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先日「perfume de carnaval」という曲をYouTubeにアップしましたが、3オクターブのミの音程があまりに酷いので、録音し直しました。(ギターは前の録音を使い回して、フルートだけを録音し直した)「低め、低め」と念じながら吹いたら、音程が低くなるのだから不思議なものです。完全ではないですが、前の録音よりは多少改善したので、アップし直しました。それにしても、気のせいか以前より3オクターブの音が(ミに限らず)かすれているような気がします。Perfume de carnaaval カーニバルの香り改めてこの曲のオリジナルと聞き比べてみると、私の演奏はテンポがちょっと速いかも。(でも、あまりゆっくりにするとテンポが保てなくなるのです、何しろリズム感がないので)ところで、調整したばかりのフルートを撮影してみました。管体とキーは2週間くらい前にシルバーポリッシュで磨いたばかりなので、ぴかぴかです。でも、シャフトは磨いていいのかどうかよく分からないので、磨いていません。だから、シャフトだけは少し黒くなってきました。さて、この多重録音はどうやっているかというと、まずギター(伴奏)を録音する。録音したギターをイヤホンで聞きながら次の楽器(今回の場合は前奏のギターソロ)を録音する。ふたつの録音をパソコン上で重ね合わせる。それを聞きながら次の音(前奏ギターソロの副旋律)を録音するこれもパソコン上で重ね合わせるそれを聞きながら次の音(フルート主旋律)を・・・・・・・・(以下同じことの繰り返し)そうやって録音していると、二重奏の相手が自分自身ということになります。そうすると、ビブラートの波長が非常にあわせやすいんですね。他人と二重奏を吹くときは、ビブラートをあわせることをかなり意識しますが、相手が自分自身だと、何も考えずに吹いても、ビブラートの波長がピタリと合わせられたりします。気温が下がってきたので、フルートをちょっと吹いただけでも、大量の結露が管内に付くようになってきました。夏場は結露とはむんだったのですが。
2010.10.31
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この台風の最中に、銀座・山野楽器のムラマツ・フルート・フェアでフルートの調整をしてもらってきました。最近、足部管の接続がとても硬くなってしまったので、そのことを話したら、接続部の傷が当たっているからでしょうとのことで、調整してもらったら接続がとても緩くなりました。肝心のタンボとキーですが、「まったく問題ありません」とのことです。と、いうことは、3オクターブのミが上ずってしまう件は、楽器の調整不足が原因ではなく、やっぱり私の吹き方に問題あり、ということのようです。うーーーーーーん。前の人の調整が終わるのを待つ間、試奏会でフルートを何本か試奏したのですが、Eメカのないフルートの3オクターブのEが全然出ない。単独で音を出せば出ますけど、メロディーの中で出てくると音が出ない。私は、その日の調子によって、Eメカがなくてもまったく問題なく3Eが出るときと、全然出ないときがあるのですが、今日は全然出ない日だったようです。やっぱり私にとってはEメカは必需品ということになりそうです。(3オクターブのF♯も出しにくい音ですが、私にとってはEメカのない3Eより遙かに楽です)現在は、だいたい週に2~3日、1日に20~30分フルートを吹いていますが、そのくらいの頻度だと、タンボは10年以上もつかも知れないとのこと。じゃあフルートの買い換えも、おそらくその頃の話になるでしょう。次に買うフルートは総銀製と思っているのですが、試奏した総銀製のフルート(DS・リングキー・H足・Eメカ付)は80万の値札が付いていました。C足ならだいぶ安いのですが、それでも70万。Eメカなしでも63万円。私にはどう転んでも予算オーバーです。それに、私には、困ったことに、総銀製のDSも、ゴールドフルートも、頭部管銀製のEXも、ムラマツのフルートはみんな同じ音に聞こえるのです。というわけで、EXは10倍の値段のゴールドフルートにも負けない音色だぞ、と。
2010.10.30
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南米に3回行ったことがある私ですが、アルゼンチンには1度だけ、わずか1泊2日しか滞在していません。1994年2月末のことです。チリのサンティアゴからバスでアンデスを越えてメンドーサへ、1泊して翌日の午後、再びメンドーサからサンティアゴへ、それだけの旅でした。(他に、ブエノスアイレスのエセイサ国際空港にトランジットで5時間ほど滞在したことがありますが)1994年当時、アルゼンチンの大統領はカルロス・メネムという人物でした。昨日の記事で紹介した、ネストル・キルチネル前大統領、その妻のクリスティーナ・キルチネル現大統領と同じペロン党(正義党)に所属している人物です。ただし、メネムはペロン党内の最右翼、新自由主義経済信奉の親米派、一方キルチネルは党内最左派、反新自由主義の反米派。ほとんど水と油のように思想信条が異なり、人間関係でも犬猿の仲と言われています。さて、その親米派メネムが政権を握っていた当時、アルゼンチンの通貨ペソは、1ペソ=1米ドルという固定交換レートになっていました。1ペソ=1ドルという交換レートがどういうものか、実際に行ってみて、体感としてよく理解できました。はっきり言ってしまえば、異常にペソが高い交換レートだったのです。そもそも、チリ・サンティアゴからサンティアゴ行きバスのチケットを購入する時点で、異常性を予感させるものがありました。料金表を見ると、メンドーサ行き(他のアルゼンチンへの国際便も)だけが、運賃が異常に高いのです。サンティアゴとメンドーサは、直線距離では200kmほどしかありません。(アンデス越えのつづら折りの道を走るため、実際の道路距離ではもっと遠いですが)それなのに、1000km以上も走るチリ国内線のバス路線より値段が高いのです。で、メンドーサに到着してみると・・・・・・、物価が高い高い、驚くべき高さ。何しろ東京より物価が高い!そりゃアルゼンチンは南米の中では最先進国ではありますけれど、いくら何でも東京より高い物価でも平然としていられるほど、国民所得が高いわけではありません。1994年当時のアルゼンチンの一人あたり名目GDPは約7,000ドル、同じ年の日本は、約40,000ドルです。それなのに物価が東京並みで生きていけるはずがありません。そのからくりは、ペソの交換レートが異常に高いから、ドルベースで見ると異常な高物価に見えるけど、アルゼンチンペソで見れば、まあそれほど異常でもないわけです(アルゼンチンペソでみても、かなりの高物価ではあったようですが)。だけど、こんなに滅茶苦茶な交換レートがいつまで続けられるのかと思ったら、なんと、そのあと8年も保ってしまったのですが、結局は、案の定2001年に国家破産という結末を迎えてしまったわけです。それでも、メンドーサは地方都市ですから、首都ブエノスアイレスよりはまだしも物価は安い方だったらしいです。到着して、まず宿探しをしたら、やっぱり100ドルオーバーの高級ホテルのオンパレード、バスターミナルの旅行案内所で一番安い宿を探してもらったら、かろうじて1泊25ドルくらいの宿(でもお湯シャワー付)が見つかって、そこに泊まりました。この宿だけは、日本並みよりはずっと安い値段でした。(このとき旅行したチリやボリビアの同クラスの宿と比べたら、それでもかなり高かったのですが)で、夕飯を食べようと思い、フラフラと街中を歩いて、適当なお店に入りました。2月末(南半球なので、日本で言えば8月末に相当)のメンドーサはかなり蒸し暑かったので、実際はお店の中ではなく、路上に出ているテーブルに席を取ったのですが。メニューを見たら、私は絶句してしまいました。書いてあるほとんどの料理が10ペソ以上、20ペソ30ペソという値段なのです。何しろ、南米を旅していると、物価感覚が日本とは変わってきます。1食500円で、お昼の定食(スープからサラダ、メインディッシュ、デザートまで)が充分に食べられる国々を歩いてきて、いきなりこの値段を見たら、愕然とします。屋外の席だし、そのまま席を立とうかと一瞬思いました。だけど、さすがにそれはちょっと失礼かななんて思ってメニューを見ていたら、唯一値段が一桁の料理があったんです。それがサンドイッチ。うーーーん、サンドイッチじゃ夕飯に足りないけど、まあ仕方がないかと思って、それを注文しました。それが、確か9ペソでした。日本で、喫茶店に入っても、サンドイッチに900円は普通取られないよなあ・・・・。ところが、出てきたサンドイッチを見て、私は二度びっくり。超特大サンドイッチだったのです。これなら900円でも安いかも。16年も前の話なので、正確な大きさは記憶が曖昧ですけれど、とにかく全部食べるのが大変だったことを覚えています。パンもでかかったけど、中身の肉もでかかった。もっと値段の張るメニューは、いったいどんなボリュームだろうかと想像したら、他の料理を注文しなくて本当によかったと思いました。そして、日常的にこんなボリュームの食事ばっかりしているとしたら、アルゼンチン人に肥満が多いのも分かるなあと思ってしまいました。アサードというアルゼンチンの名物料理があります。牛肉の焼き肉なんですが、幸か不幸か、私は日本のアルゼンチン料理店でしか食べたことはありません。日本では、やっぱり日本人向けのボリュームになっていますから、多すぎて食べきれないと言うことはない。でも、現地で食べたら、とてもじゃないけど私が食べ切れるようなボリュームではないだろうということは、容易に想像できました。ラテンアメリカ人の全般的傾向としては、日本人の私とそんなに食事のボリュームは違わないようです。いろいろなレストランや食堂で、定食でも単品料理でも、出されたものが「足りない」「多すぎて食べきれない」と思ったことはほとんどありません。アルゼンチン以外では、ですが・・・・・・。翌日は、チリのサンティアゴに戻るバスの出発が午後だったので、午前中、ワイナリーの見学に行きました。メンドーサはワインの産地として有名なのです。今はチリワイン、アルゼンチンワインは日本のどこでも売っていますけれど(チリの方が多いけれど、アルゼンチンでもトラピチェという銘柄は近所の酒屋でよく見ます)、当時は日本ではほとんど売っていなかったので、1本買ったのですが、それもそんなに安くはありませんでした。当時はワイン=高級なお酒という印象を持っていたので、「高い」とは思いませんでしたが。そして、国境を越えてチリのサンティアゴに戻ってきたわけですが、少なくとも食事に関しては、アルゼンチンよりチリの方が日本人である私の胃袋と嗜好にはあっているなと思いました。ボリュームもそうですけれど、チリは魚介類が豊富だし、味もアルゼンチンより日本人向きという気がします。音楽に関してはアルゼンチン大好きですけれど(チリも好きだしボリビアも好きですけど)、食事に関しては、あの国に何週間も滞在して、その間ずっと外食だったら、私にはちょっとキツイかな。チリ・ボリビア・ペルー・メキシコに関しては、いずれの料理も何日食べ続けても全然平気なのですが。
2010.10.29
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http://www.asahi.com/international/update/1028/TKY201010280123.htmlアルゼンチンのキルチネル前大統領死亡 現大統領の夫アルゼンチンからの報道によると、ネストル・キルチネル前大統領が27日朝、同国南部カラファテの病院で心臓発作のため死去した。60歳だった。キルチネル氏は、クリスティナ・キルチネル現大統領(56)の夫で、同国で最も影響力のある政治家と言われていただけに、その急死に国民は衝撃を受けている。キルチネル氏は、学生運動のさなかに仲間のクリスティナ氏と結婚。弁護士から、地元サンタクルス州内の市長や知事を務め、2003年に大統領に初当選。1期務めた後、妻が大統領になった。01年末から危機に陥っていた同国経済の立て直しに取り組み、国際通貨基金(IMF)との交渉などをへて、経済回復に導いた。軍事政権時代に子供を殺された親たちの人権団体などを支援し、手厚い貧困対策で国民に支持された。現地報道によると、「妻クリスティナ氏の政治的な決定は、夫のキルチネル氏がしている」と政治学者らが分析するほど影響力を保っていたという。現大統領の任期は11年12月に満了するが、キルチネル氏の再登板も取りざたされ、「夫婦の間での政権のたらい回し」と批判する声もあった。----------------びっくり仰天しました。まだ60才なのに・・・・・・。それにしても、心臓発作とは、アルゼンチンの「国民病」と言ってもいい亡くなりかたではあります。何しろ、こういう方↓こういう方↓こういう方↓こういうお姉様↓こういう体型の方々が幅をきかせているお国柄だけに、心臓病、脳溢血、癌がかなり多いようです。ただし、その中にあって、ネストル・キルチネルはこんな体型です。↓全然太っていない。身長がものすごく高いので、体重はそれなりにありそうですが、成人病になりそうな体型ではありませんでした。それなのに心臓発作・・・・・。残念なことです。ネストル・キルチネルは、新自由主義経済信者から見れば、ばらまき主義のポピュリストであったろうし、反新自由主義派(私もその一人ですが)から見れば、民衆の側に立った政治家でした。しかし、一つだけ確実に言えることは、2001年末、国家破産状態に陥り、デフォルトに追い込まれたアルゼンチンの経済は、キルチネル政権の下で奇跡的な回復を見せたということです。もちろん、キルチネルの政策が経済回復をもたらしたのか、たまたま経済回復する時期に大統領に就任したのかは、意見が分かれるかも知れませんが。ただ、跡を継いだ妻のクリスティーナ・キルチネル現大統領は、支持率低迷気味です。記事にもあるように、クリスティーナ・キルチネル政権の陰の大統領は夫ネストルだとも言われていますが、これからどうなるかが問題です。何はともあれ、優れた政治家の死は残念なことです。※写真は上からオラシオ・グァラニー、サンバ・キピルドール、アルヘンティーノ・ルナ、最後の女性歌手は今年亡くなったメルセデス・ソーサ追記 記事をアップした後で調べたところ、ネストル・キルチネルは今年に入ってすでに2回心臓の手術を受けていたそうで、もともとリスクを抱えていたようです。
2010.10.28
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何だか、今日は寒かったみたいですね。でも、私はワイシャツ一枚上着なしで出勤したんですけれど。http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20101026k0000e040013000c.html冬の天気:酷暑のち厳冬? ラニーニャ現象持続観測史上例のない猛暑に悩まされた今夏。残暑も長かった分だけ、秋が短く感じられそうだ。日本付近は26日、今シーズン初の冬型の気圧配置となり、夜にかけて気温がぐっと下がる見込み。札幌市では初雪も観測された。今年の冬は、どんな冬になる? 札幌市の朝の最低気温は1.4度と今季最低。10月に初雪を観測するのは04年以来、6年ぶりだ。気象庁が発表した最新の予報によると、今冬は「暖冬傾向だった最近10年間の中では、やや寒くなる見込み」。「エルニーニョ現象」と並んで異常気象の一因とされる「ラニーニャ現象」が発生していることが根拠という。東部太平洋赤道付近の海面水温が高くなるエルニーニョとは反対に、ラニーニャは同海域の海面水温が低くなる。その場合、東南アジア付近の海面水温が逆に高くなり、上昇気流が発生。そこから吹き出した空気の流れが中国付近で偏西風を北に押し上げる。その結果、日本付近では偏西風が南に蛇行し、冬型の気圧配置を強めると考えられている。気象庁気候情報課によると、過去のラニーニャ現象発生時の特徴として、日本付近は秋の前半は暖かい空気に覆われやすいが、晩秋から初冬にかけて寒気が南下しやすい傾向がある。ラニーニャが厳しい寒さを引き起こした最近の例に、大雪により152人の死者を出した05~06年の冬がある。05年の夏も全国的に気温が平年(71~00年の平均値)より高く、9~10月も気温の高い日が多かった。しかし、11月ごろから寒気がたびたび南下し、12月は全国的に低温に。特に日本海側は豪雪となり、除雪中の転落事故が相次いだり、山間部の集落が孤立したりした。気象庁気候情報課の前田修平予報官は「今年の海洋の状況は05年によく似ている」と話す。ただし、05年ほどの厳しい寒さに見舞われるかどうかについては慎重だ。「05年はラニーニャとは別に『北極振動』という現象も同時に起き、北極地方から日本などの中緯度帯に寒気が流れ込みやすくなっていた。これは海洋の状態とは違って間近にならないと分からず、現段階で予想は難しい」と話す。一方、長期的に見ると1980年代半ば以降、平均気温が平年を下回った冬(12月~翌年2月)は数えるほどしかなく、過去20年以上暖冬傾向が続いているといえる。このため前田予報官は「平年並みの寒さになっただけで、今年の冬は寒いと感じる人が多くなるかも」と指摘する。(以下略)-----------------「平年並みの寒さになっただけで、今年の冬は寒いと感じる人が多くなるかも」というのは、示唆に富む話です。今年8月の東京の月平均気温は、29.6度。1876年以降134年間の観測史上最高記録でした。では逆に「厳冬」と言われる2005年末-2006年の冬はどうだったのでしょうか。東京に関する限り、実は観測史上最高(最低)でも何でもありません。この年、本当に寒かったのは、実は12月で、月平均気温は6.4度でした。今年2010年の1月の平均気温が7.0度、2月が6.5度ですから、この年の12月の気温がいかに寒かったかが分かります。でも、観測史上ではもっと寒い冬はいくらでもあったのです。観測開始の1876年から1925年までの50年間で、東京の12月の平均気温が6.4度より高かったのは、たった6年だけです。12月の月平均気温の最低記録は、1884年と1892年に記録された3.3度です。1885年1月には、月平均気温0.7度という記録が出ています。1月の平均気温が0.7度というのは、現在の平年値でいうと仙台(1.5度)、福島(1.4度)よりかなり寒い気温です。今、東京で1月の平均気温が0.7度になったら、大事件です。そこまで古い話を持ち出さなくても、私が小学生の頃(1970年代後半)は、東京でも日常的に霜柱が立っていたし、学校の屋外の水道栓は時々凍結するものでした。今、東京で霜柱なんて全然見かけません。屋外の水道栓が凍ることもないでしょう。そのことから考えると、今年の冬は、厳冬ではなく単に「普通の冬」になるだけのことだろうと思うのですが、どうでしょう。東京ではなく、全国のレベルでいうと事情は少し違います。2005-2006年の冬は、観測史上最大の積雪量を記録した地点がいくつもあるので、観測史上に残る厳冬だったことは間違いありません。東京の場合、ヒートアイランド現象の影響がいかに大きいか、ということに尽きるのかも知れません。山登りの好きな私としては、冬は適度に寒く、降るべき雪は適度に降って欲しいと思っています。(雪が降らないと翌年水不足になりますし)追記この記事をアップした後、ランニングに出かけたのですが、一応念のため冬と同じ格好で走ったら、かなり暑かった。冬と同じ格好と言っても、ランニングなので薄着です。下は長ズボンのジャージ、上はTシャツの上にトレーナーという格好。真冬は、この格好だと5キロくらい走らないと体が温まらないのですが、今日は100メートルで体が温まり、5キロも走ったら汗が噴き出してきました。
2010.10.26
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ボリビアの首都ラパスは、海抜3600m、世界でもっとも高いところにある首都として知られています。ラパスというのはアンデス高原に刻まれたラパス川の谷間にできた街で、町中が坂、坂、坂、平らなところがまったくない、「坂の街」です。日本で言えば神戸みたいなものですが、もちろん神戸より遙かに標高が高く、坂の斜度も、多分神戸より急だと思います。ラパスの高度を海抜3600mと書きましたが、これは大統領府や国会などのある中心街の高さです。実際には、街は海抜3400mから4000mにかけて、標高差600m以上の広がりを持っています。おそらく、一つの街(市街地)としては世界一高度差が大きいだろうと思います。立体都市と言ってもいい。さて、そんな坂の街に、どうやって飛行場を建設したらいいんでしょうか。坂の中腹になんか飛行場は作れません。神戸は、海を埋め立てて空港を作りましたけど、ボリビアは内陸国です。ラパス川を下っていっても、平らなところが出てくるどころか、どんどん急な谷間になっていきます。多分、何百キロも下らないと、飛行場が作れるような平坦地はないんじゃないかと思います。↓がラパスの全景です。谷底から中腹に街が広がっているのが分かりますね。平らなところはどこにあるかというと、写真右手の、谷を登り切った先に平坦地があります。ラパスの空港、エル・アルト国際空港はここにあります。だから、ラパスの中心地は海抜3600mnほどですが、空港は4000mの高さにあるのです。それにしても、よくもまあこんなところに飛行場を建設したなと思います。このエル・アルト国際空港より高いところにも飛行場はありますけれど、「国際空港」としてはエル・アルトが世界最高地点になるようです。この写真の右端の谷の中腹(かなり上端に近い辺り)から、撮影場所の方向に向かって撮影した写真が、↓です。空港とラバス中心街を結ぶ高速道路からの撮影です。最初の写真の撮影地は、写真右の、ちょうど雲が出ている辺りになります。ラパスの中心地から谷を見上げると、↓のような感じです。足腰を鍛えないと、この街は歩けません。なお、空港のある海抜4000mの高原にも、もちろん人が住んでいます。ラパスとは別の街で、空港と同じくエル・アルト市という名です。谷の中腹にある坂の街ラパスとは違って、こちらは比較的平坦です。だったら、そっちの方が暮らしやすいじゃないかと思うかも知れません。高度を考えなければそのとおりなのですが、ラパスの中心街は3600m、エル・アルトは4000m、400mの差が、非常に大きいのです。空気の濃さが違うし、気温も違う。ラパスの中心街では雪が降ることは滅多にない(数年に一度くらい)ですが、エル・アルトは頻繁に降雪があるようです。だから、ラパスでは、谷間を下って高度が下がるほど高級住宅街となり、逆に坂を登っていくほど貧しい住民が増え、坂を登り切ったエル・アルトはもっとも貧困層の多い地域ということになります。でも、驚くことに、海抜4000mのこの街に、なんと65万人もの人が住んでいるのです。一方、ラパスの人口は90万人弱です。両方あわせれば、人口150万人という大都市です。Wikipediaの英語版にエル・アルト国際空港の写真がありました。空港の周りも住宅密集地であることが分かりますね。最後にボリビアに行った2001年、ラパス在住の杉山さんに、ここエル・アルトで開かれる結婚式の披露宴に連れて行ってもらったことがあります。杉山さん率いるグループ「バクシカナ」のメンバーの兄弟の結婚式でした。私はその結婚式に招待されていたわけではありません。その前の日、「バクシカナ」の練習を見学させてもらったら、翌日そのメンバーの一人とたまたまホテルの近くでばったり出くわしたら、「今日俺の弟の結婚式があるから来ないか」というのです。招待状とかはどうなっているわけ?と思ったけれど、南米の結婚式は、招待者の友達、友達の友達と、参列者が招待者の何倍にもなるのが当たり前なのだそうで、招待状なんて誰も気にしていませんでした。でも、礼服なんて持ってないし(そんなものを持って旅行に行くわけがない)、場所がエル・アルトと聞いて、私は考え込みました。ラパスより格段に貧困層が多く、格段に治安の悪い場所で、しかも夜ですからね。でも、結局杉山さんが、帰りも送ってくれるというので、付いていきました。服装も、フォーマルな背広姿の人が多かったけれど、普段着の人もいたので、まあ大丈夫だったみたいです。日本でいう礼服(黒のスーツに白ネクタイ)の人はいませんでした。新郎新婦の親族たちですけれど、誰も白ネクタイなんて締めていません。しかし、後になって気がついたのですが、ビールケースの前で新郎新婦の撮影をしていたんですね。会場自体は、↓こんな感じのところです。多分大きな食堂を借り切ったのかな。で、杉山さんの「バクシカナ」がこの結婚式で演奏したのですが、そこに私も飛び入りで参加させていただきました。そのときに気がついたのですが、空気が薄いところで笛を演奏すると、高山病は治るんですね。(このときは、高山病というほどではなかったですが、やっぱりちょっと頭は重かった)考えてみれば、目一杯深呼吸をしているんだから、普通の状態より酸素を多く吸っているんですよね。帰りは、暗闇の中、高速道路まで歩いていって、そこで乗り合いタクシーを拾って帰りました。杉山さんに「この辺りは治安が悪いからね、パクシカナのメンバーの誰それは、前歯がないでしょう。彼はこの辺りで強盗に顔面を殴られて、前歯が全部折れちゃったんだよ」と言われて、ひぇ~~~~と思いました。前歯がなくなったら管楽器奏者失業です。(でも、彼は前歯なしでもバリバリとサンポーニャを吹いていたな)ま、何事もなく帰ってこられましたけど。おっと、話が脱線してしまいました。何の話だ、空港ですよ。で、この空港、滑走路の長さが4000mあるのです。日本では最長の成田空港のA滑走路と同じです。ところが、これだけ長い滑走路でも、まだ長さが足りません。離陸に必要な揚力を得るための速度(離陸速度)が他の空港よりずっと大きいからです。実際、素人目にもはっきり分かるくらい、離陸の時のスピードは速いし、機体はなかなか浮き上がりません。そのため、この空港では、燃料を満タンにしてジェット機が離陸することはできないのです。だから、最小限の燃料だけを搭載し、近くにある標高の低い空港(ボリビア第二の都市であるスクレのビルビル国際空港か、隣国チリのアリカ、ペルーのリマなど)まで飛んで、そこで燃料を満タンにして、改めて遠方の目的地を目指します。逆に着陸の方は、どんな遠方から来ても、燃料を消費して機体が軽くなっているので、着陸可能です。だから、たとえばアメリカン航空のラパス便は、マイアミ→ラパス→サンタクルス→マイアミという三角コースを取っています。この空港は3回使いました。1989年と94年、2001年です。滑走路は特大ですが、ターミナルビルは非常に小さい。感覚的には釧路空港とか旭川空港などと同じくらいか、それより小さいかも知れません。しかも、これらの日本の地方空港は、出発客は2階、到着客は1階という2階建て構造ですが、エル・アルト空港は乗客が出入りするのは1階部分だけなので、客にとっての床面積は更に小さい。89年に使ったときは出発だけでしたが、94年にこの空港に到着してみて驚いたのは、その当時この空港には手荷物受け取りのターンテーブルがなかったのです。異荷物受け取り場には、工事現場にあるようなベルトコンベアーが1台置いてあって、手荷物はそれに載って運ばれてきました。もっとも、南米の別の空港では、手荷物を待ち受ける乗客の前に、牽引車が荷物を満載した貨車を引っ張ってきて、「はい、どうぞ自分の荷物をお持ちください」ということもありましたから、それに比べれば随分マシでしたけど。しかし、最後に行った2001年には、手荷物受け取りのターンテーブルが新設されていました。おーーーー、と思いました。どうやら、最近はターミナルビルも増築されて、かなり近代的になっているようです。ターンテーブルも、1台だけではなくなっているでしょうね。
2010.10.24
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新曲をアップしました。アルゼンチン・サンバの「Perfume de carnaval(カーニバルの香り)」という曲です。ギター三重奏+フルート二重奏の五重録音です。もっとも、ギター三本は前奏だけですけど。本当は、ボンボ(太鼓)も入れたいところなんですけれど、そして我が家にはボンボもあるのですが、いくら何でも家で太鼓はたたけません。いや、一度だけ紐を締めずに、皮の上にタオルを敷いて、音があまりでないように叩いて録音してみたことがあるのです。残念ながら今ひとつ「締まらない音」でした。それ以来自宅録音に太鼓は諦めています。実は前にも同じ曲をフルートで録音したことがあります(YouTubeにはアップしませんでした)。そのときは全部中音域で吹いたのですが、今回は途中から3オクターブにしてみました。うーーーん、ちょっと音がかすれていますけど。以前に同じ曲の歌バージョンをアップしたこともあります。http://www.youtube.com/watch?v=FfGWYdp2Vi0&fmt=18この音源をアップしたときに知ったのですが、Perfumeという広島出身の女性ポップスグループがあるんですね。最初の単語がそれと同じ綴りなので、多分勘違いしたと思われる視聴者が相当したらしく、最初のうちはアクセス数がやけに多かったのです。もっとも、数日のうちに「誤解」は解けて、アクセスの増加も止まりましたけれど。サンバというと、ブラジルが有名ですが、ブラジルのサンバはSambaと綴り、アルゼンチンのサンバはZambaと綴ります。聞けば一目瞭然、両者はまったく異なった音楽です。本来は舞曲で、男女のペアがハンカチを振りながら踊ります。実は、上記の歌バージョンでも踊りが入っていました。アルゼンチン・サンバの踊りは以前にも紹介したことがありますけれど、一言で言えば、アルゼンチンの社交ダンスだと思えば分かりやすいでしょう。http://www.youtube.com/watch?v=oK4n6eZZb_gこんな踊りです。曲は「トゥクマンの月」多分アルゼンチン・サンバとしてはもっとも有名な曲だと思います。追記、改めて自分の演奏を聴いてみると、3オクターブのミがちょっと高いかも・・・・・・。
2010.10.23
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101021-00000121-jij-pol育休めぐり2知事がバトル=大阪「世間知らず」―広島「大きなお世話」全国で相次いでいる自治体の首長の育児休暇取得をめぐり、大阪府の橋下徹知事が21日、「反対。世間が育休を取れる環境をつくってから、公務員が取るのが筋」と批判したのに対し、第3子誕生後の取得を表明した広島県の湯崎英彦知事が、「大きなお世話だ」と反論した。橋下知事は「よく『知事が先頭に立って機運の醸成を』と(言うが)、それはあまりにも世間を知らなさすぎる。世間は育休を取れるような環境じゃない」などと指摘した。一方、湯崎知事は、「見解の相違ではないか。まさにわれわれ(広島県)もいろいろな方法で育休を取りやすい環境づくりを政策的にやっている。わたしの(育休取得)は、その一環」と述べ、批判は当たらないとの認識を示した。------------------前にもこのブログで書いたことがあったように思いますが、私の相棒は、うちの子が生後1ヶ月のときに10日間以上入院してしまったことがあります。母親が入院したからと言って、子どももセットで入院することはできないので、生後1ヶ月、片手でも楽々抱っこできる小猿が一匹、もとい赤ん坊が一人、私の手元に残されたのでした。幸いなことに、その前年に私の両親が仕事をリタイアしていたので、日中は両親に預かってもらい、夜間は父子家庭で、相棒の入院中は何とかしのぎました。まだ軽かったから、片手で抱っこしながら1時間も2時間も子守歌を歌っていました。その頃、子どもがどんなに泣き叫んでいても、私がこの歌を歌えば必ず泣きやむという「魔法の歌」がこの曲でした。(生後半年ほどで「神通力」は消えてしまいましたけど)・・・・・・・、本題に戻りまして、この間私は断続的に休みは取りましたけれど、完全に全期間休みを取らないで済んだのは、両親がごく近所に住んでいて、かつもう仕事をリタイアしていたおかげです。もし両親が近くに住んでいない、あるいは仕事をしていたとすると、私がこの間ずっと休みを取る以外に、手はなかったでしょう。何しろ、生後一ヶ月では、預かってくれるところなどどこにもありませんから。橋下知事が「世間は育休を取れるような環境じゃない」などと言っていますが、そんなことが言っていられるのは母親が元気で育児ができるからです。今は出産で命を落とす母親なんて滅多にいるものではありませんけれど、今だって、出産に危険が伴うことに変わりはありません。もし母親に何かあったときには、「世間は育休を取れるような環境じゃない」などと言っている暇はないのです。嫌も応もなく、父親が面倒を見るしかない。「世間は育休を取れるような環境じゃない」なら、取れるような環境にしていくのが知事たるものの役割の一つであり、トップが自ら率先して育休を取ることもまた、環境整備のための有効な方策の一つです。橋下の言い分からは、環境整備のための前向きな姿勢が何一つ感じられません。
2010.10.22
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羽田空港のD滑走路が今日から運用開始、あわせて国際線の新ターミナルも開業し、羽田空港の発着枠が大幅に増え、また国際線も一気の増便して、便利になりました。もちろん、羽田だけで東京の国際線の発着全てをまかなうことは不可能なので、羽田と成田の共存は今後もずっと続くことにはなるのですが、ただ成田空港の位置が相対的に低下することは否定できないでしょう。千葉方面を除いて、首都圏の大半の人にとっては、成田より羽田の方が便利ですからね。もっとも、羽田の規模拡大は良い話ばかりでもありません。一昨日の新聞記事ですがhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101019-00000012-maip-soci羽田空港 新滑走路開始へ管制官ら最終準備…誘導複雑化東京・羽田空港の新滑走路(D滑走路、2500メートル)の運用が21日から始まる。発着枠は現在の約1.5倍まで順次拡大、国際定期便も就航するなど利便性向上への期待は大きい。一方、空中で離着陸機の経路が交錯するポイントが増加し、地上でも滑走路を横断して別の滑走路へ向かうケースが増えるなど、管制業務は従来とは段違いに複雑になる。管制官やパイロットらは運用開始に向け、最終準備に追われている。【本多健】「出発機のジェット噴射による乱気流がおさまる時間を計算し、着陸機を誘導するのも難しいが、滑走路を横断する機体の交通整理が一番難しいかもしれない」。国土交通省東京空港事務所の幹部管制官は説明する。これまでは3本の滑走路のうち、南風の悪天候時以外は原則として、A、C滑走路の2本だけを利用し、離着陸の経路は交錯しなかった。だが、D滑走路新設で、北風時は3本、南風時は4本を同時に運用する。1時間あたりの離着陸は30機程度から40機に増えるが、離陸機と着陸機の経路が交錯するなどのポイントも多く発生する。例えば、4本を同時に運用する場合、D滑走路に着陸する航空機は、A、C滑走路からの出発機と経路が交錯する。千葉県上空でも、南方からB滑走路に向かう便と北方からD滑走路に向かう便が最低300メートルの高度差で交錯するポイントもできる。空中だけではない。B滑走路の着陸機に対してはA滑走路離陸機のジェット噴射による乱気流の影響が懸念される。国際線と国内線のターミナルが離れて建設されたため、C、D滑走路に離着陸する国際便はA滑走路を横断しなければならない。滑走路への誤進入も懸念され、ターミナルと滑走路の間の交通整理も難しくなる。(以下略)---------------------今でも、発着ピーク時には、まるでラッシュアワーの通勤電車のように、数分ごとに旅客機が次々と離陸、着陸していきます。離陸直前に、誘導路から飛行機が滑走路に進入する際、機体の向きが変わるので、自機の後方が客席の窓からも見えることがありますが、たいていは離陸待ちの飛行機が数珠繋ぎになっています。あの状態から更に発着枠が増えたら、かなりすごいことになりそうです。もちろん、事故が起こったりはしないように入念な準備はしているのだと思いますけれどね。世界には「危険な空港」として知られる空港がいくつかありますけれど、それらに比べれば、羽田は複雑といってもそれほどのことはないのかも知れません。大空港の中でもっとも危険として知られたのは、香港の啓徳空港空港です。着陸寸前に超低空でビル群をかすめながら急旋回しなければならなかったから。YouTubeの動画よりhttp://www.youtube.com/watch?v=N05F_egpiWw日本航空B747の着陸ですが、飛行機って横向きに飛べたっけ・・・・・・・、という感じですが、こんな横風の中をこんなところに着陸させるのだから、パイロットというのは大変な仕事です。(乗っている乗客は、知らぬが仏だったりして)そして、大空港ではありませんが、ホンジュラスの首都テグシカルパ国際空港。これもまた、かなりとんでもない着陸コースです。http://www.youtube.com/watch?v=v_z5HtME9n8着陸コースの真下に人間が立っていたら、車輪に引っかけられそうな低さです。やはり横風で、横向きに着陸している。http://www.youtube.com/watch?v=L8vmEIaMOqU究極の横風着陸。これは、確かスイスの空港だったと思いますけれど、片翼を滑走路にかすって、墜落寸前で危うく急上昇。これは、多分重大インシデントでしょうね。
2010.10.21
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フォルクローレの世界でコンドルと言えば、誰がなんといっても「コンドルは飛んでいく」が知名度ナンバーワンであることは、歴然としています。「フォルクローレってどんな音楽ですか?」と聞かれたら、とりあえず「コンドルは飛んでいくみたいな音楽です」と答えれば、大多数の人が、どんな音楽家を理解してくれるという意味で、「コンドルは飛んでいく」は実に偉大な曲です。私自身だって、一番最初は、この曲が好きだからフォルクローレを始めたようなものですから。(始めて聞いたのは中学生の頃)フォルクローレを始めて以来、いったい何回この曲を演奏したでしょうか、200回くらいではないかと思います。担当楽器は、ケーナとギターが半々くらいでしょうか。演奏仲間の中には、コンドルは演奏しすぎて飽きた、という意見もありますし、私もときにはそう思うこともありますけれど、基本的には何回演奏しても飽きません。そういう意味でも偉大な曲です。さすがに100年残る曲だけのことはあります。さて、しかしコンドルという名前を用いた曲が「コンドルは飛んでいく」以外にない、というわけではありません。他にもたくさんコンドルの名を用いた曲があります。で、そんな「コンドルは飛んでいくではないコンドルの名曲」の数々を紹介しようかと思います。まずは、私自身も演奏している曲から(でも、紹介するのは私の演奏じゃありません)コンドルたちの反乱(Rebeldia de los condores)「コンドルは飛んでいく」は1羽のコンドル(原題は単数形)ですが、このコンドルは複数です。前半は「トヨ」という特大のサンポーニャ(バス・サンポーニャ?)が使われます。実は、この曲は演奏者によって「ロス・トヨス」という別のタイトルが付けられることもあるのですが・・・・・・・。演奏はボリビアのサンポーニャ奏者フェルナンド・ヒメネス。コンドルは戻ってくる(El condor vuelve)演奏しているのはボリビアの「ルミリャフタ」ですが、曲自体はアルゼンチンの曲です。コンドルをラテンアメリカ団結の象徴として歌い上げています。コンドルの飛行(Vuelo de los condores)このコンドルも複数形です。多くのコンドルが上昇気流に乗って乱舞しているイメージでしょうか。ケーナ二重奏のバージョンもあって、こちらの方がかっこいいのですが、YouTubeに音源が見つかりませんでした。演奏は、やはりボリビアのグループで「サビア・アンディーナ」コンドルカンキ(Condorcanqui)厳密に言うと、これは鳥のコンドルのことではなく、植民地時代ペルーで、インカ皇帝の末裔と称して反乱を起こしたホセ・ガブリエル・コンドルカンキのことです。ただ、「コンドルカンキ」という名前自体が鳥のコンドルに由来しているし、彼がその末裔だと称したインカ最後の皇帝トゥパク・アマルは死後コンドルに姿を変えたという伝説があります。この曲は、チリのイジャプというグループの演奏です。ボリビア出身でアルゼンチンで活動する、その名も「コンドルカンキ」というグループが、同じタイトルの別の曲を演奏していますが、そちらはあんまり私の好みの曲ではない上に、YouTubeでは音源を発見できませんでした。で、もう一つフォルクローレではない(フォルクローレを意識した編曲ですが)曲を一つ魂をコンドルにのせて沖縄で活動する日系ペルー人歌手のアルベルト城間の曲、ザ・ブームの宮沢和史の歌詞、とても好きな曲の一つです。15年以上前に、彼がメジャーデビューした前後、あるイベントで同じステージで演奏させていただいたことがあります(一緒に演奏したわけではありませんが)。日本語はほとんど外国人の発音と感じさせないのですが、「コンドル」という言葉とスペイン語の歌詞の部分は、やっぱりスペイン語の発音なんですね。
2010.10.19
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http://www.asahi.com/science/update/1016/TKY201010160313.html北ア立山連峰に国内初の氷河? 画期的発見へGPS探査富山県の北アルプス立山連峰の雄山(おやま、標高3003メートル)で、確認されれば現存するものとしては国内初となる氷河の調査が進んでいる。これまでに雪渓の一つで国内最大級の氷の塊の「氷体」が見つかり、年間1メートル前後動いている可能性がある。8月末からは、全地球測位システム(GPS)を利用し、氷体が実際に移動しているかどうか探っている。国立極地研究所(東京都)によると、越年性の雪渓は、北アルプスや北海道など国内に数百カ所あるが、雪渓の下に氷体があるものはごく一部。氷体が氷河と認められるには、1年以上継続的に動いていることが条件となる。極東アジアでは、ロシア・カムチャツカ半島以北で確認されているのみだ。今回の調査対象は、雄山の真東にある御前沢(ごぜんさわ)雪渓。立山カルデラ砂防博物館(富山県立山町)の福井幸太郎学芸員(37)らが昨秋、特殊なレーダーで内部を調べたところ、雪渓の地下全体にわたって氷体があることが分かった。長さ700~800メートルで、幅は最大200メートル、厚さは最大で30メートルと推測される。氷河に見られる穴「ムーラン」が確認されたほか、氷体内に氷河特有の斜めの断層があり、以前は動いていたと考えられるという。福井さんらは今年8月末、雪渓の中央部にドリルで直径5~6センチの穴を開け、氷体に届くよう高さ3メートルのポールを15本埋め込んだ。先端にGPS用の機器を取り付け、10月下旬までの2カ月間にわたって、氷体が移動しているかどうかを調べている。雪渓の傾斜や、氷体の大きさから、計算上は年間で0.7メートル~1.6メートルは動いていると推測されるという。国立極地研究所の藤井理行所長は「国内に現存する氷河はないと考えられてきただけに、実際に氷体の移動が確認できれば画期的な発見だ。ただ、積もった雪の重みで冬の間だけ動いていたりする可能性もあるので、数年間の連続した調査が必要だろう」と話す。----------------------うーん、それって氷河なのでしょうか。実は私は立山にはまだ登ったことがなので、御前沢カールを間近には見たことがありません。記事に出てくる写真は↓ですが、これはおそらく秋に入ってからの撮影なので雪の量がかなり少なくなっています。8月初旬だと↓こんな感じで、だいぶ雪が多いです。(唐松岳から撮影したものです)中央の一番高いピーク(雄山)の左側の白い谷間が御前沢カールです。さて、しかし私の知る限り、氷河の成立条件は、涵養域があること、つまり真夏でも降雪があり、氷が蓄積される領域があること、だったように思います。富士山頂なら、真夏でも降雪はまれにありますが、さすがの富士山でも真夏の雪は積もりません。富士山頂の8月の平均気温は6度ですが、目安としては、最暖月の月平均気温が4度というのが、真夏に雪が積もるかどうかの分かれ目とされます。つまり、富士山でも氷河ができるには、あと2度(高度で約333m)ほど高さが足りないという計算になります。まして、海抜3000mの立山では、全然高さが足りません。しかし日本の山は、世界でも有数の豪雪地帯なので、多くの雪渓があり、中には1年中雪が消えない越年雪渓もあります。それは氷河じゃないのか、というと、莫大な積雪が、夏場に溶けて溶けて溶けて、溶けきれずにとうとう夏を越し秋になり、初雪を迎えました、というのは、基本的に氷河とは呼ばないことになっています。前述のとおり、氷の涵養域がないからです。で、問題の御前沢カールの雪渓も、氷の涵養域はありません。ただ、莫大な残雪が溶けきらずに夏を超える間に、どうやら氷化した雪が上から下に流れている、らしいと。確かに、氷が流れていれば氷「河」に違いないのかも知れませんが、どうもそれを氷河と呼ぶのは釈然としません。なお、御前沢カールは、写真で一目瞭然ですが、典型的な氷食地形であり、最終氷期に氷河があったことは間違いありません。
2010.10.18
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昨日は、キラ・ウィルカの練習でした。最近、新しいギター奏者が加わったので、昨日の練習では私はギター半分、あとの半分は、久しぶりに笛を吹きました。人間というのはわがままなもので、ギターばかり弾いていると笛が吹きたくなり、笛ばかり吹いているとギターが弾きたくなるので、両方を交互に演奏しているのが一番楽しかったりして。さて、キラ・ウィルカのケーナ一枚看板のいとうさんは、多分日本で有数の「太物ケーナ愛好家」です。私のケーナも、現在常用しているものはそんなに細い部類ではない(前に使っていたケーナは、やや細い部類だったと思いますが)はずですが、いとうさんのケーナとは比較になりません。写真上が私のケーナ、下二本がいとうさんのケーナ。(一番下は黒檀製)こうやって横から眺めると、「ちょっと太い」くらいにしか見えないかも知れませんが、上から見るとかなり違うことが分かります。左が私が前に常用していたケーナ、真ん中は現在常用しているケーナ、そして右がいとうさんのケーナです。外径は私のケーナよりかなり太いのに、内径はひょっとしたら私のケーナより小さいかも。肉厚がほとんど2倍近くありそうです。左がいとうさんの黒檀のケーナ、左が私のケーナです。昔、ワーグナーがフルートを毛嫌いして、オーケストラの中でフルートを名指しで「そこの大砲をどけろ」と言ったそうですが、この、黒い肉厚ケーナも充分に「大砲」みたいに見えます。これだけ肉厚が厚いと、唇をどこに置いたらいいのか迷います。だから簡単に音が出ません。ただ、音の出るポイントさえ分かれば、意外にそれほど音が出しにくくはありませんでした。パワーは必要ですけれどね。太さの割には指穴が小さいので、指の細い私でも、何とかなります。ただ、いとうさんは自称「爆音系」ケーナ奏者で、ものすごく音量が出ますが、私が吹いても、そこまで音量は出ません。ちなみに、いとうさんは体格はまったく「太物」ではなく、私より細いくらいです。(関係ないか)では私のケーナといとうさんのケーナで音はどれくらい違うのかというと・・・・・・・・http://www.youtube.com/watch?v=6HpanPiRrdo主旋律はいとうさん、副旋律はinti-solです。(イントロ部分はケナーチョ)http://www.youtube.com/watch?v=VNsaX13IFpEこちらも主旋律はいとうさん、副旋律はinti-solです(私は一瞬しかケーナを吹いていませんけれど)。余談ですが、練習風景はこんな感じです。大人5人に子ども3人。子どもたちは、大人たちそっちのけで、勝手に遊んでいます。彼らが騒ぎ始めると、ケーナの音よりでかい声を出します^^でも、子どもを連れて練習に行っているおかげで、私が音楽にうつつを抜かせば抜かすほど、我が家は平和になるという寸法です。私がいつも一人で練習に行っていたら、どこかで相棒の怒りが炸裂していたでしょうからね。でも、子どもというのは正直なもので、他のメンバーが何かの事情で子どもを連れて来ないとなると、絶対に付いてこないのです。おとーちゃんたちの練習をただ眺めているだけじゃ、面白くないんですね。当たり前か。2歳の時からずっと練習に連れ歩いていますが、彼らが我々の練習に付き合ってくれるのは、あと・・・・・・3年か4年でしょうか。その頃には、私が一人で練習に行っても、相棒に文句を言われることはないでしょう。
2010.10.17
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101015-00001358-yom-soci富士山南側の永久凍土が消滅…温暖化で富士山の南斜面から地表近くの永久凍土が消滅したとみられることが、静岡大の増沢武弘教授(植物生態学)らの調査でわかった。16~17日に開かれる富士学会で発表する。静岡大と国立極地研究所(藤井理行所長)は共同で1976年から、南斜面の標高2500メートル以上の約100か所で測定した地中温度を分析し、永久凍土の分布状況を推測している。増沢教授によると、地下約50センチで永久凍土が存在する下限は、76年に3200メートル付近だった。98年は3300メートル付近に上昇し、2008~10年の調査で初めて下限が確認できなかった。気象庁によると、富士山頂の年平均気温は、76年が氷点下7・2度で、09年が氷点下5・9度に上昇している。また、標高2500メートル付近が生育上限とされていたイネ科のイワノガリヤスが山頂付近で自生しているのが確認されたという。増沢教授は「(南斜面からの永久凍土消滅は)地球温暖化の影響以外に考えられない。富士山の植生が大きく変化する可能性がある」と話している。--------------------高度が100m上がると気温は平均0.6度下がるとされています。1976年に高度3200mにあった永久凍土が現在は消滅したということは、永久凍土の高度が500m以上上昇したということです。気温に換算すれば、3度以上ということになります。温暖化の影響をもっとも強く受けるのは、このような極限地域の自然だと思われます。日本では、おそらく高山帯の植生がもっとも強く影響を受けるでしょう。永久凍土とは、地中が2年以上連続して凍結している状態を指します。もっと分かりやすく言えば、真夏でも土が凍っている状態ということです。真冬だけ土が凍るなら、東京あたりでも見られる現象(霜柱)ですが、それも、私が子どもの頃(1970年代)と比べると霜柱を見る機会が大幅に減ったように思います。世界的に見ると、永久凍土は北半球の北部に広がっていますが、特に大規模で分厚いのはシベリア東部です。ヤクーツク付近では、永久凍土の深さが、なんと500m以上にも及んでいるとされます。永久凍土というと、いかにも寒々しくて不毛なイメージがあるかも知れません。確かに寒々しいのは事実ですが、決して不毛ではありません。それどころか、永久凍土の存在は、世界の自然にとって非常に重要な意味を持っています。世界最大規模の森林はどこにあるかご存じでしょうか。日本の森林面積は約25万平方キロ、国土面積に占める森林の割合から言えば、世界有数の森林国ではありますが、何しろ国土面積が小さいですから、世界全体の中では微々たる割合しか占めていません。大アマゾンを抱えるブラジルは、森林面積543万平方キロ、日本の20倍以上ですがそれでも世界一ではありません。世界最大の森林国は、森林面積851万平方キロのロシアです。ただし、森林の割合は、44%なので日本やブラジルよりはかなり低いですけれど(それでも、米国・カナダ・ヨーロッパよりロシアの森林割合は高い)。ロシアの大森林の中心は、シベリアのタイガ(北方針葉樹林)です。おおむね、西シベリアではモミとトウヒの常緑針葉樹、東シベリアではカラマツの仲間の落葉針葉樹が中心になっています。これらの広大な北方針葉樹林、特に東シベリアの落葉針葉樹林は、永久凍土がなかったら存続できないのです。東シベリアは、きわめて降水量の少ない地域です。前述のヤクーツクの年間降水量は238mmしかありません。その北東のベルホヤンスクは、更に少ない173mm。少し南に下がったチタは少し多くて338mm。東京の降水量は1466mmはもちろん、日本では降水量が最も少ない北海道の網走801mmや、瀬戸内海の岡山県玉野の1021mmと比べても、どれだけ少ないか分かります。それどころか、乾燥地帯というイメージのある西アジアの、テヘラン242mm、カラチ222mm、カブール312mm、バグダッド122mmという降水量と比較しても、あまり変わらない。そんな砂漠並の降水量しかない東シベリアには砂漠はなく、広大な森林が広がっています。雨がほとんど降らないのに、どうしてそんなことが可能かというと、雨は少ないものの、そのごく少ない雨が地中深く浸透することがなく、常に植物が根を張る地表付近に滞留しているからです。じゃあ、何故降った雨が地中深くに浸透していかないかというと、地中に不透層つまり水を通さない地層があるからです。水を通さない地層とは、すなわち永久凍土のことです。当たり前の話ですが、氷は水を通しません。というわけで、もしも温暖化によって永久凍土が消えると、この地域はとても森林が維持できるような降水量がありませんから、広大な森林が姿を消し、草原か、下手をすると砂漠に姿を変えることになってしまうのです。世界最大の森林がすがたを消すことの影響は、相当大きなものがあるはずです。日本の気候だって激変するかも知れません。また、シベリアは大森林地帯であるとともに、湿地帯でもあります。特に、西シベリアは湿地が多い。西シベリアは、かつて湖の下だったため東シベリアほどには永久凍土が厚く発達していないのですが、湿地が非常に多いのです。湿地では枯死した植物は水中に没し、そのまま完全には分解されず積み重なり、泥炭になります。特に寒冷地では微生物の働きが弱いので、この傾向が著しい。日本でも、釧路湿原や尾瀬に泥炭層が発達しています。寒冷地で分解されないまま積み重なった泥炭層には、大量のメタンが含まれています。メタン層の生成条件は高圧と低温だからです。メタンは、要するに都市ガスと同じ(ただし、都市ガスはガス漏れが分かるようにわざと臭いが付けてある)ですから、常温常圧では気体です。しかし、永久凍土中では、低温と高圧のためメタンハイドレートと呼ばれる半固体となっています。永久凍土が溶けると、凍土中に蓄積されているメタンガスが大気中に放出されます。メタンそのものは無臭無毒ですけれど、問題は、二酸化酸素より遙かに温室効果が大きいことです。メタンが大気中に大量に放出されると、地球温暖化が更に加速される可能性があるわけです。温暖化が永久凍土の溶解を招き、永久凍土の溶解がメタンの放出を招き、メタンの放出がさらなる温暖化を招き、さらなる温暖化がさらなる永久凍土の・・・・・・。このような悪循環(フィードバック)に陥れば、温暖化がどんどん加速していく一方になってしまいます。たかが永久凍土では済まない大問題です。
2010.10.16
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http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20101013-OYT1T01041.htm尖閣の中国名表示削除を…グーグルに自民要請自民党は13日、検索最大手の「グーグル」に対し、同社の地図サービス「グーグルマップ」で、尖閣諸島の表記に併記されている中国名を削除するよう申し入れた。グーグルマップ上では、尖閣諸島と同諸島の魚釣島について、それぞれ中国名の「釣魚群島」「釣魚島」が併記されている。同社の日本法人を訪れた小野寺五典「影の内閣」外務担当は「中国と領有権問題が存在する領域であるかのごとき表記で誤りだ」として、日本語表記のみにするよう求めた。グーグル日本法人は「米本社に伝える。しかるべき時期に返答したい」と述べた。-----------------http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101015k0000m040054000c.html外務省:グーグル日本法人に中国側呼称の削除要請外務省は14日、米インターネット検索大手グーグルの地図検索サービス「グーグルマップ」で沖縄県・尖閣諸島と魚釣島の中国側呼称が併記されていることについて、グーグル日本法人に中国側呼称を削除するよう申し入れた。外務省によると、同省の担当者が14日午後、グーグル日本法人の担当者に電話し、日本の立場を説明したうえで削除を要請した。日本法人担当者は「承った」と答えたという。同マップでは「尖閣諸島」の横に「釣魚群島」、「魚釣島」の横に「釣魚島」と中国側呼称が記されている。自民党は既に、13日に同社側に訂正を申し入れている。-----------------マルビナス諸島という島をご存じでしょうか。南大西洋のアルゼンチン沖にあるイギリス領の島で、英語名ではフォークランドと言います。アルゼンチンが自国領と主張しており、1982年にはアルゼンチン軍が侵攻してフォークランド戦争(マルビナス戦争)が起こっています。アルゼンチン軍は敗北し、この島は今でもイギリス領ですけれど、日本の地図帳は全てこの島の名前をフォークランド(マルビナス)諸島と表記しています。地図製作会社が、アルゼンチン側の主張が正当であると認めているわけではないでしょうが、地名は両論併記になっています。領有権を巡って対立する二つの国が同じ島に別々の名前付けているんだから、中立的な立場から、その二つの名前を併記する地図が現れるのは当然です。尖閣諸島だって同じことでしょう。政府は、尖閣諸島に領土問題はない、という公式見解を掲げています。現在野党の自民党も同じ主張を掲げています。政府としては、そう言い続けるしかないというのは分かります。私も、尖閣諸島は日本の領土だと思っているし、政府の公式見解を撤回しろと言うつもりはありません。でも、政府の公式見解が日本中の全てを縛ることなどできません。政府の公式見解がどうあろうと、これは領土問題に決まっているのです。誰だって、そう思っているでしょう。何しろ、あの極右機関紙産経新聞でさえ、尖閣諸島を巡る事件の記事は、「領土問題」というカテゴリーに入れているのですから。というわけで、米国の会社であるグーグルが、中立的な立場から二つの名を併記するのは仕方がないことですし、それを非難しても始まらないと私は思います。
2010.10.14
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チリの鉱山救出大作戦、今日の毎日新聞夕刊は一面トップの大見出しです。かつて、チリがこれほどニュースの中心になったことがあるでしょうか。ピノチェトのクーデターの時だって、当時の日本ではそこまで大ニュースとしては扱われなかったと思います。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101013-00000016-cnn-intボリビア人作業員含む7人を救出 チリ鉱山チリ北部コピアポ近郊のサンホセ鉱山では、落盤事故で地下に閉じ込められていた作業員33人の救出作業が順調に進んでいる。現地時間13日早朝(日本時間同日午後)までに、唯一のボリビア人作業員を含む6人が、救出用カプセル「フェニックス」で無事地上に帰還した。ボリビア人のカルロス・ママニさん(23)は4番手として、カプセルから地上に降り立った。現場で待ち受けた一群のボリビア国旗に迎えられ、69日ぶりに触れる地面にひざまずいて、Tシャツに描かれたチリ国旗風のデザインを指し示した。故郷ボリビアではテレビの前にくぎ付けとなっていた家族らが立ち上がり、手をたたいて喜び合った。ママニさんはピニェラ大統領と抱擁を交わした後、健康診断のため担架で運ばれた。一方、2番手のマリオ・セプルベダさん(40)は健康診断後、家族との再会を果たした。救出チームの仕事ぶりをたたえる一方、チリの労働条件について「従来通りではいけない。多くの変革が必要だ」と訴えた。5番目に救出されたのは最年少のジミー・サンチェスさん(18)。母親の手料理が恋しいと話していた。1カ月前に誕生した娘とはまだ対面していない。また、6番目にオスマン・アラヤさん(30)が救出された。アラヤさんは4児の父。7番目に救出されたホセ・オヘダさんは糖尿病を患っている。救出作業は夜明けから日中を通して続く見通し。最初の5人には体力や技術的ノウハウのある作業員が選ばれたのに対し、続く5人は糖尿病や肺疾患など、健康に不安のあるグループとなる。最後の33人目には、当直長のルイス・アルベルト・イリバレンさん(54)が立候補している。----------------------33人の中にボリビア人が入っていることは知りませんでした。チリとボリビアというのは、領土問題があってあまり仲が良くありません。というか、すごく仲が悪いと言った方が正しい。何しろ正式の国交がありません。(もっとも、実際には大使館がないだけで、領事館はあり、両国の間を定期便の飛行機も飛んでいます)ボリビアとチリの関係は、多分日韓関係と似たところがあります。ボリビアは、今から130年前に起こったペルー・ボリビア連合対チリの「太平洋戦争」に敗れて以来今に至るまで、ずっと「海を返せ」と主張し続け、内陸国なのに「海軍」を設けています。だいたいにおいて、ボリビア人が一番嫌いな国はチリと相場が決まっています。もちろん、アンケート調査をやったわけじゃないですけれどね。ま、どこの国でも、領土問題の遺恨は尾を引くものです。数年前に、ボリビアの民族楽器チャランゴを巡って、ボリビアのナショナリズムが噴出する騒動もありました(※)。でも、その一方で、多くのボリビア人がチリ(だけに限りませんけれど)に出稼ぎに行っていることもまた事実です。今回救出されたこの人は、名前から見て明らかに先住民(おそらくアイマラ族)です。今のペルーやボリビアで、堂々と先住民系の名字を名乗っている人はそう多くはありません。ボリビア大統領エボ・モラレスもケチュア族の生まれですが、その名字はスペイン系です。先住民系の名字でも、それをスペイン風に変えて名乗っている例もあります。(キスペ→キスベルトなど)結局は、こういう事故で犠牲になるのは貧しい人たちばかり、と言うことになってしまうんだということを痛感しますね。幸いなことに、今回は「犠牲」にならずに済みましたけど。ついでにもう一つ。http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101013-OYT1T01098.htm生還、待ち構える商戦…映画化・独占会見…生還を果たしたサンホセ鉱山の作業員たちを待ちかまえているのは英雄物語の映画化? 有名人への道? それとも――。「地下からの生還」を巡って、映画化の話が持ち上がるなど、早くも“地上戦”が始まっている。英国のメディアなどによると、今回の救出劇に関して、独占インタビューの依頼のほか、「映画にしたい」という申し出が殺到しているという。世界中の人々がひきつけられた「奇跡の生還」は映画の題材にはうってつけ。しかし、閉じこめられた作業員の一人ヨニー・バリオスさん(50)は、地上へ送った手紙で、「今のところ申し出を受けるつもりはない」とした上で、作業員らの体験をまとめた本を出版する意向を示している。作業員33人のうち27人はこれまでに、地上の弁護士を通じて、サンホセ鉱山の経営会社を相手取り、損害賠償を求める訴えも起こしている。彼らは財団を作り、得られる様々な収益を共有する考えだとも報じられている。----------------------世間がこういう出来事に感動するのは当然として、忘れ去るのも早いです。この記事を見た瞬間、思い出してしまったのは、硫黄島を巡る攻防を描いたクリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」。硫黄島の攻防の焦点となったすり鉢山の戦いで、山頂に星条旗を掲げた6人の海兵隊員たちは、一躍スターになったのですが、忘れ去られるのも早くて、いずれもその後の人生はあまり恵まれたものではなかったようです。特に、先住民出身の兵士アイラ・ヘイズの最後は悲惨でした。今回救出された鉱夫たちも、その多くはまだまだ若く、これから長い人生が続くはずです。せめて今後の人生は幸あれ、と願いたいところです。※ボリビア対チリのチャランゴ騒動2006年、アイルランドのロックグループU2がチリ公演を行った際に、当時のチリ大統領リカルド・ラゴスが彼らを大統領官邸に招待してチャランゴをプレゼントするという出来事がありました。そのことが報じられたとたんに、ボリビアのマスコミが大騒ぎになりました。チャランゴはボリビアの民族楽器である、それを、チリの大統領が、自国の民族楽器であるかのようにして、外国のスーパースターに贈呈するとはけしからぬ、というわけです。その直後にリカルド・ラゴスは大統領を退任し、後任のミシェル・バチェレの就任式にボリビア大統領エボ・モラレスが参列しました。その際、一連の騒動を踏まえて、彼はチャランゴを持参してバチェレにプレゼントして見せたのです。ただ、彼は騒動を大きくするつもりはなかったので、非公式の場で特に何も説明せずに、サッと渡してしまいした。そうしたら、ボリビアのマスコミがまたまた怒った。「何故きちんと抗議しない」「チリに対して弱腰だ」というのです。まるでどこかの国で聞いたことがあるようなお話。(詳細はこちらを参照ください)
2010.10.13
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http://mainichi.jp/enta/shougi/news/20101012dde041040088000c.html将棋:コンピューターソフト、女流王将破る 開発35年、進歩示す四つのコンピューター将棋ソフトを組み合わせたシステム「あから2010」と清水市代女流王将(41)の特別対局が11日、東京都文京区の東京大工学部で行われ、「あから」が勝った。将棋ソフトが女流将棋界の第一人者を破り、その進歩を改めて示した。情報処理学会が日本将棋連盟にもちかけて実現。「あから」は仏教用語で10の224乗のことで、将棋で可能な全局面数に近いという。将棋ソフト「激指」「GPS将棋」「ボナンザ」「YSS」が多数決で指し手を決めるシステムだ。持ち時間は各3時間。「あから」は角交換を誘って振り飛車にした。清水女流王将が途中で疑問手を指してしまい、86手で「あから」が勝利を収めた。(以下略)-------------------私は将棋は全然ダメな人間ですが、弟がかなり将棋が強いので、この話は注目していました。どうも中盤までは清水市代が優勢だったようですが、持ち時間を使い果たして逆転されてしまったようです。将棋の世界では女流と男性棋士の実力差は非常に大きいそうなので、そこから考えると、現段階では男性のトッププロ(羽生善治とか)とはまだ実力差がありそうです。もっとも、コンピューター将棋は急激に進歩しているのに対して、人間の能力は、そう変わりませんから、5年後はどうだか分かりませんけれどね。すでにチェスの世界では1997年に世界チャンピオンがコンピュータに負け、今では人間はコンピュータにまったく歯が立たないようです。逆に囲碁はまだコンピュータと人間に相当の実力差があるようです。ところで、最近は、コンピュータ(というよりロボット)が音楽も奏でます。たとえばバイオリンhttp://www.youtube.com/watch?v=EzjkBwZtxp4そしてフルートhttp://www.youtube.com/watch?v=jx8U1FgILCEフルートの方は、ひょっとしたら以前に紹介したことがあったかも知れません。(そんな気がするのですが、過去の記事を発見できません)ま、一見して、生身の音楽家とは、まだかなり実力差があるかなと思いました。バイオリンの方は、よく見ると指でビブラートをかけていて、なかなか芸が細かい。でも、ハイポジションをまったく使っていないんですね。多分、手の位置を滑らせると、楽器を保持できないんだろうなと思います。人型の外観を諦めて、ロボットではなく「演奏装置」なら、もっと演奏能力のあるものが作れそうです。(多分、すでにあるんじゃないかと思います。ピアノやギターなら演奏装置があったはずですから)一方フルートの方は・・・・・・・指回りは凄い、こんな難曲を苦もなくすらすらと吹いている、さすがに機械の力恐るべし、です。でも、演奏をトータルで見ると、人間の鑑賞に耐えるレベルではない。ビブラートがかかっていないし、タンギングもない、音もスカスカとあまり美しい音色ではなく、キータッチのカタカタ音がやたらと大きい。というわけで、演奏に関しては、まだまだロボットたちは人間の足下にも及ばない状況みたいです。ただ、本物の楽器ではなくMIDI音源によるシンセサイザーでは、本物の楽器そっくりの音を出すことは出来ますけれど。
2010.10.12
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http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101010-OYT1T00413.htm軍事禁区「認識なかった」解放の高橋さん帰国中国河北省石家荘市で、軍事管理区域に立ち入り違法な撮影を行ったとして、中国国家安全局に拘束されていた中堅ゼネコン「フジタ」の現地法人「藤田中国建設工程有限公司」(上海)社員、高橋定(さだむ)さん(57)が10日、帰国し、東京都内のフジタ本社内で記者会見した。高橋さんは解放から一夜明けた同日午後0時30分頃、上海からの中国機で羽田空港に到着。家族と同社で再会した。会見で高橋さんは「日本国民の皆様にご心配をおかけして、おわび申し上げます」と切り出し、「日本に帰って、大変うれしく思っている」と話した。自らが撮影していたビデオを中国当局の取り調べ中に見せられたところ、「軍事禁区」であることを示す看板が録画され、同行していた現地法人の中国人社員が、軍事禁区であることを指摘する音声も録音されていたという。高橋さんは「軍事禁区という意識で撮影はしていない。(中国人社員の声は)認識していなかった」と説明した。--------------------ビデオ撮影に夢中になって中国人社員の警告が耳に入らなかった、という意味では不幸な偶然です。ただ、日本ではない以上は、この種のことには常に留意していなければならないのは当然のことです。日本では自衛隊や在日米軍基地は厳重な鉄条網で囲まれていますが、世界にはそうではない国だってたくさんあります。以前に、どこかの中小企業の社長が米国行きの飛行機の中で「爆弾をもっている」と冗談を言って逮捕される騒ぎが起こったことがあります。(しかし、あれはいつのことかと思って検索したら、実はこの種の騒ぎは世界中で起こっていて、あちこちで逮捕者が出ているようで、特定できませんでした。中国でも起こっています)そのくらいいいじゃないか、などという言い訳は、日本では通用しても外国では通用しません。なんてことは、別に私が書かなくても、現地に何年も住んでいたであろう駐在員の方は当然知っていただろうと思うのですが、魔が差したんでしょうかね。以前にも書いたことがあるかも知れませんが、私は21年前に南米に行ったとき、ペルーのリマに着いたとたんに、いきなりペルーの公安警察がホテルにやってきたことがあります。さすがに部屋にまで踏み込まれたわけではありませんけれど(だから、多分具体的な容疑があったわけではないと思います)、フロントから呼び出されて言ってみると、「要注意人物台帳」みたいな分厚い台帳をもった刑事が2人いて、私からパスポートを奪い取ると、一生懸命台帳と照合しています。結局は何事もなく、パスポートは返されて、2人の刑事は帰っていったのですが、当時まだ21才、スペイン語もまだろくに話せない頃でしたから、もしこのまま捕まったらどうしようと、非常に不安でしたし、その後ペルーに滞在している間、頭の片隅にちょっと引っかかっていて、ボリビアに出国したとき、何となくホッとしたようなことを覚えています。当時、ペルーはアラン・ガルシアの前回政権の末期で、国内は騒乱状態、センデロ・ルミノソのテロも激しく、インフレもものすごい状態でした。で、ボリビアの次に行ったのが、当時まだ軍政下のチリです。チリはペルー・ボリビアと国境を巡る対立があります。以前の記事で、チリの北端アリカから首都サンティアゴまで1600kmバスの旅をしたことを書きましたが、この間、アントファガスタの少し南あたりだったと思いますが、2回か3回軍の検問所を通過しています。そのたびに乗客はバスから降りて身分証のチェック(私はパスポートチェック)があるんです。荷物検査があったかどうかは記憶がないですけれど。何しろ、「あの」チリの軍隊(多分カラビネーロス=治安警察軍だと思いますが)ですからね、ただただ黙って指示に従うしかありません。民政移管された今もそんなことをやっているかどうかは知りませんが、多分やっているだろうと想像しています。そんなこんなで、外国では日本の常識、日本の行動パターンは通用しない、ということをそのとき痛感したのです。南米だって中国だってそれは同じことでしょう。逆パターンもありまして、ボリビアでは未精製のコカの葉(コカインの原料)は合法です。普通にお茶にして飲みますし、鉱山労働者は日常的に葉を噛みながら仕事をしています。それがボリビアの「常識」ですが、そのままコカの葉を日本に持ち込むと、逮捕されることになります。
2010.10.11
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mixiで、あるマイミクさんが非常に良いことを書いていたので、この問題について考えてみました。私は、尖閣諸島は日本の領土であると思っています。(以前の記事に書いたとおり)その根拠は、1895年に日本が領有して以降90年(沖縄自体が米国の統治下にあった1945-70年を除き)に渡って日本が実効支配し続けていること、1970年までの75年間は中国(清朝→中華民国→中華人民共和国)もそれに対して異を唱えていないことによります。「無主地先占」と言って、誰も住んでいない、どこの国の領土でもなかった地域を先に実効支配することは、国際法上認められた領土獲得の正当な根拠となります。従って、当時どこの国にも属していなかった尖閣諸島を日本が領有し実効支配を行えば、日本の正当な領土となるのです。ちなみに、現在では、「もはや無主地は存在しない」ということになっているので、これから新たに無主地を先占して領有宣言ということはできません。(南極については、南極条約によって各国の領有権の主張が凍結されています)もっとも、1895年当時、日本は尖閣諸島の編入を非公式の閣議で決定し、この事実を外国に対しては特に伝えていなかったようです。だから、中国側は、日本が尖閣諸島を領有した(と主張した)事実に、リアルタイムでは気がつかなかったでしょう。しかし、その後日本側は鰹節製造やアホウドリの羽毛採取のため入植を開始しており、最盛期には200人が住んでいましたから、数年以内には日本の「領有」の事実を知ったはずです。1919年に、遭難した中国の漁民が尖閣諸島に漂着し、日本側に救助されるというできごとがありました。翌1920年に、この件について中国(中華民国)の駐長崎領事から、救助関係者への感謝状が出されていますが、そこにははっきりと「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と書かれています。つまり、1920年の時点では、ここが日本の領土であることを中国側は認識しており、かつそれに異議を唱えていなかったことがわかります。1920年と言えば、その前年に五四運動が起こったばかりですが、日本の侵略に反対するこの運動の中で、「尖閣諸島を返せ」という主張は出てきたことがありません。1930年代、日中戦争当時も、蒋介石や毛沢東らが尖閣諸島について対外的に何か主張したという事実は知られていません。無主地先占の法理には批判もあります。帝国主義の時代に欧米列強がこの法理を振りかざして多くの地域を植民地化した事実があるからです。無主地先占の法理は植民地主義正当化のための理屈に過ぎないではないか、ということです。その批判は、まったく正しいけれども、尖閣諸島問題については的はずれだと言うしかありません。なぜなら、ここは無人島だったからです。1975年、北アフリカの西サハラをモロッコが侵略した事件(西サハラ問題)に関連して、国際司法裁判所より以下のような勧告的意見が出ています。スペインが西サハラを植民地化した時である、スペインが西サハラに保護関係を宣言した1884年の時期の国家慣行では、社会的・政治的組織を持った地域は無主の地とはみなされておらず、それらの地域の取得は「原始的権原による無主地の先占」ではなく、地域の首長との合意によるものである。」(1975・10・16勧告的意見)つまり、「社会的・政治的組織を持った地域」を「無主地」だと称して植民地化を正当化する論理は、1884年の時点ですでに無効だった、ということです。しかし、「原始的権原による無主地の先占」という法理がが当時認められていたことは、この判決でも認められています。つまり、「社会的・政治的組織」のある地域を無主地というのは通らないということであって、それがない地域は無主の地と見なされた、ということになります。無人の地域に社会的・政治的組織などあるわけがありません。ちなみに、1895年以前から、尖閣諸島は中国が実効支配していたというのが中国側の言い分ですが、それは無理というものです。確かに中国(清朝)が尖閣諸島の存在を知っていたことは事実ですが、日本側(最初は琉球王国)も知っていました。単に知っていて地図に載せていたと言うだけでは、領有していたということにはなりません。はっきり言ってしまえば、こんな絶海の孤島の無人島は、当時日本(琉球)にとっても中国(清朝)にとっても、航海の目印という以外はどうでも良い存在に過ぎなかったわけです。----さて、そういうわけで、私は尖閣諸島は当然に日本の領土だと思っているわけですが、ただし、「尖閣諸島は日本固有の領土」と言われてしまうと、ちょっとどうかと思ってしまうのです。領土とか国境線などというものは、時代によっていくらでも動くものです。だから、はっきり言ってしまえば「××国の固有の領土」なんてものはないと、私はそう思っています。歴史的経緯から考えれば、東プロイセンはドイツの「固有の領土」であるはずです。しかし今東プロイセンはドイツ領ではないし、ドイツは返還要求も掲げていません。同じく、テキサスやカリフォルニアも、歴史的経緯を考えればメキシコの「固有の領土」であるはずです。日本の歴史はいったいどのくらいの長さでしょうか。皇紀2670年とかいう政治的おとぎ話はともかく、邪馬台国あたりから数えても、1700年以上の歴史があります。その中で、日本が尖閣諸島を支配したのはたかが最近100年、しかも、その大半の期間は無人島でした。もちろん、たかが100年でも正当な領土であることに疑問の余地はないし、中国が支配したのは0年ですから比較になりません。でも、これで「固有の」なんて言葉を掲げるのは過剰表現に過ぎるように思います。そもそも、日本の「固有の領土」と言えるのは、東北南部以西の本州と四国、九州だけでしょう。東北北部(現在の岩手・秋田・青森)は11世紀頃まで、北海道は17世紀頃まで「蝦夷」であって、日本には服属していませんでした。沖縄はもともと琉球王朝という日本とは別の国であり、実質的には1609年に薩摩に征服されていますが、名目的には半属国状態で幕末まで一応独立国の体裁をとっています。今後だって、領土が動く可能性はゼロではありません。前述の東プロイセンやカリフォルニア・テキサスは戦争によって奪われた土地ですし、琉球や蝦夷だって、軍事的な侵略によって征服された土地です。しかし、かつて戦争で奪った土地であっても、今となっては正当な領土と見なされるのが国際社会の現実です。しかし、現在これから他国の領土を侵略して奪い取る、という行為は国際社会から認められないので、そのようにして奪った土地も領土として公認されません。その意味では、かつてより国境線が動く可能性は減少していますけれど、平和的な合意によって、ある地域をある国が別の国に譲ることはあり得ますし、ある地域が分離独立することもあり得るでしょう。たとえば、沖縄が住民の総意によって日本から独立するということは、(現実の可能性としてはきわめて低いですが、理論的には)あり得ないことではありません。中国側も、尖閣諸島は中国固有の領土だなどと言っているようですが、これも同様です。歴史上ただの一度も実効支配したことのない無人島を「固有の領土」と言ってしまうのは滑稽ですし、だいたい中国4000年の歴史の中で過去に領土だった地域と現在の領土と、全然一致していないのに、「固有の領土」などという用語を振りかざしたって仕方がないでしょう。歴史的に見れば、チベットやウイグルは全然中国固有の領土ではないし、逆に沿海州やモンゴル(外蒙)、ベトナムが中国の領土だった時代もあるわけです。尖閣諸島は100年前から日本が実効支配しているから日本の領土、ごく単純に言ってしまえば、それだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもありません。だから、「固有の領土」というのもまた、ナショナリズム的硬直思考の一種ではないかと私は思ってしまうのです。
2010.10.10
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http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20101007-OYT1T01098.htmノーベル文学賞にペルーのバルガス・リョサ氏スウェーデン・アカデミーは7日、2010年のノーベル文学賞を、スペイン語圏を代表するペルー出身の作家、マリオ・バルガス・リョサ氏(74)に授与すると発表した。「権力の構造を地図を作るようにして浮き彫りにし、個人の抵抗と反逆、敗北のイメージを鋭く描いた」のが授賞理由。賞金は1000万スウェーデン・クローナ。授賞式は12月10日にストックホルムで行われる。リョサ氏は1936年ペルーのアレキパ生まれ。リマのサンマルコス大学で文学を専攻。マドリード・コンプルテンセ大学院で博士号を取得した後、パリで仏AFP通信の記者や語学教師として働いた。63年、士官学校での自分の体験をもとにした小説「都会と犬ども」を発表。軍の将校らが焼却処分するなどして反発し、国際的に話題を呼んだ。66年の長編「緑の家」は、アマゾンの密林などを舞台に娼婦や先住民、軍、僧院の物語を同時進行で描き、代表作となった。74年にペルーに帰国。76年から79年にかけて国際ペン協会会長。87年には、銀行国有化を進める当時のガルシア政権に対し、「祖国が共産主義に侵される」として反対。90年には右派連合「民主戦線」から大統領選に出馬したが、日系のアルベルト・フジモリ氏に決選投票で敗れた。92~95年には読売新聞の「地球を読む」の執筆陣にも加わった。-------------------マリオ・バルガス・リョサという小説家を(政治的立ち位置という意味で)一言で説明すれば「ペルーの石原慎太郎」です。ごく若い頃には左翼、すぐに右翼に転じ、小説家として名を成し、その知名度を武器に、「右翼界のスター」として政界に打って出たけれど、結局国のトップにはなれませんでした、と書けば、この2人の経歴をおおむね説明できます。石原慎太郎ほどには国家主義的イメージを前面に出してはいませんが、ガチガチの新自由主義者です。石原は筋金入り反中国主義者、バルガス・リョサは筋金入り反キューバ(反カストロ)主義者。違いを言えば、石原慎太郎は今でも日本で政治家として頑張っているけれど、マリオ・バルガス・リョサは1990年大統領選でフジモリに敗れると、ペルーを離れてスペインに移住し、スペイン国籍を取得してしまった。Wikipediaの「マリオ・バルガス・リョサ」の項目に、国籍が「ペルー」となっていますが、これは正確ではありません。正しくはスペインとペルーの二重国籍です(スペイン語版と英語版の記事ではそうなっています)。本人はすっかりスペイン人になったつもりのようです。ま、彼のライバルとなったフジモリは、最後は日本で参議院選に出馬していますから、それに比べればたいしたことはないかも知れませんけれど。ちなみに、1990年の選挙で勝ったのはフジモリでしたけれど、彼は政権に就いたとたんに選挙中の主張を全部反古にして、対立候補マリオ・バルガス・リョサの主張を丸呑みして新自由主義政策を実行しました。そういう意味では、私はこの人の政治的立ち位置にはあまり好感を抱くことが出来ません。で、肝心の著作の中身は、実は読んだことがないのです。代表作の一つ、「都会と犬ども」は確か映画化されたのではなかったかと思います。どこかで見た記憶があります。ただ、詳細な記憶がありません。私はノーベル文学賞という賞にあまり高い期待を抱いてはいませんが、最も高く評価されるべきと思っているラテンアメリカの文学者はチリ出身(現在米国在住)のイサベル・アジェンデですね。多分、いつかはノーベル文学賞を取るでしょう。
2010.10.07
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101005-00000119-jij-pol日本側、首脳会談に中国語通訳不在=「危機管理上大問題」自民追及へ外務省の北野充アジア大洋州局審議官は5日の自民党の外交部会で、ブリュッセルで行われたアジア欧州会議(ASEM)首脳会議に中国語通訳が同行せず、菅直人首相と中国の温家宝首相の会談が、英語の通訳を交えて行われたことを明らかにした。同党は「政権の危機管理が問われる大問題だ」(小泉進次郎衆院議員)として、国会で政府を追及する方針だ。4日の会談では、菅首相の発言を日本側通訳が英訳し、中国側がそれを中国語に訳した。一方、温首相の発言は、中国側の通訳が日本語に訳して菅首相に伝えた。日本政府は、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で悪化した中国との関係修復の糸口を探るため、ASEMの機会を利用した首脳会談を模索していた。北野氏は中国語通訳を同行させなかった理由について「(首脳会談は)日本側からお願いしたわけではない。実現することが分かっていれば準備するが、そういう状況ではなかった」と、会談が想定外だったことを説明した。-----------------自民党は現在野党のはずですが、外務省の高官が自民党の会議に出向いて、こういう内幕を公開するというのは、それこそ「危機管理上」どうなのかと私は思います。民主党が野党の時代に、外務省はこうやって民主党の会議で重要国際会議の内幕を公開したのでしょうか、あるいは公明党、共産党、みんなの党などその他の野党の会議にもこうやって出向いていってこういう話を公開しているのでしょうか。と、考えてみると、政権交代したにもかかわらず、外務省は未だに自民党の忠実なしもべなのか、と思ってしまいます。で、自民党が叫んでいるという中身ですが、こんなのたいした問題ではないでしょう。そりゃ日本語→中国語というダイレクトな通訳ができた方が、より望ましいことは確かですが、危機管理上大問題などと大騒ぎするほどのレベルの話ではありません。通訳不可能で意思の疎通が成り立たなかった、というなら確かに問題ですが、日本語と全ての言語の間で、このような国際交渉レベルの直接通訳が常に可能であるとは限りません。第三言語を介して(多くの場合は英語を介して)の通訳にならざるを得ない場面など、いくらでもあるでしょう。
2010.10.06
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http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20100928-OYT1T01046.htm世界自然遺産・知床の代表的な観光地・知床五湖(北海道斜里町)周辺の地上遊歩道への立ち入りが来春から有料化される。28日、斜里町で開かれた「知床五湖の利用のあり方協議会」の会合で、環境省と地元観光関係者らがほぼ合意した。同会合では、来春から利用者に課す手数料として、ヒグマ活動期(5~7月)には大人500円、子ども250円、植生保護期(8~10月)には大人250円、子ども100円とする案が示され、地元観光関係団体は基本的に受け入れる考えを示した。地上2~5メートルに設置された高架木道は引き続き無料とされる。知床五湖では、ヒグマに遭遇した際の危機を避けたり、植物の踏み荒らしを抑えたりするため、湖沿いの地上歩道(全長約3キロ)で、5~10月に、立ち入り人数に上限を設定、立ち入りに際してマナーやルールの説明を受けなければならない新制度を導入する。同協議会では、スタッフの人件費などの経費をまかなうための手数料の導入を検討。観光客が減ることを懸念する観光関係者らは手数料をできるだけ無料に近くするよう求めていた。------------------実は、2007年と2008年に、2年続けて知床に行ったことがあります。このうち、知床五湖には2008年に行きました。もっとも、ヒグマ出没のため、一湖と二湖までしか開放されていませんでした。周囲で知床に行ったことのある人に聞くと、三湖より先はほぼ恒常的に閉鎖されており、行けることは滅多にないようです。その前年、2007年に羅臼岳に登ったときは、下山時にヒグマとばったり鉢合わせしたことがあります。あのときは、冷や汗をかきました。何しろ、私以外に登山者がいないところで、かなり近い距離(多分、40mか50mくらい)でばったり出くわしてしまったのです。多分、ヒグマの方が、私より0.3秒くらい早く気がついたようです。「ダン」と大きな音がしたと思ったら、黒い物体がすっ飛ぶような勢いで走っていきました。次の瞬間、それがクマだと気がついたときには、もう登山道から外れて樹林帯の中に姿を消していました。あちらも必死の思いで逃げたんです。そのスピードは、常人が全力疾走するよりはるかに速いと感じました。いや、向こうが逃げてくれたので助かりましたよ。もっとも、大きさはそれほど大きくありませんでした。立ち上がったらどうか分かりませんが、四つ足では、私の腰くらいまでしかない感じでした。下山した後で、登山口の宿のひとに聞いたところによると、このあたりの登山道でうろうろしているヒグマは、若くて小さな個体で、主に登山道沿いのアリの巣でアリを食べているそうです。時々登山口の宿の近くまで降りてきて付近をうろつくことがあるらしい。翌年も、実は知床五湖の先で、乗っていたバスの目の前にヒグマが現れたことがあります。このときのヒグマは、前年の若い個体とは違って、かなりでかかった。ただし、大勢の乗ったバスの車内からヒグマを見るのと、他に誰もいない登山道で(小さくとも)ヒグマと鉢合わせするのでは、やっぱり印象度は全然違います。もっとも、知床では過去にヒグマに人が襲われたことは、一度もないそうですが。私の音楽関係の知人が、私の一週間ほど前に同じ羅臼岳に登って、やはりヒグマと鉢合わせしたことがあるそうですが(しかも、もっとも危険と言われる、子グマ連れの母グマ)、やっぱり襲われはしませんでした。数年前に問題の知床五湖で、大勢の観光客の前にヒグマが姿を現したとき、フラッシュを焚いて写真を撮る人が大勢いた、という事件があったという話を読んだことがあります。野生動物に襲われないための大原則は、無用に刺激を与えないことです。でも、居合わせた人たちにそういう知識はなかったのでしょう。それを考えると、立ち入り有料化は仕方がないだろうと思います。知床五湖の一湖(2008年)羅臼岳のヒグマ注意板(2007年)この注意板を撮ったときは、まさか本当に会うとは思わなかったのですが。羅臼岳(2007年)羅臼岳への登り(2007年)遙かなる国後島(2007年)
2010.10.05
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地球の歴史上、生息する生物種のかなりの割合が一斉に絶滅する大量絶滅と呼ばれる現象が、何度か起こっています。その中で、一般的にもっとも有名なのは、今から6500万年前、恐竜が絶滅した白亜期末の大絶滅でしょう。もちろん、それも地球史に残る大事件ではあるのですが、しかし地球史上最大の絶滅劇は、それより古い時代にありました。約2億5千万年前、古生代の二畳紀末の大量絶滅がそれです。一般に知名度のある生物としては、三葉虫がこのときに絶滅しています。また、我々人類(哺乳類)の遠い祖先に当たる「単弓類」(哺乳類型爬虫類)も、全滅はしませんでしたが、いくつかの系統を残してほとんどが絶滅しています。当時生存した生物全ての化石が見つかっているわけではないので、どのくらいの生物が絶滅したのか、確たることは言えませんが、陸上生物の7割、海洋生物では、属のレベルで8割以上、種のレベルでは95%が絶滅したと推定されています。いかにすさまじい絶滅劇だったかがわかります。二畳紀の続く三畳紀も、その終わりの時期(約2億1000万年前)に大量絶滅が起こっています。このときは、海生生物のうち、属のレベルで5割以上、種のレベルでは8割が絶滅したと推定されています。(陸生生物の絶滅率は不明ですが、それよりは低いと推測されています)。ペルム紀末よりは多少マシとはいえ、すさまじい規模の絶滅です。その次が、前述の白亜期末の大量絶滅。恐竜ばかりが有名ですが、海生生物も大量に絶滅しています。有名なところではアンモナイトの絶滅でしょうか。この時期の絶滅率は、海生生物のうち、属のレベルで5割弱、種のレベルでは76%という推計があります。実は、その前2回の大量絶滅より、絶滅率は多少低い(あくまでも推計ですけれど)ですが、やはりすさまじい大絶滅であることに違いはありません。これらの絶滅の原因は何だったのでしょうか。有名どころでは、白亜期末の恐竜絶滅は、巨大隕石の落下が原因だという説があります。実際、この時期に巨大隕石の落下があったことは確かなのですが、それが絶滅の原因(少なくとも「唯一の」原因)だったかどうかは何とも言えません。というのは、恐竜にしても、その他の生物にしても、隕石落下が推定される時期以前から、絶滅が進行していたのではないかという説があるからです。それから、陸上・海中とも動物は大量絶滅が起こっていますが、植物の絶滅はほとんどなかったと推定されています。では、隕石以外にどんな理由があるのかというと、火山活動です。火山くらいで全世界の生物が絶滅するのか、などと驚いてはいけません。現在の人類の想像を絶するような巨大な火山活動が、過去にはあったのです。史上最大規模であるペルム紀末の大量絶滅は、火山活動が原因(最初の引き金)であったと推定されています。このとき溶岩が噴出したのは現在のシベリアですが、現在残っている溶岩台地の面積は150万平方キロ、日本の約4倍の面積です。この火山活動が地球温暖化を招き、温暖化がメタンハイドレート層(海底に堆積する氷化したメタンガス)の崩壊、メタンガスの大気中への噴出を招き、さらなる温暖化につながるという連鎖反応で、急激な気温の上昇、大気中と海中の酸素濃度の急減が起こり、ほとんどの生物が絶滅したと考えられています。(メタンは、二酸化炭素より遙かに温室効果が大きい)ところで、大量絶滅はここに挙げたものが全てではありません。ペルム紀以前にも何度かありました。そして、白亜紀の恐竜絶滅以降も、大量絶滅はあった、いやあるのではないかと言われます。すなわち、現在こそ、大量絶滅が現在進行形で起こっている最中ではないか、ということです。約1万数千年前に最終氷期が終わった際、マンモスを代表として、かなりの種類の大型哺乳類が絶滅しています。そして、現在に至っては、絶滅速度は過去の平均速度の1000倍とされます。最終氷期が終わってから現在までの1万年は、人類の歴史の上では途方もない年月ですが、地球の歴史の上ではほんの一瞬で、ひとつながりと見なされます。ペルム紀末の大絶滅だって、100年や200年で進行したわけではなく、数十万年程度はかかっています。従って、単位時間あたりの絶滅速度で見れば、現在はペルム紀末を上回る速度で絶滅が進行している時代、と言えます。もちろん、これから短期間のうちに絶滅の進行を止められれば、現在は大量絶滅の時代ではない、ということになります。全ては、これからの我々人類の行動にかかっているかもしれません。-------------------http://mainichi.jp/select/science/news/20101003ddm001040059000c.htmlhttp://mainichi.jp/select/science/news/20101003ddm003040143000c.html失われる恵み:COP10・名古屋会議を前に/上(その1)◇巨額マネーもたらす生物 日本、ソロモン諸島に「ハンター」◇遺伝資源争奪、国益かけ激化医薬品や化粧品のもととなり、巨額マネーをもたらす生物が、地球温暖化や開発で急速に消えている。現在の絶滅速度は過去の平均速度の1000倍に達し、限りある生物の恵みをどう確保するのか、各国は危機感を募らせる。11日から名古屋市で開幕する国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10=名古屋会議)を舞台に、国益をかけた神経戦が始まる。「これは、地元の伝承医が腫瘍(しゅよう)や貧血の治療に使っている葉だ」--。赤道近くの太平洋に浮かぶソロモン諸島のマングローブ林を歩いていた渡辺高志・高知県立牧野植物園上級研究員(高知工科大特任准教授)が目を輝かせた。背丈をやや上回り、赤い花が印象的な木は、地元の伝承医が重宝しているのを知っていたからだ。渡辺さんは、メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)などに薬用効果のある植物を探す「植物ハンター」だ。7月からの2カ月間で、数百件の植物を採取し、日本に持ち帰った。探査は、ソロモン諸島が、以前から縁のあった小山鉄夫・植物園長に「有用な薬用植物を調べてほしい」と要請したのがきっかけ。07年、研究チームとソロモン諸島は相互協力の契約を結んだ。ソロモン諸島側は、日本側が漢方をはじめとする薬用植物を探し、新薬開発につなげるのを認める一方、日本側はソロモン諸島側の有用植物の目録づくりを支援する。契約の背景には、日本の医療用漢方製剤の原料の8割を中国に頼り、自給率は10%にとどまるという現実がある。プロジェクトにかかわる医薬基盤研究所の川原信夫・薬用植物資源研究センター長は「中国では砂漠化と資源枯渇が懸念される。中国から原料を入手できなくなる事態を想定する必要がある」と話す。 ◇人類にとり医薬品など有益な物を提供する動植物や微生物は「遺伝資源」と呼ばれる。ソロモン諸島に対しては、オーストラリアが数年前に同様の契約を打診していた。インドネシアは03年、日本の製品評価技術基盤機構(NITE)と6年契約をしたが、期限を迎えると、直ちに米カリフォルニア大と手を組んだ。米製薬会社メルクは、コスタリカ国立生物多様性研究所から数千点の遺伝資源を提供してもらう引き換えに、将来得られた利益の半額を提供する契約を結んだ。米国は、官民問わずマラリアやがんなどに効果のある遺伝資源を探し、原産国に利益配分する。「米国は国策として遺伝資源を世界規模で収集している」とNITEの安藤勝彦参事官は語る。 ◇遺伝資源の活用で開発された製品の売り上げは、年45兆~70兆円。抗がん剤の約4割が自然由来の成分を使っている。各国が独自の契約を結ぶ中、遺伝資源が豊かな途上国は、先進国が途上国から持ち出し、利益を得たのに十分還元されていないと不満を募らせる。ペルーは05年、各国での特許出願状況を調べ、カムカムなどアンデス地方原産の農産物で勝手に特許を取得した「バイオパイラシー(遺伝資源への海賊行為)」として、日本を含む先進国を非難する報告書を世界貿易機関に提出し、各国をあわてさせた。日本の特許庁は「そのような事実はない」と否定したが、生物が紛争の火種になると印象づけた。9月22日、ニューヨークの国連本部で開かれた生物多様性首脳級会合で、途上国代表のイエメンのアルサイディ大使は「バイオパイラシーは終わりにすべきだ」と訴えた。遺伝資源の国外への持ち出しを法律で厳しく規制する途上国の動きに、先進国は「研究や企業活動に支障が出る」と懸念する。名古屋会議では遺伝資源の利用と利益配分の国際ルール「名古屋議定書」の採択を目指すが、両者に歩み寄りは見えてこない。(以下略)
2010.10.03
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このところ、某巨大電話会社から時々電話がかかってきます。我が家は、もう9年以上もずっとイー・アクセスのADSLを使っています。最初は下り1.5Mbps、今は50Mコースです。もちろん、実際にはこんな速度は出ませんが、それでも電話局までの距離がかなり近いので、下りは20M/上り3Mくらいのスピードが出ます。少なくとも下りに関してはまったく不満はありません。上りは、YouTubeに動画をアップするときなどは、多少時間がかかります。でもダウンロードに比べればアップロードの頻度は低いので、そのくらいは全然問題ありません。ブログ記事や写真、MP3の音声のアップならあっという間ですしね。私の経験上、実効速度20Mでも「遅い」と感じるときは、回線が遅いのではなく相手サーバーが混み合っているだけ。たとえば、YouTubeの動画など、時々猛烈に遅くなって途切れることがありますが、あれは、多分YouTube側がアクセス数が多すぎて対応できていないだけ。つまり、こちらがどんな高速な回線でも状況はそんなに変わらないはずです。というわけで、ADSLで私はまっっっっったく不満がないのですが、某巨大電話会社がしきりと光回線を勧めてくるのです。どうも、我が家の近辺の電話回線が光対応になって、未だアナログ回線の我が家が邪魔なのでしょう。(ADSLはアナログ電話回線上の技術です)で、今日などは「どういった理由で乗り換えをためらわれているんでしょうか」というのです。別に理由なんて何だっていいじゃん、と思ったけれど、ま一応「値段が」と答えました。その場では「1000円くらいの差ですよ」というので「そうですか」と曖昧に答えたのですが、後で詳細に金額を検討すると、1700円ほど違うことが分かりました。1年間だと約2万円の差。うーーーーん、結構な差ではないか。しかし、実は私がためらう最大の理由は別のところにありまして、それは「面倒くさい」というこの一点に尽きるのです。今何か不便なことがあるならともかく、ネット接続に関してほとんど不満がないというのに、何でわざわざ面倒な思いをして、高い金を出してADSLから光に変えなけりゃならないわけよ、私には何のメリットもないではないか。ついでに言えば、ADSLは電話の隣にADSLモデムが置いてあるだけで、何の工事も必要ないから、いざとなれば解約も自由(と言いつつ、実際は9年間もずっと解約していないのですが)ですが、光ファイバーになって「しまった」と思っても、解約はなかなか自由ではない。それでも、あまりしつこく勧誘されたら、光回線に変えてもいいかなとも思います。ただし、別の電話会社のね。だって、そっちの方が安い。前述のとおり、某巨大電話会社の光回線だと今より1700円高いけど、別の電話会社なら400円高いだけで済みます(いずれも、電話込みで)。しかも、公称の回線速度も某巨大電話会社(200Mbps)より速い。1Gbpsですからねえ、5倍のスピードですよ。ただし、額面通りのスピードなんて多分でないし、体感的には何の差もないであろうことは前述のとおりですが。ただ、固定電話は、これまでずっと某巨大電話会社の加入電話だったので、それを止めてしまうことへの心理的抵抗が皆無ではありません。普段は良いとして、災害時などはどうなんでしょう。ま、携帯電話もあるから、そう心配することでもないのかもしれませんが。
2010.10.02
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