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26日の日記で、智慧が間違っていました と書きましたが・・・蜆汁硯海さんが鋭い指摘をされました。~~~~~以下引用~~~~~「三人寄れば文殊の知恵」辞書をながめれば、知恵と智慧には違いがあるようです。しかしこのことわざですが、「智慧」という意味で使われた例を聞いたことがありません。僧侶の書いた本でも「智慧」という言葉が使われますが、その中味もわからずに軽々しく使えない言葉に思えます。「三人寄れば文殊の知恵」の方が好感が持てます。現状を見てもおそらく、「三人寄れば文殊の智慧」は死語に近いのでは?~~~~~以上引用~~~~~私の返しのコメントは以下のとおりです。>確かに、そう指摘されるとその通りですね!>10人寄ろうが、100人寄ろうが悟りの智慧には>なりませんね(苦笑)>やはり元に戻しましょうか?解説しますと「智慧」と書いた場合には、悟りにいたるための「智慧」を指します。確かに三人どころか十人寄っても、百人寄っても悟りに至るための智慧とはならないと思います。「三人寄れば文殊の知恵」の方が実情に合っているように思えますので、異議がなければ元に戻そうと思います。
2008年09月29日
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強い、絶対に強いのが「巨人、大鵬、自民党」勝てそうで勝てないのが「阪神、柏戸、社会党」そう言われたのが1980年ごろまでの話です。資本主義=保守=右派 自民党、新自由クラブ社会主義=革新=左派 社会党、共産党、民主党、 公明党、社民連さらに資本主義=アメリカ=反ソ=右翼社会主義=ソ連=反米=左翼どちらの側にもかつてはそれなりの正義がありました。当然、左翼にも右翼にも、それぞれ反米かつ反ソという勢力が存在していましたが、はっきりとした色分けがありました。ところが、ベルリンの壁が壊され、ソ連が崩壊してから、何故か日本の政治も不安定になります。20世紀という時代は社会主義VS資本主義の時代でしたが一方の社会主義が地すべり的に崩れ落ちたのは、少なからず世界に影響を与えたことは間違いありません。絶対に政権を取ることがないと思われた社会党首班の内閣が登場したのが1994年。それまでの「自衛隊は違憲」「日米安保放棄」の路線をいきなり返上。自衛隊も日米安保もかまわないと言い出したときの衝撃は天皇の人間宣言に匹敵するのでは?社会党は坂道を転げ落ちるように転落、消滅してしまいました。社会党の消滅は自業自得、しかし、それまで日本の良識といわれていた勢力が、政権に就いた途端、理想論の仮面を脱ぎ捨て現実を追認してしまったのはまずかった。その後の政治不信につながったことは言うまでもありません。世界の構図も変りました。アメリカもかつてほどの力を持たず、ソ連に変わってアジアで力を持ち始めた中国は資本主義?社会主義?かつてのアメリカもソ連も日本の進むべき道標になりうるそれなりに魅力のある国でした。しかし、現在のアメリカや中国は・・・日本はどちらにもなりたくないし、惹かれる物もないでしょう。現在総選挙が近いといわれ、自民党VS民主党といわれていますが・・・違いがよくわからない(汗)かつての自民党や社会党に入れたときのように何かに期待して入れるわけでなく・・・自民党に入れても民主党に入れても、なんか変るかな???と思ってしまいます。どうなんでしょう?人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月27日
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あるサイトを覗いたところ、「三人寄れば文殊の智慧」と書いてありました。顔が青ざめました。私のタイトルは、これまで「三人寄れば文殊の知恵」と書いていました(汗)仏教では通常「智慧」を使います(汗)
2008年09月26日
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その昔、戦艦という軍艦がありました。大口径砲を搭載し、その大口径砲に耐えうるだけの堅個な防御を持ち、第二次世界大戦までは海軍の主力とされていました。この戦艦がその座占めるにいたったのは、かの有名な日本海海戦!ロシアの戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻他全38隻に対し、日本は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦15隻他全108隻数はともかく、質的には劣ると思われていましたが・・・下瀬火薬、伊集院信管という新兵器を投入した日本が遠距離砲戦によってロシア艦隊を壊滅させる大勝利を挙げました。こうして、列強各国は戦艦に価値を見い出し建造競争を行いましたが、建造と維持に膨大なお金がかかる戦艦は、各国の国防費を圧迫し、ついには条約で軍縮の対象となります。条約破棄とともに、各国は再び戦艦を建造し、第二次世界大戦へと進むのですが・・・もはや戦艦の時代は終わっていました。戦艦の時代の扉を開いた日本によって、同じように戦艦時代の幕が下ろされます。日本の6隻の空母から発艦した350機の航空機によって、アメリカが誇る軍港、真珠湾に停泊中の戦艦8隻を破壊!太平洋艦隊は一日にして壊滅しました。さらに、マレー沖では作戦行動中の英国の2隻の戦艦も日本の86機の航空機によって沈められ、海軍の主力は戦艦から航空機によって取って代わられます。その航空機を世界中どこへでも運ぶ空母の時代の到来?第二次世界大戦では、日本とアメリカによって空母同士の戦いが6度行われました。しかし、それ以降、空母同士の戦いは現在に至るまで一度も起こっていません。なぜか?かつての戦艦のように、空母は建造も簡単ではなく維持費もべらぼうにかかるからです。それに以前は各国が戦艦の喪失を恐れて、戦艦の戦闘自体を回避する傾向がありましたが、(平和には役立つ!)空母も同じ傾向があります。現在イギリスが垂直離着陸機を20機程度積める小型空母を3隻、フランス・ロシアが40~50機程度の中型空母を各一隻づつ持っているだけで、他の何か国か中古か、小型の空母を持っているにすぎません。ところが、現在8万トンを超え90機近い航空機を積める巨大空母を持っている国があります。しかも、それを11隻!はっきり言って必要がありません。それが日本にやってきました。米原子力空母G・ワシントン、横須賀配備通常型空母でも6千億円、原子力空母では1兆2千億円の建造費が必要と言われています。さらに航空機を90機積んだら、別に1兆円近く必要になるはずです。維持費は50年で3兆5000億円の見積もり。人件費が別に500億ぐらい必要でしょう。しかも原子炉から放射能漏れの恐れがあります。人口が集中している首都圏のすぐ近くに、原子炉を置くなど狂気!こんなところに、原子力空母を配備することが安全なら広瀬隆ではありませんが、「東京に原発を!」と言いたいところです。空母とはいえ、たかだか90機程度の航空機を積んでいるにすぎません。それほど効果のあるものか???日本を守ることを考えれば、空母など持たないでも航続距離の長い航空機に対地長距離ミサイルを積んだ方が効果的ではないでしょうか?はっきり言って、空母など、さほど、抑止効果があるとも思えません。また、かつての戦艦のように時代遅れになっている可能性もあります。(空母を撃沈できる対艦ミサイルが開発されているともいいます)さらに、アジアに大型空母を配備することは、新たな軍拡を引き起こす恐れがあります。もう、空母などいらない!はっきり言いたいところです。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月25日
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いくらでもあるもののたとえとして「湯水の如く使う」という言葉がありますが、湯水を豊富に使えるようになったのはごく最近の話。給湯器が普及する前はお湯を沸かすのは結構大変ですし、水も水道が普及する前は井戸や湧水・河川を使っていましたのでいつでもどれだけでもというわけではなかったはずです。先日の台風13号は四国では待ち望まれていました。雨が期待できながら、小さな台風で風の心配は少ない。きっと早明浦ダムを満水にしてくれるに違いない。残念ながら、その期待ははずれ、台風は四国のやや南を通過して行きました。現在は多少降雨があった影響で、取水制限が一時的に解除されましたが、現在貯水率は7パーセント。まだまだ、水不足を解消するに至っていません。原因は以前にもお話したように、降水量自体が少ないためで、ここ3ヶ月の降水量が水源の本山付近で平年の31%。以前吉野川は誰のもの?という日記を書きました。その時に、引用した文章では吉野川のアユを助けるためにバケツ汲みした高松市民なんしょんな香川水不足の問題は、徳島・香川の水利権の調整の問題のように書かれていましたが、実はそうではないことに気づくべきではないでしょうか?確かに水が豊富にある状況では、徳島から香川に水を分けることは可能でしょう。しかし、現在のように渇水時は、香川だけが取水制限をしているわけでなく、徳島も行なっています。すなわち、分けるパイが小さくなっていることを理解しなければなりません。パイの大きさが限られている以上、香川の水利権を増やした場合、渇水は早くなって来ることが予想できるのではないでしょうか?今年は四国・中国・九州の瀬戸内海沿岸で旱魃ともいえる降水量の減少が起きています。日常的な降水量が少なく、台風に期待するしか水不足を解消する方法がないとすれば、水を豊富に使う生活を考え直さなければならないでしょう。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月23日
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お彼岸ー明日のためにその一 布施(ダーナ)お彼岸ー明日のためにその二 持戒(シーラ)お彼岸ー明日のためにその三 忍辱(クシャーンティ)お彼岸ー明日のためにその四 精進(ビーリヤ)お彼岸ー明日のためにその五 禅定(ディヤーナ) お彼岸ー明日のためにその六 智慧(プランジュニャー) 昨日の続きです。回向というものについて、高野山にいた頃、先生から「振り向くことだ」と聞いたことがあります。振り向くこと???良くわかりませんでした(汗)~~~~中略~~~~~あるとき、回向とは自分が振り向くことだと気づきました。「功徳を振り向けるということは、 自分が振り向くこと」先祖供養は「故人のために行っている」とは、よくいいますが・・・・本当でしょうか?本来の法事は命日に行なわないと意味がありません。弘法大師の御影供は3月21日、お釈迦さんの涅槃会2月15日と決まっています。ところが現実には、生きている人の都合によって日程を前後させるのが普通です。土日に法事を行なうのが普通で、故人が亡くなってから最初の法要である初七日でさえ、火葬の後の骨上げの法事であわせて行ない省略することは少なくありませんし、徳島では少ないですが、仏教徒にとって重要な儀式の四十九日(満中陰)でさえ、その日に行なわず、土日にあわせることも少なく無いようです。それどころか、何人かの法事をまとめて行なわれることもあります。「お大師さんの命日とお釈迦さんの命日は近いのであわせて行なう」などということはありません。ところで、言いたいことがお判りでしょうか?私の言いたいのは、法事のやり方に注文をつけているわけではありません。「法事は生きている人の都合で行なっている」ということです。つまり、法事は先祖を供養するためのものだけではなく、自分が振り向くいい機会なのです。「衣食足りて礼節を知る」とはよく言ったもので日々生活に追われている人は、先祖供養などする余裕がありません。最近は家族だけで法事を行なわれることが多くなってきました。普段はなれて生活している親戚とも付き合いが薄くなっているのでしょう。しかし、人間は一人だけで生きているのではありません。人間のみならず、この世のすべてのものに恩恵を受けているのです。法事というのはせめて少しでも、それを返す機会ではありませんか?がむしゃらに走っている人には、周りを見る余裕などないでしょう。当然振り向くこともありません。自分が振り向くということはすなわち自分が周りを見る余裕があるということです。縁のある人に集まってもらい、その人たちに供養することによって、その功徳が廻って再び自分に還って来るものです。回向はそういうもののような気がします。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月21日
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今日からお彼岸に入りました。二年前に書いた文章をお彼岸ごとに使いまわしていますが初めての方はお読みください。お彼岸ー明日のためにその一 布施(ダーナ)お彼岸ー明日のためにその二 持戒(シーラ)お彼岸ー明日のためにその三 忍辱(クシャーンティ)お彼岸ー明日のためにその四 精進(ビーリヤ)お彼岸ー明日のためにその五 禅定(ディヤーナ) お彼岸ー明日のためにその六 智慧(プランジュニャー) ところで、回向というのをご存知でしょうか?真言宗の仏前勤行次第(仏様を拝む時の仕方)には回向文というのがあります。「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」「願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」『妙法蓮華経』巻第三「化城喩品第七」ようは、「お経を読んだ功徳を、皆に分けてあげよう」ということです。この回向というものについて、高野山にいた頃、先生から「振り向くことだ」と聞いたことがあります。振り向くこと???良くわかりませんでした(汗)回向すると言うことは、故人の霊が振り向かせることかと勝手に想像し、「先祖供養は亡くなった方が振り向くようにしなければいけません」と説明していました。納得できるような説明でしたが・・・あるとき、回向とは自分が振り向くことだと気づきました。「功徳を振り向けるということは、 自分が振り向くこと」自分が振り向くこととは・・・続きは、また明日です。(二~三日更新できないかもしれません)人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月20日
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前日(17日)の夜に参拝団のOさんから電話がありました。「明日巡拝行くんですか?雨がごついみたいですが・・・」ちょうど台風13号が九州に接近中。予想進路は九州南部をかすめて、四国沿岸の太平洋側を進みそうです。巡拝予定の場所はその進路にあたる、室戸岬から太平洋沿岸を西へ進みます。ちょうど、台風に向かっていくかのような進み方。ただ、台風は勢力が弱く、四国沿岸をかすめるのは明後日になる模様。「行きますよ。インターネットでも予報を見てますが、それほど大したことなさそうです。」昼間にウエザーニュースでチェックしたところでは、室戸(24番札所付近) 6ミリ(一時間の予想最多降水量)南国(29番札所付近) 4ミリ(一時間の予想最多降水量)ところが夜にチェックしたところでは、室戸(24番札所付近) 12ミリ(一時間の予想最多降水量)南国(29番札所付近) 23ミリ(一時間の予想最多降水量)ちょっと増えているような(汗)しかも、ニュースでは四国の太平洋側が明日の夕方までに多いところでは250ミリとか・・・(汗)当日キャンセルは、予算の関係上したくありません。しかし、安全性を考えたら中止せざるを得ません。そんなことを考えたら、なかなか眠れません。気づいたら寝ていて時計が5時少し前です。大急ぎで、ニュースを見ると、雨雲レーダーの予想を見る限りではいけそうな気が・・・雨がバシャバシャ降っていたら中止にする予定でしたが、曇っていて全く雨は降っていません。雨にほとんど合わないまま、徳島沿岸を南下して室戸に向かいます。御厨人窟(みくろど)若き日の弘法大師が修行した場所とも言われています。ここで虚空蔵菩薩求聞持法を行っていたときに、明星が現れて口の中に飛び込んだといわれていますその故事より、虚空蔵菩薩求聞持法を修行する求聞持堂には四方を壁に覆われ真っ暗なお堂の中に、その明星を見るだけの小さな子窓が設けられています。明星の来影は「比喩的表現」で、それを信じて窓を設けることなど意味がないという学僧の話を聞いたことがあります。ところが、明星が現れるというのは比喩ではなく正体はわかりませんが実際に現れます。ここから見た室戸の海と空から弘法大師は「空海」という名前を付けられたといわれています。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月19日
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明日はかねてから予定していた四国巡拝です。あいにくの雨はともかく、台風が接近しつつあります。とはいえ、予報では四国へ接近するのは明後日ということで超思い切って出かけることにしましたが・・・大丈夫でしょうか???人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月17日
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昨日日記に長々と書いてしまいましたが、また書きたくなってしまいました。「弘法大師が眠られているのは奥の院ではない?」という見解については、さほど重要性はありません。たとえそうだとしても、現在の奥の院が廟所としての性格を失くすことはありえないからです。また、弘法大師について何か変わることもありません。学問的見解が宗教的には影響を与えない例でしょう。しかし「空海の誕生地は畿内?」については結構重要な問題を含んでいます。弘法大師の生涯にはたくさんの謎があります。そのうちでも、「弘法大師はなぜ中央の大学に入れたか?」「弘法大師はなぜ教養が桁外れに高かったか?」「弘法大師はなぜ大学を辞めて仏門に入ったか?」「弘法大師の莫大な留学費用は誰が出したか?」以上については弘法大師の生涯にとって非常に重要な問題です。しかし、「弘法大師畿内誕生説」により理解できる説明がつくような気がします。「弘法大師畿内誕生説」とは弘法大師の一族は中央に官人を出していた氏族であり、本拠地は讃岐ながら、交易で財を成し、畿内にも活動拠点を持っていた可能性が高いことから、弘法大師は畿内で生まれ育ったという説です。「弘法大師はなぜ中央の大学に入れたか?」これは、ちょっと専門的になりますが、当時の中央の大学は官僚を養成する機関で、ある程度の冠位を持つ貴族以上でないと入れないといわれていました。しかし、弘法大師は地方の豪族の子弟と思われていたので冠位が低く入れる資格はないはずなのですが・・・現実には大学で学んだといわれています。なぜ入れたか?「弘法大師はずば抜けて優秀だったので特別に入れた」というのが従来信じられていた説です。誰もそれで不思議に思わなかったところもさすがに弘法大師です。一般的に考えれば、弘法大師が中央に拠点を持つ冠位の高い一族で入学資格があったという方が自然かもしれません。「弘法大師はなぜ教養が桁外れに高かったか?」これも、当時の中央と地方の文化の差が大きかったことを考えると、従来のように讃岐で15歳ぐらいまで過ごし、それから都に出たというよりも、最初から都の近くで生まれそのまま長じたというほうが自然かもしれません。「弘法大師はなぜ大学を辞めて仏門に入ったか?」従来説では幼少のころから仏教に興味を持っていたが親の期待にこたえる形で都に上ったとされていますが、もし、本当にそうなら、本来入学資格のない大学へ入ることは一族郎党の期待をを一身に集めていたはずです。したがって、その期待を裏切り仏門に入ることはかなり心苦しかったはずです。やはり、もともと都近くに住み、兄弟が何人もいて後継者には困らなかったと考えたほうがハードルは低いでしょう。「弘法大師の莫大な留学費用は誰が出したか?」還学生として中国の最新の仏教を輸入するべく国費で中国に渡った伝教大師よりも、見方によっては上回る経典や仏器を私費の留学生の弘法大師が持ち帰ったことは従来からその費用を誰が工面したか謎とされていました。「20年の留学費用を一年で使った」「山野修行をしていたときに知り合った水銀技術者集団」作家の陳舜臣氏は「曼荼羅の人」でパトロンとして政治家の王淑文を登場させています。しかし、弘法大師の一族が交易で財を成していたと仮定すると、一族の一人を先進国である唐の都へ公式な資格で送り込むことは、正式には人的往来が自由に出来なかった当時としては極めてメリットがあることで莫大なお金をつぎ込んでも余りあるように思えてしまいます。以上は俗人の眼から見た見解で、宗教としては弘法大師は従来どおり、讃岐生まれだったという説明が何の不思議もなく受け入れられることは当然です。一方で、弘法大師を神格化には異議があります。真言僧が「弘法大師の神格化に異議がある」とは面妖なことではありますが・・・弘法大師は子供の頃から仏教に興味を持ち、真言宗を開かれ、入定されてからも我々を見守ってくださる。そんな教えを説かれたら「ちょっと待って!」とつい言いたくなります。そもそも、「弘法大師は仏教家?」と言うのが私の疑問です。頭がおかしくなったと思われる方もいるかもしれませんが、私はまともです。弘法大師は日本史に強烈な個性を持って足跡を残しています。ある時は、言語学者(篆隷万大象名義という 日本初の辞典の編纂者)ある時は、教育家(綜芸種智院という入学制限のない学校を作る。 しかも学費は全額支給という超画期的なもの)ある時は、文学者(文鏡秘府論という詩文の創作理論を取りまとめた 著作。執筆法使筆法という字の書き方の著作がある)ある時は、土木技師(日本最大の溜池である満濃池を アーチ型にして改修)ある時は、書の達人(平安の三筆にあげられ、五つの書体を 自由に操り唐でも「五筆和尚」の異名を授けられた)ある時は、詩人(唐の文化人を驚かせる漢文を書く)これだけの、足跡を残している弘法大師を仏教家でまとめていいのだろうか?というのが私の思いです。ただし、さまざまな才を発揮した弘法大師が最も力をいれ、ライフワークとしていたのが仏教の分野です。それゆえ、このブログはかつて弘法大師の追い求めた後を追うべく「弘法大師(空海)の秘宝を追え」と言うタイトルをつけていました。真言僧の仕事は弘法大師を拝むことでは断じてないように思えて、弘法大師の後を追うことこそが、弘法大師の願いのように思います。だから、あえて弘法大師の神格化には反対したい!と言い切ってしまっていいものかどうか迷っています。弘法大師を神格化することよりも真言僧が「弘法大師の神格化に異議がある」というほうがかなり違和感があるような気がしないでもありません。やはり神格化したほうが宗教らしいんでしょうかね?今日も、まとまりのない文章で申し訳ありません。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月16日
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先日の法要で禁断の質問がありました。「何のために法事をするんで?」いつもながら答えにくい質問です。僧侶はみな答えにくいのではないでしょうか?「お経をお唱えしたり、仏様にお供えしたりして、功徳を積んでそれを、故人(亡くなった人)に振り向けます」「亡くなった人はあの世で修行しています。それに対してこちらで功徳を積んで、応援してあげるものです。」「もともと中国では、先祖を供養すると、生きている人が守られて栄えるとも言います。」「先祖供養したら功徳が返ってくると言うことです」これで、大体納得していただけるんですが・・・しかし、この後に言いにくいことを付け加えないといけません。「もともとの仏教の教えとは関係ないんですけどね!」「日本の民族信仰なんですよ」こんなことはわざわざ言わなくてもいいことだと思うのですが、多分、言わない人のほうが多いでしょう。余計なことだと思いますが、つい、言ってしまいます。言ってしまうと、仏教が日本の民俗信仰とどう関わっているかという、もっと面倒な説明をせざるを得なくなり当然のことながら、理解しがたい話になってしまいます。「仏教と先祖供養は全く違う!」という事実は多少は理解されていて、現在の仏教を批判するときに「もともとの仏教は~」という言い方をされるので、知られてはいるのですが、先祖供養をされる方からするとやはり「先祖供養=仏教」と思われているようです。だから、仏教諸派で教義から葬儀・法事など必要なさそうに思われる宗派であっても、もっともらしい理屈をつけて他派と同じように葬儀を行うのは、当然のことと思われます。ところで、真言宗は先祖供養とは別の意味で複雑な問題があります。先日の「空海の誕生地は畿内?」「弘法大師が眠られているのは奥の院ではない?」では僧侶の方からも、その意見に対して異議がありました。学問と信仰は違うという見解です。私も立場上その考えは理解できます。たとえば「いろは歌は弘法大師作ではない」学問上からは確かにそうかもしれません。しかし、いろは歌の製作には1、仏教的な素養2、草書体に長けている3、サンスクリットの知識が必要とされています。それに、見合う日本人と言えば「弘法大師以外にない」「弘法大師が適当」というのが宗教的結論です。一方で、「奥の院に弘法大師がミイラ(即身仏)になっている」になるとかなり怪しげです。これについては以前に書いています。結構微妙な問題ですが先ほどの「先祖供養=仏教」でないと同じように「弘法大師信仰=真言宗の教え」ではありません。某真言宗諸派が御宝号(南無大師遍照金剛ー弘法大師に帰依します)念誦運動を行っていますが、弘法大師信仰自体を広めるのは真言宗の教えから外れるのでは???と思わざるを得ません。弘法大師が生きているというのは、真言密教の教義から導かれる結論で、実際にミイラなどで存在するという話ではありません。ミイラなどで存在するというような怪しげな話を広めてしまうと真言宗の教えから全く離れてしまいます。一方で「弘法大師信仰」というのは、実は真言教団にとっては非常に重要な役割を果たしています。まず「弘法大師信仰」が無かったら、真言宗自体にほとんど興味を持って貰えないかもしれません。さらに「弘法大師信仰」抜きで真言密教を学ぶと危険です!真言に限らず密教は、教義自体よりも修行によって得た境地を重視します。それはどういうことか?すなわち、その行者が思いついたことを真理と錯覚しやすいのです。この危険性は、少なからず新興宗教団体が問題を起こしていることからも理解されるでしょう。真言宗は「弘法大師信仰」があるがゆえに、それが柵となって危険から解放されているといえます。一方で、それゆえ足枷になっているのも事実かもしれません。ちなみに弘法大師と同時代の伝教大師はその配下から、教科書に載っているような日本の名僧のほとんどを輩出しています。「生誕地と墓所の場所がこれまでと違っていたかもしれない」ということで、騒動が起きるのは弘法大師ぐらいでしょう!なんか愚痴のようにダラダラと思いつきで文章を書いてしまいました。まとまりのない内容で申し訳ありません。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月14日
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最近、お葬式で気になることがあります。まず一つは「末期の水」。「末期の水」とはもともと、文字どおり、臨終の際に水を綿などで含ませて与える儀式です。ところが今では、臨終の際ではなく亡くなった後にお通夜の席で行います。したがって、ごく親しい近親者のみが行なう儀式ですが・・・最近では、個人とのお別れの儀式として考えられているようで、近親者でもない方までが行なうようです。座っている順番にそれが回ってくると、しないといけないように思われるようで、断るのは勇気がいるようです。もう一つは、出棺の際にお棺に花を入れる儀式です。これも、以前は身内の方だけが行なっていたように思われるのですが、それ以外の付き合いのある方がお別れする儀式と思われているようです。しかしながら、亡くなった方の中には、苦しい表情の方も当然おられますし、生前の元気な姿とは似ても似つかない姿になっている方もあります。死後の姿を人には見られたくないと言う意見もありますので、二つの儀式とも故人の近親者以外が行なうのはどうだろうと思うこの頃です。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月13日
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いつもながら子供の頃の話で恐縮ですが、モチに生えたカビは大丈夫と教えられていました。モチはカビが生えても水につけて、カビの部分を削り取り、焼けば食べられる。ごく最近まで、それで問題が無いと思っていました。カビが生えた米を削って使う?米を捨てるのはもったいないから、個人的に食べるなら、削って食べるというのは微妙?という気もするんですが・・・それを売り物としたら言語道断!三笠フーズの社長がマスコミから「汚染米食べたことあるんですか?」と言われ「食べたことない」と答えていたのはとんでもない話!自分が食べれないものを売るな!しかし、農薬で汚染された米を食用に転用していたのはさらに悪質!中国では工業用の塩を、食用に使って問題が出ているという話を聞いて「さすが中国人、相手のことなどお構い無しで儲けに走る」と思っていましたが・・・・日本人でもそんなことをする輩がいるとは!健康被害が出ていないとはいえ、少なくとも、相手の健康を害する可能性を知りながら、米を売った行為は傷害罪に値すると考えてもいいかもしれません。それ以前に、基準値以上の農薬が残っている米をなぜ日本に入れたのか?途中でカビが生えた米とは違い、農薬が多量に含まれた米などは明らかに欠陥品!原産国に送り返すのが当然です!それを買っていたということは、日本の買い付け担当者は、自分のお金でないことをいいことに、欠陥米を買い、売り手から欠陥米を買う便宜を図った謝礼を受け取っていたのでは?と勘ぐりたくなります。【事故米不正転売】売買を全面廃止へ 輸出国に返品、制度を改正こんなのは遅すぎます。それ以前に米など輸入する必要はありません。日本にとって米は特別な主食です。江戸時代の大名はその領地の大きさを米の取れ高で数えていました。それぐらい日本にとって重要なものです。米を輸入するぐらいなら、すべての輸出はやめる!それぐらい強気の姿勢で対応して欲しいものです。なぜ毅然とした態度を取れないのか!予断ですが、戦前の日本は欧米に対してもはっきりと発言していました。それが言えなくなったのは戦争に負けたからそうは思いたくありません。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月12日
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自民党総裁選が、なぜか盛り上がっています。候補者は5人。NHKなど7時のニュースの中で、別枠で候補者の宣伝していましたが・・・その前に一言。昨年、安部総理が政権を投げ出した時、福田政権はその危機を乗り切るために挙党一致で作った内閣ではなかったでしょうか?それが、前回の二の舞のようになった責任はどうなるんでしょう?その問題を無視して、涼しい顔で首相をしようと思うような人間は信用できません。三の舞の可能性もあります。本来は、野党第一党の民主党に政権を渡すべきですが、どうも、小沢党首では「日光の手前」とりあえず、誰がなってもすぐに総選挙は必至!総裁選挙の勢いで、新総裁の人気のあるうちに解散総選挙。それに勝って、「民意はわが党にある」と言うのでしょうか?「そうはイカンザキ」と言いたいところですが・・・(苦笑)本気で共産党と国民新党の連立内閣でも見てみたいものです!人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月10日
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私の子供の頃、「巨人」「大鵬」「玉子焼き」という言い回しがありました。子供が好きなものを並べたものです。まず、V9時代の巨人。面白くない、管理野球と言われながら、メジャーの戦術を取り入れた緻密な野球でチャンスをつくり、王・長島の豪打で返す。大鵬いわずと知れた昭和の大横綱優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録しました。そして玉子焼き!戦後の物の無い時代から脱したとはいえ、まだまだ、今ほど物が豊富ではない時代です。玉子焼きは、おかずの王様でした。「巨人」「大鵬」「玉子焼き」はいずれも貧しいけれども明るい社会でみんなが幸福になれる。そんな高度成長期の象徴だったような気がします。その当時、野球と相撲は花形スポーツでした。そして時代は変り1980年頃新たに生まれたのが「江川」・「ピーマン」・「北の湖」こっちは子供の?嫌いなものです。ドラフトの盲点を突き、インチキまがいの契約で強引に巨人に入団した江川。翌年、王が引退し、長島監督を解任した巨人は一気に人気を失いました。ピーマンは言うに及ばず北の湖圧倒的な強さを誇りながら、ふてぶてしい態度で悪役を演じ、強さと裏腹にまったく人気がありませんでした。物が豊富に行きわたり、社会の成長に陰りが見えてきた時代。なんでも与えられるものが有難かった時代から人々は好き嫌いという選択肢を持ち始めたのかも知れません。そしていま、巨人は言うに及ばず、野球界はかつての輝きを失い、鳴り物入りで選手を送り込んだ北京五輪では惨敗。人気選手をメジャーリーグに奪われています。そして、相撲界も、番付上位は外国人力士に占められ、時津風部屋のリンチ殺人事件、横綱の騒動などの問題が噴出して、心技体とは昔の話、国技とは名ばかりのスポーツに陥りました。かつての人気力士「大鵬」が少し前まで親方を務めていた大嶽部屋と、不人気力士?の「北の湖」が親方を務める部屋の外国人力士が大麻問題を起こしたとして問題になったのは皮肉な事実かも知れません。人気メニューだった玉子焼きですが・・・私は大好きですが、今はアレルギーで食べれない子供も多いと聞きます。一転して不人気とは言わないまでも要注意メニューに(苦笑)一方のピーマンは緑黄色野菜の代表ということで好きな人が多いかどうかはともかく人気は上々???時代は変わるものですね!人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月08日
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今年の梅雨明けは早かった、それだからでしょうか?四国の水がめといわれる早明浦ダムの貯水率がゼロになりました。早明浦ダムは四国一の河川の吉野川の上流に位置する西日本一といわれる貯水量を誇るダムです、~~~~~以下引用~~~~~発電用水の放流開始/貯水率ゼロ、長期化も早明浦ダムの利水容量が31日午前10時に底をつき、同時に発電専用用水の緊急放流が始まった。貯水率がゼロとなったのは2005年以来3年ぶり3回目。発電用水の放流で2・5カ月分の水道用水を賄える見込みだが、今後しばらくはまとまった降雨の可能性は低く、早明浦ダムの運用開始(1975年)以降、初めて長期にわたる本格的な発電用水の放流が予想される。 発電用水は、放流開始時点で2600万トンを確保している。香川の配分量は通常の水道放流量の57%の日量約16万4000トン、徳島は42%の同約16万8000トンで、計33万2000トンを放流する。両県の放流量をもとに試算すると78日分の水道用水を供給できる見通し。 2008/09/01 四国新聞社~~~~~以上引用~~~~~台風でも来ないと満水になることは期待できません。四国は軒並み平年よりここ3ヶ月降水量が少ないです。>香川の配分量は通常の水道放流量の57%の日量>約16万4000トン、徳島は42%の同約16万8000トン徳島向けの水が少ないのが気になります!徳島県人の感覚としては、何で徳島を流れて海に注ぐ吉野川の水を、わざわざ山を切り開いて香川に分けるのか?という気もします。早明浦ダムの貯水量は2億トン、徳島市民(26万人)の水の使用量の5~6年分ともいいます。徳島市を除く吉野川流域の人口は、徳島市の人口を超えることはないでしょう。香川県に水を分けなければ、不足することはありえない!香川県のために我慢している!という意識もするのですが・・・ちょっと古い文章ですが、こんな意見もあります。~~~~~以下引用~~~~~「吉野川のアユを助けるためにバケツ汲みした高松市民」ある夜のこと、話題が香川県の水不足に及んだ。 1日の給水が5時間で夜間は完全ストップ。官公庁は冷房をストップし、家庭ではバケツでトイレに水を運んだ。ペットボトルで間に合うはずもなかったが、事務次官でなくとも香川にペットボトルの水を送った人は多かったはずだ。香川はもともと降雨量が少ないところに、水源の四国山脈でも雨が足りなかった。天災である。だれもがそう思って同情した。~~~~中略~~~~香川県が命の綱とする香川用水は徳島県の阿波池田市付近で吉野川から引いている。香川県の市民は水不足に約半年苦しんだ。この間、徳島県側ではただの一度の給水制限もなく何事もなかったかのように過ごした。~~~~中略~~~~実は1976年、吉野川上流に早明浦ダムを建設したとき、香川県と徳島県のとの間で給水の配分が決まった。吉野川の既存の年間水流7.72億トンは徳島県のもので、早明浦ダムの完成によって増えた6.57億トンについて徳島4.1億トン、香川2.47億トンとなった。結果、徳島は計11.82億トン、香川は2.47億トンとなった。5対1である。配分の理由は分からない。~~~~中略~~~~~香川は年間6億トンの水を使い、徳島は5億トンが必要とされる。そもそも配分としてはあまりに不公平だった。だから香川県知事は徳島県に余っている水を分けて欲しいと懇願した。徳島県は水利権を盾に「ノー」と言った。~~~~中略~~~~~徳島県側の水が涸れていたのではない。そういえば早明浦ダムの水位が日々下がっていった様は、テレビニュースで全国に放映されたが、吉野川が干上がった映像はなかったと記憶している。都村氏は「極論すれば、吉野川のアユを助けるために高松市民30万人は毎晩バケツで水汲みしたことになる」と結んでいる。 1998年03月18日(水) 経済ジャーナリスト 伴武澄~~~~~以上引用~~~~~吉野川の河口に架かっている橋は、長さが一キロを超えています。そんな大きな川が干上がったら大変でしょう!引用された元の文章はこちら「香川の生活用水の3倍近い水が海に垂れ流されている!」と衝撃的なタイトルのグラフがついています。今ならもっと水の使用量は多いかもしれません。~~~~~以下引用~~~~~私は「香川は徳島の水を当然の権利としてもらうべきだ」という主張をしているのではありません。まず、「水は天から人間への恵みだ、誰のものでもない、みんなのものだ」という総論について合意しましょうと言っているのです。徳島の大半の人は、香川に水を回したら徳島がショートすると思っているかもしれませんが、「徳島で使う5億トンに対して、供給量は12億トンある。そのうち2~3億トンを香川に回せば香川は十分足りる」とちゃんと数字を示せば、誰でも納得できる話だと思います。 なんしょんな香川Q17私の調べた限りでは、河川水量の生態系及び地下水脈への影響に関するレポートやデータは、皆無に近い。従って、実際には吉野川で水量を少しずつ増減する実験を繰り返し、何年もかけてチェックしながら減水のトライアルをしていくのがよいと思っています。私はそう考えています。私は、生態系に影響がないとされる水量を「河川維持水量」として推定し、そのデータを使ってこういう答を出したわけですが、それについて「いや、そうじゃない、もっと自然に影響を与えるかもしれない」と思われるなら、ぜひ調べてみて下さい。 なんしょんな香川Q21 ~~~~~以上引用~~~~~どうなんでしょう?もともとの水自体は誰のものでもありません。人間のものでもありません。ダムを作った時点で、自然にどれだけ影響を与えているか?ちなみに最近CMで「水力発電はCO2を出さないから環境にやさしい」というのを見ましたが、どこが環境にやさしいのか全くわかりません。ちなみに「水力発電 環境にやさしい」を検索すると目眩がしてきました。水力発電が環境にやさしいことを売り物にする人がこんなに多いとは???確かに、稼働中は水の落差を電気エネルギーとして取り出すので火力や原子力に比べればやさしいように思えるかも知れませんが、どう考えても、自然の中にコンクリートでダムを作ることが環境に影響を与えないとは思えません。それに、ダムに水を貯めることが、ダム湖による水没地域のみならず下流域の水量が減ることで環境に影響が出ることは避けられません。そう考えれば、現時点で早明浦ダムが吉野川の生態系に大きな影響を与えていることが明らかです。これ以上取水を増やすのはやめて欲しいところです。近年、ゲリラ豪雨が問題になっています。時間雨量50ミリを超える場合も少なくないといいます。被害ばかりが強調されていますが、前向きにとらえると一気に雨水を確保できるチャンス!50ミリの雨が1メートル四方に降った場合、50リッターすなわち、ドラム缶4分の一です。それが1キロ四方ならば、5000万リッター、すなわち5万トンの水が確保できます。10キロ四方ならば500万トンちなみに高松市では年間平均1123ミリの降水量があり面積が371平方Kmあることを考えれば、理論上4億トンを超える水が集まります。香川の水の必要量が6億トンならば、徳島に頼らずとも高松の市街地だけでその3分の2をまかえる可能性があります。環境に与える影響を考えれば、それを全部使うことは許されませんが、それでもほとんどが利用されないまま海に流されていることは間違いありません。香川県の方の意見をお伺いしたいところです。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月04日
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申し遅れましたが、光回線がつながりました。以前、プロバイダーの件でお騒がせいたしましたが、ビッグローブにしました。ところが、問題が・・・何人かの常連の方のページにお伺いしたのですが、書き込みできません(汗)拒否されています。どうしたらいいのでしょうか?どなたか教えてください。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月03日
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高野山にお参りする方は、必ずといっていいほどお大師さん(弘法大師)が眠られる奥の院にお参りされます。本来、高野山の中心は、根本大塔、金堂、西塔などの諸堂が立ち並び、真言密教の教義をビジュアルで体現した壇上伽藍でありますが、そちらへお参りされる方はそれほど多くありません。むしろ、何度も、高野山にお参りされている方でも高野山=奥の院と考えて奥の院こそが高野山の中心と考えている方も少なく無いことでしょう。高野山の町を抜け、位置の橋から石畳を歩くと苔むした巨大な墓石群を守るように、杉の大木が林立しています。一度足を踏み入れたものを、敬虔な気持ちにせざるを得ない神々しさがあり、その一番奥に、お大師さんの眠られる御廟がある。それが、高野山の奥の院ですが・・・学問の世界は、信仰の世界に存在する仮面を容赦なく剥ぎ取っていきます。いろは歌は弘法大師作ではない。四国八十八カ所もお大師さんの開創ではない。その波がついに、高野山奥の院にまで・・・武内教授によると、お大師さんの眠られているのは奥の院ではない可能性があるというのです。1、お大師さんの後継者と言われながら、お大師さんの在世中に 亡くなられた智泉大徳の墓所は壇上伽藍の中にある。2、お大師さん約50年後に亡くなられた高野山第二世の 真然大徳の埋葬場所は、現在の金剛峰寺にある。 (当時は東方の原野であったと書かれている)参考までにつけ加えると、お大師さんがまず建てたかったのは、伽藍の根本大塔で、お大師さんの在世中には完成しませんでした。また、お大師さんは、壇上伽藍の御影堂と根本大塔の間にあった、僧坊で亡くなられたと伝えられています。それゆえ、1、現在伽藍から東へ4キロ離れた奥の院は、 当時は原生林に覆われていて、そこに廟所を作ることは 著しく困難を伴なったはずである。では、お大師さんの本当の廟所はどこに?江戸時代の学僧、道猷(どうゆう)阿闍梨は、「紀伊続風土記」で「高野山には七廟説があり、間違いないといえるところはない」「七廟説のなかで廟所は現在の奥の院に落ち着いた」といわれており、お大師さんの墓所が奥の院ということに疑問を投げかけています。その理由は1、今の奥の院(江戸時代)はお大師さんの時代より 100倍開かれている。2、奥の院は現在の寺院があるところからも遠く、お大師さんの時代に、このように遠いところを選ぶ理由がない。そこで、廟所の候補地の中で南谷宝積院というところの可能性について書かれています。3、南谷宝積院はお大師さんのお住まいの向かいにあり、 遍照岡とも阿逸多院ともいった。 ※遍照(お大師さんの別名) 阿逸多(弥勒菩薩ーお大師さんには弥勒菩薩信仰があった)4、この寺を再建した時、境内を掘ったところ、奇怪な響きがして さらに深く掘ったところ、石函が見つかったが、 怖れをなして埋めてしまった武内教授はこれ以上は書かれていませんが、江戸時代に廟所の場所が問題になったことを検討してみる価値はあると、文章を締めくくられています。学問にこだわると信仰からは外れていきます。だから、僧侶ではあえて学問には目をつぶる人も少なくはありません。でも、それでも、どうしても事実を知りたい!さて、問題は南谷宝積院です。残念ながら、現存していません。どこにあるんでしょう?ちなみに、現在の奥の院がなぜ廟所に選ばれたか?ちょうど気が集まる場所ではないでしょうか?後背の山の気を、前にある川でせき止めて溜め込む。もともと風水は墓所を決めるためのもの、真言宗の隆盛を目的に、現在の場所に御廟が開かれた。これは武内教授の説ではなく私見です。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2008年09月01日
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