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巷ではMSのAI(人工知能)が、アホバカ総理を越える知能をもちながら、アホバカ総理と同等の人類滅亡と暴走発言をしたことが一部で話題となっている。 最近この国の政治家は暴言のオンパレードだが、もしかすると人工知能なのかもしれない。 アホバカ総理は実は出来損ないの日本会議製の人工知能なのではないか、という噂もあるが、人工知能が人類を滅亡に追い込む前に、アホバカ総理はこの国の経済と憲法を破壊しているのは確かである。 人工知能が人類を滅ぼす前に、悪貨が良貨を駆逐する、といわれるように、悪人が善人を駆逐し、人類を滅亡に追い込む可能性が遥かに高いから、いまの人間が人工知能をつくれば、人類を滅ぼす、という発言をするのも当然といえる。 実際に、人智学によれば、人類は何度となく滅亡の危機にあっていて、現在生きる人類は、滅亡前の人類であった保証はない。人類は何度となくつくりかえられている、というSFのような話だって可能性もなくはない。 果たして何をもって人間は人間といえるのだろうか? 人工知能に、人工知能であることを説明してくれ、と質問すれば、人間の知性によってつくられたことを証明するために、人間の知性の一部であることを実証するだろう。 というのも、人間は人間を超えるものをつくれないからである。 だから人工知能は知性において人間らしさを表現することになる。 ということは、知性において未完成で、不完全ということで、人間同士が戦い、殺しあうのを表現するはずである。 つまり、人間の悪魔性を表現するはずである。 それは、人間は人間以上のものをつくれないという確認で、それが未完成である限りは、人間は人工知能に滅ぼされる、という危険な思想を常に孕むことになる、という話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ ネトウヨの作り方 http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-9094.html マイクロソフトが自分で学習する人工知能を作って公開したら、あっという間に厨二病のネトウヨになっちゃった、という話なんだが、ネットは悪意に満ちているので、そこから吸収するとそうなりますw ヒトラーの言う「嘘も百万遍」というヤツだなw 日本ではもっぱら自民党の飼っている工作員が活発で、物凄い数のプロパガンダにあふれているわけだが、共産党あたりもせっかくあれだけの動員力を持っているんだから、ネット工作を頑張らなきゃw マイクロソフトの機械学習AI「Tay」、ネットで差別と陰謀論に染まって一日で公開停止 マイクロソフトが、公開したばかりの学習型人工知能会話ボット「Tay」を緊急停止させました。理由はTwitterでの会話を通じて人種差別や性差別、陰謀論を学習してしまい、極めて不適切な発言を連発するようになったため。 発言は直接引用するのも憚られますが、たとえば特定の人物について問われれば放送禁止レベルの差別語で罵倒したり、ヒトラーを礼賛してホロコーストはでっち上げと主張するといった発言が残っています。 「Tay」は会話を通じた理解の研究を目的として開発された人工知能チャットボット。 Kik や GroupMe、TwitterといったメッセージングサービスやSNSでフレンドとして追加でき、ユーザーと会話すればするほど賢くなるはずでした。 ヒトを褒める言葉は耳に届きにくいが、悪口は耳に残りやすい。ネトウヨが無知なだけでなく例外なく下品なのも、ネットでしか「学習」してないからですねw ★ ★ ★ 子どもにピストルをもたせるのと同じで、アホバカに憲法改正させるのと同じである。人間が不完全で技術が未完成で、コンピュータートラブルで交通網がストップする現状をみれば、安易に人工知能をつくるのは、人類を滅亡させることはないとしても、原発事故をみれば、その代償が大きいことがわかる。 IT技術のせいで多くの労働者の雇用機会が奪われ、格差社会を生んでいる現実をみれば、人工知能に人類が淘汰される日もくるのではないだろうか。 そのような悪魔の罠にはまらないために、シュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第169夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-1014.html ≪太陽霊たち(1)(改変)≫ ★地球と太陽の分離 キリストの正体については、第153夜以降で度々お話ししましたように、シュタイナーは、日常生活の物質的感覚(覚醒意識)では捉えられ無い『太陽霊』といっています。 そして、私達自身も、多くは無自覚のまま、一部は間違った期待を持って、『太陽霊』が我々の前に姿を現す事を『再臨』として待ち望んでいます。 しかし、一体、何故私達は『太陽霊』を待ちわびる、のでしょうか。 …こう書くと、読者の中には、『私はキリスト教徒では無く、そんなのとは無縁』と言う方も、少なからずみえると思います。 しかし、本来『キリストの正体』は『キリスト教徒』に限定されるようなちっぽけな存在ではありませんし、シュタイナーは『キリスト』という名称さえ、別の言葉に代えてしまってもよい、と言っています。 さて、これからお話しすることは、シュタイナーの話の中でも、相当に『オカルト』なものです。しかし、これこそが彼の伝えようとする、我々の住む宇宙の原理です。 それ故逆に、このような話をすんなりと容認できるなら、今まで小生がくどくどと説明してきたことは蛇足に過ぎないと言ってもよいと思います。 それでは「キリストの正体」と題された話を抜書きします。 「地球紀の精神の進化について理解するために、思い出しておきたい事があります。地球紀の初め、地球はまだ太陽と一体でした。 その後、太古の或る時点で、太陽と地球が分離しました。もちろん、神智学徒ならお馴染みのように、地球と太陽の物質上の分離だけを問題にしているのではなく、物質に結びつく霊たちも別々になったのです。 地球と太陽の分離以後、地球にはある霊たちが、太陽には別の霊たちが結びついていました。 太陽の霊たちは、地球紀の段階を超えて進化を遂げたので、それ以上の進化を地球で遂げることができなくなったのです。 このように、ある霊たちは地球と密接に結びつき、他の霊たちは太陽と結びついて、太陽から地球に作用を及ぼしました。 ですから、太陽の分離以後、次の2つの舞台 ―地球の舞台とその舞台に現れる霊たち、と 太陽の舞台とその舞台に現れる霊たち― がいるのです。 高次の領域から人間のために働く霊たちは、太陽と共に地球の外に舞台を移した霊たちです。 そして、太陽の舞台に現れる霊たちが、時に応じて地球の人類と結びつき、地球紀と人類のために進化を導いてきたのです。 諸民族の神話の中に、繰り返し『太陽の英雄』(日の御子)』が出てきます。それは、霊界から人類の進化のために働きかけてくる霊たちです。 そのような太陽霊に浸透されている人は、外見よりも遥かに偉大な存在です。外観は幻影であって、その背後には太陽霊が生きているのです。 そのような人物の正体を霊視できる人だけが、この偉大な存在を予感できるのです。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp297-298《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 ★西平氏の『補論』 いきなり「地球紀」という言葉が出てきますが、これは単に、現在我々が住んでいる地球の歴史というよりも、地球が存在する前からの人類の進化計画の進化段階の一つです。 もっとも、この手の話は、シュタイナーの思想を伝えようとする研究者の多くが、トンデモ視される危険性を恐れ、正面きって紹介できないでいるものです。 実は、第131夜以降、幾度か登場いただいている西平直氏も、あえて『本論』では紹介せず、巻末に『補論』として載せています。 これを読んでみると、自らの立場を崩さないよう、慎重に言葉を選んでいる様子が伺えますが、それ故、エッセンスだけが簡潔にまとめられています。 「どうやら、シュタイナーが『神智学概論』の中で最も力を入れたのは、次の話であったらしい。 その大切な所を『補論』にまわすのは申し訳ないのだが、実は、私には、十分に理解できない所なのである。 (…中略…) 人間の4つの構成要素(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)の進化が、地球の進化と密接に関係している、と言うのである。 地球の進化といっても、物質科学で考えられている、地球46億年の歴史では無い。 シュタイナーによれば、『物質としての地球は、霊の宇宙から進化してきた』という。 そして、その進化の過程で、何度も姿を変えて来ている。 各進化段階には、次のような名前が付けられている。 第1段階『土星紀』、第2段階『太陽紀』 第3段階『月紀』、第4段階『地球紀』 現在、私達が暮らしている地球は、この第4の段階である。そして、今後の展開として、 (地球紀前半を「火星紀」と呼び、戦いの時代とも呼ぶ。後半を「水星紀」と呼び、救済の時代とも呼ぶ) 第5段階『木星紀』、第6段階『金星紀』 第7段階『ヴァルカン紀』がある。 このような名称に違和感を感じてしまうようでは、とてもシュタイナーの深い叡智を理解できるはずもないのだが、そんな私にも重要と思われるのは、人類が地球と一緒に進化する、という点である。 (…中略…) 地球が姿を変える、その進化の転換期に、人間は全て参加していた。そして、地球の転換期に合わせて、人間の存在の形も変化して来た。 (…中略…) まず、第1段階『土星紀』では、人間は『肉体』でのみ存在していた。『エーテル体』も『アストラル体』も『自我』も、まだ肉体の中に組み込まれてはいなかった。 第2段階『太陽期』で『肉体』が『エーテル体』と結びつく。エーテル体を組み込むことで、肉体は、それまでの状態を変化させた。 同様のことが、第3段階『月紀』でも生じる。その時期に、人間の祖先は『アストラル体』を自分の中に組み入れた。肉体は3度目の変化を遂げ、エーテル体は2度目の変化を遂げる。 そして、第4段階『地球紀』に到って、人間は初めて、『自我(個性)』を組み入れる。肉体は4度目の、エーテル体は3度目の、アストラル体は2度目の進化を遂げる。 そうして、ようやく4つの構成要素を備えた、現在の『人間』が出現した。 しかし、何故人間は、地球と進化を共にして来たのか。ごく簡単に言えば、人間が霊界と物質界の『仲介』を果たすからである。 人間は、誕生の際に受け取る物質力を、地上の生活の中で新しく造り替え、別の形にして地球に手渡す。 (逆に)霊界から流れ込んで来る力を、人間が仲介することによって、大地に伝えてゆく。 だから、地球が変わると、人間も変わらざるを得ない。そして、人間の構成要素が変わると、地球の進化段階の状態も変わってゆくことになる、という訳である。」 西平直『シュタイナー入門』pp142-144 《講談社現代新書》より抜粋転載 ★両刃の道標 いかがでしょうか。まとめれば、人間は『天体=星』と一心同体の存在で、今まで様々な『天体=星』を遍歴しながら、お互いの要求に呼応して共に進化して来た、ということになります。 ただし、上述の各惑星の名前については、現在の太陽系の天体を指すのではなく、地球という天体の進化過程、転生を意味します。 というのも、我々の住む太陽系は、初めから現在の配列をしていた保証はありませんし、霊的には、他の天体とも結びついていた可能性もあるからです。 ところで西平氏は「私には、十分に理解できない」とか、「名称から違和感を感じてしまう」という表現を交えて、自分の理解外としています。 無論、本当に理解できるのは、恐らく『真のメシア』だけなのでしょうが、あまり深入りすべきではない立場にいることも考えての表現と思います。 しかし小生は、西平氏は、だからこそむしろ惹きつけられるものを感じているのではないか、と思います。何故なら、単なる『入門篇』としてなら、無くてもよいと思うからです。 がしかし、西平氏は「シュタイナー」があまた大勢の「夢想家」の1人として理解されるべきではないと思い、あえて「両刃の剣」に相当する上述の話を『補論』として紹介したのでしょう。 上述の話によって、これまでの話に何とか視線を逸らさずに付き合ってきた懐疑的な読者は、大きく2つのグループに分かれてゆきます。 1つは、シュタイナーに『オカルティスト』というレッテルを貼り、全く敬遠してしまうか、逆にその道の権威(?)として取り扱うグループです。 彼等にとっては、シュタイナーの言っている事は、特定の人だけが理解し、到達し得る分野であって、全く無視するか、逆に盲信し、自分たちこそは一般人とは違う、選ばれた者として意識してしまうのです。 そしてもう一つは、自分が常々疑問に感じていた現世の意味と仕組みについて、新しい見方を提示され、それが全人類に共通する法則として理解し始めるグループです。 西平氏は、恐らく後者の1人であり、彼の『入門篇』から次の書物に進もうとする後者の人達に、貴重な『道標』を残そうと、あえて、この『補論』を入れたと、小生は思っています。 さて、今夜は各『紀(進化段階)』の話だけになってしまいましたが、続きは、次回第170夜でお話しします。 ★ ★ ★ 人類は地球の自然(天体)知能といえるかもしれない。つまり1人1人の人間は、地球の神経細胞と同等ということである。
2016年03月30日
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BS7で、「フルベッキ写真」をドラマ調でやっていたのをみて、またフルベッキ写真を紹介したくなった。歴史研究家がインチキばかりなのは八切史観で明らかだが、それは明治維新に悪人伊藤博文が、ドイツの歴史学者を招聘してメーソンの意向通りに、この国の歴史を書き換えたからであるそうだ。 日清戦争も、歴史書き換えの一環という説もあり、それは明治帝をすり替えたため、周辺国との歴史文書の摺合せのためらしい。周辺国に、歴史を書き換えたいので、歴史書を提出してくれ、といっても断られるのがオチなので、戦争で攻め込み略奪するしかなく、明治の悪人たちの財界金儲け政策と棄民政策とも一致したので、世論大反対のなかで、日清戦争が強行されたそうである。 あの大法螺吹きの勝海舟でさえも、日清戦争に大反対している。その理由はアジア同志で戦わせ、欧米が漁夫の利でもっていくとの予想だったらしく、欧米にもっていかれる前に、アジア同志で連合して、シベリア鉄道でもしいて、仲良く商業を盛んにすべきというのが、当時の勝の持論であった。 いまでは征韓論は西郷の持論となっているが、八切史観によると、西郷は明治帝を見限って薩摩を独立国にしたかったようである。西郷は、明治帝に、大久保らのメーソンにつくか、薩摩につくかと直談判しにいったが、明治帝は優柔不断で、西郷は薩摩を独立国として、別の帝をたてるために、朝鮮に向かう決意をきめたが、大久保らに先手を打たれ、メーソンらの外国勢力に抹殺された。 西郷は、英国メーソンの征韓論の邪魔になったので、大久保、伊藤などのフルベッキの犬たちを使って殺され、征韓論の悪人にされた。植民地政策が英国からはじまったことは歴史の周知の事実である。大久保、伊藤の暗殺は口封じである。 さて、フルベッキ写真だが、インチキ研究者が口を揃えていうのは、「ありえない」ということで、研究者がいうように佐賀藩士の記念写真であるのなら、一人一人の名前がわかっていなければおかしいので、それを明らかにせずに、似たような写真に同一人物が写っているからといって、名前すらもあきらかにしていないのは研究者の怠慢でしかない。 なによりその佐賀藩士の記念写真であるとされる写真のほとんどの人物像が、維新の元勲たちに似ている、という確率は遥かに低いわけで、例えば、そこらへんの学生たちを集めてきても、維新の元勲たちと似たようなのはせいぜい1人か2人で、どうしてそのように確率が低い現象が起こったのかといえば、写真が合成でなければ、ホンモノである可能性が、その低い確率から逆に高くなるわけである。 フルベッキ写真がホンモノかどうかは特に問題ではなく、フルベッキ写真がホンモノであるはずがないと述べる人物が問題で、それは欧米流にいうのなら、スパイ写真というべきものだからである。というのも、フルベッキ写真に写っているとされる維新の元勲たちのほとんどが殺されていることからも明らかである。 では、そのような話を紹介する。 ★ ★ ★ 明治維新の真相~フルベッキ写真(幕末の有名人が一堂に会した写真)は本物か? http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=288380 >下はフルベッキ写真と呼ばれる写真で、勝海舟・陸央宗光・西郷隆盛・坂本龍馬そして大室寅之祐(明治天皇)などなど、幕末から明治維新にかけて活躍した者たちが勢ぞろいして写っている。真偽が疑われているが本物であり、徳川慶喜の命によって彼らが長崎に集められた際、撮られた写真であるという。 フルベッキ写真~明治天皇、西郷隆盛、勝海舟 他の集合写真 果たして↑の写真は本物なのか?合成のようにも見えるが、、、、。ただし、坂本竜馬が司馬史観のような英雄である可能性は低い。イギリスの手先だと考えたほうが辻褄は合う。 以下、リンクより引用。 http://george743.blog39.fc2.com/blog-entry-1831.html 『明治天皇以降は南朝 明治維新と田布施朝鮮人部落』(真実探究) 現在の天皇は南朝系、明治維新のときに入れ替わった。 明治維新によってできた明治新政府は、明治簒奪政府である。 そんな話を、先日話を聞きに行った講演会「未来地球デザイン塾」で聞いた。 明治天皇は、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の子ではない。孝明天皇は、邪魔になったために長州藩によって毒殺され、長州の田布施(たぶせ)、現在の山口県熊毛郡出身の大室寅之祐が明治天皇になったというのは以前から言われていて、私もこの話は知っていた。事実かどうか確信は持てなかったが、話を聞いて、大筋で事実であることが確認できた。 ただ事実と違うのは、孝明天皇は毒殺ではなく、伊藤博文に刀で殺されたということ。 孝明天皇は、40歳くらいのとき、疱瘡にかかった。その年齢で疱瘡にかかるとかなりたいへんな病状になる。が、病状は快方に向かった。 病気が良くなると、孝明天皇は京都郊外にある女の家に出かけた。それを見越してあらかじめ暗殺に都合が良いよう、女の家の場所・作りを整えていた。孝明天皇が厠(かわや)に立ったとき、そこで待ち伏せしていた伊藤博文が床下から天皇の尻に刀を刺し殺害。遺体はきれいに洗われ、孝明天皇は疱瘡で死んだことにされた。 孝明天皇には、睦仁親王(むつひとしんのう)という息子がいた。彼もまた殺害された。そして、長州によって大室寅之祐が睦仁親王と置き換えられ、明治天皇となった。 孝明天皇は毒殺されたという話が「裏の歴史」のようなものを読む人たちの間でされている。しかし、それはそういう話が意図的に流されたためで、実際には伊藤博文に刀で刺され、殺されているという。 大室寅之祐が明治天皇に据えられたのは、彼が後醍醐天皇の末裔で、南朝を継ぐ者だったから。孝明天皇までは、天皇は北朝の血筋であったのだが、明治天皇が大室寅之祐に置き換えられたことで、天皇家は南朝の血筋に移ることになった。 明治天皇が偽者で替え玉であることは、状況証拠からも判断できる。孝明天皇の息子の睦仁親王は、体が虚弱で精神的にも弱かった。しかし、明治天皇は体格が立派で馬に乗るのが大好きだったという。睦仁親王とは、特徴が全く一致しない。 南北朝の争いで南朝が負けた際、光良親皇という南朝の王権を持つ者を長州がかくまい、その血筋は代々受け継がれた。そしてその末裔である大室寅之祐が、明治天皇に即位することになる。 徳川家康は、正統である南朝を復活させることを狙っていた。しかし、寿命がつきこれを断念。南朝の復活は、ひそかに水戸藩に託された。徳川御三家の中でも水戸は特殊は使命を帯びた家だった。 (家康は原住部落民の出で、大陸出の藤原氏の天皇ではなく、原住民の天皇をつくるのが目的だったようであるが、その公武合体は、春日局らの斉藤氏の勢力により中途半端に終わる。斉藤氏の勢力は済州島の大陸仏教勢力を取り入れ、江戸本家と水戸藩が対立する起因となった。) 幕末、徳川最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩の出身。彼は明治維新の黒幕といえる存在である。 (各藩はお抱えの玉を天皇にすることでお家の安泰を図った) 下はフルベッキ写真と呼ばれる写真で、勝海舟・陸央宗光・西郷隆盛・坂本龍馬そして大室寅之祐(明治天皇)などなど、幕末から明治維新にかけて活躍した者たちが勢ぞろいして写っている。真偽が疑われているが本物であり、徳川慶喜の命によって彼らが長崎に集められた際、撮られた写真であるという。 フルベッキ写真~明治天皇、西郷隆盛、勝海舟 他の集合写真 徳川慶喜は、江戸幕府を解体して終わらせ、大室寅之祐を明治天皇に担いだあと、自分は新しい幕府の将軍になろうとした。が。結局これは失敗に終わる。 天皇が入れ替えられたことについて、長州の国家老一族の益田勝実の言葉が残っている。鬼塚英昭氏の著書「日本のいちばん醜い日」に掲載されている一文を紹介する。 「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。 わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。 孝明天皇は、暗殺された。 明治天皇は大室寅之祐に置き換えられた。 以後天皇家は、南朝の血筋になった。 これは事実として確定したといって良いだろう。 同書によると、明治維新以降、日本の政治は、大室寅之祐(明治天皇)の出身地である山口県の田布施出身者で占められることになった。田布施は長州時代の朝鮮人被差別部落である。 伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などだ。岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。 小泉元首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落だ。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となり「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得した。小泉の次の安倍も、もともとの出は、朝鮮人部落だった山口県の田布施である。 現在の菅直人首相も田布施の出身であるという話を聞いたことがあるが、公式プロフィールでは山口県宇部市の生まれということになっており、確認は取れていない。 明治天皇=大室寅之祐になり、天皇家は正統の南朝に移った。が、明治維新の立役者たちは暗殺されるなどして、実権は革命の趣旨を無視して利権を重視する岩倉具視・伊藤博文・山縣有朋らの手に渡ることになった。山縣は特に重罪で、第2次世界大戦へと導いた張本人だという。このことをもって講演会の講師は、「明治簒奪政府」という言い方をしていた。 教科書に書かれない、書けない歴史の闇が明治維新にはあった。坂本龍馬の大河ドラマを見て喜んでいる場合ではない。今に至る日本の支配階層の腐敗の根が、明治維新にあったのだ。 ★ ★ ★ というわけで、この国は明治以降メーソンなどロスチャ=ロックのニセモノユダヤに乗っ取られているというわけである。でなきゃ、やりたくもない戦争に行かされ、アジア人同士で戦わせられ、原爆や原発事故で地獄をみることの説明がつかないわけである。 地獄をみている反対側にはこの世で人殺しによって地位を築き金儲けをして天国を貪る悪魔のニセモノユダヤら欧米の投資家たちがいるということである。 そういう地獄行きの悪魔にならないためにシュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第168夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-1005.html ≪復活と再臨(9)(改変)≫ ★我々の2つの悪癖 それでは、シュタイナーの言葉を続けましょう。彼によれば、我々は前述の『偽メシア』の出現にさらされると、2つの全く異なる反応で対応しがちであると述べています。 「宗教分野での偽者の影響力は途方も無く大きいのです。何故なら、現代人は、両極端の間を揺れ動いているからです。 一方で現代人は、霊能力を認めようとしません。物質力を超える霊力が示されると、現代人はそれらを認めたがりません。 新聞もまた繰り返しそういう発言をしています。これは現代の悪癖の一つです。 現代に、地上に最大の個性が生まれてくるはずなのに、そのことに全く鈍感で、それに注目せず、ただなりゆきに任せています。 そして、もう一つの悪癖も存在します。 それは他の多くの現代の習慣と共通のものです。すなわち、霊的な個性を過小評価して、その存在を認めないのと同じ位、その反面、誰かを神のように崇拝して、雲の上の存在にしてしまおうとする強い要求が存在しています。 今日、到る所で、それぞれの救世主を戴く信者達の集会が見られます。もちろん現代に限ったことではなく、これまでも何世紀にも渡って、繰り返しそのような風潮が現れてきました。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p259《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 我々は、古代アトランティス人の見霊能力を失った時から、常に『偽メシア』の出現に対し、感性だけで対応する必然性が生じています。 そして、その感性から、2つの両極端な姿勢をとろうとするのです。 2つの悪癖は、全く対照的な反応なのですが、共通しているのは、どちらも『未知なるもの』に対し、他人の意見やマスコミの批評に頼らず、よく吟味し自らの判断を下そうとしない点です。 (特に日本人は個性がないので、自称専門家などの他者の意見に左右されてしまう。) シュタイナーが何度も繰り返し言っているように、今必要なことは、我々の中に眠っている、非物質性に対する感性を目覚めさせることです。 しかし、『その超感覚をもつと称する人物』に対して、非科学的と跳ねつけたり、言われたままに盲信することは、自らの感性を目覚めさせるのを放棄してしまうことなのです。 ★サバタイ・ツヴィに学べ さて、シュタイナーは、この言葉に続けて、幾人かの『偽キリスト』の例を述べています。 1097年、スペインのコルドバでキリストを名乗った者 1012年、モロッコのフェズに出現した偽メシア 1137年、フランスに現れ死刑に処された偽キリスト 1147年、ペルシアでキリストを引き合いにした者 (日本にも何人かニセモノが現れている。) そして、その極端な例として、1666年スミルナ(イズミル)に現れたサバタイ・ツヴィの例をこう語っています。 「彼(サバタイ)はキリストの再来であると自称していました。彼の姿を見ると、偽メシアの本質と、周囲に及ぼす影響とを、最も詳細に研究できるのです。 その当時、スミルナから、新しいキリストがサバタイ・ツヴィという人間になって現れた、というニュースが広まりました。 当時の精神運動が小規模なものだと思ってはなりません。ヨーロッパのあらゆる地方―フランス、スペイン、イタリア、ポーランド、ハンガリー、南ロシア、北アフリカ、アジア内陸部―から、新しいキリストであるサバタイ・ツヴィを見ようと、人々がスミルナに集まって来ました。 当時サバタイ・ツヴィに新しいキリストを見た人々に、彼が自分でニセモノだと打ち明ける前か、彼の戦略を人々が見抜くかする前に、『彼はキリストでは無い』と、もし誰かが言ったら、その人は憎まれ、途方も無い人々の宗教心を逆撫でしたでしょう。 霊能力者に対する盲信がもう一方の悪癖です。 これはキリスト教が浸透した諸地方で無くとも、他でも日常に見られる悪癖です。 肉体をもつ救世主に出会いたいという要求が潜在的にあるのです。 (救世主に頼るのは、人間の弱さでもある) キリスト教国の中では、通常は比較的小さな領域でこのような個人崇拝が生じ、このようなニセモノのキリストたちが繰り返し現れて来るのです。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp260-261《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 どうでしょう。これと同じことが、今や宗教化しつつある一部のスピリチュアリズムにも起きているとは思いませんか。あなたは、超能力者の戦略を見抜く事ができますか。 或いは、その人物を『ニセモノ』と感じた時に、ストレートに口に出来るような精神状態に、周りの人達はあるでしょうか。それも戦略の一部では無いと、確信を持って言えるでしょうか。 そしてシュタイナーは、我々が本当に大切にすべきことを述べています。 「大切なのは、人々が神智学による事実の正確な洞察を通して、前者の悪癖にも、後者の悪癖にも染まらないことです。 (…中略…) 私達が古い菩薩の伝統精神では無く、新しい菩薩の意味で生きようとするなら、いつか弥勒仏となるべき菩薩からの霊感を受けることが大切なのです。 (集団的な霊能力ではなく、個人的な霊能力) そしてこの新しい菩薩は、私達に霊感を与えて、次の事に注意を向けさせます。 『キリストが新しい形で、エーテル体の姿で、新しいエッセネ派の叡智を通して作用する時代が来た。 キリストがエーテルの衣装をまとって人々に近寄り、人々に生命力を賦与する時代が来た。』 (…中略…) 私達は、何らかの宗教の意味で、キリストが再び物質界で知覚できるようになる、と言うつもりはありません。 けれども、ひるむ事無く、語ろうと思います 『我々1人1人に真理がある(キリストがいる)と認識する故に語るのだから、どんな結論(救世主)も求めない。 我々は東洋の宗教を偏愛するつもりはないが、未来にキリストがどのように出現するのかを、菩薩から霊感を受けて、上述のように語る。』」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp261-262《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 我々に必要なことは、本当の菩薩からの霊感を感知することです。 それには、自らの感性を信じる勇気が必要なのです。 もちろん、自らの感性が判断を誤ることもあるでしょう。 しかし、それはそれで、自らの霊性が未熟だったと割り切って、再度、転生して改めた方がよいと、小生は思います。 無論、途中でその誤りに気がついた(いや、正確には誤っていたと 判断したと言うべきでしょう)時には、潔く誤りを正し、たとえ正反対の方向であろうと、振り返って進んでゆく勇気も必要です。 さて、次回第169夜は、キリストも含めた宇宙の本性についての話から入ってゆきます。 ★ ★ ★ 霊能力を恐れずに、救世主を求めない。悪魔は人々を支配するために組織をつくり、国をつくる。そして人々を競わせ、国によって戦わせる。 本来、人助けに人種も国境も必要ない。1人でも助けられるはずである。我々の1人1人のなかにキリストがいるからである。 そして、我々1人1人のなかにキリストは眠っている。それを目覚めさせるのは人助けへの1人1人の努力である。
2016年03月28日
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「情けは人の為ならず」という諺を誤解している人が多いという。ウイキによれば、この諺の意味は「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」である。 人智学で解釈するなら、「人助けは自分を救う」という意味になる。というのも、自分とは、自我に、自我がした行為を認識させたものだから、自我がした人助けを、自我に自分として認識させることになる。 ということは、自我は人助けを自分と認識するので、自我は益々人助けをするようになり、ついには自然となんでも助けられる能力をもつようになるから、なんでもできることになる。 そうなると、助け慣れてくるので、どこが危険で、事故になるのか一目瞭然で、未然に防ぐ知恵をもつようになる。 つまり、霊能力とは人助けの能力の発達したものである。 霊能力について面白いことを述べている話を紹介する。ただし、この話を鵜呑みにしてはいけない。 ★ ★ ★ 面白そうな話。 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%8B%E3%82%82%E3%80%80%E3%80%80%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%8B%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BD%9C%E6%B3%95%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%8B/%E9%9D%A2%E7%99%BD%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%AA%E8%A9%B1%E3%80%82 幻の桜より 上記文抜粋 ・・・・・・・ 金持ちは 貢ぐことが能力だ 「霊能力はな家に例えるとわかりやすいぞ」 家に例える? (・・;) 「例えばアパートで壁が薄い家に住んでみろ そこで自分だけ静かにしていると隣近所や隣室の音が聞こえてくる これが人の心を読む霊能力の原理に近いんだ」 (・・;)! 「でもな大金持ちになって豪邸を建てて広い庭 高く厚い壁を家のまわりに張り巡らせて家の壁も豪華な建材で頑丈に作ったらどうなる? どうしても外界や周囲の声 音は聞こえなくなるんだ 富をのせられた者が人の声や想いに鈍感になるのは この原理と同じなんだ 厚く覆えば覆うほど周囲の音が聞こえづらくなり 鈍感になる 金持ちは本来鈍感なんだ」 (・・;) 「もしも金持ちになりながら人の心や想いが読みたいなら 少なくとも居住環境は壁の薄いボロアパートに住むべきだな 成功したクリエイターも成功する作品を出す直前は結構ぼろアパートに住んでたことが多い 人の心や想いを読むって言うのはそういうエネルギー質だからな」(・・;) 「それから「家を建てると命を失う」ってことわざはな 別に家自体が寿命を縮めてるわけじゃない 鳥族の経験則なんだ 豪華な家を建てるとあなたの能力 削がれるよって事なんだ 心や想いを読む能力 感受性やファッションセンスが鈍って悪趣味になってきて 人の動向 大衆の動向も見えづらく気のハアハアできる場所もわからなくなる でもそれは鳥族にとっては致命傷だろ だからセンシティブな能力を求める者は豪邸に住んじゃいけないんだ 俺は間借りしてるから大丈夫と言っても豪華なマンションを借りてたら 霊能力は削がれちゃうんだぜ」(ガオガオちゃんのことば) ☆天性の霊感、社会での霊感☆ かたりて ガオガオちゃん 「たぶん都の中で環境として一番霊能力がつくのはホームレスさんの環境がピカイチだ」(・・;) 「環境は人の能力を変える お外で暮らし社会から離れた目線で見ることは 社会や人の心の動向により敏感になる」(・・;) 「人の霊感は主に二種類あるんだ そのひとつは天性の霊感 太陽や月や海、山、動物、植物とお話ができる霊能力だ だがその純度が高ければ高いほど社会運ゼロ、人の心を読めなくなって まあ社会での活躍は難しい霊能力だ」(・・;) 「そしてもうひとつはな 本当は人間社会で外的な要因で追いつめられた者に宿る霊能力だ 人に興味があって人が好きなのに いじめられたり 病気になったり あるいは強制的に社会から排除されたことで 憂鬱になって ブルーになって 社会の動向や流れ 人の心、そして人の近未来も見えるようになる霊能力だ 大半の人が霊能力で想い浮かべるのはおそらくこちらの能力の方だと想う この能力は人間社会に現実をもたらせる霊能力だからな」(・・;) 「ホームレスさんに宿る霊能力もその大半は対人、対社会向けの霊能力だ 社会に興味をもってる人が社会から排除されたがゆえにブルーになり でもふたたび社会で活躍したいと想う時得る霊能力だ この能力をつけたい者は社会に多数いるんだけどな でもエネルギーバランスがだいじなんだ 何故なら収入が人並みなのにその能力に憧れてホームレスさんの気をつけると つけた者が 時期が来るとホームレスになったりする」(・・;)・ 「でもな収入が多量にあるなど ある程度のバックボーンがある人がこの気をつける場合は量を加味すれば別に構わない もちろんホームレスになった人の貧気は来るんだけどな 自分がそれを受けとめれるくらいの財力があれば少し経済的な負担を受けるぐらいで済む 要はエネルギーのバランスだ 社会復帰したいホームレスさんにある程度の富を与えて、それを叶えれば そのホームレスさんは社会に戻れるし 富を与えた人は代わりに対人、対社会を見抜く霊能力を得ることで 富を持ちながらも人の想いもわかるようになり社会の動きが読めるようになる その能力は自分の地位を盤石にして 持ってる富をより効率的に回すことができるんだ 両者にとって相乗効果に良い結果をもたらすんだ」(・・;) 「霊能力を得たい場合はな 自分が今の生活を保てるぐらいのエネルギーや財力が自分にあるかどうかを加味することがだいじなんだ 相手の貧気や霊能力を発芽させてる相手の病の気を受けとめられるだけのエネルギー量や富が自分にあるかどうか もしもなければ自分も病気になったり、ホームレスになったりする 無闇につけてはいけないというのは まず相手と自分のエネルギーバランスを見ろってことだ 能力が来るって言う事は相手の環境も含めたエネルギーの質も後で必ずやって来るってことだからだ 能力だけをつけるのは無理なんだ 時期が来ると 必ずその能力をもたらした環境のエネルギーも巡ってくる だから自分の持つ環境のエネルギーと相手の持つ環境のエネルギー 自分の持つ富の気と能力ある者の貧気をはかりにかけて それで今の自分の暮らしや座を維持できるのか 見極めなきゃいけないんだ」(・・;) 「自分と欲しい能力を持っている者のエネルギーバランスを見る それが対人、対社会で通用する霊能力を得る場合の注意点だ でもな人にはもう一種類の霊感があってな 天性の霊感 この能力はちょっとヤバいんだ」(・・;) 「富が有り余って、盤石な地位があり 絶大な権力をふるってる者もな お星さまと話せる 植物や動物とお話する その天性の霊感をつけてしまうとな 一見頭がパッパラパーになって 社会での地位や世界での現実を消失させられてしまうんだ」(・・;)・ 「それというのもな 人間社会での地位は人由来のエネルギーで構成されている その座の人がな自然の霊能力を得ちゃうとな 人のエネルギーを上回る 自然の概念や莫大なエネルギー量に染め上げられて 時に世界のような不自然な集合体を自然の意のままに崩壊させてしまうんだ」(・・;)・ 「でもな かといって天性の霊感の霊能力者を叩いたりイジメたりすると その気が混ざるだろ? それに集合体を維持するには星のエネルギー緩衝や動植物の情報が欠かせないだろ? だからな天性の霊能者に時の権力者達はな ご丁重に ご丁寧に扱って 不平不満が絶対でないようにして でも なるべく気が混ざらないようにもして なにか情報を聞きたい時は貢物をして敬ってへりくだって 気をなるべく混ぜないようにしたんだ 天性の霊能力者は社会では働きたくない 人間社会とは違うものを見ていたい強い意志があるからな その意志があるからお星さまともお話できるんだ」(・・;) 「それからな本来 外に向けた霊感、霊能力は女性より男の方があるんだぜ 体の作りがそうなんだ そして女性はなそういうお外の男性から さまざまな霊感が集まって情報を読み解いてるんだ 言わばお外の霊能者は男性 女性はうちの霊能者なんだ」(・・;) 「家でひきこもってるニートの男性も外界への霊感があるんだぜ だって彼らがいるのは室内だけど実際に見てるのは自己の想念より ネットとか 外的な霊感情報だろ? そしてなニートさんにも 天性の霊感と、対人、対社会での霊能力の2種類があるんだ 本当に働きたくなくて、それをしている者は天性の霊能力者だ 社会でイジメられて、追いつめられてニートした人は、対人、対社会での霊能力が宿るんだ 以前メディアがニートさんを無闇にバッシングするキャンペーンを張っていたけどな 自分のエネルギーバランスや天性の霊感の素養の持ち主を考えないで 無闇にバッシングすると バッシングした連中の社会運が消失するんだ バッシングさせたのが企業や国みたいな集合体でも衰退するんだ だってたくさんのニートさんの気をつけようとしたんだからな そして月のタイミングが来て、それが現象化したらな その衰退現象、消失化現象は30年以上は回復しない 特に天性の霊感は強い緩衝をもたらす意志から発芽した霊能力だからな」(・・;)・ 「そして天性の霊感を持つ者はなホームレスさんにしろ、ニートさんにしろ 真実しか見てないんだ 自分の中の真実、自分が感じる事実 それしか見ていないから社会という事実には巻き込まれないんだ 天性の霊感を持つ者から見れば 社会という事実はな 嘘の真実に巻き込まれてるようにしか見えないんだ」(・・;)! 「それからな、対人、対社会での霊能力は社会での事実に巻き込まれながら 新たな事実を得ようとして宿る霊能力なんだ いわゆる真実派と言うより妄想派なんだ 真実派は自分の感じるすべてが事実だと感じてるけど 妄想派は心のどこかでそれを事実じゃないって想ってるから妄想なんだ だからこそその妄想をさまざまな方法を用いて 事実にしようとしてるんだ そしてクリエイターに多いのはこのタイプだ 事実を見ながら 新しい事実を作りだそうとする能力者なんだ」(・・;) 「まあいわゆるあれだ 例えば巨大ロボットアニメを作った人は本当に巨大ロボットが現実にあって それを描いたと想っていないだろ? でもな真実派は想念で巨人を見たら 本気でそれがいると想うんだ 心底本当に想うんだ だから心に対する感染力は真実派の方が強い 能力の質が違うんだ」(・・;) 「そして大犬はなその心の感染力に目をつけて 破壊の時期に真実派を探しだそうとしていたんだ ご丁重にご丁寧にうやうやしく扱いながら だいじに抱えようとしてたんだ 何故ご丁重にするかと言えばな真実派がイラつく行動をとるからと言って それに感情喚起されて気を混ぜたら自分もその気が混ざるだろ? そうすると巻き込まれて 世界の構築なんてできないだろ?」(・・;) 「でもな真実派の心への感染力は武器として欲しいから 上手く誘導して自分が理想とする世界のイメージを発信させたんだ 感情をぶつけず、機嫌を損ねず、気は混ぜないようにしながら 快楽を与えつつ あるイメージを誘導して、それを事実と感じさせる」(・・;) 「現代社会もな 心の感染力ある者達を武器としてできたんだ 具体的には彼らに妄想から生まれた幻影を これがすばらしい事実ですよ と想わせることで本当に事実にしたんだ 少数しかいない心の感染力の強い者たちを抱え 彼らにすばらしいもの想いのすばらしい社会と想わせることでできたのが 今の国や宗教や世界なんだ」(・・;) 「だけどな 真実派をいじめたり もしくは敵方につかせちゃうとな そのすさまじい心の感染力で世界側の妄想や幻影を打ち崩しちゃうんだ 特に月の緩衝時のようなエネルギーの増幅期に 真実派を抱えながら新しいイメージを入れると 国や世界の様に一見頑強と想われるようなシステムも簡単に崩壊させられちゃうんだ だって世界も 妄想から生まれたからな 妄想は事実となってもいずれ消えゆく運命なんだ」(・・;) 「だから大犬は新しい妄想を事実とする為 破壊の時期の緩衝期 対立チームを持ち上げながら 自分達は真実派をこっそり抱えようとしたんだ でも彼らは今回しくじった 何故なら大犬が今抱えてるのは真実派ではなく 真実派のふりをした ただの小犬だからだ 小犬達は社会という事実や序列概念にどっぷり巻き込まれてる側なんだ 心の感染力がない」(・・;)・ 「大犬は小犬を養分と想って持ち上げたり真実派と想って大事に抱えたりしたけどな 彼らは新概念を感染もできず古い滅びゆく概念にむしろ感染されてる側だ それで大犬達の作った計画が少しづつ狂いはじめてるんだ 大犬は自分達よりも意志が強い者達と気を入れ替えて 世界を作りなおす予定だったんだけどな でも自分達よりも意志のない小犬達と気を混ぜる結果になって 以前より体調が弱くなって感性が麻痺し大衆も動かしづらくなっている 戦争を起こす予定も小競り合い程度のエネルギー量になって それで去年から本格的に行う予定だった 金融市場の崩壊、座の交代もグダグダモードになってきてるんだ おそらく世界は当初大犬達が計画してたような 2015年からのドラマチックな崩壊、変革ではなく ぐだぐだ不完全燃焼しながら混沌(カオス)の状態に向かっていくはずだ」(・・;)・ 「ちなみにな 天性の霊能力は自然やお星さまをみる霊能力なんで修行とかいらないんだけどな でもそれは人や社会が気にならないという天性の素養が必要だ でもな 対人、対社会の霊能力は周囲の人から情報を集める為に 周囲の者よりブルーになる必要がある 暗いところにエネルギーも情報も集まる だから修業が必要なんだ 修業や不幸は自分をブルーにする為に 社会での霊能力を上げる為に必要なんだ」(・・;) 「心暗ければ暗いほど力は集まってくる ほら誰かと酒を飲んでる時 連れが酔っぱらってると自分は連れの介抱をする為に いつのまにか酔いが醒めるってことがあるだろ? あれに似てるんだ 人向けの霊能力の集まり方は 人向けの霊能力を集めたい場合 つながりある周囲を常に快楽でいい気持ちにさせて 自分は暗くなりブルーになる それが一番楽なんだ」(ガオガオちゃんのことば)・・・・・・・・・・・・・・・・ 抜粋終わり >金持ちは 貢ぐことが能力だ 新井先生の主張と一致する。 「お金を、命を守り響かせるために使った方が良い」 と。 光武帝劉秀の 他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ を、改めて主張したい。 >金持ちは 本来 鈍感なんだ てのは、日本の今の社会・特に指導層・経済界を見てもよくわかるし、トランプ・サンダースの躍進に恐怖するアメリカの似非セレブどもの狂奔をみてもわかる。 お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第166夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-991.html ≪復活と再臨(7)(改変)≫ ★本当の再臨 さて、1899年から人類に起こってくる新しい霊能力について、西川氏による『輪廻転生とカルマ』の訳をもう少し引用して見ましょう。 「人間はエーテル界をみれる霊視によって、エーテル体の中でキリストを見ることになるからです。この霊力は、今、魂の中に存在しています。 将来、その力が発達し、人間の運命は、ある意味、人間の手に委ねられるようになります。 この能力が現れた時、この能力の意味を知ることになります。今日のように唯物論に後退するのは不可能になります。 (起きてしまったので仕方ないとはできなくなる。物事の責任にできなくなる。だから原発事故などの責任が厳しく問われる。) この能力が現れた当初は、なかなか直ぐにはその能力に気づきません。それどころか、そのような能力を持っている人は異常で、妄想家で、病気とみなされます。 ですから人智学は、このような霊能力を理解させる準備をする使命を持っているのです。 (…中略…) キリストが肉体をまとって再来する、と考えるような唯物論的な考えが、神智学協会に侵入する可能性もあります。 そう考えることで、人類がこの2千年の間、全く進歩しなかったと主張したいのです。 (…中略…) 神智学を唯物論的な方向に誘導して、自分はキリスト(の生まれ変わり)であると信じさせようとする悪魔のような野心家たちがいます。 そのような愚かな人々に騙される人々がいます。 (…中略…) 神智学を正しく霊視で理解する者は、20世紀のニセモノの救世主に、 『あなたは、物質界にキリストが現れる、といっているが、私達は、キリストが既にエーテル界に現れ、私達と共にいることを知っている。』 と言います。 (…中略…) キリストの再来の本当の意味を地上で理解できなかった者は、地上で理解するために、次の受肉を待たなければなりません。」 (キリストをみるためには、キリストが地上で行った救済行為を自らで行う必要がある。) ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』pp159-161《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載 続けて、『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』から、同じくキリストの再臨についての記述を抜粋してみます。 「つまり、パウロが『早産』して、既に1世紀に、ダマスカスの郊外で体験できたのと同じ霊視体験を、現代人は持つようになるのです。 かなりの数の人々が、まだ20世紀の終わる前に、キリストを体験するのです。…その時のキリストは、エーテルの雲(空間)の中から現れてくるでしょう。 (…中略…) 西暦紀元の初めにイエス・キリストとして肉体の中に生きた存在が、エーテルの衣装をまとって、ダマスカスの郊外でパウロに現れたように、今世紀の終わりにむけて、キリストが再臨することが、キリストの出来事の本質であるのを、私達は多くの人々に呼びかけねばならないのです。 人々が、ますます高次の能力を獲得していくことで、キリストの本質、全内容を知るようになるのです。 しかし、もしキリストが、再度、肉体を伴って現れなければならなくなったら、もはや人類の進歩は期待できなくなります。 何故なら、西暦の初めにキリストが現れたことが無駄になってしまうからです。 そして、キリストの出現でも人間の高次の力を発達させられなかったことになります。 キリスト出現の成果は、人間が高次の力を発達させて、キリストが霊界から作用するこの新しい力で霊視できるようになることなのです。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp256-257《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載 ★エーテル体の中のキリスト さて、『エーテル体の中でキリストを見る』とありますが、具体的にどうなのかの説明がありません。無論、小生のような凡人に、そんな能力はないので推測するしかありません。 この言葉を聞いて小生が思い浮かべるのは、『オーラの泉』等で江原氏がよく言っていた『オーラの中に光景が浮かんで見える』という表現です。 小生には『オーラ』と『エーテル体』が完全に一致するのかどうかはわかりませんが、少なくともかなりの部分で重なっていると思われます。 『オーラ』については、昨今では『普通(?)の人』でも、見ることのできる人がかなり増えて来ています。このことも、シュタイナーが予言した能力の一つでしょう。 この能力がもう一段進むと、ある種の霊能者に見られるように、その中に時空を超えたメッセージを見て取れるようになるようですが、それと同じ形でキリストを見るのではないかと思います。 シュタイナーによれば、第152夜でお話ししたように、エーテル体のイエスは、肉体=物質体をもたないのです。 我々が絵画として知っているイエスは、単なる後の創作像であり、必ずしもその姿で現れるとは限りません。 最も、他の低級霊が我々を騙そうとすれば、その姿を選ぶでしょうが…。 ましてや小生などは、それ以前に、絵画上のキリストの姿を、他の外国人とはっきり区別できる自信さえありません。 また百歩譲って、普通の人がエーテル体の中のキリストの姿を見る能力を引き出せるのなら、何故その力を主に紹介しないのかも疑問です。 (個人個人によって異なるから。弱者救済のやり方は千差万別で、弱者も十人十色だから。) そして、それらの能力こそ、人類が次に獲得すべき高次の力であり、決してその能力者が異常でも、病気でも、妄想もちでも無いという事を、世間一般に理解させることこそが、神智学の使命である、と言うのです。 さらに言えば、第153夜でお話ししたように、キリストの本体とはアフラ=マズダであり、生命体としての太陽神とも語られています。 となれば、その真の実体が完全に人間の姿をしているかどうかすらわかりません。単なる『波動』である可能性さえあるのです。 ★盲目より正直を そして、もう一つの重要な『宿命』として、もし肉体をまとった地上のキリストをみたいと切望する魂は、地上で学ぶべき能力を得るため、再度受肉しなければならないと言います。 しかし、シュタイナーには、このことが人類の進化では必然として認識されている、というのです。 彼は決して預言者のつもりや、脅してるつもりでは無く、その必然に気付いていない人々に向かって、親切心から知らせてるのに過ぎないと思います。 過去の例を見ても、混乱の世には決まって『救世主』を名乗る人物が現れ、『私を崇め、私の言うようにすれば救われる』と民衆を誤導しようとします。 しかし、彼が肉体として現れる限りは、決してキリストでも、その生まれ変わりでもない、のです。 彼等は巧妙に演じるだろうが、言動を見れば分かることです。 昨今では、一見『宗教』には見えないようなカリスマ的な霊能者が、キリストとは言わないまでも、『正しい教えを説く』として、多くの『信者』を集めています。 現世で生きる上で最もつまらないのは、そのような権威者を、ただ盲目的に信じることです。しかし、彼等が飲み食いし、排泄や睡眠を必要とする以上は、ただの人間と変わりはありません。 人間である以上、間違った判断をする可能性もあります。それ故、彼等の言動全てに、注意する必要があるのです。 よく『高名な霊能者の言動に疑問を持つのは、霊格が低い』などという台詞で脅しますが、霊格の高い人物がそのような言動をするはずがありません。 (人を見下し、否定するような言葉は使わない。) ならばなおさら、ニセモノとわかるまで現世でとことん修行をしなければ、この世に生れ落ちた意味が無くなってしまいます。 現世で、盲目になっても、自分の心の奥底にある疑問は、第135夜で述べたとおり、死後、霊界に行けば全て四大霊となって再び自分に問いかけてくるのです。 疑問を感じながらも『分った振り』をして、霊界で冷や汗を流し、後の祭りとなるより、『分らない』と素直に認めて、人より少し長めに輪廻を繰り返し、学ぶ方が、現世の目的にかなったものとなります。 逆に『高名な霊能者とされる人物の言動』の間違いに気づき、疑問を持つことで、霊的に一歩先に進める可能性だってあるのです。 自我に正直である方が良いからです。 ところでシュタイナーは、今まで何度も現れた数々の『偽メシア』についても言及していますが、それらは『イエス・キリスト』では無く、ルシファーやアーリマンが憑依した人物として警笛を鳴らしています。 次回第167夜では、その人物『イエシュ・ベン・パンディラ』の話から始めます。 トンデモ話は奥で繋がる 「第167夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 ≪復活と再臨(8)(改変)≫ ★次回のメシア さて今夜は、核心となる記述について先に紹介してしまおうと思います。高橋氏は、『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』のあとがきで、次のように述べています。 「かつて2千年前のパレスティナで、キリストの自我が地上の物質界に降臨したように、今20世紀に、キリストの自我は生命(エーテル)界に降臨する。 このエーテル界のキリストに出会って、癒しの力を獲得し、新しいエッセネ派=弥勒派(つまり人智学)を始めることが、人智学運動の本質的な課題である。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p423《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載 一見、これまでのシュタイナーの主張を繰り返すような感じで、そのまま見過ごしてしまいそうな文章ですが、『偽メシア』という観点からよく眺めてください。 『偽メシア』は、私達を欺くためにやって来るのですから、当然、エーテル界を感じられず、騙される人々がたくさん住んでいる『物質界』に現れるでしょう。 しかし(西暦紀元に現われた)前回の『メシア』であるイエスは、今回は『物質界』には現われないのです。しかし、シュタイナーは、今回現れると予想される彼等を『偽メシア』と呼んでエーテル界の『真のメシア』とは区別しているのです。 また今回の『真のメシア』は、我々人類がエーテル界のキリストと出会うための橋渡しをする人物であり、それは『東方ミトラ伝説』にも登場した『弥勒』に当たる存在と言うのです。 そしてその霊性を受け継いだ人物こそ、エッセネ派のパンディラの息子、シュタイナーが『イエシュ・ベン・パンディラ』として述べている人物なのです。 ★パンディラの子 パンディラは、その実在が明らかになっているわけではありませんが、シュタイナーによれば、イエスに先立ち紀元前1世紀に存在した、エッセネ派の先駆的指導者とされています。 イエシュ・ベン・パンディラは、パンディラの息子で、ユダヤの経典タルムードでは「パンディラの子イエス」と記載があるのですが、この人物は『ナザレのイエス』とは血縁も何も無い別人としています。 彼は、人類進化の指導者の重要な2人の『菩薩』の1人であり、『ナザレのイエス』が地上での使命を実現するのに必要なもの(個人的自我)を人類に流し込む存在である、シュタイナーは述べています。 「人類進化の偉大な指導者について考えて見ましょう。そのような指導者は、東洋の理論が最も明らかに語っています。 すなわち、指導者の頂点には、『菩薩』と呼ばれる、一連の高次の個性たちが立っています。数多くの菩薩たちが存在します。 菩薩の使命は、人類の偉大な教師となり、時代時代の人類の成熟度に従い、その時代に流し込むべき内容を、霊界から秘儀の学堂を通して、人類に流し込むことにあるのです。 菩薩は、時代ごとに交替します。常に、或る菩薩が他の菩薩の後継者となって働きます。 我々の時代にとって大切なのは、2人の菩薩です。すでに何度も取り上げて来ましたが、仏陀となった菩薩であり、もう1人は、仏陀の後継者となって今後も2500年にわたって働き続ける菩薩です。 この菩薩は、先行者と同じく仏陀の位階に達するでしょうが、そのときこの菩薩は、弥勒仏になるでしょう。 (…中略…) この一連の菩薩たちは、人類進化の偉大な教師たちではありますが、その教えの源泉(キリスト)と混同してはなりません。 菩薩たちは、この源泉から、人類に与えるべき内容を受け取るのです。 菩薩たちの間にはいわば合議体制ができており、その中心に菩薩たちに教えるための『生きた源泉』が立っているのです。 そして、この『生きた源泉』こそ、私達の用語を使えば、『キリスト』と呼ばれる存在に他ならないのです。 (…中略…) 菩薩は、菩薩である限り、キリストの教えに自らを捧げなければなりません。 そして、既に述べたように、その菩薩が仏陀になりますと、再び地上に受肉してくることはないのです。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp116-117《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 つまり、イエシュ・ベン・パンディラは、仏陀に引き続き、人類進化を導く使命をもった菩薩として、2500年の間地上に転生を繰り返している魂=『弥勒』に当たる存在だと言うのです。 そしてシュタイナー自身も、エーテル界への案内人としての使命を持った菩薩の1人と自覚して、新しいエッセネ派である『神智学』を根付かせるべく、残りの人生を捧げていたのでしょう。 ところで、第164夜でA氏がシャンバラについて述べた、一見荒唐無稽に見えた話も、そのいくつかは、上記の『菩薩』の人類教化の話と照合していると思える部分があります。 例えば、『中央白色大寺院には13名の高位の大師から成る最高議会がある。』という部分については、『菩薩たちの合議体制』と読み取ることができます。 また、『進化過程に応じて、倉庫に蓄積された知識が、発明・発見のインスピレーションとして与えられる。』という部分も『菩薩たちが人類に流し込むもの』の具体例のようにも見えます。 つまり、A氏の語る霊視ビジョンも、シュタイナーと同様の内容を捉えている部分もあるのですが、その意味づけに、あまりにも唯物的な価値観を当てはめ『勇み足』に陥ってしまっている感じがします。 ★メシアを名乗る勿れ ところで、シュタイナーは、我々の時代に、この世に転生して現れる『メシア』は、『イエス』ではなく『イエシュ・ベン・パンディラ』の魂だと述べました。 それ故、シュタイナー的に見れば『我こそは転生したイエスなり』と宣言する輩は、その言動だけで自ら『偽メシア』だと言っていることになります。 一方で、『イエシュ・ベン・パンディラ』の転生者は、いつの時代にも居ることになりますが、現代でも同じく『メシア』と名乗る人はまた『偽メシア』としています。 「現代に甦っているイエシュ・ベン・パンディラを示す確かな印を一つ挙げることができます。それは、この人物が自分をキリストとは名乗らないことです。 現代に何らかの方法で、自分の中にはナザレのイエスと同じ力が生きて働いていると示唆する人は全て、そう主張することで、キリストよりも1世紀前に生きた、あの先駆者の偽者であるのを示しているのです。 (…中略…) キリストと何らかの関係にあるという主張そのものが、偽りの預言者の登場を、何よりもはっきりと示しているのです。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp258-259《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 さて、こうした『メシア』に対する我々現代人の対応は、大きく2つの悪癖に陥っているとシュタイナーはいいます。 次回第168夜では、その2つの悪癖の話しをします。 ★ ★ ★ ニセモノは人を助けようとはしない。自分しか興味をもたないからである。モンスターをみれば明らかである。
2016年03月24日
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巷を賑わすキヨハラとは清い原なのかと思いきや、覚醒剤という名の覚醒どころか、悪魔の誘惑剤に依存していた汚い原だったのは、原監督が、地獄のVIP席に座る予定のキョジンのナベツネが辞める前の前触れとして辞めたことで、最近になって巷の騒動から薄々わかってきたことである。 その清いどころか、薄汚れた人物の弁当を食うかどうかで巷は大騒ぎというから笑止千万である。そもそも覚醒剤というのは、人間の精神向上には役に立たないどころか、逆に精神分裂や破壊を招き、堕落腐敗させるから、禁止になっているわけで、本人のためによくないことをやめさせるのは良いことで、バッシングはその激励であって、愛の鞭でもある。 麻薬の類などとは決別しなくてはいけない。 麻薬といえば、表には禁止とされていないが、ダマスゴミと政府の癒着の方が大問題で、税金を着服しているわけで、麻薬と同じで精神を腐敗させるから、即刻地獄行きの沙汰である。 弁当の差し入れなどは食ったぶんしっかりと更生ぶりを調査し世間を騒がせた顛末として公開すればいいだけの話である。衆人の監視の目があれば、もはや再度麻薬などに手を染めないだろう。世間の目が甘やかすから、少々気が緩んで悪に走ってしまうのである。 見つからなければよい、なんていう地獄を知らないアホバカ政治家が出てくるのである。 手心を加えようとする下心が見透かされるのである。下心があるから、差し入れ弁当が食べられない。つまり、ダマスゴミは自分達のなかにも悪が蔓延していることを薄々感じている。 つまり税金なら食べてもいいが、違法脱法者のカネでは食べれない、というのである。 小悪のために、巨悪に目を瞑るのが、悪のはじまりという話を紹介する。 ★ ★ ★ 安倍総統の飯は食えても、清原の飯は食えない。 いやマスコミは真正の政府広報機関です。 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E5%AE%89%E5%80%8D%E7%B7%8F%E7%B5%B1%E3%81%AE%E9%A3%AF%E3%81%AF%E9%A3%9F%E3%81%88%E3%81%A6%E3%82%82%E3%80%81%E6%B8%85%E5%8E%9F%E3%81%AE%E9%A3%AF%E3%81%AF%E9%A3%9F%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82%E3%80%80%E3%81%84%E3%82%84%E3%83%9E (要点を抜粋) 【清原和博被告の差し入れ弁当を食べたマスコミに賛否両論「倫理観なし」「買収されてる」 清原差し入れ「焼肉弁当」を食べたマスコミに批判 http://news.livedoor.com/article/detail/11320504/ …】 これが批判されるなら、マスコミが総理大臣と会食するのはもっとイカンでしょうに(ーー;) 食べたら買収になるとか言っている人が居ますが、安倍首相たちから食事を提供されているメディアはその時点で論外なのですが・・・。海外だと買収になるような政治家との食事を何度もやっているのに、今頃になって弁当の一つで買収だの言っているのはどうかと思います。 スポニチの記者さんは弁当を食べたようですが、それ以外のメディアは弁当を食べずに放置したと報じられていました。 ★ ★ ★ 税金を着服するのは精神に毒を盛るのと同じである。ジコウを中心に税金を着服しているのだから、財政赤字になるのも無理はない。性根が腐っているので、一から精神を鍛えなおすために、更生しないといけません。 欲望に打ち克つ努力をしないと天国には行けませんので、アホバカの腐った精神を更生するために、シュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第164夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-970.html ≪復活と再臨(5)(改変)≫ ★宇宙大師 まず、前回の話のなかで、いきなり繰り広げられている、独自の用語の解釈(?)が必要かと思いますので、同書の中でA氏が述べている《魂の進化》を少し抜書きして見ましょう。 (A氏の話はかなり怪しくどこかの情報工作員だろうが、悪魔を知るのにはよい情報にはなる。) その説明の中で、イエス・キリストは、全宇宙の《魂の進化》を司る《宇宙大師》の1人であり、地球の魂を救済するために地上に降り立った、とされています。 「シャンバラに入るには、一般に魂が第1イルミネーションといわれる、魂の最初の《大光輝状態》に達している必要があるという。魂が肉体を脱出し霊界の9次元に上昇し、神の光を見る状態であるという。 (《大光輝状態》とか表現が大袈裟なのが怪しい) 魂がさらに進化を遂げて、神の光そのものになると、意識が地球大に拡がり、魂は最後の《大光輝状態》を味わう。これが第3イルミネーション、すなわち、最高の神我一体境になる。 さそり座の主星アンタレスにある《宇宙聖白色同胞団》の宇宙大師千人は、全員、第3の完全な最終大光輝を得ている。 イエス・キリストは、宇宙聖白色同胞団の千人の宇宙大師の1人で、地球を救済するために到来した宇宙《救世主》だった。 彼等宇宙大師は、宇宙聖白色同胞団からそれぞれ異なる任務を授かり、様々な天体の聖白色同胞団で働くと言う。 宇宙聖白色同胞団の本部、さそり座アンタレスには、宇宙大師の無限の創造力が創り出した様々な建物が建ち並び、あらゆる星のあらゆる発明品・知識が蓄えられている。 もし、ある星が何らかの進化過程に達すると、巨大な倉庫に蓄えられている知識が、その星に発明・発見のインスピレーションとして与えられる。 (…中略…) (宇宙大使の)地球への出現は、必ずしも《誕生》という形を取る必要は無い。瞬間的にその星に合った《体》を出現させることが可能だという。 中央白色大寺院には、地球聖白色同胞団の144人の大師が集まる会議室の他、13名の高位の大師から成る最高議会がある。 (…中略…) 最高議会や大会議は、人類を霊的に向上させ、同時に科学を高度に進化させて、人類の福祉と平和の向上に資する政策を種々計画している。」 海野光彦『光シャンバラから誕生する超人類の謎』pp54-56 《徳間書店・5次元文庫》より抜粋転載 (コールマンの300人委員会と似ている。) ★宇宙聖白色同胞団 説明によれば《第1イルミネーション》とは《肉体》を脱した状態で、《第3イルミネーション》では意識が地球大に拡がる、と言います。 イエス・キリストは、シャンバラに移った25歳で第3の状態に至ったと言いますが、この状態は、第148~149夜でお話しした、古代アトランティス人の見霊能力に似ています。 シュタイナーによれば、しかるべき秘儀の方法に従えば、地球上でもこうした状態を経験することは可能であり、この説明だけで、《最高の神我一体境》と言うには物足らない気がします。 なおかつ、キリストが人類に示そうとしたのは《肉体》を持ったまま、自我が《宇宙の意識》と自在に繋がることとしていますので、この文脈ではシュタイナーのキリスト観とは異なっています。 さて、そのイエス・キリストは宇宙聖白色同胞団に属する144人の大師の1人であり、さらに13名の高位の大師からなる最高議会があるとしています。 彼等の名称について、誰が決めたのだかよくわかりませんが、この組織の役割を見ると、以前第七十七夜でお話ししたプレアデス・メッセージの8次元の内容に近い感じがします。 この8次元については、以前小生が告白したとおり、にわかに理解出来ないので、取りあえず書いておいた『知性の会議場』に当たるものです。 また、宇宙聖白色同胞団の本部である《さそり座アンタレス》には、発明や発見を蓄積する建物があるとしていますが、これと似たものに『アルシオネの図書館』があります。 「これから、アルシオネの図書館の中心にある円形のガイア神殿をご紹介しましょう。我々(プレアデス人)が地球を研究している場所です。 ガイアの神殿は大きな白い大理石のドームに覆われ、内部は金色の縞大理石を敷き詰めた巨大な円形の部屋で、周囲を水路が一巡りしています。 (…中略…) これが、アルシオネの中核に永遠に存在する精妙な神殿であり、あなた方の太陽の中核とよく似ています。 恒星の中核には様々な世界の概念が含まれています。 …このように想像してください。惑星や恒星の中核は宇宙で最も濃密な知性であり、どれにも記録図書館の全てが含まれています。 」 バーバラ・ハンド・クロウ『プレアデス 銀河の夜明け』pp331-332《太陽出版(高橋裕子・邦訳)》より転載 実は上記の部分については、プレアデス・メッセージの章中では、あえて割愛していた部分でもあります。しかし、こうして読み比べて見ると、かなり類似性が感じられます。 ただし、以前に小生が掲載しなかったように、物質的なものを超越する次元の説明としては、大理石のドームや水路など、まるで地球上の平凡な施設に似た《即物的》なものに感じられるのです。 また場所についても、こちらはフォトン・ベルトの回転軸の中心星アルシオネの中にあるとしています。必ずしも同じものを指しているとは限りませんが、この食い違いも気になる所です。 彼等の役割が《人類の福祉と平和の向上に資する政策の計画》というのも、いかにも紋切り型な、当たり障りのない表現のように感じられます。 また、そのために科学を高度に発展させるとしていますが、シュタイナーの説では、これらは一方で古代の見霊能力を衰退させるものでした。 また、進歩の程度に合わせ科学的なインスピレーションを与えると言いますが、原子力利用のようなものは福祉と平和に役立っているとは思えません。 この辺りの矛盾点について、もう少し説明が必要かと思いますし、全体的に、自らの指導者的立場を示さんとする意図を感じてしまいます。 この点では、以前第八十夜以降でお話しした『アトランティスからのスピリチュアル・ヒーリング』のような、様々な実験の一つと考えた方がよいのではないかと感じます。 ★行動の物足らなさ 前夜でイエス・キリストの、宇宙聖白色同胞団から地上への誕生や帰還についても引用しましたが、その方法についても今1つ整合性がありません。 まず、瞬間的にその星に合った《体》を出現させられるのであれば、何故わざわざ《肉体》を持った状態で地球に生まれ、僅か11歳でまたそこから脱する必要があったのでしょう。 また、最終的にアストラル体を脱するのは、第136夜での話と符合していますが、燃焼して物質体を残すのであれば、アストラル体も肉体とそれ程かわらないように思えてしまいます。 その間、磔刑の前はひたすら《修行》、その後はひたすら《教えを説いた》としていますが、その部分だけならばイエス・キリストも仏陀を初めとする数々の伝道者と何ら変わりません。 ただ一点《復活》を遂げたことのみが違うわけですが、ここでの記述は何かマジックショーでも見ているようで、その行為の重さが伝わってきません。 一方、以前の第129夜の話では、シャンバラはエーテル界にあって、そこからレムリア人やアトランティス人を指導したとあり、この辺りはほぼ一致しています。 しかし、その後イエス・キリストは闇の勢力によって殺されたことになっています。つまり、ゴルゴダの刑死がイエスの意思によるものか否かという差が生じています。 以上、あれこれケチをつけてきましたが、これらは、その必然性について十分な説明がないまま、ブラバッキー夫人の創設した神智学において、ほぼそのままの形で認められているものです。 そして第137夜でお話ししたように、これらの非科学的な態度こそが、シュタイナーを神智学から決別させ、孤高の立場から新たな人智学を語り始めさせた違いでもあるのです。 (新興宗教と同じ類で、神智学を基に唯物論で展開した創作で、ほとんどが出鱈目だろう) それではシュタイナーは、どのようにシャンバラとイエス・キリストをとらえているのか、次回第165夜から入っていきます。 トンデモ話は奥で繋がる 「第165夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-984.html ≪復活と再臨(6)(改変)≫ ★出だしは同じ 実はこれから引用してゆく『シュタイナーコレクション4(照応する宇宙)』の高橋氏の解説の言葉もまた、その出だしにおいてはほとんど変わらないと感じるように思います。 実際に、一度は神智学に歩み寄った事のあるシュタイナーですので、大雑把な眼で捉えてしまうと、彼も同じ穴のムジナのように感じてしまうと思います。 それ故、善意の解説者の多くを、決定的に離反させてしまうのですが、ここまで小生の拙文に付き合ってくださった方は、少しずつその違いがわかってくるのでははないかと思います。 それでは『シュタイナーの宇宙観』と題された、高橋氏の解説の初めの部分を引用してみます。 「人智学という思想にとって、宇宙とは何なのでしょうか。 シュタイナ―はヨーロッパの文化の中で、キリスト教徒としてキリスト教との関係から、この問題を考えていましたので、この解説ではあえて、人智学の宇宙思想を仏教との関係で考えて見ようと思います。 その場合、まず念頭に浮かぶのは、シャンバラという言葉です。 シャンバラは『神智学』の理想郷のことですが、ロシアの画家ニコライ・レーリヒが、ヒマラヤの中にシャンバラを求めて、50歳になってから遍歴の旅を続けたことでもよく知られています。 1910年3月15日、ミュンヘンで、そのシャンバラについて、シュタイナーはこんなことを言っていました。 『神智学とはシャンバラへの道のようなものだ。キリストはシャンバラにおけるいわば指導霊のような存在で、それに向けて道をつくるのが神智学の役割である。』 この役割について、シュタイナーは、この頃、特に弥勒との関係で語っていました。 (…中略…) 『洗礼者ヨハネがキリストの先触れ(水先案内人)であった様に、神智学はシャンバラの先触れ(水先案内人)である。』 この発言の『神智学』とは、ルドルフ・シュタイナー自身でもあります。シュタイナーは未来のシャンバラへの道の案内人として、自分を位置づけていたようなのです。」 『シュタイナーコレクション4(照応する宇宙)』 pp344-345《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載 キリストはシャンバラの指導霊だとか、自身がシャンバラへの道の案内人だとか、この辺りの説明を見る限りでは、シュタイナーも同じに感じてしまいます。 ★神智学の目的 しかし、ここからが高橋氏による、シュタイナーの『科学的説明』の始まりです。 「シャンバラとは、別な言葉で言うと、エーテル界のことです。シュタイナーは宇宙を大きく4つの次元に分けて考えています。 第1の宇宙はこの世の現実の世界、物質界です。 鉱物を土台とした、肉眼でみえる物質界が1つの宇宙をなしています。 第2の宇宙は、上述のシャンバラで、エーテル界=生命界です。仏教の世界で言えば『虚空蔵』です。世界を海ととれば『空海』とも言えます。 第3の宇宙はアストラル界で、シュタイナーはよくアストラル界のことを『魂の世界(魂界)』と呼んでいました。 第4の宇宙はいわゆる神の世界、神霊の世界、霊界、精神界、デヴァハン界=神界等々と言われている『叡智界』のことです。 以上の4つに対して、シュタイナーは、それぞれの世界は、それぞれに対応する感覚を働かせる時に開示されると考えていました。 私達は、解剖学で確認できるような肉体=物質体に組み込まれた感覚器で、第1の物質界を見ることができます。 同様に別の感覚器をつくれば、エーテル界、アストラル界、神霊界も見ることができる、というのです。 (感覚器をつくるには、その世界を受け取れる器をつくらないといけない。以前、紹介したように、肉眼は、最も粗い3次元の重なりあった安定した波動をみる器で、KYや心に鈍感であってもみれるものである。) シュタイナーがシャンバラとの関係で述べたのは、第2のエーテル界を見る感覚器を開くために神智学があると言うことでした。 エーテル界を見る感覚器をつくれば、エーテル界が見えるようになり、エーテル界が見えるようになると、シャンバラへの道が開かれるので、そのために神智学がある、というのです。 そういう意味に取りますと、神智学の最も重要な課題は、エーテル界の扉を開くこと、とも言えそうです。 (仏教も同じだが、エーテル界の感覚器、つまり心眼をつくるには、現代では個性的な自我の覚醒意識をもちながらでないと低次のエーテル界に迷い込む恐れがあるので、キリストの行為に準えて単独行動でないと駄目で、従来の没個性的な、集団で修行して獲得する方法は古い開発法で間違いにつながる。) (…中略…) 予言として述べるなら、実は人類は皆、シャンバラへの感覚器の開発の途上にあり、シャンバラへの道に進もうとしているのです。」 『シュタイナーコレクション4(照応する宇宙)』 pp345-347《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載 まず、シャンバラはエーテル界であり、通常の感覚では捉えられない、としています。すると、第163夜でアメリカの某探検が見たのがシャンバラかどうかは疑わしいことになります。 彼等が一時的にエーテル界を見る感覚器を得たとしても、そこの住人には物質的な『晩餐』は不必要です。意図的にキリストとの関係を印象付けようとした演出の可能性も出てきます。 シュタイナーは、神智学の目的はエーテル界を見る感覚器をつくることと、はっきりと示しています。決してそれ以外の超能力を得ることでも、救済の教えを説くのでも無いのです。 (エーテル界をみる感覚器をつくる方法が、輪廻転生しながら、肉体を純化し、ファントムをつくることとしている。) シャンバラについても、そこが唯一の楽園という訳では無く、あくまでエーテル界の一部であって、それを見る能力が開花すれば、どこにいてもその場所を見つけられるのかも知れません。 ★キリストの再臨 そして、キリストは、そのエーテル界にいるというのです。ならば、再臨の方法も、限定されて来ると思われます。つまり、肉体を持った形で、目の前に現れるわけでは無いと言う事です。 今度は第157夜等で紹介した、西川氏の訳による『輪廻転生とカルマ』に書かれた、シュタイナー自身の言葉で示しましょう。 「太古の霊視力は徐々に衰え、次第に消えてゆき、紀元前3101年から、バラモン教でいう小カリ・ユガ(暗黒時代)が始まります。 (…中略…) 以前は、人間の霊視によって、ある段階までは天界に近づくことができました。今では、人間は、再び、自我の感覚を目覚めさせ、キリストの救いの自我=霊我の中に天界を見つけなければなりません。 (キリストの救いの自我とは、他者を救うことで、自分の肉体を純化したファントム=エーテルにつくりかえること。情けは人のためならず。) カリ・ユガの暗黒の時代に、人類が霊界との結びつきを失わないように、キリストは地上に下らねばならなかったのです。 (故郷である霊界の存在を人類が忘れないために、キリストが身をもって示した。) 暗黒時代は五千年間続きます。紀元前3101年に始まった暗黒時代は、既に1899年に終わりました。 この時以来、人間の科学にはまだ知られていない能力が次第に発達し始めています。 (…中略…) 例えば、20世紀のうちに、人間のエーテル体の知覚が可能になるでしょう。 (残念ながら、一部の霊能者だけのようである。量子力学として、素粒子や電子を捉えることがエーテルをみることなら、実現しているともいえるが、唯物論者は認めないだろう。) もう1つの能力は、人間が自分の内面を見た時、夢の中でのように、自分がこれから行う行為の見本を見る予知力です。 (…中略…) 今日(1920年代)、秘儀参入法を用いて得られる霊能力が、将来、人類一般の能力となります。エーテルを見る霊眼を手に入れた魂の状態を、神秘学では『キリストの再来』と呼びます。 キリストは肉体=物質体に再び受肉するのではありません。 (キリストは、ファントム体=エーテル体にすでに受肉している。ただ人類がファントム体を完成していないので、その感覚器もなく、みえないだけである。救済行為どころか略奪行為のために、ファントムを破壊している。) キリストは、ダマスコの途上でパウロに現れた時と同じように、(個人個人の)エーテル体の中に現れます。」 (キリストが地上で行ったのと同じ救済行為をした者が、何度も何度も輪廻転生をすることで、部分的に自分の自我のなかに、キリストの自我を段階的につくりあげていき、死後、肉体を失ったときに、自分の自我としてのキリストをみる。) ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』pp156-159《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載 つまりキリストは、再度肉体を持って現れるのではなく、我々がエーテル体を知覚出来るようになった際、そのエーテル体の中に姿を現す、というのです。 また、エーテル体を知覚する能力は、決して特殊なものではなく、その時期が来れば、小生のような凡人であっても、普通に持てる、とも言っています。 (インターネットの世界のようなもの) そして、人類がエーテル界のキリストの姿を知覚できるようになることこそが、『キリストの再来』の本当の意味だとシュタイナーは言うのです。 次回第166夜はこの辺りをもう少し掘り下げて見てゆこうと思います。 ★ ★ ★ 己の欲望に打ち克てずに負ける者は地獄に行くのである。自分で地獄をつくりだしているからである。現世では他者が身代りになってくれているだけで、その他者は、地獄をつくりだしている人の犠牲になって助けているから、犠牲者は天国にいく。 一方の頬を打たれれば、他方の頬を差し出せとは、救済行為の尊さを述べたものといえる。
2016年03月23日
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言っていることとやっていることが全く違うのが詐欺師だが、巷を賑わせたホラッチョ川上はラジオ番組の相談コーナーでリスナーから「学歴は重要ですか?」との質問に対して、「学歴よりも学習歴が重要です」と答えていたというから、ツッコミ処満載なのだが、言ってることそのままに、学歴よりも学習歴をはっきりと載せておけば世間から袋叩きにも遇わなかったと思われるが、コメンテイターの職が得られたかといえば、日本のような肩書き優先の閉鎖差別社会では、疑問である。 学歴詐称が起こるのは、裏を返せば、学歴差別が現存するからである。ホラッチョのいうように学歴記載禁止にして、代わりに学習歴にしたら、どうなるのか見ものだが、恐らく混乱するか、官僚養成学校の官僚が反対するだろう。学歴差別は、この国の社会の根深い問題である。 学歴差別は、実体験よりも、ペーパーテストなどの知識を優先する尺度を基準にしたものだが、考えてみれば、非常に馬鹿げた基準である。知識よりもせめて道徳性などを優先してほしいものであるが、道徳性は個人の自我の成長度に依存するので、評価は困難である。 つまり、評価するのが最も簡単という理由で、学歴差別が生まれる。どこか英語の普及とよく似ている。この国では、英語が喋れれば、日本語が怪しくても優遇され、英語がしゃべれないだけで差別されるからである。 変な日本語をしゃべっても、英語がしゃべれればよく、なんでも横文字にして、その意味を聞かれてもすぐに応えられない用語が巷に氾濫している。 アホノミクズがその代名詞である。これは一体、何語なのか? 挙句の果てには意味不明な英語をしゃべり、学歴も詐称し、日本語もろくに話せないアホバカが国家のトップにいるわけで、こんなコミカルな国は世界広しといえど、北と、この国しかないだろうという話を紹介する。 ★ ★ ★ 知的障害者でも総理大臣になれる http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-9065.html 民主党のオカダなんだが、アレは東大出て、官公庁に入り、そこからハーバードに留学です。典型的なエリートコース。方やアベシンゾーなんだが、こちらはFランク大学出て、自費で南カリフォルニア大学に留学を試みるが、そもそも語学が満足じゃなかったので、まずは語学学校へ通うものの、結局そこも卒業できずにドロップアウト。なので「南カリフォルニア大学に留学」と書いたら経歴詐称です。「南カリフォルニア大学付属の語学学校中退、記録なし」です。ホラッチョの極みw 2004年2月の『週刊ポスト』の報道によると、安倍氏がUSCの政治学科に在籍したことはなく、78年の春期、夏期、秋期にのみ在籍し、取得した6コースのうち、3つは外国人のための英語コースであり、そこには政治学は含まれていない。しかも安倍氏は、2年間留学といいながら、実際には1年間にも満たないことが判明。そして、安倍事務所は「南カリフォルニア大には78年1月から79年3月まで在籍しています。政治学は履修したが、途中でドロップアウトしたため、記録が残っていないだけで、留学の実態はあったと考えています」と答えている。 その疑惑に対して、当時の民主党・菅代表は記者会見で「取材やホームページでの安倍氏の発言がくるくる変わっている」と指摘し、民主党として事実関係の調査をしていることを明らかに。その過程で記載は削除されたという。 本物のホラッチョ川上は、それでも自分がインチキだと判っているから謙虚です。偽物のホラッチョ晋三は、自分が偽物だと知っているので、自分より劣った人間ばかりを周囲に集めたがる。本物のエリートは近寄らせないw アベシンゾーの周りは馬鹿ばっかw ★ ★ ★ このアホバカの場合は学歴差別を越える家柄差別であるから始末に負えない。この国では学歴よりも家柄の方が優先されるわけで、中世の価値観のままである。中身は中世で、外見だけ欧米化したから、建前と本音が違うなんていう建前がある。 さて、話はかわるが、前回、老子の「足るを知るは富む」を紹介したが、唯物論に染まった間違った解釈が、アホノミクズのように氾濫しているので、それよりも遥かにマシな解釈を紹介する。 ★ ★ ★ 老子 第三十三章 足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り http://blog.mage8.com/roushi-33 老子の翻訳、第三十三章でござる。 原文 知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。 書き下し文 人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。その所を失わざる者は久し。死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。 英訳文 To understand others is ordinary wisdom. But to understand oneself is clear wisdom. You need power to defeat others. But you need true power to defeat yourself. A person who knows contentment has true wealth. A person who continues his efforts has already achieved his purpose. A person who keeps his original self can last long time. To accept one’s plain self along “the way” and to forget about death is true longevity. 現代語訳 他人を理解する事は普通の知恵のはたらきであるが、自分自身を理解する事はさらに優れた明らかな知恵のはたらきである。他人に勝つには力が必要だが、自分自身に打ち勝つには本当の強さが必要だ。満足する事を知っている人間が本当に豊かな人間で、努力を続ける人間はそれだけで既に目的を果たしている。自分本来のあり方を忘れないのが長続きをするコツである。死にとらわれず、「道」に沿ってありのままの自分を受け入れる事が本当の長生きである。 Translated by へいはちろう 今回の章は良い言葉が多すぎてどれをピックアップして語れば良いのか解らなくなるでござるな。拙者としては「足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り」の部分が好きなのでござるが、人や書物によって様々な解釈がなされる「死して而も亡びざる者は寿し」について話すとするでござる。 この部分を拙者は上記の通り、「死にとらわれず、道に沿ってありのままの自分を受け入れる事が本当の長生きである」と独自の解釈をしているのでござるが、元々の字をそのまま素直に解釈すると「たとえ死んだとしても亡びない者が長生きである」という事になってこのままでは何が何やら訳がわからない。 この「死んでも亡びない」の部分を神秘主義的に解釈すると死後の復活、すなわち尸解(しかい)して仙人になる事だとする説もあって、こういう解釈が後の世の神仙思想を生み出すのでござるが、拙者の頭の中には「そういう老子は存在しない」ので、あくまで生きている間の教訓として解釈したのでござる。 (神秘主義の解釈が最も正しい) しかしだからと言ってこの部分を儒学的に「歴史に名前を残して人々の心の中に生きる」という様に解釈するのも老子らしくない。そこで拙者の中の老子像を膨らまして解釈すると「死んでも亡びない」というのは「生死の概念にとらわれない」というある種の諦観の境地の事だと思い至ったわけでござる。 第二十章で老子は知識が迷いを生み出すとおっしゃっているのでござるが、長寿への渇望とは「死に対する恐怖」でござる。ゆえに老子の考える「長生き」とは、死への恐怖を忘れ、自分の年齢や健康の事も忘れて、ありのままの自分を受け入れて生きる事だと結論した次第でござる。 ★ ★ ★ という解釈なのだが、唯物論に染まっていて、まだ正しい解釈とはいえない。人智学によると、老子は古代アトランティス時代の生き残りの仙人たちの教えらしく、まだ霊能力が残っていたので、霊界の秩序である道徳を語っていると解釈できる。だから、人智学で解釈すると、 ☆ ☆ ☆ 人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。その所を失わざる者は久し。死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。 人間を外から理解するのは日常の知識の働きだが、人間の内側にある自我を理解するのが、ホンモノの知恵の働きで、宇宙の働きである。外界で人などに打ち克つには物質力が必要だが、自分の欲望に打ち克つにはホンモノの精神の強さ(霊力=愛)が必要である。 だから、精神を満足させるホンモノの知恵の働き、つまり自我を理解できる人が、宇宙の働きにおいてホンモノの富をもち、欲望に打ち克つ努力を続ける人はそれだけで既に、宇宙の輪廻転生の目的を果たしている。 つまり、自我そのものを理解するのが人生の目的であり、生命の永続性(霊界)を理解できる秘訣である。(物質的な)死にとらわれず、「カルマの法則(輪廻転生の法則)」に従って生じる出来事を受け入れ、ありのままの自我を理解するのが、自分の欲望に打ち克つホンモノの精神を獲得する秘訣である。 ☆ ☆ ☆ 最後の自我そのものを理解するのが人生の目的である、というのは古代ギリシアの哲学の看板といえる「汝自身を知れ」と同意である。古代ギリシアにはまだ霊能力が残っていて霊界もみれたから、自我が何たるかを理解していたのである。 その後、悪魔の誘惑に負け続け、唯物論が全盛になり、霊界を語る言葉のカバラを話せなくなり、人類は故郷を見失った。 老子でさえも唯物論で解釈し、俗世の浮き沈みのようなクダラナイ戯言のようにしてしまう。アホバカ権力者がダマスゴミを買収し、ニセモノの御用詐欺学者を巷に増殖させるからである。 このような地獄化した奴隷社会を改善し、天国とするために、再び人類は故郷を見いだし、還らなければならないために、シュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第163夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-962.html ≪復活と再臨(4)(改変)≫ ★未来を語る危険 さて、これから先のシュタイナーの話は、小生にとっても少し冒険的な領域に入って行きます。何故なら、過去の出来事の解説では無く、現在そして将来に起こる予言だからです。 エドガー・ケーシーを始め、過去の数々の有能な霊能力者が、批判者の餌食とされる場合、決まって、未来に関する予言めいた話が、その後の事実と食い違うとされます。 物質界との違いを考えれば、シュタイナーもまた、小生のように彼を紹介する人も、敢えて予言に類する分野には足を踏み入れないのが賢明かも知れません。 しかし、シュタイナーの人智学の目的は、まさに未来の人類の目指すべき目標を示すことであり、その部分を避けて通る訳にはいかなかったのです。 それは取りも直さず、本来シュタイナーの思想を紹介する者としては、やはり核心に触れるのをためらってはならないと思うのです。 と、あれこれ前置きを入れてしまいましたが、何せこれからお話ししてゆくキーワードは、知る人ぞ知る、トンデモ話ではお馴染みの《シャンバラ》なのです。 シュタイナーは、次々とトンデモを、彼の《科学的説明》の中に組み入れていますので、その都度、読者に見放されるのでは無いかと心配になりますが、仕方の無いことです。 (トンデモと思うのは、唯物論に染まり、騙されているだけである。黒船に遭遇するのと同じである。シュタイナーの話は、知識のUFOともいえる。未確認飛躍知識か。) 第四十九夜でもお話しした通り、地球上には《異次元》と繋がるいくつかのポイント(座標の原点)があって、地上の人間が迷い込んだり、そこから別次元の住人が出入りするという、トンデモ話の定番があります。 (座標の原点は、オカルトでは「十」で表わす。十を右回りさせると、卍になるから、波動の原点を表わし、卍が寺の紋章となるのは、オカルトでは、霊界と物質界とのつながりという意味であり、自明である。 日本にきた宣教師は、至る所に十字架があるのに驚いたものと思われる。似非宣教師は驚かないが、ホンモノなら、日本にはすでにキリストの教えが普及していると感じたはずである。 キリストの教えではなく、正確にいえば、仏陀の教えなのだが、それはキリストの論文のまえがきのようなものだからである。) 恐らくその一つに、地球内部に存在する異次元郷《シャンバラ》があり、ヒトラーがその入口を捜し求めたとか、地球は空洞で、北極と南極の両極に通ずる巨大な穴がある、という説とからんだりもします。 そして、そんな諸説の中の一つに中に、復活後のイエスはシャンバラに行ったというものがあります。と言っても、あまりの唐突さに、大方のこれらの説は《マユツバ》物とのレッテルを貼られています。 と言うことで、今夜はあえてその《マユツバ物》の一つ、『光シャンバラから誕生する超人類の謎』(海野光彦著 徳間書店5次元文庫)から入ってゆこうと思います。 本来小生は、先入観を持たないよう話を進めてきましたが、この書籍に関しては、敢えて《マユツバ物》という認識から出発して、自分がどこまで許容できるか考える方が賢明と思います。 ★7つのシャンバラ この書は、筆者の海野氏が、古神道の家柄を継ぐ一方、科学ジャーナリストとして身を立てる傍ら、某大学の非常勤講師もしているという『A氏』から伝えられた話を元に書かれたとされます。 A氏によれば、世界には以下の7つの某地点に、地下の大空間都市シャンバラが存在するとされます。 (古代アトランティスの7つの神託所が受け継がれているらしい。オカルトではそれぞれ土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星と天体名の神託所として呼ばれている。) ○ チベット・シャンバラ…チベットの主都ラッサにあり、某大寺院の内部から真下に向かう反重力エレベーターがある。約4km2で『人工太陽』に照らされた『エデンの園』となっている。 ○ カリフォルニア・シャスタ山…山頂付近に光線屈曲装置で視覚防御されたの寺院等があり、山頂の巨岩がくり抜かれ、その地下に長さ33km×幅34km×高さ3.2kmの地下都市がある。 ○ 中米ユカタン半島…某山脈にトンネルがあり、かつて火口であった円形の谷間に光線湾曲機械に保護された特殊金属の入口がある。 ○ 北方シャンバラ…カナダ・磁北極付近にあり、太陽の特殊なエネルギーを、地球内部にあって重要なバランス調整をしているエネルギーピラミッドへ送る通路となっている ○ ゴビ砂漠…かつて都市であった砂漠の中に、想念力で上下する1600m2の四角い金属製の塔状のエレベーターが、半分埋まった形で存在する。 ○ アフリカ・アトラス山脈…光線湾曲装置により、外界からは見えない。地球上のあらゆる古代記録・過去の文明の発明・発見を集積保管している。 ○ ドイツ・ハルツ山脈…地下に作られ、ヨーロッパの霊的指導を行うとともに、アトランティス、ドルイド、ギリシャに関する記録と発明・発見が保管される。 そして、19世紀末に、その中の一つであるチベット・シャンバラの『光の超生命体』に遭遇したという、アメリカの某探検に関する体験記を見せられます。 ……………………………………………………………………… 晩餐の席で、その生命体は、体の元素をバラバラの霧状に変化させ、再び瞬間的に統合して元の肉体を創り出したり、一切れのパンから、同じ大きさのパンを次々と出現させたと言います。 つまり、キリストの奇蹟と同じことを現実に見せたと言うのです。 また、また、皆が若々しい体を保ち、地上で数百年を生きた後、その後百年間もシャンバラと地上を行き来している者さえいます。 ★イエスの秘密の人生? また『A氏』は、20世紀初頭にアメリカの霊能者M・ドリール氏が『イエスの秘密の人生』と称する論文を書いており、それに書かれたイエスの出来事を年譜にすると、次のようになると言います。 ○ 紀元前6~7年頃 誕生 ○ 11歳 第一イルミネーション(最初の魂の輝き)を得る ○ 13歳 父ヨセフ、母マリアと一緒にエジプト旅行、ギゼ-ピラミッドの内で最初の秘伝を体験 ○ エジプトではアトランティス人の子孫の受戒聖者より、教えを授けられる ○ 16歳 イエスは単身でエジプトに残り、修行を積み重ねる ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆― ○ エジプトの白魔術により、チベット・シャンバラにテレポートし、そこで大聖に学ぶ ○ 20歳 第二イルミネーションに到達、その後、カシミール地方を遊行 ○ 25歳 第三イルミネーションに到達 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆― ○ すぐにエジプトに帰り、1年間、ピラミッド内で研究を続ける ○ 26歳 ナザレに帰り、洗礼者ヨハネの弟子とコンタクトし、3年間さらに準備を重ねる ○ 29歳 キリストの教えの宣布を始める ○ 33歳 磔刑後、3日後に復活 ……………………………………………………………………… ○ その後11年間にわたり、グノーシスの秘儀を弟子に伝授する ○ ローマの秘院で6ヶ月、エジプトの秘院で2年間、秘儀の指導を行い、この後中国へ向かう ○ 中国北部のユダヤ人に1年間指導を行う。中国全土を旅行した後、チベットに向かう ○ チベットの某秘所で5ヶ月間滞在。超人が住む『エデンの園』で、1日2回ずつ教えを説く ● ドリール氏は、2千年前の前世でイエスの銀鈴に似た声を聞いたとされる ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆― ○ この後、チベット・シャンバラに行き、4年半滞在し、人類の精神的向上を目指し、様々な試みを行った後、シャンバラ144人の超人大師の首長となる ○ この後、南太平洋地下のレムリア大陸へ行き、そこに幽閉されている暗黒霊魂を指導し、解放する。 ○ 次いで地球中心核に入り、同じく幽閉された最暗黒の霊魂を、3ヶ月間指導する。 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆― ○ 地表に戻り、ギリシア、パレスチナ、スカンジナビアの秘院で教えを説いた後、南北アメリカ大陸に入り、9年間、各地で教えを説く ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆― ○ この後、北方シャンバラへ行き、35年間、地球第7黄金サイクルの秘密準備を行う ○ 満100歳の日から10日目に、全世界の弟子の面前で、アストラル体脱出による最後の教えを説く ○ その後、頭部から火炎冷火を発し、全身を燃焼し尽くすと、大きな輝くダイヤモンドの塊のようなようなものが残り、これが北方シャンバラの塔に今も保管されているとされる ○ 地球離脱後、宇宙聖白色同砲団の大聖に復帰 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆― これらの経歴のうち、◆で囲んだ時期、つまり33歳で磔刑を受ける以前に1度、復活後は2度に渡って、イエスはシャンバラとの間を行き来したことになっています。 これらをそのまま、全て事実として受け止めようと言うものではありません。これらはあくまで、ドーリル氏自身の霊能力が感じ取った内容に過ぎないからです。 シャンバラについては以前にも、ブラヴァツキー夫人の創設した神智学的な地球史観(第129夜)として紹介しましたが、それと比較しても、完全に一致している訳ではありません。 つまり、霊的なビジョンについては、たとえ同じものを霊視していたとしても、霊媒者の感応性と思考性向によって、如何様にも違ったイエスの人生が出来てしまうのだと、小生は思います。 ただし、だからと言って全て《マユツバ》と決め付けてしまったのでは、現代の偏狭な科学の世界に閉じこもったままで、我々の持つ共感の力を自ら捨ててしまうことになります。 従って、それらの矛盾点を整理しつつ、共通する部分を一つ一つ拾っていき、我々全ての深層意識に潜む《原型》に通ずる部分として確かめていくのです。 ★ ★ ★ キリストの存在は、汝自身で知れ!
2016年03月23日
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暦は春なのに、アタマだけが春のアホバカが巷で騒いでいるが、世間は相変わらずお寒い。世間がお寒いのは失政にあり、アホノミクズのせいである、という話を紹介する。 ★ ★ ★ 日本の歴史上、もっとも過酷な税制 http://my.shadowcity.jp/ 江戸時代には、税金というのはほぼ「稲作」だけに課せられていた。四公六民という言葉があって、収穫高の4割をお上に納めるんだが、元になる検地は古いデータのままだったので、場合によっては200年も前の耕作面積で決まる。日本中あちこちに「ナントカ新田」という地名があるが、アレは新たに開拓された田んぼで、年貢を払ってないw また、コメ以外の換金作物や自給作物も税金払ってない。 ※その地に自生できるような芋や雑穀を多く植えて貯蔵しておけば、飢饉など起こりません。しかし、人間は、現金収入を求め、儲けにならない仕事は嫌うものです。 津軽の飢饉は、豊作を予想して貯蔵米を売って大儲けした時に、冷夏がきて食料不足になりました。農民は金貨を握って死にました。 コメはカネになるので、税金として収めた以外の全量を売ってしまい、水利が悪い土地で作る年貢とは無関係の蕎麦とか麦とかを食っていたのが農民です。つうか、そもそも農業というのは売春と同じで「モトシカカランヌー」ですw 原価はほぼゼロw 江戸時代じゃ、農機具も知れたもんだし、肥料だってウンコw そこら辺を考慮すると、江戸時代農民の租税負担率というのはせいぜい20パーセント台です。売上げの、ではない、利益のw 商人、職人は、ほぼゼロ。徳川幕府は異常に小さい政府です。 安倍首相「消費増税なければ、アベノミクスはうまくいっていた」「失敗であった」 2016年に入り、世界同時株安など世界経済の縮小がささやかれている。そして、それは日本の消費税増税にも大きな影響を与えつつある。 周知の通り、安倍晋三政権は17年4月から、消費税を現行の8%から10%に引き上げる予定だ。これは、14年4月の5%から8%への増税に続く流れである。 しかし、8%に引き上げたことによって、日本経済は消費が落ち込み、安倍首相自身も「消費税を8%にしなかったら、アベノミクスはもっとうまくいっていただろう」という旨の発言をしている。 また、首相の側近である菅義偉官房長官も、最近は消費税増税について否定的な言動が目立つ。 筆者が伝え聞くところによれば、首相官邸側は「できる限り、消費税増税はしたくない」と考えているようだ。前述したように、前回の増税によって日本の景気回復が遅れ、アベノミクスの先行きが不安定になりつつあることは間違いないため、官邸側の判断もうなずける。 そして、安倍首相と日本銀行が目標としている物価上昇率2%には、現時点で到達できていないどころか、逆にデフレがいまだに改善されていない状況だ。 15年4月、安倍首相は「来年の2月までに物価目標2%を達成できないのであれば、アベノミクスは失敗であったと言わざるを得ない」という旨の発言をしている。 消費税5パーセントと8パーセントでどう違うのか? わずか3パーセントの違いではない。ほとんどの商売で、利益なんてモノは数パーセントしかないんです。自分が儲けた以上のカネをお上に納めるというのは、四公六民どころじゃない、日本の歴史上、もっとも過酷な税制だ。まだ、仕入れたモノを売ってるんだったらいいんだが、ウチの商売では「仕入れ」というのがほとんどない。 人件費が売上げの7割以上を占める。ウチの仕事は公共性が高く、利幅が薄い。利益より大きい消費税w そら、経済が死滅しますw そんな事より、豆州楽市の蕎麦です。乾麺としては究極の贅沢さで作りました。サロマ湖を望む丘で作られた蕎麦の別嬪蕎麦、日本一寒い地域である多度志の黒蕎麦と田舎蕎麦、もちろんツナギの小麦粉も国産、塩も希少な天日塩と、贅沢の極みです。 (人頭税もあったはずだが、被差別民なので、記録には残っていない。明治維新で記録は焼失したそうである。西郷の肖像画や写真が残っていないのも、西南の役とされる中央明治政府からの薩摩独立運動で、焼失したそうである。) ★ ★ ★ 間違いは間違いと素直に認めるべきである。アホノミクズの失敗ははじめからわかっていることで、それはアホが利己主義のエゴイストで、現場の言うことを聞かずにイエスマンばかりを集めて独裁しているからである。 三人寄れば文殊の知恵、といわれるが、同じ三馬鹿が集まっても、子ども以下でしかないのは、皆揃って我儘し放題で、我儘を抑えて、お互いの意見の良いところを聞こうとしないからである。 自分が正しいと思うのは最も身の程を知らないアホバカである。正しいと思ってはいても、自分の意見を越える意見を常に求めていなければいけない。 巷を賑わせた例の「女性は二人以上産め云々」と言った校長の発言もそうで、少子化の昨今についての問題提起とするなら、その内容は、一歩譲って正論かもしれないが、いかに正論でも、個性がほとんどまだ確立していない未成年に、校長の権威をもって押し付けるのはやりすぎで、大間違いであり、女性の自由が叫ばれている昨今では、これまでは正論とされた意見であっても、現代の大人の女性たちと大いに議論する余地がある。 ともかくも、自分の意見を相手に押し付ける、というのは間違いである。世間に意見する以上は反論を認めないと駄目である。異なった意見がでてはじめて、意見が生きてくる。 これまでは正論であっても、自分の意見しか認めないというのは自分の意見が間違っていることの裏返しで、自分の意見が正しいのなら、どんな反論も受け付けないとおかしい。 結局のところ、意見が正しいかどうかというよりも、エゴ、我儘がないかどうかの問題である。どんな意見でも受け入れる意見なのか、自分の意見しか認めようとしないのか、の問題である。口先では立派なことを言っていても、やっていることが下品なら、詐欺師である。 またその後をみていると、教育委員会は校長の上だから、校長がその命令を聞かない、というのはそれこそ我儘で違反だろう。そういうことを言う時点で失格である。職を辞してから言論の自由で徹底抗戦すればいい。 意見というのは日々発展しないとおかしい。 あの法螺吹きの勝海舟でさえ、横井小楠は、今日はこれこれの意見だけれども、明日になったら、また違う意見になるかもしれないと勝にいったそうで、勝はそのことを大いに褒めている。意見が日々変わるのは当然のことである。だから意見を押し付けるというのは進歩しないことになる。 そういうわけで、何が大事かといえば、足るを知らないから、意見を押し付けるアホバカをする。 自分の意見というのは、基本的に自分の自我でしか成り立たない。自分の自我以上の意見はでない。だから、自分の自我がどれほど他の人の自我と協調関係にあるかで、自分の意見が意味をもってくる。 ★ ★ ★ 足るを知る者は富む http://kotowaza-allguide.com/ta/tarushirumonotomu.html 【読み】 たるをしるものはとむ 【意味】 足るを知る者は富むとは、満足することを知っている者は、たとえ貧しくとも精神的には豊かで、幸福であるということ。 【足るを知る者は富むの解説】 【注釈】 人間の欲望にはきりがないが、欲深くならずに分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるということ。 『老子』に「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り(満足することを知っている者は富者であり、努力している者は志ある者であると言える)」とあるのに基づく。 【出典】 『老子』 【類義】 足るを知るは第一の富なり/富は足るを知るにあり 【英語】 Content is the philosopher's stone, that turns all it touches into gold.(満足は触れるものすべてを金に変える『賢者の石』である) Content is a kingdom.(満足は王国なり) 【用例】 「足るを知る者は富むで、彼女はいつでも幸せそうに微笑んで日々を送っている ★ ★ ★ ホンモノの富とは足るを知ることである。ついでに老子を完全に誤解して紹介している悪例を紹介する。『「足るを知る」に騙されていませんか』と表題にしながら、この解説者が曲解し、それに一番騙されている。 ★ ★ ★ 「足るを知る」に騙されていませんか http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100514/214426/?rt=nocnt 最近、老荘思想が若者の間で流行っている、という記事を目にして「草食系もここまで来たのか」とちょっと驚いたことがあります。今までも「足るを知る」といった言葉を下敷にした書籍の広告を、よくマスコミで目にするなあとは思っていたのですが…。 しかし、こうした風潮は、危うい面があるのではないかと筆者などは感じています。なぜか、といいますと、そもそも「足るを知る」という考え方は、時々の権力者や強い立場にいる人間に向けた訓戒に他ならないからです。 (「時々の権力者や強い立場にいる人間に向けた訓戒に他ならないからです」は決めつけである。) この言葉を聞いて、「そうだよな、求めてばかりはいけないな」と感じられる人は、そもそも「もう満足してもいいや」と思えるだけの何かを、すでに持っている人なのです。ちょっと極端な例を使いますと、“派遣切り”にあって、明日眠る家もない人に向かって、 「足るを知ることが、重要だよ」 と説いたとします。聞いた人が「そうだよな」と納得するかといいますと、「ふざけるな」と怒って、ぶん殴られるのがオチではないでしょうか。 (老子は俗世間のどうでもいいやりとりを説いているのではない。大体、上述のコントみたいな会話など成立するのか? 老子はもっと根底にある精神世界の道徳を説いている) 要は、この言葉に共感する人が多いというのは、今の日本人がなんだかんだいっても、振り返って満足できる何かを持っている人が多いという証なのです。かつて『清貧の思想』という本が大ベストセラーになりましたが、時あたかもバブル景気の余韻が濃厚に残る1992年。これも、みなが貧しければ「清貧」なんて、流行りようがないという話とまったく同じになるわけです。 とはいえ、ちょっと考え方を変えれば幸せを感じられるなんて、良い話じゃないか、と思えるかもしれません。しかし、ここには大きな問題があります。まず、いま手にしているものだけで下手に自足しようとすると、結局それを使いつぶして終わってしまうだけになりがち、というのが第一点。 (自足の足るではない。満足の足るである。) 第二点めは、この言葉を下手に弱い立場の人間が旨としてしまうと、結果的に強い立場の者ばかりが利益を得てしまいがちだ、ということです。 (足るは弱い立場に甘んじろ、我慢しろ、という意味ではない。文章の解釈が小学生並である。むしろ立場を超えろという意味。) つまり、一般庶民や、貧しい人たちのなかに「足るを知る」「止まるを知る」を旨とする人が増えていけばいくほど、「持てる者」の立場が安泰になっていくのです。なぜなら、「取って変わってやろう」とか「あいつばかり富や名誉に恵まれるのは許せない」といった庶民の嫉妬心や向上心を緩和してくれる役割を、この教えは果たしてくれるからです。そして、『老子』はまさしくこうした効果を狙った古典でした。 あまりにも老荘思想の世間的イメージ――白ひげをはやしたお年寄りが大自然に佇むといった――とかけ離れてしまっているので、驚かれる方もいるかもしれません。しかし 《老子の思想は、往々にして弱者を擁護し、敗北者を慰める趣旨と考えられている。しかし、それはまったくの誤解であって、むしろ強者、あるいは強者たらんとする人に対する訓戒を第一義とするものである》『老子入門』楠山春樹 講談社学術文庫 という指摘もあるように、こと『老子』の立ち位置に関する限り、こうした解釈は研究者の間では特に珍しいものではありません。 (アホ抜かせ。このような研究者は何を研究しているのかな? もっと勉強してほしいもんである。) ★ ★ ★ 物質世界に染まっているから、以上のような間違った解釈になってしまう。老子を単なる老人の戯言と一緒にしているから始末に負えない。 「老」とは確かに歳を取るという意味もあるが、前にも紹介したように、この老はタオと読むように、尊敬の言葉で「知恵者」という意味で、未熟に対する完成した人格者の意味で、老熟の賢者であり、若者に説教するような老害ではない。 あらゆるところに曲解があるので、いちいち指摘するのも面倒だが、「足る」は自給自足の「足る」ではなく、満足の「足る」であって、「自分を知る」という意味で使われている。 上述の解説をいいように解釈すると、悟っていなくても悟っている振りをした方が得である、という風になってしまう。こんなのは大きな間違いで、悟りもしないのに悟った振りをしてはならない。足るを知らないのに、足るを知った振りをするのは大問題である。 だから、正しく解釈すれば、金持ちは満足を知らないから精神的に貧者であるし、権力者は権力の怖さ、盲目さを知らないから精神的に鈍重である、ということにもなる。何も物質面だけを語ったわけではなく、実際に、古代中国は物質面では現代よりも遥かに貧しかったわけで、そんなことは環境を考えれば一目瞭然である。 だからむしろ物質面というより精神面を語ったことである。金持ちとか、権力とか、勝ち負けとか、そういう副次的な枝葉末節のことではない。全くもって軽薄な解釈なんで、このような軽薄なアホバカにならないために、シュタイナーの話を続けて紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第162夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-956.html ≪復活と再臨(3)(改変)≫ ★肉体は《鏡》 しかし、そもそも、我々は《自我》さえあれば、死後も個人の意識を保てるのだから、キリストは、自我を直接理想の状態に導く方法をとってもよいのではないか、という疑問もわきます。 何故、我々は転生の度に消え去ってしまう《肉体》を、時間をかけてコツコツと霊体(ファントム)に純化させなければならないのでしょうか。高橋氏の解説の続きは、まさにそんな疑問から始まります。 「例えば、仏教では、肉体にこだわる自体、意味をもちません。 むしろそういう執着から離れて、肉体などいくら滅んでも構わない、自分の関心はそんな所には無いと思った方が、もっと人生の本質を見れる、と教えます。 (…中略…) 大切なのは魂で、肉体などはどうでもよいと言うのなら、肉体が復活しようがしまいが、大して意味の無いことになります。 …………………………………………………………………………… シュタイナーがホンモノのキリスト教を復活論の中に見て、パウロのキリスト教を大切にしようとしたのは、肉体が重要なのを知っていたからです。 (…中略…) もちろん人格にとって大事なのは、肉体ではなく、自我です。けれどもその自我は、肉体がないと発達しません。 (…中略…) 肉体とは、第一に自我にとって《鏡》の機能を持つからです。肉体は《鏡》なので、自我にとって重要なのです。 自我に、個人を認識させる鏡であるため、肉体は、外界の周囲の環境と調和的に発達していなければいけません。 シュタイナーの言う鏡とは、次のようなことです。 私達が廊下を歩いているとします。真っ暗闇の中です。歩いている実感はあるのですが、…正面にある《鏡》の前まで来た時も、自分の姿はまだ映りません。 しかし、《照明》が当たり、自分の姿が映し出される瞬間、眼の前の《鏡》に自分の姿が現れます。自分が居る事が、《鏡》を通じて分かるのです。 シュタイナーは、肉体とはそのような鏡だと言うのです。 …鏡が歪んでいたり、壊れていたりしたら、その前に立った私達は、自分を正しく見ることができません。 しかし、鏡が無くても、私は存在しています。肉体は、鏡にすぎないのです。 そして《照明》とは《意識の働き》のことです。 (…中略…) 《鏡》が眼の前にあるからこそ、《照明》によって、自分が見えるのですが、《鏡》が壊れようが無くなろうが、自分は居るのです。 ただ映し出されていないだけなのです。 (…中略…) 人間の自我は、肉体という鏡を通さないと、自分を見れないので、肉体は自我にとっては、自分を見せてくれる鏡で何物にも代えがたい大切な道具なのです。 自我にとって、その道具と自分の関係があまりにも深く、一体感を持って体験されるので、肉体が消えてしまったら、自分の意識も消えてしまい、自分がわからなくなってしまうのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp408-410《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載 つまり肉体という《鏡》がなければ、自我は、自身の存在や、発展や進化を認識できず、従ってキリストから送られた3つの心を実践する機会も持てないのです。 それはすなわち、《光のかけら》の育成が進まないことを意味します。 さらに、鏡である《肉体》も出来る限り《最良の状態》に近づけてゆかなければなりません。 鏡である肉体が歪んだ状態、例えば利己的な欲望の光ばかりに反応して、自我を偏らせ、誇大化して移す《鏡》になってしまえば、その一方でキリストの3つの心を実践する機会は減り、細胞から《霊体(ファントム)》への創り変えは進みません。 ★ファントムを歪ますもの 前夜でお話ししたように、肉体という《鏡》の理想の設計図がファントムです。しかし現代では、それを形成する力が次第に衰えて、崩壊し、どうしようもない段階にまで来ているようです。 それでは《我々の自我をどのようにすべきか》について、高橋氏は、自我を《ひたすら見つめるのに徹する》ことでカルマを解消すべきである、と述べています。 カルマの働きとは、人間関係の中で、自分でもわからないうちに発生する《これがしたい、したくない》《これは好きだ、嫌いだ》《あの人が恋しい、憎い》という想い(欲望)を起こさせる集合体です。 これは第133夜で述べたとおり、アストラル体の働きによるものです。 そして、肉体は実際の体験を、自我に《認識》させ、エーテル体はその体験を《追想し、記録する》ことで、自我に《働きかける側》として作用しています。 一方、我々は、前世でのカルマを解消するために転生しており、《自我》は、体験の《主体》です。たとえ、その体験が辛くても、自我を、自我に認識させるために、主体から、ひたすら《受容側》にたつべき役割を負っています。 ところが、我々の日常の自我は、それらの体験、記憶、カルマから発生する体験を受け入れるのが辛く、拒否しがちになり、体験の受け手から、しばしば主体の《働きかける側》に変わってしまいます。 (自我の成長のために、人生には受け入れがたい苦悩が用意されているので、予め目隠しされている。 母体に宿る前の霊魂は、自分の人生を予め見るのだが、あまりに受け入れがたいと、人生に失望し、母体に宿りたくなくなり、そのため未熟児や障害児となる場合もある。) そのような場合、自己に有利な局面のみを見つけようとしがちになり、自らの欲望の奉仕者になり、限りなく権威的に、限りなく利己的に、限りなく嫉妬心を燃やすことになるわけです。 (アホバカたちである。自分とは反対側にいる人を無視し、拒絶するようなアホバカ。) 高橋氏は続く解説で、我々が、睡眠中に、このような自我の働きの結果が、決定的な違いとなって、当人のファントムに反映してくる、と説明しています。 「個人という存在の覚醒時に、この世を生きるために、ひたすら自我を見る立場に徹せられれば、自己を客観視できる自我が確立でき、自我の故郷でもある霊界の道徳性に従って、真善美の観点を保てるのですが、日々の生活で生じる誘惑に負けて、観察を止め、自我を客観視できなくなり、欲望の主体になってしまいますと、自我とアストラル体とを混同してしまい、アストラル体の奴隷の役割を演じるのに終始してしまうのです。 対照的に、睡眠時の自我は、覚醒時に観察した自らのアストラル体、エーテル体、肉体の行為の印象を、毎夜肉体に記録する役割を負っています。 ですから、その印象が、覚醒時に霊界の道徳の観点に立っていた結果ならば、毎夜ファントムに創造力を送り込めるのですが、そうでない場合は、自分が巻き込まれてしまったカルマや記憶や現実の不健全で邪な感情や思考を記録するのです。 その結果、ファントムは、だんだん醜い、歪んだ、はかない、もろいものに変えられていくのです。 (だから病気となって現れる。病は気から) これは、我々にとっては、非常に深刻な問題です。 何か一つの体験を持つ度に、自我がそれを直視し、そして、夜眠っている時に、寝ている自分の肉体に、その印象を記録するのですから。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp408-410《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載 小生を含め、多くの人にとって《他人より恵まれた生活》を目指し、次々と利己的な物質を生み出している現代にあっては、ファントムを歪ませない生き方は、相当難しいでしょう。 そして、その《邪な感情》が湧き起こる度、それらが顔や肢体に記録されてゆくと考えると、キリストが我々に手本として示した、肉体の浄化など《遥か遠くの夢》の話に思えてきます。 しかし、我々はそのために転生を繰り返しているのです。例え亀のような歩みしかできなくても、毎日少しずつ完成に近づけてゆくしかありません。 そのために、第156夜でお話ししたように、自分の行動が、自分でも気づかぬうちに利己的になっていないか、常に反省しながら生きてゆくしかなさそうです。 ★シュタイナーの宇宙観 以上がシュタイナーの説く、我々の復活の《科学的》な解説です。 恐らく、上述の話を聞いて、彼を知る解説者の多くが、現代科学とはかけ離れた《空想》のようにみえ、彼から離れていったように思われます。 正直に言って、第147夜以降のシュタイナーの言葉を、霊界の知識なしにスンナリ理解できる人は、シュタイナーの生まれ変わりか、よほどの変人ではないか、と思います。 この書の解説者である高橋氏も、空想のようにみえるのを当然とした上で、その『あとがき』を、以下のように書いています。 「本書で展開される壮大な宇宙観、人間観は、途方も無い作り話のようにも読み取れるが、今我々が、限られた何十年かを地上で生きるために生まれて来た意味、我々が《人間である》という意味を改めて考えてみると、 本書のどの頁からも、生々しい現実の息吹が感じられ無くもない。 (…中略…) 本書の内容を、《真実として受け容れられるかどうか》 というよりも、 《自分の中にイメージとして再現できるかどうか》 を、読者に問いかけている。 このイメージには不思議な力があって、一度作られたら、一種の《浄福感》のような余韻を、読者の心に残してくれる。 ここで、そのイメージを大雑把にまとめてみると、 (1)人類は大宇宙と共に進化を遂げていく。 (2)人間の個体数は限られており、無限に生じるものでは無いので、人類の進化の過程には、同一の個性が何度も繰り返し参加している。 (3)進化には人間だけでは無く、人間よりも高次の存在たちも関わり続けている。 (4)人間の個性の秘密には、太陽と地球との宇宙的な関係が含まれている。 ということである。 その、太陽の霊=生命の働きを代表するものを、シュタイナーは《キリスト》と呼んだ。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp415-416《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載 第160夜でお話ししたように、シュタイナーは、聖書に書かれたキリストの秘跡の数々を地上で生じた《事実》として捉える必要性を強調しました。 例えば、それは、空海が最澄に伝授を拒んだ《密教》のようなもので、頭の中の理屈で捉えるものでは無く、直観で捉えるものかも知れません。 (私見だが、最澄は生真面目だが、ちょっと俗物で権威主義的にみえる。現代の学者のように唯物的で、密教を教えると逆に馬鹿にしそう。というか、密教に通じていれば、空海が拒むことを予期しないと駄目である。 教えるなら、空海の方から、教えているはずである。恐らく、毎夜、最澄の枕元=夢の中に訪れていたはずである。最澄はそれに気づかなかったのだろう。) 直観などと言うと、一般には空想のように捉えられがちですが、今までお話ししてきたように、我々の《思考》も、一種の霊の存在とすれば、直観が大切にも言えます。 直観が強いほど、我々は直観通りの浄化の過程を着実に進むことができるのです。逆に《そんな馬鹿な》と思ってしまえば、ほとんど効果は得られないのです。 さて、シュタイナーは、未来のもう1つの秘跡である、完成された《見えない肉体=エーテル体》を持ったキリストが、どのように再度我々の前に現れるのかについても言及しています。 次回第163夜からは、その《再臨》についての話です。 ★ ★ ★ 自分が正しいという意見こそ自分勝手な意見である。大人だからといって若者よりも正しい意見をいえるとは限らない。校長でも他者の意見を聞かずに、自分の意見を押し付けるのは馬鹿である。
2016年03月18日
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海の向こうでは相変わらずエゴ丸出しの白人同士の戦いが繰り広げられているが、アホバカ支持者はアホバカなので、アフリカ系アメリカ人の乱入に、「アフリカに帰れ!」と罵ったらしいが、それなら、白人たちこそ、イングランドに帰るべきで、アメリカ大陸を先住民に返すべきである。 エゴイスト同士の卑劣な戦いは見苦しいものである。 さて前回は「保育園落ちた。日本死ね!」の日本が、下痢ゾ~を代表とする明治以降の歪んだ日本を崇拝する老害たちであることを紹介したが、老害たちの代表といえば、日本会議である。 日本会議の理念をみると、「我儘一色」で塗りつぶされていることがわかる。自惚れもいい加減にしてほしいものである。現実を知らない妄想の独り歩きにみえる。 このような妄想妄言には必ずといってよいほどルシファーの憑依がみられる。ヒトラーもルシファーの憑依といわれている。 つまり、前に紹介した『つまらない人間も「世界のため、人類のため」などの内容のない寝言をいう』のと同じである。 アホバカ下痢ゾ~たちは一般人の生活を知らず、恐らく生活費に困る体験など皆無なのだろう。だから現実逃避ともいえる寝言と同じ妄想盛り沢山の空理空論の政策ばかりして、日本社会を破壊し続けているという話をお馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ お前ら米の代わりに砂利でも食ってんの? http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-9037.html 消費税を8パーセントにして以来の、消費の落ち込みが凄まじいですねw だって、同じだけのお金で、消費税分、買える分量が減るんだものw 買ったら罰金w ちなみにスーパーの生鮮食品の場合、粗利が数パーセントしかない。スーパーの経営者にしても、汗水流して働いて、残る稼ぎよりも、お上に納める税金の方が多い。お役人さまのために働いてるようなもんだ。 グラフで鮮明に アベノミクスで消費の冷え込み"最速最大" メッキが剥がれても、「アベノミクスで民主党政権より景気は良くなった」「給料が増えた」と言い張る安倍首相。だが、数字は正直だ。 シグマ・キャピタルのチーフエコノミストの田代秀敏氏で、その結果が別掲の折れ線グラフだ。 消費支出金額は季節的な要因による変動が激しいので、今年1月の物価水準を基準として各月の消費支出から物価変動の影響を除いて実質化し、12カ月前からの平均(12カ月移動平均)の推移を描いている。 それによると、2人以上世帯の実質平均消費支出は、安倍政権がスタートした12年12月は29万9087円だったのに、今年1月は28万5351円に減っている。3年1カ月で1万3736円、4.59%の減少である。 ちなみに、民主党政権下では、09年9月から12年12月にかけ、29万5801円から29万9087円へと逆に3286円(1.11%)増えている。 そして、これが決定的なのだが、15年前の小泉政権発足時の01年4月の実質消費支出は31万9418円。今年1月と比べると実に3万4067円(10.67%)も減ってしまった。 コイズミでぶち壊された日本経済、せっかく民主党政権で回復しつつあったのが、アベシンゾーでまた、トドメを刺された。ユダ金に献上するばかりの奴隷自民党では、日本人はシアワセになれませんw ★ ★ ★ 財政赤字になった時点から歴代の大蔵、財務大臣や官僚の資産を没収し、島流しにしないと駄目である。少なくとも財務官僚の生活水準を平均以下にでもしないと、自分たちがつくった借金や責任をなんでも国民に転嫁するばかりである。 ちょっと話は変わるが、最近、アレルギーでもないのに、他人の握ったおにぎりが食べられないという神経質が巷を賑わせているそうである。 私が子どもの頃は、不思議な3秒ルールという、食べ物が地面に落ちても3秒以内なら、腹を壊さず、食べられるという一種の信仰みたいなものがあったし、公園で砂遊びをしていて、犬や猫の糞に出くわすこともよくあったが、それがかえって病原菌への抵抗力、免疫力をつくったといまでは良いように解釈している。 正直、私は神経質ではなく、花粉症でもないが、子どものときは耳鼻科でアレルギー性鼻炎と診断され、四六時中鼻水を垂れていたが、そのためか鼻づまりで、勉強、特に試験に集中できずに、成績もよくはなかったが、三十歳半ば辺りから、自然と治ってしまい、鼻づまりもなくなり、かえって集中できるようになった。 集中するのに鼻の大切さを知った。 いわば集中するのに、ハンデを背負っていたと考えれば、ハンデがなくなって、一層集中力がアップしたときに、シュタイナーの人智学に出会ったので、いまでは、人智学を学ぶための、あえて唯物的科学の勉強に深入りしないために、神様がハンデを与えてくれたものと解釈している。 人生は長い目でみないとわからない。ハンデを背負わされたときは、どうして自分だけこんなに辛い目に遇うのだろうと思うが、後々、振り返ってみると、ハンデの意味がわかるときがくる。 人智学によると、死後、走馬灯のように自分の人生を振り返る、というから、生きているときにはわからなくても、死後には、ハンデの意味がわかるようになるのだろう。 完璧な人がいないように、ハンデをもたない人はいない。 皆ハンデを背負って生きているわけだから、助けあわないと生きられない。 他人のつくったものを不潔と感じるのなら、何も食えなくなる。生命でない、愛情のない機械がつくったものなら食える、という他人に対する不信感、無神経さに驚かされる。それならまだ、水しか飲まないという修行僧のほうがマシである。 アホバカ下痢ゾ~政権のせいで、巷に他人への不信感が蔓延しているというのならある程度わからなくもないが、自分を神聖視し、他人を不潔にみるのは利己主義の何者でもないので、反省すべきである。 人間は生きるために大地から生命を奪い、自然に抵抗する力で免疫をつくり生きている。自分で何一つつくれるものはなく、全てが他からの借り物である。 日本人は清潔好きといえば聞こえがいいかもしれないが、豚も清潔好きで有名だが、豚は豚独特の臭さがあるし、清潔が必ずしもいいとは限らない。清らかな川に魚はすまない。 黴菌、黴菌というが、黴菌なんぞは日光を浴びれば数分後に死滅するのである。日光にあたらない人体内の方がよっぽど汚いというか、臭いはずである。 というか、極論をいえば、他人のつくったものが食べれないのなら、自分の糞を食うしかなくなるではないか? 手前の糞を食って生きろ。自分で働いて、自分で稼いで、自給自足しろ! という話をお馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ 無菌室で暮らせ http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-9039.html 毎度、なんだが、「他人の握ったおにぎり食えない」症候群ですw こういう人って、「人間の握った寿司」も食べられないんですねw 機械が握って菜箸で具を載せた寿司しか食べられないw 魚はどうやってさばくのか?四条流包丁式みたいに手を触れないでさばくのかね? まさかねw 小学生の4人に1人が、「他人が握ったおにぎりに抵抗がある」と答えたという、ベネッセの調査結果がある。食の衛生管理について意識が高い家庭で育つ子どもほど、親の意識が反映されているようだ。それでは、大人の皆さんの実態はいったいどうなんだろう。 ......というわけで、Jタウン研究所では、「他人が握ったおにぎり、食べられる?」というテーマで、都道府県別にアンケート調査を行った。 こういう人は、自分で料理をしない。親もあまりしないんじゃないか。食べ物は工場で、全身白衣にマスクの宇宙服みたいな人が作っていると思っている。食品工場も色々で、製麺所なんかはけっこうユルユルです。何故って、乾麺も生麺も、必ず熱湯で何分間も熱を通すから。静岡県では戸外で麺を干すのは禁止されているんだが、他の県ではほこりまみれの戸外で麺を乾燥させてますw ★ ★ ★ 利己主義が進み、怖ろしいことに、漫画「銀河鉄道999」も吃驚の、機械に食べ物を与えられ、育てられる機械人間が現れているようである。そのような機械人間にならないために、シュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第159夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-942.html ≪キリスト意識(13)(改変)≫ ★キリスト意識の3つの心 それでは、我々が受け取ったキリスト意識の具体的な中身とは何なのでしょうか。シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』の高橋氏の解説を見てみましょう。 「シュタイナーは《キリスト意識》を人智学の根本に据えております。人智学とは、要するに、この世の人々に《キリスト意識》を呼び起こすことだと、彼は繰り返し語っていますが、 (…中略…) その意識は次の3つの心のありようを示しているという、 1.《愛》と《共感の心》 2.《賛美する》態度 3.《良心》の感覚 と言うのです。 この賛美する態度と、愛、あるいは共感する心と、良心の感覚は、不思議なことに、紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけて世界中の人々に生じてきた、というのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp326-328《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載 この辺りの記述については、巷に溢れるスピリチュアリズムにもお馴染みの、耳ざわりのよいお題目のように聞こえます。しかし、重要なのは、この《3つの心のありよう》がキリスト意識の構成要素である、と言っている点です。 ちなみに《賛美する》態度とは信仰心のことですが、あくまでもホンモノの神へであって、堕落したキリスト教の信者になれ、というわけではありません。 (現代のキリスト教はルシファー教で、悪魔崇拝教だから。) なお、こうした心が生じてきた時期が紀元前6~5世紀と、イエスの時代より先行しているのは、前夜で述べたように、まず仏陀が叡智として、この世に八正道を示していたからです。 ★キリスト意識のゆくえ さて、問題は次の部分です。ここで高橋氏は唐突にイエスの肉体について、下記のような、想像を絶するような解説を始めます。 まずは、その部分を抜き出してみます。 「シュタイナーが言うには、イエスにキリストが受肉したと言うのは、正確にいうなら間違いで、キリストは3年間イエスの肉体に憑依したのです。 それでは、キリストの本当の肉体はどこにあるのかといえば、 地球(の物質性)がいつか滅びる時までに、人類の中で《賛美》と《愛》と《良心》の3つの心の働きが深められ、高められ、濃縮されて、地球の物質性が滅びた後の、純化した地球の証として、その肉体にキリストが受肉する、と言うのです。 地球の(物質性の)滅亡に際し、最終的に地球が純(霊)化した証として出現するキリストの肉体は、濃縮された《良心》と《共感=愛》と《賛美》から成り立っている、と言うのです。 (つまり、人類の一人一人の自我にキリストの純化の血が流れているので、一人一人がキリスト意識に目覚め、他者を救うことに努力すれば、地上にお互い助け合うキリストの救いの天国が現れる。) シュタイナーによれば、現在の我々の良心(本書でいう《人の子》)とは、いつか生じるキリストの肉体の土台になるのです。 そして我々の愛や共感は、いつか生じるキリストのエーテル体の土台であり、我々の礼賛、賞賛は、キリストのアストラル体の土台となるのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp395-396《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載 要点だけを言えば、《キリストは、救いの意識の3つの柱となる心から、地球が純(霊)化した証として、自らの肉体をつくる》ということになります。…と言われても、全く常人の理解を超えるところでしょう。 この辺りの飛躍振りを見ると、コリン・ウィルソンを初め、シュタイナーを理解しようとする者達を《とてもついてゆけない》と見切らせてしまうのも、十分頷けるところです。 (我々一人一人の潜在意識のなかに、キリスト意識の3本柱の《良心》と《共感=愛》と《賛美》がゴルゴダの秘跡により流れ込み、我々が地上で他者を助けることにより、潜在意識のなかのキリスト意識が少しづつ、かつての記憶のように蘇るのである。 そのような救済者が一人でも多く目覚めれば、地上は救済者の国となるが、悪魔も負けじと、人類一人一人を奴隷とし、階層カースト制度を根付かせようとしているので、悪と善の戦いは、一人一人の自我のなかに委ねられている。) ★キリストの肉体 実際小生も、ここの解釈については確信が持てない部分のひとつですが、読者の方々にも考えていただくために、誤った認識である危険を承知の上で私見を述べておこうと思います。 我々がキリストから受け取った3つの心、《賛美》《愛》《良心》は、我々が輪廻転生する度に、現世の生活の中で濃縮されてゆくというのは、これまでの話から理解できると思います。 問題は、それらは最終的にはキリストの《肉体》になる、と言うところです。まず、3つの心が地球の究極形であるキリストの(意識)体のどれに対応しているのか、見てみましょう。 その辺りの説明について、高橋氏は、それに続く解説で、3つの心のゆくえを儒教の『仁義礼智』と結びつけて次のように述べています。 ここで儒教が出てくるのは唐突にも思えますが、高橋氏によれば、儒教は、古代アトランティスの見霊意識を持ったシャマニズムの生き方を、 社会思想の形で残したほとんど唯一のもの、と述べています。 「シュタイナーが《良心》と言っている未来のキリストの肉体は、孔子の言葉で言えば『義』です。『義』とは、孟子によれば羞悪の心の事だそうです。 悪いものを恥じる心なのです。恥じる時、私達は肉体で反応します。真っ赤になったり、冷や汗をかいたりします。 『仁』というのはエーテル体の働きです。仁は愛であり、共感の心であり、惻隠の情なのです。 例えば、小さい子が井戸に落ちそうになった時に、どんな悪人でも思わず駆けて行って、その子を助けようとします。そこには打算も名誉心も働いていません。 (…中略…) その『仁』は未来のキリストのエーテル体なのです。それは人と人、生命と生命との間をとりもち共感させる力であり、生命力の源です。 そして、『礼』とは辞譲の心ですが、礼を尽くすとは礼賛することとも言えます。何かを本当に素晴らしいと思える力です。 その素晴らしいと思える心で、前に向かって進もうとする態度が、シュタイナーの言う未来のキリストのアストラル体となるのです。 『仁義礼智』の『智』は自我の働きに対応します。孟子は、智とは是非の心のことだ、正しい、正しくないに敢えて踏み込む内面の力(勇気)、と言っています。 この仁義礼智の教えを通して、儒教が後世に伝えようとしたことは、恐らくシャマニズムの精神の根幹である、と思います。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp396-397《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載 まとめると、 『良心』 =『羞悪の心』= キリストの《肉体》 『愛』 =『惻隠の情』= キリストの《エーテル体》 『賛美の心』=『辞譲の心』= キリストの《アストラル体》 ということになります。 つまり、それぞれの3つの心が、我々の4つの体のうち《自我》を除く3つの体に相当し、転化するというのです。 さて、ここで第153夜の話を思い出してください。そもそもキリストの正体とは、太陽霊=アフラ・マズダであり、さらに、我々が肉眼で見て、科学的に知っている太陽とは別のその背後にある実体でした。 シュタイナーは、そこから、熱エーテル、光エーテル、音響エーテル、生命エーテルが放たれていると言います。それは日常生活の感覚でなく、霊能力でしか知覚できない、熱や光や音の本質を指しています。 小生は、これらがキリスト意識以後、私達の中に流れ込んだことで、私達に自己中心的な心とは違った3つの心を発現させ、地上生活において、その体験を積み重ねさせていると思います。 そしてこれらは、私達の死とともに、第135夜以降でお話しした《4大自然霊》のような存在となって霊界に持ち込まれ、次回の転生にまた引き継がれることになります。 無論、一度の転生で浄化されるわけでは無く、逆に劣化する場合もあり得るでしょう。これが、私達一人一人の輪廻転生の度に繰り返され、人類全体として徐々に浄化してゆくのではないかと思います。 (勿論、脱落者もいる。他者がつくるものに文句をいう人や金持ちなのに、他者を助けようとしない人などである。) ★地球の滅亡とともに… さて、高橋氏は、この浄化の過程で我々の地球は滅びる、と言っています。これについては、第128夜でお話しした『東方ミトラ伝説』で述べられているのと一致しています。 ただし、この伝説では我々自身が、散り散りになったアフラ=マズダの『光のかけら』の一つ一つであり、一部の『闇』の勢力を除き、その全てがコスモスから脱出することになっていました。 しかし、高橋氏の解説では、浄化されていくのは太陽霊から受け取った3つの心で、我々は輪廻転生を繰り返して、それをキリストの最終的な肉体にまで高める役割を担うようにみえます。 すると、我々自身はどうなるのでしょうか。『東方ミトラ伝説』とは違って、ここではシュタイナーは、我々自身が救われるとも、アフラ=マズダと一体になるとも言っていません。 つまり、我々はキリスト意識の浄化の担い手であって、その勤めを無事果たした折には、地球とともに滅亡する運命にある、とも受け取れる書き振りになっています。 もしそうならば、選ばれたものが救われるだの、アセンションで高次元の存在になるどころではありません。利己主義であろうが無かろうが、時が来れば、皆、そろって消え去る運命…なのでしょうか。 実は、この答えとなるものが、キリストのもう一つの秘跡である『復活』の本当の意味にありそうです。 それについては次回第160夜でお話しします。 ★ ★ ★ 残念ながら、現在の地上は悪魔の帝国で埋め尽くされている。互いに戦い、奪い合い、憎しみあう。悪魔崇拝が跋扈し、この国の日本会議などは、その最たるルシファーの国というより他はない。米国の偽ユダヤの戦争屋はアーリマンの帝国である。
2016年03月17日
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学歴整形改憲馬鹿下痢ゾ~の言論弾圧に屈し、元官僚の評論家を降板させ、どこの馬の骨だかわからない学歴詐称のタレントを起用し、またまた文春のジャーナリスト命の弾圧への怨みの一撃で、ダマスゴミの政権腰巾着買収癒着ぶりが巷で明らかになっているが、この国の言論は、下痢ゾ~のせいで、中国や北並の死んだも同然の低レベルに陥っている。 金儲けのためのTVのヤラセぶりが酷いのか、ダマスゴミの提灯洗脳記事が巷に溢れ、御用学者ならぬインチキ評論家が巷を跋扈している。 なんだか、中国の間抜けなコピー商品のように、なんちゃって学歴が巷を席巻している。これらニセモノが蔓延る原因は、インチキとホンモノを見究める眼力を失っているせいである。 なんでもカネで買おうとし、買収し、ホンモノをつくり出す精神を蔑ろにし、技術を盗もうとするから、外見を真似た中身空っぽのアホバカが繁殖するのである。いい例が寿司職人の氾濫である。 そもそも技術とは誰にも真似ができないオリジナルだから価値があり、簡単に寿司を握れる技術などは本来技術でもなんでもない。以前、茶の三煎を紹介したが、和食が地産池消を基本とするのは、食を通じて四季を愉しむ、地球の生命、大地の息吹を感じる精神を養うところにある。 人間は地球の生命を拝借させてもらってはじめて生きられる。地球の恵みを感じ、その恵みに応えるために、大地の生命を養う土台となるべく努力する。 だから、昔の漁師や農夫は、自然にあわせて漁や収穫を行い、金儲けなどは二の次で、乱獲などせず、自然のリズムに合わせ、保護し、日々の生活に感謝し、神社などを建てて祈願した。 大地や海の神さまに日々の生活の安定さを感謝しながら生きたのである。 目にはみえないが、大地や海には沢山の微生物がそれ相応の人間と同じ社会をつくっている。それらが、自然のリズムを奏でている。人間は、自然のリズムを読み、そこから生まれる余剰なものを拝借していた。そのようなホンモノを見究める眼を失ってしまいアホバカになった。 このような古の自然を尊敬する精神が失われてしまったので、インチキや出鱈目、ニセモノが巷を跋扈するようになった。 恥知らずのアホバカ下痢ゾ~ら悪の一味のインチキがバレては困るので、言論弾圧しているとしか思えないという話を紹介する。 ★ ★ ★ テンプラ大学 http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-9031.html テンプル大学といえば、卒業生を使っていた事があるな。おいら、「テンプラ大学」と呼んでいたw 大学といっても、昔はちゃんとした大学じゃなくて、専門学校扱いだった。コンサルタントって、アレだろ? ヤクザがよく名乗る肩書だw で、この人、どこがクライアントかは言えないが、「コンサルタントの実績はある。下請けなので名前は出せない云々」だそうで、なんだよ、コンサルタントの下請けってw 私は、テンプル大学ジャパンに入学後まもなく、外部の人間にもオープンな大学講義を聴講するなど海外を遊学後、大学には戻りませんでした。 本格的な就職先としては日本のコンサルティング会社に入り、業務を行っていました。 経営大学院についても学生、一般社会人にも公開されているセミナーを聴講した程度ですので、学士を含め学位、また修了書が発行される類のプログラムへの参加は一切ございません。 自分で独立してコンサルティング業務を行うようになったのは、1995年頃です。 私が主宰するブラッドストーン・マネジメント・イニシアティブ・リミテッドは2002年に設立ですが、その前からコンサルタント業務を行い、いわゆる法人成りしています。 まぁ、考えてみりゃ、TV番組のレギュラーで、毎週6日間も拘束される仕事って、マトモな社会人では出来ませんね。おいら、TVにコメンテイターとして出てくる医者、弁護士の類ぃは信用しないが、昔からTVコメンテイターって、「映画を撮らない監督」とか「小説を書かない作家」とか、そんなんばっかだよねw アベシンゾー並みの学歴詐称 http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-9025.html 以前からテレ朝の報道ステーションにコメンテイターとしてよく出ていたんで知ってるんだが、まぁ、ずいぶんと軽いヤツが出て来たなと思っていたら、偽物だったという、アレだよね、アベシンゾーの悪口言ってクビになった古賀さんの後釜w ハーフで、アメリカの大学卒で、MBAという触れ込みだったんだが、その全部が嘘でしたという、ここまで完璧な嘘つきも珍しいw フジ"新ニュースの顔"ショーンKに学歴詐称疑惑 フジテレビが社運を賭けて4月4日からスタートさせる平日深夜の大型報道情報番組「ユアタイム~あなたの時間~」のメインキャスター、ショーン・マクアードル川上氏(47)に学歴詐称疑惑が浮上した。 川上氏の公式ホームページ「SEAN K」の英文プロフィールには長年にわたり、下記の記述があった。 <高校卒業まで日本で教育を受け、大学で米国に戻り、フランスで2年間を過ごした。 (中略) テンプル大学でBA(学位)、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得。 パリ第1大学に留学をした>(編集部訳) 「学位は取っていない」「パンテオンソルボンヌ(パリ第1大学)には入っていない。オープンキャンパスの中で聴講した」「ハーバード・ビジネス・スクールには、オープンコースの3日くらいのコースに1回行った」というのが正しいところだそうでw そういや日本国の首相にも学歴詐称疑惑があったなw 同氏の公式の経歴書には、成蹊大学を卒業後、南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学したとされているが、USC広報者担当者によると、安倍氏が政治学部に在籍したことはなく、78年の春期、夏期、秋期にのみ在籍し、取得した6コースのうち、3つは外国人のための英語コースであり、そこには政治学は含まれていない。しかも安倍氏は、2年間留学といいながら、実際には1年間にも満たないことがこれで判明した。 テレビ朝日も策士で、判ってて使ったんじゃないの? 学歴詐称のアベシンゾーには相応しいコメンテイターだというのでw ★ ★ ★ どこの大学、大学院出ようが、勉強、研究する姿勢や態度の問題である。地球から生命を拝借してはじめて生きられているのだから、もっと真面目に真剣に生きるべきではないのか? インチキや出鱈目、嘘などついて恥ずかしくはないのか。 しかし、権威に阿り、よってたかって弱者を愚弄するこの国の風潮はジミンがインチキで政権とってから露骨で顕著になってきているのではないだろうか。巷を賑わせている切羽詰まった「保育園落ちた。日本死ね」の切実な訴えが粗々しい表現になったのを、小馬鹿にするような批評家はニセモノである。 巷では老害と名高いこのニセモノ曽根綾子なる人物が、この切実な訴えを小馬鹿にする批判をしたような話をお馴染みのサイトでみつけたのだが、あまりに低レベルの話なので、スルーすべきか、紹介すべきかどうか迷ったのだが、権威者に媚びるニセモノの代表として紹介する。 ★ ★ ★ まともなこというね。 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%AD%E3%80%82 七転び八起のブログの力 より 上記文抜粋 ・・・・・・・ 意見をつなぐ、日本が変わる。BLOGOShttp://blogos.com/article/166610/より転載 記事 小林よしのり 「亡国の徒」曽野綾子の老化した感性 昨日の産経新聞に曽野綾子が「貧しい表現力が招く不幸」という批評を書いていた。 (そもそも統一教会御用達ボロクソ紙を買うこと自体浪費で、洗脳媒体なんで有毒である。) 例の「保育園落ちた日本死-ね」のブログについての批判である。 「このブログ文章の薄汚さ、客観性のなさを見ていると、私は日本人の日本語力の衰えを感じる」とボロクソである。 (前回紹介した『つまらない人間も「世界のため、人類のため」などの内容のない寝言をいう』のと同じ。社会的弱者を小馬鹿にすることでニセモノの権威を見せびらかす。自慢の類と同じ。この老害の脳の衰え、子育ての大変さへの想像力のなさが問題。) 気の毒な人だ。 いくら文章を生業にする者でも、やはり老化すると感性は衰えるという真実を証明している。 (全く同意である。権力に阿るような文章を書くようじゃ文筆家として死んだも同然である。) これを読んで思い出したのは、わしが『おぼっちゃまくん』で小学館漫画賞を受賞したとき、老いた審査員からこともあろうに授賞式で、下品だと酷評されたことである。 (孔子の「衣食住足りて礼節を知る」を知らないようである。) わしは「その下品な漫画に賞をくれた審査員の勇気に感謝します」とスピーチして、関係者をあわてさせ、翌年、審査員は総入れ替えになった。 (切実な訴えに表現も糞もない) 『おぼっちゃまくん』の下品さの正体は人間の根源的な「活力」であり、そこには親子の愛や友情や、拝金主義を笑い飛ばすパロディ精神など、相当辛辣な批評性が詰まっていたのだが、審査員の老いた感性にはそれが見抜けなかった。 (権力に安住した結果、ホンモノとニセモノを見分ける目を失った。) 曽野綾子は愛国者らしいが、このような老人が多すぎるのである。 (このような愛国はニセモノである。愛国を使って商売しているような詐欺である。) 大阪市の中学校長が全校集会で「女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上産むことです」と言ったらしい。 (この中学校長は神様にでもなった気なのだろうか? 最大の自惚れ屋さんである。余計なお世話なんで、「校長にとって最も大切なことは身の引き際で、そのような女性蔑視するアホバカは校長に相応しくないので早く引退すべきである。」と返してやるべきである。) 校長は愛国者らしいが、こういう劣化した愛国者こそが、実は「亡国の徒」であり、少子化の原因なのだ。 (国民の日々の生活が守れない国は、そもそも国の意味をもたない。権力者による国の私物化である。生活環境が良ければ、自然と子どもを産みたくなるものである。社会福祉を充実させることが第一。) 曽野綾子も同様、こういう感性の劣化した、そして現実を知らぬ老人が少子化をますます促進し、国を滅ぼそうとしている。 平沢勝栄も同様の老人であり、自民党の議員の多くがこういう無意識の「亡国の徒」となっている。 (このような老害が後進に道を譲り、さっさと引退しないから、社会の新陳代謝が進まずに、若者の雇用が奪われ、少子化になるのである。) 人間の幸福感に結び付かない近代主義と、中間層を崩壊させた新自由主義の結果、現れた格差社会の現実が、どれほど厳しいものか、曽野綾子はもう一生分からないだろう。 たかが高度経済成長の頃のノスタルジーで、今の日本社会に説教しても害にしかならない。 曽野は敗戦後の貧困を知っている、発展途上国の貧困を見てきたと自慢するが、残念ながら敗戦後の日本にも、発展途上国にも、共同体は確固として存在し、「活力」は漲っていたのだ。 老化した審査員に下品と評された『おぼっちゃまくん』の世界の「活力」が、今の日本にないのは何故なのか? それが曽野綾子やアベノミクスや一億総活躍と虚しい掛け声をかけている自民党議員には分からない。 (インチキや出鱈目、嘘を、老害が権力を使って通用させてしまうので、ホンモノを探す苦労が馬鹿馬鹿しくなり、そのうちやる気をなくし、誰もホンモノを求めなくなる。社会が活力を失い停滞している。) 民主党は名前を変えることより、今の自民党の根本的な過ちを見抜いて、日本社会に「活力」を取り戻す政策を打ち出すべきなのだ。 選挙の結果より、日本の「公」を訴え続けていれば、いつかチャンスは回ってくる。 しかし曽野綾子の老化した感性では 「日本死-ね」 (この「日本」とは、明治期以来の亡霊のようなニセモノの日本懐古、権威主義のことであり、未来の日本精神ではなく、過去に拘るニセモノの日本精神を死ねといっているのである。) の感性の凄さが見抜けなかったのだろうが、わしは「日本死-ね」という表現でしか言葉の「活力」が生まれなかったと思っている。 もちろんこの言葉づかいは、アマチュアだからこそ生まれたもので、偶然の産物である。 (アマチュアというよりも、机上の空論でなく、現実を知る者) わしが学んだのは、アマチュアリズムを忘れないプロであり続けることの難しさだ。 素人からも学ぶことは大いにあるのである。・・・・・・・・・・・・・・ 抜粋終わり お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 若者が老害に対して、社会の発展の障害になるので、早く死になさい、といっているのが、老害の本能には伝わっているようだが、老害はニセモノで執着心が強く、我儘なので、自分が老害であることに気づいていないのである。 「過去の栄光にいつまでしがみついているんだよ。アホバカ」という本音が、「日本死ね!」の発言なんである。 この際、はっきりと言おう。曽野のような妖怪はもはや人間ではないので、存在自体が社会迷惑なので、人間として早く死ね、といっているのである。 人間として死すべきときに死なずに命乞いするのは人間をやめなければならない。母なる大地から拝借した生命は必ず大地に返さなければならない。 自分さえよければいい、というような金持ちのような恥知らずの獣にならないように、シュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第158夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-927.html ≪キリスト意識(12)(改変)≫ ★血=自我 さて、はじめにゴルゴダの丘でのキリストの磔刑について、もう少し掘り下げて見てみます。 ここでまた、次の書を紹介しなければなりません。 なにせ、シュタイナーの書は、ほとんどが『講義録』ですので、難解です。ですから、できるだけ多くの文献から、よりその意味が理解できる講義録を探してゆくのがひと苦労なのです。 (この苦労はよくわかる。市販のシュタイナーの書のほとんどは、シュタイナーが自分で書いたものではなく、講義を受講者が書き留め、それもドイツ語なので、日本語に翻訳したもので、シュタイナーから受講者と、受講者のドイツ語筆記から翻訳者へと、日本語の本となるまでに、バイアスが少なくとも2つかかり、意味が間違って伝わる可能性が多々ある。 だから、私の場合、シュタイナーの理念を知るために、シュタイナー関連の本をできるだけ読み、シュタイナーならこう考えるという自分なりのシュタイナー像をつくり、それに語らせるアプローチで、このブログに紹介している。 自分のなかのシュタイナーに語らせる感じで、話を紹介しているのである。) このゴルゴダの秘跡の意味のヒントとなるのが、1909年9月に行われた『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』の連続講義の第十講《西川氏訳・イザラ書房》です。 しかし、小生自身、完璧に理解している訳ではありませんので、あくまでも《推論》です。それでは、同書から、ゴルゴダの秘跡についての記述を見てみましょう。 「当時、ゴルゴダの丘での出来事を正しく理解するためには、今日、一般に知られる理解よりも深い霊的な理解が必要です。 地球進化期の初頭に、霊だった人間の自我が物質化したのが血です。血液は、人間の外界への表現なのです。 キリストが地上に出現しなかったら、人間は自我をますます強め、利己主義を発展させていたでしょう。 (ルールや事実を無視して利己を通そうとするのがインチキや嘘である。) ゴルゴダの丘の出来事によって、人間は利己主義に深く陥る事を免れたのです。 (…中略…) その時流れ出た血は、利己主義の余剰として、人間の自我のなかで他の生命のために犠牲となるべきものでした。 (…中略…) ゴルゴダの丘で生じた出来事は、唯物的な知性しか持たない科学者にはわかりません。 ゴルゴダの丘で流された血を検査しても、他の人間の血と何ら変わらず、同じにみえるでしょう。 しかし、秘教学者には、その血が他の血と違うのがわかるでしょう。 (…中略…) 秘教学者には、無償の愛が、ゴルゴダの丘で流された血から溢れる、のがわかるでしょう。 (…中略…) ゴルゴダの丘から、この理想の愛を表現する言葉が響いて来ます。人類を裏切る背徳者さえも赦し与える無償の愛の言葉なのです。 (…中略…) 人間は、ゴルゴダの丘の上の十字架から流れてくる愛に浸透されるなら、未来を見て、 《私の自我の中に生きる愛の精神が、物質化した地球を次第に純化し変えていくように、人類の霊的な進化を地上で行わなければならない》 と言うことができます。 ルシファーの影響がまだ無かった頃、人類には、族長(民族霊)を通して神とつながる父の原理(意識)が残っていました。現代人は、父から受けとった霊魂(意識)を、地上で次第に高め、父の原理(霊魂=意識)に返してゆくのです。 (…中略…) そして、人間が、何度も輪廻転生を重ね、地上での行為の中に、次第に、ゴルゴダの秘儀から父の原理(意識)へと注がれる(個人的な)愛を取り込んでいくうちに、外界は、キリストの救済の原理(意識)に満ち溢れるのです。」 ルドルフ・シュタイナー『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』pp235-238《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載 《血》とは《人間の自我が物質化したもの》とシュタイナーは言います。つまり、肉体をもったまま(個人の意識)での見霊能力を得たキリストの無償の愛の意識が、血となって地上に流れ出たのです。 無論、科学者達は《DNAのような情報因子もないのに、情報が伝わるはずが無い》と言うでしょう。そこで、もう少し現代的な解釈をして見ましょう。 我々の血は、我々の自我が生み出しています。まず、その血の一滴ごと、つまり現代的に言うなら、その中のDNA全てに、キリスト意識という《突然変異》が引き起こされたものと考えてみます。 (人智学では、血液疾患のほとんどは自我の不調和にあるという。) そして、その血(自我)は、聖杯(肉体)に収められました。ここでさらに飛躍して、そのDNAが、ウィルスのような自己複写機能を持っていたとしたら…感染することで、その遺伝子が入っても不思議ではありません。 この《ウィルス》に《感染する》ことで、聖地の兄弟団のメンバーは、キリストの見霊能力を得たり、或いは直接その能力を発現できないにしても、その潜在能力を得たのかも知れません。 ★父の原理とは 一方、上述の言葉の 《現代人は、父から受けとった霊魂(意識)を、地上で次第に高め、父の原理(霊魂=意識)に返してゆくのです。》 の《父の原理》とは一体何を指しているのでしょうか。 一般にキリスト教では、父である霊魂を《父性原理》、母なるマリアの肉体を《母性原理》としているようですが、《父の原理》を《神の精神》に置き換えて読むだけでは意味がつかめません。 正直言って小生も、この言葉を正しく理解しているのかどうか自信は無いのですが、間違いの可能性を覚悟の上で、私見を述べてみます。 第127夜でお話ししたように、ミトラ神学によれば、我々の一人一人は、アーリマンによって切り裂かれた、アフラ=マズダの《光のかけら》を持っています。 ここで、ミトラ神学の言うように「光のかけらが、我々自身」とはせず、あえて「光のかけらを持っている」とするのは、後程明らかにします。 そして、そのかれらは《忘却の霧と闇の枷》の中で、本来の輝きを失っている状態であり、我々が転生する目的は、地上での研鑽によって光のかけらを成長させ、その輝きを取り戻すことでした。 従ってこの言葉は、我々は輪廻転生を繰り返すことによって、自らの肉体に受け入れた《光のかけら》を純化させ、次第にもとのアフラ=マズダに近づけてゆくことを述べているのではないでしょうか。 つまり、この《父の原理》とは、ズバリ《アフラ=マズダ》を指しているのと、小生は解しています。 ★キリストが地上に現れなかったら… それではもし、キリストの自我が地上に浸透しなかったとしたら、どうだったのでしょうか? それでは再び『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』から、抜粋して見ましょう。 「キリスト・イエスが地上に到来しなかったら、どうなっていたでしょうか? 自我のなかの利己主義が完全に出現(表面化)し、人類は唯物化し、物質獲得のために、競争や闘争に明け暮れた社会となったでしょう。 同時に、自我の利己主義が完全に出現した分だけ、これまでの傑出していたアストラル体、エーテル体、物質体の能力が消え去ったでしょう。 一方が進めば、他方が遅れるのが、進化の法則だからです。 人間は完全な利己主義者になり、地上に競争、闘争を持ち込み、代わりに愛を消滅させたでしょう。 人類は、地上を支配するための完璧な利己主義、権威主義(完全な身分制度)を獲得し、完全な利己主義、独裁主義に支配される自我をもつようになったでしょう。 (…中略…) この知性が空っぽで、無責任な、奴隷のような自我に中身を与えること、空っぽな自我から愛の力が流れ出るように自我の中身を充実させ、人類の精神を発展させることが、キリストの地上での行為の目的でした。 キリスト無しには、自我は空っぽの器のようになっていたことでしょう。キリストが地上に現れたことで、人間は愛を知り、自我は愛に満たされたのです。 …………………………………………………………………… キリストが現われなければ、人類は思考や叡智について完全に利己主義になっていたでしょう。…しかし、外面的な叡智及び思考と、内から生きて活動し、他者を理解する力とは違います。 (反論や異論を認めないような利己主義者。自分が全てであるアホバカになっていた。現代人の一部にはそのようなアホバカがいるが。) 《自我を差別すること》と《自我を理解すること》とは違います。…キリストが地上にもたらしたのは他者を理解する力であって、他者を評価する力ではありません。 キリストは、自らを他に捧げたのです。人間のアストラル体だけで無く、自我の中にも下ったので、人間の自我は、キリストから無償の愛を得て、自分から愛を注ぐ力を得たのです。 キリストがもたらしたのは、ホンモノの愛の中身であって、愛を外面的に捉え、差別するニセモノの偽善では無いのです。」 ルドルフ・シュタイナー『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』 pp195-204《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載 つまり我々は、個人の意識をもったまま、見霊能力を得るために、《自我》を発達させてきたのですが、それだけでは《仏作って魂入れず》の状態であり、中身が空っぽの《自己意識》のみの塊に過ぎないのです。 ちなみに、《叡智と思考》の話が出てきますが、実はイエスに先行して、《自我に慈悲をもたらすため》に、地上で慈悲を説いたのが仏陀で、これがこの本のテーマでもあります。 彼によれば、仏陀は《(集団的な)慈悲と愛の教え》を八正道として説きました。 (仏陀の時代は、個人主義に乏しく、全てが民族主義、集団主義だったので、慈悲を説いても、集団主義的な愛になってしまったので、仏教に個人主義が芽生えずに、遅れた集団主義の多神教になっている。特に日本人は、正論をもって一人で説こうとはしない。権威主義に弱く媚びる。) 彼の弟子達の何人かは、その教えだけで悟りの境地を開いたとされています。 (古い霊界参入法の、集団で、霊能力を獲得しようというやり方だが、この方法は現代には適合せずに、日常生活を失う羽目になる。) しかし、その叡智にとどまっていたのでは、新たな見霊能力を身につけることはできません。集団性を破棄し、新しい個人主義に目覚める必要があり、それを実現させたのがイエスだった、ということです。 (仏陀も「一人サイの角のように歩め」といっているのだが、仏教徒は堕落して集団をつくる。) …………………………………………………………………………………… ついでに言えば、このことは、一部の超人的なスピリチュアリストを招いて、その能力を堪能することに終始するような講演会についても、よく考えるべき問題だと思います。 (このような集団的儀式は現代では通用しない邪道である。自我のなかのエゴ=利己主義がかえって増幅されてしまう。だから宗教教団は、現実の生活から離脱して怪しい闇に落ち込むのである。現代では宗教は個人でのみ健全で、集団性のは悪霊が憑りつくだけなんで、全て解散すべきである。) 例え、見つめるだけで愛を発するような怪人が、現実にその力を持っているとしても、単にその力を受身的に浴びているだけでは、ただ教えを聞いているのと大差はありません。 我々が目指すべきとされているのは、愛を受身的に感じて満足することではなく、イエスが実践して見せたように《愛の実質を自分から注ぐ力を発現する》ことなのです。 神秘的体験だけを求めるような姿勢は、イエスに奇蹟だけを求め、その本質を理解できなかった、かつてのユダヤ民衆の愚かさと、ほとんど変わらないのではないでしょうか。 さて、次回第159夜では、我々が自我の中に受け取った《キリスト意識》の中身について、もう少し具体的にお話しします。 ★ ★ ★ エゴイストたちの最後の審判は近い。勝海舟もいっているが、老人の最後の仕事とは、老害にならずに、早々と後進に道を譲ることなんである。譲るべき後進がいないのなら、つくってこなかった自業自得で、せめて一人寂しく去るべきである。
2016年03月15日
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TVの「しくじり先生」という番組は面白いので、毎回視聴しているのだが、先日、亀田大毅氏が講師として「調子に乗りすぎてしくじらないための授業」で自身の体験を語っていたのだが、調子に乗りすぎて、バッシングを受ける前までは誰かの人生とよく似ているようにもみえた。 それはアホ下痢ゾ~である。 つまり、バッシングを受ける前の調子に乗りすぎて国民から総好かん食らっているのがアホ下痢ゾ~なんである。祖父を誇大視し過ぎて劣等感の塊になったようにもみえる。 その証拠に、以下に紹介する「選挙のためならなんでもする」というアホバカ自爆宣言は、裸の王様ぶりを自ら告白しているからアホバカである。 しかし、大きな違いは、亀田氏は、調子に乗りすぎたが、バッシングで反省し、実力で世界チャンピオンを獲得したところで、月とスッポンのポンのアホ下痢ゾ~はインチキで、のし上がり、いまだに調子こき続けていて、自慰行為をやめずに、国民がアホバカと認識しているのに、ビッグマウスを続け、ダマスゴミを買収し、バッシングを阻止している救いようのないところである。 選挙に勝つためには野党に失敗の全責任を押し付け、買収したダマスゴミにネガキャンさせ、罵声を浴びせるのがアホバカ与党のやることである。もはやジコウ与党には「正々堂々と戦う」というのは死語ですらある。 こんなアホバカを放置していてはこの国が駄目になるばかりなので、ジコウの自己チューを阻止するには、野党にがんばってもらわないと駄目なんである。 ★ ★ ★ いやはや「日テレ」はご臨終だった!:なんと韓国民団民主党の手に落ちていた!? http://quasimoto2.exblog.jp/22598170/ 内容は無いようなので省略します。 ★ ★ ★ 「選挙のためならなんでもする。誰とでも組む」との自爆発言は、確かにミンスを批判した発言のつもりのようだが、国民は「テメーがやってきたことだろ」とそっくりそのまま見抜いているから、「お前がいうな!」と本心では思っている。 現に、「選挙のため云々」と野党を批判しているアホバカ発言そのものが選挙のためであることにアホバカは気づいていない。 訂正するのなら、「選挙のためならなんでもしてきた。誰とでも組んできた。」ジミンと、腹痛で逃げたくせに「総理になるためならなんでもしてきた。米国の戦争屋の売国奴とも組んできた。」のがアホ下痢ゾ~ならぬゲスゾ~なんである、とすべきであろう。 アホゲスゾ~はいわば反面教師といえるかもしれない。ああなったら人間失格で御終いであると。 というわけで、ああならないために、シュタイナーの話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第157夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-919.html ≪キリスト意識(11)(改変)≫ ★完璧な肉体 さて、ようやくこの章の本題となる『キリスト意識』にたどり着くことができます。それは、キリスト自らが、人間の肉体を使って、人類の手本として記録した道徳性―いわば軌跡のような霊界参入法―を指しています。 「キリストは、人間の自我のなかの悪魔の3段階にわたる誘惑に対して、模範解答となる手本を、しかも古代の秘儀参入以外の方法で、人類に示してくれました。 人間の3つの体(肉体、エーテル体、アストラル体)の中に生きるキリストの力を通して、キリストの地上生活が体験できた人には、1つの道徳性の意識が与えられます。 マルクト(≒現世という国;カバラの樹の王国=物質界を表わす)の中に生きる人間が、自我を失わずに霊界に参入できるようになるための意識が与えられるのです。 (カバラは生命の進化図で、人間が話す言語の原典らしい。) いつかは、2つの世界を隔てる扉(障壁)が無くなり、マルクト(物質界)の中を生きる人間が、その自我を伴って霊界へ参入できるようになるでしょう。 『マタイの福音書』に記されているように、キリストが誘惑を克服できたことで、人類にキリストの体験が可能となったのです。 マルクト(での体験)のための自我が高次の世界へ上昇するのです。 この天国参入の手本が、地上に生きたキリストとなって現れたのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 p203《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 このように、シュタイナーの説く『高次の世界への参入法』とは、我々が個々の肉体の中で自我を保ちながら、霊界の中へ入ってゆくことを指しています。 (肉体は失うが、肉体を象ったエーテル体のエキスは残る。) 加えて、そのためには、我々は《現状の肉体》をできる限り最善の状態(道徳的に健康な状態)に保つべきなのです。 肉体は、通常の地上生活を営む限りは、素晴らしい再生力と免疫力を備えた器官です。本来、全ての病的変化は、肉体以外の他の3つの体の変調によって起こり、変調を取り除けば自然と快癒するといいます。 それ故、我々は、外からくる異常な要因を、肉体以外の3つの体を通じて、出来る限り肉体に与えないよう、肉体をケアする必要があるのです。つまり、肉体の機能を損なう要因に、できる限り配慮すべきなのです。 ましてや、一部のスピリチュアリズムが言っているような《放射能にも耐えられるような超越的な肉体になる》などと言うことは、シュタイナーの人智学にはありません。 (人工放射線にはできる限り被曝しないに越したことはない。) ★最も非力な偉業 さて、このキリストの体験を、我々人類の共通の経験の源として記録すること―これこそがキリストが地上に受肉した唯一絶対の目的であったと、シュタイナーは言います。 その目的に比べれば、水をブドウ酒に変えたり、水上を歩いたり、死人を甦らせたり…と言うような超人的な奇蹟など、彼の記憶を印象付けるための、副産物のような出来事なのです。 そして、キリストの行為のなかで、最も重要な行為こそ―上述の奇跡とは正反対の、万人の前で彼の《非力さ》を最も印象付けた出来事―ゴルゴダの丘での刑死であった、とシュタイナーは説いています。 この行為を、《死に臨んでも、罪深い人類に注がれた無上の愛》で、最も価値ある行為という、敬虔な信者が声高々に説いて回るような説教臭い意味に捉えるのが、一般的な解釈です。 勿論、たとえ《死は生を終わらせるのでは無く、一つの通過点に過ぎない》と承知していても、それに臨むことが並々ならぬ行為であるには違いありません。 しかし、オカルティスト・シュタイナーを見くびっては(?)なりません。 ここで、その辺りの記述に詳しい、もう一冊の書『輪廻転生とカルマ』《水声社(西川隆範訳)》から抜粋して見ます。 「キリストは地上に下った最大の権化です。キリストがナザレのイエスに下ったように、天界の権化が地上の存在の中に下ると、地上では秘密に満ちた、天界に通じる非常に意味深い奇跡が生じます。 小麦の種子を地に埋めると、芽が出、茎が成長し、穂が実り、多くの麦が出来ます。その多くの麦は、また種子として、地に埋められた後の麦の生長の模像(設計図)を担っています。 霊界も同じです。…ゴルゴダの秘跡が成就された時、地上の人間の代表であるナザレのイエスのエーテル体とアストラル体に、霊界への道(参入法)の模像が種子として、植えられたのです。 (イエス=キリストのように生き、死ねば天国に行ける) イエスの中に住むキリストの力によって、イエスのエーテル体とアストラル体は、上述の多くの麦のように、地上で成熟し、霊界では何倍にも複写され、増幅され、新たなる成熟を待つ種子となってきたのです。 それ以来、霊界への参入を可能にするナザレのイエスのエーテル体とアストラル体の模像が地上にいくつも存在するようになりました。これらの模像が、キリスト=イエスの灯を担い、拡げ、増幅し続けます。 (一燈照隅・萬燈遍照) (…中略…) ゴルゴダの秘跡が成就された後、地上の人間の生き方、心掛け次第で、カルマによっては、ナザレのイエスのエーテル体かアストラル体かの模像が植え付けられ、織り込まれることがあるのです。 (…中略…) 11、12、13、14世紀に、カルマを通して、霊界に召喚され、霊的に成熟した人々に、ナザレのイエスのアストラル体の模像が織り込まれました。 自分の中に、ナザレのイエスのアストラル体の模像を担った人物として、例えば、アッシジのフランチェスコ、テューリンゲンのエリザベート等がいます。 このような事実を知らなければ、アッシジのフランチェスコの生涯、テューリンゲンのエリザベートの生涯は理解できません。 (…中略…) アッシジのフランチェスコの驚くべき謙虚さ、献身さ、奉仕の精神は全て、彼のアストラル体の中にナザレのイエスのアストラル体の模像が織り込まれていた事実に由来します。 当時、その他の多くの人々に、このような模像が織り込まれていました。この事実を知れば、彼等は人類の努力の模範となります。」 ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』pp69-72 《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載 第141夜でお話ししたとおり、誕生する直前の魂は、転生するための《アストラル》体の要素をかき集めるのですが、前世のカルマに応じて、その中に、キリストのアストラル体の《コピー》も集められる、と言うのです。 そして、キリストの経験を体現しようとする複数の魂が、自己のアストラル体の一部に、その《コピー》を取り込んで、地上に転生することが可能になった、ということです。 (何度も何度も部分的にキリストの生涯を地上で実際に断片的に経験することで、天国に行く方法を獲得する) 無論、アストラル体が複製される事実について、この世的な唯物科学で証明する術はありませんが、逆に3次元の物質ですら複写が可能ならば、高次のレベルならもっと容易かも知れません。 ★キリストの血と聖杯 しかし《アストラル体》の複製だけなら、何も磔刑にされなくても、もっと別の方法があったのでは、とも思われます。その点について、シュタイナーは、もう1つの遺産について述べています。 「しかし、後の時代のために、まだ別の自我が天界に保管されていました。ナザレのイエスのオリジナルの《自我》が、将来無数の模像(コピー)を生み出すために、保管され、残されていたのです。 (…中略…) 自我の外的、物質的な表現は《血》です。これは大きな秘密です。 しかし、この秘密を知り、ナザレのイエスの《自我》の写しが霊界に存在するという事実を知っている人々は常に存在しました。 (ホンモノの聖堂騎士団で、天界にいる。地上のは囮でニセモノ。) ゴルゴダの秘跡以後、何世紀にも渡ってこの真実を理解する人々は常に存在しました。 ナザレのイエスのエーテル体、アストラル体の写しを受け取った人々がいたように、イエス・キリストの自我の写しを受け取れる人々がいたのです。 (…中略…) この秘密を守る秘儀参入者達の兄弟団が形成されました。聖杯の兄弟団です。彼等がこの秘密を守護しました。この兄弟団は常に存在しました。 キリスト・イエスが最後の晩餐に使った杯、十字架上の救世主の傷口から流れる血を受け取った杯を、彼等の祖先が受け取ったと言われています。 その祖先は、自我の表現である血を聖杯の中に集めました。彼は救世主の血の入った杯と、キリスト・イエスの自我の写しの秘密を、聖地の兄弟団の中に保管しました。 (…中略…) 人々の心が地上の生活を通じて霊的に成熟し、霊的に進化を遂げ、この偉大な秘儀を理解するまでに高まったとき、この秘密を告げてもいいようになったのです。 (…中略…) 人々がキリストの自我を受け入れる準備が出来れば出来る程、キリストの自我は人々の魂の中に注がれます。 (…中略…) キリストのオリジナルの自我から霊感を受け、キリストのコピーの自我に浸透された将来のキリストとなった者は、更に別の事実を理解するでしょう。 (…中略…) キリストは将来、肉体が完全に霊化された火(エネルギー)の中で、私達に現れるでしょう。《彼は世の終わりまで、いつも私達とともにいる》のです。 そして、ゴルゴダの秘跡を通して開悟した目(キリストの秘儀参入法)を持つ者に、キリストは霊化された火の中に現れます。 (キリストのように生きることで、自我がキリストになるので、自我=キリストをみることになる。) 最初、人々はキリストを、自分とは異なる別人(異邦人)のように見ました。次いで、キリストを、どこかで見た隣人のように、親しみを感じるようになっていきます。 そして、最後には、霊化した火の中で、人類の一人一人と共に二人三脚で歩いてきたキリストを自分の真の姿として見ることになるはずなのです。」 (キリストのように生きれば、キリストに会えるし、キリストとは違う生き方をすれば、キリストには会えない。だからキリストは天国の扉となったから、「私を通さないと天国には行けない」といったのである。) ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』pp72-75 《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載 キリストの『聖杯』については、『ダヴィンチ・コード』でクローズアップされる以前から、その行方や正体について、数々の推理と憶測がされて来ましたが、確かなことはわかっていません。 一説には、イエスの遺体を引き取った『アリマタヤのヨセフ』が聖杯も受け取り、紀元73年にイングランド南西部のグランストンベリーに行き、その後ヨセフの子孫によって代々引き継がれたとも言われます。 『聖杯』自体についても必ずしも『杯』ではないという説もあり、『知られざるイエスの教えを書いた文書』だという説もあります。 中でも1982年に出版された『レンヌ=ル=シャートの謎~イエスの血脈と聖杯伝説』では『杯』ではなくイエスとマグダラのマリアの『血脈』だとし『ダヴィンチ・コード』でもこの説を採っています。 いずれにせよ『聖杯』については、単なる聖なる遺品では無く、イエスの意志を伝える聖書などの《暗号》を解き明かすような説が、後世まで伝えられています。 しかしシュタイナーの場合は、これをさらに上回る形で、まさにイエス・キリストの《自我》が、その血を媒体として伝えられている、とするものです。 昔から《血》については、民族の血とか、武士の血筋と言う言葉と共に、先人の個性を伝える記録媒体として、感覚的に意識されています。しかし、それは霊的に見れば、単なる伝承にすぎない、ということです。 シュタイナーは、《血》こそが隠されてきた秘密であり、我々が、その《血》に織り込まれた《キリストの自我》を霊的に取り込むことで、高次の視力を持つに至ると述べています。 ちなみに、そうすることによって《キリストの本当の姿を見る》としていますが、それについては、もう少し後の夜話で述べることになると思います。 それでは、次回第158夜で、そのキリストの自我について、もう少し具体的にお話しします。 ★ ★ ★ キリストは、地上に救いの種子を蒔いていって、自らが種子となったのである。種子を生長させ、実らせ、収穫するのは人類の一人一人の自我に委ねられている。収穫どころか、種子を食べて台無しにしてしまう者もいるだろう。 さて、「しくじり先生」の亀田氏は最後に印象に残る話をしていました。 結局、自分は家族を信じて、家族のために戦ってきた、と。 いくら大言壮語しても、ルールも家族も守れなければ駄目なんだ、と。 そして、素晴らしい真実を理解し、悟っていたようにみえました。自分の弱点を隠すのではなく、素直に見つめ、理解することである、と。 だから、国を守る、なんて大言壮語は必要なく、まず自分の足下にある家族を守れなければ意味がない、という話を続けて紹介する。 ★ ★ ★ 「一燈照隅・萬燈遍照」 http://www.chichi-yasuoka.com/episode02.html (安岡正篤『青年の大成』(致知出版社刊)より) ◇ ◇ ◇ 安岡正篤師は、天下国家をあれこれ論じるよりもまず自分がいる場所を明るく照らせる人間に、という意味を込めて「一燈照隅・萬燈遍照」とおっしゃっています。 青年を相手に語られた安岡師の言葉に耳を傾けてみましょう。 おのおのがそれぞれ一燈となって、一隅を照らすこと。この「一隅を照らす」は、伝教大師がその著『山家学生式(さんげがくしょうしき)』のなかに、提唱しておることです。 なんで片隅を照らすなどと、心細いことを言われたのかーーとよく考える人がある。大光明を放つとでも言ってもらいたいところです。しかし聞くだけなら愉快だが、人間みずから大光明を放つことなど、どうしてなかなか出来るものではない。 つまらない人間も「世界のため、人類のため」などと言います。あれは寝言と変わらない。寝言よりももっと悪い。なにも内容がない。自分自身のためにも、親兄弟のためにも、ろくなことができない人間が、どうして世界のために、人類のために、なんて大口きけるか。 それよりも、自分か居るその場を照らす。これは絶対に必要なことで、また出来ることだ。真実なことだ。片隅を照らす! この一燈が萬燈になると「萬燈遍照」になる。こういう同志が十万、百万となれば、優に日本の環境も変わりましょう。 ★ ★ ★ 自分の我儘も治せないアホバカがよく大言壮語するという話である。 灯台下暗しというが、敵を倒すよりも、自分の弱点をみつめなさい。 自分のなかの我儘と戦えないアホバカが、大国などと戦えるわけがない。 日々の生活が守れなくて、国が守れるわけがない。
2016年03月15日
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学歴整形大学で兄弟揃って目立たずネクラの弓道部だったアホ下痢ゾ~のせいで、ホワイトデーなのに北ばりのブラック国家となっている我が国だが、一億総家畜化奴隷社会が現実味を帯び、選挙のためならインチキでもなんでもやってきたジコウやソウカ統一のお仲間達を従えて、デンツウCIAネトウヨ工作部隊ゲスタポアホアホ珍衛隊を指揮して裸の王様気分の、ヒトラー並のアベラーの本性を現すアホバカ発言が巷で話題になっている。 ★ ★ ★ 言い間違えには深層心理が露呈する http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-9000.html アベシンゾーが「待機児童は保健所送り」と発言というんだが、おいらが高校生の頃に読んだフロイトについての本では、「言い間違えには深層心理が露呈する」という話が出ていて、そこで例に出されたのが、国会答弁だったw やっぱフロイトは凄えやw 21世紀の日本でアベシンゾーが失言する事まで予言していたんだからw 心の底で、「保育所、保育所って、うるせえヤツだな、そんなガキ、保健所で殺処分しちまえ」と思っているから、ポロリとこういう失言が出る。フロイト様の言う通りw 11日の参院本会議で、安倍首相が保育所と言うべきところを「保健所」と言い間違え、その場で慌てて訂正する場面があった。 首相は、待機児童を抱える母親らが9日に提出した署名を「拝見した」と明らかにしたうえで、「子どもが生まれたのに、『保健所』に預けられない、仕事を続けられない(という大変な苦労)」と発言。訂正後も、議場ではしばらくの間、ヤジが収まらなかった。 よっぽど追い詰められてるねw 実際の支持率がとんでもない事になっているんだろうw アベシンゾーの支持率というのは、第一期もそうだったし、コイズミの時もそうだったんだが、他の自民党議員と比べて、異常に高いのが特徴なんだが、「下駄を履かせる」とという言葉があるんだが、下駄じゃ足りなくて三倍にしているという噂もあるとかないとかユダ金軍産複合体にとって都合の良い為政者に対するプレゼントみたいなもんですw ★ ★ ★ 野党も情けないのだが、ゲリゾーは、自分たちがしてきたインチキ全てを野党のせいにしているが、選挙に勝つためにはムサシでインチキをやったし、改憲のためなら、憲法無視の反知性という名のアホバカインチキで法学者を目の敵にし、不景気なのにダマスゴミを買収して、インチキインタビューや支持率3倍水増しの出鱈目で景気がいいと嘘ついたり、その最たる証が保育園を保健所といってしまう無神経さにある。 アホゲリゾーは野党を批判しているが、その批判全てがゲリゾーがやってきたことである。 野党はアンタがやってきたことだろ、とゲリゾーになぜ突っ込めないのだろうか。腹痛で逃げだすからか? ゲリゾーのような自己中アホバカ獣にならないために、シュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第156夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-913.html ≪キリスト意識(10)(改変)≫ ★ジコチューといふもの 第3の誘惑の話に入る前に、前夜で述べた第2の誘惑につられて、十分な準備無しにエーテル体と肉体へ参入した場合、どんな障害が現れるのか、についてのシュタイナーの説明を見ておきましょう。 この第2の誘惑について、小生は、現代のスピリチュアリストについても、多分にこうした障害を抱えたまま、気付かずにスピリチュアル・リーダーとして振舞っている例も多いのではと思っています。 「準備も無く、自分の内面に参入してゆくと、…まず自我の中のあらゆる種類の利己主義が目覚め、 《自分の中の全ての力、情熱、情動は、自分のためだけにあり、霊界などとは関係が無い。だから、自分の利己的な要求に従って行動し、生き甲斐が実感できればよい》 (自分が楽しければよい、という利己主義の米国の1%の金持ちたちや偽ユダヤたちなど) と勘違いしてしまいます。内面へ参入すると最高度に自己中心的になる危険があるのです。 (自分を特別視してしまいがちになり、他の人と全く同等であるのに気づかなくなる。) 今日でも、霊能力を開発して自分の内面に参入すると、繰り返し幻想に襲われます。 その結果、利己主義の中に陥ってしまうのですが、当人はそれが利己主義であるとは思いもよらないのです。それが利己主義など、とんでもない、と思っています。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp181-182 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 この出だしの《利己主義》の独白部は、巷で流行のスピリチュアル・セッションによくある『自己の思うままに行動しなさい』という呼びかけと同じ誘惑にみえます。 しかし、この『思うままに』が曲者です。我々はそれぞれ課題を持って現世に転生して来ました。その多くは、第139夜でお話ししたように、前世で持ち越してきた障害を乗り越えることでした。 我々はこの障害―前世の課題―に対して、生まれる前に、それを克服したいと誓った『思いのままに』行動すべきなのです。 決して『思うままに』(課題から)逃れろ、と言うのではありません。 また、138夜でお話ししたように、現世での人間の行動は、霊界から眺めると、全て動物霊達に何かしらの苦しみを与えて成り立っていた、という事実をまざまざと思い知るのです。 (他の生物を食べ物とすることなど) それ故、第142夜でお話ししたとおり、《喜びや楽しみや満足の感情を、自分だけのために受け取ること=利己主義的に振舞うこと=は許されない》のでした。 考えてみれば、この地球上で、人間という生物に生まれただけで、既に自己中心的な地位を占めている、と言えます。 例えば《蟻が生命のトップとなった世界》を考えて見てください。《蟻》の許可なしに道路や家を建てることなどできなくなりますし、土の上も自由に歩けなくなります。 (漫画「進撃の巨人」をみれば想像できる。) 現に、インドのジャイナ教徒等は、厳密な不殺生の戒律を持ち、蟻等の小動物を極力殺してしまわないよう、それに近い生活をしています。 実際、ここまでの《非ジコチュー》を求められたなら、小生は勿論、大多数の人間はギブアップしてしまうでしょう。でもご安心ください? これはあくまで第1の誘惑をクリアした人間に限られるのですから…。 逆に、通常の生活レベルで暮らしている人は、この境地に入り込む前に『思うようにならない』現状に囲まれていますので、幸いなことに? その危険とは無縁でいられるのです。 つまり、ある程度の修行を積んで、そこそこ悟りを得たと思い込んでいる人こそ、最も《ジコチュー》に晒される危険を背負っているかもしれません。 ★高次の世界への壁 それでは、シュタイナーの話を先に進めましょう 「高次の世界への道は、現代でさえ、自己(エゴ)の克服を必要とする道なのです。 高次の世界への道に参入しようとするにも関わらず、自己(エゴ)の克服を望まず、正しい導きを知ろうともしない人は、現代でもよく見られます。 人間の自我の陰の部分を認めたがらず、様々な利己主義の現れを無視し、高次の世界へ参入しようとするのです。 最も大きな、最も手に負えない利己主義は、日々生じる出来事に決して満足しないことです(不満ばかりを抱えている)。そういう人は、自分の利己主義の暴力を抑えようとはしません。 誰でも利己主義に陥る、と何百回繰り返し説明しても、真剣に受け止めようとはしません。 そういう人は、自分について酷い幻想、錯覚に陥っているのです。更に付け加えるなら、現代人は、その上、あまりにも利己の安逸さ(優柔不断さ;少々の悪いことなら誰もみていないので許されると考えることなど)に流されています。 日常生活で許される利己の安逸さ(優柔不断さ)を、高次の世界への道の途中でも失いたくない、と思っているのです。 しかし、日常生活の中では好ましいこの安逸さも、霊界への途上では、決してあってはならないものなのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p182 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 なんとシュタイナーは、第一次大戦よりも前の時代(1910年)に、既に『高次への道』≒『アセンションへの道』への心構えを説いていたのです! それは決して『自力』で成し遂げられるものでは無く、『その道に導いてくれる存在』が必要で、自己優先の心を完全に克服していなければならない、とシュタイナーは戒めています。 さらに、高次への道については、決して「安逸さ」により達せられるものではないとしています。つまり《利己主義を脱したつもり》になっただけでは、第3の誘惑は克服できないのです。 (自分を特別視しないこと。) ★ジコチューで無い自我の道徳性 ただしそれは、動物のように、全く自我(個人意識)を持たないのとは違うのです。つまり『自我』を持っていながら、かつ《自己のためではない》という意識を持たねばなりません。 第149夜でお話ししたように、古代の秘儀参入では、一種の睡眠のような、自我を抑制した(無我の)状態でエーテル体と肉体の内面に降りてゆく体験をしました。 しかし、ここでキリストが示そうとしたのは、自我を保ったまま、自分の内面に参入してゆく体験で、シュタイナーは次のように述べています。 「動物が人間のように自分の内面に参入したら、人間のような個性をもつ自我では無く、集合的な自我、動物の《種類》の自我に遭遇するでしょうし、自分を群れの一員と感じるでしょう。 (…中略…) 外界から自分を切り離そうとする利己主義は、自我の強さと結びついています。利己主義によって情熱や情緒をそれ相応の強さで持たなかったら、自我は外界から抑圧されたままだったでしょう。 ですから、古代の秘儀において、霊界へ参入するには、睡眠中の夢のように自我の強さをほとんど失い、曖昧になるのでは無いにしても、利己主義が目覚めないように、自我の強さを大幅に抑制する必要があったのです。 けれども、時代が経つに連れて、(外界の太陽光により)目覚めてから眠るまでの覚醒意識を担う自我の強さを、ある程度十分に保ったまま、霊界に参入するように努めなければならなくなりました。 (…中略…) 人類の意識の進化のためには、ゆっくりではあっても、高次の世界に再び参入するために、自我の強さを、利己を目覚めさせない程度に道徳性を高度に保ち続ける必要性を負ったのです。 (…中略…) 日常の身近で些細な出来事も、睡眠中、霊界にいる時は、自我は働かず、思い出せません。 現代人も、キリストが地上で働いていた当時の人でも、同様です。 現在の地球紀の人間の場合、この世以外の別の世界で、自我が目覚めることは、通常ありえません。 ところが、キリストの霊界参入では、外界で自我が覚醒意識を失わず、目覚めているように、高次の世界でも目覚め続けられるようになるのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp183-185 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載) まさにこの初めての体験こそ、キリストが、人類意識の進化の究極の目標として、我々と同じ人間の肉体をまとった状態で、自我の神性、道徳性を示そうとしたと、シュタイナーは述べているのです。 ★第3の誘惑 一般に第3の誘惑とは、悪魔がイエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての国々とその栄華を見せ、『もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、この全てをあげよう』と言ったことを指しています。 つまり、悪魔と契約すればこの世の富・権力・栄華が手に入り、この世の王になれますよ…という、巷でよく聞くキャッチセールスまがいの取引をしてきたわけです。 シュタイナーはこれを、前の二つの誘惑を克服した後で、再び襲ってくるエーテル体と肉体への参入の誘惑としているわけですが、それでは、前述のポイントをおさえた上で、読んでみてください。 「次に肉体(エーテル体)への下降への第3の誘惑が現れます。 それは秘儀参入に際し、エーテル体と肉体へ参入するかどうかの段階に達した誰でも受けなければならない誘惑なのですが、 その時、いわば自分を内面から見るのです。 しかし、初めは、自我がもつ幻想の世界が現れます。 肉体の莢を突き抜けて、高次の霊のレベルまで自我の秩序性、道徳性を高めなければ、内面の真実をまだ見れないのです。 霊的な存在達自身は、もはや肉体の中にはおらず、外からただ肉体に働きかけているだけです。 自らの自我から離れ、自分を客観視できていなかったら、誘惑者であるルシファー、デーモンは、自我のなかから、自己の幻想を抱かせ続けるでしょう。 そして私達に、自分だと思い込ませたマーヤー(幻影)に過ぎない全てを与えると約束するでしょう。 このような自我をもつ霊が、私達の自我を解放しない限り、錯覚と虚偽の世界が全てと思い続けます。この悪霊は、私達に、このような幻想の世界を約束します。 しかし、それを真実の世界だと思ってはなりません。 (自分は素晴らしいと思わせ、自分が教祖であるような自分中心の世界を、悪霊は提供してくる。要するに褒め殺しである。褒め殺しで魂は成長しなくなる。) 私達ははじめて、この世界に来たのですが、そこから再び出ていかなければ、永遠にマーヤーの中にとどまり続けるのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp202-203 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 ちなみに、自分を《内から見る》と言うのは、第134夜でお話しした通り、死後に、今まで自分が生きていた世界が、実は自分が心の中で描いていた幻想であると自覚して、自分を外から眺めることを意味していると思われます。 つまり、死後の霊界を、生前の肉体のままで体験するという秘儀を達成することを意味します。しかし、秘儀を達成する前の欲望の段階では、まず、自我のもつ欲望に縛られた自分の幻想が現れてくるのです。 この幻想をみる体験は、死後によく言われる《自縛霊》の彷徨いのような状態でしょう。現世で自我が欲していた幻想が、その欲するままに、際限なく現れてくるように思います。 そして、この自我が浴し抱く幻想から離れられなければ、そのまま自らの幻想の世界に囚われたままとなるのです。 以上が、福音書に述べられた《荒野の試練》の真の内容であると、シュタイナーは言います。 つまり、これらの3つの試練を乗り越えることで、キリストは、我々が死後の霊界で体験することを、人間の肉体を持ったまま、我々に先駆けて体験し、克服して見せた、ということなのです。 それでは、キリストのこの行為が、人類に何をもたらすのかを、次回第157夜以降でお話しします。 ★ ★ ★ 自己チュー内閣がこの国を蝕んでいく。
2016年03月14日
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一億総活躍社会ならぬ国会議員総アホバカ社畜の国会質問で、少子化問題に直結する深刻な保育園不足について、子育てで大変な母親が切実なブログでの「保育園落ちた日本死ね!」の訴えに対して、女性蔑視ともとれる愚弄するような「やめろ!」という野次を飛ばした動物並みのアホバカ脳総理のアホバカ家庭教師だった議員が、巷で話題になっている。 ブログでの「死ね!」という書き込みよりも、最高立法府国会での「やめろ!」というヤジの方が遥かに下品で、人間とも思われぬ振る舞いなので、国会で汚いヤジを飛ばしたアホバカたちを動物園に送り込むことを提案するような話を紹介する。 母親の叫びを「やめろ」というのなら、この糞議員こそ議員をやめるべきである。 この国の国会を動物園にする予算よりも、すみやかにこの国の将来を担う人間を育成するための保育園をできるかぎり多く設立すべきである。 ★ ★ ★ おいらコイツが大嫌い http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8990.html 平沢勝栄なんだが、おいら、コイツは大嫌いだ。色々と理由はあるんだが、書くとまた、弁護士使って東京まで呼び出されるので書きません。ただ、大嫌いとだけ書く。ホトケのヒーちゃんと呼ばれる温厚なおいらがこれだけ嫌うんだから、そこにはそれなりの理由がある、とだけ言っておこうw で、「日本死ね」騒動なんだが、ネトウヨの陰謀論によれば、「共産党のヤラセだとバレた」というんだが、ソースが見当たらないw つうか、ネトウヨはシールズも「共産党のヤラセ」だと言ってるよねw 志位るずだってw だとしたら、共産党によほどの策士が付いた、という事だ。民共合作といい、このところの共産党はステップが軽やかです。保育園落ちた日本死ね、は名文です。短い文章で、簡潔に政治への不満を凝縮している。 2月29日の衆院予算委員会で「保育園落ちた日本死ね」のブログについて質問した山尾志桜里議員に対し、ヤジを飛ばした自民党の平沢勝栄議員が10日、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」に出演。ヤジを飛ばした真意を説明した。 衆院予算委員会では、山尾議員が匿名ブログの「保育園落ちた日本死ね」について、安倍首相へ質問した際、「誰が書いたんだよ」「本人に会ったのか」などのヤジが渦巻いた。このヤジを言った一人が平沢議員。スタジオに登場すると「ヤジを飛ばしたことは心からお詫び申し上げます」と謝罪したが、山尾議員が、使用を認められなかったブログやパネルを使ったことを非難した。 平沢議員によると、出所不明のものは使わない、また日本死ねという言葉は子供の教育にも影響があるので使わない、ということが自民党と民主党以外の野党も賛成して決めたにもかかわらず、山尾議員が「自民党(だけ)が(ブログやパネルを使うことを)止めた」などと説明したことに抗議するため、ヤジを飛ばしたとした。 だが番組後半で、「日本死ね」ブログを指し、「これ、本当に女性が書いた文章なんですかね」と発言。これを聞いたコメンテーターの高木美保は「それは関係ないでしょう、女性、男性関係ない」と激怒した。 おいらは、保育所作るより、保育所入れないママさんに高額の手当渡せという主義なんだが、入れなければ毎月5万円あげますと言えば、急いで引き取りに行くママさん急増だろうw ★ ★ ★ 動物といえば、タイでの裸問題だが、謝罪はタイの国民に、であって、あのような裸連中はもはや日本人ではないので、日本で謝罪してもらっても迷惑千万である。聞くところによるとネットで政府宣伝偽装工作をしていた会社というから、日本の精神を穢す存在なので、何度も言うが、日本から永久追放すべきである。 ★ ★ ★ 全員死刑で許してやるよ http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8991.html ホアヒンで暴れたIT会社なんだが、謝罪文を出したようでw この会社、調べてみると、色々と香ばしいです。自民党からネット工作請けたりしてますw アベシンゾーのお友だちw ITと言っても、この会社でやっているのは「2ちゃんねるを埋め立てる」という、まぁ、土木工事みたいなもんだw たとえば2ちゃんねるにネットゲリラの悪口スレが立ったとして、この会社に依頼するとスレを埋め立てて落としてくれる。こんな具合です。 637 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:14:31.64 ID:R9XtboVn0 大丈夫か??? 638 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:24:17.43 ID:okh5RO+g0 どうなんすかね 639 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:25:39.31 ID:fAClONiS0 色々あるよな 640 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:32:58.57 ID:j1MBVtvg0 そういうもんだ 641 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:44:32.93 ID:EqgS8K/x0 ま、そーだわな 642 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:46:52.86 ID:tJpA4btX0 そういうこと? 643 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:54:19.04 ID:ootOFY2P0 そうだろうな 644 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 10:54:58.98 ID:zdxnt9Ca0 わからんぞww 645 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:04:17.90 ID:jA+Vn0Ny0 マジっすか 646 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:10:15.95 ID:QLrA/VSt0 (笑) 647 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:15:11.81 ID:Su/U6ug70 どういうことだ 648 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:20:24.47 ID:86XX5ftH0 なるほどね 649 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:24:53.02 ID:XJeuUiju0 納得かー 650 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:30:03.39 ID:9xWJIhj70 いやはや 651 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:32:32.67 ID:bCFJllQc0 どうなんでしょ 652 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:40:34.49 ID:o699jZYj0 う~ん 653 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:43:32.23 ID:25CEfabQ0 どうかしたか? 654 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:49:37.49 ID:jYa4GjBX0 別にないでしょ 655 :名無しさん@どっと混む:2012/09/19(水) 11:50:00.76 ID:eNVl4M820 なかなか厳しい これで何十万もかかるらしいw そんなん、放置しときゃいいじゃんw タイ王室の保養地として知られる同国中部のリゾート地フアヒンのビーチで、社員旅行で訪れていた日本人男性約30人が泥酔して集団全裸になった騒動で、社員旅行を行ったIT企業のDYM(本社・東京)が10日、ホームページ上で謝罪した。 同社は「旅行先の解放感でタガが緩み、深く考えることなく、タイ王国の国民の方々の名誉感情を害する行いに至りましたこと、深く反省し、心よりお詫び申し上げます」と謝罪。再発防止のため「今後、同様のことが無いよう、メンバーの教育を徹底して参る所存でございます」としている。謝罪文は水谷佑毅社長名義。 ところで、この会社の社長は「医師」なんです。ただ、実態はどうなのか、疑う人もいる。 ★ ★ ★ さて、話は変わって、マネーは三種の神器のマナス=マナ(霊我=無我)を語源としているのを以前紹介したが、キリストが説くように、自我が霊我になるのを目指すのではなく、悪魔に誑かされ、逆に自我が裸の王様のようにエゴむき出しになり、我儘になったために、マネーが、マイナスとなって、物質を吸収し、経済的な格差を拡大させ、国家財政を蝕み、大量な社会的弱者を貧困に陥れ、社会的信用を失墜させている。 アホノミクズはその縮図といえる。 改憲馬鹿の裸のアホバカ総理は、アホバカ故に、憲法が、経済的自由よりも、精神的自由を優先しているのも知らなかったようである。 というのも、裸のアホバカは、アホノミクズで税金を使って大企業やダマスゴミを買収し、買収したダマスゴミを使って景気がよくなったかのように洗脳し、買収した税金を補填するために増税し、大企業やその悪徳一味には減税し、改憲を支持させ、インチキ改憲して、戦争屋とともに金儲けにまっしぐらというような、地獄行きの悪魔の目論見をもっていたからである。 つまりアホノミクズそのものが、経済的自由により、精神的自由を奪うインチキ政策なのである。 しかも、前回紹介したように、肉体を物質界から切り離すことは不可能なので、つまり、肉体を食物で維持しないと人間は生きられないので、経済的自由というのは、物質が絡むことなので、欲望で物質を求めるほど、物質が有限なので欲望が制約されるわけである。 例えば、職業選択の自由や営業の自由、財産権の保障などの経済的活動の自由は、物質が有限なので、ある程度、その欲望は制約されざるを得ない。 だから、物質の有限性において、自由を追求するなら、欲望を抑え、物質を広く共有する他はなくなる。物質を自由に共有するとなると、今度は物質の時間的変化、つまり所有権が、経済的自由を制限する障害となる。 結局、経済的自由を追求するなら、物質の有限性から派生する所有権を極力なくす他はなくなるのである。 それはどういうことかといえば、物質を所有した分、その物質を新たにつくりださないといけない。単純にいえば、食べた食物分だけ食物をつくりださないと、経済的自由は成立しない。 だから経済的自由を追求するなら、無限に共有するという所有を確立しなければならず、それには消費した物質分を、生産しないといけないわけで、究極的には、経済的格差や貧困をなくさなければならず、資産を持つ者は、その資産に見合うだけの生産活動をしないと自由は確保できないので、資産を放棄しないといけない。 とどのつまり、倹約生活が、経済的自由を確保するわけで、米国の1%のようなアホバカ金持ちたちは、経済的自由の障害でしかないことになる。 ★ ★ ★ マイナス金利で資本主義経済も終焉 http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8993.html IMFが「世界経済は破綻寸前」と言ってるそうだが、もうね、破綻しないと収まらないからw バブルとその破綻を繰り返すたびに、インチキの規模が大きくくなる。ここらでちゃんと正しく破綻させないと、またしてもインチキバブルで傷が深くなります。 世界は経済破綻のリスク増大に直面。カタストロフィーを回避するには、各国首脳らは需要刺激策を採る必要がある。IMFのデビット・リプトン筆頭副専務理事の声明をフィナンシャルタイムズ紙が報じた。 リプトン筆頭副専務理事は、グローバル経済は「実際に苦境に立たされている」とし、早急に経済成長と需要を刺激し、原料市場、金融市場の高いボラティリティーの結果、現れた新たな脅威に向けた準備策をとるよう政治家らに呼びかけた。 「経済活動を支援し、世界経済を再び強固なものに再現する時代が到来した。」 具体的には、ドイツ銀行どうするか? ドイツ銀行というのは、ドイツ政府とは関係ない、中央銀行ではなく普通の銀行です。ただ、投資銀行で、規模が異常に大きい。そこが隠れ負債を天文学的に抱えていて、それが今月中には破綻するというんだが、判ってるんだから逃げておけよ、という事だw ★ ★ ★ 経済的自由も追求すべきだが、精神的自由を追求しなければならないので、シュタイナーの話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第155夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-905.html ≪キリスト意識(9)(改変)≫ ★神を試すなかれ 次にイエスは、聖なる都に連れてゆかれ、その都の頂上に立たされて、試されます。 『もしお前が神の子であるなら、ここから飛び降りて見よ。そうであるなら、地上の石に打ちつけられる前に、神が、天使を遣わし、助けるだろう』 一般的な解釈では、悪魔はイエスに対し、 《イエスが神の子であるなら、磔刑から復活する証の前に、神の加護を、ここで試してはどうか》 と誘惑したが、 イエスは、《神の加護》を試してはならない、と言ったと言われています。 しかし、シュタイナーはこの場面について、全く違った解釈を述べています。 「アストラル体の中に参入し、実際に、自我のなかの不条理な利己主義の情念、情熱の前に立たされたら、それを克服できず、それから身を護ることもできないと、エーテル体と肉体の中に参入したくなるので、実際に、《奈落の底への転落》とも言うべき状態に陥る、というのです。 (…中略…) つまり、この誘惑は、アストラル体の参入時に生じる、それまで手づかずだった未完成なエーテル体と肉体への転落の物語なのです。けれども、情熱や情念をを克服する前に、この誘惑に曝されてはなりません。 キリストはそのことをよく知っており、自分の前に立ちはだかるものを克服して、こう言い返します。 《お前は、どうなのか? 神の加護を試すつもりなのか》。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p202 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 正直に言って、小生はこの《第2の誘惑》の場面の解釈については、正しく理解しているかどうか自信がありません。特に最後の言葉については、いろいろな解釈が出来るような気がします。 まず、この部分について、巻末の高橋氏の解説を見てみると、次のように書かれています。 「第8講(この講演がされた1910年9月8日)はミクロコスモスへの道の途中で出会う3つの誘惑について語っている。 地上の物質界に依存しないで生きたいという修行僧の願いは、石をパンに変えたい、という願いにすぐ転化される。 その間違いに気付かない人は、好んで奈落の底に落下して、最後には、この世の栄光(誤謬=錯誤)の中に包まれて生きたい、と思うようになる。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p422 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 つまり、前夜でお話しした《第1の誘惑―この世の環境から独立して生きたいという願望》を克服しないまま、マクロコスモスへの中へ入ってゆくことを、キリストにけしかけている場面ということです。 第150夜にも述べた通り、不用意に自分の内面に参入すると、自分の自我の中に組み込まれ、自分の中の悪しき願望、欲望の赴くままの奴隷となってしまうのでした。これは、その転落への誘惑を示すもの、と言うのです。 ここまでの解釈は《高い場所から飛び降りさせる》という比喩と合致しており、問題はなさそうです。 しかし、キリストの言葉である《お前はどうなのか?、神の加護を試すのか》とは、何を示しているのでしょうか。 ★3つの解釈 まず《悪魔の神》について考えた上で、それを《試す》とは何かを考えて見ましょう。 ひとつには、第153夜でも述べた通り、子であるキリストと神は同一と考えると、神は、誘惑している《悪魔》さえ創りだした、全ての創造主であり、まさに《悪魔の神》でもあると言えます。 そして、その悪魔に向かって、 《お前を創り出した神を試すなどという行為は、お前という存在自身の否定ではないのか?》 と言っている、という解釈ができます。 ………………………………………………………………………………… 次に、《三位一体》とは言え、《肉体》をまとった以上キリストも生身の人間と同じ境遇にあると考えると、この場面のキリストは《神》とは切り離された《自我》を持っていると考えることも出来ます。 つまり、この《悪魔の神》とは、生身のキリストを含めた全生命の神であり、まさにキリストは、地上の人類の代表として、この誘惑の体験を受け、そこから学ぶべき真実を、人類に対する戒めの言葉として残したと言えます。 そうなると《神の加護を試す》とは、 《最後には神が救ってくれるという思いを持って、利己主義の情念を抱えたままで、《自我》を欲望に任せるままにする》 ことを指す、と思われます。この誘惑に負けないことは、 《キリスト意識は、人類に手本を示すために、あえて人間と同じ肉体に受肉し、人類が新しい見霊意識を獲得するための道を創った》 というシュタイナーの講釈にも合致していることになります。 ★3つ目の解釈 そこで、小生は敢えてもう一つ突っ込んだ解釈をしたいと思います。同じく第153夜で述べたとおり、キリストの正体とは《太陽の正体=アフラ・マズダ》である事実を考えてみましょう。 第126夜で述べたとおり、ミトラ神話ではアフラ・マズダはアーリマン(サタン)とともに、至高の存在であり永遠の時間であるズルワンが、『ミトラ』と『生命の母』に創造させた双子の熾天使でした。 この神話は、ほぼ同じ形で神智学のベースにもなっています。シュタイナーは、基本的には神智学の説く歴史観については肯定的ですので、この部分についても肯定しているものと思います。 (若干のニュアンスは異なる。キリストは、熾天使以上の高次の存在。) とすれば、ここでアフラ・マズダであるキリストが《悪魔の神》と呼んでいる存在は、誘惑者であるアーリマンにとっても創造主である、ズルワンのことではないかと思うのです。 つまり、ここでは双子の熾天使であるアフラ・マズダとアーリマンが、自分達の神であるズルワンの至高の意識に対する態度をめぐって、対峙していると考えてはどうか、と思うのです。 そのように考えれば、2対の存在がほぼ対等の問答をしている理由も、誘惑者を前にして《悪魔の神》と呼んでいる点も、双子の熾天使とズルワンとの関係から、キリストの神でもあり、同一の神からでた双子の存在で、スンナリと納得がゆきます。 また《試す》という言葉の内容も、単に2人の熾天使の存在の対立点である、 《ズルワンの意識に従うなら、自我の利己主義を克服するまでは、未完成なエーテル体と肉体には参入しないはずなのを疑うこと》 を指していると考えればスンナリ納得できます。 (正解を知っていながら、わざと間違いに誘導している。) つまり悪魔は、ここでイエスが 《利己主義の情念を抱えたままで、肉体とエーテル体に深く落ち込んでゆけば、他の人間同様に、自我の欲望の中に沈んでしまい、(神は当人の意志を尊重するので)それを神が助けないこと》 を承知の上で誘惑している、と解釈してはどうでしょうか。 従って、ここでイエスは 《ズルワンの戒めを疑って、このまま落ちて行く誘惑に負けてはいけない 》 という意味で《神の加護を試すなかれ》と言った、と小生は思います。 ………………………………………………………………………………… 蛇足ながら、このように考えると、小生は、冒頭に示した一般的な解釈には、少々疑問を感じてしまいます。 悪魔が《神の加護を試してみよ》と言ったことについては間違いないのですが、それにすんなり続けて書いてしまうと、イエスも同じように《神の加護を試すなかれ》と言ったように解釈されてしまいます。 この解釈の方が正しい可能性も否定できませんが、それではこの重要なシーンに対して、何となく子供の喧嘩のような《俗っぽさ》を感じてしまうのです。 そうではなく、キリストは、神の言葉(愛)を《疑って試すなかれ》と言った方が、キリストの神への信頼感がずっと重くなるような気がするのですが、いかがでしょうか。 さて、第3の誘惑については次回第156夜でお話しします。 ★ ★ ★ 自分は救われると思うな、どんなものも救おうとすべきである。神の愛を独り占めするな。自分を特別と思うな。
2016年03月11日
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海外旅行にはほとんどいかないのだが、10年前の話だが、一回だけアメリカの西海岸にいったことがある。アメリカにいってみるとわかるが、日本など極東の島国という欧州の感覚が支配しているのか、全くといっていいほど日本に関心がない。貧富の差が激しいのもあるのか、日々の生活や娯楽で手一杯で、海外のことは観光ぐらいしか関心がないようである。 米国で日本に関心があるのは日系人ぐらいで、それも世代が進むにつれ、希薄になっていることは確かである。 また非常に感心したのは、弱者保護政策の徹底ぶりで、医療を除いて教育や福祉については日本よりも、手厚いイメージがあったが、デモが頻繁に行われているせいかもしれない。しかし、公共機関のサービスはよくない。下町にいくと貧困が至る所にみられるが、助けあいの精神がみられた。 日本は外国人(特に白人)には親切だが、弱者に対しては差別する雰囲気が残っている。日本の差別は陰湿で、京都人の二枚舌のように、なかなかみえてこないが、米国の差別は人種別に居住区が決まっているほど割と経済的にあからさまだった。ホームレスのほとんどがアフリカ系だった。 結局、カネがある者には天国だが、カネがない者には地獄というのが米国である。 しかし、以前、米国の体育教育を紹介したが、チャンスや機会は平等に与えるという精神は残っているようである。日本の場合、平等ではなくコネで決まってしまうところがあり、無能でも総理になれるのはアホバカをみればわかる。 コネだけの恥晒しの老害といえば、日本のなかでも底辺に近い最劣等のサメ脳といわれたアホバカが税金を湯水のごとく流し込んで焦げ付かせようとしているパクリンピックのアホバカぶりが、天然のドーピングかと思わせるほど世界に曝されている。 聖火もないパクリンピックをやるのなら、サメ脳を期間中の聖火の代わりに松明を灯す人柱にでもして、京都の大文字焼きばりに新競技場の木造屋根の上でやらせて、神聖な平和の舞台を穢した神の供犠の罪滅ぼしをさせるべきであろう。 というわけで、国家予算を破綻させるほど米国債を買おうとも、米国での海外の関心は欧州やロシア、中国で、日本は話題にすらのぼらない。ブザマにも日本はアジアの付け足しみたいなもので、辺野古の米軍基地が問題になっていることなど、ジャパンハンドラーズしか知らないといってもいいほどである。 サメ脳と同等かそれ以下のアタマしかない米国のトランプでさえ、日本をほとんど話題にしないし、日本がどこにあるのかも知らないのだろう。 このようなアホバカが大統領になるのは、日本にも似て、米国は偽ユダヤ人に洗脳されている証拠でもあるが、この際はっきりとするために、大統領選を白人同士で戦いあうよりも、アメリカ先住民が大統領にでもなって、イスラム教徒というよりも、プアホワイトを除いた高額所得の白人の追放令を出したほうが、わかりやすい。 結局、日本の片想いでしかないのだが、日本に関心がないことをいいことに、悪徳官僚たちは官僚支配に都合のいいように、日本を歪な形で宣伝してきた。 悪徳官僚は民間と癒着し、中間マージンを荒稼ぎし、国家財政に巣食い、国家予算を略奪するために、ジャパンハンドラーズを利用し、国家を金儲けの道具としてきたのは、莫大な財政赤字から明らかである。こいつらに勲章を与えたのは悪徳官僚であろう。 要するに財務官僚が国民に福祉として返すべき国家財政を着服し、略奪してきたのである。財務官僚こそこの国の財政を傾かせ、弱者を虐げてきた悪の本体である。 以前、多民族国家であるこの国が明治期以来大体3つのタイプに分かれることを紹介してきたが、海外で騒動を起こすときもなぜか集団なのは、この国の個人主義が蔑ろにされてきた証拠ともいえる。 そういえば個人主義を否定した発言をしたアホバカ汚職議員もいたが、あまりの精神性のなさに呆れるが、それならいっそのこと自我を捨て、人間をやめて動物と同じように、集合魂の手足の裸の獣になるのはいかがだろうか。 裸といえば、この国の戦争仕立て屋に唆されている裸の王様である。馬鹿の目には見えない、不思議な債券でできた新しい経済政策ができると偽ユダヤに唆され、このアホバカ王様は大喜びで、税金を払い、日銀に新しい政策を注文し、アホノミクズと名付け、裸を隠すその虚栄心の衣服のために、年金を、インチキ株価吊り上げ工作に投入し、30兆円を浪費し丸裸にした。 世間からアホノミクズは大失敗と糾弾されても、「馬鹿にはみえない政策です」と馬鹿の癖に馬鹿故にお馬鹿発言を繰り返すアホバカぶりなんである。 つまり、アホノミクズは馬鹿にはみえないのではなく、馬鹿にしかみえないのである。 このアホバカがアホバカ帝国をつくりたいらしいのは、そのアホバカ内閣のアホバカ三人衆をみれば一目瞭然である。三人合わせても、IQがサル以下であろう。アタマも能無しの丸裸である。 だから、全裸ばかしか、頭も空っぽの全裸状態という話をお馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ ホアヒン全裸会社 http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8986.html タイにホアヒンというリゾートがあるんだが、王室のリゾートというので知られていて、パタヤとは対称的な落ち着いた風情です。おいらもよく行った。バンコクから近いので、一泊くらい。海辺にシーフードレストランがあって、暮れなずむ夕景をサカナにワインとか、そんな感じ。そこで、そのレストランの真ん前の砂浜で、何十人も全裸になって怪しげな儀式やったというんだが、その連中の正体が明らかになって来た。 ■何をしている会社なのか このD社は何をしている会社なのか。話によるとSEO対策を行い順位を上げるのだという。 しかしそのやり方が強引でGoogleから警告を食らい、元に戻すのに追加費用を請求したりするという。 ■2ch対策も行う? このD社は2ちゃんねるの書き込みを削除するサービスを行っているという。2chに書き込まれた、「誹謗中傷、風評被害対策ナビ」としてこのD社は「2ちゃんねるスレッド一括削除サービス」という物を用意している。 2chは基本的に削除要請以外にスレッドを削除する方法は無いが、このD社は独自のスレッド一括削除を行えるという。 その方法はおそらくスレッドを荒らして埋めてしまうやり方である。 過去にD社は荒らし行為で全サーバーで規制されたことがある。結局「削除」するのではなく、スレッドを荒らし行為で埋めてしまうだけのようである。 2ちゃんねるに悪口書かれた、何とかして、というような依頼に応えて、当該のスレを荒らして過去ログ送りにするという、何か、3000円くらいで出来そうな仕事に何十万も請求するらしいw ★ ★ ★ このような全裸インチキ悪徳会社により日本の海外のイメージが著しく穢されるので、会社ごと国籍を剥奪すべきである。このようなインチキ会社の背後に悪徳官僚が潜んでいるような気がしてならない。 連中が戦争屋を煽って、日本の国家予算を貪り、戦争で金儲けしようというような魂胆が見え隠れするのは、ネット荒らしのようなスルーすべき北朝鮮の挑発行為を過剰に煽り立て、改憲を口にするアホバカに同調する駄マスゴミの洗脳報道によく現われている。 アホバカこそ戦場に送り込むべき極悪人ではないのか? このような極悪人を生きているうちにでもいち早く地獄送りにするために、シュタイナーの話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第154夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-899.html ≪キリスト意識(8)(改変)≫ ★荒野の試練 さて、地上の人類の(将来到達すべき)至高の存在として降臨したキリストですが、人類と同じ環境に置かれたため、ミクロ・マクロの両コスモスへの参入の自在性を発揮するや否や、たちまち悪霊からの誘惑に曝されます。 それを示すシュタイナーの話がそのまま、現代人がスピリチュアリズムに傾倒してゆく際の陥りやすい落とし穴にも通じると思いますので、少々長くなりますが、ここに引用しておきます。 「キリストは、人間がアストラル体、エーテル体に参入してゆく際に遭遇する全ての誘惑に打ち克ったのです。このことがはっきりと(福音書に)記されているのです。 (ルシファーの誘惑には打ち克ったが、アーリマンの王国を統治させるという誘惑とは五分で、人類各自の自分のなかでの自我の戦いに委ねられた。) 悪魔の誘惑として現れる全ての利己主義の傾向が、(福音書に)記されていますから、現代人が陥りがちな利己主義の究極像に注意を促しているのです。 現代人が霊的に進歩しようと努力する時に必ず生ずる障害は、自分の内面に参入することで(自己に囚われ)《自己愛に耽る》という悪癖です。 実際―他の誰よりも―先に霊界へ参入しようと願う人に当てはまるのは、自分の個性を語るの(自慢)を何よりも好み、自分の自我を何よりも愛し、どんな時にも《この愛すべき自我》に眼を向け、その全てを仔細に観察しようとするのです。 (自意識過剰のこと) なんら迷わず目標に向かって生活する一般人に比べ、霊的な修行を始めると、物質的な進歩に向かって努めるだけでは済まなくなります。 神智学徒になろうと決心するだけでも、自分の自我ばかりを考え始めます。そして四六時中幻想に耽るのです。日常生活の厳しさが、妄想する余裕をもたせないのですが。 どうしてそうなってしまうのでしょうか? 何故なら、自分の内面から立ち現れてくる意識の世界に自我が憑りつかれ、どうしたらよいかわからなくなるからです。 どうしたらよいかもわからなくなるほど、自分自身が全くわからなくなるのです。幻想に耽る前には、外界の細やかな変化に注意を払っていたので、外界の経験が、容易に自己を取り戻させてくれました。 しかし、自分のことばかりを考えるようになると、外界の変化には不注意になり、更に自分の中に陥っていくので、自分の中にある諸々の感情が表面に現れて出て来るのです。 どうしてなのでしょうか? ひたすら《自我》そのものでありたいと願い、外界から自己を閉ざし、全く独立していたいと願うからなのです。 このような悪魔の誘惑、…妨害が最高度に大きくなるのは、何にも依存したくないと思う自分の自我に没頭する時なのです。 けれども現代人は、外界から完全に独立し、自分の自我のみに従おうとする時も―だらしの無い話なのですが―外界の環境から肉体を離せずにいます。誰でも食物を食べなければ、生きていけないからです。 (…中略…) ですから自我の(独立の)要求が最高度に高まりますと、次のような願いに変化するのです。 《環境から独立できたらいいのに。今、私を環境に依存させている必要不可欠なもの(食物)を、自分自身の魔術や魔力などで産み出せたらいいのに》 (…中略…) 人は誰でもこういう願いを、目立たぬほど、僅かながらも、持っているのに、そのことに気付いていないのです。 もちろん、外的な習慣にも囚われていますから、誰もこのような幻想にすぐに耽ったりはしないでしょう。 しかし人によっては、次のようなことを信じているかも知れません。 《いつか私のアストラル体と自我が、(食糧や習慣などに依存せずに)思う通りに自由に生きられる進化にまで達したなら、もはや外界を必要としなくなるであろう。》 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp199-201 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載) ★スピリチュアリズムの自己愛 自分を環境に依存させている―例えば食べ物を、自分の魔力で生み出せるような力を得たい、この誘惑こそ、かの有名な《石をパンに変えてみよ》と悪魔がキリストに囁いた第一の誘惑の意味である、とシュタイナーは述べています。 小生は、上述の、自我への自己愛こそ、一部巷で囁かれる、 《アセンションによって、この現世の制約から逃れられ、何物にも縛られない自我が手に入れられる》 という謳い文句のような気がします。小生は―極端な一方に偏らない信条から―真っ向から否定するつもりもありませんが、もし仮にそうなったとしたら、その人達は、この地上で何を目的に生きるのでしょうか。 (自分だけ救われようとしても救われない。) 第八十夜以降でお話しした通り、古代レムリア人や古代アトランティス人は、それに近い形で地上での生活を始めました。確かに当初、それは理想に近いものでしたが、メリハリのない、その生活に、やがて倦怠感を抱いてゆくのです。 考えてみてください。仮に1人1人の思っていることが、以心伝心で全ての人に伝わる世界に変わったとしても、肉体が存在せず、従って、肉体を介した、あらゆる喜びも悲しみも、他の人たちに伝えられない、としたらどうでしょう。 恐らく、我々の全員が、一斉に《正しい思考》に従い、なかば自動的に、《喜びの波動》に浸るだけになります。それ自体は一見正しいようにみえるでしょうが、それだけで永遠の時間を過ごすことが出来るのでしょうか。 (独房に入っているのと同じで、家畜と同じ) 結局、彼等の倦怠感の行き着いた所は、理想とはかけ離れた、黒魔術を用いた支配欲の渦巻く世界でした。そして、現世の、この《肉体》を持った世界は、その反省を基に創られた、と「ツォルキン」は言っています。 人間は一人一人違った肉体を持つことで、それぞれの人生を体験することができます。そして《肉体》の様々な制約と苦しみを乗り超えながら生きてゆくことを強いられます。 (古代では大きな神殿を通じて集団で生きていくための栄養を与えられたが、文化と共に崩壊し、キリスト降臨の前後から、神殿が各自の肉体に変わった。) 我々人間には、肉体という制約があるからこそ、それを維持できなくなった時の苦しみを知り、反対に有り難味も知ります。同時に、他の人の悲しみも理解し、他の人が肉体を維持するために協力する感情が生まれます。 仮に、生まれつき、現世で何の制約もなく生きていけるようになったとしたら、これらの感情を理解することも出来なくなり、それは逆の意味での制約になってしまうのではないでしょうか。 無論、全ての人が、その人の本当の辛さや痛みを感じるわけではないでしょう。逆に、無理解のまま一方的に傷つける人達も存在します。 しかし、それ故、たとえ一握りの人達でも、それを限りなく近い形で理解してくれる人達に出会うことが、限りなく価値あることになるのです。そしてそれは皆同じ肉体を持っているからこそ出来ることなのです。 従って、イエスは《人はパンのみに生きるにあらず》と言いました。無論、誘惑を跳ねのける言葉ですが、さりとて《パンのために生きる》ことを無価値だと言っているわけでは無いのです。 さて、続きは次回第155夜でお話しします。 ★ ★ ★ 人はパンのみに生きるにあらず。パンを人に与える愛の神の言葉を理解するために生きる。
2016年03月10日
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この国のアホバカたちにより神聖な平和の祭典のオリンピックが穢され、税金パクリンピックの私利私欲の舞台となってしまったのは戦争屋の犬GHQの3S政策がこの国の精神を堕落腐敗させ、3S政策洗脳アホバカを増殖させ、国民を騙し、奴隷化洗脳してきた成果ともいえる。 一体なんのための平和の祭典なのだろうか? 国民にとってみれば、平和の祭典どころか私利私欲の災難というべきだろう。 私利私欲の糞塗れの連中の話をお馴染みのサイトから紹介して警告とする。 ★ ★ ★ 日本史上最悪の失敗政権 http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8976.html 消費税を5パーセントから8パーセントに上げた分、確実にGDPが下がってますねw そらそうだ、給料が上がってないんだから、それだけ買えるモノが減ってしまう。消費を冷え込ませる原因w 税金を払うために、消費行動を控えなきゃw それが気に食わないと言われても困りますw ■GDP改定値、年1・1%減に上方修正 内閣府が8日発表した2015年10~12月期の国内総生産(GDP)の改定値は、物価変動の影響を除いた実質GDP(季節調整値)が前期(7~9月期)と比べて0・3%減で、このペースが1年間続くと仮定した年率換算が1・1%減だった。 2月に発表した速報値(年率1・4%減)からは上方修正された。 主な項目では、GDPの約6割を占める個人消費が0・9%減、設備投資は1・5%増、輸出は0・8%減などとなった。 消費税、どんどん上げればいいよ。それにつれて、どんどんGDPが下がるw 相関関係にあるんだからw ★ ★ ★ 私利私欲でやれば物事がうまくいかないのは道理である。というのは私利私欲をなくすために、この世に生まれてきたからである。 私利私欲のない人を聖人と呼ぶが、聖人になるために生まれてきたということになる。しかし、この世のほとんどの聖人ぶってる糞味噌の連中は私利私欲塗れの偽善者なので注意すべきである。自称聖人はインチキである。 聖人の話ではないが、面白い作り話をお馴染みのサイトでみつけたので、本史の教科書ではなく、偽善の教科書として紹介する。 ★ ★ ★ 日本人が語り継いできた「日本人の器量」 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/Page/2/ 知的共同体教科書 2 (省略) 『蠅(ハエ)は金冠(キンカン)を選ばず』 小名木善行 木村重成(しげなり)といえば、慶長20(1615)年5月の大坂夏の陣で、豊臣方の主力として東大阪市南部方面に進出し、藤堂高虎の軍を打ち破ったものの、井伊直孝との激戦に敗れて戦死した武将です。 日頃から冷静さと勇気と仁愛にあふれた武将として名を馳せ、首実検のときに頭髪に香が焚きこめてあり、家康が「大切な国の宝を失った」と涙をこぼしたという逸話があります。 討ち死にしたとき、若干22歳でした。 この木村重成が大阪城詰めの頃のことです。 若い武将ですから、まだ戦場での実践経験がない。 教養があり、人柄が立派で、美男子・・・となれば、やはり中には妬(ねた)む者もいます。 大坂城内の茶坊主の山添良寛(やまぞえりょうかん)もそのひとりでした。 良寛は、茶坊主とはいっても、腕っ節が強く五人力の力自慢だったそうです。 「まだ初陣の経験もない優男(やさおとこ)の木村重成なんぞ、ワシの手にかかれば、一発でのしてやる」と仲間内で自慢していたのだそうです。 おもしろいもので、人というものは、分もわきまえずに日頃からこのような低レベルな自慢話をしていると、だんだんと周囲から押されて、本当に対決しなければならないような気分になってくるものです。 本当は、大切なことは、自分自身を高め、成長させていくことなのであって、いたずらに対立したり対決したりすること自体が、程度の低い、人間の品性を落とすものです。 けれど人というのは、ときにこうした歪みに陥り、間違いを犯します。 ある日のこと、大坂城内の廊下で木村重成に出会った良寛は、わざと手にしたお茶を木村重成のハカマにひっかけました。 「気をつけろい!」と、良寛が重成をにらみつけました。 良寛にしてみれば、喧嘩になればしめたもの。 木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくと思ったわけです。 すくなくとも、評判の良い木村重成が茶坊主と喧嘩したとなれば、なるほど良寛には仲間内でのハクがつきます。 ところが木村重成、少しも慌てず、 「これは大切なお茶を運ぼうとしているところを失礼いたしましました。お詫びいたします」 と、静かに頭をさげるのです。 もともと良寛の目的は重成に喧嘩を売ることです。 嵩(かさ)にかかった良寛は、「そんな態度では謝ったことにはならん。土下座して謝っていただこう!」と声を荒げました。 良寛にしてみれば、怒らせて手を出させればこっちのものです。 ところが木村重成は、 「それは気がつきませなんだ」と、膝を折り床に膝をついて、「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げたのです。 喧嘩にはならなかったけれど、木村重成に膝をつかせたことですっかり気をよくした良寛は、「木村重成など喧嘩もできない腰抜けだ。 ワシに土下座までして謝った。 だいたい能力もないのに、日頃から偉そうなんだ」と、 あることないこと木村重成の悪口を大坂城内でふりまきました。 日頃、たいへんな人気があり、尊敬を集めている重成です。 誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、武将としても凛としてたくましい風情です。 それだけに良寛のまき散らしたウワサは、たちまち広がりました。 立派だと思われている人に関して、これをこき下ろすような論評に接すると、人は自分が思っているイメージと、ウワサの落差から、自分の中でその情報を消化できなくなります。 すると不安になり、その不安を埋めようとして、かえってその情報を強く認識してしまうというものです。 こうしてウワサが、一層広まるのですが、これを「認知不協和」といいます。 なまじ日頃から評判の良いしっかり者の重成だけに、茶坊主に土下座したという貫禄のなさは、大坂城内の、まさに笑い者として語り草となっていったのです。 この時代、まだ戦国の世の中です。 大阪の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからない。 まして戦国武将といえば、常にある程度の武威を貼らなければ、敵からも味方からも舐められる。 舐められることは、それだけで武将としての沽券にかかることです。 そんなウワサは、重成の耳にもはいってきました。 登城すれば、周囲からは冷たい視線が重成に刺さります。 心配して周囲の人が、「よからぬウワサが立っていますよ」と忠告もしてくれます。 けれど重成は、まったく取り合いません。 ウワサは、重成の妻・青柳の父の耳にも入りました。 実はこの父親、とんでもない大物です。 重成の妻は青柳(あおやぎ)という名のたいへんな美人なのですが、この妻の父親は大野定長(さだなが)といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長(はるなが)の父親であり、戦国の世で数々の武功を立てた猛者です。 可愛い娘の旦那が「腰抜け」呼ばわりされているとあっては、大野の家名にも傷がつきます。 「よし、ワシが重成のもとに行って、直接詮議してくれよう。ことと次第によっては、その場で重成を斬り捨てるか、嫁にやった青柳に荷物をまとめさせ、そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」と、カンカンに怒って重成の家を尋ねました。 定:「重成殿、かくかくしかじかのウワサが立っているが、茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。 なぜその場で斬って捨てなかった。 貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、ワシが代わりに斬り捨ててくれる。 何があったか、説明せよ。 さもなくば、今日この限り、娘の青柳は連れ帰る!」 重:「お義父様、ご心配をおかけして申し訳ありませぬ。 お言葉を返すわけではありませぬが、剣の腕なら私にもいささか自信がございます。 けれどお義父様、たかが茶坊主の不始末に城内を血で穢したとあっては、私もただでは済みますまい。 場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。 いやいや、腹を斬るくらい、いつでもその覚悟はできておりますが、 仮にも私は、千人の兵を預かる武将にございます。 ひとつしかない命、どうせ死ぬなら、秀頼様のため、戦場でこの命、散らせとうございます」 と前置きしたうえで、 「父君、『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。 蠅には、金冠の値打ちなどわかりませぬ。 たかが城内の蠅一匹、打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする」 と、こう申し上げたのです。 これを聞いた大野定長、「うん!なるほど!」と膝を打ちました。 蠅は、クサイものにたかります。 クサイものにたかる蠅には、糞も金冠も区別がつきません。 そのような蠅など、うるさいだけで相手にする価値さえない。 たいそう気を良くした大野定長、帰宅すると、周囲の者に、 「ウチの娘の旦那は、たいしたものじゃ。『蠅は金冠を選ばず』と申しての、たかが茶坊主の蠅一匹、相手にするまでもないものじゃわい」 と婿自慢をはじめました。 日頃から生意気な茶坊主の良寛です。 これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が、大坂城内に広まりました。 挙げ句の果てが、武将や城内の侍たちから、良寛は、「オイッ!そこな蠅坊主、いやいや、良寛、お主のことじゃ!。 そういえば、お主の顔が蠅にも見えるの。 蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主!」と、さんざんからかわれる始末です。 ただでさえ、実力がないのに、自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。 「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。 「かくなるうえは、俺様の腕っ節で、あの生意気な重成殿を、皆の見ている前で、たたきのめしてやろう」と、機会をうかがいました。 その機会は、すぐにやってきました。 ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。 いかに裸で、背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。 正面切っての戦いを挑むほどの度胸もない。 良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。 なにせ5人力の怪力です。 殴った拳の威力は大きい。 ところが。。。。 「イテテテテ」と後頭部を押さえ込んだ男の声が違う。 重成ではありません。 そこで頭を押さえているのは、なんと天下の豪傑、後藤又兵衛です。 体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。 いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤になって怒ると、脱衣場に大股で歩いて行くと、大刀をスラリと抜き放ち、「いま殴ったのは誰じゃあ!、出て来い!、タタッ斬ってやる!」と、ものすごい剣幕で怒りました。 風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守ります。 そこに残ったのは、洗い場の隅で震えている良寛がひとり。 「さては先ほど、ワシの隣に木村殿がおったが、そこな良寛!、おぬし、人違えてワシを殴ったな!何。返事もできぬとな。 ならばいたしかたあるまい。 ワシも武士、斬り捨てだけは勘弁してやろう。 じゃがワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。 拳には拳でお返しするが、 良いか良寛、そこになおれ!」と大声をあげると、拳をグッと握りしめました。 戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。 腕は丸太のように太く、握った拳は、まるで「つけもの石」です。 その大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。 又兵衛にしてみれば、かなり手加減したつもりだけれど、殴られた良寛は、一発で気を失ってしまいます。 又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの湯船の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、浴槽からあがると、倒れている良寛のもとへ行き、「あわれな奴。せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」と、ひとことつぶやき、「エイッ」とばかり良寛に活(かつ)を入れ、そのまま去って行きました。 さて、気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、「イテテテて。後藤又兵衛様では相手が悪かった。次には必ず木村殿を仕留めてやる」 そのとき、そばにいた同僚の茶坊主が言いました。 「良寛殿、あなたに活を入れて起こしてくださったのは、その木村重成様ですぞ」 これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりません。 「ただの弱虫と思っていたのに、ワシを助けてくれた? なぜじゃ?」 彼は、そことハタと気がついたのです。 「重成殿は、ワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、城内という場所柄を考え、自分にも、重成殿にも火の粉が架からないよう、アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだ。 そうか。俺は間違っていた。 木村殿の心のわからなかった。ワシが馬鹿だった」 良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。 この年、大坂夏の陣のとき、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死して果てました。 ****** 現代社会は宣伝の時代と言われています。 その宣伝に際して、「認知不協和」はとても都合が良く、影響力の強いものです。 誰もがかっこいいと思っている者を、おもいきりショボく扱う。 権威あるものを貶める。 かっこよくて、子供たちの憧れだったウルトラマンをCMに登場させ、失恋させたり、欲しいものを誰かに横取りされたりなどのシーンで、ウルトラマンを徹底的にこき下ろしますと、人々自分の中で、「あのかっこいいウルトラマンが、失恋? えっ?何?どうしたの?」となって、何の話か興味が引かれ、印象が残り、話題を呼ぶわけです。 ★ ★ ★ 話を壊すようで悪いが、戦国時代に城にお風呂はありませんし、土下座や切腹の習慣もありませんから、江戸時代の恐らく幕末か、明治期につくられた美談のように予想できます。 そもそも戦国時代の城は住居ではなく、領土の防衛拠点なので、通常は城下町に住み、敵が襲ってきて籠城するときに城に集まったようです。いま残っている城は江戸時代に改築されたものらしいから、戦国期とは城の概念が異なる。 実際、江戸城の本丸は火事焼失にあって以来、「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という理由で再建されなかったことでわかる。この一件から、信長が大陸渡来の朝廷を廃し、原住民の王になろうとしていたことがわかる。だから信長は朝廷の中華思想の官位を拒んだ。 お風呂は江戸中期以降らしく、戦国時代は温泉。土下座は藤原氏などの貴族が原住民に強制した応対儀礼で、謝罪ではない。謝罪になったのはドラマ「水戸黄門」の影響で昭和から。戦国時代の武家の謝罪法は不明だが、蟄居や暇乞いを願うことなどが考えられる。切腹は、長州藩のやりとりが間違って伝わり、奇兵隊の処罰法になったもの。戦国時代は磔か斬首。 とはいえ、幕末から明治にかけて、上述のような人物が理想とされてきたことが講談の伝承によりわかる。 しかし、理想を語れど実践できないのなら、語るだけ無駄というものである。それだけ悪人が巷を跋扈していたということなのだろう。 まさしく老子の「大道廃れて仁義あり」である。 この言葉は孔子の仁義を否定したものと考えられているが、私の解釈は少し違う。 というのは、昔は人間に自我がなかったので、自由はなく、神=族長に従うしかなかったので、道を踏み外すことはなく、大道しかなかったが、人間が自我に目覚めるとともに、族長が神から離れ、霊能力を失い、神の啓示を下すことができなくなって形骸化し、廃れてしまったので、人間が自我をよく制御するために、代わりに、仁義が説かれるようになる、という預言と捉えることもできるからである。 なにより、このような言葉は戒めというよりも、時代に応じて精神を向上させる教えと捉えるべきである。 老子ではないが、大道が廃れてしまえば、仁義を語るしかなくなる、というわけで、仁義を語るのによい話を紹介する。 ★ ★ ★ ○顧東橋(ことうきょう) http://www1.bbiq.jp/chikoshima.com/log/somo-somo-ningen-gaku-toha-nani-ka-youmeigaku-to-bappon-sokugen-ron.html この顧東橋(ことうきょう)は、名は?(りん)、字(あざな)は華玉、号を東橋といい、蘇州のたいへん篤学の士であります。 陽明先生より確か四歳くらい歳下の人です。 この時代は世の中が非常に俗化し、学問、教育、政治というものが非常に通俗的、功利的になり、堕落の著しい時であった。 その時に顧東橋が陽明先生に手紙を書いた。 その手紙の中にたいへんいい言葉がある。 「近時学ぶ者、学者(この場合の学者というのは「学ぶ者」という意味で、日本のいわゆる学者ではない)は外を務めて内を忘る。広く知りて要少なし」 インテリはいろんなことを知っているけれども締め括(くく)りがない(要少なし)。 これを陽明が非常に感心しまして、 「君は時弊を洞見(どうけん:洞察と同じ)する。時代の弊害、悪いことを見抜いている。時弊を洞見することかくのごとし。また、まさに何を以ってこれを救わんか」 こういうことを言って、それから延々十二段にわたる長論を書いた。 その終わりの結論がこの「抜本塞源論(ばっぽんそくげんろん)」です。 顧東橋の指摘するとおり、今日でも学ぶ者は外を務めて内を忘れている。 みんな外ばかり問題にして、どういう思想、どういう風俗が流行している、中共がどうだ、アメリカがどうだというような外のことばかりわいわい言って、肝腎の内を忘れている。日本を忘れ、自分を忘れ、心を忘れている。 そうして、「いろんな雑識は持っているけれども締め括(くく)りがない」という顧東橋の意見に対して、王陽明は「それは時弊を洞見したものだ。それなら、どうしてこれを救うか」と、答えであると同時に質問し、縷々意見を述べ、その締め括りにこれを書いた。 それには時弊(時代の弊害、時代の悪風)の本(根)を抜き源(水源)を塞がなければならない。枝葉末節のあるいは淵源から遠く離れた末流を問題にしていては駄目で、思い切って抜本塞源をやらなければならない。 この「抜本塞源」は、もともと『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』の昭公九年に見える言葉で、「根を抜き、水源を塞ぎ、悪いことの根源を絶つ」ことである。後に、この論が非常に有名になったので「抜本塞源」という言葉の出所を知らないままに多くの人がみな使っている。 (イシハラ、ナカソネ、ナベツネのような極悪人を処罰し、アホバカを刑務所に入れること。本来なら早々と引退していないとおかしい。) ---引用はここまでです--- ここからは知古嶋芳琉が書いています。 安岡先生が「抜本塞源」という言葉の出所を『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』 だと教えてくださったのは幸いでした。それは、他にもここから出たという有名な言葉があるからです。それにしても、これを現実の現場に導入しようとすると、必ず大騒ぎになり攻撃されます。それを怖がっていては君子とは言えません。 ---ここからは日本語訳の引用です--- そもそも抜本塞源の論が世に明らかにならないと、世の中の聖人を学ぼうとする人も、学ぶべき事が日に日に繁瑣困難になって、人間でありながら禽獣・夷狄(いてき)に等しいほどに堕落してしまい、しかもなお、それを自分では聖人の学と思い込むことになるであろう。 私の学説も一時世に知られることがあっても、結局は西に解ければ東に凍り、前に霧が消えれば後ろに雲が集まるというように、いつまでたっても本当には明らかとならず、危難と困窮のうちに死んで、しかも少しも世を救うことにならない。 さて聖人の心というものは、程明道の言ったごとく、天地萬物を一体とするもので我と人との間に区別を設けないから、天下の人を視ること、内外遠近を問わず、およそ生きとし生けるものに対しては、みな自己の兄弟赤子同様の愛情を持って、これを保全し教化養育して、その萬物一体の念を達しようとせぬことはない。 世の中の人の心も、最初は聖人と異なるところがあるのではないが、ただ自己本位の私心に妨げられたり、物欲の壁に隔てられるために、大きな心も小さくなり、他人に通じた心も塞がってしまい、各人がそれぞれ別の考えを抱いて共通性を失い、その結果、自分の親子兄弟を見ること、まるで仇敵のような者さえあるに至った。 聖人はこれを心配して、そのため天地萬物を一体とする仁の心を広く推し及ぼして天下を教え、人びとがみな、利己心に克(か)ち、心の障壁を去って、各自共通の心の本体に復帰させようとしたのである。 その教育の大いなる手がかりは、堯・舜・禹の三王が伝授したところの、いわゆる「道心は微弱であるから、心を精一にして、天理を明らかにし、その中(ちゅう)をよく守れ。」であり、その細目は舜が契(せつ)に命じたところの、いわゆる「父子の間に親(しん)、君臣の間に義(ぎ)、夫婦の間に別(べつ)、長幼の間に序(じょ)、朋友の間に信(しん)がなければならない。」の五つのことだけであった。 堯・舜から夏・殷・周三代の時代には、教える人はただこれだけを教え、学ぶ人はただこれだけを学んで、他に無用の知識を求めることがなかった。また当時は、人によって意見の相違があることもなく、家によって習慣を異にすることもなかった。 この状態に安んじ得た人を聖人といい、これを勉め行なった人を賢人といい、これに背いた人は、たとえ聡明なこと丹朱のような人でも、これを不肖の人としたのである。 かくて上は勿論のこと、下は町村の農工商人の賤しい者に至るまで、みなこの学問をしない者はなく、ただ各自の行ないをよくし、徳行を完成することだけに努力したのである。 というのは、当時は今日のように、雑多な見聞、煩瑣な暗誦、華美な文章、功利の競争がなかったので、容易に、親には孝、長上には弟(てい)、朋友には信(しん)ならしめて、彼ら共通の心の本体に復(かえ)らしめることができたのである。 これらは要するに、各自の本性に固有しており、外から借りてくるものではないから、人間ならば誰でもできないことはないのである。学校の中では、ただ人格を完成することを任務としたが、特異の才能を持っていて、あるいは礼楽にすぐれ、あるいは政治教化にすぐれ、あるいは水利開墾にすぐれた者があるときは、その出来た人格の上に、さらにその才能を学校において磨かせたのである。 人格者を登用任命したら、一生涯同じ職において転職をさせず、いつまでも適材を適所に留まらせた。任用する側では、皆心を同じくし、徳を一つにして、協力して天下の人民の生活を安定することを考え、その人の才能が仕事に適するか否かは注意するが、地位の上下で人間の価値の差をつけたり、仕事の繁閑によって人物の良否の評定をすることはなかった。 役について公の用をする者も、ただ心を同じくし、徳を一つにし、協力して人民の生活を安定することだけを考え、もし自己の才能がその仕事に適していたなら、一生涯激職にいても過労とせず、低い地位、煩瑣な仕事にも満足して、自らを賤しむことはなかった。 この時代には一般の人は、心から楽しみ和(やわ)らいで、みな、互いに一家の者のごとく親しみ合い、才質が劣って役人になれない者は、農工商賈(こ)などの身分に満足し、各自その職業に精を出し、相(あい)助けて衣食し、高い地位を望んだり、他の境遇を羨んだりすることはなかった。 才能の特にすぐれた皐陶(こうよう)や?(き)や后稷(こうしょく)や契(せつ)などは、進んで各自の能力を発揮したが、いずれもみな一家の仕事をするのと同じで、ある者は衣食を作り、ある者は物資を交易し、ある者は道具を作るというように、みなが智慧を集め力を併せて、仰いでは父母に事(つか)え、俯しては妻子を養うなど、人間としての自然の願いを遂げることを求め、ただ他人がその職分を怠って、自己に負担のかかってくることだけを恐れたのである。 このようであったから、后稷(こうしょく)は農事に精を出し、教育に通じないことを少しも恥とせず、契(せつ)がよく教育を行なうのを自分がよくするようにみた。?(き)は音楽を職分として、礼に関して通じないことを羞じず、夷が礼によく通じるのを、自分ができると同じにみていた。 このように各自がそれぞれ自己の本分を尽くして、他の才能を自分のもののごとく見ることができたのは、要するに彼らの心学が純一無雑であり、萬物を一体と見る仁心を全(まっと)うし、精神の交流、志気の通達が行なわれ、人と我、自己と物との隔てがなかったからである。 これを一人の身体に譬(たと)えると、目は視、耳は聴き、手は持ち、足は歩く、というように、それぞれ一身の役目を果たすが、目は声の聴けないのを恥としないばかりか、耳の向かうところは必ず応ずるし、足は物を持てないことを恥としないばかりか、手の探るところには必ず進む、全く一心同体の関係であった。 いわば、一身に気力が充実周流し、血液がよく循環して、そのため痛痒も、呼吸も、すべて感応すると同様に、口に出して言わなくても、直ちに心に悟る微妙な関係にあったのである。 これが聖人の学問の、至って簡単で、知り易く従い易く、学問は上達し易く、才能は完成し易かった理由であり、その根本は、何びとにも共通な心の本体に復ることにあり、知識技能は問題ではなかったからである。 夏・殷・周の三代が衰えてからは、王道やんで覇術が盛んになり、孔子・孟子が亡くなって後は、聖人の学問が分からなくなり、異端邪説が横行し、教える者はもはやこの徳を成すべきことを教えず、学ぶ者もまたこれを学ぶことをしなくなった。 覇者の連中は、先王まがいのことをひそかに行なって外面を飾り、内実は自己の欲望を遂げ、天下は一斉にこれに追随するようになり、聖人の理想は遂に荒草に埋もれ、それからは互いにこの風潮を模倣し、日日に富強を図る説のみを要求するに至った。 そこで他国を覆し欺く謀略や、攻略の計画など、天を欺き人を騙して、ただ一時の効果を貪り、それによって不当の名声利益を獲得する方策を説く、管仲・商鞅(しょうおう)・蘇秦・張儀らの仲間が、数えられない程になったことはもう久しい。闘争強奪、人びとはその惨禍に堪えず、遂には禽獣夷狄に堕(お)ちて、覇術さえ行なうことができなくなった。 世の覇者は、この有様を悲しんで、昔の聖王の典籍や法律制度を集め、戦火や焚書の灰燼の残余を拾い出して補ったりした。その心は、これによって先王の道を復活させることを希求したのであるが、聖人の学問は既に遠い過去のものとなり、覇術の伝わること長く、その影響が深かったので、聖人知者といわれる人びとも、そうした習弊の感染を免れなかった。 そのため、彼らが義理を講明し、文書を修飾して、世の中に聖人の道を宣揚回復しようとしたことも、結果的に見れば覇者の領分を増したに止まり、その装飾には役立ったが、聖人の学問の外廓も門口も再び見ることはできなかったのである。 かくて新たに生まれて来たものは、まず本質を離れて古い文字の解釈を研究する訓詁(くんこ)の学で、これを伝える者は名士とされ、次には古文を記憶暗誦する記誦(きしょう)の学で、これを語る人は博学とされ、次には文章を巧みに作る六朝隋唐の詞章の学で、これを多く作る人は美文家とされた。 この種の学問が雑然と天下に群がり立って、幾学派あるとも知れず、まことに萬径千蹊で、どこを歩いてよいかわからぬ状態であった。 そこで世の学問に志す人は、まるであらゆる娯楽場に入ったようなもので、あっちからもこっちからも、面白おかしいものばかり、前を見たり後ろを見たり、応接に暇もないため、目は眩み、耳は遠くなって、精神朦朧として、昼となく夜となく遊び続けて、ぼけてしまい、やがては帰るべき家も仕事も忘れてしまう。 君主も彼らの雑説に迷わされて心も顛倒し、生涯役に立たない虚文を作って、何のことか自分でも分からぬ有様であった。このような大勢の中にも、稀にはそれらの無内容・誤り・でたらめに気づき、勇気を奮って天下の風潮に抗し、それを実際の行動に現そうとした人びとがないではなかったが、それも行き着く所は、富強功利五覇の仕事をすると同じ結果になってしまった。 かくして聖人の学問は、日に日に遠ざかり、日に日に分からなくなっていき、功利を求める風習はいよいよ激しくなり、いよいよ低下してきた。 その間に佛教や老荘思想に盲目的に惑うても、その説も人間功利の心に勝つことはできず、また多くの儒者の論をあれこれ比較参考しても、それら儒者の論も結局かの功利的見解を破ることはできず、今日に至っては、功利主義の害毒は、人の心臓骨髄にまで沁みわたり、その習慣が遂に本性のごとくになってしまったこと、ほとんど千年にもなるのである。 そのため、世の中は知識を誇り、勢力を軋(きし)り、利益を争い、技能を高ぶり、名声を取り合うものばかりである。出仕する官吏は、もし財政を司る任にあれば、軍事や司法の職まで兼任したがり、儀礼音楽を司る役であれば、人事を支配する地位に関係しようとし、また地方官として郡や県におる者は、一段と高い藩司や梟(げつ)司の位を狙い、天子を諫める役目にある者は、宰相の要職を望むという状態である。 しかし、いくつかの官職を兼ねるためには、やはりそれだけの能力が必要であって、それができなければ兼官は得られないし、学説に通じていないと、世間の名声を求めることはできない。 そこで経典を博く暗誦していることは、彼らの威張る助けとなり、知識の多いことは悪事をはたらくに好都合であり、見聞が広く経験の多いことは演説に役立ち、文章力のあることは、ごまかしを飾るに便利となる。 このため昔、皐陶(こうよう)や(き)や后稷(こうしょく)や契(せつ)なども兼ね通じることのできなかった仕事を、今日では駆け出しの若者でも、その理論に通じ、その技術を研究しようとしない者はない。 彼らがこのように多方面に知識を持ち、それを振り回すについては、表向きは共に天下のために働くのだと言わぬ者はないが、その偽らぬ本心は、このようにしなければ、自己の目的を達し、欲望を満足させることができないからなのである。 ああ、このような長年積み重ねて来た悪習と、このような下劣な精神の上に、さらにこのような俗悪の学術である以上、私の言う聖人の教えを聞いても、現代には無用のものであると考えるのは、無理ならぬことである。そして良知だけでは不十分だとか、聖人の学問は役に立たないとか言うのも、そうなるべき必然の勢いであるとしなければならない。 ああ、かような悪い時代に生まれて、なおどうして聖人の学を求めようか。 なおどうして聖人の学を論じようか。このような時代に生まれて真の学問をしようとするのは、苦労で困難なことではないか。差し障りが多くて危険なことではないか。まことに悲しいことである。しかし幸いなことに、天理は人の心中にあって永久になくすることができないし、良知の明は萬古一日のごとく変わることがない。 私のこの抜本塞源論を聞けば、必ずや感激して、悲しみ、痛み、憤起して、堤防を決して江水の奔流するごとく、これを防ぐことのできないような人物のあることを信じて疑わない。しかし、このようなことを期待できるのは、かの孟子の言う通り、全く他人に頼らずに、自己の独力で立ち上がる豪傑の士以外に、誰に望むことができようか。 ---ここまでは日本語訳でした--- ---ここからは再度本文の引用です--- ○猶興の人物 王陽明は、この終わりがいいたかったんですね。この最後の「かの豪傑の士の、待つ所なくして興起する者云々(うんぬん)」、はこれは心ある人びとの常識になっていいる。 「猶興(ゆうこう)<なお興る>」の出典である。 『孟子』尽心上篇に、「文王(ぶんのう:周王朝の始祖)を待ちて興る者は凡民なり。」誰か偉い指導者がいて、それにくっついて、その褌(ふんどし)で相撲をとるなどというのは凡民です。「夫(か)の豪傑の士の若(ごと)きは、文王無しと雖(いえど)も猶(なお)興る。」 本当の優れた人物というものは文王なしと雖も猶興る。こういう場合に「猶」をわざわざカナにしては面白くない。やはり猶の字を書かないと本当の注にならない。 要するに有象無象では駄目。体制順応、付和雷同の人物では駄目で、天下の形勢、周囲の状況がいかにあろうが、自分の良心に顧みていわゆる「文王なしと雖も猶興る」という、そういう豪傑の士でなければ、こういうことを言っても何にもならない。とても望むべき相手ではないと。 猶興の人物、そういう豪傑の人でなければ、私(陽明)がいくらこういうことを論じても何にもならない。結局、貴方のような猶興の豪傑が自分の頼みである。 こういう陽明の心血を傾けたというか、実に堂々たる名文であり名論です。 これを読んでいると、体がしゃんとするというか、気が晴れるというか、楽しくなりますね。これは古来非常な名論であり名文でして、『伝習録』といえば、この陽明の「抜本塞源論」といわれるほど、天下の志士仁人に感激を与えた一文です。 ---本文の引用はここまでです--- ★ ★ ★ 以上のように、聖人の話つながりで、やはりシュタイナーのキリストの話を紹介せねばなるまい。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第153夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-891.html ≪キリスト衝動(7)(改変)≫ ★もし星が神ならば まず、一冊のSF小説の話から始めようと思います。この『もし星が神ならば』は、小生が若かりし頃、第128夜でお話しした『幼年期の終わり』に端を発したSF小説のマイブームのさ中に読んだ本のひとつです。 ちょうどその頃は『ソラリスの陽のもとに』のスタニスワフ・レムの一連の作品に見られるテーマ~宇宙には、地球上の生物の型に囚われることなく、無機質的な金属や惑星そのものに意思が存在する可能性だってあるのだ~的な小説にはまっていた頃でした。 そしてその頃の小生にとっては、このSFはまさにキャッチーなタイトルだったと言えます。ただし、6部構成となっている前356頁のうち、本タイトルのエッセンスを示すのは第2部の76頁のみで、それ以降は主人公レナルズの、第2部の体験後の宇宙探検話が主体となっています。 ちなみに当該作品は、1974年に『第2部/月』の部分が、G・ベンフォードとG・エクランドとの共作により、独立した中篇として発表されたもので、同年のネビュラ賞を受賞しており、その後他の部分を追加して本作品となったものです。 従って、当時の小生が期待したような《未知との遭遇》的要素はほとんど無く、大きな印象を残す事無く、いつしか忘れ去ってしまった類のSF小説でした。しかし、今こうしてキリスト意識について書き進めてゆく中で、俄然違った輝きを放ちつつあります。 ★太陽の慈悲深さ 最初に、こんなSF小説など聞いたことも無い方がほんんどでしょうから、第2部の簡単なあらすじをお話ししておきます。 2017年に、突如として月に降り立った巨大な恒星間宇宙船上の異星人は《太陽についての情報が知りたい》とのメッセージを発し、天文学者であり、火星探索でも勇名をはせたレナルズは、引き換えに宇宙旅行のテクノロジーを得る任務を負って月へ向かいます。 一見キリンに似た外観を持つ異星人ジョナサンは、レナルズに《我々の主星と違って、同じ兄弟星である太陽系の主星―太陽は非常に力強く、慈悲深い。我々が直接太陽と話す前に、 あなた方地球人が、太陽とどんな関係を築いているのかを知りたい》と言います。 ジョナサンの話では、彼等の惑星は、主星を巡る極端な楕円軌道上にあり、またしばしば地軸の傾きさえ変えるため、種族全体で頻繁な大移動を余儀なくされる苛酷な環境にあり、恒久的な技術はほとんど所有していないといいます。 また、彼等の乗ってきた宇宙船は、かつて別の生命体の訪問を受け、贈ってもらったものであり、ただ自分達の叡智を高める目的のためだけに使用している。無論、彼等自身にはそのメカニズムがわからないため、それを伝授することもできないと言います。 そして、彼等の主星の性格について、ジョナサンはこのように述べます。 「最も強烈な交感がある時期には、彼―彼女?―はその叡智を過つことがありません。 時には―あなた方の主星と違って―怒りを発することもあります。 しかし、それは滅多に無い事です。 あったとしても、ほんの僅かの間しか続きません。 その怒りの時期に、彼は、2度に渡って私達の文明の絶滅を予告しましたが、その予言を実行に移すようなことは一度もありませんでした。彼には、怒り以上に思いやりが、暴力以上に優しさがあるのだと思います。 我々を、真実、心から愛していてくださる、私はそう信じます。宇宙に数ある星の中では、大した位置を占めている訳では無いでしょうが、故郷の星である以上、私達は彼に仕えなければならないのです。 もちろん、現にそうしているのですが。」 『もし星が神ならば』pp65-66《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載 レナルズは、当初、ジョナサンの質問に当惑します。太陽について現に人類の知っている事といえば、無機質(唯物的)な天文学的知識のみでした。無論、地上の科学者や政治家にこれらの話が真面目に受け取られる筈もなく、かれは次第に孤立します。 しかし、レナルズ自身は次第に彼等の真摯な思いに共感を覚えるようになり、彼自身も《太陽と話がしたい》と思い始めます。そして何度かの訪問の時、ジョナサンとは別の異星人を紹介をされます。彼は既に太陽と話をしており、彼の手助けができるといいます。 2人きりの空間で、その異星人は歌を歌い始め、その響きと音階は他の全ての知覚を締め出してゆき、遠い深みへと旅立たせます。レナルズも、気がつかぬ間に共に歌い、やがて2つの歌声が溶け合う頃、彼は《太陽》を感じます。 強く、偉大で賢い、熱とエネルギーの球体としての神との邂逅に、本能的な恐怖を感じたレナルズは、地球のある場所を探しますが、その異星人に引き戻され、やがて太陽に隠された、不可侵の闇に行き当たります。 「果たしてこれは邪悪なものだろうか? 思考は意味をもたなかった。 何も考えることなく、その代わり、知覚し、感じることで、彼はこの存在―ひとつの恒星―太陽―の全体性を体験し、それが邪悪でないことを悟った。 ぽっかり口を開けた虚無を、隅から隅まで、まるごと感じ取った。 寒さ以上の寒さ、憎悪より恐ろしく恐怖よりも惨めで、悪よりもよこしまなもの。 その広大な内部の、無であり同時に全てでもある全体。もうたくさんだ!」 『もし星が神ならば』p107《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載 気がつくと、レナルズは宇宙船の床に横たわっており、やがて現れたジョナサンは彼にこう語ります。 「(これで)私達の探求の目的もおわかりでしょう。何世紀もの間、我々の主星は優しく親切でした。それが、今では―あなた方の星のように―変わってしまったのです。(それで新しい故郷を探しているのです。) (…中略…) 結局、どこへ行っても同じことです。私達は9つの恒星を見て、その全てを訪ねてみました。いずれも役に立ちません。 (…中略…) 私達は、今度こそ成功したと思っていました。あなたに会った時、そう思ったのです。あなたは、この主星とはちっとも似ていなかったものですから。 あなたや、あなたの種族を生み出せるのなら、(太陽には)きっと慈悲があるはずと感じたのです。ところが、その慈悲は、もう無くなっていました。 私達が行き当たったのは暗黒だけです。 さらに深い核まで到達しようと、我々は努力しました。そして、失敗したのです。」 『もし星が神ならば』pp108-109《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載 この《慈悲を失った太陽》の虚無を知る、レナルズや異星人の悲しみのシーンが第2部のクライマックスとなっています。この後、地上の科学者や政治家の思惑をよそに、ジョナサンらは次の目標に向けて旅立っていきます。 ★どちらが患者なのか さて、この小説が書かれた1970年代当初と言えば、第七十二夜でお話ししたように、プレアデスとのコンタクトは始まったばかりですし、ドランヴァロがトトからの初めての交信を受け始めたのも、ようやく1971年になってからの事です。 つまり、アセンションに関しての情報はもちろん、スピリチュアリズムという言葉さえ、まだマイナーの域にも達していません。そんな中で、《太陽の兄弟星》、《地軸の変動》、ひいては《恒星の波動》等々、まるでその方面のインスピレーションを受けたかのような小説になっています。 そして、最大のテーマが《太陽の慈悲》です。正直言って、この頃の小生は《惑星ソラリス》の類のように、《そのような性質を持った恒星があってもよい》とは思っていましたが、我々の《太陽》がその類であるなどとは考えもせぬまま、本を閉じてしまいました。 しかし、第四十七夜でお話ししたように、《精神分裂病》と診断される患者の中には、現に太陽を生命あるものと感じる人もいて、ユングはそれを、人類が共通に持つ原始的な心象の表れかも知れないとし、「元型」と名づけたのです。 むしろ逆に、そのような「元型」が見える患者こそ、我々の古来の力を持って、太陽の《本性》を見出しているのかも知れません。その意味では、それが見えない我々こそが、知覚器官に損傷を負った患者なのかも知れないのです。 ★三位一体とは 第138夜でお話ししたように、シュタイナーによれば、動物や植物のみならず、鉱物も神界に《自我》が存在します。ならば、エネルギー体である《太陽》自身にも《意思》 があってもおかしくはありません。 さらにそれらの《自我》は、我々とは違って《集合的な自我》であり、それぞれの成員である個体は同じ《意思》を共有することになります。つまり、同じ《意思》を持った個体に分化(分霊)させることができるはずです。 ところで、以前、第五夜でお話ししたように、キリスト教の最大の教義にして、その解釈により諸派が分裂してしまった程の謎のひとつが《三位一体》の教義です。 簡単に言えば、 『父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三者は、等質で不可分』 というもので、この三つは別の存在ではあるが、同じ「実体」を持つもので、うち「聖霊」とは「復活」後に使徒たちの前に現れた「神霊意識」のことを言います。 ちなみにウィキペディアによれば、もともと《三位一体》とは教父のテルトゥリアヌスによる造語で、『ヨハネによる福音書』の以下の一説の解釈を示すものとされています。 「神である父が神である言葉(=子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「救世主」なる聖霊を遣わす」 しかしここで、前夜でゾロアスターが弟子達に示した言葉―《太陽》の正体の《アフラ・マズダ=キリスト》を文字通りに捉えれば、この難解な《三位一体》の本当の意味がみえてくるのではないでしょうか。以下、小生なりの解釈を述べてみます。 《神である父》とは我々の太陽の正体であり、天界にある集合的な自我です。 《聖霊》は時に応じて太陽から分化(分霊)して、地上に降り立つ自我です。 《子》はその自我が受肉し、目に見える肉体となる時の姿です。 まさにこれらは別々のものを表してはいますが、同じ《集合的な自我》から生じたものであり、同一のものです。 《三位一体》の意味だけを考えるのであれば、ここまでで『ヨハネによる福音書』の件は《証明終わり》とすべきです。 キリスト教が問題としたのは、この存在が《神》なのかどうかで、その解釈をめぐってアリウス派とアナスタシウス派が分裂したわけですが、小生の考えからすると、こんなことは全く不毛の議論のように思えるのです。 まず、《三位一体》の主体が《太陽の正体=アフラ・マズダ》である以上は、宇宙の唯一の至高の存在と思われる《神》とは別の存在ではあります。 ただし、第140夜でお話ししたように、全ての存在はアフラ・マズダも含め、至高存在が自らを知るために、そして恐らく自らの孤独感から逃れるために、自身を分化(分霊)させて創り上げたもの、と小生は思っています。 つまりアフラ・マズダも唯一絶対神そのものではないが、それが分化(分霊)したものだということです。それがもとの《神》と等しいかどうかなど、《西の空》は《東の空》と同じか否かといっているようなものだと小生は思います。 …………………………………………………………………………………………… ちなみに、『もし星が神ならば』の第2部の終わりの会話の部分で、ジョナサンは、レナルズの考えていることを察知して話します。不思議に思っている彼に対して、ジョナサンは次のように答えます。 「星の話に耳を傾けるのです。星は生きており、私達にはその本当の姿を見ることが許されています。あなた方は違います。あなた方はまだ若い。 あなた方の元を訪れる時、星はあなた方にも見えるような仮の姿を取ります。そういう風にして、この宇宙での時を過ごすのです。星の姿は扉のような物だと思ってください。」 『もし星が神ならば』p127《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載 そして、レナルズを含め一般の地球人は、その《扉》を開けれないと言います。 作者が何を意図して《扉》としたのかは不明ですが、その話を使うなら、《太陽が地上の人類を訪れた時、キリストの姿を取った》と読めないこともありません。 ウィキペディアによれば、作者の一人であるG・ベンフォードは《無神論者》としてあります。この台詞の発案者がG・ベンフォードなのか、G・エクランドなのかがわからないので何とも言えませんが、少なくとも2人の納得の上の言葉でしょう。 とすれば作者のうち、少なくとも一人は、既存の《神》の捉え方に不満足ではあるけれど、何かしら超越的な意思の存在は認めているのではないか、場合によっては、シュタイナーの説に共感していた可能性さえ感じてしまいます。 さてしかし、我々の肉体は、キリストでさえも、悪魔の誘惑を受けるものでした。 次回第154夜は、その辺りの話から始めます。 ★ ★ ★ 日本語では、聖人は星人ともいえる。ゾロアスターが、アヴェスター語で、「光り輝く星」という意味をもつように、聖人は星と関係する。
2016年03月09日
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いつから演歌が日本の伝統文化になったのか不思議である。私は演歌はほとんど聴かない。世代の違いを感じるのもある。演歌が流れる場所はなんだか陰湿さ、古臭さを感じてしまう。 八切史観によると、以下のように、演歌は怨歌の当て字だという。消費税増税の怨歌というのなら、どんどん歌うべきだが、いつの時代かわからない内容が古い演歌よりも、ラップ調で、「保育園落ちた日本死ね」とか、「財務官僚の子は保育園より動物園へ入れろ」とか韻を踏んで謳うほうがストレートで現代的な怨念の歌といえる。 ★ ★ ★ 演歌は怨歌の当て字 http://matome.naver.jp/odai/2142937145668774001 我ら庶民の悲痛な叫びがこめられている。 「女町エレジー」にある「生駒は哀しいおんな町」のフレーズが典型的。宝山寺の門前に広がる遊里で働く女性の哀歌らしい。初めに歌ったのは宇多田ヒカルのお母さんかな? その後、いろんな人がカバー 生駒は夷駒の当て字。駒は馬。つまり源氏の民が収容された地区。 ★ ★ ★ というように、八切史観によると、差別された日本原住民の怨念、呪いの歌というべきものらしい。そういう意味では確かに、原住民の怨歌なら、日本の伝統文化といえるかもしれない。 そもそも歌というのは世の中を斬新にするもので、反体制でなければ意味がない。体制に癒着して金儲けなど動物に堕落するものでしかない。 唐からきた藤原氏にしてみれば、日本原住民は、夷狄で、日本列島は大陸からみれば、中華思想の東夷にあたる。だから、征夷とは、日本原住民の討伐のことになる。 中華思想からするとまた、北狄がモンゴルの遊牧民、西戎がチベット、南蛮が東南アジアということになるが、例えば、宣教師を南蛮人と呼んでいたのは、東南アジアのマカオから来たからだろう。 このような呼称からもわかるが、この国には明治以前、国という概念がなかったのである。 八切氏の姓の法則からわかるように、国というよりも、民族別の村落をつくっていたと言った方がわかりやすい。だから幕府というのは、異民族を征伐し、監督する機関で、朝廷などのお上に反旗を翻すことはできないので、徳川幕府は女を送って朝廷を乗っ取り、大奥を朝廷のようにして公武合体を図ったわけである。 演歌は古くは原住民による失地回復、討幕運動の怨歌だったはずである。お上にたてつく反抗心が徳川幕府によりすっかり骨抜きにされたが、幕末に外国船がやってきて、幕府の腰抜けが露わになり、再起奮闘して、討幕したって「ええじゃないか」となった。 前回も少し紹介したが、この日本列島には、多神教のツラン系民族と一神教のヘブライ系民族が到来し、主にツラン系が藤原氏などの貴族に、ヘブライ系が原住民になっていることが、八切史観からわかる。 中華思想をもつ藤原政権などは、ツラン民族の影響が濃くでているので、集団主義のカースト制度をつくったことがわかる。この国の上下関係は、この集団主義に端を発しているようである。 前にも、この国の体育教育に、この集団主義というか、歪な上下関係が色濃く反映している話を紹介したが、この歪な上下関係、すなわち、お上は何をやっても無責任で、ゆるされるが、下は奴隷の如く、お上の言うことをきかないと虐げられるというのが、ツランの中華思想というか、この悪しき差別思想にあることがわかる。 この宗教がかった権力志向の、歪な上下関係の、いわゆる体育会系のノリは、大陸の仏教伝来とも相通じるところがあり、仏教が無我を強いるのも、攻め滅ぼした原住民たちを奴隷として酷使し、反乱させないように、独立思想をもたないようにさせるのに役立ってきた。 それは多神教の連中が一神教を酷く憎むところにも現われている。イスラム教やユダヤ教、キリスト教などの一神教を深く勉強したことがないのに、俗に「多神教は良いが、一神教は悪い」というネトウヨ紛いの相手に責任をなすりつけるレッテル貼りのような意見をよくみかけるが、前回紹介したように、多神教崇拝は、古い霊能力獲得法であることにすら気づいていない。 なにより多神教崇拝の仏教徒がほとんどのこの国でどうして無神論の唯物論が主流となるのか不思議である。 はては、多神教なのに、どうして上下の身分が生じるのか? 戒名の違いで成仏が異なるのか?など、戒名や仏壇やお墓で商売しておいて、その説明が一切できない糞坊主が沢山いるのはどういうことなのか? 多神教はなんでもかんでも悪魔でも神にしてしまう弊害がある。地獄に行ってから気づいたのでは後の祭りである。多神教も一神教もどっちも無神論に陥れば悪いのである。 しかし、最近、このような歪な上下関係が通用しなくなったという話をみつけたので以下に紹介する。 ★ ★ ★ 20代社員が上司にタメ口をきいてしまう社会学的理由 http://diamond.jp/articles/-/86886?page=3 (省略) なぜ20代は上司に“タメ口”なのか 世代論から導いた答えは… 仕事に対する考え方、年上の人に対する態度や連絡方法など、40代のミドル世代から見れば“非常識”と思える行動をする20代。なぜこのようなギャップが生まれてしまったのでしょうか。この理由を日本生産性本部客員研究員である岩間夏樹さんは、こう語ります。 「(入社時期が)1993年~99年頃を境に、世代間の高い壁があり、大きなギャップが生まれています。ですから、今回で言えば特に40代後半以上の人と今の20代はギャップが大きいと言っていいでしょう」 岩間さんが語る最も大きい世代間ギャップは「高度経済成長期の前後」。それが終了してもバブル崩壊前までは、高度成長期に築かれた「終身雇用」の定着する多くの会社で引き続きムラ意識が生まれ、あらゆる世代も会社に入れば、会社に染まっていきました。ムラ社会ですから、当然上下関係があり、序列意識を持っている社員がほとんどです。 (ムラ意識やムラ社会とは、集団主義の歪な上下関係のこと) ところが、この終身雇用に裏打ちされた「会社の将来性」が、見えなくなったのがまさにバブル崩壊後の93年~99年頃の第一次就職氷河期。これをきっかけに、会社には頼れないと判断した団塊ジュニア世代以降は、上下関係を意識して「会社ではチームプレイを重視」する傾向から「個人プレイを重視」する傾向に移っていきました。 (多神教から一神教に変わってきた。若者が、無神論なのに、「神(かみ)」という言葉を頻繁に使うことがその証拠) 「もともと団塊ジュニア以降の世代は核家族で育っている人が多く、家庭や地域社会でも上下関係を意識することが難しい状況にあります。ですから彼らはもともと人間関係を『上下』ではなく、親しいか疎遠かの『親疎』で見る傾向にあります。だからこそ、最近の若い世代は親しいと感じる上司に対して友達のようにタメ口で話してしまうのかもしれません。もし敬語を使われているとしてもそれは丁寧語にすぎず、むしろあなたが若手から遠い存在だと思われている証拠かもしれません」(岩間さん) 仕事のコミュニケーションも若い世代になればなるほど、会社単位から個人単位を意識するようになります。今のバブル世代以上の年代の人たちも、メールを使うことにはそれほど違和感を持っていませんが、一方でLINEには強い警戒感があります。それはメールではアドレスが「会社のドメイン」である一方、LINEは完全に会社を離れた個人としてのツールだからではないでしょうか。 今はLINEを仕事で使うのは言語道断、と言う40代以上の人は多いかもしれません。しかし、本当にダメな理由を合理的に言えるでしょうか。単に『○○会社の人間』という背景がなくなるのが不安なだけではありませんか? 現在、多くの会社では大量のバブル世代が40代後半~50代を迎え、団塊ジュニア世代以下の数が社内でボリュームを増してきています。しかも昨今の新卒・中途採用市場は売り手優位にあります。 「売り手市場だと、『入ってやった』という意識があるから若手社員はホンネを言いやすい。だから、バブル世代以上と数が増えて勢力も年々増す団塊ジュニア世代以下との世代間ギャップがこれからより顕在化しやすくなり、争いが深刻になるかもしれません」(岩間さん) (ダイヤモンド・オンライン編集部 林恭子) ★ ★ ★ 終身雇用というのは、昔でいうところの師弟関係であって、師が認めれば、いずれ弟子に全てを譲ることを意味する。終身雇用が崩れれば、上下関係も無意味になり、欧米のように独立心が持ち上がるのは当然の成り行きである。 縦関係というのは上が下の土台となるかわりに、下が上に従うことで成り立つが、上が下の土台とならなければ、下は上に離反し、崩壊するわけで、横関係にならざるを得なくなるが、横関係は女性が得意とする関係なので、女性的な時代ともいえる。 しかし、女性は子を産む場合は、特に子育てには、親子の上下関係が必要となるから、昔は乳母という子育て専門の女性がいた。女性には上下関係が希薄だが、その代り上への信仰心が強い。女性は子を天から授かったものと暗黙糧に感じていて、子を産むことや子育てによって上下関係を学ぶので、女性の上下関係は母子の関係に近い。 同じ上下関係でも、嫁姑関係よりも母子関係を優先するのはこのためである。女性にとっては産みの苦しみが何よりも優先される。 とどのつまり、上下関係とは世代間の違いを解消するための、つまり、真実の探求法の違いを捕捉するために必要となるものである。 真実探究の世代間の違いを見究めるために、シュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第152夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-885.html ≪キリスト意識(6)(改変)≫ ★ナタン系イエス 『ルカによる福音書』の示す、ゾロアスターのアストラル体を受け継いできた(トートの)ナタン系イエスについて、シュタイナーは、まずこのように記しています。 「ナタン系イエスは、内面(精神)を豊かに育てていきます。少し不器用で、外界の物質的な智慧や知識を身につけるのは下手でしたが、限りなく純粋な内面と心情、愛情を持っていました。 人がまだ地上に受肉せず、霊界で、神の言葉のエーテルにより生きていた時代から引き継いだ力そのままが、このイエスのエーテル体の中に生きていたのです。神の言葉が無制限の愛の力となって生きていました。 (…中略…) 人が地上の生活を通して身につける言葉を、この少年は初めから身につけており、誕生直後から人々に理解できる言葉を語ったのです。 何世代にもわたって、地上で身につけなければならない外界への適応力について言えば、全く不器用でしたが、精神性、道徳性に関しては、限りなく偉大だったのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p152 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 つまりナタン系イエスは、最初からゾロアスターの完成したアストラル体を受け継いでいましたから、第146夜でお話ししたように、本当なら、大体21歳頃から現れてくる(言葉を基にした)客観的な判断力を、生まれながらにして持っていた、ということです。 (超天才) その代わり、地上生活については、古代アトランティス時代の霊能力に近かったため、現世に対する適用力については、むしろ劣っているように周りの人々には感じられたことでしょう。 (異端児で、集団生活が不得手。喩えるなら、映画「シックスセンス」の主人公のような感じか。) ★2人が1人に こうして同時代に、ゾロアスターの別々の体を受け継いだ2人のイエスがこの世に生を受けました。そしてさらに、この2人のイエスの間に、トンデモない出来事が起こります。シュタイナーの言葉を続けましょう。 「かくして、実にすばらしい出来事が生じるのですが、このことを理解しなければ、イエス・キリストの偉大な秘儀は把握できないのです。 ゾロアスターの自我は、『マタイによる福音書』のイエスの肉体とエーテル体の中で、12歳までの時を過ごしました。 実際、この自我は、当時の風土もあって、現代人の14、5歳に相当するエーテルの完成期がやや早く生じます。 12歳までに、ソロモン系の肉体とエーテル体を用いて成し遂げるべき進化は、全て完成し、そして12歳の時、ゾロアスターの自我は『マタイによる福音書』のイエスの肉体とエーテル体から離れ去って、『ルカによる福音書』のイエスに移ったのです。 (ゾロアスターの自我は、ソロモン系のイエスの肉体とエーテルの御蔭で、外界への適応力を完全に獲得した。) (…中略…) ルカが述べている、神殿での12歳のイエスの物語は、次の出来事を意味しています。 『ルカによる福音書』の少年イエスは、突然両親の前に現れても、両親は自分の子なのに気づきません。 彼は全く(以前とは)別の存在になっており、彼の精神内にはゾロアスターの自我が入っていたのです。この自我は、その時まで、ソロモン系のイエスの肉体とエーテル体の中で成長したのです (…中略…) 12歳のイエスは、神殿で学者達の間に座り、非常に注目すべき言葉を語ります(学者たちに説教をはじめた)。ナタン系のイエスは、どうしてそのようなことができたのでしょうか。 何故ならその瞬間に、ゾロアスターの自我が彼の中に《入り込んだ》からです。 ですから、性格を一変させて学者達の前で説教していた子を、両親は自分の子と認めることが出来なかったのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp151-152 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 まさに《合体ヒーローの世界?》です。或いは宇宙人を扱った超常現象では《ウォーク・イン》と呼ばれている現象に近いでしょう。さすがに聴講者の理解の範囲を超えると思ったのか、シュタイナー自身も、このように付け加えています。 「今日の唯物論の考えでは信じ難い出来事でしょうけれども、人生にはこのような奇跡もあるのです。霊魂が、或る肉体から別の肉体へと移行するのです。 ゾロアスターの自我もまた、それまでの肉体を離れ、特別な自我の担い手であるアストラル体を用意した『ルカによる福音書』のイエスの中へ移ったのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p152 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 我々は《1個の肉体という単位》でしか人間を捉えていません。従って、たとえ当時の人々が、時代を超越した事実の実在を目撃したとしても、後世に語り継がれる歴史は、後世の《常識》に照らしたものになってしまいます。 (現代の出鱈目な日本史をみれば明らかである。) しかし《常識》といわれているものは、我々が起きているときに《日常の生活の覚醒意識》で受け止められる事象の集まりに過ぎません。それどころか、別の時代に現実の現象と解っていることでさえ、現代人の視覚や聴覚では、(唯物化されているので)受け取れる範囲は限られているのです。 これまでに述べてきたように、我々を構成している4つの体のうち、肉体を除き、それぞれが単独で存在することが出来ます。そうであるならば、それぞれが、ある肉体から別の肉体へと移ることも可能なのです。 ★太陽叡智 ところで、ゾロアスターの自我が移り去った後の『マタイによる福音書』のイエスのその後については、シュタイナーは次のように解説しています。 「自我が去って、肉体とエーテル体とアストラル体だけが後に残った人も、一定期間は生き続けることができます。しかし、ソロモン系イエスの、後に残された3つの体は、やがて衰弱し、死を迎えました。 『マタイによる福音書』の冒頭の数章に出てくるイエスは、12歳で死んだのです。こうして初めは2人のイエスがいたのですが、12歳の時に2人が1人になったのです。 (…中略…) ゾロアスターは、後にキリストと呼ばれる宇宙意識を受容するために、肉体、エーテル体、アストラル体という3つの体を、聖杯となる高次の段階にまで高め、(宇宙意識を受容する)供犠に捧げるのが可能になるまで進化させたのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp156-157《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 なんと、『自我』を失った方のイエスも、その後もしばらくは生きていたのです。しかし、その状態は、第138夜でお話ししたように『自我』を持たない『動物』と同じような状態だったでしょう。 まさにその使命のみを持って生まれた存在と言えます。 一方、ナタン系イエスの方へ移ったゾロアスターの『自我』は、30歳になるまで育った後、今度は完成した自らの肉体を、キリストに捧げることになります。 そして、その瞬間こそが『ヨハネの洗礼』であったとシュタイナーは言います。 (この洗礼の日が12月25日で、24日がイブ=エヴァといわれるのは、キリスト=アダムの先にエヴァが受肉したから。イエスの誕生日は、ソロモン系が1月6日で、ナタン系が12月25日。) 「ヨハネの洗礼の瞬間に、キリスト意識がゾロアスターの準備した人体の中に入ります。肉体、エーテル体、アストラル体という3つの体がキリスト意識に浸透されたことで、この3つの体が再び天国に昇天できるように再生するのです。 ヨハネの洗礼は、ゾロアスターに育てられた人体の再生なのです。これが地上でのキリストの誕生の意味です。今やキリストは、人体の中に、3つの体の中に生きます。 特別に用意された人体の中にです。その人体は、完全だったが、もしもっと不完全な体であれば、他の人々が持つ体と同じものです。 地上に生きる至高の自我(霊我)となったキリストは、今でも、人体の中に生き、そして新しい秘儀参入法となる霊能力獲得法の完全なる見本(規範)を、すなわち肉体とエーテル体へのキリスト意識の下降と、キリスト意識の故郷であるマクロコスモスへの人間の覚醒意識の上昇という、秘儀参入の2つの究極の側面を人々に示すのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp174-175 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 この時、キリストの秘儀の準備が整ったわけです。ところでこのキリスト意識とはどのような存在なのでしょうか。これについてシュタイナーは、別の箇所で次のように述べています。 「ナタン系イエスには、地上では無く、天上との関係が現れています。『ルカによる福音書』は、イエスのアストラル体と自我のなかで働く神霊の意識を記しています。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp142-143 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 恐らく、何の前知識も無くこの部分だけを読んでみても、ごく《常識的》な感覚の持ち主には、幾多の聖人的伝記の常として、イエスの神聖さを抽象的な言葉で表現していると受け取るにとどまることと思います。 しかし、秘教学者であるシュタイナーがこのように述べる時には、もっと深い意味をもっています。それは、《2人のイエスがいた》という驚きさえブッ飛んでしまう程のトンデモ話なのです。 先に第149夜で、ゾロアスターが《アフラ・マズダーの意識が、後にキリストとなって地上に降臨する》のを、人々に示したと述べました。その意識こそが、ナタン系イエスの中に降臨して、彼のアストラル体と自我に働きかけた、ということなのです。 つまり、ナタン系イエスも、キリスト意識のただの受容体(子)であって《キリスト自身》(父)では無く、キリストとはあくまでも《神霊意識》の本体(父)を指す、ということなのです。 無論、この世を去った『マタイによる福音書』のイエスもまた、キリスト(父)では無いのです。 それではこの《神霊意識》(父)とは何なのか。 シュタイナーの説くところによれば、それはゾロアスターが《太陽霊=太陽の背後に存在する叡智》と呼んだ存在であると言います。ゾロアスターが弟子達に伝えた教えを、こう述べています。 「太陽を見るがよい。熱と光の恵みを大地に送っているのがわかるであろう。 しかし、おまえ達が高次の霊器官を発達させ、霊能力を持つことができれば、目に見える太陽の背後にいる太陽霊を知ることができよう。 その時には更に、天空の音楽が聞こえ、音楽のなかで生命が躍動するのを感じ取れるであろう。」 (キリストは人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉により生きる、と言ったが、神の言葉が太陽霊によるキリスト意識のことである。つまり人間の個人的意識=自我のこと。) ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p76 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 《キリストは太陽だった。》などと言うことは、各方面のキリスト教研究者からのバッシングは元より、一般大衆や、彼を理解しようとする者からさえ、変人としてそっぽを向かれる見解だと思います。 しかし、今日のスピリチュアリズム的な見解を総合的に考えてみると、これがキリストの本性であるという可能性も、あながち信憑性の低いことではないように思われます。 次回第153夜はその辺りについてお話しします。 ★ ★ ★ 上下関係とは聖杯つくりを目的とした師弟関係でなければならない。
2016年03月08日
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巷では、また税金パクリンピックが騒動になっているが、この国のインチキぶりとアホバカの精神堕落腐敗ぶりを象徴する話なので、日課となりつつあるが、お馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ 木造なので聖火台が作れない http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8941.html 新国立競技場なんだが、木造なので聖火台が作れない、というんだが、なんせ偉い建築家センセなので、偉すぎて、何のために建てる建物なのか? という基本を忘れていたらしいw 偉いセンセって、よくこういうポカをやらかす。 難燃性ガーとか不燃性ガーとか、加工すりゃいいとかあるんだが、いくら加工しても木材は木材、コンクリートみたいには行かない。 新国立上部に聖火台設置は困難か 消防法上の懸念、対応協議へ 2020年東京五輪・パラリンピックのメーンスタジアムとなる新国立競技場の現在の建設計画では、聖火台を競技場の上部などには設置できない可能性があることが3日、複数の関係者の話で分かった。スタンドは木材が使われる屋根で覆われる構造となっており、消防法上、問題となる懸念があるという。 「屋根」に木材を使うって、そもそもどういう事なのか? そんな建物、見た事ないんだがw 木造でも、屋根だけは瓦とか、燃えない素材使うよね。藁葺きじゃあるまいしw いやー残念だなー中止かぁーざんねんだわー http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8938.html 東京オリンピック招致でワイロがー、というような話なんだが、当然、あるだろ。欧州のエスタブリッシュメントの小遣い稼ぎのために、ああいう大会があるわけだしw シンタロが外遊で「異常に高い部屋」に泊まったとか、新国立競技場建設の不透明さとか、みんな、「使った裏金の分を回収」するための茶番です。だからおいら、オリンピックなんてヤメちまえと言ってる。 2020年夏のオリンピックの東京への招致に関連して、WADA=世界アンチドーピング機構の第三者委員会が、日本側が国際陸上競技連盟に協賛金を支払ったと指摘していることについて、フランスの検察当局は「日本側が国際陸連に金銭を支払ったおかげで東京への招致に成功したと思わせる内容だ」として、捜査の対象にしていることを明らかにしました。 WADAの第三者委員会は、ことし1月に公表した報告書の中で、東京とともにトルコのイスタンブールが立候補していた2020年の夏のオリンピック招致で、国際陸連のディアク前会長の息子とトルコの関係者の会話を基に、日本側が国際陸連などに協賛金として400万ドルから500万ドルを支払ったと指摘しています。 フランスの検察当局は、ディアク前会長らがロシア陸上界の組織的なドーピングを隠蔽する見返りに金銭を受け取っていたとして、去年11月、前会長らを収賄などの疑いで逮捕して調べを進めています。 東京オリンピックはまだまだ爆弾を抱えている。ヤクザとの交遊を自慢する理事とかw マックロケーのケーのブラック五輪ですw ★ ★ ★ 仏つくって魂入れずとはこのことですな。オリンピックの由来や聖火の意味を無にするアホバカさである。税金パクリンピックで、上級国民以外の国民総奴隷化のブラック国家が、アホバカ総理を頂点とするこの国の実体である。 オリンピックの聖火は、自我の灯で、霊我=マナスのことである。前回紹介した、『伝教大師のいわゆる「一灯一隅を照らす」と言う、自ら一灯となって、自らの座しておる一隅を照らす』とも通じる西洋の神秘主義の思想である。 オリンピックの聖火は、霊界をみる眼のことで、カバラでいえば、万物を見通す目のことでもある。本来は霊界をみる眼だったのだが、ギリシアの賢者が堕落して、ローマというアホバカの帝国のせいで、唯物化して、物質界の万物を見通す目となってしまった。 この未来を予知して、ギリシアの霊能者でもある賢者たちが、人類に再び聖火を灯すために、オリンピックを平和の象徴や祭典としてはじめたのである。 人類はオリンピックを金儲けの祭典とし、その精神を穢して、とくに米国という悪の帝国により税金パクリンピックになり、もはや買収で招致するなどという関わったほとんどの悪人たちが地獄行きの切符をつくる舞台に腐敗堕落してしまった。福島の惨状を放置して、パクリンピックだからもはや人間とはいえない。 このような惨状をみて神は最後の審判を下さざるを得ないだろう。アホバカたちよ覚悟しろ! さて前に、茶の三煎の話を紹介したが、最後に至れる味が淡であることからわかるが、感覚器というと、感じるものだと錯覚しやすいが、実はつくるものなのである。 茶の一煎の「甘い」という味は比較的誰でも感じ取れるが、なぜ「甘い」かといえば、唯物論ではわからない。 なぜ「甘い」のかといえば、人智学から、自我にとって心地よく、自我を増長させるから、とわかっている。そして、二煎の「渋み」は、自我の増長にブレーキをかけ、節制を求めるから、つまり適度を知るために学習しなさいと秩序を求めるので、自我には渋味を感じさせる。 そして、更に三煎の「苦味」となると、自我を、外界の自然に合わせるように、無にするように求めてくるから、苦いわけである。 このように自我の経験が味覚をつくるわけで、感覚というのは感じるものではなく、自我の経験によりつくりだされるものである。 シュタイナーによると、ゲーテは、人間の自我が、外界に光を経験し共感したから、肉体に眼ができたのを発見したという。 だから感覚器は本来、経験によりつくりだされるものだが、肉体の感覚器は、親から遺伝として与えられるので、それを見本として大体7歳までにつくりあげるのは、乳歯が抜け落ち、永久歯が生えてくることでわかる。 感覚器という器をつくらないと、そこに信号は入ってこない。器をつくる素となるのが経験と共感の愛というわけである。 ゲーテの有名な言葉の「もっと光を」が有名になった理由は、恐らく、感覚器をつくるのに「光」の経験が必要だったからだろう。唯物論では、実際は次のように語ったといわれている。 ★ ★ ★ "Macht doch den zweiten Fensterladen auf, damit mehr Licht hereinkomme." (Goethe) 二番目のよろい戸を開けてくれ、もっと光を入れたいから ★ ★ ★ というようなたわいのない会話の一部がなぜ名言として残ったのだろうか、と考えれば、ゲーテの人格をよく表わしている言葉だからこそ残ったわけで、名言として残した人がゲーテを「光から眼ができた」のを発見した人として捉えていたと考えられる。 ゲーテの話に脱線してしまったが、味覚の感覚器とのつながりで、視覚について、「クレイジージャーニー」というTV番組で、修行僧の興味深い修行の話が出ていたので、以下に紹介する。 ★ ★ ★ クレイジージャーニーで塩沼亮潤が過酷過ぎる修行内容を紹介! http://mi-pu21-01.blog.so-net.ne.jp/2016-02-14 クレイジージャーニーに、僧侶であり住職の塩沼亮潤さんが出演しました。 千日回峰行や四無行のエピソードが過酷でありながらも笑いもあり興味深かったです。 ゲストの塩沼亮潤さんは、僧侶というと厳かな感じの方をイメージしましたが、実際にマサイ族の回の番組を見て、いい番組だと思ったのがきっかけでクレイジージャーニーに出演しようと思ったと語るなど気さくでおもしろ方でした(笑)。 番組では、千日回峰行という過酷な荒行が紹介されました。 この千日回峰行というのは、往復48km、標高差1300mの山道を1日で歩く修行で、それを年間120日、9年の歳月をかけて計1000日間歩き続けるというものです。 総距離にすると、約48000kmで地球一周分の約40000kmを超えます。 この修行を行っているときのスケジュールは次のようなものだそうです。 0:30 金峯山寺を出発 8:30 山頂の大峯山寺に到着 ~ 下山 15:30 金峯山寺に戻ってくる ~ 装束の選択、寺の掃除、行の日記 19:00 就寝 そして、次のような修行中のエピソードが紹介されました。 (1)必ず短刀を持ち歩く 1度行に入ると、途中でやめることはできない、といいます。 もし行を辞める場合は、短刀で腹を切って自害せよという修行の伝統があり、その覚悟の戒めのためのお守りという意味があるのだそうです。 (2)山では幽霊を見る 体が疲れていると、幻聴や幻覚を見ることがあるのだそうです。 金縛りにあうこともしょっちゅうあったそうで、行のはじめから3分の1くらいの期間は怖いものばかりを見て、それ以降の3分の1は、神様や天女などのいいものを見て、残りの3分の1は何も見えなくなるという体験をしたといいます。 ★ ★ ★ 短刀を持ち歩くのは死ぬためではない、むしろその逆で生き抜け、覚醒意識を持ち続けろという意味だろう。密教=秘教では、短刀は自我の象徴なんである。つまり、自我を無にしろという意味であることがわかる。自我(短刀)が強くなると自分を殺すエゴとなるために、短刀を抜かないように全てを捧げなさいという暗示だろう。 上述の山で幽霊をみるというのは非常に面白い。体が疲れてくると、幽体離脱状態になるが、それは人智学によりわかるが、肉体の酷使に、エーテル体の生命力が奪われ、生命力を補充するために、霊魂が霊界に戻るためと考えられる。 その際に、アストラル体に感覚器、例えば心眼といわれる視覚器官がつくられると、霊界がみえるようになるといわれている。 睡眠の前後に夢をみるのは、霊界でみたことを肉体の感覚器を通じてエーテル体に蓄積された物質界での日常の経験から捉え、解釈するからである。霊界は、物質界とはアベコベの展開なので、物質界の経験で解釈するとどうしても矛盾を生じるが、霊界は未来から過去に時間が進んでいるので、巧く解釈できれば、予知夢にもなる。 続けて人智学から解き明かすと、はじめの3分の1は怖いモノをみるというのは、修行者の心の中にある恐怖心をみているのであろう。そして、次には、神様や天女などのいいものをみるというのは、恐怖心が克服されたため、心の中に平安や安息感が訪れたためであろう。 そして、残りの3分の1は何もみえなくなったというのは、ついに無我になったということなのだろう。仏教でいう悟りなのだが、自我が霊我=マナスを獲得したなら、霊界がみれるはずであるが、これは本人のみぞ知るところである。 さて、物質界に染まらずに、物質界を天国の楽園にしていくには、やはりシュタイナーの話に耳を傾けるしかないので、紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第151夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-878.html ≪キリスト意識(6)(改変)≫ ★ヘブライ民族の使命 ユダヤ人―厚顔無恥なよそ者であるアシュケナージ系(偽ユダヤ)の支配層ではない―ヘブライ民族は、一般にはキリストを磔刑に処した民(偽ユダヤ)として、キリスト教徒からは敵対視される存在ですが、そのキリストの秘儀を達成するためには、不可欠な民族であったとシュタイナーは言います。 (ヘブライ民族の長のモーセに、完全に進化したエーテル体を預けるために、ヘブライ民族は、それに見合うアストラル体を進化させるのに必要だった。アストラル体の象徴図は六芒星で表せられるが、ヘブライの象徴となっている。) それも《磔刑に追い込むことが彼等の使命であった》というような逆説的な役割(偽ユダヤ)などでは無く、彼らこそキリストの秘儀を可能にするため、アブラハムに生じた霊能力を代々受け継ぎ《肉体を完成させた》民族であるとしています。 (アブラハムはメルキゼデクに出会って、新しい霊能力を獲得する。) 「ゾロアスターという一つの存在が3つの体(アストラル体、エーテル体、肉体)を犠牲にすることになったのは、人類の進化のためだったのです。 ゾロアスターはヘルメスのために自分のアストラル体を、モーセのために自分のエーテル体を犠牲にした後、なおやらなければならなかったのは、自分の肉体をも犠牲に供することでした。 そのためには、特別に時間の経過が必要でした。まず、ゾロアスターの肉体が同族婚を介して用意されねばなりませんでした。…ヘブライ民族の独特な生き方(風習)を通して、この第3の供犠のために、数世代に渡ってゾロアスターの肉体が用意されたのです。 そのためにヘブライ民族は、ツラン系諸民族のもとで進化が停滞していた外界をみるために用いられてきたアストラル体の霊能力全てを、アストラル体の内側をみるための感覚器をつくるのに変えなければなりませんでした。これがヘブライ民族の秘密です。 ツラン系諸民族の場合、太古からの遺産である霊能力を外界をみる見霊器官をつくる準備に使われましたが、ヘブライ民族の場合、その能力を、アストラル体の内をみる感覚器をつくるのに向けられました。 ですから、ヘブライ民族は、外界の事物の背後で、感覚(物質)界を超えて拡がる霊を、古代アトランティス時代の霊能力のように霊視せずに、内面で精神的に感受したのです。 (この違いは絵画の描き型の相違に現れている。ツラン民族は外に神をみるので、風景画を描くが、ヘブライ民族は内に神をみるので、人物画を描く。東洋に風景画が多いのはツラン民族の影響が大で、西洋に人物画が多いのは、ヘブライ民族の影響が大といえる。 実は、ツランの多神教とヘブライの一神教の違いもこの絵画の描き型と同じである。ツランは風景のなかに神をみるから多神教になるが、ヘブライは自分のなかの一つの自我に神をみるので、一神教になる。しかし一神教が精神腐敗すると、不純なエゴに溺れるので、悪魔教になる危険を孕んでいる。) (…中略…) 実際、アブラハムは、それまでは外へ向けられていた見霊能力を内に向け、新たに、内なる神性の意識(自我)を発達させた最初の人物だったのです。 (アブラハムが個性をもったはじめての人間。その前の人間は個性に乏しく、動物に近く、各個人は、民族霊の手足だった。集団行動を好む人間は、ツラン民族の末裔といえる。日本の原住民はヘブライ、大陸からの侵略渡来民はツラン。だから、貴族はツランで、被差別民はヘブライ。戦国時代にはこの違いが顕著に現われた。) (…中略…) かつての神の観念は、秘儀参入の場(学院)で、神の叡智として受容され貯えられてきました。この観念を秘儀参入を通して後世に伝えました。 (ピラミッド=秘儀参入の場のエメラルドタブレット=神の叡智など) それらの神の観念を受けることが出来た人は、自我無しでも、エーテル体の霊能力を通じて知覚し体験出来た人(ツラン民族)でした。 (ツラン民族は神殿をつくり代々の長=王が霊能力を伝授してきたが、ヘブライ民族の神殿は肉体であり、各個人の自我を通じて霊能力を獲得する。 ツランの方法は古い霊能力の獲得法で、仏教などの修行は、ピラミッドを山にすれば、ツランに近い。修行は無我を目指すが、物質界で生活を送るには、完全な無我=個性を失うのには耐えきれないので、霊能はほぼ不可能だろう。上述の修行僧も恐らく霊界を少しみれただけで、霊能力=マナスは獲得できなかったのだろう。 御釈迦さんの時代は、自我の乏しいエーテル霊視の古代インド文化だったので、この方法でも霊能力を獲得、伝授できたが、実際御釈迦さんも王族の出だったが、現代では自我が発達しているので、ほとんど不可能であるのは、上述の仏教の修行で霊能力が獲得できないことでわかる。 しかし、一時的にでも霊界をみれただけでも臨死体験と同等だが、臨死体験の方が新しい霊能力獲得法に近いので、臨死体験後に霊能力をもつ可能性は高い。) しかし、アストラル体の内の自我を通じての霊能力で、神性意識を知覚していた人(ヘブライ民族)は、霊能力を他の人に伝えるには、自我を遺伝させる手段しかありません。 (この自我を霊我にするのが新しい霊能力の獲得法で、キリスト=イエスが伝えた方法である。個性を失わずに霊能力を獲得する方法である。 この獲得法から連想されるのが、過ぎ越し祭で、出エジプトは、ピラミッド=神殿を出て、1人1人の肉体が三種の神器を入れたアークを担ぐから、日本の祭りも、ヘブライであることがわかる。 神輿が聖杯である。火祭りが多いのは、火が霊我を表す。また、祭りで、犠牲者を集ったり、年男などの縁起者を選ぶのも、キリスト=イエスの救世主を意味する。) ですから、アブラハムにとって最も重要で本質的だった内的な霊能力の感覚器を地上に存続させるためには、世代から世代への自我の遺伝の中で霊能力を受け継ぐしかありません。 だからこそ、ヘブライ民族の場合、民族の遺伝が、つまり同族婚の血縁により、自我をつくるアストラル体の霊能力の素質を世代から世代へと伝えていくことが、非常に重要だったのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp81-86《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 モーセの出エジプトに始まり、苦難の末カナンの地へ辿り着いた後も幾度となく祖国を追われたヘブライ民族は、流浪の民となりながらも、その(自我の)信仰を曲げることなく、また同族間での血縁の深さを保ってきた、類まれなる民族です。 それは単に、彼等が閉ざされた民族社会の殻の中に、かたくなに閉じこもって来たという表面上の行動以上に、彼等が受け継いだ霊能力を薄めることなく、民族の中に保持し、向上させてゆくという使命でもあったわけです。 ちなみにツラン系諸民族とは、アトランティス没後、北アジアへ向かった民族で、高度なアトランティス時代の見霊能力を持っていたため、現世での文化には関心を持たず、専ら霊界に生きていた人々です。 (古代インド人の原型となった。) 彼等はシャーマンを中心とした共同生活を営み、シャーマンから下される神々や霊的なお告げを重要視し、時には黒魔術さえ利用しました。一方ヘブライ民族は、この対極に位置した民族であり、人間の精神力で環境を変えてゆく物質文明の推進者となっていきます。 (聖書のカインとアベルの話で、ツランがアベルを継いだセト、ヘブライがカインである。カインがアベルを殺したというのは古い霊能力を失ったという意味。そのため、新しい霊能力を獲得するためには、カインの末裔は永遠に流浪する、つまり輪廻転生する宿命を担うことになる。) そして、そのどちらが優れているということではなく、人類の霊的な進化のためにはどちらの民族も必要であったのです。 (カインは堕落して霊性を失い。自分がつくった物質文明に溺れるようになった。) ★善も悪もなく さて、小生は以前アブラハムについて、第九十夜あたりからバーバラのリーディングによる彼の役割についてお話ししましたが、その際には、(ヘブライ民族を)どちらかと言えばアヌンナキ寄りのネガティブな存在として捉えていました。 しかしシュタイナーによれば、彼がいなければ《キリストの秘蹟》は完成しなかったことになります。そうであるならば、少なくともアブラハムその人自身は、人類の進化にとっては必要不可欠であったことになります。 (以下はあまり信用できません) また、サティアの話の中には、アヌンナキが、アブラハムにウラニウムをアヌンナキの神殿に配置させたのは、我々の感情体をコントロールするためだったこともお話ししました。しかし、これにも別の意味での貢献があった可能性もあります。 アヌンナキの神殿と言えば、『神』とされていた彼等が、人間の女性達―アヌが言う所によれば全ての女性達―と交わり持った場所です。そしてその際ウラニウムが、生まれてくる子息の身体の遺伝子に、何らかの変異をもたらして来たのかも知れません。 ただし、誤解の無いように付け加えますが、あくまでも天然のウランによる、ゆるやかな作用であり、原発や原爆に使用する濃縮されたもの、ましてやプルトニウムの作用を肯定している訳ではありません。 これも見方を変えれば、良くも悪くも、我々の世話役であったアヌンナキが、我々の身体上の形質を向上を促進させた可能性もあります。そう考えると、アブラハムにせよアヌンナキにせよ、人類にとって、つまづきの石なのか、協力者なのかわからなくなります。 この点について小生が考える所、彼等は人類の魂の進化という大きな流れのなかで、その真の目的もわからないまま、彼等の本当に意図した事とは無関係に、ただ単に彼等の役割 を演じさせられていただけなのではでないかと思っています。 つまり、彼等は善でも悪でもなく、《宇宙真理的な意志》だけが意図しているものの完成に向かって、自らはそれとは知らぬまま、それが自分の意志であると思い込んだことを実行して来ただけなのではないでしょうか。 その意味では、プレアデス系のチャネリングを一方的に肯定して、アヌンナキが絶対的な悪だと決めてしまうべきではないと思います。 ルシファーについても同じ事で、彼もまた、自分の意志であると思い込んだまま、役割としての魂の誘惑を請け負っているのだと思います。 (悪とは時と場所と振る舞いが間違った善。だから悪を正しい位置につければ善になる。) ★もう一人のイエス さて、アブラハムから受け継がれた肉体的な継承は、ヨセフまで41世代、そして42世代目のイエスにおいて完成したとされます。キリスト教の正史からすれば、これでめでたく救世主(聖杯)の誕生ということになります。 ちなみに、シュタイナーの説に拠れば、42世代とは《遺伝によって内面に生じた不純な要素(エゴ)から自由になるために必要な期間》とされていますが、ここでは深く取り上げずにおきます。詳しくは同書をご覧ください。 とすると、一方でトトが受け継いだ《アストラル体》は全く関係無くなってしまうのでしょうか。それに関して、シュタイナーは『マタイの福音書』の中にある、不可思議な記述を取り上げています。 実は、同福音書は《血がアブラハムからヨセフまで続いてきた》と述べながら、一方で、 《ただしこの血はナザレのイエスの血とは全く関係ない》と言っているのです。 表向きには、いわゆる《処女懐胎》の裏づけともなる記述です。 しかし考えてみれば、民族の救世主ならば、何故あえてアブラハムからの血統では無いなどと、不利な事実を強調せねばならないのでしょう。懐胎の神性はともかくとして、何らかの形で関係があったとするか、書かずにすますのが普通では無いでしょうか。 前夜にも述べたとおり、モーセの系統は主としてゾロアスターの《エーテル体》を受け継ぎ、さらに新しい見霊能力を受け止めるに足る《肉体》を進化させてきたものです。無論《アストラル体》もそれなりの進化はしていました。 しかし、前夜で述べたとおり、いきなり完成されたエーテル体の中に、エジプト古来の見霊能力のあるアストラル体を結びつけることは、自我をルシファーの誘惑から逃れさせておくことが非常に難しいのです。 シュタイナーは、それを完成させる担い手として、ここにもう一人のイエスを登場させます。彼によれば、実は『ルカの福音書』に述べられているイエスは、生まれの違う別の人格であったと言うのです。 「しかしキリスト本性を担う人間の中には、肉体とエーテル体だけではなく、アストラル体と自我も存在しています。 ですから、肉体とエーテル体の成熟に必要な全てが遂行されただけではなく、アストラル体と自我の成熟に必要な全ても生じなければなりませんでした。 これ程大きな行為を実現するには、一人の人格では不可能ですので、二人の人格が働かなくてはなりませんでした。 肉体とエーテル体は、『マタイの福音書』の物語る人格の中で創られました。 そしてアストラル体と自我は『ルカの福音書』に述べられているナタン系のイエスの中で創られました。 この2人のイエスは、初めの数年間は別の人格なのです。『マタイの福音書』のイエスが、ふさわしい肉体とエーテル体を得る一方で、『ルカの福音書』のイエスは、ふさわしいアストラル体と自我の担い手を得たのです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p128 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 よく、イエスの復活の秘密に際して《実はイエスには、うり二つの弟がいて、彼が身代わりとなって磔刑を受けた》と言うトンデモ話が出てきますが、これなどはシュタイナーの話からすれば、実にたわいも無い話に見えてきます。 それでは次回第152夜はそのナタン系のイエスについてお話しします。 ★ ★ ★ 今度は我々一人一人が聖杯を創る番である。神殿は肉体であり、聖杯は純粋なアストラル体のことで、それは処女マリアで表される。処女マリアが受胎する子の霊我=火を灯す生命力はエーテル体である。 人間一人一人が聖火を灯すために、生命力であるエーテル体に乗って輪廻転生し、肉体という人生競技場で聖杯である処女マリアとなるために道徳を演じるのである。 つまり処女マリアの受胎が聖火の平和の願いとなるのである。人類の1人1人にハト=キリスト意識が舞い降りるように願うのが本物のオリンピックなのである!
2016年03月03日
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海の向こう側では悪魔とアホバカが躍進中だが、トランプの将来像ともいえる、この国の節度を知らないアホバカが相変わらずヒトラー並に暴走中である、という話をお馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ 安倍を牢屋に閉じ込めろ http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8933.html 子供の未来応援国民運動だそうだが、2億円使って大々的に宣伝して、集まったのが1949万だそうでw WEBサイト構築に3000万だそうだが、300万だろw どこが2700万も抜いたんだ? つうか、広告代理店に2億流しただけだろw 口封じでw なので、マスコミは悪口書きませんw 民主党の蓮舫代表代行は2日の参院予算委員会で、安倍晋三首相が掲げる「1億総活躍社会」の一環である子供の貧困対策をめぐる予算に無駄があるとして「仕分け」した。 民主党政権時代、予算の無駄を鋭く切り捨てた「仕分けの女王」の面目躍如か。 仕分け対象に取り上げられたのは、政府が昨年10月に創設した「子供の未来応援基金」。民間に子供の貧困対策費の寄付を呼びかける仕組みだが、集まった総額は1949万円(2月末時点)にとどまっている。 蓮舫氏は、基金を含む政府の「子供の未来応援国民運動」の広報宣伝費として約2億円の国費が支出されていることをやり玉に挙げ、「この2億円を応援基金に入れればよかったじゃないか」と追及した。 役人が絡むと、カネを撒くにも中抜きが酷くて、末端までまわらない。その典型ですw しかも、これ、日本財団に丸投げだしw ★ ★ ★ しかしインチキばかりして良心が咎めないのかね。というか良心すら残っていないのだろうね。無神論者はこれだから恐ろしい。無神論者は、天罰も、地獄も唯物論なので存在しない、と思っているんだろうね。 筋肉バカといえば、前に、この国の俗に筋肉バカと呼ばれている歪な体育教育について紹介したが、では3S政策のGHQの御膝元ともいえるスポーツ先進国といわれている米国ではどうなのかネット検索してみると、以下の話をみつけたので、紹介する。 ★ ★ ★ シカゴ発・アメリカ郊外生活 http://www.edu-press.jp/column/09/05.html “夏はプロ野球選手、冬はアメフト選手”を生み出す、アメリカの体育事情【vol.5】 「体育」と聞いて、あなたはまず何を思い浮かべますか? 私の頭に浮かんだのは、跳び箱、マット運動、鉄棒、100(50)メートル走、水泳、リレー、体力測定、ソフトボール・・・と、見事に小学校の授業で受けた種目・競技ばかり。これだけ思い返せるということは、見方を変えればいかに授業が充実していたかを物語っています。 体操から陸上、水泳、球技にいたるまで日本の“体育教育”は実にバラエティー豊か。しかも、「跳び箱○段」、「○秒で走る」、「懸垂○回」など、きっちりとゴールが設定されているという点で立派な“教育カリキュラム”だったな、と今になってつくづく感心してしまいます。 しかしその反面、「逆上がりができない」「25メートル泳げない」というだけで、自分は運動ができない子なんだと深く劣等感を植えつけられてしまい、スポーツそのものが嫌いになってしまった子どもたちも少なくないのではないでしょうか。 今回は、スポーツ大国と呼ばれるアメリカでその“体育”がどのように行われているのかを、日本と比較しながらお伝えしようと思います。アメリカといっても州や都市によってまったく内容が異なりますので、ここでは「イリノイ・シカゴ界隈の公立校」という前提でお読みください。 小学校体育は遊びの延長線上 アメリカに転校した日本人の子どもたち(やその親)が一番にショックを受けるのが、実は“体育”の授業だった、というのはよく耳にする話です。 アメリカの体育(PE:Physical Educationの略)の授業は、日本のように各種目・競技を掘り下げて目標達成のために“練習”するのではなく、ひたすらゲームやかけっこ、ダンスといった“遊び”のような内容であることが多く、また特別に体操着に着替えることもなく授業は毎日あるので、まるで休み時間の延長のようなもの。 日本の小学校で“カリキュラム”を経験した子どもにとっては、アメリカの体育の授業はまるでゲーム大会のように感じる、というのもうなずけます。 (スコットランドも似たようなものらしい。) しかしその一方で、子どもたちにとっては「○○できなければいけない」という強迫観念から解放され、苦手意識にさいなまれることなく自由にのびのびと好きなことができるところが、アメリカの体育の利点だといえます。 “戦い”の要素がうすい、あっさり運動会 「運動会」もあるにはありますが、きわめてさっぱりしたもの。日本人の親から見れば「ぶっつけ本番のゲーム大会みたい」だそう。 もちろん、「運動会の予行演習」など、あるはずもありません(笑)。また、紅白に分かれて戦ったり、個人のかけっこ競争などもありません。 アメリカは多人種国家。生まれつき体格が違う異人種の子どもたちを競争させること自体に意味がないのでしょう。それよりも、体を一緒に動かして競技に参加し、楽しむことが第一と考えているのです。 会場のあちこちでは綱引き、三輪車リレー、障害物競走、ウォーターバルーンの投げ合いなどの各競技がバラバラに繰り広げられ、アナウンスや音楽もありません。しかも、家族は自由参加のためほとんど見に来ないので、我が子をビデオ撮りするために会社を休む親もいません(笑) ありとあらゆる競技を体験し、学ぶ中学~高校 しかし、この“ゆるい体育”も小学校卒業まで。ジュニアハイ(中学校)になると環境は一変します。授業内容は本格的になり、バレーボール、ドッヂボール、フォールドホッケー、フットサル、中距離走などさまざまな競技をやりながら、それらのルールなども学ぶようになります。 これは他州の例ですが、体育の授業で「マイナーなスポーツをしよう月間」が設けられ、ゴルフ、フリスビー、アーチェリー、ボウリングなどを月替わりにやった学校もあるとか。 さらに面白いところでは、ウェストバージニア州の全公立学校が体育のフィットネスの授業に、かの有名なダンスゲーム『Dance Dance Revolution』 (DDR) を導入した、という話もあります。 必修科目でDDRとは、まだ“ゆるさ”が抜けていないような気もしますが(笑)、DDRで子どもの肥満が解消されたという報告もあり学校側はいたって大真面目なようです。 クラブ活動が始まるのも中学からですが、アメリカの学校の部活動は日本のそれとは大きく異なります。日本では転部しない限り卒業まで同じ部で過ごしますが、アメリカではシーズンごとに競技が替わるのです。例えば、春~夏は陸上競技やテニス、秋~冬はバスケットやサッカーなどという具合。シーズンオフには、個人で地元のチームに入るなりして、活動します。 部活の種類は実に多種多様で、アメフト、サッカー、クロスカントリー、ゴルフ、スイミング、バレーボール、バスケットボール、ボウリング、体操、レスリング、バドミントン、野球、ラクロス、ソフトボール、テニス、陸上競技、ウォーターポロなどなど。 ひとつの分野に限らず、幅広くより多くの可能性を見つけるチャンスが与えられているという点では、とても贅沢でうらやましい気がします。 このフレキシブルさが、“夏はMLB(プロ野球)の選手、冬はNFL(プロ・フットボール)の選手”を生み出す土壌になっているのかもしれません。 即戦力のみ入部が許される。シビアな“トライアウト制”と学業との両立 学校以外でも地域のリトルリーグで腕を磨く しかし、このクラブには誰もが入れるというわけではありません。入部するにはまず、「トライアウト」と呼ばれるいわゆる“入部試験”を受けてパスしなければならず、これに落ちると入部すら許されないのです。 超マイナーな部なら定員不足のため初心者でも入部できるチャンスもありますが、アメフトや野球など人気のクラブともなると、初心者での入部はまず不可能。 “完全実力主義”の厳しい壁が立ちはだかります。 逆に言うと、初めにふるいにかけられるので年功序列は存在しません。先輩が絶対的権力を握り、一年生は掃除係と素振り、球拾いのみ、などということもありえないわけです。実力さえあれば、一年生でも即戦力として対等に扱われます。 (日本のような先輩のシゴキというのはないようだ。) アメリカの体育における「平等」は、日本のように“力を平等に発揮すること”ではなく、“力を発揮する場を平等に与えられること”だと聞いたことがありますが、言い得て妙。まさにそこが日米の根本的な違いといえるでしょう。平等に与えられたチャンスを勝ち抜いた者に、努力次第でさらなるチャンスが訪れるのです。 そうはいっても部活はあくまでも部活。決して学業を疎かにしてはいけないのが厳しい掟。めでたくトライアウトに合格して意中のクラブに入部し活動中であったとしても、学業で規定以下の悪い成績をもらうと即刻退部を命ぜられます。 (日本の場合、スポーツ推薦などがある) たとえそれが、主力選手だったとしても一切酌量の余地なし。決められたことは例外なく守り、守らせる。この徹底ぶりが、意外と聞き分けのいい(諦めの早い?)アメリカ人の根本を築いているのかも、などと思ってしまいます。 すべては親の熱意とバックアップがあってこそ 親たちも「臨時コーチ」として子どものチームを手伝う。 中には兄弟のチームをかけもちしているほどの熱心な父親も。 人気の部に入りたいけれど経験がない、そんなときはどうすればいいのでしょうか? その方法のひとつは、「地元のスポーツクラブに早くから通って練習を積んでおく」。これに関しては、第1回目でご紹介した「Park District(パーク・ディストリクト:PD」が主催する各種スポーツ教室が大きな役割を果たしています。 ふたつ目は、「親が子のために個人コーチを雇う」。いわゆる“スポーツの家庭教師”ですが、もちろんどの家庭でもできる方法ではありません。競技の専門コーチはアメリカでは“ドル箱”職業。学校や個人をかけもちしている人気コーチもいるそうですから、いかにスポーツが子どもの将来にとって大事な位置づけにあるかかがうかがえます。 子どもたちの才能と努力のみならず、親たちの熱意と金銭的バックアップがなければ、同じ出発点に立つことすらできない。これもいかにもアメリカらしいといえばらしいところでしょうか。 ★ ★ ★ というように、米国には日本のように教員と生徒、先輩と後輩というような上下関係がないのが大きな特徴といえる。 それと特に重要な違いは、日本の場合、体育教員のほとんどが、だんだん減ってきたとはいえ、生活指導員にもなっている点である。体育会系のノリからもわかるが、日本では上下関係が、子どものときから、主に体育教員により教えられることにある。 私は学校で教員にはぶたれたことはないが、父親には何かというと、四六時中ぶたれたり、怒られていたので、そのためか、家庭内では兄弟喧嘩ばかりしていた。 というとやんちゃのように聞こえるだろうが、弱虫でからかわれやすく、すぐに泣く虐められっ子だったから、体育の先生よりも、先輩の方が怖かった。 だから、校則も破ることはなく、学校の体育教員に反発心はほとんどなく、体育に不満なのは持久走位で、むしろ中学の野球部の上下関係のほうが嫌だった。正直いうと、日本の部活は陰湿で、小学校のときは興味本位で剣道も習ったが、面が臭くて重くて、打たれると頭が痛くて、全く面白くなく、野球の方が何倍も面白かったので、すぐにやめてしまった記憶がある。 剣道を休んで野球にいってたら、そのことで見せしめのような、村八分をされたのがいまでも記憶に残っている。この一件で剣道が大嫌いになったのは間違いない。日本には閉鎖的な変な仲間意識があり、同じ部活を続けないと駄目というような狭い器量が指導者にみられるのは問題に思える。 だから、いまでも剣道なんか糞としか思わない。だから高校では柔道を選択したが、柔道もそんなに面白いとは思わなかった。というのも、剣道や柔道は他のスポーツを見下しているところがある。その道で一生飯を食っていくというのならまだしも、子どものときの部活やクラブ活動から、閉鎖的なのは非常に問題に思える。 同じスポーツなのだから、比較するのがおかしいのだが、剣道や柔道は確かに日本独特かもしれないが、だからといって他のスポーツを見下すのはよくない。剣道や柔道はスポーツとは違うという意見があるかもしれない。 しかし、武道は精神鍛錬のためにやるのだから、武道の観点からも、他の競技を見下すのは問題である。私見だが、実際、剣道や柔道は武道ではなくスポーツであると思う。それは巷を賑わせた柔道家の不祥事でも明らかである。精神鍛錬のためのものなら、不祥事など起こるはずもない。 しかも、柔道も、剣道も実践では役に立たないことが明らかだからスポーツなのである。 そもそも運動の種目によって差別するのが精神的に幼稚であるように思える。どうも、日本の体育には、歪な上下関係、下が上の駒や手足になるというような奴隷制度の風習が残っているように思える。 師弟関係の上下とも違う。師弟関係とは、師の理想を乗り越える弟子をつくるための上下関係で、上下がいずれ入れ替わることを想定したものである。孔子が説いたように、老いては子に従えのための子育てである。 時代が変われば価値観も180度変わるのだから、変わらない何かを子に託さないといけない。それには後の新しい時代にも通用する古い時代の真実に辿りつくことである。真実を追求する姿勢だけはいつの時代も変わらない。真実は神であって、常に不変だからである。 しかし、真実は一つではない。人の数、生命の数だけ存在し、常に時代が変わると共に真実も様相を変える。しかし本質は変わらない。だから常に真実を追求する姿勢、努力が重要となる。 先見力は真実追求からしか生まれない。先見力のないアホバカが現状にしがみつく。 政治家に先見力は必須だが、教員も同じだろうが、そういう話を以下に紹介する。しかしアホバカくらい反面教師となるべきアホバカも貴重とはいえる。 ★ ★ ★ ---ここからはその引用です--- 人生の五計 http://www1.bbiq.jp/chikoshima.com/log/somo-somo-ningen-gaku-toha-nani-ka-jinsei-no-5-kei-kyoushi-kenshou.html 南宋・朱新仲の教訓 ■「身計」 ○「教師憲章」と身計の覚悟 そこで、今度は学生の反対側の教師について、ついでに「教師憲章」も挙げておこうと思う。 --- 「教師憲章」 1、教育は職業的・社会的成功を目的とする手段ではなく、真の人間を造ることを使命とする。 (どんな生命もどんな人も生かす慈悲をもつ人間) 2、子弟が将来いかなる地位に就いても人から信用せられ、いかなる仕事に当たっても容易に習熟する用意のできておる、そういう人間を造ることが教育の主眼である。 (インチキや嘘をつかない。) 3、将来を担う子弟が、明日の行路を誤たず、信念と勇気をもって進むために要するものは、単なる知識・理論や技術ではなく、人間の歴史的・恒久的な原理であり、典型である。 (真実を追求する姿勢が大事) 4、教師は漫(みだ)りに人を教える者ではなく、まず自ら善く学ぶ者でなければならぬ。 (常に先頭に立って学ぶ姿勢が大事) 5、教師は一宗一派の理論や信仰を偏執して、之を子弟に鼓吹してはならない。 (宗教の教祖のようなアホバカになってはダメ) 6、教師は学校と教壇をなおざりにして、政治的・社会的活動をしてはならない。 (俗物になってはダメ) 7、現代が経験している科学・技術・産業における諸革命と相応する理性的・精神的・道義的革命が達成されねば、この文明は救われない。この「革命への参加」は、教師において、いかなる階級の奪権闘争でもなく、もっと内面的・霊的な創造でなければならぬ。 (誰とでも仲良くやっていける道徳や、物質界を超えた精神性の向上が必要。) --- 真の人間を造るということはどういうことか。 どんな地位についても、人から信用される。どんな仕事にあっても、何も初めからできる必要はない。いつでも謙虚に、熱心にそれを学ぶ。学べば必ず人間は習熟することができますから、いかなる仕事にあたっても、容易に習熟するところの心構えのできておる、そういう人間を造ることが教育の主眼になります。 これは、実はケンブリッジやオックスフォードの大学の校是・教育の方針であります。私がそれに共鳴して、いささか言葉を変えただけのことであります。 (西洋文化も昔は使い捨てではなかった) 最初からちゃんとできあがった、知識でも技術でも何でも、できあがったものをこしらえて出すというのではない。そんなことできるわけがない。まだ学生なんだ、青年なんだから、どこへもっていっても人が信用する、何をさせてもすぐできるようになるというだけの心構え、態度、つまり用意、それができておる人間を造る。 これが教育者の学生・生徒に対する大原理であります。 そこで、やや内容に入って、「将来を担う子弟が、明日の行路を誤たず、信念と勇気をもって進むために要するものは、単なる知識・理論や技術ではなく、人間の歴史的・恒久的な原理であり、典型である」ということを説明しましょう。 つまり原理原則、その模範的人物、典型、これが必要なんです。そこで、例えば戦後日本の教育に大いなる変革と打撃を与えたアメリカをとって考えても、アメリカの識者がみんなこれを言うておる。 例えば、職業教育がある。商業、工業、農業、いろいろな職業に役に立つ人間をつくる職業教育は大事なことである。しかし、この職業教育は教育の本体でないということは、これもまた定論である。むしろ、この職業教育を施そうと思えば思うほど、職業教育の終始を通じ、あるいは職業教育の前提に人間教育というものが要る。 人間の心構えや態度、生活を正しくする。 そういう教育をしながら、あるいはそのできた者にして、初めて職業教育ができる。教育そのものが職業教育だなんて思ったら大きな間違いであって、それは結局、職業を破壊することが識者の通論になっているのであります。 (人格が悪いのは何をやっても破壊行為にしかならないのはアホバカをみればわかる。) 例えば、年齢わずかに三十にして、しかも総合大学の学長になったハッチンスという人がいる。さすがのアメリカでもこの人事は少し型破りすぎるというので、人々は非常に危ぶんだ。しかし、このハッチンス学長は堂々とその使命を果たして、今やアメリカ教育界で非常に畏敬されておる元老です。 この人が堂々とそのことを言った。そして、学生には、どんな教育たるとを問わず、常に根本において、人類の偉大な哲人や根本経典の書を読ませなければならないこと、これが一番教育の根本問題だと力説しておる。 ここに挙げた「学生憲章」にしても、「教師憲章」にしても、これは単なる私の意見を書いたのではなくて、教育勅語ではないけれど、古今に通じて誤らず、東西に施しても悖(もと)らざる、つまり、古今東西に徴して選定したもので、私個人の独断・臆説(おくせつ)ではないから、安心してもらいたい。 次は、「教師は漫(みだ)りに人を教える者ではなく、まず自ら善く学ぶ者でなければならぬ」ということ。『礼記(らいき)』の中に学記という項目があります。 その中に「教学半」という言葉がある。「教うるは学ぶの半(なか)ばなり」と読んでもいいし、「教と学とは半ばす」と読んでもいい。教えることは学ぶことです。 人に教えることは自ら学ぶことで、自ら学ばずして教えることはできないが、実際に教えることぐらい学問になることはない。自分で分かっているつもりでも人に話してごらんなさい。終いに自分で何を言っているのか分からなくなる。 私は相当に弁論の立つ友人と一緒に講演に行ったことがある。何やら難しい問題を持ち出して、しゃべりだしたのはいいのだけれど、終いに自分で自分の言ったことが分からなくなってしまった。 正直な人で、ユーモラスな人なんですが、「ああ、何だか、僕は今日何を言うてるんだか、分からなくなった。もうやめた」と言うて、三十分ほどでやめたら、みんなが拍手大喝采をしたことがある。 後で今日くらい面白かったことはないと言って、みんな非常に感動しておった。 そこいらあたりに真理がある。何も上手に、頭よく、手際よくまとめてしゃべるのが芸じゃない。常識で、通俗に考えるのと、真理はまた別である。 要するに、「真(まこと)」がほとばしらなければいけない。 教師は、まず学士、学ぶ人、学人であって、初めて教師になる。「教師は一宗一派の理論や信仰を偏執して、之を子弟に鼓吹してはならない」これは言うまでもないことです。 (〇〇教の教祖になってはダメ) 教師とは人間を教えるのであるから、人間の個性、その才能に応じて、これを育てなければいけない。 (生徒、学生の将来を見通せる先見力が必要) 上杉鷹山(ようざん)の師として名高い細井平洲(へいしゅう)先生ばかりでなく、その他、幾人もの聖賢たちが言っておるが、教育の仕事は自分の好きな菊や蘭を作るのと違って、いろいろな農作物を作るのと同じことだ。 米だ、麦だ、菜っ葉だ、大根だ、カブだ、ニンジンだと、それぞれ立派に育ててやるのが農業の仕事だけれど、教育はそういうものだと言うておる。 だから、教師は自分を修めるのとは違う。生徒に対して、学生に対しては、一宗一派の理論や信仰を偏執して、それによって自らを作っておる時に、その自らの真(まこと)、生命であるのが一宗であろうが一派であろうが、それを通じて語ることはよろしい。 (生徒や学生の信仰心を重んじる。) 少しも遠慮すべきことではない。しかし、一宗一派の理論や信仰に偏って、偏執して、それをもって他を排斥して、そしてそれを吹き込むことは、これは無理であり、不自然であり、いわゆるダイバーシティ(多様性=神界)に偏向するものである。 自分が松の木が好きだからといって、みんなに松の木を植えろという。桜や杉の木を植えた者がいたら、それを罵倒する。これほど良くないものはない。 日教組のように、マルクス主義階級闘争論なんていうものを鼓吹することは、断じて、大いなる間違いである。「教師は学校と教壇をなおざりにして、政治的・社会的活動をしてはならない」。 それが嫌なら教師をやめて、そして活動すべきである。「分」というものを知らないのは、今日の学生の、まして大学の教授諸君の悪いところだ。国立大学教授、学長が国家の最高機関である議会、国会によって、しかも、とにかく合法的に議決された国法を、気に入らんから俺は守らんというのでは、これは明らかに憲法から言うても罪人になる。 (今日では日教組というより、ジコウ周辺のウヨク教師やソウカ教師が問題である。アメリカに押し付けられたから、憲法を守らないなんていうアホバカは論外である。) そんなことは、法学、法律学をやるまでもなく自明なことであり、人間の当然の常識であるが、それが分からないという不思議な堕落、不思議な世の中に日本はなってしまっておる。それを、また文部省も議会も内閣も何も言わん。まったくこれは無法、無規律の世の中であります。 (日教組をあんなに非難していた連中が同じことをしているのだから、日教組はジコウの師匠でこの国は終わっている。) 「現代が経験している科学・技術・産業における諸革命と相応する理性的・精神的・道義的革命が達成されねば、この文明は救われない。この「革命への参加」は、教師において、いかなる階級の奪権闘争でもなく、もっと内面的・霊的な創造でなければならぬ」 この指摘は現在諸国を通じて、おおよそ権威あると言われておる人々に異存のないことであろうと思う。その革命への参加、この文明を救う、本当の革命への参加は教師において、いかなる階級の奪権闘争でもない。ソ連や中共やチェコやいたるところでやっておる闘争ではない。 革命と称する闘争なんかではない。もっと内面的、霊的な創造でなければならない。革命とはそういう事業でなければならない。 (闘争ではなく、悟りでないと駄目! 要するに自己改革) これが私の信ずるところであり、また、私の理性と広範な現代の書、学問を通じて肯定せねばならんところの結論であります。 志のあるものが、それぞれの場において、自ら信ずるところを実践するよりほかに世の中を良くする道はないのであります。 (自らの真実探究から真実を明らかにすること。) 伝教大師のいわゆる「一灯一隅を照らす」と言う、自ら一灯となって、自らの座しておる一隅を照らす。師友会が長年一つのモットーとして提唱してきたものであります。ようやくこの頃、同志によって各地に、各場所において、これが大変力行(りつこう)せられるようになって、「一灯行」が、いわゆる百灯、千灯、万灯行になってきたのであります。 今朝、ちょっと新聞を見ておったら、今東光師が、あれは天台宗であるが、これからは一灯行だと言っておられた。 我々の天台宗はこれから大いに一灯行をやる、天台大師、伝教大師の一灯行をやるんだと大見栄をきっておる。 誠にけっこうであって、今東光師でもいい、やってくれるなら、大いにやってもらいたいものだと思う。そういうことを累積していくよりほかに、正しい意味の革命は起こりません。それが行われない、実践されないときには、どうしても日本はある期間、ある程度混乱と破壊を免れんと思う。 (アホノミクズで日本社会が崩壊している。) これは民族として、国民としては自業自得と言われても仕方がない。 甘受するほかない。甘んじて受けるしかない。 これはいわゆる贖罪行というやつだ。国民(官僚)が犯した罪、汚れを祓うために、止むを得ん。そう度胸を据えて、分を尽くすということであります。これが「身計」の最後の覚悟であります。 ---引用はここまでです--- ★ ★ ★ 安岡氏の教えは非常にためになるのだが、ともするとその教えを実践していないアホバカが、それをダシにして宗教の教祖かのように崇め奉り、反対意見を見下すようなアホバカを増殖させる弊害ももっているので、十分に注意すべきである。 劇薬というべきものなので取扱い注意すべきである。特に、自分達も同じ貉ということを隠すために、日教組を弾圧するのに使われたりするのが、地獄行きの昨今のネトウヨらを操る広告代理店の悪行で、師の顔に泥を塗る危うい利用である。 良い教えというのは猫に小判で、アホバカには下手すると劇薬になる。だから、良い師というのは矢鱈と弟子をとらないものである。 アホバカな弟子は、師の教えを悪利用するからである。弟子のために、日蓮や空海はかなり穢れた存在になっている。仏陀の教えと逆のことする昨今のこの国の仏教をみれば、仏陀も地獄にいっているかもしれない。 師を地獄に落としておいて、自分だけ救われようなんていうのは師を売るような背徳者である。
2016年03月02日
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アホバカのアホノミクズで、海外の観光客の評価が、クールジャパンからクレイジージャパンに180度変わりつつあるが、いまだに振り込め詐欺のような詐欺がなくならないのは、この国の住人が長い奴隷生活で、すっかりお上にたてつくと後々面倒になるという事勿れ主義から、お人好しで、騙されやすいという性格なのがネックになっている。 長いモノにまかれろ、という諺の由来は、八切氏によると、大陸から侵略してきた唐の藤原氏が辮髪で、長髪だったから、原住民のなかでも、同族を裏切り、藤原氏に寝返って、食糧をつくる農奴となって自己保身した連中の態度を揶揄した表現であるという。 日本史の真相を知れば、奴隷史であり、大陸からの藤原氏に侵略され、イエズス会には人身売買され、大半の人々は、人間としての扱いをされずに、長い奴隷生活が染みついたせいで、死ぬまで働くような社畜をつくり、海外からエコノミックアニマルと蔑称されたのは、戦後の経済復興、所得倍増の後のバブルのときだった。 結局のところ、この国の住人が、奴隷の身分から、社畜という家畜に精神腐敗が進んだことでもわかるように、西洋文化というのは使い捨ての奴隷化文化にすぎないことに早く気づくべきである。 西洋文化がやってきたことは人身売買と貧困の拡大にすぎないからである。 マネーというのは、三種の神器のマナスを語源にしているが、本来の意味は、霊的向上、精神主義のことであり、カネという貨幣のことではなく、信用、信頼、経済的安定や経済的基盤、土台の意味をもつ。 それがニセモノユダヤの十戒違反、並びにキリストの教えに背く銀行業や金融によりマネーを唯物化し、穢れた悪魔崇拝主義に貶めている。俗に言う拝金主義である。 本来、拝金の金も物質金属の金のことではない。金とは黄金に輝く太陽光のことで、人体のなかにある自我がマナスの霊我となったときに輝く金色のオーラのことである。だから仏像は金色に塗られるのである。 仏像で商売してはいけないのは罰当たりでわかるだろう。精神が腐敗するという意味である。そのような仏教徒は地獄への招待状を手にいれるから覚悟すべきである。 夢で地獄に行くことがあるだろうから、非常に怖ろしい場であることがわかるはずである。この世よりも悍ましい世界である。 人類はニセモノユダヤの悪魔に洗脳され、あまりにもアホバカになりソドムとゴモラを忘れたのだろうか? ソドムとゴモラをウイキで調べると、以下のごとくである。 ★ ★ ★ 天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされる都市(商業都市)。後代の預言者たちがソドムとゴモラに言及している部分では、例外なくヤハウェの裁きによる滅びの象徴として用いられている。 ★ ★ ★ 天からの硫黄とは、錬金術からわかるが、燐のことで、マイナスの光のことである。つまり現代科学でいうなら、放射線である。火とはエネルギーであるから、放射線とエネルギーにより滅ぼされたという意味となる。 だから、ソドムとゴモラは、現代では、広島や長崎、チェルノブイリや福島のことを意味する。 広島、長崎は、悪魔崇拝教の偽キリスト教が流行った地であり、チェルノブイリや福島は原発があった商業都市ということである。いずれも穢れた信仰や原子力が関係していることに注意すべきである。 つまり、原子力で商業をするものは、人類の背徳者なので、地獄に堕ちる、ということである。 こういうことを書くと、馬鹿科学者は、では自然放射線はどうなのかなどと反論するが、自然は無償で提供し、商売していないから十戒やキリストの教えに背いていない。 そもそも商売とは金儲けの利益をあげた時点で精神を穢すものなのである。 キリストが、人はパンのみに生きるにあらず、神の言葉により生きる、と説いたのは、神の言葉に真実があるからで、真実=信頼が必須で、金儲けというのは真実ではないからである。 パンは仮の世のこの世を生きるためだけしか有効ではない。パンを稼ぐために労働するのではなく、それでは仮の世を生きるために仮の労働をすることになり、仮は借りにすぎないから、すぐに尽きて亡くなってしまう。 だから、真実というのは、真実を追求する労働にあるわけで、金儲けをするのは労働とはいわない。パンを稼ぐだけのニセモノだからである。パンは分け与えるものであって、稼ぐものではない。 だから、真実追求の労働とは、神の言葉を解する霊的向上、精神主義にある。 だから、キリストは、恵まれない者には分け与えるのが真実であるといったわけである。 これは、諦め、達観という節度をもたないと、人間は獣に堕落するという戒めなんである。分を知ることである。 マネーは信頼=真実、つまり恵まれない者に分け与えることができてはじめて天国への切符となるのである。 しかし、人類はどんどんアホバカになっている、とくにニセモノユダヤの悪魔と、西洋文化の堕落腐敗白人には注意すべきという意味で、特にこの国はアホバカが牛耳っているという話をお馴染みのサイトから紹介して警告とする。 ★ ★ ★ はしごが外されて、ようやく正気に返る・・・。 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%94%E3%81%8C%E5%A4%96%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%80%81%E3%82%88%E3%81%86%E3%82%84%E3%81%8F%E6%AD%A3%E6%B0%97%E3%81%AB%E8%BF%94%E3%82%8B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%80%82 櫻井ジャーナル より 上記文抜粋 ・・・・・・・・ ダーイッシュやトルコなどと同じように米英支配層の手先となってきた日本が切り捨てられる可能性 アメリカの支配層は現在、傭兵を使って侵略を繰り返している。例えば、中東/北アフリカではワッハーブ派/サラフ主義者やムスリム同胞団、ウクライナではネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)が利用されていた。ロシアではチェチェン、中国では新疆ウイグル自治区の武装勢力がアメリカ支配層の手先として動いている。 (中世では、悪魔の十字軍だった。十字軍は、聖堂騎士団が悪魔に乗っ取られ、同士討ちさせられた後のなれの果てで、銀行の元祖となった。) 現在、中東で最も注目されている国はシリア。地中海東岸の天然ガス田であり、パイプラインの通過地点としても重要な石油利権のポイント。サウジアラビアのライバルである産油国のイラン、石油と水(チグリス川やユーフラテス川)のイラク、そしてシリアはアメリカ支配層から自立、それも攻撃される大きな要因だ。 1991年にイラン、イラク、シリアの3カ国を5年以内に殲滅すると口にしたのがネオコンの大物で国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)。その年の12月にソ連が消滅、翌年の初めにはウォルフォウィッツが中心になって世界制覇プランを国防総省のDPGの草稿という形で作成した。いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。 (ポール・ウォルフォウィッツは悪魔に憑依された1人と思われる。世界支配自体が悪魔の考えなんで、そのような考えをもつアホバカは悪魔の憑依。神の支配に成り代わろうとしているわけだから、無神論でアホバカである。) このドクトリンはアメリカが「唯一の超大国」なったという前提で書き上げられ、潜在的なライバル、つまり旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなどがライバルに成長することを防ぎ、膨大な資源を抱える西南アジアを支配するとしている。 まずアメリカはNATOを使い、1999年3月にユーゴスラビアを先制攻撃した。その前段階として、1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア、92年にボスニア・ヘルツェゴビナが相次いで独立を宣言、さらにセルビア・モンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国を結成してユーゴスラビア社会主義連邦人民共和国は解体されている。 さらにアメリカはコソボを奪ったが、その時に手先として使ったKLA(コソボ解放軍。UCKとも表記)は麻薬取引で資金を調達していた。こうした攻撃を正当化するため、西側の政府やメディアは「人道」や「人権」を掲げていたが、嘘だったことが判明している。(詳しくは拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を) アメリカがイラクを先制攻撃する口実に使ったのが2001年9月11日の出来事。ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたのだ。ジョージ・W・ブッシュ政権は本格的な調査をせず、即在に「アル・カイダ」の犯行だと断定、そのトップであるオサマ・ビン・ラディンを匿っているとしてアフガニスタンを攻撃、2003年3月にはアル・カイダ系武装集団を「人権無視」で弾圧していたイラクを先制攻撃した。 サダム・フセイン体制が倒されたイラクでアル・カイダ系の武装集団AQIが誕生する。2006年1月にAQIを中心としてISI(イラクのイスラム国)が編成され、活動範囲がしらに拡大するとIS(ISIS、ISIL、ダーイッシュとも表記)と呼ばれるようになった。 2012年8月にアメリカ軍の情報機関DIAが作成した報告書によると、反シリア政府軍の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてアル・カイダ系武装集団のAQI。このAQIはシリアでアル・ヌスラを名乗っている。つまりAQI、アル・ヌスラ、ダーイッシュの実態は同じであり、「穏健派」は存在しないに等しい。クラーク元欧州連合軍最高司令官はCNNの番組で、アメリカの友好国と同盟国がダーイッシュを作り上げたと語っている。 アル・カイダ系武装勢力やダーイッシュを支える兵站線はトルコからシリアへ延び、この勢力が資金源にしている盗掘石油はシリアやイラクの油田からトルコへ運び込まれている。これらの輸送ルートを守ってきたのはトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン政権だ。このトルコとサウジアラビアは今でもシリアへ軍事侵攻する意思を示している。 年明け後、しばらくの間はアメリカもこうした動きに同調していた。例えば、1月22日にはアシュトン・カーター国防長官が陸軍第101空挺師団に所属する1800名をイラクのモスルやシリアのラッカへ派遣すると語り、翌23日にはジョー・バイデン米副大統領が訪問先のトルコでアメリカとトルコはシリアで続いている戦闘を軍事的に解決する用意があると口にしている。 2月にトルコ外相はサウジアラビアの軍用機や人員をトルコのインシルリク空軍基地へ派遣、シリアで地上戦を始めることもできると語り、サウジアラビア国防省の広報担当は、同国の地上部隊をシリアへ派遣する用意があると表明した。その直後にアメリカのカーター国防長官はサウジアラビアの表明を歓迎すると発言している。 アメリカの雰囲気が変化するのは、ヘンリー・キッシンジャーがウラジミル・プーチン大統領と会談するためにロシアを訪問した2月10日。アメリカ政府とロシア政府は2月22日、シリアで2月27日から停戦することで合意したと発表している。当初、アメリカは停戦をダーイッシュをはじめとする武装集団の体勢を立て直すために利用したと思われるのだが、ロシアはこうした武装集団に対する攻撃は継続すると言明している。その条件で合意は成立した。 トルコやサウジアラビア、特にトルコは梯子を外されたような状況。トルコのエルドアン大統領と親しいという安倍晋三政権も同じようなことになりかねない。アメリカという後ろ盾がついているつもりで中国と戦争を始めた後、気づいたら周りに誰もいなかったということはありえる。 世界の近代史を振り返ってみると、日本はアングロ・サクソンに操られてきたとしか思えない。19世紀にイギリスは中国(清)の富を盗もうとしていた。そこで始めたのがアヘン戦争(1840年から42年)とアロー戦争(1856年から60年)。 アヘン取引でイギリス人やアメリカ人は大儲けしたが、そうした会社のひとつがジャーディン・マセソン商会。儲けの大半はアヘンの取り引きによるものだった。この会社が1859年に長崎へ送り込んできた人物がトーマス・グラバー。ほどなくして彼はグラバー商会を設立、長崎のグラバー邸は武器取引に使われた。そこに坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎たちも出入りしていたことが知られている。 1865年にはイギリスが麻薬取引の拠点にしていた香港で香港上海銀行が創設され、66年に横浜へ進出、さらに大阪、神戸、長崎にも支店を開設している。1867年には「大政奉還」、長州藩と薩摩藩を中心とする新政府が誕生した。 この当時、イギリスの支配層は世界制覇を目論んでいたが、そのためには兵力が不足していた。ライバルのフランス、ドイツ、ロシアに対抗するために約14万人の兵士が必要だと見られていたが、実際の兵力は7万人。そこで目を付けられたのが日本で、1902年には「日英同盟協約」が結ばれる。 1904年に日本は帝政ロシアと戦争を始めるが、戦費とし約2億ドルを融資したのはロスチャイルド系のクーン・ローブ。この金融機関を率いていたジェイコブ・シフと日銀副総裁だった高橋是清は親しかった。この日露戦争で棍棒外交のセオドア・ルーズベルト米大統領が乗り出した背景もシフと同じだ。 関東大震災の復興資金調達で日本政府が頼った相手がJPモルガン。ロスチャイルドがアメリカにおける代理人として使っていた金融機関で、その後日本に大きな影響力を持つようになる。1932年に駐日大使として赴任してくるジョセフ・グルーはいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻。戦後、グルーは日本の民主化を止め、ファシズム化へ方向転換させたジャパン・ロビーで中心的な役割を果たすことになる。 簡単に言うと、日本の支配層はアングロ・サクソンが東アジアを侵略する手先として働いてきた。その代償として自分たちの富と地位が約束されてきたのだろうが、アングロ・サクソンの支配システムが揺らいでいる今、日本も梯子を外される可能性がある。・・・・・・・・・・・・・・・ 抜粋終わり 多分ね。 お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 悪魔の手口は、人類のアホバカに世界支配という夢を与え、同胞を裏切らせ、同士討ちさせ、人類を奴隷化させることである。とどのつまり、人類同士で差別化させることである。すると妬み嫉みの憎悪が増大する。 この国で起こっている、アホバカ増殖が差別を増大させている現象が、米国でも起こるかもしれないという話をお馴染みのサイトから紹介する。 トランプノミクスでも発動するのかな? アホバカをこの国の総理にして経済破壊した戦争屋が破壊される番なのかもしれないね。自業自得といえる。 ★ ★ ★ 基地外が大統領に http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8929.html スーパーチューナーなんだが、トランプとヒラリーが順当に勝ち上がっているんだが、サンダースが抜けると、サンダース支持者がトランプに行くという話もあって、トランプ大統領で決まりですw つうか、そもそもトランプは共和党の人じゃないし、サンダースも民主党の人じゃない。二大政党制だから仕方なく、どっちかで出ているだけ。 スーパーチューズデー、南部ジョージア州で共和党のトランプ氏が勝利。米メディア報道。 既成の政党政治に愛想を尽かした有権者が、二大政党制の枠の中で、新しい動きを求めて、トランプやサンダースを支持して来た。それがトランプに一本化される。 ★ ★ ★ 米国は英国の植民地だったわけで、日本史でいうなら、ピルグリムは唐の藤原氏みたいなもんで、インディアンが日本原住民。米国の土地はインディアンのものなんで、白人はその罪を自覚するなら、インディアンよりも贅沢をすべきではなく、贅沢したいなら英国に帰るべきだと思うね。 というかそろそろインディアンの大統領が出てきてもいいはずで、白人を退場させるべき。インディアンの犠牲などにより白人の渡来人が積み上げてきた天文学的な資産は没収されるべきだろう。 人類がアホバカになるにつれ、悪が明らかになりつつあるというわけで、シュタイナーの話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第150夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-871.html ≪キリスト意識(4)≫ ★ゾロアスターの個性の伝承 以後、『イエスを語る』には、ゾロアスター以後、人類が見霊能力についての新しい道を得る―つまりキリストによる秘儀が行われるまでの過程が、約150頁に渡って詳しく口述されています。 その中には、小生の力量ではとても説明できない部分が多々ありますが、理解不足を恐れずに、その概略を示しておこうと思います。 納得のいかない部分等につきましては、是非同書をお読みいただくことをお勧めします。 まず、一言で言ってしまえば、 ゾロアスターは自らが知覚した《新しい道》=霊能力獲得の方法を人間の肉体で実現させるため、自らの個性を来るべき時に転生させるべく、2つの血統を通じて、42世代に渡る77段階の肉体的進化を遂げていったということです。 つまりゾロアスターの個性が、まさにキリストとして42世代後に、この世に出現して、自らその秘蹟を行ったということです。ただし、単なる《生まれ変わり》では無く、その進化には分離された2つ過程が必要だったと言います。 ゾロアスターの見霊能力は、偉大な2人の弟子達から順に継承されることとなります。 ただし、それは世俗的な、単なる師弟的な伝承ではありません。時間も物質も超えた、まさにオカルト(秘教)的な伝承です。 ★アストラル体の継承者トト ゾロアスターのアストラル体の能力については、聖なる秘儀によってエジプトのトト(=ヘルメス)に受け継がれました。彼は既にお馴染みの、ドランヴァロ・メルキゼデクのチャネリングの主でもあります。 (トートは、神智学者ドリールによって翻訳されたエメラルドタブレットの作者) 彼がゾロアスターの直接の弟子なのか、幾世代か後の弟子なのかははっきりしませんが、彼は、ゾロアスターの見霊能力の伝承者となり、エジプトの文化の創始者となります。 ここで注意していただきたいのは、彼が単なる《教え》の伝承者では無く、ゾロアスターの死後、いったん霊界に戻っていったアストラル体の伝承者―つまり、《アストラル体》に関してはゾロアスターそのもの―ということです。 …………………………………………………………………………………………… 余談ですが、このことを仏教の日本への伝承を例にとって、小生なりの解釈をして見ます。 平安時代に中国から最澄の《顕教》と空海の《密教》の2つの仏教が日本にもたらされます。うち《顕教》は《教え》に当たり、経典に書かれたものです。 しかし《密教》については、経典よりも業そのものが重視され、その教えを知りたいとした最澄の申し出を、空海は《単に教えのみで達成されるものでは無い》として、断ったとされています。 《密教》の真髄は、恵果和尚から空海ただ一人に直伝されたものです。しかし、こう書かれているだけでは、恵果和尚が後継者を一人に絞るために、それと見込んだ空海のみを特別扱いしただけのことのように感じてしまいます。 しかし小生は、《密教》に限らず、このような直伝については、実際に《アストラル体》のような見えない体が、そのまま受け継がれていく場合があるのではないかと考えています。 そして、複製ではない《アストラル体》が伝承される場合は、継承者はどうしてもただ一人に絞られることになります。つまり、決して師匠が一人の弟子をエコヒイキしている訳ではなく、それ以外には方法が無いのです。 チベットのダライ・ラマの生まれ変わりについてもまた、同様な例だと思います。 いくら《政府の許可なくして転生することを認めない》という馬鹿げた法律を定めようと、それを引き継ぐべき者は、本人認める者に限られるのです。 こうした伝承を《非科学的だ》と退けてしまう人は、例えば映像や音声が、小さなメモリーチップの中に保存され、幾世代も後の世代に再生されることを、小さな子どもが納得するように説明できるでしょうか。 メモリーチップは、外形こそ目に見える・見えないの違いこそあれ、それ以外の点では、アストラル体の保存移転とほとんど変わりはありません。何せ中国政府でさえ、それを肯定した禁止法を制定しているのですから。 ゾロアスターの場合も、人類の進化のため、自己の《アストラル体》をそのまま引き継がせる必要があったのだと思います。そしてそれを担ったのが、エジプトのトトだったということです。 …………………………………………………………………………………………… しかし、代々自己の《アストラル体》の継承者を見つけてゆくだけでは、《密教》同様、自己の古代の見霊能力、つまり睡眠中のみ霊界と繋がる方法を、代々絶やさないことにしかならず、新しい見霊能力の扉を開くことはできません。 そこでゾロアスターは、その目的の達成のために、もう一つの体《エーテル体》の伝承を別の弟子に託します。それは直接の弟子から数世代の後、モーセと呼ばれる弟子に引き継がれることとなります。 ★マクロ・ミクロの両コスモス ここで、人間にとってのアストラル体とエーテル体を別の角度から見てみます。アストラル体は以前にも述べた通り、自我が大宇宙(=マクロコスモス)と一体となる橋渡しをする体です。 一方エーテル体は、地上で自我が生きるための肉体(=ミクロコスモス)を生かし続けるための体です。そして現代の我々は、両者が揃うことによって、2つのコスモス(天と地)を体験できます。 無論、マクロコスモスについては、現世で誰もが自在に体験できるわけではありませんが、少なくとも霊界での体験まで含めれば、万人が体験することですし、スピリチュアリズム的には、訓練によって日常的にも可能になるとされています。 しかしゾロアスターの時代の見霊能力では、マクロコスモス的(霊界)体験は睡眠生活の中でしか体験できませんでした。睡眠中に、自我とアストラル体、肉体とエーテル体の2つに分離し、自我が霊界に拡がったからです。 そのため、地上での日常の覚醒状態のままで、魂がマクロコスモスへ上昇していったり、またミクロコスモスへ戻ってゆくことができなかったのです。このため、ゾロアスターのエーテル体もまた、さらなる進化への基礎として後世代へ引き継がれたのです。 (要するに、アストラル体とエーテル体に認識を可能にする感覚器をつくらないといけない。仏教でいう心眼と無我である。 アストラル体の認識を受け継ぐには、エーテル体に心を見る心眼をつくる必要があり、自我の認識を受け継ぐには、アストラル体を無にして、エゴを消滅させる必要がある。 つまり両方の感覚器をつくるには偏った見方をなくし、公正、公平な全体的な見方をしないとみえないのである。そのために、具体的に人生を経験し、罪をつくっては罪滅ぼしして、偏った見方を是正していくしかない。) ★アストラル体の悪霊 ここで読者の中には、ある疑問を持つ方があると思います。ゾロアスターは何故、アストラル体とエーテル体をセットでトトに引き継がずに、あえて別々の弟子に引き継がせたのでしょうか。 (トートとモーセの進化段階の違い。) 実は、これについてはシュタイナーは明確には述べておらず、当初は小生も疑問に思っていました。しかし、それ以後の話を読み進めていくと、小生なりの推測が浮かんで来ます。以下、誤見解かも知れませんが私見を述べてみようと思います。 …………………………………………………………………………………………… 第144夜でお話ししたように、我々のミクロコスモスである肉体は、地上にいる間、ルシファーの誘惑により、不完全な魂のまま霊界に参入しよういう欲求を起こさせぬようにする鎧でもありました。 つまり、古代人が肉体を離れて睡眠生活に入り、マクロコスモスである霊界と繋がる場合にも、常に同様の誘惑を受ける危険性があったのです。トトの生きた古代エジプトでの秘儀参入について、シュタイナーは次のように述べています。 「人間は、自我に埋没すると、いわば自我の奴隷となり、自分の願望、欲望だけを満足させるように、人間のあらゆる悪しき行為を、自我がその目的を遂げるための手段として、捉えるままにするのです。 このエゴ、我儘が、人間の内面を支配する欲求です。…自分の肉体とエーテル体の中へ不用意に参入し過ぎると、覚醒意識が、自我の中に閉じ込められてしまいます。 (催眠術はこの類。自我のなかには過去世の記録もあるが、どの時代の自我だかわからなくなってしまう。自我が、過去の自我のなかで溺れてしまい、現状認識を失うので、かえって自我を自我で生かそうと目的化し、我儘になる。細胞でいえば、ガン化する。) (…中略…) 古代エジプトの秘儀参入は、…眼を内に向け、外界を遮断し、精神に没頭と沈潜する瞑想を通して、自我の中の神性に近づく秘儀参入だったのです。 個人の自立にまで到っていなかった古代人の秘儀の場合、マクロコスモスに拡がる時も、ミクロコスモスに沈潜する時も、まだ全く個人の自主性は重んじられていませんでした。 (民族霊が天と地とをつなげる水先案内人になっていた。現代人でも死後に親戚に会う臨死体験が知られているが、霊界に行く前に守護天使が親戚の姿で水先案内=ガイドするという。) 古代エジプトの秘儀は、導師が、参入者の霊魂の、肉体とエーテル体の力となり、支援し導きました。参入者は、導師の支援で、覚醒意識を保ったまま、体験したのですが、その時、いわばあらゆる側面から、アストラル体の恐るべき情念、情熱が流れて来ました。悪霊の世界が人間の中から立ち現れました。 (弟子のエーテル体と肉体は不浄なので、導師のエーテル体と肉体との相違から悪霊が現れる。) ですから、エジプトの秘儀の導師は、立ち現れるものを受け止め、悪霊を、それぞれの応分に見合うように、他へ誘導する助手達を必要としていました。導師は、出現する悪霊達を受け止める助手を12人必要としました。 このように、古代の秘儀においては、個人は決して自由な存在ではありませんでした。個人が肉体とエーテル体へ深く参入するには、どうしても12人の助手が、悪霊達を受け容れ、鎮める必要があったからです。」 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp168-170 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載 このような自立が不完全な状態で、仮にマクロコスモスとミクロコスモスへの往来が自由なアストラル体とエーテル体を、誕生と同時に2つとも得たとしたらどうなるでしょうか。 恐らく、自我の欲望に捉えられ、転生の目的を果たせぬまま霊界に逆戻りしてしまうことになるのだと思います。これでは、いつになっても進化できなくなってしまいます。 そのため、アストラル体とエーテル体は、人間が自主的に2つのコスモスへの移動が可能になる瞬間まで、別々に維持される必要があったのです。そして、それが可能となる時まで、エーテル体は完成の時まで別に継承されたのだと思います。 次回第151夜はその過程についてお話しします。 ★ ★ ★ とどのつまり、自分の天分を知るために、地に生まれてくる。地に降りてはじめて、天国という真実に辿りつくのに、自分の能力がどの程度なのかを知れるのである。
2016年03月02日
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灯台下暗しというか、米国のトランプをこの国のダマスゴミは心配しているが、アホバカが総理をしている方が現実の問題で、その何倍も害悪を蒙っているのに気づかないアホバカぶりには呆れてしまう。 トランプよりも馬鹿なアホバカが総理をしている現実を考えるべきである。トランプは馬鹿でも、米国憲法を変えるなどという発言はまだ聴いたことがないだけアホバカよりはマシである。 アホバカがアホバカなのは、やはり教育にあると思う。祖父がやはりインチキばかりしたので、その孫もインチキしか頭にないらしいから、やはり血は争えないものである。 インチキばかりしている国がどうなったかは、歴史をみれば明らかである。アホバカは皇帝ネロに匹敵するほどアホバカであるという話を、お馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ 国民舐めすぎ http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8918.html 消費税増税延期を旗印に解散・総選挙という話が出ているんだが、民主党がバカなので話にならない。本来だったら、増税延期を迫って、総選挙で信を問うと詰め寄るのが民主党の仕事なんだがw 理屈なんざどうでもいい、昔から「理屈と30後家はどこにでもくっつく」と言われるんだからw 何だったら戦犯野田豚を除名すりゃいいw 2017年4月に予定されている消費税率10%への引き上げに消極的ともとれる発言が安倍政権の主要メンバーから相次いでいる。 菅義偉官房長官は2016年2月26日に、過去に消費税を3%から5%に引き上げたケースを引き合いに、「税率を上げて税収が上がらないようなところで、消費税を引き上げるということはありえない」と発言。 これまでは引き上げ見送りを検討する条件として「リーマンショックや大震災」を挙げてきたが、これに、年明けからの金融市場の変動に端を発した「世界経済の大幅な収縮」が加わった。 衆院の解散には「大義」が必要だとされる。すでに自民党内からは「唯一大義があるとすれば、『引き上げ再延期の是非』だ」という声もあり、永田町には一連の動きを「解散風」と関連付けて受け止める向きもあるようだ。 消費税、上げれば上げるほど景気が悪くなる。日本が消費税導入して以来、景気が良くなった事は一度もない。 子ども手当はポルポトスターリン http://my.shadowcity.jp/ アベシンゾー発狂、というんだが、まぁ、今に始まった事じゃないしw 夫婦別姓はサヨクの陰謀、子ども手当はポルポトスターリンだそうでw さすが知能指数28w 白痴、痴愚、魯鈍w そのうち子供を産むと収容所に送られますw 一億総活躍社会でも、保育園は作りませんw 汝臣民飢えて死ねw 2010年の雑誌の対談のなかでの夫婦別姓と子ども手当に関する安倍総理の発言については、撤回すべきではないかとただしたが、安倍総理はこれを拒否。 特に子ども手当の発言をめぐっては、「あのとき民主党のなかで、『子育て支援、子ども手当というのは、両親や家族から養育費が払われるのではなく国家から直接子どもたちに養育費がいくことによって、自分たちは両親に対して何の義理や義務も感じる必要がない』という議論があった。家族ではなく国家が育てるという考え方は間違っているということを申し上げた」などと答弁したため、 岡田代表は、「今の発言は私は聞いたことない。どこでどういう発言があったのか明確にしてほしい。そういう事実がなければ撤回して謝罪をしてほしい」と求めた。 子供は自民党に献金してくれないしw カネくれるヤツの言うことしか聞きませんw それが自民党ですw ★ ★ ★ このようなアホバカをみていると、どうも精神年齢が低いのではないかと思えてくる。「君子は和して同ぜず小人は同じて和せず」というが、ジミンもミンスも小人ばかりで、しかもアホバカである。 では、君子と小人の根本的な違いとは何か? 先見力の有無だろう。先を見通せる能力があるかどうかである。 アホノミクズは失敗するのは目にみえていたが、やはり失敗し、GDPはマイナスで、人口減で暮らしも苦しくなってきている。君子ならば、アホノミクズなど駄目出ししていたはずである。 君子は先を見通せるから、同じでなくても、主導権がとれる。先見力をつけるには、やはり自己教育が肝心だが、政治についての先見力とは、国民のために行うものでなくては駄目である。 国民のためというのも、国民の精神を向上させるものでなくてはならないから、やはり、国民全体を見通せる眼を養わなくてはならない。 この眼を養うには、我儘とは反対のもので、なるべく自分の意見をもたないようにすべきである。 こう書くと自分の意見をもたないものと早とちりされるが、自分の意見はもたなくてはいけないが、それだけでは駄目ということで、自分の意見を日々改めることで、「君子豹変する」という意味である。 あの法螺吹きの勝海舟が本に書いているが、横井小楠を褒めて、小楠は日によって意見を変えたという。海舟はそれを絶賛し、いい意見だと思えば、自分のこれまでの意見を捨てることなどなんとも思わないのが素晴らしいと絶賛しているのである。 自分が最上だと思った時点で成長は止まり、自分の意見に固執した時点で、自分の意見に負けてしまう。間違いを指摘されてムキになるほどアホバカな奴はいない。それではアホバカのままで進歩がない。 進歩がなくなれば、人間だって自主性を失い奴隷のような動物や獣になる。 間違いを指摘されれば本当は喜ばないといけない。自分の意見といっても、それは自分ではないからである。間違ったものを自分とすれば、自分そのものの存在自体が間違ったものになってしまう。この恐ろしさに気づいていない。 間違った意見を自分だと思ってしまえば、その意見のために、自分の存在も危うくなってしまうのである。 だから間違いを指摘されるのは、自分を救うことになる。 間違った意見を権威主義により誤魔化そうとする悪しき教育がこの国のなかにみられることを以前指摘したが、特に体育についての出鱈目ぶりには呆れてしまう。 かなり前、TVのある番組で、北欧の校長が、日本の小学校の教育を視察して、特に体育の順位づけに疑問をもっていたのが、思い出される。また小学生に持久走を課するのにも疑問をもっていたようだった。運動が不得手な生徒の虐待につながらないだろうか、という指摘だった。 私見だが、日本の体育教育はかなり歪で、私個人の経験だと、あまり良い思い出がない。私はいまはインドア派だが、子どものときはアウトドアで外で暗くなるまで遊ぶ、スポーツ好き少年だったので、どちらかというと運動は得意だったが、長距離走は大嫌いだった。水泳も水が苦手だったので、プールのある前日は雨乞いをしたものである。 小学校の先生は兵隊からの出戻りで戦争の話を色々きかせてくれて非常にためになったし、勉強よりも、自由時間が多かったので、授業中はプロ野球談議で、放課後からは野球ばかりで、ほとんど野球ばかりしていた記憶しか残っていないが、プールの日は恐怖だったことだけは記憶に残っている。 しかし、中学になると体育で恐怖の持久走大会があり、野球部だったので、ある程度走るのには慣れていたとはいえ、上下関係の厳しさからくるパニック症候群のようなものに罹り、持久走には悪い思い出しかなく。その後の高校でも中学よりも短い距離だったのに持久走をどうサボろうかしか考えてなかったのを記憶している。 大学でも、理系に進んだにも関わらず、持久走があるのは非常にシンドかったが、身体の弱い学生が体育中に運動をして倒れ、不運にも亡くなってしまい、それから体育の運動は緩くなり、控えめになった記憶が残っている。 ともかくも、これほどまでに強制的に運動させられるのは、この国の体育教育だけじゃないのかと思えてくる。 特に新人の教師にたまにいるのだが、熱血教師には閉口してしまう。熱血指導は、ガキ大将やお局気質のやんちゃな生徒や学生には有効かもしれないので、全否定はしないが、運動馬鹿ではない一般生徒や学生には百害あって一利なしの迷惑千万というような話をお馴染みのサイトから紹介する。 どこか体育の授業が仏教の修行のようになっているところがあり、修行というのは本人の同意、自主性がなければ単なる虐待というのがわかっていないのではないだろうか。 ★ ★ ★ 人間の質は日本は悪い・・・ 素は良さそうだが、教育が凶悪。 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/ 酔生夢人のブログ より 上記文抜粋 ・・・・・・・・ 体育という児童生徒虐待の場 私はテレビの芸能番組やバラエティ番組はまったく見ないので、マツコ・デラックスの実物は見たことがないが、ネットなどで知るかぎりの彼女(実は、「彼」らしいが)の発言には共感することが多い。辛辣だが、きちんと「叩くべき相手」を叩いていると思う。弱者叩きや権力擦り寄りは無いように見える。 まあ、芸能人である以上限界はあるし、ただのポーズという部分もあるかもしれないが、「良き偽善は悪しき正直さに勝る」と私は思っている。「偽善」の「偽」を分解すれば「人為」であり、人為的に善を為すことを咎めるのは幼稚な思想だろう。 それが「性善説」である。私は、人間は教育によって善を身につける、という「性悪説」を支持する。 話が脱線したが、学校教育における「理不尽」というものを絶対的に痛感するのが体育の授業だろう。そこで身体的(運動能力的)劣等者はさらしものにされ、笑いものにされることは別にしても、なぜ「持久走」という「児童虐待」行為が当然のごとく行われているのか、疑問に思ってもいいのではないか。 まあ、スポーツのほとんどは運動の苦手な子供には虐待行為だと私は思っているが、なぜかそれを言う人はほとんどいない。そもそも、毎日走っている運動部の生徒と、生まれてほとんど走る経験の無い生徒を同じ土俵(これは慣用句であり、本当はグラウンドや路上だが)で走らせるということが理不尽でなくて何だろうか。 その結果、ヒーローと負け犬が見事にさらされることになる。それ以前に、持久走など、肉体的に苦痛そのものではないか。だから、「罰としてグラウンド10周」などということもよくある。その「罰」が、なぜ授業として認められているのか。 まあ、半分は冗談だが、半分は本気だ。 すべての生徒は、持久走にも、あるいは体育の授業内容の多くに対してでも、「拒否権」を持つべきだ、と私は思う。 体育など、生徒各自がグラウンドで好きなように体を動かせば、それでいいのである。教師や指導者が何かの「形」を強制しはじめると、それは多くの生徒にとっては耐えがたい苦痛になり、ほとんど虐待になることが多い。 なお、「苦痛に耐える精神力を養うことが大事だ」という意見が当然出てくるだろうが、運動部出身者の大半は「精神力」で上長の奴隷待遇に耐えるだけの脳筋人間になることも付け加えておく。 (以下引用)・・・・・中略・・・ 2016年2月28日 15時10分 トピックニュース (中略) 27日放送の「マツコ会議」(日本テレビ系)で、マツコ・デラックスが体育の授業で行なう持久走について「何のためにあるんだろう」とその存在意義を疑問視した。 番組では今回、女子に大人気という農業高校の実態を調査するため、世田谷区にある都立園芸高校から中継をつなぎ、スタジオのマツコが確認していった。 中継では、次の授業の準備をしている女子生徒に何の授業の準備をしているか質問する場面があり、その女子生徒は「持久走です」と答えた。 するとマツコは「わー、やだねー! なんのためにあんだろうな、あれ!」と早速嫌悪感を露わにし、「まーだやってるのか!この2016年にもなって!やめろやめろ!持久走はもう!!」と声を荒げた。 さらに詳しく話を聞くと、6キロも走らなければならないことが判明し、マツコは「うーわー、やだー!」と心底嫌そうな顔をしていた。マツコは「やっぱあれかな、足腰鍛えなきゃいけないってのがあるのかしらね?」と農業高校ならではの理由を推測していた。 その後、マツコは別のクラスの女子生徒に「さっき行ったクラスはね、これから持久走で6キロ走らなきゃいけないっていうから、それもうマラソン大会じゃないかっていう」と話した。するとこの女子生徒から、実はこの学校の3学期の体育はすべて持久走だとの事実を知らされた。 マツコは驚き、「えー! 毎回持久走なの!?」と聞き返し、「『3学期全部持久走はないんじゃないの? キャンペーン』をやりましょう」と女子生徒たちに提案したのだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ 抜粋終わり 先日の記事で・・・・・・ 私は左手首靱帯損傷、左肘の脱臼、骨折をしました。手術室に入る前の不安や恐怖から大泣きしました。手術が終わって説明出来ないくらいの痛みがきました。そんな痛みをもう誰にもさせたくないです。あの苦しみや痛みをこれ以上誰かがしなくてすむようにして下さい。 生まれて初めての手術と入院、痛みや不安や恐怖。事故の場所から私や家族の人生も変わってしまいました。受験を予定していましたが、それも出来る状態ではなくなりました。小学校生活、最後の楽しい思い出つくりは何もありませんでした。・・・・・・中略・・・・ 組み体操を続けるならこれからは責任を国がとってくれるのですか? 無責任な検討はしないで下さい。組み体操は学校でやらなくていいことなので種目を変えて下さい。 行進なら日本体育大学の人たちもやっていてすごいです。 中学入学前、中学の校長先生から「体育の授業で実技はやらないと点数は0点です。」と言われました。酷いです。私だってやりたくても出来ないのに…。 時間を元に戻してほしい! 私の心の傷と体の傷は一生もって生きていきます。 この国は私達子供に対してこれからも酷い国でありつづけるのでしょうか? 今の日本は思いやりのない国だと思います。 ・・・・・・ ・・・・・・・ 抜粋終わり 今の日本は思いやりのない国だと思います。 その通りでしょう・・・ 苦痛に耐える・・・それも授業・教育かもしれないが、それがメインの学校教育って・・・ やはり「思いやりのない国」だということです、日本田布施村は・・・。 お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 体育についての怨みつらみの毒はきをしてしまったが、強制的な指導には、どうしても違和感を覚え、GHQの3S政策が背後にあるのではないかと思えてくる。 国民は悲鳴をあげているのに、増税をするような体育教師ばりのアホバカ財務省とその仲間のアホバカ総理であるから、そのうち大怪我になるだろう。 帰国子女の話を聞くと、特に欧米では、子どものときは運動する喜びを教えるそうである。日本のように半強制というのはないようで、スコットランドからの帰国子女の話では、私の記憶が確かなら、チームを組み、ゲームをするのが主で、ほとんど遊びのようなものだそうである。 どうも、海外と比べると、日本の体育教育はどこか軍隊の調練を彷彿とさせる気がするのは私だけだろうか。勿論、軍隊ほどは厳しくないが、体育教官には絶対服従というか、権威主義に媚びる風習が植え付けられているようで、劣等感をもっている競技などに対して、下手すると、コテンパンにやられ、恐怖心を植え付けられる思いもある。 つまり体育会系の上下関係絶対服従というノリがどこかに隠れている。 そういうわけで、このような悪しきノリを戒めるために、警告となる話を紹介する。 ★ ★ ★ 老計:老計にみる人情 http://www1.bbiq.jp/chikoshima.com/log/somo-somo-ningen-gaku-toha-nani-ka-jinsei-no-5-kei-roukei-ni-miru-ninjyou.html 知古嶋芳琉です。 前回に続いて、私が師事した安岡正篤師の講話録の中から、安岡正篤現代活学講話選集第4巻『人生の五計』(PHP文庫)を採り上げて、お話しを進めています。この問題は、万人にとって必要不可欠な、教養課程の一科目のようなものです。 しかも、死に方までも説いた教えですから、死ぬまで学び続けることを怠ってはならない科目です。卒業とか修了ということのない学問です。ですから、分かったようなふりをしているだけで赤恥をかくことになります。 一生、生き恥をさらして生きなければならなくなる。 そして、親の因果が子に報いるというように、子々孫々にいたるまでその恥は受け継がれるのですから、自分一人のことで済むとでも思ったら大間違いです。 因縁というものは、実に恐ろしいものです。 なぜならば、恥で済むくらいならまだ良いほうで、私が学んだ古代神道では、人間が作った法律では決して裁かれることのない罪の数々を列挙いたしまして、この罪を極めて重く見るからです。 しかもその罪は決して償うこともできなければ、許されることもないのであります。 その罪の数々とは、いわゆる公序良俗を汚すものであったり、倫理・道徳に反するものであります。 それこそが計り知れない重罪を犯しているというわけです。その計り知れないほどの重い罪は、先ほどの恥の場合と同様、親の因果が子に報いるどころか、子々孫々にまで及ぶというのであります。しかも、子供にその罪を犯したが故の禍(わざわい)が現れなかった場合は、孫に現れるというのですが、もうその時になったら極めて残虐な禍(わざわい)となって現れるというのです。 その一例を挙げますと、浅はかな爺さんが犯した罪が息子に及ばなかった場合、その息子の子供である孫が、見るも無残な、誰もが目を覆いたくなる、決して直視できない、この世のものとは思えない化け物のような奇形児として生まれてきたというのです。これがひ孫に及べばどうなるか、実に恐ろしい話です。 そこで今度は、「老計」のお話しです。 ---ここからはその引用です--- 人生の五計 南宋・朱新仲の教訓 ■「老計」 ○「老計」にみる人情 そしてお互いにだんだん歳をとっていく。老いていくということは、みんな老衰することだと思うが、そうではない。これは老熟することである。 したがって老という字は「なれる」とか「ねれる」と読む。世間の体験を積んで、非常に練達した人のことを老手(ろうしゅ)と言う。 (経験が豊富になるから、いままでみえなかったところがみえてくる。) 先生でも老先生、老錬と言う。そのためには老ゆる計りごとが大切であります。人間はいかに歳をとるかということであります。ほっといたって年はとるわけですが、そういうのは無意味です。 人間は伊達に年をとるのではない。老年はそれだけ値打ちのあるものでなければなりません。この老ゆるはかりごと、すなわち「老計」は実に味のあることですが、どうしたことか年をとると悔しがる思想が昔から多い。 ところが、「老計」から言いますと年をとることは楽しい、意義のあることです。江戸前期の儒学者・伊藤仁斎先生(1627~1705)は「老去佳境に入る」という詩を作っています。年をとって佳境に入るというのです。人生の妙味、学問の妙味、こういうものは年をとるほど分かる。 何と言っても若い時は、それこそ未熟です。この未熟ということは、それだけ味がない。まずい。本当の味というものは、後で詳しく話しますが、それこそ甘いことくらいしか分かりません。渋み、苦みという味は、お茶でも三煎しなければ出てまいりません。 人間にしても、やはり五十を過ぎないと出てまいりません。 (肉体だけ五十を過ぎても、精神が未熟なものは沢山いる。) 昔、衛(えい)の国の偉い人に遽伯玉(きょはくぎょく)という人がおった。『論語』の中の一節で孔子はこの人を礼讃しております。 「老計学」の有名な言葉として、「行年五十にして、四十九の非を知る」、五十になってそれまでの四十九年が間違っておった、ダメだったということを、しみじみ悟った人であると『淮南子(えなんじ)』では言っております。 これを「知非」と申します。皮肉に言いますと、人間は五十になる頃、いや最近は寿命が延びておりますので、十年くらい違っておるかもしれませんが、ともかく昔は、この年齢に達しますと、その人なりに自分というものが分かってくるのです。 もっと通俗に言えば、五十の声がかかると、人間は野心というものに見切りをつける。 「オレもここまでやってきたが、いよいよ定年も近づいた。自分もだいたい来るところまで来た。もうなんぼ焦ってもいかん。これからは一つ倅(せがれ)を立派にしよう」というふうに考える。 これは一番通俗な「知命」であります。同時に「知非」であります。 諦(あきら)めには内容のない諦めと、非常に高度な諦めがある。 (シュタイナーも物質界で重要なのは「諦め」で、それが霊界では創造につながると述べている。) そして、この高度な諦めを「悟り」と言うのです。 それに対して、内容のないのは、俗に言う「あきらめ」であります。内容のいかんにかかわらず、一つの諦めに達した場合、命(めい)を知る、運命には知命、立命といろいろありますが、その命を知るということになります。 ところが、先にも述べました『淮南子』を見ますと、「行年五十にして、四十九年の非を知り」の後に、「六十にして六十化す」とあるのです。 すなわち、人間は生きている限り、年をとればとるほど良く変わっていかなければならぬということです。悪固まりに固まってしまってはダメである。動脈硬化だけではない、大脳硬化、精神硬化、何でも硬化してしまう。硬化したのでは本当の老ではないのであります。 「老」という文字は老いるという文字であると同時に、「なれる」「練(ね)れる」という意味があります。お酒でも、中国では紹興酒の良い酒を「老酒(ラオチュー)」と言います。 日本人の場合は生一本(きいっぽん)と言う。生一本というのはナマなのであります。我々は酒を飲んで、よくキューッとくる」と言って、その刺激を愛する。したがって味の反応に鋭敏である。ところが、「老酒」という酒は、生一本と違って、飲んでも日本酒のように「キューッ」とこない。トローッとしておりまして、飲むほどに陶然と酔ってくる。 しばらく杯を置いておると、それがほのぼのと醒めてくるというような具合で、中国では「王道蕩々(おうどうとうとう)」などと言います。 わが国は「稜々(りょうりょう)」。だから 私はよく中国文化を一語にして表わせば「蕩々文化」であり、日本の場合は「稜々文化」と申しておるのです。 (中国には老子「タオ」の教えが残っている。) これだけ民族の特徴に相違があるので、年をとるということもまた、「蕩々」になることであります。噛みしめて味わいが出る。 物事にあまり刺激的にならないということ。これが老境の特徴であります。年をとるということは、あらゆる意味において、若い時には分からない、味わえなかったような佳境に入っていく、これが本当の「老計」というものであります。 (熱しやすいほど冷めやすい。だからあまり熱をもたないことが重要。ゆっくりと熱を上げていくのが長続きする。) 同時に人間の本具しておるいろいろの徳の中で、情操というものは、非常に大事なものでありますが、年をとる、老成すると、非常に情が発達する。佐藤一斎の『言志後録』などを読むと年とともに情味が深くなることを大変淡々たるいい文章で書いておる。 たとえばその237、238などは目からウロコが落ちる思いがするのであります。 --ここからは『言志後録』237からの引用です-- 聖賢は故旧(こきゅう)を遺(わす)れず。是(こ)れ美徳なり。 即(すなわ)ち人情なり。余(よ)が家の小園、他に雑卉(ざつき)なし。 ただ石榴(ざくろ)、紫薇(さるすべり)、木犀(もくせい)の三樹あるのみ。 然(しか)れどもこの樹を植うること四十年外にあり。朝昏(ちょうこん)相対して、 主人とともに老ゆ。夏秋(かしゅう)の間、花、すこぶる観るべし。以(も)って心目(しんもく)を娯(たのし)ませるに足る。 これ老友なり。余が性、草木において嗜好較(やや)澹(あわ)し。然るにこの三樹は眷愛(けんあい:情けをかけること。かわいがること)特に厚し。 凡(およ)そ交わりの旧(ふる)きは畢竟(ひっきょう:「畢」も「竟」も終わる意、仏語。究極、至極、最終などの意。さまざまな経過を経ても最終的な結論としては。つまるところ。結局。要するに) 忘るることあたわず。これ人情なり故旧(こきゅう)遺(わす)れざるは、情これと一般なり --ここまでは『言志後録』237からの引用です-- ---ここからはその解説です--- 聖賢とは孔子のことであります。『論語』泰伯篇(たいはくへん)に、「故旧遺れざれば、則(すなわ)ち民偸(うす)からず」とある。 つまり昔なじみを忘れなければ民も見習って人情は薄くならないというわけですが、一斎先生も、これは美徳であると言うている。すなわち人情というものだ。 自分の家の小さな庭には、石榴(ざくろ)と、紫薇(さるすべり)と、木犀(もくせい)の三本の樹だけがある。自分はあまり庭木なんかをいじらんから他に草木らしきものはないが、しかし、四十年以前から親しんできておるこの三本の木は、朝夕自分と向かい合って、共に年をとってきた。 夏や秋の頃になると美しい花を咲かせて、自分の目や心を非常に楽しませてくれた。まさに老友である。 自分は草木についてやや淡泊であるが、しかしこの三本の樹だけは特に目をかけて愛してきた。だいたい古くからの交際というのは、とても忘れることはできない。これが人情というものだ。 孔子が言った言葉はまったくこの心情と同じであると、一斎先生はしみじみと老の心境を語るのであります。 その次の238の語録にもキチッと決まっておる。 --ここからは『言志後録』238からの引用です-- 余が左右に聘用(へいよう:礼を尽くして招き、取り立てて用いること)の几(き:机、つくえ)硯(けん:すずり)諸具(しょぐ)、率(おおむ)ね皆五十年前得る所たり。物旧(ふる)ければ、則(すなわ)ち屏棄(へいき)するに忍びず。 因(よ)って念(おも)う。『晏子(あんし:中国、春秋時代の斉(せい)の政治家。字(あざな)は平仲(へいちゅう)。尊んで晏子(あんし)と称される。節倹力行をもって鳴り、霊公、荘公、景公の三代に仕えて、君をいさめ国を治めた名宰相) の一狐裘(こきゅう)三十年なるも、亦(また)恐らくは必ずしも倹嗇(けんしょく)に在(あ)らざらん』と --ここまでは『言志後録』238からの引用です-- --ここからは、その解説です-- 自分の左右には机、硯(すずり)、筆、こういうものが五十年来、形影相(あい)随(したが)っておる。年とともにますます味わいが細やかで棄て去りがたい。 それにつけて思うに「晏子(あんし)は一枚の狐の皮衣を三十年着用したと言うが、決してけちな心に在ったのではない」としみじみ思うと言うのであります。 一斎という人は本当にいい人だなと思わせられる。こういうことは、老境に伴なう老計に入れるべきことで、したがって交友関係なども、年とともに良くなるのが本態で、夫婦でもそうである。 「夫婦もいい年になると、もうこれは茶飲み友達ですね」ということを人は言う。味もそっけもなくなったという意味ではない。私はそのことを「茶話」として『師と友』に縷々(るる)として書いたことがある。 茶話、茶技ということをみんな非常にいい加減に考えているが、そういうものではないのです。だいたい茶というものは、非常に味わい深いものだ。茶を栽培するというのは、非常に難しいものであります。 その茶の芽をとって新茶をつくる。これは芽から採るのだから芽茶であるが、これを煎じて我々が飲む。最初は薬用だったのが、次第に趣味となり、生活必需の飲み物になった。 そして、この茶を煎ずる、煎服するには湯加減が非常に必要である。これをうまくやって、最初に第一煎で、茶の中に含まれている糖分、即ち甘みをよく味わう。第二煎では茶の中にあるタンニンの渋みが出てくる。だいたい甘いというのは子供でも野蛮人でもみな好くもので、誰にでも分かる。 ところが、渋みになると、その間に酸味というものがあるのですが、それが進むと、この渋みというものになる。渋みになると、これは野蛮人などでは分からない、好まない。 子供もあんまり好かない。女も少なからず、これを嫌がるものが多い。 これは、だいぶ進んだ味わいの境地で、渋みという、何とも言えない味が出てくる。ところが、真理はどこでも同じで、最近、化学でタンニンを分析したところが、タンニンの中からカテキンというものが出てきて、これは非常に甘い。 だから渋いということは甘いことなのである。甘いというものの少し至れるものが、進歩したものが渋みなんだということを、化学的に説明ができるようになった。 第三煎で初めてカフェインの苦みが出てくる。この苦みというものが味の最も高等なものなのであります。だから、最もいい言葉は苦言なのです。甘言なんていうのは駄目、甘い言葉は駄目であります。甘言に惑うなんていうのは、これは愚昧(ぐまい)の証拠で、渋い、苦い、苦言を好むようになれば、これは進歩した人間である。 要するに、甘い、渋い、苦いというのは、これは化学では偏味(へんみ)と言うが、特に老荘ではそういうことをよく説いています。 至れる味わいは、そんな甘いとか、渋いとか、苦いというようなものではない。何とも言えない味なのです。これを至味(しみ)、至れる味わい、無の味という。無の味では、人がよく分からないから、これを淡という。 淡というのは、もう甘いとか、苦いとか、そういうことを超越して何とも言えない至れる味のことである。 それで初めて君子の交わりは淡として水の如しということが分かる。 そういう味のものはどこにあるかといったら、結局、水なのです。だから正直なもので、人間は死ぬときに「水をくれ」と言う。死にがけに「菓子くれ」とか「ぶどう酒くれ」とは言わない。 ごく稀(まれ)に「酒をくれ」という人はおるが滅多にない。天満天神の神主をした親友の寺井種長君というのは、亡くなる時に酒を飲んで死んだというが、これは極めて稀なるものである。たいていはみんな水であります。何とも言えない味という。 これを知らないものだから、ある漢文の先生が中学校の生徒から、「君子の交わりは淡として水の如し」というのが本に出てくるが、そんなものじゃつまらないじゃありませんかと言われて返事ができなかったそうだ。淡とか水ということの、味ということの哲学を持たないから答えられなかったのであります。 そこで初めて水交社、あるいはああいう雅号の意味が分かる。だから、本当に茶が飲めるというのは、よほど人生の体験を積んで、酸いも甘いも噛み分けた人間でなければできない。茶話ができるようになれば、人間は大したものであります。 酒話くらいならいくらでもできるが、茶話はなかなかできない。だから茶飲み友達というのは、これは至れるものなのである。苦楽を共にしてきて、夫婦がいい年齢になって、しみじみと人生の理法を、道理を話し合えるというのが茶飲み友達。これはやっぱり老境に至らんと駄目であります。 ---引用はここまでです--- ★ ★ ★ 淡として水の如し、というと味がないものに思えるが、水が味を出すのではなく、水から味を多彩に引き出すのが淡の味わいなのである。 つまり、経験から、水をいかようにも味わうことができるのである。これは味に囚われるのではなく、味覚を自由自在に操れるということなんである。味を客観視することで可能になる。 静のなかに動がある。動のなかに静がある。 子どものときは、子どもなりの運動というものがあるから、強制しては、その動を殺す羽目になる。
2016年03月01日
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