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前回で、シュタイナーの人智学的医術の要約は終わったのだが、その補足として、シュタイナーが行った補足を、以下に続けて、これまた要約の形で載せてゆきたい。1-1 今回の講義『人智学的医術』の補足として、真の意味で、この講義の補足と理解されることを期待して述べたい。特に、この補足が、講義の内容を、治療への展望へと、結晶化させることを、多少とも、もたらせたらよいと思う。 この補足では、努めて、講義でも考察対象とされた事実、病気により治療される人間という(逆説的に聞こえる)事実に、別側面から注目していきたい。けれども、別側面から、この事実を観察することで、実際には、異なった観点に至るだけでなく、講義において観察した題材を拡張することにもなる。 つまり、この補足は、人智学者にはお馴染みの、物質体、エーテル体云々といった構成部分が、病気になる場合と治癒する場合に、いわば、どのように作用するか、ということを示す。 この講義では、内(精神)的人間の外への現われ方を記述することに限定せざるを得なかったが、この補足で示すのは、人間の外の物質、とりわけ薬として用いることができる物質、そして、その物質が薬として作用し得るのは、それが人間の生体組織に対して、物質的影響とは異なる影響を及ぼすことによるが、この物質によって、人間の、こうした様々な構成部分が、どういう影響を受けるか、ということである。ただ、ここで、直ちに、導入として、1つ前置きしておかなければならないことがある(現代科学で用いられている唯物論的な解釈では解明できないこと)。1-2 前回は同じ対象について、多くの点で物質的なもの、物的なもの一般に関して、薬として語ることができたが、人間本性の高次の構成部分(自我)、超感覚的な構成部分(アストラル体)に移行する必要のある時点になれば、もはや、同様な形で物質について語ることはできない。 いわば簡略化するため、短縮して語る為には、物質同様に語ることもできるかもしれないが、このような議論の際には、全体を通じて、原理的な事実を意識しておく必要がある。つまり、意識すべきことは、健康な状態、及び病気の状態での人間の外界との関係と人間の状態を理解したいなら、今日流通している科学で慣例となっているような手法で、物質を出発点とすることはできない、ということである。 出発点とすべきものは、物質ではなく、経過(プロセス)であり、完了(完成)したものではなく、1つの出来事(事象)なのである。そして物質に関して語るとき、実際、次のように思い描く必要があり、「物質のなかには、外(唯物)的な感覚の仮象のなかで、物質として現象化している存在があり、その中には、1つのプロセス、静止状態に至った経過(プロセス)以外の何者も存在しない」、というように思い描くべきである。 (シュタイナーがいいたいことは、静止状態というのは、静止しているのではなく、動的平衡状態を意味するということだと思う。物質は、主に静止状態として捉えられるが、それは本当は動的平衡状態なので、この事は気体の状態を考えるとよく理解できる。 つまり、素粒子群の運動が動的均衡を保つ姿が、物質にみえるという感じである。素粒子はほとんど光速度で運動しているので、素粒子から構成される粒子がほぼ止まってみえるのは、一種の幻覚といってよいのである。 早い話、ある程度の均衡状態、枠組みが安定していなければ、次の事象はいくらでも変わり得るわけで、静的状態を扱うような統計、確率的解釈は無意味ということになる。とどのつまり、線形解釈は、人間がそのように考えると理解しやすいだけで、本当の自然はそのように振舞ってはいない、非線形なのだから、線形で捉えることは全くの幻覚でしかないということになる。 だから、物質的な線形解釈では、病気や健康という生命の状態は理解できないのである。)
2009年07月30日
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今日「発達障害」に関するテレビをやっていて気づいたことがある。発達障害という言い方がおかしいからである。 そもそも発達というものに到達点というか、完成形などありえないからである。 「万物は流転する」と太古の哲学者は言ったが、発達、進化に到達点、完成形などありえない。万物は流転するのだから、発達、進化に終着駅はない。 だからして、発達に障害などない。発達に障害があるとするなら、それは差別的観点で、物質的価値観そのものを意味しているだろう。 例えば、物質的に美しいものが完成形だとするなら、醜いものはなんらかの障害を負っているという幻想に囚われるだろう。 しかし、美というものは、同時にその醜さがなければ、美とはいえない。比較の問題だからである。 不釣合いのものがあるから、釣り合いがとれる。 だから、物質的には障害のようにみえるかもしれないが、少なくとも、精神的に、霊的には、障害というものはない。 万物は流転するのである。消滅しない物質などないのだから、醜さのない美もあり得ない。 さて、今回のシュタイナーの予言は、この事に関するものである。 人間はサルから進化したものではない。ダーウィンの進化論は間違いである。 ダーウィンの大きな間違いは、人間が、進化の到達点だとしているところにある。人間もいまだ進化の途上にいることを忘れているのである。 ダーウィンの進化論が正しいとするなら、その逆の、映画「サルの惑星」のごとく、サルの観点からすれば、サルの方が、進化していて、人間が堕落の形かもしれない。 そのような物質的な自分本位の観点から、差別が生まれることに誰も否定はしないだろう。 では、シュタイナーの発言を引用する。 ダーウィンが発見した進化論を、唯物論的に理解するなら、人間と動物の類縁性に基づき、精神が地上で、人間という最高度な形態をとって現れている、と言うことそのものに、精神自体の発達性を否認するような観念を形成することになる。 これに対してゲーテの見解は、動物の形態のなかにも、精神の創造行為をみようとするもので、この創造行為は、精神そのものが、そこに生きることができるような段階には達していないだけで、人間のなかで、精神として生きる創造行為は、その動物の形態という創造行為の前段階を超えて創造しているものである。 精神として生きる創造行為は、人間という形態を創り変えることで、創造を行うだけでなく、つくりあげた人間そのもの、つまり自分自身を体験する精神としても出現しているのである。 つまり、シュタイナーが言いたいことは、動物の精神にも、創造行為はあるが、それは動物自らのなかで、自ら動物自身をつくりかえる創造行為までには到っていない段階の精神で、これとは違って、人間の精神は、絶えず創造行為を行いながら、その自らの人間の創造行為のなかで、人間そのものを変えていくような創造行為なので、自らつくり、そのつくり具合を、自らで体験するような創造段階の精神が宿っている、というのである。 この人間の、自らつくり、変化し、つくりかえる創造行為が、神のみが成せる業なのである。人間の場合は、神の子なので、人間自らをつくりかえる可能性が与えられ、そのため、その結果である、自ら思考する人生が、与えられているのである。 動物と異なる点はここにある。動物は自ら変われない。自然変化に応じるだけである。 人間だけが、自然の流れと離れて、自立し、時には自然に逆らって生きることができる。この自由な生き方は、人間に自らをつくりかえる可能性が与えられているからである。 だから、ダーウィンの進化論は、死んだ概念なのである。万物は流転するのである。 さて、現代では、昨今、特に脳科学が盛んであるが、脳科学こそ、このダーウィンの進化論の愛弟子である。 脳自身が脳を作り変え、つくり変えた脳を体験できるわけがない。脳が体験するには、身体が必要である。そもそも脳が脳を体験するには、脳が主体と客体に分割、もしくは分裂しなければいけない。しかし、脳細胞は、緊急時以外は、分裂しない細胞である。 実は脳細胞が思考を形成するのは、トカゲの尻尾のような再生力、つまりエーテル体を使っていることは、人智学的医術で述べたところである。脳細胞は分裂増殖しない代わりに、エーテル体の光を使い、発光しているという。ホタルの集団発光のようなものなのだろう。 ダーウィン進化論のような唯物論が全盛になっていくことを、シュタイナーは、以下のように予言している。 世紀末においては、個人と個人が争うようになり、ついで、個人が二つに分裂して、その二つが争うようになるだろう。 人間のこの自ら変われる能力を悪用すると、二つに分裂し、自分同士で闘う羽目になる。まるで、どこかの政党をみているようなものである。他人の批判ばかりして、許すことができない人間は、自分をも許す事ができないので、ついには、分裂してしまうのである。 さて、冒頭の「発達障害」だが、シュタイナーの書物を読めば、発達障害が障害ではないことがわかる。 それは、その魂の前世があまりに古代なので、現代の習慣に馴染めないだけなのである。肉体に馴染めないのもあるが、魂本来の能力も、太古の才能に溢れたものなので、物質的価値観に馴れないのである。 それは当然である、誰しも、全く自分の価値観とは違う世界にいきなり放り出されれば、戸惑いがちになるからである。北朝鮮から日本に来たようなもの以上だろう。転校生以上の経験だろう。終戦直後の日本の価値観の転換かもしれない。 だから、その魂の能力にも関わらず、肉体に馴染めないので、抑鬱傾向になってしまうのである。そして、自分を責めてしまう傾向になる。肉体を見放しがちになってしまう。そして、抑鬱が酷くなると、その肉体を与えてくれた親からも、離れてしまうようになる。 このような状況は、例えるなら、何かを表現したいのだが、どうしても現代のなかには、その表現法や、評価法がないので、鬱屈としているようなものだろう。 だから、何かをやりたいのだが、その何かがわからないで悶々としている感じである。 その何かを一緒にみつけてやるのがよいと思う。そして、ここに、古代と、現代の結びつきが生まれるように思える。 人間の魂だけが、自らを変化させ、その作品を体験できるのだから。 競走や闘いではなく、同意と理解にあると思う。古代と現代の普遍的可能性はどこにでもあるものである。障害ではなく創造である。 エジソンの辞書には、失敗がなかったように、発達や進化の辞書には、障害という言葉もない。 「障害」という文字は、固定観念が生んだ物質的用語である。私は「発達創造」と呼びたい。 発達創造の人のなかでは、古代の価値観と、現代の価値観が融合した生の営みが行われているからである。
2009年07月29日
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これまで述べてきたように、この連続講義では、まず基本を前面に打ち出すように導入した事例は、人間と外界との関係であった。自然治癒が、この関係を必須とするのも確かである。つまり、自然治癒は、人間を、再び自然に即して、人間自体の持つ治癒力の作用のなかに置き、この人間自身の治癒力の作用の根拠が、(自然の)何処にあるのかを指摘する、ある衝動に仕えているからである。 (自然治癒力の発揮こそ、内在神の力と説く霊能者もいる。シュタイナー的解釈をすれば、内在神を隠す行為が、身体上に病気となって現れるので、病気を克服すれば、内在神を隠す行為が改められ、内在神が表にでるようになるので、自然治癒力が働き、病気が完治する。 つまり、シュタイナーは、内在神を、自我-アストラル体とし、身体を肉体-エーテル体と技術的に語っているだけで、その説く意味は、他と変わりは無い。真実は一つということである。とどのつまり、その霊能者も、シュタイナーも、唯物論的考察を超えろということで、例えば、霊能力を買ったり、身体に悪い習慣を身につけながら、病気になっても、反省しないで、金銭で誤魔化すなということである。 そもそも、宇宙や自然と皆が一体とつながっており、自分の行為の一つも、なんらかの影響を与えているので、例えば、金銭を使ってズルをしたり、他者の目の届かないところで、悪いことをしても、つながっている以上は、その行為は消せやしないことになる。 どんな行為も、アカシックレコードという、宇宙のデータベースに記述されているという。そこにアクセスすれば、忽ちわかるらしい。最後の審判とは、その人の人生での行いが、アカシックレコードから引き出され、吟味されるという。内在神を育てた人は天国に行け、内在神を隠してしまった人は地獄に行くわけである。天照の岩戸隠れの物語とは、このことを意味するともいわれている。) つまり実際、自然治癒力の作用は、地球(地)と地球外(天)との相互作用に基づいている。そして、自然治癒は、唯物論に強く関わり合わず、依存しないことにある。この事から既に、様々の党派的議論の方向性が、いかに全て唯物論へと向かっているかを、見通すことができる。 唯物論はある形全てに共通している。従って、重要なのは、この分野全体の霊化である。とはいえ、今日、世界は真に霊的な事柄に真っ向から対立している。専門知識、及び専門職の側からも、唯物論に対する治療手段が出現する事が必須だろう。 というのも、ここで試みた事柄、そして、今端緒にあると言える霊的な見方が、何らかの趣向趣味的、興味本位の奨励と取り違えられることは許されないからである。最重要視すべき事は、人智学講義では、科学的活動の正しい努力がなされていることを理解できる人たちが、あたかも、何らかの方向で、趣向趣味的、興味本位の奨励かのような、有害極りない偏見を克服するために、協力している、ということである。 他ならぬ現代科学が提示できる事実は、既に全面的に利用され、常に考慮に入れられる状態となった。しかし、人智学から、本来、意図される事実を見ようとする人はほとんどいない。その為に、相変わらず、上記のような科学者の誤解を生むような事態が起こり、最後にそのような例を挙げておく。 例えば、オイリュトミーが人間の体質にとって、どんな意味を持つか、実際、医師に的確に説明することが可能である。なぜ、身体のような、建築物が立っているのかを、医師に明確に説明でき、この連続講義で詳述したような、人体組織の包括的な内面全体を、またその外面化である身体を見通せる医師に説明できる。 今日、素人の唯物論と、時代遅れの、因習的な時代遅れの方向に対して、上述してきたように、それらに抵抗する基盤から語る必要がある。ここで、真に考慮に値するのは、いわば専門的な方面から克服すべきことで、さもなければ、次のような事柄に示される出来事が増えていくばかりとなる。 フォン・M氏が、「新チューリッヒ新聞」にドルナッハ建築(☆2)とオイリュトミーに関する記事を書き、彼の良き意図を実現し、その新聞に貢献できると確信していたが、編集者からもらった返答は次のようなものだった。 「拝啓。地方を侮辱する建物として、ゲーテの名を付した神智学的ドルナッハ建設の記事は削除します・・オイリュトミーに関しては、調査中です。ご送付に感謝します。 H. トローク、学芸欄編集者」(☆2)ドルナッハ建築:第一ゲーテアヌムのこと。1922年と1923年にまたがる大晦日の夜火災により破壊された。 さて、この出来事からわかることは、本来、精神から世界へと入り込んで行く知見を、唯物論的な餌桶(存在)が、とても奇妙な妨害をする、ということである。このような出来事が、今日(1920年)、起こっている。そしてまた、注意すべきなのは、このような唯物論的な餌桶(存在)の中身、つまり、既に腐敗した中身から、鼻のなかにまで侵入してくる悪臭が汚染を広げている、ということである。 この事実が、この連続講義の結び、つまり最後に述べたいことである。というのも、これらの事実全ては、いわば次のような願望を保証するのに恐らく役に立つからで、つまり、この連続講義を、あらゆる寛大さをもって、実際、人智学発展の発端であった、と見て欲しい。 この連続講義の初めに、今挙げたような理由から、この講義を始めるのが困難に思ったが、今、終わりに際して、「このような講義を止めるのは更に困難である」、といえる。 というのも、実際、まだ言うべきことがあるのに、言わない事の方が、遥かに辛いからでもある(人々を救えるのに、救えない歯痒さがある)。だから、この結びに置きたい言葉、「始めるのは困難だが、今日、止めるのはもっと困難である」、という言葉に関わる全てから、願望を表出したい。 この言葉に関わる全てを、どうか、この発端を通じて伝達してきた事実を、寛大な評価のなかに取り入れ、次のようなとき、主観だけでなく客観的根拠が、人智学のなかに存在することを理解して欲しい。 それは、人智学の発端に対して、人々がどれだけ興味を持ち、また上記の「人智学を語ることは困難だが、語ることを止めるのは更に困難である」という発言を受諾するとき、つまり、主観だけでなく客観的に、人智学的見地から、霊的認識が語られる、また同様の機会が、再び訪れることを期待したい!
2009年07月29日
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さて、この講義では、様々な事柄を展開し、述べようと苦心した。講義の際、考慮すべき全てを概観しようとすると、色々な困難性が浮かび、一体何処から手をつけてよいのか、と色々考え込み、基本から始めると、短期間では、充分な処まで行けないので、結局、ある示唆的な手解きができるだけとなった。 最上位階の叡智から始め、いわば純粋なオカルトの真実を持ち出して、ある方向性をもって、今日の医学に橋を架けることは容易ではなく、莫大な時間が必要である。今日遥かに進歩した唯物論の弊害が見つけられる処では、今度は別の面から、この弊害に対抗して働きかける必要性にも、人々は気づくだろう。 これまで述べてきたオカルトの叡智を、いかなる方向においても党派的、組織的に理解せずに、友愛的に(密かに)理解すべきである。いかなる方向にも党派を組んではならず、事実を客観的に述べるだけにとどめるべきである。 とはいっても、次のように言うことは許されるだろう、 「今日のアロパシー的医学を概観すると、至る処に見られる観点は、その途上で到達すべき知見、つまり、病人の、前面に現れる病気の、ある二次的(副次的)作用に従って、細菌(ウイルス)論で診断する傾向、つまり二次的(副次的)な病因への偏向にある。」 細菌(ウイルス)発生学が、診断を助けるために使われるなら、実際、究めて役に立つ。病因を探査する為に、細菌(ウイルス)の性質から多くを知ることができる。なぜなら、ある細菌(ウイルス)の性質は、特定の主要因の基に常に出現するからである。この要因を見つける為に、充分な機会が与えられている。 しかし、二次的(副次的)作用を、主要とみなす傾向、例えば、人間の生体組織が、どの程度、細菌(ウイルス)繁殖の担い手になり得るか、ということを調べる代わりに、器官に及ぼされる細菌(ウイルス)の作用傾向を調べるなかには、アロパシー的な医学の細菌論において、前面に出現する観点だけでなく、アロパシー以外のその他の考察方法のなかにも、唯物論的な観点が存在し、その観点により、酷い弊害が引き起こされ、この弊害を、一々数え上げて示す必要もないほど、今日の病気の観点のなかに、様々にみられる。 しかし、だからと言って、試しに、ホメオパシー的医学を概観すれば、常に満足できる、ともいえない。というのも、確かに、ホメオパシー医学は、いわば人間全体へと向かう包括的作用全般に関する病像に常に注目し、しかも薬による治療へと橋を架けるように努める、といった長所をもつが、ホメオパシー医学の文献には、また別の事項も登場するからである。 ホメオパシーの文献を取り上げてみると、最初から絶望的な気持ちになるだろう。例えば、特に治療学的な文献では、薬剤が次々と順番に列挙され、その各々が、ほとんどの病気に効く、というような記述に対して、絶望感を禁じえない。これでは、文献から、決して、個別の疾患の治療への到達が容易にならない。 どの薬剤も、ほとんど色々な疾患の多くに効く。確かに、最初は、それ以外の記述は不可能であるというのもわかる。とはいっても、このような記述も誤った道(手段)といえる。この誤った道(手段)を克服できるのは、これまで述べてきたなか、最小限度に試みた、基本的、示唆的な方法で前進するときだけである。 なので、とりあえず基本を選び、最上部の叡智とでもいえる事項は、この連続講義の内容とはしなかった。人間、及び人間の外にある自然を、上記のような観察を通して、いわば、ある薬の範囲を見究めること、薬の(作用)範囲の限定へと上昇するときにだけ、この現状の漠然とした記述法を改善できる。 しかし、この改善をなすには、次のような道がある、 いわゆる、実際、薬剤によって、健常人や、患者に生じる徴候だけを研究するのではなく、宇宙万有を1つの統一体とみなし、(以前、ある場合を既に示唆したように)アンチモン化プロセスを追求し、そのプロセスにより、アンチモンが外界で行う振舞いを見通せるようになると、アンチモンにより、人間の内部で成し遂げられる事項も同時に、見通せるが、このような人間研究を、少しでも努力することで可能になる。 アンチモンの作用を見通すことで、全く特定の、限局性の領域とでもいえるプロセスが、人間に関係するが、そのような領域が外界のなかに境界づけられている。 (シュタイナーがここで述べていることは、例えば、現代遺伝子学でいえば、自己免疫の領域が、bcl-2という遺伝子により、境界づけられているようなことに思われる。いまのところ実証はされていないが、個人的には、bcl-2は免疫の縄張りのような蛋白質を生み出すものと勝手に思っている。bcl-2という遺伝子は、アポトーシスという細胞死を誘発するp53の対抗遺伝子で、発癌細胞で、多く発現がみられるもので、エーテル体と深く関連していると私は勝手に思っている。対して、p53は、アストラル体と深く関連しているのではないかと思うわけで、アポトーシスという細胞死への命令そのものが、アストラル体にあるのではと思うからである。bcl-2、p53発現細胞を可視化できれば、エーテル体とアストラル体を、霊能力なしで、見ることもできるのではと、勝手に思っている。シュタイナーが説くアンチモン化プロセスと、現代遺伝子学の関わりがみつかれば、面白いと思う。)
2009年07月28日
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一方で、いわゆる身体的な病気の場合に、全く機械的に、或いは化学的に進行し、人間を一個の機械のように扱う唯物論は、他方で、いわゆる精神病のような障害を特徴づける場合、最終的に心的な徴候の単なる記述を与えるだけに落ちついた。なぜなら、唯物論からは、霊-魂と物質-身体との関連についての概観が失われてしまっているからである。 霊魂と物質との密接な結びつきは、魂の状態と身体の容態が入り交じって起こることを具体的に調べるときに、実際に正しく示される。根本的に、いわゆる精神病を促進させるものは、一体何なのかを、考えてみる。 人間が病気になると、主観的な徴候、痛み他の徴候等が現われる。これらの徴候等は、急性疾患の場合は究めて明確に知覚できるが、慢性疾患の場合は、急性とは全く変化し、霊-魂が、ある器官に何か不具合(悪い処)があるときに生じるもので、つまり霊-魂は、その器官から引っ込むのである。 痛みとは、自我とアストラル体が、物質体とエーテル体から後退することに他ならない、勿論、この事からエーテル体の後退とも結びつくことがある。しかし、痛覚の本質は、何と言ってもアストラル体と自我のなかにある。器官の不具合の場合、通常、自我が強い状態なので、自我は反作用プロセス全般、つまり物質的器官のなかで生じる主観的、意識的な反対プロセスを知覚する。 病気が慢性化すると、順当なプロセス(経過)が次第に自我から後退し、その結果、魂的に生じるプロセスが、アストラル体だけに限定され、つまり自我は、アストラル体がエーテル体と関わっている共同作業に参加しないことになる。このように、器官の慢性疾患が起こり、急性が慢性に移行する。この自我の不参加は、意識的、心的な後退の徴候である。 診断を行うなら、病人の深層部まで入り込まなくてはならない。その人がいかなる容態か、またどこが傷むか等を尋ねるだけでなく、よく眠れるか眠れないか、仕事に喜びを感じるかどうか等も尋ねなければならない。つまり、長期間に渡り広がっている作用、器官生成に多く関わる作用を、徴候として見なければならない。他方、急性疾患の場合は、その都度、主観的感情を徴候として見ることができる。慢性の事態となった場合、いわば、徴候よりも、その人の人生経歴に注目する必要がある。 さてしかし、一般的に、身体的な慢性病になるのは、アストラル体とエーテル体が器官活動に参加し、必要なだけ多くを器官作用のなかに送り込めるように、プロセス(経過)全体が器官のなかに保持されているときである。 アストラル体が、エーテル体という迂回路を通って、器官に異常な作用を与えることに耐えられるような体質の病人の場合、つまり、その病人が、アストラル体と肝臓との異常な関係を、ある危険地点を超えていかせるような性質をもち、その為、いわば肝臓において、アストラル体が自分に異常に働きかけていることに気づかない場合、肝臓は回復するが、肝臓は異常なアストラル体の働きかけに慣れてしまう。(肝臓の耐久性が強く、アストラル体の異常作用を受け入れてしまう病人のことを指す) この肝臓への異常な働きかけが充分長期間進行すると、魂への逆(反作用)の道を作り出す。肝臓が物質のなかに摂取すべき作用を、魂のなかに押し込むのである。そうすると、抑鬱症になり、つまり、慢性病を、ある危険地点を超えて、ある形でもちこたえ、アストラル体との異常な関係にまで至ることで、いわゆる精神病への素質が与えられるのである。 いつか、これらの、いわゆる精神病の徴候が上記のように考察されるようになれば、病態(生理)学の段階を越えて行けるだろう。今日(1920年)、表象(イメージ)の不規則な経過、意志行動の不規則な経過他に関して非常に多くが議論されている。しかし、その最高に魂的な形式において、人間の意志として出現するものが、本来いかに肝臓、脾臓及びその他の下腹部の諸器官の奇妙な共同作用によって支えられているかを知らない限り、病態(生理)学に対する物質的な対応像を、実際に発見するには至らない。 いわゆる精神病の場合にこそ、生理(外科)的療法の導入を考えるべきである。人智学が、いわゆる精神病の場合に、生理(外科)的療法に通じるべきで、他方、身体的疾患の場合は、逆に、治癒の為に、魂との共同作用を示唆すべきことを、主張することは、一見、矛盾するようにみえるだろう。 しかし、この事は、下部人間と上部人間の強力な対立と関連している。この事は、外界から開始された知覚活動が、味覚活動に継続されるように、内的な知覚活動になるとき、或いは、内部のプロセスが、顫(せん)動運動や顫動の素質を持つ運動のなかで、逆に外に向かって放出されるときに出現する反転と関連している。正しく見通せば、ある目標に導かれる(対極の相互)関係が、この反転のなかにある。
2009年07月27日
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さて内的なリンパ及び血液形成のプロセス(経過)が銅に親和性を持つように、消化という移行状態、いわば外的な消化プロセスを、内的な血液-リンパ形成を行うプロセスへと促進する作用全ては、肝臓と、そして、特に水銀と親和性がある。 水銀のプロセス:消化プロセス→血液、リンパ形成へと促進する肝臓の作用 前回述べた消化への血液-リンパ形成プロセスの侵入が銅と親和性を持つように、このプロセスは水銀と親和性がある。 ただ、水銀の場合、水銀が球形の調停型を持つように、いわば両プロセス(消化プロセスと血液-リンパ形成プロセス)の相互作用に関わるように細心の注意を払うことが必要である。 血液中に多く移行しすぎないように、発達させるプロセスは、ヌクス・ホミカの作用によって生み出され、ニオイヒバの作用により抑えられ、銀の作用によって調整されるプロセスである。 銀のプロセス:血液中に過度に消化作用が移行しないような作用 =(ヌクス・ホミカ、ニオイヒバ) さて、ここで、ある分野が開けてくる。外界の自然を、その構成部分に従って探究し、自然を、いわば人間から分離された存在として捉え、健康状態と病気状態において、人間の下部を通じて密接に関わり合う環境のなかに、人間を据えるような分野である。 つまり下部人間から銅に親和性のあるプロセスを通じて上部人間に上昇する作用は、その反対に位置する鉄により調整され、相殺される。 この事実から既に、人間が鉄を必要とする事実、人間においては常に鉄プロセス、化学的に捉えれば鉄が有り余るほど充分に必要である、ということがわかる。 銅のプロセス=下部人間→上部人間⇔鉄のプロセス その他の金属(鉛、錫、金、銀、水銀)も全て、人間のなかに、それ自体のプロセスとして存在している。人間はいわば七つの部分(プロセス)から成る金属なのである。鉄だけが金属の鉄として存在し、その他の金属はプロセス(金属を成立させる過程)として存在している。 諸器官において、リンパ-血液形成活動と共に作用するプロセスが銅と親和性を持つように、肺から発するプロセス、喉頭へと外に向かって開いているプロセス等々は全て、鉄と親和性を持つ。 リンパ、血液形成活動;銅と親和性 肺から喉頭へと発するプロセス;鉄と親和性 更にまた、脳のなかの、内的活動に奉仕する部分(プロセス)に関わる、脳の消化活動と呼べる作用に類似する部位(プロセス)、つまり腸からリンパ管-血管のなかへと移行するプロセスに相互に所属しながら対応する部位(プロセス)の活動は、錫形成プロセスに親和性をもつ。 錫形成プロセスは、今特徴を述べた脳領域での消化プロセスを、魂で満たすことで調整するような作用である。 脳のいわゆる消化活動 ;錫と親和性 この事実に対して、神経線維や、上部人間の内部に継続された諸知覚の諸器官と、多く関わるプロセスは全て、鉛と親和性を持ち、また、汗の分泌、或いは尿の分泌全般に対応する。 神経線維と知覚、また汗や尿の分泌;鉛と親和性 これらの知見は、人間に関して、いわば隅々まで光を当てることにあたり、同時に、いかにして人間の周囲にある物質から、つまり反作用から、治癒作用を取り出せるか、ということの示唆でもある。 明白に理解すべきことは、いわゆる精神病が、多くの関連から諸器官に根拠をもち、器官的な病気は、魂-霊の作用と非常に密接な関係がある、ということを、人智学が示唆している、ということである。この関係の具体的探索は困難な問題である。
2009年07月23日
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特に下部人間において生じるプロセス全てを、上部人間へと送り込むように作用する活動は、睡眠中に高められる。 睡眠の特徴を述べるには、非常に慎重でなければならない。というのも、睡眠が最良の薬の1つであることは正しいが、それは、当人が必要とする睡眠時間が、長くも短くもなく、適度な長さでなければならないからである。 当人にとって、長すぎる睡眠は病気を引き起こし、長すぎる睡眠により、以前示した、消化プロセスの岸辺が、あまりにも穴だらけにされるということが起こり、つまり消化の最初部から、リンパ及び血液形成活動へと、あまりにも多くが入り込む場合もある。人間は、常に、全般的に、この事実に曝されている。 下部の生体組織は、実際、絶えず眠っていると言えるので、人間は絶え間なく、この下部の生体組織を通じて、血液が病む状況に曝されている。 とはいっても、人間は自らのうちに自前の治療薬を有し、勿論、正常な人体組織へと適合させられている。この治療薬ともいえる正常な人体組織から、過度な、或いは、過不足な睡眠を通じて、絶え間なく自分を病気にするように作用が働いている。 けれども、この睡眠による、病気への作用は、血液中の鉄によって完全に相殺される。 鉄は何よりもまず、人間にとって最重要な金属であり、人間の内部で作用し、この病気への方向性を相殺するように作用し、一方のプロセスから他方へのプロセスへと過剰な形で起こる全てのプロセスを正常化させる。 血液中の鉄不足による病気を、たった今述べたことから理解できるように、他方で、この鉄を充分希釈して用いれば、その都度、生じる上部人間のホメオパシー化に親和性をもつようになる為、生体組織を助けて、下から上と生じるような有害なプロセスを克服できる。 人間にとって主に考慮に値する他の金属プロセスは、これまで見てきたように、人間の諸活動によって補われている。 この方向で、これまでの講義の全精神から生じてくる事実をもう一度、手短かにまとめてみたい。 再度、人間における、リンパ及び血液形成活動を示唆した。この活動は、銅の鉱物化プロセスにおいて出現する作用の対極をなす。従って、このプロセス(経過)は、銅と親和性をもつ。 銅の鉱物化プロセス⇔リンパ及び血液形成活動 これらのプロセス(経過)は、下部人間の最も上位に属し、そのため地上に見られる銅形成力を、非常に強く志向するような銅との親和性をもつ、という事実を明白に理解することが課題となる。というのも、下部人間と関係する全てのプロセスは、地上のプロセスと関係するからである。 従って、ここで銅を通じて作用を及ぼすなら、黄金律として、次のような事実が大切である、 「ここでは銅を一般に低いポテンシャルで(あまり希釈せずに)、つまり地上での銅の状態に、かなり近い形で(勿論、有害になるような分量ではない)用いよう」、と。
2009年07月22日
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シュタイナーは、講演のなかで、数多くの予言をしているという。それらは、日本でも本になっているので、少しづつ紹介したいと思う。 そのような気になったのは、NHKの「資本主義のゆくえ」という番組をみたからである。 米国経済の失敗は金融工学と経済人の品性の悪さにあるとされるが、確かに人類にとっては失敗だが、悪魔にとっては、成功なのである。 常々、自称経済人(資本家)こそ、如何わしい存在はない。それは何の働き(肉体労働)もせずに、カネを稼ぎ、贅沢な暮らしをして、人々を使用人のように酷使し、奴隷化している存在だからである。悪徳霊能者と同じである。 そもそも、カネは、天下のまわりもので、社会のもので、誰のものでもない。水や空気と同じ存在であるべきである。必要な分、取り出して、使えるようなもので、日頃は社会に還元させていなければならない。 私物化すれば、忽ち、濁り、腐って、汚染、汚濁を広がせるものである。だから、経済人というのは、ウイルスや黴菌、細菌と自ら名乗るようなものである。 前置きはこの位にして、シュタイナーの予言を述べる。 シュタイナーは、堕天使アーリマンという悪魔が、将来受肉するということを述べている。アーリマンとは、天使の位階では、キリストに匹敵する位の大物の悪魔で、太陽の黒点を象徴とする存在だという。 悪魔と言えば、ルシフェルが有名だが、シュタイナーは、ルシフェルはかって、太古(紀元前3000年)の中国に受肉し、中華思想を起こしたというようなことを語っている。 ルシファーは、思想悪魔と呼ばれ、どこか選民意識(差別意識)を人々にもたせるという。ルシファーに対して、アーリマンは、物質悪魔と呼ばれ、人々の欲望(物質欲)をかきたてるという。 そのアーリマンが将来受肉することを予言している。 シュタイナーの予言 堕天使アーリマンの悪の力は、まず学問の世界に現れる。 学問は数量化し、生命感を喪失して危機に陥る! 現代人の間で支配的な知性は、人間の内なる生命力や、生命価値を示すことができない。 このことは、上記の番組で、金融工学に対する、ある日本の有名な教授の次の指摘に現れている。 「こころを確率で表すことは不可能である。」 つまり、金融工学の詐欺性は、生命を、数量化するところにある。 さて、シュタイナーは次のようにいっている。 今日、様々な党が出現しているが、人々は、この党の意見や綱領(マニフェスト)を明確にとらえることなく、またそうしようとも思わない。 もし、莫大な人間洞察力を用いるなら、どんな過激な主張でも証明できる。たとえば、レーニン(共産)主義をも証明できるが、またそれとは正反対の立場(資本主義)も、更に、両者の間に位置する立場(社会主義)も証明することもできる。 今日、現代人は、どのような人間的な綱領(マニフェスト)の意見でも正確に証明できる。 ところが、それとは正反対の立場を証明する人もまた、同様に正当性を備えている。 現代人の間で支配的な知性は、人間の内なる生命力や、生命価値を示すことができないので、ただ理論的に証明するしかできない。 しかし、このように理論的に証明されたものを、生きるに価するもの、生きる力を備えたものと考えるべきではない。 このようなわけで、現在、人々は、お互いに争いながら、党派に分かれて対立している。というのも、それぞれの党の意見は、同じ正当性を備え、少なくとも重要な意見は、同じだけの正当性と同時に理論的に証明可能だからである。 つまり、現代人の知性は、事物の表層に止まり、現に、真理が存在する深層まで、潜入することがないからである。 このことを十分に深く、根本的に洞察しなくてはならない。 にもかかわらず、現代人は、悟性と共に表層に止まることを好み、より深い精神力の力を用いて、更に、その先にある事物の本質に相応した存在の層に潜入することを好まない。 外面的な人生において、自分の周囲を見渡すだけでも、この事実に気づくはずだ。 シュタイナーは以上のように述べているが、人間は、知性を用いて、証明するが、知性そのものの不完全性には言及しない。 かって、ソクラテスは、無知の知を説いた。知性で語るものは、知性そのものさえも知らない。それは盲信である。 このソクラテスの知性とは、聖書に記述された知恵の実のことである。実を食べた人間は、知恵の実の虜になり、その実の毒性に気づかないでいる。 知性の毒性に気づいている者こそ、知を補完できる真の知なのである。 ソクラテスは、霊性を語ったが、生命的存在で、生きている知、それは神であるが、もはや、神から離れた知性、生命ではなく、人間の死んだ知性には、毒こそあれ、真実性はない。それゆえ、人間は失敗し挫折する。しかし、失敗こそ、神の贈り物であり、知性の補完である。 古代人は、生命をエーテルで語ったが、エーテルの存在は、生命が生み出した物質の形態から、想像できる。つまり、知の失敗こそが、背後のエーテルの存在を想像させる。 得意げな学者は知性を語るが、賢者は知性の危うさを心得ている。 人間は悪魔をも超えていける神に祝福された存在である。 真実は、「学」というよりも、実践という「道」にあるといえるのだろう。日本人の道義心、倫理が、経済を救うように思える。 労働の喜びを知らぬ者に知性を語る資格はない。 なぜなら、人間の脳は、労働の喜びによってつくられてきたからである。 メイドインジャパンが、世界中を席捲したのは、そこに労働の喜びが詰まっていたからであろう。 冥土インアメリカになっては御仕舞いである。強請りや恐喝しかできないのは悪魔の存在と言わざるを得ない。彼らの口癖は、「もっと金をくれ!」でしかない。これでは、ヤク中の獣と同じである。
2009年07月20日
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更にまた、別の事柄にも注目する。人間に対して驚くべき作用が現われるのは、ヌクス・ホミカ(馬銭子 まちんし)(*1)である。 この作用は何によるのか? ヌクス・ホミカを特定の機会に研究すれば、その謎の作用に到達し、その作用を内的に見通すことができる。(*1)ヌクス・ホミカ:Nux vomica 馬銭子(まちんし)。インドなどを原産とするフジウツギ科の馬銭(まちん、英名ポイズンナッツ、ストリキニーネの樹とも言う)という樹木の種子。これはアルカロイドを含み猛毒で、殺鼠剤、また興奮剤などを製する。ホメオパシー療法でも二日酔いの薬として、もちろん非常に希釈して用いられる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%B3http://www.yakuzenjoho.net/chuyaku/basensi.html ヌクス・ホミカを、二日酔いの際に研究すれば、ヌクス・ホミカがどのような作用を行うかがわかるだろう。二日酔いの人における、このヌクス・ホミカの作用を観察すると、他の作用は全て、ある意味、見過ごされ易くなってしまう。 二日酔いの際には、人間の器官活動全体が正に反転する。 二日酔いとは実際、消化活動の管状の道筋の最初部で起こるプロセスの継続なのである。 二日酔いが生じるのは、ワイン、ビール、或いはシャンパンに耽溺した場合、その物質が、リンパ及び血液の構成プロセス(経過)に摂取され、生じるプロセスが、消化活動の最初部のプロセス(経過)のなかに入り込むときである。 すると、本来なら溶解が使命である人体組織の(消化)領域が、一種の知覚器官に変化する。 すると、その主要な知覚活動を外界に向け、外界とコミュニケーションし、諸経過の起こる地球を、外として、眼前にみる代わりに、人間は自らの過剰な飲酒のせいで、内部を知覚するように強いられ、泥酔いした人間は内部(体内)に、外の地球活動に究めて類似する活動をもつ。 このとき、人間は地球の自転を感じ取るようになり、そして、酔っ払いは、ベッドが回転し始めるように感じる。 人間の腸活動の向こうの、リンパ及び血液形成活動のなかに、一種の地球活動、一種の外界、内的な外界、とでも呼べるものが現われる。人間は自らを、内的な外界としてしまい、外を知覚している分には、全く妨害しない作用を、恐ろしいことに内部に知覚してしまう。 人間の内部は、地球となるには相応しくなく、地球から身を離しているのが望ましい。 ところが泥酔いすると、人間は内部に正真正銘の地球を構成してしまい、本来、この地球を、完全に取り出して、それを周囲に、外から観察できるような知覚者がいるような状況に置くことができれば、遥かに相応しいものとなる。 だから、二日酔いの人間は、外に向かって置かれた内部を知覚するよう誘われる。 ヌクス・ホミカは、このとき生じてくる全てに対抗する作用をするが、まず、自然治癒プロセス(このような場合、大抵は強い自然治癒プロセスが現われてくる)が現われてくる限りにおいて、この外に向かって置かれた内部への敏感さがヌクス・ホミカによって抑えられる。 飲酒による、外界の内部化が抑えられることによって同時に、内部に置かれた外的プロセスから妨害を受けることはなくなり、つまり、ヌクス・ホミカの一種の治癒作用が、そこに結びつけられたわけで、この治癒作用の元になっているのは、変容させられた味覚プロセス(経過)の継続が弱められ、もはや、この継続された味覚プロセス(経過)の対極を妨害するような作用をしない、ということである。 このような事実を通じて一種の治癒作用が引き起こされる。 さて、この事実とは逆の「継続された味覚プロセス(経過)、つまり溶解活動の上昇が起こらず、麻痺が起こり、この溶解が充分到達しない」、ということを仮定する。 つまり人体組織において、外界からの摂取物が正しい割合で溶解され、塩形成プロセスへと摂取される代わりに、この内部が、塩形成プロセス摂取には、あまりに弱すぎることが明らかな事態になることを仮定する。 このとき、この消化活動の最初部は、ヌクス・ホミカを与えるときに人が得る効果と同様な作用を行う。 その性質に基づき、他プロセスを通じて、作用させると、充分に溶解されないままの物質は、この他のプロセスに適合しようとするだろう。 これらの未溶解物質は、出口まで到達できなかったら、味覚及び消化活動と、血液形成活動との間にある岸を渡れずに到達できず、岸の向こう側に辿りつけない。従って、これらの未溶解物質は逆方向に道を捜し、溶解作用を単純に促進することで克服され得るような全てのプロセスが起こってくる。 一方、この溶解作用を弱めるのはヌクス・ホミカの作用だが、このときの間違った道を捜す全てのプロセスに対しては、ニオイヒバ(*2)を用いて闘うことができる。 このように、ヌクス・ホミカとニオイヒバの両極的な対立は人間の本性から展開される。これはまた、(消化に関わる)人間の全生体機構を常に見ていくことの必要性を示している。というのも、人体組織のなかにある、この対立は、過小評価すべきでない意味を持っているからである。(*2) ニオイヒバ:Thuja ヒノキ科クロベ属の樹木。近縁種にコノテガシワ。
2009年07月16日
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体操を単なる生理学に移行し過ぎると、いわば振り子が間違った方向へと振れてしまい、非常に容易に反対の方向へと作用を及ぼしてしまう可能性もある。だから、特に女子たちを支配する普通のダンス活動が、腸の蠕動運動とは逆に、歯を形成するプロセスに害になる形で作用を及ぼすことも納得できる。 だから、盛んに踊る女子の歯が、男子よりも悪いのは一体どういう訳だろうと問うのは、正確に、上記の事実を理解していない発言といえる。 重要なのは、踊りが魂に貫かれていること、過度にならないことである。他方で、手の運動に関しても、編み物と鉤針編みにおいて、前面に出現する作用が度を越すと即座に、適度な活動を正しく用いる場合に出現する作用とは、反対の作用が生じてくる。 つまり、このような機械的に見える運動というような分野で、実際に反転が生じることがわかる。 第一に歯の形成プロセスが消化プロセスに反転させられる。しかし、また非常に重要な事は、全般に人間の運動の、前進運動、つまり前方へ動く能力へと反転させられるのは、消化プロセスのなかに組み入れられている運動であるということである。 消化プロセスのなかには、人間を構成する為に途方もなく多くの源が置かれている。人間が前方に歩くことができることや、消化への刺激が、後方に向かって生じることは、途方もなく重要なことである。 消化作用が活発でない人に、後ろ向きに沢山歩く体操や習慣をつけさせることで、多少の成果を挙げることさえできる。 後ろ向きに歩けば、その人の消化活動を促進するような作用が及ぼされる。このような事実全てが、純粋に経験的な事実の収集と呼べるものから、内的に浸透させるようになるには、人間の構成全体について、人智学の光が当てられるときだろう。
2009年07月15日
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歯が健康である限り、歯が行なうこと、つまり生体組織のフッ素形成プロセスの代用物が作り出される必要がある。この代用物は、ある形で作り出すことができる。ただ、今は丁度、特徴を述べた、前回の反転プロセスを正しく考慮しなければならない。 この歯の発生とは、その現実に沿って、観察すれば、一体何なのか? 歯の発生とは、内から外への鉱物化プロセスの運動である。永久歯が全て生えてしまうと、この鉱物化プロセスを外へと推進するプロセス(経過)は、その目標に到達する。 すると、このプロセス(経過)に対して、今度は、逆に内へと追い立てる性的成熟化プロセスが現われてくる。これら二つの、歯の形成プロセスと、性的成熟化プロセスは、リズムにおいて、相互に作用し合う互いに対極(反対)のプロセスなのである。 歯形成プロセス⇔性的成熟化プロセス 歯の形成プロセスが完了すると、同じ割合(強さ)で、他方側で性的成熟化プロセスが起こる。けれども、事態を上記のように見ると、内部及び後方への方向性を持つ、人間のなかのまた別のプロセスが、歯形成の運動プロセスの対極に置かれ、実際に、この歯形成プロセスと非常に関係があるということも洞察できるだろう。 この対極は腸の蠕動運動である。これらは、相互に密接に関わり合っている二つのプロセスである。 つまり、この蠕動運動に属する全ては、他方では歯の形成を司るプロセスと、密接に関わり合っている。この腸の運動プロセスは、人体組織における、フッ素の利用と密接に関係している。だから、次のように言うことができる、 「この腸の運動プロセスが、個々人に応じた状態よりも速く、集中的に経過すると、それは歯を損なうような作用を及ぼし、特に、フッ素が人体組織のなかで正常に行うべき全てに対して作用する」、と。 従って、是非必要な事は、歯科医師が、歯が非常に損なわれていることに気づいたら、人間の消化運動の働き全体が、あまり集中しないように指示を与える、ということで、その人の職業上可能であれば、純粋に、外的、機械的に安静を命じることや、消化を鎮める薬を与えることにより、つまり特に、過度ではなく少しだけ腸の運動の強さを抑える、というような指示が必要である。 歯の形成プロセス⇔腸の蠕動運動(フッ素の利用) しかし、この活動の調整には特別な意味があり、この活動は、既に示唆した規則正しい法則に従う四肢の活動、腕及び手、脚及び足の活動によって促進されるが、この事実は特に、オイリュトミー的運動調整を通して促進される。というのも、オイリュトミーの動きは運動を魂で貫くからである。
2009年07月14日
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人間の消化活動の最初部と呼べるプロセスを、継続された味覚プロセスと捉えることができるなら、汗の分泌、ある見方では、尿の分泌をも見通せる。というのも、この分泌は、実際次のようなことだからである。 「分泌領域において、主に生じる事柄を眺めると、そこで本質的に関わっているのは、身体内(精神)部の液体分泌を通じて(排出して)の、供給された栄養摂取である。この栄養摂取が本質である。 ここで観察される事柄全ては、本質的に、多少とも、食物への体内の液体作用に還元される。」 この溶解作用には反作用がある。反作用は肝臓、及び脾臓の活動のなかにある。従って、肝臓及び脾臓活動も、本質的には水の活動、液体活動に分類すべきである。しかし、最初の消化領域での溶解作用とは逆に、肝臓活動には、(消化)プロセスの最初部で為されたプロセスを包含し、覆い、変化を、再び元に戻す機能がある。 例えば、塩を湯に入れるときに起こる現象(活動)を、それと一緒に並べてみれば、そこで生じるイメージが実際に得られる。塩は湯のなかに溶けて分解する。この事実は、食物がリンパ管、血管に摂取されるまでの活動のイメージである。 外界の塩が溶解するイメージ=体内のリンパ管、血管の食物摂取のイメージ その横に、球形の水銀を数滴置く、閉じた球形を組織し、形成するのに絶えず努めている水銀を置けば、この水銀は、リンパ管、血管への食物摂取から始まる全ての、肝臓と肝臓のアストラル体との全関係により支配されるイメージとなる。 外界の水銀の閉じた球形のイメージ=体内の肝臓とアストラル体の支配のイメージ ここで実際、生じる事実を、上記のように覗き込むことが是非必要である。というのも、そうすれば、塩形成、水銀形成における、外界の状態の研究に導かれるからである。生体組織の内部で活動している作用を、文字どおり外界に読みとることができる。人間を常に、この外界との関連において観察する必要がある。 さて、アンモニア塩から血液形成への移行を辿る場合、更に、このアンモニア塩を追求すると、アンモニア塩は、このとき血液をアルカリ化することに気がつく。ここで、アンモニア塩は、更に、その道を進む途上で、下部人間から、上部人間にまで作用を及ぼし、上部人間のなかに反作用を引き起こすということに到達する。 しかし、ここで興味深いことは、完全な反転が起こるということである。プロセス(経過)の完全な反転が起こる。このプロセス(経過)の反転は、例えば、以下のように特徴づけられ、 いわゆる、「上部人間は、下部領域の消化においては知覚人間として作用し、味の知覚における作用に努めるが、他方で今度は逆に(全体が逆になる)下部人間がより一層、知覚に向かう傾向を示し始め、上部人間の方では、知覚に作用を及ぼすものへと向かう傾向を示し始める」。 すると、この結果、以前は、(肝臓の)アストラル体から発すると述べた、ある反作用に対し、今度は逆に、いわば反作用が、下から出て、つまり反作用に相応するものが下から来て、上では、その変化に対応する作用が始まる、というプロセス(経過)が生じる。 その結果、上部では(専門用語を用いれば)顫(せん)動上皮が刺激され、例えば、より激しく運動するようになって、肺の分泌が促進される。ここでは、本来とは逆の運動が行なわれる。まず溶解を通じて、肺の運動が引き起こされ、次いで、肝臓を包み込む働きを通じて、肝臓より上にある器官、つまり肺活動を溶解させ、分散させ、刺激するプロセスが喚起され、そして下部での溶解の代わりに上部の器官における分泌が引き起こされる。 体内のアンモニア塩のアルカリ化→形成化作用とは逆の分散作用→肺の分泌活動 この事が、人間の生体組織における、溶解と、塩作用を通じての、物質の同化から、形成化作用、及びそれとは、逆の分散作用へと与えられた道である。この分散作用は、蒸発、及び燃焼プロセスに比較できる。 つまり、水銀の滴の傍らに、沸騰する液体を置けば、水銀は絶えず蒸発し、活発な蒸発作用(これは燐的な硫黄作用と呼べる)となり、この蒸発作用下にある沸騰する液体(水銀)を、いわば非器官的な存在が炎症を起こす現象と見ることができる。 すると、この蒸発する水銀と対極となる器官、つまり下部人間のなかで展開される(消化)活動と、そして、上部人間では肺関係全般のなかでも展開される活動を得る。 外界で蒸発する水銀(分散作用)、(燃焼作用) →非器官が炎症 この内的活動が得られれば、外界から、これらの活動のなかに取り入れることができるものについての概念形成の道も得られる。この道は更に進み、以下にまで到る。 以前述べた事柄を思い出すなら、歯の形成プロセスにおいて起こる事は全て、人間の生体組織の非常に周辺的(末端的)な活動であるということが洞察されるだろう。だから、人体組織の、この非常に周辺的な活動も、これまで特徴を述べたように、即座に外(物質)的な鉱物化活動となるが、この事を誤解しないように注意すべきである。 この事は些か誤解を招き易いが、歯の形成活動は、周辺的な活動なので、歯の形成プロセスにおいて、既に鉱物化が出現するなら、歯の状態の悪化が問題となるとき、純粋に外(物質)的技術や、機械等の歯科技巧的な治療を通じて、歯の改善等に働きかけるのは当然だが、外(物質)から、それ以上の事はできない、と以前述べた。つまり、「外(人体末端の表面部分)で鉱物化されている活動は、やはり機械的に扱う他ない」、と述べた。 機械的に生じる全て、歯の改善他を、この事に含める。つまり、歯が悪くなったときに歯の補填について配慮するのは尤もなことである。というのも、ある時点から、もはや歯について内部から気遣うことなど出来ないからである。 しかし、内部的治癒では手遅れであっても、どうしても、必要なプロセスについては内部から配慮しなくてはならない、それはフッ素形成プロセスで、これは生体組織にとっても不可欠のプロセスである。
2009年07月13日
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人類にとって有益な形で医学研究を続けていくならば、この連続講義で示唆した事実、つまり、健康や病気の人体組織全体を、人間の外にある、諸力や、物質、または作用全般と、共に考えることが、実際に、広まっていくことが望ましい。 というのも、人智学的な知見が広まることで、益々一層、病気の識別を目指している自然科学的方向と、治療薬と治癒作用を生み出そうとする努力との間に橋が架けられるからである。 しかし、この道を(方向に)進むことで、成果を挙げる為には、人間全体を観る術を獲得し、現在人間として存在する人間が、第一に外界とある関係にある、という処から、いわば人智学的な光を当てることが不可欠である。 この外界との関係というのは、最も進化した状態での、外的知覚と外界との相互作用のなかに出現する。外的知覚とは、例えば、視覚作用のように、本質的に、まだ人体内部での物理的作用とは僅かしか関わり合わない。 しかし、低次の知覚の領域、つまり嗅覚や味覚の領域に入っていく瞬間、すぐに人間の外、いわば人間と環境との外的な交流が、いかに内面化されているか、を見る。というのも、実際、ある点まで、人間の消化は、知覚活動の継続、知覚活動の変化に他ならないからである。 栄養分が腸の働きによって、リンパ及び血液形成の働きに引き渡される地点まで、そしてまだ、この地点への移行でさえ、根本的に、それ自身が低次であるほど一層、器官的に作用するような変容であり、変化させられた知覚活動なのである。 だから、本質的に、いま特徴を述べた地点までは、消化のプロセス(経過)のなかに、継続された味覚(味を感じとる)のプロセス(経過)を認めなければならない。 このような事実を正当に評価すれば、第一に食餌療法全体の為の基礎や、そして、更には、この分野において、作用を及ぼす為に必要な治癒力全ての認識に至る基礎も準備できる。この分野で生じてくる可能性のある有害物質も、系統立てて、少しずつ見極めることができる。 というのも、アンモニア塩の人体組織への作用を追求してみれば、今日の自然科学の信奉者は次のようにいうだろう、「例えば、塩化アンモニウムの形でもたらされたアンモニア塩は第一に(今日の自然科学の意味で語るべきで)、例えば、心臓の筋肉-運動神経組織に作用を及ぼす」、と。 ところが、運動神経と呼ばれる全神経組織が無意味である。随分と強調してきたように、知覚(感覚)神経と運動神経との間に違いはない。だから、このような把握全体が無意味なのである。重要なのは、本質的に異なる点である。 重要な点は次のようなことで、いわゆる、「アンモニア塩が、味覚のプロセス(経過)から血液形成のプロセス(経過)まで達する領域の内部で、その作用を維持しているうちは、継続された味覚作用も内部に存在し、そして、この継続された味覚作用は同時にアストラル体でのプロセス(経過)でもあり、アストラル体のなかに、例えば汗の分泌として見られる反射活動を引き起こす。」ということである。
2009年07月08日
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ポテンシャル化した(希釈した)少量のベラドンナを服用する場合に生じるプロセスは、究めて興味深い。 それは、夢の混入した覚醒(目覚め)のプロセスに、恐ろしくよく類似するからである。この場合、このプロセスが、いわば正常化されて起こる。覚醒(目覚め)の際、まだ、あまり感覚的な知覚がなされず、感覚的知覚がまだ、夢を伴う意識に浸透される性質を、内的にもつとき、本質的には、常に人間のなかには、このような一種のベラドンナ作用がある。 そして、ベラドンナによる中毒は、通常は、目覚める際の覚醒(目覚め)がまだ、夢に浸透されているときに、人間のなかで行われるのと同じプロセスが、ベラドンナの毒によって、人間のなかに引き起こされ、しかも、それが継続して行なわれ、意識によって、再び受け取られることなく、このような半ば夢の意識の過渡的現象が、ずっと持続していく、ということに基づいている。 中毒現象を通じて、引き起こされるにしても、そのようなベラドンナによるプロセスは、正しい速度で人間のなかに引き起こされるなら、人間の全生体機構の一部となる、ということがわかるのは、興味深い。 前に特徴を述べたように、ベラドンナ化することとは、人間化することへの植物の気違い染みた努力なのである。だから、次のように言うことができる、 「人間の目覚めは、人間自らのなかに、ベラドンナ化するプロセスをもっている。ただし、これは和らげられたベラドンナ化、節度あるベラドンナ化であり、まさに目覚めの瞬間に限定されているものである」、と。 従って、体を、内部のアルブミン化プロセスの重荷から解放するなら、過度に強く作用するアルブミン化プロセスを回収するように、いわば体を、魂へと導くように、体に対して影響を与えようとするなら、ポテンシャル化した(希釈した)ベラドンナを与えればよい。 このとき、ベラドンナによって、体から負荷を除こうとする作用を、魂のなかに入れることになる。この作用は、確かに混乱や幻影に満ちてはいるが(この話の最初に述べたように)、通常の肉眼で見えるベラドンナの作用においては、眼の前に現われてくる作用である。 寝ている人間を突付いてみた結果、当人が夢にまどろむ状態から(持続的な)覚醒状態に移らず、夢にまどろむ状態のままに留まるなら、その人を死なせてしまう。 人間は目覚めるとき、常に生命の危険に曝されている。ただ、この生命の危険を克服できるように、すばやく目覚める(覚醒意識になる)のである。 この事実が、いわば正しい割合にあるために、瞬時に覚醒意識に引き戻され、正常な状態にある場合と、正しい割合を越えて導かれる瞬間に、異常な状態になる場合との間に、興味深い関係が存在する。 この正しい割合との関係は、古代の医師たちが繰り返し追求しようと試みていたプロセスである。だから古代の医師たちが、ホムンクルスの製造(5)について語るとき、根本的に、彼らはまだ残っていた霊視力で、アンチモンのファントムを見ることができた、のである。(5)ホムンクルスの製造:たとえばパラケルスス「デ・ゲネラツィオーネ・レールム」(バーゼル1574、第1巻7頁以下)参照。 彼らが実験室で、外的に実行していた形成プロセスとは、アンチモンがその力を展開する間に、アンチモン自身の本質から投射され、出現したものは、アルブミン化力として、このアンチモンの力を撲滅する作用なのである。このアルブミン化の力が、彼らには、まさに1つの力として現われた。 普通は、人間の生体組織のなかに残っているアルブミン化力(蛋白形成力)を、彼らは投射し、そのとき、彼らは、アンチモンが様々な形(フォルム)をとっていくプロセスが生じている間に、アルブミン化力が加わり、中和され、出現したホムンクルスを見たのである。 アンチモンの凝固作用と、アルブミンの蛋白形成作用の中和が生じるプロセスにおいて、出現するものを、彼らはホムンクルスと捉えたのである。 (ホムンクルスとは、アンチモンの凝固作用と、アルブミンの蛋白質形成作用の中和現象のことを意味し、それは、 錬金術では、炭酸塩作用と、燐化作用の中和である水銀作用を表すものともいえる。)
2009年07月07日
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さて、既に指摘したが、再度指摘する。殻を形成する牡蛎は、アルブミン化作用にとっては、可能性の高い絶好の客体(対象)であり、主体でもある。小規模だが、同じことが卵の石灰の分泌、卵の殻形成にも見られる。 一体、この事実の根底にあるものは何なのか。牡蛎の殻や、通常見られる卵の殻とは、作用でいえば一体何なのか? この事実は、卵の実質や牡蛎が、自ら解放すべき産物として、殻を外に送り出さなければならず、しかも、その理由は、もし卵の実質や牡蛎が、殻を自らのなかに保持していたら、それが元で死んでしまうということである。 牡蛎や卵の殻形成は、生命活動を維持するということに基づいている。 だから、牡蛎を食べると、牡蛎と一緒に(今日の科学にも許容できるように述べるには、更に選び抜かれた記述形式を纏わせないといけないのは確かだが)、牡蛎において、殻形成として、外へと出現する生命プロセスを食べることになる。 この生命プロセスを一緒に食べるわけである。つまりアルブミン化するプロセス、アンチモン化作用に対置されるプロセスを一緒に食べていることになる。 牡蛎を食べることで、人間のなかで、チフス様の症状に通じるプロセスが促進される。牡蛎を食べることは究めて興味深い経過なのである。 牡蛎を食べることは、人間の下腹部における形成力、アルブミン化力を促進する。 ところが、この事実によって、ある力を、頭から解放し、引き離すことになる。すると、人間は牡蛎を食べたとき、主観的に、頭のなかで働く力が、さほど重くないように(軽く)感じる。その人は、ある形をとって、頭を空っぽにする。 我々人間は、このアルブミン化力を絶えず発達させなければならない、なぜなら、頭部に形態形成力の負担をかけることができないからである。ところが、牡蛎を食べる人は、この事をし過ぎて、あらゆる情熱をもって、空っぽの頭を希求する。 従って、そのような人は、以前、特徴を述べた、ある(エーテル)力の下腹部器官への突破の可能性をも大きくし、つまり、チフスへの傾向を促進する。だから、このチフスの傾向があるなら、このアルブミン力と同時に、どのような方法で、アンチモン化への処置をもたらすべきか、を考えないといけない。 従って、内部と外部の同時的処置を、アンチモンで遂行することにより、特に、アンチモン軟膏を擦り込むと同時に、高度にポテンシャル化された(希釈した)内部のアンチモンによって、チフスへの傾向を、究めて内的に克服するように、生起させることへと到達させるなら、よい結果が引き出せるだろう。 また、これらのアンチモンの内服と外用は、調整的に、逆側からの作用を中和するだろう。なぜなら、これらは、チフス傾向に対して相互に調整し合うからである。 人間を、絶えず全宇宙の環境に据える、という試みが、どのようになされるかが、この事からわかるだろう。 この意味が示されるのは、自然のなかのある存在と、つまり、ある形をとって、直接的な地の諸力に対して、抵抗することで成立している存在と、人間との関係を調べてみるときである。 植物は、直接的な地の諸力に対して、抵抗できる。その後、植物は、花形成、種子形成に至る時期の為に、形成力の多くの部分をとっておく。食される植物の基礎をなし、また通常は、鑑賞される植物の形成は、地の力の特定量が、植物の形成の為に用いられるということに基づいている。 植物が、この地の諸力に抵抗すると、次いで地球外の諸力に曝され、種子形成、実形成が最後に集結し、次いで、植物は、本来ならば、植物界の上方にいる高次の存在(天使)たちが世界を見渡すように、世界を見渡したいと思うような植物になる。 更に、植物は、知覚への欲求を示す。ただし植物は知覚器官を持たないので、植物のままに止まり、人間の目に存在するような同じ器官を発達させようとする。しかし、植物は目を発達させることができない。それは植物がもつのは植物の体なので、人間、或いは動物の体ではないからである。 だから、この植物はベラドンナ、アトロパ・ベラドンナになる。このベラドンナになっていくときに起こっているプロセスを、以前、幾らかありありと具象的に描写した。 (このような植物は、植物プロセスを超えて、動物プロセスに進もうとし、毒性をもつ植物になってしまうという) 植物はベラドンナになり、そして、ベラドンナになることで、その根のなかには、最終的に、黒い液果の結実へと導かれる諸力が存在することになり、この植物は、人間の生体組織において、次のように作用する全てと親和性をもつようになる、 いわゆる、「形態形成に従う運動(動き)から、本質的には、感覚領域に生じ得るものに従う運動(動き)へと、つまり、人間を、形態形成(組織化)の領域から、感覚の領域へと持ち上げる(進化させる)ように作用する要因」との親和性をもつようになる。 (俗にいう麻薬性の植物のことである。)
2009年07月06日
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では、一体、アルブミン化プロセスとは何なのか? アルブミン化とは、アルブミン化プロセスを通じて、自然における、あらゆる可塑性のあらゆる形成性が、人間と動物の生体組織の一部に、その実質形成の為に組み入れられるプロセスである。 (その逆の)アンチモン化の力は、いわば外から作用する造形芸術家で、器官形成の実質に、形態(フォルム)を与える力である。このように、アンチモン力は、諸器官の内的な器官形成力に対して、ある関係をもつ。 アルブミン化→可塑的形成力(生命力のような丸みを帯びさせる) アンチモン化→形態的造形力(結晶力のような線形を帯びさせる) だから、今から、ある器官における、この両プロセスを区別して欲しい(これは重要な区別である)。 例えば食道の場合、食道で、どんなプロセス(経過)が生じているか、あるいはまた食道に沿って粥状になった食物がどのように通過していくか、などに、はじめは注意を払うことなく、いわば、食道の内部構造、組織を追求できる。 しかし、食道は、人体組織に摂取された食物と一緒に作用する。つまり器官の内部のプロセス(経過)と、外からもたらされた食物とが共に働くとき、器官において生じることを、抽象的に、分けることができる。それは器官内部のプロセスと、外から摂取される食物の、2つの異なったプロセスである。 人間の器官内部では、アンチモン化の力が作用している。人間のなかに、外から摂取される食物を全て抜きにして考えれば、人間は、本質的にアンチモンといえる。人間自体がアンチモンなのである。 (シュタイナーがいう意味は、人間自体が、食物に形態的造形力を与えているので、つまりアンチモン化しているので、人間は、アンチモンであるということなのだろう) 重要なことは、通常の生のプロセスにおいては、内的な器官形成力に、このアンチモン形成力の負荷をかけすぎてはいけない、ということである。通常の生のプロセスにおいては、このアンチモン形成力を供給してはいけない、さもないと生体組織を毒し、過度に刺激してしまう。 とはいえ、生体組織を更に強く刺激する必要があるときは、この通常、供給してはならないアンチモン作用を、生体組織に供給する必要がある。ここで、到達したアンチモン作用というのは、いま描写したアンチモンの独自性によって、アンチモンを外から用いるか、内から用いるかによって、異なるような作用のことである。 アンチモンを内から用いるとき(内服するとき)は、アンチモンを上部人間の内部にまで獲得(到達)できるように、非常に希釈して用いるように試みなければならない。 アンチモンを上部人間内部にまで獲得すると、アンチモンは、抑制された器官形成や、内的器官プロセスを非常に刺激するように作用する。従って、あるチフス形成においても、ポテンシャル化(希釈)されたアンチモンは、大きな役割を演ずることができる。 この事実に対して、アンチモンをあまり高くないポテンシャルで(あまり希釈せずに)取り入れるとき、軟膏他によって外的に(皮膚表面から)用いるときには、その作用は、内服とは異なって達成される。 勿論、この外用の場合も、状況によっては、アンチモンを非常に希釈して用いる必要のあることが判明することもある。とはいえ本質的には、外からの作用は、一般に低めのポテンシャルで(あまり希釈しないで)用いることで、もたらされる。 このような事実から、同時に実際、いま述べたような規則的な進行、しかし同時に絶え間ないポテンシャルの振動(希釈量)をも示す、このプロセスの進行のなかに、究めて有用な薬が、組み込まれていることがわかるだろう。従って、次のようなことに依拠する必要もある、 「非常に意志の強い人を扱うときは、主として内的(内服)にアンチモンを用い、比較的意志の弱い人を扱うときは、アンチモンを外用する」、ということである。 アンチモンの性質は、このような形によって特殊化できる。この事から、鉱物界内部のアンチモンのなかに、人間の意志と内的な親和性を有する存在があり、これは人間の意志が意識的であるほど、それだけ一層、アンチモンの作用に対する反作用を引き起こす切欠になると、自らで感じている限りにおいて、そういう意志と親和性のある何かが与えられていることがわかるだろう。 人間の意志は、前に描写した、アンチモン独特の反応形成力を、全て破壊するように作用する。 人間における組織化作用全ては、思考力の影響下において(ただし、特に無意識の思考力、例えば子供における、いまだ無意識に作用する思考力も含む)、本質的に、アンチモン力により支えられ、アンチモン力は、この組織化する作用と共作用する。 従って、もし、人間の生体組織のなかに、恣意的な形でアンチモンを与え、アンチモンがまずその独自の特性を通じて強力に作用するなら、人間のなかに強力なファントムを形成する。 すぐに、内部の器官力が刺激され、この人体組織に挿入されたアンチモンと共同して働く為に、もはや(摂取物が)何も残らなくなる。つまり、嘔吐や、下痢は、器官作用が器官へと後戻り(逆流)して、器官の近傍(周辺)に広がっていかない、ということに基づいている。この現象もまた、反作用と共に現われてくる。 アンチモン→嘔吐や下痢 アンチモンの有害な作用を克服する為に、有利に組織化されている(意志が強い)人は、ある人たちが、ある本能から、通常、自らに適用することを好む同じ手段(趣向)で、アンチモンの有害な作用を克服することもできる。 (意志が強い人は、アンチモンの有害(凝固)作用を、ある趣向で、克服することもできる)。 このある人たちというのは、あるもの(食物)を通じて、その人の循環プロセスや、律動プロセスを、調整的に維持することに好感を持つ人たちである。 このような律動プロセスに関して、調停的に作用するのは、コーヒーの嗜好である。 これは事実を述べているだけで、コーヒーの嗜好を推奨しているのではない。というのも、この律動プロセスの調整を、自我自身から取り除いてしまうと、また別の関連から、非常に有害となる可能性もあるからで、ここで、その関連について語るつもりはなく、ただ事実に関して語るだけである。 (コーヒーを飲むことによって、本来の自我の意志調整能力を、逆に損失してしまうこともあるからである。例えば、人間は食物から、自我に必要な栄養を自力で消化して、得るが、はじめから、消化を得ずに、与えてしまうと、今度は、消化の能力が失われてしまうわけである。 この事は、肉食により、コレステロールが蓄積することと原理は同じである。単純にいえば、子供に自力で玩具をつくらせるのと、完成品をはじめから与えてしまうのでは、後者の場合、その子の創造性が失われるわけである。 つまり、何時間も一人で遊べない子供は、将来、大人になると、命令されないと動かない意志の薄弱なロボット人間になってしまうわけである。シュタイナー教育の要点は、簡単にいえば、一人で何時間も遊んでいられる創意工夫の自立した人間を育成することにある。 勿論、その遊びが、周囲に迷惑をかけずに、周囲のためにもなることは言うまでもない。この事をシュタイナーは、真の自由と呼んでいるようである。) コーヒーの嗜好は、律動プロセスを、当人(自身の能力)が調整できるほど充分に魂が強くない場合、ある調整へと導く。従って、アンチモンによる中毒プロセスにおいて、コーヒーは一種の特効薬で、なぜなら、コーヒーは、内部の器官的作用と、外的に(外界で)起こっている現象との間に、リズムを取り戻させるからである。 アンチモンの有害作用⇔コーヒーの律動強化により克服できる この事もまた、ある一定のリズムによって維持される。コーヒーを飲むのは、内部の諸器官と、諸器官の近辺において、摂取された食物と共に生じるプロセスの間に、絶え間ない律動化をもたらすという、そもそもの理由により、あるリズムが維持されるからである。 また、これら全ては、アルブミン化プロセスに着目するように導く。これらのプロセス、すなわち今度は、アンチモンとは逆の、もう一方の側に位置する全プロセスは、諸器官が、自身の内的な組織力を持たず、諸器官の外的な作用によって消化が行なわれるような側を強化する。 つまり腸の運動において、機械的に起こることや、通常、消化において起こる全ては、他ならぬアルブミン化の諸力と親密に相互作用し、同時に蛋白質形成力に向かい、アンチモン化力に対置され、アルブミン化力となる。
2009年07月02日
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水星、金星、月の3つの天体が、中和し合うとき、つまり3つの力全てが、中和し合うように、互いに作用するとき、アンチモン作用と関わりのある相互作用、つまりアンチモンのなかで地球から要求される相互作用が生じる。 地上で、アンチモンとなるプロセス全てのなかでは、これら3つの天体の、つまり地球外のものから地球へと作用する力と同じ力が、地球の方(側)から作用している。 さて、やはり述べておくべき事柄に辿り着いた。つまり、地球の構造においては、アンチモンの場合、1つ1つの塊に関して語るのは正しくない。地球での組織化においては、地球の全ての銀も、全ての金も1つであるように、全てのアンチモンも1つであり、1つ、1つの塊の場合、それほど問題にはならない。 しかし、一塊のアンチモンを、地球から取りだすと、地球に組み込まれている全アンチモン体を掘っていることになる。つまり、アンチモンの一塊はアンチモン体全体の一部となる。このように、いわばアンチモン作用を通じて明らかになることを描写した。 さて、自然においては全ての作用に反作用が相対している。形成された物体は、常に、この作用と反作用の往復運動によって生じる。 さて、今度は、これらの反作用の力を捜す必要がある。この反作用の力を示すには、本来、人間の内部で制御されている作用が、外に向かって突き進む瞬間に、アンチモンの力が、人間に作用するということを認識、或いは洞察できなければならない。 つまり、このアンチモン力は、正しく血液の凝固において作用する力なのである。 この凝固の内部ではアンチモン化の作用が働いている。血液がその持続や、その流れにおいて、凝固の傾向を示す場所では何処でも、アンチモン化の力が存在する。そして、血液が、この凝固力から離れようとする場所では何処でも、(アンチモンに対する)反作用が存在する。 従って、血友病患者と向き合う処では、奇妙にも、反-アンチモン化の力を見つけることになる。この反-アンチモン化の力は、(一種の造語だが、)アルブミン化する力、蛋白質形成する力、とでも名付けたい作用と同一のもので、この反-アルブミン化の力は蛋白質形成を促進するように組織化しながら作用する。というのも、血液が凝固するのを妨げるものは、蛋白質を形成する力だからである。 アンチモン力=凝固力⇔アルブミン力=蛋白質形成力 このように、人間の生体組織におけるアンチモン化とアルブミン化との関係を認識するようになる。このアンチモン化とアルブミン化の交替を研究すれば、罹病のプロセスと治癒のプロセスにおける、根本的な認識が得られる。
2009年07月01日
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