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もしキリストが現代に警告するとしたら、以下のようにいうだろう。 愛を金銭で買い取ろうとする愚かな金持ちたちが再び神の子である人間の心にかえらなければ、父なる神は人類全てを悪魔の手に委ね滅ぼしてしまわれるだろう。 人類が金儲けという悪癖をなくそうとしなければ、人類は互いに憎しみ合って自滅するだろう。 さてさて、私はキリストでもなんでもないので、以上のような無責任なことを書き記すだけだが、現代人は日々の出来事をみて、薄々気づいているはずである。このままでは危ないと。 なんと愚かな政治家たちよ。権力闘争に明け暮れ、我を忘れている。お前たちは地獄に堕ちることに気付いていない。そんなに自己を誇示して何がほしいのか? これほど政治家が愚かな時代はなかったように思われる。 現代人は古代人の遺産を食いつぶしている。食いつぶせば食いつぶすほど唯物論や無神論に染まりバカになる。 この国の政治家は酷いものだが、この国が崩壊すると、連鎖倒産のように、この国の経済に依存していた米国も崩壊するだろう。バカなヒラリーやそれ以上にバカなトランプでは米国は風前の灯である。 いまはこの国の幕末に似ている。もし中国やロシアに西郷さんのような人物がでたら、この国などひとたまりもないだろう。 さてさて、現状を憂いていても仕方がない。 そこで、アーリマンがもたらした唯物論、無神論から脱するために、次世代につながる人智学的医術を再び紹介する。 唯物論のダメなところは霊魂を考えないことにあるが、これまたその対極にあるルシファーがもたらす妄想ともいえるオカルト論も、霊魂を現実的にとらえていない。その典型が巷で話題のホメオパシーである。 多くの俄かオカルト論者が語るホメオパシーは、水により物質を単に希釈するレメディと呼ばれる薬で治療することのように唄っているが、それでは単なるプラセボにすぎず、これは完全な曲解で出鱈目である。第一、古代の「水」とは水銀のことを意味することすらわかっていまい。 人智学を学べばわかるが、ホメオパシーは唯物論ではないから、「希釈」は唯物論の用語なので、希釈では唯物論に染まってしまう。ホメオパシーは唯物論ではない。物質ではないもの、エーテルのことである。 例えば、原子をミクロの世界でみれば、宇宙に散らばる星のようにほとんどが空間であることがわかる。唯物論の素粒子論でも粒子はもはや場=空間に置き換えられることが想定されている。 量子力学の観測論などは、人間の意識が粒子の状態を決めるとまで言っている。つまり、叡智が粒子を生じさせるのである。古代ギリシアのプラトンなどは、叡智をイデアと呼んでいる。 どういうことかというと、全てが叡智でつながっているということである。その総体が愛である。 愛が共鳴し、叡智となり、粒子を生じさせる。それは男女が愛しあい、共鳴し子供ができるのと変わりはない。 ホメオパシーは何かといえば、同化=共鳴なのである。エーテルとは、唯物的にいうなら、空間に伝わる波動で、だが物質ではないので、無なのである。 愛を物質で表わせといわれても、無としかいえない。物証できないからである。 それでも、エーテルを物質で表わすなら、時間や経過、リズム、季節のようなものである。私は、エーテル論から陰陽論が生まれたと思っている。陰陽五行などは、エーテルの人体での5つの流れと相関するからである。 そういうわけで、巷に流れるホメオパシーはほとんどが出鱈目で、漢方や気功、ヨガが、ホメオパシーの名残をとどめているようである。 というわけで人智学的医術を紹介する。 ★ ★ ★ 今回から、出来るだけ沢山のことを片づけようと思う。そもそも、この講義の最初の問題提起において重要なことは主に、人智学から得られる知見、つまり、外界にある物質が、人体のなかで辿る道筋などを詳細に学びとることと、また、取り入れたその物質の反作用を学ぶことにある。 つまり、物質の人体への作用について、完全な洞察が獲得できれば、それに基づいて、症状を診断でき、投薬の指針が得られる。実際に投薬してから、この薬は、この症状に効く、あの薬は、あの症状に効く、といった個別的な処方をみつけるよりも、この洞察から直接診断ができる上でも、遥かに優れる。 さて、今回もまた、非常に親密な関係に到達するために、一見非常にかけ離れたようにみえる関係から出発する。提出してもらったなかから浮かびあがる質問は、ほとんど全員が関心を持つように思われる遺伝に関するものである。 遺伝は、少なくとも比較的健常な人、もしくは病人の診断においても究めて重要な役割を果たす。 さて、遺伝は、実に現代の唯物論的な自然科学においては非常に抽象的な意味でしか研究されていない。実際の生活に役立つ意味では、ほとんど全く研究されていない。 遺伝を真剣に研究すれば、秘教に通じない人には特に究めて難解で、秘教に通じた人にとっては、一目瞭然の法則性をもち、宇宙との関連について人間が知るべき重要な全てが、外界のどこかに、目に見えるような形で顕現している現実が察せられる。 遺伝は、外的な顕現を通して、ある形で、隠されてはいるが、人間に対して非常に有用な力が、自然の中に存在している事実を常に示している。遺伝を研究するなら、特に、自然のなかに隠されている力を究明しなければならない。 というのも、この自然のなかに隠された力の究明なしには、遺伝として外に顕現する宇宙との関係全てに幻影をまとわさせ、本質を絶え間なく損なうため、正しい診断が不可能となるからである。遺伝に関しては、たとえ個別的な判断が一旦は下せても、また別の個別的な現象にはあてはまらないからである。 遺伝が難解なのは、究めて甚だしく幻影に覆われていることに由来するが、遺伝には非常に規則的だが、調整し難い形で、男性的な陽性と女性的な陰性が参画している。 陰陽の参画は規則的だが、この規則性と同等に明瞭な調整が常に可能というわけではない。つまり遺伝現象は、規則性に則ったものだが、その調整は困難なのである。 天秤の棹を水平に保てるのは、宇宙の規則性に基づくが、そこから、新たな規則性を求めるために、左右に錘を乗せていくと、微妙に、一方か、他方に傾くために、この厳密な規則性の調整が困難なのと同じである。この性質は、遺伝現象にも概ねあてはまる。 遺伝現象は、天秤の棹を水平にするような規則性を持っているが、この規則性は同時に、非常に可変性をもちながら現れ、上記に述べたように、男性的な陽と女性的な陰が参画し、しかも、陽は地上に力をもたらし、陰は、地球の外の宇宙からくる力をもたらすような方向で参画する。 地球は絶えず男性の陽性を要求し、その地上の力を通じて、男性の陽性を組織化する。実際、地球は、男性という性の発生の原因でもある。女性の陰性を絶えず要求するのは、地球外の天である。天は絶えず女性という性の形成を引き起こしている。 天は、人体内の組織化全般において、圧倒的な影響を及ぼしている。この天の圧倒的な影響は、以前述べた事実を改めて指し示す。そして、天の圧倒的な陰の力により、以下のようなことが生じる。 受胎を通じて、女性的な本性が発生すると、この女性的な陰の本性は、次第に益々地球外的な進行へと、自らを組み込んでいく傾向へと向かう。この本性を基に天を受容する傾向になっていく。逆に、男性的な陽の本性が発生すると、次第に益々地球が要求する傾向を帯びてくる。 すなわち、天と地が人間に実際、共作用している。 (御釈迦さんの天上天下唯我独尊。遺伝は、男性の陽と女性の陰の均衡により成立する。端的にいえば、男性は筋骨隆々の地の力、女性は丸みを帯びた豊満な天の力といえる。) いま言及している規則性は、例えば、女性には天が作用し、男性には地が作用する、という意味ではなく、天と地の両方が男女の両方に作用し、女性の場合には、天秤の棹が、天に傾くことで釣り合い、男性の場合には、天秤の棹が、地上に傾くことで釣り合う、という意味である。 遺伝は、厳密な規則性をもつが、非常に可変的でもある。しかし、このような性質から、ある帰結が生じる。女性が、人体のなかに含み持つ陰性の力により、地上の陽性の力は、女性のなかで絶えず克服されるが、地上の力が克服されるのは、女性固有の人体(母体)に限られ、胎児や、精子のなかでは克服されない、というような奇妙な現象が起こる。 つまり、女性の場合、天と地との闘いは、精子の形成等に関する生殖以外の組織化に限られるため、女性は先天的に備わる遺伝力から、精子に関わる生殖の際に生じる組織化を被ることなく、絶えず免れている。 精子に関わる生殖の周囲で、陽性を、陰性に転じることで、女性は、陽性を被ることを免れ続け、陽性の生殖力、つまり遺伝の傾向は、男性を通じて生じる。女性自身は、この陽性の遺伝の傾向を免れるが、その代わり、女性は、卵の形成力のなかに強い遺伝の傾向をもつ。 さて、では人間社会においては、遺伝に伴う破壊力には、どのように対抗できるのか、というような疑問が生じる。 遺伝力は、いわゆる霊、もしくは物質を、前にしても、躊躇することはなく、厳密に適応される。この事実は、いわゆる精神病が支配する家系のなかに形質の伝播として示され、端的に、糖尿病に罹患し易い傾向をもつ現象として現われる。 だから、この遺伝に伴う破壊的な作用から、どのように免れるか、というのは途方もなく重要な問いとなる。この問いに対する回答は、何はさておき、婦人の健康をできるだけ維持するように配慮する以外に方策はない。 というのも、婦人の健康を維持すれば、女性を通じて、地上の陽の遺伝力に伴う破壊力に、地球の外の影響が引き入れられ、この有害な遺伝を、胎児にもたらすような作用を、女性の人体(母体)から継続的に制圧することが可能となるからである。 つまり、女性の健康によく注意が払われている社会では、遺伝に関して、地の力から発する破壊的な影響に対して、闘いがなされている。というのも、社会には、地球の外から作用し、地の力を調停する力の、いわば蓄電池が、女性の人体(母体)のなかにしかなく、そのような天の力の効果に訴えかけるしかないので、女性の健康は、社会にとって、最大限配慮すべき重大事である。 この遺伝力は、地上の力にも、地球の外の力にも当てはまり、普遍的な法則である。 これは、血友病や生殖に関わる病を扱う場合、顕著に明らかになる。遺伝現象については、一般的に色々と述べるのではなく、具体的に手にとれるように示しながら研究すべき、という指摘を受けるだろう。 この指摘に対しては、血友病患者における遺伝現象を研究すればよい。血友病を研究すれば、究めて奇妙な現象が見つかるが、これは、たった今説明した遺伝の、外的な顕現による現象である。 血友病の研究から見つかる奇妙な現象とは、次のような事実である。 血友病が遺伝されて生じるのは、家系の血のなかでは男性だけで、ただ、血友病を遺伝させるのは女性を通じてであり、女性、つまり血友病患者の娘は、彼女自身が血友病でなくても、血友病の家系の一員なので、彼女の男の子孫に血友病を遺伝させる傾向をもつ。 (このため、男系継承が推奨される。もし女系継承にすると女帝が血友病でなくても、その男子が血友病になる恐れが生じる。そうすると血が絶える。この血とは霊能力の同族婚継承の意味である。) 血友病 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E5%8F%8B%E7%97%85 女性とは異なり、対照的に、男は血友病患者となる。しかし、血友病の家系の一員でないことが証明できる女性と結婚すれば、血友病は遺伝されない。 このような血友病の遺伝現象を分析すれば、今述べた事実が明白に外的に生じる現象が得られるはずである。少し前(1920年の少し前)のヴァイスマンの試みよりも、遥かに明確に、遺伝に関する本質的な進行が示せる。 アウグスト・ヴァイスマン[August Weismann](1834-1914) 最初は医師、1866年から1912年までブライスガウのフライブルク大学で動物学教授、獲得形質の非遺伝性を仮定した。「遺伝理論の基礎としての生殖質の連続」(イェナ、1885)、「生殖質」(イェナ、1892)、及び、その後の論文参照。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3 女性を通じて男性に遺伝する事実などは、人体の診断にとって最重要とみなすべきであり、人体に影響を及ぼす遺伝的法則に従って診断しなければならない。 では、そもそも一体、血友病は何に起因しているのか? 結局、血友病が何に因るかは、表面的に観察しても示せる。血液の凝固力がないために、通常は傷口で、血液の凝固が生じるが、血友病患者の場合、凝固に至らず、単なる鼻血や、歯の手術による出血など、僅かな開口部であっても出血多量で、死に至ることもある。 もともと、血友病は、血液の凝固力の不足に因る。とすると、血液のなかに、凝固力に対抗する何かがあり、その何かが強く作用しすぎるので、通常なら、血液を凝固させる外からの力によっても止められなくなっていることがわかる。 血液の凝固は、外からの力が関わっている。血液のなかに、この外からの力を抑えつけてしまう何かがあると、血液のなかに、過度の液体化の傾向が現れてくる。 人智学の知見から、この血液の液体化への強力な傾向は、人間の自我と関わっていることが容易にわかるが、それは、自我のなかから外に働く表面的な認識力に関わるのではなく、自我の根底で働く意志力と関わっている。 つまり、人間のなかの意志の強弱と、血液を過度に液体化する組織化とが関係している。 歴史的な事件に対して、正しい解釈を用いれば、ある自然の秘密へと辿り着く事実を見事に示す事件を挙げることができる。それは歴史的に名高いエンガディン地方(スイスの一地方)の乙女たちの事件である。 エンガディン地方 http://www.myswiss.jp/jp.cfm/area/offer-Destinations-01Graubuenden-318719.html (エンガディン地方では、シュタイナーのいうような話はないようである。エルンスト・ツァーンの長編小説「タノの女たち」 に似たような話があるらしい。) エンガディンの2人の乙女は、医学が必要とする人間認識に対して、徹底的な啓蒙として影響を与える歴史的事件を作り出した。このエンガディンの乙女たちは、血友病の家系出身で、結婚しないことを固く決意したため、血友病の遺伝を個人的に撲滅した人たちとして歴史に登場する。 (この点から考えると、王家継承は、男系継承が相応しい。古代イスラエル王国継承の意味では、Y染色体にあるD系統YAP型は、古代イスラエル王国と、日本をつなぐ上で、研究上究めて重要である。) さて、このような歴史的な出来事の場合、正しい解釈に目を向けなくてはならない。上記のような乙女のように、生殖への衝動から身を切り離すことは、血友病の家系から出た娘全ての特質ではない。アストラル体には作用せず、自我のなかだけに作用する、強い主観的な意志の養成も、意志の働きである。 つまり、彼女たちには、この強い主観的な意志があった。すなわち、彼女たちの自我のなかの意志は、血友病患者において効力を発揮する過度な力と、ある形で関係している。 この意志は、血友病でない人の場合よりも容易に意識的に強められる。この意志を、正しい解釈で認識すれば、血液に特有の、ある本質的な力との関係を発見し、外界の力との相互作用も認識できるようになる。 意識的な意志と関係する、血液中の力へと目を向けることで、人間の意志と人間の外にある力との関係が、総じて、どのようなものなのか、を洞察できるようになる。 さて、その回答は次のような事実にある。 人間の外にある力が、人間の意志による力と霊(内)的な親和性を持つのは、宇宙の進化が経過するにつれ、人間が意識的に育成してきた意志力が、最終的に自然界のなかに分離された、という事実が背景にある。 意志の力は、最終的に自然界のなかに分離され、外にある力となった。 だから、人間の進化過程における分離により、外の自然のなかにある意志の力を、その特性を通じて、人間の進化過程と、いかに関係を再び持ち得るかを、研究により示すことが重要となる。 このような関係は、長い間、自然のなかに研究されてきたが、それを洞察することは極めて困難である。なぜなら、17、18世紀までの先祖伝来の(伝統)医療が、なおも保持していた自然治癒力を、今日の主知主義的な人間のなかで、再現することは困難だからである。 当時研究されていた内容は、アンチモンとの関係だった。 アンチモン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A2%E3%83%B3 アンチモンは奇妙な物質である。バシリウス・ヴァレンティヌスのような伝説的な人物が、熱心にアンチモンを研究したのも、アンチモンが特別な物質だからだった。 バシリウス・ヴァレンティヌス Basilius Valentinus;14世紀と15世紀の変わり目頃生きた。著作:「アンチモンの凱旋車」、「太古の偉大なる賢者の石」、「化学の黙示」。 十二の鍵 http://macrocosm4alchemy.web.fc2.com/translation/Twelve_Keys.html アンチモンの性質に着目すれば、アンチモンが独特な形で、自然の経過全体に関与している様が認識できる。アンチモンは独特の形で自然の経過全体に関与している。 アンチモンは、第一に、非常にありふれた性質だが、他の金属や物質と緊密な親和性をもち、他の物質とともに、特に硫黄と結合して現われることが多い(輝安鉱)。実際、硫黄は、自然のなかでは、アンチモンと同じような特殊な性質を持つが、この硫黄の性質は、既に、おおまかに述べた。 アンチモンが硫黄を通じて、他の物質と結合する傾向は、アンチモンが自然の経過のなかに関与している様を示している。けれども、アンチモンの別の特性は、更に、その性質をより強調している。 つまり、アンチモンは、束(房)状の結晶として、可能な限り現われ、なるべく大地を離れ、線(束)状になることを目指して進む性質をもつ。アンチモンが線(束)状に積み上がっていく性質に、地球の外から、地上へとやってくる結晶化の力を、外(物質)的に見ることができる。 通常は、もっと大きな規則性をもって現われる結晶化の力が、アンチモンでは、槍(線)状や束(房)状の形に集約して現れる。この形は、自然の経過全体に、アンチモンが関与している様を露出している。 同様に、アンチモンの溶解過程で生じる形も、結晶化の力をよく露出している。溶解過程を通じて、アンチモンは細かい繊維状の形で得られる。 アンチモンのまた別の性質は、酸化、燃焼すると、ある独特な形になることにある。酸化、燃焼するときに生じる白い煙は、冷たい物質と、ある独特な親和性を示すが、この白い煙が、冷たい物質に付着して名高いアンチモン華を産出する。 アンチモン華もまた、アンチモンの別の物質への依存により、結晶化の力を放出する。 (アンチモンの結晶:アンチモンの主要鉱石は輝安鉱。アンチモンは硫黄と結合して現われることが多いと述べられているように、輝安鉱の成分はアンチモン(Sb)71.4%と硫黄(S)28.6%から成る。輝安鉱の結晶は長柱状、針状をなし、繊維状、毛状になることもある。 輝安鉱を木炭上で熱すると、容易に溶融して液状になり、そのまわりに三酸化アンチモンの白色の蒸皮を生ずる。また開管中で熱すると、管の底部に不輝発性の白色昇華物を残し、上部には白色輝発性の昇華物が輪状につく。 原鉱石の溶融によって得られる硫化アンチモニーはそのままでもマッチ、花火などに用いられる。) http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/gallery9/643valentinite.html けれども、最も奇妙な性質は、これまで述べてきた地上の力のなかの、いわば電磁力に対して、アンチモンが持つ独特の抵抗力である。アンチモンを、電気分解で、陰極に運ぶ形で処理し、陰極の沈殿物に、金属の先端で触れる(電気を流す)と、小さな爆発を引き起こす。具体的手順は、以下のスチビンの解説を参照のこと。 スチビン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%93%E3%83%B3 (アンチモンを、電気分解云々は、上のサイトの、「陰極材料にアンチモンが添加された鉛蓄電池は、充電時に微量のスチビンを発生する」に関係するように思われる。 また、スチビンは、「人体に対しては少量でも溶血作用を示し、肝臓・腎臓毒でありなおかつ神経毒、呼吸器毒である。」というのは、血友病にも似ている。) 電磁力に対する、このアンチモンの抵抗は、それを媒介する物質さえ得られれば、アンチモンの特徴的な性質を示すものとなる。物質が、自然の経過全体のなかに置かれる様を、実際に、アンチモンを通じて見ることができる。他の物質は、アンチモンほどの電気への抵抗を示さないとさえいえる。 さて、自然自らが、明白な形で示す様々な力を理解するには、自然の力が様々な場所で作用している事実を出発点とする場合に限られる。ただ、自然のなかの力を、物質が特別に示すときは、その物質のなかに、自然の力が、特に集中し、限局している。 アンチモンの性質として現れる自然の力は、本質的には、様々な場に存在する。それは、いわば、「アンチモン化」というような表現を用いたほうがよいかもしれない。このアンチモン化の力は、人間のなかでも調整(ホメオパシー)的に作用し、人間は、このアンチモン化の力を、正常な状態では、地球の外から引き入れる。 いわば、人間は、地球の外から、アンチモンを集め、作り出して、引き入れる。正常な状態では、人間は、地上のなかのアンチモン化の力や、アンチモンのなかに集積している自然の力に頼ることはなく、地球の外の力から獲得する。 そこで、次のような疑問が生じるのは当然だろう。 一体全体、地球の外の、このアンチモン化の力とは何なのか? それは、惑星で言えば、水星と金星と月の共同作用なのである。この3つの惑星が、別々に作用せず、一緒に作用する共同作用で、いわゆる錬金術でいう、水銀、銀、銅が、個々に作用せず、共同で作用すると、アンチモンが地球に作用するような作用となる。 月や水星や金星の3つの力が、単純な座相ではなく、衝や矩といった然るべき座相をとることで、互いの個性が中和されるような地球の位置に住む人間への作用を探究することで、この共同作用を調べることができる。 衝、矩 衝は惑星どうしが180度の角度で向き合う位置関係、矩は互いに90度(四分円)の角度になる位置関係。 3つの惑星の力が中和し合う共同作用は、アンチモンの作用と関係し、地球に集約された相互作用がアンチモンのなかで起こる。地上のアンチモンのなかでは、地球の外の3つの天体から、地球へと作用する力と同じ力が作用している。 さて、やはり述べておくべき真相へと辿り着いた。地球の構造においては、アンチモンの場合、その塊の1つ1つを取り出してきて、語るだけではすまない。地球の組織化においては、銀も、金も全体で1つであるように、アンチモンも全体で1つなのである。 (地球の構造、つまり金属の生成は、地球以外の他の惑星の星位による。だから、金属の生成を変えることは、地球の構造と星位を変えること、つまり地球の軌道を変えることになる。) 個々の塊は、それほど問題ではない。一塊のアンチモンを、地球から取り出せば、地球に組み込まれている全アンチモンを掘ることになる。つまり、一塊のアンチモンは、アンチモン全体の一部なのである。 以上、アンチモンの作用を通じて、明らかになる事実全てを述べた。さて、自然においては、全ての作用に反作用が相対している。物質は常に、他ならぬ、この作用と反作用の往復(均衡)運動によって生じる。 では、今度は、アンチモンの力に反作用する力を探す必要がある。この反作用の力をみつけるには、本来は人体内で制御されているアンチモンの力が、外に向かって突き進む瞬間に、(反)作用する力を認識でき、洞察できなければならない。 このアンチモンの力は、血液の凝固に作用する。この凝固の内部に、アンチモン化の力が働いている。血液が、継続的に流れる場において、凝固の傾向を示す場合は常に、アンチモン化の力が存在する。逆に、血液が凝固から逃れようとする場には常に、反作用が存在する。 従って、血友病患者と向き合うと、奇妙なことに、反-アンチモン化の力が見つかる。この反-アンチモン化の力は、アルブミン化の力、もしくは蛋白質形成の力とでも名づけたい力で、このアルブミン化の力は、蛋白質形成を促進しながら組織化を進める作用である。 なぜなら、血液の凝固を妨げる作用は、蛋白質形成力だからである。 スチビン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%93%E3%83%B3 (スチビンの溶血作用と似ている。ヘパリンにも似ている。) ヘパリン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%91%E3%83%AA%E3%83%B3 このようなわけで、人体でのアンチモン化とアルブミン化の相対関係が認識できるようになる。このアンチモン化とアルブミン化の交替などを研究すれば、罹病と治癒の経過の根底にある基本的な認識が獲得できる。 では、一体、アルブミン化とは何なのか? その過程を通じて、自然のなかの可塑性や増殖性をもつ物質が、人間や動物の肉体造化のために組み入れられる。 対照的に、アンチモン化の力は、外から作用する、いわば造形芸術家で、器官に形態(フォルム)を与える力である。このように、アンチモン化の力は、人体の諸器官の、内からの造化力(アルブミン化の力)に対して、相対的な関係をもつ。 (内からの造化力=アルブミン化、外からの形態力=アンチモン化。血友病は、アルブミン化が過度で、アンチモン化に乏しい症状といえる。人間は、進化過程で、意志を分離し、外界にアンチモンを残した。) だから、人体の器官において、この両方の過程を区別して欲しい。この区別は重要である。 例えば、食道の場合、人体内にあるので、食道でどんな経過が起こっているか、食道に沿って粥状になった食物がどのように通過していくか、などに注意を払えば、食道の構造を追求できる。 食道が、人体内に摂取された食物などと相互作用することから、食道の構造がわかる。つまり器官内の経過と、外から与えられた食物とが、共に働くとき、器官に生じる過程を抽象的に、器官内からの経過と、外から与えられた経過の2つの異なった経過に区別できる。 食道に外から経過を与えるのは、人間の飲食行為などを介しての、アンチモン化の力による。器官に外から与えられる全ての経過を、人体から除外して考えれば、人間の行為は本質的には、いわば造形芸術家で、アンチモンといえる。人間はアンチモンなのである。 (人間の行為が、人間自身を形作る。今生において手足をよく動かした人は、来世において、よく頭が働くと、シュタイナーは述べている。) 重要なことは、日常生活の経過のなかで、器官内からくる造化力に、このアンチモンからくる形態力の負荷をかけすぎてはいけない、ということである。 (食道については食べ過ぎてはいけないということ。) 日常生活の経過のなかで、このアンチモンによる形態力を過度に供給してはいけない。供給してしまうと、人体を毒し、過度に刺激することになる。とはいえ、人体を強く刺激する必要があるときは、アンチモンの供給も考えないといけない。 アンチモンの作用は、その特性により、外から用いるか、内から用いるかによって、異なる作用を及ぼす。アンチモンを内服する場合には、人体上部にまで浸透するように、人体内で十分に同化(ホメオパシー)させ、エーテル(免疫)化して用いる必要がある。 アンチモンの作用が、上部内にまで浸透すると、障害を起こしている器官や造化過程を刺激する。従って、あるチフスの症状に対して、アンチモンを、人体内で同化(無毒化)するように内服して用いれば、大きな治癒を与えることができる。 チフス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%95%E3%82%B9 対照的に、アンチモンを、あまり溶解させずに、物質的に軟膏などとして、外から用いるときには、内服とは異なった治癒が得られる。とはいえ、基本的には、外から用いる場合は、物質として、エーテル化させずに用いる。 アンチモンの利用から、これまで述べてきた陰陽の対極的な現象を示すことができる、実際に、非常に有用な薬を、人体内で継続的に、規則的な進行のなかに組み込めることがわかる。従って、次のような結論に至る。 「意志の強い人には、主として、アンチモンを内服させ、意志の弱い人には、アンチモンを外用する。」 アンチモンのような薬は、内外の処方の違いによって、特殊化せざるを得ない。また、上記の事実から、鉱物界のなかのアンチモンは、人間の意志が、自ら感じとる限りにおいて、意識的であればあるほど一層、アンチモンの作用に対する反作用を引き起こすような内的な親和性をもっていることがわかる。 人間の意志は、以前描写したアンチモンの独特な形態力を、全て破壊するように作用する。 一方で、人間の造化力全ては、ある思考力の影響の下、特に無意識の思考力、例えば子どもがもつ無意識な思考力の影響の下では、本質的に、アンチモンの力により均衡が図られる。アンチモンの力は、器官造化力と共作用する。 従って、もし人体のなかに、恣意的な形で、アンチモンを与え、アンチモンの独自の特性を通じて強力に人体に作用させるなら、強力なファントム(幽体)を形成する。人体内の器官の形成力が即座に刺激され、人体に与えられたアンチモンの作用と共同して働くために、空回りをはじめ、嘔吐、下痢などが生じる。 嘔吐、下痢は、器官内からの造化力が、器官内に後退し、器官の周辺に広がらないことから起こる。これらの症状は、アンチモンへの反作用とともに出現する。 アンチモンの投与により、器官形成を刺激できるが、その刺激に強い体質をもつなら、通常の食事などの摂取から、特定の体質を促進するのと同じように、アンチモンの有害な作用も克服できる。アンチモンの刺激に強い人とは、新陳代謝や呼吸や鼓動の律動制御を調和的に維持できる人のことである。 コーヒーを嗜好する人は、コーヒーにより律動制御を調停的に促進する。いまは単に事実を述べるだけで、コーヒーを推奨するつもりはない。というのも、律動の調整を、自身でなく、コーヒーなどに依存すれば、別の面から有害だからである。 律動の調整が不得手なくらい魂の能力が未熟な場合、コーヒーの嗜好はその調整へと導く。従って、アンチモンによる中毒には、コーヒーは一種の特効薬となる。なぜなら、コーヒーは人体内の器官からの造化力と、外から生じる形態力との間に、律動(リズム)を回復させる働きをもつからである。 (コーヒーが、器官の過度な造化力=腫瘍化に予防となることがわかる。) 人体内は、ある一定の律動(リズム)により維持されている。コーヒーを嗜好するのはそもそも、人体内の器官の造化力と、摂取された食物などによる外から器官に与えられる形態力との間に、継続的な律動(リズム)をもたらすためである。 器官の形成に対する律動制御は、再度、アルブミン化への注目へと導く。器官形成の対極は、器官自身がもつ造化力ではなく、外から与えられる形態力により促進される。 つまり、腸の運動のような機械的運動や、通常の消化活動全般は、他ならぬ蛋白質形成力でもあるアルブミン化の力が親密に関与し、同時に、アンチモン化の力と対置される。 さて、既に指摘したことだが、再度指摘しておく。殻を形成する牡蠣などは、アルブミン化の力が外に現れた典型で、かつ特別な存在でもある。同じ過程が、小規模だが、卵の殻の形成、いわゆる石灰の分泌などの場合にも見られる。 牡蠣の殻や、卵の殻がつくられる要因は一体何なのか? 殻とは、卵の本体や牡蠣が自身から解放し、放出すべき産物で、もし、卵の本体や牡蠣が殻の成分を保持したままでいたら、死んでしまう。つまり、殻の形成は、単純にいえば、生命の維持活動に基づいている。 従って、牡蠣を食べれば、牡蠣と一緒に、今日の科学でいうなら、若干の文学的な表現が必要となるが、殻として、外に現われてくる元の生命活動を食べることになる。つまり、牡蠣とともに、その生命活動を一緒に食べることになる。 つまりアンチモン化に対置される、アルブミン化を一緒に食べていることになる。だから、牡蠣を食べすぎると、人体のなかで、チフス様の症状に通じる活動が促進される。牡蠣を食することで、究めて興味深い生命活動が獲得できる。 牡蠣を食べれば、下腹部の活動力、つまり、それに関与するアルブミン化を促進する。ところが、下腹部の活動により、同時にそれと対極にある力が、頭から解放され、人体下部へと放出される。すると、牡蠣を食べることで、頭のなかで働いていた元々の活動力が解き放たれ、自我の負担が軽くなるように感じる。 牡蠣を食べると、頭が軽くなる。人間は、このアルブミン化の力を、絶えず発達させる必要がある。なぜなら、アンチモンの外からの形態力の負担を、頭にかけることができないからである。ところが、牡蠣を食べすぎると、あらゆる情熱の虜になり、頭が空っぽになる。 従って、牡蠣を食べ過ぎると、以前、特徴を述べた人体上部の力が放出され、下腹部への突破の可能性を大きくし、いわゆるチフスへの傾向を促進する。だから、このチフスの傾向を認めたら、上部の力の、下腹部への突破を抑制するために、アンチモンでの治療を考えることができる。 従って、アンチモンの内服と外用との同時的な処置を遂行することで、例えば、アンチモンを、人体内で同化させ、上部に浸透するように内服するか、また同時に、アンチモンの軟膏を外から擦り込むことで、チフスへの傾向の克服に到達できたら、良い治療法が得られる。 また、アンチモンの投与量と投与法の調整により、逆にアルブミンの作用も高めることもできる。なぜなら、アンチモンもアルブミンも、チフスの傾向に対して相互に(陰陽として)調整しあうからである。 これまでの内容から、全宇宙の環境のなかに、人間がどのように継続的に存立しているかが、わかるだろう。人間が、自然のなかに存立する意味を見つけるには、自然のなかの地の力に対して、植物のような生命体となり、直接抵抗する力と、人間を存立させている構造との関係を調べてみればよい。 植物は、地の力に対して直接抵抗している。植物は、花や種子を生むために、地の力に対して抵抗することで、地球外からの形態力を確保する。人間にとって食用となる植物の基礎をなす形態力は、特定の地の力に抵抗することに基づいている。 植物は、地の力への抵抗に続き、その代償として、地球外(天体)の力に曝されることで、最終的に、種子や果実をつくる。次いで植物は、そのまま進化すると、植物界の上方にいる高次の存在たちが世界を見渡すように、世界を見渡したい、と思うような境地に達する。 つまり、植物は、知覚を求める。ただし植物は、知覚器官を持たないので、植物のままで、人間の眼のような構造を発達させようとするが、植物は眼を発達させることはできない。植物は、人間、もしくは動物のようなアストラル体をもたずに、エーテル体しかないからである。 上述した植物などは、例えば、ベラドンナ[Tollkirsche]、アトロパ・ベラドンナ[Atropa Belladonna]のような植物になる。このような植物が、ベラドンナになっていくときに生じる進化過程を、以前、わかりやすく描写した。 ベラドンナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%8A このような植物はベラドンナになることで、最終的に、根のなかに、黒い液果として実を結ぶように導く力が存在するようになり、この植物は、人体の次のような作用と親和性をもつようになる。 「本来は、感覚(アストラル)領域で働く力が、物質的な領域で働くようになり、つまり感覚(アストラル)の領域から、肉体の領域に、意識を浸透させるような」作用と親和性をもつようになる。 ベラドンナを人体内で同(エーテル)化するように服用する場合に生じる作用は、非常に興味深く、寝起き時の夢見の感覚に非常によく似ている。夢見からの目覚めは、ベラドンナの作用が、抑制され、中和された形で起こる。 寝起き時は、まだあまり外界への知覚が行われず、夢を伴う内的な意識に感覚を浸透させる性質は、このようなベラドンナの一種の作用である。 従って、ベラドンナによる中毒というのは、寝起きの際の夢にまだ浸透されているときと同じで、ベラドンナの毒により引き起こされ、その夢見が継続し、外界に、知覚が向かうことなく、外界を受け取ることなく、夢見のその過渡的現象が持続することに基づく。 中毒を引き起こすような作用でも、それが適切な形で抑制され、人体のなかで中和された状態で引き起こされるなら、人体の一部の働きの、夢見からの目覚め、となることがわかるのは非常に興味深い。 上述したように、植物のベラドンナ化は、植物の人間化への気違いじみた努力ともいえる。だから、人間は、寝起きの際に、自らのなかのベラドンナ化の性質を発揮するが、ただし、これは和らげられた、節度あるベラドンナ化であり、寝起きの夢見の瞬間だけに限定されている。 従って、人体内で過度に強く作用するアルブミン化の負担を解消するには、物質的作用を、精神的な作用に導くように、人体内で、上部へと浸透するようにベラドンナを同化するように与えればよい。 ベラドンナを服用することで、人体から物質的な負荷を除き、魂を優位にさせることができる。 このようなベラドンナの働きは、過度に与えると、確かに混乱を生み、幻影に満ちさせるが、適度に中和し、同化させるなら、通常の寝起き前の夢見のときのベラドンナの作用を克服できる。 しかし、ベラドンナを過度に与えてしまうと、眠ったまま、覚醒状態へと移らずに、その人は死んでしまう。 だから、人間は寝起き時に、常に生命の危険に曝されている。ただ、この生命の危険を克服するように、ベラドンナの夢見の状態が継続しないように、抑制し、中和し、素早く起きているだけなのである。 このように、夢見が適度に、瞬時に起これば正常に、限界を超えれば異常となる、というような興味深い関係がある。 この興味深い関係から生じる、寝起き前の夢見の状態は、古代の医師たちは、繰り返し追求しようと試みていた生命活動である。 だから、古代の医師たちが、ホムンクルスの製造法について語る際、霊的に言って、まだいくらか残っていた霊視力で、アンチモンからつくられる物質化の形態であるファントム(幽体)を分析していた、ということなのである。 ホムンクルス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9 古代の医師たちが、実験室で行っていた研究とは、人体内のアルブミンの造化力に対して、アンチモンを投与することで、展開される、その形態力との均衡において、このアンチモンの力が抑制され、アンチモンの力とアルブミンの力が1つとなって現われた状態を作り出すことにあった。 人体内に潜在する日常のアルブミンの造化力に応じて、アンチモンを投与することで、様々な形態(フォルム)をとっていく間に、アルブミンの力との均衡の基に現われてくるホムンクルス(ホメオステーシス=人体恒常性=自然治癒力)を古代の医師たちは見ていたのである。 この均衡が起こる状態において出現する生命維持活動を、彼らはホムンクルスと呼んだのである。 ★ ★ ★ まだまだ要約が未熟だが、現時点では以上である。要するにホムンクルスとは人体の恒常性のことである。
2016年09月28日
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久しぶりにブログを書く。あまりにこの国の酷い惨状をみていて、書く気も失せてしまっていた。この国の精神はもう滅んでいるからで、拝金主義や唯物論が蔓延り、それを恥とも思わない。 富山の嘘つき地獄行き代議士などはこの国の住人の汚さ卑劣さを顕わにしてくれた。国民を指導すべき代議士が、自分を選ぶのは国民のせいと無責任なことをいうのだから、この国の正常な感覚は滅んでいる。 一体何のための代議士なのか、何のための指導者なのか? この国が亡ぶのはほぼ確信にかわりつつあり、江戸幕府が滅んだときのように、上手く負ける将軍が必要で、そのような人物がでてこなければ、完全に滅んでしまうものと思われる。 江戸幕府では慶喜ー勝海舟がその役を担った。いまのところ、この国にその大任を果たすような人物は見当たらない。 無責任主義が蔓延るなかで責任をとれる人物は貴重である。江戸幕府には海舟、鉄舟、泥舟の三舟ありといわれたが、現代は一人もいないことは、都庁の無責任な豊洲移転の件であきらかである。 責任をとるべきモノが責任を放棄するのはもはや国家の呈をなしていないことを意味する。 この国について書くのはバカらしいが、昨今の日本ブームは日本が滅ぶので、その文化の継承を外国人が代わりに担っているとしか思えない。 さて、この国は亡ぶが、なぜそれが必然かといえば、人類が金儲けをやめない限り滅ぶ、ということを知らせるためである。 この国以上に国家総ぐるみで金儲けに邁進し明け暮れた国はない。その証拠が、莫大な金持ち国家といわれながら、その国民は1000兆円もの政府の借金のために人生全てを捧げるようなシステムが嘘つき詐欺官僚を中心に出来上がっていることにある。 金儲けに幸福はないことは、キリストが金持ちが天国に行くのは縄を針の穴に通すよりも難しい、といったことで明らかである。 キリストの教えを守るのなら、金持ちは天国にはいけないのである。 しかしキリストの教えを守らない金持ちがいるのは、無神論か唯物論に染まっている証である。 はっきりといおう。みずがめ座の時代とは、唯物論から脱することなのである。 その兆候は至る所に現れつつある。悪いことをすれば地獄に堕ちるのである。 手前味噌で悪いが、私はこれまで物理学を学んできたが、物理では生命、生物は解き明かせないことがはっきりとわかりつつある。というのは、物理は唯物論を根底としているからで、かのニュートンでさえ、ニュートン力学は、彼の思想の一部でしかない。 ニュートンははっきりと霊界を認めていたふしがみられる。 ソクラテスは死んだ知をいくら集めても生きた知、つまり経験を基にした思考力(霊能力)には到達できないことを、無知の知として唱えた。 人類の経験全ては神の元に生きた知の思考力として統合される。 思考力こそ神の御業で、生きた知なのである。経験こそ全てである。 かつて地獄の話をしたが、神は地獄をも知っている存在で、地獄をつくったのも、地獄から天国に這い上がるためだからこそである。 たわいもない雑談はやめにして、唯物論から抜け出すのに良い本をみつけたので、最後に紹介して、たわいのない久しぶりの書き込みを終える。 検査なしで自分の病気を推理する方法 藤原崇志著 ★ ★ ★ 内容紹介 めまい、頭痛、胸痛、腹痛…… 気になるその症状、あわてて病院に行かなくても、ここまでわかる! このところ気になるめまい、頭痛、胸痛、腹痛…… そんなとき、「病院で検査さえ受ければ安心」「検査を受ければ、病気かどうかわかる」と思っていませんか? 実は、8割近くの病気は検査をする前にわかります。 ともすれば、検査結果は「100%正しい」と思われがちですが、実は非常に曖昧なものです。 「検査結果が正常なのに病気だった」ということはよく起こりますし、逆もまた然りなのです。 受けなくてもいい検査を、受ける必要はないのです! 本書は、検査は完全なものではなく曖昧なものだということを知っていただき、検査結果に振り回されずうまくつきあう方法を、現役医師が書いたものです。 第1部では、よくあるめまい、胸痛、頭痛、腹痛のそれぞれの症状について、 病院に行かなくても「自分診療」ができるポイントを、フローチャートを交えながら解説します。 第2部では、検査の限界、本来の目的を提示することで、検査に対する過剰な信頼を解消し、 検査と正しくつきあうためのヒントを提示します。 些細な症状を気に病んで病院に行く前に、ぜひ一度お読みいただくことをおすすめします! 倉敷中央病院救命救急センター長・福岡敏雄さん推薦! 医療の現場では、検査をしないで診断をしてしまったほうが、よっぽど正しい判断になることがあります。 むしろ、検査結果が診断を混乱させることもあるのです。 また、無理に診断をつけないで経過を見ることが、最も安全で有益なことも少なくありません。 本書を読むことで、こうしたことを知っていただき、 無意味な検査や曖昧な診断に翻弄される人が、少しでも減ってほしいというのが私の願いです。 検査や診断と、ちょっと賢く、ちょっと上手につきあうーーそんなコツをぜひ身につけていただければ幸いです。 出版社からのコメント 私は、検査結果に振り回されずうまくつきあうにはどうしたらいいかを、 一人でも多くの人に知っていただきたいと思ってこの本を書きました。 検査は、必ずしも正確な結果を示すものではなく、曖昧なものです。 受けなくてすむ検査を、受ける必要はないのです。 この本を通じて、みなさんに「検査ってこういうものだったのか」と知っていただき、 これから検査と上手につきあっていただければと思います。 (「はじめに」より) ★ ★ ★ この本は、いかに現代医学が唯物論に染まり、古代医術の最後の砦だったヒポクラテスの医術を忘れているかを明らかにしてくれる。 電卓に頼れば計算能力が劣っていくように、現代の若者のコミュニケーション能力が劣っているのは、メールや携帯、パソコンに頼っているせいで、非現実の机上の空論が益々盛んになり、もはや検査オタクや手術オタク塗れの現代医療の地獄の世界を浮かび上がらせている。 現代医療は検査と手術と投薬に集約される。まるで戦場で戦争をしているようである。 物理学で生命や生物を解き明かせないように、検査などで生命や生物を解き明かせるわけがなかろう。 検査データはすべて静的なもので、静的なものは、動的なものの一瞬の影絵でしかないのである。 動的なものを静的に解き明かせるわけがない。では何をもって生命や生物を解き明かせるのかといえば、経験しかない。経験を基にした思考力や知力である。この世を生きて病気に罹った人生を送らなければわからない。 検査データなんかは一断片でしかない。大体全体の100%が何であるかがわからないのに、全体は動的に蠢いているのに、一部をとってきて、全体を表すことなどほとんど不可能なのである。 それが仮にある程度可能となるのは、世界が繰り返しのフラクタル構造をとるとする場合である。その場合でも、なにからはじまり、何が単位となるか、が問題となる。 どの人間の自我も同じでないように、何がはじまりで、何が単位というものでもない。 単純に割りきれるようなものではなく、全てが連動し、複雑なんである。 すぐに検査に頼るバカ医者や無責任な数値に責任を転嫁する医療者などに騙されてはいけない。自分の人生は、自分に全て責任がある。他者とは同じものではない。いろんな人生がある。いろんな人生を理解してはじめて、自分の人生が意味をもってくる。 他人を理解する経験を積むことが、自分の知力となる。機械や数値に依存するな。それは無責任のはじまりである。物証などを信じるな。 自分がこの世を生きた経験こそが全てなのである。だからどんな人生も無駄なものではない。知力を磨くべきである。知力こそ神の御業なのである。 唯物論から脱するべきときである。自分で判断し、自分の感覚、自分の知力を磨くべきである。 病気に罹る人生が必要だからこそ病気に罹ったのである。病気をたとえ覚醒意識で忘れても、潜在意識=魂は次の転生へとその克服法を運んでいくのである。 でないとアレルギーの真の理由は解き明かせない。 1つの人生では病気に罹ることは不幸にみえるかもしれないが、永遠の人生においては貴重な経験なのである。どんな病気をも克服してこそ、永遠の肉体を手にすることができるからである。
2016年09月27日
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この世に刑務所があるように、あの世にも地獄がある。地獄がないと人間が改心する機会がないからで、悪いことし放題になるからである。 地獄に堕ちることがわかっていたら、人間は悪いことしなくなるだろうが、それでは条件つきの善であって、少なくとも自分で選択し自主的ではないので、ニセモノになるから、地獄があることはわからなくなっている。 以前、地獄を紹介したように、そもそも地獄に堕ちた人は自分がいる場所が地獄とすら思っていないようであり、それはブラック企業で働かされている人が思考力を奪われ、洗脳されていることに気づかないのと同じである。ブラック企業はいわばこの世の地獄で、カルトの働け教である。 ブラック企業などは、いわば生き地獄なわけだが、地獄の予備校ともいえる。 このような地獄があるように、天国もある。天国がなければ人類の理想もないからである。人類が目指す場所がなければ生きる意味もない。 こんなにわかりやすい道理がわかっていない人が多いのはどういうことだろうか? 人間何のために生きるのか? これと同じような洗脳が、「ガン」である。なぜ人はガンに罹るのだろうか? ガンは洗脳の一種である。人間はいつか死ぬ。死を唯物論は「無」と捉えているから思考力を失うのである。死が「無」であるのなら、生は無からの創造になり、どうして無から生になるのか説明しなくてはいけない。 この場合の「無」とは、洗脳の一種で、思考停止を意味している。要するにわからないのである。 人智学では、死は霊魂が肉体から離れたことを意味する。簡単にいえば霊魂の脱皮である。霊魂が生まれ変わるために死がある。 脱皮とは何だろうか? 限界を超えることである。将棋でいえば千日手を続けないために、これまでの道程全てを転換することである。 いま人類には、「ガン」についての脱皮、つまり発想の転換が必要である。例えば、以下の「ガン治療のウソ」という本なども参考になる。 「がん治療」のウソ https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%8C%E3%82%93%E6%B2%BB%E7%99%82%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%BD-%E5%AE%9D%E5%B3%B6%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E8%AA%A0/dp/4800223237 以前紹介したが、人智学では、ガンとは簡単にいうと、エーテル体が物質体に浸透していない障害部位を指す。物質体がなんらかの異常な進行を示し、その進行にエーテル体が浸透できない状態を意味する。 だから、治療するには物質体の異常な進行を正常に戻し、エーテル体がそこに浸透できるようにしないといけない。物質体、エーテル体というと、いかにもオカルトチックなので、物質体とは、可視の肉体で、エーテル体は不可視の光と考えればある程度イメージできるだろう。 不可視の光とは、俗にいわれる霊光のことで、人体は太陽光を霊光につくりかえているそうで、この霊光が異常になると、物質体にも伝播し、異常な進行を及ぼす。霊光が充満するのを元気とかポジティヴと呼び、乏しいのをネガティヴと呼んでいるようである。 霊光を充満させるのに、いわゆるスピ系が呼ぶ、パワースポットなるものが重要となり、霊光が乏しいと、幽霊などを呼び寄せてしまうような悪因悪果となるようである。 だから病気になるのは、霊光が乏しいためで、悪霊にとりつかれたと古代人が言ったのは、あながちマヤカシでもない。自然界だって太陽光がないと闇が広がり、菌が増殖するのと同じで、人体内も霊光が十分に輝かないと免疫力が落ちるのである。 さて、十分にオカルトになってしまったが、洗脳を説くために、続いて、人智学的医術を紹介する。 ★ ★ ★ 人類にとって有益な形で医学研究を続けていくなら、この連続講義で示唆した事実について、健康、もしくは病気の人体を、外界の物質や様々な外力と共に探求し、その知見を実際に広めていくのが望ましい。 人体の内外の関係を探求することで、病気の診断を目指す自然科学の方向性と、薬や人体の自然治癒力を生み出す努力との間に、益々一層、橋を架けることができる。しかし、このような探求法から成果をあげるには、人間を包括的に観る霊的な洞察力を獲得し、現代人がもつ外界との物質的な関係に、人智学的な光(叡智)を当てることが必要不可欠となる。 外界との最先端での関係は、外界との相互作用や知覚のなかに現われてくるが、例えば、視覚においては、外界の物質の影響は、物質の表面しか認識できず、本質的にほんの僅かしか受け取っていない。 しかし、視覚よりも、低次の知覚に属する、嗅覚や味覚においては、物質界との交流が内面化し、物質の内面を霊的に洞察できる。というのも、実際、消化活動は、外から内へと継続し、変化した知覚活動に他ならないからである。 腸の働きによって、摂取した栄養分が、人体内を形作る血液の働きへと変換される地点までは、また、この変換も、根本的に言って、低次であるほど、内へと継続もしくは変化した知覚活動なのである。 従って、本質的には、栄養分が、血液に変換される地点までの消化活動は、味覚という内へと継続もしくは変化した知覚活動なのである。 上記のような事実を正当に評価できれば、必要な治癒力を発見したり、食事療法の基礎知識を獲得できる。また、逆に、有害なものを、系統立てて、少しずつ見究められるようになる。 というのも、次のようなことを考えてみればよい。 例えば、アンモニア塩の人体への作用を調査すれば、今日の自然科学の信奉者は次のように言うだろう。 「塩化アンモニウムの形で与えられたアンモニア塩は、まず、心筋の運動神経に作用を及ぼす。」 心筋細胞の異常興奮と細胞内各種イオン濃度の相関 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-02257207/ さて、ところが、運動神経という呼び名はナンセンスである。随分と強調してきたように、知覚(感覚)神経と運動神経との間に違いはない。だから、「運動神経」というような名称はナンセンスである。重要なのは、そのような名称とは、本質的に異なる性質(役割)にある。 重要なのは以下である。 食物摂取から血液の形成にまで達する消化活動において、アンモニア塩が影響を及ぼしているうちは、味覚が働き、この味覚は、同時にアストラル体の活動でもあり、アストラル体のなかに、例えば、発汗などの反射的な活動を引き起こす。 消化活動の初期の味覚を調べると、汗や尿の分泌の背後にあるアストラル体による反射的な活動を霊的に洞察できる。実際、味覚をくまなく調べると、外には体液の分泌を通じ、その内では、栄養摂取が行われていることがわかる。 だから、汗や尿の分泌の本質は、味覚を通じた栄養摂取にある。 この栄養摂取という現象は、本質的に、固体の食物を液体に変える働きに還元できる。この溶解作用には反作用がある。反作用は、肝臓や脾臓の活動のなかに現われる。 従って、肝臓や脾臓の活動も、本質的には、液体の働きに分類する必要がある。しかし、最初の溶解作用とは逆に、肝臓の活動には、最初になされた溶解物を包み込み、覆い、変化したものを再び元に戻す機能をもつ。 例えば、塩をお湯に入れる場合を考えると、実際の栄養摂取のイメージが得られる。お湯のなかで、塩は溶けるが、これは、食物が、血液に摂取(吸収)されるイメージと考えられる。 そのとき、塩が溶けたお湯の脇に、球形に閉じた水銀を数滴置いた場合と比較すれば、これは食物から血液へとつながる消化活動を支配する肝臓での物質体とアストラル体のイメージに相当する。 実際に体内で起こっていることを、上述のようなイメージから、洞察することが必要である。というのも、このようなイメージから、体内での塩の形成や、水銀の形成が、外界のどの状態に相当するのか、という探求に導くからである。 そうすれば、人体内の活動を、文字どおり、外界の状態から読みとれる。人体を常に、外界との関係から観察する必要がある。 さて、アンモニア塩の血液への移行(転換)を考える場合、アンモニア塩を追跡すると、血液をアルカリ化することがわかる。アンモニア塩は、人体下部から上部にまでアルカリ化の作用を及ぼし、上部に反作用を引き起こす。 興味深いことに、下部から上部へ反作用を生じさせる、という人体での完全な反転が起こる。この反転は、例えば以下のように特徴づけられる。 人体下部の消化活動において、上部の知覚に相対する味覚が関与するが、下部が味覚を過度に呈しはじめると、逆に、人体上部では、知覚に向かう傾向を呈し始める。 すると、知覚を司るアストラル体から上部に反作用が発せられ、結果として、下部から、上部に反作用が生じる。 その結果、(横隔膜より)上部では、例えば、[Flimmer epithelien](顫動?)上皮が刺激され、激しく活動するようになって、肺の分泌が促進される。 肺 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%BA 上部の肺では、下部の消化とは、逆の活動が行なわれる。消化の溶解を通じて、肺の活動が刺激される。すなわち、溶解物を球状に包み込む肝臓の働きを通じて、肝臓の上に位置する肺の活動が刺激され、結果として、消化に次いで、肺の分泌が引き起こされる。 この一連の過程が、消化という塩(物質)の溶解作用、すなわち、物質の溶解(液化)を基点とした、肝臓の活動と、その反作用として肺の分泌に至る経過である。この肺の分泌は、次のような気化と呼ばれる蒸発と比較できる。 例えば、水銀の縁で蒸発(気化)している液体と比較すれば、この活発に蒸発(分泌)する液体の働きは、硫黄、もしくは燐の作用と、錬金術では呼んでいる。 この硫黄=燐の作用は、硫黄によって炎症を呈する場合に捉えられるが、これを液体の蒸発(気化)に喩えることができる。このようなイメージは、上下で対極となっている器官、つまり下部の肝臓と、上部の肺との間で展開する活動像を得るのに有効である。 このような人体内の活動像を獲得できれば、器官の活動を正常に戻すために、外界から、治癒の原理が獲得できる。このような治癒原理を推し進めれば、以下のような水準に到達できる。 以前、述べた講義の内容を思い出せば、歯の形成が、人体の末端の活動から生じることが洞察できる。だから、人体の末端の活動も、これまで特徴を述べてきたように、外界の鉱物化の活動と一致するが、是非、この意味を誤解しないで欲しい。 この意味は、些か誤解を招きやすい。歯の形成は、末端の活動の結果なので、歯の形成のなかで鉱物化として現われてくる事象、例えば、歯の悪化が問題となるなら、外からの物質的な技術、いわゆる歯科技巧的な治療を通じて、歯の改善に働きかけられるのは当然といえる。 つまり、人体末端部での鉱物化は、やはり機械(物質)的に扱うのがよく、歯の改善等は、機械(物質)的な治療に含まれる。つまり、歯が悪くなったときの歯の補填等については、機械(物質)的な処置を第一に考慮するのは当然で、歯についていえば、ある段階から、もはや人体内からの処置等はできない。 けれども、歯の鉱物化の根底にある、フッ素の生成過程は、人体内から処置する必要があり、人体にとって必須の過程である。だから、歯が健康である限り、歯の活動と共に、フッ素の生成過程が補完されなければならない。 このフッ素の補完は、ある方法で行える。ただ、先ほど特徴を述べた逆転(反転)を正しく考慮する必要がある。 では、そもそも一体、歯の生成とは何なのか? 霊視すれば、歯の生成とは、人体の内から外への鉱物化であることがわかる。永久歯が総て生え揃ってしまうと、この外への鉱物化は、ある目標に到達する。 すると、この到達に対して、今度は逆に、人体内へと反転する性的な成熟化が現われてくる。この歯の生成と、性的な成熟は、人体のリズムとして相互に作用しあう対極の過程なのである。 歯の生成の完了と同時に、同程度で、その対極側から、性的な成熟が起こる。このような事実を配慮すれば、歯の生成の対極に配置され、歯の生成とは逆の人体内へと後ろ向きに進む、性的な成熟と関係する、また別の過程が洞察できる。 この別の過程とは、腸の蠕動運動[peristalsis bewegung]である。 歯の形成と、腸の蠕動運動は相互に密接に関わり合っている。つまり、この蠕動運動は、他方では、歯の形成と密接に関わり合っている。つまり、この腸の運動は、人体のフッ素の利用と密接に関係する。 だから、次のような結論に到達する。この腸の運動が、個人に相応しい状態よりも速く、集中的に行われると、特にフッ素を利用しすぎ、働かせるようになり、歯を損なうような効果を及ぼす。 従って、歯が損なわれていることに、歯科医師などが気づいたら、消化運動が、あまり速く、集中しないように指示を与えるべきである。腸の過度な蠕動運動を抑えるために、可能な限り、安静を命じるか、消化を鎮める薬などを与えるなどの指示が必要となってくる。 消化活動の調整には、特別な意味があり、この消化活動は、すでに示唆した、四肢、つまり腕や脚、手、足の規則正しい活動などでも調整できるが、特に、オイリュトミー的な運動を通じて調整するのがよい。 オイリュトミーの運動は、魂の営みからもたらされるからである。単なる機械的な体操をしすぎると、いわば魂の営みからくる振り子(リズム)が間違った方向に揺れてしまい、調整とは逆の方向へと容易に影響を及ぼしてしまう可能性がある。 例えば、特に女子たちに支持されている一般的なダンスが、(機械的な動作に移行しすぎると)歯の形成に害を与えることも十分に考えられる。 盛んに踊る女子たちの歯が、あまり踊らない男子たちよりも悪いのは何故なのか、というような疑問に陥ってはならない。重要なのは、この機械的な踊りが、魂の営みを妨害し、消化の調整を揺るがし、偏らせることにある。 また編み物や鉤針編みのような手の運動などが度を越すと、正しいのとは反対の影響が生じてくる。 つまり、機械的な運動の影響から、実際に消化の調節とは逆の反転が起こる。 人体上部の歯の形成が、下部の消化に反映する。また全般的に、前方に動く能力、つまり前進運動に反映するのが消化活動であるのは特に重要である。 消化活動には、人間を生存せしめる多くの構成要素、自我、アストラル体、エーテル体などが複雑に絡み合っている。消化活動が、人間を前方に歩けるようにしている。 また逆に、消化活動への刺激が、人体を後方に向けて運動することから生じるのは、更に重要である。消化が不活発な人に、後ろ向きに歩く体操などの習慣をつけることで、消化活動を向上できる。 後方に歩くなどで、消化活動が促進される。このような事実などを、いわゆる経験などによる記録を蓄積することで、霊魂への理解へと浸透させるには、人体の構造や構成について、人智学の光を当てることが必須である。 更にまた、別の事実にも注目して欲しい。消化活動において、何と言っても驚くべき作用を現わすのは、マチン(馬銭子)である。このマチンの作用は何によるのか? マチンを詳細に研究すれば、その驚くべき作用に遭遇し、その精神(感覚)への作用を見通すことができる。 マチン(ヌックス・ホミカ:Nux vomica) インドなどを原産とするフジウツギ科の馬銭(まちん、英名ポイズンナッツ、ストリキニーネの樹とも言う)という樹木の種子。これはアルカロイドを含み猛毒で、殺鼠剤、また興奮剤などを製する。古代のホメオパシー療法でも二日酔いの薬として、ワクチン接種と同じように人体の調整に用いられた。 マチン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%B3 ヌックス・ホミカ http://home1.netpalace.jp/sahho/room/room.cgi?mode=koumoku&no=195 二日酔いの際に、マチンを投与して、その作用を研究してみれば、このマチンの効果がわかる。二日酔いの際に、このマチンの作用を観察すると、マチン以外の他の作用はほとんど隠れて、見過ごされやすくなる。二日酔いは、器官活動全体が、外から内へと逆転するからである。 実際、二日酔いとは、消化活動の最初期に生じる味覚が持続(進行)してしまう状態なのである。ワイン、ビール、もしくはシャンパンに耽溺した場合、二日酔いになるのは、それらのアルコールを含む物質が、分解され、摂取される経過が持続して進行し、分解された成分が、血液をつくる過程にまで進んでしまうためである。 すると、本来、溶解が使命である消化器官が、一種の知覚器官にまで変化する。通常、主要な知覚活動を、外界に向け、外界と交流し、地球上に起こる様々な出来事に眼を向ける代わりに、人体内を知覚するような破目に陥る。 (アルコールが「スピリット」、つまり「霊的な」という意味の言葉で呼ばれるのは、知覚活動に、影響を与えるからである。) すると、外の地球活動に究めて類似する知覚活動を、人体内にもつので、地球の自転などを、人体内に感じ取るようになり、寝ているベッドなどが回転し始めるように感じる。腸の消化活動とは反対側にある血液の活動のなかに、人体内での一種の地球活動、いわゆる、内的な外界とでも呼べる現象が現われてくる。 酔っ払いは人体内を自らの外界とし、外を知覚していた場合には、妨害しなかった現象を、恐ろしいことに人体内に知覚するようになる。人体内が、地球となるのには全く相応しくなく、本来、地球から、身を離している(一定の距離を置く)のが望ましい。 ところが酔っ払いは、人体内に、正真正銘の地球をつくりだす。人体内に、地球をつくりだそうとする要素を、人体内から完全に取り出してしまい、外の周囲から、その要素を観察できるような、本来の知覚に戻すことが相応しいが、二日酔いにより、本来は外に感じていた現象を、人体内に知覚するように誘導される。 マチンは、二日酔いによる逆転である、体内の知覚に対抗する作用をもち、体内では第一に、大抵は強い自然治癒過程として、内と外の知覚の逆転が現われてくるが、その逆転から生じる体内への知覚過敏が、マチンによって抑えられる。 (例えば、人体内に、地球の自転などを感じる敏感さが抑えられる。だから、アルコールは一種の麻薬といえる。アルコールを飲みすぎると、人体が地球化、いわゆる硬化していくわけで、肝硬変などになりやすくなることがよくわかる。) 外界に代わる体内への敏感さが抑えられることで同時に、体内に移行した知覚が妨げられ、マチンは一種の治癒を及ぼす。 このマチンによる治癒の基になっているのは、味覚の継続、つまり、消化活動の知覚への進行を抑え、味覚の反対側の知覚活動を生じさせないことであり、この消化の進行を抑制することにより、一種の治癒を引き起こす。 さて、では次に、マチンの作用とは、逆の作用を探求する。人体下部へと継続した味覚、つまり食物の溶解活動が活性化せず、不活化し、溶解物が周囲に充分に行き渡らない場合を考えてみる。 つまり、外界から摂取された食物が適切に溶解されずに、継続して起こる塩形成である血液形成に組み込まれるには、あまりにも不活性な場合を考えてみる。このような場合と同様に、消化活動の最初期に、マチンを与えた場合、マチンの消化抑制の性質に基づき、消化が抑制され、十分に溶解されないままの物質が残る。 未消化の物質は、消化の出口まで辿り着けなければ、消化活動と血液形成との間にある障壁を乗り越えられないので、未消化の物質は、逆方向に経路を探すようになり、その場合、溶解を抑制するマチンとは逆の溶解を促進する作用、未消化を克服できる治癒をみつける必要がある。 このような間違った消化の経路を探すようになった未消化の物質に対して、ニオイヒバ[Thuja]を用いれば、消化を促進し治癒効果を与えることができる。 ニオイヒバ http://www.ponnitai.com/database/thuja/occidentalis.shtml このように、マチンとニオイヒバの両極的な対立は、人体のなかで展開されている。また、この両極性を、人体全体にわたって、常に見ていく必要がある。人体のなかの、この対立は重要な意味を持っている。 特に人体下部において生じる作用を、上部へと送り込む活動全ては、睡眠中に高められる。睡眠の特徴を述べるには、慎重を要する。というのも、睡眠が最良の薬の1つなのは確かだが、個人が必要とする睡眠時間が適切な長さであるときのみ効力を発揮するからである。 必要以上に長すぎる睡眠はかえって病気を引き起こす。睡眠が長すぎると、上記に示した、消化活動と、血液形成との間にある障壁が穴だらけになり、消化の最初期から血液形成活動へと多くの物質が侵入し、人体は、いわばニオイヒバを投与した状況に曝される。 実際、人体下部は絶えず睡眠状態にあると言えるので、上記の障壁が穴だらけだと、下部を通じて、血液が絶え間なく病に曝される。とはいえ、人体も自前の治療薬をもち、正常な人体へと適合しようとしているが、自前の治療薬を投与し過ぎると、かえって自らを絶え間なく病気に曝すことになる。 けれども、この自らを病気にしようとする傾向は、血液中の鉄によって完全に相殺される。鉄は何よりも人間にとって最重要な金属であり、人体内の、この病気への方向性を相殺するように作用し、過剰な適応化で起こる異常さを、正常化させる。 今述べたように、血液中の鉄不足による病気の発症を理解できるように、また、鉄を、人体内の血液中に充分に行き渡らせるように投与すれば、その都度生じる上部への毒化を抑制するため、人体を助け、下から上と生じてくる有害な作用を克服できる。 人体にとって考慮すべき他の金属も、これまで見てきたような人間の様々な活動によって補われる。 これまでの講義の内容から生じてくる事実を、以上のように、再度手短にまとめてみたい。再度、血液形成活動を示唆する。この活動は、鉱物化の過程で現われる銅の働きと対極を成す。従って、この過程は銅と親和性をもっている。 この銅と親和性をもつ過程は、下部の最上位に属するため、地上で見られる銅の生成力と対極的な親和性をもつことを、くまなく理解することが課題となる。というのも、人体下部の過程全般は、地上の経過と関係しているからである。 従って、銅の投与から、血液形成活動を正常にし、治癒を導くなら、次のような黄金律が重要である。つまり、銅を、人体内で希釈させず(消化させず)に、つまり地上の状態に近い形で、勿論、害になるほど多量に用いることなく、人体内に投与する処方である。 (「銅は必須金属になっていて血液を造ったり、血管の壁を若々しく保つ働きがあります。」日本銅センター;http://www.jcda.or.jp/qa/qa2.html) さて、血液の形成が、銅と親和性を持つのと同じように、消化活動の進行から血液による体内の知覚化へと促進する働きは、肝臓や水銀と親和性をもつ。 いわゆる鉱物化が、銅と親和性を持つように、消化活動の進行による血液の知覚化は、水銀と親和性をもつ。ただ、水銀の場合、水銀が球形で、調停力を持つように、いわば両方の過程の相互作用に関わることに注意を払う必要がある。 従って、二日酔いのアルコールのように、消化物が血液中に移行しすぎないように抑制する働きは、マチンによって生み出され、そのマチンの働きは逆に、ニオイヒバにより抑制され、水銀によって調停される。 さて、ここに至って新しい探求分野が開けてくる。外界の自然を、様々な経過や過程に従って探究し、自然を、人間から放出された存在として捉え、人間を、健康状態と病的状態において、自然環境のなかで捉え、人体下部を通じて密接に関わり合う自然環境のなかに、人体との親和性を探求する分野である。 つまり銅に親和性をもつ過程を通じて人体下部から上部に上昇する作用は、それとは対極に位置する鉄によって調整され、相殺される。 銅の作用と、鉄の作用の対極性から、人間が鉄を必要とし、常に鉄の作用や、化学的にいえば、鉄が有り余るほど十分に必要なことがわかる。その他の金属は、人体のなかに、作用として存在している。 人間はいわば7つの金属の作用から成る。鉄だけが、外界の金属として存在し、その他の金属は、人体内では、作用として存在している。 血液の活動が銅と親和性をもつように、肺から発し、喉頭へと外に向かって開いていく活動は、鉄と親和性を持つ。 更に、人体上部での脳の活動と関わり、いわゆる下部での脳の消化活動とでもいうべき働き、つまり腸から血管のなかへと消化物を移行する働きと対極的な働きは、錫と親和性をもつ。 錫は、下部の腸が食物を満たすのと同じように、上部の脳が、魂を満たすことにより、いわば消化活動として調整される。 対照的に、神経繊維と関わる上部の様々な知覚器官の働きは、鉛と親和性を持ち、下部では、汗、あるいは尿の分泌などに対応する。 以上のように、人体にくまなく光を当てることが重要であり、そして同時に、外界の周囲の物質から、人体とは対極の作用を捉え、いかにして人体の治癒力を引き出すか、が課題となる。 いわゆる精神病と診断された疾患の多くが、肉体の様々な器官に病因をもち、逆に、器官に直接現われる疾患の多くが、霊-魂の働きと密接な関係がある、ということをはっきりと理解すべきで、他ならぬ人智学が、その事実を示唆しなければならない。 確かに、困難であるが、いわゆる肉体の病気の場合、まったく機械的、もしくは化学的に進行するので、人間を一個の器械のように扱う唯物論では、精神病のような疾患を特徴づける場合、心理を記述するにとどまる。というのも、唯物論からは、霊-魂と物質-肉体との関係に対する概観が失われてしまっているからである。 霊-魂と物質-肉体との密接な結びつきは、魂と肉体が入り交じって生じる事象を具体的に調べれば、実際に示せる。 そもそも、精神病を促進させるものは一体何なのか? 人間が病気になると、痛み等などの主観的な病態が現われる。これらの病態は、病気が急性の場合、究めて明確に認識できるが、慢性の場合は異なり、器官に何か悪いところがあるため、霊-魂が萎縮し、つまり霊-魂が、その器官から後退するので、認識困難になる。 だから、痛みとは、自我とアストラル体が、物質体とエーテル体から後退することに他ならない。勿論、エーテル体の後退も生じる場合もあるが、痛みを知覚する本質は、何と言っても、アストラル体と自我に由来する。 通常、自我が健全な場合、自我は、それとは反対の物質体(肉体)のなかで生じる経過を認識できるが、病気が慢性化すると、次第に自我が、物質的な経過から後退し、その結果、魂の活動が、アストラル体だけに限定され、つまり自我が、アストラル体やエーテル体とともに生じる物質体の経過に参加しなくなる。 自我が、肉体の経過から後退することで、急性の病気が慢性に移行し、慢性の疾病が生じる。慢性疾患は、だから、意識や心が後退することで生じる病態である。 以上のような病態学から考えれば、意識や心のなかの深い闇の部分へと入り込んでいく必要がある。例えば、病人に、どういう容態で、どこが傷むか、を尋ねるだけでなく、よく眠れるか、眠れないか、仕事に喜びを感じるかどうかなどを尋ねる必要がある。 つまり慢性疾患の場合、長期間にわたって広がる、精神に多く関わる因子を、病態として見る必要がある。他方、急性疾患の場合、そのときの主観的な感情から、病態を探ることができる。慢性的な事態に発展した場合、これまでの当人の人生経験から、病態を探らないといけない。 さて、慢性病になるのは、自我から離れた、アストラル体とエーテル体が、通常の活動に参加し、必要以上の作用を送り込み、その経過が物質体内に保持される場合である。 病人のアストラル体が、エーテル体のなかの迂回路を通って、異常な作用を物質体に与え、それに耐え得るような体質の場合、その病人のアストラル体は、肝臓との異常な関係を、均衡点を越えさせるような性質をもつため、そのアストラル体は、肝臓に正常に働きかけていないことに気づかないので、肝臓の活動がそのまま促進され、異常なアストラル体の働きかけに慣れてしまう。 この異常な働きかけが長期間にわたって充分に進行すると、今度は、アストラル体へと逆の経路を作り出す。肝臓の本来の物質摂取活動を、アストラル体へと押し返すために、抑鬱症になる。 つまり、慢性病を、特定の均衡点を越えて、持ち越すと、アストラル体との異常な関係に到達し、いわゆる精神病といわれる要因をもつようになる。 以上のように考察できれば、病態学[Pathographie]を越え、霊魂状態学へと発展できる。今日では、病態や意志の活動に関する不規則な経過などについて非常に多くの主張がなされている。 しかし、人間の魂の最高な形として現れる意志が、本来、いかに下腹部の肝臓、脾臓他の器官の違いによる共同作用により支えられているか、を知らない限り、病態学に相応しい物質的な対応像を実際に見つけ出すには至らない。 いわゆる精神病といわれる疾患に対してこそ、物質的な治療法の導入を考えるべきである。 人智学により、いわゆる精神病に対する物質療法に通じていくべきで、逆に、肉体的な病気に対する治療に際しては、霊魂との共同療法を考慮すべきである、ということは一見、矛盾にみえるが、同時に、このことは、人体下部と上部の強力な対立とも関係している。 この関係は、外界に対して始まる知覚活動が、味覚が継続した消化活動として、人体内の知覚活動になる場合と、逆に人体内の腸の蠕動運動などが、外界に向かって放出される場合に現われる歯の形成としての鉱物化という対極関係とも関係する。正しく見通せば、治癒へと導くこれらの関係が、この対極関係のなかにある。 さて、これまでの連続講義において、より多くの事実を展開して披露しようと苦心してきた。この講義にあたり、考慮すべき全てを前もって概観すると、このような講義がいかに困難で、一体どこから始めればよいのか、と考え込んでしまった。 基本から始めると、応用が効く十分な認識にまで到達できないのは当然で、曖昧で漠然とした治療法を示唆するだけにとどまってしまう。かといって、最上段の霊魂から始め、いわゆる純粋にオカルト的な事実を持ち出せば、今日の医学に橋を架けることは難しくなり、そのためには、もっと時間が必要となる。 今日遥かに進歩した唯物論の弊害が見つけられるところではどこでも、今度は別の面から、この弊害に対抗して働きかける必要性にも気づいている。これまで述べてきた事柄を、どうかイデオロギー的でなく、客観的に受け取って欲しい。 とは言え、次のような警告は許されるだろう。今日のアロパシー的な医学を概観すると、細菌論を用いて、感染の途上で出現し、前面に出てくる副次的な作用に従って、患者を診断する傾向が、頻繁に見られることである。 細菌感染学が、単なる病態の識別を助けるために用いられるのなら、実際、非常に役に立ち、細菌の性質から、多くの病状を知ることができる。というのも、まさに、細菌の性質は、特定の主因のもとに必然的に現われてくるからである。この性質を見つけるのは充分な機会があれば容易い。 しかし、細菌の性質のような副次的な要因を主因とみなす傾向、例えば、人体が、どの程度、細菌の繁殖に適するのか、というような調査の代わりに、細菌が、器官にどのぐらい作用を及ぼすのか、というような調査を行うなかに、アロパシー医学の細菌論的な傾向が前面に出るだけでなく、それに類似する医学的な考察法のなかにも現れ、弊害を引き起こす。この弊害はあまりに頻繁にみられるので、いちいち取り上げて示す必要はないだろう。 しかし、だからと言って、ホメオパシー的な医学を試しに概観しても、満足できる状況にあるわけでもない。というのも、確かに、ホメオパシー医学は、いわば人間を包括的に捉え、全体像に言及し、薬の作用へと橋を架けようと努める、といった長所をもっているが、ホメオパシー医学の文献には、また別の問題が登場するからである。 ホメオパシー医学の文献を取り上げてみると、ほとんど絶望的な気持ちになる。例えば、薬物治療に言及した文献では、薬が次々と順番に列挙され、それぞれが大半の病気に効く、と書かれている。こんな列記では、文献から、個別的な疾患に辿り着くのは決して容易ではない。 確かに、結果的には、どの薬物も、大半の病気に効くので、薬物を列記する以外の説明が困難であることは充分承知できる。とはいえ、このような説明も誤解を生む素となる。この誤解を克服するには、この講義で、基本的に、示唆的に最小限提示した説明から進むしかない。 そのため、基本を選び、最上階とでもいえる霊魂については、この連続講義では省いた。人間および人間の外にある自然の観察を通して、いわば薬の適用範囲を同定すること、薬の(作用の)範囲を見究めるよう、ホメオパシー医学を向上させるとき、誤解を改善できる。 誤解を改善するには次のような点に留意すべきである。健康、もしくは病気の人に、実際に薬剤を投与することで、生じる作用を研究するのではなく、宇宙万有を、いわば1つの統一体とみなし、例えば、以前示唆したように、アンチモン化の過程を探求し、その過程によって、アンチモンが外界で成し遂げる事象を観察できるようにすれば、同時に、この過程から、アンチモンによって、人体内で成し遂げる事象も洞察できる。 このような探求法で、人間を研究するように、少しずつ努力することが、ホメオパシー医学の誤解を解く鍵となる。 このような探求法によって、特別な場所とでも呼べる霊界が、更に人間とも関係をもつが、そのような霊界域が外界においても同定できる。 これまで説明してきたように、この連続講義では、まず基本を前面に打ち出したのは、以上の理由による。 自然治癒が、この基本を不可欠とするのも勿論で、つまり、自然治癒は、再び自然に即して、人間自身の持つ治癒力のなかに、人間を置き、この人間自身の治癒力の根拠が、人間のどこにあるかを指摘し、自覚させようとする衝動に仕えている。 実際、自然治癒力は、地球と地球外(霊界)との相互作用に基づいている。だから、自然治癒は、唯物論では解明できない根拠に依存している。唯物論では無視されることから、今日の医学が、いかに様々な党派的な主張の方向性を帯びながら、益々唯物論へと向かっていることが見受けられる。 唯物論は、ある特定の形で、全てに関与している。したがって、重要なのは、この医学分野全体の霊化である。とは言え、今日の世界は、霊魂や霊化という事柄に真っ向から対立している。だからこそ、まさに専門知識、専門職の側からも、唯物論に対抗する治療法が出現することが不可欠となる。 というのも、この講義で試みたことは、いまはまだ、その端緒にあるが、何らかのオカルト的な趣味的関心の奨励と取り違えられることは、古代叡智の大きな損失を招くからである。 最も重視したいことは、科学的活動のために、人智学では努力が尽くされていることを認める人たちが、この講義で説明されたことを、オカルト趣味的関心の奨励と取り違えるような、有害極まりない偏見を克服するために、協力している現実である。 他ならぬ現代科学が提示できることは、既に全て利用され、考慮もされてきたが、本質的な意味を捉えている人は皆無である。そのため、相変わらず、本質を捻じ曲げて解釈する事態が起こる。 ここで最後に例として挙げておきたい。例えば、オイリュトミーが、人間の体にとって、いかなる意味を持つか、実際に、建築物が建っている意味と同じように、医師にも、きちんと説明できる。この連続講義において詳述したような、人体の内面全体を、外面だけを見通せる医師にも、説明できる。 今日、まさに素人の唯物論と、因習的な時代遅れの方向性に対して、これまでのように抵抗する霊的な叡智の基盤から語る必要がある。真に考慮に値するのは、いわば専門的な方面から克服すべきで、さもなければ、次のような偏見が増えていくばかりである。 昨日出発したフォン・M氏は、「新チューリヒ新聞」に、ドルナハ建築(第一ゲーテアヌム)とオイリュトミーについての記事を提出することで、人智学の意図を実現しようとし、貢献できることを確信していたが、彼がもらった返答は以下のようなものだった。 「拝啓。地方を侮辱するので、ゲーテの名を付した人智学的建築物は除きます。オイリュトミーについてはこちらで調査中です。ご送付に感謝します。 H. トローク、学芸欄編集者」 このような霊界から、世界に入り込んで行く叡智の基盤を、これらの唯物論的な餌桶が大変奇妙な妨害をすることがわかる。このような差別が、今日起こっているので、注意を向ける必要がある。このような唯物論的な腐敗した餌桶の中身から、私たちの鼻のなかにまで侵入してくる悪臭が汚染を広げていることに気づくべきである。 この連続講義の最後に是非述べておきたい。この連続講義を、寛大さをもって受け取ってほしい。このような講義は、まだ始まりにすぎない、と見てほしい。この連続講義のはじめに、今挙げたような世間の偏見から、講義が困難に感じたが、終わりを目の前にして、このような講義を終えるのはもっと困難であると述べたい。 というのも、実際、まだ言うべきことがあるのに言わないことの方が、私(シュタイナー)にはもっと辛いからである。だから、この講義の結びに残したい、「始めるのは困難だが、いま、やめるのはもっと困難である」という言葉に象徴される内容全てを、寛大な評価のなかに取り入れていただき、主観のみならず客観的な根拠があることをわかって欲しい。 ★ ★ ★ 唯物論そのものがガンなのである。物質は増殖すればするほど重くなり自らを支えることが難しくなり崩壊する。ガンの性質そのものである。
2016年09月08日
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自分も日本人なので、日本人の批判はできるだけしたくはないのだが、日本人といっても、その概念は明治政府によりつくられた虚像であって、実像は、八切史観から明らかになるが、大きく、被差別されてきた日本原住民と、大陸からきて、長年この国を支配してきた俗にオカミと呼ばれる渡来朝廷政権民に分けられる。 建前や世間体というのも、オカミに反抗心を見透かされない被差別民の長年の知恵から生まれたもので、少しでも反抗をみせれば忽ち斬首されるという恐怖支配が続いていた証拠である。 わびさびの文化なるものも、この日本原住民が、先祖を想うわびさびから生じたことを誤解している輩が多いのも、日本人など虚像にすぎないことを露呈している。 それでも、北条政子や信長のような朝廷打倒政権も出たが、結局、いまも官僚がオカミ体制を築いていることから、真の民主化は程遠く、マッカーサーが、日本人の精神年齢は幼いといったのも、いまだに動物の群れと同じような集団主義が残っていることからもわかる。 大体考えればわかるが、明智が謀反人とされるのはおかしな話で、朝廷に刃向った信長を討ったのだから、体制側からは貢献人であって、現に征夷大将軍を宣下されている。いつの間にやら、信長が体制側に寝返ったのだろうか? 秀吉などは、天皇を殺してしまい、朝廷を大陸に帰そうと明と戦い朝鮮出兵までした。実際に日本の王を名乗った秀吉は朝廷を根絶やしにしたかったのである。こういうタブーを歴史では教えない。 朝廷に背いた信長、秀吉がなぜいまでも人気なのか? そういう一切が徳川政権の公武合体策や神仏習合などで誤魔化され、明治には徳川政権の歴史歪曲を正すことなく、そこに乗っかって、欧米諸国の植民地政策で味付けしたから、明治帝がガーター騎士などになってしまって、日本原住民は戦場に送られて棄民されたことは歴史のなかで埋もれてしまったわけである。 長いものにまかれろ、の長いのは、大陸からきた渡来人の長髪であることを理解する日本人は少ない。なにしろ、日本原住民の方が、この日本列島には長く暮らしていたのに、その記録が全く残っていないから認めないというのもおかしな話である。 以前、アメリカ人が嫌いと書いたが、そのアメリカ人に迎合する日本人はもっと嫌いである。大体、馬鹿なアメリカ人は切腹などを称賛するが、切腹などは虚像であって、武士は公家に信用されずに、ブジン(不信)から、ブシと呼ばれただけで、反骨心が見透かされると、斬首されるのがオチだった。 ブシとは、大陸からきた渡来人を追い返して、日本原住民の国をつくろうというする反骨心の象徴であり、武士道なんかは江戸時代にできた虚像にすぎない。武士道とは死ぬことにみたりなどの葉隠は、死んでしまったら、原住民の国ができないではないか。 信長の天下統一も、天と下を統一するといういわば身分制度の撤廃をうたったもので、朝廷政権を維持していた仏教を打倒するものである。というのも仏教が身分制度をつくっていたからである。 楽市楽座も、仏教徒が商売を独占していたので、仏教徒から商売を奪い、原住民に与えたから、経済に関わる人口が増えて、経済が活性化した。だから比叡山を焼いたわけで、大体、反仏だった信長が遺体もないのに、墓に弔われ観光事業の片棒を担がされるのは迷惑千番の話だろう。 なんでも金儲けにする仏教の偽善が嫌いで、一休などは、偽悪を用いて、仏教を御釈迦さんが説いたホンモノのものに戻そうとした。 つまり日本の仏教はニセモノなんである。金儲けしているのがその証である。 このニセモノの仏教が、休みの大切さを全く説かず、ぜいぜい一休禅師ぐらいしか、いわないから、日本人は、ニセモノのオカミにしか仕えず、ホンモノの精神の神髄である神に仕えようとしないから、一向に奴隷のまま、精神年齢が、動物のように低いままなのである。 よく考えてみれば、人間よりも動物のほうが働いていることに気づくべきである。微生物などは、人間よりも遥かに働いているが、報酬などを当てにしないで、生活している。 なぜ日曜があるかといえば、神との対話の日なのである。ドイツ人などは、キリスト教に忠実だから、日曜に休みをとらないと、無神論者と疑われるくらいだろう。 確かに無神論者は休みは不要かもしれない。唯物論者だし、精神や霊魂をないものとみるわけだから。 そんな冗談はさておき、日本人に自殺者が多いのは、神との対話、自分のなかにある神と対話する時間をもたないせいである。 最近ようやく瞑想、マインドフルネス、ヨガの重要性に気づく人々が現れてきた。これらは、ソクラテスが語った神との対話である。 誰ものなかに生命を形作る神がいる。それはいわば生命プログラムといってもよいだろう。この生命プログラムを認識するには、休息が重要なのである。 そういうものをないがしろにしていると、人間の精神性は退廃していき、鬼のような人のこころが読み取れない馬鹿が沢山うまれてしまうのである。 そういう警告を以下にあるサイトから抜粋し、紹介する。 ★ ★ ★ これだけ、働いても不効率・・・ 不幸・・。長時間労働は家畜化政策の一環。http://blogos.com/article/187366/ 上記文抜粋・・・・・・・・・ キャリコネニュース2016年08月17日 16:53【悲報】バカンス満喫中のイタリアと日本の一人あたりのGDPがほぼ変わらない件 労働生産性に至ってはボロ負け 短かったお盆休みも終わり、はやくも次の連休を心待ちにしているという人も多いだろう。一方海外では、今がバカンスの最中という国もある。 その一つがイタリアだ。イタリアでは8月に1か月近くの長期休みを取る人が多く、特にピークの8月15日の祝日フェラゴストのあたりは街が空になる現象が起こるという。 「9月までvacationです、サンキュー、あなたも良い夏を!」 イタリアの会社とやりとりをしている人たちにとっては、先方がバカンスで仕事を離れているため待ちぼうけ状態になっているようだ。 「イタリアの出版社に発注メール送ったら自動返信で『9月までvacationです、サンキュー、あなたも良い夏を!』+ 署名代わりに適当な海のAAが返ってきて歯を食いしばった」 「イタリアの取引先は『8月6日から9月4日まで休むわ』って、5日の夜に知らせてきた。ほんとに完全に休業している」 服飾の仕事に就いているという人は、生地を頼もうと思って連絡を取ったところ、「しばらくバカンスだから電話しないでもらっていい?9月には送るわ?」と返された。また、イタリアでオーダーした家具が3か月ほど経っても届かないため、メールしたところ、「バカンス中だから、8月23日以降に返信します」と自動返信メールが来たという投稿もあった。 多くのイタリア人が仕事のことを忘れて長期バカンスを満喫しているのは間違いないようだ。 労働生産性も日本は21位なのにイタリアは10位 中には、取引先のイタリアが1か月のバカンス中のため、「夏休み3日って聞いたら笑われそう。または憐れまれそう」とこぼす人もいた。マクロミルが会社員・公務員を対象に行った「夏休みの過ごし方」調査によれば、日本人の夏休みの平均日数は3.9日。夏休みがないという人も19.2%にのぼっている。イタリアと比べるとなんとも寂しい。 休みの長さが段違いであるのにもかかわらず、内閣府の「2014年度国民経済計算確報」によれば、1人あたりのGDPは日本が3万6230ドルで20位、イタリアが3万5219ドルで21位と僅差。そのため、 「こんだけバカンスもエンジョイしてるイタリアと、夏休みが3日しかない日本で差がないんだぜ…」 と悲観する人もいた。労働者一人あたりが生み出す成果を指標化した労働生産性にいたっては、2015年度の順位で日本が21位のところ、イタリアは10位と大きく水をあけられている。日本人がなんのために休みを我慢して働いているのか分からなくなるレベルだ。 バカンスといえばフランス! 1か月休んだって社会は回る! また、バカンスといえば法律で5月1日から10月31日の間に4週間の有給休暇を取得しなければいけないフランスを思い浮かべる人も多いだろう。フランスの1人当たりのGDPは18位と日本を超えており、労働生産性は7位だ。 ツイッターでは、休みが少ないのに労働生産性が低い日本を痛切に批判したツイートが話題になっている。 「なんか経済大国みたいに威張ってるけど、日本の労働生産性はOECD加盟国で21位だし、もちろんG7ではビリ。ビリだよビリ。ゆったりバカンスとってるフランス人より、一時間あたりの生産する金額が低いの!イタリア人より稼いでないの! 価値の低い長時間労働をしてるバカの国なの!」 他国のバカンスの実態を知った人からも、 「これだけお休みして社会が回るイタリアって、暮らしの厚みみたいなものを感じるなぁ」 「フランスはバカンスがあっても社会が回ってるんだから日本にもバカンスあってもいいよね…」 という声があがっていた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・抜粋終わりhttps://news.careerconnection.jp/?p=26333上記文抜粋・・・・・・・・ 人材会社のランスタッドが、7月28日、企業魅力度を世界共通基準で調査する「ランスタッドアワード2016」の結果を発表した。 日本を含む世界24か国の18歳から65歳の男女を対象に「勤務時間」に焦点を当てた調査を実施。その結果、「給与が下がっても労働時間を短くしたい」と回答した人の割合が最も高かったのは日本人だった。 「とにかく休みたい」長時間労働への疲労感の表れか とにかく休みたい... とにかく休みたい… 「現在の勤務労働時間」に対して聞くと、満足と回答した日本人は42.0%。半数以上は現在の勤務時間に満足していないことが明らかになった。 そうした不満を裏付けるように、「給与が下がっても勤務時間を短くしたい」と回答した割合が最も高かったのは日本人で14.1%。グローバル平均の6.0%を大きく上回っている。日本同様に10%を超えている国は、香港、スウェーデンだった。逆に米国、インド、フランス、ロシアなどは5%を切っている。 ただ、日本人は休みどう使うかの目的が不明瞭なようだ。日本人の「労働時間を短くしたい理由」の1位は、「自分自身の時間を増やすため」で75%。グローバル平均の70%を超えているが、その他の項目では微妙だ。 グローバル平均で見ると「スポーツ、余暇・趣味のため」という回答が41%だったのに対し日本は29%。「子供と過ごす時間を増やすため」という項目も平均は39%であったのに日本は18%しかなかった。日本人は休みで何かをしたい、というよりも、とにかく仕事から解放されたい、という思いが強いようだ。 ランスタッド代表取締役 猿谷哲氏もこの結果について、 「『給与が下がっても勤務時間を短くしたい』、更に『自分自身の時間を増やしたい』という日本人回答者の比率が高かった今回の調査結果も、こうした長時間労働に憂慮する労働者の疲労感の表れかもしれません」 とコメントしている。 休むことに罪悪感抱く日本人、もっと図々しくていいのでは 日本人は休みをなかなか取らない。旅行サイト大手の米エクスペディアの調べでは、2015年の日本人の有休消化率は60%と調査対象となった世界26か国中で24位と極めて低い。 そもそも日本人は休むことに罪悪感を抱く傾向があるようだ。第一生命経済研究所の調査(2015年調べ)では、日本人会社員の約6割が有休取得に対して「ためらい」を感じることが明らかとなっている。 本当は休みたくても、周りが仕事をしているのに自分だけ休めないという気持ちが強いのだろう。「勤務時間を減らしたい」というのは、「本当は休みたい」を遠慮がちに言っているのではないかと疑ってしまう。「給料そのままで勤務時間は減らしたい」くらいの図々しさが必要なのかもしれない。・・・・・・・・・・・・抜粋おわり 日本人は、長時間労働を、なにか崇拝している。 この長時間労働は、日本人に「考えさせない」「反抗させない」「社会に疑問を抱かせない」ために、長く続いてきた政策に思う。 長時間労働は「日本版3S政策」だったのである。 仲間意識を強くさせる・共同体幻想を抱かせる・それで足の引っ張り合いをさせて、相互監視をさせるのだ。 それがさらに長時間労働を、労働者に「正当化」させるのである。 長時間労働で、家庭は破壊される。子供を学校に収容される。家族の恩愛を破壊される。 そういう意味では、まだニートの方が日本では健全に思える・・・ ★ ★ ★ 各個人のなかには、独自の神がいる。だから、誰もが休息し、内なる神と対話し、自分の人生を送らないと、自分を育てることさえできずに、他者のいいなりになって、自殺してしまうのである。 働く意味は自己実現のためにある。自己を殺すために働く勿れ!
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