人に一人がガンになる時代です。皆さまも関心を持って推移を見守りましょう。
2016.04.02
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私は今後強迫行為で悩む人はどんどん増えてくると予想している。今日はその理由を考えて述べてみたい。強迫行為は強迫神経症の一種です。ガスの元栓を閉めたかどうかが気になる。電気のスイッチを切ったか気になる。ドアの鍵をきちんとかけたかどうかが気になる。そのために確認行為を何度もしないと気がすまなくなる。そして実生活上の悪循環に陥っていく。普通の人でも何かほかのことを考えていて、後からどうだったかと気になることはある。引き返してまた確かめて安心する。そして今度は安心して外出できる。ところが強迫行為で悩んでいる人は、意識して、閉めたという音を聞く。ノブを持って確かめて一旦はしまっていると納得する。でもしばらくすると、あれは錯覚ではないのかという考えが頭の中に広がってくる。不安でいっぱいになるのである。そしてその不安がどんどん昂進してパニックになるのである。その後鍵だけではなく、ガスの元栓、照明や家電のスイッチ、手の汚れなどにも波及してくることが多い。そういう人は、五感は信用できないと思っている。見る、音を聞く、触れる、味わう、匂うという感じを端から信用していないのである。どうして自分の五感が信用できないのだろうか。もともと五感というのは、人間が生き延びていくためにレーダーの役割を果たしていました。他の肉食獣に襲われないために、常に五感を研ぎ澄まして警戒を怠らなかったのです。また自分たちの食料を得るためにも、五感を研ぎ澄まして、十分に活用する必要があったのです。さらには五感を活用して、鋭い感性を磨きあげながら、豊かな感情を育み、四季折々人生を謳歌していたと思われます。現代に生きる我々はどうか。テレビやパソコンの情報を相手にして生活するようになりました。現地に足を運ばなくても、世界各地を旅行した気分にしてくれます。三ツ星レストランに行かなくても、そこでどんな料理が出されるかお茶の間で瞬時に分かるようになりました。そうなると現地に足を運んでいなくても五感で感じ取ったような錯覚に陥るようになっているのです。でもそれは錯覚であって、五感で感じた生々しい体験とは程遠いいものです。そこが実感として分からなくなっているのです。例えば、プロ野球の観戦で実際に球場に足を運んだ場合を想像してみてください。まずは球場の広さ、熱気、寒さ暑さ、吹きわたる風、緑の芝生、カクテル光線、選手達の動き、テレビで映し出されない試合前の練習、観客席の具合、大音量で流れる球団の応援歌、さまざまな観客の応援風景、ジェット風船、いつともなく飛んで来るホーランボールやファールボール、ビールや飲物、食べ物の味などが五感を通じてピンピンと体感できます。これは自宅でテレビ観戦しただけではわからないものがたくさんあります。でも今の子供たちは、そうした生の体験をしないでテレビやパソコンの画像と音声だけで分かったつもりになっているのです。その見る、聞くというのも現地に行って体感するのとは雲泥の差があるのは明らかです。こうした状況で、はたして見る、聞く、臭う、味わう、触れるという五感の感覚が研ぎ澄まされて、まともに育っていくでしょうか。残念ながら五感は十分に活用しないのでどんどん衰退してしまうでしょう。そして五感の体感の経験を持たない人たちが大量に生み出されてしまいます。今は五感の感覚がわからない人が増えてきます。終いには、五感なんて信じられない。それよりもメディアを通じた情報や流行の方が信頼できるということになってしまいます。五感よりも知識や情報が大切だと思う人が増えてきます。でもこれは大変危険なことです。動物行動学を研究されている青木清先生は次のように言われている。「本来、人間というものはニオイや音、視覚や触覚など五感によって、情報を収集する存在なのです。たとえば赤ちゃんは五感の刺激を受け取って初めて、言語中枢を作り上げることができる。つまり、五感は人間活動の大前提にあり、五感の刺激自体が、生き続けていく上で不可欠な要素である。けれども今の社会は、言語を中心とした情報ばかりを重視して、身体での経験を軽視する傾向がある」と言われています。(五感喪失 山下柚実 文藝春秋 46ページ引用)五感軽視の人間社会がどんな弊害をもたらすのか、真剣に考えてみないといけない時代に入っています。
2016.04.02
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森田理論学習では、事実をよく観察して、できるだけ具体的に話すことを勧められます。そのことで、参考になる話を、再度投稿します。5歳ぐらいの子供が新聞紙に水が滲みたとき、こんなふうに表現しました。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた。」もう一つ紹介します。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、しろ。これは小学生の横山あやちゃんが、4年生のときに自宅で飼っていた13匹の蚕につけた名前です。おとなが見ればどれも同じ虫に見える蚕でも、あやちゃんは13匹の個性的な顔と生活を、見事につかんで成長を記録した。1匹ずつ、わずかに違う顔の特徴も、ノートにきれいにスケッチしている。(状況が人を動かす 藤田英夫 毎日新聞社 209、218ページより引用)私たち大人は、この子どもたちのように観察や表現ができているでしょうか。私はできていません。いつの間にかそのようなささいなことに興味を持つことはなくなりました。でも森田理論学習をしていて、いま改めて思います。私たちは誰でも生きづらさを解消して、味わいのある意味のある生き方をしたいと思っている。そのためには、森田理論学習で「生の欲望の発揮」と「事実本位の生き方」を身につけることが大きなポイントとなると学んできました。この中で、事実本位の態度を身につけるためには、事実をよく観察して、具体的、詳細に話したり、書くことが出発点になるのではないでしょうか。そういう意味では、この子どもたちは私たちの先生のような存在です。この子どもたちは私たちに次のように問いかけているような気がします。あなたは事実を掴もうと努力していますか。あなたは事実を抽象的ではなく、具体的に話していますか。あなたは事実を捻じ曲げるようなことはありませんか。あなたは事実をごまかそうとしてはいませんか。あなたは都合の悪い事実を隠そうとしてはいませんか。あなたは嫌な事実からすぐに逃げてはいませんか。あなたの事実認識は偏ってはいませんか。あなたは事実をいつも両面観でみていますか。あなたは現実や事実を「かくあるべし」で批判、否定、拒否してはいませんか。あなたは事実を自分のものさしでよい悪い等と価値判定して批判、否定、拒否していませんか。あなたは「純な心」「私メッセージ」を対人関係に活用していますか。もしそうでなかったとすると、あなたは対人関係で苦労し、生きづらさを抱えながら日々生きているのではありませんか。
2016.04.01
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