殿上人日記
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またまたブログの間隔がかなり開きましたと言うのもゴールデンウィーク突入に合わせ旦那が定年退職。GW後に先週末まで退職休暇と、10万円の旅行券も会社から頂戴し退職旅行なども出かけた(私も同行)のでその旅行記は、いずれまた今週に入り、定年後再雇用で同じ職場で同じ仕事という訳でして、また同じような生活にやっと戻る事が出来たが、所詮は再雇用なのでお給料がどれだけ減るんだろうかっていうのが目下気になるところ。会社の同僚らに貰った還暦Tシャツは、カープファンかと間違えたそれにしても家にずっと旦那がいるのはプレッシャーです。だら~と昼間っからネットやれないし、亭主元気で留守がいいとは、ホント良く出来た標語です。旦那は旦那で口うるさい舅が横にいて、あれやれこれやれ、あそこに連れて行けとこき使われていたようで、晴れて会社に戻れて喜んでますさてさて4月上旬に娘と出かけた韓国旅行のレポート3回目。2日目の紹介となりますが前に市内の苗木城の事を紹介した時、苗木藩は徹底をした廃仏毀釈を行い、寺は破壊されて領民は皆、神道に改宗したのを覚えておられますか?ウィキペディアより>「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、>釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。>日本においては一般に、神仏習合を廃して>神仏分離を押し進める、明治維新後に発生>した一連の動きを指す。戦国を制した徳川家康の開いた、江戸幕府は中国の孔子の教えによる儒学 (朱子学) を新しい時代の官学として、徳治主義をもって幕府の礎を築いたのだが、水戸藩においては儒学思想に、国学や史学、神道を結合をさせ独自の水戸学が発展し、吉田松陰や西郷隆盛など幕末の志士に大きく影響を与えた日本における国語学、国文学、歌道、歴史学地理学、有職故実、神学といった事を学ぶ国学も流行し、明治維新を推し進めた志士らは、日本古来の宗教は神道であり、外国より渡来をした仏教などは、邪道であるといった思想を持つに至った明治政府は天皇は現人神であると、神道による神格化を求め、国を挙げて仏教を弾圧をしたのだ。お隣の国の韓国は、よく儒教の国だと言われるが、その数はもはや少数で過半数をキリスト教徒と仏教徒が占めており新興宗教を含めて、様々な宗教が存在しているようである前回も紹介したが日本の飛鳥にあるような弥勒半跏思惟像が慶州の博物館にあったというように古代朝鮮で仏教が、中国を通じ広まり、新羅やその後の高麗王朝においても最有力の宗教として興隆を極めていたところが1392年に李成桂(太祖)が李氏朝鮮を建国をすると一転をして儒教が国教となり、朱子学を修めた新興の科挙官僚である士林派(しりんは)の台頭によって、仏教は徹底的に弾圧をされた。これを「斥仏揚儒(せきぶつようじゅ)」(仏教を排斥して儒教を信奉する)という数少ない寺院を残して、殆どのお寺は破壊され所有地と奴卑を没収され僧侶は還俗させられた中宗の時には、国中の仏像を没収して溶解した上で武器を作るなどと言い出す始末で、高価な高麗仏画や仏像などは、日本へと高額で売買をされたり、贈り物にも使われたそうだ全てまでとは言わないが、こういった流出の経緯もあるにかかわらず、こういった事実に目をつぶり、どれもこれもが倭寇に盗まれたものだから我が国のものだと、日本の寺院に長く伝わる高麗由来の仏像などが、盗難にあいそれを返却もしないとは・・・この寺も打ち捨てられて、誰もに忘れ去られ廃墟となっていた。石窟庵(ソックラム)は前回の仏国寺と共に世界遺産に指定をされているのだが、1909年に郵便配達員が配達の為に吐含山の峠を越えようとしたところ、突然豪雨に見舞われて山中の洞窟に逃げ込んだ際に洞窟の中に偶然、石仏を発見したというのだ前の時も、今回も地元添乗員が石仏を日本に持っていこうとしたが、出来なかったという話をしたので、ネット検索をするとどうやら日本人の偉い人がこのようなお宝を、山中に置くのもどうかと思い京城(今のソウル)に持っていこうとしたが出来なかったらしいその移動の為に分解をしたものの、再び復元したのだが幾つかの部材が残されてしまったそうである(汗) 石窟庵には他にも石仏があったのが、日本に持ち出されたと言われていたが、昨今の研究ではもともと石仏は存在しなかったそうだ更に景福宮にある高麗期の石塔の四方にあった獅子像が、長らく日本に略奪されたと言われていたのが、実はソウルの国立中央博物館に保管されていた事が2016年に判明をしたそうだ「日本に略奪された」はずの国宝、韓国にあった(産経ニュース)秀吉の侵略で寺が破壊されたというのも、前述のように、李氏朝鮮による国を挙げての仏教弾圧によるものであったりとかするようだし、万事を日本の責任にするのもどうかと思うので、韓国人ガイドさんの説明も話半分に聞いていたりもした本尊は高さ3.4mの如来坐像で、如来の額にはガラスが埋め込まれており、東から昇る太陽の光が石窟内に日差しが入ってくると、ガラスが光る設計になっているそうだ。主壁には菩薩像および弟子像と金剛力士像、天王像など39体の仏像が石窟の壁面に彫刻をされている今は石室の前に、このような建物が作られておりそこからガラス越しに拝見するのだが、内部は撮影禁止になっているので、↓リンクをぽちっとされて、内部の写真や説明をご覧下さい「石窟庵」についてウィキペディアによると>新羅の景徳王と恵恭王の時代の宰相だった>金大城(700年 - 774年)が自分の父母の>ために「石仏社」を建立したと高麗時代の>『三国遺事』に記されており、石仏社が>仏国寺の位置に近いことから石窟庵のこと>であると考えられている。>751年(景徳王10年)に建立が開始され、>774年(恵恭王10年)に完成した。その後>儒教を中心とした朝鮮時代が500年以上>続き、仏教は弾圧されたため永らく放置>されていた。石窟庵は東を向いて建てられており、この山の稜線の上に、海がはるか彼方に見えるそうで、初日の出や月の出を見る名所でもある。そうそう色鮮やかな提灯であるけど旧暦の4月8日のお釈迦様の誕生日を祝う「燃灯祝祭(ヨンドゥンチュッチェ)」のでお祭りが近づくとあちこちの寺で飾られる春の長閑な光をあびながら、てくてくと駐車場まで戻ってきました。それにしても3日間を通じて、お天気に恵まれたのがなによりだった私の出かける前日は春の嵐だったそうで強い風と大雨で、このような歩く観光はさぞかし大変だったろう。旦那との旅行過去には山陰は早い雪、南紀は遅い台風大変であっただけに、今回もかなり心配してたのだけど地元のお母さんたちが駐車場の片隅で色々と農産物を売っていた。日本での高山とか能登輪島などの朝市の光景と全く変わりはなかった慶州市最高峰でもある標高745メートルの吐含山(トハムサン)は、新羅時代には五嶽のうちの東嶽(東岳)と呼ばれており、護国の鎮山として神聖視をされ、仏国寺と石窟庵が建立されている。その山を下りてきて・・・慶州は桜の名所でもあるだけに、2日前の強風と大雨が心配だったけど、慶州の至るところで桜の花が綺麗に咲いており、車窓からもお花見次に向かったのが高麗青磁の月城窯での見学とショッピングタイム。前に慶州に来た時はコーヒーカップをお土産にしたけど、今回は値札がなくお店の人に値段を聞くのが面倒でやめたウィキペディアによれば>中国・呉越(907年~)の餞州窯(現江西省、>越州窯現浙江省とする説もある)の青磁の>技術を導入して焼き始められたものであるが>その出現時期には諸説ある。最も早い説は>10世紀前半(918年建国)、最も遅い説で>11世紀後半である。>高麗の焼き物には白磁や黒磁もあるが、主要な>製品は青磁であった。青磁の胎土は焼成前は>褐色を呈しており、これを素焼きすると灰色が>かった色に変化する。これに鉄分を含んだ釉を>掛けて還元炎焼成(窯内に酸素を十分に供給>せずに焼く)すると青磁になり>釉薬中のチタニウム、マンガン等の微量元素の>含有割合によって、緑に近い釉色から「雨過>天晴(雨が上がって晴れ渡った空の事)」と>称されるような澄んだ青色などさまざまな色に>発色する。さて戦国時代の日本。信長を始めとする戦国武将らは焼き物が大好き。その為に秀吉による朝鮮侵略は別名を焼き物戦争とも言い、半島に渡った主に西国の武将らは日本に引き上げる際数多くの陶工を連れ帰った。その中には戦乱を避け自ら名乗り出た者もいたかもしれないが捕虜として拉致をされた者が多かった多くの大名らが陶工らに土地や屋敷を与え中には武士にも、取り立てて手厚く保護をしていたそうで、日本に帰化をして日本に定住した者も多く、徳川時代に李氏朝鮮と国交が成立し、朝鮮通信使が来日した時に捕虜は共に帰国を許されもしたそして日本に定住をして、日本に焼き物を広めたので有名なのが佐賀藩主の鍋島氏が連れ帰った陶工の李参平(金ヶ江三兵衛)で日本で初めて白い肌の陶磁器「白磁」を制作有田焼(伊万里焼も)の陶祖と呼ばれている薩摩藩の島津氏も80名程の陶工を連れ帰り朴平意や金海(星山仲次)などの朝鮮陶工らが薩摩焼の発祥の祖となった。また薩摩藩から朝鮮陶工が3名、琉球に派遣されて琉球陶器が始まったそうである他に萩焼きも、毛利氏が連れ帰った李勺光 (りじゃくこう) と李敬(“高麗左衛門)の兄弟陶工が開祖とされ、「一楽二萩三唐津」と称されるように、茶器のうち特に茶碗が名高く白色の柔らかな肌合いが特徴で、私も好きな焼き物だ前回の慶州来訪時には仏国寺と石窟庵以外にも、新羅時代の古墳が集まっている大陵苑にある天馬塚の内部拝観や国立慶州博物館の見学あったが、今回は昼前に今回の旅のメイン観光に移動をするのでスルー車窓からは新羅時代の王都を彷彿出来るような古墳や遺跡などもあちこちで見る事も出来たこの塀の向こう側にも、何かあるんだろうね新羅の7世紀の儒学者である弘儒侯薛聡は名僧元暁の子で新羅語を漢字で表す方法を集成し漢文を新羅語で読み解き、中国学芸の摂取と儒学の発展に寄与し神文王(在位681‐692)に道徳規範の順守を説いたそうだ。その墓所がこの道の先にあるようだ何やら遺跡。由来は遠いので?安い旅行にはショッピングタイムが付き物というか水戸黄門でも旅先で、名物を食べて工房を訪ね、温泉に遊ぶ。という訳で慶州名産のアメジスト(紫水晶)のお店に寄り土産の根付のようなものから、ネックレスブレスレットなどが。購入する方もみえたお店の前にもおっきな古墳。かなり後でその存在に気が付いたが、到着時に気が付いていたら近くまで見物に行けたのに残念桜並木の続く慶州もお別れし、次の観光先に行く途中で、お昼ごはんをとる事になったけど、その都市名は忘れてしまった朝から寺だ、石窟だ、焼き物、紫水晶などと歩き回ってお腹もすき、駐車場にバスが到着すると一目散に食堂にGO昨日の夜も、今朝も、この昼食だってスケジュールではみんな食事の名前が違うんだけど、なんか代り映えのしない食事で、真ん中の小さな焼き魚がメインらしいけど・・・あぁラーメンが食べたい 平成30年4月8日に韓国慶州で撮影にほんブログ村
2018年05月24日
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