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朝から、できる限りの掃除をした。トイレの掃除は娘に頼んだ物の、初めての経験で、一から教えた。大学生になるまで教えてこなかった自分を多いに母親として反省。洗面所は、下の娘に頼んだ。こちらは、家庭的な事が好きな方なので、難なくやりこなしていた。台所は私の分担。流しの周りが、超きたない。漂白剤を使ったり、文明の利器を駆使しての掃除。午後から、伊達巻に挑戦。いつもは、父の家の分も含め3本は焼くのだが、今年は、2本で済みそうなので、2本の分の材料しか用意しなかった。ミキサーにはんぺい一枚半、みりん大匙5、だし汁大匙4、塩小匙1、砂糖100グラム、タマゴ10コを入れ、ガーーーっとかき混ぜ、200度で20分焼いておいた角皿に油を塗り、もう、5分焼き、そこに材料を入れ、180度で20分焼く。その間にぬれふきんを敷いたすだれを敷き、ラップを敷いておく。今年は旨く焼けるかなあ。チン、ひっくり返し、手際よく簀巻きにする。すごく熱い。アチチチと言いながら、三箇所輪ゴムで止めて、出来上がり。今年は、旨くできた。これであら熱を摂り、一晩冷蔵庫で寝かせると、中から余分な汁が出て、美味しい伊達巻が出来上がる。こんなに簡単にできることが分かってから、買った事が無い。それまでは、一番値段の高い物を買っていたのだが、はんぺいと砂糖、卵で、たかだか500円も有れば美味しい伊達巻が出来るのを知ってから、高いお金を出して買っていた事が、本当にバカバカしいと思った。お重と、届いたおせち、着替え、お泊りセットを用意、夕方、父の家に皆で出かけた。結婚して20年。初めて両親と過ごす大晦日だ。あまりに距離が近すぎ、こうして過ごす事ができなかった。また、パパのご両親と過ごすのが当たり前と思っていたから、パパのお父さんが亡くなってからは、おばあちゃんと過ごしていた。義弟夫婦が今回おばあちゃんを引き取ってくれ、こうして過ごす事が出来た。母と二人でお重におせちを詰めた。母が、「いつも一人でやっていたけれど、こうして二人ですると楽しいね」と言った。幸せだと思った。娘たちはお風呂に入り、おじいちゃんと楽しそうにTVを見ていた。しかし、やはり、父はだるかったらしく、歳が明ける前、「悪いが、もう、寝るよ」と言って、上に上がっていった。こうして2003年は暮れていった。12時を、母と家族で迎えた。ももの酎ハイと、スモークサーモンで乾杯。明けましてあめでとうございます。みんなの笑顔が嬉しかった。ここに父がいないのが、寂しかったが・・・。どんな年になるのだろう。試練の年になるのは間違いない。しかし、私は諦めない。負けたくない。頑張り時だと、パパと今一度、誓い合った。
2003年12月31日
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今日は、朝から、娘の成人式の写真の前撮り。こんなに押し迫った暮れに前撮りなどする人はいないだろうと高をくくっていた。しかし、うちが一番最初で、5時までぎっしり予約が入っていると言う。写真館は家からすぐ近くの、下の娘の同級生のお友達のお宅。とてもセンスの良い写真を撮る写真館で、幾つもの賞を取っていらっしゃる腕前。こんな近くにこんな良い写真館があるので、ありがたい。友人たちにもお勧めしたら、仲良しのお友達が二人決めたと言っていた。伺ったら、着付けと頭のセットで一時間ほどと言うので、一旦家に戻るつもりだったが、そのまま付き合う事にした。美容師さんはとても感じの良い方で、娘の頭を本当に手際よくセットしていった。最近は、短くしてしまって本当に困ってしまう方が多いとの事。娘は短くした事がない。成人式には髪を結うから・・と、少し切りたかったのも、自分から我慢した。それを聞いて、嬉しそうに「そうですか・・皆さんがそう思ってくださると有難いんですが・・。」と仰っていた。髪を結い上げ、ピンクの古代柄の着物を着、黒地に金刺繍の帯を締めた娘は、全く別人のようだった。初めて、「ああ、本当に娘になったのだなあ・・」とつくづく思った。感無量。いよいよスタジオに向かおうとお座敷の部屋を出たら、なんと!!娘の一番の仲良しさんが来ていて、もう、!!!。「え~、今日だったの~」とお互いびっくりだった。娘同士も学校がずっと一緒だが、私達母親二人も、同じB型人間で、良く似ているから、気負わず付き合って頂き、もう15年以上になる。彼女も病人を抱え、ご自宅のお仕事の受付事務をなさっているから、こんな押し迫って前撮りに来ているのも、解るような気がした。カメラの前の娘は、カメラマンの注文のポーズを旨くこなしていた。そう言えば、この子が生まれた時、まだ、パパはデザイナーで、大きな公園で、1歳になる前からプロの友人のカメラマンに撮っていただき、慣れたポーズを取っていたものだった。写真を撮って頂いている間、こうして思い出に浸るのも、親冥利につきる。パパがデザイナーを辞めて久しい。プロの方に撮っていただくのは、折々の時だけになった。撮影していたら、両親がお店の人に案内され、スタジオに上がって来た。どうにも我慢できず、撮影が終わったら行くからと言っていたのに、来たらしい。父は感染防止用の大きなマスクの下で、満面の笑みを浮かべ、目が溶けてしまうのではないかと思うくらい、嬉しそうに見ていた。母も本当に嬉しそう。良かった・・・・・・。お父さん、一杯、一杯、楽しい思い出を作ってください。お礼を言い、友人に別れを言い、スタジオから出た。おじいちゃんの車で、父の家に着き、散々写真を撮った。そうこうしていたら、会社に行っていたパパが帰って来た。荷物を持ち、帰宅。今度はパパと記念撮影。「孫にも衣装とは、このことだな」と言っては、娘をからかって喜んでいた。パパは、何時になく照れくさそうだ。女房としては、そんなパパを見ているだけで、本当に可笑しかった。ひとしきり撮影したら、娘が根を上げ始めた。「もう、良いよ、脱ぎたい。」まだ、2時間も経っていない。「貴方、そんなんでどうするのよ。成人式は、もっと時間掛かるよ。その上、お友達と遊びに行くんじゃないの」「だって、寒いし、もう、苦しい」やれやれ、大騒ぎして着物を着せてもこうだから、現代っ子は、つぶしが利かない。もう、写真も十分撮ったし、着ていても本人が嬉しく無いなら着ている意味が無いので「好きにしなさい」と言ったら、さっさと脱ぎだした。本当に何をか言わんだ!!夕方。一夜飾りは良くないとの事なので、玄関を綺麗にした。庭で松、南天、笹を採ってきて、毎年飾るかごにオアシスを入れ、私流の生け花。壁には、大きな凧を中心に、小さな奴凧や、六角形の凧など飾り、ドアにはしめ縄のリース、門扉には、松の飾りを付けた。大騒ぎの一日だったが、父も喜んでくれたし、花丸の日かな。
2003年12月30日
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今日は、おばあちゃんを義弟に預かってもらいに行く日父のことが心配だったが、摂り合えず、大丈夫との母の言葉でパパと一緒に行くことになった。朝から、おばあちゃんをホームに迎えに行き、帰宅。暫く、自分の部屋で、冬物のオーバーなど用意し、いざ出発。お天気が良かったので、ほっとした。昨日の天気予報では、雪がが降るとのことだったので、心配したが、綺麗に晴れた。しかし、県境の山越えの道に入ったら、雪、雪、雪。道の雪は綺麗に除雪してあったので、支障は無かったが、道端の木々は、真っ白。トンネルを抜けると、県が変わるが、正にトンネルを抜けると、雪国のようだった。昨夜、随分、降ったのだろう・・。道はお日様に照らされて、解けていたが、家々の屋根の上も、空き地も、すべて白一色。綺麗だった。おばあちゃんは今日行く事も、忘れてしまっていた。痴呆が進んでいるし、足も、もう、弱って、長い事歩けない。杖をついて歩いていても、どんどん右に行ってしまう。それでも、口だけは達者。この人には、老いては子に従えの諺は、無効らしい。車中で、パパも止せば良いのに、言い合っていた。痴呆も、まだらが一番性質が悪い。嫁としては、もう、何も言うつもりも、言う気にもなれない。そのほうが賢いと思い、知らん顔を決め込む。義弟のお嫁さんは大きな病院の主任看護婦なので、安心だ。飾らない性格が好き。同じ嫁同士、頼りがいのある彼女は、私と違うキャリアウーマン。ちゃんと、3人の子供も育てている。このうえ、おばあちゃんをお願いするのは本当に気が引けるのだが、快く、事情を慮って、引き取ってくれた。夜勤明けの彼女に、よくお礼を言い、義弟の家を後にした。トンボ帰り。それでも、帰宅したのは、もう、夕方。少し早いが、本当に久しぶりに食事に行った。疲れた。父の具合が心配で帰宅後TEL。だるいらしい。仕方ない。切に思う。こうして、感染に細心の注意をし、何処にも行けず我慢して生きながらえても、幸せと言えないのじゃないか。、あと半年でも元気で、直前にキャンセルした沖縄にも、行きたかった北東の北海道にも、ハワイにも行き、見たい映画を見、行きたい場所に好きなだけドライブ出来、食べたい物をお腹一杯食べられるほうが父にとって、幸せじゃないのかと。本当に神がいるのなら、取り替えて欲しいと思った。先の分からない、感染に恐る恐る過ごさなければならない体と、余命半年でも、何の心配もなく、だるさも無く、健康な体。取り替えて欲しい・・・・。悲しかった。本当に悲しかった。何故、父が10万人の内の一人になったのか・・・・。まだ、私の中で、受け止め切れていない。
2003年12月28日
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今日はクリスマスイヴ。毎年、我が家はこの日にパーティををするのが恒例。父の事が有ってから、何だか、忘れ物をしたような「クリスマスいヴ」だし、空々しい「パーティ」だし、幕の向こう側にあるような「楽しさ」なのだが・・・。チキンだけは、予約してあったが、料理が全く予定していなかった。その上、お姉~のプレゼントは、用意したものの、チビのプレゼントは全く用意していなかった。そこで、取り敢えず、朝からチビを連れてデパートヘ。結局、一日、引き回しの刑に処されるはめになった。もう、足が棒のようになり、吐く息もたえだえに駐車場の休憩室までたどり着いた。元々、お姉~の分しか用意していなかった私が悪いのだが、チビもチビなのだ。姉妹の下の経験は無いので分からないのだが、彼女は、いつも何が欲しい?と聞いても、即座に答えが返ってこないのだ。そりゃ、お洋服初め、バッグ、マフラー、小物と何でもお姉~のお古が揃っているのだから、欲しい物など、無いはずなのだ。まして、今や身長はお姉~を抜いているから、お古ではなく、新品も着まわししあっている状態だ。でも、クリスマスは自分もプレゼントが欲しい。・・・となると、何が欲しいのか、自分でもはっきりしないから、デパートの中をそぞろ歩く羽目になるのだ。「Gパンで良いじゃない?」さんざん迷った挙句「ま、良っか」ときたもんだ。でも、お姉ちゃんがお財布を買ってもらったと聞いて、「そう言えば、私も欲しかったんだ」!!まあ、中学生の時分に買ってやったものだから、高校生では確かにちょっと可哀想かなあと思っていたが、一階に下りて、お財布売り場に行って驚いた。高い!。どれも1万円前後する。しかし、お姉ちゃんにももう少し高いのを買ってやったから、仕方ないか・・・・。こつこつ毎月積み立ててあった、さっき貰ったばかりの一年の積み立て「お買い物券」は、次々消えて行き、今や半分ほどになった・・・・・。ク~、自分へのご褒美に、靴でも買おうとおもったのに~。まあ、仕方あるまい。クタクタになって帰宅。さあ、それからが大変だった。超特急でポテトサラダを作り、チキンを温め、一年に数回しか使わないワイングラスを出し、クリスマス用の大皿を出し、それでも何とか間に合った。父の事があってから、娘たちにも辛い思いをさせた。これからも、きっと、娘達には、協力してもらわないとならないだろう。しばし、家族だけの楽しい時を過ごそう。皆、ありがとうね。
2003年12月24日
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疲れていたのだろう。昼近くまで寝てしまった。遅く起きた日は、ブランチ。ヨーグルト、イチゴ、パイ仕立てのパン、昨日のほうれん草の卵いため。世間は、天皇誕生日の休日だが、我が社はいつも通りの操業で、パパは、もう出かけていないし、おね~も、ちびもまだ、起きてこない。私は解るが、一家の主人が休みだというのに出勤するのに、二人の娘がまだ起きていないなんて許せん。叩き起こした。寝ぼけ眼の二人に、少しお説教。大変、クリスマスのケーキを予約していない。すぐ近くのいつものケーキ屋さんに電話。もう、予約は終わっているが、同じものが明日開店と同時に売り出すそう。午後からちょっと遠くの鳥肉専門のお店に、ローストチキンを取りに行く。今回は、いつもの丸焼きと、手羽ロースト1キロ、両親のために、ももローストを頼んであった。ここの本当に美味しい。以前に住んでいたマンションの近くなので、かなり遠くなのだが、今の家に引っ越してから、いろんなデパートやホテルのローストチキンを買ってみたが、皆の口から出るセリフは、「鳥○さんの方が美味しいねぇ」こいつらこうして食べられるだけでも幸せなんだぞと、叱ってもみるが、確かに言うとおり。どうせ高いお金を出すなら、やはり鳥○さんの美味しいのが食べたいと思い、最近はわざわざ、買いに行く。いつまで、こんな贅沢ができるか解らない。それこそ会社が傾いたら、したくても、住む場所もなくなる身だ。いつでも、覚悟はできているが、出来るうちは、してやりたい。帰宅途中、ちょっと父の様子を見に行った。顔色も良く、機嫌も良く、元気そうだった。ローストチキンを渡し、帰宅した。
2003年12月23日
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父が退院した。怪我して、発熱、救急車で搬送されてから、14日目。もう、父の気持ちは、限界だった。「早く、退院したい・・」手の甲に点滴の針をさしたままなのに、「明日の血液検査の結果が良ければ、退院しましょう」と昨日先生に言われてから、そわそわと、退院の用意をし始めた。こちらは、熱がちゃんと下がってから・・・・。帰ってきてからの対処の大変さに、まだ、準備が出来てないのに・・・と言う思い。しかし、、夕方「退院して良いですよ」のお言葉。ヒェーー大変だぁ。まだ、空気清浄機も、「酸素、酸素」も買っていないよ~。犬の事も決めてない・・・・。慌てて、パパに電話。「解った、すぐ行く」しかし、父の行動は、素早かった。あっという間に点滴の針を抜きに走り、着替えてしまった。片付けをしている母をせかせる。ただただ、犬に会いたい一心なのだ。しかし、その犬が、父の命取りに成り兼ねないのだから複雑だ。こちらが、思うより早く、用意が出来、清算を済ませてしまった父は、そそくさと病室を後にした。私は慌てて電話しに走った。「パパ、大変、もう、退院しちゃうよ」「そうか、仕方ないから先に帰っていてくれ」ウ~、私一人で大丈夫だろうか・・・・。あんなに犬に会いたがっている。あれほど説得したのに、まだ、納得していないのだ。それを何とか、今のうち、阻止できる方法は・・・?・・仕方ない、私の父だ。話して解らない訳はない。やってみよう。一階のロビーに下りた父は、感染防止の大きなマスクをしてソファに座って待っていた。「お父さん、ちゃんと聞いて」「何だ?」「あのね、先生は、犬に触っちゃいけないって仰ったんだよ。」「何言ってんだ、大丈夫だよぅ」マスクを通して聞こえてくる下町調子の威勢の良い言葉が、返って私を不安にした。「何言ってるの。あれほど言ったじゃない。大丈夫じゃないんだよ。本当に、お父さん感染したら死んじゃうんだよ。」「・・・・。」「お散歩は、良いって仰ったんだから、我慢してよ。触っちゃダメって言われたんだから、言う事を聞いて」「・・・。」まだ、納得していない。困った。最後の手段。「良いよ、言う事聞いてくれないなら、今から電話して、Aチャンにうちに連れて行ってもらうから」「そんな可哀想な」「だったら、触らないって約束して」暫く考えて、父はとうとうコクリと頷いた。「本当ね、本当に約束だから」「解ったっ!」本当にまるで駄々っ子のようだ。やっと、攻防戦に勝った。「約束だからね」うん、うんと頷く父に一抹の不安は残ったが、今は仕方なかった。車を回し、荷物を積み、帰宅途中で薬局に寄り、消毒のためのポンプ式の消毒液と、大きな抗菌マスクの箱を買った。車の中の父はおとなしかった。ただ、ポツリとつぶやいた言葉が胸に刺さった。「なんで、俺、こんな病気になっちまったんだろなあ」本当だよね。泣きたくなった。でも、今は泣けない。泣かない!お父さん、貴方が苦しむのは、多分これからです。でも、いつも、私が傍にいる事、忘れないで。心の中でつぶやいた。大きな秘密を持った。でも、それは、私一人の苦しみではない。父の為の秘密をこれから、家族と共有していくのだ。私は、もう、大丈夫。泣くのは、検査結果がはっきりして、父の命が消えてから。泣くのは、父の命を諦めた事になると言ったパパの言葉通り、私は諦めない。症例を信じない。数々の困難を運と努力で切り抜けてきた父が、また、奇跡を起こす事を信じよう。家に着き、母と二人で部屋を消毒して、父を中に入れた。ジュンは父の匂いを嗅ぎ分けて、甲高い声で鳴き続ける。「触りたいなあ。抱いてやりたいなあ」父がガラス越しに庭に放たれたジュンを見てつぶやいた。可哀想になった。これで良いのか?心が元気じゃなかったら、体も元気にはならないじゃないか。でも感染が怖い・・・・。考えた。そうだ!!「お父さん、触りたい?」「うん」「じゃ、マスクして、コートを着て、帽子かぶって、庭の外からなら触って良いよ」父は、本当に素早く用意をし、まるで子供のように靴を履いて外に出た。門を出て、庭を駆け回るジュンを背伸びをして、外の塀の柵から手をのばして触った。あまりの嬉しさに慌てていた父は玄関横から、低い柵に行ける事に気づかないのだ。父の姿に「哀れ」を感じ、「お父さん、こっちにおいでよ、こっちからなら頭もナデナデ出来るよ」と言うと、父は嬉しそうにゆっくり、しかし、今の父にしては精一杯の速さでやってきた。興奮して甘える犬に「そうかそうか、よしよし」と言いながら、頭を撫でる父の嬉しそうな顔。これで良いんだ。改めてそう思った。ひとしきり相手をして父は満足そうに家に入った。手を洗い、消毒した父は「満足したよ」笑顔が嬉しかった。それからの私は、父が寝るまでの間に寝室を消毒しておかなければならないため、帰ってきたパパと、空気清浄機と、酸素を吸う事の出来る機器を買いに走り、父の寝室に設置したりと、大変だった。そして、帰宅。家にいた娘達に報告し、遅い夕食を摂りに出かけた。これから、きっと、もっと大変になるだろう。でも、負けない。
2003年12月22日
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病院に行くと、父が嬉しそうにしていた。「明日、血液検査の結果が良かったら、退院して良いそうだ」本当に嬉しそうだが、数値は果たして良いだろうか・・・。あ、それより、退院となったら、犬の事がある。こりゃ、早く納得させないと、大変な事になる。いよいよ決戦だ。「お父さん、ジュンの事だけど・・」ジュンの話になると、父の顔がぱっと明るくなる。「あのね、お医者さんは、絶対触っちゃだめって。お散歩は良いけれど、抱いたりしちゃ駄目だって」「なんでだぁ」一瞬、険しい表情になった。こりゃ、なかなか手強そうだ。「あのね、お父さんの病気は、感染が一番怖いの。お父さんの血液の数値が普通の人よりうんと低くて、免疫力が落ちてるから」「大丈夫だよぅ」「大丈夫じゃないんだよ。命取りになっちゃうんだよ。今回も、普通の人なら感染しない緑膿菌と言うのに感染して、肺炎になっちゃったんじゃないの」「・・・。」「もし、言う事を聞いてくれないのなら、もう、家に引き取るよ」「そんな可愛そうな。」「何故、可哀想なのよ」「だって、お前の所は、外に置きっぱなしなんだろ?」カチンときた。犬は外ってのは当たり前じゃない!!負けられない。「何が可哀想なの。コーギーを外で飼ってるお宅は、たっくさん在るでしょうが!そうやって甘やかしたから、あんな我侭犬になったんだよ」「そんな可哀想な」それしか言わなくなった。「しっつれいねぇ。なんでうちに来ると『可哀想』なのよ」思わず可笑しくて笑ってしまいそうになる。手強い。そうだ、ここを攻めてみよう。「可哀想だと思うなら、言う事聞いて。家の中に入れない。ベランダとの窓は、開けない。抱かない」暫く、沈黙。「・・・・。解った」やれやれ、本当に解ったのか、とりあえず、私がうるさいから解ったのやら・・・。そんなに可愛いんだと、改めて思った。両親がいい年をして、些細な喧嘩ばかりするのを見かねて一昨年のクリスマスに黙って買ってプレゼントしたのだ。散歩をするようになってから、肺がんの手術後、本当に弱っていた父の体が、シャンとしてきて、健康を取り戻してくれ、プレゼントして良かったと思ったのだが、ここにきて、こんなに問題の種になるとは思わなかった。午後一旦、母に頼み、家に帰った。もし明日退院なら、リビングに有る空気清浄機を寝室に移し、リビングにも菌を殺す空気清浄機や、酸素が出る機器も用意しておかなくてはならない。パパに電話。しかし、会社の方に何か問題があったらしく、帰れないと電話。仕方ない、明日にでも、買いに走ろう。午後から近所に買い物に出た。ついでに気になっていたが一度開店の際、行ったきりのブランド物ばかり置いてある大型店に娘達のプレゼントのため、立ち寄った。あまりブランドには興味がない。私がそんなだから、娘達も、あまり興味がない。しかし、上の娘は、最近「TUMORI TISATO」がお気に入り。ネットオークションで、ユーズドのお洋服を買って着ている。ふんふん、ブランド物など、それで良い良いと、感心していたが、せめてクリスマスくらい買ってやりたいなあと思った。あった、あった。「TUMORI TISATO」恐る恐る値札を見た。何だ、言うほどそんなに高くない。お財布と、バックが同じような1万円台で買える。このくらいなら買ってやっても良いかな?確かにすんごく可愛い!私も欲しくなるようなデザインだ。エイッ!買ってやるか。ラッピングしてもらい、見つからないよう車のダッシュボードに仕舞った。喜ぶだろうなあ。どんな顔するだろう・・・。久しぶりに楽しい気分。夕方、母を向かえに行ったら、「明日、早く来てくれ、朝、血液検査して昼前には結果が出るだろうから」もう、退院するつもりだ。やれやれ、これで、結果が悪かったら、気持ちを立て直してあげる方法を見つけなくてはならない。父は、今回怪我をしなければ、この病も見つけられなかった。多分、近所の開業医に行っていたくらいだったろう。そう思うと、痛い思いをした父には悪いが、これこそ本当に怪我の功名と言う物だと、つくづく思った。おまけに、頭を打っていたら、多分、そのままだったに違いない。そう思うと、怪我をした昼間、新車のお払いに行った神社の神様に感謝しなくちゃならないなあ。入院した時は、「お参りに行ったのに、こんな事になって、もう、二度とあの神社には行かん」と怒っていた父だが、今は、心から、感謝。あんなに車が好きなのに、車は車庫に眠ったまま、まだ、一度しか乗っていない父。早く、乗れると良いね。
2003年12月21日
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朝、目が覚めて外がいやに明るいの気づいた。カーテンを開けてみたら、一面真っ白い雪景色。綺麗!!下に降りて行ったら、パパが車にチェーンを付けるため、悪戦苦闘していた。しかし、車が変わったので、どうも、パパの新しい車にはサイズが合わないよう。仕方がないので、北国産の私の車で出社することになり、私の車にチェーンを付け、出て行った。で、今日は、病院行きは、タクシーにお任せすることになった。昨日、お買い物の際、お肉を食べたがった父のため、牛肉を買い、煮物を作っておいたので、母に病院に行く前に寄ってもらって、手渡した。「今日はゆっくり休みなさい」の母の言葉に素直に頷いた。父が入院してから、めまぐるしく事が変わり、自分の気持ちの整理がついていなかったし、ちょっと疲れた気がしていた時だったので、正直、ちょっとお休みしたかった。溜まった洗濯物を洗濯機に放り込んだ。一休みしようとTVをつけたら綺麗なイルミネーション。そうなんだ、もうクリスマスなんだった。今年は、リースも壁飾りも玄関に毎年置く、大好きなリアルなマントを着たサンタの人形も、ツリーもまだ出していない。とてもそんな気になれないでいた。しかし、このままじゃ、娘たちも可愛そう。せめてプレゼントだけは、張り込んであげよう。彼女たちがいてくれただけで、どれ程、心が癒せたことか。ありがとうの気持ちを一杯、一杯、詰め込んで、プレゼントを用意しよう。相変わらず、部屋は、ゴミ箱をひっくり返したよう。でも、昨日、娘たちが溜まった洗濯物を畳んでくれたのが、部屋に置かれている。ありがとう。こりゃ、本当に頑張って良い物を見つけなくちゃ。外に出た。10センチ以上積もっているのに、まだ、降ってきている。駐車場の前と、門扉の下の階段下の雪を大きなスプーンのような雪かきで掃いた。白い雪の上に、真っ赤なもみじの葉っぱが少し落ちている。とっても綺麗。真っ白な雪の上の真っ赤な紅葉の葉っぱ。いつもなら、こんな素敵な光景はカメラに収めるのだが、家の中にカメラを取りに行く元気が無い。やっぱり、私、疲れているんだなあ。帰宅した母から「今日も変わりなかった」と聞き、少し安心。夜、また検索。沢山の方が、この病に苦しんでらっしゃる。そんな方達のサイトは、とても明るい。父のような年配の方はいないが、70歳以上の家族を介護してらっしゃる方の日記は、さすがに身につまされた。永眠されるまでの日記を一気に読んだ。うちで最後を看取りたいと決心なさって、自宅療養に踏み切ったのだ。私も父が動けなくなったら、無菌室に入れたりしたくない。骨髄移植の希望のない父を、自由のきかない無菌室に入れても、幸せじゃない。命の時間は短くなるかもしれないが、自宅で、ジュンの鳴き声の聞こえる場所で逝かしてあげたい。そのくらいの我侭、神様は許してくださるだろう。最後まで父の命の尊厳を守ってあげたいと思った。今日は、久しぶりにゆっくりできた。お母さん、ありがとう。
2003年12月20日
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最近、父は病院生活に飽きてきたのか口から出るのは、ウェルッシュ・コーギーの愛犬ジュンの事ばかり。寒くしていないか、散歩は行ってやっているのか、餌はちゃんと食べているか、寂しがっていないか。時々、窓の外を見ては遠い目をし、会いたいなあ。とつぶやく。本当に可愛くて仕方ないのだ。しかし少し不安になった。感染が恐い・・・・と言う事は「犬」は絶対的に危ない存在だ。非常に頭の良い犬で、人の目を見て、行動を起こす。父が入院して2日、食事をしなかったそうだ。心配して、母が夜、電話をよこしたが、たかが、犬なんだよ・・・と言って諌めたが、少々不安だったのは確かだ。しかし、一週間もすると食事もし、元気も戻りホッとした。そうだ、先生に伺って見よう。午後になって担当医に聞いてみた。「犬の事をしきりに言うのですが、やはり、まずいですよね」「そうですね~。犬の菌から感染する場合もありますからね~。うちの中で飼ってらしゃるんですか?」「はい、半分・・と言うか、ベランダをガラス張りの温室のようにして、そこにいますが、夜は抱いたりしています。」「それはまずいなあ」やはり、まずいのだ。どう説明しよう・・・・。今日は、辞めておこう。ちゃんと策を練ってから、父に印籠を渡さなければ、押し切られてしまうと思った。帰宅後、家族会議を開いた。今後、ジュンをどうするか。我が家には既にジュリアンと、猫のミルキーがいる。大型のジュリアンとジュンを二匹とも家の中で飼うのは、不可能だ。では、どうしたら良いのだろう。ベランダにジュリアンを暫く飼った犬小屋がある。粗相をした時、洗えるように、レンガも敷いてある。毛足の長いジュリアンは外では飼えない。以前、外に出し、木の実で毛が絡まり、大変な思いをしたので、家の中にいれたのだから。大型犬用の犬舎だから、ジュンには、充分すぎる大きさだ。散歩も娘達がしてくれると言う。とりあえず引き取る場合の結論は出た。しかし、問題は父の説得だ。父の所に置いておく場合の事。まず、ジュンを外のベランダの温室にしか入れない。触る時は外から庭に出て、絶対、抱いたりしない。家の中には絶対入れない。触った後は、ちゃんと手を消毒する。もし、父が納得してくれなかったら、その時うちに連れて来ようと言う結論に達した。可哀想だが、父の命には代えられない。今まで超過保護に育てられた犬だが、犬にも納得させなければならない。こちらは、何とかなりそうだ。問題は、父の頑固さ。決戦は、もう少し先にしようと思う。外は雪起こしの風邪が吹いている。急に寒くなった。
2003年12月19日
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朝、病院に向かう車の中で母が「お父さんに聞かれたらどうしよう」と言い出した。一人になって考えたら不安になったのだろう。「骨髄異形症候群って、病名は告知されたんだから、何も隠してる事にはならないよ。ただ、我々が知らない病名だけだっただけじゃない。先生に言われたとおり、感染が命取りになるって言えば良い」そう答えた。事実、私がこうして検索しても、判明したのだから、医師も隠したつもりはないのだろう。病室に着いた。父は顔色も良く、機嫌もまあまあだった。50年来飲んでいた頭痛薬も、そう飲まなくなり、食事もそのせいか、すすむ。良かった。沖縄に行く予定がだめになったから、温泉でお正月を過ごそう・・と言う話が出た。そうか・・・・。来年のお正月が父にとって、最後のお正月になるかもしれないのだ。そう考えると、抑えていた悲しい気持ちで胸が一杯になった。街に溢れるクリスマスのイルミネーションも最後なのか・・・。桜の季節まで生きていられるのかな・・。今年は、紅葉があまり綺麗じゃなかったから、来年は、見に行きたいと言っていたのに、それもかなわないのか。せめて、春の金婚式までは、元気でいて欲しいと切に思った。感情を押し殺し「そうだね、今からじゃ取れないかもしれないけど探して見ようか」と言うとそうかと嬉しそうに父が頷いた。泣きたくなるようなことばかり・・・。しっかりしなくちゃと思うのに・・・。医師に温泉は非常に感染の危険有りと止められた。どう、父に伝えて良いやら・・・と思いつつ病室に戻った。正直にしか言えなかった。父の落胆は目に見えて酷く、目の光が曇った。こんな事なら、最初から医師に聞いてから父に言えばよかった。今、正直に言わなくても「ホテルが一杯だった」とでも後日言えばよかったと、死ぬほど後悔の念にかられた。自分の不器用さを恨んだ。母は、本当のことを言って良かったのよ・・・と言ってくれたが、落ち込んだ。「病気が良くなったら、また行けば良いよ」と言った父。お父さん、この病気はゆっくり坂道を降りていくように悪くなるだけなの。温泉には、もう、行けない。悲しかった。悔しかった。今までこの血液の癌と言われる病気と解ってから一度もそんな風に思わなかったが、初めて、強烈に恨んだ。摂れる限りのサプリメントを摂り、毎年律儀に人間ドックに行き、健康のために、一日三十品目の食事を心がけ、運動もちゃんとしていたのに、どうしてこんな病魔に襲われたのか。まして、10万人に1人と言う、宝くじに当たったような病気に・・。体の癌なら、どうにかできたものを、血液じゃ、どうにもならないじゃない。まさか、血液が侵されているなど、微塵にも思わなかった。免疫力を上げる食事も、健康法も、すべて空しい。だって、雑草が生えたら抜けば良いけれど、作物の出来る土が汚れてしまったのだからどうしようもない。もう、考えるのは辞め様。考えても仕方ないじゃない。成るようにしかならないんだから。帰宅後、また、いろいろなサイトに行って調べた。やはり、骨髄移植しか方法は無いようだ。この近辺で移植をしている病院は数件あったが、Nの日赤が一番生存率が良い。少し、ほんの少し希望を持ったが、すぐ打ち消された。「70歳以上の移植はしない」と言う文字が飛び込んできた。体力的に無理なのだそうだ。そりゃそうだ。沢山の若い方が苦しんでらっしゃるのだから、そちらが優先になるのは、当たり前か・・。それに成功率も70歳を超えたら低いのも当然。ただ、高齢者に最近この病気が増加しているのは事実だそうで、研究が進んでいるのだそうだ。そう言えば、娘がRhマイナスと知った時、「血液の分野はまだまだ解らないことが多いんですよ」と娘の主治医が仰っていたっけ。移植の希望は叶いそうも無いが、他になにか方法はないのだろうか・・・。今日も3時過ぎになった。明日も早い。私が倒れたら大変だ。今晩はこのくらいにしよう。
2003年12月18日
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これから先、この日記を公開するかしないか、とても、とても、迷いました。何故なら、沢山の私の友人や、知り合いの方が読んでくださっているからです。父の病名が判明してから一週間が経ちました。その間、日記はお休みしてしまいました。考えました。このまま、父の事に触れずに書いていこうかとも、思いましたが、やはりこの日記を書いていくに当たり、父の事を抜きには書けないと思いました。読んでくださっている方々に嘘をつくことになるとも思いました。嘘を書いた日記など、何の意味も無い。だったら、このホームページ自体、閉鎖しなくてはならないと思いました。そして、多くの白血病や、骨髄異形症候群に苦しむ方のサイトを訪れ、本当に皆さん、明るく一生懸命生きていらっしゃる事を知り、私も、勇気を持って公開しようと決めました。自分がどんな風に考え、どんな日常を送って来たのか、後に振り返るためにも、この日記を閉鎖したくないと思います。これから、少し、重苦しい感じになってしまうかもしれませんが、どうか、皆様、読み進んで頂ければ幸いです。m(__)mそして、私の大切な友人の皆様、私に会っても、知らん振りを決め込んでください。宜しくお願い致します。m(__)m 12月23日__________________________昨日、先生からこの病名を聞いた。帰宅し、パソコンで検索した。驚いた。奈落の底に落とされたようだった。どうしよう・・・。それしか思えなかった。あちらこちらのサイトに行って見た。「抗がん剤」「輸血」「白血病」・・・・。「白血病ではないんですね」と先生に尋ねた時、「ええ、それは違いました。」と言われ、母と二人良かったと胸なでおろしたのに。いずれ、そうなる病気だったのだ。10年かかってゆっくり症状が現れてくる・・と言う事は4年前の肺がんも、膀胱がんも、この血液の癌のなせる業だったのだ。しかし、この病気にも段階がある。うまくすれば、10年、4~5年生存から、半年生存まで。どの段階なのだろう。主だった物をプリントアウトした。昼、病院に行き、昼食を取りに出た際、母に検索結果を見せた。「大丈夫、お父さんの歳だから、自然でも、あと4~5年生きられたら良いなあと思っていたから」案外、大丈夫な様子。「貴方は娘だから、私よりショックでしょうけれど、案外年を取ってくると、覚悟はできてくるものよ」いつも、父を頼り、父の陰にいた母から、このような言葉が出てくるとは思わなかった。びっくりしたが、心強かった。そうか、お母さんがその気なら、私も心の負担が少なくなる。そうだよね、あと4~5年なら、本当に大往生だもんね。まして、大部屋にいるって事は、そう、重くないって事か・・。昼過ぎ、血液内科の担当医が父の病室にやってきた。「数値が上がってきましたので、まあまあ、良い状態でしょう。ただ、免疫力が落ちていますから、感染には気をつけないとね」そう説明して出て行った。私は、プリントアウトした物をバッグに隠し持って「ちょっとトイレに行ってくる」と言い、病室を出た。廊下で他の患者さんの部屋から出てらっしゃる先生を待った。出ていらした先生にかの物を見せた。ペラペラとめくって仰った。「そうですか・・。さっきはご本人がいらっしゃったので言えませんでしたが」「これなんですね」「ええ、そうです。」「どの段階なのでしょう」先生は黙って3段階を指した。ショックだった。しかし、怯んではいられなかった。口をついて出たのは「あとどのくらいですか?」だった。自分でも驚いたが、「・・一年・・・・は難しいですね。この病気で亡くなることは少ないんです。今回のように感染が原因というのが多いですから」・・・「ありがとうございました」そう言うのが精一杯だった。「一年が難しい」・・・・。そのまま、病室に戻る事が出来なかった。無意識のうちに、エレベーターホールに来ていた。そのまま、下に降りた。一階に着くと、外に出た。父がいなくなる・・・・。考えられなかった。涙は出てこなかった。ただ、自分が小刻みに震えているのがわかった。そうだ、パパに知らせなくちゃ。携帯でパパに電話して、先生に言われた事を言った。「そうか・・・大丈夫か?」。不思議と大丈夫だった。あまり遅くなると父がおかしく思うから、病室に帰るねと言って電話を切った。売店でプリンを買って上に上がった。「何処行ってたんだ」父が怪訝そうに聞いた。「うん、これ、買いに行ってた」「お前は子供だなあ」可笑しそうに母と笑う父を前に、自分の顔が引きつっていないか、仕草はぎこちなくないか、気にしながらプリンを空け食べた。何の味もしなかった。何か柔らかい物を食べているような感じだけ。母にも言えないと思った。これからどうしようと思った。感染症が怖い。それなのに、母は、病院食を父に薦められ食べようとした。「ダメだよ!!」思わずきつく言ってしまった。母は、慌てて「そうだ、感染が怖いんだったね」と取り繕った。時間が経つにつれ、冷静になっていった。夕方、上の娘が大学の帰りに寄ってくれた。父の恋人だ。嬉しそうな父を見て、私もほっとした。夜、帰宅のため母と娘を乗せ、娘のバイト先に向かった。娘におじいちゃんの病状を説明した。突然、「あと、どのくらい?」娘が聞いてきた。言葉に詰まった。どうしよう、母がいる。しかし、母にも、感染が命取りになる事を肝に銘じてもらわなければならない。退院したら、父の世話をするのは母だ。あのように、気軽に同じ箸で食べ物を口にされては大変な事になる。短い瞬間に考えた。黙っているべきではない。バックミラーに映っている怪訝そうな顔をした娘に向かって車を運転しながら言った。「一年は難しいって」母がびっくりして聞き返した。「感染で亡くなるらしい」一瞬、車のエンジン音だけが大きく響いた。「・・ごめん、お母さん」娘がつぶやいた。娘の沢山の思いのこもった「ごめんなさい」だった。優しい気持ちに涙が出そうになった。「良いの、それ聞いてなかったら、気をつけられなかったから」と母が即座に答えた。車内の空気は途端に重くなった。娘を降ろして帰路についた。「そう、一年・・・。」さすがにショックだったのだろう。「うん、聞いてからすぐ病室に帰れ無かったよ」。「大丈夫よ、私は、大丈夫だから、心配しなくてもいいわよ」確かに母は昔から強い人だった。「先のことは解らないじゃない。今は感染しないように万全を期するより仕方ないわよ」そうだ、本当に。母を送って帰宅した。パパに電話。「今、帰ってきた。お母さんに言っちゃった」病院から電話してからのいきさつを報告した。報告しながら、泣き出した。泣きたくないのに、泣き出してしまった。止まらなくなった。「あのな、何故泣く。諦めたのか?お前が諦めてどうするんだ。お前がお父さんや母さんを支えなきゃならないんだぞ。泣くって事は諦めた事なんだぞ。」パパの言葉にただただ、頷くことしか出来なかった。パパの言うとおりだった。諦めない。泣かない。大丈夫のはずじゃなかったのかと、自分に言いきかせた。感情的になるのは、うんと先で良い。感傷にひたるのも、先で良い。今は、父が何とか感染しないように周りが細心の注意を払ってあげるのが、最重要事項じゃないか。気持ちがシャンとなった。「もう、大丈夫だよ」「そうか、大丈夫だな?」「うん」電話を切った。その晩、遅くまで検索した。ネットサーフィンして、情報を集めた。何とかならないのか・・・・・。気が付くと午前3時。いかん、いかん明日も病院に行かなければならないんだった。明日は良い日でありますように。
2003年12月17日
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今日は朝、母を送って行ってちょっと父の様子を見たら帰ろうと思っていた。病室に入るとすぐ看護士さんがいらして、口腔外科の診察に行かなければならなくなり、仕方ないので病室のお留守番をしていた。口の中の抜糸と、外側の傷が化膿しかけていたので、結局、3針また、縫った。抵抗力が落ちているから、化膿してしまったのだろう。お昼近くなって、また、頭痛。ナースセンターに安定剤をお願いしに行ったが、担当医に聞いてからと言われ、戻る。痛みで顔をしかめている父を、どうしてもやれないのが、可哀想で仕方ない。暫くすると、看護士さんが安定剤を持ってきてくださり、事なきを得た。5分もすると、静かに寝息を立て始めた。たった5分で薬の作用があるはずが無い。父の頭痛は、やはり、かなりの部分で精神的な物と思われる。50年それを止めるため、かなりきつい頭痛薬を服用してきたのだから、相当薬が抜けるまで、かかるだろう。寝息を立てている父を残し、母と昼食を摂り、一人帰宅した。折角早く帰宅したのだから、良いお天気だしお洗濯をしようと洗濯機に沢山放り込んでスイッチを入れ、お風呂にも入ろうと用意をしてお風呂が沸くのをまっていたら、いつの間にか寝てしまった。午後5時。もう外は、暗くなっていた。あ~、また寝ちゃった・・・。でも、洗濯して干さなかったのは、正解。娘が帰ってきて、少し時雨れたと言っていた。仕方ないので夕食の用意をしてバイトに出かける娘を乗せ、病院に母を迎えに行った。父は、あれから、また、夕方に頭痛で騒いだそうだ。困ったものだ・・・・。娘の顔を見て、少しほっとしたよう。やはり、薬より孫か・・・・。午後から麻酔をして、髄液を摂ったそうだ。検査結果は一ヶ月掛かると聞き、父は入院が長引くと覚悟を決めたようだ。やれやれ、これで、要らぬ気を使う事がなくなった。ちょっと、可哀想だったが、仕方ない。この際、体の悪い所を徹底的に見つけて頂こうよと言ったら、大人しく頷いていた。娘をバイト先のお宅まで送り、母と買い物をして帰宅。なんだか、一日がものすごく早く過ぎていく。まだ、お年賀状も、大掃除も何もしていない。仕方ない。緊急事態だもんね。あ~、疲れた。
2003年12月15日
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今日は、ゆっくり寝ていなさいと母に言われたので、お言葉に甘え、9時過ぎまで寝てしまった。昨夜、すごい内容の「SNOW WITE」白雪姫の実写映画を、ボーッとみていたら、あまりの面白さに最後まで見てしまい、夜中まで起きていた。遅い朝食を摂り、さあ、シャンプーをしましょと立ち上がったら、電話。母からだった。頭痛が酷くなった父が、薬を欲しがり、担当医に聞いたが、許可が出ず、母に辛く当り散らしているらしい。看護士さんも手がつけられないほど興奮している姿にパニクッた母が電話してきたのだ。一旦は、切ったものの心配になり、一番強い味方の娘と一緒に病院に行く事にし、こちらから電話しようとしたらまた、母から。看護士さんに言われるまま、帰る用意をして病室を出たが、とオロオロしているので、今から行くから其処にいなさいと言い電話を切った。すぐまた掛かってきた。驚いたことに、今度は父からだった。「あのなあ、お母さんに帰れって言ってしまったんだけど、お前から謝ってくれないか」・・・。(*^_^*)夫婦だなあ・・と思った。歩くのもしんどい父が、公衆電話から一番遠い病室から、点滴の支柱をコロコロ引きながら、歩いて私に電話をしてきたのだ。「悪いと思ってるの?」「うん」「お母さんは担当医に言われて、その指示どおりにしてるだけなんだよ」「解ってるよ」「じゃ、どうして我侭ばっかり言うの」「そんな事言ってもなあ・・。」「もう、しょうがないなあ、お母さんまだ、そこにいるよ」「どこだ?」「内緒!今から行くから、ちゃんと自分で謝んなさいよ」やれやれ、全く50年も一緒にいるのに、こんなものかなあと呆れつつ、娘と病院へ。母は、面会室で本を読んでいた。病室に行くと、一回り小さくなって父が、済まなさそうに座っていた。「ほら、ちゃんと謝るのよ」少し母を見上げた父は、照れくさそうに「・・・・ごめんね」。母の目から涙がこぼれた。「あ~ぁ、おじいちゃん、おばあちゃん泣かした」娘に言われ、50年連れ添った夫婦は、顔を見合って照れ笑い。「50年、一緒にいてお父さんに謝ってもらったの初めて・・。」涙を拭きながら、赤い目をした母が笑った。今日は、来年、金婚式を迎える両親の記念日になった。ったく、世話がやける夫婦だ事。しかし、それだけ、頭痛が酷いのだ。聞けば、安定剤を頂いて、痛みが無くなったそうだ。あれほど、私が安定剤を飲みなさいと言っていたのに、言う事を聞かなかったからだ。父の遺伝で緊張性の偏頭痛持ちだった私も頭痛薬を手放せなかったが、精神科の診断で、安定剤を処方して頂き飲むようになってから、頭痛は軽減されたので、うんと前から、父に薦めていたのに、言う事を聞かなかったのだ。「ほ~れごらん」と、言うと、父はますます小さくなっていた。娘にも、叱られた。私が叱るより、何倍も効く。やれやれ、これで少しは良い薬になった。我侭も程ほどにね、お父さん。
2003年12月14日
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今日はパパの誕生日。朝からパパと8回目の人間ドックへ。血液検査や、身体測定、視力、聴力、肺活量測定、眼底検査、バリウム検査、婦人科検診・・。バリウムが駄目な人は多い。私は、全く大丈夫。今日はイチゴ味のバリウムで嬉しかった。去年はバナナ味だった。しか~し、その前の発泡剤が全くダメ!!!毎年、「ウグッ」「ゲボッ」となってしまう。今日は、看護士さんにコツを聞いたら、「もう、一気に水で流し込むと良いですよ」と教えて頂き、「ゲボッ」は免れた。結果は、子宮筋腫が出来ていたが、まだまだ小さいので、心配も手術の必要も無いとの事。良かった・・・。薬の副作用で太ってから、なかなか体重が減らない。食事の量は少ないし、甘い物はダメ。間食もしないのに減らないのは、やはり運動不足。母に付き合ってお昼を外で摂る様にになって、4日で体重が3キロ増えてしまった。外食ばかりのサラリーマンが、なかなか痩せられないのは、きっとこういう状態だからなのだろう。散歩が良いのは解っているけど、なかなか外に出られない。でも先生が週3日で良いと仰ったので、何とか散歩をしたい。あとは父の事が原因らしい不整脈。そう言えば、ここ2~3日、ちゃんと寝ていない。時々胸がドキドキと空気が動くような感じがしていた。明日から気をつけないと、こちらが、倒れてしまう。油断は禁物。結局、パパの体が心配で始めた人間ドックだが、今年は私の方に問題有りの結果。後から血液検査の結果が送られてくるが、こっちは大丈夫だろう。一人お留守番をしている娘のお昼を買って帰宅。さあ、戦闘開始。パパの誕生パーティの準備。しかし、頭痛が。えい、寝ちゃえ。二時間寝たら楽になった。今日は、パパの好きな粕汁とステーキ。附け合わせに、この前見つけた中がサツマイモのように黄色くホクホクのアンデス高原のジャガイモ「パパクリオジャ」。これ、本当に美味しい。ホクホクなのにそう甘くない。ジャガイモとサツマイモの中間みたいな味。直径4CM前後の大きさ。粕汁の具には、人参、ごぼう、こんにゃく、豚肉、おねぎ。大根を買い忘れたので、今日は無し。粕は、ミキサーで解きほぐす。今日は美味しく出来た。ケーキはTVのお買い物番組でゲットしておいたパリの4つ星製菓店パティシェが作ったチョコレートケーキ。プレゼントは母と買いに行ったポロシャツとセーター。ハイ、準備完了。母を病院に迎えに行き送って、帰宅。パパが帰って来て皆で「ハッピバースディ」をした。いつまでこうして、楽しいお誕生日が送れるかな?娘達がお嫁に行ったら、二人きりのバースディだ。こうして楽しいバースディが送れるのも、パパのお陰だねぇとは、娘のひと言。ほんとだよね。お誕生日、おめでとう。
2003年12月13日
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今日は内科病棟の病室にお引越し。酸素吸入をしているのでトイレに行けないのが、相当、ストレスになっている。熱は、相変わらず上がったり下がったり。ただ、動かなかった指が、動かせるようになり、本人は、すごく嬉しそう。良かった。大部屋なので、なるべく静かに静かに。外に食事に行くお昼だけ、母にとってホッとできる時間だ。幸い病院が街中なので、そこかしこに食べる店が有り、不自由はない。向かいのスパーマーケットや、大型薬局、100均のお店など、便利な場所。母の気持ちが少し晴れると良いと100均に連れて行った。病室にいる母の表情と違い、少し、楽しそうな明るい母に戻った。歳を取ると、病人も大変だが、看病する方も、本当に大変。完全看護の病院とは言え、父の年代の人は、皆、おうちの人がベッドの横で一日付き添っている。ほんの少しだったが、気晴らしが出来たのだと良いな。今日も朝から何台も救急車が病院の前の4車線の広い道をけたたましく入ってくる。非日常の世界が其処にある。普段は忘れている病院と言う場所には、これが日常なのだろう。午後、治療計画書を頂いた。12月末が、退院予定になっていた。やっぱり・・・。多分、熱が下がったら、検査が始まるのだろう。先は長い、長期戦。今一度、私がしっかりしなくちゃと思う。明日は私が人間ドックなので、来てあげられない。お母さん、一人で大変でしょうけれど、あまり、頑張りすぎないでね。
2003年12月12日
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朝、母を乗せ、病院へ。午前中、ERから、内科病棟にお引越し。しかし、病室が一杯と言う事で、ナースセンター横の治療室へ一旦落ち着いた。広い個室だが、ナースセンターの続きの部屋で、隣は処置室、仕切って有るだけなので、結構、うるさい。季節が不順のせいで、お年寄りが「肺炎」を起こし、次々入院患者が入ってくるそうだ。午後、先生から病状の説明。病名は解ったが、原因は、まだまだ、検査をしないと解らないそう。ただ、熱が下がっても、所見的には、非常に重大な状態だそうだ。入院は長引きそうだなあというのが、医師の説明から受けた感触。母は、今一、事の重大さに気づいていないよう。まあ、それはそれで良い。と成れば、娘の私がしっかりしなくちゃならないなあ。父の状態は、昨日より熱も下がり、まあまあ、そう急に心配する状態ではない。ただ、一日の中で、熱は37.7~38.5°までと落ち着かない。明日、病室が空くのでまた、お引越しだそう。酷い偏頭痛持ちなので、薬が飲めず、イライラして機嫌が悪い。暫くマッサージをしたら、少し楽になったよう。良かった。怪我は一日以上経って、あちこちに痛みが出てきたようだ。左手は、父の元の手より、倍に腫れ上がっている。ちょっと触るだけで飛び上がって痛がる。穴が空いてしまった上唇も、倍に腫れている。胸も、打ったようで、痛がる。今朝、体を拭いて頂いた時見たら、足も黒くあざになっていた。正に、全身打撲の状態だ。まあ、こちらは日にち薬と言うのかな?。検査はまだ始まらない様子。本人は、自分の事より飼い犬の心配ばかり。ウェルシュコーギーのジュンは父が甘やかしたので、大変な我侭犬になった。しかし、頭の良い子なので、多分、父がいない事がちゃんと解るだろうから、大丈夫と何回も言ったが、気にしている。自分の方が大変なのに・・・。まあ、それだけ大丈夫と言う事か。今日は一日病院にいた。明日は、怪我がもう少し良くなっていると良いな。
2003年12月11日
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昨日夕方、母から緊迫した電話「Iちゃん、お父さんが怪我した」それだけ言うと切れた。掛け直すより、行った方が早い距離なので、慌てて車に飛び乗り、駆けつけた。玄関から出て、階段を降り、外に出ようとして側溝に落ち転び、車と塀の間に落ち、コンクリートブロックで鼻の下をしたたか打ったらしい。見ると鼻の下に傷、出血が酷い。慌てて、大きな病院の救急外来に受診の連絡をして車に乗せた。ER(救命救急センター)の待合室でしばらく待って診察室へ。何と転んだ勢いで、歯とコンクリートで鼻の下を打ち、穴が開いてしまっていた。すぐ麻酔し4針縫って、やれやれ処置が終わり、お薬を貰って帰宅。食事に出ようとしていたとの事で、仕方ないので、今はやりのカロリーの有るセリーやら、プリンやら傷に痛く無いものを食べさせようと買った。頭を打たなくて本当に不幸中の幸いとホッと胸なでおろし私も自宅に帰宅。午後11時、そろそろ寝ようかと思っていたらまた母からTEL。「Iちゃん、お父さんすごい熱・・」今度はパパもいたので子供達に戸締りをしっかりするように言って駆けつける。二階に駆け上がってみると、母はもうおろおろして役に立たない。熱は38.8°意識は有るが、呼吸がおかしい。本人は嫌がったが救急車を要請。こんな時でさえ、頑固な年寄りに困った物だと呆れつつ、到着した救急車に母を乗せ、私とパパは一旦帰宅、すぐ追走した。レントゲン、血液検査とERのナースさん達は、本当にテキパキと仕事をこなす。大分待たされ、呼ばれて処置室に通されると、酸素吸入された父が苦しそうにしていた。先生のお話。暫く入院だそう。今心配しても仕方ないと、気を取り直し暫く様子を見ていた。取り合えず、落ち着いた状態になったので、ホッとし、時計を見るともう、午前3時。母を連れ、後は病院に任せて帰宅。朝まで3時間少し。仕方ないので、そのままソファに横になって仮眠。朝、子供のお弁当を作り、病院に行く用意。二人でこの週末から沖縄に行く予定だったので、キャンセルしたり、山ほどしなくてはならない事が出来た。只でも出来ない自分がどうなるのか不安だったが、そんな事も言っていられない状況。母を伴って病室に行くと、昨夜より顔色も良く、熱も下がり、会話も出来るようになっていて一安心。しかし、ERにいると言う事は、まだまだ、予断は許されない。一日、母といたが、病院側からは、まだ、今後の予定がはっきりしないとの事で、病状の説明は一切なく、今日はそのままERの病室で入院。夕方、帰宅。疲れた・・・・・。家族の食事は店屋物で済ませた。早く寝ようと思っていたら、下の娘が、学校の悩みを持ちかけてきた。私の状況を解っていての相談。きっと、相当悩んでいるのだと思い娘とじっくり話をした。結局今日も、午前1時。ああ、本当に、私達の年齢は、皆、こんな風に子供の事や、親の事で、「時」を削っているのだなあと、改めて実感した。みんな頑張ってるんだよね。私も、大人の仲間入りしたと言う事か・・・。頑張らなくちゃね。皆、私の大切な大切な家族なんだもの。明日も大変だ。何も考えず、寝よう・・・。
2003年12月10日
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昨日、ゆっくり出来たので、今日はカウンセリングの日だし、シャンプーでもしようかとお風呂のスウィッチを入れたら、電話。コーラス部の友人から。「今日、何時に出る~?」「うん?何?」「エッ!!!今日、送別会だよ、行かないの?!」「うっそー!明日じゃなかったっけ」キャー!、手帳にも、カレンダーにも10日が送別会になっていた。大変だ~。何も用意していないよ~。10時半に彼女の家に迎えに行く約束をした。あと2時間。慌ててシャンプーをした。着ていく洋服もまだ、明日と思っていたので用意もしていなかった。去年のワンピースを着てみた。しか~し、これは少しきつい。体型がそのまま出ちゃう。まずい!!ええい、ままよ、一番前に掛けてあったワンピースにしちゃえ~。着替えを済ませ、もう、時間ギリギリ。ハンドバックも入れ替えしないまま、車に持ち込んだ。彼女の家に着くと、「本当に、明日だと思ってたの~?」車の中でお化粧している私を見て、呆れてる。そりゃそうだ。私だって、こんな自分に呆れ返っているんだもの。彼女が神様に見えてくる。彼女が電話してくれなければ、明日、出掛けていたのだから・・・・。お・そ・ろ・し・か~(;一_一)送別会は今回で8回目。私は、2年前に送って頂いた身。下の子供がまだ在校中なので継続しているので、お気楽部員ゆえ、こういう集まりは、気遣いなく、楽しい。でも、見回してみれば、私達が一番の年長者。そろそろ潮時かなあ。帰りに仲良しでお茶の二次会。夕方、家に帰り着いた。Hさん、本当にありがとう。お電話してくれなかったら、地獄でしたm(__)m良い友達を持ったものだ、全く。
2003年12月09日
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葬儀の疲れがどっと出た。朝から、な~んにもしないで寝た。気疲れだろうなあ。外は雨。何もしない日にしようと決め込んだ。明日はカウンセリングだし、まあ、今日は、ゆっくりして、ドールショップのお客様への発送の準備だけ。ありがたい事に、ポチポチ、こうして皆様に知っていただいてきている。新しいお客様のためにも早く、新しいウィグや小物、ドールをUPしなくちゃいけないなあと思いつつ、なかなか、できない。眠いし、体が重いし(痩せなきゃだめっす)気持ちも重い。何か、良い方法が無いかなあ・・・。成るようにしか成らない。ジレンマはストレスのもとだから、いけないね。頑張りましょう。
2003年12月08日
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沢山の方におまいりして頂いた。パパの従姉妹は、ずっと泣いたままで、こちらまで心がとても痛くなった。途中、彼女の手をしっかり握って声を掛けたが、悲しみの深さには、到底及ばない。それでも私に「大丈夫」と笑いかけてくれる涙一杯の顔。娘と父親の別れの悲しみは、いかばかりだろうと思うと同じ娘の立場としてたまらなくなる。葬儀が終わり、親戚ばかりになり、パパは、仲の良い従兄弟と話し込んでいた。若い頃、従兄弟夫婦と4人で、河原町に飲みに行った思い出。楽しかったね。今はお互い、気持ちはあの頃のままなのに、大きくなった子供達に、歳を重ねたのだなあとしみじみ思った。きっと叔父様も、どこかで私達を見ていてくれてるのでしょう。どうか、安らかに。
2003年12月05日
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朝からバタバタとおばあちゃんの喪服や靴、自分達の用意などし、ホームにおばあちゃんを迎えに行き、一路、京都へ。夜遅く到着。もう、通夜客は、いない。親戚ばかりの葬儀会館の中は、静けさと厳かな空気と、非日常的な雰囲気が漂っていた。おばあちゃんはいきなり甥っ子と姪っ子に「あんた、誰?」振り返った姪っ子は笑いながら「私じゃないの~」写真の叔父は、穏やかな良い笑顔だった。そこにいる本人とは別人のように・・・。久しぶりの再会と、他人のいない気安さから、深夜まで話込んだ。通夜とは、こうして故人の思い出を共有する人が、話をし、故人を偲ぶ場所なのだ。しかし、明日の事も有るので、失礼して、おばあちゃんをそこから離れた街の弟の家に送って行った。葬儀場近くのホテルに戻ったのはもう、1時過ぎ。眠いのか、眠くないのか解らない感覚。疲れてはいない。気持ちがだるいのだと気が付いた。熱いシャワーを浴びた。明日はゆっくり起きよう。
2003年12月04日
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どうして、忙しい日は、一辺に忙しくなるのかな?朝から、髪を染めに行った。もう、本当に嫌に成っちゃうくらい白くなった。27歳から染めてるから仕方ないけど、だんだん染める間隔が短くなってきた。ひと月もったのに、もう、20日に一回染めないと、5歳くらい老けちゃう。髪は、すごく早く伸びるのになあ。お昼は、試験で帰って来た娘と大学をサボった(本当に、何考えてるんだか・・)娘と3人分。午後からマンションの内装の相談。せっかくここまで来たからと、ショピングセンターへ。大きなお花の売り場に行ったら、パンジーと葉牡丹がやたら、場所を取って、他のお花はあまり良いのが無かった。最近のパンジーは本当に色々な種類があるんだなあ。一株なのに、色々な色が咲くのとか・・。でも、パンジーはパス。ピンクのデイジーをゲット。それから、宿根のバーベナの変わり咲きも少し購入。明日、これ、門扉横の植え込みに植えようと思ったのだが・・・・。欲しかったレモンの苗があったが、お値段に躊躇。もう少し、別の店も探そうと、断念。外に出たらもう、暗い。慌てて、食品の建物に移った。今夜の夕食材料をゲットして帰宅。チビは徹夜の勉強のため寝ていた。おネェ~は、家庭教師のバイトでいなかった(大学サボッてもバイトは行くのかぁ)仕方ないので、一人でTVを見ながら食事。一人の食事は、味気ない。多分、こんな夕食がこれから増えていくんだろうなあ。そう言えば、誰かが離婚した理由に「気が付いたら、いつも一人で食事するようになっていて、家族それぞれが自分の事で精一杯なのに、私は一体、ここで何をしているんだろうと思い始め、存在理由を確かめたくなって離婚した」って言っていた。今、それが、すごくよく解る。でも、私は、家事以外で自分のすることが無い訳じゃないから、踏み止まれるのかも知れないなあ。今日は、特番の歌番組が有って、結構楽しんじゃったから、それほど寂しくはない。と、突然の電話。義妹から。「叔父さんが亡くなったと連絡が入りました」「えっ?」関西の都市にいるパパの叔父は、もう、随分前から体をこわしていた。お盆にお見舞いに行っても会わせて頂けないほど、弱ってらしたので、心配はしていたのだが・・・・。夜遅くになって慌しくなった。明日、泊まるホテルのことやら、ホームにいるおばあちゃんの事やら、案の定、混乱し始めた。おばあちゃんにとっては、たった一人の妹のダンナ様だ。あとは、寝るだけと思っていたからもう、半分、瞼が閉じかけて、あとは、お姉ちゃんに頼んで寝ましょかね~と思っていた。眠いのと、混乱した頭を持て余した。おネェの「しっかりして、お母さん」の言葉に我に返る始末。さあ、明日からたいへんだ~。いやいや、平常心、平常心、あ、やっぱり混乱してる・・・。
2003年12月03日
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ずっと眠い状態がここ暫く続いている。ちょっと病的だったので、カウセラーに相談。ADHD対処薬のリタリンをここ二ヶ月ほど辞めている。習慣性が強く、合法的覚せい剤みたいな薬だ。結構、問題も指摘され始めている。いろいろなADHDサイトに行って投稿文を読むと、「辞めた方が良いんじゃないかなあ」と思い始めた。そこで、担当医に相談、辞める方向で対処し始めたところだった。ただ、不器用なものだから、序々に・・・という事が難しく、急に飲まなくなった。だって、この日は飲んでこの日は飲まなくて・・・と言う加減ができないのだから仕方ない。まあ、それがADHDたる所以なのだが・・・。普通の健常者が飲むと、しっかり覚醒する薬らしいが私達ADHD障害者は、ただ、混乱を抑える薬にしかすぎない。飲むと、頭の中がすっきり整理される。だから、家事もできるようになり、考えも混乱することなく最後まで、貫いて考えをまとめられる。だが、慣習性があるリタリンを求めて病院を点々とする障害者もいる・・・と聞けば、怖い。そこで、自分で辞めて、自分の力で頑張って障害と戦おうと決心したのだ。私をADHDと診断してくれた医師は、今は近くの都市にキャリアアップして赴任していった。途中から変わった若い担当医はこういう時、そう、大した事じゃないような態度で接してくるが、本人にとっては、非常に重大な、勇気のいる事だったのだ。まあ、ADHDの専門医じゃないから解って頂けないのは仕方ないと、こちらも、自分の息子のような歳の担当医を前に「貴方は全く解っていない!」と気色ばんでも仕方ないので、「薬を減らしていかないと・・」の言葉に冷静に従った。しかし、不安で仕方なかった。薬を辞めたら、また、何も出来なくなってしまうんじゃないのか、また、人との付き合いが怖くて外に出られなくなるのじゃないか、また、家族との確執が酷くなるのじゃないか・・・。担当医には、そんな事は、全くわからないようだったし、わかるような年齢じゃなかったのでこちらも、言わなかった・・・。と言うより、言ってもこの人には、解らないだろうなあ・・と言うのが正直なところだった。だから、自分でしっかり管理し、自分で薬を減らしていこうと決意したのだ。辞めてもうすぐ二ヶ月になるが、その反動だろう、薬が抜けていくからなのか、兎に角眠い。そう言ったら、「急に辞めず、少しづつ辞めて行きましょう」どのように・・・と聞いても、具体的な指導は無かった。「やっぱり・・・」と言うのが、感想。「アダルトADHDの患者さんは来ませんから」とまで言われた。はっきり、うちでは解りませんと正直に言ってもらった方がこちらは安心したのに・・・・。アダルトADHDの専門医は、日本にまだ3人しかいない・・と言うのを以前聞いた。その医師の予約は3年先まで一杯だそうだ。それじゃ、私のようにADHDからくる鬱病と診断された者は一体どうしたら良いのだろう。まだまだ、アダルトADHDは、日本の精神医学会で認証されたものの、実際の現場ではこのように認められていないのが現状・・・。アメリカでは、ADHDの大学生のため、放課後の特別講義も開設されていると言うのに・・・。ほんとうに、閉鎖的な世界なのだと、つくづく、今日はがっかりさせられた。とりあえず、今は、この眠気と戦わなくては・・・・。
2003年12月02日
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師走に入った。ああ、とうとう、12月になっちゃった。考えて見れば、来年はさる年。・・・・と言う事は今年は、私、年女だったんだぁ。今年は、おばあちゃんがいたし、グループホームに入れたり、前半はもう、すったもんだしていたから、とても、年女のお宮参りも出来なかった。おばあちゃんを預かっていただいて、どうにかこうにか落ち着きを取り戻し、こうしてホームページも開設できたし、沢山の方に来ていただけた。好きなお人形をまた、始められた。総じて考えると、いい年だったような気がする。あと少し、もう少し考えて見ようと改めて思う。お掃除も、どうにかできるようになってきたのも嬉しい。多くの方に、感謝しなくちゃね。ありがとうございました。
2003年12月01日
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