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今年の春の旅日記は続く。年に3回のお休み春休み、夏休み、冬休みを中心にJRの普通電車に一日乗り放題を5回分(同一行程なら複数人数でもOK)利用出来る青春18切符は中高年でもいいので、私もよく利用をしている春休みの利用期間は3月1日から4月10日で娘が利用をしていたが、1回(日)分が残ってしまった。切符は11850円なので1回(日)分の2370円を娘に払い最後の1回は私が利用をする事になった。桜の季節でもあるし、電車でどこへ行こうかな良く晴れた日に、中津川駅から朝早くの普通電車に乗って景色が良い左側の座席をゲット向かった先には、車窓から白い雪山。木曽のなぁ~中乗りさん、木曽の御嶽山はなんじゃらほい!のお馴染みの「御嶽山」だそして木曽川には次なる景勝地。浦島太郎が玉手箱を開けて目覚めたという、上松町の「寝覚ノ床」。いつもは車で向かうお得意の日帰りドライブコースを、今日は中津川発松本行きの普通電車に揺られ木曽路を北へ塩尻で結構な待ち時間があり、ここで降りて甲府からやってきた電車に、乗り換えた方が松本にいくらか早く着くので、ホームを移動日本一狭い蕎麦屋としてよくメディアで紹介され、二人並べばいっぱいになる感じでも反対側に人のアタマがあるように、反対側(改札の外)でも食べる事が出来るようだ甲府からの電車の時間もあるので入り口からのぞかせていただいただけが、いつかここで食べたいそういった訳で程なくいつもの松本。娘が前に住んでいたので、娘のアパートは我が家の別荘代わりに、ここを行楽の拠点にあちこち遊びに行かせて貰った。世界的なアーティストでもある松本市出身の「草間彌生」の赤い水玉デザインのタウンバス今年3月から7月22日(日)までは「草間彌生 ALL ABOUT MY LOVE 私の愛のすべて」展が地元の松本市美術館で開催中な為か、街中も赤い水玉松本駅前の「松本パルコ」のウィンドウも赤い水玉模様。その横の道をテクテクと・・・いかにも松本らしい風情ある土蔵造りの町並み古くから、商家などが建ち並んだ「中町通り」今日はお天気が良い為か、青空に白壁が良く映えて、余計に町並みがきれいに見えた明治21年1月の大火で1500軒あまりの家屋が焼失した中、土蔵が幾棟か焼け残ったそうで、商家などはこぞって白壁に下部にはなまこ壁を施した土蔵造りの商家を建てた昔ながらの店は少なく、新たなお店が入りパンケーキのお店とか、小布施の和菓子屋だとか、色々とてくてく街歩きは勿論の事フォトジェニックな街並みであるそんな中町通りに並行して北側に流れているのが女鳥羽(めどば)川で、松本城の外堀の役割を持たせる為、戦国時代に武田氏が川の流れを人工的に変更させたものである松本市街地を流れる女鳥羽川に架かる幾つかの橋は松本を代表する景色の一つとして、松本を舞台とした映画やドラマのロケ地になる事もそんな橋の一つのたもとにある「珈琲まるも」は「丸茂(まるも)旅館」の一部だそうで、有名な旧開智小学校を設計施工した、大工棟梁の立石清重が手がけた土蔵造りの建物を使用しているそして昭和31年に松本民芸家具の創立者である池田三四郎が設計した松本らしい喫茶室は、開店時には、民藝運動の父と呼ばれる柳宗悦が褒めたそうで当時そのままのレトロな内装だ民芸運動とは、ごく普通の生活で使われてきた無名の職人による日用品の中に「用の美」を見出して、それを活用するというものである女鳥羽川に面して「四柱神社」があり、パワースポットとしても有名なんだとか。まっ信州には善光寺を始め、戸隠神社や、伊那のゼロ磁場に茅野の縄文遺跡などパワースポットもいっぱい諏訪湖の御神渡りのある諏訪大社も万治の石仏や御柱も。旦那とかは信州に行くと空気すら違うというが、これは気象的な問題か。さてさて松本の四柱神社は全ての願い事が叶う願いごとむすびの神として知られている神社である天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神を祭神とし、四柱の神を祀っている事から四柱神社といい、明治初期に出来た神社である前回のお伊勢さんの日記のコメントで、神社がお好きですか?といった話があったが、神社仏閣城郭とか好きだが、その中でも神社は参観料金が必要ないので、近くに大きなところがあれば参拝させていただくようにしているそして大きな神社や(お寺も)の前には門前町が形成をされてお餅や、お酒。楽しい食べ歩きが出来る事も多いので。お伊勢さんは赤福餅で有名なように京都今宮神社のあぶり餅や北野天満宮の長五郎餅、下賀茂神社のみたらし団子。九州は太宰府天満宮の梅ヶ枝餅といった感じで四柱神社の門前町として、先程の女鳥羽川の土手に沿って縄手通りが発展し、映画「オレンジ」に出てきたたい焼きのお店とかパン屋さん、蕎麦屋さん美味しいものも食べられる。通りの由来は「縄のように長い土手」から昔の女鳥羽川には、美しい川にしか生息が出来ないというカジカガエルがたくさんいたそうで、再びカジカガエルが戻ってくれるようなきれいな川になるようにと、縄手通りのマスコットはカエルのメトバ、ゴウ太です通りにはカエルをご神体とした「カエル大明神」が祀られている。色んな神社があるもんだ。カエルと言えば、鳴き方から下呂(ゲロ)温泉もシンボルにしてるこちらは少し離れた松本城の北側にある松本神社で地元で「ごしゃ(五社)」と呼ばれているそうだ暘谷大神社 松本城主松平康長と子の虎松を祀る今宮八幡宮 戸田氏の先祖の戸田宗光片宮八幡宮 戸田氏以前の三河国田原領主一色義遠共武大神社 松平康長淑慎大神社 松姫 ↑ここまでで五社が合祀された更には、若宮八幡宮(詳しくは下記で)が合祀されているそうだ松本神社の境内にある若宮八幡宮の社殿。ここには島立貞永が祀られているそうだが、彼は信濃小笠原氏(府中小笠原家)の当主である小笠原貞朝の家臣で、小笠原家中の坂西氏の居館跡に深志城(松本城の前身)を築城するように命じられた御神木の大欅は神社の境内ではなく、外側の道路拡張により、このような中央分離帯にあるお昼時でお腹も空いてきたので、名物の蕎麦なんぞを食べたくなった。そば処の信州でも盛り方が珍しい戸隠蕎麦や、木曽の田舎蕎麦いろいろ地域で特徴があって、松本のお蕎麦は麺が細くて上品な感じ松本市街の蕎麦屋は殆ど出かけたが、その中でも有名店の一つが、ここ「そば処もとき」で現在位置(次回紹介の松本城)からは近いし今回はここにしてみようと・・・ここって松坂屋名古屋本店にも支店があるので松本まではとても行けそうにない人は、そちらでどうぞ。そばの中心部だけの白っぽい粉で打つ透き通るような透明感があり、結構好みの蕎麦だ松本城・・・・・に似せた古本屋さん「青翰堂書店」ここを通るたびに、ついつい写真を撮ってしまうクオリティの高さだ昭和20年代に、松本城の解体修理の話が持ち上がって工事期間中に、お城を見る事が出来なくなる観光客の為にと、本物の天守閣の20分の1スケールで築城こちらは、松本城の自販機松本市街地は、女鳥羽川や薄川の伏流水と見られる地下水が豊富で、数多くの井戸や湧水があり環境省のは平成の名水100選にも「まつもと城下町湧水群」として選ばれている。松本神社の脇にあった、その名も「松本神社前井戸」地元の薬業関係者により建てられた「薬祖神社」の境内にある井戸の日の出の泉薬祖水は、他の井戸が枯渇しても、ここは決して枯れなかったんだとか貞享3(1686)年に藩の重税に反対をした農民一揆「貞享騒動(加助騒動)」に関わった農民たちの助命や救済に奔走した武士の鈴木伊織が眠っている墓の入り口に湧いている「伊織霊水」その騒動の中心人物であった多田加助ら8名が家族ととも処刑をされ、磔(はりつけ)にされた加助が松本城を睨むと天守閣が傾いたといい当時の藩主水野忠恒による、後年の刃傷、改易も加助の祟りだという伝説も。明治期になっての自由民権運動で義民として、全国に知れ渡った道から入って来る病気や災いなどの進入を防ぎ集落の入口に有って、監視や関所の様な役目をしていた道祖神だが、特に男女の双体道祖神は安曇野や松本平あたりが多いらしい。これは新しいもののようだ「イオンモール松本」がオープンしたのは昨秋で開店当初の週末に、家族と来店した時にはまるで満員電車のような混みようだったが半年経っての平日であれば、のんびり買い物も出来るだろう娘がいた時にここがあったら、さぞかし娘は喜んだだろうなぁ~なんて思いつつ岐阜県系バロー&愛知県系ユニーの締め付けが強かったのかイオン空白区だった岐阜県東濃地方に初出店をされるというイオンモール土岐の開店が前から楽しみだけど2021年以降と開業が延期(当初19年)になってしまったそうで。なんて言ってたら中部地方初出店のららぽーとが、今秋にも名古屋に出来るそうだしそちらも行かねば松本市美術館の特別展に合わせて、草間彌生の作品「宇宙にとどけ、水玉かぼちゃ」が展示をされており写真撮影もOKだったお酒売り場に併設をされた「イオンリカーバルイオンスタイル松本」をのぞくと、平日の昼間限定で最初の1杯は僅か100円で、桜の花をイメージした発泡系のワインがいただけるというので。電車旅はこんな特典もある流石に100円だけじゃ悪いなぁ~(というか物足りない)なんて思って、300円で違ったワインも飲む事にしたイオンモール松本の展望コーナーからは松本城や、北アルプスも一望できる入店時でのコーヒー試飲サービスでも有名な「カルディコーヒー」は、期間限定の企画で詰め合わせ商品を購入すると、おまけで「リンツチョコ」5粒が貰えるというのでこれはお得!だと思って、即購入これは3月にやっていた毎週金曜日に企画商品を販売する「ハッピーフライデー」の第3段、ランチョンマップ(2枚)付きのティータイムセットで1080円。それにリンツ5粒が付くのは嬉しい娘はディカフェ派なのでハーブティーの消費が激しいので、カモミールティーが安かったので3箱購入。ローズヒップ系は色はきれいだが酸味があるので、家族みんなどうも苦手だ帰りの電車で食べようと松本駅前にある人気のお団子屋さん「たかのチェーン」でお団子2本。さてさて肝心の松本城の桜は?という皆さん、次回ご紹介致します 平成30年4月4日に主に信州松本で撮影にほんブログ村
2018年06月27日
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深夜のセネガル戦は、私も0時のキックオフに頑張って起きていたけど、例のGKのパンチング失点で潔く寝てしまったので、起きたら同点で引き分けてて良かった。今迄BS-1の再放送での試合を見てました。残すポーランド戦では引き分け以上。いや快勝を願いますまだまだブログでは桜の季節の日記が続きますこちらで今までにも紹介していますし、お覚えだと思いますが、地元商業施設などで千円以上といった買い物をすると貰える応募用紙で応募をすると日帰りバス旅行1名無料招待が当りバスに乗れば中高年ばかり。1名参加はなぁ~と思って、お友達や旦那さんを同行させるには旅行内容の割りに高い料金払わなきゃいけないというアレ。更に高価な宝飾品などの直売店に必ず立ち寄らなきゃいけないという例の旅行に今年の春も一人で出かけました今までに出かけた先は娘がいた関係で松本とか岡谷出発では伊豆の修善寺、愛知の岡崎とかで中津川からは近江八幡2回、福井、愛知の蒲郡といった感じで1年に1度位は当たり、食事も付いているし、それなりの観光も出来るのでタダで旅行が出来るならばとそれは私が過去にも、この手の旅行に出かけていてどういった流れであるのかを、ある程度は知っているからであって、ネットで無料日帰りバス旅行と検索するといろいろな体験談があるので、うちの姉のように小金があり、衝動買いが好きな方は参加しない方が・・・お高い買い物をしてしまい帰ってから家族に叱られるのがオチだタダより高いものはない。普通に旅行会社で催行する格安の旅行だって同様で、先日の韓国旅行でも名産といっても紫水晶店に、高麗青磁の店、カジノ、免税店土産物屋などに立ち寄ったりするのも似たようなものそのあたりはツアー代金が安いしね~と割り切るしかない。と言った訳で目的地到着タイトルから行先はバレバレですが、ここの名物はもちもちというか・・・ぶにゅぶにゅの伊勢うどんたまり醤油に鰹節やいりこ、昆布等の出汁を加えた濃厚なつゆを、長時間かけ柔らかくゆで上げられた太い緬に絡めて食べるもう一つがてこね寿司でして、漁師が漁の合間に食べた漁師飯がもとで、鰹や鮪などの赤身の魚を醤油を中心としたタレに漬け込んだ後、寿司飯と合わせて食べるものだ。この名物セットが無料旅行の昼ごはんだった数日あるバス旅行の日程から3月27日を選んだ時は曜日は考えたけど、桜の咲き具合はまったく考えてはいなかった。でもでもお伊勢さんで今年初めての花見。桜の具合も良い感じ。この花は緋寒桜? 違うかなぁお伊勢さんは昨夏に家族で参拝したのが最後だが今回の無料バス旅行が、お伊勢さんとおはらい町の自由散策と知り、これは行くしかないと。着いてスグ名物の伊勢うどんとてこね寿司も食べる事も出来たし五十鈴川にかかる長さ101.8メートル、幅8.42メートルの木造の宇治橋(別名は御裳濯橋)の袂にあるバス駐車場で解散してのフリータイムは思ったよりも短くて、内宮まで参拝をしてたら、のんびりおはらい町はうろつけない。がここまで来て参拝をしないのは・・・ここは速足で参拝をさせていただく事にしよう。それでもカメラでパチパチ写真も撮りながら・・・ウィキペディアによれば>神宮の定義では宇治橋を渡った先は神域ではなく>神苑であるが、崇敬者・参拝者は通常神域と扱うこと>から、一般に「俗界と聖界の境にある橋」とされる>初めて鳥居が設置された時期は不明であるが、>室町時代後期の宇治橋を描いた絵には既に鳥居も>描かれている川の増水などでの流木などが橋脚に>衝突し損傷しないように、宇治橋と風日祈宮橋>(風日祈宮参道の橋)の上流側に数本の杭が立て>られており、木除杭と呼ばれる以前にこちらに伺った時は集中豪雨の後で、大きな木が本当にひっかかっていた。五十鈴川は神路山を源流とし、倭姫命が御裳の裾の汚れを濯いだという伝説から、別名御裳濯川(みもすそがわ)ともいい古くから清流とされ和歌にも多く歌われている内宮の西端を流れており、御手洗場(みたらしば)が作られ、以前は手洗いだけではなく口濯ぎまでされていたそうだ。さてさてここからは、ウィキペディアによりますと>伊勢神宮は三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢>神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない>「神宫(じんぐう)」。他の神宮と区別するため>「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて>「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社>本庁の本宗(ほんそう)である。>伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神>(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り>神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの>正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、>豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる>伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を>祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結び>つきが強く、現代でも内閣総理大臣及び農林水産>大臣が年始に参拝することが慣例となっている。>また、式年遷宮が20年に一度行われる>祭主は今上天皇第一皇女黒田清子、大宮司は>小松旧侯爵家当主小松揮世久 伊勢信仰の>中心となる神社で、日本全国の神社で授与>される神宮大麻はこの皇大神宮の神札である。正宮は石段の下からならば撮影が出来る。中央に見える鳥居を「板垣南御門」といい、鳥居の両側の玉垣を「板垣」、鳥居の奥に見える建築物を「外玉垣南御門」、手前にある石段を「石階」というそうだ。参拝の作法は二拝二拍手一拝主祭神は天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ、天照大御神)で、三種の神器の1つ八咫鏡を神体とする。相殿神は天手力男神 (あめのたぢからおのかみ)、万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)>正宮(しょうぐう)の他には、別宮の荒祭宮と>風日祈宮、所管社の滝祭神(たきまつりのかみ)>酒の神様を祀る御酒殿神(みさかどののかみ)>御稲御倉(みしねのみくら)、神嘗祭の時に>神々の食事の御料を納めた由貴御倉(ゆきの>みくら)、宮域の守護神を祀る四至神(みやの>めぐりのかみ)がある正宮に次ぎ尊いとされる荒祭宮(あらまつりのみや)の祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)で、正宮で一般国民ですが、国家安泰レベルのお願いをしてその参拝後にこちらのお宮で個人レベルのお願い事をするそうだウィキペディアによれば>『日本書紀』によれば、天照大御神は宮中に祀られて>いたが、崇神天皇6年、笠縫邑に移し豊鍬入姫命に>祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代と>して天照大御神を祀るための土地を求めて各地を>巡った。垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いたとき、>この国に留まりたいという天照大御神の神託があり、>倭姫命は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、>磯宮と称したのが皇大神宮の始まりという>江戸時代にはお蔭参り(お伊勢参り)が流行した>庶民には親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、>弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語ら>れるように、多くの民衆が全国から参拝した>明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度に>おいては、すべての神社の上に位置する神社として>社格の対象外とされた。といった訳で、かなりの急ぎ足での内宮参拝も無事に終え、お楽しみタイムもなんとか作る事が出来ましたやはりお伊勢さんに来たらここに来ないと・・・最初に欲しいお馴染みのお土産も購入して年季の入った看板娘こちらはにゃんこの看板娘・・いや招き猫銀行もこんな感じ。おみくじ付きって興味ある伊勢参宮街道の終点である宇治橋手前から、宇治今在家町から宇治中之切町を経て宇治浦田一丁目に至る約800メートルのおはらい町は、内宮の鳥居前町でいつも参拝者で賑わっている。江戸時代には、参宮客が年間に二百万~四百万人も押し寄せ、庶民の憧れの地でもあったところが戦後近代化により、宇治橋脇まで大型バスが入った事で、参拝客はおはらい町に立ち寄らなくなってしまった。そこで洋風化をする世の中に逆行するように「内宮門前町再開発委員会」を結成し、伊勢らしい建物によるまちづくりを目指した地域の人らの熱意によって、江戸時代の町並みが蘇えり三重県や伊勢市も町並み再生に協力し、電線の地中化や路面の石畳化を実施をした。家族とくれば娘がふらふら~と立ち寄る酒蔵も、今日は時間もないので素通り更には赤福餅の企業が、当時の赤福の年商に匹敵する約140億円をかけて、平成5年の式年遷宮に合わせ伊勢志摩の特産物や土産を扱う物販店を中心に出店をしたおかげ横丁を開業。経営は間もなく軌道に乗って開業から僅か10年で借金の返済が完了したそうだウィキペディアによると>伊勢路に実在した妻入の木造建築物を細部に至る>まで徹底的に再現し、「世古」と呼ばれる伊勢>らしい路地を形成している。また、木目が美しいと>されるトガ材ですべての建物を建設し、土壁や>瓦の焼き具合などにも注意が払われている買い食い~。ここに来たら何かを食べないといられないちょっと忙しくはなったが、それでもお伊勢さんなかなかこれないのに、来ることが出来て良かった旦那がケチなので昔、アメリカのラスベガスとグランドキャニオンの旅を格安で行ける優待旅行当たったのに、(招待じゃなく)優待だったらお金いるんでしょって、旦那(鶴)の一声で旅行は出来ず、よ~しだったら招待旅行なら文句はないだろう!という訳で、スペイン、イタリア、ハワイ、韓国複数回ペア招待で行けたけど(ベトナムはサーズで国内どこでも旅行に変更、フィンランドは家の用事で辞退)、最近は懸賞もご無沙汰でこのような無料日帰りバス旅行でのお出かけばかり伊勢神宮から高速に乗ってかなりの時間が経った頃車窓から見えるのは愛知県の小牧城いよいよ宝飾品直売店で、お高い宝石の鑑賞タイム最初の展示室のみ写真撮影がOKだ。売り場などを抜けると、休憩所もあって雑誌などもあるし椅子でまったりと時間をつぶす。最初の時は用心をしてお土産代ともしもの時の自宅までの交通費分の現金持参でカードは持っていかなかったこうして夕刻に自宅到着。お土産はやっぱりアレ赤福餅は外せないそして子供の頃から好きな、我が家の定番お土産の真珠漬。別に真珠の漬物ではなくって、真珠を作るアコヤ貝の貝柱を粕漬にしたものだ。それに虎屋のういろも1本娘が好きな天ぷらも袋に入れてもらい、とろろこんぶこれも好き。更におせんべいはどれでも好きなのを選び3つで1000円。伊勢エビは買えないので伊勢エビが入っているらしいせんべいを購入 平成30年3月27日に主に伊勢神宮で撮影にほんブログ村
2018年06月25日
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4年に一度のFIFAワールドカップサッカーが始まって日本は強豪コロンビアから大金星をあげた。直前の監督解任など何かとドタバタ前回の2014年のブラジル大会出場選手が11名もおり、平均年齢は28.3才と過去最高という事でメディアなどからは、おじさんジャパンとか有名選手ばかりなので、忖度ジャパンなどと呼ばれたりもしたが、まっ、スポーツは所詮結果だから。結果を残せたら今までの辛口のコメントも消え、称賛の声ばかりとなる野球のセ・リーグでは中日かヤクルトかと最下位争いで、低迷をしているヤクルトがパ・リーグとの交流戦で、交流戦最高勝率を決め本来であれば賞金1000万円を貰えるハズだが、セ・リーグの方がトータルで負け越しした為に2位の500万円で、MVPもパ・リーグの球団から選ばれるそうであるしっかりと結果を残せたのにお気の毒・・・そんな普段には戦わない野球のセ・リーグとパ・リーグだけど、この時期の交流戦の他に4月開幕前の3月のオープン戦でも見る事が出来る。中日と何かと所縁のあった楽天とかロッテ戦などもナゴヤドームでよく行う1997年3月18日のナゴヤドームのこけら落としの試合は郭源治投手の引退試合だったが名古屋出身のイチローが在籍中のオリックスとのオープン戦で、私も観戦した忘れられない試合だそんな事から意外にパ・リーグの球団の試合も名古屋で見れるのでメジャーで戦うマー君とか楽天戦での登板も見れた今更感がありますが、今回の日記は今年3月14日。ナゴヤドームのオープン戦対戦相手は西武ライオンズの観戦日記でこれまでの選手はみんな西武の選手だ多くの選手は、背番号から判断するしかないが、彼は高校球児の頃から知ってた菊池雄星投手。彼が目当てでの西武戦?いえいえ。テレビのバラエティ番組などで物言いが面白く、前々から気になっていたウナギイヌこと、秋山翔吾選手を見たいなぁなんて気持ちもありまして、そして西武戦ならば、もしかしたら今年話題の〇〇投手も登板するかも?という気持ちもあった娘の会社も加入しているジョイセブンのオープン戦のペアチケットプレゼントで↑そんな事もあって、希望日を西武戦にしたら今年も当選。昨年は内野席だったが今年は外野席だったのは、逆に嬉しいだって、お目当ての西武の秋山翔吾選手も中日で一番お気に入りの大島選手だって外野手だもんね。前回の西武戦は中日に移籍した和田選手が西武でプレーをした年だから、かなりメンバーも変わってそう交流戦前ほどのゲーム差が無くなったがパ・リーグの首位を走る西武をひっぱる若き主砲、山川選手もホームランを打ったけど、写真が一枚もなかったのは残念だもう3月半ばだけどドアラはカレンダー販売促進活動中そして外野席の特典の一つが、試合前の練習時間に、投手陣が体を慣らしているので近くで見物できるのも良いその日は先発をして中日の〇〇投手と投げ合うはずだった菊池雄星投手は、1回を投げ終えたところで、寝違えによる頸部の張りのため降板してしまったが、試合前の練習で見物させてもらいました花巻東高校時代には甲子園で活躍し、ドラフトでは、中日など6球団による1巡目指名を受けて競合の末に西武が菊池の交渉権を獲得。昨年は最多勝と、最優秀防御率のタイトルも獲得した日本プロ野球においては左腕での最高球速記録保持者(158km)でもあるそうだという訳で、あまり詳しくはないが西武の投手陣をお近くで拝見出来た中で、一番かっこいいなぁ~と思ったのが小石博孝投手かな。NTT東日本で都市対抗野球で活躍しての入団なんだけどこちらはNTT西日本からの増田達至投手で1015年に最優秀中継ぎ投手のタイトルを取ったが、一昨年あたりからは救援にまわり今年も既に11セーブを挙げている本田技研工業鈴鹿野球部で都市対抗野球で活躍した平井克典投手。昨年のアジアプロ野球チャンピオンシップの日本代表となり今は中継ぎで投げているが、スポーツ誌などでは先発候補として名前が挙がっている髙橋朋己投手は、岐阜聖徳学園大学を経て西濃運輸と岐阜県にゆかりも。入団直後より数十試合登板していたが、2016年に左肘内側側副靭帯の再建手術を受け、昨年より再び投げている真ん中はやはり西濃運輸を経た野田省吾投手でやっぱり昨年のアジア プロ野球チャンピオンシップ日本代表に選ばれた。中継ぎ投手として定着しているようだ大石達也投手は同期の早稲田大学の斎藤佑樹とともにハンカチ世代。ドラフトでは6球団から一位指名を受け西武が交渉権を得た。パリーグ球団って、どこもくじに強すぎだし手前にいるのが昨秋のドラフト1位のルーキー明治大学卒の齋藤大将投手で、直球の最速は146km/h、変化球はスライダー、スクリューを投げるんだとか高卒時のドラフトにかからなかったので、四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスで高卒1年目で大活躍をしてリーグMVPも受賞昨秋のドラフトで西武に上位の3位指名されたルーキー伊藤翔投手だ大学(4年)、社会人野球(3年)を経験をするより早く、独立リーグを経て僅か1年でプロ野球の世界へ飛び立ったわけだ(後ろ向きの選手の方)なんかおちゃめだ。4月11日には1軍で初登板いよいよ試合も開始間近。西武戦なら投げるはずという予想は当たって先発は元西武の平成の怪物君。横浜高校在学時から名を鳴らし、松坂世代という言葉すらも作った松坂大輔投手だタイトルは最多勝利3回 、最多奪三振4回 最優秀防御率2回獲得。新人王 、沢村賞1回ベストナイン(投手部門)3回 、ゴールデングラブ賞(投手部門)7回 オールスターゲームMVP1回 といった輝かしい記録を持ったままメジャー挑戦ボストン・レッドソックスが当時のレートで約60億円で6年契約を結ぶが、怪我にも泣かされたメジャー時代であった。ソフトバンクに戻るがやはり故障に泣かされ3年間で1試合しか登板が出来ず、育成かコーチ契約を提案された為に退団。昨冬に中日が非公開の入団テストを行い、即合格年俸は推定1,500万円プラス出来高払いの1年契約となったが、入団当時から松坂ブーム再来4月開幕から1軍で先発投手として登板。4月30日の横浜DeNAベイスターズ戦で日本では2006年9月以来の勝利投手となり、オールスターファン投票の中間発表でも堂々の1位だメジャー帰りと言えば松井稼頭央外選手TBSのプロ野球選手の妻たちでも最近取り上げられていたが、メジャーから戻って楽天に在籍していたが、コーチ兼任で古巣の西武に15年ぶりに戻ったそしてそしてジャンクスポーツなどのトーク番組でお馴染みの秋山翔吾選手わ~い。先程のウナギイヌというのは天才バカボンに出てくるキャラクターに似ているからだそうだ最多安打2回 、首位打者1回のタイトルとベストナイン2回 、ゴールデングラブ賞4回 月間MVP3回 、オールスターゲーム敢闘選手賞といった活躍ぶりだ。小学6年の時に父親が病死した事もあって、主催試合では一人親家庭を招待しているそうだ金子侑司選手は内野から外野選手にコンバートされた選手で、怪我などにも泣かされつつも一昨年は最多盗塁者賞を獲得。西武のイケメンなどにもよく名前が出てくるようだ西武の正捕手である炭谷銀仁朗捕手は現職の労働組合日本プロ野球選手会第9代会長で2009年に涌井秀章投手と、2017年に菊池雄星投手と最優秀バッテリー賞をともに受賞をした肘の疲労骨折や腰痛に悩まされ本来の投球ができなくなり2012年に投手から外野手に転向をした背番号3の木村文紀選手は打撃で苦しむも、守備や走塁で存在感を残している前から四番目の選手は、浅村栄斗選手で2017年5月20日のソフトバンク戦で通算100本塁打9月28日のソフトバンク戦で通算1000安打を達成。平成生まれの1000安打到達者第1号となったここからはドラゴンズの外野手陣です。私の一押しの中日の大島洋平選手と遠藤一星選手大島洋平選手は盗塁王1回のタイトルの他にベストナイン1回 、ゴールデングラブ賞5回月間MVP1回、日本シリーズ優秀選手賞1回 新外人のドミニカからやってきたソイル・アルモンテ選手のあごひげは、メキシカンリーグ所属中の2017年から伸ばし始めて打撃成績を大きく伸ばした事から、幸運のヒゲだそうで、中日入団の理由の一つがひげを伸ばし続けてもいいからなんだとか5月度の月間MVPのセ・ リーグ打者部門を初受賞し打撃も好調だ新外人のプエルトルコのスティーブン・モヤ選手は平成生まれ。4月にはよく打ったけど最近は減速気味そうそう本田圭佑(ほんだけいすけ)投手が西武ライオンズにもいます。彼の名の由来は言葉の響きと、字画を考えての事なんだとか↑で紹介をした伊藤翔選手も、プロサッカーの横浜F・マリノスに伊藤翔選手がいるそうだやっとこさ3月中旬に出かけたナゴヤドームの中日と西武のオープン戦の紹介が出来ましたその後の松坂大輔投手だが、先発予定だった6月17日の西武戦で試合前に背中を痛めて登板を回避。リハビリを治療を行い状態次第でまたキャッチボールを始めるそうだ元気な姿でオールスターで登板し、西武の山川や秋山、ソフトバンクのトリプルスリーの柳田とか対戦したら面白いのにな。まずは治療に専念して欲しいものです。現段階の貴重な戦力ですので頑張れ、松坂! 平成30年3月14日にナゴヤドームで撮影にほんブログ村
2018年06月21日
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いよいよ、娘と4月上旬に出かけた韓国のお花見ツアーも最後の観光先となりました海雲台のホテルを出て近くの海東龍宮寺の拝観をして釜山市街に戻ってきた訳ですが中山道が美濃の中津川から険しい峠を越えて木曽に至る山腹の馬籠宿に住んでいるので恵那山も正面に見えて風光明媚でいいけど冬は道が凍結して、車が大変なのが玉にキズ程度に思っており岩村とか、城の建つ山腹に城下町が形成されて金華山の岐阜城とか、山の上には偉い人が住むもんだって認識だったが、韓国の「陰宅(墓所)風水」では、見晴らしが良く風通しの良い山腹などは、お墓を建てるのにぴったりらしくってかつては山にあるのはお墓かお寺だったそうだソウルや釜山の街なども、坂をぐんぐん登った山腹には貧しい人が住んでおり、空の月に手が届きそうだとか、バラックの隙間だらけの屋根から月が眺められるので「月の町(タルトンネ)」と呼ばれ、朝鮮戦争で行き場のなかった人たちが集まってテントなどを張って暮らし始めた集落も釜山のチャガルチ市場などもある繁華街のすぐ裏手の山腹である甘川洞(カムチョンドン)もそんな貧しい月の町の一つであったが、近年になって、アートな街として注目を浴びている東西を山に囲まれて、南側には海を望む斜面に朝鮮戦争の際に避難してきた人々が住みついた迷路のように入り組んだ路地が特徴的な貧しい月の町だったその独特の風景に魅了をされたアーティストらが次々と移住し、2009年にはパブリックアートを取り入れた町おこしが行なわれた事で、カラフルに塗り替えられた家が所狭しと建ち並んだ甘川文化村(カムチョンムナマウル)に生まれ変わったのです釜山も以前にも複数回来ていて、フリーでもあちらこちらに出没をしていたのに、ここは知らなかったで、ツアーの目玉である鎮海の桜というのが一番であるけど、3日目の釜山観光で甘川文化村が入っていたのも、このツアーに参加したいと思った一因だ町の入り口にもなりそうな所でバスを降りてから集合時間を決めてのフリータイムだったが、あぁもっと時間があったらなぁ~と思わせるようなワクワクするような街並みだまっ昔は若い女性が敬遠するような町であったのかもしれないが、ホント、街も生きているんだなソウルにある梨花洞壁画村(イファドンピョックァマウル)もまた、同様の試みがされているそうだ前々回では海辺に建つ高層マンションを紹介したが朝鮮時代を経ての現代においても、光があれば影もある。格差社会を肌に感じる事も出来るような気も年老いて、こんな階段ばかりは辛いだろうなぁ~とか考えるが、うちのあたりも坂ばかりで足腰が鍛えられるせいか、年寄りもご長寿ばかり今はコンクリートなどで整備された路地の階段も朝鮮戦争時には、避難してきてお金も物資もなく山には墓地があったとかで、ネット検索をしたら日本人の墓石を家屋の基礎や階段にしてるような写真などもあったアートじゃない月の町の現状などもあるので、もし興味があれば ↓下記リンクの記事をご覧ください“日本人の墓”でできた韓国スラム街「タルトンネ」に潜入! 日本人の墓をイメージしたゆるキャラも…!高台には小さな展望台があり、町を見晴らす事が出来た。この町が出来てから数十年以上の年月が流れても南北が分断されたままだとは、思ってもいなかったんだろうなぁ朝鮮戦争(1950~53年)は、第二次世界大戦後に、南北で米ソの分割統治下に置かれた朝鮮半島における東西両陣営の代理戦争というべきもので生まれ故郷に戻れなくなった人々や、 家族が離れ離れになってしまい、南北の分断は決定的となった事で1000万人とも言われる多くの家族が南北間で離れ離れになってしまった韓国と北朝鮮の国交が樹立し、2000年代になり離散家族再会事業が開始されたが、全員の希望がかなえられる訳ではなく、抽選などによる限られた人だけのようだ。彼らの多くは既に80歳を超えて一目でよいから肉親に会いたいと思っている更に韓国国内でも戦火を逃れるうちに身内と離れ離れになってしまった家族も存在しており1983年に「離散家族を探します」という138日間にも渡る生放送番組では約5万人が参加をし、1万人程が家族に再会できたそうだ日本でも国策によって満州に渡った人が終戦になっても帰国が出来無かった中国残留孤児が家族を探す為に沢山の写真が新聞に載っていた時期があった。姑の叔母と幼い従妹も行方不明であったので新聞の写真で面影を探していたが再会はかなわなかったそろそろ集合時間にも近づいてきたので同じ道を辿っていくが、もう小一時間程あったらなぁ・・・。観光地をロスなく安くまわれるが、こういった時に自由さがないのがツアーの欠点でもある美味しそうな匂いもただよって、娘は食べたそうだが時間もないこんな階段もあてどなく、ぐんぐん降りていってみたいんだけど集合時間には皆さんお揃いになっており待ちかねたように大きな道に観光バスもやってきたのでそれに乗り込んだ釜山の繁華街から見る月の町。さて後は金海(キメ)国際港空港に向かうだけとなった途中には大きなスタジアムがあった金海国際空港のすぐ横にあった商業施設の一角の土産物屋さんに寄り、最後のお買い物私もふりかけなど食品などをお土産に購入金海(キメ)国際空港にお昼頃に到着。あっという間の2泊3日は、満足のいく旅行だった。待ち時間もたっぷりあるが、機内食もでるのでスイーツなどを食べてみたせっかくの窓際の席なのに、下界は雲で遮られていた。残念大韓航空の機内食。パン残しちゃったあっという間に日本列島に戻ってきたようだあぁ、雲が無かったらなぁじゃじゃじゃ~ん。午後には名古屋駅前の見慣れた高層ビルを見上げてましたやっぱ街がきれいな気がするナナちゃんだぁ~機内食がいまいちだったんで、お腹も空いていたので親子丼を食べた飛行機がセントレアから午後に出発し午後に到着したので、家からの行き来はとても楽だった。瑞浪駅裏の駐車場に車を停めているので、そこまで電車でGOお土産はいつも購入するひまわりの種とか伝統茶のステックなどなど更に韓国のりや昆布のお菓子こちらは免税店来店や、ホテルに現地ガイドさんから貰ったものなど夕刻に帰宅したので、近くのスーパーで安くなったお総菜などを購入して久々の日本食。 平成30年4月9日に撮影にほんブログ村
2018年06月17日
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満開の桜。今年4月上旬に娘と出かけた韓国のお花見旅行。初日に降り立った釜山の空港近くの桜並木、慶州の桜並木、韓国一の桜の街である鎮海とまわってきたが、少し満開が過ぎていた感じだけど、ここは満開! 最後の最後に見事な桜を見る事が出来たそんな満開の桜が迎えてくれたのは、釜山郊外の海辺に建つ海東龍宮寺( ヘドンヨングンサ)だ前に来た時にフリーで行きたいなぁと思ったが他にも行きたい所が多くて、断念をしたお寺で今回のツアーに入っていたので嬉しかったしかもこんなに綺麗な桜が咲いていたのだからお花見旅の最終日を飾るのには相応しく、福の玉をくわえた龍もニコニコと笑っているようだこちらもお花見シーズンなのか、地元の方の団体バスなども幾つも入ってきてやっぱ地元の奥様達はカラフルなお召し物がお好きなようで、みんなで黄色にしようとか相談したのかな。前の一団はピンクのお揃いでなんだか一度に春が来たみたいこちらはツアーの日本の奥様達。4月とはいっても日本でも寒の戻りのあった頃なので冬の装いが多いのか地味な印象。ネットにあったが派手な色合いの洋服が、バブル後に本来の自然で地味な姿に戻そうとしたのが今の系統らしいのだ更に日本古来の染料は天然素材から出来ており色彩も上品だったりするそうで、カラフルな色には違和感も感じるようだ。それに比べて韓国は王様は赤色とか両班は、中国からの輸入などで美しい色合いの衣装も着れたが、染色技術がなく庶民は綿の生成り(麻とかの白っぽいの)のものしかなかった元々が染色の技術を持ち合わせていなかった事で、色彩の調整や配合、配色の感性も無いままで化学染料を使う事で、単純な原色などの派手な色合いが一般的であるという長い歴史の中で、先人が作り上げてきた技術や文化の違いが、今を生きる色彩感覚にも影響を与えているんだというのも面白いものだ。でも私もカラフルな色のものも好きだったりします何よりベージュや黒のような無難な色から売れカーディガンとかで、黄色とか緑のが売れ残りかなりお得な価格で売れ残っていたりするのでこの前も、オレンジの春の上着がめちゃ安くてそれでも派手かなぁ~~と買うのをやめたけど韓国の奥様なら即、購入されたかもまっ、私自身も色付きの洋服が好きな方なのでどうのこうのは言えないが、原色はないかなこの時期のクローゼットはこんな感じずらりと並んだ十二支(シビジ)の像。その歴史は古く殷の甲骨文で十干と組み合わせて、日付を記録するのに利用をされた。戦国(中国)時代以降になると年、月、日、時刻、方位の記述にも使うようになったそうだ。中国や韓国では亥はイノシシではなく豚だそうだ亀のようなものの台座に乗った碑を、亀趺(きふ)といい、それは亀でなく贔屓(ひき)という中龍が生んだ、9頭の神獣である竜生九子の一つで、中国の伝説上の生物だ。重きを負う事を好むことから台座などになっている柱の土台である贔屓を引っぱると、柱が倒れてしまう事から、ことわざの「贔屓(ひいき)の引き倒し」の由来となった。儒教の影響からか日本でも江戸期より取り入れられた韓国の済州島のトルハルバン(石製の爺さん)は街の入口などに立てられ、日本でいうところの道祖神的な存在だろうか。大きい目と鼻。唇は閉じており、韓国伝統の帽子(モジャ)をかぶり両手を腹部で合わせるのが特徴である釜山から少し東に行った松亭(ソンジョン)という、風光明媚な海辺の岩場に建っている海東龍宮寺(ヘドンヨングンサ)は観音信仰の聖地として数多くの観光客が訪れるそうだこのお寺の拝観は〇〇時に駐車場のバスに集合となっており、かなり時間が割いてあったけど、速足でぐんぐん、ぐんぐんと先に進んだ。かなり広いお寺だやっとカラフルなお堂が見えてきた。1376年に高麗公民王の王師であった懶翁(ナオン)大師が創建をしたと伝わっている。その由来は・・・その当時、暑い日照りが続いていたある夜の事懶翁大師の夢の中に東海龍王が現れ「後ろは山で前は海である場所で、毎朝手を合わせて仏様を拝めば、雨順風調し、国泰民安あり」と言わたそうだその為、この地にお寺を建てて山の名を蓬莱山(ボンレ)とし、普門寺(ポムンサ)と名づけたのが最初であるそうだ文禄・慶長の役で焼失をし、1930年代に通度寺(トンドサ)の蕓崗(ウンガン)和尚が寺を再建1974年晸菴(チョンアン)和尚が100日間祈った末に、夢の中に白衣を着た觀音菩薩が龍に乗って昇天するのをみて海東龍宮寺と改名したそうだ心から願えば、誰でも必ず一つは願いが叶うといわれているそうだ。東海龍王をカタカナでトウカイリュウオーとか書けば、なんだか早い馬にしか思えないけど、どうやら中国の西遊記や封神演義にも出てくるメジャーな龍王であるらしい中国の伝説では人間世界を取り巻く四つの海にそれぞれ龍王がおり、海や水棲の生物を支配しており、彼らは兄弟であるそうだ。姓は敖(ごう)で、敖広(ごうこう)、敖欽(ごうきん敖閏(ごうじゅん)・敖順(ごうじゅん)だが他の名前も伝わっている顔が青い東海龍王敖広、顔が赤い南海龍王敖欽顔が黒い北海龍王敖順、顔が白い西海龍王敖閏なんだとか。日本の古墳などでも描かれている青龍・白虎・朱雀・玄武の四神が、後の代になり青龍が四海龍王となり、玄武は玄天上帝と亀蛇将となったそうだ孫悟空が使っている如意金箍棒は、もともとは東海龍王の庫にあったのを、孫悟空が奪い取ったらしい。日本での龍王は仏教による八大龍王となる。なんだかガメラのようなウミガメとりあえず境内はみんな見てみたいので、お堂の裏山を登って、高いところから見下ろしてみた韓国最大級と言われている高さ10メートル程の海水観音大仏は、ひとつの石から彫られたそうだ海水観音とはどんな仏様なのか検索をしてみたがわからなかったこの金ぴかなのは、どうやら弥勒様らしいがイメージが違う~。弥勒と言えば中宮寺とか広隆寺のなよ~とした弥勒半跏思惟像しか想像できないし、こんなおっきなお腹の・・・しかも金ぴかこちらはお釈迦様の誕生像だろうか。金ぴかむむむ・・・・こちらの金ぴかの真ん丸なお尻は金色の豚。夢の中に豚が出てくるとお金を貰うそうで、大きなブタの貯金箱とか韓流ドラマでもよく出てくる。なんでも2007年は600年に一度の黄金の豚年だったそうで黄金の豚ブームだったそうだあちらの岩場にも金ぴかの仏さまの姿が。無論あそこまで見に行くとしてみよう黄金の仏の向こうにお寺があるのも、良い構図になりそうだ。この仏さんが何なのか不明参拝用の敷物が置かれていた。その端にある日の出岩。ここから日の出を見るのだろうこの海の彼方には近くて遠い日本テレサテンや欧陽菲菲のような台湾出身の歌手がヒットを飛ばした頃に、韓国からもキム・ヨンジャやケイ・ウンスク。果ては日本人の天童よしみが歌った、珍島物語なんてのもあったけど、草分け的存在であるのが1987年の紅白歌合戦で、韓国人歌手として、初めて出演したチョー・ヨンピルが「釜山港へ帰れ」を歌ったので覚えている方もいるのでは。三佳令二による日本語版の作詞では、釜山港で帰ってこない男性を待つ女性の心情が歌われているのだが本当の詞では、(日本へ)行ってしまって帰ってこない兄弟の事が歌われているそうだその日本語版の出だしは ~椿咲く春なのにあなたは帰らない~椿が咲いておりましたお堂と参道を繋ぐ階段は108段。除夜の鐘でも有名な煩悩の数108つ。ウィキペディアによると>眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・>身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに>好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが>悪い)・平(へい:どうでもよい)があって>18類>この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:>きたない)の2類があって36類、この36類を>前世・今世・来世の三世に配当して108となり、>人間の煩悩の数を表す。という事だ。この花は何だろう?いよいよ4月上旬に娘と出かけた韓国旅行の日記も次回が最終回。やっと旦那と出かけた国内の旅の話も始められそうです。今は娘と出かける夏の激安バスツアーの計画中。何を食べようかな 平成30年4月9日に釜山で撮影にほんブログ村
2018年06月14日
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風呂と台所の水回りはリフォームをしてあったがオンボロ木造家屋に嫁いで25年以上。念願でもあった家の建て替えもして早2年。つい2年前であるのか、もう2年なのか。旦那も定年して同じ職場で高齢者再雇用となり、事あるごとにお金はもう無いからと、夏休みの旅行すら放棄しそうな勢いだそりゃ、今までの給料が半減してしまうのだし今年1年は、昨年度の所得金額に応じた税金を払わなきゃいけないけど、今まで2万円ちょい払い込んでいた生命保険は今月の支払いが最後その分はなくなるのが有難い。その保険は世間でお宝保険と呼ばれるバブル末期に契約したもので15年位前には、保険のおばちゃんから、新しいものは保障内容が良くなったと、保険の契約切り替えをすすめられたものだというのも、お宝保険は契約当時の金利5.5%とかで保険の掛け金が計算されているので、今と比べて格段に安いので、保険会社側には負担にも感じ、保険会社に有利になる保険に切り替えさせようとあの手この手で契約更新を迫ってきたのだバブル時の経済状態が続いたらという予測内容の契約書だったから配当金はバカスカ入り、高齢になったら、結構な老後資金が入る算段であったが捕らぬ狸の皮算用。バブルの崩壊で経済状況も芳しくもなくて今やゼロ金利。その為に予測をされていた高額の配当金も入る訳もがなく、その金額の少なさに絶句する人も多いけど、契約書に経済状況で変わるので保障は出来ないと、下線付きで大きく書いてある。保険金とは別の配当金だけでも、うちも750万円位になると予測をされていたのが現実は100万円そこそこだったそれでも契約後の数年間は3万円位つつ配当金が出てたので、それらが今は100万円ちょいとなって今後も4%位の金利で増えていくみたいだ。当時入ったのは定期付きの終身保険で、掛け捨てでの高額の死亡保険と医療保険を、終身保険に特約として付けたもので、6月で特約部分は終了するが掛け金を払い終わった終身保険600万円は有効なので、契約続行(解約金は現在は250万しかなく長く続ける程、600万に近づくらしい)掛け捨て特約部分でも、満期にあたり解約金として35万円位戻ってくるし、前に保険会社が株式化をした時にも(株か現金か選択で)お金を貰っているので、トータルすれば長く支払ってきた掛け金位はどうにか戻ってきそうだ。それにしても災害時の死亡では増額みたいな特約なんかつけずに、主契約の終身保険の金額をもっと多くしておけば良かった。旦那も私も20代の頃にはそんな事も判らず、旦那の親戚の保険員に言われるままだったし医療特約だけど掛け捨ての安い保険とか、がん保険にも前から入ってるので必要もない。さて写真の方は娘と4月に出かけた韓国旅行2日目の夜。広安里ビーチの夜景です。釜山市内中心部と海雲台までを結ぶ自動車専用道路にかかる広安大橋で、総延長は7420メートルそのうち900メートルがつり橋。愛称はダイアモンド・ブリッジこちらは見事な釜山市街の夜景も楽しめた釜山港大橋で主塔の高さが190メートル、南区戡蛮洞から影島の青鶴洞まで全長3331メートルという韓国内最長の鋼合成の斜張橋だそうだ。横に入った光はバスの室内灯2千円程のオプションでの市場フリータイムと、ナイトツアーはなかなか楽しいものだった。こうして夜遅く今夜のホテルに到着外観写真は翌日朝に撮ったものだが、男優のチャン・ドンゴンが名誉総支配人だとかいう、海雲台グランドホテル(こそっと。昨夜のホテルとはえらい違いだ)で昨夜のホテルと順番が逆じゃなくて良かったホテルのある海雲台(ヘウンデ)の海岸沿いにはホテルや飲食店が立ち並び、外国人専用のカジノ免税店もあり釜山を代表するリゾート地として知られている新羅の文人である崔致遠(号・海雲)が、海雲台海水浴場の西端に位置する冬柏島(トンベクソム)を訪れた時に、岩に「海雲台」と彫ったのが、この地の由来とされている温泉としても歴史は古く、真聖女王が湯治を行ったと伝えられている。韓国において女王という存在は新羅において、ドラマにもなった7世紀の善徳女王真徳女王、9世紀の真聖女王の三人だけだ。中国において唯一の女帝は唐の高宗の皇后となり、後には唐に代わり武周朝を建てた武則天で7世紀末に在位日本でも7世紀は女帝の世紀であり、推古天皇に皇極(斉明)天皇、持統天皇。続いて8世紀には元明天皇、元正天皇、孝謙(称徳)天皇。そして時代が下がって、江戸期の明正天皇と後桜町天皇である。そういった意味からも7世紀の東アジアは女王の世紀であったお部屋からの海雲台の眺め。10年近く前に海雲台の水族館でサメとかカワウソ見たけどこんなに大っきなビルの建ち並ぶ地域だとは思わなかった。で昔のブログの日記を見たらやっぱ奥の方にビル群がありましたわ。人の記憶などいい加減なものだし早起きをして、まだ誰もいない静かな春の海辺の散歩も楽しみたかったけど、一昨日昨日と夜観光があって疲れたのかぐっすり今日が旅行の最終日。お天気には恵まれたようだ。韓国最後のお食事はホテルで朝食他のツアー客のお父さんも、やっとお腹一杯食べられると喜んでいたけど、肉もあれば、温かなものは温かく、美味しいって感じられるブッフェスタイルの朝食続けての韓国風の食事だったので、やっぱ洋風の味も恋しくなった。フレンチトーストチーズにカフェオレ。でもでも韓国のりもパクパクっといよいよ最終日(とは言っても半日)の観光スタートは、「タルマジキル(月見の道)」を車窓から。こんな所を散歩出来たら楽しそうだ開店前のロッテのアウトレットも車窓からこの後に観光があったけど、次回の日記で紹介をするので、その観光後に釜山市街へ向かった時の車窓からの風景を紹介すると海雲台から釜山市街に戻る途中に突如、現れる高層ビル群はマリンシティというセレブな方が暮らすゴージャスな街で、釜山のみならず韓国内でも注目をされているらしい富と栄華を享受するお金持ちや、芸能人とか著名人がだだっ広い部屋に住み、駐車場には高級車がずらりと並んでいるらしいここの学区にある小学校も評判が良いらしくこのマンションの人気を押し上げているんだなんてのも在韓日本人の方のブログに書いてあったけど、なんでも韓国ではマンションに住む事がステイタスらしいしかも金額が高いので自分の代だけではなく子供の代まで、その住宅ローンを払わなきゃいけないので良い収入を得させる為に子供に良い教育をさせているなんて、現地ガイドが話していたが、やっぱ財閥系大企業と、他の企業の賃金格差は大きく、一流大学を出ても満足のいく就職が出来る訳でもない>韓国統計庁が発表した17年の失業率は3.7%で>前年と同じだった。一方で若年層(15~29歳)の>失業率は9.9%と統計が現行基準となった>00年以降で最も高くなった(中略)統計庁は>「社会全般の高学歴化と大卒以上の求職者の>希望の高さの問題が複合的に作用したためと>みられる」と説明した>大卒以上の失業者数は50万2000人で、>全失業者102万8000人の半分近くを>占める。15年に42万5000人だった>大卒以上の失業者数は16年には45万>6000人に増えていた。>韓国は苛烈な競争社会で、受験戦争の激しさで>知られる。一流大学を卒業して大企業に就職>するのが理想とされ、そうでなければ脱落者と>みなされかねない空気があるという。(中略)>富裕層やエリート官僚による縁故採用もはびこる>中、国外に働き口を求める若者も少なくない。>経団連は、韓国の大学生を対象にした日本企業の>就職セミナーを今春にも韓国・ソウルで開く。韓国の>優秀な大学生を日本企業が雇い入れれば、日本の>人手不足と韓国の就職難が「わずかでも改善できる」>(関係者)との期待がある。>「ヘル朝鮮」から抜け出そうと、日本を目指す>若者が増えるかもしれない。ヘル朝鮮 英語で>地獄を表す「ヘル(Hell)」と「朝鮮」を組み>合わせた造語で韓国社会の生きづらさを自嘲>した言葉元記事は産経デジタルニュース↓大学は出たけれど…韓国就職難で大卒の失業率が高卒上回る 「ヘル朝鮮」脱出へ若者は日本を目指す?この日記の最初の夜景写真でもあった、釜山港大橋ちょっとレトロな街にも春には桜が咲いて、無機質な高層マンションの街より、こんな街の方が人の温もりみたいなものは感じそうだけど。私なら郊外で庭付き一戸建てがいいなぁ~まだ平地の少なそうな釜山とかは高層ビルが必要な気もするがだだっ広い中国の平原とかに、高層ビル必要なのかなんて思いもするが高層マンションのようにエレベーターなどないので高齢者は急な階段を上っての行き来はつらいかもうちのあたりも坂ばかりだけど、おかげで足腰の丈夫な年寄りが多く、ご長寿に繋がっていたりして儒教の国で親やご先祖は大事にするはずだがこんなご時世で、子供もお金が精いっぱいで頼れず、定年も早く日本ほど年金も充実しておらず、高齢になっても働かないと生きてはいけないと、段ボール集めをする高齢女性を複数見かけた。前には炎天下の歩道橋の上や走行中の地下鉄の中でベルトとかを売ってた高齢男性もいたし韓国の若者も大変だけど、高齢者も大変だ先進国34国が加盟する経済協力開発機構で65才以上の高齢者の貧困率が一番高いのは韓国(日本は4位)で75歳以上の就業率も1位(日本は3位)で五人に一人が働いているらしいというか日本もかなりやばい。下流老人なんて言葉も出てきたくらいだし、核家族化で高齢者のみの世帯が増えたからだろう。看板わんこ。まだまだ韓国旅行3日目の観光は続く・・・ 平成30年4月8日、9日に韓国釜山で撮影にほんブログ村
2018年06月07日
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例年に比べて桜の開花が早かった事もあって3月下旬から5月中旬(八重桜だが)という長期にわたって、あちらこちらでのお花見が出来た年はなかった。その中でも桜の開花が詳しく予想が出来ない中での、かなり前での予約が必要な「お花見メイン」の旅行はある意味でギャンブルのようなものだ4月上旬に娘と出かけた韓国旅行の決め手になったのは韓国一の桜の名所である「鎮海」(チネ)のお花見で、娘の休みの関係から4月7日~9日の旅行日程のうちの2日目にあたる4月8日の午後に鎮海(チネ)観光とされていたのだが韓国も日本同様に、近年は桜前線は早くなる傾向にあり、昨年までのネット情報から予想するに4月3日辺りが良さそうで、8日まで花が持つかなぁ~と、ネットでリアルタイム検索で「鎮海」を調べ、あぁ開花しちゃったなんてやきもきもして。まぁここが葉桜でも釜山や、慶州の桜だってあるんだしなんて自分を励ましてもいたけど、まだ桜が綺麗に咲いていました。良かった~。それにしても満開になっての日曜日。流石に韓国で一番有名な桜の名所だけあって、すごい人出でした。しかも若い子が多いような気がする釜山のすぐ西に位置する鎮海は街のいたる所に桜が咲き、その数は30万本を超えるそうだがこの桜もまた、日本との深い関りがあるという古代において日本とも深く結びつき、幾つもの小国により形成された「伽耶(かや、任那)」が釜山も含めて、このあたりに存在をしたという稲作や良質な鉄の製造に加えて、地の利を生かし海路により中国や日本と交易を結び、4世紀頃までは新羅よりも栄えていたそうだ。この地域には日本からの影響を受けて幾つかの前方後円墳すら存在をしているそうだそう、何も朝鮮から文化などが一方的に日本に渡ってきた訳でない。韓国料理には欠かせない唐辛子だが、韓国では倭芥子と言い秀吉の朝鮮出兵の時に日本から伝わったというのと、逆に日本で高麗胡椒と呼び朝鮮から日本へ持ち帰ったという説もあるんだとか この写真だけ鎮海市内、別所で撮影そんな文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率い戦った事から近世においても抗日のシンボルとされているのが、李氏朝鮮の将軍の李舜臣(イ・スンシン)である。水軍を率いた李舜臣は巧みな鶴翼誘引策の戦術と、自ら改良をした亀甲船を駆使し戦功をたてたそうだ韓国各地に李舜臣の銅像があり、1952年に鎮海に建立されたのを記念し、追悼式を行なうようになった鎮海の軍港祭が、年を経るにつれ桜の祭りも相まって大規模となっていった桜の名所として知られる鎮海海軍士官学校が一般に開放をされたり、花火やイベントなどで開催期間中の10日間で200万人も訪れるようになった。娘、両手に屋台スイーツでご満悦。私もおすそ分けを貰う鎮海の街中に桜が咲いているが、その中でも人気のある「慶和(キョンファ)駅」は、廃線となりましたが、まだ列車が通っていた桜の散る頃には、列車が通過すると桜が吹雪のように舞い散り、それはそれは美しかったそうです韓国映画「天国までの60日」や、日本でも放映された韓流ドラマ「春のワルツ」のロケ地でもある。旧駅構内には韓国鉄道公社(KORAIL)の車両が置かれており、記念写真のスポットになっていたさて古代より日本との関係が強かった地域でもあった鎮海であるが、15世紀初めには釜山浦とともに「興利倭船(日本の商船)」の入港が許可された「三浦」の一つとなり、日朝貿易の拠点とされたが、後には釜山浦のみとなったそして時代は下り・・・ウィキペディアより>1904年2月、日露戦争開戦に際して日本海軍は>鎮海湾一帯を掌握、巨済島で海軍根拠地の建設が>行われた。鎮海湾は日本海海戦に際して連合>艦隊の集結地となった。(中略)当初は鎮守府を>設置する計画で軍港と市街地の建設が進められ>1916年に鎮海要港部が設置された。>以後、鎮海は日本海軍の軍港都市として発展し>1931年には鎮海邑に昇格した。市の中心部に>あるロータリーをはじめ、随所に往時の日本の>都市計画の姿を見ることができる。また、地名>には末尾が「町」となる、日本式の地名が付与>された。>日本の敗戦後、鎮海の海軍施設は、大韓民国>海軍の前身である朝鮮海岸警備隊によって利用>された。1946年には海軍士官学校、1949年>には大韓民国海兵隊が設立されている。そんな訳で日本人によって作られた街なので街路樹には日本から持ち込まれた染井吉野の桜が植えられたそうであるが、太平洋戦争が終わると日本帝国の面影を消す為に、街の桜は伐採をされ、物資の少ない時代でもあり燃料にされたそうだ桜は伐採されたのに再び、桜の街になったのは「1966~80年代中盤、在日同胞と日本人らが桜の苗木約6万株を鎮海へ寄贈した」との事で再び日本の染井吉野の桜が植樹をされたのがきっかけであるようだ。在日本大韓民国民団の植樹に関しての資料によると>「日本帝国主義の植民地支配と同族相殺の韓国>戦争(朝鮮戦争)で荒廃した祖国の発展に尽く>そうと、祖国のセマウル運動(農村振興運動)に>歩調をあわせた1973年の『60万人のセマウム>シムキ運動(“新しい心を植える運動”と称された>植樹運動)』では、祖国の山々への苗木植樹や>150カ所の郷土集落との間でセマウル姉妹>結縁を結びました…」>「鎮海を世界的な桜の街に整備し、(桜を好む)>日本人の観光客を韓国に誘致する端緒にしよう」>(2008年1月22日付の韓国紙、世界日報電子>版)故郷の発展と日韓関係の改善に役立てばとの>思いから寄贈したのだという。寄贈後も、何度も>鎮海に足を運んでは肥料をまいたり、害虫対策に>助言を与えたり、アフターケアに従事する人も>いたらしい。更に>軍港歴史館の資料にも、それを示すくだりがあった。>「鎮海では1960年代から再び桜を植え始め、>1976年、鎮海を世界第一の桜の都市に育てよ>という大統領の意志に従い、本格的に桜が植え>られるようになった」元記事産経新聞ネットニュース ↓リンクからお読みください36万本が咲き乱れ…軍港・鎮海の桜に秘められた日韓110年の歴史を紐解いた鎮海きっての桜の名所「余佐川(ヨジャチョン)」は川沿いに約1,5キロ続く桜並木があり、私も見てた韓流ドラマ「ロマンス」の撮影地として知られているちょい桜も終わりかけだが、完全葉桜になってた人のブログの写真に比べたら、まだまだいけそうだ在日同胞や大統領の支持もあった桜だけど、植樹の当初は日本の桜に反発もあったのだが、1900年代初頭に、済州島で発見された王桜(ワンボンナム)は染井吉野によく似ているので、韓国の王桜が日本へ導入されて染井吉野になったとの誤った俗説が広まり染井吉野も韓国発祥だからいいんじゃないかととは言ってもね、染井吉野は園芸が盛んな江戸の染井村で、江戸時代中期に日本中の桜が集められて交配をした結果、吉野桜(山桜)に似た桜が出来染井吉野と名づけられた訳で、韓国で発見された頃には、どこもかしこも日本は染井吉野咲いてたし染井吉野は園芸種で接ぎ木でしか出来ないクローン桜だそうで、済州島で自生ってのも矛盾してるし。既に遺伝子検査で染井吉野と韓国の王桜は別の品種であるとわかっているので、そろそろ夢から覚めて現実を認めて欲しいものだちなみに染井吉野は、信州などでも古樹が多い江戸彼岸桜と大島桜から生まれたものであるが王桜は江戸彼岸桜と大山桜の雑種で、染井吉野よりも花が大きくて色も濃いみたいだ。まっ花には罪はない。それを植えた人も好意からなんだしこういったのって過去の真実というよりも、今の政権が人気取りや、国家間の利権などの兼ね合いなどで利用しているようにも思える。実際に韓国に行くと、日本でよくして貰ったから日本人に親切にしたいとか、フレンドリーな韓国人も多くいるのだがそれを表立っては語れない空気もあるんだろうな確かに日本帝国や日本の軍人が犯した罪も多くあったと思うが、この国を良くしようと思い都市を整備したり、教育や文化面など日本人が近代化に尽力した事まで無かったように、目を背ける必要はないようにも思うのだそんな事を思いつつ日本人が作った街、鎮海からカニのイラストの付いた、遠くからでもよく判るバスで、今夜のお泊り先のある釜山へと向かったなんとか、桜も残っていてくれて良かったな♪その途中では、こんな大型遊園地があったりとかこんな作りかけの道もあった。どこかはわからないがこの間も現地ガイドの方はハングル文字のレクチャー覚えたら簡単だというが、それは覚えたらの話だいよいよソウルに次ぎ韓国第二の都市、釜山に到着日本でいるなら大阪みたいな位置づけなのだろうか?晴れた日には対馬までもが見えると言い、古くから日本からの玄関口にもあたる。そのあたりは次回以降の釜山の日記でお話しできたらと思う 釜山に着いた午後遅くに直行したのは、やっぱり参加者の皆さんもおまちかねの免税品店で、幾つも紙袋を抱えた方も。でもうちは庶民派なので屋台グルメは買ってもブランドには縁はない。そしてソウルに続いての2度目のカジノで40分滞在は誰も時間を持て余していた安い旅行は観光の他に、ショッピングとかあれこれ連れていかれるのがつらい。かといって釜山市街やソウルならフリーの方がいいが、慶州やマイナーな鎮海の桜のような移動のあるものは、やっぱりパッケージ旅行じゃないと、個人では無理だしやっと、昨日の夜、今日の朝、昼とは違ったタイプの食事が登場。韓国と言えばカルビだが安い旅行だけに肉が少ないような・・・これで1人前。(あと1回、同じ量を焼いてくれた)肉を追加する人もいたがうちはいいや。普段からお得に飛騨牛とかスーパーで買ってるから。その方が格段に美味しいし二人席なので、他人に気兼ねする事は無いが娘が肉好きなので私のを取られ、殆ど食べられなかったのはいつもの事だ。肉もないのでご飯もすすまないし、生野菜をバリバリ食べてという訳にもいかずお腹空いたし・・・やせられそうな旅行だこの後で、夕食後にホテルに直行する人もいたが大半の人は、2千円のオプション料を現地で払い韓国夜市(ヤシジャン)と、海辺から釜山の夜景を楽しむ事になっているので、夜市で屋台グルメでも食べるかぁ~という魂胆もあるので腹五分目釜山は4回目位なので、フリーで釜山タワーにも上った事があり、その近くの南浦洞(ナンポドン)の国際市場や、チャガルチ市場にも出かけた事があったけどそこに隣接しているというのが富平カントン市場で2013年から韓国初の夜市(ヤシジャン)をしているというが、チャガルチが水産市場であるならばこっちはB級グルメのお店が並んでいるそうだカン(缶)とトン(詰め)でカントン市場というのだけど朝鮮戦争後に米軍が進駐し、多くの軍用物資や密輸された商品が多く市場に並び、その中でも横流しの缶製品が多く販売されたので、カントン市場という名前がつけられたんだとか今では電気製品や、洋酒、日本の菓子、食品をはじめとした輸入品も売られ、 市場の狭い路地の間に立ち並ぶお汁粉や、カボチャ粥、釜山おでん、キムパ、チジミなどのB級グルメ屋台から、湯気が立ち上りよい香りも40分程のフリータイムでは、食品店(ミニスーパー)でお土産も買いたいし、あぁこれも食べたい、あれも珍しいなんて悠長に選んでもいられないし普通に美味だったしボリュームもある焼きそばにしたら既に焼けているものではなく、ちゃんと鉄板で手早く焼いてくれ、1皿しか注文しなかったのに箸とか水も二つくれて、お店のテーブルでパクパクしていたら店員の感じの良いお兄さんが、流ちょうな日本語でつい最近までは何年も東京にいたそうで、最初は名古屋にいたんだとか。コンクリートの名古屋城が壊されて、新たに木造の本格的なのを作るんだよといったようなどうでもよいような話をしてきたツアー客の人は、バスに同乗してたカメラマンに「そだね~」を教え込んでたし。あぁ、こうゆうの食べたい。フリーで前にも食べた事があるんだけど量が多いからなぁ~。食品店では土産物屋とかより安い価格の伝統茶のパッケージとかを買うが種類も豊富で何を買うか悩んだとは言っても韓国に最後に出かけてから、軽く数年以上は経っており、そのころに比べたら為替と関係無く、随分と物価も上がったようにも思える。前は安い、安いといった感じだったけど、今はあんまり日本と変わらない感じで割安感は全くないどころかモノによっては高いイメージのものも夜市を各々に楽しんで、再びカニのバスに乗り込んで(ホテル直行の人は小型車が迎えに来たようだ)、今の釜山の夜景が存分に楽しめるルートでホテルへと。途中も走行中の車窓から夜景が美しく撮影もしたが、多くはぶれたものばかり一眼レフのオート機能を使っているが、さっきのよりもピントが甘くなってるようだが、こっちの方が好き。まっ構図の問題もあるんだろう。では次回は広安里ビーチからの夜景と、海雲台のホテルなどを紹介できたらと思います 平成30年4月8日に韓国、鎮海と釜山で撮影そうそう朝日テレビ系の帰れマンデーですが6月4日月曜日の秘境路線バスは、南木曽から馬籠への旅なのでご覧になってください帰れマンデー「秘境路線バス・馬籠線予告」にほんブログ村
2018年06月01日
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