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2月28日(月)短歌入門(今からはじめる人のための)(58)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行事柄でなく感情を(4)定年退職の歌の場合(2)「定年退職」という言葉を不用意に短歌に入れないこと…、それではどうするか…です。夫の仕草にいつもと違うものを感じたなら、その仕草に焦点をあてることです。または、自分がなんともいえずさみしくなった、複雑な心境になって涙ぐんだなら、そのことだけをうたえばいいのです。あるいは、とても冷静に、クールにその日を迎え、自分でもびっくりしたのならそのことをうたえばいいのです。くどいですが、「今日は夫の定年退職の日」だとか、「いよいよ辞める日が来て」とかいった理由をつけた歌はうたわないように注意してください。理由をつけて、あるいは因果関係を短歌にすることはやさしいです。しかし、一つの感情を理屈抜きに、あるいは説明抜きに作ることはむずかしいことです。まず、そのことを知ることです。そして、それが短歌、本当の短歌なのだと知ることです。(つづく)
2022.02.28
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2月28日(月)岡井 隆「私の文学」(80)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より一九八〇年代以降の多産の時代(6)岡井:… 小説家の世界でも、小説を書いて食べていらっしゃる人というのは本当に一握りで、ほかの人たちはみんなほかのことをやって食べていらっしゃると思いますけれども、短歌の世界ももちろんそうで、一首一首の歌が百円とか千円とかいう値段ですから、歌を売って食べていくわけにいかないでしょう。そうすると啓蒙のしごとですね。学校の先生まで含めて、啓蒙の仕事はお金が出ますから。それで、生活上の必要があって少しずつ少しずつやっているうちに、入門書を次々に書くことになったんですね。啓蒙の仕事って、自己啓蒙ですからおもしろいんですけれども、自分でもわからない部分がありますね。短歌ってなんだろう、五七五七七ってなんだろうということを人にわかりやすく書くということは、よほど自分がわかっていないと書けない至難のわざだということが、書いているうちにわかってきた。
2022.02.28
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2月28日(月) 長塚 節歌集(57)中公文庫:日本の詩歌(3)より昭和五十年九月十日初版明治四十五年(17)病中雑詠其二(14) 三月十三日、朝のほど雨ふる 外(と)に立てどいくだもぬれぬ春雨(はるさめ)を棕櫚(しゆろ)の葉に聞く外(と)に立ちしかば 雨はやがて雪にかはりたれば寒さ身にしむに母と相対して火鉢に手を翳す桑(くは)の根の炭はいぶせし火を吹くと皮がはねつる吹かなくてあらむ耬斗菜(をだまき)を母と二人が見てし日は障子はいまだ白かりしかど(つづく)
2022.02.28
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2月28日(月)閑吟集(33)新潮社: 昭和五十七年九月十日 うき世(2)52・ただ何ごともかごとも夢まぼろしやみずの泡(あわ)笹(ささ)の葉に置く露(つゆ)の間(ま)に味気(あぢき)なの世や(この世はすべて夢まぼろし、水の泡のように、また笹の葉の上の露のようにはかないもの。その一時の夢の世をくすんで生きてどうなるの。)53.夢まぼろしや、南無(なむ)三宝(さんぼう)(この世は夢まぼろしだって。わあ大変、えらいこっちゃ。)(つづく)
2022.02.28
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2月28日(月) 昭和萬葉集(巻十一)(346)(昭和三十年~三十一年の作品) 講談社行(昭和55年) Ⅳ(81)青春の歌(6)青春の日々(2)関 静江波の音のいつよりも高く響く宵経済学教科書持ちて集まる梅田靖夫ひたすらにわれは炎えたし蜜蜂の巣立ちの唄に逢ひたる朝矢野宣英湖底へはげしく進む魚の尾を髪ふかれつつ汝とみてをり (つづく)
2022.02.28
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2月28日(月)親鸞「消息集」(23) 中央公論社「日本の名著」(6)より1969年7月1日発行末燈鈔(23)本書は、本願寺の親鸞聖人がご自身の内心の領解を述べられたもの、 並びに鄙遠(ひえん)の地の門侶(もんりょ)に書き送られた書簡などのうちから、選び出してあつめたものである。 七(2) また弥陀の第十七の願に、十方の量りしれない多くの仏に称讃せられるだろうと仰せられています。また願の成就(じょうじゅ)を示す文に、十方の数限りない仏、といわれていますのは、信心をえた人をさすものと理解しております。この人はこの世にあるときから、如来と等しい身であると思われます。このほかのことについては、賢しらなはからいを持っておりません。この意の細(こまか)なご指示をいただかせてください。 謹言。 二月十二日 浄信(つづく)
2022.02.28
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2月28日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館十字架神様がキリストの十字架で施されました救いは完全な救いです。そこには、義(正さ)があります、聖(きよ)めがあります、あがないがあります、すべての知恵と知識があります。ですから、十字架を仰ぐことによって、信者の救いは完成(まっとう)されます。あなたは、義となることを願いますか、それなら十字架を仰ぎなさい。あなたは、聖(きよ)められたいと思いますか、それなら十字架を仰ぎなさい。あなたは、あがなわれたいと思いますか、それなら十字架を仰ぎなさい。あなたは、最も有効に神様と人間とに仕えようと思いますか、それなら十字架を仰ぎなさい。あなたは、復活、再臨について知りたいと思いますか、それなら十字架を仰ぎなさい。求める恩恵は色々あると思いますが、これを手に入れる道はただ一つです、つまり、十字架を仰ぐことです。
2022.02.28
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短歌鑑賞(斎藤 史)老いてなほ艶(えん)とよぶべきものありや 花は始めも終りもよろし 『秋天瑠璃』 例えば、桜の花が散っています。それを作者は見とれています。作者は、「花は始めも終りも風情があっていいなあ。羨ましい」と思ったのでしょう。と同時に、年取った自分はこの花のように風情と呼べるものがあるのだろうか、枯木のように朽ちてゆくのではないだろうか、願わくはそのような艶と呼べるものがほしいものだ…、と老いについての個人的な感慨を、散る花と対比してうたっています。作者は、なんの説明もなく、ただ自分の思いを述べているだけですが、それがかえって読者の共感を得るのに成功しているのでしょう。
2022.02.27
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2月27日(日)短歌入門(今からはじめる人のための)(57)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行事柄でなく感情を(3)短歌を作る注意事項として:「散文の説明になっている」とか「お話が入っているからつまらない」というのがあります。因果関係を示す二つの項目が、一首の中に入っているためです。定年退職の歌の場合(1)「退職の日に夫が出勤する」のを、「これが長い勤めの最後の日かと思って」見送ったといったこと。または「帰って来るのを待って厨(くりや)に立って食事の仕度をした」とかいった歌にしがちです。こうした場合、簡単に「定年退職」などという言葉は、使わないことです。そうしないと、単なる「定年退職物語」になってしまうからです。それは、短歌の世界ではなく、随筆、小説の世界です。短歌は一瞬の感情の流れをとらえる詩型です。(つづく)
2022.02.27
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2月27日(日)岡井 隆「私の文学」(79)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より一九八〇年代以降の多産の時代(5)田中:それで自由度が上がっている方の表現をずっとやっていらっしゃる。一方で、啓蒙的な短歌入門的な著作も、この時機にふえておられると思うんですが、それでバランスが取れていたということもありますか。岡井:啓蒙的なものは、最初は完全に生活上の必要でやっていたんです。豊橋にいたときに頼まれたんですが、僕はいろいろな機会にいろいろな人のお手伝いをすることがあって、「僕は先生じゃないよ」と言いながら教えるんですけれども、ほかの人より僕の方がこういうこともわりあい器用にこなせて、ひょっとすると上手かなという感じもしないではなかったから、頼まれてはじめたんですね。(つづく)
2022.02.27
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2月27日(日)長塚 節歌集(53) 中公文庫:日本の詩歌3より昭和五十年九月十日初版明治四十五年(15) 病中雑詠 其二(13) 病院より旅宿とありける間は夜具を干しくるる人もなかりけるを、一日母が 手して竿に掛けさせければ日毎にかくしつつ 日に干せば日向臭しと母のいひし衾はうれし軟(やはら)かにして 日に疎き庭は土質悪しければ、冬の程には箒もあて難きに杉の大木聳え立ち たれば落葉もいたくみだれにけるをあまたあれば杉の落葉のいぶせきに梅の花白しそのいぶせきに杉の葉の梅の木にして懸(かか)れるを見つつ佇(たたず)むそのさゆらぐを掃かざりし杉の落葉を熊手(くまで)もて掻かしめしかば心すがしき我がさとはかくしもありき庭にして落葉掻き集(つ)む梅さへ散るに (つづく)
2022.02.27
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2月27日(日)閑吟集(32)新潮社: 昭和五十七年九月十日うき世(1)49・世間(よのなか)は、ちろりに過ぐるちろり、ちろり(世の中はちろっと過ぎて行く。ちろっと瞬くその間に。)50.何(なに)ともなやなう、何ともなやなう うき世は風波(ふうは)の一葉(いちえふ)よ(どうってこともないんだよ、うき世は。風に吹かれる木の葉のようなものさ。)51.何(なに)ともなやなう、何ともなやなう 人生七十古来(こらい)稀(まれ)なり(おやまあほんに、私も何時(いつ)の間にか、古稀(こき)とやら。どうってこともなく過して来たんだが。)(つづく)
2022.02.27
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2月27日(日)昭和萬葉集(巻十一)(360)(昭和三十年~三十一年の作品) 講談社行(昭和55年)Ⅳ(80)愛と死(68)青春の日々(1)金谷 博青春は静かに過ぎつ学究のさびしさきわまり夜のあかり消す石川不二子ルナアルの「博物詩」一冊あてがはれ置去られたるわれとこがらし朴の花匂ふ幾日か重たきに書かむ手紙を書きそびれゐつ街路樹の若きミモザのもつ蕾燈影にみゆとひとにいひたり日ざかりはものをも言はず働きてひとを恋ふるは海翳るころ距離感のひろがるときの悲しみよひとたび抱かれてのち別れたし(つづく)
2022.02.27
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2月27日(日)親鸞「消息集」(22)中央公論社「日本の名著」(6)より1969年7月1日発行末燈鈔(22)本書は、本願寺の親鸞聖人がご自身の内心の領解を述べられたもの、 並びに鄙遠(ひえん)の地の門侶(もんりょ)に書き送られた書簡などのうちから、選び出してあつめたものである。 (七)(1) 無碍光如来の慈悲のみ光に摂(おさ)め取られたのですから、如来のみ名を称えて、仏となる身から退くことのない位にはいっているのであってみれば、わが身のために摂め取って捨てない仏の救いをことあたらしく問い尋ねてはならないと思われます。そのうえ『華厳経』には「このみ法を聞いて信心を喜び、疑うことの無い人は、すみやかにこの上ないさとりを成じて、さまざまな如来と等しい」と仰せられています。 (つづく)
2022.02.27
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2月27日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館春の到来佳(よ)き期(とき)は来たれり春は来たれり花は咲かんとす鳥は歌わんとす小川の氷は解けてその辺(ふち)に、すみれ笑う 佳き期は来たれり聖霊(みたま)は降(くだ)れり栄光(さかえ)はあらわれんとす賛美は揚がらんとす心の疑団は釈(と)けてその内に歓喜あふる 佳き期は来たれり春は来たれり春は外よりも来たれりまた内よりも来たれり
2022.02.27
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2月26日(土)短歌入門(今からはじめる人のための)(56)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行事柄でなく感情を(2)乳のなかになかば沈みしくれなゐの苺(いちご)を見つつ食(く)はむとぞする 斎藤茂吉ひたすら、うまそうな苺ミルクの歌であります。苺が「乳の中になかば沈」んでいるというところに、この歌のみどころ、作者の苦心したところがあるのでありますが、その点が今回の話の焦点ではありません。なに一つ、よそごとを言わないで、ひたすら、目の前の、うまそうな苺をうたっていることを、ここでは強調します。(つづく)
2022.02.26
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2月26日(土)岡井 隆「私の文学」(78)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より一九八〇年代以降の多産の時代(4)岡井:… 今いちばんラディカルな表現をやっている人たちは、やっぱり三十代から四十代だと思いますけれども、いいなと思うと僕は翌月にはまねをします。「岡井さん、あの人とよく似ていますね」「そうだよ。おれはおれのまねをしているんだよ」と言うんだけど、まねだったなかなかそう簡単にはいかない。田中:そうですね。そういうジャンルとしての活性化の時代につき合われたというのも、多作になられた背景にはあるんでしょうか。岡井:あると思いますね。それから、さっきのエピキュリアンとして資質があって、楽しいものですから、どんどんやっているということがあります。
2022.02.26
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2月26日(土)長塚 節歌集(52) 中公文庫:日本の詩歌6より昭和五十一年四月十日初版明治四十五年(14) 病中雑詠 其二(11) 三月七日、暫しが程と郷にかへる、三日ばかりして帰りこんと出で行きて既 に四月にもなりたれば、あたりはさながら忘れ去りたるやうなるを一月二日 とある程にゆくりなく拗切(ちぎ)りてみつる蚕豆(そらまめ)の青臭くして懐(なつか)しきかも蚕豆はまだ短くして、たとへば土に落ちたる生石灰の石のやうなるがおのづから水分をふくみてほとびつつあるが如し、我も此れより遠く西国の旅に赴かむとすればそら豆の柱のごとき茎たたばいづべに我は人おもひ居らむ(つづく)
2022.02.26
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2月26日(土) 閑吟集(31)新潮社: 昭和五十七年九月十日 河内47・今から誉田(こんだ)まで、日が暮れうか、やまひ 片割月(かたわれづき)は宵(よひ)のほどぢや (今から河内の誉田まで行っては途中で日が暮れよう。片割月が照らすといっても宵のうちだけ。ままよここで野臥せりといこうじゃないか。)48.あら美しの塗(ぬり)壺(つぼ)笠(がさ)や これこそ河内(かはち)陳(ぢん)土産(みやげ) えいとろえいと、えいとろえとな 湯口が割れた 心得て踏まい、中踏韛(だたら)えいとろえいと、えいとろえいな(何ときれいな塗壺笠よ、これはきっと河内の戦場で拾って来たのだな、えいとろえいと。おっと大変、踏韛の湯口が割れたぞ、気をつけて踏めよ、えいとろえいと。)(つづく)
2022.02.26
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2月26日(土)昭和萬葉集(巻十一)(354)(三十年~三十一年の作品)講談社発行(昭和55年)Ⅳ(79) 青春の歌(4)学生生活(4)小田憲正臀部(でんぶ)より電気通ぜらるる実験にて今日のアルバイトは三百円もらひぬ竹内 元授業料払はぬと試験受けさせぬと云ふ血液を売りて払ふ苦しみ丸山利信採血待ちニコヨンの多く並ぶ列学生服は我一人なりき (つづく)
2022.02.26
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2月26日(土)親鸞「消息集」(21)中央公論社「日本の名著」(6)より1969年7月1日発行末燈鈔(21) 本書は、本願寺の親鸞聖人がご自身の内心の領解を述べられたもの、 並びに鄙遠(ひえん)の地の門侶(もんりょ)に書き送られた書簡などのうちから、選び出してあつめたものである。 (六)(3) 今になって思いあわせられます。ほかの人々に騙されないようになさり、またご信心を後もどりさせないようになさって、それぞれ浄土に生まれなくてはなりません。もっとも、ひとに騙されなくても、信心の定まらない人は浄土に生まれる身とはなっていない人で、落ち着かない人であります。あなたにこのように申しあげることを、ほかの人人にもお話しください。謹言。 文応元年十一月十三日 善心 八十八歳乗信御房 このお手紙の真蹟は関東の下野国大内荘高田に現存しているといわれる。(つづく)
2022.02.26
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2月26日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館ひとり人類のためにつくしたいと思って、多くの人と接しなければいけないと思う必要はありません。ただ、独りでも人類のために十分尽くすことが出来ます。人間は誰でも人類の一部分です。ですから自分自身につくすことによって人類につくすことが出来るのです。ただ独りで真理を発見することが出来ます。ただ独りで神様と接することが出来ます。ただ独りで霊性を磨いて完全の域に向って進むことが出来ます。自分は人類のよい標本として自分を世の中に提供することが出来ます。単独は決して無為の境遇ではありません。
2022.02.26
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2月25日(金)短歌入門(今からはじめる人のための)(55)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行事柄でなく感情を(1)作歌上の細かい注意点:一、「短歌は散文ではない。」「短歌のなかで、お話をしてはいけません。」「歌のなかで説明をしてしまっていあす。」<歌のなかにこめられている感情を理解してもらうこと><歌をとりかこんでいる個人的な状況説明を理解してもらうことは、必要ないことです> 事柄でなく感情を!!これを注意しましょう。そして、その感情は一首に一つであることです(あれもこれもと欲張ってはいけません)!!(つづく)
2022.02.25
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2月25日(金)岡井 隆「私の文学」(77)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より一九八〇年代以降の多産の時代(3)岡井:まあ軽薄な面も確かにあって、悪口を言われる方の言うこともごもっともだとは思いますけれども、現に短歌と言う渋いといというか、あまり目立たない、そして忘れられているような世界をなにかの形で活性化していく要素があるんだったら、ぼくはあらゆる手段を取るべきだと思います。この詩型は古いだけに、谷川俊太郎さんじゃないけれども、ちょっと人工呼吸で生きているようなところがありますから。せっかく息を吹き返して元気になっているようなときは、後押しするのが当たり前で、そうするのにいちばんいいのは自分もおなじような歌を作ることだと思うから、それに近いような歌を作る。すると、ああいうものは絶対悪口をいわれるわけだけれども、ここまで来てこれだけ悪口を言われると、もうこちらも大概慣れっこになりましたから、構わずやっています。(つづく)
2022.02.25
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2月25日(金) 長塚 節歌集(51)中公文庫:日本の詩3より昭和五十年九月十日初版明治四十五年(13) 病中雑詠 其二(10) 二月二十日といふに漸く病院を出づ、七十八日の間僅に我を慰めし花は只一 株の山茶花に過ぎざりけるを、けふを限りと復た更に其の傍らに立ちて見るに、思はざる花の綻びたるがそれも彼方に一つ此方に一つと只二つのみに余所にはふふめる枝もなし、此花遂に我が為にのみさきつくしけるにこそとさへ思ひいでられて 我がおもふ人にあらなくに山茶花は一樹が枝に相隔(あいへだた)りぬ山茶花の畢(つひ)なる花は枝ながら背(そむ)きてさけり我は向けども山茶花の花は見果てて去ぬらくに人は在処(ありど)も知るよしもなくかくのごとありける花を世の中に一人ぞ思ふ其(そ)の遥(はる)けきも (つづく)
2022.02.25
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2月25日(金)閑吟集(30)新潮社: 昭和五十七年九月十日 見る(2)45 ・な見さいそ、な見さいそ 人の推(すい)する、な見さいそ(見ないで見ないで。人が気づくじゃないの、そんなに見ないでよ。)46・思ふ方(かた)へこそ 目も行き、顔も振(ふ)らるれ(そう言ったって、心の行く方へ自然と目も行き顔も向く。仕方ないじゃないか。)(つづく)
2022.02.25
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2月25(金) 昭和萬葉集(巻十一)(348)(昭和三十年~三十一年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅳ(73) 青春の歌(3)学生生活(3)井上にさく一日の仕事終りぬ油手を洗ひてすぐに夜学へゆかむ佐川安彦譲りたる吾の角帽をかぶりゐる後輩と帰省の汽車を共にす岸上大作炎暑の街を青白き顔して歩みくる友はパン焼夜に働く縄ないて凝りたる母の肩もめば英語の予習少しおくれぬ (つづく)
2022.02.25
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2月25日(金) 親鸞「消息集」(20) 中央公論社「日本の名著」(6)より1969年7月1日発行末燈鈔(20)本書は、本願寺の親鸞聖人がご自身の内心の領解を述べられたもの、 並びに鄙遠(ひえん)の地の門侶(もんりょ)に書き送られた書簡などのうちから、選び出してあつめたものである。 (六)(2) 年来、わたしがこのように人々に申して来たことは今も変わりありません。けっして学者ぶった議論をなさらないで、浄土に生まれることをなし遂げてください。なくなった法然聖人が「浄土の教えを信ずる人は愚か者となって浄土に生まれる」と仰せられたことを、確かに承りましたばかりでなく、なんの弁(わきま)えもないあさましい人々が訪ねてくるのをご覧になっては、「かならず浄土に生まれるにちがいない」と、微笑(ほほえ)まれるのを見たことでした。学問をした、いかにも賢(さか)しい人が訪ねてきたときは「浄土に生まれることはどうであろうか」と、仰せられるのを確かに承りました。(つづく)
2022.02.25
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2月25日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館偉人と小人偉人というのは、大きなことをする人と思うのは、間違いです。偉人というのは、小さなことを忠実にする人のことです。小さなことに忠実であるために、その小さな事が積もり積もって、大きくなり、それをなしとげたことで大きな人と認められるのです。一方小人というのは、偽る人のことです。万事をごまかす人のことです。あれもこれも完全にしようとは思うのですが、努力しようとしない人です。ですから、小人は一生かかっても一つのことも成し遂げることが出来ないでしょう。
2022.02.25
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2月24日(木)短歌入門(今からはじめる人のための)(54)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行暗示としての社会詠(5)宮柊二の歌から、子供をうたった歌を、永遠に古びないであろう<社会詠>の一例として出しておきたい。鞭ふりて寒き路上(ろじゅう)に独楽(こま)を打つ少年四五種類の甲(かん)だかき声午(ひる)過ぎし土に下(お)り立ちをさな子がをりをり風に眼(まなこ)を瞑(つむ)るふところに林檎を秘めて来寄りたる洟垂子(はなたらしご)を差し上げにけり ある種の暗うつさがただよっています。家族の歌といえども、そこには幸福そのもの、明るい自己肯定そのものではない、感情が、つねに流れています。(つづく)
2022.02.24
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2月24日(木)岡井 隆「私の文学」(76)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より一九八〇年代以降の多産の時代(2)田中:同時に、八十年代に出てきたライト・ヴァースと呼ばれるような短歌を、岡井さんは積極的に支持されましたね。そういうものとのかかわりもありますか。岡井:そうですね。だからその辺から節操がないというかね。フェミニズムが流行るとフェミニズムの後押しをして女の人の先導役になるし、若い人がライト・ヴァース、あのライト・ヴァースというのは間違った表現だと思いますが、要するに話し言葉的な歌ですね。イギリスの詩人のオーデンが言っているライト・ヴァースというのはむしろ中年ぐらいになって人生観のはっきりした人が穏やかな口調で述べているようなものですから、僕はそういうのもあると思うんですけれども、とにかく若い人がライト・ヴァースで出てくると、すぐに俵万智は天才であるというようなことを言って、人のひんしゅくを買って、それでやってきたわけです。
2022.02.24
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2月24日(木)長塚 節集(48)中公文庫:日本の詩歌3より昭和五十年九月十日初版明治四十五年(13) 病中雑詠其二(10) 病室の内に雨を聴き暮して明くればまだきに彼の山茶花のもとに 思ひ煩ひて からくして低きが枝にのこれりし山茶花(さざんくわ)の花散りにけるかも山茶花のはかなき花は雨ゆゑに土には散りて流されにけり山茶花のあけの空(むな)しく散る花を血にかも散ると思ひ我が見る山茶花はむなしくなりぬ我が病癒(い)えむと告ぐる言(こと)もきかぬに 仔細に見るに葉の間に半開の蕾只一つすがりたるがいとほしくて山茶花よそをだに見むと思へるに散らなくあれな我が去(い)ぬるまでに (つづく)
2022.02.24
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2月24日(木)閑吟集(29)見る(1)43・雲とも煙(けぶり)とも見定めもせで 上(うは)の空(そら)なる富士(ふじ)の嶺(ね)にや(「富士の山ほどお前を思っている」などとおっしゃるが、肝心の私の気持ちが雲であるか煙であるか見きわめもしないで上の空になっているあなたは、それこそ富士のお山の上にいるみたい。下界のことがわからないのね。) 44.見ずは、ただ、よからう 見たりやこそ、物思へ、ただ(見ないが一番。なまじ見たればこそ思いの種、アーア。) (つづく)
2022.02.24
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2月24日(木) 昭和萬葉集(巻十一)(347)(昭和三十年~三十一年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅳ(77)青春の歌(1)学生生活(2)佐藤精江子卒論も仕上げぬままに松川の救援会にゐると告げ来ぬ福田英子萎え崩るダリアに軽き怠惰あり試験をひかえ乱れたる部屋島崎直人徴兵検査が又行はれると云ひ出せば誰もが暗き沈黙に堕つ石川 泉学徒援護のアルバイトの選に洩れて来て九段坂くだる心危ふく(つづく)
2022.02.24
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2月24日(木) 親鸞「消息集」(19) 中央公論社「日本の名著」(6)より1969年7月1日発行末燈鈔(19)本書は、本願寺の親鸞聖人がご自身の内心の領解を述べられたもの、 並びに鄙遠(ひえん)の地の門侶(もんりょ)に書き送られた書簡などのうちから、選び出してあつめたものである。 (六)(1) いずれの年にもまして、去年と今年に、老若男女、多くの人々が相次いでなくなられたことは、誠にいたわしいことであります。けれども生死の無常である道理は詳しく如来の説き置かれておられるところでありますから、いまさら驚かれることではありません。まずわたくしとしましては、臨終の善し悪しは申しません。信心の定まった人は疑いの心がありませんから、浄土に生まれる身となっているわけであって、そこでこそ愚かな人や無智な人でも終りもめでたくまっとうすることができるのです。如来のおはからいによって浄土に生れると、あなたが人々に申されていることは、わたしと少しも違っておりません。(つづく)
2022.02.24
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2月24日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館キリスト教の修養キリスト教の修養は、座禅を組むことでも、本を読むことでもありません。キリスト教の修養は、祈りでもって神様と交わることです。聖書において神様のみ心を知ることです。そして、あとは畑で、職場で、仕事場で、神様よりいただいた力を実践することです。別に特別のことではありません。なんと常識的で、有益な修養方法ではありませんか。
2022.02.24
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後藤瑞義入選歌(読売新聞静岡版)夏草のなかにありたる三輪車枯野に錆びし姿あらわす 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月二十三日 佳作 渡 英子 選)(評)丈高く繁(しげ)った夏草のなかに隠れていた三輪車が姿をあらわす枯野(かれの)原(はら)。打ち捨てられ錆(さび)をふく三輪車は幼子の乗りものだけに様々な空想を呼ぶ。「姿あらわす」で三輪車の存在感を示して心に残る。
2022.02.23
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2月23日(水)短歌入門(今からはじめる人のための)(53)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行暗示としての社会詠(4)とどまれる一(ひと)貨車の列(れつ)黒けれど危ふげもなく夜に入りゆかむせばまりし道をみちびく路次の口なにか悲しみを湛へたり見ゆ孤独なる姿惜しみて吊り経(へ)し塩鮭を今日引きおろすかな一本の蠟燃(もや)しつつ妻も吾(あ)も暗き泉を聴くごとくゐる 宮柊二の作品には、容易に見わけられるような、スローガン的な思想表現はありませんが、この路次口とか、貨車の列とか、あるいは、その次の歌にでてくる塩鮭の姿とか、そういうさまざまな「小現実」に、思いを托しています。「一本の蠟燃しつつ」のローソクの火は、たわむれに火をつけている誕生日用の彩色ローソクなどではなく、時間をきめて行われた停電の多かった当時の電力事情によっています。しかし、一本のローソクの火に寄って、暗い泉の音に耳をかたむけているかのような夫婦の姿というのは、ある種の永遠性をもっているのであります。この歌を今の時代に、もってまいりましても、感銘のふかさには、かわりないようにおもえます。表層の現象の底に、人間存在の本質をかぎとっていたからだといえるでしょう。(つづく)
2022.02.23
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2月23日(水)岡井 隆「私の文学」(75)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より一九八〇年代以降の多産の時代(1)田中:年譜で見ていくと、岡井さんは特に一九八〇年代以降、かなり多作の時期に入られますね。歌集もかなりの数、かなりのスピードで出されるようになっていますけれども、これはなにか時代と噛みあっているというような感触がおありだったんですか。岡井:一つはたぶん、ずうずうじくなったんだね。おずおずと出さないで、まあいいやというんでばんばん出していった。もう一つは、評判がよくならないでしょう。悪口を言う人がふえるわけだから、それならいいよ、こっちは量でいこうというんで後から後から、どうだまたやったぞ、またやったぞとやっているうちに、あれはおかしいですね。表面では悪口を言われているんだけど、やっぱりボディーブローが効いたのか、なんだか知らないうちにだんだん評判がよくなってきた。(つづく)
2022.02.23
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2月23日(水) 長塚 節歌集(52)中公文庫:日本の詩歌(3)より昭和五十年九月十日初版明治四十五年(12)病中雑詠其二(9) 此の日、ひねもすに雨ふる、なにごとにも母のおもひ出でられて 我さへにこのふる雨のわびしきにいかにかいます母は一人していささかのゆがめる障子引き立ててなに見ておはす母が目に見ゆ張り換へむ障子もはらず来にければくらくぞあらむ母は目よわきにここにしてすすびし障子懐(おも)へれば母よと我は喚(よ)ぶべくなりぬ耬斗菜(をだまき)を母と二人が見てし日は障子はいまだ白かりしかど(つづく)
2022.02.23
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2月23日(水)閑吟集(28)新潮社: 昭和五十七年九月十日 柳(3) 41・げにや弱きにも 乱るるものは青柳(あをやぎ)の 糸吹く風の心地(ここち)して 糸吹く風の心地して 夕暮れの空曇り 雨さへ繁き軒(のき)の草 傾(かたぶ)く影を見るからに 心細さの夕(ゆふ)べかな 心細さの夕べかな (病の床に臥して弱り乱れる我が心は、まるで青柳が風に吹かれるように 心細い限り。夕暮れの空はかき曇り、あっという間に軒の草に雨が激しく 降り注ぐ。時刻も傾き命も傾く、それを思えば不安一杯のこの夕べ。) 42.柳の陰(かげ)にお待ちあれ 人問(と)はばなう 楊枝木(やうじぎ)切ると仰(おし)やれ (柳の木陰で待っていておくれ。人に見咎められたら、 楊枝にする木を切っているところだとごまかしなさい。) (つづく)
2022.02.23
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2月23日(水) 昭和萬葉集(巻十一)(341)(昭和三十年~三十一年の作品) 講談社行(昭和55年) Ⅳ(76)青春の歌(1)学生生活(1)川上幸一社会主義化を支持せぬといふ条件の学資にすがり大学にゆく篠 弘酔ひてかく青春を論じし記憶なし皆まづしかりし学生われら磯崎定基口軽く夜の酒場にゐる時も忘れ得ず卒論のこと就職のことふくだ・ゆきをいくたびも論文の清書あやまれば火種を埋めて寝につかむとす (つづく)
2022.02.23
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2月23日(水)親鸞「消息集」(18) 中央公論社「日本の名著」(6)より1969年7月1日発行末燈鈔(18)本書は、本願寺の親鸞聖人がご自身の内心の領解を述べられたもの、 並びに鄙遠(ひえん)の地の門侶(もんりょ)に書き送られた書簡などのうちから、選び出してあつめたものである。 五(3) 形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義のすてられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。 正嘉二年十二月十四日 愚禿親鸞八十六歳(つづく)
2022.02.23
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2月23日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館神の試験神様はアブラハムに、一人子をいけにえに差し出すように命じました。同じように、わたしたちすべての人は神様から、同じような試練を受けるのです。つまり、わたしたちの持っているもっとも善いものを要求されるのです。それが、アブラハムのようにわが子であるか、あるいは妻であるか、あるいは財産であるか、あるいは位であるか、あるいは名望であるか、あるいは技芸学問であるか、いずれにしても、われら各人が、自分の生命よりも大切と思うものを要求されるのです。その時こそ真の信仰が試されるのです。この試験に合格してはじめてわたしたちは完全に神様のものとなるのです。しかし、この試験に落第して、わたしたちはその時までに得たものをすべて失うようになるのです。人生で一番大切なのはこの時です。わたしたち各人の永遠の運命の定まるのは実にこの時です。創世記第二十二章十節~十三節:アブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が 天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに幡祭としてささげた。
2022.02.23
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2月22日(火)短歌入門(今からはじめる人のための)(52)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行暗示としての社会詠(3)せばまりし道をみちびく路次の口なにか悲しみを湛へたり見ゆ 宮 柊二『小紺珠』もし、「路次の口」や「道」を、あたかも暗喩(あんゆ)のように使った作品であるなら、これだけの現実感は出て来なかったでしょう。「せばまりし道をみちびく」というのは、この口を入り口として狭くなった道が、(作者の想像上の歩みを)さらに奥へとみちびいていくということなのでしょう。路次の口は、ふしぎな「悲しみ」をたたえて見えています。 (つづく)
2022.02.22
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2月22日(火)岡井 隆「私の文学」(74)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より作歌の中断とその回復(12)田中:あんるほど。では一九八〇年以降にふえてくる、片仮名の言葉のようなものが入ってきたりすることについてはどういうふうに考えておられるんでしょうか。岡井:片仮名は直接で簡単なものですから、本当に難しいな。ただ明治以来そうだけど、ラリルレロの音とかパピプペポの音とか、日本にないような音的要素が入ってくるのは魅力ですね。ラリルレロは欲しいですよ。だけど日本語にはないんだもの。やっぱり「ラウレル」なんていうとああいいなと思う。 そういうことから言うと、キャッキュッでもいいけれども音の要素が広がる。もう一つは、視覚的にもここはラテン語を入れたらいいなとか、英語を入れたらいいなドイツ語を入れたらいいな、記号をいれたらいいなとか楽しみを広げる。今言った音韻要素も広がるし、片仮名的要素、つまり外来語的要素をどうしても排除する気にならないですね。特に韻律家の人たちはエピキュリアンですから、みんな楽しみに弱いんですよ。田中:楽しいとなると入れる。岡井:そう。これは楽しいなと思うと、そっちへどんどん行っちゃう。
2022.02.22
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2月22日(火)長塚 節歌集(48) 中公文庫:日本の詩歌3より昭和五十年九月十日初版明治四十五年(10) 病中雑詠 其二(8) 一月二十六日、彼の袱紗ゆくりなく手にとることありしに、糸巻の型の染め 抜かれたるが今更に目に映れば とこしへに解(と)かむすべなし苧環(をだまき)のあまたはあれど手にもとれねば をだまきといへばすずろに懐かしき故郷の庭なる耬斗菜のうへにも及びぬればあまたたび冬には逢へど枯れざりし庭の耬斗菜(をだまき)かれなくてあれな (つづく)
2022.02.22
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2月22日(火)閑吟集(27)新潮社: 昭和五十七年九月十日柳(2)40・かの昭(せう)君(くん)の黛(まゆずみ)は翠(みどり)の色に匂ひしも春や暮るらん糸(いと)柳(やなぎ)の思ひ乱るる折(をり)ごとに風もろともに立ち寄(よ)りて木陰(こかげ)の塵(ちり)を払はん 木陰の塵を払はん(かの王昭君の眉墨は柳の緑そのままに映えていたのだが、今は人生の春も暮れ、容色も衰えたことだろうと思いやって、思い乱れる折々に、北の胡(ご)国(こく)の方から吹く風に形見の柳が散りかかる。憂(うれ)いを払うためにこの柳のもとに立ち寄って木陰の塵を掃くとしょうか。)(つづく)
2022.02.22
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2月22日(火)昭和萬葉集(巻十一)(355)(昭和三十年~三十一年の作品) 講談社行(昭和55年)Ⅳ(75)愛と死(63)亡き人を偲ぶ(1)宮 柊二生ひ長(た)けし合歓(ねむ)も椿もみ墓べに安らぐごとし秋日浴みつつ夏すでに過ぎむとしをりまかりこし能登一之宮の寂しき浪の穂田邊耕一郎播磨野や竜野の山のいばらみち石は語らずひとつ立ちおり獄死すとは何たることぞ眼つむれば雪ゆきし人の背姿歎異鈔一章よめばやすらかに眠れると言いし三木清かも (つづく)
2022.02.22
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2月22日(火)親鸞「消息集」(17)中央公論社「日本の名著」(6)より1969年7月1日発行末燈鈔(17)本書は、本願寺の親鸞聖人がご自身の内心の領解を述べられたもの、 並びに鄙遠(ひえん)の地の門侶(もんりょ)に書き送られた書簡などのうちから、選び出してあつめたものである。 (五)(2)言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、ときいています。如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。 (つづく)
2022.02.22
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