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さて前回の手足の運動と歯の形成プロセスとの関連と、以前との関連から、次のような問いが出てくる、 「フッ素は何を通じて生体組織のなかに摂取されるのか、外部からエナメル質を通じてなのか、歯髄を通じてなのか、それとも血管他を通じてなのか」、という問いである。 さて、フッ素そのものが、人間形成プロセスであり、フッ素がどのような経路(道筋)を通って摂取されるのかに関しては、あまり思い煩う必要はない。通常の栄養摂取プロセスを通じて導かれるプロセスを考慮するだけでよく、このプロセスで、フッ素結合を含む物質が摂取される。 通常の栄養摂取プロセス、つまり、フッ素という物質を、蓄積すべき場所に周辺的に運んでいく、通常の栄養摂取プロセスを追求すればよい。 大切なのは、フッ素自体は、人間が考えているよりも、広く分布しているということである。フッ素の多くは(勿論、比較的多く、ということで、なぜなら人間は、ほんの僅かしか用いないからである)、様々な植物のなかに存在している。 特に植物のなかに、フッ素形成プロセスが存在するというのは、このフッ素に関しては、化学的に検出できなくても、植物のなかに、フッ素形成プロセス(この事に関してはもう少し詳しく述べる)が存在している。 というのも、フッ素は水中にさえ、飲み水のなかにさえ常に存在しているので、フッ素を手に入れるのに困ることは全くないからである。 重要なことは、生体組織というものは、フッ素摂取のなかに置かれている、究めて複雑なプロセスを克服するように組織されている、ということである。だから、通常の術語で語るなら、次のように言わなくてはならない、 「本来、フッ素は血管を通じてその場所に輸送される」、と。 更に、「割れた歯のエナメル質は猶も養分を供給されるかどうか」、という問いが出てくるが、養分の供給はなされない。この事実はすでに、ここで述べたことからわかる。 しかし、また別の事実にも注目すべきである。つまり、人智学的に探求すると、歯が形成される部位、つまり歯形成の周囲では、人間のエーテル体が非常に活発に働き、このエーテル体の活動は自由で、いわば物質的機構との結びつきは緩くなっている。 歯の周辺に見られる(エーテル体の)活動は、その部分で特に観察されるもので、顎の周りを、いわば常に動き続けるような機構を形成している。このような自由な機構は、人間の下腹部には全く存在しない。 下腹部では、このような機構は、究めて狭義の意味で、物質的、器官的活動と結合し、以前述べた現象(妊娠時の歯の損傷)は、この器官的活動に関連する。 この事実に関連するのは、つまり、エーテル体の活動が、妊娠の際のように、物質的組織から緩められると、即座に他方(反対)の対極の、歯の機構に重大な変化を引き起こすということである。同様に、痔疾も、物質体とエーテル体が、その機能において、独自の道を歩むことと関連している。 しかし、人間の生体機構のこの末端で起きている、エーテル体の独立は、すぐに他方(その対極)でまたエーテル体を生体機構のなかに引き入れるので、他方(対極)では反対の作用、つまり破壊作用が結びつく。 器官的活動を高める作用が、健全に出ると妊娠であり、病的に出ると、病気となるが、妊娠のように健全な活動を高める作用、つまり正常な活動を強める作用は、他方(対極)では、より集中的活動として、歯を退化させ、破壊するように作用する。この事実は特に重要な意味をもつ。 (今回のテーマは、妊娠後になぜ妊婦は、歯が弱くなるのかということについて、人智学的に考察している。 それは、歯の周辺のエーテル体が、自由に動くような機構であるのと対象的に、下腹部の器官では、ほぼ物質的器官と一体化しているので、下腹部の物質体とエーテル体が妊娠により、緩み、分離すると、下腹部において、エーテル体の自由度が増し、その反動で、歯の周辺のエーテル体が、不自由になり、自由度が失われた分、歯の破損(退化)になって現れるからであるという。 妊娠後、よく体質が変わるというのは、このエーテル体の変化にあるといえる。また、前回述べた、手足の運動と、歯の成長の関係は、幼児から子供のときに、手足をよく動かすことで、エーテル体の自由性が増すために、それに応じて、歯の周辺のエーテル体の自由性が増すので、歯が成長するといえる。)
2009年05月28日
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「怖いと思うから怖い」という言葉には真実が隠されているように思える。 恐怖心ほど、人間の心を縛るものはないだろう。 死や老い等、お釈迦さまが、遥か昔に、四苦八苦で表現されている通りである。 お釈迦さまの教えは、八正道で示されているが、私は、単純に、恐怖心を捨てなさいといっているように思える。 恐怖心を捨てよ、とは、言葉では言い易いが行い難い最たるものである。 では、生物が恐怖心を捨てるときどうするか? 例えば、外敵に出くわすと、カメは甲羅に隠れるし、カメレオンは、環境に同化し、存在を隠し、死んだ振りをする生物もいる。 共通することは、息を殺す。つまり、呼吸を潜めて、隠すことである。 この生物の営みのなかに、恐怖心を捨てる極意があるのだろうか? 快川和尚は、心頭滅却すれば、火もまた涼し、という格言を遺した。 心頭滅却とは、心と頭を無くすことだから、心と頭をつなぐ呼吸を無くすと考えると、語呂が合う。 つまり、呼吸を無くすと、火が涼しい、つまり恐怖心が快楽にも変わるのだろうか? 考えてみると、人間には、進んで恐怖心やスリルを味わおうとする冒険心もある。 バンジージャンプをしたり、ジェットコースターに乗ったり、安全が保障されているといっても、なかには派手なスタントを試みる人もいる。 考えてみれば、人生そのものが派手なスタントやバンジージャンプといえるものかもしれない。 子供のころに、必ず誰しもが、肝試しという遊びをやっただろう。肝試しをやる前は恐怖心だけが起こるが、終わると、なんだか、安心感が訪れ、かえって爽快感さえ沸くものである。 ダイアンフォーチュンの著書には、お化け屋敷に暮らしても、全く驚きもしない鈍感な人もいるというが、そのような人こそ、肝が据わっているといえるのかもしれない。 スウェーデンボルグも、はじめは悪霊たちの振る舞いに驚いていたが、それにも慣れると、かえって相手にするのも馬鹿馬鹿しいものだいうようなことを言っている。 怖がるから、脅かすのであり、相手にしなければ、よいのだろう。 同じようなことを、漫才コンビのハンニャが、高校時代のいじめの出来事で言っていた。周囲の物体や、環境と同じような、無反応、無表情でいると、相手はいじめをしなくなるらしい。 少し前、鈍感力という本が注目されたが、鈍感力というよりも、環境適応力や無呼吸、殺息力といった方がよい。 当時、同時に、左から右に受け流す、というのも流行った。そして、同時にKYという言葉も流行した。 KY、つまり空気が読めないから、浮いてしまうわけで、空気が読め、自分も空気の振りでいると、左から右に受け流すことができるだろう。 しかし、呼吸をしないと人間は死んでしまうわけで、いわば、呼吸をしたままで、死んだ振りを演じるわけだが、死んだ振りをするには、自分の気配を消すわけだから、自分をよく知らないといけないわけである。 技術的にいえば、自分の固有振動数を知っていて、その振動数を打ち消すように働かせるわけである。 しかし、固有振動数を消してしまうと、少なくとも物質ではなくなるので、生物はどうしているかというと、より大きな組織体にみせるようにするわけである。つまり、スケール変換を行うのである。 自分が何か大きなものの一部になれば、外敵は、大きなものと捉えるので、逆に逃げていくのである。権力という言葉がそれを意味している。権という字は、計るという意味である。 計るとはスケールの問題だから、スケールが大きいものに、小さいものは歯向かうことはできない。 キリストが、悪魔に挑発されたとき、主なる神を信じろといったように。悪魔だって、神から生まれたわけで、主である神の方が大きいわけである。 キリストにとっては、私は神の命令だもんね。あんたは勝手に背いているんだから、私の方が大きいわけだよ。そんな小さいことはおやめなさいって、あんたも仲間に入りなさいよ、といっているわけですよ。 さて、では人間はどうするか、自然や自然法則と一体化するのが、その極意なのだろう。精神に関して言えば、最も普遍的な道徳心であろう。 自然の大きな意志や、自然の流れに逆らうことなく、精神の道の流れ、その流れに身を委ねるのが最もよいのである。老子のタオ(道)であろう。 簡単にいえば、僕が僕であるために、生き続けなきゃならない♪~by尾崎豊になってしまう。 そう、自分の人生に身を委ねるしかないのである。誰かの人生でもなく、自分の、自分のために予定されている未来の人生、具体的出来事に、身を委ねるしかないのである。 要するに自主的な諦めの境地に他ならない。 恐怖心の克服は、いかに苦しくとも、辛くとも、自分の人生を信じるしかないのである。なるべく生きて、自分の人生を大きな糧とするべきなのである。自分の世界を広げるしかない。 自分の人生を信じる者は、自分によって救われる。 自分でない、誰かであろうとするから、恐怖心が持ち上がるのであろう。 自分で自分の体を持ち上げるしかない。自分を信じられないから、誰かに頼ろうとする。すると、その誰かがいないと、自分は存在しないという恐怖心に襲われるのである。 一つだけ、確かなことは、自分の人生は、いま自分自身で選択しているということである。それに恐怖しても、怒っても、自業自得というものだろう。誰のせいでもなく、自分のせいなのだから。 神様からいえば、お前が選んだんだから、文句をいうな、だろうね。 しかし、人間はいつも、こんなはずじゃなかったといって、自分の見込み違い、無知さを呪ってしまうのである。 本当は、呪うのではなく、自分の選択した通りなのだから、叶えてくれて、感謝すべきなんだろうね。
2009年05月27日
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さて、前回述べた歯の形成プロセスは既に準備されているので、いわば歯冠は押し出されるだけで完成するから、予防措置は困難ではないか、というような反論は当然である。 確かにこの反論は正しいが、歯の形成プロセスが、いかなるものかを理解するには、歯だけが手懸かりになるのではない。 重要な事は、4歳、5歳、6歳になった子供が、腕及び手、足及び脚が不器用である場合、つまり腕と脚、特に手と足を巧みに扱うことが困難な場合、その子の歯の形成プロセスが順序正しく組み入れられていない傾向にあるということである。 腕及び手、脚及び足の動作に、歯の形成プロセスにおいても前面に出現するものと全く同じ型が示される。 従って、子供たちが巧みに走るように、いわゆる両脚を器用に動かすような走り方で走るように、できるだけ早く指導すること、例えば千鳥足のように巧みに走らせるなど、一方の足を常に他方の足に付けるように走るように指導することは、つまり、子供たちが、巧みな駆け足を身に付けることで、歯の形成プロセスを高度に調整するように作用することになる。 ヴァルドルフ学校の手芸の授業では、男子も女子と同じように棒針編みや、鉤針編みを行い、男子も女子もどんなことも共に同じことを行っている。年長の男子でも、夢中になって棒針編みを行っている。これらは、何も奇をてらっているのではなく、指を器用に、柔軟にするために、魂を指のなかにまで送り込むために行っていることなのである。 魂を指のなかに送り込むと、特に歯の形成プロセスと関わるものを促進することにもなる。子供が怠惰なとき、じっと座らせたままにするのか、駆け回るように導くのか、また、子供の手を不器用にさせるのか、手先が器用になるように支援するのか、で異なってくる。 この事実が重要なのは、この時(幼児から子供)に怠ったことが、後になって、無論、人によって程度の差はあるが、早期に歯が損なわれることで出現するからである。これには個人差があるが、出現することは確かである。だから、次のように言える、 「人間のこのような訓練を早期に始めれば始めるほど、このような側面から歯の破壊プロセスを遅らせるような影響を与えることができる」、と。 歯のプロセスに関連する全てに介入することは非常に困難なので、一見かけ離れたものを考慮する必要性に目を向けなければならない。
2009年05月27日
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さて、以前、取りあげた事実に基づき、この事実を扱える範囲内で、まずは、全体に正しく光を投げかけ、この事実を実り多いものにする幾つかの事例を紹介する。だから、全てが、その取っ掛かりだけになるとしても、更に時間があればよいが、以前述べたことに続いて、今回は、歯の発達(進化)と退化に関しても、幾らか述べたいが、これは健康な人と病気の人の双方に、多少とも、光を投げかけるのに適している。 以前、議論したような事実は、あまりに唯物論的な意味に解釈されると具合が悪い。というのも、この場合、真に重要なことは、外見的に生じること、いわゆる歯が損なわれるなかに見られる、ある内的なプロセスであり、本質的には、外見的な知覚には隠され、外見的に発生する事項は、内的プロセスの結果であり、その外的徴候に他ならないからである。 歯の形成プロセス全体の理解には、根本的に、一見、歯の形成プロセスからは遠く隔たっているように見える人体組織の別のプロセス(経過)も視野に入れて見ていくことが必要である。 例えば、充分知られている知見を、歯の形成プロセスと結びつけ、正しく考察し、理解し、はじめて正しい評価を下せるような現象と、歯の形成プロセスを結びつけていかなければならない。 充分に知られている現象というのは、全く健康な歯を持っている婦人が、最初の分娩を経た後に、歯がダメになる、という現象である。 この現象から、歯痛や、歯の損失と、生体組織の構成全体との関連を、徹底的に解明できる。更に、歯で起こっていることと、人間の痔疾への傾向との究めて興味深い関係についても、考慮できる。 この事実は全てに関連し、この関連は、人間での、鉱物化の模範的なもので、それがどのように作用するか、他方、それが人体の組織化全体といかに密接に関わり、いわば依存関係を構築し、人間のもう一方の端(対極)との関わりのなかに、いかに現われているかを証明する。 歯の形成プロセスの評価に関しては、実際、次のような否定できない事実に非常に影響を受ける。 「歯の形成プロセスは、外側の、歯肉の外にある、歯のかぶさった部分にまで至り、このプロセスの終結部では、人間の生体機構が鉱物として、実際に外界に委ねられ、そこでは、歯の被膜、エナメル(ほうろう)質のなかのものが、ほぼ完全な形で閉じられ、もはや、栄養摂取プロセスが生じず、いわば全くの非器官的性質となる事実」に影響を受ける。 さて、既に以前、暗示したが、歯形成においては、このいわば形成(上昇する)プロセスよりも、全生涯にわたって絶えず生じる解体プロセスの方が重要である。 しかも、歯の最も外側の部分が発達(進化)するように、人間の生体機構の末端部構築では、内的な組織化がほとんど行なわれない一方で、この内的な組織化が、解体つまり破壊プロセスと関連していることは非常に重要で、この事実からくる次の問いは最重要である、 「人間(人体)での解体プロセスの傾向をいかに遅らせるか」、という問いである。 というのも、この解体が、外からの攻撃だけによって生じると考えるなら、完全な錯誤だからである。この事実は充分に考慮すべきことである。 更に重要なのは、前回、歯の形成に関連して、フッ素の機能について述べたが、本質的に見て、それが幼児期に関連するのは当然で、幼児期には歯の形成プロセスは、まず準備されたなかで内から外に進む。というのも、歯の形成プロセスは、第二の歯(永久歯)が生えてくる前に、生体組織の奥深い内部、全生体組織において準備されるからである。 このフッ素形成プロセスは、いわば歯の表面物質のなかで、フッ素が一種の安定した平衡状態に至り、フッ素がその物質と結びついて、ある意味で静止するような安定状態で、存在することで、その頂点に達する。 しかし、歯が退化すること、歯が破壊プロセスに向かうことで、この静止状態は揺さぶられる。この現象には、歯から発し、フッ素を通じて生じる形成プロセスに関わる精妙なプロセスが存在し、この精妙なプロセスは、生体組織全体を満たしながら、人間の全生涯のために維持され続けるプロセスでもある。 さて、今述べたことは、予防的措置の考慮を生み出す。例えば、以下のことが挙げられる。 「ヴァルドルフ学校(シュタイナーが設立した学校)での教育に取り入れられている、カリキュラムのなかには、子供の健全な発達(成長)に作用する他の予防措置に加えて、ヴァルドルフ学校にくる子供たちの歯が早期に損なわれるのを阻止する予防的措置も計算に入れている」 なぜなら、この人体の末端部ともいえる歯の(フッ素の)条件に関しては、幼児期の正しい教育に左右することが究めて多いからである。残念ながら、実際、ヴァルドルフ学校を通じて、作用を与えることができるようになる時期には、歯の形成の為に、本質的な予防的措置を行うには既に少々遅すぎる、というのが目下の現状(1920年代)で、この予防的措置は、もう少し早く始める必要がある。 とは言え、歯は一度に生えてくるものではなく、徐々に生えてくるもので、内的なプロセスはその後長く作用を続けるので、子供たちを、6歳か7歳になってから預かっても、まだ若干の予防的措置は可能だが、全く充分とは言えない。若干の予防的措置は、ある種の形で実行できるが、それには最初の歯(乳歯)が生えるとき、歯の形成プロセス全体が、どのような性質のものかを、注意深く調べてみる必要がある。
2009年05月26日
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動物の歯列を人間の歯列と比較すれば、この人智学講座の冒頭で述べた(エーテル体の存在)が、動物の歯列にも強く現われていることがわかるだろう。サルの頭蓋骨全体により示した、下方への負荷のことである。 人間の歯列においては、歯列のなかに、ある形で、垂直の作用とでも呼べる力が見られる。この力は、歯が事実、単なる咀嚼器官ではなく、本質的な吸収器官であることを示し、歯は、第一に外へ向かって機械的に作用するが、第二には、内に向かう精妙な霊化された吸収作用があり、この作用に関連している。 そこで、次のように問う必要がある、 「では一体、歯は何を吸収するのか」、と。 歯は、根本的に、できる限り、フッ素を吸収している。歯はフッ素を吸収し、歯はフッ素吸収器官である。 つまり人間は、非常に微量のフッ素を生体組織内に必要とし、フッ素がないと(さて、衝撃的なことを述べるが)、人間は利口になり過ぎる。人間は、あまりに利口になりすぎてしまうのである。 人間は、フッ素が欠乏すると、自らをほとんど破壊しかねないほど利口になってしまう。つまり人間は、人間である為に、すなわち、必要な適度な愚かさが必要で、この愚かさに作用する、フッ素の作用により、利口が和らげられる。 人間は、あまりに利口にならないように、利口への絶えざる対抗手段として、微量のフッ素を必要する。 だから早く、歯が悪くなることは、フッ素作用が損なわれることになるが、これはフッ素を吸収する歯の作用が過度に用いられている事実を暗示し、歯を損なうことを通じて(このような事柄に関しては、もう少し述べていく)、フッ素の愚かさに対抗して、自らを利口にする(助ける)切欠が与えられていることを示している。 つまり、このフッ素作用が、その人を、あまりに愚かにしないように、いわば自分の歯を壊すのである。この究めて微妙な関連に関して考察すれば、あまりに愚かにならない為に、人は歯を損なうのである。 この事実から、人間に利益をもたらす一方の極と、人間に害をもたらす他方の極へと揺れ動く間の密接な関係を見て取れる。 あまりに利口になりすぎない為に、ある状況では、フッ素作用を必要とする。しかし、フッ素作用を強くしすぎることで、自らに害を及ぼす(愚かになりすぎる)可能性があるときは、器官活動を通じて、歯を破壊する。 是非、これらの関係を、よく考察すべきである。なぜなら、これらは、人間の生体組織における究めて意味深い真実に関連する事だからである。
2009年05月25日
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今回は、面白いものをみつけたので、シュタイナー講座紹介を中止して、以下を添付します。http://www.768.jp/ondemand/list/vod.php?vod_id=42どうやら、世界の闇のボスが変わるという話です。もう変わっているのかな?なにかおかしいな、アメリカに日本の金が吸い上げられているぞとは、感じていましたが、やはり、皆さん、騙されていました。ブッシュ親子や影の連中め、お前らは地獄行きに決まった!どうやらブッシュ親子はアメリカを見捨てて(見捨てられてか?)ブラジルに逃亡(夜逃げ)するようです。お前ら、人間じゃねぇ、叩き斬ってやるって桃太郎侍が出てほしいですね。オバマ大統領の前世は、咸臨丸の乗員だったそうです。勝海舟にも会っているのかな?ウイキペディアの南方熊楠の風貌とオバマはよく似ているようです。霊的に近いようです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0このような話は全部が真実とは勿論いえませんが、アメリカの闇の勢力の背後にいるのは、ルシファーであることは、ヒトラーの背後にいた経緯から、わかるでしょう。
2009年05月21日
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唯物論の悲劇は、唯物論が物質の認識から逸れていること、物質の認識を妨げることである。つまり唯物論は、霊性の本来の認識にとって、というよりも、物質のなかにある霊性の認識にとって有害なのである。 霊的な作用は至る処で、物質と結びついている。だから、物質のなかに、霊的な作用を探究できる、という直観が阻まれることで、阻まれてはならない人生に対する健全な直観による洞察が数多く阻まれてしまう。 もし、唯物論者であっても、これまでの考察で議論してきたような特性全てを、物質に帰することはできない。物質に備わる様々な特性を、物質に帰するというのは全く馬鹿げた行為にみえるだろう。つまり、これは、真なる物質認識から逸れているということを意味する。 唯物論の物質認識では、もはや、燐の現象や塩のような現象に関しては、全てナンセンスとみなすので、語ることができない。 物質のなかの霊性の認識から逸れているので、そして、逸れることで、更に、形成作用を的確に研究する可能性からも隔たり、特に、人間の器官が、本質的に、いずれも、二重の課題、1つは意識への方向づけと関連し、もう1つはその反対の方向の、器官プロセスへと向かう二重の課題をもっている、という事実への洞察から離れていく。 人間の器官(意識への方向づけ、器官プロセス) このような見解は特に、更に、これから議論していく分野、つまり歯を判断(診断)する分野において失われてしまった。歯は、いずれも唯物論的に、単なる咀嚼器官と見られている。しかし、歯は単なる咀嚼器官ではない。 歯が二重の性質をもつことは、歯を化学的に調べるだけでも、歯が骨組織と関わる存在として出現することから明白となる。しかし、発達史(進化学)的には、歯は、本質的に皮膚組織から発している。歯は二重の性質を持っているが、ただ、第二の性質が極めて深く潜伏している。
2009年05月20日
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さて、人生においては逆もまた存在する。逆というのは、本来、青少年期のみに展開されるべき器官作用を、(後まで)残しておくということである。主として子供時代や青少年期の為に存在する器官が、全生涯を通じて、使用されることが起こるが、それは本来、弱められた状態で起こらなければならない。でないと有害な結果をもたらすからである。 例えば、究めて多種多様な原因により、精神分析が、今日の人間の思考全体に入り込み、混乱を生む可能性のある分野となった。 大きな誤りというのは本質的には、最も有害ではなく、大きな誤りはすぐに反駁されるからで、むしろ最も有害なのは、多少の真実が混じっている事柄で、なぜなら、そのような事柄は極端にまで押し進められ、誤用されるからである。 精神分析の路線(軌道)上を走る世界観の到来のために、一体何が生じているのか? 止むを得ないとはいえ、人間を外の環境に全く適合させない今日の様々に不自然な生活様式によって、子供時代に人間に印象を与える多くが、消化されずに残る、ということが起こっている。 適切な形で生体組織に編入されないものが魂生活に組み込まれたままになってしまう。というのも、魂生活においての作用全てが、まだ軽い作用でも、持続していき、或いは少なくとも生体組織に対する作用にまで持続するからである。 ところが、現代の子供たちにあっては、魂の印象に留まり続けるほど異常な印象が数多く存在しているわけである。これらの印象が、すぐに器官的印象へと転化することは不可能である。そうすると、これらは魂の印象として作用し続け、人間の発達(成長)全体に関与する代わりに、分離した魂衝動として、存在し続ける。 これらの印象が器官の発達(成長)全体に関与すれば、つまり、上記のように分離した魂衝動のままでなかったら、これらの印象は、後の人生において、本来、高齢期の為にだけ存在し、もはや青少年期の印象を役立てる為に存在するのではない(高齢期の為の)器官を用いなくなる。 (つまり、子供のときのための器官作用が分離し、残されるために、後の、高齢期のための器官作用に干渉してしまう恐れが生じる。すると、俗に精神病と呼ばれる状態が生じてくるという。) このようにして、人間全体において不都合が生じてくる。魂の分離が、もはや、相応しくない器官に作用を及ぼさざるを得ないことになる。 ここで生じるものは、実際、精神分析的方法を正しく適用すれば確認できる現象である。人間を教理問答的に診断すれば、その人の魂生活のなかに、消化されず、消化するには、既に老いてしまった器官の中で破壊的作用をするような、ある事柄を見つけ出すことができる。 しかし重要なことは、この精神分析の道を通っては、決して治療には到達できず、単なる診断に至るだけであるということである。この場合、精神分析を単に診断としてだけで用いるという立場を維持するなら、ある種、正当であるとはいえる。 しかし、適切な順序に則って正しく精神分析が実行される場合に限られる。 例えば、分析者に対する、非難、批判めいた手紙が寄せられ、それらにより裏づけられるような悪事が生じないなら、すなわち、精神分析家たちが、教理問答的診断において、あらゆる可能なことを、患者から強制的に引き出そうとして、患者の発言を、実際、スパイのように監視人さえ使って、あらゆる可能な状況を通じて、監視人によって獲得する、というようなことが生じなければ、という場合に限られる。 このようなことは実際しばしば起こっているので、酷い不正が隠れているのが当然とも言えるほどである。しかし、この点を度外視すれば(実際、このような事柄においては、携わる人たちの道徳的状態が非常に重要である)、次のように言える、 「診断上では、精神分析にも多少の真実が含まれている、しかし、精神分析家がとる道筋においては、治療上の作用を及ぼすことは、決して不可能である」、と。 これもまた時代の現象と関わりがのあることである。
2009年05月19日
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さて、とても容易に表現できる原現象もある。そのような非常に単純な原現象を紹介する。 「両足を水に入れるがよい、すると汝は血液調製の促進力を下腹部に呼び起こすだろう」というものである。 また、非常に指針となる原現象をも獲得する。 「頭を洗うがよい、すると汝は排泄の調整力を下腹部に呼び起こすだろう」。 実際、これらは、非常に教唆の多い原現象である。原現象そのもののなかに法則性、真実が存在しているからである。このような原現象を述べるとき、人間が、原現象の内部に存在する。というのも、人間を考えなければ、無論、このような事実は何の意味も持たないからである。このような事実全てにおいて、人間を考えることに、非常に大きな意味がある。 さて、これらはまた、人間の生体組織における諸力の空間的な相互作用を示す。しかし、時間的な相互作用も存在し、例えば、子供の頃か、青少年期の初めに、間違った扱いを受けた結果、青少年期や子供時代に育成されるべき作用が一生を通じて育成されず、本来は年配になってから育成されるべき作用が既に育成されてしまっているような人を観察する場合にしばしば現われてくる。 実際、人間は、幼少期において既に、自分の生体組織を形成していく、ある力を発達させている。しかし、青少年期に、形成される生体組織全てが、青少年期のうちに正しく使用されるわけではない。 青少年期に、形成される生体組織のある作用は、年配になってから、ようやく活動を始める(器官)組織をとっておく為でもある。つまり、子供の頃すでに、ある器官とでも呼べるものが構成されるが、これは子供時代に使用されるべきものではない。年をとってからでは、もうこの器官を作り出すことができないので、年をとってからの使用の為に、この器官が備蓄される。 例えば、歯が生え変わるまで人間は模倣を通じて、教育される必要があり、更に歯が生え変わってからは、権威という存在が大きな役割を果たすように教育され、育成される必要があるということが、全く考慮されないなら、年を経てからの使用の為に、とっておかれるべき(備蓄されるべき)器官が早い時期に用いられてしまう可能性がある。 今日の唯物論的な思考法は当然、次のように非難するだろう、「模倣を用いるか、権威を用いるかがそんなに大きな意味を持つわけはない」、と。 しかしながら、この事は、非常に重大な意味をもつ。なぜなら、この作用は生体組織のなかで持続していくからである。 子供は、その魂生活全体をもって模倣のなかにいなければならない、ということを考慮しなければならない。例えば、教育する人が好む食物と同じ食物への共感を模倣するように子供を育てることで、子供に食物に対する、ある種の共感を植え付けてしまうことを、考えてみるとよい。 すると、この模倣原理を、この食物への食欲に根づかせ、結びつけることになり、ここに生体組織における模倣衝動の継続が見られることになる。 後の権威(に基づく)生活の場合も同様である。要するに、本来は、年をとるまでとっておかれるべき器官(これらは勿論、精妙な霊的な生体機構だが)が、子供時代に用いられてしまうと、恐ろしいデメンティア・プラエコクス(精神分裂病)が起こる。 (恐らく、極端にいえば、成人後の飲酒や喫煙等の趣向を指すのだろう。成人前の大人と同じ趣向は後に精神分裂病をもたらすという。) デメンティア・プラエコクス(精神分裂病)の根本の原因は、本来、成人後に用いられる器官が、子供時代に用いられることにある。だから、次のように言える、 「適切な教育はそれだけで既に良い薬である」、と。 従って将来、「人智学の観点からの子供の教育」(1)という小冊子で提示したような意味で、教育全体が、人智学から得られる認識に貢献するようになれば、デメンティア・プラエコクス(精神分裂病)も消滅するだろう。(1)「精神科学の観点からの子どもの教育」(1907)は「ルシフェル-グノーシス、論文集1903~1908」(GA34) に収められているが、個別小冊子としても何度も出版されている。最新版は1985年。 「精神科学の観点からの子どもの教育」は、1906年の年末から1907年初頭にかけて、ドイツの諸都市で行った講演内容をもとに、シュタイナーが論文形式に改めたもので、まず雑誌「ルシフェル・グノーシス」に発表された後、単行本としても何度か出版されている。邦訳は「霊学の観点からの子どもの教育」(高橋巌訳 イザラ書房)。 なぜなら、教育を、そのような意味において形成すれば、人間が年をとってからの器官を早期に用いてしまうということ自体が阻止されるからである。この事実は正に、適切な教育に関連して言うべきことである。
2009年05月18日
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意識と無意識との交替が、将来の治療において、役割を果たすようになることが重要である。 というのは、この事実から、例えば、入浴を通じて、人間に作用する物質の独特の作用形式に関して、健全な判断力を育成する術が学べるからである。 外から人間へ作用するものが、その人に冷たい印象を起こすように作用するのか、暖かい印象を起こすように作用するのかでは、大きな違いがある。 冷たい印象を与える場合、例えば湿布や入浴において、冷却作用を行う場合では、本質的に、冷却物質そのものの作用であり、治療を行うなら、治癒的に作用させるように、冷却物質を把握すべきである。 だから、冷たい印象の場合、当の薬剤の物質作用を意味する。しかし、冷却作用ではなく、例えば、温湿布のように、加温作用の場合、物質そのものの作用ではなく、いかなる物質を用いようとそれは大差なく、考慮に値するのは、温熱作用そのものであり、結局、この温熱作用は、いかなる(物質的な)面から考慮されようと同じである。 だから、冷湿布の場合は、湿布に用いる液体、水を様々の物質にどのように浸透させられるかということに、常に注意が払われる。これらの物質を有効に作用させるには、冷水のなかで有効であるときで、つまり、低温度で、物質が溶解しているときである。 逆に高温度で、物質自体の作用を、恐らくほとんど直接引き起こすことができないのは(非常に強い香りを持つエーテル的な物質の場合、事情は異なり、高温でも、その物質の作用が存在するが、このような物質を扱わなければ)溶解し易い固体の物質の場合である。 温湿布の場合、或いは温浴の場合、治癒作用は引き起こせない。対して、硫黄、硫黄的、燐的な物質は、温浴に加えると、逆に、加温の場合こそ、適切な治癒作用を展開できる。 つまり重要なのは、いま提示したような諸関係の洞察方法を、繊細なものにすることである。ここで強調したいのは、いわば一種の原現象(ウアフェノメーン)を設定すれば、それが非常役立つということである。一種の原現象を設定するという方法は、医学等の教育(養成)が、秘儀から発することが多かった時代においては、大きな役割を果たしていた。 当時、物事は理論的に表現されるのではなく、いわば原現象を通じて表現されていた。 だから、例えば「蜂蜜かワインを、汝の内にもたらせば、宇宙から、汝に作用を及ぼす力を、内から強めるだろう」という風に言われた。(「そうすれば、汝は本来の自我の力を強めるだろう」とも言える)。 原現象はいわば、物事を非常に見通しよくする。「汝の体に油性のものを塗れば、汝のうちの、本来の地の力の有害な作用を弱めることができるだろう」、地の力とはつまり、生体組織において、自我の作用に対抗する力である。 「内からの甘い(甘いものによる)(天の力の)強化と、外からの油性(油性のものによる)の(地の力の)弱化の間に正しい割合を見出せば、人は老いる」、 古代人たち、古代の医師たちは次のように言った。 「汝が油を擦り込むことで、油の作用により有害な地の作用を、汝から取り去るなら、また汝がそれを行える状態にあり、汝の生体機構が、それを行うのには弱すぎない場合に、ワインと蜂蜜によって、汝の自我の力を強めるなら、汝は正に、汝を老齢に導く力を強めるだろう」。 これらは、当時、原現象的に表現された事柄である。古代人は、教義を通じてではなく、事実を通じて道を示そうとしていた。この事実に、我々もまた戻っていかなければならない。 なぜなら、このようにして原現象に回帰できると、外界の多様な物質下でも、判断力が養われるからである。何か新しい具体的事象が登場するとすぐに、人を見殺しにする、いわゆる抽象的な自然法則なるものに回帰するよりは、ずっと容易に見識が身につく。
2009年05月14日
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色彩-光療法については、更に、人体上部(頭部の中枢神経)に強く訴えかける、本質的な色の作用と、客観的な存在(物質等)のなかに吸収されて、人間全体に訴えかける光の作用との相違にも立ち入っていくことが特に不可欠である。 人を部屋に連れていき、客観的な色と光で、人を照らすか、または、その人の一部分を、色か光の客観的作用に曝すと、ある器官の作用が、直接引き起こされる。このような器官作用の誘導は、人間を、外から作用誘導するものである。 通常、意識のみに影響する色彩、いわゆる色彩の印象や、色のイメージを、なんらかの方法で、導入すると、つまり、色のついた光で、人を照らす代わりに、その人を、ある色で内張りされた部屋に連れていく場合、また別の作用となり、この作用は、意識に向かって配置されている全器官を通っていく。 この(内的で)主観的な色彩療法の場合、全ての状況下で、自我に働きかけがなされる。他方、(外的で)客観的な色彩療法の場合、物質的組織に働きかけがなされ、まず、この物質的組織を通って迂回してから、自我に作用が及ぼされる。 内的主観色彩療法;直接意識に到達する。 外的客観色彩療法;間接意識に到達する。 だから、「盲目の人たちを、特定の色で内張りされた部屋に連れていっても無駄で、どんな印象も持つことができないから、結局、どんな作用も現われない」などとは、いわないで欲しい。この種の意見は間違っている。 盲目であっても、知覚可能な存在の表面の領域にある知覚可能な作用とでもいえるものが非常に顕著に現われてくるからである。盲目の人を、赤か青で内張りした部屋に連れていっても、その人にとっては、その相違が存在する。 (盲目であっても、内的主観色彩療法は有効であるという。) つまり、このなかに、本質的な差異があり、盲目の人を青い壁の部屋に連れていくと、その人の生体機構全体の機能が、頭部から他の生体組織へと伝播するように働きかける。また、その人を赤く内張りした部屋に連れていくと、その機能の伝播は、他の生体組織から頭部へと向かう。 青い壁の部屋;頭部から他へと作用が伝達 赤い壁の部屋;他から頭部へと作用が伝達 このような事実、つまり、環境を、客観的に彩色する場合、本質的なことは、ある色を他の色に交替させるときに引き起こされる、あるリズムのなかに存在することがわかる。 人を青い部屋に連れていくか、赤い部屋に連れていくか、ということはあまり本質的ではなく、人を赤のなかに置いた後で青のなかに連れていくか、或いは、青のなかに置いてから赤のなかに連れていくか、ということの方が本質的である。この相違が本質的な意味を持っている。 一般的に、頭部の機能の強い刺激を通じて、他の組織を改善する必要があると見られる人の場合、その人を青い部屋から赤い部屋に連れていく。他の生体組織を通じて、頭部機能を改善させようと思うなら、その人を赤い部屋から青い部屋に連れていくのである。この事実は、将来、非常に重要となり、その場合、光療法ではなく色彩療法が大きな役割を果たすだろう。 頭部から他への機能の改善;青い部屋から赤い部屋 他から頭部への機能の改善;赤い部屋から青い部屋
2009年05月13日
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実際、下部人体と上部人体の相互作用、或いは生体組織において、全く離れた位置にあるが、密接に関係している各部分全般の相互作用が、例えば偏頭痛のような場合、特に顕著に出現することがわかる。 実際、偏頭痛は、生体組織の他(頭部以外)の位置にある消化活動が、頭部に移動したものに他ならない。 従って、例えば月経のように、他の生体組織(腹部)を非常に強く用いる場合、偏頭痛として、相応に影響を受ける。このように頭部とは本来関係のない消化活動が生じることで、頭部の神経に、通常の生活では、免除されている負担を被ることについても言及すべきである。 頭部では、いわば規則正しい消化活動のみ、つまり(腹部において、不規則性を除去された)摂取活動だけが生じることで、頭部の神経は(消化の)負担を免れ、知覚神経に作り替えられる。偏頭痛のような無秩序な活動が頭部で起こると、規則的な特徴が、頭部神経から取り去られる。 そのとき、内的に感じやすく敏感になり、内部組織が感受すべきでないものを感じ取ることが原因となって、偏頭痛のような痛みや、このような状態全般が、起こってくる。周囲、つまり外界を知覚する代わりに、突然、自分の頭の内部を知覚するように強いられると、どんな風に感じるか、全く想像に難くないだろう。 さてしかし、この状態を正しく見通すには、偏頭痛の場合、やはり最良の薬は、安静にしてよく眠ることだけだと指摘できる。というのも、普通用いられている薬剤、或いは用いることを強いられる薬剤全般は、本来、有害な作用を及ぼすからである。 通常、よく用いられる逆症療法(アロパシー)の薬を使用すると、この敏感になっている神経器官を麻痺させ、すなわち、その活動を低下させることになる。 確かに、例えば、劇の公演に出演しなくてはならないというような場合、偏頭痛にとりつかれ、出演できないよりは、自分を多少、害する方がマシという考えで、本来、麻痺させてはならない神経を麻痺させることがよくある。 このような事柄において示されるのは、人間の生体組織の精妙極まりなさや、社会的人生に参加するだけでも、しばしば生体組織の素質に背かざるを得ない、ということである。 この事は全く当然だが、決して無視されてはならない。だから、人間の社会的立場を通じても引き起こされる害を受け入れ、場合によっては、更に生じる、その後遺症を完治させる他ない。 結局、この人間の生体機構の精妙さは、更に、事態に即した形で、色彩-光療法へと入っていく場合にも示される。この色彩-光療法は、少なくとも過去に考慮されてきたものよりも、将来、より考慮すべき療法である。
2009年05月12日
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マッサージはある意味を持ち、特に作用を及ぼすのは、人間のリズミカルな活動の調節であり、状況によっては、強力な治癒作用ももつ。マッサージは、主として人間のリズミカルな活動の調節に作用する。 しかし、マッサージの成果を上げるなら、人間の生体組織を知る必要がある。例えば、次のような事実を、考えれば、導ける。人間の生体組織では(動物ではなく、人間の生体組織である)、腕と脚とは大変異なっている、という事実を一寸考えてみればよい。 人間の腕は、重力を免れ、自由に動かせるが、この人間の腕、つまり、この腕のアストラル体は、人間の脚よりも、物質体との結びつきがずっと弱い。人間の脚では、アストラル体は非常に密接に結びついている。対して、腕では、アストラル体は、皮膚を通じて外から内へと作用するほうが多い。 アストラル体は腕と脚とを包み込み、外から内へと作用する。アストラル体は、ある意味、包括作用を行っている。脚と足においては、アストラル体を貫き、意志(自我)が、内から外へと究めて強く遠心的に、放射しながら作用している。この事実により、腕と脚との違いは大きなものとなる。 腕のアストラル体は結びつきが弱い 脚のアストラル体は結びつきが強い その帰結として、脚や足をマッサージするときと、腕や手をマッサージするのとでは、根本的に、全く異なる活動を行う事になる。腕をマッサージすると、そのマッサージは、アストラルを、外から内へと引き入れる。 腕はマッサージによって、通常よりもむしろ意志の道具となり、腸と血管との間で生じている内的な新陳代謝を調節するような作用が引き起こされる。すなわち、腕と手をマッサージすると、血液形成に対して、多くの作用を引き起こす。 足と脚をマッサージすると、物質が表象(イメージ)に応じたものに変化する割合が増し、排泄-分泌プロセスと関連する新陳代謝全体、つまり排泄-分泌プロセスに関連する新陳代謝を調節する作用が起こされる。 腕のマッサージ;血液形成 脚のマッサージ;排泄-分泌に関する新陳代謝 ある場合には、腕からはじまり内部の構築的な新陳代謝領域の方へとつながり、別の場合には(脚からはじまり)解体的な新陳代謝領域への作用へとつながっていく、このようなマッサージの(作用の)継続のなかに、人生組織の、本質的な複雑さを見て取れる。 このように、事実をラツィオ(理念)に則って探究すれば、身体のどんな箇所もその他の箇所とある関わりを持つことがわかり、生体組織との、この内的な相互作用を、適切な方法で見通すことに、マッサージが基づいていることがわかるだろう。 下腹部のマッサージは常に、呼吸活動にも良い成果をもたらすことができる。下腹部のマッサージが呼吸活動にとって、特に良い影響を及ぼすことは、非常に興味深い。 しかも、心臓の下あたりを、直接マッサージする場合、上から下へといくほど、呼吸への影響は強くなり、更に下へと進むと、今度は咽喉の器官への影響を強めることができる。 つまり丁度、人体が逆になっていて、胴体のマッサージでは、下へと進むほど、上に向かって位置する器官が影響を受ける。 これに対して、例えば、腕のマッサージは、胴体の上部を同時にマッサージすることで強められる。この事実は、人体組織のいわば個々の部分の関連を具象的に示している。
2009年05月11日
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提出して貰った質問が、少しずつ登場するのがわかるだろう。ただ重要なのは、これらの質問に、ラツィオ(理念、原理)に則って答える為の土台を築くことである。今回は、以前、急いで立ち寄った内容を引き継いでいきたい。 以前、注意を向けたことは、脾臓の機能が人間の生体組織のなかで、いかに重要であるか、ということだった。この脾臓の機能は、本質的に、意識下の魂生活を制御するものと言わなければならない。 脾臓を、単なる人体の従属器官とみなすなら、人間の本性全体を見誤ることになる。脾臓が、正に非常に霊化された器官であって、脾臓の機能を支持する為に他の器官も脾臓に引き寄せられ、脾臓の機能が、エーテル脾臓により、非常に容易に肩代わりされることで、脾臓を単なる人体の従属器官とみなすような錯誤、誤解が引き起こされる。 しかし、下意識から、意識の方へとより引き上げられた場合に、脾臓の機能は奇妙なものとなることに、納得するだろう。奇妙なことに、脾臓を手掛かりにして、近代において、実際、興味を引く対象となった、ある治療法を観察できる。 特別な点は、ただ脾臓の作用を出発点とするということである。つまり、脾臓のあたりを弱くマッサージすると、人間の本能活動に対して、均衡をとるように作用できることが確認できる。 脾臓の辺りを、そっとマッサージすると、人間はある形で、より良い本能を獲得し、つまり例えばその人に合った食物を、容易に発見できて、生体組織のなかで、その人に役立つ食物や、そうでない食物に対して健全な関係を持つことができる。 とは言え、この脾臓付近のマッサージはすぐに限界に突き当たる。マッサージが強すぎると、忽ち、本能の活動を、逆に、完全に弱めてしまうことになる。従って、まさにゼロ点とでも呼ぶものを、独特に取得し、保持することが必要になる。そっと、マッサージする範囲を、あまり広くしすぎてはいけない。 さて、そもそも、この事実とは一体、どういうことと関係するのか?脾臓をマッサージすると(脾臓の辺りを、という意味だが)、実際、この脾臓の辺りに、普通は、その辺りにないものが送り込まれる。いわば、マッサージされている人の意識が、マッサージ部に投影される。 このように意識を転移させること、つまり、意識を、脾臓に流れさせることで、非常に多くのことが成り立っている。人間の生体組織の、このような精妙な作用の形を、無骨で粗雑な言葉で表わすのは、非常に困難である。 奇妙にも聞こえるが、人間の生体組織のなかで、脾臓、及び脾臓の機能により媒介される、無意識の理知、理性の働きと、人間の生体組織の意識的機能との間には、強い相互作用が存在している。 それでは、人間の生体組織の意識的な機能とは、本質的に一体何なのか? 生体組織において、物質プロセス(経過)が、高次の意識プロセス(経過)に、特に表象(イメージ)プロセス(経過)に伴われる形で生じる場合、生体組織では毒の作用となる。この事実を見過ごしてはならない。 生体組織は、その表象(イメージ)活動を通じて、絶え間なく自らを毒している。この毒する状態は本質的に、無意識の意志状態によって絶えず宥和されている。 脾臓には、この無意識の意志状態の中心がある。マッサージして影響を与えることにより、脾臓を意識で満たすと、高次の意識から発する強い有毒の作用に対抗する働きかけができる。 イメ-ジを伴う、有毒な意識作用に対して、脾臓マッサージによる無意識作用で対抗できる。 しかし、脾臓マッサージは、必ずしも常に(人体)外から行う必要はなく、内的に行うこともできる。この内的作用をマッサージと呼ぶには異論があるかもしれないが、重要なのは、理解にある。つまり、内的な脾臓マッサージは、次のように行うことができる。 例えば、人体を毒す状態に起因する内的器官活動が強くみられる人の場合、主食事(一日の最も正式な食事、ドイツでは通常、昼食)時に、多食しないで、主食事の時には出来るだけ少食し、(間隔を開けて)何度も食べ、一日の食事の間隔が通常よりも、短かくなるように食事を配分することにで、内的マッサージが行える。 この人に、内的なマッサージを行うことで、脾臓の異常な状態に影響を与えることができる。食事活動を、間隔をとって少食に配分することで、内的な脾臓マッサージが行え、本質的に、脾臓の働きに影響を及ぼす。ただ、このようなプロセスに該当する全てに、ある種の難点があるように、この内的マッサージにも無論、難点がある。 というのも、今日のように、慌ただしい時代では、実際、人々は常に(少なくとも大多数の人は)外的な消耗活動に追われ、脾臓の機能は、人間が活動する度に、この外的な消耗活動により究めて強く影響を受けている。 人間は、ある動物とは異なり、地面に横たわり、消化を外的活動により妨げないようにすることで、健康を維持することをしない。動物たちが、本質的に、脾臓の働きを労わっているのは事実である。 文化人等消耗活動の多い場合;少量間食の食事の内的な脾臓のマッサージが有効 人間は、外的、神経症的な、慌ただしい活動のなかにあるときは、脾臓の働きを労わらない。その結果、文化人において、全般に脾臓の働きが次第に大変異常なものになっていく。そうすると、いま少し述べたような手段で、脾臓機能の負担を軽くすることが特に意味をもつ。 内的、外的問わず、脾臓マッサージのような繊細なマッサージに、多少注意を向ければ、無意識を媒介する器官と、意識を媒介する器官との間の関係に関して、いわば素晴らしい示唆が得られる。というのも、それによって、マッサージの意味がわかり、少なくともマッサージ全般の意味の理解が容易になるからである。
2009年05月07日
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