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プロ野球の選手の契約更改がほぼ終わった。リーグ優勝を果たした広島カープもすべての契約更改が終わった。今年は一億円以上の選手が続々と誕生した。主力組はオフをどのように過ごしているのか。シーズン中に傷んだ体のケアをして、ゴルフや家族サービスをしてゆっくりと過ごすのかと思っていたがそうではないようだ。秋季キャンプが終わった今は自主トレ、筋トレを続けている。1月は気の合う仲間と合同自主トレが始まる。鈴木誠也選手は昨シーズンに続き、ソフトバンクの内川選手と自主トレーニングをするという。新井選手、石原選手、堂林選手などは鹿児島県で炎の中での護摩行をするという。のんびりしていると自分のポジションはいつ誰に奪われるか分からない。選手達はみんな熾烈なサバイバル競争の中で戦っている。有望な新人が毎年5人、6人と新加入してくる。外国人の補強もある。本人がいなくても替わりはいくらでもいる。見ている方はその方が楽しいのだが、選手にしてみるとたまったものではないようだ。先日テレビを見ていると体や技術を磨く以上に今年の反省とデーター分析に力を入れているという。特に主力組はそちらのほうが来期戦っていく上で重要になる。今年の他チームの試合はすべてビデオにとってある。今は編集も自在にできる。そういう映像編集の専門家もいる。他チームの一人の選手を集中してあらゆる角度から分析できる。これを活用してまず戦う相手を観察し尽くすのだそうだ。バッターの場合は他チームのピッチャーの分析を徹底的に行う。数多くのビデオをみて傾向やクセをつかむのである。どんな球種を投げるか。カウントごとにどんな球を投げるか。投球動作にクセはないか。コントロールはどうか。スピードはどうか、変化球の切れはどうか。ピンチに動揺する選手かどうか。牽制球にクセはないかどうか。バント処理はうまいか。投げた後の守備はどうか。次にはキャッチヤーのリードの傾向も徹底して分析する。キャッチヤーのリードに偏りはないか。カウントごとに傾向は現れていないか。バッテリーの呼吸は合っているか。これらを一人でやるのは心もとないという。これを何人かのコーチや選手が一緒になって気づいたことを出し合うのである。チーム一丸となって分析するのだ。今年の成績が良くてもその延長線上でよい成績が残せるほどプロは甘くない。相手も徹底的に分析してくるのだ。研究を怠れば、肝心なところでボロが出てしまう。バッターは3割打てれば一流と言われている。3回に1回か、4回に1回ヒットが打てればプロの世界で飯を食っていける。簡単にできそうだがプロはそんなに甘くない。ではどうするか。バッターとしてはストレートを予測して、ストレートが来た時に一発で仕留められるバッティング技術を向上させる。スライダーを予測したら、それも一発で仕留められる技術の向上。その上で少しでも戦いを有利に進めようと思えば、相手ピッチャーのクセを読み、相手の投球の傾向を読んで、少しでも自分を有利にして勝負の場に立つことである。次にピッチャーの場合はどうか。相手チームの1軍レベルの選手を徹底的に分析する必要がある。一人ひとりどんな特徴があるのか。初球から振ってくるバッターか、初球は見逃す傾向が強いバッターか。ピンチに燃えるバッターか。ホームランバッターかアベレージバッターか。バントはうまいかどうか。球種にヤマを張るバッターか。それともコースにヤマを張っているバッターか。ストレートに強いか、変化球に強いか。弱点は何か。低めが強い選手か、高めが強い選手か。これもコーチや何人かのピッチャーが集まって相手バッターを分析するのである。そこまでしても、3人の打者に対戦すれば1本のヒットを打たれる確率があるのがピッチャーという仕事である。ヒットは打たれても、次の打者と冷静に勝負できるかどうかが問われているのである。もし仮に、自分たちが相手の分析を怠り、相手が自分たちのことを丸裸にして分析していると勝負の前にすでに負けているようなものだ。少なくとも対等の状況ではない。筋力や技術の向上ももちろん大切である。でもそれだけではプロの選手とは言い難い。相手の傾向や弱点を把握して、迷いをふっ切って勝負に向かわないと明日の身分は保障されていないと思ったほうがよい。森田理論では事実を先入観や決めつけをしないで、よく観察することを勧めている。そういう意味では、プロ野球の世界で森田の考えが実践されているのである。天性の能力を持って力まかせの野球選手よりは、多少非力でも戦う相手をよく観察して、相手選手に対応できる能力のある人が、長らくプロ野球の世界で飯を食っていけるのかもしれない。
2016.12.31
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宮本武蔵の「五輪書」にはこんな一節があります。「太刀にても、手にても、ゐつくという事をきらう。ゐつくは、しぬる手也。ゐつかざるは、いきる手也」これは、敵や相手と戦う時に、相手の刀の先や手などに、自分の視線や意識を「居つかせて」しまってはダメだということです。剣先の動きだけにとらわれるのではなく、視野を広く大きくとって、「その場全体」をふあーっと捉えなければならないということなのです。なにしろ戦いと言うのは、いつどこから刺客が襲ってくるのか分からない。周囲ばかりに気をとらわれていると、その隙をついて、目の前の相手が思わぬ動きに出るかも分からない。つねに「その場全体」をとらえ、さまざまな気配の変化に注意を払う必要があります。もし変化にとっさに反応できなければ、命を落としてしまうこともあります。その危険予知能力の高さが、勝敗のゆくえ、命のゆくえを握っているわけです。(龍馬脳のススメ 茂木健一郎 主婦と生活社 112ページより引用)このことを森田では「無所住心」と言っている。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転しながら、音楽を聞く。ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。誰でも最初自動車教習所に通い始めて、初めてハンドルを握った時はとても緊張したと思います。初心者のうちはウインカーやバックミラー、シフトレバー、ブレーキ、アクセルなどが気になり、あちこちに注意が向いて固定してしまいます。車を操作するということが精一杯で、安全に車を動かすための注意の気配りはできていません。バックをしていて横にぶっかったりして、不安定な走行になります。でもその段階を乗り越えると、自分の不安や動作にばかり向いていた注意はまんべんなく行き渡るようになります。他の車の動き、歩行者の動き、道路の状態、天気、交通検問、スピードの監視などに向くようになります。また目の動きも適切になり、危険を回避しながらスムーズに車線変更も出来るようになります。いくら不安な問題を抱えていても、注意の大半は安全走行のために緊張しているのです。緊張感がなく弛緩状態で車を運転していると危ないことこの上もありません。「無所住心」という森田の考え方は、症状のみに注意を向けるのではなく、車の運転の時のように、四方八方に注意が向いてくるような生活のことをいいます。
2016.12.30
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アインシュタインは、「感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである」といっています。映画を見て涙が出る。テレビドラマを見て感動する。カラオケを聞いて感動する。ベランダの草花を見てうれしくなる。他人から思いがけない親切をされて感動する。努力して何かを達成したときに涙が出てくる。そんなことが一日に一回でもあれば、人間に生れてきてよかったということになる。考えてみれば小さい頃はそんなことの連続だったような気がする。見るものやることのすべてが新鮮だった。好奇心、チャレンジ精神に満ちていて、毎日達成感や感動の連続だった。失敗やミスはやる気や意欲をさらにかきたてて、落ち込む原因とはならなかった。ところが大人になると、感動することが少なくなってきた。なぜそうなってしまうのか。茂木健一郎氏は次のように言われています。「大人になると、当然のことながら知識や経験が蓄積されてきます。それらを使いこなしていけば、わざわざ自分を変えなくてもなんとか生きていけるからです。自分や生き方を変えるということは、楽しく刺激的なことではありますが、反面でしんどいことでもある。そうすると、わざわざしんどい思いをしなくても、今のままでいいやと思ってしまうことがあるのでしょう。また年齢を重ねていくに従って、変わることを恐ろしがるようになる人もいる。いまさら自分を変えても仕方がない。変なふうに変われるよりも今のままでいい。そういう消極的な考えが頭をもたげてきます」(感動する脳 PHP文庫 茂木健一郎136頁引用)自分の周囲、世の中はどんどん変化しているのに、現状に満足して自分を変えようとしなくなってくるのです。今の生活に満足してしんどい思いをしてまでリスクをとる必要はないと考えているのです。すると少しずつ心身に変調をきたしてきます。まず脳が廃用性萎縮を起こします。新しいアイデアが必要とされるときに頭が働いてくれなくなるのです。次に筋肉が弱って体が自由に動かなくなってきます。足腰が弱ってしまうのです。新しい会社を興して、成長発展して衰退していくのは30年サイクルだと言われています。何もしなければ30年で会社はつぶれてしまうと言われているのです。会社をつぶさないためにはどうするか。経営の神様と言われているP.Fドラッカーは「廃棄」することだと言っている。組織は3年おきに、すべての製品、サービス、流通チャネル、方針を見直して変化に対応していく必要がある。3分の1ずつ入れ替えていく必要があると言っている。つまり企業の存続はイノベーションの繰り返しであると指摘している。それを怠った会社はすぐに消え去ってしまうというのだ。リスクをとって変化を見きわめて、自分を変化に対応させていくことが生き延びていくために必要だということだろうと思う。(未来への決断 ドラッカー ダイヤモンド社 38ページ)変化を恐れて、現状に甘んじてしまうことは、感動を味わうことが少なくなる。またあらゆるものが縮小再生産を余儀なくされてしまうために人生を謳歌することができなくなってしまう。森田理論ではことのほか変化に素早く対応する態度の養成を大切にする。変化をとりこんでいくことは、欲望の発揮に邁進することだと思う。そうなると日々生きる喜びを満喫できるようになると思う。
2016.12.29
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森田先生に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という話がある。月明かりの中、人目のない墓場のような所を一人で通りかかる。「何か出てこないかな」とビクビクしながら歩いていると、ススキが風に揺られて音を出す。「ワッー」と駆け出そうものならパニック状態になる。枯れススキまでが幽霊に思えてしまう。さらに急いで走りだすと、自分の足音さえも誰かが追いかけてくる足音に聞こえてしまう。足がもつれて思わぬケガをすることもある。私にもこれと同じような経験がある。私は高校時代に片道13キロの道のりを自転車で通っていた。途中木が鬱蒼と茂り、近くに民家が全くない山道を一つ越えなければならないところがあった。その山道の頂上には地獄図のような絵がかかった神社があった。昼間はどうと言うことはなかったが、秋から冬間にかけては早くから日が暮れて真っ暗になった。その山道を一人で超えていくのはとても恐ろしいことだった。特に雨の日は嫌だった。何か出てくるのではないかと思っている時に、風で木々がザワザワと音を立てると生きた心地はしなかった。そこにさしかかると、山の頂上までは自転車を全速力で押して登っていく。頂上に着くと今度は全速力で下る。ところが恐怖に取りつかれているので、早く民家のあるところまで降りようとして必要以上にスピードを出す。そのために時には石に乗り上げて、ひっくり返るということが何度かあった。また尖った石に乗り上げてパンクをすることもあった。山頂では幽霊のようなものが出てくるのではないか。恐怖が恐怖を呼んでパニックに陥っていたのでやることなすことが裏目に出てしまうのだ。森田理論学習でそのからくりが分かった。恐怖から逃げようとする行動は、精神交互作用によって、恐怖自体がその何倍にも膨らんでしまうのである。幽霊のようなものが出てくるのではないかと思うと注意がその一点に向けられる。すると益々その感覚が強くなる。するとさらに注意がそこに集中される。負のスパイラルの始まりである。森田では恐怖から逃げるのではなく、あるがままに受け入れるようにと教わった。「自分は今とても恐ろしい。どうすることもできない。せめてガタガタ道だから細心の注意払ってケガやパンクだけはしないようにしよう」そうすれば恐ろしいことは恐ろしいのだが、そのままにしておけば、その大きさが増悪することはなかったのだ。それなのに気を紛らわせる、急いでその場から逃げようとしたために、自分の思いとは反対の結果を呼びよせてしまっていたのである。こうした態度が、容易に神経症として固着してしまう原因となることが分かってきた。私はまさに全く違う対応をしていたのだと後で気がついた。
2016.12.28
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私はカラオケが大の苦手である。You Tubeのカラオケで歌ったものを録音して聞いてもどうも音程が外れている。「カラオケを楽しむヴォイス・トレーニング」も勉強してみた。「カラオケ一番」というテレビにつなぐカラオケマイクを買って練習もしてみた。下手なのにあきらめが悪いのである。と言うよりも負けず嫌いなのかもしれない。このカラオケには採点機能がある。甘い採点基準になっているが、それでも80点から90点ぐらいが精一杯というところだ。楽器の演奏ができるのだから歌もうまいだろうと言われることがあるが関連性はないと思っている。先日集談会で忘年会があった。そこでカラオケ大会があった。一人一曲ずつは歌うことになっていた。とりあえず練習をしてみた。いつも練習している「還暦祝い唄」「長生き音頭」「幸せ音頭」「栄冠は君に輝く」「夢追い酒」「奥飛騨慕情」「きみがすべてさ」「博多時雨」「夜桜」「娘よ」である。You Tubeのカラオケに合わせて歌ってみた。それを録音してあとで聞いてみた。ここで活躍したのは先日ヤフオクで落札したPCM録音機だ。歌は納得できるものではなかった。その中でも「還暦祝い唄」「博多時雨」「娘よ」だけはなんとか様になっていた。そこで楽譜を見て、まず音程は度外視して、音の長さにだけ気をつけて歌う練習を徹底的にした。これはサックスの練習をするときに、音の長さ、休止符を重視するのにヒントを得たのだ。小節ごとに分けて何度も練習した。この録音機には同じところを何回も再生する機能があるのだ。だんだんよくなってきた。何回も練習するというのがいいようだ。次に歌手が歌っているのに合わせて歌いさらに録音してみた。You Tubeの音源を5とすると、自分の声が8ぐらいなので、歌手の声が伴奏になって自分が歌っているように聞こえる。最終的に「還暦祝い唄」の1曲に決めた。別の忘年会には「娘よ」を歌うことにした。結果としてはそんなに見劣りがすることなく歌えた。そのときセミプロ級の人からこんな話を聞いた。「今日カラオケがあるということで朝から発声練習をしてきた。その後レッスンの先生の指導を受けてきた。家に帰ってからもカラオケで10回ぐらいは練習をしてきた。この一曲に精魂かけて歌っている。歌うからにはみんなにプロを超えていると言わせたい。」歌は福田こうへいの「南部蝉しぐれ」だった。本物の歌手なみで感動ものだった。私は歌のうまい人は急に歌うことになっても上手に歌えるものと思っていた。そんなものではなかった。陰で懸命に努力していたのだ。そういえばアスリートでも事前準備に十分に時間をかけて、意識も徐々に高めている。カラオケでも、ある程度天性のある人が、それに輪をかけて練習をされていたのだ。
2016.12.27
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12月になるとみんな年賀状を書きます。でも億劫だと思っている人はとても多いようです。そのうちどんどん日が経って、最後にお尻に火がついて、やっと重い腰をあげるという人が多いのではないでしょうか。森田で言うと気が重いなと思いながらも、写真はどれを張りつけるのがよいのか考える。そして文面を考える。そこまでくれば、弾みがついてくる。それをパソコンで作ってみる。何種類か作って比較してみる。一つに決まればプリントしてみる。問題無ければ全部プリントする。そこまで済ましてしまえば大分気が楽になる。次は宛名書きだ。私は手書きだ。私はいっぺんにはやらない。12月に入ると、1日5枚から10枚程度と決めている。時間は30分ぐらいだ。去年もらった年賀状を見て書いている。喪中のはがきも忘れないようにしている。書いたらリスト表にマーカーで消し込みを入れる。こうすると書いたどうか迷うことがない。たまに同じ人から2枚ももらうことがあるがこういう管理をしておられないのではないかと思う。機械的に処理されているのがすぐに分かる。宛名書きが終わったら、必ず一言付け加えるようにしている。これが無いと本当に味気ないものになってしまうように思う。この手の年賀状が多いいのはとても寂しいことだ。このような手順でやるといつの間にか書き終わっているということになる。以前は年賀状一枚の人間関係を大切にしようと500人に出すことに挑戦したことがあった。発見会の仲間、親戚関係、会社関係、資格試験の仲間、同級生、趣味や習い事の仲間などである。350人まではいったが大変なので今はやめてしまった。今は反対に疎遠な人から少しずつ減らす方向に進んでいる。それよりも中身のある年賀状がよいと思う。私は以前年賀状をもらってうれしかったことがある。同級生の娘さんをがんで亡くされたお父さんからもらったものだ。それは草木染めの染料使い山羊の絵が描いてあった。小さい時に虚弱体質だった娘のために山羊の乳を飲ませていたと書いてあった。これは1枚ものであり、その姿勢に感動した。それから書道の先生からそれはみごとな毛筆で書かれたものであった。これも手作りでありしばらく眺めていた。お金を出しても手に入らない宝物となった。以前アサヒビールの九州支店長という人の講演をきいた。その方は年が開けると来年の年賀状に使う絵を書いているということだった。何年にもわたって続けてきたと言われていた。その作品の数々を見せてもらったが見事な出来栄えだった。それが評判になりもらってない人からもぜひ私にもとリクエストをもらうようになったということだった。たかが年賀状であるが、ひと手間かければ多くの人に元旦から幸せのおすそ分けをすることができるのである。森田先生もよく言われているが、年賀状もお使い根性でやっていては、自分も苦痛であるが、相手によい印象を持ってもらうことは永遠にやってこない。年賀状作りに精魂を傾けて、生きがいにしている人もいるということは知っていてほしいものである。
2016.12.26
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神山五郎さんの話です。口蓋裂といって、先天的に口の奥の天井部に裂け目があるために、息が鼻に抜けてしまい、発音がうまくできないという障害があります。特にナ行の「なにぬねの」を発音しにくいのが特徴です。口蓋裂は命にかかわる病気ではなく、手術をして2カ月ほど発音訓練をすれば普通に話せるようになります。ある20代の女性が口蓋裂の手術をしました。発音訓練も無事に終わり職場に復帰しました。そこで新たな問題が発生しました。それまでは、うまく発音できなかったので、職場では電話に出ないですむ仕事をしていたのです。ところが普通にしゃべれるようになったものですから、電話にも出るような仕事に変えられたのです。彼女はそうした経験が今までなかったので、どう話してよいのか分からないのです。それがストレスとなり、精神的に追い詰められ、職場恐怖になってしまいました。困った挙句神山さんのクリニックを尋ねてきたのです。神山さんは次のようにいっています。彼女にとって普通にすらすら話せるというのは、極めて不自然な状態です。そうした状態を無理に変えようとすると、精神的に不安定になります。症状というのは嫌なものです。だから症状をとろうとするのです。ところが症状がない理想的な状態になると、もっと解決の困難な問題が突きつけられるということです。これは神経症の人にも言えます。吃音恐怖の人が、この症状さえ治せば、人前に出て物おじすることなく、堂々と話が出るはずだと考えられます。そのために矯正訓練所などに通って必死に努力されたりされます。時間とお金をつぎ込んでもなかなかよくはならないといいます。それよりもドモリながらも一生懸命に話している姿を見て、なんとか応援してあげたと思っている人もいるのです。そちらの努力の方がはるかに意味があるということではないでしょうか。
2016.12.25
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私は自分の食べるものはできるだけ自給するという考え方に共鳴している。実際に米、野菜、梅や柿、花を作った。それから加工食品も数多く手掛けてきた。またそういう人たちのやっていることは興味深くウォッチしている。ピザ釜を作ってピザを焼いている人。生ハムを作っている人。燻製作りを楽しんでいる人。漬けものつくり。ぬかみそ作り。味噌、しょうゆ作り等いろんな人がいる。私は今までどんなことに挑戦してきたか。梅干し、ラッキョウ漬。ブドウ酒、梅酒。豆腐作り。野菜の一夜漬け、干し柿つくり等である。今年は梅酒を作って飲んでいる。これは梅とリキュール酒と氷砂糖があれば簡単にたくさんできる。自分の作ったものは多少味が違っていてもうれしいものだ。今日はその中で美味しい赤ブドウ酒作りのことを投稿してみようと思う。これは完熟したブドウがよい。腐る寸前の物がよい。このブドウは洗ってはいけない。酵母菌が洗い流されてしまうからだ。房から一つづ取り外す。腐敗したブドウは取り除く。ブドウは山ブドウ、キャンベル、ベリーAのような酸味の強いのがよい。巨峰等の甘いブドウは適さない。これを大きなボールに入れて手でつぶす。容器は雑菌が混じらないほうに煮沸しておくことも大切である。これを発酵させる。梅干しを作るような大きな容器に入れる。発酵してくるので8分目まで入れることである。仕込んで一週間ぐらいは激しく発酵してくる。だから密封してはいけない。ゴミが入らないようにしておくだけにする。アルコール度数を調整するのは砂糖である。細かく調整したい人は書籍に記載されているので調べてほしい。温度は28度くらいがよい。それ以上になると酢酸菌が増えてきて、ブドウの酢になってしまう。2日から4日ぐらい経ったらさらしで絞って果皮、果肉、種子等を取り除く。1ヶ月くらいすると、酵母菌の死骸やカスが下に沈澱してくる。ここで「おり引き」を行う。ブドウ酒を入れた瓶を上にして、そこの上澄みにビニール管を入れてサイホンの原理で下の瓶に移してやるのである。オリは捨てる。その際コーヒー用のろ紙でろ過するとよい。これを1カ月毎に3回行う。これでオリがなくなりブドウ酒が完成する。完成すると瓶に移してできればコルクで栓をする。無ければできるだけ密封する。口を下に向けて空気に触れないようにして熟成させる。うまくいくと防腐剤などの無い美味しいブドウ酒ができる。最初は思わぬ失敗もあるので、すこしずつ始めることをお勧めする。(どぶろくをつくろう 前田俊彦 農文協参照)神経症で悩んでいる人は、加工食品作りに挑戦してみては如何でしょうか。楽しめると思います。
2016.12.24
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岩田真理さんは、森田理論学習を長年続けてきた人の中に、治り過ぎに見える人がおられるといわれている。どこか尊大な態度で、自己主張が強い人である。炊きあがったご飯に芯があるような人である。おじやにして再調理をしないと食べられるようなものではないのだ。そういう人が自信満々でとうとうと森田理論の説明をされる。相手の話を聞くよりも、アドバイスを前面に出される。批判、指示が中心となる。励ます、評価するという視点はほとんど持ち合わせていない。どちらかというと、相手の力になろうとするよりも、自分の偉大さを鼓舞しようとされているように見える。それだけならがまんして時間が通り過ぎるのを待てばよい。しかしながらそういう人は、相手が自分の考えている「かくあるべし」と違うと相手の攻撃をはじめられる。どうして相手がそのように考えているのか理解しようとする気持ちは全くない。あからさまに暴力を振るわれることはないが、言葉の暴力である。それも徹底的に排除しようとされる。不安や不快感を払拭されようとするのだ。そのエネルギーだけには感服する。自分の言葉に刺激されてどんどんエスカレートしていく。そういう人は「症状はあるがままに受け入れてなすべきをなす」ことで神経症を乗り越えたという成功体験を持っておられる人が多いようにお見受けする。自分の成功体験を参考にして、みんなが森田療法に取り組めばきっとあなたはよくなるはずだと思っておられるのだ。それはあまりにも一面的な見方だ。そういう人は、「かくあるべし」を少なくして、事実を受け入れて、事実に服従していくという学習がきわめて脆弱である。そういう人に試しに思想の矛盾の乗り越え方、是非善悪の価値判断の功罪の話を聞いてみるとよい。きっとまともな回答を得られないと思う。理解して体得しておられれば、相手からどんなに不快な気持ちにさせられても、攻撃する前に、その事実を受けいれているはずだ。相手を不快にさせることは最初からないのである。でもそういう方も一応は神経症を克服した人である。その時点で社会適応でき、生活の悪循環が断ち切られたのであれば、それはそれで結構なことである。しかしこれは森田理論学習ではそれは初期の治り方である。森田先生の言われているように、小学校卒業程度ある。この後中学、大学卒業程度の治り方がある。森田先生の言われる中学、大学卒業程度の治り方をしている人は、人を蹴落としたりしなくなる。自分の主義や主張を押し付けることはなくなると思う。それは「かくあるべし」が少なくなり、思想の矛盾が止揚されているからである。また自分の価値観で人を裁くことはなくなる。是非善悪の価値評価とは無縁な生活ができるようになるからだ。治り過ぎて、どこか尊大な態度で、自己主張が強い人はそういう学習の深め方をしておられないので自覚が足りないのだと思う。とても残念なことだ。本来そういう治り過ぎ、半治りの人で満足している人は、一歩下がって静観するというスタンスでいてほしいものである。どうしても口を挟みたい時は、まず相手の話を先入観や決めつけを持たずによく聞いてみることに専念する。相手のことをよく分かるための努力をする。そのためには相手の話したことに、事実と感情の繰り返し話法を使って対応する。非難や指示を止めて、相手の良いところや長所を見つけてほめる、励ますことを心掛ける。アドバイスは相手が聞いてきたときだけにする。情報を幅広く集めて、情報を伝えるという気持ちを持つことが大切だと思う。(「流れと動きの森田療法」岩田真理 白揚社 参照)
2016.12.23
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最近は3組に1組が離婚しているという。家庭内別居状態にある人を入れるとその予備軍はまだまだ多い。こういう状態だと家庭に安らぎはなくなり、生きていくことがつらくなります。夫婦の人間関係が悪化している人は、職場などでも躓きやすい傾向があります。さて離婚の具体的な原因にはこんなものがあります。・配偶者が親の言いなりになってしまい、自分の気持ちを無視する。・相手の両親、親族が受け入れられない。・嫌いな食べ物を毎日食卓に出す。得意料理が少ないし美味しくない。・食器の片づけ、洗濯、掃除、整理整頓をしない。協力しようとしない。・一方が几帳面で、一方がルーズである。お互いの習慣に我慢できなくなった。・浪費癖がある。ギャンブルに凝る人である。酒癖が悪い。暴力を振るう。・自分ことを拒否する、否定する。批判する。けんかをふっかけてくる。・生活費を入れてくれない。・お互いに出歩いてばかりで家のことはほったらかしにしている。・生活リズムが違うため、すれ違いの生活になった。連絡もしない。・カレーやスープを食べる時にスプーンをガチャガチャと音を立てる。・漬物を食べる時の音に我慢ができない。・食事中に平気で鼻をかむ。・テレビは自分勝手に好きな番組ばかり見る。・たびたび電話で長話をする。自分の話は上の空で聞いている。・子供との触れ合いがない。子育てに無関心。教育方針が合わない。これらを一言で言うと「性格の不一致」と言うそうだ。最初は小さな気に障ることでも、一緒に暮らしていると、どんどんと癪に障ってくる。そのうち相手の人格そのものを受け付けられなくなる。顔を見るのもイヤになる。そうなると離婚の危機が身近に迫ってくる。神経症が精神交互作用で悪化していくのと同じ現象が起きている。子供のことや老後の生活を考えると、籍だけはそのままにして家庭内別居などがよさそうに思うが、当事者にしてみればきれいさっぱりと別れたい気持ちになるのだろう。でも見ず知らずの他人が一緒になるということは、最初からそのことは分かっていることではないのだろうか。いまさらどうしてそんなことを言うのだろうか。あるいは、そのことは十分に分かっているが、それでもなんとかして、相手を自分の思い通りにコントロールしたい。そうしないと気がすまない。でも相手が猛烈に反発して自由にコントロールできない。こんな状態では、もう一緒に生活している意味がない。いっそのこと別れてしまおうということになるのだろうか。二人とも、あるいはどちらか一方に強いエネルギーがある場合に即離婚に発展しやすいようである。森田で言う「かくあるべし」が強いのである。こういう夫婦には次のような特徴がある。・問題を解決するときに自分の考えを優先させている。・相手の意見を十分に聞いてみようという気は最初から無い。・夫婦二人の話し合いの場を持とうという気がない。・あるいは意見の食い違いがあると、すぐに感情的になって口論になる。相手を自分の支配下に置こうとする。こういう夫婦はもともと赤の他人が一緒になるのだから、衝突やトラブルはたびたび起こるという前提に立っていないようだ。結婚するときはあばたもえくぼに見えてのぼせあがっていたのだろうか。結婚する前はいろいろと気を使って相手の立場を尊重している。いったん結婚してしまうと、自己主張ばかりで相手を思いやるということがなくなる。釣った魚に餌はやらないという関係になっている。だから結婚するときに「あなたを幸せにします」「娘さんを幸せにしますから是非結婚させてください」等と軽々しくいうのはどうかと思う。耳触りがいいだけで、実現不可能なことではないかと思う。相手を一方的に幸せにするというのは、自分を犠牲にして、相手の喜ぶようなことを第一に優先していきますということを宣言しているようなものだ。そこには、将来待ち構えている課題や問題点に、二人で協力して乗り越えていくという視点が欠けている。だいたい人間というものは、誰でも自分の欲望の充足や目標に挑戦していきたいという希望を持っている。自分自身が一番大切なのだ。結婚とはそんな二人が一つ屋根の下で生活するということなのだ。いろいろと意見が対立することがあるはずである。そんな時は話し合いで二人が納得できるような答えを出し合っていく。二人で生きていく時には、対立することが多いいと思うが、なんとか妥協点を見つけて助け合って乗り越えていくように努力していく。けんかをすることも多いと思うが、乗り越えていくように精一杯努力してゆきますということをお互いに宣言するのが結婚するということではないのだろうか。味わい深い人生は夫婦の人間関係の改善から始まる。
2016.12.22
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集談会を行っているとき、インフォメーションや入口のところで「生活の発見会 広島集談会」という案内を見て突然入ってこられる人がいる。応対すると、「この会は生活に役立つコツを教えてくれるところかと思って覗いてみた」と言われる。苦笑してしまう。また以前は活動内容を誤解して、内容が分からないまま、集談会に参加され、ためになったといわれた方もおられた。でも長続きはしなかった。名前についてはいろいろと議論されるが変更されることはない。今では案内の横に「森田理論の学習会」という副題をつけることにしている。「生活の発見会」という名前は、確かに森田理論学習を行っている団体であるというように理解してもらうことは難しい。便宜的に副題が必要であるかもしれない。しかしよく考えてみると、神経症が克服される過程では、生活面に注意が向いて、気づきや発見が次々と浮かんで来るようになる。まさに「生活の中での発見」の連続となってくる。それに基ずいて、実際に生活面での改善や工夫がなされてくるようになる。つまり「生活の発見会」という名前は神経症を克服した人の生活の姿を表現しているのである。実際には神経症を克服している人は、あらゆるところにアンテナを張って生活を改善して、それ自体を楽しんでおられます。一般には分かりにくいが、「生活の発見」という名前はとても深い意味があるのである。それを一人だけで満足してしまうのはもったいないと思う。それを集談会で発表し合うことによって、お互いに刺激を受けてまたさらに生活改善が進むということになる。集談会のプログラムの中に「生活の中で発見して実践している事」を付け加えることを提案したい。その一例を紹介したい。私は昨年冬に起きる結露の対策を発見した。それまでは水滴をすくいとるワイパーでとっていた。そのあとタオルで拭き取っていた。面倒で仕方がなかった。そんな時に偶然ホームセンターでよいものを見つけた。結露防止のフィルムだ。このフィルムはでこぼこしている。ダメもとで貼ったのだがこれが大変効果があった。貼るのも簡単だった。先日テレビを見ていると、台所で使う洗剤を水で薄めてタオルでふくと結露防止になるということを知った。これも試してみる価値があると思う。それから風呂の洗い場の目地がカビで黒くなる。洗面所や台所のタイルやステンレスに垢がついて黒ずんでくる。悩みのタネであった。そんな時プロフェッショナルと言う番組で、清掃のプロを見た。羽田空港を世界一きれいな空港にしている清掃人の新津春子さんだった。新津さんは風呂の目地のカビを酢で簡単にとっていた。私も酢を使っていたがなかなか取れないと思っていた。でもテッシュを使ったちょっとしたコツがあることに気がついた。自分の視線が症状から離れて、生活全般に向くようになることは神経症克服にとって重要である。それをみんなで刺激し合うことはもっと大切なことである。森田理論を掘り下げて学習することも大切だが、「生活の発見」の話と半分半分くらいになる集いに魅力を感じる。
2016.12.21
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神谷美恵子さんと言う精神科医がいた。皇后美智子さんの相談相手と知られている。著書に「心の旅」「生きがいについて」がある。神谷さんは旧姓を前田といい、文部大臣を務めた前田多門氏の娘さんであった。いわゆる名門の出身である。小さいころから父親の海外赴任に同行してウィーン、アメリカ等で暮らしておられた。軽井沢に別荘を持たれて優雅に生活されていた。美貌にも学問の才能にも恵まれていた。特に語学力に優れフランス語、英語はペラペラであった。敗戦後は文部省などにも勤めておられた。その後一念発起して医師免許をとられて、東大の医局に入られている。その後精神科医になられた。兄の陽一氏は東大の文学部教授であったが、妹美恵子には逆立ちしても追い越すことが出ないと言わせた人物であった。災難と言えば肺結核に2回罹患しておられる。さらに子宮がんを患われた。いずれも完治して乗り越えられた。その神谷さんが40代のころから65歳で亡くなるまで、「ハンセン病患者」の収容施設である岡山県長島と言う孤島にある愛生園に精神科医としてかかわっておられた。夫は大阪大学教授、自らも神戸女学院大学、津田塾大学の教授であった。悠々自適の優雅な生活ができるにもかかわらず、家事をこなし、子育て、夫の論文の英訳、皇后さまの相談相手、教授としての仕事、精神科医としての仕事等命を削ってまでこなしてゆかれたのである。愛生園に行かれる時は、芦屋の自宅を朝4時出発であったという。どういう気持ちで「ハンセン病」の患者を見ることになったのであろうか。興味がある。その一端を46歳の時に書かれた博士論文に見ることができる。「人間として生まれて、誰しも自分の欲求がそのまま満たされぬことが多い。・・・しかしまた皆さんにも考えていただきたいのですが、欲求不満ということは必ずしも精神にとってマイナスばかりを意味しない。むしろ人間の精神は苦しみに逢って初めてめざめ、本当の自覚に達する、と言われております。精神分析の言葉に昇華という言葉があります。これは充たされぬ欲求をさらに高い形におきかえてこれを満足させるということを意味しております。愛生園において熱心で純粋な信仰生活が営まれ、美しい詩や深い思索が生まれ、隣人への愛情に満ちた行為が行われるのは皆この昇華の例であるともいえましょう。これは外部から来る私どもが深く打たれずにいられないところです」この文章からすると、神谷美恵子さんは、生きがいについて日頃からよく考えられていたのだと思う。この考え方は森田理論にも通じるところがある。そういう意味では私は対人恐怖症を抱えていた。皆さまも形こそ違えども神経症を抱えて苦しんで来られました。これさえなければ、伸び伸びと思う存分、社会の中で活躍できたのにと思って症状を呪ってこられたのではないかと思います。でもやるべき仕事や家事、課題や問題点の無い人生はありません。そういう現実が目の前に突きつけられるからこそ、なんとかしようとする意欲ややる気が高まってきたのではないでしょうか。神経症にしても、そういう症状が無ければ、森田理論にも出会うこともなく、人生についてしみじみと考える機会はなかったと思われます。課題や問題点を抱えているということは、真剣に向き合うことによって生きがいを作りあげている。つまり課題や問題点を抱えていることが、味わい深い人生を送ることができるかどうかの必要条件になるのだろうと思う。(神谷美恵子聖なる声 宮原安春 講談社参照)
2016.12.20
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森田理論学習にはとても面白い現象があります。神経症を克服されていると思う人が、益々森田理論にとりつかれていくのです。生涯にわたって関わりを持ちたいという気持ちがだんだん強くなっていくのです。他の療法は神経症を克服してしまえばもう用はありません。薬物療法にしても、認知行動療法にしても、カウンセリングもそうです。どうしてなのか。森田理論は神経質性格を持って、いろんなことにとらわれて道を踏み外しやすい人たちに、どう生きていくべきなのか、を教えてくれているからだと思います。そういう意味では神経症治療のためのツールではなく、人生論、人間学に近いものだと思います。これを私は「森田人間学」となづけている。人間学といえばアドラー心理学、老荘思想、親鸞や道元の仏教、他人中心から自分中心の生き方、人間関係療法などが思い浮かびます。森田理論というのはそういう人間学、生きがいとは何かといった分野で燦然と輝くだけの内容を持っています。森田で言う「自然に服従して、事実本位に生きていく」という考え方は大変奥が深い。人間は自然を意のままにコントロールして現在にいたっているが、そういう考え方でこれからもやっていけるのか。それは1個人に対するだけではなく、人類が将来にわたって繁栄していくための文化論、文明論でもあります。こういうと森田理論の神経症治療のすぐれた面は無視するのかと言う人も多いと思います。そういうことを言っているのではありません。神経症治療としての役立つ面は確かにあります。でもそれは森田理論の全体の枠組みから見ればほんの少しでしかない。極論すれば20%か30%ぐらいでしかない。後の大半は人間の生きがいや生き方を取り扱う格調の高い人間学の分野に属しているのである。こうしてみると、森田理論が他の神経症治療に押されて昔のような生彩を欠いていることを嘆き悲しむ必要はない。むしろ他に神経症治療に効くよい治療法があれば、森田療法としては、そちらを応援した方がよい。薬物療法、認知行動療法、カウンセリング、その他30もあると言われている心理療法に任せた方がよいのだ。森田療法はその中の1分野にとどまっているだけである。もちろん森田療法で神経症を治療したいという人は拒む必要はない。ただ現在の流れとしては、森田先生が生きておられた時代とは治療法が格段に増えてきているのである。森田療法を選ばれる確率はとても少ない。100人いて数%の割合ではないかとみている。それは学会に参加されている精神科医、臨床心理士の数の差になって表れている。今の時代に求められるのは、神経症のすべての治療法を整理して、あなたにはどの治療法が役に立つのかを提示してあげることである。それぞれのメリット、デメリットを提示して、神経症に陥っている人が間違いのない選択をするために援助することが求められている。我々がその役割を果たせないだろうか。森田理論は神経症の治療を視野に入れてもよいが、そのことに全面的に偏っていてはいけない。それよりは神経質者の「人間の再教育」の分野で思う存分にその持てる力を発揮すべきである。さらに、森田の考えかた、世界観から、神経症で無い方にも、社会の在り方、人間関係のあり方、日常生活のあり方、生き方、生きがい、自然との付き合い方、国家の在り方について鋭く切り込んでいくべきであろう。森田理論はそれらに鋭く切りこんでいける切れ味を持っている。森田理論は社会から、そういう世界に羽ばたいていくことが求められていると思うのである。そのことが森田療法を創始された森田先生の望むところではあるまいか。それは社会全体が神経症の悪循環のような状態に陥っているので、その突破口としての使命を果たす役割が求められていると思うのである。
2016.12.19
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昨日の続きです。ここでは不快な感情から一旦離れて、どういう行動を選択してゆけばよいのかを考えてみたいと思います。たとえば月曜日の朝は誰でも会社に行くというのは気が重いものです。喜んで会社に行くという人もいるでしょうが数としては少数派でしょう。でも森田では行きたくないから仮病を使って有給休暇をとるのは気分本位だといいます。気分本位はその時一瞬はほっとして楽になりますが、後で後悔と自責の念で苦しむことになります。でも自分の正直な気持ちと反対のことをしなければならないとなると気が重くなります。ではどうすればよいのか。まずA4用紙を用意しましょう。その左右の真ん中に線を引きます。上下のまん中にも線を引きます。4等分するのです。次に左側の上に「行動した場合」のメリットを書きます。その下にデメリットを書きます。次に右側の上に「行動しなかった場合」のメリットを書きます。その下にデメリットを書きます。(例)月曜日の朝、どうも気が重いので仮病を使って仕事を休むことにしたい。1、 その気持ちを行動に移した場合のメリット 重苦しい気持ちが無くなる。一瞬気が楽になる。2、 休んだ場合のデメリット仕事が2倍にたまって明日がしんどくなることが予想される。当面の自分の仕事を他の者が手分けをしてやることになる。他人に迷惑がかかる。次の日不平や不満が出ることが予想される。パジャマのまま寝ていたら退屈になってくる。みんなが仕事をしているのになんと自分は情けない人間なのだろうと自己嫌悪に陥るかもしれない。家族の生活をどうして支えていくというのか。3、 気は重かったが休まないで出社した場合のメリット 気は重かったがとりあえず身支度をして会社に向かった。会社に着いて仕事を始めたがなんか体が重い。昼過ぎまではボツボツならし運転程度の仕事ぶりだった。昼ご飯を食べた後少し眠くなった。それを過ぎると少しずつ仕事モードに切り替わっていった。帰る頃には普段の仕事のリズムがなんとか取り戻せた。休んでしまうと火曜日がそんな状態になり1日分無駄になる。4、 休まなかった場合のデメリット 気が重いという気持ちを持ちながらしかたなく準備を始める。イヤイヤ足を引きずるようにして会社に向かうという選択。こちらの選択が好ましいと感じた。休まずに出社したことの大きなデメリットは思い浮かばない。この4つを書き終えたらよく比べてみることである。1は瞬間的には気が楽になる。でもあとで気が重くなり後悔するようになる。2の選択は悪いことばかりになってしまう。3は最初注射針を差し込まれたような痛さはあるが、総合的に判断してみるとこれでよい。4は一時の気分に振り回されて安易な方向に向かわないほうがよいと改めて感じる。これがたとえば「株式投資のデイトレードで財産を増やしたい」などは判定が違ってくる。1は労せずして資産を増やせる可能性がわずかながらある。2は全財産を失う可能性がきわめて高い。そうなると大いに後悔することになる。3は挑戦しないので、増えはしないが、持っている財産を失うということは発生しない。4は挑戦しないので資産を大きく増やすチャンスが無くなってしまう。資産を取り崩すだけになってしまう。資産が減ってくるので不安になる。分析してみると、私の場合は、博打のようなことはしないで、自分の資産を安全に守るというのが一番いいような気がする。あまり欲をかいていると全財産を失って失意のどん底に落ちてしまう。したがって行動としては差し控えるという選択がよいと思う。でもこれは人によってリスクをとって勝負をするほうがよいという人がいるかもしれない。行動するか、しないかにあたっては、その選択基準をはっきりさせておいた方がよい。その選択で将来自分は後悔しないだろうか。一時的な気休めではないだろうか。また、その選択は他人に迷惑をかけないだろうか。他人の役に立つことなのだろうか。この二つを自分に問いかけてみることが大切であると思う。選択したらその通り行動する。昨日からの投稿をまとめてみると、不安や不快な感情はアナウンサーのように事実をよく見て客観的立場で言葉に出してみる。あるいは日記等に書いてみる。その際それらの感情を和らげよう等とやりくりをしないで、人知の及ばない自然現象として取り扱うこと。行動にあたっては感情と切り離すこと。4つのマトリックスで分析をしてみる。つまり行動はする、しないに分けて、それぞれのメリットとデメリットを書いてみる。それを比べてみてあとから後悔しないもの、人の役に立つものを選ぶ。一旦選択したら、心に引っかかるものを抱えたままで実行に移していくことが肝心であると思う。
2016.12.18
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不安や不快な感情に反発しないで受け入れていくにはどうすればよいのか。そのヒントを考えてみました。感情が湧き起ってくるというのは自然現象だといいます。自然現象と言うのは感情の発生だけではありません。雨が降る。雪が降る。暴風雨になる。大雪になる。雷が落ちる。台風が来る。土砂災害が起きる。台風が来る。地震が発生する。火山が爆発する。火砕流が起きる。隕石が落ちてくる。これらも感情と同じ自然現象です。この中で台風が来た時はどうしているか。気象衛星ひまわりが刻々とその進路と強弱を監視して情報を流してくれています。地上ではその位置と大きさが瞬時に分かります。その情報をもとにして気象庁が警戒情報を流しています。上陸が予想される県では、県の防災組織が立ちあがります。上陸が予想される現場にはテレビ中継車が出て、海の荒れ具合、被害状況、風雨の状況を逐一教えてくれます。その時、海上保安庁や自衛隊が出動して台風の勢いを止めたり、弱めたり、進路を変更したりしたりしているという話は聞いたことがありません。そんなことはできないし、むだなことだとよく知っているからです。一方私たちは不安や不快な感情の発生の際にはそのような対応をとっているでしょうか。なんとかして取り除こうとしているのではないでしょうか。感情の自然に対しても服従するにはどうしたらよいのでしょうか。ここで私が特に注目しているのは、テレビアナウンサーの現場からの中継です。たとえばこんな中継をしています。「現在私は台風の上陸が予想される鹿児島県枕崎市に来ております。中心付近の気圧は925ヘクトパスカル。今世紀最大クラスの台風がまもなく上陸します。現場では午後から風雨が強まり暴風雨となっております。傘は役に立ちません。雨合羽を着て中継をしています。ちょうど満潮と重なり、海岸では堤防を乗り越えて大きな波が国道にまで達しております。現在国道は通行止めとなっています。街路樹や家が倒壊し、信号機が大きく揺れています。道路には飛んで来た看板などが散乱しております。付近の住宅では板塀が打ちつけられて台風に備えております。また海岸近くの住民は避難所に退避しておられます。私も風でいつ飛ばされるか予断を許さない状況です。以上現場からの中継でした」これを応用して自分に湧き起ってきた不安や不快な感情を実況中継してみるのだ。コツは出来事と感情の事実を具体的に生々しく伝えることです。それ以上の説明は必要ありません。たとえば、「現在夜の10時です。中学生の娘がまだ帰宅していません。連絡もないので大変心配です。携帯は持たせているのですがどうしたのでしょうか。最近はたびたび殺傷事件がテレビで放映されています。まさかうちの子がとは思いますがいても立っても居られません。心配で気が動転しています。警察に届けたほうがいいのでしょうか。あっ、たった今娘が帰ってきました。娘は何事もなかったかのような顔をしています。それを見て急に腹が立ってきました。何があったのか。どうして電話して来なかったのか。娘を叱りつけてやりたくなってきました。憤懣やるかたない感情が湧き起っています。以上現場からの中継でした」別の例です。「ただ今会社をでて飛び込み営業に向かっております。いま見込み客の玄関前に到着しました。鏡を見て笑顔の準備体操をしております。深呼吸も2回3回と繰り返しております。また断られるのではないかという予期不安でいっぱいになっております。思い切って訪問しようか。でもどうせ断られるだろうから訪問は取りやめようかせめぎ合いが続いております。取りやめる方がよいという気持ちがやや優勢となっております。訪問までにはいましばらく時間がかかりそうです。私は今混乱しております。以上現場からの報告でした」このポイントは湧き起ってきた不安や不快な感情を口に出してみるということです。観念的にやりくりをするのではなく、いったん自分の外に吐き出してしまうのです。相手がいなくてもかまいません。独り言でもよいので客観的な第三者の眼で湧き思ってきた感情を詳細に説明していくのです。その際その感情には言いも悪いもありませんから是非善悪の価値判断はしてはいけません。あくまでも湧きあがってきた感情をそのまま詳しく述べていくことが肝心です。よく森田理論学習では湧き起ってきた感情はそのまま受け入れる、よく味わってみることが大切だと言われます。ではどうしたらイヤな感情を受け入れて、味わうことができるのかと言うことが問題になります。その解決方法の一つとしてこの方法があるのです。聞いてくれる人がいれば、「私は今こんな気持になっているの」と話してみてもよいでしょう。この方法はもう一つ書くという手もあります。日記を書いている人でしたら、ある出来事に対してどんな気持ちが湧き起ってきたのか書いていくのです。肝心なことはその状況を具体的に詳細に書いていくということです。その感情に基づいてどうしよう、こうしようというのは別なことです。まずは第3者になりきって自分に湧き起ってきた感情の事実を吐き出していくということです。ここまで来ましたら、それをすっぱり横に置いて、次のステップに進みましょう。次はその感情に基づいてどんな行動を選択してゆくのかということです。これについてはまた明日投稿します。
2016.12.17
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本田技研工業を立ち上げられた本田宗一郎氏は小さいころからとても腕白であったそうだ。森田理論との関連ではとても好奇心旺盛であったという。こんなエピソードがある。村にはじめて電灯がついたときのこと。電柱が立てられ、ベンチとドライバーを腰にした電機工夫がその上でワイヤーをひねっている姿は、英雄にも見えた。家に帰ってくると、イロリのそばに座っている祖父の肩に上がって、ハゲ頭の薄い毛をひねって「俺は電機工夫だ」といっていい気になり、はしゃぎまわった。小学校2年の時、学校から帰ろうとすると、村に自動車が来たという話を聞いた。宗一郎は一目散にすっ飛んでいった。ノロノロ走っていたので子供の足でもすぐに追いついた。自動車のうしろにつかまって走りながら、ガソリンのにおいのする排気ガスを胸いっぱいに吸い込んだ。停車すると油がしたたり落ちる。このオイルのにおいも嗅ごうと、鼻を地面にくっつけ、手に油をつけて鼻に押し当てもした。その年、住んでいた光明村から20キロ離れた浜松の歩兵連隊で飛行機が飛んでみせる話を聞いた。当日は学校をさぼって、父の自転車を三角のりでこいで出かけたという。ところが10銭の入場料がいるという。家族の目を盗んで持ち出した2銭しかない。気がついたときは松の木に上って見ていたという。家に帰ると、ボール紙で飛行メガネをつくり、竹製のプロペラを自転車の前につけて乗り回していた。これ以外にも破天荒な少年時代のエピソードはたくさん残っている。とにかく面白そうなことには目がない。好奇心がわいてくるとじっとしていられない。実際に行ってみる。体験してみる。そういう性分であった。この点森田先生と同じである。そのため失敗も多かった。でも本田氏は「人間は刺激されないと発展しない。困った時、苦しい時の知恵が尊い。発明する条件で一番いいのが、苦しむこと。経験して苦しむことだ。失敗してもいい。もし失敗もせず、問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら失敗した方が苦しんでいる。それが根性となり、人生の飛躍になるから」という。本田氏は失敗を成功の糧にしている。失敗にとらわれることなく「生の欲望の発揮」に邁進してきた人であった。我々神経質者は好奇心の旺盛な人である。これは生まれ持った素質であり、あとから獲得しようとしてもどうにもならない。我々はこれもやってみたい、あれもやってみたいと四方八方に注意が向いてゆく人である。持って生まれた素質に注目して育てていくことが大切である。(本田宗一郎の育てられ方 上之郷利昭 講談社文庫参照)
2016.12.16
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職場の中である特定の同僚とうまくいっていない人がいる。お互いが意識して拒否しあっている。双方が無視して毛嫌いしている。できるだけ近づかないように距離を保っている。そのことは周りにいる人もみんな知っている。腫れものに障るように注意している。その状態は本人同士も憂うつだが、職場全体がいつもピリピリしていて窮屈だ。どうしていがみ合うようになったのか。その理由は些細なことからはじまっている。・ノルマを果たさない。仕事をさぼる。仕事が遅い。ミスや失敗が多い。・仕事を手伝ってくれない。分担した仕事しかしない。分担した仕事も放棄してしない。・身勝手な行動が目立つ。付き合いが悪い。反対ばかりする。・上司にゴマをする。女子社員に手を出す。男性営業マンにこびる。・よく遅刻する。よく休む。・お金に汚い。・挨拶をしない。などなどその他多数ある。最初はちょっとした気持ちのズレから始まっている。そのうちあいつにはいつもムカついてイライラさせられる。この憤懣やるかたない不快感をなんとかしたい。あいつが挨拶をしないのなら自分も無視しよう。遠くにいるその人の姿を見るのも我慢できない。できるだけ離れて仕事をしている。そのうち会話する必要のある時は誰かに頼んで代行してもらっている。相手がミスや失敗をすれば鬼の首をとったように非難して周りの人に吹聴する。事あるごとに嫌がらせを仕掛けている。それが高じて相手の対応の倍返し、3番倍返しを考えるようになる。これは注意と感覚の悪循環、つまり精神交互作用で神経症の蟻地獄に陥っていく過程とよく似ている。相手を攻撃しているようで、結局は自分の精神状態が益々悪くなっていく。行き着くまで行ってしまうとどちらかが根をあげて退職するまでいがみ合いは永遠と続く。だからそうなる前に手当てすることが大切である。そのヒントを森田理論から探ってみよう。森田理論ではイヤな気持ちはどうにもならない。自然現象だと言う。雨や雪が降る。台風が来る。地震が来る。雷が鳴る。竜巻が来る。土砂災害が来る。そういう自然現象と同じことが起きている。そんな自然現象が来た時私たちはどうしているか。どうすることもできないので通り過ぎるのを待っている。つまり自然に服従しているのだ。イヤだと思う相手もそうすればよさそうなものだ。どうして不快な感情については取り除こうとして闘うのだろうか。相撲のようにがっぷり四つにまともにぶつかり合って勝ち負けを決めようとしているのか。その結果いつまでも勝負がつかず、エネルギーの消耗だけを招いている。そういう人は、是非とも台風が来た時の柳の木に学んだほうがよい。柳の木は台風が来た時は枝が引きちぎれんばかりにとりみだしている。ところが次の日台風が通り過ぎた後は何事もなかったかのようにたたずんでいる。その横で大木の松がポキンと折れて無残な姿をさらしていることがある。ある一定の風には耐えたのだが、限界を超えた自然の猛威の前にはなすすべもなく破れ去ってしまったのである。また雪が降った後の竹を見てほしい。竹が雪をまともにかぶってしまうとすぐに折れてしまう。雪をかわして自分の身を守るということができないのである。職場である特定の人とうまくいかないと言う人はそれと同じような対応をとっているのだ。こうしてみると、不快な感情とまともに勝負しないというのは一つの能力かもしれない。誰もができそうでできないことだ。森田理論学習をしている人は、その能力を是非とも身につけてもらいたいと思う。心の中では相手のことを憎むだけ憎んでもよい。殺してやりたいほどに憎んでもよい。それを言葉にしたり、動作に表したりすることが抑えられればよいのだ。心の中と外観が違うというのがまともな大人だと思う。そのためには役者のように演技力を身につけることが必要だ。できればサイコドラマに挑戦してみる。芝居のサークルにでも入るというのはどうだろうか。イヤな気分を抱えたまま、目の前の課題に取り掛かれるようになると、まともな人生を送ることができると思う。
2016.12.15
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みなさま、先日のフィギァスケートグランプリファイナルは楽しまれましたでしょうか。見事羽生結弦選手が4連覇を達成しました。その他、日本勢は宇野昌磨選手が銅メタル、宮原知子選手が銀メタルと大活躍でしたね。私は、採点はどのようになされているのか事前に調べてみました。そのおかげで普段の3倍ぐらいは楽しむことができたように思います。この機会に調べたことを投稿してみたいと思います。フィギィアスケートは技術点(テクニカル・エレメンツ・スコア)と演技構成点(プログラム・コーンポーネント・スコア)の合計点で集計されていることが分かりました。技術点は今からこういう順序で演技しますと言うことを事前に申請している。演技内容に応じて、自分の基準点はあらかじめ分かっている。可もなく不可もない場合は基準点が自分の得点となる。ところがそうはいかないのがフィギァスケートの面白いところだ。ちなみに羽生選手の場合ショートは49.5、フリーは88.24点であった。審査員が採点する場合は、申請した演技内容を細かく分けて、それぞれに基礎点に加えて、+3から-3までの7段階で出来栄えを評価している。解説の荒川さんが「完璧なジャンプでしたね。高さもスピードもありました。加点がもらえる演技ですね」と言っているのはこのことだ。実際の羽生選手の技術点はショート59.18、フリー96.01だった。特にショートの演技はミスもなく圧巻の演技であった。フリーでは転倒したにもかかわらず、基準点を超えているところが素晴らしい。ところでグランプリファイナルには9名の審査員がいる。集計にあたっては最高点と最低点の2人を除いた7名の平均点で決まるそうだ。プロの審査員が厳しい目で見ているので、狂いはあまりない。転倒は減点対象になりマイナス1点となる。だがあらかじめ決めたジャンプの回転ができていればそんなに痛手とはならない。演技構成点は、ショートは一人50点、フリーはそれを2倍して100点が限度である。これも集計にあたっては最高点と最低点の2人を除いた7名の平均点で決まるそうだ。これは5項目で審査されている。スケーティング技術、つなぎの動作、演技力、振りつけ、音楽の解釈などである。羽生選手はショート47.35点、フリーが92.36点だったのでほぼ満点に近い。他を寄せ付けない圧巻の演技力を持っていることが分かる。羽生選手の実際の最終得点はショート106.53、フリーは187.37で、合計293.90で優勝した。ちなみに準優勝のネイサン・チェン選手はショート85.3、フリー197.55で、合計282.85だった。3位の宇野選手はショート86.82、フリー195.69で、合計282.51だった。羽生選手にショートで20点近く離されていたのが最後まで響いた。ところで2015年のグランプリファイナルで羽生選手は、ショート110.95、フリー219.48、合計330.43の記録を出している。いかに超人的な記録であったかということである。次にジャンプには難しい順にアクセル、ルッツ、フリップ、ループ、サルコウ、トゥループ等があります。それぞれ1回転、2回転、3回転、4回転とあります。浅田真央選手が得意にしていたのは3回転半のトリプルアクセルでした。これは基準点が8.5点、申し分のない演技ができれば3点の加点が付き合計11.5点となります。ちなみに1回転のシングルアクセルでは完璧にこなしても1.6点にしかなりません。ダブルアクセルでも4.8が限度です。浅田選手がいつもメタル争いをしていたことに納得がゆきます。このように少しの疑問や好奇心をもとにして、ちょっと調べてみるだけでこんなにフィギァスケートを楽しむことができるのです。考えてみれば、人生で小さな楽しみは、そこら中に無数に転がっているのではないでしょうか。それを見つけることができる人はたいへん有意義な人生を送っておられるのではないでしょうか。私たちは神経質性格の鋭い感性を十分に活用して人生を大いに楽しんでゆきたいものです。
2016.12.14
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バイ菌がついたのではないかと何回も手を洗う。鍵がきちんとかかっていないのではないかと何回も確認する。ガスの元栓や電気のスイッチを間違いなく切っているのが気になって何回も確認に戻る。これらは強迫性障害といわれるものです。強迫神経症の中の強迫行為ともいいます。この症状に対して一般的には、薬物療法と認知行動療法が主流になっています。薬物療法はSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)などの薬を使う。脳内の神経伝達物質セロトニンを増やして、強迫観念と強迫行為が軽減されるとされている。副作用が比較的少なく、長期間服用できるといわれている。認知行動療法では、その中の「曝露反応妨害法」が使われている。曝露法とは、不安や苦痛をもたらすものに敢えて立ち向かわせる。汚いものに敢えて触らせてみる。つまり恐怖突入させるのである。反応妨害法とは、強迫衝動が起こっても強迫行為をしないように我慢させる訓練をさせるのです。森田先生の入院森田療法でもそういうことをされていた。その例を11月30日の投稿で紹介している。でもこれはかなりの抵抗がありそうです。最近では、長期間入院して、付きっきりで治療することは物理的に難しくなっている。したがって反応妨害法は実質難しい療法である。他には何があるか。私は森田療法が役に立つと思っている。詳しくは「強迫神経症の世界を生きて」(明念倫子 白揚社)を参考にしていただきたい。それに加えて、最新の脳科学の知識も強迫性障害に役立つと考えている。それによると、五感で感じた感覚は、まず体性感覚野、聴覚野、視覚野になどに送られる。その情報は大脳皮質の運動野、感覚野に送られて、その時、その場に対応した適切な動きを行うようになっている。その時の行動、物の認知には側頭連合野が大きくかかわっている。側頭連合野は鍵が閉まっているか、電気のスイッチが切れているか、ガスの元栓が閉まっているか。手がきれいになったかどうかを瞬時に判断している。そういう順序でスムーズに流れてゆけば確認行為で悩むことはない。ところが強迫行為をする人の脳の活動部所はそれとは少し異なっている。前頭眼窩面、背外側部などの部位が、活発に働いていることが分かっています。脳に電極をあてて脳波を調べると分かるのである。これらは前頭前野といわれる部分にある。これがクセものなのである。もともと前頭前野は、目標を設定して、計画を立て、論理的で順序だった建設的、生産的、創造的な思考を司っています。理性的な判断や決定を必要とする場合に、もっとも活発に活動する部署です。これは人間が他の動物と大きく違う部署です。この回路に持ち込まれた案件は、今までの学習、知識、経験、体験、体得、社会規範、ルールなどを参考にして一番ふさわしい答えを出そう試行錯誤しています。ああでもないこうでもないとさまざまに検討を加えられます。無意識的ではなく意識的な働きになります。だから結論を出すまで少し時間がかかります。そしていくつもある選択肢の中から、その時、その場にもっともふさわしい行動や決断を導き出しているのです。強迫性障害の人は、普通の人が当たり前にできていることがなかなかできません。それは五感で得た情報を前頭前野に送り込んでいるからです。前頭前野に送られると様々な角度から検討を始めるようになります。たとえば運転技術、クロールの泳ぎ方、箸の持ち方、自転車の乗り方、キャッチボールのやり方など思い出して下さい。一旦やり方を覚えたものは前頭前野の出番はありません。運動野、感覚野などの部署が適切に指示を出して間違いのない動きをするようになっているのです。その情報を前頭前野に送ると、今まで無意識に正常に行動できていたものが、改めて意識化されて、ああでもないこうでもないとやりくりするようになるのです。それは混乱を引き起こして、日常生活に支障を起こすようになります。強迫性障害の人はそういうことが自分の脳の中で起きているという自覚を持つことが必要だと思います。自覚を持てるようになると、今強迫行為をする思考回路に入っていると自覚しながら強迫行為をしているということになります。客観的に見るということが大切なのです。
2016.12.13
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宇野千代さんが、「幸福を知る才能」(海竜社)という本にこんな話を紹介されている。九州に住んでいるある男が、強度の神経痛にかかった。福岡の大学病院に入院した。豪農の息子で金に糸目をつけず、あちこちに手を出したが治らない。そのうち京都の大学病院に入院したが治らない。最後の望みを託して東大病院に入院した。しかしここでも治らなかった。絶望の末に、ある街に住む高名な漢方医を紹介されて、その診察を受けた。丁寧に診察したその医者は言った。「あなたのこの病気は、あなたにとって死病です。多分、あなたはこの病気で死ぬでしょう。しかし、ただ一つ、これは試しにやってみるのですが、この薬を飲んでみてください。昼と夜と2回これを飲んで、もし万一効き目があったら、明日の朝は真っ黒な便が出る。もしそうなればあなたは助かるが、しかし、多分、この薬も効き目はないと思うが・・・」と言って、一包みの粉薬を渡した。その男は顔面蒼白になって、もう死んだようになってその医師のもとを立ち去った。ところが、その翌朝あわただしくその男が駆け込んできた。「先生、私は助かりました。真っ黒な便が出ました」「出たか。そうか。助かったのか」と医者もともに手をとって喜んだ。その男はそのまま九州に帰ったが、先生にいただいた薬のおかげで、難病の神経痛がけろっと治った、というお礼の手紙が来た。その薬というのは、飲むと腹の中でなんとかというものと化合して、真っ黒な便が出るものと決まっている。そういう薬であった。いまでいうプラセボ効果(プラシーボ効果)満点の薬だったのだ。薬効として効く成分のない薬(偽薬)を投与したにもかかわらず、見事に神経痛が治癒したのが面白い。これは原因不明の慢性疾患で長らく治療を続けている人にも参考になる話だと思う。からくりが神経症の発症と治癒によく似ているからである。つまりこの病気は確かに痛みがあるが、器質的な疾患に加えて精神交互作用によって増悪の一途をたどっていたのである。必要以上に自分自身の気の持ちようで増悪させていたのだ。普通の医者は症状をこまごまと訴える患者が来れば原因を類推して治療に取り組む。ときとして、こういう医師は慢性疾患を治しきらない。この漢方医はある意味で神経症の患者も治せる可能性がある医師である。この医者は今までの経過から精神的なからくりから病気が増悪していると踏んだのだ。精神的な気の持ちようが病気の最大の原因なのである。この場合治るという希望を持っている限りいつまでたっても治らない。万策尽きて一生治らないとあきらめたときに初めて扉が開ける。以前玉野井幹雄さんという方が、治すことをやめて、地獄に家を建てて住むという覚悟を決めたときにはじめて神経症の苦悩から逃れることができたと言われていた。つまり症状と格闘することに精魂つきるということが神経症の克服には福音となるのである。普通はますます絶望的になって自暴自棄になってしまいそうだ。そこのところで症状と闘うのをやめて、治すことをあきらめることが肝心なのである。その状態は痛さ、苦しみを持ちこたえる。共存しながら仕方なく目の前のなすべきことに目を向けていくことだろう。この神経痛の人は偽薬で治ったと勘違いして、神経痛と闘うことをやめてしまった。それが心機一転のきっかけになっている。そして治すことに精力を使うことから、そのエネルギーを仕事や生活面に転換していったということに興味がつきない。
2016.12.12
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ピアノの名演奏家ホロヴィッツは、一生栄光に満ちた人生を歩んでいたとばかり思っていた。ところが実際には苦悩の多い波乱に満ちた人生であったようだ。ホロヴィッツは1904年にロシアの寒村でユダヤ人の家に生まれている。音楽の才能があった母親から6歳でピアノを始めた。8歳でキエフ音楽院に入学し、そこで3人の教師に出会うことで、急速にその才能が開花した。しかし16歳のころ国内政治の内乱に巻き込まれて、住居や財産のすべてを奪われている。さらにユダヤ人であるということで大幅に自由を奪われていた。彼が最初に直面した試練であった。1925年ベルリンに旅立つ。(ちなみに彼が故郷に帰ったのは、ペレストロイカ後の1986年であったという)彼はその頃までには卓越した演奏技術を身につけており、以後演奏活動で生計を立てるようになった。中村紘子氏によればピアニストは15歳、16歳でほぼ基礎が固まっていないと、それ以降いくら頑張っても一流の演奏家にはなれないといわれる。そんな最中、1932年の秋、大指揮者のトスカニーニからニューヨーク・フィルの定期演奏会でベートーベンの「皇帝」を協演してほしいという申し込みを受けた。これがその後の彼の人生に決定的な影響を与えた。今考えれば不運の幕開けであった。翌年そこで知り合ったトスカニーニの娘ワンダと結婚している。次の年には娘ソニアが誕生している。ホロヴィッツは、ワンダと結婚するまではトスカニーニの婿になるということがどういうことかよく分かっていなかった。トスカニーニは、超人的ピアニストをつかまえて、「でくのぼう」呼ばわりをしていた。まもなくホロヴィッツは、トスカニーニの前では借りてきた猫のようになっていった。友人たちによれば、トスカニーニ一族の怒鳴り合い、ののしりあいには一種特別なエネルギーと迫力があって、そこに居合わせるとどんなタフなものでも生命が縮むほどの凄まじさがあったという。更にトスカニーニと娘のワンダは人の悪口を言い合うことでも奇妙に気が合い、それこそ大声で口から泡をとばし合いながらの大袈裟な身ぶり手ぶりで誰かれの批判を言いまくり、時には熱する余りコーヒーカップが飛び交うことも珍しくなかった。これとは対照的にホロヴィッツの家系には、神経過敏な傾向が強く流れていた。兄は神経を病んで廃人同様になって死んでいる。間もなく友人たちは、彼の異常なほどの神経質さ、おどおどした態度、情緒のはなはだしい不安定、時折みせる虚脱状態などに不安を覚えるようになった。恐怖から逃れられないことを悟った彼は、精神的におかしくなったのだ。それは演奏にもあらわれた。18番のチャイコフスキーのピアノ協奏曲をめちゃくちゃに弾いたりした。舞台に出る前は強度の緊張感に苦しめられ、開演のベルが鳴っている時に逃げ出してしまうということもしばしばあったという。一方肉体的にも、神経性胃炎による腹痛と慢性の下痢がひどくなり手術をしている。それがもとで余病を併発し、結局、彼はそれから2年近くの間をコンサートステージから遠ざかることになった。これは神経症の発生と格闘によく似ている。このホロヴィッツは、肉体も精神もほとんど絶望的に衰弱し切っていたが、そんな彼の窮地を救ったのがロシアの大先輩であるラフマニノフであった。ラフマニノフの献身的な援助がなかったとしたらホロヴィッツは再起できなかったであろうといわれている。我々も我々の話をよく聞いてくれて、受容と共感の態度で支えてくれる仲間の援助が欠かせない。それが自助グループ生活の発見会の仲間たちだと思う。ホロヴィッツは、それに加えて一人娘ソニアのことで問題を抱えていた。娘にしてみれば、溺愛はしてくれたが時に理不尽で身勝手で激烈な癇癪持ちの祖父トスカニーニ。その存在すら目に入らぬほど彼女に無関心な父ホロヴィッツ。そんなホロヴィッツにかまけて、娘の世話のすべてを家庭教師や召使にまかせきりの母親ワンダ。愛着障害、アダルトチルドレンで苦しむ子どもができる条件がそろっていたのである。ソニアは成長するにつれて攻撃的で乱暴で、気性が激しく移り変わる手に負えない少女になっていった。両親の愛情と関心を惹きたいがためにわざと極端な行動に出て、ときには危険な状態を生じた。煙草を吸ったり悪態をついたりの果て、カーテンや飼っている犬に火を点ける。といった行動にまで及んだのである。そして12歳で不良少女専門の矯正学校に入れられた彼女は脱走を繰り返し、その度に感化院、治療院、精神病院といった施設をたらい廻しにさせられた。その後ソニアは一番気の合っていた叔母に引き取られ、イタリアで暮らしていた。22歳の時、モーターバイク事故で脳に回復不能な損傷を負い、その後植物人間となり2年ほど生きながらえ、24歳の生涯を終えた。彼女にとってはやりきれない人生だったことだろう。ホロヴィッツは、演奏活動はキャンセルしたが、娘を見舞うことはなく、ニューヨークの家に引きこもったままだったという。そのホロヴィッツはついに1949年妻のワンダと別居するようになった。1989年85歳で亡くなる前は、目は虚ろ、口ではわけの分からぬ言葉をつぶやき、ほとんど発狂寸前であったという。ホロヴィッツは人もうらやむ名声を獲得したが、はたして幸せな人生だったといえるのであろうか。神経症の発症と家庭の崩壊はこうして始まるという見本のような人生を送っている。(ピアニストという蛮族がいる 中村紘子 文藝春秋より引用)
2016.12.11
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平成24年度で認知症の人462万人、その予備軍(MCI)約400万人といわれている。将来1300万人に達すると言われている。国民の10人に一人が認知症とその予備軍という時代がくる。これは脳の廃用性萎縮が大きく関わっているように思う。歳をとっても毎日脳細胞を活性化させていく必要がある。でも不幸にして家族で認知症の人を抱えた場合はどうするか。今日は認知症になった人の対応について考えてみたい。1、 ついさっき食べたばかりなのに、「ご飯はまだ」「うちの嫁はごはんを食べさせてくれない」「自分たちだけ食べて私には食べさせてくれない」等という。これに対して、「さっき食べたじゃないの。いい加減しなさいよ」等と言っては反発されるばかりである。これは記憶障害が起きているのである。まともに対応してはいけない。その時は、「今用意しますからね」「もうすぐできるから待ってね」と言う。普段からこういう言葉を用意しておくことである。そのうち認知症の人は自分の言った言葉を忘れてしまうそうだ。なんとなく口が淋しいとか、自分の好きなものを食べさせてもらえない不満からの場合もあるので、本人の好きな果物やちょっとしたお菓子などを用意して、「もうすぐできるから、それまでこれで我慢してね」と機嫌をよくする方法も考えておくとよい。2、 自分が財布などをどこに置いたか忘れて、「これは怪しい。嫁が盗んだに違いない」等と言いだす。この場合「バカなことを言うな」と言って叱りつけてはいけない。よい方法がある。「それは困ったね。一緒に探そうね」といって探してあげる。その際注意点がある。家族が見つけて「ここに置いてあるじゃないか」等と言ってはいけない。「やっぱりあんたが盗んだのだ」等と言われることがあるからだ。見つかったら、「このあたりを探してみようか」と言って本人を誘導して、本人に見つけさせる。本人が見つけたら「よかったね」と一緒に喜んであげる。3、 実の娘なのに「あなたはどちらさまでしたか」などという。また両親や兄弟姉妹、友人等と間違えられることもある。この場合も叱りつけてはいけない。むしろその人になりきってしまう方がまだよい。泥棒だとか恨みを持っている人と誤認して興奮することもある。言い争うと余計にややこしくなる。一旦退席して、しばらく経ってから「○○です。ただ今帰ってきました」と言って認識させるとよい場合がある。4、 自分のいる所を自宅と認識できないで「家に帰る」等という。自分がまだ現役であると錯覚して会社に行こうとする。何か用事を思いついて出かけてしまう。徘徊をして居所が分からなくなると困るので、できれば一緒に出かけるのがよい。それでも徘徊するクセがある場合は、ある程度の対策を立てておく。たとえば玄関に鈴をつけておく。住所、名前、電話番号の書いた名札を付けておく。近所の人に一報してもらうように頼んでおく。こうなると地域で支え合うことも考えていく必要がでてくる。その他認知症の人は、幻覚、失禁、不潔行為、怒りっぽくなる、異食、性的行動、夜間せん妄などがあるようです。とっさには適切な行動をとることは難しいです。普段から対策を考えて実行することが大切だと思います。以上、マンション管理人の定期研修で受けた内容の説明でした。
2016.12.10
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ある程度年齢を重ねてくると、自分のために何かをするよりも、自分の身につけた知識や能力を他人のために役立てる生き方に魅力を感じるようになってきた。今後はそれらを紹介して、関心のある人には無償でできるだけ教えていこうと思う。それらを一覧表にして見てもらうと興味を持ってもらえるものがあるかもしれない。教えるとなると自分も生きがいができる。教えられる人も新しいことに挑戦することになるので、生活の幅が広がることになるのではないかと思う。そのためには自分の身につけたものを棚卸してみることが必要になってくる。自分の場合は何があるか。ざっと思いつくままに書き出してみた。以前やったことのあるものばかりである。ちょっと怪しいものもあるが、思い出せばできるものばかりである。1、 森田理論の内容説明と学習の仕方、神経症の治し方2、 写真付き年賀状の作り方3、 You Tubeの画像をDVDに移す方法4、 広島風お好み焼きの作り方、殻つき牡蠣の美味しい食べ方5、 ソバ打ちのやり方6、 パソコンの操作方法、スカイプのやり方、プリンターの使い方7、 車の運転技術、トラクター、田植え機、管理機、コンバインの使い方8、 田舎暮らしのやり方9、 講話のやり方、司会の仕方、カウンセリングの基本の説明10、 優れた書籍の紹介11、 アルトサックスの演奏、チンドン屋の内容説明とやり方12、 歌謡曲を中心にしたアルトサックス用楽曲の提供13、 獅子舞の指導14、 浪曲奇術の指導15、 どじょうすくいの所作の指導16、 皿回し、けん玉のやり方、しばてん踊りの指導17、 老人ホームの慰問活動のやり方18、 一人一芸の内容と人脈の紹介19、 資格試験の合格の秘訣の指南20、 ベートーベンの第九の合唱の指導21、 模型ヘリコプターの整備の仕方、飛ばし方22、 広島市内、広島県、山口県、島根県、宮島の観光案内23、 スキーやテニスの基本動作、県内のスキー場の紹介24、 チヌの釣り方(紀州釣りなど)、磯釣り、海釣りのやり方25、 ブドウ酒の作り方26、 簡単なクラッシック音楽、その他音楽の紹介27、 ブログの開設と運営の仕方28、 簡単なスマホの活用の仕方29、 川柳やユーモア小話の作り方30、 健康麻雀のやり方31、 大菊(福助)の作り方32、 市民農園の借り方、野菜の作り方33、 簡単なヨガのやり方34、 トライアスロンの練習方法35、 全国の主だった観光地の紹介36、 広島のフラワーフェスティバルの案内37、 安くておいしい広島市内の居酒屋の紹介38、 ファイナンシャル・プランの作成39、 株式投資、投資信託のやり方と注意点の説明40、 マンション管理人の仕事の内容説明
2016.12.09
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先日紹介した「この世界の片隅に」というアニメ映画は高評価されている。海外15カ国でも上映されることが決まったそうだ。映画好きになり、今度は「マダム・フローレンス夢見るふたり」という映画を見てきた。これはたまたまラジオであらすじを聞いて見てみたいと思った。この映画は私の好きな女優メリル・ストリープが主演している。彼女は多くの映画に出ている。アメリカの吉永小百合のような人だ。「マディソン郡の橋」を見て好きになった。その夫役にヒュー・グラント、ピアニスト役としてサイモン・ヘルバーグが脇を固めていた。ところで、この話は実在の人をモデルにしている。1940年台のソプラノ歌手フローレンス・フォスター・ジェンキンスさんである。この方は言いにくいことだが、とても音痴の人である。夫や周囲の人もそのことはよく知っている。ところが本人は全くその自覚はない。当代一流の声楽家だと思っている。その方が夫の協力を得てリサイタルを開く。夫はマスコミを買収して高評価の記事を書かせる。歌唱指導者にはお金を渡して耳触りのよいことを言わせる。聴衆には豪華な食事会に招待して機嫌をとる。そのうち気をよくしたマダム・フローレンスはカーネギーホールでの独唱会を企画する。退役軍人にタダ券を配ってカーネギーホールを満員にしてしまう。ここでも独唱会が成功するように夫が大活躍する。ところがニューヨークポスト紙だけは買収できなかった。翌日のニューヨークポスト紙は夫が買い占めて回った。ところがそれを捨てたゴミ箱の中からマダム・フローレンスがその新聞を見つけてショックを受けてしまうという映画だった。メリル・ストリープの名誉のために書いておくが、彼女はとても歌上手な人である。その歌声は「マンマ・ミーア」でいかんなく発揮されている。そういう人が音程をはずして演技するということはとても難しいそうだ。彼女はそれをやってのけた。素晴らしい女優魂である。この映画を見ての私の感想である。本人の自覚がないとはいえ、周りの人が音痴という事実を隠し通すというのは如何なものか。事実を隠して取り繕うということが、どんな苦しみをもたらしてしまうのか神経症に陥った我々はよく知っている。さて、森田では自分がそう思っても、相手が傷つくようなことを平気で言ってはいけないという。そう思っても精神拮抗作用で抑制力がかかるようになっている。それを活用して調和をはかる必要があるという。でもマダム・フローレンスにはその自覚がないために、独りよがりの行動がエスカレートしていく。夫は妻を擁護してウソを隠すためにまたウソをついていく。事実が明らかになることを先送りしているのだ。その結果最終的にはマダム・フローレンスには立ち直れないほどの痛手を与えてしまう。これは裸の王様の話と同じではないか。王様は何も着ていないのに素晴らしい服を着ていると思って街頭にでる。本人にはその自覚はない。周りの人はそのことは分かっているのだが、黙殺している。ところが一人の子どもがそのことを曝露して大変な騒ぎになる。私は周りの人は事実を隠ぺいするのではなく、自覚を促すために努力すべきであると思う。あからさまに自覚を促す方法もある。ショック療法だ。でもこれは直接相手に直接大きな痛手を与えてしまう。自分が嫌われるのを覚悟でないとなかなかできないことだ。それならその人の歌声を録音して聞かせてみるのはどうか。普通の人なら音痴かどうかすぐ判断できるのではなかろうか。「情けは人のためならず」ということをしみじみと感じる。さて、今度は12月10日全国公開の「海賊と呼ばれた男」を見に行こうと思う。これは出光興産の創業者出光佐三氏の物語らしい。岡田准一主演。その奥さん役は綾瀬はるかである。楽しみだ。
2016.12.08
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私がよく見るホームページをご紹介します。・まず「Web森田療法図書館」です。森田療法に関する資料、本、ホームページなどほとんどすべて網羅されています。ここまで調べ上げるのは大変だったろうと思います。・「対人関係療法」これは精神科医水島広子さんが主宰されています。・命を考える・命の情報サイト「生きるアシスト.com」 いろんな自助グループを紹介されています。・「認定NPO法人ワンデーポート」 ギャンブル依存症の人に役立ちます。・「幼児教育ぽーたるさいと」 子供の問題をいろいろ取り扱っています。・「中高年のためのライフプランセミナー」中高年の生きがい、人間関係などを取り扱っています。
2016.12.07
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先日ヤフオク(ヤフーオークション)に参加したので体験を書いてみようと思う。ヤフーオークションの存在は集談会の仲間に教えてもらった。それも集談会の後の懇親会の席でのことだった。その方はデジカメなどを出品しておられた。新しいデジカメを買ったので古いデジカメが不要になったのだそうだ。不要品でまだ役に立つものは、たびたびオークションに出品されているということだった。たまたま私はソニーの小型PCM録音機を持っているがそれが壊れた。何回スイッチを入れてもONにならなくなった。イベントでこんなことがあっては大変だ。これには老人ホームなどのイベントで使う音楽がすべて入っている。これはCD並みの音質でダイレクト録画してくれるので大変重宝しているのだ。これは私にとっては必需品である。そこでヤフオクで探してみることにした。すると私の使っているものと同じものが出品されていた。中古品だが新品に近いと記載されていた。私の持っている録音機は、新品は39000円である。それがなんと5000円で出品されていた。ところがすでに5名の人が入札に参加されていた。現在の価格は9000円になっていた。そこでアマゾンと楽天の販売価格を調べてみた。楽天は新品ばかりで値引きはされていなかった。アマゾンは新品と中古品を取り扱っていた。私は中古品を見てみた。13点あった。「程度が可」は19000円台だった。大型量販店のデモ用として使用されていたものは、程度が「大変よい」とされていた。ただ値段が上がって24000円ぐらいのものが多かった。これに運賃がかかる。但しアマゾンに在庫されているものは、運賃はかからない。そこで思い切ってヤフオクに参戦してみることを選んだ。その業者の信頼度は98%ぐらいの人が高評価を付けていた。この評価はその業者が信頼できるかどうかの目安になる。家電製品の中古品は不安であったが、1台持っているし、予備として使用するつもりだったのだ。程度がよければこちらをメインに使うことにしようと考えた。値段は一応消費税運賃込みで15000円を上限に考えていた。オークション終了時間までは、あと1日半あった。すぐに参戦しては入札価格が上がってしまうばかりである。そこで終了時間の3分前に参戦することにして、それまでじっと我慢してウォッチして待つことにした。案の定その時間まで新たな入札者は現れなかった。私は3分までに入札した。すると入札価格12500円で最高入札者となった。それ以上高額入札者は現れず私に落札された。たまたまうまくいった。ヤフーかんたん決済で支払いを済ませた。消費税1000円と運賃590円が加算された。14090円が支払金額となった。まずまずの落札金額だった。届いた商品は問題がなく使える商品でひと安心した。こちらをメインにすることにした。一つ疑問であったのは私が入札する前までは9000円が最高入札額だったのにどうして12500円まで急に上がったのかということだった。私は9500円ぐらいで落札できるのではないかと思っていた。友人聞いたところ、9000円の入札者が、12000円の入札額を提示していたからだと分かった。もしその方がどうしても手に入れたくて20000円までの入札額を提示していたら私は2万円以上の高額のものを買うはめになっていたことが分かった。それではアマゾンで買っていたほうがよかったという結果になっていたかもしれない。ヤフオクは必ず落札できるものでもないし、商品も写真でしか見ることができない。運賃も消費税もかかる。仮に入札できたとしても思いのほか高値の入札額になることもある。それらをすべて受け入れるつもりでないと参加は見送った方がよいと思った。それから家電製品のようなものは、基本的には中古品はジャンク品があるという気持ちを持っておくことが大切であると思った。それから集談会で教えてもらったがメルカリというのもある。これはオークションではなく一対一で取引する。値段はすでに提示されている。値引き交渉可能である。先日登録した。早速慰問活動で使用している白いエナメルの靴を物色してみた。すると送料込みで1600円の希望通りの靴が見つかった。この出品者も高評価の人だった。即決で交渉がまとまった。運賃は不要だった。替わりのものを買って、以前使ってみたものが不要になった場合は、まだ役立つものであればこういうものを利用して他人に分けてあげるのがよいと思った。森田先生の言われる物の性を尽くすというのが、こういう時代に突入しているのである。
2016.12.07
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神経症で苦しんでいる時は不安や恐怖を絞り込んで格闘しているように思う。私も対人恐怖症で苦しんでいた時はまさにその通りであった。人間関係のこと、他人が自分をどう取り扱ったかということばかりに神経を使っていた。エネルギーをそのこと一点に集中して、不安や恐怖を解消するために奮闘していた。エネルギーを集中すれば、効率が上がるに違いないと思っていた。それ以外のことは無視していた。というよりも、それ以外のことが頭の中に入るスペースがなかったのである。集中して問題解消のために取り組んでいるので、素晴らしい成果をあげる予定であったが、思惑は全く外れてしまった。対人恐怖症はどんどん増悪し、神経症に陥っていった。また仕事や家事などに手をつけることができなくなり、生活上の悪循環が常態化してきた。今考えると、不安や恐怖の対象を一つに絞って対応するというのは問題だと思う。また大きな不安や恐怖を先に片づけてしまおうという考え方は完全な間違いだったと思う。学生時代を思い出してみてほしい。数学や物理のテストの時、難しい問題から取り組んでいったであろうか。問題をざっと見渡して、やさしそうな問題か難しいそうな問題かを大まかに区分して、点を取りやすい問題から取り組んでいなかっただろうか。これがセオリーである。セオリーを無視して自分勝手なやり方は問題を起こす。やさしい問題はいつでもできる。それよりは難しい問題のほうにチャレンジしてみるのがおもしろそうだ。そう思ったとすれば、きっとよい点数は取れなかったであろう。やさしい問題に手をつけないで、難しい問題も解けないとすれば落第する危険性すら出てくる。やさしい問題を先に片づけて、最後の残された時間で難しい問題に取り掛かるというのが順序というものだ。神経症で苦しんでいる人は、こういう誰でもわかるような間違いを犯しているのではないか。肝心なことは、不安は基本的には1つに絞って解決しようとしてはならないのだと思う。小さい不安や恐怖をいくつも抱えて、その時、その場で臨機応変に対応して生活しているのが普通の状態である。本来不安や恐怖、違和感、不快感はたえず湧き起ってくる。それらは鴨長明の方丈記の水の流れのように浮かんでは消え、消えては発生している。その時、その場で対応して、速やかに流し去っていれば、取り立てて問題は起きない。それが城のお堀にたまった水のようになると、途端に雑菌などが繁殖し、藻などが発生して汚く濁ってしまう。不安や恐怖などというものは、もともとその場で一つ一つ片をつけてから、次の問題に取り組んでいくというような単純なものではない。解決しようと思っても、自分には解決できるだけの能力がない。障害が大きくて一人ではできない。人の協力がないとできない。今の時期では無理だ。今は静観しておいた方がよい。解決のための周到な準備が必要だ。まず解決のための資金を用意する必要がある。等といった障害があるのが普通である。この考えを生活に活かしていくためには、いくつもの不安をきちんと書きだして整理をしておく。その中でも手をつけていくものと手を出してはいけないものを区分けする。手をつけていくべきものはやさしいものからどんどんと手を出して消化していく。手を出してはいけないものは森田理論学習で学んできたとおりである。それらは受け入れて、自然に服従していくという基本姿勢を堅持していくことである。
2016.12.06
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世界の人口は1950年25億人、1970年36億人、1980年44億人、1990年53億人、2000年61億人、2010年68億人、2015年73億人であった。この先2050年97億人、2100年100億から112億人と予想されている。爆発的な右肩上がりである。こんな人口の爆発的増加は今までの人類の歴史の中で経験したことはない。人口の爆発的増加はとても気がかりなことがある。この世界の人口を養っていく食料を賄うことができるのかということだ。今現在8億7000万人の人が飢餓状態にあるという。それがどんどん増えていくのではないのか。この悲観的見通しは現実とならなければよいのだが、近い未来の現実の姿となる可能性が高い。とりわけ日本の食糧の確保は大丈夫なのだろうか。今日本人はぜいたくの限りを尽くしている。そのほとんどが輸入食品である。現在日本は世界最大の農産物輸入国となっています。その日本に飢餓の時代が忍び寄っているとは誰ひとりとして気がついていない。1960年には79%あった日本の自給率は、2009年で40%、2012年には39%と主要先進国の中でも最低の水準です。(ちなみにアメリカ130%、フランス120%、ドイツ98%、イギリス65%です。とくにイギリスは以前日本と同じくらいの自給率だったが、農業の重要性を認識して盛り返してきた)これは国が国策として、農産物の自給を放棄してきた結果である。大豆、トウモロコシ、豚肉などの主要品目についてはアメリカ、カナダ、ブラジルなど特定の国に大きく依存しており、異常気象による凶作や輸出禁止措置などがあると、日本の食料需給はすぐに大きな影響を受けてしまうリスクがあります。さらに、中国やインドなどでは食生活が変化し、日本と同じく畜産物や油脂類の消費が増え、穀物類の輸入が増大しているため、世界の食料市場はとても不安定になりつつある。また地球温暖化や世界的な異常気象、原油価格の高騰、水不足、家畜伝染病、輸出国の輸出制限などなど、食料の輸入は突然止まってしまう恐れがあります。もし、食料不足に陥った場合は自国への供給を優先し、輸出規制するのが当たり前です。地球規模で食料難になれば、いつ食料の争奪戦が始まってもおかしくありません。食料が工業製品と大きく違うのは、食料が直接人間の命の再生産にかかわっているということです。食料 自給率が39%しかないという日本は他国に容易に支配される可能性があります。まずは争奪戦になった時は今の価格の10倍、それ以上の価格をふっかけられます。食料の高騰を期待して売り渋るという事態も当然想定されます。そうなるとすぐには日本に食料が回ってこない。次に世界中で食料危機が起こると、お金はあっても食料を売ってもらえないという事態に陥ります。そして次に食料を餌にして、他国は日本を思うままに支配してしまうということが考えられます。日本はいくら経済力があっても、食料が無いために、なくなく容易に被支配国に転落してしまいます。独立国としての自立は保てなくなります。食料が日本の首根っこをつかむという役割を果たすようになるのです。その時は敗戦後のような食糧難に陥らないとも限りません。今はまさかと思われる人がほとんどだと思います。でも考えてみてください。インターネットが本格的に始まったのが1995年ごろです。恐る恐るはじめたインターネットがほぼ世界中に定着しました。その間20年ですよ。それがこんな状況になることを予想したでしょうか。今は変化のスピードがとても速くなっているのです。それでも自分たちの生命の再生産のもとである食料を他国に依存するというのでしょうか。日本政府は自動車や最先端の科学技術を駆使した工業製品を輸出して、その儲けたお金でいつまでも安い食料を世界から買いまくれるとでも思っているのでしょうか。また後進国の人達を飢餓に追いやって、食料を買い付けるということがはたして人道的に許されることなのだろうか。私は食料の生産は自国で賄うのが基本であると思います。人間の生き方を考えた場合当然それが普通のことです。自分たちがやろうと思えばできるのに損得を考えて安易に放棄してはならないと思います。土台をきちんとして国作りを考えていく必要がある。目先のことばかりを考えて、自分のやるべきことを放棄して、他に依存する方向は将来必ず行き詰まるだろう。その代表がTPPの推進だと思います。食糧危機に陥った時に後悔してももうすでに取り返しがつかないのだが、とても残念な気持ちだ。(全農のホームページより一部引用)
2016.12.05
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次の方の相談です。この方は主婦で対人緊張、雑談恐怖があります。不器用で料理や片づけなどの家事がうまくできません。もっとも大きな問題は幼稚園に通う子供のママ友との付き合いがうまくこなせないということです。最低限のお付き合いはできていますが、幼稚園の後、子ども同士を遊ばせるためにママ友と仲よくするのは苦手なのでしていません。そのことで自己嫌悪に陥っておられるようです。この方は最低限のお付き合いはできているようです。それは評価できることです。苦しいけれども最低限の行動はできているわけですから。幼稚園後すぐに帰っても、他のママ友はあの方はこの後何か用事でもあるのだろうと思っているのではないでしょうか。あなたが気にされているように、変に思われているとはないと思います。他人の思惑が気になる。これはあなたの個性、特徴です。誰でもあるのですが、あなたの場合はそれが少し強いということです。今はこの性格に振り回されて、一人で相撲をとって、自分一人で苦しんでおられるようです。しかしこの性格を逆に活かしていけば、とてもよい生き方ができるようになります。本来そういう性格の人は、人の気持ちを機敏に察することができる。相手のことを思いやることができる能力を元々兼ね備えている人なのです。人の悪口は言わない。噂話をしない。人の嫌がることはしない。他人に優しくできる。他人の役に立つことを見つけて行動できる素質を持っている人なのです。今のままのあなたにいいも悪いもありません。今のままの状態で生きていく覚悟を持っていただきたいと思います。それしかできないのだと思います。ここで提案です。今不安で悩んでいるエネルギーを料理や片づけに向けていくのはどうでしょうか。あなたは不器用で料理や片づけなどの家事がうまくできないと言われています。でも料理を全く作らないということではないと思います。曲がりなりにも買い出しをして、料理は作られているのだと思います。ただ料理の味がレストランで食べる料理のように完璧ではない。料理のレパートリーが少なすぎる。和食、洋食、中華料理のどれもが作れない。これという得意な料理が無いのかもしれません。つまり自分の頭で考えているような立派な料理ができていないということではないでしょうか。理想が高くてそこから自分の作った料理を見るととても貧相に見えるということではないでしょうか。それでしたら一カ月に2つぐらいの新しい料理を作れるように頑張ってみたらどうでしょうか。自然にレパートリーが増えてくるのではないでしょうか。そのうちカレンダーに大まかに献立表を書きこまれるようになれば自信がついてくるのではないでしょうか。また片付けも一挙に完璧にやろうとすると苦しくなり、結局何も片づけないということになるのではないでしょうか。完璧に整理整頓、掃除をするのではなく、今日はお風呂とトイレ、次の日は居間、その次の日は台所・・・というように小分けにして片づけをこなしていくというのはどうでしょうか。これだとあまり時間がかかりません。不快な気分に圧倒されることが少なく、1週間経てばほぼ片付いていくのではないでしょうか。日常生活がうまく流れるようになると、素敵な絵画、ポスター、花などを飾るということに気が回るようになるかもしれません。それから雑談恐怖ですが、これは私も悩んでいた時期がありました。これについてはオンライン学習で参考になる話を聞きました。それによると、雑談というのはしっかりとした目的があると言われるのです。私はみなさんと仲よくしたい。決して敵対している存在ではありませんということを伝える目的があるというのです。人間関係をよくする潤滑油のような役割を果たしているのだそうです。雑談をして何か将来の役に立つというようなものではない。私はそれまで役に立たない意味のない雑談を時間の無駄だとバカにしていたのです。また雑談の場にいるといつ何時、自分の存在、欠点や弱点、失敗やミスが雑談の話題に取り上げられて笑いものにされるかもしれない。ということにいつも神経がピリピリしていたのです。だから雑談の場にいることが苦痛だったのです。また雑談の場では、みんなに受ける面白い話ができなければならない。できれば自分が雑談の場を取り仕切るような存在でありたいと思っていたのです。現実はそんなことはほとんど不可能ですから、雑談の場を避けるというのが楽だったのです。雑談の目的が分かれば、ただ雑談の場にして、みんなの話を聞いているということはとても大きな意味があるということです。それをいつも避けているということは、私はあなた方と友好な人間関係を築きたいとは思いませんと宣言しているようなものです。一方で他人と親しく交流したいと思いながら、実際には雑談の場を避けているのですから容易に雑談恐怖に陥るのではないかと思います。
2016.12.04
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「生活の発見」という機関紙(自助グループ「生活の発見会」の会員登録をすれば送られてくる)がある。神経症の人には大変役に立つ本である。これだけで神経症を克服していく人もいる。神経症の人で苦しんでいる人には是非読んでみることをお勧めしたい。さて今月号に神経症の悩み相談が載っていた。こういう相談があった。嫌いというわけではないが、ある特定の人と二人きりになると、何を話してよいのか混乱して、頭が真っ白になりパニックになる。どうしたらよいでしょうかという相談です。その方はああでもない、こうでもないと話題を探す。でもお天気ぐらいのことしか思い浮かばない。話題が思い浮かばず沈黙するようになる。その時なんともいえない重苦しい気持ちになる。身の置き所のない居心地の悪さ、不快感が襲ってくる。そこでその場を取り繕うとする。あるいはその場から逃げる。最終的にはそういう人を避けるようになる。それではいけないと思うので何か改善策があればアドバイスしてほしいと言われていた。私も体験がある。ここで嫌いではないがある特定の人というのはどういう人だろうか。それをまずはっきりさせよう。職場の同僚、学校の友だち、異性、上司や部下、父親等ではなかろうか。これらの人と二人きりになったとき話が続かずに気まずい気持ちになる。ではどうすればよいのか。私の経験から2つのことを話してみたい。まず、話すことが見つからないというのは、相手のことが見えていない状態だと思うのです。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という話があります。相手が見えてないと疑心暗鬼になります。相手の情報がいろいろと分かっていれば話の糸口は容易に見つかります。相手が今抱えている問題は見えていますか。仕事、家庭、人間関係、家計、趣味など関心を持って観察していますか。神経症に陥ると自分の症状ばかりにとらわれています。頭の中は自分の症状のことばかり。相手のことが見えていないので、話題が見つからないのではないですか。その人がどんなことに悩み、どんなことに苦しんでいるのか。どんな生活をしているのか。どんな目標を持っているのか。どんな欲望を持っているのか。あるいは最近テレビニュースではどんなことが話題になっているか関心を持って見ていますか。事件、政治、経済、スポーツなどなど。外に目を向けていればいくらでも話題は見つかるのではありませんか。新聞を見る。ニュースをみる。相手のことが分からなければ人から情報を得る。外に目を向けずに、自分が相手にどう思われているのか。相手が自分をどう取り扱ったかばかりに注意を向けていると話題は自分の悩みしかなくなります。それを話題にするわけにはゆきません。つまり目の付け所が違うのではないでしょうか。そして気持ちが内向きになり、相手との間に身の置き所のない不安感がある。その不快感を取り去っていつもスッキリとしていたい。不安は自然現象でどうすることもできないのに、できないことをしようとしているのではありませんか。その不安を持ちこたえ、そのエネルギーを相手の観察などに振り替えていく必要があるのではないでしょうか。次にその人といるとバカ話ができない。一緒にいるといつも緊張してしまう。リラックスできない。身構えて固まってしまって、ありのままの自分を出せないという場合があります。無言の圧力を感じて、萎縮して、親しく話をする状態にはないということです。そういう関係は対等な人間関係にはなっていないと思います。たとえばその人が親分で自分は子分か手下のような関係にある。人間関係に上下があるのです。しかも自分がいつも下にいる。いつも相手のいいなりになっている。また相手が自分に対して敵対関係にある。自分の存在を軽く見たり、無視したりしている。そのような人に対してフレンドリーな人間関係を築くことはできません。敵対関係になるか、その人を避けるようになると思います。そういう人とは誰でも心を開いて話はできないと思います。もともとソリが合わない人です。そういう人とは森田理論学習で言う不即不離を応用するとよいと思います。この場合は強いて親しく話しかけなくてもよい。むしろ離れることを選ぶ。でも挨拶だけはきちんとする。愛想笑いをする。仕事上の最低限の会話だけにする。これだけを心掛ける。人間関係というのは、必要な人と、必要なときに、必要なだけ付き合っていくのが基本だと思います。またコップにいっぱいの人間関係よりも、コップに少しだけ飲物が入っているような人間関係をたくさん作っておく。そういう気持ちでいるとある特定の人に振り回されることは少なくなると思います。自分を叱咤激励して無理矢理、親しそうに会話しようとすると、苦しくなります。苦手意識のある人の前でも、堂々として、うまく立ち回れる人間にならなくてはいけない。どんな相手でも、相手の気をひく話ができなければならない。等と考えていると「かくあるべし」で葛藤と苦悩が出てきて対人恐怖症にまで増悪してしまいます。
2016.12.03
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私は対人恐怖症でイヤな場面からすぐに逃げていた。そして自己嫌悪、自己否定で苦しんできた。森田理論学習を続けているうちに、すぐに逃げない方法を3つほど見つけた。これから紹介したい。但し、今現在症状で苦しんでおられる最中の人には参考にならないかもしれない。ご了解願いたい。1、 まず私は、いつも気分本位に行動する人間であることを認めたのだ。だから自分一人では気分本位の態度を自分では改めることができない。でも気分本位の生活を続けていては生活が後退し精神状態が悪くなる。それでどうするか。身の回りの人に協力要請することにした。「私はさぼり癖があります。このままでは会社に迷惑をかけてしまいます。お願いですからひとつ協力していただけませんか」上司に「どうすればいいのか」と聞かれれば、「営業を二人一組でやらせてもらえませんか。そうすれば精神的にもずいぶん楽になり、仕事から逃げることはなくなると思うのです」「そんなのは甘えだ。世間では認められない」「でもさぼってばかりで、ノルマを達成できないよりはましだと思います。ぜひ検討願います」自分は「精神的苦痛からできるだけ逃げたい。人が見てなければさぼって楽をしたい人間です」と素直に認めてしまえば、それに抵抗する力は弱まります。その出発点に立ってはじめてどうすれば気分本位の生活を修正できるのかを考えられるようになります。この方法で私はさぼらずに営業活動が続けられた経験があります。2、 次にライバルを持つということ。自分よりも少しだけ営業成績のよい人、あるいは少しだけ学力の高い人を心の中にライバルとして持っておくこと。そのライバルに勝ちたいという目標を持てれば気分本位になって仕事をさぼるということはなくなると思います。私の経験でも同じような仕事をしている中間管理職の人の成績を目標にして、なんとか勝ちたいという競争意識を持っていた時は、がむしゃらにがんばっている時でした。心の中にライバルを作って、競争してみるというのも気分本位になって、すぐに逃げる人には有効だと思います。3、最後に小さな目標を持つということ。こんな話があります。「あなたのジャンプの力を測定します。指にチョークの粉をつけ、ジャンプしたときに、それを壁につけてください。ジャンプしたときの指の跡と、普通に手を伸ばして届くところとの差があなたのジャンプした距離です。」被験者にこのような説明をして、トライしてもらう。みなそれぞれにジャンプして指のあとをつけ始める。その時に、全員の記録を何割かアップさせる、ある秘密があるのだ。「ではここまでジャンプをしてみましょう」といって、被験者がジャンプできるところより、いくぶんか高めのところに線を引くのである。すると、ほとんどの被験者が自己記録を更新する。「あそこに飛びあがってみよう」というはっきりした目標があると、これまでよりも何割か強い力を発揮することができるのである。ちなみに、「できるだけ高くジャンプしてください。」「思い切り飛び上がってください」という指示は、あまり記録を伸ばす効果はなく、何も言わなかった時と大差はなかったそうです。だから小さな目標を絶えず持ち続けることは、意欲ややる気をかきたてて、気分本位を抑えることにつながると思う。森田理論でいえば、普段の生活や仕事などで、小さな目標を設定できるということが重要になります。
2016.12.02
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隕石の落下、地震、火山の噴火、台風、暴風雨、雷、竜巻、大雪、大雨、土砂災害などの自然災害が毎年のようにやってきます。人間は耐震構造の建物、頑丈な防波堤、砂防ダムなどを作って備えています。しかしながら、残念なことに自然の脅威の前に人間は無力です。自然の猛威の前になすすべがなくたたずんでいることが圧倒的に多いのです。できる限りの防災施設の備えは必要です。でも100年に一度の災害に備えるような防災設備は難しいのが現状です。ある程度のところで妥協せざるを得ないのが現状です。つまり自然の一部である人間には、自然を意のままにコントロールする力はないのです。そういう災害に対しては、できうる限りの予防をした後は、苦しいことではあるが、受け入れて、服従するしかないのです。というよりも、好むと好まざるにかかわらず人間にはそれしかできないのです。結局、自然の流れ、自然の動きや変化に合わせて、もっと謙虚に向き合うことのほうがより大切なのではないでしょうか。森田理論では感情も自然現象であるといわれています。不安、恐怖、違和感、不快感、怒り、嫌悪感、罪悪感、嫉妬心、恥ずかしさ、悔しさ、悲しさ、嬉しさなどの感情はすべて自然に湧きあがってくるものです。風水害などの自然現象と同じですから同じように取り扱うことが必要なのではないでしょうか。具体的にはどう対応してゆけばよいのか。その前に感情の特徴を簡単に見てみましょう。湧きあがってくる感情は人類の進化の過程で、捨て去られないで残されてきたものです。感情はどんなものであっても大切なものです。それは生命体としての人間が生き延びていくために必要なものであった。たとえば近くに肉食獣が近づいていないかどうか五感をフル活用して感性を高めていると、すぐに危険を察知することができた。危険なことに気づかない動物はすぐに餌食とされて、その種は絶滅してきた。また豊かな感性はより深く自然や芸術、他人の気持ちを察することができて、潤いのある人生づくりに役立っている。次の特徴は、感情にはもともと行動を誘発するエネルギーをもっているということである。感情が発生して、高まってくると、次第にやる気や意欲が出てくる。欲望が出てくる。不安や恐怖等も出てくる。つまり感情の発生は、その次には、そのはけ口を求めてさまよう存在なのである。ここでは感情をどのように吐き出していくのかは大変に重要な問題である。以上を踏まえて感情という自然現象にどう対応してゆけばよいのかを考えてみよう。第一に感情の発生を生活の中に活かすということです。不安は安心のための用心であるといわれます。不安や恐怖を感じたらすみやかに対応することです。台風に備えて家の補強をする。地震の恐怖を感じたら家の耐震化工事をする。津波に備えて高台に避難する。土砂災害の危険があれば砂防ダムを作る。雷被害を防ぐために避雷針を立てておく。でもこの割合は感情の対処方法全体から見ると比較的小さな割合になると思います。多くても二割から三割ぐらいでしょう。これらの不安に対して、考えるだけで行動しないという人が多いのは残念なことです。では残り七割から八割はどのように対処すればよいのか。それは感情の発生に対して謙虚な気持ちになって、受け入れる、服従していくということです。じたばたと安易に楽になる道をとらないということです。はからいや逃避という手段をとらないということです。これが第二の対応方法です。神経症の人はこれらが反対になっている。手を出してはいけないのに、いろいろと手を出してスッキリとしようとする。いい悪いとかの価値評価をしないでそのまま受け取って味わう。苦しい時は台風の時の柳の枝のようにとりみだして味わうことです。松の木のように抵抗してはいけません。一定のところまでは耐えられますが、限界点を超えるともろくも折れてしまいます。台風一過、無残にも倒された松の横で、あの弱弱しいかった柳の木が何事もなかったかのようにたたずんでいます。実に痛快です。それが神経症に陥らない、もっとも安楽な対処方法です。不安や恐怖などは苦しいことではあるが、謙虚になって受け入れて、服従するという態度が必要なのではないだろうか。好むと好まざるにかかわらず人間にはそれしかできないのです。第一と第二の対応方法は全く違います。その区別をはっきりさせることは大変重要です。第一の対応は、生命の安全を確保するため、将来の状況の悪化を防ぐため、真の意味で人のためになることなどは勇気を持って行動することです。一刻の猶予もないのです。第二の腹立ち、怒り、不安、恐怖、不快感、本能的な欲望などに安易に手を出すことは、人に迷惑をかけて、人間関係を悪化させ、将来にさらなる大きな問題を先送りすることになると思われます。2つを区別できる知恵。積極的に勇気を持って対処する行動力。自然を受け入れて服従していく態度。臨機応変な対処が求められます。対応方法を誤らないことが大切です。
2016.12.01
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