全14件 (14件中 1-14件目)
1
人間の生体組織における、脾臓の機能は、霊的な面に向かって、非常に強い傾向を帯びている。それ故かつて、「オカルト生理学」の連続講演のなかで、次のように述べた。 「脾臓を切除しても、代わりに(脾臓の)エーテル体(エーテル脾臓)が容易に発生し、つまり脾臓は人体のなかで、エーテル体の相応像により、最も容易に代替可能な器官である」、と。 しかし、脾臓は下腹部の他の器官ほど、本質的に新陳代謝に関わっていない。脾臓は、本来の新陳代謝にはあまり関係しないが、新陳代謝の調整には非常に関わっている。 では、そもそも脾臓とは何なのか? 人智学的研究において、脾臓は、粗雑な(物質的)新陳代謝と、人間のなかで、より霊化され、魂化された形で生じる全てとの間に、調和を作り出す使命を持つ存在として出現する。つまり、脾臓は、根本的に言って、他の全ての器官(ある器官は霊化度合いが高く、ある器官は低いが)と同様、高度に無意識的な器官であり、人間の栄養摂取のリズムに究めて敏感に反応している。 頻繁に絶えず食べてばかりいる人は、合間の時間を充分とって食べる人とは、全く異なる脾臓活動を引き起こす。この事実は、特に、つまみ食いばかりしている子供の落ち着きのない脾臓活動に見ることができる。つまみ食いばかりしていると、非常に落ち着きのない脾臓活動が起こってくる。 この事実はまた、栄養摂取がない場合、睡眠に入り、しばらくしてから脾臓はしばしばある種の休止状態に入ることでも観察できる。勿論、脾臓は脾臓なりの独特の形で、ある種の休止状態に入るが、つまり、脾臓は、霊化された栄養摂取のリズムの為の知覚器官なのである。 栄養摂取のリズミカルでない有害な影響を、少なくとも和らげる為に、人間が反作用として展開すべきことは何かを、脾臓は下意識のなかで人間に語りかける。この為、脾臓の働きは、人間における本来の新陳代謝よりは、リズミカルなプロセス(経過)の方に導かれ、リズミカルなプロセス(経過)に関与し、栄養摂取と、本質的な呼吸リズムとの間に生じる必須のリズムに関与する。 呼吸のリズムと、特にリズムという性質をもたない栄養摂取との間に、1つの中間のリズムが挿入され、この中間リズムを仲介するのが脾臓である。 呼吸リズムを通じて、人間は厳密な宇宙リズムのなかで生きることができるが、不規則な栄養摂取を通して、人間は絶えず、この厳密な宇宙リズムを侵害している。そして脾臓が(両者の)仲介者である。 このような事実は、人間を観察することで、簡単に確認できる。解剖学-生理学に実際に見つける知見を、このような事実に導かれながら、更に研究して欲しい。微小な点に至るまで全てが実証できることがわかるだろう。 脾臓動脈が、ほとんど直接大動脈とつながり、人間の生体組織のなかで、脾臓の形成状態において、外見(解剖学)的にも、述べてきた事実(脾臓が呼吸リズムと代謝リズムの中間リズムであること)が実証されることがわかり、他方、門脈へと進んで肝臓と直接関連する脾臓静脈が、生体組織全体に組み込まれることで、栄養摂取への仲介を行うことがわかるだろう。 脾臓;呼吸リズムと代謝リズムの調整を行う中間リズムの器官 脾臓では、なかば外的なリズムと、非リズムとが共に組織され、互いに調整されている。 呼吸(リズム)人間と新陳代謝(非リズム)人間との間に挿入されているのが、脾臓の働きである。脾臓活動の病的な作用に関連する大部分は、脾臓により仲介される呼吸組織と、新陳代謝組織との関係、或いは血液循環組織と新陳代謝組織との関係に関する知識に基づき、調整されなければならない。 脾臓の異常;呼吸と新陳代謝間、或いは血液循環と新陳代謝間の関係異常 脾臓の生理学が唯物論的科学から、結局、疎かにされてしまったのは何ら不思議ではなく、唯物論的科学では、新陳代謝人間、循環人間、神経-感覚人間という三分節化された人間に関しては、実際、何も知ることができないからである。
2009年04月30日
コメント(0)
シラカバの樹全体を、人間のなかへと、前回のように(イメージが必須である)、人間に対して治癒力を持つイメージ像が追求できるように、シラカバの樹の形成イメージを裏返すと、治療薬の理念が得られる。 人間では外側に向かう力→シラカバでは内側の木質や樹皮に向かう力 人間では内側に向かう力→シラカバでは外側の葉に向かう力 根形成を、非常に受容するような植物、つまり根の力を非常に強く発達(発育)させ、根の力として、アルカリ塩やナトリウム塩を沈殿するほどまでになっている植物を見ると、この植物の葉のなかの、いわば根の力を抑制する傾向のなかに、諸々の出血、更には諸々の結石形成、腎臓結石形成などに、治癒的に働く力を見つけることができる。 出血、つまり内部の出血と腎臓結石形成、及び、出血と結石間にある病気全般に、上記のように、治療薬として良く用いることのできる植物は、カプセルラ・ブルサ・パストリス、ナズナ(4)である。(4)ナズナ:ナズナ属アブラナ科。ハーブ療法でも、泌尿器系の殺菌、血液凝固作用があるとされ、いろいろな出血、膀胱炎、静脈瘤などに用いられる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BA%E3%83%8A 内部出血、腎臓結石;根の力を非常に発達させ、その根の力を、葉のなかで抑制する植物のカプセルラ・ブルサ・パストリス、ナズナが良薬となる。 さて、例えば、普通に見られるトモシリソウ、コクレアリア・オフィシナリス(5)のような植物を考えてみる。このような植物を研究すると更に興味深い。つまり、この植物の内部には、硫黄のような、硫黄の油が含まれている。(5)トモシリソウ:トモシリソウ属アブラナ科。ヨーロッパ原産。西洋わさびの一種。葉の形は広心臓型でスプーンに似ている。薬草療法でも、消化不良、壊血病、口内や歯の痛みに用いられる。 内部に硫黄の油を持つことで、この植物は、自らのなかで、硫黄を通じて、蛋白質に直接作用する。さて、硫黄は、鉱物のなかで、蛋白質に対して、蛋白質力や、形成力を促進するように働きかける。本来、蛋白質形成プロセスは、そのプロセス(経過)が不活発になると、添加された硫黄プロセスによって速められる。 硫黄の油とはつまり、トモシリソウのような植物が自らのなかに器官形成した産物である。特定の生息地に生えることで、全く特定の形で、自然に組み込まれ、トモシリソウは、蛋白質プロセスが極度に不活発な働きしかしないように運命づけられたが、素晴らしい自然の本能により、不活発な蛋白質プロセスに対抗する内部の硫黄の油を産出し、均衡をもたらした。 さて、この硫黄の油により速められた蛋白質プロセスは、元々の本性により同様に速く経過する蛋白質プロセスとは異なる。この事実を常に念頭に置く必要がある。勿論、数多くの植物に、トモシリソウの場合と同じように速く経過する蛋白質形成プロセスを見つけることができる。 しかし、そのようなプロセスは、トモシリソウの不活発原理と硫黄の油により速められた原理とが相互作用することで引き起こされたものではない。トモシリソウの成長において、不活発原理と硫黄油の促進原理が間断なく共に作用することが、トモシリソウを、その内的な親和性を通じて、例えば壊血病のような疾病に適切な形で究めて有効に適用することを可能にする。なぜなら、壊血病の場合に生じるプロセスは、今述べたプロセスに究めて類似するからである。 壊血病;トモシリソウの不活発原理と硫黄油による蛋白質プロセス促進作用 さて、個人的に修練し、このような外界の自然の出来事と、内(精神)的な人間に関わる出来事を、共に考察することを身につければ、実際、かなりの見解に達するだろう。この考察により、この究めて重要な親和性に到達できるだろう。この考察により、他では決して獲得できない人間理解にも到達するだろう。 というのも、本来、人間とは何と言っても、人間以外の存在と、人間自身を通じてしか、完全には理解できない存在だからである。両方を一緒に研究できなくてはならない。更にもう1つ、人間の生体組織において脾臓が果たしている独特の機能に関するものを、付け加えるが、これは無用なものでなく、次回以降の考察において非常に必要である。
2009年04月27日
コメント(0)
前回述べた事実はまた、端的に、古代の人類の攻撃-防御本能に含められることでもある。古代人は、自分が思考が弱くなったと気づいたら、鉱物摂取に頼り、鉱物を粉砕し、鉱物を内(精神)的に粉砕することで、再び、地球から遥かに隔たった処にある地上を超えたもの(天)との調和に至る能力を身につけた。 さて、このような事柄が正当であることが、いわば手で掴めるほどはっきりとわかるように、人間の外にある自然を追求できる。観察によって、良い検証が得られるだろう。このプロセスの検証の追求には、ある植物、この点において非常に興味深い植物、つまりベトゥラ・アルバ、シラカバ(3)の観察がよい。(3)シラカバ:カバノキ科。ハーブ療法でも、シラカバの葉の利尿作用が指摘されている。また、シラカバの精油(樹皮と小枝から抽出)には、関節部分の尿酸の蓄積を減少させる働きがあるので、通風、リウマチ、関節炎、及び筋肉痛一般に効果があり、また、膀胱と腎臓の結石を溶解させる力もあるとされる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%90 シラカバは、シラカバ自身の方から、二重の形で、通常の植物形成プロセスに抵抗している。シラカバは通常の植物形成プロセスには参加しない。つまり、シラカバの樹皮で生じていることを、シラカバの葉、特にまだ褐色がかった綿毛のある春の若い葉で生じていることと混合するなら、通常の植物形成プロセスが出現する。 シラカバの、この互いに隔たった二つのプロセスを、混ぜ合わせ、その結果、シラカバの樹皮において作用しているプロセスが、シラカバの葉において作用しているプロセスと、ある場所で共作用するようにすれば、不思議な、葉のような、花をつけた草本植物が得られる。 端的にいって、シラカバは、蛋白質形成のなかに出現する活性化プロセスが、通常の一般の植物よりも、余計に葉の方にもたらされ、この葉のなかに蛋白質形成プロセスが集中し、逆に樹皮のなかには、アルカリ塩形成のなかにあるプロセスが集中することで、成立している。 シラカバにはならずに、葉のような状態に留まる他の植物では、この両プロセスは融合し、根のなかの、アルカリ塩形成プロセスのなかにある力が、葉のなかの蛋白質形成プロセスに浸透されている。 シラカバは、根が、土から摂取したプロセスを、まず樹皮へと分離し、放出した後で、外の樹皮へと押し出し、通常他の植物が土から摂取したプロセスに、既に混合したプロセスを、葉のなかへと分離し、送り込んでいる。 シラカバ;樹皮形成プロセス(アルカリ塩形成プロセス)と葉形成プロセス(蛋白質形成プロセス)に分離している。 通常の植物;両プロセスが融合している。 この事実から、シラカバは、二つの方向に従って、人間の生体組織に様々に働きかける調整剤として利用できることがわかる。 シラカバの樹皮を通じて、つまり適切なアルカリ塩を含む樹皮を通じて、特に人間を脱塩へと導くと、例えば発疹等の異常の場合に、いわば、シラカバでは、樹皮のなかへと下方に突き進む力を、人間では、上方へと突き進むように、治癒的に働きかけるように調整できる。 人間の脱塩作用(発疹治癒);シラカバの樹皮のアルカリ塩形成プロセスが治癒作用を及ぼす。 また、蛋白質形成力が集中するシラカバの葉を取り上げるなら、特に中心(胸部)人間にまで至り、中心(胸部)人間に影響を及ぼす、痛風やリウマチの場合の、良薬として実証できる作用が、シラカバから、得られる。 人間の塩作用(通風、リウマチ治癒);シラカバの葉の蛋白質形成プロセスが治癒作用を及ぼす。 このシラカバの葉のプロセスを更に高めるなら、シラカバ形成の鉱物面に入り、シラカバの木質部から、植物炭を調合するとよい。 すると、人体内の外面(粘膜)に対して、つまり腸全般に対して、内の-外的とでもいうような作用、人体内の外界に接する粘膜面全般に対して、作用する強力な治癒力が得られる。 腸粘膜部の異常;シラカバの木質部からの植物炭調合剤が治癒作用を及ぼす。 人間に作用を及ぼす植物の外界の形姿を見て取る術を学ぶ必要がある。ベトゥラ・アルバ(シラカバ)を研究すると、実際次のように言うことができる、 「人間を健康にするように、シラカバを、人間のイメージに基づいて変化させるなら、シラカバのイメージを逆転させて、特に、木質部と樹皮に向かう力を、皮膚、つまり人間の周辺(辺縁)部に同化させ、シラカバが外に送り出す作用(葉形成力)を、(人間の)内部へと裏返しするとよい。シラカバとは、実際人間とは逆のイメージ存在なのである」、と。
2009年04月23日
コメント(0)
周辺(辺縁)的人間は(動物形成に似た中心的(胸部)人間ではなく)、塩形成に逆らっている。通常、土(固体)形成する植物蛋白質の力に、動物(液化)が対抗するように、人間は、塩形成に対して、何か(脱塩)を対抗させている。 単なる植物薬では対処できない、ある(病的)作用を治療する為に、主として鉱物界のなかに捜し求めなくてはならない諸力は、塩形成に対抗する脱塩作用のなかに存在している。人間を植物薬だけで治療すると、人間を、専ら、単なる動物として見ることになる。 地球の周囲で、地球の鉱物化に対抗して、行なわれている、この激しい闘い(脱塩化)への、人間の参加が期待できるとき、人間が、この激しい闘いに加わり、自我を、この激しい闘いへの参加へと導くとき、人間は敬意を表される。 しかし、人間を石英で治療する度毎に、実は、石英を分裂させる人間の力、石英のような固い鉱物を克服する人間の力に訴えているのである。人間を、鉱物で治療することで、地上では、もはや全く起こらない、地上の外(天)で起こっていることに、参加できるような強力な状態に自我を移行させる。 この天への自我参加においては、地上の固体全てを、熱空間のなかで粉々にさせるほどの力が働いている。宇宙空間は実際、惑星のなかで固体となっている存在、惑星のなかで丸く密集している存在全てを、粉砕し、粉々に打ち砕く特性を持っている。 日常生活では、人間は滅多に、上記のことを行わない。このような作業を共に行うことは稀である。 通常、宇宙空間だけが行う作業を、最も多く行う人物は、数学者で、図形のなか、つまり幾何学的イメージのなかに生きることに慣れ、数学的形式において、思考することに長け、慣習としている人たちである。なぜなら、数学的思考は、鉱物を粉砕する知識に基づいているからである。 一方、数学(脱塩プロセス)にある種の反感がある人、むしろ塩プロセスのみに依存する人は、内(精神)的に、鉱物溶解専門の技術者になることはできない。この事実が、数学的性質の人々と数学的でない性質の人々との違いである。 このように地球の鉱物化プロセスに対抗することは、非常に多くの治療プロセスの理念の根底を為している。
2009年04月22日
コメント(0)
さて、前回述べた、糖尿病では、興奮しやすい状態になっているという事実とは、本質的にいかなることが生じているのかを、はっきりと理解することが重要である。 実は、自我の無力化が起こっているのである。自我は、人間では、最初に人間に作用を及ぼす地球外の存在(天)、つまり地球に対しては、周辺の存在と親和性を持っている。本来、自我のなかで作用する全ては、地球の外(天)から、人間の処へやってくる。 従って、自我と関わりのあるプロセスと親和性のある、つまり地球外の存在(天)のなかに、自我と親和性のあるプロセスを理解しなくてはならない。そうすれば、自我を、いわば適切な地球外の存在(天)に参加できるような領域へと、誘導できる。 さて、地上のなかには、自我が、内部の生体機構、つまり(器官の)中心的生体機構において働くように、地球外の存在(天)から誘導されるようなプロセスと、同じプロセスが至る処に存在する。地球外(天)的な場所から、地球外の存在(天)が、地球に、つまり鉱物的地球や、植物に覆われた地球にも、エーテルの油、いわゆるエーテル油全般を形成する切欠を、地上のなかに与える。 この地上の天の場所に、エーテル油を形成する切欠を与えることが、人間が導くべき方法である。 人間の自我が、眼において働いているのと同じように、自我が、眼という湾状のなかで、実際に外界と直接関係しているように、自我と油形成プロセスを関係づけなくてはならない。 恐らく、この事が最も可能なのは、細かい霧状にした油を拵えて、油浴の治療を試みるときだろう。とりわけ、どのような霧状にして用いるか、何回位、行うべきか、などを試してみるのが望ましい。 この治療法は、生体組織を侵し、荒廃させる糖尿病を克服する為の処方である。この事実から、外界のプロセスを見抜くことと、外界プロセスと人間の内部のプロセスとを共に考えることが、人間と人間以外の存在に対しての、同時に治療法でもある生理学を実際に生み出すことになる。そして、この生理学は、いまだ途上で、将来、完成すべき道である。 さて、この事実から指摘するが(つまり、既に具体的な概念を獲得したので再度になるが)、人間は、本質的に環境と親和性を持つ。再度、地球の植物相、地球の植物存在全体を観察すれば、植物は地面から上方へと向かい、諸力が花のなかで、いわば霧散し、実のなかで再び集まっている様子がわかる。 更に観察すれば、この植物のプロセスの何千もの不思議な多様性が全て存在することがわかる。通常ならば、種のなかに結実する力が、葉形成では、一部、抑制されることで、葉が草状に厚くなり、また、その力が閉鎖する前に、一部の力が抑制されることで、種の外皮も厚くなることがわかる。植物のプロセスのなかには、力の抑制により、可能な限りのあらゆる多様性がみられる。 しかし、この植物形成プロセスは、決して、例えば、地球の物質作用の面から、或いは物質に対抗する光の作用という面から、一面的に見るだけで、よいものではない。 一面的にみるのではなく、実際、植物は、自らのうちに物質体とエーテル体を、隠し持ち、地球外の力(天)が、地上の力に、いわばぶつかる地上の上部において、この物質体、エーテル体全体のなかに上昇する、植物実質が、宇宙-アストラルと関わっている。 だから、次のように言うことができる、 「植物は動物形成プロセスに向かって成長するが、到達はしない」、と。 地球の内部は、植物形成プロセスに充分浸透されている、とでもいえる状態で、また、植物が向かって成長していく地球の大気圏では、動物形成プロセスに浸透されている。この動物プロセスは、未完了(未解決)で、植物が動物プロセスに向かって成長していくが、植物には到達できないプロセスなのである。 人間に、動物のプロセス(経過)を見せている動物プロセスは、花を咲かせる植物界の上方で織りなされるプロセスで、地球全体に対して円環の性質を持っている。そして、この動物プロセス全体が、至る処で動物たち自身の中心に集められる、つまり、この動物プロセスが動物内部(精神)に移される。 動物はいわば、植物の上方で生じていることを分裂させ、自分の内部(精神)に移す、そして、動物が植物に勝る器官を、本質的に、通常は、外界の周辺から、植物に向けられている力を、動物が自らの為に使用し、動物存在のある一点から効力として、(器官)中心的に展開する。 さて、この動物形成プロセスは、人間のなかにもある。ただし、人間では物質的生体機構内部(主に胸部)に向かって配置されている。この動物形成プロセスは、消化、血液形成、呼吸の間で生じる全て(人間の胸部)に向かって配置されている。消化、血液形成、呼吸の場合、人間の人間形成プロセスに関しては、同時代期の動物形成プロセスに最もよく似ている(人間の胸部は、動物形成プロセスに類似する)。 従って、この物質的に内的な人間は、植物の生命傾向全て、つまり到達プロセスと、親和性をもつので、植物界の生命傾向に有効なプロセスを用いて、この内的人間(胸部人間)の対処を、常に期待できる。しかし、人間は、端的に動物に優るものを持っている。 胸部人間;動物形成プロセスに類似し、動物形成プロセスは、植物形成の到達目標なので、植物により治癒を期待できる。 この事実は、動物が、植物と、アストラル間で行なっている相互プロセスを遂行するだけでなく、鉱物と、アストラルを超える存在、つまりアストラルよりも更に周辺にある存在の間でも、相互プロセスを遂行する基本となる。 人間が動物に勝るもの;鉱物とアストラルを超えた自我との相互プロセスを行う力 だから、次のように言うことができる。 「現在の地球進化の人間にとって特徴的なことは、人間が、鉱物形成プロセスを、地球と共に行なっているということである」、と。 動物のなかで蛋白質の変成(植物→動物)が行なわれるのと同じように、蛋白質形成プロセスの動物変成よりも、より周辺(辺縁)的な傾向をもつプロセス、いわゆる、天と鉱物界との間で起こっているプロセスが、人間のなかで行なわれている。 この事実は、元々、科学では全く顧慮されていないプロセスだが、このプロセスを表現するなら、その特徴に従って、脱塩プロセスと呼ぶことができる。 実際、生体組織においては、絶えず脱塩プロセスが作用している。塩形成を反対に変化させる傾向のプロセスである。そして、人間であること、特に動物を超えてゆく、人間の思考は、本質的に、この脱塩プロセスに基づいている。
2009年04月21日
コメント(0)
さて、人間が、科学的な営みにおいて、再び健康になれるかどうかは、実際正しい宇宙理解(関係)を再び見出すことにかかっている。現在、残念ながら病んだ(唯物的)科学の営みだけで研究されている、幾つかの事項は、本質的に、唯物的ではなく、健康になった科学の営みをもって研究されなければならない。 さて、以前、述べた事実に結びつけて、人間観察のなかに、治療プロセスを示唆するような見方の線上にある事実を、少しばかり扱う。 太古人にあっては、この本能的治療法は、高度に養成されていた。太古人が、何らかの異常を見つけたら、その瞬間即座に治療プロセスも同時にみつけられていた。この治療本能は、現代人からは失われてしまった。 しかも、現代人は預言力によっても、例えば、古代人が本能によって到達していた治療法に到達することも稀である。けれども、これは進化なのである。本能から主知主義を経て預言力へ再び向かう、という道筋なのである。 多くの場合において、単なる、主知主義的進化を通じて、損なわれた全てのなかに、他ならぬ生理学と医学も含めなくてはならない。1つ具体的な例を、例えば、糖尿病患者を取り上げてみる。 そもそも一体、糖尿病患者が、その異常な発達(成長)のなかに示すものは何なのか? 糖尿病を正しく見る場合、問題なのは、弱い自我にある。つまり糖の形成において、当然生じるプロセス全体を、克服できない弱い自我機構にあることを、知ることで、はじめて治療が可能となる。ただし、生じているプロセスは、正しく解釈しなければならない。 例えば、糖尿病は、結果として、糖が流出するのだから、強すぎる自我が存在しているのでは、と信じるなら、全くの過ちで、間違いである。 糖尿病は、弱すぎる自我に原因がある。というのも、糖尿病では、本来、発達している自我が、適切な形で、生体組織の組織化の要件を果たせる程度に、糖を、器官プロセスに参加させることができていないからである。 この事実が、糖尿病において、本質的に生じていることである。最終的に、糖尿病を促進するように作用する全ては、自我の弱さと関係している。 例えば、甘味過剰な食事と同時に、アルコールを飲むと、糖尿病発病の微かな兆候とでもいうべきものを体験できる。 このような兆候は、勿論、再び消滅することもあるが、このような場合、自我が弱められていることで、本質的に生じるプロセスを、自我が克服できずに、糖尿病のようなプロセスが喚起されることを示している。 重要なのは、このとき生じ得る全てに一度注目してみることである。ここで、現在、このような観察にはまだあまり登場していないが、非常に多くの人が問いを発する、ある概念に到達する。 この概念に関しては、これから、もっと詳しく立ち入っていく。いま、この糖尿病での問いは、正に、この糖尿病において大きな役割を果たしている、遺伝性の素因という概念である。 他ならぬ、この遺伝性の素因が、弱い自我に作用を及ぼす。常に弱い自我、或いは人間の複合力全体と共作用しないともいえるような自我と、遺伝的素因を負われ易くしている要因との間に、ある関連を確定できる。 というのも、単純に、全てを、遺伝的素因に帰すると、全員が、遺伝的素因に負うものになるからである。人間の皆が皆、遺伝的な素因に負っているわけではない、と言うことは結局、遺伝的素因に、あまり負わない人たちは、良く機能する(強い)自我を持っているという事実に還元できる。 ただし、決して見過せないことは、糖尿病の場合、かなり心理的な原因が多少とも存在し、興奮し易い人が経験する興奮が、糖尿病の発生とかなり関係している。それは、自我が本質的に弱く、そして自我が弱い為に、自我は、生体組織の周辺(辺縁)部の方で活動し、脳を通じて、強固な主知主義を発達させるように制限されてしまうからである。 この自我は、生体組織の内部深く、つまり、本質的に、蛋白質加工が行なわれて居る場所、つまり植物蛋白質を、動物蛋白質に変成させる場所にまで入り込んでいくことができない。自我の活動が、その場所まで及ばないのである。 そして、その代わり、自我が届かない、この領域では、それだけ一層、アストラル体の活動が活発になる。なぜなら、アストラル体の活動は、いわば消化-血液調製-呼吸間の、人間では胸部の中間的組織化プロセスが生じる場所で、最も活発だからである。 この胸部の中間的組織化プロセスは、自我の活気なさにより、放任される。この組織化プロセスは、人間全体と関わらず、(器官)中心的人間と関わる、あらゆる我儘なプロセスを発達させ始める。だから、正に、糖尿病になり易い素質は、自我が、(器官)内部のプロセスから閉め出されている場合に、生じる。 さて、この(器官)内部の、つまり内的な分泌プロセスはまた、心情形成、感情形成と密接に関係している。自我が、脳を通じて主要な活動を求めるのに対し、分泌活動、つまり律動し、循環する活動全ては、自我により管理されないままに留まる。 そして、この事実は、人間が、感情の影響として働きかける、ある心理的影響に対する支配を失うことと関係している。周囲で、興奮させるようなことが起こる場合、一体、人間は、何故平静でいられるのか? それは、知性を腸の中にまで送り込むことができるという理由から、知性は、頭脳の中だけに留まるのではなく、人間全体を用いることができる状態にあるという理由から、平静でいられるのである。 人間が、色々思案すると、平静でいることはできない。人間が、一面的、主知主義的に、頭脳から活動するなら、人間の内部は独自の運動を始める。 すると、人間は全く興奮し易くなり、その結果、この興奮が、自身の器官プロセスをも、本来、別の事を行うべきなのに、興奮を喚起してしまう。この興奮は、本質的に、感情に作用する興奮として、器官プロセスを喚起すべきではなく、まずは知性に浸透され、理知により和らげられてから、人間の内部に作用すべきである。
2009年04月15日
コメント(0)
今回は、いわば、人智学と医学の両面において、専門資格のある方々から、なされた発言、 「今、行っている講演は、人智学的方向性をもつ講演のうちで、最も理解困難な講演である」、という発言からはじめる。 霊的治療の理解の難しさを、ある限度内で認めなければならないが、他方でまた、その理解の容易さを要求できないことも認めなくてはならない。しかし、この発言の正当性に則り、このような事実から究めて多くを学ぶことができる。 霊的治療を、非常に簡単に、理解できる条件を取り上げてみる。その理解の容易さへと導くには、二つの条件が挙げられ、1つ目の条件は、誰にでも自明な場合と、2つ目の条件は、現代人からは、遥かに忘れ去られた場合である。 自明な場合というのは、今日(1920年代)の文化段階の人間なら、当然、理解し難いものとみなされるような治療法を持ち出す場合である。 人間ではなく、ツグミならば、理解し難いという、この条件はあてはまらない。ツグミには、究めて理解し易い治療法で、しかも、ツグミなら、この治療法が理解し易いように思う、実際的証拠まで持ち出す場合である。 ツグミは、完璧に禁欲的な鳥ではないので、ときどき、オニグモを食べる。しかし、オニグモを食べると、ツグミは必ず不快感を覚え始め(オニグモを食べると必ずツグミは不快感を覚える)、そのとき、ヒヨス(1)が近くにあると、すぐにヒヨスに近づいて、ヒヨスを適切な治療薬とする。 ヒヨスは治療薬である。というのも、近くにヒヨスがなければ、ツグミはヒキツケを起こし、激しい痙攣と震えのうちに死んでしまうからである。(1)ヒヨス:学名 Hyoscyamus ベラドンナ、マンドラゴラとともにナス科に属するヨーロッパの伝統的な毒草。古代から良く知られている。ルネサンス期のイタリアでは「歯痛草」として有名であり、歯痛の守護聖人にちなんで「聖アポロンの草」と呼ばれ、歯痛に用いられた。 この植物は強い毒性を持つアルカロイド(植物中の、窒素を含む塩基性化合物の総称。ニコチン、コカイン、カフェイン等もこれにあたる)、ヒヨスキアミンを含み、これには強い鎮痛作用があって、現在も鎮痛剤、喘息の発作緩和、モルヒネ中毒の緩和剤などに使われている。http://kitola.hp.infoseek.co.jp/dokusou/hiyosu.html ツグミは自身の持つ治療本能を通じて、自己防衛し、ヒヨスが近くにあると、行って、その適切な治療薬を啄ばみ、オニグモの毒を解毒する。このツグミの自己防衛の行為は、いわば非常に理解し易い(治療)プロセス(経過)である。 しかしまた、今日の人間からは、既に忘れ去られている(治療)プロセス(経過)も、この治療本能と親和性がある。つまり、太古人は、このツグミの事実に似た治療本能を発達させ、今ではヒポクラテス医学のなかに集約されている治療法を、太古人は、既に幾らか本能的に、つまり治療本能のなかにもっていた。 理解困難という非常に正当な発言を顧慮しながら、ツグミや多くの場合、同様の治療ができる他の鳥たちの叡智を少し研究してみるのも興味深いことだろう。 ツグミがオニグモを食べるとき、一体何が起こっているのか? オニグモは、その生体機構全体において、地球外の自然の、ある宇宙的関係のなかに組み込まれている。そして、オニグモの四肢形成全体と模様形成も、地球外の(宇宙)プロセスに紡ぎ込まれ、宇宙に由来し、いわばオニグモは、自らのなかに、多くの惑星生活をもっている。 オニグモは自らのうちに地球外的、惑星生活をもっている。鳥は、この惑星体験を共に体験することから取り残され、鳥は、惑星生活を自分の生体組織の内部へと移動させた。鳥がオニグモを食べると、鳥のなかで、この惑星力が感じ取られるようになる。 オニグモを食べたツグミのなかで、なおも形態化する傾向をもつ、この惑星力は、鳥に浸透しようとし、鳥は、この惑星力と闘わなければならない。鳥は、オニグモを食べた瞬間に、内的な欲求から、地球外(惑星)の生活の模像となる。 鳥(ツグミ)は、解毒に適切な植物の処へ赴く、この植物は逆に、地面から生えることで、しかも惑星の影響の下に、完全に加工した産物としてではなく、いわば未加工の産物を毒として残すことで、惑星力に対立(対抗)する、つまり地上力に類似した植物となる。 このような植物の処へ鳥は赴き、救済を求める。また、この事から、ツグミのなかでオニグモの毒が作用すると、その瞬間すぐに、このオニグモの毒の作用を通じて、抵抗する本能、つまり防御本能が喚起され、この治療叡智へと遡ることができる。 いわば、攻撃本能から即座に防御本能へと移行するので、だから、この現象全体は、いわば蝿が眼に止まろうとするときに、眼を閉じたり、単純な反射運動で手を動かしたりするような人間の防御行為が、眼の前で非常に具象的に形成され、展開されているのと同じである。 動物界、更には植物界における、このようなプロセス(経過)の観察は究めて重要である。なぜなら、このような事実を通じ、更に、 「知性や理性という叡智は、人間の頭蓋の内部にだけ含まれている」、と信じることからも救われる(解き放たれる)からである。 すなわち、知性や理性という叡智も、(自然界を)飛び回っている。というのも、鳥類の攻撃本能及び防御本能のなかで作用しているものは、全く理知的な行動だからである。鳥の解毒において作用しているのは、外の理性と知性であり、人間は、単に、この外の知性と理性に参加する能力を持っているだけだからである。 人間はその叡智に参加するが、自らのなかに、叡智をもっているわけではない。「人間は、自らのなかに叡智をもつ」、というのは無意味で、間違いで、「人間は叡智に参加するだけである」。鳥はまだ、ある特別な身体の為に、攻撃本能や防御本能を身に付けるだけでなく、参加している。 頭部組織を通じて理解する人間よりも、鳥は、肺組織を通じて、鳥のなかにあるものを、更によく理解している。そして、鳥はまた、この肺組織を通じて、ヒヨスキアミン(2)に対する防御本能を喚起する。なぜなら鳥は、周辺部というよりは、鳥の本性の根本で(本能的に)思考しているからである。(2)ヒヨスキアミン:ヒヨスに含まれるアルカロイド。(1)参照。 人間は、思考を、肺と律動組織から抜き出してしまった。では、人間は、何をもって思考しているのか、ということについても、もう少し詳しく述べていくことができる。しかしいずれにせよ、もはや、人間は、鳥のように直観的(本能的)には思考していない。 つまり、人間はもはや、鳥が思考しているように宇宙と結びついて、肺や心臓などで思考してはいない。 この肺や心臓の思考を、人間は再び修得すべきである。人間を自然と関係づける、鳥の治療本能のその最後の名残を、最後の最後の名残を、人間から取り去ってしまったのは誰なのか、と問うなら、次のように言わなくてはならない。 「この治療本能を奪い去ったのは、学校教育であり、その最後の名残まで奪い去ったのは、大学教育である」、と。 なぜなら、これらの教育と、それと関連する全ては、根本的に、人間と自然全体との共生を妨げる性質を持っているからである。物事は、一方で、巧緻な知性偏重へと、他方では、巧緻なセクシュアリティへと、(どちらか一方へと)一面的に漂っていく。太古の人類においては、まだ中心(本質、本性)にあった叡智が、現代の人類においては、専ら、この両極端に分離している。
2009年04月14日
コメント(0)
では、自我と人間の生体機構の秩序正しい共同作用が破られる場合を考えてみる。 自我は、単なる点ではなく、周囲に作用を及ぼす点である。この周囲への作用は、本質的に、生体機構全体の形成力にわたり、つまり、自我形成力は、生体機構全体に拡がり、全てに浸透している。 さて、何処か、ある箇所に外から損傷が起こり、生体機構力が破壊されている場合、この箇所に、アストラル体から、生じる(発する)力を呼び起こす必要が出てくる。アストラル体は、自我-機構よりも一段下位にあり、生体組織に、アストラル機構から浸透し、この外的損傷が生じている箇所での、自我の治癒力の発達(発揮)を容易にする。 いま特徴を述べたように、より内部にあるアストラル体(これは、そのファントム(幽体)のなかに示される)に、「ちょっと来てくれ、君がやるべき仕事がある、助けに来てくれないと困る」と語りかけるためには、今度は入浴ではなく、アルニカ(4)を、小さな布きれのウール(羊毛)に塗り込み、適切なアルニカ湿布を貼るのがよい。 捻挫などをして、外的損傷があると、自我の作用力が弱められるが、そこに、このアルニカ湿布を貼ることで、アストラル体を、次のように内から呼び起こせる、 「ちょっと、こちらに来て、自我を助けてくれ」と。 すると、人間の表面、周辺(皮膚)部に沿って、調停的な(自我を強める)作用を得る。(4)アルニカ:Arnica montana キク科アルニカ属の多年草。夏秋に黄色い花が咲く。乾燥させた花を薬用とし、打撲傷や捻挫、筋肉痛などによく外用される。ホメオパシーでは、外用のほか、内服としても用いられる。 1)http://www.weleda.jp/herb/17.shtml2)http://www.greenflask.com/lab/labmono/mono05.html この事実は実際、様々な物質において、外界との比較の基礎を与えてくれる。 つまり、外界において、容易に拡がっていく傾向のある物質を用いると、どのくらい、人体の周辺(皮膚)部への自我の救済になるのか(この拡大傾向を有する物質は、自我強化には、入浴に用いるのがよいが)、また、特にアルニカが属するような物質を用いると、どのくらい、アストラル体を呼び起こし、アストラル体の側から間接的に自我を救済できるか等の、比較の基礎を与えることができる。 ローズマリー;内から外へと広がる炎症性の疾患の自我強化に役立つ。 アルニカ;外から内へと捻挫等の損傷を受けたときの自我強化に役立つ。 自我とアストラル体への救済の要請でしか、このような物質の作用には到達できない。この事実は、病気の内的治療と外的治療の理論の、最初の基礎となり得る。 (炎症は、自我が弱く、皮膚表面に剥き出しになっているためで、ローズマリー等を用いた入浴による微小な刺激により、適度な自我を強化促進できる。捻挫等の損傷は、皮膚外傷に、自我が弱く、浸透できないためで、アルニカ等で、アストラル体を呼び出すことを介して、自我を強化促進できる。)
2009年04月13日
コメント(0)

人間の周辺部(皮膚)を刺激すれば、以前、特徴づけたように、自我と骨格(幽体)との関係を示すことで与えた関係を、強めることになる。自我を強めるためには、教育的方法を採ることもできるし、治療的方法を採ることもできる。 炎症的傾向が常に観察できる場合、自我-活動を強め、自我-活動が、そのファントム(幽体)、つまりその骨格のなかに正しく組み込まれるようにすることが必要である。自我が正しく組み込まれていれば、この骨格は崩壊しない。 さて、この骨格のなかに非常に良く組み込まれる、この自我-活動を、本質的に強めることは、例えば非常に薄い濃度に、希釈したローズマリー液、つまりローズマリー(3)の葉から採った液を加え、入浴することにより、即座に可能になる。(3)ローズマリー:Rosmarinus officinalis和名マンネンロウ。シソ科。ハーブ療法、アロマテラピーなどでよく用いられる。中枢神経系機能亢進、血液循環促進と血管壁強化、肝臓・胆のう・腸の機能亢進、抗酸化、老化防止などの作用があるとされる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC この場合、ローズマリー液を通じて、周辺部(皮膚)から刺激が与えられ、いわば、ローズマリー液を通じて、もたらされる刺激のなかで、自我が働くことができる。ここでは非常に奇妙なことが起こっている。 人間の眼が、どのように生体組織に組み込まれているかを観察すると、本質的に視覚プロセスは、生体組織から、逐次、取り出された像に、自我が浸透することに基づいている。 人間の眼のなかには、実際、ほとんど動物的なプロセスは存在せず、動物プロセスは、器官のなかに下降させられ、人間の視覚プロセスは、人間の、内的な、魂的-霊的人間が、非動物の存在に浸透することで、内的人間が、内的だけでなく、いわば外の存在とも同一化することに基づいている。 筋肉と同一化するなら、内部から人間形成プロセスと同一化することになる。しかし、眼と同一化するなら、結局、外界と同一化することになる。 だから、以前、眼のように、外界から、人体の内まで、延びている器官を、湾と呼んだことがある。眼という器官は、生体組織のなかで、湾のように外界の一部が入り込んでいる。 現代(1920年代)の感覚生理学が、このような事柄を考慮しないのは、致命的な誤謬である。というのも、その為に、主観等に関して、愚かしい作り話が成立してしまうからである。この眼のなかに、客観性が入り込み、この入り込んできた客観性のなかで、外界のプロセスの一部と協同することが、全く考慮されていない。 ここ数世紀、或いは、少なくともここ一世紀半以来(19世紀以来)、ありとあらゆる感覚生理学が主観性の上に構築された。外界は、眼という湾に入り込むように、前進し、人間は、その感覚により、外界に参加している、ということを考えないからである。 この事実を正しく理解するなら、外界から、微細な分割部において、微粒子等の刺激が作用する場合も、正しく理解できる。毛孔と、毛孔に関連して生じる全プロセスを備えた皮膚があり(下図参照)、入浴時に、ローズマリーの小滴(微粒子)があれば、容易にわかるが、微細に分割された皮膚と、ローズマリーのいわば小滴(微粒子)の間で相互作用が成立し、自我の強化に類似したプロセスが引き起こされ、つまり感覚プロセスが活発になるよう刺激される。 この活発化された感覚プロセスが、人間の自我に作用し、その結果が、骨格に組み込まれる。この自我強化が正しく為されると、例えば、このローズマリー液中の小滴により、活発化する、微細に分割されたプロセスにより、頭皮を保護すれば(ただし、無論、手遅れは駄目で、適当な時期に用いる必要がある)、脱毛という周辺(末梢)プロセスを、克服できる。ただし、正しい方法で、実施すべきである。 つまり、このような場合、人間の生体機構の表面、周辺(末梢)において、自我が作用している。
2009年04月09日
コメント(0)
現代の生理学で、恭しく述べられているような知識の代わりに、前回述べた関係こそ注目すべきである。確かに、いま(1920年代)の生理学でも、それなりに注目されているかもしれないが、前回の関係が、大きな意味を持つという事実には気づいていない。 例えば、肉眼で、皮膚がいかに体表へと拡がっているかを、あからさまに追求できる。皮膚は至る処で内側に陥入し、その延長の、内に向いた部分は内張りされている。この皮膚における機能の逆転、つまり例えば、顔の外面の頬から、反転し、唇を経て、口内へと内張りされるという具合に、外では拡大し、分散化している皮膚が、口内では、内面化し、外とは逆に反転を生じているように、この皮膚の機能の逆転は、究めて大きな意味を持つ。 実際、この皮膚の外面性に沿ってみれば、胎生学のなかに、正しく追求すべき主題に遭遇する。この主題とは、本質的に、皮膚全てが袋状の構築と、その裏返しの構築に基づいたもので、この胎生学のなかで追求すべき課題として残された部分である。 そして、正しく、このような表と裏の両極性の事実の探求から、蟻酸を外側の皮膚に用いる場合と内部の粘膜に用いる場合の、反応の違いを、端的に研究することで、そのとき出現する微妙な差異に注目すれば、究めて教唆に富む事実が示される。 なぜなら、これまで提示した事実全ては、根本的に、今最後に述べたような、基本的な形として出現するのに充分だからである。 更に、このような研究を行っていくと、人間の生体機構の、外に向かってエーテル的にも裏返しの構築になる部分と、人間の生体機構の内に向かって中心(袋状)化の構築となる部分との違い、互いに対極的に位置づけられる、この相違に直面する。 外への裏返しの構築;内への袋状の構築 さて、この事実は以下において観察される。また、ここで、第二のファントム(幽体;前々回の図を参照のこと、青点線の耳形成の骨格)として、提示された骨格は、一体どのようなものに対応するのか、と問うなら、次のように答えられる。 「青点線のファントム(幽体)として描いた(耳形成の)骨格は、生体組織における物質的骨格で、専ら増殖する傾向を持つ(前々回の図参照)」、と。 正常な、この青点線の骨格は耳の発達と関連する。また、再度、ここでも、人間における聴覚機構の観察から学ぶ形で、つまり、聴覚機構の内面化全体に注目し、同時に視覚機構にも注目する形で、自らを教化できる。 なぜなら、熟考すれば、視覚プロセスは、エーテル(光)のなかで、聴覚プロセスは空気(大気)中で生じているからである。この事実のなかに少なからぬ相違がある。 計測可能な存在(物質)と計測不可能な存在(霊)の系統のなかで、下方(地)に向かって配置される存在は、人間の場合、中心に向かって、生体組織の内部へと移動する存在と関連する。対して、エーテルと関連する存在全ては、外(天)に向かって配置され、人間では、周辺(末梢)へと移動する存在と関連する。 (大気中で、下方に向かう存在、例えば、重力により質量を持つ存在は、人体では聴覚と関連し、中心の機能へと向かう存在と関連し、エーテル(光)のなかで、上方(天)に向かう存在は、人体では視覚と関連し、周辺の機能へと向かう存在と関連する) 菫色で描いた聴覚の骨格(前々回の図参照)のなかに存在するのは、つまり、人間のアストラル体のなかに生きる存在を暗示するものに他ならない。判断力を用いて、人間観察を行い、聴覚機構を手懸かりに、自らを教化すれば、アストラル体を霊聴できるような、一種の秘儀参入者となれる。 視覚観察術を学ぶことで、エーテル体の観察力が、聴覚観察術を学ぶことで、アストラル体の観察力が、養われる。 耳が聞こえなくなった、もしくは、生まれつき耳が聞こえない人に注目すると、また非常に興味深い観察ができ、自然との、より深い関連が明らかになる。 生まれつき耳が聞こえない人を観察すると、もし耳が聞こえない人として生まれなかったなら、その人は、既に子供のときから、究めて、腫瘍形成への強い傾向を持っていたことがわかるだろう。 (耳がもし聞こえる人として生まれたら、腫瘍が至る処に発生する人間になっただろう →腫瘍発生が頻繁に起こらないように、耳が失われた。 つまり、自我の耳形成プロセスが過度に速いために、適切な速度を保つために、耳形成が抑制、阻止され、同時に、腫瘍形成も抑制(阻止)された。) 勿論、この生まれつき耳が聞こえないという事実は、自然が行なう、いわば救助措置だが、この原因は、もはや誕生と死の間の単独の生体機構(今生の一回の人生)のなかで理解できるものではなく、繰り返される地上生活(輪廻転生)のなかで理解できるもので、今生において、はじめて前世からの調停が為されるからで、このような輪廻転生の考察に、入り込む必要性にも通じる事実である。 このような現象を、ある程度まで追究すると、繰り返される地上生活(輪廻転生)を把握するときに、到達できる、ある観点へと通じていく。
2009年04月08日
コメント(0)
以前、述べた事実を別の形で考察することで、前回の骨格のような事情を、外(唯物)的にも確認できる。 以前、動物の蟻酸を、微細に粉砕し、入浴という形で、外(唯物)的に用いれば、視覚骨格に対する自我の炎症形成プロセスに対処できることを述べた。 この同じ蟻酸を、適切に調合して、非常に希釈して内服を試みると、特に痩せた人に対して、腫瘍形成傾向を取り除くような作用、腫瘍形成に影響を与えるような作用が観察できるだろう。 この事実を、肉眼で観察すべきだが、肉眼でみる方法には、霊視の獲得方法が、示されている。この方法とは、人間の体格全体を概観する為の、生体機構や構成の考察全て、更に、病人の場合に前面に出現する概観の為の直観的方法である。 この方法により、内外からの手段を通じて、どのように作用を組み入れるべきかという、正しい見方が獲得できる。 同じ薬剤の作用を、内外から、追求していくと、究めて興味深い説明が得られる。ここでも、人智学は、生体機構の、この第二の耳の骨格に関して、究めて示唆に富む事実を知っている。 それは、耳形成力は、元々、放置されすぎると、つまり、あまりに耳形成力が進行すると、結局、内的な腫瘍形成に通じるような力と、同じ道筋(進路)となる、ということである。というのも、内部の耳形成は、腫瘍形成力が、正しい位置で抑制され、正常化されるプロセスに基づくからである。 耳は、人間内部の(正常化された)腫瘍なのである。ただし、耳は、正常な方向に拡がる腫瘍なのである。 その発達(成長、進化)プロセスにおいて、眼の形成は炎症プロセスと、耳の形成は腫瘍形成プロセスと親和性がある。 健康、病を問わず、本質的には同じプロセスが関わり、ただあるときは、そのプロセスが正しい速さで進行し、あるとき間違った速さで進行しているだけである、という真実は、健康な人と病人との間の驚くべき関係を示す。 自然のなかの炎症プロセスを廃止すれば、どんな存在も目をもたず、不可視になる。 端的にいって、全自然のなかに炎症プロセスが挿入されることで、諸々の存在は、目をもち、可視存在となる。しかし、その炎症プロセスには、ある速さが定められている。このプロセスに間違った速さが与えられたら、人間における病的な炎症プロセスとなる。 同様に、腫瘍形成プロセス、増殖プロセスも、正しい速さで進行すれば、自然のなかでも、意味を持つ。 このプロセスを廃止すれば、この世の、どんな存在も、耳をもてずに、不可聴となる(音を聞けなくなる)。このプロセスに間違った速さを与えると、筋腫形成、癌腫形成、肉腫形成等が、出現する。この事実に関しては、更に述べていくつもりである。 眼形成プロセス;適度な速さの炎症プロセス 耳形成プロセス;適度な速さの腫瘍形成プロセス どんな病気のプロセスであれ、そのプロセスのいわば健康な、もう一方の対極のなかに、その要因を探し出すことができない人は、(適度な速度の)病気プロセスを、人間の生体機構のなかに正しく組み込むことができない。 なぜなら、人間の生体機構の基礎となるのは、自然全体のなかでは、末端(周辺)部へと分散した、あるプロセスが、逆に中心へと内面化させられる、ということに他ならないからである。 (マクロコスモスである自然では、周辺へと分散する力が、ミクロコスモスである人体では、逆に、中心へと内面化する力に変わる。)
2009年04月07日
コメント(0)

さて、次のような問いが生じてくるのも当然だろう。 「霊視獲得の上で起こる全ては、同様に、動物にも観察できないのか」、と。 さて、人間の霊視獲得プロセスを、動物にも観察すると、間違いの素となる。この事実は公開講演でも、よく強調してきたが、ここで、更に厳密に強調しておく。人々は次のように考える。 「眼は眼であり、器官は器官であり、肺は肺であり、肝臓は肝臓で、人間も動物も同じである」、云々、と。 しかし、これは真実ではない。人間の眼は、動物でも、目として現われている器官ではあるが、この器官は、人間の場合、自我が組み込まれ、修正されている。 そして、器官のなかで生じる自我、特に病人の場合に、究めて重大な役割を演じている自我に、浸透されるということは、動物の場合、自我に浸透されていない器官よりも重要である。 (人間の器官は自我に浸透され、動物の器官は自我に浸透されていない。動物は、自分を認識しない。) この事実の考慮は、ほとんどなく。従って、この分野では、相変わらず次のような判断をやめない。 「いま、2つのナイフがある。このナイフは、通常どこにでもある形のナイフであり、両手にもてば、左手のナイフを、右手のナイフで説明できる」、と。 しかし、一方が、テーブルナイフで、他方が、髭剃り用のナイフなら、同じナイフとはいえない。人間の眼と動物の目が、同じ形で説明できると、言う人がいるなら、これと同じである。外見から、説明原理を探すのは無意味である。特にその際、外見だけに基づく研究なら、何も真実をもたらさない。 このような動物に基づく研究は更に、人間の場合のある関係の、正確な研究を妨げる。なぜなら、そのような関係が、正当に、魂の前に現われるには、人間では、ほとんどの場合、自我に浸透されるように、形成されるのが、人体の周辺部に位置する器官である、という意識によるからである。 (人間の自我によって、人体の周辺部の器官が形成される。自我の境界が、皮膚等を形作るという。つまり、自我の境界まで、肉体を形成できない場合、自我が剥き出しになり、露になるので、炎症を生じるという。端的にいえば、自我が肉体という衣をまとわず、未熟のまま、外界に剥き出しになるので、痛いと感じ、炎症になるわけである。) さて、人間の耳は、眼とは全く異なった形で形成されている。判断力に適う眼の理解を習熟し、更に、眼の理解を通じて、エーテル体の霊視へとアプローチすると、同じように耳も理解でき、同様の方法で、判断力に適う耳の理解へと習熟できる。 人間には動物と同様に、耳が組み込まれているが、この耳形成は、更に人間の自我機構に浸透されているのという事実を、正しい形で見ることができるように、自らを教化できる。 更に耳形成を研究していくと、この耳形成は、エーテル体の眼形成が、人体の周辺部に配置されている器官に関連するのと類似した形で、人間の生体組織の内部に配置されている器官と関連していることがわかる。 いわば直観力(霊聴力)を、耳形成へと方向づけができるようになると、自我が眼形成に関わるのと全く同じように、耳形成にも関わっていることがわかるようになる。また、自我は、生体組織のなかに、今までに特徴を述べたのとは、別の骨格をも組み込む。 この別に、自我により、組み込まれる骨格に親和性をもつ存在は、生体組織のなかで、耳形成の基礎を成す全体である。従って、更に、もう1つ骨格を描く必要があり、この骨格を青点線(下図)で描く。 この青点線の骨格は黄色(で描かれた骨格)よりも、内部にあって、他の骨格ほど四肢の中に拡がらずに組織化され、この骨格を人間から取り出せるとしたら、腕も脚もなく、切り株のような腕と脚のような骨格である。 つまり、この骨格は、その形成を幼児期の段階で止めてしまっていると言ってよい。この骨格は、他の骨格よりも、頭部に向けて細分化されている割合も非常に少ない。 とはいっても、また、この骨格には、人間の耳形成の組織化力と、聞くという経過(プロセス)全体の根底に存在する骨格が対応している、ということが見出せる。 この聴覚による骨格を、視覚の骨格の黒点線に対応して、(下図参照)菫(スミレ)色で暗示する。この骨格も人間の生体組織のなかで、ある種の特性を持っている。自我が、内部で、過度に強く作用するとき、この聴覚の骨格は、いわば異常になる。以前、扱ったのは、自我が(視覚の)表面において、過度に強く作用する場合だった。 このような事実を正確に研究するには、以下のような事柄を助けとすればよい。 また、多少の徴候学を駆使し、究めて、痩せる傾向にあるか、痩せる傾向はないが、肥満傾向のない人たちを考えてみると、このような人たちの場合、自我が内部に向かって、過度に強く作用し、この骨格を強化しているということがわかる。 けれども、この聴覚の骨格は、先に述べた(眼形成の)骨格に対して、別の特性を持っている。その特性とは、内的に増殖する、という特性である。最初の(眼形成の)骨格が崩壊し、散乱する傾向を持つのに対し、この(耳形成の)骨格は、内的に増殖する傾向を持っている。 特に、この眼の崩壊傾向と、耳の増殖傾向の、二重の方向に向かって学ぶ必要がある。 この自我による耳形成(青点線)の骨格は、自我が、いわばその正常な輝きにより、増殖するのではない。なぜなら、増殖、崩壊に関わらず、自我が、この骨格内の適切な輝きの位置を占めずに、自我が、この骨格から逸脱することに常に関連するからである。 自我が、この骨格から逸脱し、生体組織のなかで、自己の一部を維持できるほど、充分強いと、その魂的な帰結や、肉体的な帰結が現われ、つまり、ヒポコンデリー(2)という魂的帰結と、その肉体的帰結の便秘、或いはそれに親近性のある現象の帰結が生じる。 (2)ヒポコンデリー:心気症。自分の身体の調子や健康状態について異常に心配する症状。 以上が、1つの側面である。しかしまた、自我が過剰に輝き逸脱するとき、その自己の一部を維持するには、自我があまりに弱すぎる、ということも起こり得る。いわば自我が壊れてしまう。 自我ではなく、その相関物、つまり物質的骨格が崩壊への切欠を与えるのではなく、自我自身が崩壊への切欠を与える。 このとき、いかなる独特の現象が生じるかを、考えてみる。ここで、生じるのは、いわば、自我があまりに弱すぎ、自我の破片が生体組織のなかに付着する、という現象である。自我が弱い為に、破片が付着するという現象である。 自我の破片が付着する理由は、そのように組織された人が眠りに入るとき、輝き逸脱する自我の一部を常に完全に連れていくことができない状態だからである。この自我の破片は、生体組織のなかに止まり、その内部で魂的な自我として増殖する。 (人智学では、睡眠中に自我は、肉体から離れ、霊界へと帰るという。だから、この場合、自我形成が弱いため、自我の一部を肉体に残したまま、出て行くことを指す。) 特に睡眠中によく起こる、このような魂的自我の増殖傾向にある生体をもつ人が、腫瘍形成傾向の人たちなのである。 この事実を見ていくと、限りなく重要なプロセスがわかる。腫瘍形成傾向の人たちとは、眠りに入るときも、生体組織のなかに、自我の破片が残っている為に、適切に眠れない人たちなのである。 (自我が完全に肉体から抜け出ていないため、睡眠不足に陥るわけである。) このとき、目の前にあるものは、このような自我の破片で、これが悪性腫瘍の本質的な原因となり、今挙げた複合的な徴候全体と関連する。 実際、一方で、ヒポコンデリーと便秘が存在し、他方で、その人が、ヒポコンデリーや便秘により、生体組織を防御できなければ、生体組織が、内的に増殖して、悪性の腫瘍ができる。この事実については、更に述べていかなければならないが、今は、この原則だけに注目しておく。 (自我が過剰に外に形成される場合、肉体がそれについていけずに炎症傾向になる。逆に、自我が過剰に内に形成される場合、自我の一部が残され、自我が強ければ、生体の循環が滞り、自我が弱いと、自我全体で処理できずに、その余分な存在が独立し、腫瘍傾向になる。)
2009年04月06日
コメント(0)

さて、人間の目の組織を、心理-生理学的に研究するだけで、人間における、前回述べた、幽体のこの骨格に関して、いわば判断に合致した見方ができる。というのも、目と外界、ないしは目を通じて、魂と外界の間で演じられている全てが、この骨格の確立を、正真正銘、とでもいいたいほど、明らかに示しているからである。 しかも、両者の間、つまり本質的な自我-骨格と、目と外界との相互作用を通じて、成立した骨格との間の関係が、盲目の人や盲目になった人の場合に様々に研究してきた関係から、明らかになる。 この関係から、多くの人にとっての正常なファントム(幽体)、つまり、主に視覚を通じて生体組織のなかに閉じ込められているファントム(幽体)と、生体組織の本質的な自我-活動の結果であるファントム(幽体)との相互関係が、非常に良く比較できる。 このとき起こっていることを図で表現すると、次のように言うことができる。 つまり、視覚を通じて、つまり、視覚プロセス(経過)を通して、生体組織に1つのファントム(幽体)、骨格が組み込まれる。この骨格よりも、本来の自我-プロセス(経過)を通して組み込まれた別の骨格の方が、少し深いところにある、端的に言って、更に内側にある状態になっている(下図参照、黒と黄)。 この内側の骨格は、物質的諸力の輪郭を、明確に描いている。この骨格は正に、自我を通じて組み入れられた、ほぼ物質的なファントム(幽体)(下図の黄点線)であり、実際の骨格である。 ところが、視覚を通じて仲介される骨格(図の黒点線)は、まだエーテルである。だから、次のような事例を見ると興味深い。 「近視の人の場合、この両者が互いに接近し、図に描いた黒い点線が、もう一方、つまり黄色い点線に接近している。そして、遠視の人では、この黒い点線の骨格が、外側へとズレている。」 要するに、人間の眼を研究すると、エーテル体を、判断力を用いて理解できる。今、ここに骨格として描いた形によく似たエーテル体を理解できる。人間の眼に着目する以外に、人間のエーテル体について、多少とも把握できるようになる方法はない。 もう一方(の骨格)は、もうそれ自体として備わっている。ある人が近視か遠視か、ということに注意を払い、その作用の習慣を身につけるなら、このような習慣は、エーテル体を知覚する感受性を育ててくれるだろう。 更に、このような事実に対して、瞑想を助けにすれば、つまり、加えて瞑想を行うなら、眼を通じて、人間のなかに呼び起こされる骨格の観察から、エーテル体の観察へと上昇することが、もはや、それほど困難ではなくなるだろう。 さて、続いて以下のようなことも確認できる。つまり、この視覚機構と関連するプロセス(黒点線)は、人間のなかに常に存在し、視覚形成骨格としては正常だが、自我形成骨格としては、異常事態として出現するときもある。この視覚によるファントム(幽体)骨格プロセスは、通常の生活では、正常だが、炎症状態の場合、自我形成骨格が、このプロセスに似たものとして生じる。 従って、実際、次のように言うことができる。 「物質(肉)体のなかにあって、エーテル体に似ている骨格(視覚を通じての骨格)が、あまり強力に形成されると、炎症への誘因、結果として、炎症状態として、出現する病状への誘因となる」、と。 動物界に由来する蟻酸を取り上げ、外用を試みることは、ボンヤリとわかりはじめた確信を、多少とも強化する援助となるだろう。この蟻酸の使用を、最も良く研究できるのは、次のようなことを行うときである。 「蟻酸の希釈度を究めて高くするように、つまり、蟻酸の濃度を究めて薄くし、入浴を通じて、人体に馴染ませると、この自我の骨格の黄点線(の部分)が強固にされる(上図参照)。」 つまり、非常に薄い蟻酸に入浴すると、この自我の骨格を強固できる。そのように蟻酸を用いることで、この骨格が、自我に浸透されるよう、この骨格に合わせて自我を制御できるわけである。この事実から、炎症傾向にある人の炎症に対処できる。 なぜなら、自我と、この骨格(黄点線)は互いに補完し合っているので、この骨格が炎症的に崩壊する傾向を持つのは、この骨格がしっかりと自我に貫かれていないとき、しっかりと制御されていないときだからである。先ほど述べた蟻酸を、入浴を通じて用いることで、両者を結びつけることができる。ただし、究めて薄くした状態でなければならない、非常に希釈して、はじめて蟻酸の力が正しく伝わるからである。 さて、このような事実を扱う場合には、少々体質徴候学を駆使しなくてはならない。つまり、その炎症状態が同時に肥満傾向のある人たちに出現するかどうか、ということも観察しなければならない。 というのも、炎症と肥満の両方が、複合的徴候として出現する場合、つまり一方に炎症傾向が、他方に肥満傾向があって、一種の複合的徴候を示している場合は、外からの処方を通じ、つまり今述べた動物の蟻酸によって、実際良い成果が得られる。 この骨格が崩壊している、と根拠ある推測ができるとき、実際、更に、これから挙げていく別の、様々な徴候からも引き出せるが、この自我の骨格が崩壊していると推測されるとき、そして同時に、かなり肥満傾向のある人が対象である場合、常に究めて、上記の希釈した蟻酸が良い成果を得る。この場合、この肥満傾向を考慮すべきである。 というも、人智学は、現代の人々に、決定的ショックを与えるような知見を有している。 「人智学が知っていることは、現在の人間の進化段階で(無論、人間の長い進化の歴史のなかで)、眼を形成する為に、人間の生体組織のなかで、生じなくてはならなかった事実というのは、絶えず正常へと誘導され、発現するまでには至らない炎症プロセスである、ということである。」 炎症プロセスにおいて、作用しているのと同じ経過(プロセス)が、抑えられ、遅くされ、寄せ集められた、と考えてみると、人間の生体組織のなかでの眼の形成プロセスが想定できる。だから、眼を見ることで、その人物が炎症傾向をもつかどうか、といった印象が得られる。 エーテル体の霊視を修得していけば、眼から炎症傾向を見て取れる。実際、人間が視覚で行っていることは、人間のエーテル体の観察と密接に関わっている。そして、勿論、エーテル体の実在と、エーテル体の知覚に関して語る場合、瞑想によって、本質的な霊視へと通じる、内(精神)的プロセスが存在することは、確かである。 しかし、外からの(霊視の)教化プロセスというものも存在する。自然のプロセス(経過)を正しい方法で見るように努力すれば、このような事実についての直観を、判断力を用いて獲得できる。 本質的な霊視器官は、内部から養成されなければならないが、判断力は、外界を手懸かりに養成できる。外界に接近して、判断力を養成すると、この判断力は、通常の瞑想における、内密なプロセス、内から外へと進行するプロセスに対応するようになる。
2009年04月02日
コメント(0)
この連続講演の、中盤で生じる事柄を、今回は、少ない時間で、出来る限り、暗示的に述べるが、実は、次のことを述べるべきか、否か、長いこと考え続けていた。しかし、誤解されることが、いかに多いかということを、改めて認識させられることになっても、やはり述べることにする。 というのも、一方で、人智学の内部で話されるような事柄が、いかに混乱した戯言であるかを、指摘しようと、長期間にわたって苦心し、このような観点から攻撃してきた人々がいる。また現在(1920年)、次のような意見も現われている。 「人智学が語る事実は、もはや証明不可能なのに、これらの事実が与える印象からすると、どう見ても古代の秘儀を、後から研究して、獲得できる知見と一致している」、と。 そして、また別の非難、「秘儀を(公開し)裏切る者」、という非難が作り出される。 このような人々は、一方から、物事を、それらしく公式化する可能性を見つけ出し、人智学の内容(言われている内容)が間違いだ、と言えなくなると、今度は、そのような事柄を語るのは究めて不都合である、と主張する。 さて、はじめに述べることは、次のようなことである。 「人間を、物質的に観察するだけでは、人間のほんの一部しか注目していないということ、しかも、次のような理由から、判断すべきであることを、はっきりと理解すべきである。」 「人間のなかには、エーテル体、アストラル体、自我が見出され、これらは人間の生体組織において絶えず、自ら働きかけ、人間の生体組織にあって、絶え間なく活動を続けているが、当然、これは、外見的な、物質的な判断(これからすぐに述べることを考慮し、あえて「判断」という言葉を用いる)を完全に拒む。」 しかし、だからといって、知力や判断力に関わる霊視と呼べる多少のものを、自分のものにできるよう、良き意志をもって、自らを教化する可能性がなくなるわけではない。その際、実際に、はっきりと像で観るというような霊視までには到達できないが、少なくとも霊視的な直観と強く、有効な関わりがあるような判断力が得られる。 さて、以下のことを熟考する必要がある。 自我は(平均的な、いわば一般人の場合)人間に働きかけ、現在の進化段階にある人間の自我は、特に人間の物質(肉)体に働きかけている。今日の人類は、エーテル体を支配する能力を、比較的僅かしかもっていない。エーテル体は、幼児期に比較的、まだ全くボンヤリとした形で無意識に自我に支配されている。長じてからは、この支配はなくなる。 ただし、長じてからの人生の為に、強力なファンタジーを内包しているような人の場合、エーテル体に対する自我の強い影響も残存している。しかし、一般的に、分別的で、無味乾燥の知性偏重主義になっている人の場合、自我が、物質(肉)体に対して強い影響力を持っていても、エーテル体に対する影響力は弱い。 物質体に対する影響とみなせるものをしっかりと思い浮かべるだけで、次のようなことが想定できる。 「自我は、物質的な生体機構全体に沿って働き、一種の骨格のようなものを広げていると想定できる。」 実際、物質(肉)体には、精妙な骨格のようなものが組み込まれている。物質体に組み込まれている、この精妙な骨格は、人間の一種のファントム(幽体)のように見なせ、常に人間のなかに存在している。 人間は、もっぱら、自我組織を通じて、自らに刻印された骨格を周囲に纏い、それは非常に精妙な骨格で、無論、エーテル体の諸力から物質(肉)体へと組み込まれている。 しかし、人間は、その人生の経過に伴って、意識的に、このファントム(幽体)を組み込む力を徐々に失っていき、結局、ファンタジーに満ちた想像の際の、半分意識された夢のような状態で残っているだけとなる。 さて、この骨格、自我が、以上のように人間の生体組織のなかに組み立てる骨格は、本質的には、幾分異物である、ということは、容易に見て取れる。 この骨格は、僅かに幾らか異物となる。人間の生体組織も、この骨格に抵抗する傾向を、常にもっている。つまり、生体組織は、毎夜睡眠中に、この骨格を破壊しようと努めている。 通常の生活において、このような骨格を知覚することが、あまりないとしても、やはり忘れてはならないことは、この骨格は、生体組織のなかで、いわば崩壊する傾向、散乱する傾向を、絶えず有し、そのことで、継続的に、生体組織のなかの炎症の隠れた原因となっている、ということである。 自我というものが実際に、人間の生体組織のなかへと、ある種のファントム(幽体)を作り出し、このファントム(幽体)に対して生体組織は、異物として抵抗するということ、そして、この異物の方も、人間の物質的生体機構のなかで散乱し、いわば崩壊して、常に人間の生体機構から抜け落ちる傾向(アポトーシスのような細胞死の現象)を、実際、常にもっていることに注目するのは非常に大切なことである。
2009年04月01日
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1


