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植物界の場合、人間は生命を、自我の知性からは理解できない。将来、人間が今日鉱物を理解するのと同じように植物を理解するときがくる。そのとき、今日の聖堂や家屋や機械類を鉱物界の法則に従って建造できるように、植物という生命体でも作り出すことができるようになるだろう。しかし、現在、自我に貫かれている全ては、鉱物界の法則である。 科学は、いつか生命ある存在を実験室の中で製造するという理想が実現するのを期待しているが、これは、人類がある特定の道徳的進化の必要な段階に達しなければ叶えられない。もし人類が現在既に、生命を創造できたとしたら困ったことになるだろう。低次元の欲求を満たす為に、生命は軽んじられるだろう。 今日、鉱物的な法則に従って時計を製作したり家を建てたりするように、将来人間は生命の法則に従って生物を作り出すようになる。そのとき、人間は生物に生命を刻印できるようになっていなければならない。そのとき実験室の机の前に立つ者は、自らのなかから、いわば自らのエーテル体のなかにある波動(振動)を、生命を与えられるべき生物の中へと導入できるようになっていなければならない。 善良な人間であれば善のものを導入するし、良くない人間であれば良くないものを導入する。ただ秘教学では次のような教理があり、サクラメンタリズム(秘蹟主義)の秘密を修得しないうちは、生命製造の秘密と呼ばれるホワイト・ロッジの知識は人類に伝授されないとされている。 (桜の花は、このサクラメンタリズムからきているのではないか?と勝手に思ってしまった。サクラの花びらは五角形だし、白いので、ホワイトロッジの紋章にも似合いそうで、また、散り際がよいことで、自己犠牲愛にも相応しいように思うからである。ちなみに、桜の花言葉は、「心の美しさ、精神の美、優美な女性」である。) サクラメンタリズムとは、人間の行為が道徳的完成、神聖さの炎に燃え上がっていなければならないということを表している。作業を行う実験台が、人間にとって祭壇となり、人間の行為が神聖なものとなったときはじめて、人間はホワイトロッジの知識を伝授されるに相応しく成熟する。 唯物主義に染まった今日の人間たちには、その実験台がいかにも祭壇にはほど遠いものであるかを考えてみれば、このホワイトロッジは隠されたものとなるだろう。 人類がある道徳的進化段階に達すれば、人間の意識は鉱物意識から植物意識へと高められていく。秘教学には他にもう1つの教理がある。 それは「自身の幸せを他の全ての人々の幸せと分離できなくなったときにはじめて、人間は植物意識の状態に到達する」というもので、 個々人が他の人々の負担の下に自らの幸せを追求する限りは、意識が一段階上に引き上げられるという状態は起こらない。 (つまり、他の犠牲や不幸の下に、自らの幸福を築くのではなく、自他共に、共存共栄の幸福を築くのでなければ、生命創造の秘密は得られないわけである。生命創造の法則とは、自他共に客観的かつ普遍的な幸福のなかに見つけ出される。) 以上のように、現代人は、物質体においてようやく真の人間段階にあり、エーテル体はいまだ動物段階で、アストラル体は植物段階、自我においては鉱物段階である。このような事実のうちの1つ、つまり、エーテル体は、動物段階にあることを心に留めておくとよい。 (様々な疾患は、このエーテル体から起こるといわれているので、人間の現在の進化段階は、このエーテル体をいかに制御できるかにある。端的にいって、エーテル体の流れが滞ると腫瘍化が起こり、固体化し、物質体を刺激し、逆にエーテル体の流れが過剰になると炎症化し、アストラル体の神経を刺激する。) エーテル体は、現在地球に存在する間に段々と、真の人間段階へと進化していき、益々一層エーテル体は愛によって、一人の幸せを他の人の幸せから分離できない愛によって貫かれていく。最初に物質体が仕上げられ人間の段階に到達したように、今度はエーテル体が、そして次にはアストラル体と自我も、真の人間段階へと高められていく。現在、自我はまだ鉱物段階だが、なにしろ、自我は地球上ではじめて人間に組み込まれたからである。 今度は、人間の魂、つまり感受魂、悟性魂ないし心情魂、意識魂と意識魂の中に含まれた霊我ないしマナスと、エーテル体との関係を、以下のようにまとめる。 エーテル体は動物段階にあり、人間段階に物質体があり、魂の第一の構成要素の感受魂を含むアストラル体は植物段階にあり、更に、悟性魂ないし感受魂が続き、これら全ては植物段階にあり、更に上方には、今日の人間に見つけられる限りでの霊我ないしマナスを含んだ自我ないし意識魂があり、次のようになる。 鉱物段階・・・・・・・意識魂、自我/霊我ないしマナス、悟性魂ないし感受魂 植物段階・・・・・・・アストラル体/感受魂 動物段階・・・・・・・エーテル体 人間段階・・・・・・・物質体 次に、人間のどの構成要素の中にも、ある一定の方法で、他の構成要素が現れていることを明確にする。人間の物質体は、第一に物質(鉱物)の開示を、自らのうちに表現し、例えば、感覚器官を観察すると、物質原理(鉱物)が表現されているのがわかる。 眼の中には一種の写真機、カメラが、耳の中には一種のピアノがあり、感覚器官のなかに物質原理(鉱物)自体が表現されている。 次に、人間の腺を観察すると、腺のなかに、エーテル体が現れるのが見つけられ、神経組織の中にはアストラル体、血液の中には自我が現れているのがわかる。「血は特性のジュース」である。血を所有する者が人間の自我を所有する。悪魔が人間の血を所有すれば悪魔は自我を得る。 このように人間の物質体のなかに他の構成要素も入り込み、それが物質体のなかで表現されている。血液は無意識に脈打っているが、それは血液のなかで活動する自我が、自らの物質プロセスを意識していないからである。 物質体の中に他の構成要素の本質が現れているのと同様、エーテル体のなかにも他の構成要素の本質が現れ、最もこの場合は「人間的に」現れているのではなく、「動物的に」、しかもある特定の動物の形で、外部に存在する動物の形姿とある類似を持つ形で現れている。 エーテル体下にある物質体は、いわば影の像のように現れる。エーテル体のなかで、人間本性の物質部分が現れている処は、「人間」と呼ばれる。エーテル体の中に現れているアストラル体、感受魂は、そのエーテル形姿が「獅子」に似ていることから、「獅子」と呼ばれる。エーテル体の中に現れている悟性魂は、「雄牛」或いは牝牛と呼ばれ、霊我を担う意識魂は、霊視でみたエーテル形姿が「鷲」に似ていることから「鷲」と呼ばれる。 エーテル体(動物段階)―エーテル体内下 人間(物質体;人間段階) 獅子(アストラル体/感受魂;植物段階) 雄牛(悟性魂;鉱物段階) 鷲(意識魂/自我/霊我ないしマナス;鉱物段階) ここに、再度、ヨハネの黙示録の4つの象徴(しるし)(人、獅子、雄牛、鷲)が、4つの本質的構成要素、つまり人間のエーテル体での顕現として挙げられる。
2009年11月30日
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これまで強調してきたことは、物質界に生きている人間だけが個としての魂、つまり自我をもち、周囲にいる動物たちは集合自我、集合魂をもつことで、その集合自我はアストラル界に生き、そこでは動物種として完結した存在として見つけられるということだった。 このように動物界と人間界を、霊的に観察してみると、集合魂ないし集合自我と、個としての自我が互いに相対峙している。ただし、この関係を、宇宙においては、あたかも個々の存在間に全くの移行状態が存在しないかのように思い描いてはならない。「自然は飛躍しない」という格言は、秘教学徒には全くあてはまらず、至る所に移行状態が見られるのは確かである。 つまり、動物界の集合魂と人間の個別的魂との間にも、移行状態が見つけられる。地球紀に、人間という存在が出現して直ぐに(現在と同じような)完全な個別的な魂をもち、この個別魂が地球上で同じ方法で何度も何度も受肉してゆく、という風に思い描くのは、間違いである。 むしろ、現代人は、太古の時代にもっていた集合魂から、まだ自分のものになっていない完成された個別的な魂へと徐々に移行している状態である。今日の人間は、物質体に、いまだ個別的自我を完全に組み込んでいく途上にある。 現在の地球紀が多少なりとも完了するときになってはじめて、人間はこの完成された個別魂を得る。大多数の人々にとって、今日、自我は集合自我と個別的自我の中間状態にある。 過去へと遡れば遡るほど、人間の自我は一層、集合自我の度合いを増し、地球紀の初め、魂が初めて神的領域から、この物質界に降ってきたとき、人間の魂はまだ集合自我であった。複数の人間が一緒に1つの共通の魂、すなわち集合自我を有するグループに属していた。 この事実を一面として記憶に止めておくと、他方の側面として、人間本性の構成要素、つまり、人間は本質として4つの構成要素、すなわち物質体、エーテル体(生命体)、アストラル体、自我をもち、この自我は、正確に観察すると、更に3つの部分、すなわち感受魂、悟性魂(心情魂)、意識魂という名で呼ばれる部分に分かれて現れる。 感受魂と悟性魂(心情魂)においてようやく独立した自我が微かに現れはじめ、意識魂に至ってようやく自己意識的な自我の最初の宣言が得られる。更に、人間の本質の第5の構成要素、すなわち霊我ないしマナスと呼ばれる神器も徐々に人間の中に浸透してきているように見える。 従って、今日の人間の場合、物質体、エーテル体(生命体)、アストラル体、それからアストラル体と内的に結びつきアストラル体の中に組み込まれている感受魂や悟性魂や意識魂、更に本来の自我-魂である意識魂の中に霊我ないしマナスが組み込まれている。これで大凡、今日の人間を想定できる。 1.物質体 2.エーテル体(生命体) 3.アストラル体、 4.感受魂 5.悟性魂 6.意識魂(自我-魂) 7.霊我(マナス) さて、これら人間の構成要素のうち、今日の人間が進化し、最も仕上がり、最も完全に発達した構成要素とは、物質(肉)体である。ただし、「最も仕上がって、最も完全に発達している」ということと、「高次の性質を持つ」ということを混同してはならず、エーテル体とアストラル体は、その程度(レベル)においては、物質体よりも高次の性質を持っているが、現段階では未完成の状態で、将来においてやっと、その発達の完成に到達する。 その性質において今日の物質体は人間のなかで最も完成された構成要素で、物質体を研究するなら、しかも解剖学的、もしくは物理学的ではなく、心情と心に浸透するように研究するなら、物質体の中に組み込まれている巨大な叡智の前に驚嘆し、立ち尽くすだろう。 人間の物質(肉)体はその最小部のどれをとっても、完成された、叡智に満ちた構造を示し、例えば、この物質体のうちの大腿骨のほんの一片や、大腿骨の最上部をとってみても、中身の詰まった一個の固体などではなく、小さな梁が見事に組み合わされ、叡智に溢れた構造をもっている。 精緻な梁がいかに組み合わされているかを研究すれば、最小の実質要素の消耗で最大限の力が出せるように、そしてこの大腿骨の柱二本で上体が支えられるように全てが構成されていることがわかる。 最も完璧な工学技術をもってしても、このような叡智による、最小限の材料の消費で最大限の力を展開する橋や骨格のようなものを建造することはできないだろう。人間の知恵は人間の物質(肉)体を構築したこの叡智に遥かに及ばない。 物質(肉)体全般の他の部分に対しても同様で、神経組織を備えた脳を観察すると、その素晴らしい構造に気がつき、人間の心臓を観察すると(ただし、心臓はいまだ未完成途上にあり、将来高度な完成へと到達するが)、心臓も素晴らしい構造をもつことに気がつく。 この物質体の完成度と、欲求や衝動、熱情を伴ったアストラル体とを比較してみると、アストラル体は、将来、物質体よりも高次に位置するようになるとはいえ、現段階ではいまだ比較的低次の状態にあることがわかる。 今日の人間が、享楽への熱望として発達させる行為全てにおいて、アストラル体は物質体を何百、何千とない攻撃に曝している。人間が調達するアルコールやその他あらゆる享楽の中で欲望され満たされる全ては、根本的に物質体の叡智に満ちた素晴らしい構造に絶え間ない攻撃をしかけ、それはまさに、心の毒攻撃というべきである。 アストラル体が、今日既に物質体が完成状態としてもつ構造に到達するには、これからの長い進化期間が必要である。 秘教学による宇宙論が提出する進化論では、人間は既に古土星上で(熱としての)物質体の性質をもち、太陽、月、地球進化を経て、更に完成度を高めてきた。この第二段階、すなわち古太陽上でエーテル体が加えられ、従って今日エーテル体は進化という点では物質体より一段階低い状態にある。 更に、古月上でアストラル体が付与され、アストラル体は、月進化と現在までに完了した地球進化の一部しか経ていない。自我は地球上ではじめてつけ加えられたので、人間本性の4つの構成要素の中ではいわば「赤ん坊」の状態である。 動物の集合魂を貫いている叡智は、もともと、人間の物質体にも刻印されている。この叡智は、叡智に溢れた構成そのものを、人間の個別の物質体へと移行した。しかし、人間のエーテル体は、いまだ未完成の途上にあり、これからの地球進化のプロセスの中で、完成のために必要なものを全て取り入れる。 地球が目標を達成した暁には、地球はアストラル状態へ、そして更に高次の状態へと移行し、その後、地球を引き継ぐ木星と呼ばれる惑星に変化し、その時、人間のエーテル体は、現在地球上で物質体が完成した性質を持つように、完成される。 その次にくる地球の受肉状態、通常は、新しい(いまの金星と区別するため)「金星」と呼ばれる状態において、人間のアストラル体が完成に至る。その時、アストラル体は今日の物質体の状態、そして次の惑星状態でのエーテル体の状態と同じ完成の段階に至る。 そして最後に、地球がヴァルカン(ウルカヌス)状態に到達する時には、自我が完成される。従って、実際、地球上では、人間の物質体のみが人間(完成体)と言える存在であり、地球の次の惑星状態では人間のエーテル体が人間であり、その時、エーテル体は地球が人間に与えることのできる愛によって浸透される。 今日、人間の物質体が独自の特性として担っているものは、古い(いまの月と区別するため)月に負うものである。秘教学では、古い月は叡智の宇宙と呼ばれ、当時の月上では、少しずつ現在の人間の物質体に見つけられる構造が準備されていた。 現在の物質体が月上で叡智に貫かれていたように、後の地球の木星状態に見つけられるもの、すなわち完全に愛の要素に貫かれたエーテル体が、現在、愛の宇宙を通して準備されている。今日、物質体の骨の一部に現れている叡智に驚嘆するように、木星人間はエーテル体に驚嘆するだろう。 なぜなら、人間のエーテル体は、現在の地球上の物質体が(月の)叡智に貫かれて形成されているように、いまの愛の力に貫かれているからである。 これらの事実を心に止めるなら、本来、人間の物質体がようやく真の人間といえる存在であり、本当の意味で人類の段階にあるという見方を認識できるだろう。 人間のエーテル体はいまだ人間の段階ではなく動物の段階であり、人間のアストラル体はまだ植物の段階である。 地球紀;肉(物質)体=人間段階、エーテル体=動物存在、アストラル体=植物存在 夜眠りにつき、アストラル体が離れるとき、物質体とエーテル体は夢のない眠りに沈むと、植物に見られるような状態となる。人間のアストラル体は、その意識状態に関しては植物の段階にある。自我に至っては、鉱物界の段階にようやく達している状態である。 アストラル体=植物存在、自我=鉱物存在 自我-人間の意識状態は、鉱物界の段階である。この真実に従って、人間が理解可能なものを探ると、人間は鉱物界の物理的法則を理解できるので、その法則に従って機械や工場、建築物等を建造できる。だから、人間の自我認識全ては、鉱物界の物理法則に従って行われていることになる。 自我=意識存在=鉱物存在=鉱物界の物理法則
2009年11月27日
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この間、日本の教育白書という某番組をみて、日本の教育の深刻さを痛感した。 家庭が、犯罪者や病弱者を生み出す源泉となっているように思えたのである。 一言でいえば、「愛情の希薄さ、愛情のなさ」である。 家庭料理に愛情を注がない母親、家庭に無関心な父親である。 これでは、国家が破壊されないように、父親、母親になる資格制度が必要となるだろう。 まず、親の親たる権利の放棄がある。 家庭料理を既成レトルトの食品で済ましてしまう。それでは、家畜を飼うのと同じであろう。 シュタイナーは、子供のうちから、既成レトルト食品に馴れさせると、肉体形成も、そのようになっていき、35歳を境に急速に衰え、特に関節炎や関節症になり、最後は痴呆症になるとも述べている。 子供のときには、現れないが、大人になって現れるのである。 つまり、子供のときの土台つくりに手抜きが生まれるので、手抜きの土台の上に建つ家が脆いように、老人になって、崩れるようになるのである。 また、人智学的にいえば、料理には、栄養の他に、料理をつくった人の努力が含まれている。生の食物が消化しづらいように、料理は、消化を促進するための作業なのである。だから、料理の手順には、消化の手順が込められている。それを食べることで、消化を学んでいることになる。 だから、母親の手作りは、子供に消化を教えていることになるのである。子供にとっては、母親の手料理に勝る食物はない。西洋料理のほとんどが、母親の料理から生まれているのは、そのせいなのである。 このような料理に隠された意味を、特にキリストの最後の晩餐の意味を知るものは皆無といえるだろう。 料理とは、同じものを、皆で食べるから、精神統一ができるのである。 日本人が組織的なのは、皆で、食事をすることにあると思う。その意味で、給食というのは、組織統一によいと思う。以心伝心の基礎といえる。 母親が、母親の役割を放棄している。子供から学ぶことを忘れているように思える。子供を大切に思うのなら、母親という役割を通して、愛情を学ぶべきだろう。 母親が、自分の身を犠牲にして、子供に愛情を注ぐ存在なら、父親は、神聖な不可侵の存在といえるだろう。 社会で生きていくには、どうしても、人間は共同作業を行い、人それぞれの役割を担う必要がある。それには、規律と秩序、モラル、ルールが必要になる。 破った者には、制裁が必要である。それは宇宙での法である。 制裁を行うには、不可侵の権威、つまり神聖な勇気が必要だろう。 父親がその見本を示さなければ秩序は成り立たない。威厳がなければ、信頼は失われ、秩序が乱れる。 だから、父親の言葉は絶対でないと、家庭は成立しない。子を制裁し、従わせることができない父親は、父親である信頼に乏しいので、資格がない。 父親はルールでないといけないと思う。子は父親の背中をみて育つというのは父親が家庭のルールであり、大黒柱であるという意味だろう。 だから、父親の感性が子供に影響することが大であろう。 子供を通して、父親になろうとする教育が、そのまま子供の精神性の支柱となり、母親になろうとする教育が、そのまま子供の成長の支柱となるように思える。 手抜きをすれば、手抜きをされた子供ができあがるだろう。実は、犯罪者や病弱者になってからでは手遅れなのである。 努力がそのまま結実するように、この世はなっている。教育とは努力そのものの結実だろう。 天才だって、努力の結実である。イチローは1日にしてならず。 努力を努力とも思わないのが天才なのだろう。それこそ愛情のなせる技である。
2009年11月26日
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秘教行と呼ばれる修行を行うには、周囲の事象を見て、魂の糧として感情を呼び起こすようなイメージを想起することから始めなければならない。最初に修行を志す弟子には、外界で生じている事象を外的な出来事として観るだけでなく、内的な体験として魂全体をもって、いかに地球の生成、固体化が苦痛を感じているかを共感できるようなイメージ、概念が伝えられる。 この苦痛のイメージは、実際の霊的な事実を提示し、秘教学においては、像は空想ではなく、実際の霊的な真実から読み取られたものである。いかなる哲学や思弁、或いは最高度の明晰さも、このような像の謎を解くことはできず、高次世界の真実を認識することでしか、理解に導かれない。秘教学では、あらゆる像は実際の霊的真実を表現している。 秘教学における図や像は(霊的な)体験から取得されてきたものである。例えば、有名な「卍の図形」を挙げると、様々な文献に、この図形に関する色々な機知に富む解釈が見つけられるが、秘教学に、この図形が取り入れられたのは、アストラル的(霊的)な感覚器官と呼ばれるチャクラの模像に他ならないからである。 ある修行により、人間はアストラル的な感覚器官を養成でき、この卍のなかの二本の線は、霊視者の霊眼には、そのアストラル体の中での、炎の車輪、もしくは花のように見える運動である。これらチャクラは蓮華とも呼ばれる。 この車輪ないし蓮華(例えば、両眼の眉間辺りには二弁のもので、喉頭のあたりには十六弁のものが配置されている)は、アストラル界に発光現象として生じてくる、アストラル的な感覚器官であり、その記号、図形を表すものが卍である。 (つまり、卍とは、蓮華(チャクラ)の象徴図である。だから、お寺は、チャクラを開発する修行機関といえる。) 或いは、また別の記号、いわゆる五芒星(ペンタグラム)を考えると、前にも書いたように、五芒星も1つの霊的真実で、これは、人間のエーテル体の中に見つけられる力の流れ、作用を描き出している図像である。 人間では、この力の流れが左足から頭部のある位置(眉間)まで上昇し、そこから右足へ、次いで左手へ、左手から身体を横切り、心臓を通って右手へ、そして右手から再び左足に戻る。その結果、人間の中に、頭、腕、両手、両脚、両足を通る五芒星を描くことができる(以前の図参照のこと)。 この五芒星は、単なる幾何学的な図形としてだけでなく、力の作用としてイメージする必要がある。 人間は、エーテル体の中に五芒星をもち、その力の作用は、正確に五芒星の線を辿っている。各線は様々に捻じ曲がることもあるが、常に五芒星形を保ち、人体に書き込まれている。五芒星はエーテル的な一つの真実で、人体の象徴ではなく、人体の実際の事実(力学)そのものである。 秘教学では、このように、どの象徴も霊界の事実(力学的作用)そのものの像である。このような事実が根底にある世界を示唆できてはじめて、その意味が認識される。従って、人間の最高度の知性と雖も、秘教学の記号解釈には到達できない。 唯一[霊界の]体験から、秘教学の記号と象徴の意味が見つけられ、この意味を認識することで、人間は「何かを始める」ことができる。なので、まず霊視能力により見つけられたものが伝達され、語られ、獲得されることは、決して不必要なことではない。そして、探求された事実により、再び人間は、これらの霊界の事実である原因へと回帰すべきである。 記号や象徴と同様、古い伝説や神話においても事情は同じで、伝説や神話は民衆の文学からつくり出されたものではなく、全ての伝説や神話は、人間がまだある程度、霊能力をもっていた時代の遺物である。 ヨーロッパの伝説や神話において語られていることは、人間が以前に見た事実を記憶として保存しているものである。これらの伝説、メルヘン、神話の中にある全ては、本来霊視的に見られたもので、霊視的経験から見た姿そのままを語っている。神話とは霊視的経験から見た通りに語られたものである。 そのこと、つまり神話で語られている出来事全般は、今日でも猶、アストラル界で追求できる。ヴォータン或いはオーディンによる行為は、実際に起きた事実で、秘教学的な記号、象徴、封印の背後に、真実を探すことができる。しかも、空想や想像等の思想をもって、これらの記号解釈を企てようとすることが少ないほど良い。 つまり、秘教学の事実感覚へ入っていけば、記号は人間により、考え出され、作り出されたものなどではなく、霊界での実際の出来事の模像ないし複製であり、そして、神話のなかで遭遇する全ての物語は、まだ人間の大部分が霊視力をもっていた頃に見たことの再現である。 なので、いまでも高度な霊能者ならば、これらを神話の世界をそっくりそのまま見ること聞くことができる。 (つまり、ディズニーランド等に行く必要はない。)
2009年11月26日
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集合自我に関する抽象的概念ではなく、空虚な抽象概念を、豊かな感情や感受性を伴って具体性へと変化させるように観想(瞑想)すると、人間は自然の出来事と共に生きることを学ぶ。このような自然観察から活き活きとした感受性が育まれる。 例えば、秋に野原へ行き、もし穀物を鎌で収穫する人を見れば、鎌が茎を通り、切り取る瞬間にぴったりと合わせて、その畑の上に霊的な存在が風のように、快い感情を吹き渡らせるような予感が得られる。 霊視者が地球のアストラル体を糧として見るものは、このように描写された霊的存在が、根本的原因にある。この事実を見抜いている霊視者にとっては、穀物の収穫は重要な出来事で、人間が、ある体験の際、決まった種類のアストラル的形成物を立ち上らせるのを、感じとったり、見えたりするのと同じように、秋に、畑の上を、このような地球の快い感情の、いわゆるアストラル的表現が吹き渡っていくのを見てとれる。 しかし、地面に鍬で畝を立て、植物の根に手を加える場合は異なり、地球に苦痛を与え、苦痛の感情が立ちのぼってくるのが見える。 それでも、牧場へ行ったとき、見栄えがよくなく、役にも立たない植物の花々を摘み取ってしまうよりは、根ごと地面から引き抜いて、移植する方が良いのではないかという批判的意見があり、道徳的な観点から考察すれば、一見正論ともいえるような異なった解釈が提示されるが、次の例を考えればわかる。 確かに状況にもよるが、あまり見栄えのよくない白髪が生え始めた人にとっては、美的感覚から、白髪を抜いた方が良いとも思えるが、やはり毛を引き抜くのは当人にとっては苦痛となるわけで、花を摘むことは地球にとっては心地よいが、この事例のように、植物を根から掘り起こしてしまうと地球にとっても苦痛となる。 つまり、毛を切ることと、毛根から引き抜くことが異なるように、花を摘むことと根を掘り起こすこととは全く別で、前者は心地よさを与えるが、後者は苦痛を与える。 本来、生命(いのち)は苦痛を通して世に現れ、生まれてくる子供は、出産する母親に苦痛を生じさせる。この事実は、人間が環境を認識するだけでなく、自然の中に感情移入する術を学ぶための一例でもある。 生命(いのち)とは実際、苦痛であり、苦悩なのである。 この事実は鉱物界にもあてはまる。鉱物も本来、自我をもち、鉱物の自我は高次元にあり、秘教学が、アルーパ(無色)神界と呼んでいる、高次神界にある。鉱物の集合自我は、物質界での人間の自我や、低次元神界での植物の集合自我や、アストラル界での動物の集合自我と同様、自身として完結した存在である。 物質界には、鉱物の物質体だけ存在するが、他の領域に、鉱物のアストラル体やエーテル体がある。採石場に行き、鉱夫たちの砕石を見れば、生命の関連を視ることに長けた霊視者には生体の肉に食い込むような感じが生じるのがわかる。そして、鉱夫たちが働いている間中、アストラル的な流れが岩石界を貫いている。 鉱物のアストラル体は、低次神界に見つけられ、鉱物の自我は高次神界に見つけられる。岩石の自我も苦痛と喜びを感じ、岩石を叩き砕くと、鉱物の集合自我は喜び、満足感を得る。ちょっと信じられない感覚に聞こえるが、実際そうなのである。 生物から類推して考える人は、岩石を打ち砕くといえば、生物を傷つける時のように、岩石は痛いと感じるように思うかもしれないが、岩石は、砕かれれば砕かれるほど、鉱物の自我は満足を覚える。 では、「一体、鉱物の自我はどのようなときに苦痛を感ずるのか」と問うなら、鉱物の自我にとっての苦痛は、例えば、食塩水のコップを、冷やしていくと、食塩が結晶となって分離し、食塩として鉱物の実質が再び固体化し析出してくるが、このような場合に、鉱物の自我は苦痛を感じる。 鉱物の自我は、固体分離の際に苦痛を感じる。同様に、砕いた岩石を全部合わせ、また一個の岩石に戻す場合にも、やはり苦痛を感じる。鉱物の集合自我は、鉱物が溶解する時は常に喜びの感覚が生じ、逆に固体化する時には苦痛の感覚が生じる。食塩を水に溶かせば、満足感が生まれ、逆に冷却して食塩の結晶を析出させると、痛みの感覚が生まれる。 この事実を、宇宙的な関連の中でイメージするなら、地球の形成や、鉱物の形成が、このようなプロセスといかに関連しているかがわかる。地球の形成を遥か昔まで遡り辿っていくと、現在よりも、地球の温度が益々上昇し、熱くなっていき、レムリア時代では、岩石が溶解している状態、つまり、現在においては完全に固く結晶化してしまった鉱物が、今日の溶鉱炉の中で鉄が液体化しているように、流れ出している状態に到達する。 鉱物は皆、このようなプロセス、つまり食塩水を冷却すると溶けていた食塩が沈殿するようなプロセスを経てきた。このように、地球上では全てが固体化し、結晶化してきた。このような固体化は、液体状の地球の中へ集結した結晶が次第に沈殿化していく形で進行した。このような固体化によって、地球は今日の肉体を持つ人類の棲家となり得た。 この固体化は、ある特定の時期に頂点に達し、今日(1907年)、この頂点の時期は過ぎている。今日、既に、部分的に多少とも溶解プロセスが生じている。地球がその目的に達した時、そして人間がもはや地球から何も引き出せなくなるほど、浄化され、霊化された暁には、地球自体もまた霊化される。 その時には、地球の鉱物的な含有物は全て精妙なエーテルになり、地球は物質化する前のアストラル的状態に移行する。物理的な溶解過程は、地球がこの状態に到るための過渡的状態である。 この地球が、今日の進化段階で順次進化するための固体化した舞台、つまり基盤に至った準備時期を考察してみると、絶え間ない地球の受難プロセスが存在した。固体化を進めることで、地球は苦しみ、「苦痛に喘ぎ呻いてきた」。人間の生存は、地球の苦痛を通して獲得された。いわゆるアトランティス時代の初期まで、この地球の苦痛が増していったのが認められる。 人間が次第に自らの浄化を行うようになった時から、地球も再び苦痛と受難から解放される。この溶解プロセスは、まだそれほど進んでいない。人間の足下にある大部分の固体の地盤は、今日も猶、苦しんでいる。その地盤へ向けて霊視するなら、固体は地球の苦悩であることがわかる。 このような事実を秘教学的な由来から探求し、宗教文献の中に再発見する人には、宗教文献が霊界の深みからいかに書き上げられたかが開示される。そのような時、これらの宗教的古文献を尊重する感情が猶一層高まり、その経験を通じて、外界の事物に目を向けるなら、パウロの次のような言葉の根底に、いかなる真実の基盤があるかを、経験的に認識できる。 「全ての自然は、苦痛のなかで、養子(幼子)が生み出されることを待ち焦がれている」 このパウロの言葉を翻訳すると、「地球生成全ては、後に地球上の存在たち(人類)という『養子(霊の幼子)を得る』いわゆる霊化の遂行のための、苦痛を伴う生成や固体への凝集である」という意味になる。 人類が霊化を成し遂げるために、地球は、その母体としての苦痛を味わい、その基盤である固体を生み出した。
2009年11月25日
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人間の周囲の自然の内部に、動物の集合自我の啓示(顕現)をどのように感じとるべきか?を深く知ろうとするなら、周囲の全てが、霊的な秘密に溢れ、様々な霊的存在の啓示(顕現)であることを知る必要がある。霊能力を身に着けていない人間は、勿論、アストラル界での「散歩」を行うことはできない。 アストラル界では、この地球上で物質的な人間-自我に出会うように、そこに住む動物の集合自我と出会う。 しかし、霊視をできない人間でも、この集合自我の行為や作用を、物質界で知覚できる。毎年、秋が近づくと、鳥たちが北東から南西の暖かい地方へ向かって飛翔し、夏が近づくと再び全く決まった進路を通って帰ってくるのが認められ、各々の鳥の属に対してその進路の1つ1つを高度と方角に従って比較してみると、その飛翔行為全ての中に、深い叡智が存在することを予感できる。 この全体を導いているのが動物の集合自我である。様々な動物の種が、地球上で行う全ては、動物の集合自我の行為であり、作用である。動物の集合自我の行為を追求すると、本質的に、動物の集合自我は地球の周囲に広がり、地球の周囲で力となって展開していることがわかる。このような多種多様な力が、様々にうねり、直線や曲線の蛇行線をなして、地球を取り巻いている。 このような力を、地球のなかの作用や顕現(啓示)の中に見ることができる。人間がこのような顕現(啓示)を実感すると、霊視したとき、動物の集合自我へと導くものを予感できる。このように、動物界で生じている叡智に満ちた事実へと参入する全てを学ぶことができる。動物の属や種の行為は、動物の集合自我の行為の片鱗を垣間みせてくれる。 植物界では事情は異なる。植物界にも(動物界と同様な)一連の自我が現れてくる。この植物界に現れる自我は動物界のものよりもずっと少数で、その数は限られ、植物のグループ全体が1つの共通の自我に属し、この集合自我を探すなら、動物界の集合自我よりも、もっと高次の世界に至る。 動物の集合自我がアストラル界にあり、地球を取り巻き流れるアストラル界の中で生きているのに対し、植物の集合自我は低次神界の色界と呼ばれている場所に見つけられる。その神界では、これらの植物の集合自我は完結した個性として生きている。物質界での人間のように、そこでは植物の集合-自我が逍遥している。物質体をもっていない他の存在たちと共に植物の集合-自我は低次神界に住んでいる。 植物の集合自我を知覚する術を得るには、知覚自体を、霊視能力の発達と結びつけ、低次レベルから高次レベルへと進める必要がある。そもそも、この能力を獲得するために、最初に発達させるべきことは、物事に対する感情と感受性である。実際、霊視能力は、常に第一に感情と感受性の養成に基づいているが、ただし、浅薄な利己的な感情ではなく、深く敬虔的な感情である。 植物を観照すると、植物がその根を地中に生育させ、茎を上方へ伸ばし、葉を上へ向けて広げ、次第に萼葉、花冠へと形を変え、その内部で実を結ぶというプロセスが思い浮かぶ。植物の構造を、人間と比較すると、人間の頭部を植物の花冠と、人間の足を植物の根と同じにみなすことはできない。 この比較は間違いで、秘教学の学院では、植物と人間を比較するには、人間の頭部を植物の根に擬えるように比較する必要があると教えられた。 人間の頭部→植物の根 人間の下腹部→植物の花冠 (人智学では、植物と人間は逆の形になる。それは太古、太陽と地球が一体だった古太陽紀に、人間は植物状態で、日光を取り入れるために、頭を太陽に向けていたので、現在の植物の根のように、当時の太陽のある地中に頭を向けていたという。 やがて、古月紀に、太陽と地球が分離すると、人間は動物の存在となり、人間から植物が新たに分かれ地球に誕生し、人間は頭を太陽、つまり天に向けるようになったという。) 植物が根を地球の中心に向けているように、人間は頭を宇宙(天)へ向けている。そして、植物がその花と実を控えめに太陽に向けているように、人間は生殖器官を控えめに恥じらいつつ、植物が根を向けている方向、つまり下部へと向けている。 従って、秘教学では、「人間は逆立ちした植物である」と言われる。植物は、逆立ちした人間のように見える。動物はこの両者の中間にいる存在として表記される。 通常、植物と呼ばれる存在の中には、植物の物質体とエーテル体があるだけだが、本来、植物もアストラル体と自我をもち、以前に植物の集合-自我が低次神界にあると言ったのは、一般的な定義で、植物のアストラル体と自我が、実際は、どこにあるのかを正確に示すなら、植物のアストラル体、この地球上にあり、全植物のアストラル体は、地球のアストラル体と同じものである。 つまり、植物は地球のアストラル体の中に浸されていて、地球を元にした場所からいえば、植物の自我は地球の中心にあることになる。このような秘教学的観点から、地球を1つの大いなる有機体として、アストラル体をもつ生きた存在として捉えることができる。そして、この地球上にある個々の植物はその一部である。 (シュタイナーは植物をよく人間の髪の毛に喩えることがある。植物の不毛地帯は、人間でいえば、禿頭になる。) 植物は、個々に独立した存在としては、物質体とエーテル体だけを養成し、個々の植物、例えばユリやチューリップ等の一本一本は意識をもたない。その代わり、地球が植物の意識、つまりアストラル体や自我を担っている。 だが、地球の中心には植物の自我だけが存在するのではなく、まだその他に別の霊的存在がいる。けれども、その存在たち全てに、特に個別的な場所があるのかという問いは無意味で、それらの自我たちは混じり合い、非常に仲良く暮らしている。このように個々の植物を観察すると、植物には物質体としての特性が認められるが、個々の存在としての意識があるとはいえない。 植物は全体として意識を持ち、その意識は地球の意識と結びつき、地球の意識の一部である。人間が喜びと悲しみを感じ、仲間と互いに浸透させあう意識をもっているように、植物の個々のアストラル体が地球のアストラル体に浸透し、植物の自我は地球の中心点を貫いている。生きている植物は、動物の有機体組織の中で、成長の糧であるミルクが占めるのと同じ立場を、この地球の有機体組織の中に占めている。 植物が地球から芽吹き、緑に萌え、花咲く時や、例えば、牝牛がミルクを与える時も、同種のアストラル的な力が基礎になっている。植物の花を摘み取っても、地球はアストラル体を有し、アストラル体で感じとるが、地球にとっては何ら不快な感情はない。植物を摘み取ると、植物は子牛がミルクを吸う時に牝牛が感じるのと同じ感じを持ち、一種の快さを感じる。 地面から生えている植物の一部を途中から切り離しても、個々に生きる生命体ではないので、地球は快さを感じるが、植物を根から引き抜くと、地球(自我)にとっては、動物の肉を切り取るのと同じように、地球は一種の痛みを感じる。 (人間の髪の毛と同じと考えたらよい。髪の毛を切っても、痛くはなく、一種、爽快感があり、また生えるが、毛根から引き抜くと、痛い思いをし、生えてこなくなる。)
2009年11月20日
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人間の周囲に生きている魂的、霊的な存在に関する理解に達したなら、周囲の自然が、どのように見えるか、イメージしてみる。まず、理想的にとりかかるなら、物質界で、人間の周囲に生きている被造物の魂、つまり動物、植物、鉱物の魂はどういう状態なのか? 或いは、物質的感覚として出現する存在の他に、この自然の3つの領域(動物界、植物界、鉱物界)の事物の背後には何があるのか? と問うべきである。 動物の領域を観察すると、霊的、魂的に、人間とは全く根本的に区別できる。個々の人間が、自らの皮膚を境に閉じた内部に有するものは、個々の動物の中にはない。個々の動物はむしろ人間の各器官や各部分に相当する。 同じ形態を持つ動物全ては、つまりライオンという種全て、トラ種全て、或いは、カスタマス、ハエ、その他動物界において同じ形姿をもつ存在全ては、人間の一部、例えば手の指等に比較できる。例えば、人間の10本の指を考察すると、10本の指の1本ずつそれぞれに、1つの自我をもつ魂が与えられているとは考えられない。 10本の指は全部、1個の人間に属しているわけで、人間一人一人に、自我-魂が与えられ、動物の場合は、これを集合魂と呼ぶか、または集団魂と呼ぶかはそれほど問題ではなく、同じ形姿を持った動物のグループ全体を、個々の人間と同じような自我-魂を基盤とすることを認める必要があるが、この動物のグループ魂は、人間の自我-魂が探索できる場所を探しても見つからない場所にある。 人間の自我-魂が探索できる場所は、誕生と死の間にある場所、つまり物質界で、人間の自我-魂は物質界で生きているが、同じ形姿を有する個々の動物の集合-自我の場合、個々の動物がいる場所(物質界)ではない。例えば、あるライオンが、アフリカにいようと動物園にいようと、集合-魂のある場所は常に同じである。 個々の動物は同じ集合自我(集合魂)に属し、この集合自我はアストラル界にある。なので、同じ形姿を持つ動物のグループから、自我を見つけ出そうとすると、霊視的にアストラル界にまで赴く必要がある。 (霊能者でないと、動物には命令できない。) アストラル界では、当の動物の集合-自我は、この物質界での人間の独立した個性に同じである。もし人間が10本の指を伸ばした状態で、穴の開いた仕切り壁を立て、壁の10個の穴から10本の指を突き出せば、その壁の外側にいる人には10本の指しか見えない。 この10本の指を操る自我を探すなら、指が出ている壁の後ろ側に行く必要があり、これと同じように、個々のライオンは、全ライオンの集合自我の一部でしかないわけで、この例えのように、アストラル界へ行くと、全ライオンの個性、或いは特性を見つけることができる。 このように、壁の後ろ側に、10本の指が属する人間(個体)を見つけることができるように、同じ事が、同じ形姿を持つ動物種にも当てはまる。もしアストラル界を「散歩する」なら、アストラル界には、動物の集合自我(集合魂)が居住しているのがわかる。 そこでは、物質界で一人一人の人間に出会うように、動物の集合自我(集合魂)と出会うことができる。これらの集合自我は、10本の指を1本ずつ壁から突き出している人間の自我と同じように、物質界へと、それぞれ分化した動物の個体を差し伸ばしている。 しかしながら、動物の集合-自我の本性、いわゆる内的な特性と、個々の人間の自我の特性との間には、著しい相違がある。この違いは、非常に逆説的にみえるが、現に存在している。 これは1つの特異な事実である。その事実とは、アストラル界での動物の集合自我(集合魂)の知力や叡智を、物質界での人間の自我の知力や叡智と比較してみると、動物の集合自我の方が、根本的に賢いということである。 動物の集合自我は、行うべきことを、最高度の自明性をもって行う。人間は、進化を遂げていく中で、次第に、その自我を動物の集合自我がアストラル界で既にもつ叡智まで高める必要がある。勿論、この動物の集合自我には、人間がこの物質界で地球進化全体を通して養成してきたものが欠けている。人間が養成した、この特殊な要素は、動物の集合自我には見つけることができない。 この特殊な要素とは、愛であり、愛全てといえる。それは、血縁関係にある人間の血族的な愛という最も単純な形から、普遍的な人類愛の最高の理想の愛までを示す。 この愛の要素は、他ならぬ地球進化の内にある人類によって養成されてきたものである。感情、感覚、意志衝動は、動物の集合魂ももつ。しかし、愛を発展させること。これが、この地球上での人間の使命である。これが動物には欠けている。 だから、動物の集合自我の基本要素は叡智であり、人間自我の基本要素は愛である。
2009年11月19日
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これまで述べてきた秘教学的な記号や象徴を解説する際には、記号や象徴の意味や意義を、知性に浸透させるだけでなく、感情や心情と親密になるようにするのがよい。 秘教学では、様々な記号や象徴が使用されるが、その記号や象徴の解釈の為に、世間では、機知と思弁が多大に費やされているが、このような機知や思弁の多くが不適切で、機知や思弁では、秘教学的な記号や象徴の真の意味に近づく力が全くないことがわかる。 秘教学徒にとって、一般的な手引き書や著作で言及されるような解釈が、記号や象徴の意味では全くなく、通常ほとんど予期しない処に、非常によく秘教的な記号や象徴の意味が見つけられる。やはり、民族に根ざした神話や伝説の中に、深い秘密をもった秘教的真理が隠されている。 このような神話や伝説を解釈する際、通常犯される過ちを、端的に言えば、機知や思弁を多大に費やしているところにある。あまりにも分別的、理性的に、深い意味を追求し過ぎている。 このような主題を汲み尽くすことはできず、警句的に扱えるだけだが、それでも高次の世界、つまりアストラル界や神界、もしくは霊界に対する、秘教学的な記号や象徴の関係について、イメージを形成できるように、記述できる。 日常の言語においても、何か高次の存在を解釈するとき、非常によく特定の具象的な比喩が用いられる。例えば、ある認識や洞察に、比喩を用いようとする時、「光」、もしくは「認識の光」という言い方を用いる。このような簡略化した言語表現の背後に、時折、何か途方もなく深い存在が潜んでいる。 このような簡略化した表現を用いる人間は、その起源を全く意識せずに、例えば、光という比喩がどの様に認識や洞察と関係するのか、というような考えを全くもっていない。今日の詩人が比喩を用いるように、このような表現を比喩とみなしている。 しかし、もし秘教学においても、このような比喩的表現を想定するなら、全く道を誤ることになる。事実は更にもっと意味深いからである。 今日の言語において、象徴的、或いは比喩的、またはアレゴリー(寓意)という表現で示されている、多くの解釈は、間違った道に導くもので、ある記号は恣意的に選ばれたという風に安易に考えられている(例えば、ヨハネの黙示録の666が、ローマ皇帝のネロの象徴という解釈)。 (シュタイナーは、基本的に、霊能者でないと、秘教的な記号や象徴の意味は解き明かせないという立場をとる。シュタイナー自身、霊能者であり、更に霊能者だからといって、容易に解き明かせるほど、安易でもなく、記号や象徴を提示した霊能者と同等か、もしくは、上回る能力がないと解き明かせないようである。 しかし、世間では、インチキ自称学者が思うにまかせ、蔓延り、ここでシュタイナーが述べているように、機知や思弁が駆使されるわけである。新興宗教と同じ構図ともいえる。 また、真の占い師は占わないともいえる。占う時点で、当たり外れが生じるから、偽者なのである。真の占い師は、努力で解決できないことはないことを知っている。その努力が、全体の為になるのなら、神のためにもなり、神が支援しないはずがない。) 秘教学において、記号は決して恣意的に選ばれることはなく、秘教学においては、ある記号がある事柄に用いられるとき、常に必ず深い関連がそこに見つけられる。 けれども、人間が神秘学の観点から見て、自らの環境に対してどのように位置づけられているかについて、少し立ち入ってみければ、神秘学の記号や形象と高次の世界とのこのような関連について真に明確にすることはできないという。神秘学、或いは神秘学の基礎的な部分が、いつかより深い意味で、世にその使命を果たすときには、人間の生活と文化のあらゆる支脈が、神秘学の真理と衝動に貫かれるようになった時には、人間の感情、感覚生活全体、過度な排泄行為への位置づけ全体が本質的に変化しているという。 今日の人間の、外界に対する姿勢を示すなら、この数世紀以来、人間は一層益々、外界に対して非常に抽象的で、合理的、もしくは唯物的な関係をつくりあげてきた。今日、野原を歩く人間は、春、夏、秋という季節の相違に関わらず、大抵、眼の前に出現する事象そのもの、いわゆる感覚のみが受容できる印象、つまり、感覚知覚から、知性が結合統合できる存在だけを見ている(要するに事象の表面だけしかみていない)。 例えば、その人間に、美術的な才能、もしくは何か詩的な感受性があれば、自然から受ける知覚や感覚を、感情で満たし、ある自然の出来事に対しては、悲しみや苦しみを、また別の出来事には、高揚感や喜び、また楽しみを感ずるだろう。 しかし、今日の人間の場合、無味乾燥な感覚的な知覚が、詩的で、芸術的な感情に転ずるときでも、本来、秘教学においては、理性や知性、いわゆる頭脳だけでなく、魂と心にも与えられる必要があるとされる栄養分の切れ端(端緒)にすぎないものしか受容できなくなった。 (現代人は、益々、事象の表面しかみなくなり、真実や真相を掴む能力が衰えてきた) 秘教学の基礎事項が、物質界、アストラル界、神界のあらゆる出来事の哲学的な要約を与えるだけでなく、自ら、魂に深く親和的になり、魂が前とは違った様を受け入れ、感じ、学ぼうとするようになれば、人生における重要な要因(切欠)となる。 特に明確にすべきことは、秘教学を通じて、強調してきた事実が、益々現実に生じてくることにある。つまり、人類が、感覚で捉えている外界に、啓示(表現)される事物の背後に、魂的、霊的な存在が自らを表す顔貌、身ぶり、表情を見てとれるようになる。地球の外界で生じている出来事や、星々の運動の中にも、霊的、魂的な存在の表現を見つけることを学んでいく。 例えば、ある人間の手の動作や眼差しの中に、魂的存在が見つけられるように、外界の自然や宇宙のなかに、魂的な存在を見つけられるようになる。このようにして、人間は、例えば晴れていく大気中の、空気、水、土に浸透している様々な霊的存在の内的な経過による外界への啓示(顕現)を見つけることを学んでいく。
2009年11月18日
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進化において、反光線は、最初に、人間の激情、欲望、本能の世界に合流することで、最もよく顕現(啓示)し、このような低次元存在に相当する反次元空間が形成される。最初、この反次元空間は低次元の存在だが、後に別のものになり、次第に一層、この存在は自らを浄化していくが、元々は、低次の衝動から出発してきたので、蛇により象徴される。 低次の衝動から出発してきた浄化のプロセスは、向かい合って立つ2匹の蛇に融合し収束する反次元-次元空間により象徴される。 人類は自らを浄化することで『宇宙螺旋』と呼ばれるものを通って上昇する。浄化された蛇の体、この宇宙螺旋は、深い意味を秘め、そこから1つの理念を得ることができる。 秘教学によると、近代の天文学は、コペルニクスの2つの仮説に基づいているが、第3の仮説が考慮に入れられていない。コペルニクスの第3の仮説は、太陽もまた動いているというもので、太陽は、螺旋を描きながら進み、その結果、地球は、太陽を追いかけ、太陽とともに複雑な曲線を描いて運動している。 同じ事が、地球のまわりを運動している月にもあてはまり、こうした運動は、初歩の天文学で受け入れられているよりも遥かに複雑で、螺旋軌道が天体に対して示していることは、天体が螺旋運動により進化するのと同様に、将来、人間も、螺旋軌道を描くような進化の形態を表し、天体と人間が螺旋軌道の進化により一致するその時には、人間の生殖力は浄化され、純化され、人間の喉頭が生殖器になるということである。 その時、人間が蛇の体を浄化させることで進化させるものは、もはや下から上(人間から天体)ではなく、上から下へ(天体から人間へ)と作用する。そのとき、人間のなかで変化した喉頭は、聖杯(グラール)と呼ばれる杯になる。そして、この生殖器官と結びつく器官も同様に浄化される。 この生殖器官は、宇宙の力の精髄(エキス)、偉大なる宇宙の精髄となる。宇宙の精髄の中の宇宙霊は、聖杯に向き合う鳩の象徴で描かれる。また鳩は、人間がいつか宇宙(コスモス)と一体化する時に、宇宙から働きかける霊化された受精作用の象徴でもある。この宇宙と人間との融合プロセスに関する創造力全体が、虹により象徴され、虹は全てを包括する聖杯の封印である。 人間が螺旋軌道を描きながら進化し下から上へと上昇し、聖杯をつくるとき、宇宙は螺旋軌道を描きながら上から下へと下降した、精髄(鳩)を、その聖杯に注ぐ。 この封印の象徴全体が、宇宙と人間の関係についての意味を、驚くべき方法で、他の封印の意味も含め、総括して伝えている。従って、この第7の封印の象徴図にある周囲の縁に円環の碑文として書かれた文字に、宇宙の秘密が隠されている(第7の封印の象徴図を参照のこと)。 この宇宙の秘密は、人間が原初に様々な根源の力(神)から生まれてきたことを示している。 前世を振り返れる人間は、誕生前に、予め人生を経験したことがわかる。新しく生まれるとき、人間は様々な意志の力(神)により、予め人生を霊的に通過する。今日までに、霊的に成し遂げたプロセスを、原初の時代に人間は予め前もって経てきた。 薔薇十字会では、この霊的プロセスのことを(頭文字で)E.D.N=[ex deo nascimur](神から生まれた)と表記する(E.D.Nは第7の封印の象徴図の左上にある文字)。 (E.D.Nを略すと、エデンになる。すなわち、エデンの園になる。) 現象界への啓示(開示)には、第2の要素が加わり、2の数として顕現する必要があることを、2の数字の解説のときに述べた。すなわち、生に対して、死が加わり、生は死と共に啓示(開示)される。人間は、この死の中に再び生を見つける為に、生きとし生ける生物全ての源泉の中に、この死の感覚を克服しなければならない。 この生命の源泉のなかでの死の克服は、全ての宇宙進化の中心点である。 というのも、人間は、新たなる生命の意識を獲得する為には、死を経験する必要があるからである。そして、この死の経験の意味を、救い主の秘密の中に見つけるとき、死を克服できる。 「神から生まれた」のと同様、秘教的叡智の意味で、「キリスト(救い主)において死ぬ」という。I.C.M[Im Christo Morimur](キリストにおいて死ぬ)と表記できる(I.C.Mは第7の封印の象徴図の右上にある文字)。 そして、啓示(開示)される処では必ず、その背後の第3の神聖な存在に統一された二元性が示されるので、人間が死(という二元性)を克服したとき、鳩で象徴される、宇宙を貫く聖霊(三元性)と一体化する。そのとき、人間は復活し、再び聖霊のうちに生きる。 この真実をP.S.S.R=[per spiritum sanctum reviviscimus](聖霊により復活する)と表記する(P.S.S.Rは第7の封印の象徴図の下部にある文字)。 この表記が、薔薇十字会の表記で、この表記は、宗教と科学が宥和する時代を照らすものである。 P.S.S.R(E.D.N、I.C.M)=聖霊により復活する(神から生まれた、キリストにおいて死ぬ) 以上の通り、このような封印には、宇宙全体が描かれていることがわかる。しかも宇宙は秘教導師(マギ)や秘儀参入者によって、この封印の中に組み入れられたため、封印には強い力が内在している。秘教学徒は常に新たに、これらの封印(原点)に立ち返ることができ、封印を観想することで、無限の叡智を開くことができ、(宇宙の意味を)再発見できる。 このように、封印は、宇宙の秘密から創造されているので、人間の魂に強力な影響を及ぼし、今日上述したような、宇宙の神聖なる神秘へと自己を高めるような事柄を話し合う部屋に、このような封印を掲げると、気づかなくても、その場の話し合いを最高度に活発にし、啓発する作用を及ぼすだろう。 しかし同時に、封印は、上述してきたように神聖な意味をもつので、誤用したり、汚してはならず、逆に世俗化されることを嫌うので、霊的な事項を一切話さず、俗っぽいおしゃべりばかりがされる部屋に、このような封印が掛けてあると、逆に肉体に病気を引き起こすような作用を行う。 このような場合、封印は主に、肉体の消化を損なう。霊的な存在から生まれたものは、霊的な存在に相応しく、世俗(物質)化されてはいけない。この事実は、封印の象徴自身のその作用により示される。霊的な記号や象徴は、霊的存在がその力を発揮し、その健全な作用を顕す場所こそ相応しい。
2009年11月17日
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ある神智学の通俗的な記述では、「自身の内に神を探し求めよ」と教えたり、語られたりしているが、神を見いだそうとするなら、万有のうちに広がっている神の作品のなか、つまり外界にも神を探し求めなければならない。 宇宙のいかなるものも物質ではなく、物質は粗雑な波動で、見かけ上にすぎなく、実際、全ての物質は霊的存在の表出で、神の活動のメッセージである。つまり、物質は、精妙なる神の波動(声)の受肉化した存在である(キリスト教的にいえば、「聖霊」か?)。 そして、人間は来るべき時代の推移において、自らの本性をいわば拡大していき、益々一層、世界と一体化し、現在の人間の形態の代わりに、宇宙(コスモス)の形態(人間を拡大したフラクタル構造)を(未来の地球に)置くことで、自らの存在を提示できるようになっていく。 〔この事実は、岩、海、2本の円柱(幾何学的形状)を備えた第4の封印に見つけられる。〕 今日、雲として世界を通り過ぎてゆくものが、(未来の)人間の肉体を形成するための素材を提供する。今日、太陽霊の下にある様々な力が、更に限りなく高められ、様々な霊力として形成した力が、将来、人間にもたらされる。この太陽の力こそ、人間が将来獲得するもので、人間の頭部の神経組織に相当する植物の根を、地球の中心に向けて沈めている植物とは反対に、人間は頭を太陽に向け、そして最終的に、人間は頭を太陽と合体させ、より高次の力を獲得するだろう。 〔この事実が、ヨハネの黙示録の象徴図の岩と円柱の上でやすらう雲の体をした太陽の顔の中に見てとれる。その時、人間は自らを創造する存在となる。そして、完成された創造の象徴として、多彩な虹が人間を取り巻いている。〕 ヨハネの黙示録の中にも、この事実と類似の封印、つまり、雲の中に書物があるという封印をみつけられる。黙示録では、秘儀参入者ならば、この書物を飲み下す必要があると語られ、つまり、外的な叡智(分別知)を受容できるだけでなく、今日食物で自らを満たすように、叡智で自らを満たし、自身が叡智を体現するようになる時が告げられている。 そのとき、宇宙で大変化が起きる時が間近に迫る。人間が太陽の力を引きつけた暁には、太陽が再び地球と一体化するという進化段階がはじまる。人間は、太陽存在となり、太陽の力を通じて太陽を生み出す事ができるようになる。 〔なので[第5の封印の象徴]は太陽を生む女である。〕 その時、人類は遥かに道徳的、倫理的になっているので、低次の人間性に潜む様々な有害な破壊力は全て克服されている。 この事実は、7つの頭と10本の角を持つ動物によって描かれている。太陽の女性の足下に、地球が用いることができずに、分離できなかったあらゆる低次の有害な実質を含む月があり、今日の月が魔術的な力により地球上で行っている全てが、その時には、克服される。人間が太陽と一体になるとき、人間は月を克服した存在となる。 〔続いて[第6の封印]だが、これは高次の霊化に到達した人間が、いかにミカエルの形姿に似ているかを表している。ミカエルは、この世の悪の象徴(シンボル)である龍を捕縛する象徴である。ミカエルは龍退治の象徴である。〕 人類の進化の最初と最後の両方に、同じ変容の状態があることをまとめてきた。いま、この同じ状態が、融けて流動する火の金属の足を持ち、口から剣を突き出した人間の中に描かれていることがわかる。偉大なる深遠を讃えた象徴学においては、宇宙全体の存在が、聖杯の象徴となって明かされ、以下のような概略的に纏められた第7の封印となる。 秘教学徒は、この世界の空間が、物質界にとっての単なる空虚な器とは全く別ものであることを知っている。空間は、宇宙全ての存在が、いわば物質的に結晶化し、出現した源泉である。 例えば、水で満たされた完全に透明なガラス製の立方体の器に、この水を貫くように、冷却を行う流れが導かれたとき、様々な形の氷が形成されるのをイメージすると、この空間の性質を理解できる。1つの世界創造のイメージ、つまり空間は、このようなイメージから形成される。このイメージは、神的な創造の「言葉」が話され、息となって空間を作り出したという理念を与えるだろう。 その結果、この空間の内部へと神的な創造の言葉が発せられ、ありとあらゆる事物が空間から結晶化し生み出された。 『つまり精妙な波動に、ある受肉化(結晶化)させる振動(神の調和の波動)が与えられ、空間と共に物質が形成されるような感じである。超弦理論でいえば、弦が精妙な波動で、ディレクレ条件からなる膜、つまりD-ブレインが、神の調和の波動という感じに思われる。』 神の創造の言葉が息吹となり、内部に発せられた、この空間を、秘教学徒は「透明な立方体」によって表す。この空間の内部に、様々な存在が発達していく。人間に近い存在は、立方体を3つの垂直方向、つまり、長さ、高さ、幅の三本の軸で付与し、特徴付ける。だから、立方体は3次元を示す。 さて、外の自然界にある3次元に、例えば、反対の方向からくる次元を加えることを考察する(ベクトルを基にした次元)。例えば、ある人物がある方向に進み、また他の人物が、前の人とは逆の方向からきて、両者がぶつかることをイメージする。これと同様に、各空間の次元にも、各々の反次元が存在し、従って、立方体は(ベクトル、つまり方向性を考慮すると)、全部で6次元となる。 (超弦理論でいえば、コンパクト化した6次元の空間とも考えられる。超弦の場合、D-ブレイン、つまり膜が、神の調和の言語となるだろう。) これらの反次元からなる反光線は同時に、人間の究極の原初的な構成要素の源(基底)を表している。空間から結晶化された物質(肉)体は、最低次のもので、その反対の霊的で、最高のものが、反次元により示される。 (霊的エネルギーは、物理学でいえば負のエネルギーと呼ばれる、宇宙のダークマターを意味するものかもしれない。)
2009年11月16日
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今日の人間を動物と比較すると、その違いは「人間は個人個人として、個々の動物がもたないものを、自らのうちにもっている」というところで、いわゆる人間は自我をもっている処にある。人間は個人の魂(自我)を持ち、動物は集合魂(集合自我)しか持たない。人間1人が、いわば1つの動物の属全体にあたる。 例えば、全てのライオンは共通で1つの集合魂を持ち、この集合自我は、人間の自我と全く同じだが、ただ集合自我は物質界までは下降していない点において人間の自我とは異なる。それ故、動物は鉱物の創造活動を行えず、鉱物界のなかに沈潜し思考する自我の存在ではない。その代わり、動物の自我はアストラル界に見つけられる。 この地上では、人間は、各々自我を担い、一人一人物質的人間として遭遇するが、アストラル界では、アストラル実質の中で、人間と同じような存在と遭遇するが、ただ、それは物質ではなく、アストラル的な覆い、つまり精妙な波動のなかの存在の中に入っている自我と遭遇する。そこで、人間は、他の人と話すように、動物の集合自我と話せる。これが動物の集合魂の実体である。 人間も以前、集合魂を持っていたが、次第にゆっくりと今日の独立した個人の自我の存在へと進化してきた。これらの集合魂は、元々はアストラル界にあり、そこから肉体の中に宿るために下降してきた。今、アストラル界の中に人間の原初の集合魂を探してみると、人間の由来となった4種類の集合魂を見いだせる。 この4種を、今日の動物種に属する集合魂になぞらえるなら、4種の1つは、ライオン(獅子)と比較でき、2つ目は鷲、3つ目は牛、4つ目は自我が下降する前の原初の人間の姿と比較できる。更に人間の高次の顕現(発現)のための、いわゆる「救い主の記号」として、神秘の子羊のイメージにより示される、集合魂も存在する。この子羊の集合魂は、地球が存在する限り、これからも存在する。 このような事実が、ヨハネの黙示録の第2の封印に、図像として、表象されている(黙示録第5章第6節)。 〔これら5つの集合魂(ライオン、鷲、牛、原初人、子羊)の分類は、全人類に共通する偉大な集合魂(子羊)を取り巻く、人間の4つの集合魂(獅子、鷲、牛、原初人)として表され、ヨハネの黙示録の第2の図像として、人類の進化段階を描き出している。〕 人間の進化を遥か彼方の何百万年まで遡っていくと、何百万年もの歳月を考慮する必要があり、また別の映像が現れてくる。現在、人間は物質的に地球上にいるが、この地球上を動き回っていた存在が、まだ人間の魂を受容できなかった時代もあり、その時、人間の魂はアストラル界にあり、そして、更に遡ると、この人間の魂が霊界、或いは神界にあった時代(エデンの園)にも至る。 魂は、地球上で自らを浄化した暁には、未来において再び、この高次の段階に上昇していくだろう。その道程は、霊界からアストラル界を経て、物質界へ、そして再び霊界へと循環する。これが人間の長い進化の道程である。これからのこの進化の道程は、人間が土星や他の惑星状態を経てきた、これまでの進化時間と比べると、短期間で、これまで人間は物質的な変容だけでなく、霊的、アストラル的変容も遂げてきた。 このような物質以外の変容を追求するには、霊界にまで視野を上昇させ、つまりより精妙な波動の世界への探求が必要で、そこでは、天球の音楽、いわゆる霊界の空間に漲り溢れている音が知覚されるようになる。 再び人間が、この霊界に慣れ、住むようになり、物質波動よりも、精妙な波動を検出できる霊的器官(チャクラ)を獲得すると、この天球のハーモニーが人間に向かって響き渡るのを感じることができる。これを、オカルト(秘教学)では、「天使のラッパの響き」と呼んでいる。 このようなラッパの響きが、ヨハネの黙示録の第3の封印の図像であり、人間が尚一層進歩を遂げたときのみ、はじめて霊界から啓示として訪れ、姿を現すが、その啓示の理解には、人間のそのときの進化度合いに応じて、7つの封印を施された書物が開示される。この封印が、いまここで考察しているもので、そのとき、これら封印の謎が解かれることになる。 〔この象徴から、第3の封印の中央には書物、下部には時間のなかを進化していく人類が置かれ、そして4頭の馬は、上述の時代を経てきた人類進化の4つの諸段階に他ならない(秘教では、馬は、叡智の象徴でもある)。〕 しかし、(4つの進化段階よりも、)更に高次の進化があり、人間は、更に高次の世界に起源を持つので、再び、この高次の世界へと上昇していく。その時には、人間が現在の姿で存在するのをやめないと、人間の現在の形態は、その世界の中へ消滅していくだろう。 今日、外界に存在するもの、それは秘教的にいえば、人間を構成している各器官に由来する動物等の個々の文字だが、人間は、その時までに、再び全て受容し、つまり、外界を人体内に再び組み入れるだろう。そのとき、人間の形態は世界の形態と一致するだろう。 『人間は、人間から現在の外界(自然)を分離してきたが、今度は、外界を融合し、人間のなかで、宇宙と一体化する。 つまり、マクロコスモス=神的存在(人間、外界)である。これは、聖霊(父、子)=δx(1、△x)の変換から類似して推測できる。 神は自らに似せて人間をつくり、楽園に住まわせた。それが神的存在(人間、楽園)であり、人間は下降し、神的存在(人間、外界)となり、人間はどんどん外界を自ら分離することで、つまり、聖霊(父、子)=神的存在(人間、外界)=δx(1、△x)の変換であり、フラクタル構造を産んでいく。 人間は外界を分離することで、神的存在を下降し、展開してきたが、今度は、逆に外界を融合し、再び、神的存在へと上昇し得る。』
2009年11月13日
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記号や象徴のなかで、古今の秘教学徒から、最も意味深長なものとして認められてきたのは、人間という存在である。 人間は、ミクロコスモス、小宇宙と呼ばれてきたが、まさにその通りである。人間を詳細に綿密に知るようになると、人間のなかに人間の外の自然の中に広がっている全てが含まれていることが次第に明らかになってくる。 この事実を理解するには、はじめは困難だが、この事実について思考を深めれば、人間のなかに、自然全てからとった一種のエキスというか、あらゆる実質と力の抽出物を発見できる。例えば、どのような植物でも、その本質という点に関して研究し、充分に深く探求できれば、人間の有機体組織の中に、食傷された形であっても、それと同じ本質が含まれていることがわかる。 更に、外界の動物を研究すると、人間の有機体組織の中に、動物の本質に従って、取り込まれているものを指摘できる。 この事実を理解するには、勿論、宇宙の進化を秘教学的観点からの考察が必要で、例えば、秘教学徒が、もし外界の自然の中にライオンが存在しなければ、人間は決して今日のような性質の心臓を持つことはなかったという事実を知っている。 ライオンの特質が、人間のいまの心臓をつくった。 まだライオンが存在しなかった時代へと遡ってみると、最古の存在である人間は、その当時にも存在していたが、当時の人間は、現在とは全く別様に形成された心臓を持っていた。勿論、自然の中には、至る処に、必ず明白ではない関連がある。遥か太古の時代、かつて人間が、自らの心臓を今日の形態へと発達させた時、ライオンが生じた。人間とライオンは同じ力から形成された。 それは、あたかもライオンの本質を抽出し、神技により、ライオンの本質から人間の心臓を形成したかのようであった。秘教学徒にとっては、人間の心臓にライオンの性質があることは真実である。このような動物の存在が、人体内の1つの有機体組織の中に置かれる時、その存在が外界で独立状態にある時とは全く別の作用を及ぼすことに注目しなければならない。 逆に、もし、心臓のエッセンスを取り出し、この心臓に相応した存在を作り出せ、その存在が有機体組織の諸力に規定されなければ、ライオンの存在になる。勇気と大胆といった特性、或いは秘教学徒が言うような人間の「王者らしい」特性全ては、ライオンとの関係から獲得され、由来している。そして、秘儀参入者であったプラトンは、王者のような魂(勇気)を心臓に置いた。(注;プラトンの「国家」では勇気はホメロスにより心臓に置かれる) パラケルススは、人間と自然のこのような関係を示すために、大変見事な以下のような比喩を用いた。 「大自然の個々の存在は文字であるが、人間はその文字から組み立てられた言葉である。」 外には大いなる宇宙-マクロコスモス、人間のなかには小なる宇宙-ミクロコスモスがある。外界では全てが、人間とは異なり、切り離されて、本来の性質をもって存在し、人間のなかでは他器官と共に織りなされたハーモニー(調和)によって規定されている。まさしくこのために、人間を生き生きと描くことで、人間の中に全宇宙の進化を観照できる。 人間を一部とする、この宇宙との関連における人間の進化像を、ヨハネの黙示録にある7つの象徴の封印の中に見てとれる。 〔第1の封印は、白い衣を纏った人物を示し、その両足は溶けた金属や青銅のようで、口からは炎の剣が突き出ていて、その人物の右側には7つの惑星(土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星)の記号で取り囲まれている。〕 ヨハネの黙示録を知る人は、黙示録の中に、この像とかなり一致する記述が見られることを思い出すだろう(ヨハネの黙示録第1章第13節から第16節)。というのも、ヨハネは秘儀参入者であったからで、つまり、この封印は、人類全体の理念を提示している。 人間の進化を遡っていくと、人間がまだ不完全な段階にある時代に到達し、例えば、そのときの人間は、今日両肩の上に乗せている頭部をまだもたなかった。当時の人間は現代からみれば、グロテスクにみえ、つまり、現代の頭部は段々と、ゆっくりと発達してきたもので、更にこれからも進化していく。 今日、人体にはいわば終結に達した器官もあり、また、いまは未完成で、これから自ら作り変えていく器官もある。特に、喉頭は将来、力強い可能性を有している器官で、その将来性は、心臓とも関連している。今日の人間の喉頭は、ようやくその進化の始まりにあって、将来、霊的なものに作り変えられ、霊的な生殖器官となっていく。今日の人間が喉頭を使って行うことを明らかにすれば、この神秘についてのイメージが得られる。 例えば、人間が話すと、言葉として伝わり聞こえる。この響きが、空気を満たし、周囲の空気中に一種の振動が生じることで、言葉が、それを聞く相手の耳に伝達され、ある単語、例えば「宇宙」という語を発音すると、空気の波が振動する。秘教学では、この事実を、いわば言葉の受肉(物質化)というべき現象であると説いている。 秘教学では、今日、人間が作り出すものを、「鉱物界での創造」と呼んでいる。空気の振動は、いわば、鉱物(物質)的な振動で、喉頭を通じて、人間は環境に鉱物(物質)的に働きかけ、影響を及ぼしている。なぜなら、鉱物(物質)も波動(振動)から形成されるからである。 人間は、将来、この鉱物的創造を超えて、自らを高め、いつか植物にも働きかけることが可能になると預言されている。そのとき、人間は、鉱物的な振動だけでなく、植物的な振動をも引き起こすことが可能になるだろう。 そうして人間は、植物を、話すことで、出現させ、その次の段階では、「感情をもつ存在(動物)」を話すことで出現させ、ついには、人間進化の最高段階で、人間は自らの喉頭によって自分に類似の存在(人間)を生み出すだろう。 今日、人間は、魂の内容を言葉によって表出することしかできないが、最高の段階に進化した時には自分自身をそっくりそのまま言葉により表出できるようになるだろう。人間が将来、自身の存在を語って出現させるように、人類の先駆者である神々は、今日、人間の周囲に存在する全てを言葉により表出した器官を備え、全ての人間、全ての動物、そして、その他全てを話すことで生み出した。 全て言葉の文字通りの意味で、人間の一人一人が、神々により発せられた言葉である。秘教学ではその霊的器官を「霊人」と呼んでいる。これは聖書にある神はロゴス(言葉を生じる器官)であり、言葉により万物を創造したという意味である。 「太初に言葉があった。そして言葉は神のもとにあった。言葉は神であった。」(ヨハネ福音書冒頭) これは、思想的な意味を、哲学的に述べたものではなく、全く文字通りに行われた原初の神々の創造の事実を、ヨハネが書き記したものなのである。 そして、終わりにも言葉があるだろう。「言葉」の実現が創造であり、人間が未来に生み出す存在は、現在の言葉という存在が具現化したものである。しかし、その時には、もはや人間は今日のような物質的形態ではなく、かつて人間が土星上で存在したような形態、つまり火の実質にまで進歩しているだろう。 このように宇宙進化の始まりにおける創造力は、宇宙進化の終わりにおける、人間自身の創造力と結びついている。 『これを量子場の理論で用いられる、波動関数の変換の数式のδx=1+△xで表すと、先のピタゴラス的な1を分割していくやり方で表わせば、δx(1、△x)となる。先の波動関数の式において、無限小で、δx=△xならば、 δx=δx(1、△x)=δx(1、δx(1、△x))=δx(1、δx(1、δx(1、△x)))=… と波動のフラクタル構造が現れてくる。 またキリスト教的な三位一体で表わせば、 言葉の受肉(言葉の発音、空気中の波動)=聖霊(父、子) 言葉の受肉=空気中の波動という波動変換で、同等ならば、聖霊=子となり、 聖霊=聖霊(父、子)=聖霊(父、聖霊(父、子))=聖霊(父、聖霊(父、聖霊(父、子)))=… という言葉の波動のフラクタル構造が表れてくる。』 今日の全てを、宇宙の中に言葉で出現させた存在は、人間の偉大な模範であり見本である。この存在は、宇宙に声を響かせ、土星を生み、更に、太陽、月、地球、火星、水星、木星、金星を出現させた。ヨハネの黙示録の封印のなかの7つの惑星は、この事実を示し、この7つの惑星が暗示する記号は、人間がどの程度まで進化できる存在なのかを表す。 人間が最高に進化した最後に、この惑星(地球)は火の実質の中に再び現れ、人間は、この火の実質の中で創造的に話せるようになるだろう。この事実が、ヨハネの黙示録の封印の口から突き出ている炎の剣の意味である。全ては火の状態になり、従って、両足は、溶けた青銅(鉱物)になる。このように見事に印象深く、進化の意味が、この第1の封印の記号(しるし)に表されている。
2009年11月12日
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秘教学では、人生は7年期(7年毎の成長期)から構成される、といわれている。第1期は、誕生する前、第2期は誕生から歯の生え替わる頃の約7歳まで、第3期は、性的成熟の約14歳の思春期まで、第4期はおよそ、その7~8年後の21、22歳まで、第5期は、およそ28、30歳頃までと、死ぬまで7年期が続いていく。 (続けると、第6期は、およそ35歳まで、第7期は、およそ42歳まで、第8期は、およそ48、9歳まで、第9期はおよそ56歳まで、第10期は、およそ63歳まで、第11期は、およそ70歳まで、第12期は、77歳まで、第13期は84歳まで) 人間が、この7年毎の成長期において、何を課題とし、第5期(21歳~30歳)までに何に親しみ、何を遠ざけ、何を行い、何をしなかったのかを、熟知するようになれば、人生全般の後半期には、収穫の多い善良な成熟期を準備できるようになること等が色々とわかってくる。前半期に準備した年齢毎の成熟度に応じて、残りの人生の後半期全般に対して、善悪の収穫の作用が及ぶ。 人生の初めの前半期では、この7歳毎の成長の法則に従って、教育を通して多くのことを行える。けれども、それから人生の第5期に、後の人生全体にとって決定的な転換点がやってくる。この人生の第5期の転換点を、少なくとも、超えてから、若者がいわば完全なる自信をもって人生へと送り出される必要がある。 今日、若者を、あまりに早く、社会に送り出してしまう原則(成人年齢が18歳)は、大変有害である。このような太古の秘教学的原則に注意を向けることは、大きな意味があり、以前、この原則を熟知していた人々の導きにより、若者は親方(一人前)として認められる前に、いわゆる師匠について弟子として、修業、もしくは遍歴を行い、徒弟時代を卒業しなければならなかった。 5=悪の数、成長の節目、転換期を表す。 7は完成の数字である。これは人間の観察を、手掛かりに明らかにできる。人間は被造物として4の数の中にいて、そして、善か悪の存在であるという意味で、五の数の影響下にいる。人間が、現在、その萌芽(種子)として、自らのなかにもつ(霊我、生命霊、霊人の三種の神器)全てを完成させた暁には、7つの元素をもった存在、つまり完成した存在となる。 例えば、虹の色の世界においても、音楽の音階の世界においても、7という数が支配していることを意識できる。あらゆる生命の領域に至る処で7という数を一種の完成の数として観察できる。7という完成の数の背後には迷信も魔術もない。例えば、完全な感性を身につけたなら、視聴覚(7つの色と7つの音)以外の味覚や臭覚も7段階に大別できることが意識できる。 (6はなぜか抜かされている。恐らく、悪魔の数、或いは未完成の数なのだろう) 7=完成の数字、世界は7を指標として展開する、完全数。 さて再度、1という数字の一元性に注目すると、これまでの他の数の考察により、一元性の真の意味が正しい光(叡智)の中に現れ、一元性の本質が、非分割性であることがわかる。勿論、1を、例えば2分の1や3分の1に分割し、1/2、1/3という風に、思考の中でしか果たせない。 特に霊界においては、1から、2/3を取り去っても、残りの1/3は、1を3分割した意味において、2/3の補完、2/3の一部(1/3+1/3)である。つまり、霊界においては、意味深い重要な霊的な算術、2/3を除くと、1/3は、あくまで1に属する存在として永遠と現れ続け、だから、次のようにいえる。 「神(1)の一部(2/3)が、神(1)から切り離されて現れる時、その現れない残り(1/3)も、やはり、神(1)に属するものとして存在する」、と。 あるいは、 「神から何かが開示され、開示された分、全体が分割されても、開示されない残りも、やはり神に属するものとして存在し続ける」。 これは、ピタゴラス的な意味で「1を分割せよ。ただし、汝の思考の中で、分割された残りが1のままで存在するように1を分割せよ」に相当する。 もともと、1を分割する真の意味は、金色の薄板を手にして、透かして見るとわかる。金色の薄板を通して、世界は緑色に見えるが、それは金の薄板が白色光のなかの黄色い光線を反射しているからである。白色光には他の色も含まれているが、それらは金の薄板に吸収された。 例えば、赤い物体は、赤い光線を反射し、その他の色を吸収するから赤いわけで、他の色を吸収せず(取り去らず)に、赤を白から取り出すことはできない。この事実から、この世界にある黄金を通して、秘密の緑(生命の色)に触れ、内観することが、ある方法で可能になる。 例えば、光がテーブルにかけられた布地に当たり、赤くみえたなら、他の色は「吸収」され、緑色も「吸収」されたわけで、もし、そのとき、赤色と(赤の補色である)緑色を、(金色の薄板を通してみたように)同時に意識の中に受容しようと努めるなら、再び光である1を再現することになる。 また、ピタゴラス的な意味で、「1を分割し、分割された残りが、1のままで保持されるように、再び、残りを1と結びつけることを瞑想(イメージ)的に成就させ、この訓練を何度も続ける」と、霊的な高みへと人間を進化させる意味深い営みとなる。このことは、秘教学院で通用するもので、数学者により、以下のような数式で表せられている。 1=(2+x)-(1+x) これは、1を分割し、分割された残りが再び1となるように表記している秘教学の公式である。秘教学徒は、1の分割を、分割された残りが再度、常に1へと連結されるように考えるべきである。 『この秘教学の公式は、量子力学に出てくる完全形の次式に酷似している 1=Σ|x ,t><x ,t| 或いはまた、1に収束する級数への展開式(理論物理では御馴染みのテイラー展開式等) 1=1+Σf(x)にも酷似している。 更には、これを発展させると、 Xn+1=aXn(1-Xn) (0≦X≦1)( 0≦a≦4) というカオスで御馴染みのパイコネ変換式になる。 以上をまとめると、 1) 1=(2+x)-(1+x) 2) 1=Σ|x ,t><x ,t| 3) 1=1+Σf(x) 4) Xn+1=aXn(1-Xn) (0≦X≦1)( 0≦a≦4) これら一群は、以下のような三位一体の表記 発展=進化×退化 → 発展(進化、退化) で表現できる。 1(2+x、-1-x)、1(Σ|x ,t>、Σ<x ,t|)、1(1、Σf(x))、Xn+1(aXn、-aXn^2) 、あるいはXn+1(aXn、1-Xn) つまり、1(神)からはじまり、1(神)へと戻るように、宇宙は発展する。』 このように、この講義で、いわゆる数字の象徴主義を検証し、数の見地から世界を観想すると、世界のなかの深い秘密に参入できることを学んだ。 最後に、再度述べる。第5週目、5日目、或いは5時間目においては、状況を大きく変えられることに気づくことが大切である。そして、7週目、7日目、或いは7時間目には変化させたその結果が現れる。或いは最終的に7の数で完了し結果が現れるので、その半分の3.5(7/2)には、何らかの兆しが、現れる。例えば、病気で生じる熱(体温)は、7日目に一定の性質を示し、或いは14日目にも、7の倍に相当するような性質を示す。 (また、地球の進化で考えると、土=1、日=2、月=3、火[地球の前半]=4、水[地球の後半]=5、木=6、金=7となるので、丁度、5の悪の数のとき、つまりは水星紀のときに、これまでの進化状況を変えることができるわけで、現在は水星紀直前の年代である。水星紀とは、水瓶座の時代、つまり再び霊性に目覚める時代と預言されている。 地球的には、土=1、日=2、月=3、地球=4、木=5、金=6、ヴァルカン(ウルカヌス)=7で、次の地球の舞台の、木星紀に、劇的な状況を迎えるのだろう。) ピュタゴラス的な意味で、「数の探求」に没入できる人は、このような数字の象徴学から、生命と宇宙を理解できる。今回の講義は、このような内容の概略を述べた。
2009年11月11日
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最近、世評を故意に書かないつもりでいたが、あまりにも聞くに堪えない評論家の体裁意見、嘘ばかりで中身空っぽの偽善意見が蔓延っているので一言言いたくなってきた。 どうやら、戦争で負けて、魂まで米国に売ってしまったようである。 いまの米軍基地だらけの沖縄が占領でなくて何なのか? 駐留費をも負担して、留まってもらっているという詭弁が罷り通り、何かといえば、水戸黄門の印籠のように、「控えおろう、日米同盟が目に入らぬか?」と偉そうにいう。 「ここにおわす方をどなたと心得る、大統領直属の米軍様なるぞっ」である! もしかして、大統領って、天皇よりも偉いのかな? と愛国心のある日本国民は思うはずだ! 「日本のために、血を流してくれる米軍だぞ」と畳み掛ける評論家さえいる。 日本のために血を流すことなど、いままでもなかったし、日本人を殺すために血を流した米国民の方が多いはずだし、沖縄では、米軍の犯罪は日常化しているほどである。騒音だって、沖縄市民の健康を害しているわけで、馬鹿にならない。 思いやり予算のために、倒産に追い込まれた中小企業だってあるはずだ! 将来、可能性の低いことを期待する方が、現状の分析結果よりも重要だという。 そりゃ、本人はそのことを信仰していればいいだけで、お題目のように、いい続ければよいのだから無責任極まりない話である。 その嘘のお題目をよくも、しゃあしゃあと公共の電波を使って流せるものである。 なんだか、新興宗教の洗脳の勧誘みたいだ! どうやら、自分の発言に現実性がないので、自分の発言が何を意味しているのかも理解できないらしい。 秘教学によると、このような人は、死後、自分の発言の責任をもとらされるようなので、その発言に騙されて巻き添えを食った犠牲者の怨みを買ってしまうので、無責任であればあるほど、その罪は重く、特に宗教関係者の発言は、多くの人に災いをもたらすので、地獄中の地獄行きは決まったものである。 そういえば、竹中という御用学者も、似たようなことを言っていたね。 市場原理主義が、平和をもたらし、経済を安定させる、というようなことをね。 しかし、どうだ! その市場原理主義のせいで、米国発の大不況、混乱がもたらされた。 日本の地方は疲弊し、格差社会が到来した。 その責任をとらず、いまだに弁解がましいことを言っているようである。死後、騙され死んでいった悪霊たちにたかられるだけだから、自業自得だろうけど。 グリーンスパンはとうの昔に白旗を掲げ、「間違いだった」と降参したのに、いまだに竹中という地獄行きの悪魔に魂を売った輩は自覚もないようである。 恥を知ったらいい。恥という感覚も失っているから知りようもないだろうけど。 今日も、田中某という御用学者が、日米同盟が重要だと詭弁を弄している。 「アメリカからみれば」というのが枕詞で、日本人なのに、アメリカに魂を売ったようである。日本人なのに、沖縄の同じ日本人よりも、アメリカが気になるらしい。そんなにアメリカが大事なら、アメリカ人になった方がわかりやすいと思うな。 こういう人は、哲学を失っている。空理空論しか語れない。理念がないからだ! 第一、日本の神様に合わせる顔などを考えてないのだろう。なぜ日本民族に天皇がいて、日本列島が島国なのか、思いもよらないのだろう。 その口から出てくることは、批判ばかりである。批判は悪口と同じで誰でもできる。 ああいう、日本人をみていると、吐き気がしてくる。同じ日本人として心底恥ずかしい思いがする。 死ぬとわかりながら、当時の日本の上層部の売国奴たちに騙されているのを承知で、日本のために、米国と戦った日本人。その人たちの無念さがいたたまれなくなる。 評論家こそ有害な連中はいない。学者など使い物にならん。 言葉など毒でしかない。実行あるのみ。 勝海舟ははっきりといっている。学者は駄目だ!と。 政治をやりたければ、学者という職を捨てて、政治家に立候補して選挙に勝て! 国民の信任を得てからだろう。それが民主主義てもんだ。 米国が日米協定で沖縄に軍を置くというなら、その分、ハワイにでも自衛隊をおかせろとでもいえるぐらいの胆識がないと駄目だろう。 それが対等条約というべきだろう。いまのじゃ不平等で、日本がやられ損なのは明らかだ! 第一、必ず、日本を助けるというような証文じゃ信用ならんから、日本を助けない場合は、常に大統領の首をとる必要があるから、ホワイトハウスに自衛官を常駐させろとでもいうべきじゃないかな。 せめて、広島、長崎の怨みがいまだ晴らせませんから、日本に向けるよりも、ホワイトハウスに核弾頭を向けてもらうように、拉致問題と引き換えにして、北朝鮮と交渉しますとでもいうべきだろう。 米国が勝手に戦争はじめて、自衛隊にパシリをやらせるなんて、奴隷制度を認めるようなものだろう。いまだに白人優越主義でもあるのか? 日本は米国のATMでもない。ヘラヘラ笑う自民党議員にいまでも国民は怒っている。 米国人と対等に喧嘩できなきゃ話にならない。外交交渉とは、ある意味国民を代表して行う喧嘩である。だから、血の滲むような選挙を乗り越えないと意味がない。 評論家や、エスカレータで上った官僚のような木偶の坊じゃ話になりません。私利私欲のために、国家を売るだけです。 実際、米国人に舐められているのがわからないのかな? 金や地位のために、魂を売っていることに気づいていないのかな? まぁ、地獄に行ってみて気がつくんだろうね。 勝海舟も言っている。 「田舎の議員が来て生意気なことを言うから、『馬鹿奴、うぬらに分かってたまるか』と怒ってやった。『お前に、己が米の事を言っても信じやすまい、笑うだろう。己に政治の事を言うのは、お前に米の事を言うようなものだ、こっちは。50年、政治で飯を食っているものだ。』と言ってやった。」 「ナニ、誰を味方にしようなどというから、間違うのだ。みンな、敵がいい。敵がないと、事が出来ぬ。国家というものは、みんながワイワイ反対して、それでいいのだ。己などは、その見幕だった。 アー、溝口が知ってらあ。『みンな、敵になったから、これなら出来ます』と言った。あまり大言だというたが、そうじゃあないか。慶喜殿も覚えておられるだろう。 相談相談というのがいかぬ。既に、気が餓えてるもの。」 「内で喧嘩しているから分からないのだ。一つ、外から見て御覧ナ。直に分かってしまうよ。」 政治のなかでは、「昨日の敵は、今日の友」ともいう。中国と米国を両天秤にかけてみたらいいと思うね。どうみても、友として相応しいのは中国だろうね。同じ黄色人種だしね。中国は、いかに中共でも、日本には原爆を落とさなかったと思うね。 外国人の本音を聞いてみたらいい。 「いまの日本は、米国のパシリだ!」というだろうね。だから北朝鮮よりも軽くみられるわけだ。 ブッシュなんか、請求書を渡してアフガンゲリラにでも拉致させたらいいよ。もう大統領でもなんでもないんだからね。悪魔に魂売った奴だ! 可能性の低いことにチャレンジする米国文化、アメリカンドリームは好きだが、米国人は大嫌いです。そんな米国人に媚を売る日本人が許せないだけです。このような日本人をなんとかしないと、日本はよくならないことだけは確かであろう。
2009年11月10日
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今度は4という数字である。4は宇宙(コスモス)ないし創造の記号で、現在の人間存在を基準にすれば、地球は、いま第四の受肉状態である。4が創造数と呼ばれるのは、この地球の状態を意味する。この地球上で人間が遭遇する全て、つまり、人間が第四段階の状態であることや人間の創造の原理が、地球という惑星進化の第四の状態にあることを前提にしている。 いかなる創造も四元性の記号下にある。秘教学において、「人間は今日鉱物界にある」と言われている。というのは、今日の人間は鉱物界だけを理解し、鉱物界だけしか支配できないからである。人間は、鉱物を組み合わせて家を建てたり時計を作り上げたりできるが、それが可能なのは、鉱物が、鉱物界の法則に従っているからであり、例えば、人間は、自らの思考から植物を作り上げることは不可能であることがわかる。 自らの思考から植物を作るには、人間自身が植物界の存在になる必要がある。将来、地球が進化した後になってから、それが可能になるといわれているが、少なくとも、今日の人間は鉱物界における創造者である。この鉱物界には、3つの元素界と呼ばれる3つの領域(火、空気、水)が先行し、鉱物界(土)は第四の領域である。全体としては、七つの自然領域がある。 (火[土星]、空気[太陽]、水[月]、土[地球]、木星、金星、ヴァルカン[ウルカヌス]星) 人間は今日その第四の領域にいて、外界へと向かう自らの意識(自我)に到達した。古月紀では、人間はまだ第三の元素界、古太陽紀では第二の、古土星紀では第一の元素界で活動していた。木星上で人間は植物界で活動するようになり、地球上で今日、時計を作るのと同じように植物を創造できるようになる。(地球紀においては)人間は思考により生命を創造できない。 無からの創造の中に可視化される全ては、4という数字の象徴(シルシ)で記される領域にある。肉眼では見えない惑星も数多くあり、これら第一、第二、第三の元素界(火、空気、水)にある惑星は肉眼では見えない。創造の中での、そのような惑星が第四の領域、つまり鉱物界に入った時はじめて、その惑星を肉眼で把握できる。 それ故、4は宇宙(コスモス)ないし創造の数字といわれる。第四の状態に入ることではじめてその存在は肉眼で見えるようになり、外界の事象として見れるようになる。 5は悪の数字である。人間を考察すると、この意味がわかる。人間は、進化のうちに四元性の存在、つまり被造物の存在へと到達したが、やがて地球上で人間に第五の要素である、霊我が次の課題として現れる。もし、人間がこの四元性の4という数字に止まるなら、人間は常に上方から、神々によって善へと誘導される存在に止まるのみで、決して独立した存在へと進化することはなかっただろう。 人間は地球上で第五の要素、霊我への萌芽(種子)を手に入れたことで自由になった。この霊我により、人間は、自由や独立性を獲得したと同時に、悪をも行う可能性も獲得した。5元性に到達しない存在は、悪を為すことができない。 そして、人間が、悪と遭遇する処では、実際、悪は、自身に対して正反対の作用さえも及ぼすことができるので、五元性、つまり第5の要素が活動している。それは外界である物質世界の至る処で起きているが、ただ人間が気づいていないだけである。しかも、今日の唯物主義的な世界観では、世界を五元性から捉えることに関しては全く無理解である。 例えば、5という数字に遭遇する処では、何らかの意味で、成長の節目に関して語る正当性が出現する。もし、医学がこの原理を採用し、病気の経過を、この原理に従って研究してみれば、病気に対して大変有益な影響を与えることができる。つまり、病気が、発病から第五日目までにどのように進展するか、一日のなかであれば真夜中、つまり午前零時から五時間目の午後五時に、更には第五週目に、病気の進展具合を調べるとよい。 というのも、病気に、最も効果的に介入できる時期は、常に5という数字が支配している状態であるからである。それまでは、自然の経過に任せる以外、大したことは期待できない。しかし、5という数の法則に気づくなら、治癒させることも、更には、悪化させるようにも介入できる。 というのも、善もしくは悪といわれるものが、5という数の原理に従って、物質界に流入しているからである。この五という数の原理が害を与える、悪の原理と呼ばれるのも当然で、多くの領域で5という数が外界の出来事に関して大きな意味をもつことが示される。 (この5の原理から、陰陽五行説がきているのだろう。木、火、土、金、水と事物が5つの数の原理で成長し、展開していくなかで、五番目のとき、陽に出るか、陰に出るかで、今後の五行の展開を左右するともいえる。この5の数の循環論から、陽と陰、つまり表と裏で、2倍して、恐らく、通常広く10進法が用いられてきたのだろう。)
2009年11月10日
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前回の薔薇に対する、人間の思考の存在という事実は、他の生活の領域にも当てはまる。例えば、以下の情景を想像する。 芸術家ミケランジェロの創造行為をみると、実際、彼はほとんどモデルを使って製作したことはなかったが、もし、彼が一群のモデルを配置し、芸術作品を創作すると、この芸術作品は、彼のなかで、新しいイメージとして生じ、新しい創造行為の表出となる。 ミケランジェロの新しい創造行為(ミケランジェロの存在、一群のモデルの存在) この場合、以前の進化や退化の関係(つまり時間の進行)とは無関係で、受容できる存在と譲与できる存在との交流から生まれた新しい存在である。このような新しい創造は、常に存在と存在との交流を通して生まれ、このような新しい創造はいわば始まりである。 新しい創造行為(受容できる存在、譲与できる存在) 思考がいかに創造的で、魂を高貴にさせ、後には肉体の形成にも働きかけることを思い起こせば、ある存在が一度考えたもの、つまり思考創造や、概念創造は働き続け、生き生きとした作用を及ぼし続ける。それは新たな創造であると同時に始まりでもあり、しかも結果を導く。 今日良い考えを抱いたなら、この考えは遥か未来に、豊かな実りをもたらし、その魂は霊界で、独自の道を歩む。肉体は再び元素に帰り崩壊し、思考を生み出した存在が崩壊しても、思考の作用は残り、思考は働き続ける。 例えば、ミケランジェロの例を再考すると、彼の栄光に満ちた絵画は何百万もの人々を高揚させ、影響を及ぼしてきた。しかし、これらの絵画もいつかは灰塵に帰し、もはや彼の創作物を一度も見たことがない世代も出てくるだろうが、同時に、ミケランジェロの絵画が外(物質)的な形態を取る前に、彼の魂のなかに生きていたイメージや、彼の魂の中にあった新しい創造活動の源泉は生き続け、存続し、将来の進化段階に新しい形態をもって現れる。 この秘教学の原則を掴むと、どうして今日の、雲や星が出現してくるのかがわかる。なぜなら、太古の昔に、雲や星を思考していた存在がいたからである。全ては思考・創造活動から生まれ、思考は新たな創造である。思考から全てが生まれ、宇宙の偉大なものは神的存在の思考から出現した。 ここに、第三の存在を得る。顕現(啓示)においては、事物は進化と退化の間を交替しているが、その背後に第三の存在というべき、深く隠された創造活動、つまり思考から誕生した新しい創造がある。新しい創造物としての理念が生まれ、事物は、いわば無から生じ、無から生じた完全に新しい創造が、第三の存在のなかに深く秘されている。 このように三つの異なる存在が互いに関係し、無からの創造が行われ、それは人間が、理念を抱くときに、必ず生じる。そして、この無からの創造の顕現(啓示)が生じ、時間の流れの中で経過していくとき、顕現(啓示)における形態は、つまり進化や退化という形をとる。 宗教のなかには、「宇宙は無から創造された」と説くものがあるが、それは以上のような意味であることが秘教学から明らかになる。今日、この真実が嘲笑されるのは、嘲笑する人間が、古い文献の真の意味を理解できないからである。現象の世界での顕現(啓示)において、全ての事象は進化と退化の間を交替している。 その根底には、自らを、その顕現(啓示)の二者(進化と退化)に結びつけ、三元性を形成する無からの創造が秘され隠されている。 つまり、三元性(三位一体)が、神聖なる存在と顕現(啓示)との統合なのである。 (三位一体の創造行為とは、ここでいう無からの創造、つまり、一という神の存在の思考からはじまり、時間の経過を得ると、二元性の啓示から生まれるというわけである。1+2=3になる。巷では、一神論とか、多神論とか、どうでもいい話が熱く議論されることがあるが、秘教学からいえば、どちらも瑣末な議論で、枝葉末節論にすぎない。 つまり、そのような枝葉末節論は、自らの信仰する存在だけが、正しいと主張するような利己主義が表面化しているだけで、神の名を語るような偶像崇拝にすぎない。) このように、3という数字の意味がわかれば、ただ、論理的に理屈をこね回すのではなく、至るところで遭遇する二元性の背後に、三元性を探す必要があることがわかるだろう。2の背後に3を求める時、ピタゴラス的な意味における正しい方法で、数字の象徴が考察できる。全ての二元性の背後に、隠された第三の存在を見つけることができる。 (例えば、電気のプラスとマイナスの背後には、電磁力という存在があるが、物理学では、仮想粒子を想定し、光子などの素粒子の存在を仮定し、超対称性という数学的法則の存在性にまで言及しているが、秘教学では、その数学的法則が、神の思考から生まれ、神の思考が、堕天使悪魔の領域に囚われ、光が闇に捉えられることで、電磁力が生じるという見解をとる。だから、秘教学では、物質世界は、悪魔の世界でもある。 余談だが、勝海舟は、この世には、悪い奴が多いので、やや性悪説だといっているが、秘教学でも、物質世界は、悪魔の世界なので、その洞察力は鋭いといえる。仏教でも、現世を泥と説く。この泥のなかで、綺麗な蓮の花を咲かせるのが、人生の目的で、修行なのであろう。) 3=神聖の数、二元性の背後にある神聖な第3の存在を見つけ、3と1で三位一体の構造を表す。三位一体は3と1であり、神の数字である。
2009年11月09日
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例えばアウグスティヌス(354-430)から中世を経てカルヴァン(1509-1564)に至るヨーロッパの精神的な生活の発展を追求し、この時代の精神生活に視線を漂わせてみれば、アウグスティヌスのなかに一種の神秘的な内面性(3という数字)が見つけられ、彼の著作、とりわけ「告白」のなかに、神秘的な関係を見つけ出せる。 更に時代を辿っていくと、スコトゥス・エリウゲナ(810-877)のような素晴らしい人物に遭遇する。彼は後にシャルル(カール)二世(別名;禿頭王)(823-877)の官廷に仕え、スコットランド出身の修道僧なので、スコットランドの聖ヨハネと呼ばれた。彼は不幸なことに教会とはうまくゆかず、伝説によれば、修道僧仲間たちに、留め針で拷問され、殺されたと言われている。 勿論、この伝説を、文字通りには受け取れないが、彼が拷問により殺されたことは事実である。彼によって、『自然区分論』("De divisione naturae")という、素晴らしい書物が著された。その書は、人智学的観点からは、多くの面で、秘教学的事実の欠落が散見されるとはいえ、大いなる思想の深さを顕していることにかわりはない。 (ちなみにウイキペデイアから以下に抜粋する。『自然区分論』["De divisione naturae"]の中で彼は自然を以下の四つに区分している。1.創造されず、創造する自然 [神] 2.創造され、創造する自然[善、真理、永遠、イデア、存在] 3.創造され、創造しない自然 [世界、人間世界] 4.創造されず、創造しない自然 [神と一つになる被造物の完成状態。] そこでエリウゲナは人間を精神世界と物質世界をつなぎ目となる存在、移行部分と考えた。その方法論は非常に理論的で三段論法を駆使したものであった。) 更に辿ると、ライン河領域において、ドイツ神秘主義派と遭遇する。そのドイツの坊さん横町では、坊さんを通して、特別神秘的で、親密な感情(友愛の精神)が、民衆全体に流れ込んでいた。秘教学に通じた坊さんたちは、精神的生活の頂点であったばかりでなく、民衆でもあり、畑や鍛治場で共に働くことで、一般の人々に、当時の時代の傾向として生きていた、神秘的で、親密な感情を流し込んでいたために、こうした神秘的な時代の潮流に拾い上げられた。 更に辿ると、ニコラウス・クザーヌス(1400-1464)に遭遇する。秘教学を根底として、このように中世の末期まで、神秘的な時代を辿ることができ、そして、その環境の至るところで、全体に広がっている神秘的に深く、敬虔で、親密な感情を見つけることができる。 この時代を、この時代に替わる、後の時代、つまり16世紀に始まり、現代にまで至る時代と比較するなら、決定的な違いに気づくだろう。 その時代転換の出発点において、コペルニクス(1473-1543)に遭遇する。彼は、ある包括的な理念により精神生活の革新を引き起こし、彼の思考は、人類の知職と一体化するほどに注ぎ込まれ、人間の思考に緊密に組み込まれたので、今日、この思考と別の事実(天動説)を信じる人は馬鹿者とみなされる。 それから、ガリレオに遭遇する。彼はピサで、教会のランプが揺れるのを観察し、振り子の法則を発見した。このように一歩一歩、段々と、この時代の経路を辿っていくと、至る所に、中世との烈しい対立が見つけられる。 神秘的な感情は次第に衰えていき、親密な感情は次第に消滅していく。そして知性、知識が次第に現れ出てきて、人間は益々利口に、分別的になっていく。このように、全く正反対の性格を持つ二つの時代が前後して続く。 (シュタイナー曰く、16世紀までは、いわゆる神の陽の啓示の時代で、つまり、進化のプロセスで、16世紀からは、いわゆる神の陰の啓示の時代、つまり、退化のプロセスというわけである。神秘学は、16世紀までは、いわば顕教だったが、16世紀を境として、秘教化し、植物でいうなら、種子となったわけである。21世紀に、その種子[火]は水[液体]と光[気体]と土地[固体]を得て、再び開花を始めるだろう。) 人智学は、この2つの時代の相違を解明し、この相違の必然性を、秘教学の法則から説く。つまり、アウグスティヌスからカルヴァンまでの時代では、神秘主義の進化と主知主義の退化の時代だったが、その後の時代は、逆に主知主義の進化と神秘主義の退化の時代であるといえる。 アウグスティヌスからカルヴァンまでの時代(神秘主義の進化、主知主義の退化) コペルニクスからガリレオを通じて現代まで(神秘主義の退化、主知主義の進化) では、これが何を意味しているのか? これは、アウグスティヌスから16世紀までは、外に向けた神秘的な生活の展開の(進化の)時代であり、外界に神秘性が啓示され、一方、それとは別の面の主知的な生活が種子(萌芽)の姿で隠れて存在した。それは、いうなれば、16世紀以降、少しずつ展開されていく、霊的な大地に埋められた種子のようなもので、当時その主知的生活は、植物の形態が全て種子の中にあるように退化(内展)の状態にあった。 宇宙においては、このような退化(収縮、融合)の状態が前もって存在しなければ、生じえない。16世紀以来、理知は、進化の状態となり、逆に、神秘的な生活は退き、退化の状態となっていく。 そして今、この神秘的生活が再び現れて来るべき時代に到達した。それはかつての神秘主義よりも、より教唆の富むものとして、人智学運動を通して、主知的な生活をも含んだものとして展開、進化でき、現れる時代に入った。 このように、生命や生活の至る場面で、進化と退化の顕現(啓示)が交互に現れる。 しかし、その顕現(啓示)の背後をみずに、顕現(啓示)そのものだけに止まる(囚われる)人間は、ただその外面のみを見ているにすぎない。全体を見るなら、この両者の顕現(啓示)の背後にある第三の存在を更に付け加える必要がある。 では一体、この第三の存在の正体とは、何なのか? それは秘教学により明らかにされる。 例えば、今、あなたが、外界の現象に向かって立ち、その現象について思考する。外界は、あちらの外の世界にあり、あなたの自我は、こちらの魂の内にある。そして、魂の内面から、思考が生じる。この思考は、以前、この世界には存在しなかった。思考する人間がいてはじめて、思考は、この世界に存在する。 (デカルトが説いた、「我思う、故に我あり」を思い出す。) 例えば、薔薇について思考を形成する時、この新たなる思考は、人間が、薔薇と関係を結ぶ瞬間に初めて生じる。思考する人間が存在し、思考対象の薔薇が存在すれば、今、人間の中に薔薇に関しての思考、つまり薔薇のイメージが現出する。以前、この世界に存在していなかったものが、人間により、薔薇の思考、イメージとして、全く新しい存在として生じる。 新たなる思考の存在(思考する人間の存在、思考対象の存在) (人間の外なる存在に対して、人間は、内に思考の存在を創造する。つまり、デカルトが説いた、我思う、故に我ありとは、人間が、思考を創造することで、人間の存在を明らかにするという意味にとれる。)
2009年11月06日
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人間が生きていく中で考えられる重要な二元性とは以下のようなことである。 以前、人間が今日の地球の住人となる前に経てきた様々な進化状態を考察したが、土星紀と太陽紀では、人間の魂は、外から、自分の肉体を支配し、肉体の一部が崩れ落ちると、新たな部分を再び付与した為、結局、この肉体は、ある種の不死性を保ち、人間は、衰微や消滅、いわゆる死について、何も感じることがなかった。 当時の人間の意識は、今日の意識とは異なり、ボンヤリとした夢うつつの意識で、この地球紀になってはじめて、人間は自己意識と結びついた意識を獲得すべく、格闘してきた。この地球ではじめて人間は自身について何かを知り、対象から自分を区別できる存在となった。 そのためには、外から肉体を管理するだけでなく、この肉体の中に入り込み、そこで、自らを知覚し、知覚したことを基に、それに対して「私」と言う必要が生じた。人間が、自らの魂を、肉体にすっぽりと納まっているのを見つけたからこそ、十全な意識を達成する事が出来た。 人間の魂は、昼、肉体に入り、夜は、肉体から出るように交互に入り込んで、自らの内で「自我」が語りかけるのを感じとる必要があった。人間はその肉体に完全に入り込むことで、完全な意識を獲得できた。ところが、今度は、そのために、人間はこの肉体と運命を共有するようになった。 地球紀以前、まだ、魂が、肉体の上空を舞っている頃は、そうではなかった(聖書の記述のエデンの園のこと)。人間が、肉体に入り、自我による覚醒意識を獲得したことによりはじめて、死と関係を結ぶようになった。肉体が崩壊する瞬間、運命共同体となった人間は、自我と肉体を同じ存在と見なしたが故に、自我が宙ぶらりんに虚脱し、いわゆる停止するように感じるようになった。 つまり、人間は、自我と肉体を同一視したが故に、死を感じるようになった。 少しずつ霊的な進化を経て、やがて遠い将来、人間は再び太古の不死性を再獲得するだろう。いま肉体は意識して不死性を獲得するための修行場として存在するようになっている。 人間が、死を通過することで、その死によって不死性を贖わず、生と死の二元性を認識しないなら、決して高次の段階で不死性を獲得することはできない。人間が死を経験しなかった間は、生と死の二元性は啓示された世界に属することなので、まだこの世界は人間には開示(啓示)されなかった(そのとき、人間はエデンの園にいたと聖書では記述されている)。 秘教学から、この世界は、2という啓示の数に、つまり二元性に担われ、この世界の至るところの生に、二元性を見つけられる。物理学においては、プラスとマイナスの電流、磁気における引力と反発力(NとS)など、全ては二元性の中に現れ、2は現象の数、啓示(開示)の数である。 従って、この世界における現象の背後において、神的存在が支配し、働くことなしには、いかなる啓示も存在しない。だから、この世界のいかなる二元性の背後にも一元性というべき統一性が隠されている。 それゆえに、「3」という数字は、2と1、つまり「啓示」と啓示を行う「神的存在」に他ならない。 1は神の一元性の数字だが、3もまた、自らを啓示する神的存在の数字である。秘教学では、「2は神性を表す数字に決してなり得ない」、という原則がある。1は神の数字だが、3もまた神的存在を表す数字である。というのも、神的存在が自らを開示するとき、それは2において顕現し、その背後に1があるからである。 世界を二元性として見る人は、この世界を、その啓示(顕現)において見ているのであって、外的な諸現象には、二元性が存在すると主張するのは正しいが、この二元性が全てであると主張するのは間違いである。それを、次の例から明らかにする。 (つまり、例えば、実験によって、自然現象を再現した場合、その実験結果のみから、自然現象の正当性を主張し、実際に、実験を実施した知的な存在の実験者自体の存在を度外視することを意味する。 よく自然現象は実験により再現できると科学者はいうが、では、自然現象のなかで、実験者に相当する存在は何かと問えば、自然法則と言うしかなくなる。では、その自然法則自身は何かといえば、神的存在自身に他ならないと秘教学は説くのである。) 「2という数は単なる顕現(啓示)の数であり、完全な充溢性の数ではない」という秘教学の原則はよく犯されている。「あらゆる発展(成長)は、退化[収縮、融合]と進化[解放、分離]の中で生じる」と、その本質をよく知りもしない人たちが、言うのを耳にするが、この真の意味は、秘教学の原則にある。 では、進化と退化の本質とは、どういう意味なのか?をみていく。 植物を例にとる。根、葉、茎、花、実、つまり植物が持つ全ての部分を備え、それらが完全に成長した植物をイメージし、このイメージを、1つの完全に成長した植物体系の進化の全体図とみなす。次に、植物が再び生えてくる小さな種子を観察すると、この小さな種子の粒の中には、ある意味、既に植物の全体像が含まれていることがわかる。 いわば小さな粒の中に、その後の植物の成長状態が閉じこめられているわけで、なぜその中に入っているかと問えば、その種子が、その植物から生まれたからで、その植物が、その力全てを、その種子の中に注ぎ込んだからである。 だから秘教学では、この二つの過程、つまり、1つは、種子が(植物像)を解放(分離)していき、植物全体へと「進化」する過程と、もう一方は、成長しきった植物が収縮(融合)し、その形態を、種子の中に退化させる過程とに区別できる。 従って、沢山の器官を持つ存在が、これらの器官のどれもが、もはや見えなくなるような、小さな存在に収縮(融合)するように、自らを変容し、形成するなら、この過程は、退化と呼び、逆に、小さな存在から自己を、解放(分離)する過程は、進化と呼ぶ。 生命においては、至る所に、この退化と進化の二元性が交替し、常に啓示として現象界内のみに生じるが、この啓示は植物のみならず、より高次の生命の領域においても、事情は変わらず、探求できる。 2は、背後に神の1を有し、もって3となし、それは三位一体として、以下のように表現できる。 3という数字の意味(進化、退化)を司る存在。 (複雑系という新領域分野に、非線形力学を用いたフラクタル幾何学があり、そのなかに、「パイコネ写像」という変換式がある。この変換式は、パイ「ピザなどの生地」を2倍に延ばし、半分に折り畳むというのを数学的に現わした式で、シュタイナーがここでいっている、「退化」と「進化」の二元性を表出した数式といえる。 具体的には、f(x)=2x(0≦x≦0.5) f(x)=2-2x(0.5<x≦1)で、これを非線形化、つまり丸み「曲線」をもたせ一般化したのが「生き物の公式」といわれるもので具体的に省略して書くと、f(x)=x*(1-x) このような変換式をまとめて、ロジスティック写像と呼んでいる。手前味噌のことながら、かつてこのロジスティック写像を用いて、免疫細胞のT細胞をシュミレーションして「ちなみに、B細胞についてはイエルネという人が既に抗体免疫ネットワークとして発表」、アポトーシスという細胞死をニューラルネットワークで解析しようと目論んだが、数値計算が非常に複雑なので挫折したが、これまでやられたシュミから類推して、自己免疫疾患と、腫瘍疾患に大別できることは大まかに確認できる。 このアポトーシスという細胞死は、別名、プログラム細胞死と呼ばれ、予め命令を受けたような細胞死なので、通常の不慮の細胞死のネクローシスとは区別されている。このアポトーシスをネットワークで表現することで、恐らく、エーテル体の活動が炙り出されるように思われる。 この「アポトーシス」という名も、発見者が、ヒポクラテスの命名「Apop」にちなんでつけたが、これらの現象を、古代の医術は既に熟知していたように思えるので、古代の学術を解き明かし、蘇らせる研究に、いまは路線変更したわけなのである。 だから、「生き物の公式」は、進化と退化を司る、神の三位一体の創造公式ともいえるかもしれない。 ロジスティック写像は以下を参考に、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E5%BC%8F また教科書的な解析については以下を参照に「懐かしいMathematicaでシュミしてます。対抗してPhilosophicaでもつくろうかな? いいや、Occulticaじゃ~」http://www.qmss.jp/qmss/text/simulation/logistic-map/mathematica/mathematica.htm)
2009年11月05日
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今回からは、数字の象徴主義と呼ばれる秘教から考察をはじめる。オカルト(秘教学)的記号と象徴について述べる際には、たとえ短くても、数字に表現されている象徴について言及することが必要となる。 宇宙のなかの数字による比率について、個々の惑星の運動速度と、このような様々に異なる速度から生まれる天体の音楽について、以前述べた事実を思い出す人もいるだろう。そういった事柄だけでも、数字と比率が宇宙と世界に或る意味を持っていることが分かるだろう。数字によって、空間に湧き上がる和声をも表出できる。 今回は、もっと身近な数字の象徴主義に目を転じる。もっとも、その意味に軽く触れることしか出来ないが、本当にそれに没入する気なら、他の多くの事実を考慮する必要がある。いずれにしろ、例えば古代のピタゴラスの秘教学院で教えられた、 「宇宙への洞察力を獲得するためには、数とその比率の性質に深く自らを没入させるべきである」 といわれたとき、それがいかなる理念を意味したのかがわかるだろう。 多くの人にとって数字について考えることは無味乾燥もしくは荒涼としたものに見えるかもしれない。現代の唯物主義的な文化に影響されている人々には、数字に関する考察を通して、事物の本質が認識できることを信じているといえば、ただの冗談に思えるだろう。 しかし、そこには、意味深い根拠があるために、偉大なピタゴラスが、 「数の性質について知ることは事物の奥深い本質へと導く」 と、弟子たちに語ったのである。しかし、ただ、1や3、7といった数字自体について熟考すれば十分であると考えてはいけない。 真の秘教学の教えは、魔法や魔術には一切関わらず、勿論、数に関する迷信でもなく、もっと奥深い事実に基づいている。次のような簡単なイメージ法から、充分に数字に自らを没入できれば、数字が、瞑想とも呼ばれる魂への没入(内観)のための1つの拠り所を与えてくれるだろう。 まず1という数字、合一の数から始める。この1という数字が、真実をどれほどイメージ化しているかは、他の数字を後で考察する際、更に明らかになる。 秘教学においては、常に1という数字により宇宙における「神の分割されざる統一」が示される。神は1という数字で表される。 1=神の合一、分離できない存在、分割できない統一を表す。 とはいっても、この数にだけに夢中になって何かが得られると思ってはいけない。後で、どうすれば、この没入が正しく生じるのか、分かるだろう。とりあえず、いまは、他の数を考察する事が遥かに実りある結果をもたらす。 秘教学では、2は啓示(開示)の数と呼ばれる。2という数字から、人間は、いわば両足の下に基盤を得る。一方、1という数の場合、人間は、いまだ基盤を得ないまま手探りで探し回っている状態である。 だから、2は啓示の数であると言う時、この世界で遭遇するもの、つまり、ある意味隠されたものではなく、この世界へと現れた全ての事象は、何らかの形で二元(二極、双対)性の状態であるということに他ならない。 2=啓示、開示の数、人間が両足の下に基盤を得、この物質世界に現れた状態を表す。 (物理学の量子力学の不確定性関係は、この二元性を基にしている。物質を構成する素粒子は、フェルミ粒子と呼ばれ、フェルミ統計という二元性の量子統計に従う。この量子統計は、物理学者ディラックにより、相対論的量子力学として数式により記述された。 この二元性のために、負のエネルギーという概念が生まれ、数学的な変換式により、陽電子として記述され、アンダーソンの霧箱実験で発見され、確証を得る。ちなみに、このような数学の鏡像対称性「カイラリティ、キラリティ」を基にした変換式から生まれる左右反対の粒子を、マヨナラ粒子と呼ぶ。) 神秘学は、自然の至るところで、自らを啓示する事象は、必ず2という数字に関係し、いかなるものも2という数に触れることなしには自らを啓示できない。光も、光だけでは、自らを啓示できない。影、闇が必要で、すなわち二元性がなければならない。 もし、光に対応する影がなかったら、啓示された光に満ちた世界は決して有り得なかっただろう。この二元性は、あらゆる事に当てはまる。善が、その影絵として悪を持たなければ、善自らを決して啓示(開示)できなかっただろう。善と悪の二元性は、現象界の必然性なのである。 このような二元性は無限に存在し、二元性が世界全体を満たし、あらゆる生命を満たしているが、その二元性を正しい場所で探さなくてはならない。
2009年11月04日
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