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会議室の窓を開けたら、ふわりと懐かしい匂いが入ってきた。 「あ、この匂いは……」 わたしは少し嬉しくなった。 早く伝えたくて、足早に事務所に戻った。 「ねぇ。お隣の金木犀が咲いたね。知ってた?」 同僚にそれとなく声をかけると、 「知ってるわよ。わたしも今朝来る途中、なんとなく香りがするので見上げたら、小さな花がいっぱいついていたもの」 彼女も大発見したかのように、きらきらした目で答えた。 「さっきね、会議室の窓を開けたら匂うじゃない。身を乗り出して確かめたのよ。そしたらいっぱい咲いているのよ。今日はなんだか得した気分ね」 お隣の金木犀の大木は、見事なまでも枝葉を元気一杯茂らせて、わたしが勤務している会社の三階建てのビルの二階辺りまで伸びてきていた。 だから、二階の端にある会議室の窓から、手が届くのだった。 そういえば、去年入社したばかりの時、この匂いに救われたのを思い出した。 早いもので、あれからもう一年になるのだ。 日ごろの煩わしい娘との諍いや、急に増えてきた煩雑な仕事のことで、頭の中はパンク寸前だったのに、この匂いにわたしは少し救われた気がした。 季節というものは本当に素晴らしい。 毎年忘れないで、同じ時期に同じものを運んでくれるのだから。 金木犀の季節には、忘れかけていた色んなことを思い出す。 中でも鮮明なのは、やはり二十数年間暮らした、今は人の手に渡ってしまった家でのことである。 二階のベランダから見下ろすと、お向かいの庭に植えられた金木犀が橙色の絨毯を敷いて、強い芳香を放っていた。 わたしは洗濯物を干す手を止めて、しばしその木と絨毯に見入ったものだ。 一点の曇りも無い空は高く、空気は澄んでいた。 秋の、それでも夏の香りを残した陽射しが肌にちくちく痛いけど、そんな時とても贅沢で幸せだなーと感じるのだった。 こんな幸せがずっとずっと続いてくれると良いのに、と絶対に続くことを大前提に思ったものだ。 でも、それは長くは続かなかった。 間もなく、儚い夢と消えてしまった。 家族で暮らした家は今は跡形もなく、主だった元夫は去年の夏他界した。 金木犀の季節が来ると、思い出す。 ささやかだけど、この上なく幸せだった頃のことを……。 過去のエッセイ『金木犀』
2006年09月21日
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駅の改札を出ると、覆いかぶさるくらいの騒がしい虫の音が聞こえた。 一瞬、蝉のうるささにも似たその音は、更に耳をすませると、美しいことに気付かされた。 ああ、秋なんだなーと。 一夜にして秋が訪れてしまった感の、昨日に今日。 自然の訪れをあらためて実感させられた。 そういえば、改札を出たところによく亡くなった元夫が車で迎えに来てくれていた。 わたしは頑なに、歩いて帰ろうとしたのだけれど。 虫の音に混じって、そんなシーンがよみがえった。 礼をいうでもなく、わざと後部座席に乗った。 素直になれなかったあの頃、必死で抗っていた。 口をついて出る言葉には、たっぷりと棘を含んでいた。 彼は、それを黙って聞いていた。 「ごめんな。みんな俺が悪いから」 「そうだよ。全部あなたのせいよ」 わたしは、その言葉だけを呑みこんで、口をへの字に結んでいた。 今となってはどうにもならないことだけど、もう少し優しくできていたらなぁ、と。 やっぱり今は秋。 切ないことばかりが浮かんでは消えるから……。 深夜になって虫の音は、少し優しくなった。
2006年09月14日
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貧乏人の親から生まれたのだけど……。 薄汚れたものが嫌い。 薄汚いものが嫌い。 潔いのが好き。 父は、いつも貧乏だった。 だから、母に苦労をかけた。 母は黙々と父に従って、父はいつもいばっていた。 子供達に食べるものがなくても、父の食事は豪勢だった。 腹をすかせた子供の前で、父はステーキを食べられる男だった。 そんな父の姿を、生まれた時からずっと見ていた。 父は、無い袖を振りたがった。 だから、いつも誰かにおごっていた。 誰かは財布を取り出す振りをするのだけれど、その緩慢さを父は待てなかった。 わたしは、父によくお供をしていた。 父はさっとわたしに財布を渡し、レジで払って来いと言った。 もう少し待ってれば良いのに、とわたしはそんな父を見て思うのだった。 それでも、父は本当に貧乏だった。 貧乏なのに、金が入ると一番に飲み屋のツケを支払った。 父がおごられるところを、見たことがなかった。 仕事を終えて、雑踏を足早に歩いた。 向かい来る人波を、右や左に避けながら、なぜか唐突に父のことが浮かんだ。 そういえば、手形の保証人に印鑑を貰いに行かされたっけ。 父には良い顔をする人たちが、わたしの前では本性をさらした。 それが辛かったけど、概ね父には人徳があった。 今になって、その正体を不可思議に思う。 わたしも貧乏だけど、潔く生きたいと思う。 父の人生のように。
2006年09月12日
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紫苑(しおん)@鎌倉:海蔵寺 母は、紫苑の花が大好きだった。 だから、わたしがいけばなの雅号を貰うとき、 「ケイちゃん、紫苑はどう?」 と、まるでこれ以上の名案はないと言わんばかりの顔をした。 「あ、いいね。それに決めよう」 二つ返事で快諾すると、母はものすごく嬉しそうに頷いた。 その時、我が家に紫苑を植えた日の光景が、鮮明によみがえったのである。 だってその日、玄関までのアプローチの、最初に客を迎える絶好の場所に、母とわたしとで植えたのだから。 「ケイちゃん、ちょっと手伝って」 暮れなずむ晩春、母はスコップを持ってそのアプローチに立っていた。 「何を手伝うの?」 わたしは、気の進まない面持ちで、すでに背中を見せて歩き出した母の後ろに従った。 「お花をもらったから植えるんだよ」 「お花って?」 「しおん」 「しおん?」 「そう。しおん」 「へえ、初めて聞くね。どんな花?」 「それは咲いてからのお楽しみ。母さんはね、娘が生まれたら絶対につけたいと思っていた名前。しおんって素敵な響きがしない?」 「へぇ。なんだか耳慣れないけど、カタカナなの?」 「むらさきのそのって書いてシオンって読むんだよ」 「へぇ」 わたしは「へぇ」を連呼しながら、咲く花への期待に膨らんだ母の、童女のような横顔を眺めていた。 母は、花を愛で、動物を愛し、自然をいつくしむ人だった。 わたしはそんな母の背中を、いつもじっと見つめて育ったのだ。 「どこそこの桜が咲いた」「裏の山のツツジが咲いたよ」「あそこの谷の石楠花が開いたそうだ」 そう言っては都度、おにぎりを持ってわたしや妹を伴った。 乗り物といえば、一時間に一本程度のジーゼルカーかバスしかなかった頃、平気で一駅くらいは歩かされた。 子供心には、それがとても苦しいことだったのだけれど、花を愛でる母の嬉しそうな顔を見ている内に、いつしかその醍醐味のようなものを共有していたのだった。 「これくらいかな?」 スコップで掘った穴の中に、しゃっきりと伸びた一株の苗を植えた。 「いつ咲くの?」 「うまくつけば、晩夏から初秋かな?そんなに派手じゃないけど、母さんは大好きなの」 その花が咲く日が待ち遠しくて仕方がないといった様子で、たっぷりの水をかけていた。 母が言った通り、ぐんぐんと伸びた紫苑がわたしの背丈を越えた秋口に、薄紫の可憐な花をいっぱいつけた。 「ね。可愛い花でしょ?」 母は自慢げに、そしてこれ以上の喜びはないといった面差しで紫苑を見上げていた。 それから毎年、紫苑は我が家の庭に咲いた。 母が大好きだというその花を、いつしかわたしも大好きになっていた。 だから後に、わたしはこうして『紫苑』というハンドルネームを名乗っている。 紫苑の咲く頃、わたしは母を思い出す。 母との会話を思い出す……。 紫苑(しおん)キク科@鎌倉:浄智寺
2006年09月08日
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秋刀魚を食べた。 たっぷりの大根おろしに、酢橘とポン酢をかけて。 生秋刀魚は砕いた氷の中で、傷のない滑らかな姿をぴんと伸ばしていた。 その姿の、美しいこと。 わたしは秋刀魚の姿が、ことのほか好きなのだ。 新鮮な秋刀魚には、どこか潔さがある。 余談だけれど、娘の泳ぐ姿はこの秋刀魚に似ている。 ひゅーん、ひゅーんと泳ぐ様には、ある種の潔さというか、美しさを感じる。 わたしは娘に、 「あなたの泳ぎは素敵だよ。まるで秋刀魚みたい」 と言ったことがある。 「えー!それってほめてるの?けなしてるの?」 まんざらでもない顔はするけれど、いまひとつ承服しかねている。 でも、わたしはほめているつもりなのだけれど。 夕べ買った秋刀魚は、見た目に違わずものすごく美味しかった。 「さんまー?やだー、食べたくなーい」 とほざいていた娘も、じゅーじゅー音がする焼きたての秋刀魚を頬張った時、思わず顔をほこばせた。 「美味しいー!最高!」 「食べたくないって言ったじゃん」 「そう思ったけど、すんごく美味しいよ」 ペロリと平らげた。 「旬が一番。今は秋刀魚が美味しい季節なのよ」 わたしは、なんだか嬉しくなった。 秋刀魚の気持ちになっていた。
2006年09月05日
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ベランダに出て片付け物をしていたら、風が冷たくなっていた。 温暖化、温暖化と言われながらも、季節はちゃんと巡っていた。 気がつけば、早、九月の暦に変わっている。 今までの暑さが懐かしくなる季節も、もうそこまで来ているのだ。 もう先月の話になるけれど。 八月の中旬、箱根に行ってきた。 そこで見つけた女郎花に吾亦紅。 小さな小さな秋の気配を見つけた。 女郎花(オミナエシ)オミナエシ科 吾亦紅(ワレモコウ)バラ科 夏はエネルギーをたくさんくれたから、秋には少しクールダウンさせてもらおう。 小さな秋を探しに、まだ夏のほてりを残した街に出て……。
2006年09月03日
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