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(さて、前回の遺伝の事実との関係から、男性が、その遺伝の破壊力を継承し、女性が防御力を呼びこむことで、人間の意志力と深く関わっている、自然の力が、なぜ親和性をもつのかという探求から、人間の意志と関わる存在が、自然界のなかに分離されてきたということを述べた。) そこから、人間形成プロセスにおける分離の下で、外の自然のなかにある作用が、それ自身の特質を通じて、人間の形成プロセスとの関係を、どれ程持ち得るかということを、研究することが重要である。 このような親和性は元来、自然のなかで長い間研究されてきたが、この研究が、どの様なものだったかを洞察することは極めて困難である。なぜなら、17、18世紀までの、先祖伝来の医学が猶も保持していた力を、今日の主知主義的な人間のなかで、再び活気づけることが困難だからである。 当時、研究されていた事柄とは、アンチモンとそれに関係する全ての事項である。 アンチモンは全く奇妙な物体である。伝説的な、バシリウス・ヴァレンティヌス(4)のように、非常によくアンチモンに関わった人たちが、熱心にアンチモンを研究したのも、上述した遺伝と意志の自然との親和的な関係の為である。 アンチモンのある特性に着目するだけで、アンチモンがいかに独特の形で自然のプロセス全体に張り巡らされているかが認識できる。(4)バシリウス・ヴァレンティヌス Basilius Valentinus 14世紀と15世紀の変わり目頃生きた。著作:「アンチモンの凱旋車」「太古の賢者の偉大な石」「化学の黙示」 アンチモンは独特の形で、自然のプロセス全体に張り巡らされている。アンチモンは第一に(これはまだアンチモンの最も取るに足らぬ特性だが)、他の金属や他の物体と究めて親和性をもち、それ故、アンチモンは他の物体と共に、とりわけ他の物質との硫黄結合として現われることが多いが、このようにアンチモンは自然のプロセスに張り巡らされている(ギリシャ語のアンチ(反)-モノス(単独)という「孤独嫌い」の意味からきている)。 硫黄は実際、自然のなかで、このような特殊な作用を持っているが、この事実は、せいぜい、暗示的だが、以前、既に述べた。アンチモンが他の物質と硫黄結合する傾向は、アンチモンが、いかに自然のプロセスのなかに広がっているかを示している。 しかし、アンチモンの別の特性は、更に、アンチモンがいかに自然のプロセスのなかに広がっているかをよく示している。つまり、アンチモンは、可能性があれば、束(房)状形態の結晶化のなかに現われ、すなわち、地を離れて、線状の形状を目指して進んでいく、という特性である。 アンチモンが線を形成しながら、上へと伸びながら蓄積していく、とでも呼べる性質のなかに、地球外の存在から地上へとやってくる結晶化の力を、いわば外(物質)的に、視覚で捉えることができる。というのも、通常は、もっと大きな規則性をもって出現するような、結晶を形成する諸力が、アンチモンでは、槍状、束(房)状形態の形成として作用しているからである。 この事実は、アンチモン実質が、いかに自然プロセス全体に張り巡らされているかを露呈する。同様に、溶解プロセスにおいて生じている現象も、非常に強く、アンチモンが結晶化の力を露見させることを示唆している。溶解プロセスを通じて、アンチモンは細かい繊維状の形態で得られるからである。 アンチモンのまた別の特性は、更に、これが熱せられると、ある形で、酸化、燃焼する、というものである。そのとき、形成される白い煙は、冷たい物体との、ある親和を有するという独自性を示すが、ここで、この煙が付着して名高いアンチモン華を産出する(この現象もまた、いわば、別の物体への依存から、結晶化の力が解放される)(A)。 (A)アンチモンの結晶:アンチモンの主要鉱石は輝安鉱。アンチモンは硫黄と結合して現われることが多いと述べられているように、輝安鉱の成分はアンチモン(Sb)71.4%と硫黄(S)28.6%から成る。輝安鉱の結晶は長柱状、針状をなし、繊維状、毛状になることもある。 輝安鉱を木炭上で熱すると、容易に溶融して液状になり、そのまわりに三酸化アンチモンの白色の蒸皮を生ずる。また開管中で熱すると、管の底部に不輝発性の白色昇華物を残し、上部には白色輝発性の昇華物が輪状につく。原鉱石の溶融によって得られる硫化アンチモニーはそのままでもマッチ、花火などに用いられる。 けれども、最も奇妙な性質は、これまで述べてきた、いわば地下の力(地の力)、つまり電気と磁気のなかで活動する力とみなせる諸力(電磁力)に対して、アンチモンが持っている、独特の防御力のことである。 アンチモンを、ある形で電気分解し、これを陰極に運んで、陰極のアンチモンの沈殿物に金属の先端で触れると、アンチモンは、いわば、小さな爆発を引き起こす。 この電気に対するアンチモンの抵抗は、抵抗への援助となる要素(触媒)が得られれば、究めてアンチモンに特徴的な性質となる。このアンチモンのなかに、いかに自然のプロセス全体のなかに、単独の物体として、置かれているかを実際に見ることができる。 アンチモン以外の他の物質は、アンチモンのような形で、アンチモンのような(防御的)性質を示すことさえない。 さて、ここで、自然において、明白な形で、自らを示す存在を理解できるのは、自然のなかにある諸力が、至る所で、その対象に作用している、という状態を、出発点とする場合だけである。唯一、物質が、諸力を格別に示すときは、これらの諸力が、この物質のなかに、特に集中され、限局(縮約)されている。 アンチモンのなかに作用する諸力は、本質的には、至る所に存在している。至る所で、アンチモン化する力が作用している。このアンチモン化する力は、人間のなかでも、調整的に作用するが、人間は、このアンチモン化する力を、正常な状態では地球外的な力から引き出す。 いわば地球外(天)的な力から、人間は、アンチモンを集中して作り出す力を引き出すのである。 正常な状態では、人間は、地上のなかのアンチモン化力、及びアンチモンのなかに集中されている力に頼ることはなく、アンチモンの外的、地球外的な力に頼る。だから、今次のように問いかけることは当然だろう、 「一体、地球外的な諸力のなかで、このアンチモン化する力とは何なのか」、と。 その諸力は、惑星(天体)から言えば、水星、金星、及び月の共同作用のことである。 これらの惑星(天体)が、それぞれ別々に作用せず、一緒に作用すると、水銀的にも、銀的にも、銅的にも作用せず、地球において、アンチモンが作用するのと丁度同じように作用する。 アンチモンの作用;水星、金星、月の共同作用 勿論、この諸力は、単純に、次のような配置、つまり月の力、水星の力、金星の力という三つの力が、適切な衝や矩といった座相(B)によって中和されるような配置の、人間に対する作用の探究によって、調べることができるだろう。(B)衝、矩:「衝」は惑星どうしが180度の角度で向き合う位置関係、「矩」は互いに90度(四分円)の角度になる位置関係。
2009年06月30日
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前回述べた事は、あらゆる地上の力や、地球外の力にも当てはまり、非常に普遍的な事実である。 この事実は、血友病を扱う場合、目に見えて明らかになる。遺伝的現象に関しては、一般概念として、様々に述べるのではなく、具体的事実を手にとるように、遺伝的事実を示しながら、研究すべきである。 血友病患者での遺伝現象を研究すれば、究めて奇妙な現象が発見できるが、これは前回説明した事項の外(唯物)的顕現としての現象である。 つまり、この事実からわかることは、家族の血のなかに血友病患者の継承が生じるのは、男性だけで、この血友病の遺伝は女性を通じて行われるということである。 つまり血友病患者の娘は、彼女自身が血友病でなくても、彼女の男(息子)の子孫に血友病を遺伝させる傾向があり、勿論、彼女が血友病を持つのは、血友病家系の一員であることによる。 血友病の遺伝に対して、男たちは血友病患者となるが、もし彼らが、血友病の家系の一員でないことが証明できる女性と結婚すれば、血友病が遺伝されない。 (前回、述べたことを要約すると、遺伝の破壊力は、男性に特有の現象で、女性においては、その遺伝を防御、あるいは緩和させるということである。) この事を分析すれば、今述べた事柄の明白な外的顕現が得られ、血友病における現象は、ヴァイスマン(2)の試みよりも、遥かに明確に、遺伝に関しての本質的な事態の進行を示すだろう。この事実は、人間の生体機構の全体的判断にとって、重要とすべき事項で、このような生体機構に影響を及ぼせる現象に従って、人間の生体機構を判断する必要がある。 (2)アウグスト・ヴァイスマン[August Weismann]、1834-1914 最初は医師、1866年から1912年までブライスガウのフライブルク大学で動物学教授、獲得形質の非遺伝性を仮定した。「遺伝理論の基礎としての生殖質の連続」(イェナ、1885)、「生殖質」(イェナ、1892)、及びその後の論文参照。 では、そもそも一体、血友病は何に起因しているのか? 何に因るものか?は、表面(物質)的な観察でも、結局、示すことができる。血液の凝固能力が無い為に、外への極めて、微小な開口部(皮膚の傷)でも、出血多量で死に至ることがあり、鼻血や、歯の手術に際する出血でも、通常は傷口で血液の凝固に至ることが、血友病患者の場合は、至らない。 元々、この作用全体は、血液の凝固力の不足に因る。 とすると、血液が自身のなかに、凝固力に対抗する作用を持ち、そして、この血液が自身のなかに持つ作用(抗凝固)が強く作用しすぎると、血液の凝固の際に外から作用する力によっても、その作用(抗凝固作用)を止められない。 血液の凝固の際には、外から作用する力が関わる。血液のなかに、この力を抑えつけてしまう作用があると、過度の血液の液体化傾向が現われてくる。 このような血液の液体化への強力な傾向は、人間の自我-形成全体と関わっていることが容易にわかる。 しかし、この液体化傾向も人間の自我-形成と全く表面(物質)的に関わっているのではなく、この傾向が関係しているのは、人間の自我のなかで意志として働くもので、人間の自我のなかで表象(イメージ)として働くものではない。 つまり、人間において、意志を強めたり弱めたりする全てと、血液に過度の液体化を引き起こす組織化とが関連しているのである。 (自我の意志力が弱いため、血液の凝固力が働かず、また糖尿病の要因ともなるという) ここで、正しい解釈を行えば、歴史から、ある自然の秘密へと辿り着くような事実を見事に示す事件を見つけることができる。自然だけでなく、歴史が、いわゆる、あの名高いエンガーディン(スイスの一地方)の事件(3)、いわゆる有名な「エンガーディンの乙女たちの事件」を生み出した。 エンガーディンの二人の乙女は、医学が必須とする人間認識に対して、徹底的に、啓蒙的に作用できるような事実を作り出した。このエンガーディンの乙女たちは、血友病家系の出身で、結婚しないことを固く決意した為、このエンガーディンの乙女たちは、血友病の遺伝を個人的に撲滅した人たちとして歴史に登場するのである。 (3)エンガーディンの乙女たちの事件:エンガーディンに、この話に当たる事件は見当たらない。逆にテナ、ザフィエンタールにおいて、ここに示唆されているような出来事が起こった。またエルンスト・ツァーンの長編小説「タノの女たち」(1911 タノはテナという地名の詩的な変形)も参照のこと。 さて、このような場合、正確な事実に目を向けなくてはならない。このように、生殖衝動から身を離すことは、血友病家系から出た全ての娘たちの特質ではない。 強い主観的な意志、自我のなかで作用し、アストラル体のなかでは作用しない強い主観的な意志の養成も、この一部である。つまり、この意志が彼女たちの元にあり、すなわち、この女性たちの自我のなかに、また、その意志のなかにも存在していたものは、ある形で、血友病患者において作用を発揮する諸力と関連している。 これらの力が意識的に強められるとき、これらは血友病でない人の場合に強化できるよりも、容易く、強化し得る。これらの力を、正しい形で認識できれば、本質的に、血液の特有な力のなかに、何かを発見し、人間の外にあるものとの相互作用の認識に通じる。 このように、意識的な意志と関連する、血液中の諸力に着目することで、人間の意志と人間の外にある諸力との関連が、総じて、いかなるものなのかを洞察することができる。さて、この事実は、次のような意味をもつ、 いわゆる、「人間の外にある、ある力は、人間の意志の力と内的な親和性を持っている。この親和性は、進化の経過につれて、人間の意識的な意志と関わり、人間の意志全般と関わっていたものが、最終的に自然界のなかに分離された、という事実に基づいている」、ということである。 最終的に、この人間の意志と関わる存在は、自然界のなかに分離された。
2009年06月29日
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今回から、出来るだけ沢山の問題を片づけようと思う。そもそも、最初の問題提起において重要なことは(実際、最初の問題提起なのだが)主に、人智学から得られる道(探求)から、人間の外にある物質が、人体組織のなかでとるプロセスを、詳細に学び、知り、そして、その物質の反作用をも学ぶことである。 つまり、何らかの物質の作用形式に関して、完全な洞察が得られれば、薬剤として適用する為の指針が得られ、自ら診断できる。そして、この事実から、ある薬剤は、ある病気に効き、別の薬剤は、また別の病気に効く、といった趣旨の処方を洞察できる。 さて、今回もまた、我々の関心事である、治療に隣接した知見に至る為に、一見、非常にかけ離れた関心事から出発する。提出された質問のうちで、常に浮かび上がってくるのは、勿論、全員が関心を持つに違いない質問、つまり「遺伝」に関する質問である。 「遺伝」は、健康な、或いは少なくとも比較的健康な人の診断、並びに病気の人の診断においても、極めて大きな役割を果たしている。 さて、この「遺伝」は、実に現代の唯物論的な自然科学では、非常に抽象的意味においてしか研究されていないため、実際に、生きる為になるようなことが、多く生じてくるように研究されていない(1920年代の時点で)。 けれども、真剣に、「遺伝」を研究するようになれば、「遺伝」は、やはり究めて独特で(秘教に関係のない人には特に独特で、秘教に通じた人にとっては、一目瞭然の法則性をもつが)、宇宙との関連について、人間が知るべき重要な全事項が、どこかの場所に、かなり外的に目に見えるように顕現する、ということがわかる。 あるもの(特質)は、外(物質)的な顕現を通して、隠されてはいるが、人間には非常に有効な力が、自然の中に存在していることを、常に示している。「遺伝」の研究には、特に、この力に頼らなければならない。 というのも、他方で、「遺伝」に関する全てが、幻影を纏わされ、絶えず損なわれている為に、正しい診断ができないからである。「遺伝」に関して、特定のある判断が下せても、また別の現象にはあてはまらない。 この事は、他ならぬ「遺伝」という事実が究めて甚だしく幻影に覆われているということに由来するが、この関連から言えることは、「遺伝」には、非常に規則的だが、調整しにくい形で、男性的な(陽の)ものと女性的な(陰の)ものが参加している、ということである。 この事実は、規則的だが、この規則が出現するのと同じ割合で、明瞭な調整も存在する、ということが常に可能ではない。つまり、遺伝現象は規則に則ったものだが、調整困難なのである。 例えば、天秤の棹を水平に保つことは、規則性(バランス)に基づくが、左右に錘(おもり)を乗せていくと、一方か、或いはもう一方に傾き、その為、この厳密な規則性の調整が困難になるような具合と、それは丁度同じである。このような事実は、遺伝現象にも概ねあてはまる。 遺伝現象には、天秤の棹を水平にさせるような規則性がある。 しかし、この規則性は非常な可変性をもって現われ、そして、この事は、遺伝には男性的なもの(陽)と女性的なもの(陰)が参加し、しかも、この男性的なものは、人間が地上的な存在に負う要因を遺伝のなかにもたらし、一方、女性の生体組織は、地球外の宇宙からやってくる要因を、更にもたらすように方向づける、という形での参加に由来している。 地球は絶えず男性を要求し、その諸力を通じて男性を組織する、と言える。 地球は実際、男性のセクシュアリティ発生の原因でもある。女性を絶えず要求するのは、この地とは反対の天である。天は絶えず女性の形成を引き起こしている。天は、内的な組織化プロセス全てにおいて圧倒的な影響を及ぼしている。 この事実はまた、既に以前述べた事実を遡って、指し示す。そして、以下のような事実が生じる。 受胎を通じて、女性的な本性が発生すると、この女性的本性は益々地球外的なプロセスに自らを組み込んでいく傾向に向かう。 この本性は益々、天に受け容れられる傾向になっていくのである。男性的な本性が発生すると、それは益々地球に要求される傾向になっていく。すなわち、事実、天と地が共に作用している。 というのも、いま言っていることは、例えば、女性には天が作用し、男性には地が作用する、と解釈してもよい、ということではなく、(天と地の)の両方が(男女の)両方に作用し、女性の場合には天秤の棹が天へと傾き、男性の場合には天秤の棹が地上の方へ傾く、ということだからである。 この事は厳密な規則ではあるが、可変的でもある。しかし、この事実から、ある帰結が生じる。女性がその生体組織のなかに含み持つもの(天の作用)によって、地上的なものは女性のなかで絶えず克服される。 しかし、奇妙なことも起こり、地のもの(作用)が克服されるのは、女性自身の、固有の生体組織のなかだけで、その胎児や、精子のなかでは克服されない。つまり、天と地とのこの闘いは、女性の生体組織の場合、精子形成、卵形成の外にある全ての組織化プロセス、つまり生殖の経過に組み込まれているプロセスの外にある組織化プロセスに限られ、その為、女性は生殖(妊娠)以外の組織化によって、生殖プロセスに先天的に備わった力から絶えず免れている。 (恐らく、女性は、生殖において、遺伝的影響を受けないという意味だろう) 生殖の周辺に転移されてきた要因(遺伝)を用いて、女性は(遺伝を)免れ続ける。従って、次のように言える、 「生殖力のなかにある作用、つまり遺伝の作用は、男性を通じて遺伝する傾向が生じる」、と。 女性においては、女性自身は、この遺伝を免れるという傾向が現われる。けれども、その代わり、女性は、その卵形成の力のなかに、より強い遺伝傾向を有する。 従って、次のように問うことができる。 「人間社会では、遺伝の破壊力にどうしたら対抗できるのか?」、と。 遺伝力は、いわゆる霊性を前にしても、物質を前にしても、躊躇することはない。この事実は、いわゆる精神病が支配している家族においては、その世代の系列のなかで、糖尿病が出現しやすい、つまり一方から他方へとメタモルフォーゼ(変容)が移動する、というような現象のなかに端的に示されている。 だから、遺伝の破壊的作用から、どのように免れるか、というのは途方もなく重要な問いである。この遺伝の破壊的作用に対しては、とりあえず、婦人の健康ができるだけ維持されるように配慮する、という以外に方策はない。 というのも、遺伝の破壊力を配慮すれば、婦人を通じて、地球外の影響が、地上のプロセスに引き入れられ、胎児を通じて、有害な遺伝をもたらすような作用プロセスが、持続的に女性の生体組織から制圧される、ということも生じるからである。 つまり、婦人が健康であるということに、よく注意が払われている社会では、遺伝プロセスに関連して地の力から発する破壊的な影響に対して、闘いが行なわれ、なぜなら、(その社会では)地球外のもの(天)から作用する調停力の、いわば蓄電池(蓄積)が、女性の生体機構のなかにしかなく、そのような力の効果に訴えかけているからである。この事実は、考慮すべき極めて重要なことである。 (シュタイナーは、婦人が健康である社会こそが、遺伝の破壊力を免れる秘訣であるといっている。日本の江戸期が平和だった大きな理由の1つが、日本の婦女子教育の徹底といわれている。 昨今の混乱ぶりは、この江戸期と正反対にある。女子の飲酒や喫煙、更には性の乱用などである。これでは、益々、遺伝の破壊力が増すばかりであろう。 女子が、その身体のなかに、天の防御力を招くことで、遺伝の破壊力が防御され、中和されるからである。健康な女子の身体が、実は聖杯なのではないか、恐らく聖母マリアへの信仰も今回の話のなかにあるのだろう。 今回の絡みで思い浮かぶのは、天照大神の女神信仰である。アマテラスといえば、癒しの神のイメージがある。対して、須佐の王(スサノオウ)は、男神のイメージで、遺伝力のイメージがある。スサノオウを癒すのはアマテラスという神話がある。 また、聖書のエロヒムとは、エロという神の意味のエルの女性名詞で、ヒムは男性複数名詞なのだから、男性複数が集まって、女性になっているという意味をもつという。 つまり、女性は、全体でみえないから陰、男性は、部分でみえるから陽という感じなのだろう。一般的に男性はわかりやすいし、女性はわかりにくいという面からも納得がいく。 だから、神様は、全体では女性で、一部は男性というような両性具有な存在なのだろう。亭主元気で留守がいい、という標語がむかし流行ったが、社会のためには、主婦元気で家庭がいい、という標語がよいようだ! 社会を再生させるには、やはり女性には家庭を守ってもらうのがよいといえる。こんなことをいうと、時代に逆行する発言といわれそうだが、江戸時代の平和が証明している。「奥様」という言葉がよくそれを表現している。 外国を侵略するのは、その社会の女子を誑かすのがよいといわれる。ローマ帝国が崩壊したのが、乱交にあるのは名高い。とあるブログでは、日本の神社が、ある新興宗教の侵略を受けたのも、日本の婦人の勧誘による性の乱れにあったというようなことが書かれていた。 特に、米国はいま悪魔の尻尾にあるので、日本社会への侵略に、日本の女性は狙われているともいえる。不倫を文化といった愚か者もいたが、彼は地獄に堕ちればいいが、日本社会が巻き添えを食ったらどうするつもりだろう。地獄で永遠と呪われるのである。 不倫という言葉の意味をよく考えるべきである。不倫は神をも裏切る売国行為なのである。実は殺人と同等の罪だと思うがよい。失楽園というような地獄行きを覚悟すべきである。裏切り者と永遠に罵られ、欲望で永遠に身を焼かれるだけなのだ!)
2009年06月25日
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幼年期には、エーテル体が、ずっと物質(肉)体の機能のなかに入り込まなくてはならない。エーテル体が、いわば、その直接の作用点となる器官を持たなくてはならない。エーテル体が物質体に作用する為の直接の作用点を持つことは、特に胎児の生においては不可欠である。 この事実は、単に形式(形態)の形成だけでなく、彫塑的な力を育てなければならず、成長へと、益々大きくなっていくなかで同時に、この彫塑力が行使されるべき幼年期の最初の事項に、その切欠(土台)といえるべきものが、断然不可欠である。 従って、例えば胸腺のような、また、ある程度までは甲状腺もだが、このような器官が不可欠である。 これらの器官は幼児期に、その最大の課題を果たし、その後、退化させられ、物質(肉)体の力にあまりに強く捉えられるようになると、退化しながら変成していく。 幼年期には、生体の組織化においては、強い化学的現象が起こることが不可欠だが、その後、この化学作用は、熱作用に交替されていく。 人間は、その生涯を通じて、スペクトルにより象徴されるような作用、つまり、スペクトルの化学的な部分(青、紫)や、スペクトルの光部分(緑、黄)、更にスペクトルの熱部分(赤)で、象徴されるような作用、この事実が「象徴」以上のものではないとしても、このような作用を通過していく。 人間は、本質的に、このような方向性を持つ生体の組織化(上図参照)を成し遂げていく。人間は幼年期には化学的作用活動に頼ることが多く、その後、光作用活動へ、更に熱作用活動へと移行していく。 エーテル体が、物質(肉)体において、化学的現象の促進を可能にする諸器官は、甲状腺、胸腺、副腎のような腺である。 これらの(腺)器官に、ある意味で、化学的現象が結びつくので、人間の肉色(肉の色、肉のような紅色)は、これらの器官の活動、すなわち、これらの器官の背後にあるエーテル的活動と密接に関わっている。 副腎の機能のなかには、例えば人間を青白くしたり、血色良くしたりなどといった働きがある。副腎が退化すると、皮膚の色合いに現われてくる。 副腎の退化による、いわゆるアジソン病(1)に罹ると人間は褐色になるが、上述の事実を思い出せば、このような関連の奥深くまで洞察できる。これらは全て、生体組織のある化学的現象を示唆している。 これは特に胎児の生において重要だが、他方、光作用は、大体十四歳以上の生活にとって問題となってくる。更に、後の年齢になると、熱生活にとって重要な活動が、盛んに出現するようになる。 (1)アジソン病: 1855年、イギリスの病理学者トーマス・アジソン発見の、副腎機能減退による内分泌疾患。心身の甚だしい倦怠感、血圧下降などを伴い、皮膚や粘膜が黒褐色となる。 ここには人間の生涯全般に対する、重要な、極めて重要なヒントがある。つまり、次のようなことである、 いわゆる、「幼年期の生活、特に胎児の生活は、一種の過剰な塩プロセスを示し、幼年期の後に来る、中位の年齢の生活は、一種の水銀プロセスを、今特徴を述べた関連では、比較的、年齢が進んでからの生活は、一種の硫黄プロセスを示す。 或いはまた、幼年期には塩プロセスに、中位の年代には水銀プロセスに、それ以上の年齢には、硫黄、或いは燐プロセスに、それぞれ最も注意が払われ、調整されなければならない」、ということである。 人間の生体組織にも、このような三重性、組織化された化学現象、組織化された光作用、組織化された熱作用、そしてまたは、組織化された塩プロセス、水銀プロセス、硫黄プロセスから成る三重性があることに注目すれば、いかに生命全体が組織化しながら、人間に作用するかを、はっきりと思い浮かべることができるようになる。 人間の三重性;化学:光:熱 塩:水銀:硫黄 生活の形式(ここでは例えば、単なる栄養摂取ではなく、人間の行為全てのことを述べているが)は、子供の場合には化学作用をしながら、生体組織の隅々まで介入しながら作用する。もっと強い光プロセス、とでも呼べる作用は、若者たちの場合、生体組織全体に介入しながら作用して、魂的な障害をも引き起こすこともあるような全萌芽が生じる。 人間は青少年期には、外界の印象に対して最も敏感になる。 この年代に、非論理的に構築された外界に向き合うか、論理的に構築された世界に向き合うか、というようなことは、後の人生行路における魂の素質全体にとって、大きな意味を持つ。これらのこと、特に今回述べた病理学的事項については、次回にもう一度述べる、それから更に治療上の事項へと移る。
2009年06月24日
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前回、明らかになった多くの事実との関連で、非常に馬鹿げた星占い他が、増加するなどは、勿論、全く望んでいないが、このような事柄の由来に関する意識をもてば、充分である。治療プロセスにとって、このような意識が、どれほど不可欠であるか、徐々にわかってくるだろう。 なぜなら、この星とあの星の矩象(九十度座相)によって、あるプロセスが起こる、といったことは、この場合、全く重要ではないからである。このような天文学的事実は、状況によっては、宇宙的な診断の為に役に立つこともあるが、重要なことは診断ではなく、治療できる、ということにある。 それで、前回行なった観察から、次回は人間外の自然のなかのある物質、つまり、前回のように、天体から、人間の生体組織のなかに送り込まれてきた作用に対して、抵抗力を有する作用、抵抗物質となる力の観察に進んでいきたい。 ともかく、この点に関して、医学という学問のなかに、このような上部人間と下部人間という認識が、もっと広まることが是非とも必要である。というのも、人間の健康への関心において、医師たちの共同作業が生まれるのは、このような認識からである、と思うからである。医師が専門化すると、全体(としての)人間への関心を失う。 ここで、医師は専門化すべきではないなどと、述べるつもりは毛頭なく、時代経過と共に諸々の技術が出現し、専門化が、ある程度まで必然的に生じるからである。けれども、専門化が生じれば、専門化していく医師たちの相互の共同作業、社会化もまた、更に一層活発にする必要がある、といいたい。 この事は、質問にもあった、歯槽膿漏、つまり歯茎の化膿の考察でも明らかになってくる。歯槽膿漏が起こる場合は常に、一部の人が信じているように、局部を扱うだけでなく、少なくとも、生体組織全体の素質、つまり全体が、歯の周辺に、局所的に出現しているだけで、そういった生体組織全体の素質を扱わなくてはならない。 例えば、この病気の出現に気づいた歯科医が、別の医師に、次のような考えに至るように、何らかの形で配慮することが慣例になればよい、 「おそらく、この化膿が起こっている人物は、糖尿病の候補者である」、と考えるような配慮が当たり前になれば、有益なことの多くが成し遂げられるだろう。 というのも、既に、ある程度、特徴を述べた糖尿病のなかに出現するものは、上部人間のなかに留まっている限り、本来、治療し易いからで、この歯槽膿漏の兆候は、治療し易いからである。 下部人間が上部人間に波及すると、不都合な貧弱化か、肥大が、下部人間か、もしくは上部人間に生じる事実が考慮されることは滅多にない。 炎症状態への傾向が、まず上部人間に現われると、ある病気の形態(形式)が現われ、炎症状態への傾向が、下部人間に現われると、その病気とは逆の、対極をなす形態(形式)が現われる。この事実は究めて重要である。 従って、次の事柄も、納得がいくだろう、 「人間の成長力を有しているエーテル体全体が、幼年期には、後の年齢とは異なった作用をせざるを得ない」、ということである。
2009年06月23日
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天体の配置と人体の関係とは別に、更に複雑な事実がある。言うまでもなく、人間の律動的活動全般は、次のような状態である、 いわゆる、「個々のリズムが、いずれもそれ自体で統一的に形成され、同時に、絶えずそこから持続(継続)するリズムが、呼吸のなかへと、その最も粗雑な表現を獲得し、更に睡眠(眠り)と覚醒(目覚め)のリズムに影響されるリズムもあり、これらのリズム全てが一緒になって、人間の律動組織全体のなかに、更に1つの統一性を形成する。」 そして、上部のリズム、つまり頭部-胸部リズムが弱くなることで、下部のリズムが相対的に強く働くという場合も生じ得る。 上部のリズムが弱くなりすぎる場合、つまり正しい状態から逸脱する場合、このリズムは下部のリズムにより、更に不規則にさせられる傾向を持ち、そして、その場合、脾臓活動と更にその他の活動から発する下部のリズム、これについては更に述べていくが、この下部のリズムがあまりに強く上へと作用しすぎ、あらゆる併発(合併)症状を伴い、上部の消化プロセスの肥大が引き起こされるというような素質が作り出される。 そしてまた、ある下等生物の生存条件に特に適した領域が作り出される。このような出現の全体像は、上部機構のなかに、炎症的で、上部を麻痺させる現象が侵入してくるものである。 しかも、この上部機構のなかに器官の奇形化、器官の新形成の発端すら示される(要するに、ジフテリアの病像が得られる)。これは、上から下へと起こるチフスの突破とは逆に、下から上への突破とでも呼べるもので、本質的に、上述したような事実によって引き起こされる。 勿論、このような事柄全てにおいて、人間の年齢を考慮に入れなければならない。幼年期は、上部人間と下部人間の完全な共同作用、つまり、上下を媒介する律動的活動は、後の年齢とは全く異なることを考慮すべきである。幼年期では、例えば、下部人間に対して、後の年齢よりも、ずっと強く上部人間の作用が及ぼされなければならない。 幼年期;上部人間→下部人間 実際、子供は大人よりも、「思考する」。奇妙に聞こえるが、この事は真実である。ただ、子供の思考は意識されず、生体組織のなかに入り込み、生体組織の発達、形式のなかに現われる。 特に最初期(幼年期)には、身体の形成力に思考活動が用いられる割合が非常に高い。身体の為に形成力を、それほど多く用いる必要がなくなると、身体は形成力をいわば押し止め、形成力は、記憶のための基礎力となる。 従って、記憶は常に、生体組織が形成力を用いることが少なくなってから、はじめて現われてくる。というのも、器官的に、記憶の基礎力は、成長力、形成力が作り替えられたもので、これらは、幼年期では、生体組織の彫塑化の為に特に多く用いられるからである。 根本的に、全てはメタモフォーゼ(変容の原理)に基づいている。 眼前に出現する霊性とは、霊が物質素材に引き込まれていた以前では、物質的に作用していた要素が、元のように霊化されたものにすぎない。だから、子供においては、下腹部で生じる作用に対して、(上部の)強い抵抗力が必要であるということも納得できるだろう。 下腹部には特に、天的な作用、つまり地球外的なものが現われる。再考すれば次のことがわかる、 「地球外の作用のなかに、他の惑星に対する太陽の配置により、引き起こされた特殊な星位があり、この星位の反映が人間の下腹部に成立するように作用している」、と。 その結果どうなるか? いわば上部人間と下部人間との間の律動的活動に、ある安定がもたらされている大人の場合には、これはほとんど意味を持たない。しかし、子供の場合は、宇宙から、この下腹部に自らを反映させようとするものに対して、強い抵抗力が生じなければならない。 つまり特に宇宙的な星位によって、子供の下腹部が非常に強く刺激されると、子供の上部人間は究めて強く抵抗せざるを得ない。子供の上部人間においては、本来、星位により、強く用いられるべきでない力が、不自然に用いられることが、流行性脳脊髄膜炎を起こす。 従って、ここで、人間の外にある自然から、どのように人間に送り込まれるか、その形式を見ていくことができる。直観の背後に、このような形式をも獲得できれば、頚筋の強張りに至るまで、髄膜炎の全体像を描ける。 というのも、子供では、上部人間の緊張が起こることで、上部器官、つまり脊髄膜や脳膜に炎症症状が生じざるを得ず、更に、これが、結果として、他の症状も引き起こすという具合に作用するからである。 なかんずく、第一に人間自身の構成要素の相互作用に関連して、更に、人間のなかにあるものと地球外の自然をも含めて人間の外にあるものとの相互作用に関連して、人間を総合的に見ることが不可欠である。
2009年06月18日
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人間のなかには、前回述べたような性質をもつ第一義的な原因の存在があるが、流行性の疾病に対しても、その第一義的な原因に従って、観察すべきである。 というのも、例えば、呼吸リズムのなかに、最も粗雑な特質が見られ、頭部-胸部リズムに支障をきたしやすい傾向を有する人の場合、ある大気現象、ある地球外の現象の影響を非常に受けやすい、という素質が見られるからである。 呼吸組織に関して健全に調整されている人の場合、このような影響に対して抵抗がなされる。例えば(いま、ある天体配置を選択する。その他の原因もまた妨害的に介入する可能性も、無論、常にあるが、天体配置の説明から、少なくとも何が問題なのかが理解できる)、ある冬に、火星、木星、土星という外惑星を通じて太陽の働きの影響が強い(この場合、光の作用ではなく、太陽の働きである)場合を考える。 このような冬の星位は、火星、木星、土星が(太陽から)遠く離れていることで、太陽自身の働きが特に有効に働く場合とは、異なった作用をする。 前者のような冬の星位(既に大気現象を手懸かりに、この異常に気づくこともある)のとき、天体の影響を受け易い素質の人の場合、胸部-頭部間を経過する、呼吸活動のなかの粗雑な表現が見られるリズム活動に対して、強い影響が及ぼされる。 このリズムを規則正しくする傾向は、例えば健全な状況から生まれてきた人、いわゆる、内部に関して頑健な人の場合、上記のような宇宙の星位によって、本質的に(健全さが)強められる。 このように頑強な人は、外見的には非常にほっそりとしている可能性がある。このような人の場合、非常に規則正しい呼吸リズムが見られ、更にそれに応じて頭部-胸部リズム全般が規則正しく調整される。 このような内(精神)的に安定したリズムは、外からの作用によって、容易に決定(妨害)されることはない。 このリズムを決定(妨害)するには、非常に強力な攻撃が必要である。しかし、このリズムが既に、なんらかの形で不規則に経過する人の場合には、いま説明したような影響が究めて強力(相乗的)に作用する。 なぜなら、この既に健全さを失った不規則なリズムが、更に妨げられ、不規則になる傾向を持ち、上記のような天の星位が、特に作用を及ぼすような地球上の場所に、天体の影響を受け易い素質を持つ人は、例えばいわゆるインフルエンザ及び流感の感染候補者となるからである。インフルエンザや流感の特殊な原因基盤を探求するなら、是非このような天体の配置等を考慮に入れる必要がある。
2009年06月17日
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表現主義の絵画のなかに出現する多くの赤や黄色の色彩表現全てのなかに、当人の下腹部に関係する容態を探したり、また、絵画の内部の、青紫色の色彩表現全てから、当人の上体部 (上部人間)や肺、或いは肺の活動の容態を探したり、頭部に向かい、リズミカルに上方に働きかける全容態の関係に基づいて、詩句形成を探求すると興味深い事実がわかる。 このような事柄に入っていくと、人間の行為全般と、人間が内(精神)的に組織化される形態との間に、不思議な一致を見つけるだろう。 ある人が、その身体的機能に関する絵画の表現形式から、ある預言力が生じる。というのも、実際、人間が外界でなす魂活動は、その現象全体、その行為全体を通じて、当人の神経組織だけに関わっていると信じるのは全くの間違いだからである。 このような事実は人間全体に関わっている。その絵画は、いわば当人全体の像である。 子供のときに、すでに知性の持ち主が、元々どういう性質なのか、どのように後の年齢に向かっていくのか、ということを預言的に直観できる。 例えば、ある障害を、後の年齢の発育不良への継続へと運命づけられた人は、上部に行かないエーテルの作用があり、その為に、ぎごちなく、重々しく歩くということが、幼年期に端的に示されるが、この事実をイメージすることから、直観できる。 子供が、比較的軽やかに歩くのか、それとも重々しく歩くのかというような歩き方から、この子供の成長について、預言的にイメージできる。同様な数多くの現象から、人間の歩く身ぶりや仕草全体は、人体組織の内部(精神)の構成要素の相互作用が運動に現われたものに他ならない、ということが示唆される。 医学研究のなかに、このような事実の受容が望まれる。なぜなら、このような事実に対する究めて有効な条件がある。二十代はじめの若者なら、このような事実のなかに沈潜していける、究めて大きな機会がある。三十代に達するとすぐに、この才能を失ってしまう。一度失うと、もはやこのような事実に入っていくのは容易ではない。 このような預言力に入っていくには、自己を教育し、究めて強力に自己修練する必要がある。 また、現代の中等教育、とりわけ高等教育の破壊的な調教(強制)にも関わらず、存続された、ある素質により、子供時代からの活力のなかに継続されてきた事実への回帰によって、このような人間の直観へと、自らを修練していくこともできる。 医学研究において、もっと内密で彫塑的な解剖学及び生理学に正しい価値が置かれるようになれば、人類の治療全体において非常に大きな援助となるだろう。
2009年06月16日
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私はあまりというかほとんどドラマはみないのですが、極稀に行き当たりばったりでみることがあります。 大体、通常は放送後2~3年たってから、思い出したようにみることがあります。 で、最近、稀なそのドラマとの出会いで、最高によいのが、「白い春」です。 主演の阿部寛と、子役の大橋のぞみのやりとりが最高によいです。 どことなく、「結婚できない男」の続編のような雰囲気がありますが、全く違う阿部寛の一面が出ています。 一度、御覧あれ?
2009年06月16日
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前回述べたように、植物の生において生じている事実(地球の外界のなかで、という意味だが)は、動物と人間自身の外的な生(生活)でも生じている。人間と動物には、外部から、ある力、地球外の宇宙からやってきて、内部から来る力(地の力)に対抗する力が影響を及ぼしている。 地球の内部から来る力(地の力)が、上部人間のある器官に限局されているのに対し、外部から流れ込んでくる力は、下腹部に属する器官に限局されている。更に、前回考察した二つの活動の間に、隔壁が作り出されなければならない。この正常な分離による制御は、人間の脾臓の働きによってなされる。 また、ここ(脾臓)でも、人間の生体組織におけるリズムの機能が見られる。ただし、このリズムは、呼吸のリズムとはまた別である。 呼吸のリズムは小さく振動し、人間の全生涯を通じて継続し、上部の病気に関わる病気が起こらないように、秩序正しいものでなければならない。 というのも、実際、消化は上へ向かっても広がり、また下へも広がっていくので、下部に起因する病気が上部にも起こりうるからである。この上下を区別すべきである。 人間を、図(イメージ)的に分割された存在と考えることはできない。人間は分割された存在ではなく、個々の構成要素は、互いに浸透し合う。とはいえ、地球から来る作用のように、人間では上からの作用と、天の空間から来るように下から上への作用との間には、隔壁が必要である。 実際、上部人間からやってくる諸力を、下部人間の諸力に対抗して送り出し、両者の間には、どの個人でも調整されたリズム、つまり覚醒(目覚め)と睡眠(眠り)との正しい関係が現れるように調整されたリズムが生じる必要がある。 目覚める度毎に、このリズムは、ある特定の振れ方をし、眠る度に、このリズムはまた別の振れ方をする。 覚醒(目覚め)-睡眠(眠り)、覚醒(目覚め)-睡眠(眠り)という、このリズムのなかに、更に小さなリズムの波頭が生じるように、覚醒(目覚めた)状態のときでも、上部人間は覚醒して(目覚めて)いるが、下部人間が眠っていることにより、別のリズムのプロセス(経過)が生じ、そのような別のリズム経過(プロセス)が組み込まれる。 上部人間と下部人間の間には、絶え間ない、リズミカルな活動が見られるが、ただし、この活動は、目覚め(覚醒)と眠り(睡眠)の交替によって、より大きなリズムとして捉えられているものである。 さて、この種のリズムのなかで上部人間と下部人間との間にある、この境界が破られる事態になることを考察する。そのとき、何が起こるか? 大抵の場合、このとき起こることは、上部から下腹部に向かって、上部活動が侵入する、ということである。 すると、エーテル的な突破が起こる。上部人間のなかでだけエーテル的に活動すべきプロセスが、下腹部に侵入する。より精妙な力の突破が起こる。そして、より精妙な力の突破が、下腹部に起こることで、本来下腹部に限定的に存在すべきではない、人間全体に広がるべきプロセスが、この一部の領域に作り出されてしまう。 このような突破の帰結として、下腹部に、一種の中毒、重い下痢さえも起こる。人間上部の活動が、このように出現すると、下腹部の活動は、もはや秩序正しく行なわれなくなる。更に、下腹部に、新たな領域として作り出された上部の領域は、多くの場合、動物性植物の性質を持つ下等生物にとっては、都合のよい環境となる。 だから、次のように言える。「上部からの(エーテルの)突破を通じて、人間のなかには、腸チフスとなる要因が引き起こされる」、と。 付随現象として、下腹部という場所に限局された環境が出来上がることにより、チフス菌にとって、適した生存条件が作り出される。 このように、第一義的な要因(下部に上部領域ができる)と、二次的な要因(細菌の感染)とを、明確に区別することが可能で、第一義的な要因と二次的要因とを明確に区別するなら、次のように言える、 「そのような疾病の根源的原因(第一義的要因)と、多数の腸内動物相、或いは腸菌群落の、特に小腸のなかへの出現による、炎症の発生(二次的要因)とを区別する必要がある」、と。 細菌を含め、物質として、小腸のなかに出現する病因(これらの起源に関して議論する必要はない、その為の環境が作り出されなければ、そこで植物化も、動物化もできないからである)、つまり、これらの植物的-動物的、或いは動物的-植物的生物活動として、出現する全ては、人間の生体組織の上部活動が、下部活動へと突破し、侵入する出来事に対する反応である。 これら二次的(副次的)要因全ては、結果として生じる現象である。従って、二次的(副次的)要因に向かうのではなく、第一義的要因に向かうことにより、治療プロセスを捜すことが重要になる。この事実に関しては、後ほど、もう少し述べていきたい。 というのも、このような事実に関して、治療法を語るには、その真の原因(エーテル体の隔膜における要因)に遡れるときだけだからである。この事実への探求は、今日の一般に通用する医学、公的に通用する医学においては、ほとんど不可能で、なぜなら、このような医学は、物質(マテリアル)的なプロセスから、霊的なプロセスに移行する観察を排除しているからである。 しかし、あらゆる物質の根底には、霊性が存在する。今ここでの議論に注目すれば、他ならぬ腸チフスの病像も容易に形成できるだろう。ただ考慮に入れるべきことは、この病気は、カタル性の肺の症状、更には意識障害とも結びつくことが非常に多い、ということである。 肺でのカタル性の症状とは、(本来上部人間のプロセスが、下部人間のなかに侵出し、)下部人間のなかで生じているプロセスが、上部人間から奪われることに起因する。 (上から下への)突破が起こると、下部人間のなかで生じている(本来、上部の)プロセスが、もはや上部人間には含まれなくなる。 同様に、上部人間において意識を伝達する器官も、その活動を、下部人間へと伝達する突破が生じてしまうと、もはや正常に作用できない。この第一義的な原因に、真に注目すれば、腸チフスの全体像が、魂の前に出現する。 いわば、通常は、常に外見上、補完関係にない、互いの外見的諸徴候の結びつきが、第一義的な原因による関係から、描き出せるような形で、現われてくる。勿論、場合によっては、この事実が、人間の意識下で強力に作用し、生体組織のなかに、自ら(病状)を描き出す(表出する)前に、いわば預言的に、客観化しようという衝動が、当人のなかに実際に出現することもあり得る。 すると、上部人間(上部)において、当人から離れていこうとする(本来、上部の)プロセスを、当人は、何らかの青い斑点を用いて、壁に描こうという衝動に転換する。例えば、自分は、仕立て屋や靴屋ではなく、芸術家になる使命があると感じ、絵画の技術を、あまり学んでいないような人物が、徘徊するとき、次のようなことが体験できる。 この人物が同時に、絶えず出現しようとする下腹部疾患を抑えることができるほど十分に強靭で頑健であるなら(外的に頑健である必要はない)、当人は、この下腹部疾患を体内に取り込む代わりに、壁に描き客観化する。表現主義の絵画のなかに、この独特な活動の産物を見つけることができる。 (シュタイナーは、細菌に感染するかどうかよりも、体内に感染に適する状態をつくらないことが先決だと説いている。つまり、現代風にいえば、免疫力を強化することに主眼をおいている。 そして、それには、天の力である下腹部の新陳代謝の作用と、地の力である肺の胸部の呼吸の作用の間に、いわばエーテル的な横隔膜のような、隔壁が必要であるという。その隔壁は、脾臓がつくりだしているという。 シュタイナーは脾臓は、最も霊的な器官で、物質的な脾臓をなくしても、霊的機能は保たれるともいっている。しかし、それには、以前、脾臓のマッサージの話でもあったが、生活リズムが重要であるようだ。ここでは、睡眠と覚醒のリズムを取り上げているが、脾臓マッサージでは食事の間隔に言及している。 考えてみれば、天の力と地の力をうまく制御している地球の働きが四季である。冬は睡眠、夏は覚醒、そして、秋は寝入る季節、春は目覚める季節といえるわけである。それは地球全体が一斉に生命力を協調して発揮することで、一部の特別区をつくらないように配慮しているともいえる。地球の一年が、いわば人間の一日にあたる。 もし、このメリハリがなくなると、特別区ができ、ある地域だけ、特定の生命が増殖したり、減少したり、いままでみたこともない突然変異の生命体が現れることになる。最近、頻繁にみられる大量発生や、大量死などは、この季節の歪みにあるといえる。 つまり、地球の脾臓にあたる部分が異常になっているということである。恐らく、そのような地磁気の地帯があるのだろう。ポールシフトや太陽の黒点と関係するのかもしれない。 そういえば、太陽は心臓、地球は頭、太陽と地球の間は咽頭から肺にあたると、古代人は捉えていたから、脾臓から作り出されるエーテル横隔膜は、太陽の強力な電磁気や太陽風を防ぐ、地球の大気圏や、オゾン層、あるいは地磁気なのかもしれない。実は、オーロラは、地球の横隔膜がみえたものなのかもしれない。 この地球と同様に、人間でも、脾臓の隔膜が破壊すると、体内への細菌の増殖、つまり感染を容易に発生させてしまうといえるだろう。やはり、規則正しい生活や睡眠が重要ということなのだろう。免疫力強化には、規則正しい生活や睡眠が重要なのは言うまでもない。)
2009年06月11日
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さて、人間の生体組織には不可欠なことがある。生体組織から最終的に心臓の働きのなかに集約される作用全ては、最終的に肺の内的な新陳代謝のなかに集約され、組織される作用からは、隔てられていなければならない、ということが不可欠である。 心臓と肺の二つの活動は、両者の間に、いわばエーテル的な横隔膜、或いはアストラル的な横隔膜がない状態では、互いに作用してはならない。この二つの活動は互いに隔てられていなければならない。 そうすると、次のような問いが投げかけられる、 「このような横隔膜(この言葉を使うのは、イメージとして暗示したいため)が本当に存在しているのか、外的な呼吸とは、別の形で、頭、喉、肺の活動が、腹部及び胸の活動と混ざり合うのを防ぐような横隔膜が存在するのか?」、と。 このような横隔膜は実際存在し、そして、この横隔膜は、外的な呼吸リズムなのである。 ここで、上部人間と下部人間との相互の調律に至る。人間の律動的活動と呼ばれる、呼吸リズムのなかに、外的、物理的に出現するリズミカルな震動、物理的な震動が、エーテル活動、アストラル活動にまで継続され、肺のなかへと集約されている上部人間の地の力と、心臓のなかに顕現する、周辺の宇宙から地球の中心へと作用するように、下から上へと作用する下部人間の天の力とを、お互いに引き離しておく必要がある。(前回の以下の図参照のこと) ここで考察されたリズムが、適切に作用しない場合を想定すると、ここで比喩的に用いた、物質的には存在しないが、リズム同士の衝突により成立する、いわゆるエーテル、アストラルの横隔膜も乱れる。すると、植物において、強すぎる地の働き(作用)に類似した作用が出現する可能性がある。 上部人間;肺における呼吸リズムの地の力 下部人間;心臓における新陳代謝リズムの天の力 両者を隔てるエーテル横隔膜が必須で、横隔膜(上部人間、下部人間) 塩化の地の働きが、植物において強くなりすぎると、植物は鉱物的になる。すると、物質的な植物が地から成長するように、人体内では、肺に組み込まれ、肺から、いわばエーテル植物ともいうべきプロセスが成長し、肺の硬化の誘因となる。すると、植物の鉱物化傾向は、人間の生体組織内でも強くなり過ぎるということが、実際にわかる。 植物での塩化の地の力が増強→鉱物化 上部の肺における地の力の増強→エーテル植物化の傾向→肺の硬化→横隔膜破壊→下部人間 逆に動物化の傾向が強くなりすぎることもある。動物化の傾向が強くなりすぎると、生体組織の上部に、本来上部に存在すべきでない領域の生体組織の動物部分が作り出される。 下部の心臓における動物化の傾向→横隔膜破壊→上部人間 この上部に作り出された(本来下部にあるべき動物性の)領域には、エーテル領域に埋め込まれるように諸器官が埋め込まれ、生体組織において促進されてはならない、つまり小さな植物性動物(細菌)の生存にとって好都合な土壌が生じる。そこには、小さな植物性動物にとって好都合な領域が作り出される。これら植物性動物がどこから来るのかの、興味を持つ必要は全くない。 興味を持つべき事実は、これら植物性動物にとって好都合な生活領域がどのようにして作り出されるのか、ということである。 このような好都合な生活領域が人体にあってはならない。このような生活領域は、生体組織においては、その働きが生体組織全体に広がるように作用しなければならない。特別に封鎖された領域として、つまり特別区として、このような領域が生じてはならない。 この領域が生体組織全体に広がれば、生体組織全体の生命を維持する。小さな封鎖領域として機能すれば、小さな植物性動物、上部人間を病気にする状態全て、少なくとも、後から多くの生物を検出できる、この小さな植物性動物の生存条件の為の環境となる。 このように律動的活動と、その妨害に遡ることで、生体組織全般に広げられた領域の代わりに、特殊な領域の発生を追求し、人体組織における細菌の影響の謎を解いていく必要がある。けれども、霊的な原因に遡ること無しには、この謎を解く処までには辿り着けない。
2009年06月10日
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自然科学的-医学的研究において、病理学的現象の真の根源への帰還とでも名づけられるものへと入り込んでいくことが、やはり不可欠に思える。近代においては、本来の根源から目を逸らし、表面で生じている事柄に目を向ける傾向が益々盛んになってきた。 そして、この事、つまり表面に拘泥し続けることに関連して、今日、一般に通用している医学や、病理学の大部分において、疾患型(病気の形式)に関して、調査し始めると、どんな種類の細菌(ウイルス)が、この病気を引き起こすのか、このとき、人間の生体組織に、何が吸収されているのか、ということが教えられる (この形式は、今日では遺伝子型にそのまま継続されている)。 さて、この下等な生物を引き込む(感染する)ということに対して、単純な根拠から、ごく容易に反論できる。つまり、(疾患において、病原菌として、細菌が発見されるので)、この下等な生物が、感染前に周囲に存在したということを、最初に示す必要がない。 これらの生物が様々な疾病に対して特殊な形態をとって、出現することも事実なので、この特殊な形態が指摘されて、ある病気の形式と、この特殊なバクテリア形態との関係が明示されれば、論理的に矛盾なく、尤もな病因となる。 さて、純粋に表面的に観察するだけでも、或いは表面的に全体を見る場合においても、本質的に、第一義的なものから、全く逸れているという誤謬が露呈してくる。 というのも、何らかの病気のプロセス(経過)において、身体(肉体)の何処かの部位に、多数の細菌(ウイルス)が現われたら、(細菌でなくても)どんな異物でも、人体組織に病状を引き起こすのと同様に、この細菌が病状を引き起こし、この細菌の存在の為に、ありとあらゆる炎症が生じるのは当然であるからである。 さて、全てを、この細菌の働きに帰するなら、本質的に、この細菌が行なうことにだけしか注意を向けていないということは事実である。この場合、病気の本当の原因からは、注意が逸れている。 (シュタイナーは細菌の病状誘発は副次的産物という)。 というのも、生体組織において、下等生物が、その発達に適した土壌を発見するときは常に、他ならぬ、この適した土壌というものが、本質的な第一義的原因によって、既に作り出されているからである。この第一義的原因の領域に、一度注意を向けてみる必要がある。その為には、もう一度、以前述べた観察方法に引き返る必要があり、既に採用した方法ではあるが、再度、注意を向ける必要がある。 再度、地球を覆っている植物界、すなわち地球の植生に属する総体を観察すれば、地面から宇宙空間に向かって成長する、地球の植生全体は、地面から宇宙空間に向かって成長するだけでなく、ある力により引っ張られていること、つまり、既に述べたことだが、この植生の至る処では、地球から植物の内部へと作用する諸力と全く同様に、植物の成長の一部となる力が(宇宙から)作用している、ということについて、はっきりと理解しなくてはならない。 地球から植物のなかに作用する諸力と、地球外の宇宙から植物へと作用を及ぼす諸力との間には、絶え間ない相互作用が成立している。さて、このような作用、周囲に実際、常在している、この作用はどこにあるのか。 宇宙から作用を及ぼす諸力が完全に現われるなら、つまり、宇宙からの力が、完全に植物を捉えることができ、また、諸惑星が、宇宙からの諸力を後退させずに、完全に植物を包み込むように配慮するならば、植物は、茎から花と種子へと成長していく際に、常に動物になる傾向を持つだろう。 このような動物化の傾向が存在するわけである。植物においては、このように宇宙から作用するものに対抗して、他方で地球の方から、植物存在を抑え、植物存在の内部で鉱物化への傾向が作用する。 つまり、注意すべきことは、植物存在とは本来、塩化の傾向、つまり植物実質のなかに鉱物を沈殿させ、鉱物化する傾向と、炎症を起こす傾向、つまり動物化する傾向との間で、中庸を保っているということである。この事実は外界の自然のなかに常在している。 しかし、今述べたことは、人間の生体組織のなかにも、内化され、中心化されて常在している。 人間の生体組織は、肺というものを持つことで、真の小さな地球であり、そして植物の組織においては、地球から発して、植物の生体組織のなかに入り込む力が、地球から上方に向かって作用しているが、それと丁度同じように、肺から作用する力は全て、人間の生体組織においては下方に向かって作用する。 呼吸と心臓の働きを通じて、内的な肺の新陳代謝他の(下方の)作用に対抗する作用全ては、宇宙的な作用のように、(人体内では)外に向かって作用する(図参照)。
2009年06月09日
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唯物論が継続されたカトリック的苦行によって、今日の思考法において、実際途方もない損害を被っている。この苦行は、自然を侮蔑するもので、実際、自然の侮蔑を通して霊(精神)を勝ち取ろうとした。 今日の世界観は、この苦行的方向から取り出されたもので、この世界観によると、下腹部で生じている出来事などは、粗雑で、物質的で、注意を払う必要はない、と考えるのを好む。 しかし、そのような世界観は全くの間違いである。このような事柄の内部では、霊(精神)が作用し、実際、その内部で、霊(精神)がいかに作用しているかということを知る必要がある。生体組織のなかで作用する霊を、外界において作用する霊と結びつけると、内の霊と外の霊が共に作用することがわかる。 自然への侮蔑をやめなければならない。自然全体を再び霊化して眼前に思い描くことに到達しなければならない。 というのも、現在は、唯物論の高まりの真っ最中なのに、いわゆる異常な状態にある人たちに、ありとあらゆる催眠術や暗示等で働きかけるような(非唯物的な)欲求が出現しているのは、何とも奇異で、医学的な思考改革にとって、究めて重大なことに思えるからである。 物質から一見離れているような事柄が、他ならぬ唯物論の時代に登場し、そして水銀、アンチモン、金、銀の霊的性質に関する探求の可能性が、逆に失われてしまう。本質的なことは、物質の持つ霊的性質(霊性)に関する探求の可能性が失われてしまったということにある。 それ故、直接、霊自体を扱おうとし、丁度、精神分析において、行われるのと同じように、霊自体を管理しようとする。物質の霊的特性についての健全な直観が再び広まる必要がある。 このように外界の物質的実質のなかの霊性に対する信仰が活力をもちながら保たれてきたのは、19世紀を通じて、他ならぬホメオパシーの伝統のなかに浮かびあがってきた、少なからぬ功績の1つであることには間違いない。それどころか、この事実は究めて重要なものとさえ言える。 なぜなら、外(物質)的で、アロパシー的な医学は、残念ながら益々、物質的存在、人間の外にある物質の外的な物質作用のみに関わるべきである、という信仰の方向に向かっているからである。 しかし、以前述べた事実(ホメオパシー的医学)から、いわゆる肉体上の病気診断の際には、魂の状態に注意を向け、逆に魂に異常な状態が強く現われているときには、肉体的損傷の場所を捜す、という方向に通じていくべきである。 肉体の病気の場合、この病気に罹った人はどのような(心身の)気質なのか、という問いが出てこなければならない。 病気に罹っている人が、ヒポコンデリー的な性質(憂鬱質)である場合、その人の通常のヒポコンデリー的な性質をみるだけで、その人の下部人間(新陳代謝)に強く働きかけるような処置へと導き、つまり物質的作用のなかで、いわゆる低いポテンシャル(希釈率の低い、いわば物質的な薬剤)で処置するように導けることがわかる。 憂鬱質は、物質(肉)体が優位な状態の気質;新陳代謝が過剰 また、その人が病気でないときでも、利発な精神の持ち主であるか、もしくは多血質である場合、高めのポテンシャル(希釈率の高い、いわば非物質的な薬剤)を頼みとすることが最初から必要になることもわかる。 要するに、今度は心魂的な事実を、肉体上の病気に対して明らかにする必要がある。 多血質は、アストラル体が優位な状態の気質;神経系が過剰 このような心魂的事実全ては、子供の場合でも、既にある種の形で出現するが、その子が粘液質への傾向を示さず、本来なら後の年齢になって、はじめて現われるべき気質の萌芽が、たとえ控えめであっても既に明確に、その子のなかに見られなければ、デメンティア・プラエコクス(精神分裂症)は、簡単には発病しない。 粘液質は、エーテル体が優位な状態の気質;腺分泌が過剰 また、内(精神)的能動性か内(精神)的受動性かということに関しての区別は特に重要である。 この事実をよく考慮すべきである。いわゆる心理療法において、暗示等を用いて働きかけるなら、当人を働きかけた別の人間の影響下に置くことになり、当人の能動性を阻んでしまうからでもある。 そして、この能動性の阻害、人間の内的なイニシアティブを阻むことは、既に、外的生活において、人生に重要な意味をもたらしてしまう。つまり、この事実(次回から、更に述べる)を、子供のなかに適切に観察するなら、後の人生において、再び、歯の問題にも関係してくる。 例えば、自分にとって(以前述べたことに従えば、次のような考慮も大切である)、ある食品を避ける必要があり、別の食品をもっと摂取する必要がある、と考えることができる。自分には、ある種の食餌療法が必要であると考えることができ、実際、自分に非常に良いかもしれない。 とは言え、自分で試し、自主的に、様々な食品に辿り着くことで、食餌療法に至るのか、医師に指示されて、ある食餌療法に至るのかでは、大きな違いがある。 曲解しないように注意して欲しい。良い食餌療法を、自身で本能的に見つけ出し、自分のものとする場合と、医師の指導下で、身につけた場合でも、その際、自分でイニシアティブを発揮した場合であろうが、医師に指図してもらった場合であろうが、唯物論的な考え方の前では、いずれも同じように役に立つかのように思うだろう。 このような作用の最終的結果と呼べるものは、つまり、医師に指示され、それに従った食餌療法は、最初のうちこそ、役立つだろうが、残念ながら(受動的、依存的な面で)有害でもあり、その食餌療法を行わなかった場合よりは、高齢になってから痴呆化しやすい、つまり老人性痴呆になりやすい。 他方、食餌療法に積極的に自ら協力することは、老齢に至るまで(勿論、痴呆化を生じる他の要因も加わるが)、精神的な活発の継続を容易にする。 このような能動性と非能動性の作用は、あらゆる暗示的療法の際に、損なわれ、その場合、自分の判断を放棄して、他者の指図に依存しきってしまうだけでなく、自分の意志の導きを、他者の判断に委ねることさえも許してしまう。 だから、催眠と暗示等に立脚する治療法は、できる限り使わないようにすべきである。ただし、次のように言えるとき、 「このような処置(療法)を試行される、どんな人にも生じる、この意志の阻害が、当人においては、別の根拠から有害ではなく、一定期間、暗示的な方法で助けるほうが、当人の為には親切になりうる場合にのみ、適用もできる。」 一般的に言って、人間の生体組織の物質作用、大気作用、運動作用のなかにある、要するに、直接的な霊的作用ではなく、意識からでも、無意識からでも、能動的にイニシアティブ(主体性)をもって、当人自身から発する全ての本質のなかにある、治癒的な働きこそ、人智学が指摘すべき重要事項である。 (霊的作用に安易に依存してはならないという意味。いわゆる手かざし療法の類は、悪霊の働きで、かえって依存心を高め、意志を他に委ね、奴隷になってしまう。催眠療法も同じ。) このようなことが非常に重要なのは、正に唯物論的な時代にあっては、上記のような事柄に反することが最も多く、しかも、支配的な見解に汚染され、今日ありとあらゆる催眠的傾向、暗示的傾向が教育学にも取り入れられるという、ゾッとするような事態を体験することさえあり得るからである(サブリミナル効果のようなこと)。 (昨今の広告宣伝なんかは特に有害である。悪霊の働きで、本人から判断や認識を奪うことになる。) このような傾向が教育学のなかに取り入れられるというのは恐るべきことである。催眠を誘導する代わりに目覚めをもたらす人体組織の活動は、この事実に対して、どのように作用するかという問いに答えてはじめて、この方向において、明白にわかってくる。 人間は眠りにつくと、表象(イメージ)のなかに、意志活動には従わない運動をもたらし、その際、人間はいわば外界に対して静止する一方、その意識体験においては活動的になるが、オイリュトミーの場合は逆のことが起こる。オイリュトミーにおいては、眠り込むのとは逆のものがもたらされ、通常の意識現象に対して、より強い覚醒がもたらされる。 夢のなかに見られるような表象(イメージ)の肥大が取り去られ、代わりに、意志が健全に養成されて、四肢に送り込まれる。生体機構のなかの意志が、四肢のなかまで送り込まれる。更に、例えば、オイリュトミーの母音の動きが下部人間と上部人間に与える作用は、どのように違うのか、逆に子音を形成するオイリュトミーの動きは、下部人間と上部人間に、どのように異なった作用をするのか、について研究を始めると、オイリュトミーのなかにも重要な治療的要素(2)を探求できることがわかる。(2)ルドルフ・シュタイナー「治療オイリュトミー」(GA315)参照。この講習は(この「精神科学と医学」の)一年後、医師のための二度目の講習「治療のために精神科学的観点」(GA313 1921年4月12日~18日)の期間中に行なわれた。(今回の主題は究めて重要である。病気とは、本人への生活態度の改善への警告であり、精神的には思いやりのなさ、日頃からの感謝のなさへの警告なのであるという。だから、本人が自覚をもって、その治癒にあたらなければ意味がない。 だから、患者本人も無意識のうちに霊的に治すことは厳禁なのである。それはかえって新しいカルマ、罪業をつくってしまうことにもなる。だから、魔術的な治療を行うのは、厳禁で、それは表面上は治っているようにみえるが、実は患者の寿命や、治療者の寿命を縮めていることになるという。 しかも、患者のなかには、悪霊のせいで病気になっている場合もあり、そのような存在に霊的に介入すると、治療者自身が、患者のカルマを背負うことにもなるという。ミイラ取りがミイラになってしまうわけである。 ちなみに、話が逸れるが、古代エジプトでは、ミイラを暴いた者には呪いがかかるように設定されているという。現代風にいえば、ミイラにウイルスが仕込まれていて、暴くと感染するようになっているという。死霊が取り付くようなもんである。 だから、本来、治療者には、患者を見究め、選ぶ能力が必要で、病気を治しても、金銭を受け取ってはならないという。あくまでボランティアの無料奉仕か、逆に、患者に金銭を与えないといけないという。でないと、患者のカルマを背負ってしまうからであるという。 医師が比較的短命なのは、このせいでもあるようだ。だから、医師は、患者自らが意志をもって病気を克服するように導かないといけないという。つまり、患者本人の自主性を誘導しないと意味がないというわけである。 かのキリストでさえ、特定の者しか、霊的に治癒しなかったようで、そのために、怪しい術を使って惑わすと噂され問題視され、予め予定されていたこととはいえ、最後は十字架刑に処せられた。 現代では充分なインフォームドコンセントとして主題になっているが、医療事故は医師側だけの問題ではなく、患者の無責任な態度にもあるといえる。病気に罹ったのは、患者自身の自覚の問題に帰する。 確かに、医師側の治してやるという態度もよくないが、患者側の医師への過剰な期待や、依存心にも問題があるだろう。 つまり、どのような対面にもお互いの譲り合いが必要なのである。 基本的にいって、天は自ら助ける者を助けるということである。自分で気づき、自分で改めるのが本位で、どんな人間にも既に治癒力があり、気づかないだけなのである。病気に罹るというのは、同時に治癒力も同じように存在するということなのである。 依存心を肥大させ、魂を悪魔に売り渡し、魂を食われることこそ怖いものはない。)
2009年06月08日
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器官形成は、反感(食欲不振)の克服の結果もたらされる。他方、既にある程度完成した器官の成長は、食への共感の虜になることでもたらされるが、その食欲がある一点を超えてはならない。食への共感と反感は、舌の上、或いは食べ物をみる、目のなかにあるのではなく、生体組織全体に、この共感と反感が鳴り響いている。 どの器官もそれ自身の共感と反感をもっている。ある器官は、ある状態で、その器官を構築した存在に対して反感を持つ。つまり、その器官は、完成したとき、その器官が反感を持つ食物の御蔭で、構築される。 この事実から、まず、外界が作用すると、内部が外界の作用に対して抵抗し、反感のなかで自らを発散(拡散)することで、生体機構の完成が更に進められことを考慮するなら、更にもっと系統発生学へと降りていける。 生体組織の領域で、生存競争に最も良く耐える人は、内的な反感を克服し、代わりに器官を作る能力を最も多く持つことになる。 この事実を考察すると、薬剤の配量(希釈量)を見ていく上でも根拠が得られる。器官形成プロセスのなかに、共感と反感の間の、絶え間ない揺れ動きを見て取れる。器官発生は本質的に、共感と反感の形成と共に共感と反感との間の相互活動に関わっている。 生体組織における共感と反感の関係は、以上だが、低いポテンシャル、つまり物質として実質的に適用するものと、高いポテンシャル(希釈度)で用いるものとの関係も同様である。高いポテンシャル(希釈度)は低いポテンシャルとは逆の作用をする。この事実は組織化の力全体と関係している。 ある意味、以前、別の観点から暗示した事実、つまり、最初の生命周期(幼児期)に生体組織において、ある特定の形で作用するものは、後の生命周期(老年期)においては逆の作用をする事実、つまり、後の生命周期(老年期)では、生体組織での作用がズレる、ということである。 この事実が、基になって、以前述べたように、一方で、デメンティア・プラエコクス(精神分裂病)、他方では、魂の範囲が(他の部分から)絶縁されることが生じ、この魂の絶縁は、後の年齢になって、生体機構を捉えるべきでないときに、捉えてしまうことになる。 現代科学自体が、少しばかり霊化され、もはやいわゆる精神病なるものを、霊的-魂的な方法で治療しようとせず、次のような問い、 つまり、「何らかの精神、或いは心魂の病があるとき、器官のなかで、どこが不調なのか」、 という問いを投げかけるような事態となってはじめて、このような事柄に関して適切に処理できるようになる。 逆に、奇妙に聞こえるかもしれないが、いわゆる肉体の病気の方が、心魂の病気の場合よりも遥かに、心魂的なものに目を向けることで、多くの手懸かりが得られる。 心魂の病の場合、心魂に関する所見が、診断上の助けになることはほとんどない。生体組織のどこに欠陥があるのかを探り出すために、観察を通じて、心魂上の所見を研究しなければならない。 古代人たちは、この点に関して、術語の上でも既に配慮していた。 実際、古代人たちが、ヒポコンデリーの魂の病像を、純粋に唯物論的に聞こえる呼び名の、「下腹部の骨張り」とか「下腹部の軟骨状態」といった意味の呼び方で、「ヒポコンデリー」(心気症、憂鬱症)に結びつけたのは、正当な理由がある。 古代人が、心魂のなかで生じている事実を、下腹部の疾患とは、別の異常のなかに探求する(心気症が錯乱にまで及んだ場合ですら)ことは決してなかった。 ともあれ、いわゆる物質を、全て霊的なものとみなせる状態になるまで、到達すべきことは言うまでもない。
2009年06月04日
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トンデモ最前線で、いま話題なのが、アセンションと呼ばれる次元上昇のことである。 次元上昇とは、端的にいえば、4次元空間への移行をいう。つまり、三次元の肉体を離れた死後の世界のことである。 つまり、死後の世界でも、生前のように覚醒意識を保ったままでいられるかということにある。 仏教の世界では、端的に、心眼を獲得するという。 これはどういうことかというと、人間は肉体の感覚から、自分という存在を構築しているわけで、肉体を失うと、すなわち、死後、自分を自分で意識できなくなる。物質的感覚が麻痺するからである。 神秘学によると、実は、この物質的感覚は、ローマ時代頃から、つまり、人類史でいえば、比較的近年になって、身に着けたものだという。古代エジプト時代の絵画や文字が、霊的なものであるのは、このせいである。ローマ時代でも、羽の生えた天使や、頭にオーラの輪がある絵を描いていたのは、実際、そのようにみえたからである。 日本でも、中世、角の生えた鬼や、河童のような怪物がみえたのは、物質的感覚が、充分に遺伝していなかったせいである。 だから、端的にいえば、そのような中世人は、現代人からみると、発達障害児のようにみえたわけで、少なくとも精神異常のように思えたわけである。 だから、心眼とは、霊眼のことで、しかし、重要なのは、心眼でも、自分という存在を自覚できるところにある。 心眼で自分を保つというのは、実際、困難なことなのである。なぜなら、感情というのは、伝播するし、怒りや、笑いを、個性として区別するのが困難だからである。 しかし、これは誰々の怒りで、あれは誰々の笑いで、これは自分特有の感情であるというのを、繊細に嗅ぎ分けたりすることが、訓練すればできるという。それは、例えば、亡くなった故人が、どうも近くにいる気配がするというようなことからわかるだろう。 つまり、その人の本質というものを見分けないといけない。 物理学では、物質は、素粒子という非常に小さい粒子からなるとしているが、素粒子からなる原子にしろ、粒子そのものよりも、空間の方が広いのである。つまり、素粒子のような小さい人がいたら、原子などは、非常に粗い、スケスケ状態といえるのである。 つまり、粒子そのものよりも、それらを結び付けている場の力の方が重要であると考えざるを得ない。この力の媒介を、神秘学では、心魂と呼んでいたり、エーテルと呼ぶのである。 端的にいえば、波長が合う状態、共鳴現象を介した絆といった感じである。科学的表現でいえば、相転移というべきか。例えば、超伝導状態におけるマイスナー効果での電子のクーパー対のようなものだろう。 さて、その地球のエーテルについてだが、どうも、振動数が上昇しつつあるというのである。霊学では、地球の気温上昇は、温室効果ではなく、地球自体のエーテルの振動数の上昇にあるという。 地球自体のエーテルの振動数上昇は、太陽からくる光、つまり電磁波の強化にあるという。太陽の活動が活発化しつつあり、地球自体のエーテルの振動数を上昇させているという。更に、人間自身もいわばそれに貢献しているという。 これらの理由は、とてもトンデモな話なのだが、人間の魂自体も、つまり心魂も、太陽と地球の合作したものなので、いわば一つのエーテル振動体なので、人類に一体感がなくなり、バラバラになると、磁力が働くなるわけで、この事は、磁性体の構造と同じで、N極とS極、つまり電子のスピンが揃わなくなると、磁性がなくなるように、地球全体の抵抗力が失われ、太陽の力に負けてしまうという。 早い話、太陽から、強い進化の光がくるわけで、その光に共鳴できない人間は、進化の道を自ら脱落していくわけである。心にやましいことがあると、逃げたり、隠れたり、嘘をついたりするのと同じである。 この現象は、コマ回しにより、イメージできる。大きく回転の速いコマが近づくと、その回転に共鳴できない、小さく回転の弱いコマは、回転を失い弾きだされる。 だから、霊学では、いま幽界が、太陽の浄化光により、闇が清められ、幽界の魔物たちが、逃げ惑い、物質界に必死に隠れ場所を探そうとしているという。 つまり、少しでも悪い心があれば、それを起点にして、魔物たちが吸い寄せられ、相乗効果のように蓄積されるわけである。心魂が、それら魔物たちの巣となるわけである。 この現象は、例えば、QCD(量子色力学)のグルーオンの相乗効果に似ている。或いは、電荷の遮蔽や、繰り込み理論で理解できる。 だから、魔物たちの誘惑に負けないような精神を、特に自立した精神を身につけないといけない。誰かに、何かに依存するのではなく、自分の足で自分を浮上させなければならない。 さて、アセンション、つまり、次元上昇の前に、ポールシフトという極変換が起こるという。 このポールシフトとは、地球の北極と南極が入れ替わるというのである。例えば、いままでは、北半球が中心だったが、今度は南半球の番になるのだろう。 ポールシフトは、ホメオパシーの原理で説明できる。ホメオパシーの原理をシュタイナーは簡単に説明しているが、それは、金持ちが金を浪費しすぎると、今度は負債者になるという話である。 実は、このポールシフト、地球の歴史上、何回か起こってきたという。実は、このポールシフト、恐竜絶滅の要因となったかもしれないという。 霊学によると、恐竜絶滅は、心筋梗塞にあるという。このことは、金持ちが、財産を失い、負債者になれば、ショックで心筋梗塞になることでもわかる。 恐竜の場合は恐らくそんな単純な構図ではないだろうが、少なくとも彼らの獰猛性が、精神性を蝕んだことは容易に推測できる。 神秘学では、心臓は、生前の行いの要約、エキスであるという。善が多ければ軽くなり、翼が生えたように飛べ、悪が多いと重くなり、蛇のように地を這うものとなるという。 エジプトの最後の審判の絵図では、心臓を天秤にかけることで、おこなわれることが記されている。 シュタイナーは、人類の前の人類は、恐竜だったといっている。恐竜のなかで、つまり竜神になれた白い龍と、なれない黒い龍、つまり悪魔に分かれ、更に堕落して蛇になったのが、人間を唆して、地球に住まわせたのが、聖書の原罪の意味である。 つまり、地球は蛇だらけ、龍だらけである。 恐竜がポールシフトにより最後の審判を下されたように、次は、人類に下される番がくるというのである。 さて、黒い龍だが、それは、とある有名な元大統領の背後にいるという。 どこまで、トンデモなのかは、人それぞれの読解力に期待する他はない。
2009年06月03日
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さて、歯の治療が、手遅れにならないうちに、まだ歯の治療が可能である限り、人体組織の成長力全てと、歯の成長がいかに密接に関連しているか、これまでの話から、わかるだろう。 なぜなら、エスクリンとクロロフィルに関して述べた話は、全く精妙な成長プロセス、鉱物化へと向かう過程にある成長プロセスと本質的に関わる諸力へと導くからである。 人間は、精神へと向かう高次の発達を、歯の形成プロセス全般により贖わざるをえない。この事実は、系統発生上からも、正しい。 (人間は精神が発達すると、歯が退化するわけで、逆に、動物は、精神が退化するので、歯が進化するわけである。要は、エーテル体を精神的に用いるのが人間で、物質的に用いるのが動物で、特に下等生物の復元能力、例えば、トカゲの尻尾や、ゴキブリの再生などが、代表である。人間は、精神にエーテル体を用いるので、思考能力が発達したのである。) 動物の歯の形成プロセスに対して、人間の歯の形成プロセスは、退化プロセスである。しかも人間は、この退化プロセスという特長を、本質的に、人間の頭部機構の至る処に見られるプロセスと分かち合っている。 (歯が退化することで、代わりに人間は脳を発達させたわけである。この講座のはじめに、動物の頭蓋骨との比較から、述べているところである。) 以上、歯の形成プロセス全体を判断するために重要となる観点を紹介した。 更に、また基礎を与える別事項をつけ加えれば、幾つか別の事実が判明してくるだろう。さてここで、一見、この事とは関係のないように見える話をつけ加える。それはつまり、食養生の問題とでも呼べるもので、丁度、これまで、扱ったような事柄と関連する。 食養生の問題というのは、これらが単に医学上の意味を持つだけではなく、社会的な意味も持つが故に重要である。マズダナン(Mazdaznan)食餌療法(2)他の特殊な食養生の形式に正当な意味があるかどうか、といったことについては大いに議論することができる。(2)マズダナンは、1900年ごろA. Hanisch によって創始された、ゾロアスターの教えに基づく生活様式運動。マズダナン食餌療法はそれに基づく食餌療法と思われる。 このような問題は議論できるが、このような場合、常に問題となるのは、推奨される事項全てが、当人を非社会的存在にするということである。事実、社会的事項が医学的事項と衝突する。 栄養摂取に関して、何か特別なものを摂るように、指示されることが多ければ多いほど、世間の影響全般に関して、それだけ一層、非社会的な存在になってしまう。 例えば、最後の晩餐の意味は、キリストが弟子たち皆に何か特別なものを与えたということにあるのではなく、皆に同じものを与えたということにある。飲食において、人間皆が共にできる、という可能性をもたらすことに、大きな社会的意味がある。人間の健全な社会的性質を妨げる結果になる全ては、やはり慎重に扱わなければならない。 というのも、人間というものは放置しておくと、その人の意識だけでなく、器官的にも、その人のなかで作用するものにも言えるが、可能な限り、あらゆる食欲と食欲不振を生じさせてしまうからである。通常、行なわれているような意味で、食欲と食欲不振を眺めることは、人間にとって、それほど重要なことではない。 なぜなら、(主観的な食欲ではなく、食欲全般である)人間は、本来、耐え難いことに耐えることを学ぶまでに至ったなら、つまり最も広い意味において(器官組織にまで広がっているという意味である)食欲不振を克服するなら、その人の食欲不振に対応する食物(食べたくないもの)を、その人から長いこと離しておくより、その生体機構が獲得するものはずっと多いからである。 (嫌いな食物をできるだけ食べることが、食べないよりも学びがあるという) 破壊された器官、或いはそのエーテル体を見れば、新しいとさえ言える器官の回復は、耐え難い食物を克服することに、この克服のなかに(比喩的に言っているのではなく、全く正確に言っているが)ある。 器官形成力はつまり、他ならぬ食欲不振の克服のなかにある。 (逆に)ある時点から、食欲の虜になることで、今度は器官の役に立つのではなく、器官を肥大させ、器官を退化させてしまい、つまり、生体組織が害されることで、自ら引き離しておこうとした食物に対して屈服しすぎると、生体機構を害することになる。しかし、その人本来に相応しくないと思われることに、その人を徐々に慣らしていくなら、常に生体機構は強化される。 (つまり、好きなものばかり食べていると、それを好む器官が肥大化し、かえって損傷するという、そして、損傷すると、今度は、その食物を食べるのが厳禁になるので、かえって、依存症になってしまうという。つまり好きなものばかりを食べていると、麻薬と同じようになる。) この点に関して、現代の自然科学は、知る必要のある事項をほとんど全て覆い隠してしまった。というのも、生存を巡る闘い、及び淘汰といった外見的な原理は、実際、全く表面的なものだからである。 ルクス(1)は、この競争原理を更に人間における器官の闘いに転用した。しかし、それは非常に表面的なことである。このような事は、本来、内的に起こっている事を真に観察してはじめて意味をもつ。(1)Wilhelm Roux 1850~1924 ドイツの解剖学者、生理学者。1895~1921ハレ大学教授。主要著書:「生体組織における各部の闘い」(ライプツィヒ1881) 「生体組織進化のメカニズムについて」(ウィーン 1890) 「進化のメカニズム」(ウィーン 1905) だから、ここで次のように言わなくてはならない、 「人間の器官、系統発生の系列上にある器官一般を強化するには、常に反感(食欲不振)を克服することによってなされる」、と。 (子供の頃、好き嫌いをなくし、みんなと同じものを食べようという給食は、器官形成の観点からも、非常に教育的で、いまでいう「食育」といえるものであることに気づかされる。好きなものばかり食べていると、器官肥大を生み、かえって器官損傷を招くことになるという。 給食とは、皆が同じものを残さず食べるという意味で、キリストの最後の晩餐の社会的人間を意味するものであるわけで、改めて、給食の意義深さ、日本の昔の教育の素晴らしさを、シュタイナーの話から再評価できる。 シュタイナーにいわせると、最後の晩餐とは、実際、宇宙創造の秘密を意味し、神々たちが、実際、太古で、一緒に食事を共にすることで、宇宙が生まれた真実を意味するという。 つまり、最後の晩餐とは、宇宙の創造の歴史を一つの絵に要約したものだという。 だから、キリストは、私の記念に、この最後の晩餐を行いなさいといったという。つまり、自分の与え得る血と肉、つまりワインとパンを、皆に分かち合いながら、好き嫌いなしに、裏切り者も一緒に、皆で食べなさいというわけである。 重要な点は、裏切り者のユダも皆と一緒に赦されて食べることにあるという。つまり、人間の好き嫌いを無くしなさいということで、汝の敵を愛せ、汝の隣人を愛せというキリストの教えの体現なのである。そのように、神は人間をつくったわけである。だから、キリストの教えを守らない者は、自分で自分を破壊していることになる。 簡単にいえば、好き嫌いをする人は、神から離れ、人でなくなり、獣のようになっていくということである。実際、獣は好きなものしか食べない。肉食獣は偏食といえる。)
2009年06月03日
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さて、無論、次のような問いを投げかけることができる。 前回、外的な(外界の)フッ素作用とでも呼べる作用に関して述べたが、このフッ素が充分に作用しなければ、フッ素作用を、人体のなかに捜し出せるのか(人体組織は非常に複雑なので、教育の代わりに治療が必要なのではないか)。 つまり、「(手足を巧みに動かす等の)教育で間に合わなければ、治療を始めるべきなのか?」、という問いである。 というのも、手や足の共演者として存在する作用全ては、肉眼で見えるフッ素作用であり、指が柔軟によく動き、脚が柔軟になると生じてくる素質だからである。 フッ素の作用とは運動により生じるもので、原子論的に内部構造に立ち入り、空想(想像)するような作用ではなく、人体組織の表面に出現し、内部に向かって継続していく作用なのである。 表面で生じている活動の内的な継続がフッ素作用なのである。 なぜなら、ある子供の教育がよくなかったということに気づくのは、歯への影響だけでなく、その子供が自主的に、何も始められない、器用になれない、ということからも見て取れるからである。更に重要なのは、いわば予防的に生体組織に介入することである。 ここで、トチノキ(1)の樹皮から採った液の水性エキス、つまりエスクリンエキスを試してみると興味深い。非常に薄く希釈したエスクリンを内服させると、歯の保護、歯を長くもたせるように調整的に働きかけることができる。ただしその時期が手遅れでないならの話であるが。 (1)Rosskastanie トチノキ属。セイヨウトチノキ、マロニエ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%AD この事実にはまた興味深い関連が見出せる。トチノキの樹皮液のなかには、歯を構築する要素が実際に存在する。 外のマクロコスモスのなかに常に見出される作用は、人間内に何らかの形で組織化を行う作用を意味する。そして、この事実は、歯の周辺において、エスクリンが作用する物質から、化学作用を投げ出す(消去する)ような要素が、このエスクリンのなかに存在することと関連している。 実際、奇妙だが、刺激による応答の円錐状スペクトルを、エスクリン溶液に通すと、スペクトルから化学作用が消去される。このような化学作用の消去は、水性の(エスクリン)エキス溶液(水性エキスでなければならない)を非常に薄く希釈して、生体組織内に取り入れる場合にも見出せる。 このような事実からわかるのは、化学作用の克服(中和作用)や、鉱物化が示す作用は、結局、生体組織における歯の形成プロセスと同じということである。 ただし、歯の形成の場合、化学作用が消去される際に、物質的に生じている作用も、人体組織のなかでは、まだ組織化力に浸透されている。 この事実と同形作用の、また別種の処方は、クロロフィル(葉緑素)に見出せる。トチノキ他、幾つかの植物の樹皮に見られる力は、本質的に、葉緑素全体のなかに、葉緑素とは別の反作用を形成する。ただ、その際、葉緑素を、いわばエーテルのなかに抽出する必要があり、しかも内服ではなく、下腹部に外用的に擦り込まないといけない。 従って、エーテル化された葉緑素を、下腹部に擦り込むと、エスクリン作用を内的に服用するときと同様の形で、歯の保護の為に生体組織に働きかけることになる。 これらは是非試すべき事柄で、これらの統計的成果が、物質的に示されれば重要な印象を与えるだろう。一旦、歯髄全体が死んでしまうと、生体組織全体が、フッ素摂取に適した状態にならないといけない。そうすると、一般的な歯科治療の問題ではなくなってしまう。 (今回の主題は、歯の成長と物質化、組織化で、歯の成長を、手足を巧みに動かすことの教育によって行えなかった場合は、エスクリンを水で非常に希釈した内服によって治療できることを解説している。 また、エスクリンの内服を、エーテル化されたクロロフィルの下腹部への外からの摺り込みで代用できるという。 また、エスクリンとの関連で、ウイキペディアでトチノキを調べると、以下の記載が目を引く。 「花はミツバチが好んで吸蜜に訪れ、養蜂の蜜源植物としても重要であったが、拡大造林政策などによって低山帯が一面針葉樹の人工林と化していき、トチノキなどが多い森林は減少し日本の養蜂に大きな打撃を与えた。」 昨今のミツバチの大量死や減少は、トチノキと関連しているのではないか?とも思える。シュタイナーはミツバチは、火の精霊の化身だといっているが、ミツバチがいなくなると、火の精霊もいなくなることが想定され、火の精霊がいないと、正常な受精が行われない可能性が出てくる恐れがある。 ある霊学関係のブログを読むと、いま幽界において、神々による悪霊の掃討作戦が展開されているという。それだけ、幽界が縮小し、悪霊は、逃げ場を求めて、現界まで、押し寄せているという。 だから、現界において、少しでも邪な気持ちがあると、それに吸い寄せられ、悪霊が取り付き居つくという。昨今の巷を賑わすような非人道的な事件は、その傾向ともいえる。先日の暴行事件などは、色情の悪霊ともいえる。 そのような悪霊を引き寄せないように、自ら精神を改めないといけないという。何事も、根本から、元から絶たなければ駄目なわけである。他人に頼って生きる人、精神的に自立できない人は注意すべきである。 振り込め詐欺は、このような典型で、魔物に魂を食われた連中なので、相手にしないことが肝要である。)
2009年06月02日
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