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空気での活動は、より広い意味で、腎臓組織に結びつき、特に、尿全般の機能との関係に対応する。尿の機能の、内へと向かう最重要な部分、つまり腎臓に注目し、考慮するとき、この腎臓組織に親和性をもつプロセスは、状況によっては、呼吸困難、呼吸への欲求を引き起こす可能性があり、かなりの程度、植物炭の服用後に、残る作用とみなせる。従って、次のように言える、 「本質的に、呼吸組織の障害、呼吸困難のより深い原因を、腎臓組織のなかに探究しなければならない」、と。 水(液体)と関連する組織全般にとって、より深い原因を、肝臓組織のなかに探究すべきである。呼吸困難や呼吸調整、呼吸への要求が腎臓組織と関連するように、渇きは肝臓組織と関連する。 人間の、渇きのなかの様々な特性の相互関係を、肝臓機能のなかに研究するのは、興味深い仕事になるだろう。更に、肺の内的性質、いわば肺の内部の新陳代謝と密接に関わるのが、飢えという現象、または飢えに関連する全てである。 空気欠乏(呼吸困難)→腎臓、水欠乏(渇き)→肝臓、食欠乏(飢え)→肺 飢え、渇き、呼吸への欲求は、実際、観測可能な物質、つまり、空気、水、土と関連する。 外なる宇宙(人間は内なる宇宙)にある、空気、水、土の対極には、多少他の存在も関連している。そして、人間内部で、初生の、固有の光を生み出すプロセスが弱まっている為に、(外なる)光による活気づけを必要とするとき、勿論、この光による活気づけが得られるのが一番良い。 つまり、この事実から、人間は、光による治療法の正当性を認めるようになる。 しかし、実は、日光浴は必ずしも、常に、ここでいうような、本来の光の日光浴ではない。この点に注目することが大切である。つまり、真の日光浴というのは、人間が、地上に通常居住し、実際に曝されるよりも、熱層の上の化学力の層に曝されることを意味する。 化学機構と共に外から流れ込み、当然、光を伴ってやって来る存在が、大抵の日光浴において、本質的に、効力を発揮している。この(化学力の層の)背後、以前提示した図(図参照)から、理解できるが、化学力の層の、背後にあるのが、生命力の層であり、光が高められるか、もしくは化学活動が高められ、人間に作用するとき、その結果として生じる。 (真の日光浴とは、化学力に曝されることで、更に化学力を高めると、生命力に曝される) だから、地上での過度に強すぎる作用が(常に計算が基本なのは言うまでもない)、宇宙から、光に担われた存在が入り込むことで、回避されるなら、光を伴う化学活動と、光を伴う生命活動が、究めて有益に作用する。 最後につけ加えるべきことは、今日の自然科学が生命の起源に関する見解を持つことに成功していないことがわかっても、もはや全く不思議に思う必要はない、ということである。なぜなら、今日の自然科学が探究する領域の内部には、水銀(水星)作用が働き、生命とは反対のもの、すなわち、死だけが存在するからである。 生命は、地球の外にこそ探究すべき存在であるというのに、今日、自然科学は、そこに向かおうともしない。自然科学は、地球外へと向かうことについては、何も知ろうとしない。地球外に向かう他ないとき(そのような人も何人かいたが)、もはや、それ以外に何もできないときでも、自然科学は、物質に変換してしまうのである。 生命力の、このような地上への働きかけの作用を、物質に移し変え、別の天体から、生命の萌芽が、この地球にもたらされる、という、結構な仮説において、実に見事に達成された。つまり、生命の萌芽は、見事に、物質的形態(いまではDNA、もしくはRNAの形)で、別の天体から、あらゆる障害を通過してもたらされ、この地球に発生するというわけである。その際、生命の萌芽が、地球にくる乗り物は隕石である、と想像する人さえもいる。 現代においては、唯物主義的理論によって、何もかもが既に説明されたという状況すら実現されてしまった(後は、この錯誤と間違いを知識として覚えるだけである)。肉眼で見えるなかに、観察できる全てを、微視的存在、或いは超微視的存在に、還元して(引き戻して)見れば、全ての説明がついたと思い込むように、生命も、どこか別の場所から、(宇宙人のように、ただし、DNAやRNAの形だが)やってきたとすれば、説明がついた、と思い込むのである。
2009年02月26日
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さて、人間のなかの、化学力と親和性を持つプロセス、つまり肝臓と結びつくプロセスよりも、更に内部にある(生命力と結びつく)プロセスを探すなら、また更に人間の別の器官に到達すると、当然、予測するだろう。人間の、この別の器官というのは、肺に他ならない。 しかも肺は、人間の生体組織のなかで二重の方法で観察すべきものである。第一に、肺は、呼吸という現象のための器官である。ところが、奇妙に聞こえるが、肺は、いわばその表面のみ、呼吸という現象を司る器官なのである。 肺は同時に、人間のなかで、深く内的に、土(固体)形成を調整する器官である。 外から内へと入っていきと、栄養摂取-消化プロセス(過程)から始まり、腎臓形成-肝臓形成プロセスを経て、肺形成プロセスまで、つまり内的な肺形成まで(肺の機能上の、呼吸の基礎となるのを度外視して)追求し、その際、生じるプロセスを調べると、このプロセスは、牡蛎における、牡蛎の殻形成に出現するプロセスの対極にあることがわかる。 (牡蛎の殻形成は、固体形成をおし止めようとしているが、肺形成は固体形成をおし進めている) 人間の生体機構は、その肺形成プロセスのなかに、外界の、宇宙の、化学的領域(層)の外側にある生命力を取り入れている。 腎;熱(火)層の対極-光、肝;液(水)層の対極-化学力、肺;固体化(土化)層の対極-生命力 肺が生命力を取り入れているという事実は、(牡蛎の)炭酸カルシウム側からの、ある影響下に発生する病像を、人間の場合に観察すればわかる。この事実は、生活のなかの肺だけの現象全般と非常に強く関連することがわかるだろう。このプロセスを、呼吸プロセスの影響下にあるプロセスから切り離すことは困難である。 肺の2つの機能;(1)呼吸、(2)生命力の摂取 しかし、肺は、呼吸と生命力の二つの面に向かって、人間の生体機構に奉仕するので、肺が、外にも内にも、つまり両方に向かって機能的任務を担うことを、最も考慮すべき器官である。肺の退化も、牡蛎の殻の形成プロセス、或いは同類の巻き貝類の殻形成プロセスなども勿論だが、そのような形成プロセスに出現する同様の出来事のなかにも探究すべきである。 このように、以前、アプローチ(接近)したことに、今回は、いわば別の面から接近することにより(今回よりも以前のアプローチの方が、辻褄が合うのは勿論だが、辻褄を合わせることは次回以降に行う)、人間の内部での、外の空気(大気)活動に対応する存在、水(液体)活動に対応する存在、固体の土活動に対応する存在として、生じることを、(それぞれ)腎臓の活動、肝臓の活動、肺の活動のなかに見るという処まで到達した。 人間内の空気活動の対極;腎、人間内の水活動の対極;肝、人間内の土活動の対極;肺
2009年02月25日
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さて、既に、以前、あるプロセスを指摘したが、このプロセスは、人間(内)の作用を自然作用から探り出すときに、重要なプロセスである。そのとき指摘したプロセスは、牡蛎がその殻を形成するときに生じるプロセスで、手短かに言えば、牡蛎の殻の形成プロセス(1)である。(1)牡蛎の殻の主成分は炭酸石灰、つまり炭酸カルシウムであり、漢方でも牡蛎(ぼれい)として用いられる。強壮、鎮静の効があり、胃酸の中和、寝汗、心悸亢進などに良いとされる。 このプロセスでは、炭とカリウムの共存の結果生じることから、更に前進し、カルシウムとの共存に至る。ただし、炭とカルシウムとがただ共作用するプロセスが生じるだけなら、発生する産物は、牡蛎の殻のなかでは、強い燐作用、つまり強い燐の力の共作用によって、緩和される。牡蛎の殻では、更に多少別のもの、海の力という環境に依存するものと共作用する。 さて、この牡蛎の殻の形成プロセスを観察すると、実際、また、人間と人間の外にある自然との間の関係のなかに、更に入っていくことになる。 つまり、上空の水(液体)形成から、更に下へ向かうと(前回の図;下図参照)、土の形成や、固体化、つまり、硬化や、土形成と呼べる存在に到達する。 (地球の大気から、地へ向かうにつれ、液体層があり、固体層、つまり地殻へと進む) 単なる、水や土というような表現が、今日タブーで、使用できないなら、 「このような表現を、古代の愚かな人たちが、土や空気や水について語っていた表現である」、 という風にみなさないなら、土、水、空気、火について語っても、まるで狂人のように思われることを怖れることはない。 ここでも、次のような事柄を少なくとも暗示できる。さて、固い土形成も、外の遥かな宇宙に、その対極をもっている。 そして、この対極こそが、生命形成であり、実際、生命を与えている根源なのである。この根源は事実、生命力のなかに存在するものである。この生命力は、化学力より更に遠い層からやってきて、外界では、地球の内部、つまり本質的に、土の内部で、完全に殺され、死滅させられている。 さて(ここで少しつけ加える。次のような事実に関心があるかもしれないので)、この地球は、絶え間ない生命形成の影響下、つまり、絶え間ない癌腫(固体形成)の下で、膨張を続け、もし、この膨張に、地球外から、あるプロセス、つまり水星から地球に向かって、行使される(調停の)水銀プロセスが対置されなければ、膨張しきってしまうだろう。 このような事実を少なくとも考察するだけでも重要である。実体(物質)化しながら、形成される元素と呼べる土形成において、一般に生じることの、いわば前段階が、牡蛎の殻の形成のなかに押し止めら(抑制さ)れているのを見ることができる。 牡蛎の殻が、土形成に入り込んでしまうのを、妨げているのは、牡蛎の殻が海、つまり水(液体)と猶も関係し、土形成を、その前段階に押し止め、土形成の前段階に自らを固定することによる。ミミズには、この固体化の抑制ができない。ミミズは殻を持たないからである。しかし、ミミズからも作用を発している。 従って、「ミミズがいなかったら、地中には(固体)形成力が無い」、という発言は全く正当である。 ミミズは本質的に、土形成プロセスの進行に関与する。ミミズの世界全体が、いわば、牡蛎の殻形成を超える存在、牡蛎の殻と同様に地球全体と関わるプロセスを、共形成している。共作用によって、牡蛎の殻の形成という事態になるのではなく、ミミズから発生し、耕土その他のなかに存在するプロセスや、それと類似のプロセス全てに至る。 (余談だが、クレオパトラは、ミミズの輸出を禁じたそうである。恐らく、ミミズが、土形成プロセスの主であることを知っていたのかもしれない)
2009年02月24日
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シュタイナーの講義を読んでいると色々な着想が思い浮かぶから不思議でもある。 前々回の講義のなかで、ホメオパシーの原理を簡単に述べていた。そこでは、ホメオパシーの原理を、資産家が金を使い果たし、負債者になる現象で、説明していた。 この現象をグラフにすると、カオス解析で有名な複雑系の、(馬の)鞍状グラフ(図)が思い浮かぶのである。馬の鞍というと、前後は凹で、左右は凸になっている。 凸凹というより、∩∪といった方がいいかもしれない。 ともかく、前後は、中心が、最低点の∪、左右は、中心が、最高点の∩の形状のことである。 だから、前から後ろに行くと、最低点のゼロ点に行き、ゼロ点を過ぎるとマイナス、つまり反対の作用が増加するという曲線になる。 この前後の軸を90度回転させると、左右の軸になり、今度は、例えば、左から行くと、上昇(増加)していき、最高点のゼロ点に行くと、今度は、マイナス、つまり反対の作用が減少(下降)していくという曲線になる。 実は、このグラフ、この間、南部陽一郎さんのノーベル賞受賞で有名になった、「自発的対称性の破れ」を用いた、素粒子物理学での、ヒッグス粒子の生成の説明のときに、使われるワインの底のような、ポテンシャルを表したグラフ(図)にも、よく似ているのである。 ヒッグス粒子とは、素粒子に、質量を付与する際に用いられる量子場の理論から導出される予想された粒子で、質量の要因ともいわれるもので、各国、特に欧州のセルンにある加速器で、発見が待たれる素粒子なのでもある。 ここで、つまり、先ほどのシュタイナーのホメオパシーの原理から閃いたわけである。 資産家が全財産を使うと、負債者となるのと同じように、光(子)がエネルギーを使い果たすと、質量(ヒッグス粒子)になるのではないか?という類似なのである。 光(子)はもともと質量ゼロなのだが、ある条件下、つまり自発的対称性の破れを起こすと、質量をもつ、ウィークボゾンに変わるのである。このウィークボソンは、質量をもつために、電磁波のような無限遠まで到達できる遠距離力ではなく、短距離力になり、それが、核力の一つの弱い力になるというわけである。 弱い力とは、ニュ-トリノで有名な電子のベータ崩壊に関係する力のことである。ここらへんは実は、私の修士論文に関係することなので、いまでもそれなりに思い出せる。しかし、ほとんどは忘却の彼方になったが…。 それはともかく、このヒッグス機構と、ホメオパシーの原理は、同じなのではないか?と思った、閃いたのである。 すると、人間のなかにも、このヒッグス機構ならぬ、ホメオパシーの原理で、物質生成を行っているのではないかと思うわけである。なんと恐ろしく壮大な話だ! そういえば、今回のシュタイナーの講義から、人間のなかでは、光が生成され、前回の講義では、人間のなかでは、食物を破壊し、消滅させ、新たに、同じ物質を作り出していると言っていたのだから、このヒッグス機構ならぬ、ホメオパシーの原理で、光から、物質生成を行っていることの辻褄が、なんと、合ってしまうではないか? なんと、オカルトな話だろう。 この関連からいえば、ホメオパシーの原理で、人間の病気が治せるのは合点承知の輔のごとく、承知でござるってなもんかい。 おおぉ、ホメオパシーは自発的対称性の破れを救うものなりき! この事実を記述できたら、恐らくノーベル物理学賞は間違いないだろう。いや、単なる妄想としてイグノーベル賞をとってしまうかもしれない。 自分では全くやる気がしないので、誰かやってくれるのを待つ事にする。 実は、かつて、アポトーシスという細胞死をネットワーク理論で説明し、炎症と腫瘍を、カオス解析を用いて解明しようと思い、アポトーシスネットワーク戦略構想と命名し、夢を描いたこともあったが、途中で挫折し、もうどうでもよくなったことで、それ以来、自分では、科学的なことは一切、やる気が起こらない。馬鹿臭くなった。 というより、哲学(というよりも、オカルト学といわれてしまうだろうが)を、ディオゲネスのようにやる事に決めたからでもある。最後は戯言と思って聞き流してくらはい。 私事ながら、どうして、その気になったかというと、安岡正篤翁の「絶学を継ぐ」という志に感銘を受け、自分も、太古の学問を、現代に蘇らせるようなソフト面の考古学をやろうというロマンに惹かれたからでもある。
2009年02月19日
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前回述べたことを、図で描けば、包括的に理解できる。地球の上空を考察すると(下図参照)、地球は空気(大気)に囲まれ、空気(大気)の上方には、更に他の層がある。この空気(大気)の上方には、地球の熱の覆いといえる熱層がある。 つまり、地球から離れていく進路をとれば、全く地上とは別の熱状態に到達することが判明するが、この熱状態は、地上の熱状態に対して人々を大層驚かせるだろう。地球から少し離れた場所の熱の力のなかに存在するものが、この熱の覆い(熱層)の下で、大気が果たすのと類似した役割を果たしているからである。 しかし、この熱作用(熱層)の反対の外側には(この熱作用の層、地球の上空の熱層を中心に定めると、その下が大気層となり(下図参照))、その大気層の対極が、熱層を反対側にあり、そこでは全てが、本質的に、大気領域(層)で起こるプロセスと逆のプロセスが生じる。 この空気(大気)層の対極の層では、空気が奪われ、空気の存在が破棄され、空気が取り去られることで、光が、この対極の層から発し、地上へと送られてくる(下図参照)。 地上の光が、太陽からやってくると考えるのは全く無意味である。この見解は、物理学者と天文学者のかなり厄介な幻想にすぎない。地上の光は、上述の熱層の上部の層からやってくる。光は、この層で発現し、生み出され、地球上で植物が成長するように、この層で成長する(上図参照)。 だから次のように言える、 「人間が自らのなかで、初生の、固有の光を作り出せる根拠は、人間が、光(霊光)の形成プロセス(過程)を通じて、自らのなかで、通常は上空(熱層の上部)で生じることを先取りし、自らのなかに、地球外の起源をもつことにある。この地球外の起源が、全植物界に作用し、人間にも作用する。ただ、この光は外から植物界に作用するが、人間の光(霊光)は、自らのなかに存在するものを、高めている(上図参照)。」 さて、空気(大気)よりも、もう少し地球に接近すると、どのような状態(層)になるか、と問うなら、別の面(意味)で、更に人間の内部に入り込んでいくことになる。 空気(大気)層から出て、地上に更に接近することで、液体状の、水状の層に至る。だから、空気(大気)層の下に、液体層を想定できる。 この液体層も、その対極を、熱層の外側に持つが、この層は、空気(大気)層の遥か上にある。そして、その層もまた、全てが、別様に、対極的に、液体層で起こるプロセスに対置される。 その対極層では、先の空気層の対極層で光が成長するように、ある意味、何かが成長する。この層で成長するのは、いわゆる化学力で、この化学力が地球へと作用を及ぼす(上図参照)。だから、地球に対する化学作用を促進する働きを、物質のなかに探究するのは全く無意味で、化学作用は、この対極層から地球にやってくるからである。 この化学力の場合も、上空にあるような層を、人間の内部でも作り出している。人間は自らのうちに(いわば)、1つの化学装置をもっている。 人間は自らのなかに、化学的活動の起源である、天の領域を、わずかに持っている。そして、この化学作用は、人間のなかに非常に強力に限局され、つまり、この化学力は肝臓に限局されている。 生体組織において、肝臓が展開する、この全く独特の働き、つまり、肝臓が、一方で血液の性質を吸い込む(吸引する)ように作用し、他方で、胆汁分泌を通じて、調整的に作用し、血液の調合全体に関与するという事実を研究すれば、この化学力がわかる。 肝臓の、この拡張された活動全体を眺め、徹底的に研究するなら、肝臓のなかに、真の化学を与える存在が認められるだろう。 唯物的な化学では、地球上の、真の化学力の姿を見出すことは全く不可能である。外(唯物)的な化学は、実際、人間の外にある化学領域(層)の鏡像と見なす必要がある。人間の肝臓の驚くべき作用を全て研究することで、地上を超えた化学力の領域をも研究できる。 植物炭をアルカリ、つまり例えばカリウム、もしくは炭化カリウムと関係づけるなら、植物炭と、その内的特性といえるものから、更に前進し、その結果生じる作用を人間の生体組織のなかに引き起こすこともできる。 アルカリ性は、全般に、生体組織内部の奥深く、肝臓プロセスにまで作用できるのに対し、植物炭と関係する全ての作用は、腎臓経路を目指す。 アルカリ性;肝臓プロセス、植物炭;腎臓プロセス すると、アルカリ全般と、肝臓組織との間に、全く明白な相互作用を認めることができる。アルカリ全般を研究するなら、炭性(酸性)全てが、動物化と関連するのと同様、アルカリになろうとするもの、アルカリの傾向を持つものは、人間の植物化と、植物界を、人間の外に排泄するプロセスに関連することに気づくだろう。 (今回の内容は非常に衝撃的な話に思えるだろう。天文学、天体物理学の知識を持つ者なら、いかにも、如何わしく感じるだろう。 しかし、哲学的観点から考えると、人間はミクロコスモス、つまりマクロコスモスである宇宙の生き写しといわれていることから、地球の大気の外側で生じていることが、人間のなかでも同じように生じているということに驚く必要もないように思える。 むしろ、逆に、人間が宇宙から誕生したのは間違いないのだから、なぜ、同じことが生じていないのかという疑問が残り、異なる方が変ともいえる。 さて、地球の大気の外で光が生じ、人間のなかでも光、いわゆる霊光が生じていると、シュタイナーは言っているが、ここでいう光は、物質光、つまり電磁波というよりも、精神的な光、つまり、エーテル的な光の、オカルトでいうエーテルオーラのことを意味するように思える。 地球は外からみると、青く光る天体だが、海の青だけでは説明できない色ともいえる。太陽光が海に反射して青くみえるというのなら、もっと暗い青なのではないだろうか?とも思う。 シュタイナーは、ゲーテの色彩論を用いて、色の理論を展開しているが、青とは、闇の黒と光の白が混じった色で、精神的には、魂の輝きの色、エーテルの色と言っている。 つまり、地球の青は、熱層の上層の光の生成により、丁度、宇宙の闇の黒と、光の白が混じりあい、エーテルの青を光らせているように思える。ともかく、科学的解明が待たれるところである。)
2009年02月19日
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さて、進化の過程で、動物性を外に出したということは、実際、自らの生体組織のなかで(驚くだろうが、真実である)、固有の光を発生させる能力と関係している。実際、下部人間とは反対に、上部人間は、光の生産者なのである。 固有の光を生産する能力を身につける為に、上部人間のなかに、完全に動物化するのを防ぐために必要な器官を備えている。この事実は、人間を、動物から区別する根本的な相違の1つである。動物は、人間と同じく、他の高次の霊的プロセスを備えているが、内部で十分な光を作り出す能力はない。 この事実から、近代の自然科学の、真に痛ましいテーマに到達するが、これから述べる事を、隠しておくわけにはいかない。人間と、人間の外にある世界との関係を洞察するなら、このテーマを避けて通るわけにはいかないからである。 人間の生体組織のなかの物質全般、特に薬剤となる物質の作用の把握に、大きな障害となっているのが、いわゆる、力、ないしはエネルギー保存の法則、更には、質量保存の法則である。 これらの法則は、普遍的自然法則と定められたわけだが、人間の進化プロセスとは完全に矛盾する。栄養摂取-消化プロセス全体は、唯物主義的な考え方によって、見なされているようなものではないからである。 栄養摂取-消化プロセス全体は、唯物主義的見解からは、あたかも物質という存在が、外界にあるかのように考えられている。(つまり、炭素の例を挙げると、)外界にある炭素を摂取すると、無論、食物に相応な形で調合された後だが、生体組織のなかに導かれて摂取されるので、僅かな部分でも、外界から摂取した物質を、自分のなかにもち、そして、人体内に、炭素を携えていく、という風に考えている。 このような唯物的な考え方では、外界にある炭素と、生体組織内周辺に担っている炭素との間には、本質的に違いがないとしている。ところが、これは間違いである。 なぜなら、人間の生体組織のなかでは、実際、人間の外にある炭素を、まず、下部人間によって完全に破壊し、空間から追い出し(霊化し)、破壊の反対の作用において、全くオリジナルに、再び炭素を作り出す、という能力が働いているからである。 この事実は、次のようにいえる。 「人間の生体組織のなかには、人間の外にある物質を作り出す、いわゆる竈(かまど)があり、同時に、これらの物質を破壊する可能性もある」、ということなのである。 この事実を、今日の自然科学では承認できないのはいうまでもない。今日の自然科学では、そもそも物質の作用を、アハスヴェール(永遠のさすらい人)(A)のように、究めて微細な部分(スケール)で、(素粒子や元素として、)彷徨う存在としてしか想定できないからである。(A)アハスヴェール[Ahasver] 刑場に行くキリストを自分の家の前で休ませなかった為、キリスト再来まで地上を流浪する運命を与えられたユダヤ人の靴屋、いわゆる「永遠のさすらいユダヤ人」。 現代の自然科学では、物質の生命や、物質の発生と物質の死については何もわかっていない。人間の生体組織のなかで、物質の死と再生(蘇生、復活)が生じていることについては、何も知らないのである。例えば、炭素の再生と関連するのが、他方で、通常、人間における光(霊光)形成として、人間に備わっているプロセスである。 人体内部における、この光(霊光)形成プロセスがまた、外界の光の作用に対抗している。上部人間に関して、外界の光と、内部の光が互いに対抗的な作用を行い、互いに共同して働くように調整されている。 そして、生体機構の本質は、外界の光と内部の光が、共同作用すべき処で、両方の光が互いに混ざり合うことなく、順序を保つように、すなわち順次作用して、互いに一緒にならないようになっている、ということである。 人間の目や、皮膚において、外界の光に、対峙することで、人間のなかの内部の固有の光(霊光)と外界から、入ってくる光との間に、いわば隔壁が設けられている。 外界から入ってくる光は本来、内部の光(霊光)の発生を促進するという意味があるだけにすぎない。つまり、人間は、光を外から流入させることで、自身の内部の光(霊光)の発生を促進するのである。 さて、重要なのは、このプロセス全体を、もう少し先まで見通すことである。人体内の、この炭-実質の解体に関与するプロセスに着目するなら、人間における腎臓-尿器官全般、更に上部に向かう、腎臓と関係全てに到達する。 従って、人間内部において、腎臓プロセスに接近(アプロ-チ)するには、人間外の自然のなかの、炭に隣接するプロセスに注目するときである。そして、同時に、植物炭を、人間に、適用する一つの道(治療法)が得られる。 まず、次のように語ることで、劣悪な病気と呼ばれる症状に対する道(治療法)が与えられる、 つまり、「植物炭の場合、まず、人間の動物化、つまり吐き気等に通ずる症状に対抗して、働きかける可能性がある」、と。 そして、植物炭に対して病像を引き起こす全ては、本質的に、人間の内部に向かって、継続された吐き気である。植物炭の形成プロセスに対抗する有効な対極プロセスは、人間のなかで反対のプロセスを示す。この反対のプロセスは、腎臓組織の諸機能関連全般である。 だから、多量の植物炭によって、通常人工的に引き起こされる病像が人間に見られるとき、腎臓プロセスを促進する処まで行けば、つまり例えば植物炭の希釈度を高くすることで、腎臓プロセス全体を促進する方法で、この腎臓プロセス全体を高めることに成功すれば、人間のなかの、植物炭の作用に似た病気プロセスに対抗する働きかけができる。 つまり、多量の植物炭により生じる病気の薬剤を研究する際の本質的な問題は、植物炭の薬剤の希釈に対して、人間の腎臓プロセス全体が、どのような関係にあるかということを知ることである。その際、腎臓プロセスは、消化プロセスに対する対極プロセスが効力を発揮するように作用し、つまり、植物炭による病像のなかに結果として現われる消化プロセスの障害に対して、腎臓プロセスの回復に従い、消化プロセスの障害の反対の、対極プロセスが効力を発揮するように、つまり、腸での病的な消化の対極プロセスが効力を発揮するように作用する。 植物炭によって生じるプロセスの反対に位置するのは、光(霊光)形成なのである。
2009年02月18日
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さて、植物炭を観察するとき、その特質に注目する人は、次のように言うだろう、 「多量に服用すると、植物炭は、特定の病像を引き起こすが、ホメオパシー療法の医師の見解に従い、植物炭を希釈することで、同じ病像が克服される」、と。 (つまり、病気というのは、過度なプロセスが進行した状況を指し、ホメオパシーにより、希釈することで、プロセスの進行を遅らせ、適度な、健康な状態にもっていくことができる。つまり、事象をゆっくりと進行させることで、適度な平衡状態に導くことができる。 例えば、いきなり沸騰したお湯に入ると火傷をするが、水に入り、除々に温めていくと、火傷をせずに、有る程度の熱湯に耐えられるようになる。 シュタイナーはよく植物炭を用いたマッサージ法を提案している。いまでいえば、アロマテラピーで、古くは軟膏や、塗り薬である。) 植物炭に着目するとき、人智学者のなかには、何が存在するのか。人智学者にとっては、第一に、人間の外にある自然へと出向いて、既に鉱物化し始めた外界の炭や、地中の炭全般が、どのような状態にあるのかを調べるような探究心が存在する。 その探究心からわかることは、炭とは本質的に、酸素を用いて、地球プロセス全体に関与しているという事実である。地球プロセスにおいて、地中の炭の含有量が、地球の周囲の酸素の含有量を調整する存在となっている。 このことから、すぐにわかることは、地球自体を、有機体として捉える必然であり、地球自体が1つの呼吸プロセスの影響下にあり、地中の炭の含有量が、この地球の呼吸プロセスに関与しているという事実である。 以前、提示したような化学は、炭の存在が、人間の呼吸プロセス、或いは動物の呼吸プロセスとの関係のなかで観察されるときに、はじめて成立する。なぜなら、土の炭化と、地球の周囲における酸素プロセス、すなわち空気との間で生じるプロセスの根底を成す存在は、人智学的観察では、動物化の傾向として明らかになるからである。 この動物化の傾向は、実際、衝撃を与えるような形でしか、その特徴を述べることができない。なぜなら、次のように言わざるを得ないからである、 「土の炭化プロセスと、地球の周囲の酸素を巡って起こるプロセスとの間で生じるプロセス、つまり外界で生じるプロセスのなかには、いわゆるエーテル的な存在だが、動物性とは反対に、絶えず地球から遠ざかり、立ち去り、離れていこうとする存在を、出現させる本物の存在が、多少とも存在している」、と。 動物性とは、地球のこの脱動物化に対抗するプロセスにおいて、地球に集積された存在であり、動物的プロセスのなかで前面に出現する存在として、把握しなければ理解できないものである。従って、植物炭を、人間の生体組織のなかに取り入れる場合に生じるプロセスは、動物性に引き寄せられるプロセスを、人間の生体組織に取り入れることに他ならない。 植物炭の摂取;動物性の摂取 植物炭の摂取により、発生してくる症状全ては、ゲップから腸内ガスに至るまで、腐敗性の下痢その他、一方では痔疾形成、他方では、ありとあらゆる焼けるような痛みに至るまで、これら全ては(その全体像を見れば)、人間が、人間足り得る為に、その進化の過程で、人間から排泄した(押し出した)動物性を、つまり、この動物性プロセスを、人間のなかに再び、取り入れるということに起因している。 この事から、次のように言える、 「人間に、多量の植物炭が与えられると、押し入ってくる動物化プロセスから身を守るように促される」、と。 身を守ることは、人間が環境に負っているプロセスを、自らのうちに通用(納得)させ、つまり人間が進化しながら、動物性を、自分の外に出すこと(排泄すること)によりなされる。 (つまり、人間は進化の過程で、動物性を周囲、つまり地球に放出してきた。だから、植物炭や動物性の過度な摂取は、それから身を守ろうと、炎症反応を起こすので、病気となる。ゲップや腸内ガス、腐敗性の下痢の類、腹痛などは、人間の正常な進化上の、脱動物化の反応といえる。 人間は、自然から、叡智ともいえるプロセスを取り入れる代わりに、自らから動物性を放出し、進化してきた。)
2009年02月17日
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前回、はじめとは、全く別の事実へと行き着いたように、今回も、全く特定の具体的な物質を出発点として、更に問題全体の拡張の試みを行う。 課題に対しては(問題の性質や、時間が少ない為)、いわば円を描くようにして、周辺からアプローチすることが、どうしても必要となる。いわば公理から始まって、次第に、複雑な課題に上昇していくという、例の科学的な方法をとることはできない。 今回の課題として、植物炭を出発点とすることで、もう少し、先に進んだ方法を用い、観察範囲を示す。以前、チコリ、野イチゴ他の研究のように、今回も、一見奇妙だが、実際、どこにでもあるような、世界でも、最も奇妙な物質に関して研究していく。 実際の自然観察に入っていくだけでも、今日の科学が導く法則以外に、直ちに目を向ける必要のあることがよくわかる。 以前の講演で、コリスコ博士(1)が、未来の科学は、いまとは全く別のものでなければならない、と指摘したこと。そして、その際、繰り返し「生理学」という語を好んでいたのは非常に興味深い。この事は、化学と生理学に、橋が架けられなくてはならないということを表明するものだからである。(1) オイゲン・コリスコ[Eugen Kolisko] 1893-1939 1920年からシュトゥットガルト自由ヴァルドルフ学校の教師および校医。後に英国でも活動。 このようなとき、理解に必要な条件が、全く欠けている為に、現在、公開講演では、完全に述べることができないような、あらゆる事柄をも考慮せざるを得ない。炭素という物質を、人間の外にある(人間以外の)自然のなかにも、一見、外界に見える自然のなかにも見つけられる。 そもそも大いなる自然のなかには、人間以外に一体何があるのか。 実は、人間以外には何もないといってもよい。というのも、目の前の、人間の外にある存在全ては、人間の進化につれて、人間から外に出され、人間から、(分離され)遠ざけられたものだからである。 人間は、ある進化段階に入って行く必要があり、その段階に入って行くことができたのは、人間に相対する外界の、ある種のプロセスが進行することで、ある別のプロセス自体を、人間の内部に取り入れる可能性が与えられたことによる。 従って、ある種の外のプロセスと、ある種の人間の内のプロセスの間には、実際、常に対立と親和性とが存在する。 さて、この事は、化学の生理学化に関して、以前述べた事実や(これは厳密な表現ではないが、特に以前のコリスコ博士の講演を聴けば、この意味が理解できる)、シャイデッガー博士(2)による講演や、その興味深い議論において、ホメオパシーの際に行うことは、本来、人智学的に把握される必要があるということが指摘されたが、その事実と、不思議に共鳴し合っていたということを述べなくてはならない。(2) エドウィン・シャイデッガー[Edwin Scheidegger] バーゼルのメーリアン・イーゼリン施療院の主任医師および設立者。 そして、この共鳴の響きは、ある段階で、奇妙な言葉となって消える。この言葉と、数十年来、取り組んできたが、よく、次のように表明される言葉である、 「ホメオパシーの医師でも、神秘主義(オカルト)になることを、多少恐れている、すなわち、神秘主義(オカルト)という評判を立てられるのを恐れている」、と。 さて、この言葉と取り組んできた根拠は、全く特定の、あくまで現実へと回帰していく見解のなかにあった。ホメオパシー的治療プロセスにおいて、切に求められる本質は、実際、結局(誤解しやすいが、物事の性質を、正確に描写するなら、些かラディカルな表現にならざるを得ない)、その物質(そのもの)のなかにあるのではなく、その物質を調合する際に行なわれるプロセス、つまり、例えば、珪酸は、植物炭を調合するプロセスにある。 物質の本質は、調合、つまり、その時になされたプロセスのなかにある。ホメオパシーの薬の調合が求められるとき、本質的に何が生じているのかに関して、随分と取り組んできたが、是非、ラッシャー博士(3)も認めたように、例えば、リッターの調合も、リッター嬢自身が、認めなくても、ホメオパシーの薬剤に含めたい。(3)ハンス・ラッシャー[Hanns Rascher] 1880-1952 ミュンヘンの医師。 正に問題は、ホメオパシーの薬剤が調合される際、本質的に何が起こっているのか、ということなのである。 求められる薬剤は、結局、調合プロセスのなかにある。そのとき、作り出す薬剤の調合プロセスという出来事全体のなかにある。 例えば、珪酸を用いて、珪酸の希釈度を上げ調合する場合、本質的には何を行うことになるのか。 この場合、ある一点を目指すことになる。自然においては、全てが根本的に、リズミカルなプロセスに基づいている。(目的とする)当の物質の本質において、最初に現れる作用が、前面に出現するまでの間は、ある種のゼロ点を目指す。 例えば、財産を持つ人が、財産をどんどん使い果たし、ゼロになり、更にゼロ点を超えていくと、今度は財産が無いだけでなく、財産という性質を超えて、借金に移行することになるが、外界の物質の物質的性質に向かい合うときにも、丁度、これと同じような法則が当てはまる。 いわば、当の物質の作用に止まることで、この物質の作用が、もはや計測可能な状態を、発現しないゼロ点に到達する。更に先に進むと、この事象全体が消え去るだけでなく、それとは反対の作用が現われ、この反作用が、更に周囲の媒質にまで混入する(影響する)という事態になる。 従って、常に、媒質のなかに、つまり、薬剤を粉々にし、粉薬その他の、極微細化したホメオパシー的な物質を、混入するような使用法のなかには、当の物質の反作用をも見つけることになる。この媒質は、当の物質とは、別の構成を獲得する。 丁度、財産から借金を拵える事実へと移行すると、社会生活では、金持ちから負債(借金)者になるように、物質も、その反対の状態に移行して、以前、自ら、内にもっていた性質と反対の状態を周囲に付与するのである。 すなわち、物質の量を、次第に減らしていくことで、ある物質がある特性を持つなら、その物質は、いわば、その特性のゼロ点に近づき、それとは逆の特性を獲得する。つまり、以前の特性を周囲に放射しながら、付与し、その物質を扱う手段を、適切な方法で促進する特性を獲得できる。 ただし、この促進とは、当の物質の特質として描写された作用の反作用が、直接引き起こされることにあるが、この反作用の導出を可能にするのはやはり、当の物質に、ある特定の(欠乏のゼロ点)状態をもたらすか、もしくは光の影響下で、例えば蛍光や、燐光を発するような状態にすることで、その後、反作用を生じさせなければならない。 このようなホメオパシー的手法により、周囲に放射される反作用が引き起こされる。この事実は考慮すべき真実である。実際、重要なことは、神秘主義に陥ってしまうことではなく、結局、自然を、真の活動において観察することで、物質の特性に関しても、実際、物質のリズミカルな進行に入っていけるように自然を観察することなのである。 この物質の律動的な、周期的特性の把握が、本質的に、諸々の作用の認識の為のライトモティーフとでも呼びたいものなのである。物質を希釈していくと、まずゼロ点に達する。このゼロ点の向こうには、反対の作用がある。 しかし、これで全部ではなく、今度は、ゼロ点の向こうにある道(作用)の内部に、今度は、この反作用にとってのゼロ点であるようなゼロ点に到達する。この点を超えることで、更にもっと高度な作用、確かに、最初の特質の方向性においては、同じ最初の線にあるが、全く、別の性質を持つ、もっと高度な作用に到達できる。 だから、希釈において、明らかになる諸作用を、ある曲線で記述することは実際、素晴らしいものになるだろう。ただ、この曲線は、独特の手法で構成する必要があることに気づくだろう。 つまり、最初は希釈度が増す毎に、反作用が増す曲線を形成し、次に、(希釈度を減らしていき)低いが僅かな作用が残るような低い希釈度をやめて、今度は、より高い希釈度が、作用を始める一点、つまり第二のゼロ点に来ると、直角に転回して空間(三次元方向)へと曲線を引く必要があるような幾何曲線を形成しなければならない(この幾何曲線はカオスの鞍点のようなもの。馬の鞍の中心点のことで、前後は凹だが、左右は凸のような曲線で、前後に行って、最低点に達すると、左右に転回し、最高点を誘導する方法)。 以上のことを、これから更に詳しく述べていくが、この事実は、人間と人間外の全自然との親和性全体と密接に関わっている。
2009年02月16日
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人間の胎生学上の発達(進化)の初期段階は、人間と宇宙との関係から観察しなければならない。 男性の精子により、(胎児の原型として、)植え付けられる存在は、時間経過とともに現われてくる。このとき、宇宙が女性の生体組織のなかに移し入れようする形成力が変形される。 つまり、宇宙が、全体の形態として作りあげようとする存在が、男性の精子により、個々の器官へと特殊化し、変形される。女性の生体機構の役割は、人間の生体全体の組織化にあり、男性の生体機構、つまり(男性の)精子の力の役割は、個々の器官への特殊化、差異化、つまり個々の器官を(全体から)分離させ、(女性的で)統一的な全体の形態を、(男性的に)変形させることにある。 つまり、次のように言える、 「女性的な力によって、人間の生体機構は、球体の形成を目指し、男性の精子によって、人間の生体機構は、この球体を心臓、腎臓、胃などの特殊化を目指す」、と。 (そういえば、会話の内容から、女性は、つながりを大切にし、会話に同情心を求める傾向にあり、男性は、会話に別視点からの差異化、或いは専門的意見や、要点や要約などを求める傾向にあるようだ。 よく女性は、自分の身近な出来事などを話題にし、人間関係の円満なつながりを求めるが、男性は、要点だけを明確に絞って、論理化、専門化した意見から、特殊化を求めるようにみえる。 女性が横のつながりの球形というか円を求めるのに対し、男性は特殊な専門化を求める傾向にあるといえる。) 女性的な力と男性的な力のなかで、宇宙(天)と地球(地)という、この両極性が直接現われてくる。 この事実から、また、人間の太古の叡智を前にして、大きな敬意を抱くなら、 「(天の)ウラヌスが、(地の)ガイアを身篭らせる、或いは(霊界の)クロノスが(物質界の)レアを身篭らせる」 云々と語られるとき、この事実から、全く別の感情をもちながら、耳を傾けることができるだろう。 この古代の意味深い、預言力に大きな敬意を表明するにしても、単なる、神秘的な朦朧とした感情である必要は全くない。このような事柄を洞察し始めた人々が、よく耳にしたような神話が、現代の自然科学以上に生理学を含んでいる、という箴言に同意するのは、はじめは意外に思える。最初は衝撃を与え、その衝撃は理解できるが、実際、神話のなかには途方もなく多くの真実が含まれている。 そもそも、知識が発展するほど、益々次のように告白するようになるだろう。 つまり、以上のような関連について、もはや何も見ていない今日の医学的手法では、人間の生体機構のなかに、真に参入するのに、それがいかに適さない代物なのか、益々、一層、告白せざるを得なくなるだろう。 この機会を逃さず、再度述べておきたい。これまで述べてきた事実は、例えば、古代の研究から得られたものではない、ということである。これまで述べてきた事実は、いまでも、事実そのものから実際に取って来れるものなのである。ただ、太古の叡智とも一致することを指摘する場合もある。 だからと言って、これまで述べてきた事実が、太古の叡智から取って来たものではない。だから、これまで、特徴を述べてきた経過(プロセス)を追求して行けば、まず直観が現われ、それから、その直観が、太古の叡智へと導くだろう。 例えば、パラケルススの研究によって、到達した事実等を、何らかの使命として表わすことはない。ただし、人智学として発見した事実が、どのように見えるか、パラケルススを紐解いて調べてみたいという欲求にかられることはあるだろう。 だから、これまで提示してきた事実を、以上の意味で理解して欲しい。とはいえ、人間の生体機構の奥深くまで見つめると、人智学的観点から、太古の叡智に対して、大きな畏敬の念を抱くようになるということも、1つの事実として認めなくてはならない。しかし、無論、このような事実とは別の知の領域で扱うべき問題である。 この古代の叡智との一致の事実については、更に次回に述べる。その前に、二つの二重性からの、女性的な存在(陰)と男性的な存在(陽)の出現について、これまで述べてきた事実を消化してもらったわけで、この事実は次回以降も見ていくが、更に深い関連を示唆するものとなるだろう。
2009年02月12日
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かの宮本武蔵は、武人の心得を、戦時のときのために、平時にも、鍛錬を怠らないようにせよと説いている。要するに、問題解決能力を日頃から高め、自己管理能力を徹底せよ!ということなのだろう。 たとえば、健康時に病気を想定して、飲酒や喫煙を避け、控え、自分の肉体の弱いところを熟知し、できるだけ鍛え、肉体管理を徹底することともいえるだろう。 自分の身体に適した食事や日常の生活を心掛けるのが武人であるということなのだろう。肉体だけでなく、心も鍛える。忍耐力を学ぶのが、文武両道の精神といわれている。 病気に罹ってから、慌てて専門家に頼り、なかには、自分の非から病気に罹ったのに、被害者意識が旺盛で、専門家を罵倒する人もいるが、武蔵にいわせれば、それでは、武人失格というところだろう。 宗教を学べば、自分の肉体は、自分だけのものではないことがわかる。少なくとも、両親がいなければ、獲得できなかったわけで、社会や家族がいなければ、赤子から人間の子供に成長せず、狼に育てられれば、狼になってしまう。 つまり、肉体は、天から与えられたもので、使わせて貰っているだけである。 与えられた肉体に満足するかしないか、自己管理を徹底するか、怠るかは、本人の心掛けの問題というわけである。 醜いアヒルの子という童話がある。童話や神話、伝説などは、神秘学や宗教を勉強すると、深い意味を読み解くことができる。 醜いアヒルの子だと思っていた自分が、実は白鳥の子だったというものだが、それと同じように、この世に生まれた姿は決して美形ではなく、知性も劣り、運動能力や、五感も凡庸だが、その姿にも関わらず、自己管理を徹底し、その分、他に見合うだけ、技術や能力を、自己鍛錬で身につけ、奉仕することで、調和を心掛けたので、肉体を失ってみると、かえって霊魂の輝きが素晴らしいものだったという話に解釈できるわけである。 つまり、この世の姿が問題なのではなく、この世から何を学んだかが重要なのである。 この世の姿は、仮の姿で、その本質は、自己管理能力を高めることなのである。 キリストは、富を積むなら、天に積みなさい。この世に積んでもそれは幻で、災いの種にしかならない、というようなことを説いている。 この世で偉ぶっていたり、金銭や財産を見せびらかしていたり、天狗だったりするのは、かえって、他を騙し、欺いているだけで、元々、それら全ての持ち物は天に帰属するものなのだから、自分のものだと錯覚しているだけで、愚の骨頂なのである。 自分のものでもないのに、自分のものだというのは、詐称であり、それを用いて、私利私欲を肥やすのは、悪徳の何者でもない。 天は、この世で、その人にそれを与えて、いかに用いるか試しているのである。 だから、善も悪も表面上、形の上では変わりがない。 ある人に美形を与えたからといって、そのことに善悪があるのではない。 その美形を自分だけに用いたのか、それとも、他の人のために、用いたのかで、善悪が決まる。お金も同様である。お金が沢山あることに善悪があるのではない。そのお金を自分だけに用いたのか、他の人のために用いたのかで、善悪が決まる。 だから、善を志すなら、天に善を積みなさいと、キリストは説く。 病気やトラブルが悪いのではなく、その状態をどのように自己管理、自己教育、自己教訓に生かしたかが問題なのである。 自分の身に起こっているのに、専門家に丸投げするのは、自己管理能力が皆無としかいえないだろう。専門家は、自己管理能力の高め方を教えることしかできない。 病気が専門家のお陰で一時的に治ったとしても、自己管理能力が依然のままなら、また、病気に罹るだけで、専門家への依存心だけが増し、かえって自己管理能力が衰えるだけである。 この世とあの世の評価はまるで反対である。 この世では、病気やトラブルは悪とみなしがちだが、あの世では、解決能力を磨くよい機会だと捉える。 そして、この世では王様のような地位が偉いとされるが、あの世では、底辺のホームレスの方が偉いとされる。王様は家来に命じれば事足りるし、贅沢な暮らしでも満足を知らないが、ホームレスは自給自足しなければ生きていけずに、最低の生活でも満足できるからである。 実際、釈迦は、王様の地位を捨て、ホームレスになったし、キリストもホームレスである。 それは、水が高き処から低き処に流れることからもイメージできるだろう。 心を清めるには、この水のように謙虚さがないといけない。知性は謙虚さから生まれる。 病気やトラブルは恵みでもある。形に囚われてはいけない。 病気やトラブルにかかっても、それに悩む心に囚われてはいけない。 それを糧として、悩むのではなく、解放すべきである。病気やトラブルから、心を解放することである。 病気やトラブルがあるから、健康の土台がわかり、トラブルの状態がわかる。つまり、明るい表面だけでなく、日頃は光の当たらない土台がわかる。 第一、病気やトラブルがなければ、医学や社会学が発展しなかっただろう。 何かを悪にして、それに責任を転嫁することほど、安易な過ちはないだろう。 病気ではあるが、癌ではないから、まだマシだという考えかたほど安易な思考法はないだろう。それでは、ただ差別しているだけで、現状の正しい認識さえない。自己管理能力の皆無でしかない。 現状の最も悪い状態を想定し、それよりはまだマシだというのは、ひとときの安心を与えるかもしれないが、その安心こそやがて、その最悪の状況を迎えるときを招くだろう。 いままで政権についていなかった民主党が政権をとるよりもマシだろうでは、なんの解決も示していない。 アメリカよりはマシだろう。北朝鮮よりはよい。癌で死ぬよりはマシ、というような意見は、他を差別して、満足するような醜悪な驕りの何者でもない。 最悪の状況ではないからといって、良い状況とはいえないからである。 殺人をしてないから、罪を許せというようなものである。 このような無責任な人間が上層にいる限り、状況は好転しないことは確かであろう。
2009年02月10日
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巷に横行している詐欺事件、評論家は、騙される方がおかしいといった意見が大半だが、それは結果論というものだろう。 評論家のその意見そのものが、一種の巧妙な騙しだがらである。 詐欺事件が起こり、評論家が、騙される方がおかしいということで、詐欺事件は繰り返され、また起こされ、なくならない。 ここにマスコミの怠慢振りが明らかになる。マスコミ自体、視聴率を元に運営している時点で、一種の巧妙な騙しである。 良識よりも、利益を優先しているからである。 自分たちだけが幸福であろうとしても、他の皆が、その分、不幸であれば、その幸福は砂上の楼閣で、そのうち、破綻し全てを失う。 小泉という詐欺政治家に騙され、強欲資本主義家に利益を吸い上げられ、強欲資本主義者には、神の天罰が下って、強欲資本主義のパシリだったマスコミは、いま広告料が入らずに、四苦八苦だという。 自業自得というものだろう。 円天の詐欺とサププラによる金融破綻と、その手口は同じである。 円天の場合、高額を寄付する、つまり高額の資本を投入する入会者がいる限り、つまり騙される者が多い限り、理論上、破綻することはない。だから、騙しの手口が巧妙化していくわけである。 同様に、サブプラ問題も、土地の値段が上がっている限り、土地を元に、高額な資本として市場投入できるという論理なのである。だから、益々、仮想市場に加入させる騙しの手口が巧妙化していく。 両者の共通点は、自分で判断する能力を失わさせるという点である。 このような騙しの手口は、実は、古くから行われてきた。特に似非宗教においてである。 信者の判断力を失わせ、いかに教祖を神格化させるかという騙しである。 この世に救世主などいない。誰も彼も欲深で、寝て食って、酒を飲んで、タバコを吸って、快楽に埋没し、糞を垂れるしかできない人間たちしかいない。 総理大臣というような偉そうな職についている人間が漢字すらも読めない。 郵政民営化という看板を掲げ、日本は変わるといいながら、オリックスのような、社会よりも、自己利益しか考えない企業に、国民の年金、税金を搾取して、その多くを、私腹に肥やしてきた郵政の財産を、利用価値がなくなると、後は、安く叩き売るというような悪逆非道を行っている。 あの西川という悪人の顔をみたらいい。まるで、ゾンビか、妖怪のような顔だ! 人相は大事である。リンカーンは40歳になったら、立派な顔をもたなければいけないといっている。 TVに映る顔は、まるで、さながら妖怪オンパレードである。 生きているのに、まるで、死んでいるような顔だ! 他人を騙し、少しでも自分が有利になろうと死に物狂いなのだろう。 すぐに救世主を求めるのは、依存心だけが旺盛な堕落した精神である。 評論家は、「土地が下がるとなぜ、思わなかったのだろうか」「円天がいつまでも続くとでも思っていたのか」というが、 そのような判断を迷わせたのは、あなたたちが、視聴率を基準にやっている限り、あなたたちにも責任があるのだよ! 円天が芸能人を使って騙しを行っていた事実から説明できるではないか? 誰がカルロスゴーンを日本経済の救世主と持ち上げたのだろうか? 誰が小泉を自民党政治の救世主と持ち上げたのだろうか? 少しでも、国民に対して、お詫びをしたか? 天気予報士でも間違えれば謝るだろう。 評論家は、いまも偉そうに、国民に説教している。 あなたたちのせいで、詐欺事件はなくならないということを知らずに。 騙される者が悪いという。 評論家なんて所詮そんな連中だと思えばいい。 随分前に、長谷川なんていう全く当たらないバブルの経済評論家もいた。 無責任にもほどがある。 TVはいま地獄を生中継する地獄チャンネルしかないようである。それも本人たちは全く自覚がない。 皆、悪魔に騙されている。悪魔は高笑いしている。お笑い番組だって! おっほほっほ あなたが選んだ道ですよ! 笑うセールスマンが大笑いしている。
2009年02月08日
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このブログによくお越しくださる孔明さまとの対話により、ある面白い着想が浮かび上がった。 それは、この書き込みのタイトルにあるように、超弦理論を用いた幸福論である。 超弦理論とは、簡単にいえば、素粒子を、弦の振動の対称性を用いて、記述する数学的理論のことである。簡単にいえば、弦を弾いた場合の音色を素粒子にみたてたものである。 なぜ、弦なのかというと、それは元々、量子力学の発見につながった、光は波なのか、それとも粒子なのか、という問題からはじまる。 結論をいえば、光は粒子でもあり、波でもある、というような見解に至り、数学的には、確率論を用いて記述することで、量子力学体系が完成した。 しかしながら、量子力学には、問題があり、それが観測問題として、いまでも議論の対象に事欠かない。 これ、仏教の空の概念と同じものなのである。仏教というより、禅の公案に近い。 生と死はあるのか、霊魂はあるのか、といった問いと同じである。 お釈迦様は、あるといえば、あるし、ないといえばないというようなどっちつかずの答えを出しているそうである。 つまり、二元論では、解決できない問題で、認識の問題となる。量子力学の観測問題に似ている。 そう、立場、見方によって様々ということである。 光を粒子として捉えようとする立場をとるなら、粒子だし、光を波として捉えようとする立場をとるなら、波なのである。 実際は、その両極端ではなく、波から粒子、或いは、粒子から波へと変容している状態がある。この意識状態を、古代人は、中庸、或いは道タオと呼んだようだ。 簡単に表現すると、光が粒子になった時点で、波という情報を失い、逆に波となった時点で、粒子という情報を失うのである。それは認識によるからで、量子力学では、波の収束と呼ばれる。問題は観察対象にあるのではなく、観察者の意識にある。 そう、つまり、変容している意識が問題で、光が波なのか、それとも粒子なのかというのは副次的な作用と考えるのが本質ということなのである。 例えば、勉強をすることに意味があり、知識をひけらかすことに意味があるわけではないのと同じである。問題を解決できることに意味があり、つまり意識が変容することが意味をもち、問題の解決法を覚えることは、その副次的産物にすぎないわけである。 しかし、我々はよく副次的産物の方に重点をおいてしまいがちであるが、この事が根本的な間違いを起こしている。 幸福はなんらかの副次的産物なのに、幸福が根本だと錯覚してしまう。そして、幸福を求めてしまいがちである。 仏教を学べば、幸福は、幸福という形であるのではなく、なんらかの意識変容の副次的産物としてあるということがわかるだろう。つまり、認識論の問題になる。簡単にいえば、心の取り扱いにある。 そこで、この心を弦に置き換えてみる。お釈迦さまも、苦行をやめたときの理由に、弦の喩えを持ち出して、弦の適度な張りがもっとも心地よい音を奏でると言った。 つまり、心は弦のようだといったのである。心から意識が生まれるともいえよう。 そこで、深層意識と、顕在意識とを弦であらわすと、うまい具合に超対称性を用いて記述できるように思われる。前者が負のエネルギーの存在、後者が正のエネルギーの存在を意味する。 恐らく、これを具体的に表現していくとなると、生命の木の構図が現れるように思える。 生命の木とは、10のセフィロトという神を表すイメージと、22の小径(パス)、これはセフィロトを結ぶ経路のようなもので、つまり、10の神的存在と22の経路の意識状態からなる。合計32の変容状態がある。 この生命の木は、素粒子物理でいう標準模型のように思える。 弦というイメージを用いると、都合がいいのが、光の波と粒子の性質を同時に表現できる点にある。 弦に固定点を与えると、粒子にみえる。これはつまり、人間が、動的な存在に、静的な作為を持ち込み、ある断面を与えていることになる。 実際、世は無常といわれるように、静的なものなど存在しないが、人間が、分解や、破壊、接触を与えることで、記憶という断片化した静的存在を持ち込んでいるのである。 この人間の更に究極的存在に言及するなら、自我となるだろう。 自我は、絶えず、動的存在に対し、分解、破壊、接触を持ち込んで、記憶を構築し、安定した意識状態を確立する。 しかし、それは幻想にすぎない。なぜなら、静的存在は、そのままでは存在しないからである。 これは、静的な安定点、つまり幸福状態を求めるのと同じである。求めれば、すぐに破壊され、剥奪される。 だから、自我を安定にもたらすには、静的な安定にしてはいけない。動的な安定点、それも点ではなく、軌跡でなければいけない。そう、変容の軌跡をなぞっていく感じだろう。 ここまで、エッセイ風に感じたまま書いてきたので、読んでいる人は、恐らくチンプンカンプンかもしれないが、考えるのではなく、感じてほしい。 とどのつまり、自分一人が幸福感を感じても意味はない。人類全体が、深層意識の下でつながっているので、人類全体が幸福にならなければ、幸福へと絶えず意識変容していかなければ、誰一人として、幸福にはなれないのである。 つまり、幸福になるには、自分ではなく、ほかの誰かを幸福にすることが近道なのだ。そうすると、幸福への意識変容が起こって、連鎖となり、幸福感が何倍にも増幅していくのである。 幸福感をプロパゲーターとして伝播させることが重要なのである。
2009年02月07日
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人間は、欲望の炎をもって生まれてくる。この欲望の炎に身を焼かれないように、この炎で、社会を明るく照らしていくのが、人生の課題であるということは、宗教を勉強すれば、自ずとわかる。 宗教を勉強することが、日本では、如何わしく思われるのは、日本人が、これまで、宗教を悪行に利用してきた経験からくるものなのだろう。宗教を勉強する人は、変人や、何処かおかしい人のようにみなされることは、確かにある。 この思い込みは、日本人特有なのかはわからないが、勉強した知識を、自己都合のために、安易に利用する傾向が高いように思える。特に、学問を立身出世や金儲けの道具にするような日本人が多いのは、見ていて腹立たしい思いもある。 その典型が、いまの評論家、文化人と称する類なのだろう。 性善説の孟子も、説いているが、学問は立身出世や金儲けの道具ではなく、たとえ、貧しくとも恵まれなくとも、人間の本分を逸脱しない、忍耐力の育成にあるというのが真実だろう。私は、これに加えて、学問は、独立心の育成にあると思う。 昨今、目に余るのが、なんでも専門家に聞くという姿勢である。自分で問題や出来事を起こしておいて、都合よく、専門家を、モノのように、利用してはならない。それでは、依存心だけが膨らんでしまい。自分で、自分の問題を解決できない人間になってしまうからである。 自分で起こした問題の多くは、自分で解決できるものである。そのために、学問があると思う。自分の問題だけでなく、社会的問題をも解決できるようになるのが、本来の学問をする意味であろう。問題を複雑化したり、解決不能へとややこしくするのは学問ではなく、詐欺、詐学である。 昔は、学問を実学、詐学を虚学と呼んだ。いまでは、金や出世につながる方、いわゆる社交術や世渡り上手の技術を身につけるものが実学で、いわゆる哲学のような金にも出世にも、箸にも棒にもかからないものを虚学と、反対の意味で呼んでいる。本末転倒している。アベコベだ! 地位が向上しなくても、金がなくても、学問だけがあれば生きていけるような学問が、真の学問である。だから、釈迦の説いた仏教、キリストのキリスト教、孔子も恵まれずに人生を全うした点で、儒教も、真の学問といえるだろう。 学問をすれば、問題解決能力が向上するから、自然、自分のことは、一番最後に度外視でき、他の人、緊急性を優先でき、そのような人が、社会の重要な地位につけば、社会は自ずと、安定する。 必要は発明の母であるという発明家の発言があるが、問題解決が学問の真髄なので、問題は、学問の母であるともいえるだろう。 宇宙をつくったのは神なのだから、神の言うことを聞き、守っていれば、それでよいだろう。神が出世しろ、金を稼げといっただろうか? 人間が勝手にやっているだけだろう。問題は、人間が勝手につくりあげたわけで、その解決方法は、神が人間に残してくれた知性を用いる他はない。神の知性を知るには宗教しかない。 勿論、宗教を勉強しているなどと、自分からいうことはないが、怪しく思われるのも、嫌なので、通常は哲学を勉強しているということにしている。 しかし、哲学も、宗教も、神の存在に近づくということで、同じである。 どうも、科学万能主義が、宗教の勉強を阻んでいるような気もする。勿論、科学の勉強も必要だが、むしろ、宗教の勉強のために、科学の勉強が必要なように、私には思えるのである。 このようなことを書いたのも、テレビに出ている評論家や文化人が、自説しか主張せずに、相手の意見や、立場に耳を傾け、尊重しないからである。 宗教を勉強すれば、相手に対して行っていることは、自分にそのままかえってくるという、俗にいうカルマを、理解でき、中庸の道を探れるはずである。 しかし、昨今の討論者は、自説のみで、思いやりに欠けるところがある。討論の意味は、自分とは異なる立場の意見に耳を傾け、相手への思いやりを育成し、中道、中立を保つことにある。 さて、宗教を勉強するのによいブログをみつけたので、以下に勝手に紹介したい。 http://blog.goo.ne.jp/namagusabose
2009年02月05日
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病理学と治療法は、互いに分離した二つの分野であってはならない。これまで述べてきた事実は、また、ここで提示する全てを、いわば治療法へと方向づけるよう導く。この二つの分野を統合すれば、病理学的な理解から、治療的な考察を可能にするだろう。 だから、これまで、述べてきた通りの病理的な叙述で、治療的考察を述べているわけでもある。治療法への方向付けを、ほとんど考慮しないなら、これまで述べてきた病理的な理解を非難するのは究めて容易だろう。 例えば、(体内の)梅毒の、外的な(外界での)発生の知識を得ようとする人にとって課題となるのは、確かに、梅毒が病気として出現するには、その都度、どのくらい感染しなければならないのか、少なくとも大体どのくらい感染していなければならないのか、ということである。 梅毒の感染を、単に確かめるだけなら、感染の確認が進むうちに、病理学を、独立の分野にするだろう。なぜならば(些か大雑把な比喩を用いると)、感染を、例えば、頭にできたコブにでも喩えると、そのコブができたのは、石か何かがぶつかったに違いない、つまり、何か打撃を受けて、頭にコブができたと考える以上に、重要なものとは考えず、梅毒の感染も、この頭のコブの比喩以上には考えないからである。 頭に打撃を蒙ることがないなら、或いは、レンガが頭に落ちないなら、コブができるようなことはない、というような考えが正しいのはいうまでもないが、この考えを、更に特徴づけてしまうと、治療プロセスを、豊富なものにするような特徴付けに到達することはない。 なぜなら、結局、頭に石か何かが飛んでくるということが、どのように起こるのか、というのは、社会的には非常に意味のあることかもしれないが、治療へ到達する生体組織の探究ということに対しては、究めて普遍的な意味を持つとは言えないからである。人間の生体組織の探求は、引き続き治療学においても役割を果たすような事実を見つけ出すように探究すべきだろう。 さて、梅毒の治療においても、これまで述べてきた事実が大きな役割を果たす。治療プロセスはこの事実によって解明される。これまで述べてきた事実は、病理学的な重要性よりも、この両者(病理学と治療学)の間に橋を架ける為に、述べたことである。 いま、この事を述べるのは、これらの議論が、ある種の精神から(そのうち際立ってくるが)、育成されるということを特徴づけたいと思うからである。しかも、今日では、病理学を益々一層、独立させ、専門化し、治療学の方へと導かない傾向が出てきているので、病理学的理念の考察の方も、正しい形で追求すれば、治療プロセスの探究にとって究めて意味深い豊富な事柄から、排除されている。 すると、次のような問いが出てくる、 「いわば宇宙的な末端的人間と、地上的、地球的な中心的人間との間に、二重性が成立することは、人間の生体組織全般にとって、いかなる意味があるのか」、という問いである。人間のこの両方の極(部分)は、組織力の異なった現われ方で示される。末端的な組織力全般は、形成として現われてくる。そして、末端的組織のいわば究極の行為は、人間の末端部に発現し、末端部に、他ならぬ人間の形態を与えることなのである。 (天の力は、人間の末端部に、人間としての形態を与える) 大まかに次のように言える、 「人間として形成するものが、いかに、珪素のなかに形成するものと、共作用しているかを、人間の末端部での、髪の毛の珪酸に対する振る舞いという点で、研究してみるとよい」、と。 人間が自らに介入させる度合い、或いは、この介入に抵抗する度合いを、珪酸が人間の頭部形成に対して、いかなる力を保持するかどうか、という観点から研究できる。ただ、常に、人間を、この観点の他にも、体格や特徴と同時に総括して見る必要があるのは勿論である。 今日、通りを横断し、禿頭の人を総括し、総覧できれば、その人たちが、どれほど珪酸-形成プロセスを受け容れているか、或いは抵抗しているかの、傾向がわかる。 (男性ホルモンが旺盛だと禿るといわれているが、この講座からいえば、天の力に抵抗し、珪酸形成プロセスに抵抗している人が禿るということがわかる。また、地の力の分解力、分離力が強い人が禿るわけである。) この事から、直観が与えられるが、この直観は真の霊視ができなくても獲得できるが、自然の働きに、深く沈潜しなければ獲得できない。自然の働きに出現するのは主に形成力だが、細胞形成力ではなく、人間の形態が究極に出現するような総体的な形成力なのである。 毛が沢山生えているかどうか、などの皮膚構成全体も、勿論、この形態形成力とみなせる。この形態形成力に対して、より中心に配置されているプロセス、炭素及び炭酸とより関係するプロセスのなかにあるのは、形態を解体するプロセスで、そこでは破壊、解体が作用している。 (地の力は、人間の中心部に、人間の解体、破壊をあたえる) 末端部;形態形成力(融合) 中心部;形態解体力(分裂) 実際、人間は、内部で絶えず形態を破壊、解体し、再び絶えず宇宙から、形態を作り出すことにより、生きている。 人間として、絶えず形態に関して、自分で自らを変形させようとし、そして、この変形が繰り返し、宇宙から調停されることにより、生きているのである。 人間のなかに存在するのは、この二重性、形成(融合)と変形(分離)という、この二重性なのである。これらは人間の生体機構において共に作用する。一方では、末端部の宇宙的(天)な形成力(下図参照、上からの矢印)があり、人間のなかへと作用する。この力は心臓で地上的(地)な力(下図参照、右からの矢印)と出会う。 心臓により、均衡が作り出されることは既に述べた。今度は、人間のなかで作用する末端部の力、本来心臓まで到達する傾向を持つ、この力が、心臓の均衡構造において、心臓の堰き止め(均衡)作用を受ける前に(下図参照、上からの矢印)、先に膨張し、滞留することを仮定する。 この末端部の力が、心臓での大きな堰き止め(均衡)に至る前に、いわば堰き止め(均衡)の予行のように、膨張し、滞留することを仮定すると、人間のなかに、低い割合ではあっても、やはり、宇宙的、地球外的な(天の)形成力が人間に現われていることがわかる。 さて、この末端部の力と対抗する反対の力、消化と消化プロセスの変遷を通じて、心臓に作用する力もまた、心臓に到達する前に、先に膨張する。すなわち、地球的な(地の)力が膨張する(図参照、右側からの矢印)ことを仮定する。 すると、膨張し、凝縮しているのは、人間において霊的なもので、つまり物質を形成する存在、これは頭部及び腸での全ての分泌に関係するが、心臓の活動には直接対抗せず、前もって一種の副次的活動を行う全般ということになる。 すると、ここで得られるのは、一種の副次的な消化であって、これと同等に、地球とその中心から発せられた力が、人間のなかの変形力となり、人間の形態を解体する存在として、予め先に膨張することで成立する。 この両者の均衡から、人間のなかの、この二重性を器官的に固定したことになり、つまり、一方には、末端部の力からなる、女性の生殖器官(子宮)、女性の性が、他方では、中心部の力からなる、男性の生殖器官(男根)、男性の性が与えられる(図参照)。 女性の性を研究可能にするには、その宇宙的-末端的な形成力への依存性という観点で観察する場合だけである。そして、男性の性を、その個々の形状に至るまで観察可能にするには、その地球的-中心的な解体力への従属という観点で観察する場合だけである。 女性;末端部、形態形成力(融合) 男性;中心部、形態解体力(分裂) (そういえば、女性の視野は、末端部に行きがちで、アクセサリーや爪や髪型など細部のイミテーションに拘りを有する傾向にあり、これと対照的に、男性の視野は、顔の中心や、胸部や身体の中心部といった中心部に行きがちで、主に丸みや膨らみを好む傾向からも、納得がいく。 最近、魔術を研究しているのだが、魔術の奥義は、生命の木の解釈にあり、生命の木とは、3本の柱からなり、その3本とは、東洋哲学でいうなら、陽と陰と、その中庸で、中庸は道タオともいわれるが、中央の柱が、タオで、均衡の柱、向かって左が、陰で、女性の天の力で、また峻厳の柱といわれ、形の柱でもあり、向かって右が、陽で、男性の地の力で、また慈悲の柱といわれ、力の柱でもある。 正確にいえば、左右は、マクロコスモスつまり宇宙とミクロコスモスつまり人間で入れ替わるのだが、いずれにしても、宇宙は陽と陰とその均衡の道タオの三位一体の創造により形成されるというのである。 確か、仏像も三体で、恐らくこの生命の木の3つの柱を置き換えたものなのだろう。つまり、宇宙の進化の構造を、三体の仏像で表したものなのであろう。 また、生命の木の解釈を使って、性交の正常位などを考えてみると、なぜカトリックではミッショナリーポジションと名がついたのかわかるかもしれない。) 人間の生体機構を、真に科学的に、深く探究する道は、この観点にある。また、この道(観点)から、自らのうちに形成力を担う植物が、形成力を麻痺した子宮を、再び、どのように形成力を回復させるように作用するか、ということもわかる。 人間の生体組織のなかの形成力を、以上のように霊的な観点から研究すれば、植物界、鉱物界の形成力をも、真に見出すようになる。この事を、個別的に観察していくつもりだが、勿論、最初に、大きな関連の全体像に触れなくてはならない。 一度、このような事柄を見通せば、真の胎生学をも手にすることができる。今日では、いまだ得られていないが、なぜなら、胎生学上の、初期発生(発達)において宇宙(天)が強力に作用を及ぼしていること、宇宙は男性の精子と同様、女性の生体組織を受胎させるものであることは、そもそも全く考慮されていないからである。
2009年02月05日
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前回のような描像から得られる事柄全般において、個人に注意を払うことが重要になることは言うまでもない。だから、これまで次のことを述べてきた、 「この分野では、何か経験的鉄則をみつけると、すぐに、今度は、その例外が掘り起こされる」、と。 しかし、以上の珪素と生の食事との関係等は、全体の指針として知るべきである。例えば、個々のケースにおいて、次のように変化する場合は猶の事である。 「この患者の場合は、生(なま)の食物を与えてはいけない。生の食物を食べると、その患者の体質では、全体として様々な徴候を誘発してしまうからである(つまり、患者の体質に合わせて、処方を変えなければならない)」というような場合に、是非、知っておくべきである。 このような、生の食物が、患者の害になる場合でもやはり、これまで特徴を述べてきたことは正しい。このような事柄によりはじめて、人間の体質全体を、真に見通すことができる。 というのも、人間が、現実に全宇宙に組み込まれ、人間から、離れている鉱物を生体組織に組み込むときにだけ扱うことのできる末端部と、前回の図で赤く図示した個別化する部分の両者を、明確に区別しなければならないからである。 この個別的部分(後者)の制御は、確かに、植物を通じてだが、第一に、現在の塩的な特徴により作用するプロセス、すなわち炭酸塩全般を、生体組織に取り入れるときにも、制御できる。一方、アルカリ性全般は、両者の均衡を取ることに関係する。 つまり(順に)、炭酸塩、アルカリ(図参照、黄色)、珪酸塩、或いは珪酸となる。 つまり、この事実は、人間と周囲の自然との親和性を示唆するものである。人間を、いま、2つに分かれた存在として見て、その中間部が、この2つに分かたれた間を行ったり来たり、つまり振り子運動を行っている。 そして、次のように言える、 「末端部の人間と、中心部の、個別化された人間とを、以上のように見ることは、全自然の内奥の本性まで導いてくれる」、と。 つまり末端部の人間は、地上を超えた全てと親和性を持ち(この事を如実に示す作用は、自身鉱物として、実際に諸惑星や星座に依拠する、人間のなかの鉱物の働きである)、更に、中心においては個体として、地上全てに親和性を持つ。しかし、この消化組織に表現される地上全般との親和性によって、人間は同時に、思考でき、人間として進化できる、人間本性となる。 さて、人間における二元性を、人間のなかに現われている地上を超えた作用(天)、つまり宇宙の作用と、本来、地上の作用との二元性として見ることができる。人間の生体組織のなかに、第一に明確な素質として現われるのは、地上を超えた作用(天)と地上の作用(地)である。 そして、人間が精神機構というものを備え、更に、それと対極的親和関係にある消化機構も持つことにより、末端部、つまり地上を超えたものが、いかに人間に反映しているか、以前、既に示唆したが、この事は、実際、繰り返し、これまで指摘してきたことである。 つまり、消化へと向かう分泌と関係するプロセスと、精神の働きの基盤である、脳(の分泌)と関係するプロセス全ては、根本的に、末端部の、天的な人間を示す。いかに奇妙に、逆説的にみえようとも、人間において、分泌を司るものは、天である事は正しい。 天;人体の分泌に関わる部分(脳や分泌) この天に対して、人間における、液体プロセスや、気体プロセスなどの、尿形成及び汗形成と関係するプロセス全般が示すのは、自己を個別化する人間としての地上的人間である。人間の本性の、この互いに離れようとする両極のなかに非常に重要な存在を見なければならない。 地;人体の形成に関わる部分(尿や汗) さて、近代においては残念ながら、この二元性、正に人間の本性のなかに、いま指摘したばかりの二元性を、治療の為に多少とも役に立つように指摘するような切欠は、これまで一度もなかった。というのも、ここで考察しているような事柄は全て、治療と病理を1つに統合するものだからである。
2009年02月04日
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さて、治療プロセスにおいて、鉱物界とその諸力との関係も作り出す必要があることを強調するなら、別の課題に導かれる。この課題は実際取り組まれてはいたが、やはり、その解決には、人智学的に観察し、ある関係を見つけるしかない。 治療プロセスにおいては、また、準備され、調理された食物と、生(なま)の食物に対する問いが究めて重要に思われる。また、ここでも、何らかの主義に賛成するとか、ではなく(食の分野においては、ヴァジタリアンとか自然食主義者等の扇動者にならないように注意したい)、真実とは何かを客観的に調べなければならない。 人間が常に調理された食物をとり、食物の力を同化する場合、生(なま)の食物を食べる生体が自分で行う消化プロセスを、外で行っていることになる(料理が消化プロセスとなる)。人間は、生(なま)の食物を食べるときに、自分で行う消化プロセスを、調理その他によって、省略することになる。 さて重要なことは、人間は、無論、抹消部においては、いわば自然全体と関わっているが、中心部、特に消化も、その一部であるが、その中心部においては、自然から人間を分離し、個別化するように構築されている。 人間と自然との関係を思い浮かべるなら、例えば、次のように言える。 「人間は、末梢(末端)部を通じて(図参照、緑;珪酸)全宇宙に組み込まれ、消化や血液形成に向かって、自らを個別化していく(赤;炭酸塩)、従って、自ら個別化する部分(後者)は、もはや外界のプロセスに完全に対応しないプロセスを遂行し、少なくとも外のプロセスのなかに完全に固定される場所よりは、外のプロセスに対抗して独自性を打ち出す領域である」、と。 更に次のようなことを述べれば、分かり易くなるだろう。 これまで述べてきたことは、人間は、実際、全宇宙に組み込まれていること、人間においては、特に上図の緑色で描いた部分では、鉛、錫、鉄の形成力が作用し、赤で描いた部分では、銅、水銀、銀の形成力が作用している(図参照)。この調停作用をしているのが金で、特に心臓にあり、調停作用の場を定めている力となる。 しかし、人間について、以上の観点から述べるなら、丁度、一本の指を、生体組織全体の一部とみなして述べるのと同じである。人間について、以上の観点から述べることは、人間を、本来全宇宙の一部とみなすこと、本来、全宇宙に組み込まれている存在とみなすことに相当する。 しかし、赤色の消化、つまり炭酸塩の領域には矛盾があって、人間は、消化と、消化に関する全般において、自らを分離する一方で、思考し、観察するときの相互プロセスのなかにも、やはり、自らを普遍的な宇宙プロセスから個別化するプロセスが存在する。 従って、人間は、消化プロセスと関係する全ての行為に、いわば、我儘に食物を必要とし、この我儘、利己主義なもの(欲望)が、自然から直接与えられるものを、再度(洗練化して)、取り入れるという調理の本能に顕現させた。なぜなら、自然から与えられる生(なま)のものを、直接取り入れたら、人間は、少なくとも平均的には、生(なま)を直接加工するには、あまりにも虚弱体質だからである。 逆説的表現でいえば、もし、食物を調理しなければ、食事は、絶え間ない治療プロセスに相違ないだろう。つまり、もし、食物を調理しなければ、環境とのより強力な親和性によって、食事は、絶え間ない治療プロセスとなる。 (医食同源ということである。生の食物を食べ続けると、医学となるという。それは元々、人間が外界に放出してきたものだからである。一時期、飲尿療法が流行ったが、あれは、この思想を曲解したものである。 この講座でも、後で言及されるが、本来は、太古のミイラ療法といい、人間が出す汗や尿や糞から、その人のエーテル体や、アストラル体、自我の状態を診断するもので、その状況に応じて、自然界から、薬剤を探し出す手法のことである。 尿検査については、現代科学でも、頻繁に行われているから想像しやすいだろう。太古では、ただ、それを霊的に行っていただけで、汗や尿や糞だけでなく、俗にいうフェロモンや、不可視の要素全てを、ミイラと呼んだという。 だから、エックス線をあて、反射像をみる、レントゲン検査なども、古代人の感覚でいえば、ミイラとなる。つまり、人間がその存在により、放出する影絵のような全てを、ミイラと呼び、ミイラをみて、その人の霊魂の性質を吟味したのである。現代のDNA検査や遺伝子診断なども、ミイラといえる。 ちなみに、ミイラといえば、エジプトのミイラが思い浮かぶが、太古人の意味するミイラは、霊魂が放出した要素全てを含むので、死によって、霊魂から、肉体も放出されるので、肉体を保存することが、ミイラの保存となり、霊魂を現世に呼び戻すには、霊魂に、肉体を与えることになるわけで、彼らにとってみれば、一種の治療学なのである。 この理念がわかれば、適当な薬剤による治療も、いわば、太古のミイラ療法を部分的に物質的に行っていることになり、それが現代医学の本質ともいえる。 この理念から考えれば、クローン人間が失敗するのはあきらかである。なぜなら、クローンは霊魂の存在を想定していないからで、下手すると、悪霊を呼んでしまう可能性もある。黒魔術に近い。 しかし、ほとんどの科学者は、霊魂に無知なのでほぼ安全ともいえる。馬鹿には届かない処に保管されるからである。科学者が馬鹿であればよい。せいぜい大学で威張っている限りは、安全ともいえる。大槻教授のような科学者がいる限り、安全である。知らぬが仏ともいえる。 逆説的にいえば、昨今の金融破綻による不況は、研究費削減や理系離れを生み、黒魔術に至らせない天の配慮かもしれない。本来、白も黒も違いはないが、人格性に深く負っているので、現代人の多くが利己的な限り、大学教授はその最たる代表なので、いずれ、黒に至ってしまうのを未然に防いでいるのかもしれない。) 従って、生(なま)の食物を摂ることは、調理(加工)された食物をとるより、遥かに治療プロセスなのである。 調理された食物を摂ることは、むしろ単なる栄養摂取プロセスにすぎないからである。生(なま)の食物を摂ることは、調理された食物を摂るより、遥かに強い意味において治療プロセスであるということは、非常に重要な原則である。 生(なま)の食物をとる食餌療法は、調理された食事より遥かに本来の治療に近い。 更に言及すべきことは、調理された食物全ては、消化作用がいわば切り詰められ(省略され)、その作用は赤く図示された部分(図参照)に留まるのに対し、生(なま)のまま生体組織に取り入れられたもの(つまり果物など)は、この領域を超えて、人体の末端部まで入り込み、むしろ末端部に現われて、例えば血液が、養う力を、末端部まで送り届ける誘因となる。 (以前、野イチゴが例として出された。) 珪素(シリカ)を用いて治療を試みる場合、患者に、しばらくの間、生(なま)の食物を与えることを試みれば(このような試行こそ行うべき)、この事実が確認できる。珪酸の作用を、生(なま)の食物が、本質的に高めることがわかる。 珪素(シリカ)による治療;しばらくの間、同時に生(なま)の食物を与えれば治癒効果を高めることができる。 なぜなら、その際、珪酸が末端(末梢)部に行うこと、つまり形成的に働きかけ、変性を完全に治す(勿論、これは物質的変性ではなく、解剖学的には直接出現しない、生理学的に出現する変性の治癒のことだが)ことができるが、珪酸が、直接行うには、治療プロセスの期間中、相応しい栄養分を珪酸に供給し支えなくてはならないからである。 この事実を、方法論上指摘しておきたい。なぜなら、この事実を追求することは究めて意味深く、これらの事柄はほとんど研究されていないからである。研究するにしても、概ね経験的で、ラツィオ(理念性)は探究されず、従って、この分野で確認できる事実に対して、満足のいく見通しをたてる可能性は余り見つけ出せない状況である。
2009年02月03日
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比較的、(進化の)最後になってから、(人間から)外に出された存在は、逆に、治療プロセスでは、最も早く、人間のなかに取り戻す必要のある存在となる。 (人智学では、人間から、動物界が出て、次に植物界が出、更に鉱物界が分離されたという進化を考慮する。それは、それぞれ、動物のアストラル体、植物のエーテル体、肉体の物質体という代表を意味する。 つまり、人間という宇宙の相似形がつくられ、聖書ではアダム=カドモン、或いは神から生まれたという言葉を略してエデンEDENと呼ばれるが、いわゆる、現代科学でいうところのガイヤ論である。 だから、神々は、まず自己相似形の人間、つまり神の子をつくり、神の子、人間が、自らから、進化のために、動物、植物、鉱物を地球に放出し、分離したという進化を説く。デイダラボッチ等の大巨人伝説は、このアダム=カドモンによる放出、つまり地球形成の話に由来するようである。) 動物界を考慮に入れれば(この問題にも光を当てるが、いまは除外する)、植物界より後に、鉱物界の本質を、人間のなかから外に出したわけである。 それ故、明確に理解すべき事実は、人間と植物界の関係のみの探究は一面的ということである。とはいえ、やはり、植物界は依然として有益で、なぜなら、結局、植物といっても、癒す際には、植物という存在により癒されるのではなく、植物内部が、鉱物界にも属する事実により癒されるからである。 更に、はっきり理解すべき事は、植物はまた、鉱物界にも存在するプロセスの一部を、新たに加工しているので、この植物によって、既に加工されたプロセスは、まだ加工されていないプロセスと同じレベルの薬ではない、ということである。 つまり、既に植物により克服され、植物プロセスのなかに組み込まれている珪酸は、鉱物として出現する珪酸ほど強力な薬ではない。鉱物中の珪酸の場合、同化吸収し、一体化する為には、植物界のなかの珪酸を扱うときよりも、生体組織に更に負担がかかる。 この事実は常に強調すべきことだが、人間は、より強い力に対すると、より強い力の発達を必要とする生物である。人間は、自らの内部で鉱物を同化吸収し、克服する必要があるとき、植物を同化するときよりも、更にポジティヴな強い力に相対している。 植物と鉱物の相違は、この事実にある(ここで、強調するが、次の事実はいわば括弧付きで述べるもので、食物の趣向の宣伝ではなく、菜食主義の支持でも毛頭ない。ただ、在りのままの事実を述べているだけである)。 菜食と動物食との違いは、この点にある。植物性の食物だけを取るとき、我々は人間なので、(植物プロセスを継続する)全プロセスを引き受けなければならないが、動物は、植物(プロセス)を少しばかり先へと継続しているので、(動物食を摂取すると、)人間から、この(植物継続)プロセスを省いてくれることになる。 つまり、次のように言える、 「植物が既に、ある地点まで成立させた(成し遂げた)プロセス(黄金色)は、動物により継続される。従って、考慮すべき動物形成プロセス(赤色)は、下図の2で止まり(下図参照)、植物では、1で止まる。肉食の人は、この1-2プロセス(下図の赤、黄金色)を、成立させない(成し遂げない)。この1-2プロセスを成し遂げるのは動物である。この1-2プロセスを動物に代替して(省いて)もらうことになる。つまり肉食の人は、植物だけを摂取する場合に、発生させる必要のある力を、自らの内部に、全く発生させなくてすむ。」 植物だけを食べる場合は、当人が、自らこの(動物プロセスの)部分を継続する必要がある。 すなわち、生体組織は、菜食者(黄金色)の場合、肉食者(緑色)の場合とは、(2の水準で比較する場合)全く異なる力(赤色の1-2のポテンシャル)を、自らの内奥から引き出してくる必要がある。 植物を克服する為に動物のなかに用いられる、このような潜在力(緑色=赤色)がある。このような潜在力は、いわば逆転によって、再び生体組織に戻ってきて、生体組織のなかで活動する。 この潜在力が活動するとき、根本的に人間を酷く疲労させ、妨げるように作用する。特に強調すべき点は、菜食療法による疲労に関しては、この疲労分を差し引いても、やはり本質的には負担が軽くなるという事実で、人間は、力を内部から取り出すことに慣れている(外部に依存的な場合は別)ので、より活動可能になるということである。 この潜在力を、人間は肉食時には取り出さず、生体組織の妨害力として用いてしまう。しかし、先に述べたように、(菜食を)扇動しているわけではない。ホメオパシーの医師たちでさえも、繰り返し、次のように反論される、 「肉食を急に止めさせると、人々に癆(癆[ろう]、結核)を植え付けてしまう云々」、と。 確かに、この様な事実はどれも生じ得るが、ここで純然たる事実として述べた事は、真実として全く揺るぎがない。いうまでもなく現に存在する。 しかし当然、現代では、植物性食品のみでは耐えられず、どうしても肉類を食す必要がある生体も存在することを否定するつもりは全くない。これは個別的な問題である。
2009年02月02日
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