全14件 (14件中 1-14件目)
1

虎渓山の麓にそびえる、まるで中世ヨーロッパを 偲ばせる雰囲気と魅力あふれる、バロック建築の 修道院は、日本三大修道院のひとつにも数えられ 昭和5年に、ドイツ人のモール神父によって 日本管区の中央修道院として、日本人司祭と 修道士の養成を目的に、建てられたものである ドイツ人のモール神父は、海を渡り、故郷を遠く 離れた異国の地である岐阜県多治見に、自分の 生まれ育った、ドイツの美しい田園風景に重ね 合わせ、この地を選んだといわれている 大聖堂には、フレスコ画、キリストの生涯を 描いた美しい壁画や、ステンドグラスが目を奪う 修道院の裏手には、ルルドの洞窟の聖母像を かたどったものがあり、やぶ蚊に刺されました 敷地面積は約一万坪もあり、本館は建坪1千坪で 地上三階、地下一階の木造建築で、その地下室は ワインの醸造と貯蔵に使われており、1933年 以来「修道院ワイン」として販売をされている 第二次世界大戦中としばらくは、ワインの輸入が 出来なくなり、日本全国の教会にミサ用ワインとして また晩餐会で、賓客や国賓をもてなす必要から 宮内庁や、在日外国公館に納入をされていたそうだ 平成18年6月14日 午前に撮影
2006年06月29日
コメント(60)

旦那が、一年に一度の「日帰り人間ドック」の為に 多治見に行くので、今年もその車に便乗させてもらい 病院が終わるまで、近場観光を楽しむことにした 昨年は可児市の花フェスタに、青いバラを見物に 出かけたのだが、今回は「美濃焼き」にこだわって みようかと思いたち、まずは市之倉に出かけてみた 岐阜県東濃地方(多治見・土岐・瑞浪・笠原)は、良質な 粘土に恵まれ、古代より朝鮮半島から伝わったロクロや 山の斜面を利用した窖窯で、須恵器などを産出していた 平安時代ともなると、釉薬を施した窯業が本格化しはじめ 「延喜式」にも、美濃は陶器調貢の国と定められていたと 記述がされている程だ 安土桃山時代には、茶の湯の流行によって、千利休や 古田織部の好みを色濃く反映をした「美濃桃山陶」の 生産が盛んになり、織田信長の保護の下、東濃地方では 戦さを避け、職人達が技を磨き、志野・織部・黄瀬戸・ 天目などの美濃陶器が、花ひらいたのだった 江戸時代になると、日常生活に使う焼き物の生産がされ 幕末期には、より白く耐久性を兼ね備えた、磁器も登場し 大量生産の技術が研究され、現在では全国で使われる 食器の大半が美濃焼である 市之倉の始まりは、鎌倉時代に白瓷系陶器(山茶碗) という無釉の陶器がつくられるようになり、1618年頃 瀬戸の初代藤四郎景正の子孫といわれる、加藤与左衛門常政が 遠州光明山の祭礼に使用する、七十五膳の土器を奉納をした ことで、市之倉陶業の陶祖となったという 陶祖の墓 江戸中期には登り窯がつくられて、灰釉,鉄釉の皿、香炉 碗、サビ釉の徳利、灯火具、鉢等々の日用品が作られた また現在の白い美濃磁器を完成させ、江戸幕府本丸御用 京都村雲御所御用、紀州藩御用などを任されていたそうだ 今も市之倉地区は精緻で高水準の盃や、煎茶器などで 有名で、現在60余の窯元・商社があり、著名な陶芸作家も 数多く活躍をしている美濃有数の陶産地でる このように美濃焼きが発展をしてきたのは、市之倉の盃 土岐津・泉の煎茶碗、湯呑、妻木・滝呂のコーヒー碗皿 駄知の丼、肥田の皿、瑞浪・笠原の茶付茶碗、下石の徳利 陶の平物などというように、職工の技術の細分化によった 専門生産体制により、安価コストを実現した事も大きい ふらりと散歩をしていると、どこの作業所からは元気の 良いお年寄りのおしゃべりが聞こえてきた。ここでは お年寄りも大活躍をしているようだ 姑の幼なじみも、こういった家にとついで半世紀。先日 なども、姑への手土産だといって、お皿を30枚ももって 来てくれた。う~む、死ぬまでお皿は困らないかも・・・ 土岐市から山の手に登ると、どんぶり生産日本一!である 駄知町があり、その町を見下ろす位置に、丼みたいな建物 「土岐美濃焼街道 どんぶり会館」がある。この道は恵那から 多治見方面への抜け道にもあたるので、国道19号線の 混雑時に利用をする事も多く、そのたびに利用をしている 美濃焼きを紹介するアンテナショップというだけあって もう、いろんな焼き物が安価で販売をされている。誕生日の 来館者へ一輪挿しのプレゼントや、その日の車のラッキー ナンバーの運転手には、みそかつ丼のプレゼントなどもある しかも2階の景色の良いレストランでは、どんぶりソフト! 400円なのだが、ミニ丼茶碗をもれなくお土産にしてくれる 旦那の食べた千円弱のウナギ丼&うどん定食にも丼茶碗が ついていたので、なんだか得した気分だ♪ 平成18年6月14日撮影(岐阜県多治見市、土岐市)
2006年06月27日
コメント(56)

哲学の路 午後2時も回り、朝のバイキングの大食いも解消し やっと、お昼ご飯を食べる気持ちにもなってきた 久しぶりに銀閣寺界隈で食べ歩きをしたいな。あの 昔ながらのキャンディーを、無性に食べたい! などと市バスに飛び乗ったのが、ガイドブックを 見たら・・・あ、キャンディーって火曜定休にプラス 第2月曜もお休み? 今日じゃない・・・(泣) とりあえず、お昼ご飯は・・・あそこにしますか 上州風の「名代おめん」のつけうどんは、なんといっても 山のようになった薬味と、ゴマでしょう。こんな時間にも かかわらず幾組ものお客さんで、お店はにぎわってた お腹もいっぱいになったので、哲学の路を散策しながら 「銀閣寺行く?」「別にどっちでも・・・」 何度も いってるし、無料で見れる入り口の立派な生垣を 見物してから、修学旅行生の元気な声の響く門前を ぶらりぶらりと・・・ 生八つ橋の試食コーナーには、女子学生が集まり 「青りんごいけてるよね~」とか、吟味をしていた しかし、いろんな味があるもんだ。ゴマ風味が 売り出し中なのかな? うちの女学生は生ではなく おせんべいのかたい八つ橋をご所望。袋でいいかな さすがに足も痛くなってきたので、早めに京都駅に 向かうことにしたのだが、主要観光スポッとだけを 停車するバスって、早くて観光客にはうれしいです♪ 時間もあるので、最後に美味しいものを食べて 京都とお別れをしようと思った。となると・・・ やはり「茶寮都路里」の抹茶パフェでしめますか 15分待ちの間に、メニューなど吟味して、私は 3色の抹茶アイスの乗ったカキ氷にした。白玉が ついていたのだが姉に奪われてしまった それにしても、今にも転げ落ちそうなアイスを 落とさず、どこから手をつけたものか・・・・・ 今回のお土産は みんがおススメという「亀屋良永」の御池煎餅はうまい! 美味しすぎて、甘味息子が一晩で食べてしまった(泣) 三室戸寺は蓮でも有名なので、蓮の実の甘納豆 桂離宮のかわいい小物入れには、愛子様のお印の 五葉躑躅(ごようつつじ) 平等院の52体の雲中供養菩薩像が印刷された トランプと、姉からもらったしおり そして番外に、京都駅で福井県キャンペーンを していて、ただでもらったとろろ昆布! 秋に今年3度目の京都を予定してますから、しばしのお別れ またきます。今回も楽しい思い出をアリガトウ 京都御苑、学習院跡。松木の桜(倒れた松から桜の若木が・・・) 平成18年6月12日。撮影
2006年06月25日
コメント(70)

甘味姉妹はホテルに帰って、夜のおやつとして 駅構内で購入をしていた、満月の「阿闍梨餅」を 食べることにした。事前にガイドブックの写真で 一目ぼれをしたもので、旅の目的のひとつだった 阿闍梨 (天台の高僧)が、比叡山での千日回峰 修業中にかぶる網代笠の形にちなんだそう 京都駅から桂離宮行きのバスを利用をしたかったので 今回は、京都駅周辺のホテルを探していたのだが ぷらっとこだまフリープランで、新都ホテルの新館 サウスウイング禁煙ルームを使用することにした 姉はタバコのにおいが大嫌いなのだ。お部屋は少し 狭いけど、洗面台とかおしゃれ~~! かっこいい 朝バイキングも、和食、洋食など豊富で茶碗蒸しも あれば、酸味のあるアロセラジュース好きなのよね さて桂離宮を見学をしてから、仙洞御所の見学まで 時間があるので、御所近くにある寺社見物でも・・・ 紫式部の屋敷跡に建つ廬山寺(ろざんじ)の源氏の 庭は桔梗で有名だが、今回もその花を愛でる事はなかった いささか歩きつかれて、時間もあるので、見学者が他に 誰もいないのをいい事に、30分近く座り込んで 庭を眺めたり、おしゃべりをしたり・・・・ お寺によっては抹茶とお菓子が楽しめるのだが こうゆう小さなお寺はのんびり出来て、風にそよぐ 木の葉の音までを楽しめて癒される・・・・ す~~っと、疲れが飛んでいくようだった 紫式部が源氏物語を書いていた日も、きっとこんな 静かなゆったりした時間が、流れていたのでしょう この近くには、同志社大学の創立者である新島襄の 邸宅がひっそりと残されている。宣教医テ-ラ-の 助言のもとにに、設計は新島襄自身が行ったという 木造の2階建て、コロニアルスタイルを基本とした 明治時代初期の洋風住宅である。期間限定で公開を されているので、いつかは内部も見学をしたいものだ 前に宇治の名水の一つを紹介をしたのだが、京都は 名水が多いので有名である。その中で「京都三名水」と 呼ばれるのが、戦後になって枯れてしまった「佐女牛井」 (亀屋良長本店にある醒ヶ井は、平成3年に復興された) 京都御苑内で、役人が昇進を願って身を清めた「県井」 梨木神社にある「染井(そめのい)」の3つの井戸だ 染井は、宮中の染所が使っていたそうで、この井戸から 汲んだ水を染色に使うと、色鮮やかに染め上がったそう 参拝客は自由に飲んだり、汲んだりできるので、その日も 空のペットボトルを持った人が並んでた。一口、飲んでみた この神社は萩の花でも有名なのだが、一枝、もう咲いてるよ 平成18年6月12日正午ごろ撮影
2006年06月23日
コメント(52)

宇治に出かけたのには、他にも目的があった 7月の祇園祭がらみで出かけた京都で、かつて 大輪の蓮の花を見物をしたことのある三室戸寺で 今度は、満開の紫陽花を楽しむ趣向なのだ 三室戸寺までは、さわらびの道を歩いたのだが 宇治十帖ゆかりの古跡、神社などが幾つもあって 源氏物語にどっぷりと浸ることが出来る 前の日記で、宇治川の流れの速いのには驚いたと コメントがあったが、浮舟が身を投げた状況もまた 実際に、自分の目で、肌で感じてこそわかるものだ 途中、源氏物語ミュージアムで瀬戸内寂聴さんの 山積みにされた生原稿に圧倒された。ここまでか というばかりに、文章の直しが入っているのだ 奈良時代の宝亀元年、山中から黄金の仏像が発見され 光仁天皇の勅願によって、この金銅千手観音立像を ご本尊として創建をされたと伝わり、西国三十三ヶ所 観音霊場の第10番札所として、またつつじ、紫陽花 蓮などの花の寺として有名なのが、この三室戸寺である 境内になにやら行列が! へなちょこ牛を飼っていた人が 三室戸寺の観音様にお参りすると、牛がどんどんと立派に なって、ついには勝負にも勝てたそうだ 牛の口の中にある観音様に触れると、勝運に恵まれると いうことで、あの若貴兄弟もお参りをして、その手形も 傍らにあった(この奥さんは、見ず知らずの方です) 寺からは臨時バスで宇治駅に着いたのだが、そのまま 改札口に行かず、一目散に甘味姉妹がむかったのは 抹茶スイーツで有名な、創業安政六年「中村藤吉本店」 風雅な中庭には、黒松を宝船の形に仕立てた樹齢が 200年もの宝来船!! ありがたや~~!! すごい人!! 15分くらい待ってから、席について 姉が頼んだのは竹筒を使ったパフェ。私は欲張りなので アイスも、シフォンケーキも、ゼリーも! みんな 楽しめるので、すんごいボリュームですよ~(でも完食) しかも、価格が安いんです♪ 腹いっぱいになった甘味姉妹は、ホテルに早々にチェック インして、幸せな気分で仮眠をとって、さぁ元気も出たぞ 京都のネオンが待っているとばかりに、先斗町にいざ出陣! 一説には、信長の頃にポルトガルの教会がこの辺りにあり ポルトガル語のポント(先端)やポントス(橋)から 先斗(ポント)町と呼ばれるようになったらしいとか 天ぷらが大好きな私。ここにある「山とみ」さんの 鉄ピン揚げは、以前から食べたかったお料理なのだが 旅番組などで見た覚えのある人も多いかも しかも、二人で千円アップで、高嶺の花でもあった 川床が楽しめるというのだから、川床初体験にわくわく お店の人たちもフレンドリーで、なんだかいいわぁ~ だいたいが予約が必要、高額なディナー料金のお店が 多い中で、ここはリーズナブルで「一見さん歓迎」って 姿勢は、観光客にはうれしい限りです♪ お腹もいっぱいになってお店から出ると、いゃぁ~ 先斗町の舞妓さんやわぁ。綺麗やなぁ~~ 「おかぁ~さん、おおきにぃ~」などと間延びした声を 聞きほれているうちに、写真を撮り忘れました 平成18年6月11日 完食!
2006年06月21日
コメント(60)

平安時代後期、関白藤原頼通によって平等院に建立をされた 阿弥陀堂の中央には、金色の丈六阿弥陀如来像が鎮座をする 周囲の壁や、扉には九品来迎図。阿弥陀仏の背後の壁には 極楽浄土図が描かれ、壁の上部に52体の雲中供養菩薩像が かけられ、堂内の天井や小壁は、宝相華を主とする文様で 埋めつくされており、まさに極楽浄土そのままのよう さすが10円玉の宇治平等院だけあって、修学旅行や 若い人たちの姿が多い。お宝いっぱいのミュージアムに 鳳凰堂中堂に、かけ並べられていた雲中供養菩薩像のうち 26体が、薄暗い部屋中に展示されており言葉もない すると足早に入ってきた女子学生が「私、こうゆうの見ても 感動しないんだよね~~」とおしゃべりしながら、まわりを 見向きもせず、そのまま出口に向かっていった そう思うと若いお兄ちゃんが、友達に「大仏の顔が見えるの あれいいよなぁ~」 大仏・・・? 奈良や鎌倉、飛鳥大仏を 思い出しても、でかいけど阿弥陀如来像は言わないよなぁ~と 検索すると、お釈迦様本人の身長より大きく作られている仏像を 大仏というらしいです しかもパネルを読みながら「きんじきの・・・」と言うと 友達が「それ、こんじきだろう」と突っ込まれていたが 兄ちゃん、私は冷めた女子学生より、あんたが好きや!! 後白河上皇の息子である以仁王の令旨を受け、源頼政 (源三位入道頼政)は、平家打倒を打ち出し、叡山や 三井寺、興福寺もこれに応えたのだが、この計画が 平家の知るところとなり、宇治川での平家側と頼政との 合戦となった 源頼政はあえなく破れてしまい、平等院で辞世の和歌を残し 自刃をし、以仁王も非業の最期をとげたのだが、この 敗戦がきっかけとなって、源頼朝や木曽義仲などの全国の 源氏の武将が、平家打倒に向けて動き出したのだ 埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける 入洛時には数万騎だった木曽義仲軍は、僅か千騎あまりに 激減し、少ない手駒を裂いて、義仲四天王の今井兼平に 瀬田を、根井行親と楯親忠には宇治を守らせ、征夷大将軍に 任命をされた、木曽義仲は院御所を守護をしていた 2万を超える大軍を率いた義経軍は、宇治川に乗り入れ 佐々木高綱と梶原景季による、宇治川の先陣争いが 起きもしたが、宇治川を突破しついには入洛を果たした 世界文化遺産にも登録された宇治上神社は、応神天皇の 宇治離宮があったと伝えられている地に建ち、応神天皇 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、仁徳天皇が奉られている 明治時代までは隣接の宇治神社と二社一体で、離宮上社と 呼ばれていたそうだ 本殿は平安時代後期に建てられ、日本最古の神社建築であり 拝殿は鎌倉時代のもので、寝殿造りの様式を伝えている 宇治七名水の「桐原水」が、今もこんこんと湧き出ている お昼には、宇治川河畔に建つ「抹茶料理辰巳屋」さんの 宇治丸弁当。竹の皮に包まれた器に、30種類近い 季節の料理が吹き寄せ風に、てんこ盛りになっていた JR宇治駅前には、大きな茶壺の形をしたポストが 設置されていたりいて、さすがお茶どころ!! 平成18年6月11日撮影
2006年06月19日
コメント(52)

午後からは京都御所に隣接する、仙洞御所の 見学である。だだっ広い敷地を取り囲んだ 塀沿いに進み、仙洞御所の北側に位置する 大宮御所の御門から入場をした 大宮御所は、後水尾天皇の皇后となった徳川家 二代将軍、徳川秀忠の娘である東福門院和子の 御所として建てられたもので、皇太后などの 女院御所として使われてきた 現在の建物は、江戸末期の孝明天皇の皇后である 英照皇太后の御所として建てられたもので、皇太后が 東京に移られた後は、御常御殿のみを残し、長らく 天皇・皇后両陛下やご皇族方、国賓が京都においでに なった時に、宿泊などに利用をされ、故ダイアナ妃も ここで泊まられている(昨年、国賓がこられた時に お迎えする、京都迎賓館が新しく建てられた) 大宮御所の御常御殿の南庭「松竹梅の庭」 仙洞御所は、江戸時代のはじめに、皇位を退かれた 後水尾上皇の御所として建てられたのだが、その後 何度となく火災により、建物の再建が行われたのだが 現在は建物はなく、広大な庭園が残されている 庭園は、二条城二の丸庭園なども手がけた、幕府の 作事奉行であった小堀遠州が、寛永13(1636年)に 作庭したが、その28年後の寛文4(1664年)には 後水尾上皇が手を加えたという「回遊式庭園」である 宮廷庭園の特徴は、舟遊びの為の船着場が作られて いることだそうだ 「阿古瀬淵」紀貫之の邸宅があったそうで、紀貫之の 幼名の阿古久曽(あこくそ)に由来しているそうである 「八ツ橋」は藤の頃は見事であるらしい 「醒花亭」は、文化5(1808)年に再建をされた 柿葺の茶室で、「夜来月下に臥し醒むれば花影雲飛して」と いう李白の漢詩文から引用をしたそうだ。付書院を備えた 書院と入側の向こうに、つくばいや、加藤清正が朝鮮より 持ち帰り献上したという燈籠などが配されている 州浜に敷き詰められた均等な石は、その数は約11万個 小田原藩主大久保侯が献上したものと伝えられるもので 小田原の領地にある海岸で、石1つにつき米1升を与えて 集めさせたところから、小田原の1升石とも言われている 「栄螺山」は、どうやら古い古墳であるらしい 「氷室」と伝わるが、最近の学説では貯水池かもしれないとか 近衛家から献上されたという茶室「又新亭」 平成18年6月12日午後撮影
2006年06月17日
コメント(42)

かねてから一度は行きたいと、常に願いながらも 往復はがきによる、参観許可が面倒であったので 行くことのなかった桂離宮、修学院離宮、仙洞御所 それらがネットでも簡単に申し込めると聞き、春浅い 3月に「梅雨時だけど天気どうかなぁ~」と、思いつつ 申し込んだ。結果は次の日に教えてくれ、人数が多い 場合は期待に添えないこともあり、修学院離宮は 次の機会になった 日頃の行いがよいのか、雨女の娘が同行しなかった為か 姉と出かけた京都は、梅雨時というのに雨も降らず それでいて暑くもなく、すごしやすい旅となった 旅行2日目の朝、最寄バス停から桂離宮の入り口に向かうと 世にも珍しい「竹の生垣」になっているよ。外からして さすがに桂離宮!というところか・・・。中も、話にたがわず お~、ほ~、へ~なのだが、指定場所で撮影できる写真は 「個人で楽しみ、公にはしないでください。ホームページ などにも駄目です」と、年配の案内人に釘をさされたので 誰でも楽しめる外部からの写真しかないです(泣) 意気消沈 桂離宮は、もとは八条宮家の別荘で、江戸時代初期の 造営により、回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる 古書院、中書院、新御殿はいずれも入母屋造、柿葺で 狩野探幽一門による障壁画や、天下三棚の一つ桂棚など 見所が多いが、見学は建物外部からのみ 回遊式庭園には、桂川の水を引いた池を中心に、茶屋 築山、州浜、橋、石灯篭などを配し、松琴亭、賞花亭 笑意軒、月波楼の茶屋が取り囲んでいる 午後からは、場所を移し仙洞御所だったのだが、ここで キュートなお兄さんの案内人が「写真はご自由に!」と 言われたので、桂離宮での一件を話すと「そんなに硬く 考えなくてもいいですよ。僕も先週、ブログに写真を 載せましたから」って、何なんだ~。そんな訳でお言葉に 甘えまして、仙洞御所は写真満載でおおくりします (・・・・って、それらは次回に続く!!) さて、桂離宮のバス停の前には、甘味姉妹には目の毒の 和菓子屋が手招きをしている。帰りのバスの時間を確かめ 10時のおやつとまいりますか 名物の麦代餅は昔から、麦刈りや田植えどきの間食として 多忙な農家などでは重宝がられていた。かつては、間食が 麦代餅2個だったのだが、これを農作業の各田畑まで 直接に届けて、その代金として、麦と交換したので麦代餅の 名前が生まれたとか・・・ 冷たい麦茶を、冷蔵庫でグラスごと冷やしたおもてなしが 胸にぐっときた(餅で?)私であった。 ごっつあん 平成18年6月12日 午前撮影
2006年06月15日
コメント(48)

それは、まだ貞奴が10代も半ばのことだった 乗馬での成田詣での帰りに、野犬の群れに襲われ 馬から振落とされそうになったのを、慶應義塾の 若き学生に助けられた 桃介との出会いであった。彼女は心を寄せるも 福沢諭吉の娘婿として、桃介は海外留学を果たし それで、桃介との縁も切れたかとも思われたのだが 貞(さだ)は7歳の時に口減しとして、日本橋住吉町の 芸者置屋の養女になり、幼い頃からあらゆる稽古事を 厳しく仕込まれ、12歳で雛妓(半玉)、子奴・・・ 16歳で、伊藤博文を後ろ盾にして奴(やっこ)と なったそうだ 天真爛漫な貞奴は、馬を乗り回し、役者狂いに 玉突き、花札賭博、柔道、白昼堂々と裸にさらしを 巻いた姿で、隅田川を泳ぐようなありさまであった 伊藤博文は、舶来物の水着を買い与え、富岡海岸で 井上毅と共に、貞奴に水練を教えたという。大磯の 旅館の浴室では、当時まだ珍しかった石鹸をあたり かまわず泡だらけにして、他の客からひんしゅくを 買うなど、様々な武勇伝(?)が残されているという オッペケ節で有名な川上音二郎の妻となり、芝居一座と 外遊に出かけたのだが、海外には女優がいるというのに 女形しか居ない事を指摘され、貞奴が舞台に駆りだされ 寛永6(1629)年、将軍家光時代に、風紀を乱すと 女舞・女歌舞伎が禁止されて以来、270年を経て 近代日本演劇史の女優第1号が、奇しくも誕生をした 国内での女優貞奴の初舞台は、明治36年の明治座公演 シェイクスピア「オセロ」だったそうだ。夫、音二郎が 亡くなってもしばらくは、舞台に立っていたようだ 大正8年、初恋の人の福沢桃介が、木曽川の大事業の 基地として、南木曽の地に別荘を建てたのだが、常に 彼の横に寄り添うようにしていたのが、貞奴だった 大井川発電所が完成するまでの数年間、頻繁にこの別荘に 滞在をし、政財界の実力者や外国人の技師などを招いては 華やかな宴を催しては、もてなすのが貞奴の役割であり 桃介の事業パートナーとしての側面が、大きかったと思う 木曽川を臨む邸宅の建つ地は、蛇抜け(土石流災害)の 心配がされたのだが、それを見越して、コンクリートの しっかりした土台がされ、実際に昭和28年の蛇ぬけ 災害では、大きな石がごろごろと転がり、邸宅を襲ったの だが、大きな被害には至らなかった しかし社員寮として使われていた、昭和35年4月6日の 増築部の風呂場からの火災で、2階部分を焼失してしまい 無事だった一階を平屋のままで残し、福沢桃介記念館として 一般公開もされるようになった 平成9年度には、建設当初の2階建ての姿に復元をされ 1階部分は大正時代の貴重な西洋風別荘建築がそのまま 残され、桃介と貞奴が過ごした日々を、2人の写真や 遺品、資料を交えて追体験が出来る さらに他施設との渡り廊下として、とってもクラシカルな 廊下もあって、ノスタルジックな雰囲気をかもし出している かつてNHK大河ドラマ「春の波濤」で、貞奴を演じたのは 松坂慶子さんであった。彼女が推古女帝を演じたNHK ドラマのイベントでの彼女は、透き通るような白い肌で コロコロと玉の転がすような声で、まさに貞奴もこのような キュートな女性だったのだろうと思ったものだ 平成18年6月6日 撮影
2006年06月13日
コメント(41)

日本を代表する河川のひとつ、木曽谷を流れ下り 伊勢湾にそそぎこみ、急峻で水量が豊富な事から 水力発電に適した「木曽川」に、目をつけたのは 福沢諭吉の娘婿で、海外留学で豊富な知識を得た 若き実業家、福沢桃介だった 恵那峡の春(2005.4撮影) 木曽川の水利権を獲得し、1911年に岐阜県加茂郡に 八百津発電所を築き、1924年には日本初の本格的な ダム式発電所である大井発電所(岐阜県恵那市)を完成 木曽川はせき止められ、日本のダム湖100選でもある 景勝地「恵那峡」は、今も観光地として有名でもある 落合ダムの春(2006.4撮影) 1926年には、岐阜県中津川市に、落合発電所などを 建築し、五大同電力(現在の関西電力)を設立、社長に 就任したことにより、「日本の電力王」と呼ばれている 後には、代議士にもなり政友倶楽部に属したそうだ 彼が有名なのには、マダム貞奴の存在も大きいのだが 彼女との話は、優美な邸宅と共に次回に紹介をしたい 後方には、桃介と貞奴(福沢桃介記念館にてパネル展示) 長野県木曽郡南木曽町には、彼の名前を持つ優美な つり橋がある。「桃介橋」は、「桃の橋」とも呼ばれ 大同電力の読書発電所(重要文化財、近代化遺産)の 建設用の資材運搬路として、架けられたものなので トロッコの線路も残っている 大正11年9月に完成。全長247m、幅2.7mで 大正時代の吊り橋としては、国内最大規模であった 長らく木曽川をはさんだ両岸の集落の生活路として 活躍をしてきたのだが、老朽化も進み、本格的な修理も できなかったため通行禁止となり、廃橋寸前となった 以前の桃介橋 地元の保存の声も多く、付近一帯の天白公園整備に併せ 復元をし、復元をした近代化遺産としては、初めて 国の重要文化財となり、新たな木曽の観光スポットとなった そして、もひとつ。私が南木曽でおすすめするのが 以前にもここで紹介をした事がある「赤飯饅頭」である ちなみに、南木曽町には妻籠宿や、南木曽温泉もある 平成18年6月6日撮影
2006年06月09日
コメント(41)

おっ! 何だぁ~これは? 食いものなのかなぁ? うっ・・・うまそ~じゃねぇか! とりあいず、くってみるかぁ かみかみ・・・かみかみ・・・・ かみかみ・・・かみかみ・・・・ けっ! かみごたえのあるモンだなぁ とりえず、家に持って帰るかぁ~ と、今日もお散歩のお土産つきのコロだった 柴犬の母親と、どこの馬の骨ともわからぬヤロウとの 雑種である。たぶん、そろそろ中年であろう・・・
2006年06月07日
コメント(42)
やっと半袖も着ることが出来る季節となった 恒例の朝のモーニングコーヒーで、今までは ホットのコーヒーや紅茶をオーダーしていたが う~~む、冷たいのが飲みたい。そんな訳で アイスコーヒー! 陶器のコップに入った、コーヒーが凍らされた 茶色い巨大ロックに、熱々のコーヒーを注ぎます これっていいかも! パンなど含め400円でしたが お会計でお財布をのぞいたら、300円くらい しかない? しまった! 息子が名古屋に行くと いうので、昨晩、有り金巻き上げられたんだ! 上目遣いで、旦那にヘルプミ~!! 午後からは車のタイヤを購入をしたので、いつもの 車屋さんで、サービスの飲み物に、ここでもアイス コーヒーをオーダーし、スポーツ新聞に目を通す 優雅な時間を過ごしました 皆さんは、これからの時期には、外出先やご自宅で 何を飲まれますか? 今? やっぱりアイスコーヒーを 飲んでいます
2006年06月05日
コメント(49)
またもワールドカップでチケット騒動が起きてしまった 初めて日本がワールドカップに出場をするという大会では ダブルブッキングで、現地に行きながらスタジアムに入れず 主催企業側が、苦労をした少数のチケットを、じゃんけんをして 勝った者がスタジアムに向かうのを、見送る友達がさびしげ あれから8年。今回は現地に入らないだけましかも しかし、こういったスポーツイベントは旅行代金も破格ですね テレビでの話では、この会社は今までもサッカーイベントで 安くファンをスタジアムに送り込むのに定評があり、今回も ファンに安く提供をしたいと、中国の会社を利用をしたそう 今朝のネットニュースには、スポンサーに割りたてられた チケットがさばけず、空席が出るかもなんて話がありましたが 私が長野五輪で、フィギュア男子のチケットが取れたのも 関係者チケットが返却されて、一般売りにされたものでした スポンサーが大金を出すのはわかってるし、お金さえ積めば 簡単に手に入るから、金持ちや、コネあり著名人は、生観戦も 出来るかもしれない世界規模のスポーツイベント。正規の 価格じゃなくても、高くても買う人がいるから、こんな事になる ネットオークションで、高額で売買されるコンサートなどの チケットも同様だ。一般の人間は指をくわえるだけ・・・・ 久しぶりに地元開催に期待をしたサッカー一筋50年って 感じのおっちゃんたちは、チケットが手に入らないと嘆く スポーツ観戦が大好きで、普段からスタジアムに足を運び 有料テレビで観戦し、スポーツバーでビールを飲んで観戦 携帯端末で試合結果を気にする、日々、そのスポーツと親しむ そんな大半のファンを、あまりにもないがしろにしてはいないか 中津川市に実家のある坪井選手の応援の為に、市内の施設で 大型スクリーンで、ワールドカップ日本戦の生中継を楽しむという スタジアムにかけつけれなくっても、自宅のテレビでも、沢山の 日本人が、日本代表の応援をしていると思う 心はひとつ。がんばれ、日本!!
2006年06月03日
コメント(28)

熱田さんと、名古屋市民に慕われる熱田神宮の創始は 第12代景行天皇の御代に、日本武尊が名古屋に残された 三種の神器のひとつである草薙神剣を、ここ熱田の地に お祀りたことであり、以来、伊勢神宮につぐ格別に尊い お宮として、篤い崇敬をあつめてきた 樹齢1300年もの大楠や、茶人好みの太郎庵椿 花だけで実のならない、ならずの梅など名木も多く 6万坪もの境内は、古来「蓬莱島」の名で知られており 婚礼、七五三、初詣などで賑わい、テレビのCMでは 山口百恵の作曲でも有名な宇崎竜童さんが、野太い声で 優雅に歌っているのが思い出される 永禄3(1560)年、織田信長が桶狭間の出陣の 際に、熱田神宮に必勝祈願をし、大勝をしたので その御礼として奉納した塀で、土と石灰を油で練り 固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀 西宮神社の大練塀と並び、日本三大壁の一つだそうだ その他にも、高さ8メートルを超え、京都南禅寺と 上野公園の灯篭とあわせ日本三大灯篭といわれる 佐久間灯篭は、佐久間盛次の四男の大膳亮勝之が 海上で台風に遭った際に、熱田神宮の守護を祈り難を 逃れたという事で、その御礼としてに寄進されたもの 熱田神宮宝物館は、皇室や、将軍家、尾張藩主などから 寄進をされた、約4千点あまりの宝物を収蔵をしており 国宝や重要文化財も多く、特に草薙神剣を奉斎する 由縁から、名刀の宝庫ともいわれている 熱田神宮は日記に書いたような、書いてないような? しかし古い日記や、フリーページにも無いのでやはり 書いていないですよね。たぶん・・・・覚えてますか? 中国料理フルコースの日に、参拝をしてきました 平成17年10月16日 撮影
2006年06月01日
コメント(46)
全14件 (14件中 1-14件目)
1