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人間の魂の活動には、善なる行為に対する単なる嗜好とは峻別すべき第3の領界がある。親切な行為を、傍らで目撃すると、愉悦を覚えることと、意志を行為にうつし、親切な行為を実際に自分で果たすことの、この2つの間には相違がある。 いま、善良で美しい行為を喜ぶことや、邪悪な醜い行為に不快を覚えることを、審美的要素と呼び、人間を善行へと衝動する道徳的要素と区別する。道徳的要素は、純粋に審美的要素より高いレベルにある。単なる快や不快は、善か悪の行為をなす意志より低いレベルにある。 人間の魂が道徳的衝動を表出するように迫られる感じがする限りにおいて、これらの衝動は高次の神界や、高次の天界の影像である。 人間の魂の活動の、これまで述べてきた3つの別個の段階、 つまり、「1.純粋に知的な段階(思考、イメージ、観察)、2.審美的な段階(快や不快)と、3.道徳的な段階(善悪の行為をなす衝動に姿を現す)」を、 マクロコスモスという大世界に重なる3つの領域が、人間の魂の経験内部に投げかけるミクロコスモス的な映像として思い描くことができる。アストラル界は、思考の世界や、知的世界に影を落としている。神界は、快-不快の審美的領域に影を落としている。高次の神界は、道徳として影を落としている。 思考:アストラル界の存在たちの影像(覚醒) 共感と反感:低次の神界の存在たちの影像(夢) 道徳的衝動:高次の神界の存在たちの影像(睡眠) この真実を、人間の魂の2極に関して、以前述べた事実と関連づけるなら、知性の極を、目覚めた生、つまり、知的に目覚めている生の支配として経験しなければならない。覚醒時、人間は、知性に関して目覚めている。逆に、睡眠時、人間は意志に関して目覚めている。 夜、知性に関しては眠っているので、人間は自分の意志で行うことを意識しない。道徳的原理と衝動と呼べる存在は、間接的に意志に働きかける。実際、人間は、思考の生を通じて吸収する道徳的衝動が効果的な活動に入れるように、睡眠時の活動を必要としている。 今日、通常の活動においては、人間は知性の領域において唯一正しいことが実行できる。道徳的領域においては、それほど正しいことを実行できない。というのも、道徳的領域が、マクロコスモスから来る援助に依存しているからである。 既に人間内部にあるものは、知性の更なる発達を引き起こせるが、もし、更に大きな道徳的な勇気を獲得したいなら、神々が助けに来なければならない。神的な意志に飛び込めるように、人間は睡眠におちいる。睡眠中、(人間の未熟な)知性は干渉できない。 なので、睡眠中、神的な様々な力が、人間の受け取る道徳的原理を、意志の力に変容させる。そこで、神的な様々な力は、人間の意志に、もし、眠らなければ、思考でしか受け取れない道徳性(徳性)を注ぎ込む。 この2極の中間、つまり、夜、覚醒している意志の極と、昼、覚醒している知性の極の間には、連綿と存在している審美的な鑑賞の領域がある。日中、人間は充分に覚醒していない。真面目で、知職的な個人だけが覚醒した人生のなかで常に過分に覚醒している。 基本的に、人間は日中、実際、夢を見る必要がある。覚醒時に、常に少しばかり夢を見る必要がある。芸術や詩歌など、粗雑な現実に全面的に関わらない何らかの活動に自らを委ねる必要がある。自らを委ねることができる人々は、実存の総体を、賦活化し、活性化できる絆を形成する。そのような思考に自らを委ねることは、夢が、覚醒時の人生に浸透することに、ある程度似ている。
2009年09月30日
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意志が、夜、眠らないということに気づかなければ、それは、思考の活動による覚醒法しか理解していないからである。意志は、夜間眠らず、そのとき火の元素霊とともに働く。昼に使い果たされたものを回復するために身体に働きかける。 このように人間には2つの極がある。観察やイメージ形成の人生と、意志の諸衝動である。人間は、この2極に正反対の関わり方をしているが、単なる2極ではない。魂の活動の総体は、この2極間の様々なニュアンスにある。ミクロコスモス的な魂の活動を、高次の世界として知る存在と関連づけることで、この魂の活動を理解でき、接近できる。 これまで述べたことから、イメージ形成の活動が、魂の活動における一つの極であることが分かった。このイメージ形成の活動は、外的な、唯物主義的な精神の持ち主には、実在でないかのように思われる。例えば、次のような思考が表出されるのをよく耳にする。 「イメージと思考は単なるイメージと思考の(仮想の)存在にすぎない!」 この言葉は、パンや肉の一片を手に取れば、それは実在だが、思考は思考にすぎない、ということを暗示するものである。思考は食べられない、という意味である。だから思考は実在ではなく、思考に「すぎない」。 しかし、なぜなのか? 基本的に言って、人間が思考と呼ぶ存在と、実際の思考との関係は、事物の影像(影響)と事物との関係と同じだからである。花の影像は、花を実在として指示する。思考も本来、同じ存在である。 人間の思考はイメージ、高次の世界に帰属する存在たち、いわゆるアストラル界と呼ばれる世界の影像なのである。人間の頭部に思考を描くとき、自分に、イメージを表象することになる。そのとき、頭部には、高次世界の思考の影像があるが、この頭部の思考は、アストラル界の生きた存在たちとして思い描く必要がある。 実に、変化に富んだ種類の存在たちが、人間に影像を投げ入れ、夥しいイメージと行為の形態が、そこでは働いている。これらの過程が、人間の頭部に思考として反映している。絶え間ない、思考の流れが、アストラル界から、人間の頭部の中に動いている。それらは、人間の頭のなかに思考の活動を確立する影なのである。 思考の活動と呼べる存在と同じように、人間の魂の内部にはまた別の活動がある。通常の活動において、思考の活動と感情の活動は区別される(この区別は、正確ではないが、通常の活動の概念から得られる)。更に、感情は2つに分類される。快と共感の感情と、不快と反感の感情である。 前者は良い、善意の行為によって引き起こされ、反感は邪悪な、悪意の行為によって引き起こされる。ここには単なるイメージ形成以上の存在がある。人間は他のどの要因にも関係なく、事物のイメージを形成するが、人間の魂は、美しく良いものや、それとは反対の醜く邪悪であるものに関して、共感や反感を経験する。 人間において思考として生じる全てがアストラル界を暗示するように、共感や反感と関連する全ては、低次の神界と呼ぶ領域を暗示する。イメージとアストラル世界の間に結合の線を引けるように、感情に関しては、神界や、天界を暗示できる。 天界、すなわち神界における諸過程は、主に人間の胸部において、美しいものや醜いもの、善なる存在や悪なる存在に対する共感や反感として投影される。道徳的な美的世界の経験と呼べる存在において、人間は、魂のなかに天界、すなわち神界の陰影を担っている。
2009年09月29日
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人間が、神秘主義、或いはその反対の現実主義であれ、それらいかなる方法であれ、知識を求めて来たところには、常に自己認識の獲得が要請されてきた。他の機会にも繰り返し強調してきたことだが、この人間の魂を知ることは多くの人(時にはその中に人智学徒も含まれる)が信じているほど決して容易ではない。 人智学徒はその努力において出会う障害を絶えず意識すべきである。しかしながら、世界的な実存において、価値ある目標に到達したいなら、また、人間として自分に相応しい行動をとりたいなら、自己認識の獲得は絶対不可欠である。 なぜ自己認識がそれほど困難なのかを自問してみる。人間は複雑な存在である。もし人間の内的な生、もしくは魂の生について語るなら、それを単純で幼稚なものと見なすべきではない。むしろ、内的な生や魂の生にある素晴らしい構造、つまり、世界の神通力、及び霊力が、人間という組織(肉)体に深く浸透し、人間として出現し得た辛抱強さや、忍耐力及び意志をもつべきである。 この自己認識の性質を検証する前に、人間の魂の生の2つの様相が姿を現すだろう。磁石が北と南の極をもつように、また光と闇が光の原理の両極として世界に存在しているように、人間の魂の生にも2つの極がある。 2つの生の対立する状況におかれた人間を観察するとき、この両極が出現する。非常に美しく印象的な自然現象の観想に没入し、通りに立っている人を観察する。じっとしたまま、手足をも動かさずに、目前に広がる壮観から決して目を離そうとしない人の姿を見る。そして、その人が自分の見ているものの内的映像を作る作業に従事していることに気づく。 その人は自らを取り囲むものの観想に一心不乱になっていると言える。これが1つの状況である。また別の状況もある。ある人が道を歩いていたところ、誰かが自分を侮辱したと感じ、よく考えずに、怒りに身を任せ、侮辱した相手を殴ることで怒りを表出した場合である。 そこでは、その人の、怒りから発生した力の開示、つまり意志の衝動の開示を目撃する。もし暴力行為の前に、熟考していたなら、殴る必要などないことは、容易に想像できる。今、このような2つの極端に異なる行為を思い描いた。 前者にはイメージ形成だけがあったが、意識的な意志がない過程(プロセス)といえる。対して、後者には思考、つまりイメージ形成がなく、直接的な意志衝動の表出が与えられた。この2つの事が、人間の魂の2つの極端な極性を提示する。 前者の極は、いわば観想や、イメージ形成、もしくは思考に対する自己放棄である。そこでは、意志は役割をもたない。後者の極は、思考なしの意志の衝動力である。外的な生における外的な観察だけで、このような事実に到達できる。 これらの事柄に更に深く入り込むこともできる。そのとき、人智学徒は、秘教的研究の発見を助けにして、唯一召喚することで、自分の振る舞いを見い出す領域に入り込む。ここでもまた、別の対極が対峙する。いわば眠りと目覚めの対極である。 眠りと目覚めの関係の秘教的意義を人智学徒は知っている。人智学の基本概念から、目覚めた生において、人間の存在の4つの構成要素(物質体、エーテル体、アストラル体と自我)は、有機的に活動的に相互に織り成しているが、眠りにおいては、物質体とエーテル体はベッドにとどまるが、アストラル体と自我は出ていき、この物質世界に境界を接する大世界(霊界)に注ぎ込まれることを知っている。 また別の観点から、これらの事実に接近できる。あの世の観想について、またイメージ形成について、更に思考について、そして意志とその衝動について、一方では目覚めた生において、また他方では眠りにおいて、何が言えるか、を問うこともできる。 この問いへと深く浸透するなら、現在の肉体の存在の人間は、ある意味、本質的に、常に眠っているということが明白になる。しかしながら、夜間の睡眠と昼間の睡眠は異なる。外的な方法で、それを確信できる。 なぜなら、人智学徒は、昼に秘教的意味で覚醒できるということを知っているからである。言い換えると、霊能力者となって、霊界に参入できるからである。通常の肉体は、この霊界の観察に対して眠っている。だから、人間が霊的な諸感覚を利用できるようになると、それが真の覚醒であると言える。 勿論、夜には、正常な方法で眠っている。だから、通常の睡眠は外的な物質世界に関連した睡眠と言える。一方、現在の昼の目覚めた意識は、霊界に関しては睡眠ということになる。 (前者の観察者のように、身体を動かさず観察に没頭している状態は、霊的覚醒を試みていることになり、いわば瞑想の境地といえ、霊的覚醒を試行している。夜の睡眠も、霊的覚醒を試行しているともいえる。対して、後者の暴力者のように、誤った思い込みから、身体を動かしたり、暴力を振るったりする状態は、霊的には眠っている状態で、物質的世界では覚醒している状態ということになる。) これらの事実は、また別の観点から考察できる。更に深く検証してみると、肉体的な生の通常の目覚めた状態において、人間は、一般的に、自らの意志に対して、行使力や制御をほとんどもたないことに気づく。人間の意志は日常生活から離脱している。 人間の意志と呼ばれる存在を注意深く観察すれば、その意志の衝動に関して、人間が日常生活においていかに制御力がないかが分かる。朝から夜にかけ、行うことで、実際に、純粋に、自身の思考、イメージ形成、もしくは、自らの人格的、個人的決定の結果であるものがどれほど少ないかを考察するだけで十分である。 誰かがドアを叩いて、「どうぞ」と言うとき、それは自身の思考と意志の真実の決定と呼ぶことはできない。腹を空かせて食卓につくなら、それは意志によって行われた決定と呼ぶことはできない。なぜなら、それは肉体の状態、つまり有機体の要求によって引き起こされたからである。 自分の日常生活を思い描くなら、自らの意志が、人間の中心の自我から、直接影響されることがどれほど少ないかが分かる。なぜそうなのか? 秘教的な教えは、意志に関して、人間は、昼、実際には眠っていることを示す。言い換えると、人間は意志の衝動の内部に、実際全くといってよいほど、生きていない。人間は、より良い概念とイメージを進化させることができる。また、高度に道徳的な、より洗練された個人にもなれる。 しかし、人間は、意志に関して何もできない。もし、良い思考を育成するなら、意志に間接的に働きかけることはできるが、生に関わる意志に対しては、直接何もできない。これは、日常生活において、人間の意志は、間接的にしか、すなわち、睡眠を通してしか影響されないからである。 睡眠中は考えないし、イメージを形成しない。ところが、意志は覚醒し、外側から、人間の有機体に浸透し、それに活力を賦与する。朝起きると、強化された感じがする。なぜなら、人間の有機体に浸透したものは、意志の性質だからである。 人間が、この意志の活動を知覚しないことや、それについて何も知らないことは、全ての概念活動は睡眠時には眠るということを考慮するなら、理解できる。だから、最初に、更なる観想や、瞑想のために、次のような示唆を捧げる。 「自己認識を遂げるほど、人間は、覚醒時は、意志が眠り、睡眠時は、概念の活動が眠る、という言葉の真実の確証を益々見い出す。意志の活動は昼に眠り、思考の活動は夜に眠る。」
2009年09月28日
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次に、インフルエンザから花粉症に目を転じてみる。シュタイナーは、花粉症の発生は空気中の花粉より季節によるという。花粉症に罹りやすくなる最も大きな原因として、「アストラル体が適切に物質の排出を行なっていない」ことを挙げる。 春が近づき、あらゆるものが水中で成長をはじめるとき、人間の液体組織もまた敏感になる。そういうとき、この液体組織、すなわち「水人間」=エーテル体に様々な物質が溶け込みやすくなる。すると、人体の液体組織が通常よりも、少し純度が薄く(汚染して)広がることになる。 「花粉症に罹りやすい人の液体組織は常に僅かに過分である。液体は液体内に溶解している存在により占有され、四方八方へと押しやられる。このように、人間は、春に現われる全てに敏感に反応するようになる。特に、植物から放たれる花粉は格別刺激が強い。」 「だから花粉が花粉症を発生させるのではない。花粉は花粉症を悪化させる。」 (このような観点は現代科学の観点からも支持できる。花粉症は、いわゆる自己抗体[IgE]が過剰に生産された結果で生じるとされている。免疫学では、体質を細胞性のTh1に改善することで、治療できることが理論的に挙げられているが、シュタイナーは半世紀も前に、アストラル体によるエーテル体の不純の問題にあると言っているのである。) 「では、人智学の洞察から作られた花粉症予防薬の効能へと話をうつす。膨張した液体組織を再び一つに統合し、少し濁らせ、最初に溶け込んだ不適切な物質を外へと排出させる。その薬を注射した後で少し汗をかくようにすればよい。」 「ここから興味深い事実が明らかになる。発汗作用は、このようなアストラル体の調整に役立つ。もし寝汗をかくことがあれば、まして夜尿症に悩むことがあれば、これは明らかにアストラル体の問題を指し示している。子どもの場合にも、細心の注意を払う必要がある。おそらく少年犯罪者の生い立ちを調べれば、このような考え方の正当性とは言わないまでも、少なくとも、方向性の正しさが立証可能となるだろう。」 ここで性急に人智学の花粉症薬の使用を求める人を諌めるように、シュタイナーは言う。 「医者は患者が便秘でないかどうかまず確認しなければならない。便秘の人は液体組織がさらに濃縮され、益々外へ出づらくなるからである。便秘の人は注射と一緒に、通じをよくする下剤薬も投与する必要がある。」 「真に効果のある治療を行う場合、医師はどの薬がどんな病気を治すのかを知っているだけでなく、患者にどのような質問をすべきか知っていることも大切である。偉大なる医術は正しい質問をすることと、患者をよく知ることにある。このことは、非常に重要である。 なのに、おかしなことに、患者に年齢さえ尋ねない医師によく遭遇する。年齢を知ることは意味がある。同じ治療法を使うにしても、例えば50歳の人と40歳の人とでは、全く異なった方法で治療しなければならない。治療においては、ただマニュアルに沿って『この薬はこの病気に効く』としてはいけない。」 例えば、犬と猫という身近な例を挙げる。犬は便秘がちで、猫は下痢気味である。だから犬と猫に薬を与えて、作用の違いを観察するとよいと提言している。自分がどちらに属すか、知るとよい。 「人間は『物質人間』だけでなく『液体人間』であり、更に、…『気体人間』でもある。『気体人間』は一瞬毎にその形を変える。この瞬間毎に、空気は外にあったり、体内にあったりする。」 不要になった固体物質が肉体の液体組織に溶け込むように、「体内の水も、絶えまなく蒸発している。」「土壌の水が蒸発すると、それは大気の中へと立ちのぼるが、液体人間の中で、水が絶えず微量ずつ蒸発すると、吸い込む空気の中に侵入する。」 「肺に異常がある人は注意すべきである。というのも、その人の中では先に述べたようなプロセスが起こりやすい。この人は、肺の病に罹るかもしれないが、もし不当に沈殿した物質が液体人間のなかにあることで引き起こされた病なら治療できる。 しかし、肺の病が表に現れるほど悪化していない場合、何と言っても、人体の器官は敏感なので、肺が炎症を起こすほど強く侵される状態には至らなくても、少し具合が悪くなる。こういった軽い症状には耐えられるが、実際は、肺に浸透すべき物質が、液体組織に入り込んでいる。 この場合、肺の中の液体が、不適当な物質を溶解していることになる。そして、こういった不純物は、特に肺が健康ではない場合、蒸発する。」 不適当な物質が液体組織に溶け込むだけでなく、蒸発して、吸い込む酸素と交じり合うと、神経組織に害となる。神経組織は健全な酸素を必要としているのに、液体人間の汚染された液体から蒸発した酸素が入り込むからである。肺で、このような蒸発が生じると、肉体的な疾患にならなくても、いわゆる精神病になってしまう、とシュタイナーは説く。 「いわゆる精神病は実際には精神の病などではない。なぜならば、精神、もしくは霊は病気にはならないからである。精神病は、体液が不適当に酸素の中に蒸発して神経組織に分配されることにある。」 だから「自分の液体の中に何も不適当なものが広がらないように、更には液体が不適当に蒸発しないように、絶えず物質を正しく管理、処理する必要がある。しかし、日常生活でさえ、不適当に蒸発させることがある。そして、喉が渇いたときに気付く。」 喉の渇きは、いわゆる精神病への傾向であり、空腹は、肉体の病気への傾向であると、シュタイナーは言い、実践的な助言をする。 「状況によっては、渇きをうまく癒せないことを探知するのが困難なときがある。特に乳児期の場合である。乳児期には、飢えと渇きの違いを明確に識別できない。両方ともに、ミルクで満たされるからである。だから、もし、母親や乳母の乳を通して有害なものが組織に入ったなら、ずっと後になって、液体組織から不当な蒸発が生じ、いわゆる精神病に導く原因となることもある。 また、ある人が間違った予防接種を受けた場合もある。牛のリンパ液や患者のリンパ液を、間違った選択から、接種すると、たとえ液体組織自体が直接病気にならなくても、液体組織に作用する諸器官が苦しめられることもある。不適切な接種の結果として、体内の蒸発過程(プロセス)が正しい機能を果さなくなり、やがて、精神病になる場合もある。」 「今日(1920年)非常に多くの人々が早発性痴呆症…に悩まされている。この病気は、若い時期に精神が崩壊し始めるが、その大部分は乳幼児期の間違った食事に起源する。赤子のミルクを化学的に調査するだけでは十分ではない。それとは全く異なる側面を吟味する必要がある。現代になって、食事に関心を払うのを止めてしまったので、この病気が恐ろしい勢いで発生している。」 「今まで述べたことから、この病気にはこの治療がよいと知るように医者を訓練しただけでは十分でないことがわかるだろう。生活全体を健全にするように努めなければならない。そのためには、健全な生活に関係する全てを発見する必要がある。人智学はこの事実への理解を与えることができる。人智学は、公衆衛生という分野でも有効であることを目的としている。人智学は健康の様々な問題を正しく把握することを望んでいる。」
2009年09月25日
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さて、前回の、怠惰な自我のせいで、アストラル体が怠惰になったため、栄養が、必要とする器官に送られずに、違う器官に送られているうちに汚染され、再び必要とする器官に送られたときには、汚染物質となっているので、必要とする栄養が送られずに弱くなった、その器官に、その汚染物質が送られると、病因となるということに関して、シュタイナーは非常に繊細な洞察を披露する。 「人間は、誰かの話を聞くとき、ただ聞いているだけではない。非常に弱められた形ではあるが、喉頭はその誰かの話を模倣し、再創造している。だから、インフルエンザに罹った患者に会って、その患者の話を聞くと、たとえ、その患者に同情していなくても、内的には(喉頭が話を模倣し、再創造しているので)、『その患者の話を模倣し、お気の毒に、と感じて』しまうので、その患者への感受性が高まる。」 このように喉頭の模倣、再創造から、病気を受け入れる土壌が内的にできあがった状況に、ウイルスが来ると、感染し、病気になる。だから人智学は、病気の原因として、ウイルスに由来することを否定しないし、環境因子を否定することもなく、非常に現実的な考え方なのである。 (昔から、日本では、馬鹿は風邪をひかない、といわれるが、これは鈍感な者は、感染しない、といいたかったのだろう。また、動物の死体をみて、それに同情すると、動物霊がとりつくともいわれるが、この俗説の根拠も、この話から理解できる。 例えば、学習や技術習得は、模倣や真似にあるといわれているが、この感染の原理から、納得いくだろう。つまり、悪い意味の模倣や再創造が、感染で、善い意味の模倣や再創造が、学習や技術習得なのである。だから、師匠と教師を選ぶには、慎重にならなければいけない。) インフルエンザに関して、シュタイナーはもっと具体的な指摘をしている。 「体内にインフルエンザウイルスがいると、玉ねぎやニンニクを生産するために、土に添加すべき肥料と同じ物質[硫黄とリン]が、体内の液体組織に溶けている。そして、やがて、その患者は、その植物[玉ねぎやニンニク]と同じような臭いを出し始める。」 「インフルエンザに罹った人から出る臭いのため、周囲の人の頭は鈍くなる。なぜなら、頭部のある器官、すなわち[感覚器]が、必要とする物質を適切に供給されなくなるからである。体内にインフルエンザウイルスが入る結果として、頭部のある器官が適切な栄養の供給を受けなくなる。 この臭いは玉ねぎとか、ニンニクに似ていて、繊細な鼻の持主には探知できる。金切り声やかすれ声を模倣するように、患者が発散する臭いに、調子を合わせ、自ら加わる。その結果、自身のアストラル体や、自身の活動が乱れる。 この混乱が化学的基盤を引き起こし、インフルエンザに罹患させる。玉ねぎやニンニクに相応しい土壌を体内に作るようなものである。だから、当初は、病気と細菌(ウイルス)は無関係である。人と人との関係だけに関係がある。」 つまり、シュタイナーは「なぜ人が病気になるのか」という問いに次のように答える。 簡潔に言えば、「何かが人を害するときである。精神病でも同じである。汚染された液体には、本来の場所で消化されるべき栄養物質が溶けこんでいる。その栄養物質が、人を害する。」
2009年09月24日
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さて、1922年12月27日にドルナッハで、シュタイナーはゲーテアヌム労働者を相手に、「私たちはなぜ病気になるのか――インフルエンザ、花粉症、精神障害」といった内容の話をしている。 一人の労働者が慢性の花粉症に悩んでいる旨を訴え、人智学的医術による、花粉症に効く治療法を聞いた。シュタイナーは治療法というよりもむしろ予防法と答えたという。ここに人智学的医術の先見性が現れている。 「外見的な症状(病気)とは、内面的な苦痛(気)の最終的な結果にすぎない」という予防医学の観点をすでに重視している。言葉を継いでシュタイナーは言う。 (病は気から。人智学的にいえば、病はエーテル体から、になる。) 「病がある器官しか犯していないとしても、この治療(予防)法は、肉体全体での、その器官の大本を治療」する。骨折のような場合は、転落などの物理的要因が明らかだが、「なぜ、ある人と接触した場合、病気が感染するのかという問題」もある。 シュタイナーは大胆に次のように説明する。「私たちは皆、喉が渇いたり、空腹を感じるとき、実際は、わずかに病気に罹っていて、飲んだり、食べたりすることによって、自身を治療している。」 だから「飲んだり食べたりといった一つ一つの行為が、実は、治療行為となっている。」 (医食同源。飲食行為そのものが治療行為である。) それでは飲食において、何が起きているのか? 食物が口や腸管から吸収されるとき、消化酵素の助けもあって食物を分解しているとはいっても、食物の物質、いわゆる栄養物質がそのまま人体内でも存在していると、現代人は想像している。現実に、科学も、栄養物質に標識をつけて体内でどのようにそれが変化したり移動しているのかを追跡している。 ところが人智学では、そのような回答だけでは片手落ちである。「人体が絶えず活動しているということも考慮に入れる必要がある。たとえ何も体内に入れなくても、例えば5時間、体内に何も入れなくても、生体の活動は止まない。」 では、この生体活動が満ち足りるのはいつか? 当然、食後である。この活動がアストラル体であるとシュタイナーはいう。 「アストラル体は決して怠けることがない。食物という物質を破壊し溶解して活動を維持できたなら、アストラル体は内的な快適さに満たされる。そのとき、アストラル体は内的な幸福感を持つ。しかし、もし食物という物質を取り入れなければ、アストラル体は満足しないので、この不満が、空腹感で表出される。 空腹感は、体内で安らぐものではなく、活動的なので、この静めることのできないのが、魂-霊的な活動なのである。この内的活動は食物という物質と恋愛関係にあると言える。だから、もし、この内的活動が食物という物質を受容できなければ、まるで捨てられた恋人のように、満たされぬ思いをもち、この不満が空腹感となる。」 このアストラル体の活動は「食物を分解することで成り立ち、役に立つものは血管に運ばれ、残りは糞尿を通して除去される。」 アストラル体は人間より遥かに賢明である。なぜなら、人間の知らない間に、溶解し、変容した食物が絶えず血液を通り、体内の器官に運ばれているが、肺の必要とする栄養は、例えば脾臓が必要とするものと異なるからである。アストラル体が、物質を識別し、区別し分配しているのである。 ところが、この究めて賢明なアストラル体もその賢明さを失うことがある。「私」、「自我」の統制が緩む時である。シュタイナーは次のように言う。 「ここで次のような想像をする。生まれつき、座りがちな体質を持つ人がいる。長い時間、座り込んでいることは、その人の間抜けな頭を、いや、その人の間抜けな自我を喜ばせる。さて、もし、その人がすぐに座り込む体質を発揮させると、アストラル体は本来、歩き回る活動的な体質を持っているので、その人のアストラル体も、怠惰に間抜けになっていく。」 「間抜けになったアストラル体はもはや、食物を適切に仕分けすることも、適切な器官に運搬することもしなくなる。」 ところが栄養物質は肉体には必要なので、糞尿などで体外に排泄されることもない。となると、本来あるべきでない器官に栄養物質が運ばれ、そこに溜まることになる。 「体内に、喉頭に向かうはずの委託(栄養)物があることを想像してみる。アストラル体が正常に働いていないので、『喉頭の委託(栄養)物』は体内の至る場所で分泌される。まずはじめに生じることは、喉頭が弱くなるということである。喉頭を十分維持する栄養を受容できないので、喉頭が弱くなり、苦しむ。 しかし、それとは別に、体内には、喉頭の委託(栄養)物が含まれ、至る場所に広がっている。既に述べたように、人体の90パーセントが水なので、委託(栄養)物は、この液体組織全体に溶けている。人体がその内に必要としている純粋で活性化された液体が、そのために汚染される。 このような現象が、体内では非常に頻繁に起こる。体内のある特定の器官に向けられた委託(栄養)物が、液体組織に溶け、結局、汚染となる。」 「喉頭の委託(栄養)物が、体内に溶け、それが胃と関係を持ったとする。すると、それは胃で破壊を引き起こすことはない。なぜなら胃は必要とする栄養を保持し、何も奪われていないからである。しかし体液は、人体の至る場所を流れ、喉頭の領域にも浸透している。 そして、喉頭は既に弱っているので、喉頭はこの汚染された液体を受け取ることになる。喉頭の委託(栄養)物が溶けている汚染水を受け取ると、喉頭器官は病気になる。喉頭の委託(栄養)物は他の器官には影響しないが、喉頭が病気になる原因となる。」
2009年09月18日
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前回で、若い医者に対するシュタイナーの人智学的医術の講座は終わったが、続けて、シュタイナーの人智学的医術に関わりのあることを、抜書きのような形で、書いていきたい。 シュタイナーが言っているように、知っているというだけでは何の意味ももたず、何度も祈りのように、繰り返し魂の前に提示し、まるで牛のように、反芻、咀嚼することが肝要なので、繰り返し続けたい。 さて、神秘学では、霊や魂が常に主題となるが、その準備事項として、松果体についての言及を、あるホームページから抜書きしたい。+++++++++++++++++++++++++++++++++ 西川隆範著の「シュタイナー用語辞典」には、松果腺について次のような記述がある。 「地上の人間の最初の感覚器官。レムリア時代には、熱を知覚する器官であり、受精器官であった。レムリア時代には照明器官でもあり、一眼巨人の伝説の元にもなった。太陽の力に刺激された器官で、月が地球から分離したころは、寒暖を知覚する感覚器官であった。アトランティス時代に、エーテル体頭部にあった知覚の中心点が、今では松果腺であり、これが発展すると人類は霊視力を取り戻す(幼児の頭の柔らかい部分が、その名残である。)松果腺は、心臓から流れてくる精妙なエーテルの流れに取り巻かれており、脳に認識の可能性を与えている。松果腺という回り道をして、エーテル化された血液は脳に作用するのである。松果腺は目の平行器官として発達し、目が作るイメージに現実性を与える(熱器官である松果腺が退化したことによって、目が発達できた)。将来、松果腺は使用された血液を新鮮な血液に変える内的器官になる。死後、心臓は松果腺に変わる。」 シュタイナーは、人体のどの物質的器官(肉体)も、超感覚的な器官(エーテル体、アストラル体、自我)に浸透されていると考えていたが、超感覚的な器官が受け取った外界の作用は、松果腺を通して、エーテル体に刻印されるようである。 どの器官も、程度の差こそあれ、物質と超感覚的存在との四重の存在ということだが、脳の中では、超感覚的側なのが松果腺、物質側なのが脳下垂体で、その間で、超感覚的なものが物質化されるようである。 感覚的なものと超感覚的なものは、単に振動数の違いで、その間、連続しているとすると、松果腺と脳下垂体は、変換器みたいな役割をしているようである。 (アナログ信号からデジタル信号に変換するようなADコンバーターなのだろう) シュタイナーの「神智学」には、松果腺は、霊と肉体を結びつけ、その間に、魂としての状態がある、とも書いている。中世の思想家が、「松果腺に魂がある」と言ったのはこの事なのか。+++++++++++++++++++++++++++++++++ 脳における、この松果腺と下垂体の仕組みを理解できないと、神秘学は理解できないともいえる。端的にいえば、宇宙の波動から、自らを分離しているかのようにみえる、つまり自分という存在を認識できているのは、この松果腺と下垂体とのやり取りにあるといえるだろう。 本能と呼んでいるものは、実は、松果腺のエーテルに対する刻印なので、刻印されたエーテルが下垂体に捉われ、物質化されることで、自分のものと錯覚しているようである。 つまり、本来、自分のものではないのに、自分と認識しているのが、人間の性で、シュタイナーは、このことをよく目の入り江や湾の構造で表現している。 そこで自分という境界を認識すると、外から押し寄せるエーテルに対して、湾や入り江の境界を設置することになり、侵食されると、炎症を生じたような感覚になるわけである。対照的に、干拓や開発をして、自分という境界を広げ、境界領域を広げると、外界のエーテルとの交流がなくなり、自然との対流や浄化作用が乏しくなり、干拓や開発地帯が腐敗し、腫瘍や癌のような機能障害を生じた感覚になるわけである。 つまり、自分という境界を何処に設置するかが健康と病気の境を設置するのと同じように肝要である。
2009年09月17日
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今度は植物が、根を用いて、地中にどのように沈んで行くか? また、どのように根を用いて、土壌の塩と密接な関係に入るのか? を考察する。 根で生じる過程(プロセス)は、物質界において、知っている過程(プロセス)の真逆である。塩化ナトリウムを例にとる。塩化ナトリウムが溶解すると、塩辛い味となる。さて、この過程の真逆を考察する。溶解を阻止すると、凝固が生起し、臭いと味が潜在する。 そこに、植物の根と土壌間で起こる過程(プロセス)がある。その過程(プロセス)は、太古の医学では「塩過程(プロセス)」として知られていたものである。太古の医学は、今日の意味での「塩(しお)」という言葉を用いなかった。「塩」ではなく、太古の「塩」といえば、植物の根が下方に進むにつれ、地の様々な実質と関係する元素霊を意味したのである。その元素霊が、太古の「塩」の性質である。 大自然の素晴らしい秘密のなかの、リズム(規則正しい秩序)に注目を向けることで、自らの医学的な知識を、実践応用可能な生命で満たすことができる。このようにして、医学的知識を、生命で満たすなら、治癒力が、先に述べたように、「助けたい」という強い衝動から生まれるように、自然と人間との霊的な関係として見直し始めるだろう。 治癒力は、霊的な関係の基盤のみに由来する。鋭敏で、勤勉で、熱心な、顕教的な学習によって、その関係を促進しなければならない。でなければ、曖昧な結果となるだろう。とはいえ、医学的知識の真の基盤は、人間の自然環境へのリズム(規則正しい秩序)に注目し、その関係のなかに、瞑想的に参入することにあるのを知るのは肝要である。医学的知職の真の基盤は、理論的な研究にはない。 (瞑想的な参入というのは、何も似非オカルティストが唱えるような特殊な瞑想ではない。あえていうなら、仏教の黙想や禅のような内観に近いもの、様々な関係に対する感謝や生命に対するお礼のようなもののようである。日本文化には、自然と、このような瞑想が、礼儀として取り込まれている。 生かされているのが当たり前と思うのではなく、自分が生かされている背景に、多くの存在の恩恵を思う思いやりのようなものでしょう。 以下などを参照に http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20090915) 今から書くことは、「学習する」ためではなく、医学的な思念に生命を促進するためである。 あなたがたは、治癒の霊である エーテルの芳香において 硫黄の恵みと結合しなさい。 あなたがたは、生を得なさい 上へと撥ねる水銀において 成長し生成する 玉露において。 あなたがたは、足を止めなさい 根を養う 地の塩において。 これは周囲の宇宙を見る際に魂が受け取るものである。人間は答える。 私は結合しよう 私の魂の知識を 花の芳香の火と。 私は揺り動かそう 私の魂の生命を 朝露の輝く滴によって。 私は強くなろう 私の魂の存在を 固化する塩によって、大地は愛ある保護で 根を養っているのだから。 もし何度も何度も、敬虔なる者が祈るように、この言葉を唱えることで内的に生きるなら、それは魂において、医療の力を促進するだろう。医学部で教育される力では、真実の医学的知識を目覚めさせることができない。というのも、真実の医学的知識は土壌から引き出す必要があるからである。だから人智学徒が追求すべき秘教的研究の絶頂には、常に次の思念を置くべきである。 魂において真実の医学的知識へと導きうる能力を誕生させるためには、魂の力をはじめに促進すべきである。
2009年09月16日
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太古の医学の在庫品を復活させるのを、望んでいるのではない。現在の観察の結果を、そっくりそのまま読み解くことだけを望んでいるが、しかし太古の伝統の術語に頼らざるをえない。なぜなら、近代の言語も近代の医学用語も、もはや正しい表現を含まないからである。 全く新たな学術用語を考案できるなら、その見解を広めるのにより有利かもしれないが、それには何年も時間がかかるだろう。今、これらの秘教的事実について聞きたいのなら、太古の表現を修正して利用せざるを得ない。 最初に、植物の世界を観察するのがよい。植物から得られる薬剤を奨励するのではなく、植物から多くが、特に秘教的深化のために、学べるからである。 伝統的な治療法と関連する3つの事柄(植物、動物、人間)を研究することは非常に重要であるが、現在の科学で通用する方法でそれらを研究するのではない。例えば、現代の学生が今日何かを学んだら、その知識を獲得する。そして、恐らく、次のように考える。「よし、この科目の問題は、この知職が答えである。私は答えを知っているし、それを応用できる。」 しかし宗教的精神を持つ学生は主の祈りを学ぶ。その学生も、主の問いと答えを知っているが、答えを知っているという事実だけでは満足には思わない。主の問いと答えを、祈りとして毎日唱え続ける。その学生は、知っていることを、毎日祈るだろう。自分が知っていることを、毎日魂に通過させる。これは非常に重要な事柄で、前者の現代的学生とは、非常に異なる態度となる。 或いは、秘儀参入者を考察する。その参入者が神秘学の基本的要素を知っていることを前提とする。その参入者は、基本的要素を知っているという単なる事実に何ら重要性を付さない。かつて、その知職を自分に同化したという事実に重要性を付さない。 秘儀参入者なら、初歩の萌芽とそれに続く全てを、時折、魂に通過させることの方が遥かに大切であるということを知っている。そうすれば、参入者の魂は常に霊感において新たな力を受け取ることができるからである。根本的に宗教的な人は、大自然を、眼前の物質世界にあるものとしか見なさない人とは、全く異なる経験をもつ。 死んだ知識ではなく、生きた知識を望むなら、何度も何度も大自然のリズムにおいて、人間は生きなくてはならない。絶え間ない知識のリズミカルな反復と、知識活動が必須である。真の医学的意識が医科学の基礎になければならないと言うとき、それを意味する真実が、この知職の反芻と知職活動の継続である。 人間の性質から、そして、その環境から医学的知識を獲得することが、治療においても、非常に重要である。何度も何度も植物を、魂のなかで実際に生かすようにしなければならない。 植物においては、次の3つの事実が特に重要である。1つ目は植物油と関連する香りである。香り、いわゆる芳香の要素は、植物に降りたい、ある元素霊たちを引き付ける。この芳香という性質の根底にある活動(実質ではない)は、その最も集約した形態において、鉱物世界では、硫黄のなかに見つかる。 植物の芳香において、活動的な、この霊的なエキスは、香りを通じて降りる元素霊の存在たちに、一種の「憧れ」を生み出す。太古の医学では、この元素霊は植物の硫黄的性質として知られていた。植物の硫黄的性質を観想し、植物が香りを発するとき、霊的な存在が上下から作用している、ということを知るなら、その香りに対する理解を獲得できる。これが第1の事実である。 獲得すべき第2の事実は、植物の葉のなかで成長するものに対する内的な感情に満ちた理解である。葉の形態と性格は非常に多彩であり、例えば、切れ込みがあったり、柔らかかったり、末端が尖っていたり、丸かったり、膝のように曲がっていたりする。 人間は植物の葉の性質に対する繊細な知覚を発達すべきである。というのも、香りを通して降臨する霊的存在たちは、この葉の性質から生命を引き出せるからである。また、宇宙の周縁から大気を通じて、植物の葉まで流れ込み、水滴を形成する努力が至る所にある。この事実は、葉に含まれる宇宙的、形成愛の原理への驚嘆すべき感情を与えることができる。 それから、朝の輝く露で覆われた植物を考察する。その本質において、これらの玉露は、宇宙の周縁が植物世界に球形の形態、もしくは水滴の形態を生み出す努力の反映なのである。水滴の形成原理は、植物の葉の性質の基礎にある。 もし周縁の様々な宇宙力だけが植物に降り、霊的活動を行うなら、常に、この球形の形態を生み出すだろう。球形成は、様々な宇宙力が植物のベリー類の実の形成において、また多くの葉の形成において、優勢であるとき、特に前面にあるが、そこでは水滴形成が、様々な地球力によってすぐに捉われ、多彩な形態が生じる。 この水滴形成への努力は、鉱物世界において、水銀のなかに集約されている。だから太古の医学は、この「水滴形成の努力」を水銀原理と呼んだ。太古の医学では、マーキュリーは、水銀という物質ではなく、水滴形成へのダイナミック(力学的)な努力を意味した。 地球上で、水銀は、上記の条件をもつので、水滴形態をもつ金属である。地球上で、水銀は、銀が月の上でもつ形態をもっている。月面では、銀は水滴形態で存在するだろう。肝心なのは、太古の医学は水滴形態をもつ全てを水銀と呼んだということである。太古の医学では、金属全てもまた「水銀」だった。 この太古の医学は生命のような可動的な概念をもっていた。現代人もまた、医学を発展すべきである。現代人は徐々に成長しながら、次のように言える心構えを獲得すべきである。 「朝、野原を歩き、植物の葉に降りた銀のような露の真珠を見ると、この露の真珠は、葉のなかに、霊的に生きる存在を啓示する。その生命とは、宇宙的な球の形態形成への努力である。」 しかし、この発言は、人間内部で、感情になるべきで、感情となれば、人間は植物を理解できる。人間は植物を、その宇宙的な球の形態形成において理解すべきである。 植物におけるその性質への洞察を得て、水滴形態形成への努力の力を、植物において理解し、そこで再び、その香りを考察するなら、徐々に、人間において、遠心的に働く作用全てを理解し始めるだろう。例えば、爪が生えるときにも遠心力が作用している。人間を通して働く遠心力は、更に爪を成長させる。特に誕生から最初の7年間、歯の生え変わりによって結論に達する力は、人間を通して遠心的に働く。それらは汗の形成においても強力に表出される。 植物の香りにおいて上へと向かい、自然霊たちを引き付けるその要素は、遠心的な方向で働く汗の臭いのなかでも活動している。だから、人間において植物的性質を探したいなら、それが外へと向かう処に求めなければならない。このように、これらの事実から、外にあるものと人間の内側にあるものとの間の親密な関係についての知識が繰り広げられる。 というのも、エーテル体がその特色をアストラル体に譲るとき、全てが変わるからである。エーテル体が環境から受け取るものを、上向きに繰り広げる傾向をもつ。エーテル体が繰り広げたものをアストラル体に譲った場合、遠心的に展開する。この点でも、人間は内部に植物を担っている。
2009年09月15日
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さて、医学研究の顕教的講座の次には、人間に秘教学的にアプローチする講座が必要であると理解できる。それは医学的知識を真の医学的意識、真の医学的姿勢へと溶け込ませる。勿論、それを本能的に求める個人がいつの時代にもいた。 19世紀の3分の2が終わった頃、この秘教的姿勢を生み出すのがほとんどできなかったが、それでも、奇人や、特異な例と見なされ、孤立した個人に、この医学的意識が見られた。私(シュタイナー)が成長した時代(1900年)には、ウィーン医学派が享受した名声の基礎は、完全な治療を重視しない治療姿勢と関わり、当時は特に結核の治療に関わっていた。 結核は、その病因にほとんど手出しできない病気である。医学的虚無主義に知っているなら、結核治療がその起源である。ウィーンの著名な医者たちは医学的虚無主義を意識的に唱導した。言い換えると、彼らは根本的な治療法が存在しないという観点を支持した。ウィルヒョウも、この見解をある程度支持した。 ウィルヒョウの見解では、もし百人の患者が治癒された場合、その50%については、治療を施されたかどうかは問題とされないと想定できるという。治療されなくても患者の半数はよくなり、30%は、治療が実際害になり、残りの患者は、偶然、選択された治療が回復の支援となったと考えられるという。ウィルヒョウはこのような主張をしたのである。 前世紀に、医学界で大きな名声に浴した人物がウィルヒョウである。今日(1924年)でも、この見解を堅く支持する著名人を知っている。治療を提唱する立場にあっても、このような見解をもっている。この見解には真の医学的意識は何ら表明されていない。医学的意識は単なる形式的姿勢と見なすことは決してできないものである。治療法は実在しなければいけない。 それ故に、秘教的な医学講座は、顕教的素材の基盤に築かれた人間的側面をも含む。顕教的で、かつ秘教的な人間的側面が必須である。それは、太古とは幾分劣る形態であったが、パラケルススのような人物においては、壮麗に魅力的に働いた要素であった。 確かに、パラケルススに対する反論を、ある詳細に関して行うこともできるが、この医学的意識が、彼においては、素晴らしく生きていた。特に、赤い土壌の地方に行くと、彼は、幾多の病気(特に血液系統に起因する病気)が、必ず、赤い土壌の赤い砂岩に原因があるということを知っていた。 病気の過程(プロセス)が進行する形式は非常に特徴的である。この「赤い砂岩」がある地方に住んでいる人々は、この土壌に慣れ、ある特徴的気質をもっているということが分かる。この土地の住民は非常に活発な脾臓活動をもっている。 そのような地方へ初めて行くと、旅行者は、その土地の住民に馴染むことができないだろう。恐ろしく頑固で、教条的で、片意地だからである。そして、旅行者は、その住民がすることを馬鹿げていると指摘しても・・・住民は「どういたしまして」と逆に謝意を返す! だから、よそ者がきて事業を始めたいと思っても、その土地のその土壌に耐えられないだろう。特に水に耐えられないだろう。そしてある病気の兆候を示すだろう。そのような地方で罹る病気は、そこで生まれた地元の人に移行していると、パラケルススは言う。 パラケルススは、その住民のエーテル体にその要因が存在していると言うだろう。エーテル体を彼は「アルケウス」と呼んでいる。「アルケウス」が、受胎後の胎児に入る前に、得た経験(前世や霊界でのもの)に要因があると言うだろう。 さて、人智学徒なら、これらの地方には、キングサリが優勢であることがわかる。キングサリの花には、時には根にも、この種の病気に、非常に有用な治療法を提供できる液体がある。 重要なことは、この医学的意識を通して、大自然の、人体内とは全く異なる知覚を展開することである。若い頃、私(シュタイナー)は、草原や野原で、植物と虫と花に交わっている医者によく出会った。彼が地味に開業している場所には、3、4人の非常に学識豊かな人がいたが、野原の野草に非常な愛をもっていた、この地味な医者の仕事は、都会の医者や他の学識者の仕事より、病人に対しては、遥かに実り豊かだった。 都会の医者や学識者の英知は学校に起因したが、その地味な田舎の医者の英知と治療に対する理解は、大自然との直接的な交流に起因した。真の叡智は、大自然の細部全てにおいて、人間が愛することができるとき、真の治療知識へと導く。 顕微鏡で大自然の断片を見ることは、母なる大自然を愛することではない。人間は大自然を愛さなければいけない。人間は皆、大自然の細部をマクロコスモスまで拡大できなければならない。この事実は、アストラル体の、この潜在的な意識的生命を呼び起こすことが、特に医学的知識にとって、それを現実に呼び起こすことが、どれほど必要であるかを示している。
2009年09月11日
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これまでの講義では、医者にとって、基盤として役立つ種類の知識概略を与えようとしてきた。それでも非常に短時間の自由しかないために、単なる素描にすぎないので、細部を語るなら相当の時間が必要であることに気づくだろう。 医学の基礎として、これまで与えてきた種類の知識の獲得には、最低1年はかかり、それでも初歩講座というべき知職概要を出来る限り与えることもできるが、いまは、その一般的描写を与えることしかできない。だから、これまでの講義で述べた事項を、あくまで医者が基礎としてもつべき知識の素描と見なして欲しい。 この知職素描を、いま医学的知識の顕教的知識と呼びたい。その次に、実際、秘教的側面がくる。だから今度は、秘教的知職について述べる。この秘教的側面は顕教的基盤に基づいて構築される。医学研究においては、顕教的側面を習得するのに驕りや躊躇があってはならない。誠心誠意、習得すべきである。現在ではまだ困難だが、やがて、ここ、ドルナッハでの医学部門設立により、この方向で多くのことが成就されるだろう。 つまるところ、現在、私(シュタイナー)の連続講座と著作に含まれる、多くの詳細な記述によって、ここで与えられた短い素描を膨らませることも可能である。今まで、この方向では、ほとんど何もなされていない。ヴェークマン女医の援助により、準備中のこの仕事が公にされたとき初めて、人智学的医術の実際的な意味での仕事の発展が開始されるだろう。 人智学は医学と医学研究に大きな刺激を与え得ることが、そのとき明らかになる。しかし同時に、医学は非常に特殊な種類の研究を含み、明確な予備的条件を伴っているということも、はっきりと実感するだろう。 人智学の知見は、医学が無視できない研究である。人智学から生まれる知識がなければ真実の医学はあり得ない。今日、支配的な混沌とした状況は、現在の研究と知識の趨勢が医学に全く不適合であるという事実が原因である。現代人は、神学にも、紛れ込んだ自然(唯物)科学をもっている。専門的な目的にのみ適し、人間という存在の真の知識には全く不適当な科学である。 この(唯物論的)科学は人間の性質の真の知識を伝えることができない。真の意味における医科学は極めて特殊なものを要求している。人間が実際どのように存在するようになるか?について話すようになれば、気づくだろう。以前、このことを顕教的側面から述べたが、今度は秘教的側面に移行して述べる。 外界の様々な実体は、実際、過程(プロセス)である。塩は様々な過程(プロセス)の析出物にすぎない。マグネシウム過程(プロセス)、鉄過程(プロセス)は、人間の外側の大自然に存在する、人間内の諸過程(プロセス)である。 鉛や水銀過程(プロセス)は、外の大自然にある諸過程で、人間が、その物質(肉)体内部にもつことができない。にも関わらず、これらの諸過程が人間内部にないというのは、外見的なみかけでしかない。 人間はどのようにして存在するようになるのか? 物質的胎芽(肉体)は受精を通して存在するようになるが、この物質的胎芽と人間のエーテル体との結合が必須である。しかし受精はエーテル体を創造しない。エーテル体は、霊的な諸世界から降りてくる霊と魂の存在や、前地球的な段階に生きて来た存在を、受容するために、自我とアストラル体のまわりに形成する。 人間の真の核は、霊や魂の性質である。その性質は、まず、かつての諸々の受肉(前世)から来る。次に、受精が生じる、遥か前からある存在が、死と誕生の間の期間から来る。この霊と魂の核は、受精の結果である物質的な胎芽細胞と関係ができる前に存在している。 その霊と魂の核は、まず、エーテル体と結合し、そのエーテル体が今度は、物質的胎芽と結合する。自我、アストラル体、エーテル体―この三位一体が物質的な受精を通して生まれるもの(肉体)と結合する。だから、エーテル体を宇宙から組み入れられる存在と見なす必要がある。 さてエーテル体がまず物質組織と結合するとき、エーテル内部に、物質組織に適さない力を含んでいる。すなわち、鉛力や錫力などである。ある実質(鉛など)が物質的に人間内部にないから、人間は完全なミクロコスモスでないというのは、見かけ上にすぎない。人体に含まれない実質は、エーテル体の組成に最重要なのである。だから、エーテル体には、物質(肉)体と結合する前に、鉛過程(プロセス)、錫過程(プロセス)、水銀過程(プロセス)などがある。 さてエーテル体が(他の構成要素も)、物質体と結合する。物質体内部に含まれない実質から、エーテル体が得た全ての力は、今度はアストラル体に移る。この移行は胎児期に僅かに生じるが、誕生時に実際の呼吸が始めると高度に生じる。エーテル体はそのとき、物質体自らの内部で仕上げた様々な力を取り上げる。 このようにしてエーテル体は非常に意義深い変容を通過する。物質体の内実と組成を取り上げ、アストラル体に、自らの組成を、人間の環境との関係において与える。アストラル体は、そのとき、人間が知ることが可能な全ての知職と内的に結ばれる。 理論ではなく、内的に消化された真の医学的知識を獲得する瞬間に、自らのなかに既に存在する知識をアストラル体内部に生かすことになる。知識は既に自らのなかにあるが、あくまで無意識に止まる。知職は、実際、人間が、その環境との関係から生まれる知識となる。 特別な例を挙げる。例えば片麻岩や雲母として知られている鉱物を土壌が含むために、鬱々としている地方を考えてみる。雲母はそのような地方に生まれた人間の物質組成に非常に強い影響をもっている。物質体は雲母が沢山ある地方では、それほどない地方とは異なるものになる。雲母力が、土壌から、物質体に作用するからである。 さて、沢山のシャクナゲが、多量の雲母を含む土壌の地方に生えることがわかっている。この植物はアルプス、シベリアなどに豊かに繁茂する。シャクナゲの実質は、そのような地方の物質体に降りてくる前のエーテル体と親密な関係がある。シャクナゲとの関係を、エーテル体は、アストラル体に譲る。 さて、地下水を通じて雲母が支配的に働くのが原因となった病気が生じたとする。エーテル体はシャクナゲから来た関係を、アストラル体に譲っているので、この要素(関係)は、外的には、シャクナゲという植物に存在している。つまり、この事実は、シャクナゲが、このような病気に治療効果を発揮する樹液を含むことを示している。あらゆる場合とはいわないが、多くの場合、固有の治療薬は、特定の病気が生じる地域で見つけられる。 さて、次のことを考えてみる。自分が医者であるとして、毎晩眠りにつくと、かつてエーテル体と関係していた知識が、今度は、アストラル体と関係している環境の中に移る。例えばもし、医学的知識をもっていたなら、或いは、もし環境にどんな治療力が存在するのか、を知っていたなら、その知識は睡眠中に経験となる。 その移行から、外的には、弁証法を通じて学んだ知職の確証を絶えずもつことになる。この要因を医学的研究において、常に計算に入れる必要がある。なぜなら、医科学の外的な弁証法的学習は、実際何らの役にも立たないからである。 眠る毎に、アストラル体の拡がりの内部で、必要な確証が生じなければ、知職は断片的で混沌としたものになる。アストラル体が、環境との相互作用において、その医学生が学んだ医学的知識に「イエス」と言えるように、獲得されなければ、理解不可能な知職に対して、ただ躊躇するだけで耳を傾けている振りをしているようなものである。だから、医学的知識は睡眠と親密に関連する。 そのような事柄は、医学的知識が、生きて感じる存在としての人間によって、獲得されなければならないということを確信させる。というのも、治癒の諸実質との、この「夜の」交流と共に、また別のもの、弁証法によっては決して獲得できないものが育つからである。 つまり、「助けたい」という真の欲求である。「治療したい」という誠実な欲求なしでは、治療すべき人に対する医者側からの共感の感情がなければ、個人的援助を与えたいという、この強い欲求がなければ、真の意味のどんな治療も不可能である。 ここで、とても不思議で逆説的に思われる事実を述べるが、それは状況がどんな点でおかしく、何をすべきかを知ることが必要なので、あえてこの奇妙な事実を述べる。というのも、ドルナッハで、人智学徒は秘教的な衝動から仕事を行っているからである。 人智学の薬剤研究所で調合される治療薬を保護するために手段を講じなければならないと、周囲からよく言われる。そうすれば、他者がコピーできないという理由である。私(シュタイナー)は、人智学徒が、真の秘教的な衝動を、医療活動に持ち込むのに成功する限りにおいて、そのことをあまり心配していないと答えたことがある。 そうであれば、治療薬は秘教的な背景をもって作られていると人々は気づくだろう。その治療薬がここで、背後に秘教的な生命をもって作られるか、或いは、何処かの工場が、それを真似するかは、全く違うもので、非常に重要なことである。 この事はとても不思議にみえるが、それでも、やはり真実である。事業の工夫によって、モノを保護するより遥かに重要なのは、その治療薬の効力を、霊性から発揮させるのを目的とする態度の増進にある。この事実は迷信ではない。人智学において実体化できるものである。だから、そのような理解を保持する人々が、ここで生産される治療薬を用いることで、正しい方向での始まりが行われた、ということに気づき始めるだろう。 このような異論は、どれほど真剣に秘教的、霊的な生命を、とりわけ、医学において採用すべきであるということに全く気づいていないという事実に因る。一端、この事実を把握したなら、医学の中心が、ここに実体として、単なる形式ではなく、組織すべきである、ということも分かるだろう。
2009年09月10日
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金属の実質は、過程(プロセス)の組み合わせにすぎない。鉛は、外見だけ、既知の重い灰色の実質であるが、鉛は粗雑な実質であるというのは馬鹿げている。実は、鉛は、鉛の拡がる範囲を記述する境界内で生じる過程(プロセス)なのである。 (鉛は縄張りを示すような存在か?) 全てのものは過程(プロセス)なのである。ある金属の「実質-過程」は、人間においても利用されるが、必ず排除する力をもたなければならない鉛過程のように、全てが排除されるべきものであると言ってはいけない。それは言い過ぎである。なぜなら、マグネシウム過程(プロセス)のように、リズミカルな交替がある過程もあるからである。リズミカルに交替する期間に応じて、マグネシウムを消費したり、また放出したりしなければならない。 この事実は、単なる分析結果として、人体はマグネシウムを含むと言っても無意味であることを示している。実際、無意味である。というのも、生まれて12年目あたりでは、これらの実質は、4、5歳の時とは全く異なる意味をもつからである。 ある特定の実質-過程が、人体において重要な時期を知るとき、真の人間認識を展開することになる。人間の外側の大自然の実質が人体内でどのように、更に、働き得るかを知りたいなら、これらの実質の化学組成の研究はあまり大切ではない。むしろ、今日では、ほとんど研究されないものを研究すべきである。 金属実質の研究を、13、14世紀まで遡ると、近代化学の始まりが見つかる。これらの始まりは、今日よく鼻であしらわれる錬金術的過程(プロセス)に見つけられる。しかし、当時の錬金術は別の意味も含んでいた。その意味は、現在では途絶えてしまったものである。それは、今日なら「(系統的)命名」の理論とでも呼び得るようなものである。この「命名」の理論は、特に植物研究や、また鉱物研究にも、応用されたが、発達することも、継続することもなかった。 アンチモンの特質は、有名な刺状の結晶形成である。アンチモンに、ある種の冶金処理を施すなら、揮発化したアンチモンが、冷たい表面等に析出するとき、御馴染みの「アンチモン鏡」が得られる。アンチモンは、エーテル体の形態として、非常に明確に自らを現す形態を発達させる傾向をもっている。アンチモンが取る形は、エーテル体に親和性をもつ、ある単純な植物の形態と非常に似通っている。 アンチモンを研究すると、このアンチモンはエーテル力に非常に敏感な感じがすぐにわかる。それはエーテル力と親和性をもっている。アンチモンを電極にすれば、誰でも、この事実を確認できる。 アンチモンのエーテル力に対する関係を示す一連の小爆発があり、これは驚くべき事例だが、かつての人々はこの事例を理解する大きな能力をもっていた。今では、この能力はすっかり失われ、今、指摘したような事実にも関心も尊敬も払われない。このために、意義深い観察の多くが人々を困惑に陥れる。 いま、ダイアモンドと石墨と無煙炭と通常の石炭を想像してみる。全て炭素だが、互いに非常に異なっている。なぜこんなに違うのか? 化学的検査を、化学組成だけに限定しないで、昔の言葉で言う「(系統的)命名」について何か発見できるなら、通常の石炭と石墨の間の相違を理解し始めるだろう。 通常の石炭は地球進化紀に生まれた。石墨はその前の月進化紀に生まれた。ダイアモンドは太陽進化期に生まれた。これらの事実を、宇宙的側面において研究すると、最重要なものは実質ではなく、その実質が明確な形態を採った状態と、その時代にあるということに、再度気づくだろう。 物質的な実在は、時間という要素に支配されている。時間は明確な意義をもっている。これまで述べてきた事実を思い出すなら、次の事実に気づくだろう。 「通常の石炭はまだ子供だ。まだ大きな時を経ていない。石墨は若者だが、通常の石炭よりは年上だ。ダイアモンドは、老人とは言えないが、非常に成熟している。」 成熟の(経験豊富な)力が必要とされる仕事に着手するなら、その仕事を子供に任せたりしない。全ては年齢にかかっている。だから、その宇宙的年齢のために、石炭は、それがどんな姿で現れようとも、成熟した石墨とは異なる仕事(力)をもっている、ということに気づくだろう。 人間が、外なる宇宙にあるものと、有する関係を理解したなら、宇宙的過程への洞察が必要である。アンチモンは人間のエーテル体と特別な関係がある。もし、それを人体に薬剤として導入するなら、アンチモンの使用により、エーテル体の何が刺激されるのかを知る前に、アンチモンが人間の外では、いかなる存在であるのかを理解しなければならない。薬剤が人体内でどのように振舞うか等を理解したいなら、自然における様々な繊細な過程を研究しなければならない。
2009年09月09日
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奇妙なことに、人間は、鉄やマグネシウムを、人体の構造に取り込むが、鉛は取り込まなかった。マグネシウム過程(プロセス)を自身の存在と結合させたが、鉛過程(プロセス)は放出した。だから、外界で、マグネシウムに働いている同じ力が、人間内部でも、働いていることが分かる。 人間は、そのような様々な力を内的に統御する必要がある。しかし、人間が皮膚に包まれる前の、まだ宇宙の変容過程(プロセス)に関与し、宇宙と結合した構造であったとき、人間は鉛の過程(プロセス)を克服した。鉛の過程(プロセス)排除の力は、今でも体内にある。人間は内部にマグネシウムの構築力と鉛過程を排除する力をもっている。 実際、この事実はどういう意味をもつのか? 鉛中毒によって人体に生じる問題を研究すればよい。人体が鉛を許容できないということは正しい。鉛中毒となるときには、人体内部に鉛がある。人体は鉛の実質に含まれる過程(プロセス)と戦う。つまり、金属の実質とは常に過程(プロセス)なのである。 鉛は人体の過程(プロセス)内部で広がり、対抗する人体は鉛を駆逐しようとする。駆逐に成功すると、人体はよくなるが、もし、鉛の方が強ければ、人体はよくならない。鉛中毒に関連する有名な崩壊の過程(プロセス)が始まる。なぜなら、人体は、鉛過程(プロセス)を克服する過程しか許容できないからである。 (アポトーシスという細胞死は、鉛により引き起こされるということもわかっている。人体にとって、鉛は有毒であることを、人間の歴史的経緯から、シュタイナーは述べている。) 人体は、鉛の形成力に耐えられない。人体に鉛を有するのに耐えられないという事実が、何を意味するのかを見つけるなら、次の事実へと導かれる。 「人間は感覚の存在である」という事実である。人間は周囲の事物を知覚し、事物について考える。人間は、事物の知覚と考察の両方の活動形態を必要とする。世界と関係するには、事物を知覚する必要があり、また事物について考えないといけない。 人間は、実際の知覚行為を跳ね返した後、自らの自立した活動を展開する必要がある。もし、知覚するだけの存在なら、外界を見る行為と同時に自分を絶えず喪失し続けるだろう。しかし、事物から引き返すことで、事物について考え、考察することで、人間は1個の人格となり、個我となる。 人間は事物になかへと自分を喪失しない。人間のエーテル体を研究するなら、その内部に鉛を放出する力の中心部をもっていることが分かる。この中心は、大まかにいえば、頭頂の後の髪が一種の螺旋の形で生える場所(つむじ)にある。つむじは、鉛を克服する力の中心部である。 鉛を克服する力は、鉛の形成力が人体に入り込まないように、人体のあらゆる部分に流れ込む。鉛を克服するために発達した力は、大きな意義をもっている。というのも、例えば、いま、チョークを見るという単純な行為に、自身を全面的に奪われることなく、このチョークを見る行為から、自分を切り離すことを可能にするのと同じ力だからである。 でなければ、人間は、知覚対象と自身を同定してしまうだろう。しかし、人間は、自身を独立させる。鉛を克服する力により、観察された対象の知覚を弱める。人間が自己充足した人格であり得るのは、これらの力のお陰である。これらの力は、人間が自身を世界から切り離すことを可能にする。 鉛を克服する力と関連して、とても驚くべき事実を、これから述べる。それらの事実は、物質的、エーテル的意義をもつだけでなく、魂と道徳的意義をもっている。 人間は、ある特定の金属の実質を自身に取り込み、自分の人体の有機体と結合させる。特定金属以外の他金属の実質は克服し、拒絶の過程(プロセス)の形態として内部にもっている。その拒絶過程(プロセス)は、非特定の他金属実質の統御者である。 さて、土星紀、太陽紀からの長い進化の行程で、人間がある特定の金属の実質を、自らの人体に受容し、他の実質を切り離したのは何故なのか? 人間が、自ら、この非特定の金属実質の除去過程(プロセス)をもつために、自立した道徳力を自身に受容できる。現在の人間の人体は、鉛を利用できないが、鉛を埋め合わせる力を含んでいる。鉄を人体に含んでいるように、鉛を含む人体を想像できる。もし、鉛を含む人体をもつなら、人間は自身に半道徳的資質を持ち込むだろう。 というのも、鉛は常に反道徳的資質を有するからである。そのとき、人間は、外界に存在する不純物に病的な親和性を(「病的」、或いは病理学的親和性と呼べる)もつだろう。そのような人間は、嫌な匂いの実質を常に探し、臭いを嗅ぐのを好むだろう。 子供が、この種の本能をもっているのに気づけば(臭いのするものなら何でも偏愛する子供がいる)、例えば石油をクンクン嗅んだりするが、その子供は、鉛を拒絶する血液の資質が存在していない状態と確信してもよい。そうなると、臨床手段や、薬剤により、この鉛を拒絶する力を呼び起こすのが大切となる。 今度は、マグネシウムについて考えてみる。マグネシウムは、人体において、ある特定の役割を演じている実質である。マグネシウムにはとても興味深いものがある。教育を語るときに、何度も何度も、人生の最初期(幼児期)から歯の生え変わり(約7歳)まで続く期間は、その後の期間と厳しく区別すべきであると言ってきた。 第2期は、歯の生え変わり(約7歳)から思春期(約14歳)まで続く。マグネシウムは、フッ素同様に、歯の発達に必要である。しかし、歯の発達の過程(プロセス)は、上下の顎に制限されるものではない。人体全体が、歯の発達に参加する。つまり、マグネシウム過程(プロセス)は人体全体で生じる。マグネシウム過程は、歯の生え変わりまで、最重要な過程である。 歯が変わった後、マグネシウムはもはや以前の意義をもたない。人間におけるマグネシウム力は、その人体を固化するからである。マグネシウム力は、人体をそれ自体で閉じ込める。そして、人体のこのマグネシウムの固化、つまりマグネシウムの力と実質のこのような人体への組み込みは、歯の生え変わり期に終わる。 歯の生え変わりまでは、ずっとマグネシウム力は人体にとって極めて重要である。この永久歯の形成は、その発育に関する限り、自己充足した総体として考察すべきである。それは、マグネシウム過程(プロセス)を含有し、包み込む必要がある。というのも、もし、この過程がなければ、人体は固化に必要な力を欠くからである。 人体はマグネシウム力の発生を停止できない。それは、歯の生え変わり以前と同様、その後も継続される。マグネシウム力は、人体において必須である。歯の生え変わり後、マグネシウムに関して最も肝心な事実は、今度は、克服されなければならず、放出されなければならないということである。 マグネシウムは特にミルクに入り込む。ミルクと共に排泄される。ミルクの分泌は、思春期と関連している。だから、思春期には、周期的過程(プロセス)が生じる。歯の生え変わりまで、マグネシウムは、人体によって、いわば消費されるが、歯の生え変わりから思春期に至るまでは、放出され、排泄される。 そしてマグネシウムは、分泌される実質となり、ミルクを形成する力の1つとなる。思春期後には一種の跳ね返り(反射)があり、マグネシウムは筋肉の繊細な固化のために使われる。
2009年09月08日
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これから述べることは、今日では衒学趣味としてしか見当たらない思想だが、太古では偉大な天文学的叡智の基礎だった。今日、このようなテーマに関してなされる恐ろしい論考は、そのかつての実在のイメージを何ら与えていない。 これまで述べてきた事実を理解することは、人体の構造や構成に対する洞察を獲得する前に、必須の条件である。というのも、頭部において、人間は全面的に宇宙の影響下にあり、また腕と脚の長骨においては、全面的に地球の影響下にあるという事実が、物質に浸透するまでに至った、宇宙の形成力の挙動を表出しているからである。 人骨が炭酸カルシウムを含むということは、既知であるが、また燐酸カルシウムも含む。両方の物質が、骨には非常に重要である。炭酸カルシウムにより、骨は地球に従う。もし骨の物質が炭酸カルシウムに浸透されなければ、地球は骨に近づけないだろう。 炭酸カルシウムは、地球にとって、物質的接点を組成する。それにより、地球は、その形成力に従って骨を形成できる。もし炭酸カルシウムによって形成可能とされなければ、大腿骨は上から下へと延長するような長骨(大腿骨体)をもてなかった。 しかしまた、燐酸カルシウムがなければ、大腿骨の頸部(近位端)も存在しなかっただろう。このような事実は、解剖学者が提出する次のような反論によっても変わらない。つまり、炭酸カルシウムと燐酸カルシウムの量は、長骨の柄(大腿骨体)と、首(遠位端)、或いは頭(近位端)で本質的に異なるものではないという反論である。 まず、この主張は正確とはいえない。というのも、詳細に研究すれば、それらは差異を示すからである。しかし、また別の事実も考慮すべきである。人体の内部には、構築過程(プロセス)と破壊過程(プロセス)の両方が存在しなければならない。構築を行う過程と、構築で用いられなかった不要物が排除される過程である。 物質における、これらの構築力と破壊力との間の、決定的な相違は、例えば、フッ素により示されている。生理学者は、フッ素が歯の構築に役割を果たし、また尿にも存在していると言うだろう。だから、フッ素は人体の様々な場所に存在している。しかし、その事は重要な点ではない。 歯の構築においてのフッ素の活動は肯定的なものである。フッ素がなければ歯は発達できない。尿には、破壊され排泄されるフッ素がある。肝要なのは、物質が、身体のある場所で除去されつつあるのか、或いは、それが構築過程で必須なのか等を識別することである。 もし骨の一部が、いわば宇宙から組み込まれるなら、燐酸カルシウムが、そこでの構築活動を行っている。骨の別の部分では、その燐酸カルシウムは除去される。例えば、長骨の軸(大腿骨体)では、炭酸カルシウムは構築を行うが、宇宙から作り込まれる骨の頭部(近位端や遠位端)では除去される。 最も大切な事実は、物質が、実際に、何処に存在するか、ではなく、その物質が何を行っているのか、人体のある特定の場所で、どんな意義をもっているのか、ということである。 かつて次のような喩えで、上記の事実のイメージを与えようとした。「私が朝9時に散歩にでかけ、2人の男性が一緒にベンチに腰を下ろしているのを見た。午後3時にベンチの傍をまた通りかかると、その2人がまだ一緒にいる。この2つの事実自体は、その2人の意図を何も告げない。というのも1人は弁当を持参し、9時から3時までずっとベンチにいて、もう1人は散策に出かけて3時の直前に帰って来たからである。 1人は充分休息していたが、もう1人は酷く疲れている。この点で、2人の間には内的な相違がある。大切な点は、誰かがその場所にいるというのではなく、その各々が何をしていたか、どのように、生命(運命)が、ある存在(人間)を、この特定の場所に与えたのか、である。 だから、人体の理解に関する限り、ある器官に何らかの実質が存在するという事実は、実はそれほど重要なことではない。どんな種類の過程に、その実質が巻き込まれたのか(構築の過程なのか、破壊の過程なのか)、それを知ることが問題なのである。 この過程を念頭に置かない限り、人体に必要な実質の特質から、治療へとつなげる手法を見つけることは決してできないだろう。この事実は、宇宙での様々な実質の分布が、通常考えられているものとは全く異なるという実感に導く唯一の方法である。 驚くべき事実だが(5、6世紀前から、一向に考慮されなかった事実だが)、それは化学分析の過程において、人体における鉄の存在を証明したが(確かに血液中には鉄がある)、人体における鉛の存在を証明する試みは、その人体が健常体であるなら、失敗するということである。 しかし、地球の実質として粗雑な、固まった形態で存在する全金属は、かつて、土星紀、太陽紀、月紀に、液体の状態や、熱エーテルの状態で存在したという事実を思い出せば、人間も(勿論別の姿で)、古土星(今の土星とは異なる意味で「古」がつく)に既に存在し、これら全ての化学(相転移)の過程に関与していたことがわかる。その過程の中には、微細なエーテル状態や、液体の状態から、鉄が今日の鉄になった過程も含まれている。 つまり、人間は、世界の進化の過程(プロセス)総体に関与してきたのである。 (人間は、本来、宇宙の錬金術者なのである。)
2009年09月04日
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次回から質問を考察する。後の講義でわかるように、質問のメモを提出してください。 今回からは、これまでの講義で述べてきた事実を、更に具体的に、続けて述べたい。近代科学が人間に関して保持する「見解」(実は、見解というべき代物でもないが)について、人智学的研究から、考察するのは無意味である。 現在の習慣や習性になった事柄からできるだけ逸脱しないように決意しても、同様に無駄に終わる。というのも、現状の知識的方向性においては、真理が、習慣となった事柄から非常に逸脱しているからである。 真理は、現在の唯物的な教育から、極めて高度に逸脱した場所にある。だから、今日、真理を追求する者は、近代科学が全く馬鹿げていると思うような、多くの事柄を認知する勇気をもつ必要がある。また他方で、もし、真に治療を施したいのなら、人智学徒の集会だけでなく、他の場所でも、外界を基にして、慣習となった手法により、今日治療を施そうとしている人々とも交じりあう必要があるだろう。 近代世界のいまの科学とも交渉する必要があるだろう。でなければ、自分たちが保持する真理を不安定なものに感じるだろう。 今日(1924年)流行の考えは、地球上には70から80ほどの物質があって、引力と斥力があるというものである。これらの力は、ある原子量と類似の質量や電荷を通して働くものと思われている。幾多の理論的な自然法則が展開され、それに応じて、物質の組成法を見つけだそうとしている。また物質に起源する別の力を探して、人間をイメージするような幻像を構築している。 しかし、本当は、形態や、成長と栄養の過程を維持する力においても、人間は地球の実質から発生する影響を被っていない。エーテル体を話題にしたとき、それが周辺の宇宙から地球へと流れ込む力の影響下にあることが理解できた。 地球の実質から発生する力と、周辺から流れ込む力の、2つの力を考察すると、人体の各器官には、この2種類の力の均衡、調和が必要だと気づく。人間における幾つかの器官系統は、この均衡が確立される手法において、相当に異なっている。 この観点から人間の頭部を考察してみる。最初に、次の事実に関心を寄せる必要がある。人間の脳は、明確な輪郭をもつ脳が脳脊髄液に浮いているので、その重量は大部分浮力によりなくなっているという事実である。脳は、脊柱を循環する脳脊髄液に浮いている。 脳の実際の重量は約1300から1500グラムである。しかし、それが人体内にあるとき、遥かに軽くなる。せいぜい20グラム程度である。これは、それが脳脊髄液に浮いているため、アルキメデスの法則に従って、「全ての物体は、液体に浮くと、置き換えられた液体の体積の重さに等しい重量を失う」からである。 液体のなかでは、脳は浮力をうけ、そのため、その重量の約20グラムか30グラムだけが残る。この重さが、脳が下へと圧す重さである。もし、脳自身の重さで下を圧するなら、その下には、血管など存在できず、潰れてしまうだろう。 重力という地球的な特質は、実際、浮力により、脳から取り去られている。人間が脳の下に生きることを可能にしているのは、重力という地球的特質ではなく、浮力、つまり重力に対立する力なのである。脳の場合、その地球的な重さは、せいぜい20グラム程度である。地球が人間の頭部に作用する引力は、非常に微々たるものとなる。 この事実から、脳の地球的な特徴は消滅し、つまり、人間を組織する手法(自己組織化)のために、消滅するということが分かる。人間の組織は、地球的な力が消滅するような組成になっている。アルキメデスの法則は、人間に浮力について教えたが、必ずしも、専門的な考察が入っているとは限らない。 現代人がその事実に気づいているかどうかには確信をもてないが、自分たちの唯物的知性にあった法則は認知し、合わない法則は無視していることは全く明らかである。重さが消えることに関して述べた事実は、人間の頭部やその内的構造全体だけに、あてはまるのではない。 呼吸過程(プロセス)に関する、特別な考察の結果として、吸気と呼気の間に支配的な、ある種、静的な均衡状態の結果として、また別の同じ現象が生じる。人間が息を吸うとき、力が行使され、また息を吐き出すとき、その対抗力がやって来る。呼吸における、この吸気の力と呼気の対抗力の関係は、重力と浮力の関係に類似する。 奇妙なことに、歩いているときも、頭部の脳は、静止したままで、浮力のために、脳は重たくない。そして、その内的の静止状態は、歩いているときも、変わらない。これは、歩くときだけに限らず、奇妙な様態で、大地とともに、人間が行う運動に特に言えることである。 人間は、身体の余力で、運動に参与するが、脳では参与しない。脳に関する限り、身体の運動は鎮圧される。身体の余力と同じくらい急速に頭部を動かしても、脳は静止したままである。一時的に運動状態にある存在が、実は静止していると考えることは、重力を受けているものが実は重たくないと考えることよりも困難であるが、脳においては、その困難が成立している。 人体内の組織を考えるとき、頭部は絶えず静止していると言える。全ての力が自己調整されている。下に向かって、僅かに、1500に対して20の割合で重力の引力がある。前方にも、非常に僅かな前進運動の力がある。しかし、本質的には、人体の運動は均衡されている。 だから、人間の頭部は、その内的な実存において、自動車に静かに座し、車は前進しているが自分は全然動かないでいる状態とも言える。頭部の経験は、それが、均衡によって、重量をもたなくても、もったときの経験と同じである。人間が動いても、地球が人間とともに動けば、頭部は動かない。だから、頭部は、とても特別な器官である。 というのも、頭部は地上で生起している事象から、自らを除外し、地上から追放するからである。地球は、頭部の活動には、少ししか参画しない。頭部はいわば宇宙のイメージである。その本質において、地球の力とは無関係である。脳の内部構造は、宇宙の力のイメージである。その形態は、地球の性質に由来するのではなく、脳内に作用する宇宙からしか説明できない。 いま、相当、乱暴にしか話せないが、その意味は理解できるだろう。地球は、次のような程度でしか作用しない。それは、宇宙的な形成に押し入って、地球へと向かう傾向を人間へと挿入する。骨格を見れば、この事実をすぐに理解できる。頭蓋骨を取り去れば、宇宙のイメージそのものである骨格部を除去したことになる。 肋骨の構造は、いわば半分だけ宇宙的である。というのも、そこでは既にその骨格が地球の力の刻印を受けているからである。脚にある長骨(大腿骨)と腕にある長骨(上腕骨)に、純粋な地球的形成物をもっている。肋骨と連結している脊椎は、宇宙的な力と地球的な力との均衡状態から生じた。 頭部の、その覆いとなる頭蓋骨では、地球的な力から、宇宙が形成可能性を奪った形態をもつ。この頭蓋骨の形態は、宇宙のイメージである。このように、人体の様々な形態を研究すべきである。 このように、人体の形態を研究し、頭部の内的な生命、いわゆる頭部の柔軟な実質や液体が静止状態にあり、この静止状態において、宇宙のイメージであることを知るとき、今日提示されている解剖学や生理学は、実際、真実とはほど遠い、ということに気づく。なぜなら、現代医学は、宇宙の様々な影響の存在を認知しないからである。 宇宙の辺縁から発して、人体内へと流れる力については既に述べた。それらは、人間の頭部に四方八方から流れ込むが、これらの力が、月や太陽や土星に遮られるかどうかで、更に異なってくる。そこでは宇宙の辺縁からくる様々な力が、天にある惑星(天体)によって修正される。 だから、これら様々な力が流れ込む源流の方向性に、意義がないわけではない。これらの力の流入は、その力がやって来る星座の位置に従って大きな修正を受ける。(太古の占星術は、この宇宙の力が、人体に及ぼす影響を考察したものである。それがいつの間にか形骸化して、祈願や占いのような他力本願の確率論的予想に下落したのだろう。)
2009年09月03日
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今日の医学が基盤をもつ自然科学の手法とは何か? 例えば、何か組織を(何かはあまり重要ではない)、人体から採り、それが心臓か肝臓に由来する組織の場合もある。この組織の外的な構造と成立を調べるが、それは、人体内にある、実際の器官の挙動についてはほとんど何もわからないだろう。 例えば、ここに1本のナイフがあるとする。他にも1本あり、その2本を調べるとする。これはナイフで、あれもナイフである。ただし前者は、調べてみると、片側の刃は鈍く、もう片側は鋭利で、刀身は柄に入っている。もう1本も同じにみえる。だから、結局、両方ともに、形状からナイフであるということになる。 しかし、例えば、同じナイフでも、テーブルナイフと、カミソリナイフの相違を見つけるには、この外見的調査を超えていく必要がある。2本のナイフを、一個の総体(機能)に関連づける必要がある。外見的に考えると、カミソリナイフはテーブルナイフとよく似ている。だから形からテーブルナイフかカミソリナイフかを知ることはほとんどわからない。 個々は、全体的(包括的)な関係の意味から観察しなければならない。今日行われる器官観察から、実際、人体内での器官の意義について何も知ることはできない。事物が関係する包括的な意味において常に観察しなければならない。ある器官の構造と化学的な成立を調べるだけでは真実には到達できない。人間は、化学的親和性と諸力を調べるだけではなく、化学とは全く異なる手法で研究しなければならない。 この点で現代は、恐ろしく幼稚である。ある生理学研究所では、ミルクでネズミの育成を調べる実験が行われている。素晴らしい結果が得られ、ネズミはまるまると大きくなったという。同時に、ミルクには、その構成成分以上の何かが存在するということを証明するために、構成成分を分離してネズミに与えた。 今度は、ネズミは3日か4日で死んでしまった。そこでその研究者は次のように述べた。 「ミルクは既知の構成成分を含むだけでなく、別の物質-ビタミンを含んでいる。」 また別の、非常に微妙な物質、すなわち、ビタミンの存在を確証した。大切な点は、そのような「物質」の発見ではなく、ミルクから分離された構成成分を取り出すことは、いわば時計から針、ガラス、内部の個々の部品などを取り出すのに似ていることである。 構成成分をいくら見積もっても、それらが時計として時を刻むことにはならない。時計は、これらの部品の物質から、時計職人の精神が作り出す設計図に依存しているのである。そして、ミルクとその構成成分の場合、これらの構成成分内に、地球的な諸特質(地球から得られる諸特質)が含まれているという事実に関わるとき、時計職人の精神をもって考察することになる。 人体内器官のある時点までは、エーテルから来る周辺の諸力が、地球的構成成分同様に、まだ存在している。最終的には、これらエーテルの存在を本気で受け入れる必要がある。隠されていた物質的成分が、「発見される」のが重要ではない。ビタミンの発見は、エーテルの存在を確証するにすぎない。今までとは、全く異なる観察手法が一般的になる必要がある。 例えば、ジャガイモを食べ過ぎたとする。通常の検査方法ではジャガイモの食べ過ぎを見つけることはできないだろう。炭水化物の量の計算によって、人体内におけるジャガイモの影響を確かめようとしても無駄だろう。 例えば、植物の根でなく、葉や実に存在する炭水化物は、消化管で作用を受ける。ジャガイモには非常に驚異的な事実がある。ジャガイモは人体に、その諸力をもったまま強力に移行するので、豆なら、消化管内部で起きることが、ジャガイモの場合、脳で起こる。脳でも栄養摂取過程(プロセス)が絶え間なく生じている。 後に、更に詳しく述べるために、これらの事実を指摘している。よく、ジャガイモを食べ過ぎる人は、ある状況下で、(栄養摂取過程を浪費するため)脳を働かせ過ぎることになるだろう。脳より下部で起こるべき過程を、脳に移してしまう。 化学組成でなく、霊的な実質が有する世界との関連から、人間とその周囲にある諸実質の関係を学ぶことで、公衆衛生と社会生活一般のために、医学から知見を得ることがはじめて可能となる。霊的な実質が葉に現れるか根に現れるかで、根本的な相違が生じる。炭水化物を含むかどうかよりも、植物のどの部分から霊的な実質が来るのかを知る方が遥かに重要である。 根は人間の頭部の組織と親密に関連している。花と葉は、下部人間と親密に関連している。この事実に対して、化学組成は何ら際立った役目を果たしていない。治癒と病気を生み出す要因や、病気や、その治療を、本当に理解したいなら、人間と周囲の世界との関係を、化学組成とは全く別の手法から学ぶ必要がある。 抽象的化学が与える指摘に払われる関心は、実際、徐々に、古代からの叡智を全て埋めつくしてしまった。なぜなら、霊的な実質の化学組成のみを知ることは、周囲の世界に対する人間の真の関係について何も教ないからである。 別の例を挙げる。化学から得られた観点では、空気中の酸素は必要だが、窒素は、酸素と同程度に必要ではない、ということになっている。酸素と窒素に関する、この一般事項から、十分な酸素がある限り、空気中に窒素が少なくても、呼吸にはあまり影響しないものと想像されそうである。 しかし実は、空気が窒素をほとんど含まないと、人間は、自分を取り巻く空気に、窒素を与えるために窒素を放出するのである。人間は、呼吸過程と別個に、自身の窒素含有と周囲の空気の窒素含有との間にある一定の関係が必須であるような、機能構造になっている。 これら全ての事実は、人間の性質の理解のために極めて重要である。しかし、それらを物質的に検査しても、人間が周囲の世界にどのように組み込まれているのかを理解する基盤がなければ、近代的科学界は不毛に止まるだけだろう。病気の人間に関しても、健康な人間に関しても洞察を得るために、このような理解基盤を見つける努力をすべきである。 自我=死 アストラル体=病気 エーテル体=健康 物質体=栄養 (4つの体である、自我とアストラル体とエーテル体と物質体の関係を、端的にイメージするのは、なかなか困難だろう。容易にイメージするには、映写機の原理、或いはホログラフィーをイメージするとよいと思う。映写技師或いは光源が自我で、映写機或いは原像がアストラル体で、光がエーテル体で、スクリーンが物質体というようなイメージである。 実は、このようなイメージは、超弦理論でもモデルとして展開されている。超弦が意識を形成しているような哲学理論として発展している。更に映写機の原理を更に単純化すると、鏡の原理となる。自我とアストラル体、つまり霊魂が、本体の存在で、エーテル体と物質体が、鏡、つまり影の仮想の存在という単純化である。 鏡に自らを映さないと、自分の存在がみえないので、霊魂は、自分を把握するために、肉体に転生し、肉体を造詣することで、自分を人生から把握するというわけである。古代の神殿では、鏡の原理の理解のために、その道具を像として置いたという。神殿が宇宙に対する縮尺図や幾何学的造形を為すのは、そのためであるという。 シュタイナーがここで講義しているような健康と病気の関係に当てはめると、自我が、常に人生の瞬間瞬間に、死をもたらすことで、静止画が得られ、記憶を形成し、時間という意識が生まれ、アストラル体が、自然の営みに、いわば異常な進行の病気として干渉することで、いわば切断面を与え、感情が生まれることになる。)
2009年09月02日
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静かな無血革命というべきか、平成維新というべきか、政権交代が、保守的土壌の半官贔屓のニッポンにやっと起こった。 日本人は良く言えば、本当に忍耐強いというか、悪くいえば、権力に弱いというか、戦う前に自ら責任を感じて、自殺してしまうような、そんな自意識過剰な精神的風土をもっていたが、今回の選挙で、一皮剥けたような感じがした。 静かなる日本人の隠れた遺伝気質というべき変化が起こっているような気がする。 さて、その政権交代について、このブログによく訪問してくださる忠武飛龍さまと掲示板で話した感想から、因果というか、因縁を感じたので、その点を書いてみたい。 まず、興味深いのは、自由民主党の成立と歴史的経緯である。というのは、自由党と民主党の合併により、鳩山一郎が自民党の初代総裁になったわけで、鳩山一郎が、GHQにより、公職追放になってしまったので、吉田茂を引っ張り出し、密約を交わして総理大臣に据えたという経緯があるからだ。 つまり、鳩山一郎によりつくられた自民党が、引き継ぐはずの吉田茂にいわば乗っ取られた形になり、どうにか鳩山一郎が、吉田茂との闘争の末、復帰し、なんとか自民党を二分するが、それが後年の派閥形成へと発展していくわけである。つまり、鳩山と吉田のシコリみたいなものが、後の自民党内の権力抗争へ発展し、派閥形成へと発展するわけである。 この事は、以下の自民党の歴史を読むとよくわかる。 http://allabout.co.jp/career/politicsabc/subject/msubsub_019.htm その自民党が、最後になって、吉田の孫の麻生太郎に引き継がれ、鳩山一郎の孫である鳩山邦夫と、郵政民営化で袂を分かち、内部分裂になり、一気に信頼を失い、ついには選挙で、孫の鳩山由紀夫に大敗し、政権交代となるのだから、歴史は繰り返すというか、皮肉というか、正に因果応報というべきだろう。 鳩山一郎によりつくられた自民党が、孫の「鳩山」由紀夫と小沢「一郎」により終止符を打たれたという事実である。そして、鳩山を裏切ったのは、どちらも、吉田茂と、孫の麻生という因縁も歴史は繰り返すことを表示しているようにみえる。 このような因縁からくる争いに、そろそろ終止符を打つべきではないだろうか? 政治の世襲制の不味さはここにもある。 自民党の終焉に際して、自民党の派閥抗争の歴史を学び、その無意味さを知るべきよい機会なのかもしれない。 政権交代でみえてくる自民党の派閥抗争の無意味さというのを学ぶには、上記の「自民党の歴史」は良き教科書に思える。 再度、以下にURLを掲載する。 http://allabout.co.jp/career/politicsabc/subject/msubsub_019.htm
2009年09月01日
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前回は、肝臓が人体のなかで、最も外界に近い存在で、痛覚を表現できない器官であることを述べた。 ではなぜそうなるのか? 眼などの感覚器官を考察する。眼は、外界から人間に対して穴を開けられたいわば洞窟にある。人間の眼には物理でほとんど説明できる諸過程(プロセス)がある。物理学者は、人間の眼について比較的容易に合理的に語ることができる。物理学者は、視覚の説明のために、何本か線を引いてスケッチを描く。それら全ては、実際、馬鹿げたものだが、光の散乱の過程と通常のカメラによる像形成の描像を与える。 同じようなスケッチが視覚を司る眼にもされる。光線を描き、それがレンズを通過し、分散し、眼の背景に映像を形成する。眼に関しては、誰もが実際、物理学者になり、ヘルムホルツの時代からは、耳も、ほぼピアノのようなものと考えられてきた。外界にあてはまる概念や自然法則を、感覚器官にも応用することが普通になった。 感覚器官では、外から内へと何かが継続されている。外界の一片が内界(体内)の中まで継続している。この生物学的証明すらある。ある下等動物では、眼はいわば切れ込みから形成され、そこに外界から詰め物がなされ、眼が、いわば有機体に埋め込まれた形となる。 眼は有機体から成長するのではない。だから、感覚器官は有機体内の一片の外界であるが、それらは外へ開いている。感覚器官では、外界はいわば海が湾に入るように、有機体に入り込む。肝臓は四方八方を閉じ込められているが、それでも感覚器官である。肝臓は、食物として摂取する様々な実質の価値に対して、高度な感受性を、無意識において、示す感覚器官である。 今日考えられているように、様々な食物の物質的過程(プロセス)のみを、肝臓に帰すのを止めるなら、はじめて栄養の過程(プロセス)において、消化で生じていることを理解できる。これらの過程は霊と魂の表出である。肝臓を、栄養過程(プロセス)を知覚する内的感覚器官のように見る必要がある。 このため、肝臓は、有名な感覚器官よりも、地球の実質と遥かに密接に関係している。また、眼において人間はエーテルの働きに曝されている。耳では、空気に曝されている。しかし肝臓は外界の諸実質の特質に直接曝されているので、これらの特質を知覚すべきである。 また、心臓は別種の感覚器官である。肝臓の知覚能力は、人間に入り込む外界の諸実質に曝されている。心臓は人間の内的部位を知覚する感覚器官である。心臓を、動脈に血液を送り出す一種のポンプと見なすのは、全く馬鹿げている。血液の運動は、自我とアストラル体の活動の結果なのである。 そして心臓は循環を、特に下部人間から上部人間への循環を知覚する感覚器官である。肝臓の仕事は、消化過程(プロセス)において、例えば炭水化物が人間にどんな価値をもたらすかを知覚することである。 心臓の仕事は、アストラル体と自我が人間にどのように作用しているかを見ることである。だから心臓は完全な霊的感覚器官である。対して、肝臓は完全な物質的感覚器官である。この区別が重要である。このように、器官の質的認識を発達させなければならない。 (肝臓は、物質的な感覚器官なので、痛覚がないと、シュタイナーは述べている。対して、心臓は、霊的な感覚器官なので、常に感じているので、感情を表現するというわけである。しかし、シュタイナーが述べている肝臓や心臓は、現代医学でいう物質的な肝臓や心臓とは、若干異なり、霊的な存在を含めた広義の意味で述べている。 だから、物質的な肝臓や心臓を移植するために、たとえ切り取っても、霊的な肝臓部や心臓部が残るので、本来の霊的な機能には、影響がないが、物質的部分と霊的部分の融合性がよくないと、免疫不適合性などの問題が生じるわけである。 肝臓に関しては、物質的感覚器官とシュタイナーは言い切っているので、移植生着の組織適合性は高いと思われる。対して、心臓は、逆に最も低いものと思われる。また、シュタイナーは、脾臓を全くの霊的器官と述べているので、物質的な脾臓を奪っても、霊的機能に何ら影響がなく、しばらくすると再生されるというようなことを述べている。 また眼や耳の感覚器官は、眼はエーテルの働きと平衡を取りながら、耳は、空気の働きと平衡をとりながら、認識しているものと思われる。)
2009年09月01日
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