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地球の最初の変容である古土星状態の時、人間は、霊-魂的存在であり、総じて皆同じ肉体を持ち、低次の段階で自らの不死を知り、その肉体を絶えず変化させていた。このような総じて皆同じ形態をもつ状態は、現在の地球紀にも、「ある存在」の中に残され、そのある存在の共同生活は非常に独特で、これを集合魂とみなすと、ある意味で人間より遥かに高次の存在といえる。 この「ある存在」とは、蜂である。蜂といっても、蜂の巣全体を、個々の蜂自身とは異なる状態とみなす必要があり、蜂の巣(個々の蜂ではなく)が、1つの高次な霊的本性を持っている。この蜂の巣の存在は、ある意味、かつての土星紀における低次段階での人間の本性と一致し、人間は再び、地球が進化した金星状態において、高次の段階で、この(蜂の巣の)本性に到達することになる。 (地球紀の次は、木星紀、木星紀の次が、金星紀と、人智学では予定されている。また、日本では、蜂の巣が縁起物として、玄関に飾られるが、この秘教的意味から考えると、明らかになる。) とはいっても、個々の蜂の体自体は、古い土星段階に止まっているが、蜂の巣の魂は、普通の集合魂ではなく(恐らく、他の動物とは異なるという意味)、それ自体特別な存在で、個々の蜂とは霊的に区別すべきで、個々の蜂は、その個体の形態の中に、人間の肉体が土星で行った行為を保管した。 (蜂の行動を研究すると、土星紀の人間の行動が明らかになるのだろう。蜂は温度や熱を基準として活動しているらしいので、土星紀の人間の肉体が、熱「火」からなるというシュタイナーの主張を立証しているともいえる。) 個々の蜂は、外的存在としては、進化が遅れたために、代わりに蜂の巣全体が、高次の霊的意識を獲得でき、その素晴らしい社会構成を生み出した。蜂の巣の霊は、個々の人間の霊よりも高次のもので、今日すでに金星-意識を有している。 (霊能者によると、巨大な霊魂が近づくと、蜂のようなブーンという音が聞こえるという。よく神社などに行くと、聞こえるらしい。悪しき霊能者、特に教団をつくり金儲けするような輩は、この蜂の音を異様に恐れるらしい。恐らく、玄関に蜂の巣を掲げるのは、このような教団の信者や悪霊を撃退する知恵が風俗化したのかもしれない) 蜂の巣は、自らが死すべき運命にあることを知らない霊人の象徴である。この惑星がまだ古土星の火のような状態であった時にもっていた霊性に、地球が後に金星となって再び火のようになる時、高次の段階において、人間は、再度到達する。それゆえ、秘教学では蜂を、熱-存在、あるいは火-存在と呼ぶ。 ここで現代の科学が、殆ど言及できない、ある平衡状態を指摘するのは興味深い。今日の人間は、この土星状態から自らの中に、熱、つまり血液の温度を受け継いだ。当時土星全体に分布していた熱が、ある意味、土星から自らを解き放ち、今日の人間と動物の温血(体温)を形成した。 蜂の巣の温度を調べてみれば、人間の血液とほぼ同じ温度であることが、判明するだろう。つまり、蜂の巣全体が、人間の血液の温度に相応して、同じ進化段階に戻るように、温度を展開している。このようなわけで、秘教学徒は、蜂を熱(火)から生まれた存在、つまり熱-存在と呼ぶ。同様に、蝶を空気(風)から生まれた存在、つまり空気(風)-存在と呼び、また魚を水(海)-存在とし、蛇を土(大地)-存在と呼ぶ。 蜂-熱(火)、蝶-空気(風)、魚-水(海)、蛇-土(大地) これらは4大元素霊をも意味する。 以上のような言及から、神秘学的象徴や記号が表現するものが、地球と人間の進化史と深く関わり合っていることがわかる。
2009年10月30日
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秘教学徒にとって、蛇の象徴は、月から進化した地球の象徴で、一方、魚の象徴は、太陽から進化した霊的存在たちの象徴である。固体的実質を備えた地球は、蛇に、その最下等な存在、つまり、地球上の固体的な存在を象徴化した。水の実質として、純粋な水として分離された存在は、魚として現れ、魚の中に象徴として示され、秘教学徒にとっては、魚は水から生まれた存在として考えられる。 魚は、高次の太陽霊の存在であり、水(液体)の象徴、対して、蛇は古い月から進化した地球の象徴で、固体、いわゆる土の象徴なのである。 さて、それでは空気から生まれた存在、火から生まれた存在とは何なのか? これは追求が困難な領域で、暗示的事項をまとめることしかできない。 地球が、土星状態から太陽状態へと進化して移行した当時は、人間は一種の空気人間で、今日の意味での死というものを人間はまだ知らずに、人間は自らを変容させていた(空気の循環のようなもの)。人間が、どのようにして今日のような死についての意識に到達したのかは、地球の進化と関わっている。 地球が土星状態から太陽状態へと進化していった時、人間の魂は、太陽を取り巻く大気圏内に活動していたが、下方にも肉体として存在するものとも関わりを持っていた。今日では、夜、眠っている間、アストラル体は物質(肉)体から抜け出てはいても、物質体に属しているように、古太陽と、古太陽上においても、アストラル体はそのような状態だった。 ただ、当時は、人間の魂は決して物質(肉)体の中に入り込むことはなかったという点で、土星紀も太陽紀も事情は同じだった。太陽紀の初期には、肉体は下方にあり、上方には、魂として、下方の肉体に属し、肉体を支配していた。つまり、霊的な意識をもった1つの魂が特定の肉体に既に属してはいたが、外から肉体を管理していた。 魂は肉体に対して、まだいわゆる「外的な存在」で、肉体はまだ死の法則に属さず、成長と死滅は今日の場合とは違う形で起こっていた。肉体が、ある部分を失うと、新しく再生され、今日では、それは例えば空腹と食物摂取の関係のように、物質(肉)体の崩壊と再生の関係が生じた。 肉体はめまぐるしく変化するのに、長期にわたって魂は変わらずに活動を続けるので、当時は、死もなかった。このようにして地球が古太陽の状態のとき、つまり、下方の肉体を、上方の魂が自分のものとみなしたときから、魂が、ある特定の肉体を形成し、更に別の様々な形に、作り変えていくように変容[変態]させてきた。 最初に、ある一定の形態の肉体が形成され、魂がこの形態を別の形に変化させ、更に別の形、そして最後は、第四の形に、という具合に続き、再び最初の状態に戻った。 その肉体の変化の間ずっと人間の魂は同じ意識を保持し、4つの変容を続け、第一の形態から、他の3つの状態を体験した後、再度、最初の第一の形態に戻ると、魂は新たに受肉し蘇ったように感じた。このような進化の変容プロセスは、地球紀のいまでも蝶において保持されている。 蝶は、卵、幼虫、蛹、蝶という4つの形態で変態し、蝶は、古太陽上での、空気状態の人間を表す象形文字、記号である。太陽紀とは全く異なる環境に生きている今日の蝶は、勿論、この太陽状態の衰退(退化)した形である。 蝶は、人間が乗り越え進化してきた空気状態の象徴である。だから、蝶は、秘教学においては、空気(風)-存在と呼ばれる。同様に、蛇は土(大地)-存在、魚は水(海)-存在と呼ばれる。しかし、なぜ、鳥が空気(風)-存在と呼ばれないのかは、いつか機会があれば述べたい。 (これらの象徴の意味を知れば、歴史的な人間の理念を知ることができる。例えば、古代エジプトでは、ワニが崇められたが、これは、蛇という土の存在から、魚という水の存在に進化した象徴であることがわかる。また、童話や神話の人魚伝説は、この古代エジプトの象徴と同じで、実際に、人間の進化過程で、ワニ人間の状態があったことも示唆している。 つまり、太陽の高次の存在の救いのおかげで、人間は、邪悪な蛇から、純粋な魚に進化できたわけで、土から水に棲むようになった爬虫類や両性類が、太陽霊、いわゆる太陽神を崇める象徴となったのである。 日本でも亀が長寿の信仰対象になっているし、戦国武将が、蝶を模した兜などを身につけていたことでも、この太古の隠された意味が明らかになる。)
2009年10月29日
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聖書の第一章『創世紀』に見られる蛇の象徴は、ローマの地下納骨堂(カタコムブ)では、様々な魚の徴(しるし)として見られ、伝統によれば、この魚の象徴は、キリスト者、或いはキリストを象徴する。このような象徴について空想を巡らせて、独創的事項を多く見つけることができても、やはり単なる推測に過ぎないものとなるだろう。 人智学徒は、事実や実体のみを扱う。これらの象徴も、霊界から与えられた。この蛇と魚の2つの象徴に次から述べるような真実が含まれている。 再度、地球は、人間と同じ受肉を辿ってきた事実を思い浮かべる。人間の形姿は、その異なる地球の受肉期、つまり、古土星紀、古太陽紀、古月紀を通して、既に存在していたが、人間の自我は、地球紀になって初めて獲得された。 この地球がまだ最初の受肉状態、つまり、まだ(古)土星であったとき、当時はまだ岩石や耕作可能な土地のようなものは存在せず、人間の物質的な肉体は、非常に精妙な状態でしか存在できず、徐々にゆっくりと多大な年月をかけて濃密になり、ようやく現在の筋肉の形態をもつようになった。 今日の周囲の物質を観察すると、固体、液体、気体といった物質の様々な状態があり、秘教学では、固体状の物質全てを「土(大地)」と呼び、地上の水だけでなく、液体状の物質全てを「水」と称し、気体状、ガス状の全てを「空気(風)」と称して、理解し表記している。 更に精妙な状態があり、これは「火」のことで、今日(1907年)の物理学者は認めないが、「火」すなわち「熱」を、秘教学徒は、実際、土、水、空気と比較できるものであり、ただこの3つよりも、更に精妙な状態であるということを認めている。 火、すなわち熱を感じとる場所では、空気よりも更に精妙なものが存在し、熱より、精妙な状態を描くなら、光(霊光)に至る。秘教学的な意味で、土、水、空気とみなせるものは、(古)土星上にはなかった。 これらの(波動が)固定した有形の状態は、太陽紀、月紀、地球紀となり誕生した。(古)土星上で最も濃密な状態は、熱、或いは「火」で、この火の中に、人間の肉体が生き、それは一種の反射像で、土星を取り巻く環(土星状態は常に環をもつ)は、元々、火の鏡像の反射されたもので、火の分泌である。 (古土星の環が、人間の肉体を反射して形成したという) (古)土星から(古)太陽へと移ると、火に空気が加わり、太陽上で最も濃密な状態は空気となった。それは一種の空気太陽だった。太陽上で人間は、空気の存在であり、その時にエーテル体が注入され、空気の存在以外他の存在は何もなかった。 これらの、いわば空気人間は空気のように「透過できる」存在なので、身体を突き抜けていくことができ、さながら、現代の蜃気楼(ファータ・モルガナ、ミラージュ)と比較できる。それほど、太陽人間は軽くフワフワしていた。勿論、この太陽上の空気の存在は、今日よりも濃密で、後の(古)月上でようやく、濃密な水の状態が生じ、この月上の生命体は、全て水の凝縮によって形成された。 今日でも見ることのできるクラゲなどの軟体動物が、このような水-存在のイメージを与えてくれる。当時の物質的な肉体全ては、このような性質をもち、この種の肉体が、自らの内にアストラル体を受容できた。進化はゆっくりと段階的に先へと進んできた。 このように、人間と地球は、いわば運命共同体のように関わり合い、人間は自らの惑星に属している。月紀の終末には、ある種、液体状の部分が十分に濃密となり、その結果、芝、泥土もしくはホウレンソウのような割と固定した地盤が形成された。濃密度を最も強めた部分は、現在の植物の樹の木質部に似ていた。 それから(古)月は変容し、現在の地球になった。更に、固体状態や、鉱物状態が、そこに付け加わった。外的な(肉体の)鞘は固くなり、それに応じて徐々に、あらゆる存在が濃密に固くなった。段々と、人間は肉の存在に進化した。まず土星では熱の存在であり、太陽では空気の存在となり、月では水の存在となり、最終的に地球で肉の存在になった。 この惑星進化の意味を考察すると、(古)土星上で、物質(肉)体の萌芽・原基がはじめて形成され、(古)太陽でエーテル体が付加され、(古)月ではアストラル体が付加されたが、月上では更に別のことが起こり、(古)月が二つの天体、すなわち一種の精妙になった古い太陽と、それ以外の本来の古い月という2つに分離した。 当時、古い月上に残った人間は、基本的に今日の人間よりも遥かに劣った、低次の進化段階だった。というのも、この古い月上では、アストラル体が荒れ狂う激情に溢れていたからで、ずっと後になって、地球と共に、自我が付加されてからようやくアストラル体の浄化が始まった。 そのためには更なる惑星進化が必要で、地球紀が始まったとき、邪悪な月の人間が、再び高次の太陽存在と合体し、古い月と太陽という2つの天体が再び1つになる必要があった。分離した太陽上に生きていた高次の存在たち(エロヒム)は、自らの進化を続けるには、邪悪な月を放逐する必要があった。 しかし、高次の太陽存在が月から離れたその結果、今度は、この月上に残された邪悪な存在が、月上でありとあらゆる様々な衝動を孕んだ密な塊になり、更に固化してしまったので、月と共に追放された悪の存在全てを再び救済する必要が生じ、そのため、太陽は再び月と一体化する必要性が生じた。 もし、この太陽と月とが再結合せずに、両者が別々に進化を続けていたら、人間は、決して今日のような形態を保つことができずに、太陽存在も、現在ほど、進化を遂げることもなかっただろう。古い月が独自の道を進んでいたら、つまり、太陽との合一によって、新たなる力を創造できなかったとしたら、月が生み出す最高の存在は、恐らく今日の蛇のような存在だった。 一方、高次の太陽存在が、もし単独のまま進化すれば、非常に霊的なために物質体を持たず、最低次の構成要素としてエーテル体を保持していたので、太陽上の最高の存在は、魚のような存在に到達できただろう。 魚の形態は、人間より遥かに高度に進化した存在たちの外的な現れ(形態)である。ちょうどそれは、現在の魚の集合魂[グループ・ソウル]が、実際、非常に高次な存在であるのと同じで、その外的な形態と、魂とは、全く異なる。 このように古月は太陽に再び帰り、そして後に、地球は、邪悪な全てを持ち去った現在の月を放出した。こうして地球の存在が、蛇段階を乗り越えて人間段階へと自らを発展させる事が可能になった。蛇を克服して自らを高める力を、地球の存在に与えたのは太陽の存在達であり、この高次存在における太陽状態の物質的な純粋さが、魚の形態に表現されている。 というのも、この魚の姿が、古太陽存在たちの性質が到達し得た最高の物質形態であるからである。 このようなわけで、太陽紀の力全てを、地球紀に受容した太陽の英雄キリストは、魚の徴(しるし)によって象徴される。 このような深い直観に基づいて、秘教的キリスト教が、魚の形態の意味を保持していたことがわかる。なぜなら、魚の形態は、秘教的キリスト教にとっては、太陽の力、キリストの力の外的な象徴だからである。確かに魚は外的には不完全な存在だが、魚は、それほど深く物質の中に降下しないので、利己主義にはほとんど浸透されない。
2009年10月28日
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前回述べた事実を、正しく心に受容できたら、アトランティス時代末期に生じた出来事、つまり、大洪水が起きたことがわかる。その没落が起こった時代に目を転じれば、この時代には、まだ今日のような空気がなく、空気の分布も水の分布も、現在とは全く異なり、濃い霧がアトランティス大陸を取り巻き、霧が雲に凝縮し、流れ落ちる雨となって大洪水が陸地に溢れるようになった。 このアトランティス大陸の沈没は、一瞬の短期間のうちの出来事のように生じたのではなく、徐々に生じて、何千年にもわたって、段階的に起こった。 外界(環境)の生活状況の変化に伴って人間自体も変わり、それ以前のアトランティス時代では、濃霧に覆われていたために、一種の霊視により知覚していた人々が、雨の嵐が降り始めるような末期において、次第に全く新しい生活様式や、新たな知覚や、新しい意識感覚に慣れる必要性が生じ、それに馴れるために、人間の肉体も変化を免れなかった。 実際、アトランティスの初期の人々は、今日の人間とは、驚くほどあまりに異なっていたので、もし、アトランティス人の姿を見たなら、現代人は度胆を抜かれるだろう。とはいっても、このような肉体の変化は一度に起こったのではなく、少しずつ形成されてきた。 人間の魂の力が長期間に渡って人間の身体に働きかけ、まず人間は、建築様式を見て、それが心情に作用し、更にまた、この心情が後世において、人間の顔相、顔付きに作用するようになるというプロセスにおいて進化してきた。 (シュタイナーにいわせると、アトランティス時代は、いまから約1万年前で、数百万年も続いたという。) アトランティス時代から、ポストアトランティス時代(我々の時代)への移行期になって初めて、人間の魂が自ら形を変え、それに続いて、魂に調和するように肉体も作り変えられた。 この移行を更に掘り下げる。オカルト(秘教学)により、古代アトランティス人をイメージすると、アトランティス人はまだ霊視的な意識を有し、この霊視能力は、生活環境、つまり霧に満たされた大気と関連していた。 この環境では、外界の対象物は、明確な輪郭の境界をもってみえず、色彩像や、色彩の波が、入り乱れ氾濫するように浮かび上がりながら、徐々に輪郭が現れ、七色の虹の輪が周囲を巡りながら、霧の中の街燈のように霊的に感知され、人間の霊能力も、その環境に応じて発達した。 自分に近づいてくる(物的な)対象物の代わりに、アトランティス人は1つの光の形態(フォルム)を知覚していた。例えば、青は愛、赤は熱情、怒りなどという具合に感知し、当時のあらゆる人間の魂の能力が、このような色彩で広がり、その人を取り巻いていた。もしこのような状態がずっと続いていたら、人間は決して現在の肉体を獲得できなかっただろう。 水から大気が解放され、この過程が何千年も続き、対象物が輪郭をもって次第にゆっくりと明確に現れてきて、現在のような境界を形成するようになったとき、人間の魂が新たなイメージを受容すべき時期が到来した。そして、このイメージに従って、魂は自らの肉体を形成した。というのも、人間は、考えたり感じたりするものに従って、自らの肉体を形成するからである。 善きイメージから善き肉体が形成されるので、古代ギリシア人は、健全な肉体は健全な精神から形作られるといった。 このように、人間の魂は、アトランティスの水の大気から救い出されて、新たなポスト(後)アトランティスの澄んだ空気に満ちた環境に移行したとき、肉体を今日の形に作り上げるために、人間の魂は、後に形成されるべき肉体に見合った、特定の長さや幅や深さを備えるような1つの形態(フォルム)に囲まれる体験が必要であった。 これが聖書に記述されたノアの箱舟によって実際に人間に与えられた形態だった。 オカルト(秘教学)主義の気分がゴシック様式の大聖堂の形態から形成され、そのことから後世の人間の顔つきが形成されたことを霊視者が確認できるように、古代アトランティス人の肉体は徐々に形成し直された。 これは当時の人々が、偉大な秘儀参入者(ノア;ノアとは1人の人物ではなく多数の魂の意である)の影響の下に、聖書が、ノアの箱舟を記述する寸法に従って、建造された住居の中で、実際に生活していたことにより、後世の肉体が形成された。 (ノアの箱舟の寸法が、肉体にそのまま現れ、肉体の寸法が、ノアの箱舟の寸法の証となる。) 古代アトランティス時代の生活は、一種の水-海上生活で、多くの人々は水上の舟で生活し、次第に陸上での生活に慣れていった。というのも、古代アトランティスは、水を含んだ霧の大気に囲まれただけでなく、アトランティスの大部分は海に覆われていたからである。人々は肉体を今日のようなものに作り上げることができるように、このような舟の内部で生活していた。これがノアの箱舟の秘密である。 聖書から再び秘教的な深い意味を読み取ることに通暁すれば、この古文献には、限りない叡智と崇高さの輝きが溢れていることがわかる。自らを、聖書に深く浸す時、無限の叡智と荘厳が、このような始源の記録を取り囲み炙り出す。 人間の魂は、自らの皮膚(肉体)のなかに閉じ込められるイメージを獲得しなければならなかったので、人類は舟上で生活した。このように秘儀参入者たちは、何千年にもわたって人間の育成に作用を及ぼし、宗教的古文献のなかに遭遇する記述は、正しく深く秘された真実から取り出された。
2009年10月27日
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前回は、ノアの箱舟の高さ、幅、長さの比率のなかに、人体の比率が表現されていることを指摘して終わった。 これからは、聖書(モーゼ第一書『創世紀』第六章第十五節)に言及されている、この箱舟の意味を理解するために、人間を救出するこの乗り物が人体の寸法のある一定の比率を取る意味を明らかにするだけでなく、ノアの物語に暗示されている実際の出来事が起きた時代へと人類の進化段階を心に提示していく。 オカルティズム(秘教主義)に関してなんらかの理解に達した人間が、外界に、ある事物をつくりだした時は、必ず人間の魂の育成のために極めて明確な目的と意味が、その事物に関連していた。中世初頭に起こり、西から東ヨーロッパに向けて広がった、全く独自のゴシック建築の教会と大聖堂をみると、ゴシック建築の教会が確固たる顕著な建築様式の理念を持つことがわかる。 ゴシック建築の理念は、2つの部分からなる独自のアーチが、上方に向かって次第に細くなり、先の尖った一点で結合され、全体的に上方を切望する気分として溢れ、支柱が一定の形態をとることで、そのような雰囲気を、建物全体に満たしていることに現れている。 このようなゴシック大聖堂が、外的な用途や必要性、或いは装飾や芸術を表現したり、意味したりするような神の家をつくろうという、単なる憧れの類から生まれたものと主張するのは全くナンセンスである。ゴシック様式の基礎になっている事実は、遥かに深いもので、世界に、ゴシック建築物の最初の理念を提示したのは、オカルティズム(秘教学徒)のアデプト(秘儀参入者)だった。 この人類の偉大な指導者たちは、このような神の家の建築物、建築様式を生じさせることに、特別な意図をもち、ゴシック様式や、ゴシック式大聖堂や教会に、足を踏み入れる人には必ず、極めて顕著な魂の印象が呼び起こされるように創意を施した。 聳え立つ支柱群を備え、独特のアーチからなる高く湾曲したドームの内空間は、樹木が森に生い育つように、まるで一種の苑に踏み込んだような印象を受ける。こうした神の家に立ち入ることは、魂に対して、例えば普通の家屋やルネサンス式丸屋根やロマネスク様式の丸屋根を備えた建築物の中に入っていく時とは、全く異なった作用を及ぼすようにした。 このような形態から極めて顕著な作用を生み出すという事実を、勿論、人間は意識せずに、無意識の内で行われるので、自分の魂の中で何が生じているのか、理性的にはっきりと分からないので、その時生じる作用は、その周囲の状況に応じて、非常に変容を遂げる。 多くの人々は、現代の唯物主義は多くの唯物主義的著作が読まれることに由来すると思っているが、オカルティスト(秘教学徒)は、その影響がそれほどではなく、日頃、眼(視覚)からの影響の方が遥かに重要であることを知っている。 というのも、視覚からの影響は、多少なりとも無意識糧に進行する魂のプロセスに浸透するからである。これは顕著に実践的な意味があり、人智学がいつの日にか魂を支えるようになった暁には、この実践的な効果が、公共生活においても注目されるようになるだろう。 中世においては、通りを歩くとき、今日とは全く異なった魂への作用があった。道を歩くと、左右のどの玄関(正面)にも、その家を作り上げた人の銘が刻まれ、人々の周囲にある、どの対象物、どの戸錠、鍵、鍵穴の意匠の一つ一つにも、その製作者の魂の刻印があり、一人一人の製作者の自らの感情の体現から作り上げられていた。 これら一人一人の製作者が、一つ一つに対してどれだけ喜びを感じていたか、その中に自分の魂をどれほど注いでいたかをはっきりと感じとれば、どんな物の中にも、作者の魂の一部が存在し、そのような魂が宿った創作物に囲まれると、通行人にも感動や、共感を呼び起こし、魂の力が活性化された。 今日の都市と見比べ、今日の街の通りのなかに、魂が宿っているかと問うなら、例えば、靴屋、瀬戸物屋、肉屋、居酒屋等のなかの、ある広告のデザインが、魂にどんな成果を生むかを考えてみると、ゾッとするような、総じて内的な魂の経過とは無縁のものが多く、それら宣伝や広告は外(唯物)的な人間だけに関係するに過ぎないことに気づかされる。 このようにして唯物主義に傾くように、魂の諸カが強化され、こういった唯物的影響は、唯物主義の教義より遥かに強力に魂に働きかける。このような影響に、現代のあの身の毛のよだつ広告術が加わり、意識下の最も邪悪な魂の諸力を目覚めさせるような、オゾましい不吉な生産物の大海を、多くの人が漂い、まるで彷徨うような幻覚を生じることさえ考えられる。 現代の漫画や雑誌も同様である。オカルト(秘教学)的な教育術は、視覚が人間の奥深くに影響を及ぼすということに、注意を喚起せずにはいられない。いま述べている事実は、このような現代的な風俗に反対する狂信的な主張ではなく、単なる事実の指摘に過ぎないが、このような堕落し退廃した社会環境、芸術(形式)が、邪悪な方向に導く力の流れを人間の魂の中に注ぎ込み、人間を、ある方向へと導いていく時代を決定する。 結局、人間がいまどのような形式の世界に生きているかによることで、将来の人間の魂が、どうなるのかを知る必要がある。オカルティスト(秘教学徒)は、どれほど多くのものが、人間の生きる形態の世界に依存しているかを知っている。 中世の中期にかけて、ライン河沿いに、キリスト教神秘主義と呼ばれる、注目すべき宗教運動が起きた。その運動は、マイスター・エックハルト、タウラー、ゾイゼやロイスブルークらの「坊さん(プファッフェン)」と呼ばれた霊的な指導者たちと密接に関連しながら、起こった。この運動は、人間の感情的な深まりにおける法外な深化と内面化の強化を生み出した。 というのも、このような説教者が当時は、孤立せずに、信仰篤い聴衆とともに暮らしたからである。12、13世紀には、坊さん[Pfaff]という名称は、今日とは異なり、まだ幾分尊敬の意味合いを集めていた。かつてプラトンは「偉大な坊さん」と呼ばれた。このような偉大な魂から、非常な深化が人から人へと伝わっていったために、ライン河は当時「ヨーロッパの偉大なる坊さん横町」と呼ばれていた。 この人間的心情の偉大な深化や内面化、そして様々な神的な存在の力との親密で内的な結合を探求していた、敬虔な魂の感情こそが、天に聳えるアーチや、円柱、支柱群を備えたゴシック大聖堂で育てられ、教育されたものだった。ゴシック建築を見ることは、それほど強力に作用した。人間が見るもの、周囲の環境から、魂に注ぎ込まれ、内部で1つの力となり、この力と調和して、人間は、次の受肉に至るまで、自らを形成する。 人間の進化を背景として、今述べた事実を魂の前に描いてみる。オカルト(秘教学)によると、ある時代の建築様式が、秘儀参入者の偉大な理念から生み出され、その建築様式を世界へと流入させ、建築物が建てられ、当時の人間の魂に作用した。人間の魂は、この建築様式の中に生きる霊力を、自らの内に幾らか受け入れる。 建築の形式、例えばゴシック様式をみることで、魂に受容された霊力は、魂の気分の中に現れ、至高の存在を見上げるような、情熱的な魂として表現される。ゴシック様式のなかに生きる霊力やゴシック建築の形成力を、自らの内に受容した人間の数世紀後、いわゆる約一千年先の、つまり次の受肉(転生)を追求してみると、その人相や顔つきに、その内的な心情の顕現が示されることがわかる。 その道程は、いま描いたものと全く同じとは限らないが、類似の効果が、しばしば人間の進化に姿を現してきた。人間の形姿全体が、このような印象を通して形成される。何千年前に築かれたものが何千年後に、人間の顔付きとなって現れ、人間の魂が人間の顔を作り上げる事実を通して、何故このような芸術が起きたのかが分かるようになる。 秘儀参入者は、遥かに遠い未来を予見(預言)し、人間がどのようになるべく意図されているのかを見て取れる。そのため、秘儀参入者は、ある特定の時代に、大規模に、外的な建築様式や、外的な芸術形態を生み出すが、このような形で、人間の魂の中に、未来の人類の時代のための萌芽(種子)が蒔かれる。 秘儀参入者の理念の提示 →建築物等の形式 →魂への受容 →内的な心情の顕現 →次の受肉での人相や顔貌形成
2009年10月24日
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アトランティス時代末期に思いを馳せてみる。当時はどんな状態だったのか。人間はまだある種の霊視力をもち、周囲の魂的状態を知覚していた。アトランティスの大気は水蒸気で飽和し、再度、この厚い霧の大気、水蒸気を沢山含む濃密で重い液状の大気を思い浮かべると、太陽や星々、周囲のあらゆる対象物は、当時の厚い液状の大気中では、はっきりとは知覚できなかっただろう。 このような状況では、虹はできず、不可能な存在だった。濃く重い大量の霧に覆われていたので、北欧神話では、このニヴルヘイム(霧の国)について語っている。徐々に、大気の中に大量に広がっていた水蒸気が凝縮していき、「かくて大洪水が地上に降り注いだ」。 この大洪水は、濃密な大量の霧が水へと凝縮し、降水、雨となって落下したという事実を意味している。大気から水が分離されたことで、大気は透明感が増し、それに伴って、今日のような視力が形成されてきた。そして、人間は、周囲の対象物を外的に見れるようになって初めて、自分自身を見ることができた。 さて、人間の肉体は深い意味を持つ規則性を沢山特っている。そのうちの一つに次のようなものがある。 もし、例えば、高さ、幅、長さが、3:5:30の割合の箱を作るなら、その箱の長さは身長に対応し、高さと幅も、肉体の均整に対応するという肉体とその箱の比例関係を発見するだろう。換言すれば、先の数字の比率から、規則的(正常)に組織された肉体の比率が与えられる。 アトランティスの大洪水から出現した当時の人間の、肉体の比率は、先の3:5:30の比率に対応していた。この事は、聖書において、次のような言葉で美しく表現されている。 「そこで神はノアに命じて、長さは三百キュビト、幅五十キュビト、高さ三十キュビトの箱舟を作らせた。」(モーゼの第一書、創世紀六章十五) ノアの箱舟のこのような測定比は、人体(肉体)の調和(バランス)の測定比を正確に示している。それゆえにその理由を解明すると、このような聖書の言葉の意味を更に深く知ることになる。 神秘学の記号や象徴は、事物の本質そのものから取り出されたものであり、従って、それらを通じて、人間がいかにして霊界の関係を洞察できるかを示すものなのである。 (この比率の、3:5が、黄金比「1:(1+√5)/2」に近い数値となる。 黄金比は、貝殻の螺旋構造の解析によく使われているが、ここでいわれている比率の、3:5=1:1.666…からはじまり、フェボナッチ数列のように、次第に、その割合が、黄金比の、1:(1+√5)/2=1:1.6180339に近づいていくように、自然や宇宙の発展が進展していくものと思われる。 貝殻の螺旋模様が、宇宙での天体の螺旋運動を、表しているなら、天体は、霊的な中心点を、3:5の比率から、黄金比に向かって、進んでいるように考えられる。 また、五角形に対角線を引くと、その線分は互いに黄金比に分割する関係をとるが、これは五芒星のエーテル体の解説から、人体の黄金比率が、エーテル体の五芒星の主要な流れから構成されることでわかる。読者には既にお分かりのことだろうが、なんのことはない、ノアの箱舟とは、人間の肉体のことなのである。 神秘学では、宇宙のマクロコスモスに対して、人体をミクロコスモスと呼ぶことは、この黄金比との関係からも、理解できる。)
2009年10月23日
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さて、音楽の和音が物質的に生じるのは、異なる弦が異なる速度で運動を行うという事実によっている。個々の弦の運動に応じて、高音や低音が響き、こうした異なる音が溶け合い調和して、和音が生まれる。物質世界での、弦の振動から音楽的な印象を受けるのと同じように、神界での霊聴段階にまで参入した人間は、天体の運動を音楽として聴くことができる。 様々な惑星のそれぞれ異なる運動速度の比例関係により、宇宙に鳴り響く天体の音楽のハーモニーの基調音が生まれる。 このように、ピタゴラス学派が、天球の音楽について述べていることは、真実なのである。霊聴能力を獲得した人間は、天空の音楽を聴く事が出来る。例えば、非常に薄い金属板に、微細な粉末をできるだけ均等に広げ、金属板の縁をヴァイオリンの弓でこすると、ある一定の線状のパターンを粉末が形成し、あらゆる種類の図形が音のピッチに従って形成される。 音が物質や素材の配置を生み出す。これが有名なクラドニー図形である。天体の霊的な和音が宇宙に鳴り響き、様々な惑星をそれぞれの関係にハーモニーとして組織づけた。宇宙空間に広がって、みえる天体を、神の創造する音が配列させた。この神音が宇宙空間に響き渡ったという事実を通して、物質が、一つの系へと、太陽系へと、惑星系へと自らを形成した。 だから、「天球の音楽」という表現は、比喩ではなく、真実であることが分かるだろう。それは現に存在する実在のものである。 (恐らく、霊視段階だけでなく、霊聴段階まで進んで、天空の音楽を聞くことができる人間を、観音様と呼んだのではないか?) さて別の事を考察してみる。人智学徒なら、現在の地球が、幾つかの進化段階を経てきていることはよく知っている。遥か過去、地球は火で溶解した液体状態だった。今日の鉱物や金属は、今日の製鉄所で液状に流れている鉄のように、当時は、液状で流れていた。 それなら当時、いかなる生物も生存できたはずがないという反論があるだろうが、その反論は成立しない。なぜなら、当時の状態に、人体は適応していたからである。当時の人間の肉体は、今日の溶鉱炉よりも高い温度でも生存できた。この地球の火の時代(レムリア)に続いて、アトランティス時代と呼ぶ水の時代がやってくる。人類の祖先は、今日大西洋[アトランティック・オーシャン]の海底となっている大陸に住んでいた。 (余談だが、火の祭りが多い民族は、レムリアの末裔なのではないかと思う。また、サウナとか、熱い水蒸気を好む民族は、アトランティスの末裔なのではないかとも思う。) 当然の事だが、こうした人間の始祖は、現在の人間とは全く異なった組成であり、むろん、視力も異なり、ある意味で、霊視ができた。アトランティス人の進化においては、この霊視に様々な段階があり、アトランティス末期の最終段階の霊視は、いわば高次の霊視段階の名残(余韻)だった。例えば、アトランティス人は現代人のように、空間で限定された外的な対象物を、アトランティス末期になってようやく見ることができるようになった。 それ以前、アトランティスには水を含んだ大量の熱い蒸気が充満していたので、対象物は、空間的に明瞭な輪郭をもって区切られていなかった(例えば、ミストサウナのような熱い蒸気内での視覚のような感じ)。このようなアトランティス時代の進化の初期においては、知覚の方法が現代とは全く異なっていた。 例えば、アトランティス人が、対象物や人物に近づくとき、最初に見たのは、対象の輪郭やその人物の骨格ではなく、むしろ外界とは何の関係もない、その対象の内的な魂の状態を反映する色彩像が、アトランティス人の内に浮かび上がった。 その色彩像は、その対象の人物が、当人にとって有益なのか、危険なのかを語るもので、例えば、復讐の感情なら、それに応じた赤い色彩像が示され、当人はその場から走り去った。もし、野生の獣が近づいてきたら、同様に識別し、危険を回避できた。 アトランティス人は、自分の周囲の魂の状態を、この進化の最終段階の霊視により知覚していた。その霊視状態から、今日の視力が徐々に発達してきた。非常に厚い霧のかかった日の状況を考えればよい。そのような状況では、対象は、ぼやけてみえる。つまり、霧の厚い日には、街灯も、ぼやけた点のように浮かび上がってみえるだろう。それから、段々と輪郭が判別できるようになってきて、徐々にアトランティス人は現代のような視覚を学んだ。 このように、対象物を外的に見ることは、極めてゆっくりと生じた。このような遥か過去に、人間が目にした色彩像は、一種のアストラル的な色彩だった。当初は、この色彩が、自由に漂っているように見え、次第に、現代の視覚を学ぶことで、この色彩像を、対象物の外的な輪郭上に配置するような変容が生じた。 勿論、こうした別種の知覚は、当時の人間が今日の人間とは、全く違った様相をしていた事実と密接に関連していた。 例えば、アトランティス時代末期の人間は、現代人よりも、額が遥かに後退していて、その上方に、エーテル体が巨大な眼球のように飛び出していた。 現代人でいう、額の後ろ側のある点、両眼の間を少し後退したあたりに、当時の額があり、物質体とエーテル体は、現代人のように、まだ一致していなかった。それから、物質体とエーテル体が収縮し、物質体とエーテル体の両者の点が一致したのは、人間進化において、重要な瞬間であった。 (恐らく、一つ目の妖怪や、三つ目の妖怪は、このアトランティス時代の人間のイメージが元型なのだろう。) そして肉体とエーテル体が一つに束ねられ、両者が額の後ろ、両目の間で結合した時、人類はその進化の重要な瞬間に至った。今日では、肉体の頭部はエーテル体の頭部にほぼぴったりと一致し収まっている。しかし、馬の場合は、いまだそうではない。人間の場合、この頭部の変化を受けて、他の肉体も、例えば四肢も変容してきた。そして、徐々に現在の肉体の形姿が現れた。 (馬を霊視すると、一角獣のユニコーンのようにみえるのだろう。つまりユニコーンは、霊能者が描いた絵が元型なのだろう。)
2009年10月22日
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先に、地球は徐々に進化してきたと述べた。まず、古土星、次に古太陽、そして古月、それから現在の地球となる。やがて、今度、地球は「木星」になり、「金星」になり、「ヴァルカン星」になるだろう。さて、恐らく次のように問うだろう。 「しかし、今日の空にも土星がある。地球の最初の受肉である古土星は、現在の土星と、どのような関係にあるのか?」と。 今日、星空を観察すると、よく知られている様々な惑星が見える。これらの惑星の名称は、恣意的に選ばれた、つまり近年、慣例になっているように、特定の人物、例えばその星の発見者の名前にちなんでつけられたものではない。 現在の「土星」が、命名されたのは、賢者が事物に意味深い名前をまだ授けていた古代であった。土星は、その性質そのものから名付けられた。今日では、このような命名は行なわれていない。例えば、天王星は近代に発見されたが、その天体の性質を意味するような相応しい名前ではない。 今日、天に「土星」としてみえる天体は、地球がまだ土星の状態にあったときと同じ段階にあり、現在の地球との関係は、ちょうど子供と老人の関係と同じである。老人が傍らに立つ少年から、いますぐに成長したものではないように、(老人はかつては少年だったが)、この地球も今日ある土星から進化してきたものではないが、いつの日か、あの土星は地球になるだろう。現在の「土星」はいわば青年期の段階にあるといえる。 他の天体も同じである。現在の太陽は、かつての地球のような天体だが、更に(霊的に)発達している点で異なる。少年が老人の近くに立つという、様々な年齢層が共に存在しているのと同じように、様々な発達段階にある惑星が天にも並存している。 それらは様々な進化段階にあり、現在の地球はその第四の受肉段階にあるが、惑星の進化段階には地球が既に部分的に通過した段階もあれば、未来に部分的に通過する段階もある。しかしながら、惑星は、それぞれがある関係に位置し、オカルティスト(秘教学徒)はこの関係を、今日の天文学者とは違った方法で表現する。 よく知られているように、地球は太陽のまわりを回っている。地球の姉妹たる水星と金星も太陽のまわりを回っている。更に、知られているように、太陽自身も動いている。さて、オカルト(秘教学的)天文学は、この関係について正確な探求を行ってきた。 それは、地球と他の惑星の運動を探求するだけでなく、太陽の動きも探求してきた。その探求によって明らかになった事実は、太陽が、ある霊的な中心点のまわりを運動していて、従って諸惑星の軌道は、霊的な中心点を正中線として、螺旋を描く太陽の軌道を追従して螺旋を描く、ということである。 しかし、様々な天体が同じ速さで動いているわけではなく、オカルト(秘教学的)天文学が決定しているのは、それぞれの運動速度の関連なのである。それは、地球上の人間が、天体を観測すると、火星や金星などの天体はある速度で動いているが、星々に満ちた天空は不動に安らいで見えるという事実から関連づけられた。 真のオカルト(秘教学的)探求によると、この静止は見掛けだけのもので、実際は、この星空も百年に一定の距離だけ移動し、この天空が進んだ距離が基本的な数値とされる。各惑星がその軌道を運行する速度は、お互いに全く一定の調和した比例関係にあり、この比例関係を音響として聞くと、1つのシンフォニーへと構成される。これがピタゴラス学徒によって天球の音楽とみなされていた。 この共鳴、この音楽は、宇宙的な出来事の模像であり、ピタゴラスの学院で教授されたものは、空想されたものではない。古代の神秘学的天文学者たちは次のように語った。一見静止しているように見える、この星空は実際は動いていて、霊的な中心点の回りを、100年ごとに一度ほど移動する速度で回転している。 この動きを捕捉し、惑星の動きを、この天空の移動とを比較すると、土星の動きは木星の動きの2.5倍で、木星は火星の5培で、火星は太陽の2倍だと分かる。すると、最終的に土星の動きは天空全体の運動の1200倍となり、天空を年に12度移動する。(土=「2.5」木=「5」火=「2」太陽=「2」水=「2」金=「12」月=「1200」天空 シュタイナーによると、これが真の天動説のようである。つまり、物質世界の惑星の軌道ではなく、霊的な軌道、つまり、天球を想定した、惑星の軌道を表現したものといえる。 ちなみに、諸惑星は、霊的な中心を正中線として、螺旋軌道を描きながら、回転しているそうで、公転や自転が左巻きに進むことが物質世界でわかっているので、太陽の軌道を追いかける地球は、太陽からくる光を右巻きに受けることになり、恐らく、DNAが右巻き螺旋構造をとるのであろう。 また、素粒子のニュートリノは、電荷をもたず、質量も微量なので、ほとんど反応しない粒子なので、太陽からくるニュートリノの多くが、左巻きなのは、地球が太陽の軌道を追いかけているという、この天動説を支持する根拠となるかもしれない。 地動説の欠陥点は、太陽を静止した基準として捉えているところにある。確かに、太陽がほとんど静止していれば、地球は、太陽のまわりをまわるだけになるが、実際は、太陽も運動し、銀河の中心をまわっているので、全体の中心からみれば、地球が太陽のまわりをまわり、かつ、太陽も銀河をまわっているので、お互いが、相手のまわりをまわることになる。社交ダンスの会場を想像すれば、男女が相手のまわりをまわることがわかる。 更に、シュタイナーのいうように、霊的な中心点を螺旋状の軌道で進みながら、天体のお互いが回転しているのなら、いわゆる貝殻のような渦巻きを形成しながら、天体を含む宇宙が運動しているという天動説が有力になる。古代文明の遺跡で、よく貝殻の渦巻き模様が発見されるのは、実は古代人は、宇宙の運動を知っていたのかもしれない。)
2009年10月21日
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では、肉体、エーテル体、アストラル体、自我のこれら人間の4つの構成要素は人間の体に宿る前には、どこにあったのか? 例えば、古太陽紀に、物質(肉)体に、エーテル体として注ぎ込まれたものは、何処にあったのか? このエーテル体の原基は、古土星紀には何処にあったのか? 現在、大気が地球の周囲を取り囲んでいるのと同じように、エーテルの原基は、古土星の周辺にあった。同じことが、古太陽紀のアストラル体にも言える。アストラル体は、古月紀になって初めて人間の中に入った。 このように、後に新たに人間のなかに入ってくるものは全て、それ以前には、周辺にあったものである。古太陽紀では、今日の地球のように鉱物や植物や動物が周囲に存在するのではなく、植物的な段階にまでしか発達していない人間が、そのときに存在したものとして、思い描ける。 古太陽紀には、一種の鉱物界のようなものもあり、古太陽紀には、植物的な人間と、鉱物的な存在の二つの世界が存在した。古太陽と現在の太陽を混同してはいけない。古太陽は、力強いアストラルの鞘[天蓋]で覆われ、そのアストラルの天蓋は光り輝いていた。いわば、太陽を取り囲む空気のような覆いがあり、同時に、それは輝いていた。 今日、人間は物質体とエーテル体とアストラル体と自我を持っている。自我がアストラル体に働きかけ、知的にも、道徳的にも、霊的に浄化すると、アストラル体は霊我、或いはマナスになる。霊的な浄化による霊我は、今始まったばかりだが、将来実現した暁には、つまり人間がアストラル体全体を変容し終えた時、アストラル体は物理的に光輝くようになる。 (空海が説いた「即身成仏」のこと。また仏像が黄金に光り輝くように、模してつくられるのは、この表現。) 植物の種子がその中に、これから成長する植物の萌芽をもつのと同じように、人間のアストラル体もその内に光の種子を持っている。この光は、その人間がアストラル体を浄化し清めるにつれ、外への空間世界へと、人間の影響を受け、その発展と絶えざる形成とともに、流れ出る。そのとき、現在の地球は、新しい惑星に変容するだろう。 今日、地球はいわば暗闇である。宇宙から地球を見たら、太陽の光を反射した時にだけ輝いて見える。しかしながら、いつの日か、地球は輝くようになる。人間がアストラル体全体を変容させるという事実により輝くようになるからである。古太陽紀にアストラル体の総体が光り輝いていたように、光として宇宙空間に放出される。 古太陽には高次の存在が人間の(進化)段階で存在していた。そして、その存在は光り輝くアストラル体を持っていた。聖書には、これらの存在を、光の霊、或いはエロヒムと正確に記されている。 人間は何をもってアストラル体に働きかけるのか? それは善、或いは良識と呼ばれるものである。人食人種の段階に止まっている未開人を観察すると、未開人は盲目的に自分の情念に従っていることがわかる。そのような人間は、動物以下の状態にあるといえる。なぜなら、動物は自らの行為を理解せず、自覚もないからである。 しかし、人間は、少なくとも、既に自我を持っている。高度な教育を受けた人間と未開人との違いは、教育を受けた人間は既に自らのアストラル体に働きかけているという事にある。自らの激情や衝動を、「これには従ってよいが、あれはいけない」と自らに言い聞かせるほどに把握している人間は、道徳的な概念や理念を形成している。 このように、人間は道徳観を形成するが、これら全てが、アストラル体の変容となる。未開人は算術を行ったり、判断を下すことが出来ない。こういった資質は、幾度となく繰り返される受肉を通して、自分のアストラル体に働きかける事によって得られる。 人間として受肉を重ねつつ、進化し、徐々に、現在の不完全な姿を浄化させ、上記に述べた「光の存在」へと自らを高めていく。この進化過程が、「叡智との一体化[同化]」と呼ばれるものである(空海の即身成仏)。アストラル体が叡智を蓄えるほど、アストラル体は益々光り輝くようになる。 エロヒムは、古太陽に住んだ存在だが、完全に叡智に満たされていた。現在の人間の魂が肉体と関連するのと同じように、叡智は宇宙空間に流れ出す光と関連している。 このように、光と叡智の関係は、空想的に作り出されたイメージではなく、上記の事実に基づいている。このようにして宗教的文献が、どのように光を叡智のシンボル(象徴)として述べているかが解明できる。 高次の視覚、つまり霊視能力を開発したいと願う者には、次のような練習[修業]をすることが大変重要である。 まず、夜間の闇を利用するか、もしくは目を閉じる事で、外からくる光の全てを遮断して、空間を暗闇として思い描く。次に徐々に自らの内的なイメージ力を使って、光を視覚化するように励む。こうした練習が適切な方法で行われたなら、光に満ちた空間の視覚化を構築できるようになる。 内的なイメージ力を通じて、光を生み出す事が出来る。その光は、物質光ではなく、後に(物質的な視覚器官の)眼ではなく、もっと精妙な感覚器官で見えるようになる霊光の先触れである。創造的な叡知がその姿を現わす、この内的な光はアストラル光とも呼ばれている。 人智学徒が、瞑想や観想(メディテイション)を通して、光を生み出すと、光は、その人にとっては、エロヒムのように実際に存在する霊的存在の衣となる。これら光の存在は、人間も、いつの日か、そのような存在になるのだが、今でも常に存在している。この方法が、自身の経験から霊界について認識を持っている人達が歩んできた道程である。 後で、述べる機会があると思うが、ある別の方法を通して、人間は、いわば自らの内的なイメージ力を通して、空間が全く別のものと見えてくるような段階に到達する事ができる。ある種の練習を重ねると、そのとき、空間が叡知の光で溢れているだけでなく、鳴り響き始める。 よく知られているように、古代のピタゴラスの哲学では天体の音楽[天球の和音]について言及している。天球という言葉は、宇宙空間、星々が天駆ける空間を意味している。この事を、現代では、空想と見なしているが、この象徴も又、詩的な喩え等ではなく、実在の事実なのである。秘教学の導師の指示に従って十分な修行を積んだ暁には、人間は宇宙空間から湧き上がる真の音楽を耳にする事ができるようになる。 このように、空間が霊的に反響し始めるとき、人間は神界にいるともいえる(エデンの園)。この天球の音は霊的な実質に由来する。その音は空気の中ではなく、遥かに高次で、精妙な、アカーシャの中に生きている。 人間の周囲の空間には、このような音楽で絶えず満たされ、天球にはある種の基調音がある。次のような考察をすれば、この理念が理解できるが、恐らく、現代の数学的な天文学者には、必然的に、妄想とみなすだろう。
2009年10月20日
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(これまでは、割とオカルト「秘教学」色の弱い医術に関して、シュタイナーの講義から、好きなものを抜き書きしてきた。今回からは、非常にオカルト「秘教学」色の強い、医術というよりも、人間の進化に関する、シュタイナーの講義を、適当に抜き書きしていきたい。 以前、このブログでも、その講義を書いた記憶があるが、訓練とは、繰り返して何度も行うことにあるのと、以前とは異なった発見があるので、再度、その講義を書いてみたい。) これから行う講義では、(秘教的意味において)幾分立ち入った事柄にまで言及するつもりである。というのも、多くの人智学徒が、オカルト(秘教)的な教義の基本的な概念に、ある期間、慣れ親しんで来ていると思えるからである。そのような学徒は、人智学の領域から更に詳しい事柄を学びたいと願っている事だろう。 これからの講義で取りあげるのは、アストラル界と霊界に関連したオカルト的な象徴(シンボル)と記号(サイン)に関するもので、その深い意味まで掘り下げて述べるつもりである。初めの講義の内容は奇妙に思えるだろうが、その後の講義により、説明を加えられ、初めて完全なものになるということを心に留めておいて欲しい。 このような講義のやり方は、取りあげた題材の性質上、仕方のないもので、霊学についての講義は、単純な基本原理から、数学的に成り立つような他の分野のようにはいかない。初めは、雲を掴むように漠然としか見えなかった物の多くが、後に明確に理解できるものとなるだろう。 俗世間だけでなく、神秘学的な世界でも、象徴や記号は、よく何かを「意味する」恣意的なものという印象を与えるが、それは曲解である。例えば、宇宙空間にある様々な惑星を記号で表すことがよく知られている。例えば、神秘学的な象徴として、よく見られる記号は、いわゆる「五芒星形(ペンタグラム)」と呼ばれるものである。 更に様々な宗教で、「光は叡智、すなわち、霊的な聡明さ」の意味で使われている。そこで、そういった意味を調べてみると、その象徴や記号は、これやあれやといった意味であると(例えば、三角形は三位一体を意味するといったように)聴いたり、読んだりする。 よく神秘学的な書物や講義においても、神話や伝説などの解釈が施されている。実際、神話や伝説は「何かを意味する」と言われている。つまり、このような意味の感覚(本質の)裏側へと辿り着き、こういった象徴の実体を認識する事を、この講義の課題とし、どのように講義を進めるかは、一つ例を挙げて明確にする。 五芒星形について考察してみる。よく知られているように、五芒星形(ペンタグラム)は随分、あれこれと難解なものと考えられてきた。このような難解な意味づけと、オカルティズム(秘教学)とは、何の関係もない。オカルティストが五芒星形(ペンタグラム)について述べている真実を理解するには、人間の七つの基本的な構成部分を思い出す必要がある。そして、とりわけ、エーテル体がこの場合、特に関連している。 (7つの部分とは、肉体、エーテル体、アストラル体、自我、霊我「悟性未発達」、生命霊「感受未発達」、霊人「感覚未発達」だったように思う。シュタイナーは講義においてその都度、これらの用語を多少変えて述べるが、全体として、7つとし、霊我以降は、三種の神器として、人間の進化の度合いに従って、将来、手にいれるものと解説している。 ちなみに肉体「熱の状態だが」は、古土星紀に、エーテル体「気体の状態だが」は、古太陽紀に、アストラル体「液体の状態だが」は、古月紀に、そして、自我は、地球紀の、古代ギリシア時代とされる時期に手に入れたとされている。ちなみに、秘教学では、地球紀の前半を古火星紀、後半を古水星紀と区別している。すると、土、日「太陽」、月、火、水まで、人間は進化してきたことになる。 現在は、一週間でいえば、水曜の朝という感じで、太陽の黄道を基にしたプラトン年でいえば、アクエリアス(水瓶座)の時代に差し掛かりつつある。霊我「悟性」を発達させる時期である。) 人智学徒には御馴染みのように、エーテル体は超自然的な(オカルト)領域に属している。つまり、エーテル体は肉眼では見えない。エーテル体を見るには、霊視という方法が必要となる。すると、エーテル体の本質は、希薄で雲状のぼんやりした形成物として見えるものではない事が明らかになるだろう。 エーテル体は、その中を巡っている様々な流れによって構成されている流体というのが特徴なのである。エーテル体は、いわゆる建築家、つまり肉体の創造主なのである。ちょうど氷が水から出来るように、肉体はエーテル体から形成される。そして、エーテル体は、大海のように、あらゆる方向に流れる沢山の流れによって漲っている。 その流れの中に、主に五つの流れがある。足を広げて立ち、両手を広げると、このエーテル体の五つの流れの方向に厳密に従う事になる。その流れは五芒星形(ペンタグラム)になる。 誰でも、この五つの流れを自分の中に隠し持っている。健康なエーテル体は、この5つの流れが、いわばその人間の骨格になるように現れる。しかしながら、エーテル体に関連する事実は全て、人間内部だけに関するものではない。 例えば、人間が動くと、エーテルの流れも実際に、空気の中を通って行く。この五芒星形(ペンタグラム)は人間の肉体の骨格と同じように動く。このように、オカルティストが人間の五芒星形(ペンタグラム)を語るとき、それは空想的に考え出されたものではなく、むしろ、現代の解剖学者が骨格について述べるのと同じように、五芒星形(ペンタグラム)、つまりエーテル体の主要な5つの流れについて、述べているのである。この図形はエーテル体の中に実際存在し、それは事実である。 (シュタイナーの言うように、古代人は、ほとんどが霊能者だったので、医療を行うには、現代の医師が、解剖図を元に、レントゲン写真を撮り診断し、なんらかの処置をするように、古代人の医師は、エーテル体を霊視し、診断し、エーテル体の流れを変えること等の処置を行っていたようである。 古代の医療の名残である漢方が、陰陽五行説からなるのは、この五芒星の由来にあるのだろう。木、火、土、金、水という5つを五芒星形の頂点にあて、その流れを象って、エーテル体の流れを吟味していたのだろう。古代中国は、アトランティス時代の文明、つまりエーテル文明の末裔だったとシュタイナーも述べている。 また、中世の魔術師が、この五芒星を封印として用いるのは、このエーテル体の主要な5つの流れを、ダムのように堰き止めることで、侵入を防いだものと思われる。ちなみに、生霊の撃退法を、魔術の本でみかけたことがあるが、それは五芒星を時計周りに描き念じるものだった。また、その本に、悪霊が、水の流れ、噴水等や水流がある場所に弱いことも書かれていた。滝行はここに原点があるのかもしれない。) このように、少し考察するだけで、事物が、どのようにシンボルの本当の意味と一致するかが分かる。オカルティズム(秘教学)において、遭遇する記号(サイン)や象徴(シンボル)全てが、このような本質に人智学徒を導く。そして、大変重要な事は、このような図形等を正しく用いる指針を少しづつ習熟するようになると、認識力、或いは霊視力を獲得する手段ともなり得るという事実である。 ただ忍耐をもって熟練すれば、五芒星形(ペンタグラム)に関して、錯誤に至らず、五芒星形(ペンタグラム)のなかに、魂を沈潜させることができ、そして、エーテル体の中の流れを発見するだろう。これらの記号(サイン)から、人為的で、恣意的な意味を考え出すことは、全く無駄で、何の意味も無い。自分の内なる心の眼前に、それらのサインを置けば、そのサインが、秘められた本質へと導いてくれる。 この事実は、人智学の領域で見られる事物に限ったことではなく、あらゆる宗教文献に含まれている象徴(シンボル)や記号(サイン)の場合も同様である。これらの文献はオカルティズム(秘教学)を基礎としている。預言者、或いはある宗教の創始者が、光について述べ、その結果、ある叡知を啓示するなら、そのとき、それが独創的な心像であると思って、行うのではない。 オカルティスト(秘教学徒)は事実の上に自らの思考を築き上げる。従って、オカルティストにとって独創的であることは重要ではなく、真実であるという事が大切なのである。オカルティストは、理不尽な思考を捨て去る必要がある。恣意的な結論を引き出して判断を下してはならない。 徐々に、霊的な事実を手掛かりにして、正しい思考は発達させなければならない。従って、この「光」のイメージは、深い意味を持っている。というより、「光」とは、霊学的な事実である。この事を認識するために、人間に再び目を向けてみる。 アストラル体は人間の第三の構成要素である。アストラル体は喜びと悲しみの担い手で、人間の内的な魂の体験はアストラル体に依存している。植物にはアストラル体がないので、人間や動物のように喜びや悲しみは体験しない。 もし、今日の自然科学者が、自然にメスを入れ、植物の感性について述べるなら、その科学者の言う事は、感性というものを全く誤解している事になる。アストラル体という存在の正しい概念に到達するには、それが時の流れの中で辿ってきた発達の過程を辿ってみて初めて出来る。 人智学徒にはよく知られているように、人間の肉体[物質体]は最も古く最も複雑な構成要素である。エーテル体はそれより幾分若く、アストラル体は更に若く、最も若いのが自我である。肉体は4つの惑星期(古土星紀、古太陽紀、古月紀、地球紀)を通じて発達してきたという長い進化過程を持っている。 この進化過程の初期には、地球(霊)が古土星紀という惑星状態に受肉していた。当時人間は、現在のような姿ではまだ存在していなかった。古い土星上では、肉体の最初の萌芽だけだった。人間には、エーテル体、アストラル体などその他の構成要素はどれもなかった。 地球の二番目の受肉である太陽紀になって、エーテル体が付け加えられた。その当時、人間のエーテル体はとてもはっきりと五芒星形(ペンタグラム)の形をしていた。しかし、後に、エーテル体は少しばかり変えられた。というのも、地球の三番目の受肉である古月紀で、アストラル体がエーテル体に結合したからである。そして古月は地球へと変容し、既に形成されていた人間の三つの構成要素に自我が付け加えられた。
2009年10月19日
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思春期以降、人間の全活動は、アストラル体を経由して、エーテルの心臓に差し込まれる。天体の模造や宇宙の模造から成長したエーテル心臓に、全活動が挿入(記録)される。 (古代エジプトの最後の審判の絵図には、人間の心臓を天秤に載せ、正義と調和のシンボルのマアトの羽根と比較することが描かれているが、この心臓が、恐らくアストラル体に刻まれた人間の全活動を表しているのであろう。つまり、その人間の全活動が、正義と調和のためのものであったか、量るのが最後の審判という意味になる。) この事実は言葉にできない重要性をもつ現象である。というのも、この事実において、人間がこの世で為す事と宇宙との結合をもつからである。エーテル宇宙に関していえば、人間は、心臓という中心に集められた宇宙をもつ。一方、同時に、アストラル宇宙に関していえば、人間が、この世で為す全てを一つに集めた記録を心臓にもつ。この事実が、宇宙が(宇宙的過程が)人間のカルマと接合されている点である。 アストラル体とエーテル体との、この親密な照応は、心臓の領域を除けば人間の身体の何処にも見つけられない。実際、心臓には照応がある。人間は誕生を通してエーテル体に宇宙のイメージをもってきた。そして、人間の内側に本質として存在する全宇宙が、人間の為す全てを受け取り、そこに浸透する。この絶え間ない遭遇によって(この相互浸透によって)人間の行動が宇宙のイメージの本質に染み込む機会が人生で与えられる。 人間が死の門を超えていくとき、このエーテル(アストラル構造)に、いわば心臓が浮かんでいるが、肉体とエーテル形態を脱ぎ捨て、置いた後の、更なる霊魂の活動に人間が持ち込む全てを含んでいる。さて、更に霊において拡大しながら、人間は自分のカルマ全てを宇宙に手渡すことができる。というのも全宇宙の物質が、人間内部に含まれているからである。 全宇宙は、人間の心臓のエーテル体に集束されている(内在神の正体)。それは宇宙から来て、このエーテル実体に変化した。そして、心臓の本質として集められた。死後、今度はそれが再び宇宙に帰ろうとする。人間は宇宙に広がり、魂の世界に受け取られる。著書『神智学』に描いたように、魂の世界の通過と霊の大陸の通過を経験する。 実際に死後、そのような経験をする。人間組織の生成において考察すると、次のように言える。 「心臓の領域で、宇宙と地球の領域の結合が生じている。そして、心臓のなかに、宇宙が、その宇宙の形状とともに、人間のエーテル体にとりこまれている。心臓のなかで、エーテル体は人間の全行動を、人間が人生において為す全てを受けようとしている。そしてまた、この世から出ていく。宇宙エーテルが自身の行動と、心臓のなかで親密に浸透することで人間内部に形成された全てを伴って赴く。そうして、人間は、死の門を通過した後、また新たな宇宙的な存在に入り込む。」 これまで、具体的な形態で、人間がどのように肉体に入る道を生きるか、また、どのように自らを、肉体から引き出せるかを述べてきた。というのも、エーテルの行為は、宇宙からの本質として、第一に自身の内に形成したものを集めて保持する力を人間に与えているからである。 物質体は遺伝力によって、すなわち、胎児の様々な力によって、物質と地の世界内で形成される。霊界から人間が携えてくるものは、まずエーテル体に引き付けて集め、胎児と結合する。しかし、更に人間は進化しなければいけない。 人間が携えてきたアストラルの素晴らしい実体には、多くの地上の人生を通過し、長い進化を背後にもつ自我が生きている。この自我はアストラル体に存在する全ての複雑な形態と、ある種の共感的関係に生きている(「共感的関係」という言葉を使うことで、再度、絶対的実在である自我を表現している)。 先に説明したように、これらのアストラル形態が、物質の様々な器官に滑り込むとき、自我は、この共感を維持し、この同じ内的共感を、器官自体まで拡張する。自我は益々器官に広がり、器官を所有する。実際、自我は、幼児期から、様々な器官とある種の関係にあるが、その時には、まだ(アストラル体に)内在した状態が優勢である。だから、幼児期では、様々な器官の自我に対する関係は外的なものである。 やがて自我がアストラル体とともに、物質(肉体)の様々な器官に入り込むとき、次のようなことが起こる。 「幼児においての自我は、血液の道筋に、外的関係でしか存在しなかったが、今、自我は益々内的に、次第に強烈に血液の循環と結合し、最後には(思春期に)最も完全な意味で、器官内に入り込む。エーテルの心臓と物質の心臓の周囲にアストラルの形成物が辿り着くと、自我は、アストラル体とは別の経路をとる。 自我は、肺に滑り込み、肺から心臓へいく血管とともに心臓に徐々に近づく。血液の循環と次第に密接に結合し、自我は血液の経路を進む。血液の経路を走る様々な力によって、自我はエーテルの心臓とアストラルの心臓の結合から形成された領域に入り込み、そこで宇宙から来たエーテル体が、自身から来るアストラル体と一緒になって成長する。」 既に述べたように、このアストラル体は、はかり知れないものを次第に含むようになる。というのも、人間の全行動がそこに記録されるからである。しかも、それだけでなく、自我が、アストラル体の成す全てと共感関係にある限り、人間の意図や理念も、同時に刻み込まれる。それは人間の行為の元となる意図や理念である。心臓の領域において、人間は、カルマと全宇宙の法則の完全な結合をもつ。 このように人間内部で起こる全てについて、多くの人間が「心許ないほど」知らない。この言葉を何度も強調して繰り返すことができる。というのも、人間が今日無知である、これら全ての事実は人間の心臓に関係しているからである。人間は、この物質世界で起こる事象を知る。そして、その事象を道徳的法則との関係で考察する。 では、真実はどうかといえば、道徳生活において起こる全てと、物質的世界において起こる全てが、正しく人間の心臓に集められるということである。 この2つ(道徳性と物質性は)それぞれ独立して進みながらも、今日の近代的意識にとって隣り合わせにあり、人間の心臓の全形状を理解できるようになると、両者の真の結合を、見い出すことができる。 当然、心臓で起こる全ては、幼年期の歯の生え変わりとともに、あからさまに起こる事件よりは、遥かに隠されたものである。幼年期には、親から受け継がれた乳歯をもっているが、乳歯というモデルから、自身の身体により永久歯を形成する。乳歯は抜け落ち、新しい歯(永久歯)が残る。 前者(乳歯)は使えなくなるという内在傾向をもっている。たとえ抜け落ちなくても、無傷で止まることはできない。ところが、永久歯は、主に外的状態によって破壊される。勿論、人間の身体自身の状態も含まれる。乳歯から永久歯への交代と同じような事実が思春期にも起こり、眼に見えないが、親から受け継いだエーテルの心臓は、分解に委ねられ、自身で、一種の永久のエーテルの心臓を獲得する。 この永久のエーテルの心臓だけが、自らの人間活動を受け入れるように充分適応できる。だから人間が思春期前に死ぬか、後に死ぬかで大きな差がでる。思春期前に死ぬと、地上で為したことが、カルマ的に後(転生)に継承される傾向だけをもつ。子供が思春期前に死ぬときでも、様々な行為がカルマに確かに組み込まれるが、それはかなり曖昧で一時のものである。 正しく言うと、カルマの形成はアストラルの心臓が、エーテルの心臓を掴み一緒になる瞬間から始まる。この瞬間の生成が、実際、カルマを形成する有機体となる。というのも、死に際して、人間に集められ、集約されている全てが、次第に宇宙的になり、次の地上の生活(転生)において、それが、宇宙から再び人間に組み込まれるからである。 従って、人間が為すこと一つ一つが自身だけに係わっているのではない。人間内部に組み込まれているものは、宇宙から来て、死後、人間の行為を宇宙に再度ひきわたす傾向を保持している。というのも、カルマの法則が作用し、人間のカルマをつくりだすのは宇宙だからである。だから、人間は、新たな地上の生活(転生)の始まりにおいて、宇宙が、人間の行為を再度、地上の生活にする様々な効果を担っているのである。
2009年10月16日
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アストラル体が、様々な器官に入り込むという事実には、人間の諸器官に対する、より親密な知識への鍵がある。人間が、(あの世から)もってくるアストラル体を理解しない限り、人間の諸器官を真に理解することはできない。 第一に各器官は、その内側に、ある意味、アストラルの遺産を担っていることを知らなければならない。 同様に、第一にエーテルの心臓が遺産であることも知るべきである。更に、両親から受け継がれたアストラル体は徐々に、あの世から、自らのアストラル体としてもってくるものに浸透されるということをも知るべきである。自らのアストラル体は少しずつ肉体とエーテルの諸器官に飛び込む。 心臓は、ある意味で、例外である。勿論、心臓にもアストラル体が入り込むが、心臓にはアストラル過程だけでなく、エーテル過程も集中しているので、心臓は人間にとって唯一無二の重要性をもつ器官となる。 アストラル体は益々不定(未分化)なものになる。というのも、アストラル体は肉体器官に、別の人生(前世)からもってくる具体的な形態を送り込むからである。アストラル体は、それら具体的形態を肉体器官に送り込む。そこで、それらは閉じ込められ、アストラル体は、霧の雲のようになる。 しかし(またこれは興味深いことだが)、送り込んだ側からみれば、アストラル体は霧の雲のようになるが、反対側の送り込まれた器官側からみれば、新たな分化が入り込む。最初はゆっくりと、やがて、規則性をもちながら、思春期の年齢以降に、益々入り込むようになる。 例えば、赤ちゃんが小さな脚で蹴る仕草をするとき、アストラル体は、そのことにほとんど反応しない。確かに、蹴る仕草の結果は残るが、アストラル体が伴ってきた分化は、それより遥かに強烈なものである。徐々に、アストラル体の形態は消え、肉体器官のなかに滑り込む。アストラル体は益々霧の雲のようになる。 幼児が脚を蹴る仕草をしているとき、その全ての結果から、このような子供っぽい運動が、アストラル体に入り込むが、アストラル体の構造に突き当たり、投げ返されて消え去る。それは、まるで空気の詰まったボールを圧するようなものであるが、ボールはすぐに元の形に戻る。 しかし、このすべては、子供が話せるようになり、記憶に保持する理念を発達させるにつれ、この全ての結果は、比率を変える。人智学徒は、そのとき、子供の運動が(知能的な運動、歩き回ったり、腕を動かしたりが)、どのように益々アストラル体に保持されていくのかを見ることができる。 実際、言葉にできない事柄が、このアストラル体に刻み込まれる。45歳のときには、人間の運動のほぼ全てがアストラル体に痕跡となって刻まれる。また、運動以外の他の多くの事柄も刻まれる。アストラル体は、話や思考ができるようになってから、そして、アストラル体自体の配置が解けてから、起こったことの非常に多くを吸収できる。 この未分化の実体に、人間の行為全て(腕と脚の運動、それだけではなく、手足を通じて成し遂げる全て)が刻まれる。例えば、字を書くときにペンをもつ行為や、外界において人間が成し遂げる全てが刻まれる。木を切るときや、誰かをぶん殴るとき、全てはアストラル体に刻まれる。 自分では何もしなくても、他の人に指導を与え、その人がする行為も刻まれる。人間の言葉の内容がその人の行為にどのように関係するかを通じて、刻まれる。簡潔に言うと、外界に表出される人間の活動全てが、アストラル体に刻み込まれる。このようにアストラル体は人間の行動全てを通して、多様な形状になる。 この過程は、以前言ったように、子供が話せるようになると(思考を発話に体現できるようになると)始まる。子供が受け取るけど、後で思い出せないような理念にはあてはまらない。この過程は、通常の(覚醒)意識で、後に思い出せるような理念から始まる。 さて不思議なことに、このようにアストラル体に刻み込まれた全ては、(人間の)内部で出会う傾向がある。エーテル体の放射が、エーテルの心臓で出会うのと同じである。人間の行為全てもまた人間の内側で一つに集まる。更に、これは一種の外的な因果関係をもつ。 人間の霊魂は地上の人間として、多くの活動形態に入らざるを得ない。この活動は、これまで言ってきたように、アストラル体を通して表出されるが、絶え間ない抵抗がある。人間に及んだ影響は、いわば、必ずしも上昇できない。常にある種の抵抗があり、その影響は再び押し戻される。 肉体の器官に関連して、人間の行為全ては、頭部へと流れ上がる傾向にあるが、人間の組織は、この傾向を妨げる。このため、これらの影響は一つに集まり、一種のアストラル中枢を形成する。 このアストラル中枢も、思春期に顕著に発達する。エーテルの心臓(自身で形成したエーテルの心臓)が自らを形成した同じ場所に、アストラル構造をももつことになる。そのいわゆるアストラル心臓は、人間の全行動を集めたものである。だから思春期からは、全ての行い、全ての活動が集中された中枢器官が創造される。 実際、これは事実である。人間が心臓をもつ、その領域に、人間の活動の全てが中心化される。この場合、物質的でもエーテル的でもなく、アストラル的に中心化されている。大切なことは、思春期に(当然ながら、アストラルの出来事は物質的な出来事に大凡一致するにすぎないが)人間自らでつくるエーテルの心臓は形成が進み、外界における人間の活動から発達する、様々な力を受け取れるようになる。 このような事実から、次のように言える。 「人間が自らエーテル心臓をつくり、外界から様々な力を受け取るとき、人間の内的な存在において生じた実際の出来事を同時に現わしている。」
2009年10月15日
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エーテル体での天体と獣帯と太陽と月等全ての配置は胎児期にはそのままである。その間に、人間は肉体と益々融合する。天体の配置は少し変わり始めるが、まだ残る。実際、7年目までは(言い換えると、歯の生え変わりまで)残る。幼児のエーテル体には、この宇宙の天体配置をまだ認知できる。 しかし7年目に(歯の生え変わりとともに)、エーテル体を眺めると、その天体の形態が、言わば、放射し始める。以前、それらは、まだ天体に似ていたが、次第に光線に似始める。天体は人間のエーテル体に溶解し、光線になり、エーテル体のなかで、それらの光線が一つになる傾向を帯びる。 人間のエーテル体内で、天体は光線に変わり一つになるという全てが、歯の生え変わりから思春期までの間に徐々に継続し、進行する。思春期にも、この過程は進むので、これらの光線は、中心で1つになり、言わば明瞭な構造物を形成する。 天体は、1つの固有の明瞭なエーテル構造を形成する。天体は薄れて消え、一方で、中心に集まった構造は特に生気を帯び始める。思春期の、この中心のエーテル構造のなかに、肉体のなかの心臓が血管系を伴って吊るされる。 だから人間は、天(エーテル)体が、引き込む、この不思議な現象をもっている。エーテル体は勿論、肉体の末端では未分化である。末端部には、識別可能なものはほとんどない。ところが、歯の生え変わりから思春期までの時期に、エーテル体は強烈に輝き、その光線が外側から内へと差し込むことで、そのとき一つに集束し、その内側に肉体の心臓がはっきりと吊るされる。 それでも、思春期まで、人間はエーテルの心臓をもっていないと思ってはいけない。エーテルの心臓を確かにもってはいるが、これまで述べてきた方法で、自分のものに獲得するエーテルの心臓とは異なる方法で獲得した心臓である。というのも、思春期に生じる集束した光輝が、真の人間のエーテルの心臓になるからである。 この時期以前に、人間がもつエーテルの心臓は、胎児の内在力によって遺産として受け取ったものである。人間が、エーテル体を得て、それとともに肉体に入る道を進むとき、一種のエーテルの心臓が(言わば代わりのエーテルの心臓が)、肉体の様々な力によって一つに束ねられる。 子供は、このエーテルの心臓を子供時代に維持するが、徐々に朽ち果てる。この表現は、通常の基準では、あまり美しいものではないが、その状況を的確に表現している。最初のエーテルの心臓はゆっくりと朽ち、その代わりに、言わば朽ちるエーテル過程(プロセス)で果てるものを絶えず置換し、新しい、真のエーテルの心臓を獲得できる。 この置換したエーテルの心臓は、妊娠と誕生から、この地上の生活に進むとき、エーテル形態としてもってきた、いわば全宇宙球を集約させたものであり、宇宙の忠実なイメージである。 このような人智学的知見から、誕生、もしくは妊娠から思春期まで継続して、人間が自らの内側に担う全エーテル形態における明瞭な変化を辿ることができる。それは次のように、思い描ける。 「思春期になってはじめて人間は自身のエーテルの心臓を保持する。言い換えると、自身のエーテル体から形成された、外的な様々な力によって臨時に供給された心臓でないエーテルの心臓を保持する」 思春期まで人間で働いているエーテルの様々な力全ては、この新鮮なエーテルの心臓を賦与しようとする。新しいエーテル心臓の賦与は、エーテル球において、歯の生え変わりになぞらえる過程である。というのも、既知のように、歯の生え変わりまで、人間は内在した歯(乳歯)をもっているからである。 乳歯は捨てられ、その場は第2の歯(永久歯)にとられる。(親からの引き継ぎではなく)真に、自分のものである歯に取って代わられる。同じように、思春期までもっていたエーテルの心臓(乳心臓というべきか?)は捨てられ、思春期に、自分の心臓を受け取る。この事実は非常に重要である。 人間は自身のエーテルの心臓を、(アストラル体が誕生する)思春期に受け取る。 (シュタイナーは、歯の生え変わりまでを、肉体形成の時期と呼び、永久歯の誕生を、エーテル体の誕生とする。同様に、それから、思春期までを、エーテル体形成の時期と呼び、エーテル心臓の獲得を、アストラル体の誕生とする。 更にまた、成人の20~21歳までを、アストラル体形成の時期と呼び、自我の誕生とする。だから、成人とは、本来、自我の誕生のことを指す。成人から、大体28~30歳までを、自我形成の時期と呼び、30歳を、霊我、或いは道徳性の誕生とする。 30歳から35~36歳までを、霊我、あるいは道徳形成の時期で、これが不完全だと、36歳を過ぎた辺りから、道徳観のない人格性を帯びるようである。42歳を過ぎても、道徳観や、倫理感、もしくは自立した精神をもたない人は、退廃し、堕落した傾向、つまり幼児に遡り、再び還るような我儘な人間に戻るようになるようだ。) しかし、今、エーテル心臓の獲得と平行して進むもう一つの過程がある。物質世界に入った直後の人間を観察すると(つまり幼児を観察すると)、アストラル体のなかに、夥しい数の個々の器官が識別できるのが分かる。先に述べたように、人間は自分でエーテルの心臓をつくる。その心臓は外的な宇宙のイメージである。 ところが、アストラル体に、過去(前世)の死と現在の誕生の間に受けた経験のイメージを携えてくる。幼児のアストラル体には、非常に多くのものが見える。そこには偉大な秘密が刻まれている。前世の死と現在の誕生の間に人間が経験した多くが、そこに見える。更に、アストラル体は高度に分化し、個別化している。 そして、奇妙なことだが、前述の過程が、エーテル体で起こっている時に、同時に、この高度に分化したアストラル体が益々未分化になる。元々、それは、物質宇宙や、エーテル宇宙にもない別世界から来たものと言える実体である。思春期までに、このアストラル体に生きる全てが(夥しい数の個々の形態と構造として生きる全てが)肉体器官に忍び込む。 (大まかに言うと)横隔膜の上に位置する諸器官に主に忍び込む。人生の初期(幼児期)には、素晴らしい構造が、アストラル体に放射して存在しているが、それらは徐々に脳の形成に忍び込み、感覚器官を満たす。それから、脳に忍び込んだ構造以外の他の構造が呼吸器系器官に忍び込み、また別の構造物が心臓に忍び込み、そして心臓を通して動脈に入る。 胃には直接入り込まない。腹部の器官に最後に広がるのは動脈を通してだけである。このように人智学徒はアストラル体全体を見る。それは人間が誕生を通して、(肉体という)この物質存在に持ち込んだものである。人智学徒は、アストラル体が徐々に様々な器官に入り込んでいくのを見る。 アストラル体は、様々な器官にすべりこむ。この表現は現実に合致している。当然ながら、今日の習慣的な(科学的)理念には奇妙に聞こえるが、成人になったとき、人間の器官は、アストラル体の形態と構造を閉じ込めている。 (アストラル体を、様々な器官に閉じ込めた時点で、成人となり、自我の誕生、芽生えとなる。)
2009年10月14日
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人間の発達が人生の最初期にどのように起こるかを講義でしばしば説き明かしてきた。随分前に、歯の生え変わりまでの時期に、子供は、ほとんど模倣する存在として、どのように振舞うかを、はじめて指摘した。子供は、本能的に(強烈に)、多少とも環境で起こる事象全てを経験する。 外界の過程(プロセス、現象)を、子供のように強烈に経験するのは、後年になると、感覚器官においてだけだが、この事実を、人間は、意識していない。例えば、眼のなかでは、ある意味、外界で起こる事象を模倣する過程(プロセス)がある。その模倣過程(プロセス)は、カメラが、レンズの前にある対象を何でも複製するように、複製するようなものである。 人間の眼は、カメラのように模倣的に複製された対象を意識し、外界に関する情報を獲得する。他の感覚器官の場合も同じだが、模倣の原理が、人間の末端(皮膚表面)だけに限定されるのは、子供期を過ぎた人生の後の段階に起こる。 歯の生え変わりまでの幼児期には、身体全体が、少ない程度とはいえ、この模倣過程(プロセス)に参与する。この段階での身体全体は、ある点で、人間が生きている間継続して、感覚が保つ同じ関係を、外界と結んでいる。だから、幼児は、まだ主に模倣的存在である。 外的な事物が、幼児に作用する道程を、幼児は辿り、内的に模倣する。このため、幼児の環境では、思考や感情の形成においてすらも、正しく吸収し、生起した全てを自分のものにする、ということは非常に重要である。 歯の生え変わりとともに、幼児は、以前の感覚器官のように振舞うことをやめ、理念の性質において、対象に同化できるようになる。子供は、言われたことを指導指針として、受け取り始める。以前には、周囲の振舞い全てを指導指針として受け取っていたが、歯の生え変わりを境として、言われることを把握し始める。 このように、指導指針としての権威は、歯の生え変わりの時期から思春期までの間で、決定的因子になる。子供は、言われたことに、ごく自然に従い導かれる。勿論、言葉は模倣により学習するが、言葉により表現された伝達内容は、歯の生え変わりの後だけ、子供にとっての決定因子となる。 そして真の判断力、つまり、自分の判断能力を感じるようになるのは、思春期である。そのとき、初めて子供は自分の真の判断を形成し始める。 ここまでは、ごく単純に、外見的観点から、子供が、この世界の中で、どのように成長するかを述べてきた。これらの事実は、偏見を持たない、真理への感覚をもつような人なら観察できる。しかし、これらの事実は高度に意義深い内的な過程(プロセス)と関連しているので、これから述べることは、その内的な過程(プロセス)である。 人間のエーテル体が歯の生え変わりが始まるまで、肉体とどのように密接に結合して生きるかを、(講義により)しばしば指摘してきた。だから、以前述べたように、歯の生え変わりを、エーテル体の本質的な誕生を表す現象と言える。同じように、アストラル体の誕生を思春期にみつけることができる。しかし、これでもまだ外見的な解釈にすぎない。今回は、これらの過程の、更に内的な特徴付けに達するように試みる。 では霊界の人間を考察してみる。肉体的な受肉に降りる傾向を発達させる遥かに前の人間である。そこでは、霊魂の世界にある、霊魂の存在としてみれる。人間は(霊界では)皆、霊魂の存在だった。 人間の転生のために、母体に準備された肉体の原基と結合するために、降りる前、人間は純粋な霊魂の存在だった。それから、この肉体と結合して、地球で、誕生と死の間の期間を経験する。だから、生まれる前の人間は霊魂の存在だった。 生まれる間の人間が、経験したものは、この地上の誕生と死の間に経験するものとは、非常に異なる。だから、(前世での)死と(転生での)新たな誕生の間の経験を描くのは非常に困難である。地上の状態とは全く異なるからである。 人間は、地上での自身の経験に基づいて理念を生み出す。描写する際に、必ず頼みとするのは、この地上の理念なのだが、いまは、霊魂の世界内での人間の性格にあまり拘らないことにし、むしろ、まず、新たな肉体に浸透するために地球に接近するときの、降下中の人間を眺める。 肉体に(より正確には、その胚、つまり胎児に)接近する前、人間は自身にエーテル宇宙の様々な力を引き込む。この地上では、人間は物質界に生きている。この世界は感覚で見て、地上の知性で理解した全てにより特徴付けられるが、この世界では、エーテル世界によって浸透されていないものはない。 人間が(胎児を通じて)物質界と結合するような傾向を得る前、人間は自らにエーテル世界の様々な力を引き付け、その際、自らのエーテル体を形成するが、人間がエーテル体を纏うといっても、それだけでは、ほとんど何も言っていないのと同じで、このエーテル体の性質と組成にもう少し詳しく述べる。 人間において、エーテル体は自らを形成発達させ、それ自体が宇宙でもある。いわば、宇宙を、絵に描いたような形態と言える。エーテル体の縁周辺には、天体の性質を開示させ、その奥には地球のイメージで現れる性質を開示させ、またそこには、太陽の性質と月の性質のイメージのようなものも存在する。 このエーテル体の宇宙的特徴は、大きな意義を秘めている。地上の世界に降下するとき、宇宙にあるエーテルの様々な力を自らに引き付け、実際、人間は自らのエーテル体に一種の宇宙のイメージをもっている。肉体と結合する瞬間に、人間のエーテル体を抽出できるなら、球となるだろう。それは、機械的な手段でつくり出されるものより遥かに美しい球で、天体と獣帯と太陽と月等全てを備えた球である。
2009年10月09日
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講義終了時の質疑へのルドルフ・シュタイナーの回答質問:「異言を話す」(コリント書第1章第12節)という聖パウロの言葉はどう理解すればよいのか?回答:例外的な人間においては、覚醒状態で話す現象だけでなく、潜在(睡眠)意識だけに存在するものが流れ込み、発話する現象がある。その現象について聖パウロは触れている。ゲーテも同じ意味で語り、この現象に関して、究めて興味深い論文を2つ書いている。(人間の潜在意識は、高次の存在の領域とつながっているので、高次の存在が、人間の潜在意識を通して話すことを、パウロは「異言を話す」と呼んでいるようだ!)質問:キリストの慰めの言葉をどのように理解するのか?回答:あたかも自分の心で生じたかのように、人間はこの慰めの言葉を感じるだろう。肉体的聴覚を通しても受け取ることもできる。(「良心の声」として聞こえるものだろう。逆に悪魔の誘惑の囁きもある。)質問:化学的諸力と実質は、霊界に対してどんな関係にあるのか?回答:相互に化合したり、分離したりできる幾多の実質が世界には存在している。人間が化学的な行動と呼ぶものは、あの世(天球の調和領域)から物質世界に投射されている。原子量に応じた2つの物質の結合においては、天球の2つの音の調和の影響をうける。物質世界における2つの物質の化学的な親和性は、天球の調和の世界からの影絵のようなものである。化学における数比は、実際、物質の濃密化のために隠された天球の音の調和の数比の表出でもある。物質的な実質を、エーテル的な希釈領域にもちこみ、原子数を、内的な形成原理として実際に知覚できるなら、天球の調和音が聴こえるだろう。 (天界を、ピタゴラスは、天球の音楽と称しているが、ピタゴラスは天球の音楽を元に数学を表出したわけで、その数的比率が、化学合成にも深く関わっていることをシュタイナーは回答している。また、いま名前が出てこないがフランスの物理学者は、素粒子と音階が対応することを発表しているし、タンパク質組成と音階の関係や、植物と音楽との関係なども、最近の研究では盛んである。また超弦理論は、音楽の弦と関係が深い。)人間は、物質世界、アストラル世界、低次の神界、高次の神界をもっている。人間の体を物質世界より更に下降させるなら、潜在物質世界、低次のアストラル世界、低次の、正確には邪悪な低次の魔界、低次の、正確には邪悪な高次の魔界に入り込む。邪悪なアストラル世界はアーリマンの領分である。邪悪な高次の魔界はアスラの領分である。化学的行動を物質界より、邪悪な魔界に下降させるなら、磁気が生じる。光を、潜在物質界に投げ込むなら、電気が生じる。もし天球の調和に生きる存在が更に深く、アスラの領分に下降するなら、更に恐ろしい力が発生する。将来、その力をあまり長く隠し続けることはできないだろう。現在(1910年)の最も凶暴な放電より遥かに強力な、この力が招来したときには、発見者が、この力を人間性の手に渡す前に、人間がもはや道徳に反するものを何ももたない状況にあることを望むしかない。(この力とは原子力のことだろう。運悪く、原子爆弾が開発され、戦争で使用されてしまった。ちなみに、ある霊能者によると、原爆投下を命じたトルーマンの魂はバラバラにされ魔界に凍結されているという。)質問:電気は何か?回答:電気は潜在物質状態における光である。そこで光は極度に圧縮されている。光の内的な性質も、光に帰すべきである。光はあらゆる点で光自身に帰する。熱は空間の3次元に自らを拡張できるが、光に関しては、第4次元について語る必要がある。光は4重に自らを拡張できるからで、第4次元として内面的な性質をもっている。(特殊相対論の発表が1905年なので、この質疑が行われたのが1911年とあるので、シュタイナーが充分に相対論を知る状況にあるが、別の機会で、シュタイナーは相対論を批判しているので、相対論とは違う形で光の第4次元について捉えていたようである。 光は光に帰するといっているように、進んだら返ってくるような歪んだ次元を想定していたようである。シュタイナーは、次元の講義のときに、4次元とは曲がった空間だと言及していて、一般相対論の概念を先取りしているように思える。一般相対論のアインシュタインの発表が1915年だから、この質疑の方が先になる。 また、シュタイナーは、電気は潜在物質状態における光だといっている。私流に解釈すると、ディラックの電子の海のようなものを想定していた感じにみえる。ディラックは、量子力学に相対論を持ち込むアイディアに、この電子の海を持ち出している。ディラックがこれを発表するのが1928年だから、17年も前に、シュタイナーは、真相を披露していることになる。少し、シュタイナーに贔屓目ではあるが…。)質問:地球の死骸に何が起こるか?回答:太古の月進化の名残として、地球をまわる衛星の現在の月がある。それと同様に、木星をまわる地球の残存(死骸)が存在するようになるだろう。それから、これらの名残は徐々に宇宙のエーテルに溶けるだろう。そして、金星紀への移行後には地球の名残はなくなるだろう。金星は、はじめに純粋な熱の存在として開示する。それから光になり、そして霊界へ移行する。地球の残した名残は死骸に似たものになるだろう。しかし、その道(過程)は、人間が地球に同伴してはならない道(過程)である。なぜなら、同伴することにより、人間は恐ろしい拷問にさらされるからである。しかし、この死骸について行く多くの存在たちがあるだろう。なぜなら、この地球の死骸について行くことによって、高次の段階へと発達するからである。潜在物質界として反映する世界アストラル世界・・・・・ルシファーの領分低次の魔界・・・・アーリマンの領分高次の魔界・・・・アスラの領分光エーテル→潜在物質アストラル界:電気化学エーテル→潜在物質低次の魔界:磁気生命エーテル→潜在物質高次の魔界:恐ろしい破壊力(原子力?)
2009年10月08日
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東洋の神秘家は、キリスト降臨の出来事の帰結を思い描けたが、その出来事が、とり得る実際の形態(イエスという人の子に降臨すること)は思い描けなかった。 しかし、偉大な仏陀が悟りを開いた後、五千年の期間内に純粋なアカシャ(原存在)形態が、火に浸され、太陽に照らされて、東洋の神秘主義では認識できなかった者の轍(後継者)に出現することは思い描けた。 それは正しく真実の素晴らしい映像であった。火の子たちと光の子たちが、地球の道徳的大気を動きまわるのを可能にするために、救世主がやって来るというものである。物質的に体現した形態ではなく、地球の道徳的大気の内部の純粋にアカシャ的形態として思い描いた。 偉大な仏陀の悟りの五千年後の、この素晴らしい形態が何なのか? 火と光の純粋形態とは何なのか? 人間に知らせるための師がくるのではないか? と言われた。この師(弥勒仏)は、現代の三千年後に出現し、キリスト衝動について、人間に教えることができるだろう。 東洋の神秘主義は、このような西洋のキリストの知識と結合し、美しい統合体を形成する。現代から三千年後に弥勒仏として出現する者は菩薩として、ゴータマ仏陀の後継者として、地上に何度も何度も受肉している、ということも明らかにされるだろう。 彼の受肉の一つが、紀元前百年頃に生きたイエス・ベン・パンディラである。イエス・ベン・パンディラに受肉した存在は、いつの日か弥勒仏になる魂である。彼は世紀毎に、肉体に、まだ仏陀としてではなく、菩薩として、何度も何度も帰ってくる。 現代においても、後に弥勒仏となる彼から、キリスト存在と火の子たち、インドの神秘主義のアグニシュヴァッタ-(ヴィシュヌ・プラーナー教典)に関して、最も意義深い教えが与えられるだろう。 弥勒仏となるべき存在を、人間が認知可能とするような媒体は、全ての純粋な東洋の神秘主義にも、キリスト教の叡知にも共通している。火の子たちとは対照的に、菩薩として肉体で現れる弥勒仏は、青年期の発達において、彼の魂内部の個我的性質の示唆を与えないという事実により認知できる。 そのような理解を保持する人々だけが、そうした人間における菩薩の存在を認知するだろう。菩薩の顕現は、30歳と33歳の間に開示され、それ以前ではない。その30歳から33歳の開示のとき、人格の交替に類似した現象が起こる。弥勒仏は人生の33年目に、人間性のアイデンティティを啓示するだろう。 キリスト=イエスが33歳で、(エーテル体による)生涯の仕事を開始したように、キリスト衝動の告知を続ける菩薩たちは、人生の33歳で自己を現す。弥勒仏は、変容した菩薩として、現在では適当な言葉が発見できないほど力強い言葉で話し、偉大な存在の秘密を告知するだろう。 彼は、いままでにない、創造した言語で話すだろう。なぜなら今日(1910年)、弥勒仏が人間に話しかける言葉を、人間が発見できないからである。人間が、弥勒仏に話しかけられないのはなぜかといえば、それは、(この弥勒言葉の)発話形態に相応する肉体的器官が存在していないからである。 開悟した者の教えは、単なる教えとして人間に流れず、その魂に道徳的衝動を注ぎ込むことだろう。そのような言葉は、物質的な喉頭(声帯)によっては、いまだ発することは不可能である。現代では、そのような言葉は霊界にしか存在していない。 人智学は未来に来るべき全てへの準備となる。人間の進化過程を真剣に捉える人々は、魂の発達が停止せず、その発達によって、最終的に地球の霊性が自由になり、粗雑な物質性が、死骸のように崩壊するにまかせるように決意する。というのも、人間は(自身をも含めた)全過程を挫折させることもできるからである。 進化の成功を望む人々は、今日、人智学と呼ぶ秘教学を通じて、霊的活動に対する理解を獲得しなければならない。だから、人智学の育成は急務となる。その知識は、実際に経験する糧になる。また人智学徒には責任となる。この責任を内的に自覚し、この決意に達するとき、世界の神秘を経験し、人智学徒になろうという望みを生起させ、その経験は正しいものになる。 しかし、人智学は人間の好奇心を満足させるだけのものであってはならない。むしろ、人智学なしでは生きられない存在となるべきである。そのときに唯一、人智学徒は正しい意味において、経験することになる。そのときに唯一、人間の魂において実行すべき、そして全人間性を包括し得る偉大な建設における生きた建築石材(メーソン)として生きることになる。 このように、人智学は将来の人間性に直面し、自身の魂が直面する真の世界現象の啓示なのである。それは魂が肉体にいようが、死と新たな誕生の間の活動にいようが関係ない。来るべき大変動は、肉体に生きていようが、肉体を脱ぎ捨てていようが無関係に、人間に関与するだろう。 また肉体時での地球の理解を獲得しなければ、死と新たな誕生(転生)の間に、効力を発揮することもない。今、肉体において、キリストに対する何らかの理解を獲得する人間にとって、キリストを見る瞬間が来るときが、死の門を既に通過している時かどうかは、どうでもよいことである。 しかしいま、キリストの理解を拒否する人間が、この瞬間の来るときに既に死の門を通過していたなら、その人間は、次の受肉(転生)まで待たなければならなくなるだろう。なぜなら、そのようなキリストの理解は死と新たな誕生の間では獲得できないからである。 しかし一度その基盤が獲得されると、永続する。そしてキリストは死と新たな誕生の間の期間にも見えるようになる。このように人智学は、肉体の活動のために学ぶべきものであるばかりか、死に際して肉体を捨てたときにも価値があるものなのである。 以上が、今日、人間性の理解として、多くの疑問に答える際の手引きとして、伝えたいと願ったことである。なるほど自己認識は困難である。なぜなら、人間は非常に複雑な存在だからである。この複雑さの理由は、人間が高次の諸世界や存在たち全てと関連していることにある。 人間は自らの内側に大世界の影像をもっている。人間の構成要素の全て(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)は、神的な存在たちのための世界でもある(俗にいう内在神)。 人間の肉体、エーテル体、アストラル体、自我は、1つの世界(ミクロコスモス)を形成している。もう1つの世界は高次の世界であり、天の世界(マクロコスモス)である。神的で、霊的な存在たちにとって、高次の諸世界は、それよりも高次の神的で、霊的諸世界における身体の構成要素なのである。 (人間の内部は、人間より階層が上の天使の身体にもなっていて、天使の内部は、更に上の階層の大天使の身体になり、その内部は、更に、権天使の身体というように、入れ子の階層構造になっているという。つまり、ロシアのおもちゃのマトリョーシカのようになっている。 だから、人間の行為は天使に伝わり、天使から更に上層部に伝わることになる。「我知り、故に天知る」ということなのである。) 人間はとても複雑である。なぜなら、人間は正しく霊界の鏡像だからである。そのように悟るなら、人間は自分の内在価値を自覚するだろう。 しかし、この知識から、人間は霊界の映像でもあるのに、それに相応しいあるべき姿に達していないと知ることから、人間としての自らの価値の自覚に加えて、マクロコスモスや神々への謙譲や尊敬、そして逆に恥ずかしさという人間の正しい姿勢を同時に獲得できる。
2009年10月07日
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キリストが肉体の眼にも見えるようになるために、特に準備された人間の体(イエス)で、キリストが地上において必然的に3年間生きたという事実が、人類に対して、いかに大きな進歩を与えたのかを、これまで述べてきた人智学の内容から悟るだろう。 (シュタイナーは、イエス=キリストを、太陽霊のキリストと、人間イエスが、いわば合体した存在としている。ヨハネの洗礼において、「霊魂だけの」太陽霊キリストが、イエスの肉体に降臨し、その際、イエスの霊魂は天に召されたという。だから、イエス=キリストとしては、ヨハネの洗礼から、十字架刑の3年間地上で生き、その後は、エーテル体の形で活動していると言っている。) この3年間に起きた出来事を通して、人間たちはエーテル体で活動するキリストを眺められるように成熟した。エーテル体でのキリストは、パレスチナの肉体でのキリスト同様に、影響力をもって地球の活動に入り込んでいる。 もし人間が曇りのない諸感覚で、そのような出来事を観察するなら、物質世界の内部を動き回るエーテル体が存在することを知るだろう。そして人間たちは、その存在だけが人間の物質(肉)体が働くように、物質世界で働ける唯一のエーテル体であると知るだろう。 それは次の点のみ肉体と異なる。すなわち、キリストのエーテル体は、同時に2つの場所や、3つの場所や、更に百も千もの場所に、存在できるという点で、人間の肉体とは異なる。それはエーテル形態でのみ可能である。物質形態では同時存立は不可能である。 (キリストだけがいわゆる分身の術を使えるという。そもそも、分身の術はエーテル体のことを意味する。つまり、霊能者だけが感じ取れるので、霊能者でない人には、分身の術はみえずに、影響も受けない。) この更なる進化を通して、人間において成就されることは、既に言及した2極、つまり知性の極と道徳性の極が益々一つになっていくということである。それらは統一体として融合するだろう。統一体が生じるのは、次の千年紀の進化行程で、人類が、エーテルのキリストを、次第に世界に観察できるようになるからである。 日常の人生においても、霊界からの善なる存在の直接的な働きによって、人間は次第に浸透されるだろう。現在、意志は昼に眠り、思考を通して、間接的にしか、知性や道徳に影響できないのに対して、次の千年紀の進化行程で、キリストの保護の下、いまから人智学徒において働いている道徳性を通して、睡眠時以外の日常の状態における人間の行為も、直接的に善を生産できるようになるだろう。 徳が教授できるようになるという、ソクラテスの夢は、将来実現するだろう。知性が、この教えによって刺激活性化されるだけでなく、この教えを通して道徳的衝動が広く伝播されることが地上で次第に可能になるだろう。 ショーペンハウアーは「道徳を説くのは簡単だが、それを確立するのは極めて困難だ。」と言った。なぜそうなのか? 説教によっては、道徳は伝播されないからである。道徳の原理を認識しながらも、それを守らないでいることが可能である。それは大抵の人々に、次のようなパウロの言葉があてはまることでわかる。 「霊は望むが、肉は弱い。」 それは、キリストの姿から流れる道徳の火によって、変わるだろう。そのことを通して、地上における道徳衝動の必要性が、人間にとって、次第に明らかになるだろう。 人間は、道徳性が、地球に必須であると益々痛感すると同時に、地球を変容させるだろう。将来においては、不道徳であることは、不道徳な誘惑を受け取る人々や、その方向に煽られる人々、或いは邪悪なデーモンや、アーリマン的、アスラ的勢力に取り憑かれる人々、そして、その憑依を求める人々にだけ可能となるだろう。 (ヨハネの黙示録では、将来、人間は善人と悪人とに大別され、ハルマゲドンが起こると述べられているが、その際に、悪からの善への転化、マヌの善導への教えが重要になるといわれている。) これが地球の未来の状態である。次第に道徳を説き、同時に道徳的基盤を提供するに足る充分な数の人がいるようになるだろう。しかし、自分の自由な決定によって悪の勢力に身を委ね、過剰な悪が、善なる人間に唾するのを可能にする人もいるだろう。誰もが道徳を守るように強制はされないからである。それは各個人の自由意志に委ねられるだろう。 それから、地球が、東洋のオカルティズム、東洋の神秘主義の偉大な定義にだけ描かれている状態に移行する時が来るだろう。その時、道徳的な大気(雰囲気)が、相当な強さをもつようになるだろう。何千年も前から東洋の神秘主義は、やがて来る、この瞬間について語ってきた。 また、ゴータマ仏陀の出現以来、東洋では、地球が「道徳のエーテルの大気」に浸かった未来の状態について特に強く語ってきた。太古のリシ(聖仙)の時代から、この道徳的衝動が、ヴィシュヴァ・カルマン(毘首羯磨)、或いはゾロアスター(ツァラトゥストラ)が告知したように、アフラ・マズダー(太陽霊キリスト)が地球に来るということが、東洋の神秘主義の大きな希望だった。 このように東洋の神秘主義は、この道徳的衝動、いわゆる道徳的大気が、キリストと呼ぶ存在から地球に来ることを予見していた。東洋の神秘主義の希望は、キリストに対してだった。 (病気の話から、なぜにキリストの話になるのか、不思議に思う方もいるでしょうが、要するに、道徳性を開発しないと、病気に罹るということを言いたいのです。人間は道徳をもって生まれた存在なので、道徳に則って生きれば、神のような存在に進化できるわけです。 人間は、神である道徳の子なのです。節度を保って、道徳的に生活するなら、健康でいられるわけで、わざわざ、キリストを持ち出すまでもないですが、人間は十戒の原則に従って生きれば、あなたも神になれます。ほら、十戒を体現したイエス=キリストをみなさいというわけです。しかし、人間の自由は認めるから、自分が納得するまでおやんなさい、ということなのでしょうね。)
2009年10月06日
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エーテルのキリストが地球の活動に入り込み、最初は、少数の人間だけが、遺伝的な(生まれつき霊能者である)霊視によって可視となる瞬間に到達した。そして、これから3000年の経過において、益々多くの人間にも見えるようになるだろう。この事実は否応無く生じる。 これは既定された出来事なのである。この事実が生じることは、19世紀の電気の発見による業績と同じくらい真実である。ある程度の数の個人が、エーテルのキリストを目の当たりにして、ダマスカスで起こったキリストの出来事を経験するだろう。 しかし、この経験は、そのような人間に、キリストが近づいたときに、その瞬間を観察できるかどうかにかかっている。今(1910年)から、わずか数十年で、特に若い年齢の人々に、このような経験が起こる。既にその準備がなされつつあり、あちらこちらの若者がある種の経験をもつだろう。 自ら人智学に関わることで、真に、道徳的な感性を研ぎ澄ませていれば、自らを救うためや、自らの感性を研ぎ澄ますために、何者かが、突然近づいてきたことに気づくだろう。そのとき、見る何者とは、肉体的な人間のように思うが、実は、キリストが訪れるのである。 この遭遇により、キリストが超感覚的存在であると悟るようになる。なぜなら、その存在は、すぐに消え去るからである。非常に多くの人間が、部屋のなかで、静かに座りながら、重い心で、打ちひしがれ、どの道を選べばよいか分からず、絶望の淵にいるとき、この経験をもつだろう。ドアが開き、エーテルのキリストが現れ、慰めの言葉をかける。 キリストは、人類にとっていまも生きる慰めの担い手となる。今のところ、この話がいかにも奇妙に思えたとしても、相当な数の人間が、座りながら、どうしていいか分からず、途方に暮れている多くの絶望的な場面に、エーテルのキリストを見ることは、真実なのである。 キリスト自身がその場所にいて、途方に暮れている人々と相談し、そのような集まりに、言葉を投げかけるだろう。今、このような時代に近づきつつある。そして、今述べたような肯定的、建設的要素から、人間の進化を把握できるだろう。 現代の文化が成し遂げた大きな進歩に反する言葉を述べたくはない。確かに、そのような偉業は人間の安寧と自由に必須であるが、外(物質)的な進歩において、自然の様々な力の制御において、獲得できるもの全ては、キリストを通して、魂における覚醒を経験する人に授けられる恵みと比較すると、小さく無意味なものにすぎない。 キリストは今の人間の文化とその関心を掌握するだろう。それにより、人間に覚醒するものは、肯定的な様々な力の統合だろう。キリストは、建設的な様々な力を人間文明にもたらす。 もし、ポストアトランティス時代(人智学で呼ぶ我々の時代の名称)の初期(古代インド文化期)を見るなら、人間は今日用いている方法と全く異なる方法により住居を建てていたことが分かる。当時の人々は、ありとあらゆる成長する生物を利用した。 宮殿を建てるときでも、植物と木の枝を編み合わせるようにし、その援助として、自然の力を呼び出した。今日の人間は、生物的には破壊された断片、つまり物質を使って建てている。現代人は、いわば生物の断片からできた産物(物質)から、全ての外界の文化を作り出した。年月が経過するにつれて、将来、現代の文化のどれほど多くが破壊による産物であるかを徐々に理解することになる。 光はポストアトランティス時代の地球の過程内部で自己崩壊しつつある。アトランティス時代までは、地球の過程は発達過程だったが、それ以後、崩壊の過程になった。 光とは何なのか? 光は崩壊する。 この光の崩壊が電気となる。人間が知っている光とは、物質内部で自己崩壊する存在である。地球の進化内部で変容を遂げる化学力が磁気である。しかし、第3の力が活動を始めるだろう。もし、今日、電気が驚異を生み出しているように思えるなら、この第3の力は、更に奇跡的な方法で文明に影響するだろう。 (現代物理では、光は電磁波とされているが、理論的に、電磁波は光子により量子化され、量子化の体系「電弱統一理論」では、弱い力のウィークボゾンと兄弟のような関係にある。 シュタイナーは、光が崩壊「凝縮」し、電気「電子」となると言っているので、よい意味で解釈すれば、弱い力の核分裂などを想定しているのだろう。例えば、中性子のベータ崩壊のことで、ベータ線は電子だからである。 だから、シュタイナーがここで言っている「光」とは、科学的にいえば、可視光線だけでなく、宇宙線を含む全てといえる。これら宇宙線によって地球は変容「光が重力に捉えられ、崩壊し、原子力等を生起」するので、その化学力が磁気を起こす。だから、第3の力とは、原子力「核崩壊、核分裂」のことを予言していたといえる。) この力を、人間が用いれば用いるほど、地球は、益々早く死骸になり、その霊的な部分は(次の地球の転生である)木星を体現するための準備を行うようになるだろう。人間が、地球から自由になり、地球の体が崩れるように、様々な力が地球を破壊するために用いられるだろう。 地球が発達的な過程に関与している段階では、このような崩壊過程は行われなかった。地球が崩壊することで、偉大な電気力の成就を利用できる。この話は奇妙に聞こえるだろうが、徐々に知られるべき事実でもある。 人間の文化を正しく評価するためには、進化の過程を理解する必要がある。その事実を理解することにより、地球(の物質文明)は破壊される必要があるということを学ぶだろう。地球が破壊に向かわなければ、霊性が自由にならないからである。すると、人間は、肯定的な存在、すなわち、霊的な様々な力の地上存在への浸透を評価できるようになる。 (つまり、地球が崩壊過程にあることで、人間は、その崩壊プロセスから、電気や原子力等のエネルギーを利用して、物質文明を築きあげることができるようになったわけで、この崩壊プロセスが更に進むと、今度は、人間の物質文明自体の崩壊まで進んでいくわけで、現在がその段階といえる。 シュタイナーは、人間の物質文明が崩壊に向かうと、再び、太古の精神文化が、蘇ることを予言している。物質文明は、古代ローマからはじまり、どうやら米国で終わるようであり、次にギリシアの精神文化が再興し「恐らく東欧あたり」、エジプト文明、そして、ペルシャ、インドとかつて歩んできた道を引き返して進んでいくようである。フリーメーソンが使う「西から東へ、東から西へ」という合言葉はこの進化の道程を意味しているようである。)
2009年10月05日
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人間の心臓の領域では、血液が絶え間なくエーテル実質に変容しつつあり、類似の過程がマクロコスモスで生起する。ゴルゴタの秘跡に目を向け、キリスト=イエスの傷から血が流れた瞬間に着目すれば、この真実が理解できる。この血を、単なる化学的実体と見なしてはいけない。 このキリストの血は物質的実質ではなく、ナザレのイエスの性質として述べられて来た全てから、唯一無二の存在と認識すべきである。キリストの傷から、その血が地球に流れ込んだとき、ある実質が地球に伝えられた。その結合は、将来の地球の時代全てにとって可能な限り最大の意義をもつ事件だった。 その事件はたった一度だけ生じることができた。その後の時代に、この血に何が起こったのか? それは人間の心臓においても、それとは形を変えた方法で生じる現象と同じものである。地球進化の経過において、この血は「エーテル化」の過程を経た。人間の血がエーテルとして心臓から流れ上がるように、ゴルゴタの秘跡以来、キリスト=イエスのエーテル化した血は、地球のエーテルに生きてきた。 地球のエーテル体は、ゴルゴタで流れた血から生じたものによって浸透されてきた。この事実は大変重要なことである。キリスト=イエスを通して生じたことが、もし生じなかったなら、地上の人間の状況は物質世界のなかで下降するしかなかっただろう。ところが、ゴルゴタの秘跡以来、キリストのエーテルの血の活動が、下から上へ、心臓から頭部へと流れる流れと合流する絶え間ない可能性が存在するようになった。 (シュタイナー曰く、キリスト以前は、道徳が退廃し、人間は絶滅に向かって下降するしかなかったが、キリストが太陽から道徳律を携えて下降したので、人間は再び、道徳へと志向するような可能性が生まれたという。 ちなみに、キリスト以前は、仏陀が八正道を説き、人間に慈悲心をもたらしたが、釈迦入滅後、末法の世になると予言し、イスラエル民族には、モーセを通じて、十戒が、道徳律としてヤーウエ神より与えられたが、人類は約束を破ったので、キリストを遣わして、キリスト自身が十戒そのものの手本になり、人間に示したということが、聖書等の神秘的解釈で説かれている。 つまり、キリストの生き方が、人類に対する十戒の新しい契約ということになる。キリストのように生きないと地獄に堕ちますよ!という警告のようである。今風に言えば、「自己責任だよね」ということ。) ナザレのイエスのエーテル化した血が、地球のエーテル体に存在しているので、そのエーテルが心臓から脳へ流れ上がるエーテル化した人間の血に寄り添う。その結果、前述した、これらのエーテルの流れが人間において出会うだけでなく、人間の血流は、キリスト=イエスの血流と結合する。 しかしながら、人間がキリスト衝動に含まれる真実の真の理解を展開できたときにだけ、この2潮流の結合が生じる。理解できなければ、結合できない。2潮流は互いに相手を排除しあい、押しのける。地球進化の時代毎に、その時代に適った形態で、真実の理解を獲得しなければならない。 キリスト=イエスが地上に生きた時、それに先行する出来事は、イエスの先駆者のヨハネのもとを訪れ、福音書に述べられた儀式に従って洗礼を授けられた人たちにより正しく理解された。言い換えると、その人たちは、自分の罪、いわゆる過去世のカルマ、つまり、終焉にむかったカルマが変えられるように、地球進化において最も強力な衝動が、肉体に降りようとしている事実を悟るために洗礼を経験した。 しかし、人間は進化する。現代(1910年代)においては霊科学に含まれる知識を受け取り、徐々に人智学が理解され、心臓から脳へと流れる潮流に火を点ける必要があるということを理解できるようになることが大切である。もし、点火できるようになれば、20世紀に、始まりをもつ出来事を、個人々が包括的に理解できるようになる。また、パレスチナの肉体的キリストに対するエーテルでのキリストの出現がみえるようになる。 (シュタイナーは、キリストの復活を、エーテル体での復活としている。だから、キリストは現在も地球上で活動していることがエーテルをみれる霊視器官「チャクラ」を獲得した霊能者にはみえるという。キリストの弟子たちが、キリストの復活を信じたのは、生前のキリストの特徴から、エーテル体のキリストが感じとれたからだという。ヨハネはキリストを霊視できたという。 ここで述べているように、人間は道徳性を高めると、心臓から脳へと流れる地のエーテルの光線「オーラ」が、脳から心臓へと流れる天のエーテルの光線「オーラ」と融合し、明るい紫、もしくは菫色に輝くという。そのとき、松果腺が開発され、霊視できるようになるらしい。すると、かつて天と地を仲介したキリストが、エーテル体を身に纏った姿でみえるという。 エーテルは、聖書では、白衣として表現され、古代ギリシア人が着ていたローブのような衣服は、エーテル体を表現したもので、古代ギリシア以前の太古人は実は裸であったようである。明るい紫や菫色のような紫系の色で表現されたローブや法衣が、高貴なものとされたのは、このエーテルオーラの模倣ともいえる。聖書にも、処刑されるイエスが紫色のローブを着せられたとある。)
2009年10月02日
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睡眠時の活動に夢が入り込むことはよく知られているが、これは正真正銘の夢である。睡眠時に、別の意識に浸透する夢である。荒涼とした空虚で不健全に覚醒した人生を送りたくないなら、夢は人間が日中に必要とするものでもある。 とにかく、夢は、夜の睡眠時に訪れる。この事に証明は不要である。夜の夢と昼の夢の2極の中間に、ファンタジーに生きることができる状態がある。 だから、ここにも3重の魂の活動がある。人間が真に覚醒するような知性的要素は、日中、思考に自らを委ねるとき、アストラル界の影像を連れて来る。アストラル界では日常生活や偉大な発明等の実り豊かな理念が発生している。そして、睡眠時に、夢見るとき、その夢は、睡眠の活動に作用し、低次の神界に由来する映像の影をおとす。 睡眠時に働き、道徳性を人間の意志に刻み込むとき、それを直接知覚できないが、間違いなく、その結果は知覚できる。また、夜間の思考に神的、及び霊的な力の影響を浸透させるとき、知覚する衝動は高次の神界、高次の天界から来た影である。 これらは人間内部に生きている道徳的、衝動的感情である。この感情のために、唯一、思考を善と美に奉仕させるとき、神的な、霊的な生命の心臓の血を、人間の知的活動に流れさせ、それに道徳的衝動を浸透させるとき、人間の活動は、根本的に正当化される。 ここで、まず外的な顕教的観察から、次いで、更なる神秘的性格の観察から、人間の魂の活動として提示する事実は、更なる深い秘教的研究によって啓示される。外的な物質的側面で描かれて来た様々な過程は霊視により知覚できる。 今日、覚醒した状態で、人智学徒の目の前の人間を、霊視の眼で観察するとき、ある種の光線が心臓から頭部へ連綿と流れているのが見られる。これを図で描くなら、心臓の領域から脳へと向かう連綿たる流れを示す必要がある。その流れは、解剖学でいう頭部の松果腺として知られる器官の周囲を流れている。 これらの光線は心臓から頭部へ流れて、松果腺のまわりを流れる。この流れは、物質的な実質である人間の血液が絶え間なく溶解し、エーテルの実質になることで、生じる。心臓の領域において、この繊細なエーテル実質への血液の絶え間ない変容がある。 そして、このエーテル実質は頭部へと上昇し、松果腺のまわりを輝きながら流れる。この過程、つまり血のエーテル化は、覚醒した人生の間中、人間のなかに見ることができる。ところが、睡眠時の人間の場合は異なる。 人間が眠るとき、オカルト観察者は外から脳へと、更に、覚醒時の心臓から脳とは逆方向の、脳から心臓へと絶え間なく、流れ込む様子を見ることができる。ところが、睡眠時の人間では、外から、つまり宇宙空間、いわゆるマクロコスモスからやって来て、ベッドに横たわっている物質体とエーテル体の内的組成に流れ込み、この流れを探査すると、驚異的な真実を啓示する。 これらの光線は個人毎に大きく変化する。眠っている人間は各々大きく異なる。少し驕った心の人が公の集会で寝入るとき、秘教的観察によると、どんなに酷く自身を暴露するかを知れば、眠らないように必死になるだろう! 道徳的資質は、睡眠時、人間に流れ込む個別の流れ彩りに明瞭に啓示される。道徳性の低い人の流れは、高次の道徳性の人で観察できる彩りとは全く異なる。日中では、本性を欺こうとする努力も無駄に終わる。また高次の宇宙的な力の前では、いかなる欺瞞も不可能である。 僅かな道徳性の傾向しかもたない人の場合、流れ込む光線は茶色がかった赤色である。茶色っぽい赤に傾く様々な陰影を呈する。高い道徳の理想をもつ人では、その光線は明るい紫や菫色である。目覚めや寝入りの瞬間に、上から流れ降りる光線と下から流れ上がる光線の間に、松果腺の領域で、一種の闘争が生じる。 覚醒時、知的要素は光の流れの形態で下から上へと流れ、道徳的、審美的性質は上から下へと流れる。目覚めの瞬間や寝入る瞬間、この2つの流れが出会い、道徳性の低い人では、2つの潮流の間で猛烈な闘争が松果腺の領域で起こる。 高い道徳性と溢れる知性の人では、光が輝きながら、平安な拡張を保つ状態が松果腺の領域に現れる。この腺は目覚めと寝入りの間の瞬間に、小さな光の海に大まかに囲まれる。そのような瞬間、穏やかな輝きが松果腺を取り囲むときに、道徳的な高貴さが啓示される。 このように、人間の道徳的性格は、反映され、この穏やかな光輝は、頻繁に心臓の領域まで拡がっている。だから2つの流れが、人間において知覚できる。マクロコスモスから来る流れとミクロコスモスから来る流れである。 この2つの潮流がどのように遭遇するのか? その意義の理解には、まず魂の活動について、外(物質世界)的に、これまで前述してきた事実を考察する必要がある。また、この活動が、知的要素と審美的要素と道徳的要素の3重性をどのように啓示するかを考察する必要がある。審美的要素と道徳的要素は上から下へ、脳から心臓へ流れ降りる。 マクロコスモスにおける照応現象に注視を向けることで、わかる事実の意味を把握すべきである。この照応現象は、純粋な薔薇十字者の個人により行われた近年の綿密で注意深い秘教的研究の結果として、今日でも述べることができる。 これらの探査は、ミクロコスモスに関連して述べた事実に照応し、マクロコスモスでも生じる、ということを示している。次第に人類はこの事実を十分に理解するようになるだろう。
2009年10月01日
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