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偐万葉・ローリングウェスト篇(その2) 11月も本日まで。11月最後の日記は、久々の偐万葉と致します。 シリーズ第246弾、ローリングウェスト篇(その2)であります。 <参考>過去の偐万葉・ローリングウェスト篇はコチラ。 ローリングウェスト氏のブログはコチラ。 偐家持が呂麻呂に贈りて詠める歌12首 並びに呂麻呂が贈り来れる歌12首 呂麻呂が贈り来れる歌1首越中に 二上の山を 見つけたり 家持懐かし まほろばの山 偐家持が追和せる歌1首玉くしげ 二上山は 越(こし)大和(やまと) ともに恋(こほ)しき わが山なりき 呂麻呂が贈り来れる歌1首ヌスビトと 誰が付けたか 秋の花 清く正しく 咲いているのに (RO麻呂) 偐家持が返せる歌1首屁もひらず 屎もたれぬに その花を ヘクソカズラと 呼びし人かも (RE麻呂) 呂麻呂が贈り来れる歌1首盃を 月に見立てて ム~ンと笑み スーパー飲み過ぎ 二日酔いなり 偐家持が返せる歌1首さかづきも おちかづきにも つきなれば いざいざよひの つきとなるらし 呂麻呂が贈り来れる歌1首万葉の 秋の花々 心癒え ノーベル賞で またも華咲く 偐家持が追和せる歌1首七種(ななくさ)の 花に添ひしか この秋も 咲きてうれしき ノーベルの華 呂麻呂が詠める歌1首毛が薄い RWは 弥生系 太眉憧れ 上毛巡り (RW狂歌師)(注)上の歌は、偐家持が2009年4月12日の日記にて詠める歌「上毛野 うららの 春の 空霧れてひとり行く児や 花散りしきる」に追和せる歌なり。 呂麻呂が贈り来れる歌1首頬染めし 白無垢オモダカ あで姿 花博士には 万葉句の華 偐家持が返せる歌1首おもだかの しろきみひらの はなびらに そひしうすべに はつこひのいろ 呂麻呂が贈り来れる歌1首ガマの穂を 囲炉裏にくべたし つくね棒 さらに松茸 ちと贅沢かな 偐家持が返せる歌1首贅沢の ほどにはあらね 秋の香を ガマでくすべて いかがとやする(注)万葉では松茸を「秋の香」と詠んでいる。 呂麻呂が贈り来れる歌1首仰ぐ富士 不老不死の 不二の山 近くで見るより 遠く眺める山 偐家持が追和せる歌1首このたびは かひにしあれど ふじのやま くもにかくれて かひなくあれり我妹子と あひづのくにの むかひ瀧 あはねば恋も 淵となりぬるこの国の 夜明けに砕け 散りぬれば 玉とも花とも かなしも会津(本歌)会津嶺(あひづね)の 国をさ遠み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね (万葉集巻14-3426) (東山温泉・向瀧) 呂麻呂が返せる歌1首むかひ瀧 あひづ吾妻と 逢ひ連れば 淵に深まる 愛づ瀧かな(本歌)安積香(あさか)山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに (万葉集巻16-3807) 呂麻呂が贈り来れる歌2首下野(しもつけの) 夏に訪ねた 歴史旅 足利・新田の 足跡を知る輪輪輪~♪ 輪が三つ 懐かしCM 思い出す 三毳の山は 毛毛毛のケ 偐家持が返せる歌2首上野(かみつけの) 旅は春なり 三碑ゆき 花咲く多胡の 夕焼けぞ知る下野(しもつけの) 旅は冬なり 三毳山 こならの兒ろにも 雨にも逢ひし (多胡碑) 呂麻呂が贈り来れる歌1首鳥巣呑む バケツの中は お酒かな? トリスが一羽 三羽ならサントリー 偐家持が追和せる歌1首下戸なれば 思ひもつかぬ たとへにて 二羽ならニトリ 家具でも買はな
2015.11.30
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本日は、若草読書会例会。 出席者は、智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼・景郎女ご夫妻、小万知さん、謙麻呂さん、祥麻呂さん、香代女さん、槇麻呂さん、偐山頭火さんと偐家持の11名。 本日のスピーカーは景郎女さんと小万知さんの女性ご両名。 課題図書は、 朝井まかて著「花競べ・向嶋なずな屋繁盛記」(講談社文庫) 会の内容は、景郎女さんが本の栞を兼ねてお作り下さったプログラム(下掲写真)で一目瞭然。 (プログラムと課題図書) 第一部は、子供文庫や絵本の読み聞かせや昔話の語り聞かせなどの活動を長年に亘って続けて居られる景郎女さんによる、昔話など2題の語り聞かせ。 若草ホールの室内の照明を消し、蝋燭に火をともし、その揺らぐ灯りの下で景郎女さんの語りを聴くという趣向。童心に返って神妙に拝聴仕りました。 第二部は、小万知さんによる課題図書の解説・講話。お花大好きの小万知さんの子供時代からの花との関わりやらもお聞かせいただきました。 (「花競べ」のあらすじ<小万知さん作成レジメから>) 朝井まかて、なる女性作家の作品を読むのは、小生はこれが初めて。最近は小説もとんと読まなくなっているので、こういうことでもない限り、朝井まかて作品に出会うということは先ず無かったと思われるので、その意味では読書会というのは有り難い存在である。楽しく読める上品、良質な人情時代小説である。 小万知さん推薦らしく、色んな花が登場して興味深くも。 話の途中で、以下の万葉歌3首の解説を振って来られたのには、些か面食らいましたが(笑)。橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の樹 (聖武天皇 万葉集巻6-1009)<橘は実も花も素晴らしく、その葉さえも、枝に霜が降ることがあっても、いよいよ常緑の木である。> この歌は題詞に「冬十一月、左大弁葛城王等に、姓橘氏を賜ひし時、御製の歌一首」とあるように、葛城王が臣下に下りその母、県犬養橘三千代の姓「橘」を名乗ることを許されて「橘諸兄」となった時に、聖武天皇がそれを祝って詠んだ歌である。 犬養三千代は美努王の妻であった時に生まれたのが葛城王(橘諸兄)。その後、美努王と別れて、藤原不比等の後妻となって、彼との間に生まれたのが光明子(光明皇后)であるから、諸兄は光明皇后の「異父同母」兄である。我がやどの 花橘の いつしかも 玉に貫くべく その実なりなむ (大伴家持 万葉集巻8ー1478)<わが家の花橘の実はいつになったら五月の(節句の薬玉の糸に)貫くことができるような実になるだろうか。>この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)<この雪が消え残っている間に、さあ行こう。山橘(ヤブコウジのこと)の実が照り映えているのを見に。> 第三部は飲んだり食ったりの歓談・お茶タイム。 酒、ビール、お茶、菓子、恒郎女さんがご用意下さった「おでん」、小万知さん手作りの「サンドイッチ」などなどもあって、話が弾みました。(これは何の巣?) 上は景郎女さんがお持ちになった鳥の巣。 さて、何の鳥の巣でしょう?というのが景郎女さんからのクイズです。 皆さんは分かりますか。正解は末尾に記してあります。(智麻呂邸の前の公園から高安山遠望) 智麻呂邸の前の公園から南南東方向を見やると高安山が見えていました。白い気象観測レーダーのある山が高安山です。カメラの望遠で撮っていますので、肉眼ではこんなに近くの感じでは勿論ありません。 MTBで来ている偐山頭火さんは暗くなる前にと早く消え、次に香代女さんが帰り、続いて祥麻呂さんが帰り、午後5時過ぎに智麻呂さん、恒郎女さんの笑顔に見送られて全員解散となりました。<追記2015.11.29.>クイズの解答を記し忘れていました。 解答は、写真をクリックしていただき、フォト蔵ページでご覧いただくと分かります。写真タイトルにその鳥の名が出ています。
2015.11.28
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本日は、大学の同期会(夕々<よいよい>の会)で京都に出掛けました。この会は入学年次が同期の大学の友人で関西在住者を中心にした有志の集まり。東京方面在住者の同様の会が「よいの会」であったことから、何か適当な名を付けようということになって、前記のような名になった次第。 毎年5月と11月の最終金曜日の夕刻に心斎橋で会食するというのが最近の恒例になっていたが、今回は京都在住の佐〇君の発案で、従来と趣向を変えて、昼間に京都を散策し、然る後、夕刻に京都駅近くの何処かで会食の場を持つということになったもの。京都駅近くで会食となったのは、東京の「よいの会」のメンバーにも声を掛けて参加を募ろうということもあって、交通の便も考慮してのものでありました。 しかし、東京方面からの参加者は無く、企画の一部は不首尾となりました。どうも、東京の「よいの会」は現在幹事役が不在で機能していないようで、そういったことの影響もあったのかも知れないが、まあ、何かのついででもなければ、東京からの参加となるとなかなか難しいということではあるでしょう。 近鉄京都駅午後2時集合。桃山御陵前駅まで近鉄電車で行き、御香宮神社、寺田屋跡、長建寺、黄桜記念館、月桂冠大倉記念館など伏見を散策後、京都駅に戻り、京都メルパルク内のビアレストラン円山で飲み放題の会食、というプラン。 小生が京都駅に着いたのは12時過ぎ、駅構内・周辺を散策し、昼食を済ませ、喫茶店で珈琲をしてから、集合場所に向かいました。(京都駅・大階段)(同上)(京都駅屋上テラス・「葉っぴいてらす」) 参加者は、谷〇君、佐〇君、岡〇君、黒〇君、小〇君、蝶〇君、道〇君、中〇君、西〇君、枦〇君、広〇君、古〇君、前〇君と小生の14名と、いつもより少人数でした。 桃山御陵前駅で前〇君と合流、全14名は、幕末・維新などの歴史に詳しい案内役の佐〇君の先導で先ず御香宮神社へと向かう。 2012年9月21日、22日、23日の日記に本日の立ち寄り先の多くが登場していますので、それらを参照戴くこととし、写真や記述は極力カットです。 <参考>伏見散策(乃木神社・大光明寺陵・御香宮神社) 伏見散策(御香宮神社・伏見奉行所・宇治川) 伏見散策(宇治川・長建寺、寺田屋) (伏見義民事蹟碑の前で佐〇君から説明を受ける参加者)(伏見義民事蹟)(御香宮神社拝殿へ)(御香宮神社を出て、大手筋通りを西へと下る。)(黒田節誕生地碑) 大手筋を下り、近鉄線桃山御陵前駅、京町通り、京阪線伏見桃山駅を過ぎてアーケード商店街へ。商店街に入って三つ目の辻を左に入って、会津藩駐屯地跡(東本願寺伏見別院)、鳥せい本店を過ぎると、月桂冠本社が見えて来る。月桂冠大倉記念館は後ほど立ち寄ることとし、前を通過。 弁天橋を渡ると宇治川派流(堀川)には十石舟が。(宇治川派流と十石舟・弁天橋の上から) 弁天橋を渡って右に行くと長建寺。境内を廻って裏から宇治川派流沿いの道に出て寺田屋へ。(長建寺境内の銀杏と糸桜) (寺田屋) (寺田屋跡) 刀痕は 以づ古 寺田屋 宝柱 野風呂(龍馬通り商店街) 龍馬通り商店街を通って、黄桜記念館を通り抜けて、再び宇治川派流畔に。 カメラを構えていると折よく十石舟が通りかかりました。 十石舟は弁天橋畔と伏見港公園とを往復しているのだと思うが、これは伏見港からの帰り舟でしょう。(宇治川派流を行く十石舟) 再び月桂冠大倉記念館へ。今度は入館し見学。(月桂冠大倉記念館へ) (月桂冠大倉記念館)(同上) 大倉記念館を出て、桃山御陵前駅から京都駅へ。 京都駅前の京都メルパルクの中のビアレストラン円山で会食。 午後5時半~7時半まで宴会。各自近況を報告し合って歓談、楽しい時間を過ごしました。終わってメルパルクから出て来ると目の前に京都タワーのローソク。 (ビアレストラン円山) (京都タワー)
2015.11.27
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本日、友人の岬麻呂氏より旅便りが届きました。先にPCメールで送られて来た写真と併せ、そのご紹介とします。 小生が三毳山銀輪散歩をしている時期に、三保の松原、寸又峡、引佐・龍潭寺とドライブされたようであります。(三保の松原・羽衣の松) 三保の松原の万葉歌はこれ。と言っても、これは三保の松原の北方、対岸の清見の崎にて詠まれたものであるが。 田口益人(たぐちのますひと)大夫、上野国司に任けらえし時、駿河の浄見崎 (きよみのさき)に至りて作れる歌2首盧原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの思(もひ)もなし (万葉集巻3-296)昼見れど 飽かぬ田兒(たご)の浦 大君の 命(みこと)かしこみ 夜(よる)見つるかも (同巻3-297)(清水灯台<愛称:三保灯台>)(旅・岬めぐり報告179)(大井川鉄道・千頭駅のSL)(寸又峡・夢吊橋) 岬麻呂氏が寸又峡の夢の吊橋で雨に濡れて居られた頃、小生も栃木県佐野市の三毳山麓で雨に濡れていたのでありましたが、それを思うと何やら面白いのでありました。(寸又峡・飛龍橋<吊り橋>近くの柿の木と野生の猿)(東名高速と浜名湖) 上の写真は舘山寺の大草山の上から撮影されたのでしょう。東名高速の浜名湖橋である。昨年5月にこの付近は銀輪散歩したので、懐かしい。橋の右側が万葉にも登場する引佐細江。対岸、橋の右が寸座ビラマリーナ。昨年5月の銀輪散歩では、写真左側から湖岸を走って来て、右へと進み、引佐細江を一周してこちらの舘山寺までやって来たのでした。 <参考>奥浜名湖銀輪散歩 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8) 過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラ。
2015.11.24
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第168回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。今回は12作品、花あり、蝶あり、果実あり、風景画もあり、です。どうぞ、ごゆるりとご鑑賞下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 最初の作品は、若草読書会のメンバーの一人、東京のリチ女さんからの「谷中の菊」であります。谷中の菊は第66回展、第89回展にも登場していますが、今回はそれらとは少し画風が変わった絵になっています。(谷中の菊) 次の3作品は、家持館長の中学の同級生であるひろみの郎女さんから戴いた花と実であります。彼女も智麻呂絵画のファンで、時々絵の題材にと花を下さいます。 <参考>ひろみの郎女さんのブログはコチラ。(レモンマリーゴールド) レモンマリーゴールドは香の強い花。触れるとその移り香が指や衣服に残る。花の香で思い出す歌と言えば季節的には合わないが、この歌でしょうか。さつきまつ 花たちばなの 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする (古今集139)<夏の五月を待って咲く、花橘の香をかぐと、もと知っていた人の袖の香りがする思いである。> 或は、新古今集のこれらの歌でしょうか。花の香に ころもはふかく なりにけり 木の下かげの 風のまにまに (紀貫之 新古今集111)風かよふ 寝ざめの袖の 花の香に かをる枕の 春の夜の夢 (藤原俊成卿女 同112)この程は 知るも知らぬも 玉鉾の 行きかふ袖は 花の香ぞする (藤原家隆 同113)(シュウメイギク)(サネカズラ) サネカズラというと藤原鎌足が鏡王女に贈ったこの歌を先ず思い出す。玉くしげ みもろの山の さなかづら さ寝ずはつひに ありかつましじ (藤原鎌足 万葉集巻2-94)<みもろの山のさな葛のように共寝をしないでは、とても生きてはいられないでしょう。> もう一つ万葉歌を記して置きましょう。あしひきの 山さな葛 もみつまで 妹に逢はずや わが恋ひ居らむ (万葉集巻10-2296)<あしひきの山のさな葛が赤くなるまで、妻に逢わずに私は恋うているのだろうか。> さて、次の2作品は若草読書会関係です。若草読書会のメンバー、小万知さんと偐山頭火さん関連の絵です。 アケビは、小万知さん撮影の写真から絵にされました。(アケビ) 案山子は、偐山頭火さん撮影の写真から絵にされました。 絵を見た時は何処か田舎の方のそれかと思いましたが、偐山頭火さんのブログを見て、住吉大社の御供田の案山子であることが分りました。 <参考>偐山頭火さんのブログはコチラ。(案山子)この写真掲載のブログはコチラ 次の4作品は、先の神戸しあわせの村一泊の若草読書会小旅行に関連のものです。(神戸しあわせの村・ひよどり棟) 上は、宿泊したひよどり棟です。当ブログの記事「若草読書会小旅行2015・神戸しあわせの村」に掲載の写真から絵にされました。 下の芙蓉も柿も同記事掲載の写真からのものです。(しあわせの村の芙蓉)(しあわせの村の柿) 次のベニシジミも神戸しあわせの村で見た蝶ですが、これも写真から絵にされました。その写真掲載の当ブログ記事は「銀輪虫散歩」です。(ベニシジミ) 次の蜜柑と柿は智麻呂さんのご近所の某さんからの戴き物です。(蜜柑と柿) 最後の作品は、花の絵師智麻呂らしく花の絵と致しましょう。智麻呂邸の前で今を盛りと咲いているサザンカの絵であります。(山茶花)花の絵師 智麻呂邸は 山茶花の 匂ふがごとく 今盛りなり (若草老) (本歌)あをによし 寧楽の京師は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり (小野老 万葉集巻3-328) 以上です。 本日もご覧下さり、有難うございました。 <追記>上の写真のうち、「山茶花」は、フォト蔵に登録した写真を貼り付けていたものですが、2018年8月に登録画像が消失してしまいました。フォト蔵にて復旧に努められたようですが、この写真は復旧できなかったようです。そんな次第で、ブログ記事では当該写真が非表示(白紙状態)になっていました。絵もその写真も原画は既に存在せず。しかし、当該画像消失以前にブログ記事を紙焼きしたもの(智麻呂美術全集)が存在しましたので、これを再撮影してブログに貼り付けることにしました。そんな次第で、画像は不鮮明ですがご容赦願います。また、「蜜柑と柿」についても、同様の「消失」事故により、ブログ写真が非表示になっていました。これについては、元画像や特大サイズ画像は消失したものの、幸いにも「中サイズ」画像のみは、フォト蔵内に残っていました。これをPCに取り込み、フォト蔵に再登録するとともに、PCに取り込んだ画像をサイズ加工の上、直接ブログにアップすることとしました。<2018年8月2日>
2015.11.22
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(承前) 赤見山のもう一つの候補地、萱場の西にある山へと向かう。 で、その「赤見山」の万葉歌というのはこれ。赤見山 草根刈り除(そ)け 合はすがへ 争ふ妹し あやにかなしも (万葉集巻14-3479)<赤見山の草を刈り払って逢ったのに、身を任すまいと抵抗するこの子の何とかわいいことよ>(注)赤見山=佐野市赤見町の東山という説や同赤見町萱場地区の西にある、大小 山に連なる山であるとする説などがある。 まあ、いかにも万葉らしいおおらかな歌である。 この当時の集団見合い、婚活イベントとでも言うべき「歌垣」などで、男側から詠われた民謡であったのかも知れない。だとすれば、女側はどんな歌で応えたものでしょうか。 もみじと落椿の千代ヶ岡公園から200m位行くと小さな川に出る。出流川とあり、橋は新町屋橋とある。その橋の上から南西方向に見えるこの山が赤見山候補の萱場の山であるのだろうと思われるが、違っているかも知れない。確認の手立てもないので、この山ということにして置きます。赤見山というのを「赤見にある山」と普通名詞と見れば、この辺りのどの山でもいいことになるのだから。(萱場の西にある山と出流川) (出流川) (新町屋橋と相棒のトレンクル) 以上で、佐野市に関連する万葉歌3首に因む撮影予定地は訪問完了。最後に安蘇の川の今一つの候補に上げられている、渡良瀬川も写真に収めて置こうと、来た道を引き返し、秋山川を下流に向かって走ることとしました。秋山川も、旗川も渡良瀬川の支流になる。 その前に西光院という寺が目についたので立ち寄ってみました。真言宗豊山派とあるから、長谷寺を総本山とする寺である。 (西光院山門) (西光院境内) 境内では冬に咲く桜の花と紅葉の競演。 境内で暫し休憩させて戴いた後、県道16号に戻り、秋山川へと引き返すことに。往路でパスした、道の駅「どまんなかたぬま」に立ち寄る。少し早いが空腹になったので、此処で昼食。 (道の駅どまんなかたぬま) (佐野市のゆるキャラ「さのまる」) 昼食を終えて外に出て来ると「さのまるくん」が居ました。子どもを虐待から守るオレンジリボン運動への理解と協力を訴えて、佐野短期大学の学生さんが作ったオレンジ色のリボンを来場者に配布していました。 写真の女性は佐野短大の学生さんなのでしょう。「オレンジリボン運動」も「さのまるくん」もこの時初めて知りました。もっとも、さのまるくんの図柄は佐野市に来て以来目にしてはいたのですが、「何だろう?」位の関心度にて左程注意もしていませんでした。しかし、実物はなかなかに存在感もあって可愛らしいのでありました。 <参考>オレンジリボン運動 さのまるくん(秋山川に架かる朱雀大橋) 朱雀大橋まで来て、右岸の桜並木の紅葉が見事であったので、橋を渡って対岸へ。(朱雀大橋から秋山川下流方向を見る) ところが、これが失敗。並木道は桜の根の所為でアスファルト舗装が随所で盛り上がり凸凹道でとても走り難い。加えて右岸の土手の道は桜並木の切れた処に架かる橋から下流には道がない。再び左岸へ移動。川原に下りて河川敷の道を暫く走る。(秋山川河川敷の遊歩道) 遊歩道も長くは続かず、写真の橋の一つ下流の橋の手前でおしまい。左岸の土手道に上がる。その土手道も直ぐに舗装がなくなり、一般道に出て下流方向へ。厄除け大師の前の橋(今回の出発点)まで来て、右岸に移動、川沿いの道を下流へと走る。 道の整備は今一つで、未舗装であったり、工事中で立ち入り禁止になっていたりで、迂回を繰り返しながら、何とか渡良瀬川との合流点まで辿り着きました。(秋山川。伊保内新橋の上から下流を望む) (伊保内新橋) (同橋から望む三毳山)(秋山川<手前>と渡良瀬川との合流点) 安蘇の川候補の三川を曲がりなりにも写真に収めましたので、佐野駅前へと引き返すこととしました。伊保内新橋を渡って秋山川の東側を北へと向かう。 集落の中をジグザグに走り抜けているうちに国道50号に出る。歩道橋が左手に見えたので、それを利用して横断することとする。 (歩道橋の上から、北方向のたたなづく山々を撮影) 歩道橋を下りた左側は秋山川浄化センター。その東側の道を北へと走る。周囲は田畑が広がり、三毳山の全容が一望である。(三毳山) やがて、東武鉄道の線路に突き当たる。右方向が佐野市駅。線路を越えて道なりに進むと、厄除け大師の前の道に出ました。 ホテルに戻り、預けてあった荷物を受け取り佐野駅へと向かいます。(東武鉄道・田島駅~佐野市駅間)(JR佐野駅・東武鉄道佐野駅)(JR佐野駅ホーム・左奥が東武鉄道の佐野駅ホーム) 以上で、三毳山銀輪万葉の旅は終了です。 お付き合い有難うございました。<完>
2015.11.20
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(承前) 本日は、「安蘇の川」と「赤見山」を廻ります。 と言っても、これは万葉集に登場する呼び名であって、それが今の何処であるかについては諸説があって一定しないのであってみれば、正確には、その候補地乃至は推定地を廻る、と言うべきか。 先ずは、朝のホテルの窓から三毳山を遠望して昨日の復習であります。垂れ込めし 雲の帳(とばり)も 開くやいま つばらにぞ見む 三毳の山は (偐家持)(早朝にホテルの窓から三毳山を遠望) 朝食を済ませて朝8時過ぎにホテルを出発。 先ずは、近くの佐野厄除け大師近くにあるという万葉歌碑を目指す。しかし、厄除け大師北側の道沿いにあるということしか情報はなく正確な位置は不明。取り敢えず厄除け大師こと惣宗寺に立ち寄る。(佐野厄除け大師) <参考>佐野厄除け大師公式ホームページ 惣宗寺・Wikipedia (同上) 境内に田中正造の墓があるという予備知識があったので、先ずそれを訪ねる。(田中正造墓と石川啄木歌碑)<参考>田中正造・Wikipedia 田中正造の墓は此処を含めて6か所あるようだが、此処惣宗寺は彼の本葬が執り行われた寺とのことである。 足尾銅山鉱毒被害による農民の窮状を天皇に直訴した彼の行動に感動した若き日の啄木の歌が墓前の碑に添えられていました。万葉歌碑を訪ね来たるに先に啄木歌碑に遭遇でありました。(石川啄木歌碑拡大) お寺の方に万葉歌碑の所在位置を教えて戴く。寺の北側の道を少し西へ行った道路脇に目立たぬ形と言うか、何故この場所にあるのかも理解し兼ねる形でそれはありました。加えて、「安蘇の川原よ」の「よ」が脱落してしまって、という情けない姿でありました。(安蘇の川原・万葉歌碑) 碑のある場所の先の交差点を西へと行くと秋山川に架かる橋。「安蘇の川」はこの秋山川だという説もあるから、歌碑はこの川の畔の何処かにあるべきでしょうな。下野(しもつけ)の 安蘇(あそ)の川原よ 石踏まず 空ゆと来(き)ぬよ 汝(な)が心告(の)れ (万葉集巻14-3425)<下つ毛野の安蘇の川原をだよ 道の石は踏まずに空から飛んで来たんだよ。お前の気持ちを聞かせておくれ。>(注)安蘇の川原=栃木県安蘇郡の川原。渡良瀬川、秋山川、旗川、野上川などの 説がある。 下野=栃木県。もと毛野の国。孝徳天皇の時代に上毛野と下毛野の2 国に分けられた。上野が群馬県。 (秋山川) 秋山川に沿って北へと、即ち、上流へと銀輪を走らせる。 東武鉄道佐野線の手前で川から離れ朱雀アンダーパスで線路を潜る。「すざく」かと思ったら、「しゅじゃく」と仮名が振ってありました。(朱雀アンダーパス) 再び川沿いの道を行くとすぐに県道16号である。ここで左折し、秋山川に架かる斉盟橋を渡って北西へと16号を走る。(秋山川・斉盟橋の上から上流方向を望む)(東武鉄道佐野線。県道16号の跨線橋から吉水駅方面を望む。) 東武鉄道佐野線は、秋山川を渡ってすぐに右にカーブして県道16号の下を通っている。朱雀アンダーパスでその下を潜った線路を今度は上から見下ろして通過する形になる。程なく道の駅「どまんなかたぬま」が見えて来るが、寄らずにパス。 道の駅の先で道は緩やかに左にカーブして西向きとなり、旗川を渡る。この旗川も「安蘇の川」の候補に上げられている川である。(旗川・石塚大橋から上流方向を望む) (同上) 旗川を渡るとやがて左手前方に小さな山が見えて来る。東山である。もう一つの万葉歌に登場する「赤見山」がこれだという説がある。(東山) 黄色くなった稲田の前から撮影してみました。通り掛かったご婦人のお話では、この稲は牛の飼料用の稲だそうです。赤見山の候補地はこの先にもう一つある。赤見町萱場の山である。その山に向かう途中、このようなもみぢの美しい公園がありました。反対側に回ると椿の落花。いい雰囲気です。(千代ヶ岡公園) (同上)(落椿) しかし、文字数制限のようです。本日はここまで。赤見山の歌も次の記事でご紹介することとします。(つづく)
2015.11.19
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本日は栃木県佐野市に来ています。万葉集に詠われている三毳山(みかもやま)などを巡ってみようという銀輪万葉の旅であります。下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の こ楢のす まぐはし兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ (万葉集巻14-3424)<下つ毛野の 三毳山のコナラのように愛らしいあの娘は誰の器を持つのだろうか。> (注)三毳山=JR両毛線の佐野駅と岩舟駅とのほぼ中間、南側に広がる山。県営 公園が広がり、三毳神社里宮境内にはこの歌碑がある。 こ楢=コナラのこと。ナラ(ミズナラ)も含むかも知れない。 ハハソともいう。 なら(万葉集巻12-3048) ははそ(同巻9-1730、巻19-4164、巻20-4408) 古今集でもハハソとして登場。 秋霧は けさはなたちそ さほ山の ははそのもみぢ よそにても見む (古今集266) 高崎で新幹線から両毛線に乗り換え、佐野駅下車。ホテルに荷物を預け、銀輪散歩出発。先ず、佐野駅北側の城山公園に立ち寄る。(佐野城跡)(同上説明板) 万葉の里城山記念館というのが公園内にあるので、立ち寄ってみたのだが、万葉とは関係ないようなので、パス。(万葉の里城山記念館) 県道67号を東へと自転車を走らせていて目についた「耳うどん」に惹かれて、この店で昼食。耳うどん、なるものを初めて食べました。(野村屋本店・耳うどん) 耳うどんを食べた後は「目」をしっかり使って、三毳山へと銀輪を走らせる。浅沼町交差点で右折、県道16号を南下。途中で適当に左折、東方向へと走る。もう三毳山が見えているので、その山影を目指して走るだけ。(鐙塚公園) 途中立ち寄った公園には星田妙見宮を連想させる名の星宮神社があった。栃木県内には星宮神社が散見されるという。 (星宮神社)<参考>星宮神社 星宮神社とは はい、三毳山です。 <参考>三毳山・Wikipedia(三毳山・西側からの眺め) 山麓の公園に立ち寄るが、自転車乗り入れ禁止。(三毳山公園)<参考>みかも山公園(同上・万葉亭) 園内の万葉亭は無料休憩所。ロードトレインが園内を周回していましたが、乗客の姿はなく、寂しそうです。 (同上)(三毳山・北西側、東北自動車道佐野IC付近からの眺め) 山麓をぐるりと北側に回り込んだ北麓にあるのがかたくりの里公園。下調べではそこに万葉歌碑があるとのことであったので、それを目指す。 <参考>万葉自然公園かたくりの里(三毳山北麓のかたくりの里公園・管理センター) センター建物の裏手に万葉歌碑はありました。(かたくりの里公園・万葉歌碑) 歌碑を撮影していると雨がぱらつき出しました。 ザックから雨具を取り出し、上下共に着用、完全防備のスタイルで、今度は三毳山の南麓、反対側にある三毳神社里宮を目指す。そこにもこの歌の歌碑があるからです。 東北自動車道に沿うように走る道を南へと走る。雨は本降りになって来ました。 国道50号に出て東へ。三毳神社里宮は「道の駅みかも」の少し先にある。国道はすぐに栃木市へと入る。道の駅も三毳神社里宮も佐野市ではなく隣の栃木市の市域にあるのでした。三毳山付近には古代には東山道「三鴨の駅家」があったそうだが、今は道の駅である。(三毳神社・里宮)(境内地の万葉歌碑) 帰途は国道ではなく一つ北側の間道を走りましたので、道の駅の敷地の北西隅にこのような可愛い少女の石像があることに気付きました。 台座には本日の万葉歌が刻されていて「こなら娘像」とある。雨中の酔狂な銀輪散歩をねぎらってくれでもするように、ご登場遊ばされました。(道の駅みかもの北西隅にある「こなら娘像」) 三毳山万葉歌碑が三つ登場で、この日の銀輪散歩は切り上げることとしました。 明日は、安蘇の川原の万葉歌碑やその安蘇の川の候補地である秋山川や旗川を訪ね、また、もう一つの万葉歌(赤見山の万葉歌)の「赤見山」の候補地である、東山、赤見町萱場の山を撮影して来ようと思って居ります。では、皆さま、おやすみなさいませ。(つづく)
2015.11.18
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庭の千草もむしのねも、かれてさびしくなりにけり♪・・ではありませんが、いつの間にやら虫の声もしなくなりました。立冬も過ぎて暦の上ではもう冬とあれば、それも亦むべなるかな、であります。 銀輪散歩で見掛けた虫の写真で「銀輪虫散歩」の記事をという目論見で撮った写真も、この先、増えそうもなくあれば、この辺りでそれを記事にアップしなければ、来年の春以降のことになってしまう、と棚卸の銀輪虫散歩「さらば虫たち」であります。 と言っても、珍しい虫が登場する訳ではありません。銀輪散歩で花の写真などを撮っている時に偶々見掛けたりしたものの写真に過ぎません。(ミゾソバとモンシロチョウ) このモンシロチョウは大阪城公園で撮影しましたが、今の時期に見掛けたら、「木枯らしモンシロチョウ」と言葉遊びも可能なのだが、そうは参らぬのが自然というもの。彼も「あっしにはかかわりのねえこってござんす。」とこの時期は姿を現してはくれませんですな。(ヤマトシジミ) こちらのシジミはかなり傷んで翅もボロボロ。ヤマトシジミと言うより「ヤブレシジミ」であります。生き抜くは かくあるものと やぶれたる やまとしじみの はねかたりけり (偐家持) (ヤマトシジミとキチョウ) 上でモンシロチョウを撮影したので、モンキチョウの写真を撮って並べたかったのですが、紋のないキチョウしか撮れませんでした。 こちらは無傷の翅をぴったり閉じて行儀がよい。キチョウだけにキチョウメンな止まり方であります。 蝶は翅を閉じて止まっている時と翅を広げて止まっている時とで、リラックスの違いがあるのだろうか。素早く飛行に移るには閉じている方が都合がいいように思われる。強く翅を左右に広げるだけで飛行に移れるからだ。広げたままでいると、飛行に移るためにはひとまず翅を閉じてから勢いよく広げる、という二つの動作を必要とするのではないか。従って、翅を広げて止まっている時の方が蝶はリラックスしている(笑)。 まあ、これは蝶にインタビューしてみないことには分かりませんな。(キチョウ) 次は、毛虫嫌いなお方には申し訳ありませんが、蛾の幼虫です。 フクラスズメという蛾の幼虫。イラクサの葉をしきりに齧っています。 色やデザインがなかなかよく出来ている毛虫ではないでしょうか。 草の先などで突っついて、からかうと首をもたげて左右に振って威嚇してくるという気性の荒いところもある幼虫である。まあ、威嚇しているのかイヤイヤをしているのかは、これも虫にきいてみないことには分からないですね(笑)。 幼虫に比べると成虫になった蛾の姿は極めて地味である。(フクラスズメ<蛾>の幼虫) (同上)フクラスズメ・Wikipedia (成虫)(注)成虫の写真は下記サイトのものを転載させて戴きました。 http://www.jpmoth.org/Noctuidae/Catocalinae/Arcte_coerula.html <参考>過去の虫関連の記事はコチラから。
2015.11.14
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本日は生駒方面に出掛ける所用あり、ついでに往馬大社に立ち寄って参りました。 <参考>往馬大社ホームページ 往馬大社は近鉄生駒線一分駅と菜畑駅の中間、竜田川の西岸の丘にある。(竜田川、一分駅西側)(往馬大社境内見取図<同神社公式ホームページより転載>)(往馬大社・鳥居)(同・由緒書) 由緒書にある通り、往馬大社は生駒山をご神体とし、伊古麻都比古と伊古麻都比賣の二神を祀る古社であったが、中世になって八幡神五体も合祀された。(同・境内、手前:管弦楽座、右:北座、奥左:手水舎、奥右:高座) 鳥居をくぐり、奥の石段を上るのがお参りの正式なルートであるが、北側の参道の方が雰囲気がいいので、そちらから参ることとする。(同・北側参道<経室坂>)(同上) 境内はツブラジイを中心に鬱蒼たる叢林をなして居り、裏参道はこの叢林の下を行く。足元には沢山の椎の実が落ちている。椎の実はアク抜きをしなくてもそのままで食べられるが、拾って帰る気にはなりません。写真に撮ればそれで十分です。 (椎の実) 先ず、見えて来るのが観音堂。堂内に鎮座まします観音像は運慶作と伝えられるものであるそうな。 (往馬大社・観音堂) 観音堂の隣が、北末社と英霊殿のある一画。 英霊殿のある場所は、称徳天皇の位牌が埋められた場所と伝えられているそうな。 北末社は右から、豊受比売神、仁徳天皇、天照大神、天児屋根命、大山祇神を祀る。 (同上・北末社) (同上・拝殿)(同上・本殿) (同上・祓戸社) (同上・南末社) (同上・生駒戎神社) 南末社は、右からイザナギ・イザナミ二神、住吉三神、猿田彦、月讀命を祀る。 戎神社も稲荷神社もあり、で一通りの神様が揃っていますな。 (同上・水分社) (同上・稲荷社) 往馬大社を後にして、竜田川沿いに生駒駅までぶらり散策。(竜田川・奥は近鉄生駒線。左に見えるのは生駒山。) 竜田川もコンクリートで岸が固められてしまっては、「からくれなゐ」も「カラぶり」。在原業平さんも、能因法師殿も「歌には、しにくおますわなあ。」と愚痴って居られます。ちはやぶる 神もおそれず 竜田川 コンクリ壁で 土手かたむとは (在原愚痴平) (本歌)ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (在原業平 古今集294 小倉百人一首17)近鉄の 電車も走り もみぢすは 竜田の川の 西の岸なり (能無し法師) (本歌)嵐ふく 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり (能因法師 後拾遺集366 小倉百人一首69) 竜田川沿いに行くと、何やら風情のある建物の裏手に出た。表に回ってみると「生駒ふるさとミュージアム」とある。昭和8年に生駒町役場として建築された建物が転用されて、郷土博物館になっているのでありました。(生駒ふるさとミュージアム)
2015.11.13
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本日は囲碁例会。MTBで自宅を出発。大阪城公園経由、大阪天満宮の手前の「れんげ亭」で昼食。11時40分と正午前にて小生が一番乗り。いつものカウンター席に陣取り、ママさんと話していると、店先に年配のご夫婦の姿。入ろうかどうしようかと迷って居られるご様子。「お客さんですよ。」とママさんに告げると、ママさんが店先に出て行かれて「どうぞ」と声をお掛けになりました。それで、心が決まったか、お二人は店に入って来られました。小生が初めてこの店に入ったのも、このようにしてママさんから声を掛けて戴いたからであったが、それを思い出させる光景でありました(笑)。 昼食後、大阪天満宮を通り抜け、本殿の裏手東側にある白米稲荷社の脇にある芭蕉句碑にご挨拶申し上げてから、会場の梅田スカイビルへと向かいました。(芭蕉句碑)楳(うめ)咲て よろこぶ鳥の 気色かな 副碑には芭蕉51歳の作とあるが、小生の持っている芭蕉全句集(角川文庫)にはこの句は掲載されていないので、詳しいことは分からない。 芭蕉は元禄7年10月12日(1694年11月28日)に51歳で没しているから、最晩年の作ということになる。何度も推敲を重ねた末、「おくのほそ道」を仕上げたのが元禄7年4月。この句は、「おくのほそ道」の完成の目途もほぼたって、ほっとして作った句であるのか、あれやこれやと推敲を重ねているさ中に一息入れて作った句であるのかは分からぬが、「よろこぶ気色」の鳥は芭蕉自身の姿のようにも見える。この数か月後に「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と詠み、旅先の大阪で死ぬことになるなどとは芭蕉さんは思いもしなかったことでしょうな。 さて、前後しますが、れんげ亭へと向かう途中の大阪城は、今日も中国人観光客の団体さんで賑わっていました。遠足の小学生の列にも出会いました。(大阪城の堀) 堀端の桐の木には実がたわわに。(堀端の桐の木) 梅田スカイビルに到着。会場の部屋は元はスカイビル内にあったが今は付属棟のガーデン5という建物の5階にある。 本日の出席者は、竹〇氏と村〇氏と小生の3名だけ。小生はこの両氏どちらにも負けて、今日は2戦2敗と振るいませんでした。 碁に負けてヤカモチ腐る気色かな、でありました(笑)。これで今年の通算成績は20勝19敗。 帰途も何処にも立ち寄らず、花園ラグビー場から花園中央公園を横切ったのみ。 (花園中央公園夕照) と言うことで、何も話題がありませんので、小倉百実一首などでもしてみますか。1.桐の実(桐の実)桐の実は 堀にしかけて さはになると 人にはつげよ 葉は落つるとも (豊臣桐頼) (本歌)わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまの釣り舟 (小野篁 古今集407 小倉百人一首11) ギンナンは既に片づけられて姿は見えませんでしたが、銀杏の落ち葉の降り積む上を走るとその臭気がなお漂っていました。多分地面に実の汁が吸い込まれて臭気を放っているのでしょう。2.ギンナン(ギンナン)(注)この写真は以前に撮影したもので、本日のものではありません。これやこれ なるも落つるも つぶれては しるもながれて 臭きぎんなん (銀杏) (本歌)これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関 (蝉丸 後撰集1090 小倉百人一首10)3.ムベ(ムベ)(注)手持ちの写真がないので、Wikipediaより転載しました。似るからに 常葉通草(ときはあけび)と 呼ばるるも 熟れて割れぬ実 むべといふらむ (郁子) (本歌)ふくからに 秋の草木の しおるれば むべ山風を 嵐といふらむ (文屋康秀 古今集249 小倉百人一首22) 夜も更けましたので、今日はこれ位にして置きます。
2015.11.11
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ちょっと記事が前後してしまいましたが、本日の日記は11月1日の墓参の折やその他の折に撮影した木の実の写真で構成する「小倉百実一首」とします。 墓参には道すがらの寺の門前の言葉を掲載するのが恒例になって居りますので、忘れずにこれを先ず掲載して置きます。(2015年11月の門前の言葉) 「深いいのちの願い」などという真面目な言葉の後で、言葉遊びの「小倉百実一首」もないものだが、ブログの成り行き上、こうなってしまいましたので、致し方ありませぬ(笑)。どうぞ、皆さまも頭のスイッチを「遊びモード」に切り替えて戴きますように。1.ピラカンサ(別名:トキワサンザシ) 墓地への坂を上った処にある睡蓮の池の西側の民家の垣根のピラカンサです。(ピラカンサの実)墓参行く 道の片辺の 垣しみみ 常盤山査子 日にぞ照りつつ (常盤山査子)(本歌)秋の田の かりほのいほの とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつつ (天智天皇 後撰集302 小倉百人一首1)2.タイサンボク 花園中央公園のタイサンボクです。赤い種がアッカンベーと舌を出している気もしないではない眺めであるが、その赤い色は何とも美しい。(タイサンボクの実)厚過ぎて 暑きにあらし 白妙の ころも脱ぐてふ 赤き種見ゆ (泰山木)(本歌)春過ぎて 夏来にけらし 白妙の ころもほすてふ 天の香具山 (持統天皇 新古今集175 小倉百人一首2)3.柿 柿は神戸しあわせの村になっていたもの。智麻呂さんとの散歩で見掛けて撮影。(柿)あしびきの 山柿つるす 軒先に かかれる月も ひとりかもねむ (柿)(本歌)あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ (柿本人麻呂 拾遺集778 小倉百人一首3)4.ザクロ 墓参の際の定番、門前の言葉の寺の向かいの空き地にあるザクロの木になっていたもの。見事に割れている。(割れザクロ)寺の前に 立ちいでてみれば くれなゐの 柘榴は今し その実割れつつ (柘榴)(本歌)田子の浦に うちいでてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (山辺赤人 新古今集675 小倉百人一首4)5.サルスベリ この写真は2015年10月25日の日記「わが実ひとつの秋にはあらず」の末尾に掲載の写真である。文字数制限に掛かって、歌を掲載できなかったものであるが、本日遅ればせながらの歌となりました。(サルスベリの実)おく山の もみぢにすべり なく猿の こゑきくときは この実落つらむ (百日紅)(本歌)おく山に もみぢふみわけ なく鹿の こゑきくときぞ 秋はかなしき (猿丸大夫 古今集215 小倉百人一首5)6.ノブドウ これは、山中湖へと通じる国道138号沿いで撮影したもの。(ノブドウの実)野葡萄の 延(は)ふる垣根に 実の色の うつろふみれば 秋ぞふけにける (野葡萄)(本歌)かささぎの わたせる橋に おく霜の しろきをみれば 夜ぞふけにける (大伴家持 新古今集620 小倉百人一首6)7.イチイ これは富士吉田市内で目にしたもの。別名はアララギ。漢字では一位。大伴家持の最終叙位は従三位であるから、家持卿もこの実には遠く及ばないのである。(イチイの実)下つ枝に かきわけみれば 赤々と 葉裏になれる 一位の実かも (一位)(本歌)天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも (安倍仲麻呂 古今集406 小倉百人一首7)8.ツユクサ(古名:つきくさ) 墓参の帰り道に池の土手にて撮影したもの。万葉では月草、鴨頭草などと言う。この花で染めた色が縹(はなだ)で、それは移ろいやすい。それを逆手に取って友禅の下絵には、この花から取った染料が使われる。(ツユクサの実)わが里の 鴨棲む池の 辺(へ)になる実 それ鴨頭草(つきくさ)と 人はいふなり (露草)(本歌)わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (喜撰法師 古今集983 小倉百人一首8)9.ナツメ ナツメの実は墓参の道の辺で撮影。今月1日では如何せん遅過ぎました。皺々になった実ばかり。棗は不老長寿、仙人の食べ物とされるが、今は採って食べる人も居ないようだ。(ナツメの実)実の色も うつりにけりな いたづらに なつめ皺よる 食はれせぬ世に (棗)(本歌)花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに (小野小町 古今集113 小倉百人一首9)10.キブシ これは、梅田スカイビルの里山にて撮影した写真(2015年10月14日「囲碁例会・見慣れぬ実と花」参照)の再掲載です。(キブシの実)秋梅田 ビル風ふきしく 里山は つらぬきとめぬ 玉ぞ揺れける (木五倍子)(本歌)白露に 風のふきしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞちりける (文屋朝康 後撰集308 小倉百人一首37)<追伸> 最後に、以下の黒い実2件の名が不明です。ご存じのお方、ご教示賜れば幸甚に存じます。 名が不明では百実一首には採用不可能。右のそれはイボタノキかとも思われるがよくはわからない。 <左はウドの実でした。(下記小万知さんコメント参照)。>
2015.11.06
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銀輪散歩その他で撮影したマンホールの写真がそこそこの数になっています。掲載漏れになっているものも発見、ということで、今日はマンホール蓋の写真の記事とします。1.河内長野市 河内長野市の「市の木」クスノキと「市の花」キクをデザインしたものでしょうか。2.尼崎市 外周にあしらわれているのは、尼崎市の「市の花」キョウチクトウの花だそうです。「市の木」のハナミズキの花かと思いましたが、違うようです。中央には水辺、トンボ、蛍、魚が描かれています。3.浜松市 中央に市章、それを取り巻くように、人、ビル、草花、波、山などが幾何学模様にして配されている。(旧三ケ日町地区) 浜名湖に浮かぶヨット、遠景に浜名湖に架かる瀬戸橋を配し、手前に旧三ケ日町の「町の木」であるミカンの花と実を配している。 (旧細江町地区) 旧細江町地区は全国有数の銅鐸出土地ということで、銅鐸を中央に配して、左右に「町の花」桜を描いている。4.新潟市(黒崎地区) 信濃川に架かる「ときめき橋」と信濃川が描かれている。5.富士吉田市 富士山を背景に、「市の鳥」アカゲラが「市の花」フジザクラに止まっている図である。 上は、カラータイプのもの、丸型と角型。こちらではアカゲラは「市の木」白樺に止まっている。 次は消火栓のカラータイプ。丸型と角型の2種。 6.忍野村(山梨県南都留郡) 忍野八海と富士山の図柄。右は親子型タイプのもの。 下は規格品タイプのもの。7.山中湖村(山梨県南都留郡) 上は、富士山を背景に山中湖と白鳥を配したもの。8.大月市 上は、富士山を背景に、桂川に架かる日本三奇橋の「猿橋」、市の木「八重桜」、市の花「山百合」を配している。<参考>過去のマンホール関係の記事はコチラから。
2015.11.05
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本日は囲碁例会の日。いつものようにMTBで梅田スカイビルまで銀輪散歩。今回は難波八阪神社に立ち寄ってから梅田スカイビルに向かいました。 難波八坂神社に寄り道した理由は、万葉歌碑の本を見ていて、この神社の境内に戦艦陸奥主砲抑気具記念碑があり、その台座に、大伴家持の「海ゆかば~」の歌が刻まれているということを知ったからであります。(難波八阪神社・東鳥居) 難波八阪神社は難波元町2丁目交差点の西側一つ目の辻を南に入った処にある。上の東側鳥居から境内に入りましたが、これは勝手口のようなものにて、正面の鳥居は南に面している(写真下)。(同上・南鳥居)<参考>難波八阪神社公式ホームページ(同上・拝殿) 東鳥居から入ると目の前に現れるのは巨大な獅子頭。まあ、東から境内に入る方がインパクトがあって面白い。(同上・獅子舞台)(同上・篠山神社)(同上・篠山神社由緒) 本殿・拝殿の東側に戦艦陸奥の記念碑がありました。 記念碑の頭頂部に置かれている丸い物は、戦艦陸奥の主砲八門のうちの一つの砲の先端に装着されていた天蓋(砲口蓋、これを「抑気具」と言うらしい。)である。 (戦艦陸奥主砲抑気具記念碑) 台座に刻まれた大伴家持の歌の一部とはこれでした。(同上・台座歌碑) これを「万葉歌碑」と言っていいのかは疑問。大伴家持の長歌の一部を取った「軍歌・海ゆかば」の歌碑と言う方が適切かも知れない。 大伴家持の万葉歌(巻18-4094)は、大仏建立のためには大量の金を必要とする処、陸奥の国で金山が見つかり、それを喜んだ聖武天皇が詔書を出し、その中に大伴氏などの名を挙げて、その忠節を讃えた文言があったことから、これに感激した家持が作ったものである。 天皇が詔を出したのが天平21年(天平感宝元年)(749年)4月1日で、越中守であった大伴家持がその詔のことを知ったのは随分の日数が経ってからであったのでしょう、歌は天平感宝元年5月12日に作られている。時に家持32歳である。 軍歌「海ゆかば」は、長歌に引用された大伴氏の言立て(家訓)の部分である。 その長歌全文及び現代語訳はコチラ(海ゆかば・Wikipedia)をご参照下さい。反歌3首は上記のWikipediaには記載されていないようなので、下に記して置きます。大夫(ますらを)の 心思ほゆ 大君の 御言(みこと)の幸(さき)を 聞けば貴(たふと)み (大伴家持 巻18-4095)<ますらをの勇ましい心が思われる。天皇のお言葉の幸いを聞くと尊いので。>大伴の 遠(とほ)つ神祖(かむおや)の 奥津城は しるく標(しめ)立て 人の知るべく (同 巻18-4096)<大伴の遠い祖先神の墓は、はっきりとしるしを立てよ。人々にわかるように。>天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東(あづま)なる 陸奥(みちのく)山に 黄金(くがね)花咲く (同 巻18-4097)<天皇の御代が栄えるだろうと、東国の陸奥の山に黄金の花が咲くことだ。> 難波八阪神社を出て目に入った「ひまわり」という喫茶店で昼食。昼食後四ツ橋筋を北上。梅田スカイビルの会場に行くと福〇氏が既に来て居られました。早速同氏と1局。十数目の大差で小生の勝ち。対局中に来られた平〇氏と続いて対局。これも中押しで小生の勝ち、で2戦全勝。今日はこの3名のみの出席で対局はこれまで。福〇氏と平〇氏の対局を観戦。数目差で福〇氏の勝ち。これで、今年の通算成績は20勝17敗となりました。 帰途は何処にも立ち寄らず(花園中央公園には立ち寄りましたが)に自宅直帰。
2015.11.04
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第167回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。久々の智麻呂絵画ワールド、どうぞごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 最初の作品はコスモス。 これは先月4~5日に若草読書会一泊小旅行で神戸しあわせの村に行った際に見たコスモスの花です。直接には当ブログの記事(下記)に掲載の写真から絵にされました。 <参考>若草読書会小旅行2015・神戸しあわせの村 2015.10.5.(コスモス・紅白たぐひて) 下の写真がモデルですが、上の絵ではモデルと少し違った描かれ方をしている処があります。皆さんはお気づきになられたでしょうか。 この写真に添えた当ブログ記事の小生のコメントでは、赤い花を恒郎女さん、白い花を智麻呂さんになぞらえた上で、「赤い花が少し反対側に身をかしげているのが気になる」という趣旨の冗談を記しましたが、智麻呂さんは「それは男の沽券にかかわる」とでも思われたか、白い花の方も反対側に身を傾けているように描かれました(笑)。 実際は、白い花の位置を赤い花と同じ高さに描かれ、写真よりも横長の用紙を使用された関係で、モデルと同じに白い花の茎を真っ直ぐに描くと、構図が締まりのないものになる、とお考えになっての工夫ではないかと推測されますので、上記の小生の評は「下司の勘繰り」ですな(笑)。(ハッピーバースデイの祝花) これは、その神戸しあわせの村で読書会に先立って行われた智麻呂さんの傘寿のお祝い会で、お嬢様たちから贈られたお祝の花です。紙粘土で精巧に作られた本物そっくりの造花です。(モミジバフウの葉) 上のモミジバフウの落ち葉、下のサクラなどの落ち葉は、画材にと小万知さんが拾い集めて下さったものです。落ち葉の絵は、この時期の智麻呂絵画展には必ず登場する定番作品と言っていいでしょう。(落ち葉たち) 次は柘榴です。 これは智麻呂さんのご友人の坂〇氏のご自宅の庭になっていたザクロなのでしょう。同氏が画材にと下さったものをモデルに絵にされました。 質感や色合いが見事で、いかにもザクロという絵であります。なお、これはご来場の皆さまへのデザートという訳ではございませんので、「見る」だけにして下さいますように。決して「味見」などなされませぬようお願い申し上げます。(割れ柘榴) 呵々大笑 世はこともなし われ柘榴 (筆蕪蕉) (注)俳句にも掛詞なるものがあるのや否やは存じ上げませぬが、「われ柘榴」 は「割れ柘榴」と「我柘榴」とを掛けて居ります。(リンドウと菊) 上のリンドウと菊は、智麻呂さんが通って居られるデイサービス施設・福寿苑での催し「お買い物デー」で智麻呂さんが買い求められた花です。智麻呂さんが買われるのは決まって「花」ですな。(秋の実の・・) これは何の実か名前は存じ上げませんが、散歩の道すがらに摘まれた「秋の実」であります。(ルコウソウ) ルコウソウは当ブログ記事掲載の写真(下記)を絵にされたもの。 <参考>墓参&銀輪花散歩 2015.10.3. さて、お待たせ致しました。この処、絵画展にデザートが出ないというご来場者さまの一部からのご苦情もございましたので、今回はこれをご用意申し上げました。 わが地元の和菓子舗・寿々屋の「おかげ芋」というお菓子です。 どうぞお召し上がり下さいませ。お茶はセルフサービスとなって居りますので、ご協力よろしくお願い申し上げます。(寿々屋の和菓子・おかげ芋)帰り道の た遠き人は 芋食ひて 行かせ皆の衆 お茶もやあれば (家持館長) (本歌)夕やみは みちたづたづし 月待ちて 行かせ吾背子 その間にも見む (大宅女 万葉集巻4-709) 以上です。本日もご来場賜わり、有難うございました。
2015.11.03
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(承前) 愛車トレンクルも宅配便で自宅へ送り返しての最終日10月30日の記事です。前日の山中湖一周・忍野八海銀輪散歩では期待した富士山の片鱗さえも見えないままに日が暮れてしまいましたが、30日は快晴の好天気。ホテルの朝の窓から、くっきりと富士山が見て取れました。28日からのこれまでの記事に於いて欠落していた主人公の漸くのお出ましとなりました。窓開けて うち眺むれば 朝日照る 富士の高嶺ぞ 赤く染みける (河内青人) (本歌)田兒の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪は降りける (山部赤人 万葉集巻3-318)(富士山・ホテルの窓から) 上は朝日が差す前で青富士。 下は山頂に朝日が差し始め赤富士へと変化。(同上) (同上) 左は山頂部のみ朝日が当たっている状況。 右は山裾まで朝日に照らされ赤富士となった状態。 赤富士に呼応するかのように、前山も日に照らされ紅葉が赤く映える。 日が昇り切ると、元の青富士へと戻って行く。(同上) 富士山の上を白い象が飛んで行くゾウ。 富士山駅周辺を散策した後、富士登山電車で大月へ。(富士山・駅西側の跨線橋の上から眺めたもの)(富士山駅) 富士山駅は標高809mの位置にあり、元は「富士吉田駅」という名であったが、2011年7月1日に富士山駅に改名された。 線路は当初は山中湖方面(南東方向)に延伸される予定であったが、計画変更となり1950年8月に河口湖(北西方向)まで延伸される。その結果、大月からやって来た電車は富士山駅でスイッチバックして川口湖方面へと向かうことになったという次第。 下の写真は大月からの線路で、左(東方向)にカーブし富士山駅(下の写真では左端の電柱の向こうに富士山駅の塔屋が僅かに見える)になる。川口湖方面に向かう線路は、富士山駅から西へ(下の写真では左から右へ)と延びて更に標高を上げる。因みに終点の川口湖駅の標高は857m。始発の大月駅のそれは358mである。(跨線橋から見る富士急線路) ホームのベンチも富士山の見える方向に置かれている。 川口湖からやって来た電車は富士登山電車。 手前1号車が赤富士、奥2号車が青富士の2両編成。 内部は、ソファや展望席、ライブラリーなどを備えた楽しい設えになっている。(富士登山列車・大月行) (列車内から撮った見納めの富士)(車内風景・赤富士) 三つ峠駅で暫く停車。ホームに出て写真を撮ったり、車掌さん(若い女性)に写真を撮ってもらったりしている外人観光客も。(三つ峠駅ホームから富士山を望む) 田野倉駅上大月駅間で電車はリニア新幹線の実験線の下を通過する。(リニア実験線) 大月駅に到着です。中央線乗り換えまでの時間が30分程度あったので、駅前を少しばかり徘徊しました。 (富士急大月駅) (JR中央線大月駅) 以上で、山中湖一周銀輪散歩関連日記完結と致します。<完>
2015.11.02
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(承前) 忍野八海を廻って参りました。 元々は、忍野八海のある地域や山中湖など一帯は、宇津湖という巨大な湖であったそうで、延暦19年(800年)の富士山噴火で流れ出した溶岩によって、忍野湖と山中湖の二つの湖に分断されたという。忍野湖は徐々に涸れて消滅し、富士山伏流水を水源とする湧水池のみが残り、それが忍野八海だとのこと。 山中湖を回れば、その兄弟分とも言える、今は亡き忍野湖の忘れ形見たる忍野八海にもお邪魔するのが礼儀だろうという訳であります。<参考>富士山構成資産・忍野八海(忍野村観光情報) 忍野八海(同) 忍野八海は、富士山根元八湖霊場という富士修行の霊場であったとのことですが、今は各池の畔に建てられた〇番霊場の石碑にその痕跡を残すのみ。水行などをすれば即逮捕でしょうな。では駆け足で回ってみることと致しましょう。(忍野八海位置図)1番 出口池(出口池)(同上・説明板)2番 御釜池(御釜池)(同上・説明板) (同上) 御釜池から流れ出している水路には梅花藻でしょうか、水草が鮮やかな緑色を見せて靡いているのでした。(水草・梅花藻?)3番 底抜(そこなし)池(底抜池) 底抜池は進入路が分からず、見つけられないままでありましたので、写真がありません。忍野村観光情報サイトの写真を転載させて戴きました。底抜池だからといって手抜きをした訳ではありません。4番 銚子池(銚子池)(同上・説明板) 銚子池では遠足の小学生たちと一緒になってしまいました。5番 湧池(湧池) (同上・説明板) (同上) 右上の写真は水面に映った木の間を鯉が泳いで面白い光景。水底に光っているのは一円玉などの硬貨。「コインは投げ入れないで下さい」という表示がありましたが、気付かずにか、禁止をものともせずにか、投げ入れる人もあるようです。6番 濁池(濁池)(同上・説明板)7番 鏡池(鏡池)(同上・説明板)8番 菖蒲池(菖蒲池)(同上・説明板) これにて、10月29日の銀輪散歩の記事終了です。 富士吉田のホテルへと来た道を帰ります。遂にこの日は富士山はその一部さえも見えず仕舞いにて、富士山麓に来ているという感じのしない一日でありました。 富士山碌に見えもせず(富士山麓に見えもせず)と言う次第。
2015.11.01
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