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先日、不倫をした夫を、エタノールで消毒し、炎上させた事件があったが、不倫をエタノールで消毒するというバカげた発想がどこからくるのか、あまりにお笑い沙汰で、その危険な発想に気づいていないが、この発想が唯物論にあることは一目瞭然である。 このような危険な発想を巷では、不可解な意味でオカルトと呼びたがるが、浮気性がエタノールで消毒できる、という唯物論の思い上がりというか、思い込みの方が非常に危険で不可解である。 そもそもエタノールがなぜ消毒となるのか、お酒のアルコールとして人体に摂取すれば、消毒どころか、害毒なのは、エタノールの殺菌性を厳密に理解していないことにある。 良いものも時と場合により悪いものになる。 また先日、TVで心臓を移植された人が、心臓を提供した人の性格や記憶を受け継ぐ、というのをみた。現代科学では不可思議な現象は、以前からオカルトでは大抵有名な話で、人智学では、心臓を単なるポンプとは見做していないので、この現象を理論的に解き明かすことができる。 古代エジプトの壁画に描かれている最後の審判では、死後、人間は、心臓のアストラル体を取り出され、天秤の皿におかれ、他方の皿には、天使の翼を置かれ、天秤で心臓と翼を比較され、天国に行くのか、地獄に堕ちるのか、が決定されるという。 エジプトのピラミッドは、いわば霊界との通信タワーで、現代でいえば、東京タワーや、スカイツリーといえる。つまり、情報発信基地なのである。 人智学では、心臓には死者の生前の行いが記録されている、のがわかっている。だから、心臓を移植すると、移植された人は、提供した人の人生の記録をある程度受け継ぐ事になる。 だからピラミッドはこの世とあの世を結ぶ地上の心臓であり、地球の心臓であるので、動物のなかでも心臓が強靭な百獣の王ライオンが、スフィンクスとして門番をしているわけなのである。 また、サッカー番組で、気象と病気の関係を研究している医師が紹介されていたが、人智学では、そのような話を既に約100年前に解き明かしているわけで、ようやく人智学に、最近の唯物論を土台とした医学が近づいてきたといえるだろう。 唯物論に対して、唯物論を超える現象が頻繁に認識されるようになってきた。唯物論は、覚醒意識を発達させるのには、よい教材で、実際、唯物論により、人間は肉体を通じて、自己認識を確立し、所有概念を社会に定着させてきた。 覚醒意識がいまだ未開な地域では、自己認識や所有概念が曖昧なので、はっきりした区別がなく、公私混同が多い。だから、覚醒意識においては、ある意味、共産主義は、古い概念で、資本主義は、新しい概念といえるのだが、それが行き過ぎると、自己と所有を肥大化させてしまい、この国のアホバカ総理のように、国家の私物化につながり、覚醒意識を前進させずにかえって後退させてしまう。 過ぎたるは猶及ばざるが如し 動物では、覚醒意識が未発達なのは、自己認識や所有概念に乏しいのでわかるが、潜在意識で行動しているので、自然の変化などを細かく感知でき、霊能力に通じる特異な能力を活用できる。 人間の場合、覚醒意識を発達させ、自己認識や所有概念を持ちながらも、自分と異なる相手とも仲良くやっていけるように、相手の気持ちを細かく読み取る能力を身に着けるのが、いまの進化段階の目的である。 覚醒意識を自己だけでなく、自己を通じて他者や地球、宇宙へと細かく読み取る能力を獲得するのが、現代の課題なのである。端的にいえば、心理学と物理学を統一する事といえる。 面白い事に、量子力学では、人間が観測してはじめて素粒子の電子は、粒子として存在する、といわれている。それを発展させた場の理論では、粒子と場は量子化という観測の数学的手続きによって交換可能とわかっている。 数学的に心理を記述できれば、量子力学は、量子心理力学になり、人智学でいうエーテル体を記述できるだろう。 現代物理学の素粒子論では、お馴染みの量子力学から場の理論、更には超弦理論まで、波動を用いて全宇宙を理解する理論が追求されてきた。 量子力学を加味した量子医学を考えると、恐らく人智学を用いた医学と一致してくるように思われる。超音波などの波動で物質を生成したり、消滅させたりできるように、物質は波動から生まれる事を考えれば、霊とは波動と考えることができる。 そういうわけで、以前、人智学的医術についてのシュタイナーの講義を終わりの方から紹介してきたが、やはりそれだと、なかなかわかりにくいので、改めて、最初からできるだけわかりやすい言葉に置き換えて、紹介する。 何度もいうが、原文がドイツ語で、その訳もかなり堅苦しいので、どうしても理屈っぽい文体になってしまうのを、なるべくわかりやすい話し言葉に置き換えているが、これがなかなか難儀なので、ご容赦いただきたい。 特にホメオパシーの説明については、苦労している。世間に広まっているホメオパシーは曲解されたもので、シュタイナーの説明を理解すれば、エーテルの4次元世界であることがわかり、現代いうなら、免疫学に近いものである。 以前、免疫を、カオスの数式で記述しようとしたが、なかなか厄介なので、挫折したが、自己免疫疾患の秩序過剰状態と、免疫不全症のカオス状態の、2つの対極の間の動的平衡が、免疫が健全な状態で、カオスの縁にあたるのを漠然と定式化したことがある。 というわけで、シュタイナーの人智学的医術を紹介する。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー 「人智学と医学」 第1講 1920年 3月21日 ドルナハ *1998.11.21.改訳-------------------------------------------------------------------------------- 多くの人々が、未来の医療に期待しているが、この講義では、そのごく僅かしか触れない。というのも、将来確実な医療活動は、現行の医学研究の改革に関わってくるからである。 たった1度の講義では、せいぜい数百人に、医学研究の改革に参画しようとする意欲を起こさせるぐらいで、改革を促進するにはほど遠い。 とはいえ、今日議論されている医学や医療活動が、その背景として、解剖学、生理学などにより準備されてきた診断や治療法からなり、このような準備を通じて、医師たちの考え方が最初から特定の方向に導かれているので、何よりもまず、このような方向から離れてみるのが肝要だからである。 今回の連続講義の目的と理念に到達する為に、これから考察すべき事を、以下のようなプログラムに分類する。 第1に、今日一般に行われている研究において、病気の本質の把握を阻んでいる幾つかの事柄を提示する。 第2に、医療活動の真の基盤となり得る人間の認識を、どのような方向に求めるべきかを示す。 そして第3に、人間と、外界との関係を正しく認識する事による、合理的な治療法の可能性を指摘する。その際に、完治が可能なのか、目指すべきなのか、という疑問に答える。 更に第4番目に(この考察の一番重要なところで、上記の3つの観点に組み込む必要がある)、参加者自身の希望、すなわち聞いてみたい事、この講義で述べて欲しい事を提出してもらい、この第4番目によって、第3番目までに取り入れられるべき疑問や不満をなくすようにする。 だから、質問、希望として書かれた疑問や不満が解決できるように、この講義を構成し、参加者と一体となって、この講義のなかで解決していくのが良いだろう。 今回は、最初なので、前置き、方向づけの考察にとどめる。まずは、主として、いわば霊学=人智学による考察から、患者の治療に役立つ知識を結集するよう努める。この講義の内容が、従来の医学の講義と混同されるのを望まないが、医師にとって重要な知識を考察していきたい。 というのも、真の医学、もしくは医術とは、やはり人智学から暗示してきた霊的な知見を、医学、もしくは医術の構築の為に活用する事で達成されるからである。 さて、では第1段階の、方向づけを考える。医師に提示される多くの課題を考えると、「病気、病人とは、一体そもそも何なのか?」という疑問に1度ならず出くわすだろう。 病気や病人について書かれた文章を、実際に見ると、様々に客観的な言葉などが挿入され、それらに覆われた記述がなされているが、結局、要約すれば、次のような説明以上のものにはお目にかからない。 「病気は、正常な活動からの逸脱である。正常な活動に適合しない、ある事実により、正常な活動に変化が引き起こされる。そして、病気の本質は、この活動の変化に結びついた肉体への機能的な障害にある。」 しかし、この説明は、病気を否定的にみている。病気と関わる事で、少なくとも何らかの援助を生むようなものではない。何にも増して注目すべきなのは、病気と関わる際に、実際に援助となり得る事である。 (シュタイナーは、病気に罹る事で、その病気への耐性力を獲得できる、と述べている。耐性力が、生命力の糧になる。たとえ、病気で死んでしまっても、来世の肉体で獲得する、というのである。後で、説明される。 というと、病気を他力で治してはいけないように錯覚されるかもしれないが、他者を助けることで、自分も助かるので、病人を人類共通の主題として捉えるべきである。) この分野での標準に到達するには、やはり、時代の流れのなかで成立してきた病気に関する見解に注目するのが良い。 これが現代における病気という現象の把握に是非とも必要に思うだけでなく、病気についての古くからの見解が、なおも現代にまで通じているが、この古い見解を考慮すれば、この講義の方向付けも容易になるからである。 通常、医学史が考察される際、5世紀と6世紀の古代ギリシアにおける医学の成立と、ヒポクラテス(1;Hippokrates 紀元前460-377)が指摘される。 そしてその際、ヒポクラテスの見解として少なくとも現れ、その後、いわゆる体液病理学へと続き、根本的には19世紀に入ってもなお、ある程度重視されてきた事により、あたかも西洋で本格的な医学が展開され始めたかのように感じさせられるだろう。 しかしながら、この事が既に、現代人が犯す最初の根本的な誤謬であり、これは実際根本において、後々まで影響を残し、今日でもなお、病気の本質について囚われのない見解に至るのを妨げている。この根本的な誤謬を、まず取り除く必要がある。 他ならぬ、このヒポクラテスの見解を、囚われなく見れる人には、この見解は、ロキタンスキー(2;Karl Freiherr von Rokitansky 1804-1878 病理解剖学教授。『病理解剖学教本』3巻、ウィーン、1842-1846 )に至っても、つまり19世紀に入っても、ある程度重視されているが、このヒポクラテスの見解は、始まりではなく、同時に、しかも大変重要な意味において、古くからの医学観の終焉なのである。 いわば、ヒポクラテスから始まる見解において、古代の医学観の、最後の濾過された残滓に出会う。これら古代の医学観は、今日、現代人が探究する方法、つまり解剖学的方法によっては獲得されず、古代から隔世遺伝的に継承されてきた霊能力によって獲得されたものである。 (ここでいう古代の医学観とは、古代アトランティス時代の医学である。シュタイナー曰く、エーテルの医学で、当時は、エーテル体をみることで、病気を治したという。随分と形骸化したが、その流れは漢方に見られる。) ヒポクラテスの医学の位置づけを、まず現代の抽象論で特徴づけようとすると、ヒポクラテス医学をもって、古代から隔世遺伝的に継承されてきた霊能力に基づく医学が終わりを遂げた、と記述するのが一番良いだろう。 資料史的に言って、尤も資料史的にしか言われていないが、ヒポクラテス派は、人体において共に作用している体液の適正でない混合のなかに、あらゆる病気の本質を探究していた、と言われている。 彼らが指摘したのは、正常な人体では、体液がある一定の比率を保っていなければならず、病んだ人体の体液は、この比率からのズレが生じる、ということだった。 そして、適正な混合をクラーシス[Krasis]、不適正な混合をディスクラーシス[Diskrasis]と呼んだ。 さて、それから当然、再び適正な比率に戻るように、不適正な混合に働きかけようとする試みがなされた。外界の自然を構成するものとみなされた4つの要素は、土、水、空気、火(火といっても、今日の熱=エネルギーのことだが)である。 人体では(動物でも)、これらの4つの要素は、黒胆汁、黄胆汁、粘液、血液として特徴づけられると見なされた。そして、4つの血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁が適正に混合される事から、人体は機能しなければならないと、考えられた。 さて、現代人が、できる限りの科学的準備で、上述のような観点にアプローチするなら、次のように考えるだろう。 「4つの血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の適切な混合とは、これら4つの特性を、化学的に内在する因子が、適切な配分で確認できるような化学結合則に従って混合することである。」 実際、このような観点に照らして、あたかもヒポクラテス派も、このような現代科学的な方法で、血液、粘液他を見ていたかのように、体液病理学が端を発した、と想定されている。 しかし、上述の観点は全て間違いである。 化学的に考えたのは、4つではなく、そのうちのただ1つの要素であり、現代人にとっては、最もヒポクラテス的に思われる黒胆汁(土;固体)にのみ、今日の化学の特性で作用する、と考えていたのである。 (というのは、黒胆汁とは、今でいう肉体=物質体のことだからである。恐らく、量子力学で有名な実験の、黒体輻射の熱吸収という意味から名づけたのだろうと勘ぐっている。) 他の3つ、白胆汁もしく黄胆汁、粘液、血液については、化学反応により確認できる特性を考えていたわけではなく、人体の液体要素(いまは人体に限定し、動物は考慮しない)といっても、地上にはない、各々の波動の特性を考えていた。 つまるところ、水、空気、熱が、地上以外の大気や宇宙の力にも依存するように考える、のと同じように、人体の液体要素も、地球の外からやって来る(波動=放射線)力に浸透されている、と考えたのである。 このような地球の外(つまり天)からやって来る力への視点は、西洋科学の発展に伴って、全く失われてしまった。 だから、水について、今日の科学者が、化学的に検証できる特性だけでなく、水が人体に働きかける影響から、地球外の宇宙に属する特性も含み持つようになる、と考えるなら、奇妙なオカルトに思えるだろう。 (心臓移植で、提供者の記憶が、移植者に移植されるのを、奇妙なオカルトに思うのと同じ。) 古代人の見解では、人体の液体要素を通じて、人体の中へと、宇宙(天)に由来する力がもたらされる、と考えていた。この宇宙に由来する力は、次第に考えられなくなっていった。 (通常、重力の影響は医学では骨折などを除いて、あまり考慮されないのと同じ。) とはいえ、15世紀までの医学はまだ、ヒポクラテスにおいて出会う濾過された、いわば残滓になる前の見解に基づいていた。従って、今日の科学者には、15世紀以前の医学の古文献を、そもそも理解するのは困難なのである。というのも、当時、それを書いた人の大多数が、自分で書いたものを、今のように抽象論で系統的に、秩序立てて理解などしていなかったからである。 古代人は、人体の4つの基本要素について語ったが、これらの基本要素を、様々に特徴づけた根拠は、ヒポクラテスとともに没落してしまった霊的な叡智へと本来は遡れるのである。このような叡智から、人体に及ぼされる宇宙の作用、人体を構成する液体の特性について語られていた。 従って、ガレノス(3;Claudius Galenus 131-200頃 ガレノス著作全集20巻、ライプツィヒ、1821-1833)により成立し、その後15世紀に至るまで影響を及ぼした医学観は、基本的に、次第に理解不能になっていった古代遺産の組み合わせなのである。 しかしながら、古代遺産の残滓からまだ認識できた人が常に少数いた。つまり彼らは、化学、もしくは物理的に確認できる、地上の作用に汲み尽くされない宇宙からの作用が指摘できるのを知っていたのである。 人体には、化学合成とは別な形で、その中の液体(波動)性を働かせる宇宙からの(波動=放射)力が指摘され得る、のを知っていた人たち、つまり世に知られた体液病理学と闘った人たちの中に、パラケルスス(4:Philippus Aureolus Paracelsus ,Theophratus von Hohenheim 1493-1541 著作全集多数、例えばSudhoff版)と、ファン・ヘルモント(5;Johann Baptist van Helmont 1577-1644)など、他の名前を挙げることもできるが、がいた。 彼らは丁度15、16世紀から17世紀への変わり目に、言うならば他の大多数の人たちが、もはや表現しなくなった力を、明確に表現する事で、医学的思考の中に新たな動向をもたらしたが、この表現のなかには、霊視力を幾らかもっていた時代にのみ追求し得たものも含まれていた。実際、パラケルススとファン・ヘルモントが見霊者であったのは明らかである。 以上の事柄を明確にしておく必要がある。さもなければ、今日なお医学用語に定着しているが、その起源については、もはや全く知られていないものについても理解できないだろう。 こうして、パラケルススと後に彼の影響を受けた人たちは、宇宙からの人体での作用素として、アルケウス[Archaeus](6;著『Opus paramirum』)というものを想定した。人智学者がエーテル体について語るように、彼は、このアルケウスを想定したのである。 パラケルススのように、アルケウスについて語るなら、人智学者がエーテル体について語るように、存在しているが、その起源については追求されていないものが、人体統合の補完体として現れる。というのも、エーテル体(アルケウス)の起源を追求するなら、次のような方法をとらざるをえないからである。 「人間は、地上から働く力から本質的に構成される物質体をもつ。」 人間の物質体は、いわば地球から、切り取られた一断片である。そして人智学者の言うエーテル体、つまりパラケルススの言うアルケウスは、地球には属さない、すなわち宇宙のあらゆる方向から地上へと働く作用の一断片である。 つまるところ、パラケルススは、古代では宇宙(天)から人体に働く力とみなされ、ヒポクラテス医学とともに没落した、物質体の根底にあるエーテルという見解から、人体を統合的に見たわけである。 パラケルススは、このアルケウスが、地上を越えた、どのような力と関係しているのか、個別的に暗示したが、それ以上は研究しなかった。 さて、当時、根源的な意味をもっていた事が、次第に理解されなくなっていった。とりわけ、この事が明白になってくるのは、17、18世紀と進んで、シュタール医学(7;Georg Ernst Stahl 1577-1644)に出会う時である。 シュタール医学に至っては、この宇宙の地球への作用については、もはや全く理解されていない。シュタール医学では、純粋に空気中に漂う、あらゆる可能な、生命力、生命霊に関する概念を利用する。 パラケルススとファン・ヘルモントは、人間の霊魂と、物質体との違いについて、まだある程度意識的に語っていたが、シュタールとその信奉者たちは、あたかも意識や霊魂が別の形をとって、人体に働きかけるか、のように語った。この曖昧さにより、強い反動を呼び起こした。 というのも、シュタールのような方法で、仮説的な生気論を打ち立てると、結局は、純粋に恣意的な提示になってしまうからである。このような提示に、とりわけ強く対抗したのは19世紀である。 例えば、エルンスト・ヘッケル(8;Ernst Haeckel 1834-1919)の師で1858年に亡くなったヨハネス・ミュラー(9;Johannes Mueller 1801-1858 ベルリン大学生理学教授)のような偉大な精神のみが、このような人体に関する「不明確な表現」に由来する害悪を克服し、乗り越えていった。 この「不明確な表現」とは、人体に働く生命力が、実際、どのように作用しているのかを、明白に考えずに、もっぱら霊魂について語るようになってしまった事を指す。 さて、こうした事が起こっている間に、全く別の流れが現れてきた。今までは、いわば消え去っていく叡智の最後の余波までを追求してきたが、近代とともに、とりわけ19世紀の医学の概念形成にとって、今度は別の形で決定的となったものが到来した。 結局、それは18世紀の、法外に強力な決定的影響を与えた唯一の著作、パドゥアの医師モルガーニ(10;Giovanni Battista Morgani 1682-1771)の『解剖所見による病気の所在とその原因について』に遡る。 モルガーニとともに、医学の根本において唯物主義の傾向を導入した観点が到来した。 このような事を、共感、反感を交えずに客観的に特徴づける必要がある。というのも、この著作とともに到来した考えは、人体が病んだ結果に目を向けさせるものだからである。決定的となったのは、死体鑑定だった。死体鑑定が決定的となったのは、実際、この時代からである。 死体から、病名が何であれ、何らかの病気に罹ると、いずれかの器官が何らかの変化を蒙る、という事を知った。この時代から、何らかの変化を、他ならぬ死体鑑定から研究するのが始まった。実際、この時代からはじめて病理学的、解剖学が始まる。他方、医学のなかに、従来あった治療法は、なおも古代の霊視力に依拠していた。 さて興味深いのは、言うなれば、大きな転換が、それから一挙に最終的に起こった事である。実際、それは直接、20世紀に示せる。興味深いことに、20世紀に大きな転換が成し遂げられ、それによって古くからの遺産としてまだ残っていた治療法などが捨て去られ、更に現代の医学制度の土台となる原子論的-唯物論的な見解が基礎付けられたのである。 少し努力して、1842年に出版されたロキタンスキーの『病理学的解剖学』を調べてみれば、ロキタンスキーにおいてはまだ、古代の体液病理学の名残り、つまり病気は体液の正常でない相互作用に基づく、という見解の名残りが残っているのがわかるだろう。 このような体液の混合に注目せねばならないとする見解(この見解は、地球外からくる特性についての叡智の遺産をもっていた時代だけに通用するが)は、ロキタンスキーの非常に機知に富んだ手法で、人体の器官変化の観察に結びつけて診断された。 つまり、ロキタンスキーの書物は、元来、常に死体鑑定による器官変化の観察を根拠としているが、このような特殊な器官変化は体液の異常な混合の影響によって生じた、という指摘と結びついている。だから、古代の体液病理学の遺産から現れた最後の見解は、1842年にはまだ存在していた。 この古代の体液病理学の没落の中に、例えばハーネマン(12;Christian Friedrich Samuel Hahnemann 1755-1843 ホメオパシー[Homoeopathie]の創始者。主著『合理的治療学のオルガノン』ドレスデン、1810)のホメオパシーのような、病気を包括的に捉える、という未来志向的な見解が、投入された事については後ほど述べていく。 このハーネマンのホメオパシーは、前置きで取りあげるには、あまりに重要なので、まずは同様の治療法との関係を述べ、それから個別的に議論していきたい。 さて今度は、ロキタンスキーの『病理学的解剖学』出版後の20年間が、今日の医学の本質である原子論的-唯物論的な考察にとって基礎となる期間となった事に注目してみたい。古くから、奇妙にも、19世紀前半につくられた医学観の中になおも入り込んでいる。 だから、例えば、植物細胞の発見者の、シュワン(13;Theodor Schwann 1810-1882 リエージュ、およびレーヴェン大学解剖学-生理学教授。主著『動物と植物における構造と成長の一致に関する顕微鏡研究』ベルリン、1839)はなお、細胞形成の根底には、胚胞とみなせる、不定な液体の形成がある、という見解を持っているが、この液体から細胞の核が硬化し、細胞原形質が周囲に分化する、という考えがなおも観察できるのは非常に興味深い。 シュワンの見解がなお、人体が分化していく特性を、体内の液体の性質に依拠している事、そして、この分化を通して細胞が発生するとしている、のが観察できるのが興味深い。更に興味を惹くのは、人体は細胞から構成されている、という言葉で総括し得る見解が、その後、次第に形成されていくのが追求できる事にある。 細胞は基本生命体で、人体は細胞から構成されている、という見解は、実際今日当たり前になっている。 さて、シュワンがなおも、その行間に、いや行間以上にもっていた見解は、つまるところ古代の医学の最後の名残りなのである。というのも、この見解は原子論には当てはまらないからである。 この見解は、原子論で現れてくる細胞を、正確に観察すれば、決して原子ではない液体から細胞が生じてくる、という観察を基にしている。この液体が、内部に生命力をもち、生命力自らが、原子のような細胞へと分化していく、というのである。 19世紀の40年代と50年代の、この20年間に普遍であった古代の見解は終焉に向かい、原子論的な医学の見解が黎明を迎える。1858年にウィルヒョウ(14;Rudolf Virchow 1821-1902)の『細胞病理学』が出版されたのが、正しくその時だった。 実際、この2つの著作、つまり1842年のロキタンスキーによる『病理学的解剖学』と、1858年のウィルヒョウの『細胞病理学』の間に、近代の医学的思考の、大きな飛躍的な転回を見つける事ができる。 この細胞病理学により根本的に、人体に現れてくる病気などは、細胞の変化から推論されるようになる。公式的な見解に従って、人体の変化全てを細胞変化に基づいて構築する事が、この時から理想とみなされる。 ある器官の細胞変化を研究し、この細胞変化から、病気を理解しようとする理想が見つけられる。こうした原子論的な観察法は実際に容易といえる。つまるところ、それは自明の理とでも言える。このように容易に理解できるように理論をつくれる。 このようにして、近代科学は、あらゆる進歩を遂げたとはいえ、この科学は相も変わらず、全てを容易に理解するのを目指し、自然や宇宙の本質が実は究めて複雑である、という事実を考慮しない。 さて、この細胞理論は容易に実験で確かめられる。例えばアメーバは水中で、その形を変化させ、腕のような突起を伸ばしたり、また縮めたりする。アメーバが泳いでいる水を温めると、ある特定の温度になるまでは、突起を伸ばしたり縮めたりするのが、徐々に活発になるのがわかる。 しかし、特定の温度をすぎた後、もはや周囲で起こっている水の変化についていけなくなり、アメーバは収縮してしまう。 また、この液体のなかに流れを作り出すと、アメーバは球状になり、流れを強くし過ぎると、最後には破裂が観察される。このように個々の細胞が環境の影響によって、どのように変化するか、を研究し、その例から、いかに細胞の変化により次第に病気の本質がつくられるか、という理論ができる。 この20年間に起こった転回により到来した細胞論の本質とは何なのか? この理論により生じた見解は、今日公認された医学概念全てを貫く中に、実際生き続けている。この中に生きているのはやはり、唯物論の時代につくられた、この世を原子論的に理解しようとする傾向に他ならない。 さて、今日の医学に携わる人が必然的に、「病気とは一体そもそも何なのか?」という疑問に出くわす事から出発した。 病気は、人体の正常な状態から、一体どのように区別できるのか? このような疑問を正しく認識すれば、正常からの逸脱について、肯定的(ポジティブ)な見解も可能なのに、公認の科学では、この疑問への解答が、結局、否定的(ネガティブ)になってしまっている。もっぱら、正常からの逸脱がある、と否定的に指摘するのである。 それから、この逸脱を、どうやって取り除くかが試される。けれども人間の本質についての透徹した見解がない。人間の本質への透徹した見解が欠けているので、根本的に、現代の医学的見解が病んでいる、といえる。 では一体、病気とは何なのか? 病気の経過も、やはり宇宙全体からみれば、自然の活動と言わざるを得ない。外界で進行し、その結果を追求できる何らかの自然の活動と、病気との間に、即座に、抽象的な区別ができないからである。 自然の活動を正常と称し、病気を異常と称するが、その際、人体の病気が、なぜ異常なのかについては注意しない。少なくとも、病気がなぜ異常なのか、を説明できなくては、実践に移れない。 説明できてはじめて、病気を、いかにして終結に導くかが探究できる。説明できてはじめて、宇宙の、どの一隅から、病気の進行を取り除けるのか、という問題に到達できるからである。 つまるところ、病気を異常とみなす自体が妨げになる。一体何故、人体における相当数の活動が異常とみなされる必要があるのか? 例えば、指を切ったとしても、自然と比べて人間にとって相対的に異常というだけなのである。自分の指を切るのではなく、一片の木材を、ある形に切るなら、正常な活動といえるからである。 自分の指を切ると、異常と呼ぶわけである。自分の指を切る、のとは全く違う正常な活動に慣れてしまっているので、異常が何なのか、それ以上何も語れない。通常見られない活動を、「異常」と呼ぶ、単なる言葉遊びが広まっているにすぎない。 というのも、自分の指を切る活動は、自然からすれば、他の何らかの自然の活動と同様に正常と言えるからである。 さて、次のような疑問に到達するのが課題である。 病気と呼んではいるが、根本の自然では正常な活動で、ただ特別な原因により引き起こされた活動と、健康とみなしている日常的な活動との、この人体の2つの活動の間に、どのような差異があるのか、ということである。 この2つの活動の間にある決定的な差異を見つけ出さなければならない。この差異は、人間の本質へと導く観察法にまで到達できなければ、見つける事はできないだろう。この導入部において、その為に、少なくとも最初の基礎を示しておく。その後、改めて個別的に詳しく述べていく。 今回のような、回数の限られた講義では、主として、通常の書物や講義では話題にならない事を述べている。けれども、その前提となるのは、通常の書物や講義では普通に話題となる事である。 通常お馴染みの理論を並べ立てるのは、さして価値がある、とも思えないので、人間の骨格と、高等生物のサルであるゴリラの骨格を以下に挙げて、比較し、明らかになる差異に言及してみる。 両者の骨格を純粋に外見上比較してみると、その本質として、ゴリラの場合には、もっぱら下顎全体が特に大きく発達しているのに気づく。この下顎の大きさは、頭骨全体に、負荷をかけている(下図参照)。 ゴリラの頭部を、その大きな下顎とともに見ると、この下顎には何らかの力による負荷が掛かっていて、骨格全体が前に突き出て、ゴリラは、言うなれば、とりわけ下顎で働いている、この負荷に逆らって、幾分苦労して直立している、と感じられる。 手を伴う前膊部の骨格にも目を向けると、ゴリラと同じ負荷を、人間の骨格にも見い出せる。この骨格部には、重力が作用する(負荷がかかる)が、ゴリラは全体的に嵩張っているのに対し、人間は精密繊細に分化している。 人間の手の骨格は、ゴリラほど骨量が目立たない。下顎と、指を伴う前膊部において、人間では骨量が目立たず、ゴリラでは骨量が目立つ(豊富)。このような関係に対して観察眼を鋭くすれば、足及び下肢の骨格にも同様の骨量の差異を追求できる。 以上のように、ある特定の方向に圧力をかける、いわば負荷的な力がある。この負荷的な力(この力は下顎組織、腕の組織、脚および足の組織に見出せるが)を、矢印(→)によって図式的に描いてみる。(下図の左) ゴリラと人間の骨格の比較から差異として現れてくる事、すなわち、人間では下顎が後退し、もはやそれほど負荷がかからず、腕及び指の骨格が精密に形成されている点に注目すれば、人間では至る所で、負荷に対抗し、上昇力が働いているのがわかる。 人間では、力の合力をつくる平行四辺形からわかる力を想定する必要がある。この上昇力から下顎の後退が生じ、ゴリラでは、この上昇力は、外の下顎に吸収され、ゴリラが直立しようとする際の負荷となる、その努力のなかに見つけられる。このようにして、以上の矢印(→)で描かれた平行四辺形が得られる。(上図の右) さて究めて奇妙なのは、今日、通常、高等動物の骨格、或いは筋肉を、人間のものと限定し比較した際、これらの変化に重点を置かない事である。本質的な差異は、このような骨格の変化を見る中に求める必要がある。ゴリラの骨格の形成力に逆らって働くような力がなくてはならないからである。 実際、骨格などの形成力に逆らう力が存在せねばならず、このような力が働いていなければならない。このような力を探すなら、古代の医学が、ヒポクラテス的な体系によって濾過された際に、捨て去られた叡智を再び見つける事になる。 更に、この骨格の形成力に逆らう力は、地上の自然力の平行四辺形の中にあって、地上の力と合成された結果、地上の力を起源とせず、地上を超えた、地球外(天)の力を起源とするのがわかる。 このような上昇力を、地上の外に求める必要がある。人間に直立姿勢をもたらした牽引力を求めなければならないが、この牽引力は、高等動物にも、ときおり見られるような直立姿勢をもたらすのみでなく、骨格形成力となっている。 サルも直立歩行するが、それに逆らって骨量に働く力をもつかどうか、もしくは、人間では、骨形成が地上に起源を持つ力の方向に作用しているかどうか、が相違点なのである。 人間の骨格の形を正しく見れれば、個々の骨を記述でき、動物の骨との比較に限定されることはない。人間の骨格構造を支えている力学を追求すれば、地球に見つけることはできない。 地上の力とはいえない、この上昇力は、地上の力と合わせて力の平行四辺形を作るが、単に、外界の自然にある力に注目するだけでは発見できない合力が成立している。だから、動物から人間への、この飛躍を一度明確に追求することが重要となる。 そうすれば人間のみならず動物にも、病気の起源が見つかるだろう。このような起源を、少しづつしか指摘できないが、更に進むうちに、非常に多くが発見できるようになるだろう。 さて以上の説明と関係する事を述べる。骨から筋肉に移ると、筋肉の本質にも重要な差異が見つかる。つまり、通常の化学的作用に留意するなら、静止している筋肉はアルカリ性の反応を示す事がわかる。ただし、静止している筋肉のアルカリ反応は、明確に現れないので、アルカリ性に似た反応と言えるだけである。 活動している筋肉もやはり、あまり明確でないが、酸性の反応が現れる。さて考えてみると、当然ながら、筋肉は、人間が摂取したものから新陳代謝に応じて構成される。つまり筋肉はいわば、地上の物質の中に存在する力の成果なのである。 しかし、人間が活動し始めると同時に、筋肉が日常の新陳代謝の支配下にあることにより、筋肉として人体のなかにある地上の物質力が、次第に明確になっていき、克服できるようになる。つまり、筋肉に変化が現れる。 つまるところ、この筋肉の変化は、日常の新陳代謝に応じた変化として、人間の骨形成に関わる(上昇)力と比較できる。 人間では、骨形成に関わる(上昇)力と比較できる力が、外から摂取した地上の力を越えていくように、また、骨形成に関わる力と比較できる(上昇)力が、地上の力と合一して合力を形成するように、筋肉のなかの新陳代謝として現れる(上昇)力と同時に、地上の化学作用にも目を向ける必要がある。 もはや地上には見つからない力が、地上の力学に影響を及ぼしている。新陳代謝では、地上の化学の中に、地上にはない化学、つまり地上の化学の影響下の作用とは全く別の作用がみられる。 人体の本質を見るなら、骨格などの外見の観察と、筋肉などの生命体の質の観察を出発点とすべきだろう。そして再び、失われた叡智への帰路が、病気の本質を、唯物的に定義するだけにとどまらず、必須の霊能力への帰路を開かせるだろう。 実際に、唯物的な定義のみでは、治療に関して多くを手掛けられないだろう。というのも、非常に重大な問題が発生するからである。人類は根本的に、地上の周囲の環境から、薬を取り入れてきたし、薬で、病気と呼ばれる人体の変化に働きかけてきた。 けれども人体には、地上にはない力、或いは、少なくとも、地上の力を、地上にはないものにする力が働いている。従って、次のような疑問が生じるだろう、 「病んだ人体と、地球の物質的環境との間に、いかに相互関係を生じさせ、病気から健康へと相互作用を、いかに導けばよいのか?」 つまり、いかに相互関係を生じさせ、この相互関係を通じて、実際に、人体の中で働いている、宇宙(天)からの力に影響を及ぼしたらいいのか、という疑問である。 宇宙(天)からの力は、たとえ食餌療法などの新陳代謝に影響を与えても、外界から薬を選べるような働きは見えてこない。 最終的に特定の治療法へと導くには、人間の本質を正しく把握する事に密接に関わり合っているのがわかるだろう。そして、人類を、この疑問への解決に導くための、最初の知識を、人間と動物の骨格の差異から意識的に取り上げた。 例えば、「動物だって病気になり、ときには、植物も病気になるではないか(鉱物の病気すら議論されている)、だから病気について、動物と人間を区別すべきではない」というような反論は容易だが、このような反論は、講義の内容を理解すればなくなるだろう。 人間の医学を発展させる目的で、動物の本性を調査するのを、長年続けてみても、得るところが少ないと、医師たちにわかってくると、この差異が認められるだろう。 人間の治療の為に、動物実験から達成できる事が、若干存在するのも確かだが(その理由はいずれ判明するだろう)、それはやはり、動物と人間の生体間の極めて細部に至るまで、根本的な差異について、徹底して明確に認識されている場合に限られる。 従って、問題となるのは、医学の発展のための動物実験の意味を、それに相応しい方法で益々明確にしていくことにある。 更に、引き続き注意すべきなのは、このような地上を超えた力を指摘しなければならない場合には、客観的な自然法則を用いて指摘するよりも遥かに、病気をみる側の人間の能力や人格(徳性)が要求されることが多い、ということである。 重要なのは、医学の本質を、霊能力で調整すること、何らかの関係から病気、もしくは健康となっている、個々の人体の本質を、外見から推論する能力や観察のための直観が鍛えられている事が、医学の発展、また未来に向け、より一層大きな役割を果たすだろう。 このような事柄は、先に述べたように、前置きや方向付けとして役立てようと思う。というのも、今回は通常の化学や解剖学の比較では到達できない、つまり、人智学的な事実の観察へと移行した場合にのみ到達できる治療法に、医学は再び目を向ける必要があるのを示すのが主題だからである。この事に関して、今日まだ多くの錯誤に身を委ねている。 医学の霊化のためには、物質薬を、霊薬に置き換えるのが重要と考える人もいる。けれども、特定の領域で正しくても、全体としては正しくない。というのも、特に重要なのは、物質薬にどのような治療価値を置き得るのかを霊能力で認識すること、すなわち物質薬の評価に、人智学を適用する事だからである。 つまり、これが、先に挙げた、人間と外界との関係を認識する事による治療法の探求という課題となるだろう。 これから語るべき、特殊な治療法の、できるだけ基礎を確立したい為に、また個別の病気について、異常な経過と、正常な経過の違いについての見解が得られるように、あらゆる側面から考察する。 「病気の進行が、自然の経過と、どのように折り合っていくか」というような根本的な疑問が生じてくると、多くの人は、できる限り早く、この疑問を打ち消そうとする。 この点で興味深い事に、ベルンで教鞭をとっていたトロクスラー(15;Ignaz Paul Vital Troxler 1821-1902)は、既に19世紀前半に非常に熱心に次のような事を指摘していた。 「病気の正常(自然)な進行について探究すべきであり」、その進行により、ある方向、つまり、この世と結びつきながら、目に見えない穴を通って、この世へと浸透してくる、あの世についての、最終的な認知に到達するような方向へと導かれる事、そして、あの世の認知により、病気という現象に関して、何らかのものに到達し得る事を指摘していた。 いまは、大雑把な説明だけにするが、別の何らかの世界の法則からすれば正当な進行が、この世では病気という現象を引き起こすような、そのような世界が背後に存在するなら、その世界から、この物質界に浸透してくる、隠れた穴を通じて、その別の世界では正当な法則が、この物質界では災いを引き起こす事も可能なのである。 トロクスラーは、以上のような事を目指し、努力していた。たとえ、彼の述べた事が、多くの点で曖昧で不明確だったにせよ、彼が医学という学問の健全化を目指す道の途上にあった事は注目に値する。 かつて、私(シュタイナー)は、かのトロクスラーがベルンで教えていた頃、ある友人と、トロクスラーが同僚たちの中で、どのように見られていたか、また彼の提案によって何がなされたか、を調べてみた事があった。 しかし、大学の歴史について多くが記されている事典の中に、トロクスラーに関して、発見できた事は、ただ、彼が大学で何度も騒動を巻き起こした、というだけだった。記載は、それだけで、彼の学問上の意義については特別何も発見できなかった。 さて、今回は、以上だけを指摘するにとどまる。講義に対する要望から、この連続講義に必要な内容を整えるのは、最良の方法に思う。講義が実り多きものになるのを期待したい。(第1講・終了) 1-1 今回の講義『人智学的医術』の、本当の意味で、補足として理解されることを期待して述べたい。特に、この補足が、講義の内容を、治療への展望へと結晶化させることを、多少とも、もたらせたらよいと思う。 この補足では、努めて、講義でも考察対象とされた事実、つまり、病気により、完全な存在へと治療される人間(逆説的に聞こえるだろうが)を、別側面から注目していきたい。けれども、別側面から、この事実を観察することで、実際には、異なった観点に至るだけでなく、講義において観察した題材を拡張することにもなる。 つまり、この補足は、人智学者にはお馴染みの、物質体、エーテル体云々といった人体を構成する要素が、病気や治癒に、どのように関係するか、ということを示す。 この講義では、人間の霊魂の外への現われ方の記述だけに限定せざるを得なかったが、この補足では、外の、特に薬となり得る物質、そして、その物質が薬として作用できるのは、人体に対して、物質的な影響とは異なる影響を及ぼす事によるが、このような物質薬によって、上述の人体を構成する様々な要素が、どのような影響を受けるか、という事を述べていく。 ただ、ここで、直ちに、導入として、1つ前置きしておかなければならないことがある。 ★ ★ ★ 現代物理学では、量子論を通じて、並行宇宙が仮定されている。並行宇宙から、我々の宇宙に、やってくるものを感知するのが、心理の働きなのかもしれない。 心理を数学で記述する事が現代の学問の課題といえる。例えば、80%の確率と、20%の確率の違いが心理にどう影響するのか、また三角形をみると、どう心理に影響するのか、考えてみるのが重要である。 すると、感情を数理化できる。
2017年06月28日
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歴史は繰り返すというが、腹痛で政権を投げ出したアホがまたも腹痛で政権を投げ出そうとしているという噂で巷は持ちきりである。 歌舞伎役者の不幸に便乗してお涙頂戴の演出かと、悪巧みばかりしている連中のやることなので、勘ぐってしまう。なにしろ、共謀罪を通すために、国会での悪事の追及を誤魔化すために自己都合で国会を閉じるほどのインチキぶりだからである。 このようなインチキ内閣とその一味やゴミ売りこそ共謀罪を適用し獄中で改心させるのが国家国民のためではないかと思う。 出来の悪いバカ息子は都合が悪くなると逃げだすというが、まさに一国の宰相が逆境に耐えられずに逃げ出すのはこの国の不幸というか、そんなアホバカを選んできた国民の責任でもある。 しかし、一度腹痛で逃げたアホバカがまた総理になったのは、果たして本当に国民の責任といえるだろうか? インチキ政治家たちはなんでも国民のせいにして責任を転嫁するので、あらかじめなんでも国民のせいにできる論理で洗脳しているインチキ政治家たちが国民に説明責任を果たさずに、雲隠れして有耶無耶にすることが大問題なんである。 説明責任を果たせと、責任を転嫁して国会やゴミ売りを私物化して、森安の理事や加計の元文科省事務官を人格破壊にまでつながる罵倒をしておきながら、ブーメランになって、自分たちに返ってくると、さっさと逃げ出すというのは、卑怯者のなかの卑怯者がやることで、もはや人間とはいえない。 強 姦容疑を誤魔化しバレたインチキ御用学者と、元秘書にパワハラで、これまた説明責任から逃げ出し病欠している某議員のような人間失格のやり逃げ内閣とその輩たちと皆やることは卑劣で姑息で、とてもマトモだとは思えない悪魔たちである。 そのようなインチキに加担してきた日本会議と広報媒体となった参刑とゴミ売りはジャーナリスト失格なので、不買運動で廃刊に追い込むべきであろう。 いつまでもインチキ政権を罵倒しても仕方ないので、高尚な話に移りたい。 さて、シュタイナーは、出来立ての頃の地球は正四面体で、火山活動により、現在の球形となった、と述べているが、4つの点のうち1つが日本列島にあたる、とも述べている。 いまでも、主な火山帯をつなげていくと正四面体が現れることがわかり、4つの点のうち最も地震が多いのは日本列島であるようなので、そこに住む日本人は、天変地異に最も影響を受けている民といえよう。 さて、日本人と一括りによくいわれるが、八切史観からもわかるが、実際は多民族からなり、単一民族という幻想は、明治時代に長州からはじまった神道国家の影響が濃い。どうしてそのような間違った概念が広く浸透し、いまでも残っているのか、前回に続けて紹介するシュタイナーの話を読めばわかる。 シュタイナーは、日本には古代アトランティスの古い伝統が色濃く残っているので、次の人類の進化である個人主義が根付き難い、というような話をしているようである。 実際に、いまの日本社会をみると、この古く悪しき全体主義が至る処にみられる。特に、インチキ内閣の、森友、加計問題などは、ルシファーの日本会議による、血縁関係を基にした国家の全体主義化として捉えられる。 また巷を賑わしたアイドルグループのスマップの解散をみていると、個人の自由よりも、血縁関係が重視される弊害がみられる。 前回紹介したシュタイナーの話により、その精神は、まるで古代ギリシア人のようで、アテネ人の意識が濃く、いまでいえば、さながら、日本会議人や、ジャニーズ人、といえるもので、現代の個人主義がいまだ芽生えていないことがわかる。 それは、中世の意識をいまだにひきづっている弊害が大きい。この国の住人は看板は架け替えても、中身の精神は中世から進化できていないことは、勇気をもって、悪事を告白した人を組織全体で迫害したり、独立しようとする人の独立を阻んだりすることでわかる。 このままでは、世界の進化から取り残され、人類の進化段階から逸脱してしまう可能性が出てくる。悪いとわかっていながら改善できないでいるのは、人間の精神として進化できないことを意味する。つまり、益々堕天使の誘惑に負けて、仲間に加わっていく。 人智学では、第5アーリア文化期といわれている現代で発達させるべき精神の課題は、前回紹介したように、他人の痛みを感じるほど覚醒意識を研ぎ澄ますこと、個人主義を発展させ、思想の自由を認めること、そして、人の心が読み取れるほどの霊視を獲得すること、である。 というわけで、繰り返しになるかもしれないが、再び紹介を続ける。 ★ ★ ★ 第6(ロシア)文化期を準備する その2 ルドルフ・シュタイナー 1915年6月15日 デュッセルドルフ 過去になされた多くの神秘学の講義から、東ヨーロッパには、第6文化期に特別な使命をもつ民族が住むのを、人智学徒は知っている。東欧の住人は、第6文化期になるまで、霊魂の奥底に横たわっている新しい精神の基本となる徳性を明確に現わさない。 ロシアの諸民族は、霊魂のなかに潜む、この徳性を展開するのに、第6文化期を待たねば、その準備が成就しないのを無意識に知っている。 西ヨーロッパと中央ヨーロッパの使命は、意識魂を発展させる事で導入し得る徳性を注ぎ込む事である。この事は、東ヨーロッパの使命ではない。 東ヨーロッパは、霊我が地上に降りて来て、転生した霊魂に浸透できるまで待たねばならない。この人類進化計画は、正しく理解する必要がある。間違って理解したなら、逆に、東の住人を、驕りや傲慢へと導くだろう。 ポスト・アトランティス時代の文化の興隆は第5文化期に極められる。第6文化期と第7文化期では、その進化の下降期となる。にも関わらず、第6文化期の、この下降する進化により、霊我が霊感を吹き込み、浸透するだろう。 今日、東ヨーロッパの人たちは、本能的に、以上が真実と感じている。ただし、しばしば倒錯した本能から感じているので、以上のような意識は、大抵、極めて茫漠とし、混乱している。 「ロシア人」という言葉が頻繁に使われるのが、実に特徴的である。 西側で「イギリス人」、「フランス人」、「イタリア人」、「ドイツ人」と言って、個人を見分ける代わりに、東ヨーロッパの人たちが、「ロシア人」と言うと、個人というよりも、集合体の、集合魂が姿を現わす。 ロシアの知識層の多くが、「ロシア人」という表現法を大切にする。この事は、この独特の文化に関わる集合魂と深く関係している。この言葉は、共同体の上に広がり、同族とその成員の両方の意味を指す。 「ロシア人」という言葉に、「人」という「個人」の意味を含ませる事で、その成員という意味が示されているが、個人が、遠い未来に到達すべき高次の精神には、まだ到達していない、のも明らかである。この表現が、紛れもなく矛盾する意味を含む限り、共同体と個人の中間にある。 「ロシア人」という表現の「ロシア(の)」という形容詞が、「人」という名詞で表される個人を、実際には無効にしている。というのも、真の個人性に到達したなら、排他を示唆する形容詞が、個人の前につくはずがないからである。 しかし、それよりずっと深いレベルで、ロシアの知識層の成員には、共同体や親愛の概念の、来るべき時代において、主流となるべき理解が霊魂の奥底に横たわっている。 霊我は降下する事になっているが、それは親愛の意識に浸透された人たちの共同体の中にしか降下できない、霊我は親愛の意識を欠く共同体には広がりようがないと、ロシア人の霊魂は感じている。 このために、ロシアの知識層は、西ヨーロッパと中央ヨーロッパに、次のような非難を浴びせる。ロシアの知識層は次のように言う。 「貴方たちは、真の共同体に全く注意を払っていない。貴方たちは、個人主義しか育成しない。自立した人間になりたい。単なる個人になりたいだけなのだ! 貴方たちは、個性を通じて、1人1人が個人を感じ、それを極端に推し進めている。」 上述の発言は、東から、西や中央ヨーロッパへと、利己主義、退廃的等といった多くの非難のなかに反響している。現況を実感する、東の人たちは、西や中央ヨーロッパは、人のつながりへの感情を失ってしまった、と告発している。 東の住人は、現実と未来を混同して、次のように言う。 「真実で、純粋な共同体が存在するのは、ロシアをおいて他にない。誰もが、他者の兄弟、他者の「小さな父」、「小さな母」と感じる生活は、ロシアでしかありえない。」 西ヨーロッパのキリスト教は、本能から共同体を展開するのに失敗したが、ロシア人は共同体が何であるか、を知っていると、ロシアの知識層は言う。 アレクサンドロ・ヘルゼンは、19世紀のロシア知識階級に属した優れた思想家だったが、「西ヨーロッパに幸福はありえない。」と言う事で、上述の混乱した批判に究極の結論を与えた。 「どのような目論見がなされようとも、西ヨーロッパ文明に幸福は決してやって来ない。西ヨーロッパ文明では、人は決して満足を見つけることはない。そこでは、混沌だけが支配する。」 唯一の救済は、ロシアの集団性にある。共同体から自分をまだ切り離していないロシアの集団生活にある。ロシアの村落共同体には、堅固として依存できる集合魂の性質が、まだいくらか残っている。集合魂と呼ぶ状態から、人類は徐々に抜け出してきたが、動物はまだ、その状態のままでいる。 集合魂は、ロシアの知識層によって、ロシア人の間にある偉大な存在として尊ばれている。未来の共同体は、まだこれから実現すべき高い理想をもって、上空を羽ばたいている、という新しい理想に、ロシア人は昇華できない。ロシア人は、次のような過ぎ去った理想に固執する。 「我々は、集合魂に基づく生活を保持するヨーロッパの最後の民である。他の民は、集合魂を超え出ていった。我々は自分たちのために保持してきたし、これからも保持すべきである。」 しかしながら、実は、このロシアの集合魂による生活は、未来には全く存在してはいけない。というのも、この集合魂の生活は、霊魂の古い状態なのである。もし、集合魂が続くなら、ルシファーの集合魂となってしまい、古い進化段階に没落してしまう。 上述のような偽の集合魂ではなく、次の進化段階で人間が追求すべき真の集合魂は、人智学から霊視できるものである。 しかしながら、確かに、古い集合魂ではあっても、ロシアの知識人の願望と憧憬は、霊我の降下をもたらすのに、共同体の霊(精神)性がどれほど必要であるか、を示している。 今は間違った方向で、霊我の降下が求められているが、本来は、真実の道を、人智学から追求すべきである。だから、東に対して、次のように言いたい。 「貴方達が依存している古い集合魂、すなわち、ルシファー-アーリマン的な共同体を完全に克服する事が、我々の課題である。」 ルシファー-アーリマン的な性格の共同体には、ロシア正教の教会が確立したような硬直した信仰の強制がある。そのような共同体は、本当の自由な思考を理解しない。ましてや、自我を完成させるために、親愛の支配する社会生活に、自分を結び付けるレベルには上昇できない。 ロシアの共同体は、純粋な血縁を通じた親愛に埋没する、霊魂の古い状態を保存したい、と願っている。 (懐古主義的である。) 血縁ではなく、霊魂(精神)に基づく共同体は、人智学で追求すべき課題である。血縁が、もはや力をもたない共同体を創造する必要がある。 当たり前だが、血縁関係も存続するだろう。家族関係などは生き抜いていくだろう。残る必要がある関係は消し去られないが、新しい関係が生まれなければならない! 子供のときに意味をもった精神(霊)力は老年でも保持されなければならないが、歳をとった頃には新たな精神(霊)力を受け取らなければならない。 血縁関係が、未来の人間たちの偉大な共同体をつくることはない。血縁関係は、東から、今日の戦争のような恐ろしい出来事の中に染み込んでくる誤謬でもある。かつてスラブ民族の間で、共同体の支配を巡って戦火が広がった。 現代の運命から、今耳にしたばかりの霊我が入りつつある。実は、この霊我のなかには、正しい核心、すなわち、霊我は親愛が支配する共同体でしか現れない、という特性がある。 だから、そのような共同体は、血縁関係による共同体であってはならない。それは、真の精神(霊)性による共同体でなければならない。 霊(精神)性による共同体として、将来成長する霊我は、今はまだ、いわゆる幼少の段階だが、人智学の活動グループにおいて発達(進化)していくだろう。東ヨーロッパを、集合魂にしっかりと捕え、スラブの集合魂を捨てずにいるどころか、国家の発展のためと見なすようにさせている強制こそ、現代人が克服すべきものである。 大いなる恐怖の象徴が、目の前に立っている。かつて戦争をはじめた2国家をいま思い浮かべてみる。スラブ世界を率いたロシアは、この戦争が血縁関係の兄弟愛に基づいていると、一方で宣言し、他方には、オーストリアがある。オーストリアは、13の異なる言語によりはっきりとわけられる13の民族を統合している。 オーストリアの動員令は、13の言語で発令する必要があった。なぜなら、オーストリアは13の民族を統括するからである。ドイツ人、チェコ人、ポーランド人、ルテニア人、マジャール人、スロヴァキア人、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人(他に分離した別の方言もある)、ボスニア人、ダルマチア人、イタリア人である。 13の異なる民族集団が、小さな差異は別にして、オーストリアでは統合されている。この意味を理解しようとしまいと、オーストリアが、血縁に基づかない共同体でつくられているのは明らかである。 というのも、その不思議な国境線は、13の異なる家系につながる支流も含むからである。ヨーロッパの、この最高度の統合国家は、古い集合魂、すなわち画一性を強力に求める国家とは正反対の位置にある。 しかし、古い集合魂に根差した共同体をめざす努力は、非常に多くの他の事柄を犠牲にしている。この事は、別の問題に導くが、その意味を考えてみる。 昨日の公開講義で、偉大な哲学者ソロヴィヨフに触れた。ロシアで最重要な思想家の1人である。ソロヴィヨフは傑出した思想家だが、徹底したロシア志向の思想家で、西ヨーロッパの観点からは、理解し難い精神の持ち主である。 しかし、人智学徒は、彼の仕事を研究し、理解しないといけない。ソロヴィヨフの中心となっている理念について、割と親近感をもった観点から述べてみる。 ソロヴィヨフは、古い集合魂による共同体を、何の疑問もなく、自分に採用するには、あまりにも偉大な哲学者といえる。彼は、それに関して多くの疑問をもち、多くの点で同意しないが、ある1つの理念だけに支配された。 彼は、ほとんどあまり意識できずにいるが、もし霊視できたら、第6文化期に彼の霊魂が、地上に受肉するのを待つしかない、のがわかるはずである。西や中央ヨーロッパの人には、理解困難な理念が、ソロヴィヨフでは中心となっていた。 第6文化期の準備として、西ヨーロッパにおいて追求すべき人間の精神性は他にも色々あるが、いまは、生にとっての死が何を意味するのか、死の意義を把握しようと努力すべきである。死が人間という生命の、いかなる1つの現実として現れるのか、また、霊魂が、死によって、どのように別の生命へと変わるのか、を理解するのに努めるべきである。 人智学徒は、この世での生と、あの世での死から新たな誕生の、霊魂の様態を描きだす。人智学徒は、死を理解しようとする。死は見かけにすぎない。霊魂が死を通過した後も生き続けるのを実感する事で、死の克服に努める。死の理解を通じて死を克服することが、現代人には切実に重要な目的である。 しかし、人智学徒は、ここで、ある重要点に到達する。実際に最重要な点で、人智学は、この点を通じて、偉大なロシアの思想家ソロヴィヨフの中心となっている理念から、完全に離れる。彼の理念は以下である。 「この世には悪があり、愚かさがある。もし、人間の感覚で、邪悪と愚劣を眺めたなら、この世が、この2つで満ちているのを否定できない。これらは、この世の神性を否定するものである。」 「というのも、人間の感覚でこの世を眺めたとき、神の存在を、どのようにして信じれるのか? なぜなら、神が、悪を現わす事など、断じてありえないからだ! しかるに、人間の感覚はこの世の至る処に悪を知覚し、その悪の極みが死である。死がこの世にある限り、この世は邪悪と愚劣を現わす。だから死こそ悪の根源である!」 以上のようにソロヴィヨフは、この世を特徴付ける。また彼は、次のように言う(ほぼ原文どおりに引用している)。 「この世を、通常の感覚で見よ。通常の精神で理解してみよ。あなたは悪の存在を決して否定できない。また、死の理解を望むのも馬鹿げたことである! 死は存在する。 感覚を通して獲得された知識は、愚劣に満ちた、この世の悪を知らしめる。この世が悪に満ちているのを示すとき、この世のあらゆる進展のなかで、死を示すとき、この世が、神のものである、と我々人間は信じれるのか?」 以上のようにソロヴィヨフは疑問を投げかける。 「我々人間に死を与える世界が、神の世界であるとは、断じて信じることができない。というのも、神が悪で、愚であるはずがない。何よりも悪の根源である死であるはずがない。神が死ぬ事はありえない。 それゆえに、もし神がこの世に生まれるなら、もし神が現れるなら、神であることを、我々人間はただちに信じれるのか? 否、できないだろう! 神はまず自分が神であるという証明を確立しなければならない。もし神であると主張する存在が現れたなら、我々人間は、その存在を神とは信じないだろう。 神は、我々人間が、神として認識できるような通俗文書などを提出し、自らの神性を証明しなければならない! そのようなものは、世の中に何も存在していない。神は、この世に既にあるものを通じて、神であるのを証明できない。というのも、この世の全てのものが、神の性質に矛盾しているからである。それでは、どんな手段で神は自分を神と証明できるのか? 神が、この世に現れるとき、神が死を克服したと、死が神には何ら力をもちえないのを示すしかないだろう。 キリストが自分が神であるのを証明しなければ、我々は、キリストが神だとは決して信じないだろう。しかし、キリストは、死を克服した。キリストが復活した以上、悪の根源の死が、キリストにないと示した限りにおいて、キリストは死を克服した。」 以上のようにソロヴィヨフは言った。以上は、キリストの実際の史実の復活に基づいた神性の意識についての理念である。以上のように、キリストは、神性に基づき、自分が神であるのを証明した。 更に、ソロヴィヨフは言葉を続ける。 「この世にある何物も、復活という唯一の例外を除けば、我々に神の存在を実感させるものはない。もしキリストが復活しなかったら、我々の信仰は空しくなるだろう。そして、この世における神性について、我々が言い得る全てが、また空しくなるだろう。」 以上が、ソロヴィヨフの基本的な見解である。ソロヴィヨフは、聖パウロの言葉を再三再四引用する。 もし、我々人間が、この世を見るなら、悪や愚劣や、退廃や無意味を見る。もしキリストが復活しなかったなら、この世は無意味となるだろう。それゆえにキリストは復活した! この文によく注意すべきである。というのも、これは東ヨーロッパの最も偉大な思想家の基本理念だからである。 「もし、キリストが復活しなかったなら、この世は無意味だろう。それゆえにキリストは復活した!」 ソロヴィヨフは、次のように言っている。 「もし、キリストが復活しなかったなら、この世は無意味だろう。それゆえにキリストは復活した、と言うと、非論理的にみえるかもしれないが、これは、いかなる論理よりも、遥かに立派な論理なのである。」 神性を証明する文書という、この奇妙な例により(これはソロヴィヨフの著作に見つかるが)、東ヨーロッパの思想の不思議さを具体例で示した。自らが神であるのをいかなる手段で、論駁の余地なく神が啓示するのか、を理解する努力から奇妙な思想が山積みになる。 以上のように、西や中央ヨーロッパとは全く異なるのである! では人智学の目的は何か? 人智学が育成すべき霊我を振り返って、比べてみる。その目的と方向性は何か? 人智学の知識から、この世には意味・意義や目的があるのを認識し、この世は悪と退廃に満たされているわけではない、と認識するのが、人智学徒の望みであり、目標である。霊界からの直接の知識を通じて、この世の意味を実感するのが人智学の目標である。 この実感によって、人智学徒は、キリストを実際に経験する事を準備している。これら全てを、勿論、贈り物として、恩寵として、受容して、いまもキリストが生きている、という霊的な理解を望む事にある。 「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の重さを実感し、人智学徒は、キリストが休む事なく、人類と約束した全ての行いを受け入れる。 というのも、キリストは福音書を通じて語るだけではないからである。キリストは、人間の霊魂の内側からも語る。 この内なる声こそ、キリストが「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の意味である。キリストは、いまも生きるキリストとして、いつも心のなかに見つかる。 我々は、キリストと共に生きたいのである。キリストを自分の中に受け入れたいのである。 「私ではなく、私の中のキリスト!」 聖パウロの言葉のなかで、この言葉が最も意義深い。「私ではなく、私の中のキリスト。」 この言葉により、次のことを実感する。どこを向いても、意味と目的が啓示される。ファウストは、次の言葉に、自らの哲学を纏わせ、同じ真理を表出した。 おぉ、偉大で崇高な救いの霊よ、あなたは私が祈り望んだものすべてを与えてくれた。 あなたが火中のなかで、あなたの相貌を私に見せてくれたのも、無駄ではなかった。 あなたは私に大自然を大いなる世界として与え、それを感じ楽しむ力をも授けてくれた。 あなたは、ただ冷たく困惑した知を産むばかりではなく、素晴らしいことに、自然の最も深い胸に抱かれて、私は、親友の胸のうちにあるかのように、自然を眺める。 あなたは生きものたちの序列を導いて、私の前を通らせ、風と水と静かな森の中にいる、私の兄弟たちを私に教えてくれる。 森に嵐が咆吼し逆巻くとき、樅の巨木は隣の大枝を押し倒し、隣の幹たちをうちひしぎ砕き倒れるとき、うつろな雷鳴が丘に満ちる。 そのとき、あなたは私を安全な洞窟に導いて、私に私の自己を見せてくれる、そして私の胸の中で深い神秘の奇蹟が展開する。 以上の言葉は、外界と内なる精神、宇宙の進化目的、死の意味についての霊的な理解を指し示している。死が、ある生から別の生への通路である、と実感することを指し示している。 生きているキリストを求めるなら、死と復活を通じて、キリストを追いかけるべきである。東ヨーロッパのような共同体の復活を、人智学の出発点とは見なさない。 キリストに従い、キリストの霊感を流れ込ませ、キリストを研ぎ澄まされた意識の中にむかい入れる。キリストを追いかけるなかで、死を乗り越える。 Ex Deo Nascimur 「我々は神から生まれる」だけでなく、In Christo Morimur 「キリストの中で死ぬ」ことにより、キリストに従う。 この世を、詳細に調べれば、この世が文書であり、それを通して、神は自らの神性を現わすのを知る。霊の織り成す力を経験し、それを理解しようとするので、西の人智学徒は、もし神がこの世に生まれるなら、神が自分を神であると確立する文書を必要とする、とは思わない。 そうではなく、むしろ、神を、この世の至るところに、自然の中に、そして人間の霊魂の中に求める。 だから、この第5(アーリア)文明期は、人智学徒が、グループのなかで育成する霊我を必要とする。それはまだ、人類の頭上で羽ばたいていて、高次のヒエラルキーの天使たちに抱かれている。 だから、霊我に満ちたオーラを意識的に育成する必要がある。それは、第6文化期に地上に生きるとき、人間の霊魂に流れ込む。 東ヨーロッパのように、死んだ集合魂に頼ることや、古い残存である(血縁の)共同体に頼るのは、人智学徒の道ではない。人智学徒の努力は、生きている霊魂を、その幼少のときから抱きしめ育成することである。 人智学の共同体は、そういうもので、血縁関係を探し、血縁を同じくする人だけを呼び集め、共同体をつくり、古き良き集合魂を育成するのは、人智学のやり方ではない。 人智学の目標は、兄弟姉妹となるのを決意する人たちを呼び集めることである。人智学徒の頭上には、人智学を育成することで、発達(進化)させようと努める霊我が羽ばたいている。人智学徒たちは、親愛の善良な霊我が、頭上に羽ばたいているのを感じている。 人智学徒のグループの1つの幕開けに際して、以上は、自分の中に受け入れる献呈の理念である。この理念によって、人智学徒は、創設に際したグループを聖別する。新しい共同体に芽生える生命である! 人智学徒は、頭上に共同体を追い求める。人智学徒の内に生きたキリストを追い求める。このキリストは何らの文書も必要とせず、まず証明、もしくは保証される必要もない。なぜなら、人智学徒は自らの内側でキリストを経験するからである。 グループの創設において、次のことを、聖別式の理念と見なす。 「我々の上なる共同体、内なるキリスト。」 もし2人が、3人が、5人が、いや多くの者が、この意味においてキリストの名前のもとに結合するなら、キリストが正しく本当にその人たちの内に生きている、ということも、我々は知っている。 ★ ★ ★ キリストというより、現代は思いやりを育てる進化段階なのである。思いやりを育てないと、人間は進化できない。 病に負けずに頑張っている姿に人は感動するのである。病から逃げ出すのは、責任から逃げ出すのと同じである。病に罹ったのは、インチキ自民党がよく使う「自己責任」だからである。
2017年06月26日
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この国の民度が著しく低いのは、アホバカ総理の意向がなかったことにしろ、という意向が罷り通り、忖度しはじめた文科省、省庁をみていれば明らかである。 つまり、個人の善悪の判断が、権力により容易く歪められる。この国の住人は容易に権力の奴隷と化す。権力と闘うことなく、善悪の判断を捨て、権力に屈する。 権力者の悪事に従い、もみ消し自己保身を図るのは、地獄の論理である。これがサムライを生んだ国の末路である。 サムライなどは所詮つくられたものにすぎない。切腹というのも、斬首しなければ、出血多量死を待つしかないものらしい。八切史観の八切氏によれば、実際、自分で切腹してみたが、死ねなかったという。八切氏の名の由来になっている。 切腹とは、山口県の地方の方言で、全身全霊で事に当たれ、という意味が、曲解されて伝わったらしい。今のチャンバラの原型も、ヤクザ(八屑)の抗争と同じで、当時の武士では有り得ないものらしく、というのも、武士の鞘は上司、つまり殿様の許可がないと抜けなかったからである。 江戸時代は私闘禁止で、殿中でなくても、公の場で、武士が刀を抜くことはご法度だったというから、切り捨て御免も殿様でなければ、迂闊にはできなかったらしい。幕末といえど、勝海舟も慶喜の命がなければ刀を抜けないから、鞘を縄で縛って証にしたようだ。 ちなみに武士は黒鞘の公刀で殿様からの預かりもの、チャンバラの刀は私刀で赤鞘で、八代将軍吉宗のときに警察が民営化されて、民営警察官がつけたのが赤鞘で、幕府の預かり知らない連中の私闘ということらしい。 吉宗はヤクザに取り締まりをさせたので、関所が無意味となり、出稼ぎ連中が江戸に流入し、江戸の人口が極端に増え、治安がかえって悪くなったという。これが幕府崩壊の遠因となる。まさに暴れん坊将軍である。 それに武士は戸外では刀よりも槍や長刀で戦い、刀は相手の首を打ち落とすのに使ったという。 有名な赤穂浪士の原因となった抜刀も、浅野内匠頭が殿様で、相手の吉良上野介も殿様だったが、お互い殿様同士なので、抜刀しても問題にはならないが、吉良が抜刀せずに、浅野が吉良を切り仕損じたのが問題となった。 殿中での殺傷沙汰はそれまでも何回かあって、ほとんどが相手を仕留めているらしく、浅野が仕留められなかったのが不思議というのである。 だから、浅野は相手が抜刀するのを挑発してから、いざ決戦を望む前に、吉良が逃げたと考えると辻褄があう。サムライなら居合も残っているように一撃必中でなければおかしいらしい。幕末に流行る剣術は町人相手の護身術で、サムライの剣は、実際は槍で戦で功名を立てる団体戦のものである。 だから個人戦の剣術などは個人主義の時代にならないと意味がないのである。私闘を戦とは呼ばない。戦国時代の戦と現代の個人戦はまるっきり意味が違う。組織のための槍なので、槍の功名という。 それでも、源平合戦で名を名乗ったではないか、というのは、出自を明らかにすることで、敵か味方かを、姓や家系から判断するためのもので、それが後には戦場での馬印となった。だから敵か味方かの馬印をみれる斥候が重宝されたのである。 八切氏によると、浅野は、どうやら柳沢吉保に嵌められたらしい。吉良が柳沢がはじめた当時の金融緩和である小判の贋金つくりの取り分に不服を申し立てたので、浅野を使って消そうとしたのが、しくじったらしい。しくじった浅野はなんの情状酌量の余地なく柳沢に斬首されている。 だから、赤穂浪士なんていうのも美談でもなく、大石内蔵助良雄も、軍事方の家老ではなく、事務方で、柳沢が、吉良を生き証人として生かしておけないために、無理やり世論を誘導して、いまでいう情報操作、印象操作で、無理やり討ち入りさせた後で、斬首というのが真相らしい。 大石が討ち入りで驚いたのは赤穂の軍事方らしく、なぜ大石がというのが疑問だったらしいが、要するに軍事方に討ち入りさせると、本格的な戦になるのが困るからである。 このようにほとんどが作られもられた話で、本能寺の変なども、八切史観で考えると、全て辻褄があってくる。 いまだに本能寺の変が光秀とされているが、光秀は当時信長に一番信頼されていて、光秀もそれに応えているのだから、有り得ない話なので、謎とされているわけである。 謎とされるのは、権力者により真相が隠されているからである。だから犯人は権力者であることが多い。権力者は都合のいい文脈を書かせるが真相は隠せない。冷静に考えれば矛盾があり、謎となるからである。 嘘は必ずバレルのに、なぜ謎となって隠されるのかは、権力者がもみ消すからで、もみ消せる権力者が怪しい。 家康接待での光秀失態や家康の伊賀抜けなどがお話として信憑性があるように思われているが、あくまで出来過ぎたお話であることに気づけばわかる。 家康の伊賀抜けには疑問がある。穴山梅雪の頓死と、なぜ信長の死を知りえたのか? 当時は信長の首が曝されない限りは死は断定できないし、信長が四国や中国討伐に向かう前で、家康に京都見物を勧めるというのもあまりにおかしすぎる。なんだか、家康がわざとアリバイをつくっているようにみえる。 信長亡き後、秀吉と家康は小牧長久手で戦となるが、秀吉が生き証人を互いに戦場で殺して、和睦しているのをみると、信長殺しの黒幕をお互い知っていたようにみえる。 また秀吉の中国大返しも、予め、信長の死期を知らなければできることではない。光秀に都合の悪い、これらの出来事が創作と考えた方が現実的である。 いま問題となっている森友、加計も、意向や忖度がなければ、できるはずのないのができ、通るはずがないのが通っているわけで、家康の伊賀抜けと秀吉の中国大返しと同じである。 つまり、家康や秀吉が事前に知っていたわけで、その実行を待つだけだったのである。 この二人には信長を殺す動機がある。家康は、その出自をみればわかり、二郎三郎という名で、いまの日光市に近い徳川村のサンカの出で、当時の駿府に売られてきたらしい。だから家康はほとんど生涯、浜松城から出ることがなかった。 つまり、家康は、松平元康ではなく、元康を殺して、成り代わったのである。だから、元康の息子の信康と妻の築山御前を殺したのである。 この一件が信長の耳に入り、信長の一字と、娘五徳を与えた信康の縁から、家康に理由を言いに来いと言ったが、武田氏の進攻があるといって長年拒否していたが、武田氏が滅んでから、仕方なく安土に行くことになった。 当時の切支丹宣教師の手紙と、本能寺を襲う兵たちが、家康を討ちにいくと思っていた事を見ても明らかだが、信長は家康を本能寺に誘き出して、殺そうと思っていたようである。 信長は、自分は丸腰であることをみせるために、本能寺を選んだが、それが裏目に出て、斎藤利三の裏切りにあう。 だから、家康は信長に生命を狙われていたわけで、十分に動機があり、信長は、家康亡き後の徳川の領地には光秀を据え、旧武田領には、穴山梅雪を据えるのを考えていたようだが、本能寺の変後に、穴山、光秀と殺された事でわかる。 秀吉の動機は、秀吉が元々、八(部落)の出で、毛利の外交で有名な安国寺恵瓊の手紙に、信長はダメ、秀吉に従うべきとあるように、秀吉が、毛利と密かに通じ、毛利に有利なように、勝手に和睦してしまったことを、信長に咎められる恐れがあった。 秀吉の立場は非常に危ういものだった。 家康は、信長を殺さなければ、殺されるが、秀吉は、信長が、家康に殺されないと自分が危ういわけである。両者は、信長の正室奇蝶とその腹心の斎藤利三に眼をつける。利三は織田軍の美濃派筆頭で、追放された安藤伊賀の後釜で、四国の長曾我部に妹を嫁がせ、縁が深く、また戦国時代の銭貸しをしていた吉田神道ともつながりが深い。 信長は当時銀主流の通貨制度を、金に変えようとしていたようで、また仏教徒を弾圧して、仏教徒が持ち込んだカースト奴隷制度を改め、切支丹との奴隷貿易を推進していたことから、古くから親大陸、親中国の朝廷とは折が合わず、足利義昭を追放してから、益々朝廷と反発し始めていた。 そもそも、本能寺の変が謀反というのもおかしな話で、信長が、当時主流だった朝廷カースト制度に反旗を翻したのだから、朝廷に歯向かった信長こそ当時の制度では、謀反人となるはずである。 実際、光秀は、信長の部下ではなく、義昭の部下で、朝廷カースト制度では信長と光秀は同格なのである。だから、信長の死は、朝廷にとっては果報で、当時抑圧されていた部落民には悲劇というわけである。 以上のように、光秀には徳川政権になって書き換えた、単なる怨嗟説しかないが、それも光秀がやったとすれば、足利義昭の忠臣となるが、光秀は利三とともに、秀吉に山崎で殺されてしまうのである。 光秀の怨嗟説や朝廷を守る説は、その後、表向き没落した明智家をみれば説得力に欠けるが、秀吉の動機や、信雄に安土城を焼き払い裏切りを奇蝶や光秀のせいにして、歴史を書き換えるのは、太閤となってからは可能であること、また家康の動機や、利三の娘福を春日野局にしていることから、遥かに説得力が増すことがわかる。 以上のように、当時の感覚から考えないと、当時の真相はみえてこない。 いまも必死に印象操作と意向がなかったことにしろという意向が働いている、というおかしさやインチキが紛れ込んでしまう、という話を改めて考えるために、真面目なシュタイナーの話を紹介する。 唯物論で考えると、現代は、さしずめ利害損得勘定の世の中で、金銭や名誉や地位の獲得へと奔走する物質文明に洗脳された時代といえる。 唯物論を超える、人智学によると、現代は個人主義を育成する時代であるという。唯物論に染まった個人主義は、勝者が全てを所有し、取り仕切るというものだが、これは偽物で、本物の個人主義は、前回紹介したように、道徳性、つまり3つの徳目を備えた人格をもたないと意味をなさない。 つまり、他者の痛みを自分の痛みと感じる。思想や信教の自由を認める。そして、霊魂の永遠性を認識できる霊視力を獲得する、である。 現代は、この3つの感性に優れる人種を代表して、アーリア文化と呼ばれている。アーリア文化というと、悪しき偽物の意味で、中部ヨーロッパを思わせるが、個人主義でかつ、思想の自由、人権への理解という意味では、北欧が一番進んでいるといえる。 ★ ★ ★ 第6文化期を準備する その1 ルドルフ・シュタイナー 1915年6月15日 デュッセルドルフ 友人の教授によって設立されたグループのお披露目のために、今日ここに集っている。このグループは、人智学運動において、よく知られた方法で、現在や未来の人間の霊魂の向上のために、自らを捧げるのを望んでいる。 このような機会に、なぜ、グループで集うのか、なぜ共同グループを設立し、自らを捧げて霊魂の宝を育成するのか、を自問するのは良いことである。 もし、この自問に答えるなら、たとえ、このようなグループで思考するだけでも、世の中の他の仕事と区別すべきなのを気づかなければならない。人間の霊魂の進化に関係する、親密な真理に深く参入するのを望まない人は、恐らく次のような疑問をもつだろう。 「自分でグループをつくらなくても、適当な講師を見付けてきて、知らない人同士が集まり、霊魂の宝に近づく話の機会を与えるだけで、人智学を育成できるのではないか。」 勿論、そのような集会もできるが、このような広い意味でも、また狭い意味でも、互いに知り合った活動グループ内で、友情と友愛で集う人たちの会ができるに越したことはなく、人智学とは切っても切り離せない霊魂の姿勢を充分に意識して、そのような会合を続けていく土台ができる。 人智学の知識を親密に育成したいと願い、友愛と調和のために共働するのを衷心から願う人々がいるのには意味がある。意識して交わる霊魂たちに、人智学徒が話しかけているのを知っているが故に、人智学徒の間では他の人々とは異なる会話ができる、という事実が、人智学徒間の関係と交流に影響を及ぼすだけではない。 ただそれだけではないので、また別の面も考慮する必要がある。個々のグループの設立は、自分たちの運動の最奥にある霊性を理解し、全体の運動を把握し、理解した全体の概念と関係している。 我々の運動は、感覚で捉えられる物質と、感覚を超えた心によって把握できる霊にとって、意義深いのを意識するだけでなく、この運動を通して、我々の霊魂は、霊界との、現実かつ純粋な絆を求めている事も、全員が意識する必要がある。 なので、覚醒意識で、何度も、自らに、次のように言い聞かせるべきである。 「人智学の育成によって、自分の霊魂を、地球だけでなく、高次のヒエラルキー(位階)の天使たち、不可視の天使たちが住む霊界に昇天できる。」 自分たちの仕事が、不可視の霊界にも意義をもつ事に、また実際、自分たちが、不可視の霊界のなかにもいる事に気付く必要がある。霊界では、そのようなグループ内で互いに馴染みのある人々によりなされる仕事は、そのようなグループの外で行われ、世の中に広がる仕事とは全く異なる。 人智学のグループ内で友愛の調和と共に実行される仕事は、我々がなしうる他の仕事とは全く異なる意義を、霊界に持っている。この事実を十分に理解するために、近年多くの面で研究してきた諸真理を思い出す必要がある。 ポスト・アトランティス時代の地球の進化は、初期には、古代インド文化によって継承された。この次に来るのが古代ペルシア文化である。この呼び名は大まかな意味でしか適切と言えないが、今、特に深入りしない。 それから古代エジプト-カルデア-バビロニア文化が来る。そして、古代ギリシア-ラテン文化、そして現代へと続く第5(アーリア)文化である。 これらの各々の文化は、その文化に独特な霊魂の状態を育成する宿命をもつ。また各文化は、同時に、後続の文化を準備し、後続の文化のなかに、準備してきた進化を組み込む必要がある。 古代インド文化期での、いわば子宮内で、古代ペルシア文化期が準備された。古代ペルシア文化期のなかで、次の古代エジプト-カルデア文化が準備された。現代の第5(アーリア)文化期は、次に来るべき第6(ロシア)文化期を準備する必要がある。 人智学の課題は、人間の自我のために、霊魂の永遠の生命や財宝を獲得するだけでなく、第6文化期の進化となる、独特な(超感覚的な)意識状態を、霊魂に組み込む準備をすることである。 以上が、ポスト・アトランティス時代の各文化期の事実だった。 密儀(秘儀)のセンターは、次の文化期に、霊魂に組み入れる意識状態を準備する場だった。密議に人々は集い、人々の間で、文化独特の霊魂の意識状態が育成された。 古代インド文化期の密議は、人間のエーテル体の育成に関わっていた。古代ペルシア文化期は、アストラル体の育成に関わっていた。古代エジプト-カルデア文化期は、感覚魂の育成に関わっていた。 古代ギリシア-ラテン文化期は、悟性魂の育成に関わっていた。現代の第5(アーリア)文化が続く限り、霊魂のなかの意識魂を進化させるだろう。しかし、第6(ロシア)文化独特の霊魂の状態を前もって準備する必要がある。 第6文化期の多くの特徴は、第5文化期の3つの異なる特徴から生まれる。第6文化期では、この3つの特徴を心(霊魂)に担う必要があり、そして、その3つの特徴を、第6文化期のために準備することが、第5文化期の課題である事を実感する必要がある。 今日(第5文化期)の人間社会には、ある特質が欠けているが、その特質こそ、次の第6文化期の目標に到達した人間の特質となる。その特質は第6文化では必須となる。勿論、第6文化期にも、未開人、未開族の段階にとどまっている人も言えるが、その人たちには見い出せない霊魂の特質である。 第6文化の絶頂に、地上に生きる人間の最も意義深い特質の1つは、道徳性である。近代人には、この特質がほとんど知覚できない。 現代人は、自分よりも不幸な境遇の他人を見ると、霊魂(精神)に痛みを感じるような繊細な知覚をもたなければいけない。このような繊細な知覚をもてば、世界に広がった苦悩に痛みを感じるのは事実で、この痛みは、特別の感受性の強い人にしかもてない道徳性である。 第6文化期に、最高度の文化を備えた人は、世界の貧困、苦悩、悲惨を見て、痛みを感じるだけでなく、他の人の苦悩を、自分の苦悩として経験する。もし空腹な人を見れば、自分も、その空腹感を感じる。 それほど実際に鋭敏な感覚なので、他者の飢えは、自分にとっても耐え難いものとなる。いま指摘できる道徳性は、第5文化期の状況とは違って、第6文化期には必須となり、個人の安寧は全体の安寧に一重にかかってくることになる。 (天使長もミカエルから、オリフィエルとなる。オリフィエルはどんな人間も救わずにはいられない性格の天使だという。) 今日の人間の四肢の安寧が、人体全体の安寧、つまり健康に依存するように、また人体が健康でなければ、四肢が仕事に耐えられないように、第6文化期には、人類共通の意識が、文明化された人間によって保持される。 そして、人体の健康を、四肢が感じるより遥かに高度に、この共通認識から、個人は、全体の苦悩、欲求、貧困や、そして富を感じとるだろう。 以上が、第6文化期の人間を特徴付ける顕著な第1の道徳性である。 (国民の苦しみは自分の苦しみに感じる指導者がでてくる。) 第2の基本的特徴は、今日の信仰の結実とも呼ばれる信教が、今日より遥かに高度に、個人の自我に依存するようになるだろう。人智学は、第6文化のあらゆる分野のなかにみつけているが、思想の完全な自由と、自由な思考への憧れが、人間を捉えるので、信教の自由や、宗教的教義の信仰は、全面的に、個人の自我に委ねられ、自由な力となるだろう。 今日の様々な共同体にある、多様な集合的信念は、第6文化期に文明化した人には、もはや影響しないだろう。宗教分野での思想の完全な自由は、人間の基本的権利であると、誰もが感じるだろう。 第3の特徴は、第6文化の文明人が獲得した霊認識(霊能力)だけが、本当の知識と見なされる。この世に霊性が漲り、人間の霊魂が、知性を通じて、霊(天使)と結びつくときだけ、本当の知識がもたらされる、と見なされる。 唯物主義の傾向を伴った今日の科学は、第6文化期に、科学の名前で呼ばれる栄誉を浴する事はまずないだろう。それは古臭い迷信と見なされるだろう。 それは廃れた第5文化期の段階にとどまった人たちの間でしか通用しないものとなる。例えば、未開人が、「死人の手足は身体から切り離すべきでない。完全な人間として霊界に入れなくなるから」と言っても、現代人が、迷信と見なすのと同じである。 そのような未開人は、霊魂の不死の理念を、純粋な唯物論と結び付けている。つまり、死者の人生が肉体に記録されたまま霊界に移行する、という信仰に結びついている。唯物論で考えているのにも関わらず、不死を信じている矛盾に気づかない。 霊魂(精神)は肉体を分離し、霊魂だけが超感覚界(霊界)に移行する事実を、人智学から理解しているので、今日の人智学徒は、不死についての唯物論による信仰を、迷信と見なせる。 同じように、第6文化期には、科学も含む全ての唯物論による信仰は古臭い迷信と見なされるので、当然、人智学や霊性に基づく知識のみを科学として受容するようになるだろう。 人智学の目的は、以上の意味から、第6文化期を準備する事である。唯物主義を克服する為に、次の時代に相応しい科学などの学問を準備する為に、いま人智学などを育成している。教義をもたず、誰からも教義を発することなく、自らの信念による人たちの共同体を築こうとしている。 (人智学に教祖はいない。だからシュタイナーからはじまってはいるが、皆が独自の人智学をつくるべきである。) 1つの例外もなく、教えについて、霊魂たちが自由に発する同意に基づいて築かれる共同体を創設したい。この共同体では、人智学が、自由な思考を準備する。人智学の育成を目的として、親愛の集いにより、第6文化、文明を準備する。 しかし、人智学徒の交わりとグループの本当の課題を十分に理解したいならば、人間の進化過程を更に深く見つめる必要がある。 ポスト・アトランティス時代の第1(古代インド)文化期では、密儀(秘儀)に関係した共同体のなかで、後の第2(古代ペルシア)文化期に必要なエーテル体を育成した。また第2文化期特有の集いでは、次の第3文化期に必要なアストラル体の育成に関わった。 アストラル体は、第3文化期の外界に暮らすための特別な課題となった。この文化期の外(物質)的文化とは対照的に、第2の古代ペルシア文化を準備するために、古代インド独特の密議(秘儀)の集会で発達させられエーテル体を述べるのは、少々話が脱線するが、次のようだった。 第2文化に必要なエーテル体を準備するのに、古代インド文化の文明人(秘儀参入者)の集いでは、次のように感じられていた。 「人間の霊魂は、次の文化期に受肉するエーテル体の完成にはまだ到達できていない。だからまだ、完全なエーテル体をもっていない。それはまだ人間の上方で天使たちと共に羽ばたいている。」 実際そうであった。第1文化期には、第2文化期に天から地へと降りるはずのエーテルが、人間の霊魂の上で、天使と共にまだ羽ばたいていた。 密儀のなかでも親密な、地上の集会で成就したエーテル体つくりの反響が、上方の高次のヒエラルキアの霊たちに流れて昇り、第2の古代ペルシア文化期の霊魂の中へと流れ降るエーテル体を醸成し、アストラル体の育成を可能にした。 古代ペルシア文明の肉体に受肉した霊魂の中へと、後の進化段階で降下したエーテル体は、古代インド文化期には幼い子供のようなものだった。次の時代を準備して下方の人々の霊魂の向上から上へと流れ昇る善良な霊(精神)力は、上なる霊界によって受け取られ、慈しまれた。各々の文化期で、そのようだった。 現代(第5アーリア文化期)の文化と文明によって育成させられたのは意識魂である。14世紀、15世紀、16世紀から始まり、科学と唯物主義による(覚醒)意識は人間をとらえた。この意識は徐々に更に広がり、第5文化期の終わりに、その進化を完了させる。 しかし、いま意識魂が進化しているように、第6文化期の霊魂のなかで発達すべき意識状態は、霊我(マナス)である。 (マナスは三種の神器の1つで、他に、ブッディ、アートマンがある。アートマンをもつと、人間は天使になり、声=音響を使って、次の人類を生み出すという。) 霊我の性質は、先に述べた3つの特徴を、霊魂が既にもつのを前提とする。3つの特徴とは、すなわち端的にいえば、親愛に満ち溢れる社会生活、思想の自由、そして人智学である。これら3つの特徴は、意識魂が第5文化期の霊魂のなかで進化するように、霊我が、第6期に進化すべき人たち(秘儀参入者)の共同体には必須となる。 それ故に、活動グループ内で、親愛で結びつき、意識魂を共につくる上で、子供のような、霊我が羽ばたいている状態を、自我の進化について描ける。 この霊我は、霊魂が第6文明期に再び地上に転生するとき、霊魂に流れ込めるように、高次のヒエラルキア(位階)の天使たちによって育成されている。人智学のグループのなかで、意識魂を完成させることで、善良な精神(霊魂)が天へと昇華され、霊我を準備する天使たちに流れ、遂行される。 なので、人智学の叡智を通じて、活動グループに集うときに、人智学徒が、霊界との関係から、実際、何を行っているか、が理解できる。地上での自我の完成だけでなく、霊界の中へと流れ昇るように、意識魂の進化を担っている、という責務、この仕事は霊界と関係している、という意識こそが、活動グループの聖なる真実である。 上述の意識を抱くことは、人智学運動のなかでの活動グループの基盤となる神聖な意識を浸透させる。 それ故に、以上の事実を、その真実の霊の意味において把握する事が大いに重要である。人智学を育成するに加えて、思考の自由に基づく活動グループに共に集う自らを見い出す。グループに集う人は、教条や信仰の強制とは一切関係なく、グループの仕事は親しき人の間で共同して働く性質となる。 何より最も大切なことは、自らに次のように言って、共同体の理念の真実の意味を意識することである。 「近代の霊魂として、現代人は第5(アーリア)文化期に属し、個人として発達し、共同体生活から個人生活を益々高めている、という事実とは別に、より高次の善良な共同体も意識する必要がある。その共同体は、愛の自由に基づくもので、この意識を、活動グループ内で呼吸する白魔術(ホワイトロッジ)の息吹として意識しなければならない。」 西ヨーロッパ文化の深い意義は、第5文化期の探求が意識魂である、という事実に横たわっている。西ヨーロッパ文化の、特に中央ヨーロッパの課題は、個人文化や個人意識を発達(進化)させることである。 以上が現代の課題である。この我々の時代を、古代ギリシア・ローマ時代と比べてみる。 古代ギリシア時代の、特に文明化したギリシア人の間では、それまでの集合魂のなかにもつ集合意識を、独特で驚異的な状態で示した。アテネで生まれ生きる人は、何よりもまず自分を「アテネ人」と感じた。各都市に属する、と考えていたギリシア人の共同体は、当時の個人にとっては、今日意味する共同体とは異なっていた。 (仲間意識が強かった。いまの日本人に似ている。) 我々の時代に、個人は共同体を抜け出て、共同体を越えて成長しようと努力する。この努力は、第5文化期には正しい。しかし、古代ローマ時代では、個人よりも、何よりもまずローマ市民であるべきだった。実際、当時の人間は、それしか意識をもてなかった。 しかし第5文化期では、何よりもまず自分であろうと努力する。個人であるべきで、それ以外ではない。 現代人が地球上で互いに闘っている、のを見ることは、現代では苦痛に満ちた経験だが、これもまた、結局、「個人的な覚醒意識」の自由な発達(進化)を求める、第5文化期の執拗な努力に対する反応といえる。 今日、異なる国民が、お互い敵意に満ちて、国の閉鎖を行うが故に、この閉鎖への克服として、全人類が、互いの許容(包容)力を発達(進化)させることが益々必要である。 (敵を愛せ、隣人を愛せ、である。さすれば、天国へと導かれる。) 個人が、あらゆる種類の共同体から抜け出て成長し、共同体を越えて成長するのを許す精神力を発達(進化)させる事が、次第に必要となる。しかし、他方で、覚醒意識を育成する事で、第6文化期に、自らの完全な自由の意志から、加わる共同体を準備する必要がある。 現代人の高い理想から、第6文化期を包括する共同体の姿が羽ばたいている。第6文化期では、文明化した人たちが、ごく自然に、兄弟姉妹として、互いに出会うだろう。 過去になされた多くの神秘学の講義から、東ヨーロッパには、第6文化期に特別な使命をもつ民族が住むのを、人智学徒は知っている。東欧の住人は、第6文化期になるまで、霊魂のなかに今横たわっている基本の精神力を明確に表出することはない。 ロシアの諸民族は、霊魂のなかで今潜む、基本の精神力を展開するのに、第6文化期を待たねば、準備が成就しないのを知っている。 西ヨーロッパと中央ヨーロッパの使命は、意識魂を発展させる事で、導入し得る道徳性を注ぎ込む事である。この事は、東ヨーロッパの使命ではない。 東ヨーロッパは、霊我が地上に降りて来て、転生した霊魂に浸透できるまで待たねばならない。この事は、正しく理解する必要がある。間違って理解したなら、逆に、東において、驕りや傲慢に容易に導くだろう。 ポスト・アトランティス時代の、文化の興隆は第5文化期に極められる。第6文化期と第7文化期では、その進化の下降である。にも関わらず、第6文化期に、この下降する進化は、霊我によって霊感を吹き込まれ、霊我に浸透されるだろう。 今日、東ヨーロッパの人たちは、本能的に、以上の事が真実と感じている。ただし、しばしば倒錯した本能から感じている。 東ヨーロッパの人たちの、以上のような意識は、大抵、極めて茫漠とし、混乱している。 「ロシア人」という言葉が頻繁に使われるのが、実に特徴的である。西側で「イギリス人」、「フランス人」、「イタリア人」、「ドイツ人」と言って、個人を見分ける代わりに、東ヨーロッパの人たちが、「ロシア人」と言うと、言葉自体が、霊として姿を現わす。 ロシアの知識層の多くが、「ロシア人」という表現法を大切にする。この事は、この独特の文化に関わる霊と深く関係している。この言葉は、共同体の上に広がり、個人と同族の両方の意味を指す。 「ロシア人」という言葉に、「人」という「個人」の意味を含ませる事で示されている。しかし、個人が、遠い未来に到達すべき高みには、まだ到達していない、のも明らかである。紛れもなく矛盾する意味を、この表現が含む限り、共同体と個人の中間といえる。 「ロシア人」という表現の「ロシア(の)」という形容詞が、「人」という名詞で表される個人を、実際に無効にしている。というのも、真の個人性に到達したなら、排他を示唆する形容詞はつくはずがないからである。 しかし、それよりずっと深いレベルで、ロシアの知識層の成員には、共同体や親愛の概念の、来るべき時代において支配すべき理解が横たわっている。 霊我は降下する事になっているが、それは親愛の意識に浸透された人たちの共同体の中にしか降下できない、霊我は親愛の意識を欠く共同体には広がりようがないと、ロシア人の霊魂は感じている。 このために、ロシアの知識層は、西ヨーロッパと中央ヨーロッパに、次のような非難を浴びせる。ロシアの知識層は次のように言う。 「貴方たちは、真の共同体に全く注意を払っていない。貴方たちは、個人主義しか育成しない。自立した人間になりたい。個人になりたいだけなのだ! 貴方たちは、人格を通じて、1人1人が個人を感じるが、(寛容を知らずに)極端にまで推し進めている。」 上述の発言は、東から、西や中央ヨーロッパへと、退廃等といった多くの非難のなかに反響している。現況を実感する人たちは、西と中央ヨーロッパは、人のつながりへの感情を失ってしまった、と言って告発している。 現実と未来を混同して、次のように言う。 「人々の間に真実で、純粋な共同体が存在するのは、ロシアをおいて他にない。誰もが、他者の兄弟、他者の「小さな父」、「小さな母」と感じる生活は、ロシアでしかありえない。」 西ヨーロッパのキリスト教は、共同体の本性を展開するのに失敗したが、ロシア人は共同体が何であるか、を知っていると、ロシアの知識層は言う。 アレクサンドロ・ヘルゼンは、19世紀のロシア知識階級に属し生きた優れた思想家だったが、「西ヨーロッパに幸福はありえない。」と言う事で、上述の混乱した批判に究極の結論をもたらした。 「どのような目論見がなされようとも、西ヨーロッパ文明に幸福は決してやって来ない。西ヨーロッパ文明では、人は決して満足を見い出すことはない。そこでは、混沌だけが支配できる。」 ★ ★ ★ 続く。
2017年06月20日
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久しぶりに書きたい。悪魔ルシファーたちの日本会議のために、この国は沈没船のように地獄へと下降していっている。まさにハーメルンの笛吹きのようで、この国の少子化問題は更に深刻である。 何度も言うが、この国の政治が激しく歪みだしたのは、加藤の乱の売国奴ノナカ辺りからだった。当時、ノナカは安政の大獄の井伊のような権力者だったが、井伊が権力への私利私欲で江戸幕府を潰したように、党利党略で、国よりも党が大事と、この国の民主主義を破壊しはじめた。 幕末は、安政の大獄への反動で、攘夷運動が盛んになったが、それはイノナカの加藤の乱鎮圧の辺りから台頭したコネズミの偽改革と同じで、黒船メリケンに植民地として完全に搾取されはじめた。開国という名の物質文明による権力支配体制の確立である。 欧米はアメとムチで支配する。 明治維新では、西郷などが途中で気が付いたが時すでに遅しで明治帝はガータ騎士団傘下に組み入れられ、欧米の走狗とされた。それはコネズミ以降のこの国のリーマンショックまでの流れをみれば一目瞭然だろう。 しかし、アジアにしたことはカルマの法則で欧米に返ってくる。 この国が性懲りもなく何度も騙されるのは、この国の精神が中世以来代わり映えがなく、バカな奴が権力を握るからである。 例えば、ゴミ売りが恥さらしな人格攻撃の記事を書いて、人間としての謝罪もなしに、言い訳がましい糞記事をまた垂れ流したが、ジャーナリストにあるまじき行為で、このような記事をもし欧米で書いたとしたら、その新聞の不買運動が起こるだろう。 政権に対する国民の監視が行き届かずに、自浄能力を完全に失って暴走しているわけである。 その暴走ぶりがあまりに酷く尋常でないのは、かつての先の大戦の敗戦をみれば明らかである。現状の政権は、ドイツのナチスか、大日本帝国の東条内閣である。 なぜ平和憲法が与えられたのか考えてみればわかる。 平和憲法を研究すれば、当時の情勢が浮かび上がってくる。当時の情勢を知るには、この国の中世の精神にまで遡り、幕末に問題があることに気づかないとダメである。明治帝は長州の玉で、傀儡であることは、この国の歴史を深く研究すれば明らかである。 長州は、徳川幕府への恨みから、国を乗っ取ったわけだが、長州一藩では賄いきれないので、薩摩など長州に敵対しない外国に通じた藩を仲間に入れたのは明らかである。 その際に歴史を書き換え、その歴史を現実にするために、周辺国を襲って歴史書を焼いたか書き換えたのである。そのための日韓併合である。国よりも長州藩が大事で、藩よりも立身出世が大事と考えた愚か者たちが明治をつくり、戦争をして金儲けに走った。 日本の農奴は解放されたが、日本古来のわびさび文化を失った。現代の職人に残るわびさび文化は、本物のわびさびの遺物でしかない。 その堕落腐敗した明治の精神をみれば、かつての従軍慰安婦をもみ消すのと、昨今のインチキ悪逆非道政権の御用学者のレイ プをもみ消す手口は同じと言わざるを得ない。 八切史観から、いかに歴史の書き換えが行われてきたかがわかる。都合の悪いことはもみ消すというのは悪魔の手口である。悪魔は決して謝罪しないばかりか被害者を罵倒する。 この国の悪魔は、玉という看板を利用して悪逆非道をやりつくすというのが、明治維新である。西郷は途中で気が付いて失敗だったと悟り、薩摩国を独立させようとするが、大久保らの裏切りで、乱として鎮圧されるのは、加藤の乱とよく似ている。 平和憲法をみれば、皇軍とされた大日本帝国軍がいかに悪逆非道だったかを物語っている。軍人ではない一般市民が竹槍のような無駄な武器をもたされ洗脳され戦地に送られたのである。その洗脳の手口は、いまのテロリストの洗脳と同じである。 平和憲法は、まず皇軍の神格(悪魔)化を人格化しないといけないので、天皇を象徴にする。それは実際に、昭和帝の戦犯問題が挙がったときに、国体=天皇制をいかに存続させるか、がこの国の無条件降伏のなかでの連合国への唯一の希望だったからである。 それは昭和帝自身も、東洋のローマ法王になろうとした平和社会への希求だった。 つまり戦争放棄が、昭和帝の天皇制存続の条件だったわけである。 だから、天皇の人間宣言があり、戦争放棄のための平和憲法九条がある。 これが敗戦で得たこの国の平和への叡智だったのである。これに逆行するのは、悪逆非道となるだろう。東洋のローマ法王は絵に描いた餅とされるだろう。 そこでルシファーの日本会議は相変わらず地獄堕ちの連中なのを、お馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ 安倍一狂 http://my.shadowcity.jp/2017/06/post-11260.html 日本会議は、今の左巻き天皇を廃止して、日本会議系の竹田宮を復活させ、あるいは天皇の娘と結婚させて、歯茎竹田を天皇にしようと考えている。だから、女性天皇とか女系天皇に反対なんですね。歯茎竹田は日本会議好みのネトウヨ体質なので、何としてでも天皇にしたいらしい。 未だに知らぬ存ぜぬを通し、ほおかむりをしたまま自分の過去に向き合おうとしない連中がいる──塚本幼稚園に群がったいわゆる「保守系文化人」たちだ。 塚本幼稚園で講演したのは、安倍昭恵氏だけではない。曽野綾子、櫻井よしこ、村上和雄、渡部昇一、中西輝政、竹田恒泰、青山繁晴、高橋史朗、八木秀次各氏などなど、数多くの保守系文化人もあの幼稚園で講演している。 アベシンゾーを始めとする今の日本会議にとって、戦争嫌いでどちらかというと左巻き体質の、昭和天皇、今上天皇は気に入らないようです。戦争するには、戦争嫌いの天皇をいただいていては出来ない。 ★ ★ ★ 幼稚園で講演とは、ヒトラーユーゲントならぬアベラ―ユーゲントでもつくろうとする目論見なのか? 全く理解に苦しむが、この人たちは偽ユダヤに洗脳されていることに気づいていない。 どうも、日本会議は、オウムを思い出させるんだよね。宗教を都合よく利用している。こういう連中は無神論者だから、平気で神や宗教を利用しようとするんだろうが、おバカちゃんだよね。 神様は本当にいるし、悪魔もいるし、あの世もあるし、天国や地獄はある。 第一、神様がいなければ、人間だっていないよね。知識だって、誰かが知識をつくらなければありえないわけだし、なんだってそう。 そういうおバカちゃんと関わっていると碌なことはないんだが、こういうおバカちゃんを少しでも自覚させないと、この世に生きている意味もないから、なんとかしないといけないわけだ。 とにかくこういうおバカちゃんは、視野が極端に狭く、非常に画一的なので、もっと色々多数の意見を聞いて見聞を広めてほしい、としかいいようがない。とにかく唯物論から解脱してほしいね。 口が一つで耳が二つなのは、他者の意見をよく聞くようにという神様の配慮というのを思い出してほしい! さて、前回は唯物論を土台として思想構築している現代人には難解な話を紹介したが、まとめると、キリストの愛は、その教えにあるのではなく、その行いにあり、キリストの行いをした人に愛が芽生え、霊魂を浄化でき、永遠の生命を授ける天国に行ける、ということである。 もっと簡単にいえば、キリストはその行いを地上に記録したので、誰もがその行いをすることで、キリストの愛を体験できる、というわけなのである。 キリストのように行うかどうかが問題なのである。 だから何もキリスト教に入る必要はなく、教義を唱えるだけ無駄で、ただキリストの行いをするかどうかなのである。キリスト教に入ることが目的となっているキリスト教徒は偽物で偽善者である。 キリストを招き入れるかどうかなのである。それは本人の自由意志に委ねられている。 反キリストの悪魔を招き入れたければ、入れればいいのであり、それは本人の自由なのである。キリスト教をこの世の栄華や御利益に使いたければ使えばいいが、それはキリストではなく、アンチであることを知るべきである。 というのは、キリスト自身がキリスト教に入っていないし、布教もしなかったし、弟子にも裏切られているからである。それに、この世は仮の世界であって、神の国は並行宇宙にあるからである。見えるものが全てではない。 キリストの弟子が裏切ったというのは、弟子がキリストの行いをしなかったせいである。弟子たちでさえ、永遠の生命である霊魂を信じなかったわけである。キリストの話を身近で聞いていた弟子でさえ、死を恐れた事がわかる。 死を恐れるというのは、それだけで、既に霊魂の永遠性を信じていないことになる。 ソクラテスは死を恐れずに毒杯を飲んだが、それはソクラテスが死を、人間に恐怖心を与える悪魔の誘惑であることを理解していたからである。 人間の霊魂は死なない、変容するだけで、死とは、霊魂の仮の姿である、肉体を失うだけなのである。難儀なのは、霊魂は、肉体で表れないと、自覚できないところにある。肉体は霊魂の鏡なのである。 だから、古代ギリシアの哲学では、「汝とは何なのか?」が主題となった。人間の霊魂が、肉体を纏うことで、自分を知ることができる。つまり、肉体という作品をつくることで、作品から作者である自分を知るのである。 以前、安岡正篤氏の陽明学の、「自得」というのを紹介したが、どんなときにも自分を知っていれば、周りに流されることはないというアレである。 孫子の兵法にも、敵を知り、己を知れば百戦連覇というのがある。 さしずめ、悪魔を知り、悪魔に誘惑されやすい自分を知れば、誘惑されないという風に捉えることもできる。 肉体の死を知り、死を恐れなければ、永遠の霊魂に目覚めることができる。 というわけで、前回の難解なシュタイナーの話の紹介をまた続ける。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー 「キリスト存在について」 その3 さて、時代の流れのなかでの、特別な瞬間に、最も気高い天使(かつては太陽と結びついていたが、今度は、自我の中にまで霊聴=霊言で働きかける霊)を、自我の中に受け入れるのに選ばれた個人(イエス)が立ち現れた。 自我は血を通じて、自らを表現する。血が自我の物質的表現であるように、血の熱、或いは火(体温)は、古い土星の火の名残りだが、自我の霊的表現である。 この自我の天使は、二重の形で、自らを表現しなければならなかった。火という霊的表現で、燃える林と、シナイ山上の稲妻において、自らをモーゼに告げ知らせた。 この自我の天使は、人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴から、モーゼに霊聴で語りかけた。 この自我の天使は、その暁を準備した後、血に浸透された体、つまりナザレのイエスの体の中に現れた。この太陽霊は、地上の個人の中に入り込んだ。人間の自我はそのとき、自我に浸透した力に益々満たされ、飽和するだろう。 人間の自我が太陽霊に満たされる事で、人間の自我は、自力で、引きずり下ろそうとする力の影響を次第に克服できるようになるだろう。というのも、人間の自我に浸透した、この太陽霊は、以前、地上に下降し、肉体、エーテル体、アストラル体に魂を吹き込んだルシファーの性質とは全く異なるからである。 そこで、古代の聖なる導師(リシ)たちを考えてみる。以前述べたように、高次の霊は、導師のエーテル体の中に住んでいたが、偉大なアトランティスの祖先たちのエーテルの中に、崇高な霊が住み、聖なる導師(リシ)たちが引き継いだためである。 高次の霊の住むエーテル体は、聖なる導師(リシ)に引き継がれたが、エーテル体から霊聴=霊言を通して流れてくる内容を、当時の自我とアストラル体では理解できなかった。時代から時代へと続く流行などは、理解できない霊聴=霊言のようなものだった。 人間は霊聴を受け取ってきたが、霊聴を受け取るときには常に自分のなかに、何かしらの力を経験した。霊聴とは、今でいう、才能で掴むようなものだったため、自力で何とかする(努力)という、今では普通にある力は当時衰えていた。 当時の人間が進化し、向上するには、より完全な高次の霊からの霊聴を受ける必要があった。宗教の創始者たちは皆、霊聴を受ける必要があった。天上の戦いを超越していた高次の霊たちが、宗教の創始者たちの中に霊聴を吹き込んでいたために、人間たちは自力に頼らず、努力するようにはなっていなかった。 しかし、キリストという、以前とは全く異なった本性が現れた。キリストは、全く何も強制しなかった。キリストへと導くのに、強制力を全く行使しなかった。この事は重要である! 例えば、キリスト教の伝播を考察すれば、キリスト教の布教について、キリストは生涯、何もしなかった、という生き証言を見つけるだろう。 また、古代の宗教創始者たちを考察すれば、確かに偉大な人類の教師たちである。彼らは、人類の進化の、ある特定の瞬間から教えを伝え始め、そして、その教えは圧倒的な力をもって人類に働きかけた。 では今、改めてキリストについて考えてみる。実際、キリストは、その教えを伝え続けたのか? キリストの主要な貢献が、その教えにある、と考えるなら、キリストを真に理解していない。 少なくとも第一義的に、キリストは、その教えではなく、その行いを通して働きかけた。 そして、キリストの最も偉大な行いとは、彼の死により行いが終わった事である。その行いに実際の終止符が打たれた事だった。この事が重要である! キリストは行いを通じて働きかけた。 そして、キリストの行いについての知識が、世間に広まり始めたとき、もはやその行いは物質的には存在しなかった。この事がキリストと他の偉大な宗教創始者たちとの根本的な影響の違いである。 この違いの理解は困難だが、重要である。 キリスト教の教えは記述でき、その教えは他の宗教の中にも見つけられる。この事は否定できない。確かに、キリスト教の教えの本質は、他の宗教にも含まれている。 しかし、キリスト教が広まったのは、その教えの内容を通してなのか? キリスト教を広めるのに多大な貢献をした人物は、その教えに頼ったのか? そこで、使徒パウロについて考えてみる! サウロからパウロへと、彼の変化が生じたのは、聖書の中に書かれている教えによるものだったのか? 彼は、十字架上で死を遂げた人物が雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロ自身が、キリストは「生きている」という事実を、神秘的に体験するまで、キリスト=イエスの追従者たちを迫害していた。 キリストの死や、キリストの行為の影響を、実際に体験する事が、サウロから、パウロへの改心となったが、その事が問題である。 (シュタイナーによると、サウロはダマスカスで熱に魘されたときに、「エーテル体の」キリストと実際に会ったという。私のなかのキリストという意味で、パウロに改名したという。) 他の宗教体系は、その教えを通して働き、その教えはキリスト教に見つかるのと同じだが、キリスト教では、教えは重要ではない。 重要なのは、キリストの「行い」にある。 キリストの行いが、ある人に実際に働きかけるのは、その人が、キリストの行いを決意したとき、つまり、個人の自我がもつ絶対的に自由な意志と、その行いとが、1つに結びついたときだけである。人間のアストラル体にキリストがいるだけでは不十分である。 キリストを、真に理解するには、自我の中にキリストがいないといけない。そして、自我は、キリストの受け入れを自由に決断しなければならない。この事が重要である。 自我をキリストに結びつけた結果として、自我は、キリストの現実の行いを、つまり、単なる教えではなく、神の力を獲得する。 だから、キリスト教の教えは既に至る処に見つかるが、その教えが本質でないのを何百回でも示せる。 キリスト教の本質は、より高次の霊界(天国)への、自我の自発的な上昇を通じてのみ、自我が獲得できるキリストの(救済)行為を意味する。 (キリスト教徒と語りながら、キリストの行為をしない嘘つきインチキが沢山いるが、偽物というわけである。そういうのはこの世と同じでインチキで、自分から死後地獄に堕ちる。) 人間がキリストの力を受け取るには、キリストの行いを喜んで行うからで、自発的に行わない人は、キリストの力を受け取れない。キリストの行いが人間に可能になったのは、キリストが地上で人間となってから、つまり、キリストが地上の人間として召還されてからである。 (キリストは、この世にキリストの行為を記録したわけである。この世自体がいわば聖書なのである。だから口でキリストの教えを語ろうが、行わない限りは反キリストなんである。 喜んで救済活動を行う人に、天はその能力を与える、ので、天は自ら救う者を救う、というキリストの言葉の意味である。つまり、自主的に人を救おうとする人は天国に行ける、という意味である。) しかし、ルシファーとして月上に住むようになった墜ちた天使たちの立場は違う。実際、堕天使たちは「古い月」の上で、人間の段階を卒業すべきだったが、その進化の途上で落第し、取り残された結果、人間のアストラル体には浸透できるが、自我には接近できない。 堕天使たちは、進化から逸脱した異常な状況にあり、多少、学者ぶった風情に見えるかもしれないが、自我をもたないので、実体のない感情の起伏を伴った幻想のイメージで表現できる。 例えば、古代レムリア期の人間のアストラル体を、エーテル体と肉体は無視し、円で表現してみると、人間の自我は、進化とともに徐々に、このアストラル体の円の中に入っていき、この円内に包み込まれた。 次に何が起こったのか? 古代レムリア期を通じて、ルシファーの力が、あらゆる側から、アストラル体に忍び込んで来たが、その活動を通して、人間に浸透するようになった。ルシファーの力は、人間のなかで低級な感情(怒りや妬み、恨みなど)として表現される。 間違いや悪を犯す可能性が、アストラル体の中に組み込まれた。つまり、ルシファーの悪の腐敗した精神が、人間に、その可能性を植え込んだ。 もし、ルシファーの腐敗した精神が、人間のアストラル体に浸透しなかったら、人間は決して間違いを犯すことも、悪を行うこともなかった。そして、人間は、高次の霊界へと上昇し、障害的な影響を受けない自我を受け取っていただろう。 しかし、ルシファーが干渉した状況において、人類の偉大な指導者たちは、アストラル体に深く沈み込んでしまわないように、人類を守った。 そして、キリスト事件が起こった。キリストを自発的に受け入れた人を取り上げてみる(勿論、キリスト教はまだ初期の段階だが、理想的状況を取り上げる)。 つまり、人間の自我が、完全な自由意志によって、キリストの力を自我に流れ込ませた場合を考えてみる。 自我が進化してキリストに浸透されるまでになったとき、キリストの力はアストラル体を照らし出し、そこに注入されていたルシファーの力を中和するために流れ込む。 では将来、何が起こるのか? キリストの助けによってのみ、人間はルシファーから浸透した、アストラル体の中の、低級な性質を打ち消せるようになり、同時に、そのルシファーの力を、徐々に解放できるようになる。ルシファーの力は、人間の自由のために、地上のより低次の段階へと沈んでいったため、地上ではキリストの力を経験できなかった。 そのルシファーの力が、人間を通じて、キリストの力を経験し、救済されるときが来る。人間が適切な形でキリストの力を受け入れるなら、ルシファーも救済できる。 その結果、人間は、そのルシファーの力を受け入れなかった場合に比べて、より強くなっているだろう。 もし、人間がルシファーの力を受け取っていなかったらどうだったろうか? キリストの力は流れ込んでいたが、ルシファーの妨害には出くわさなかっただろう。人類は、これらの相殺的な力を一度は克服する必要が生じた事で、現在、可能となった程度にまで、善、真理、そして叡智などにおいて進化できなかっただろう。 人間はヒエラルキア(天使)の1つの位階だが、他の天使とは異なっている。 セラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)、キュリオテテス(主天使、叡智の霊)、デュナミス(力天使、運動霊)、そしてエクスシアイ(能天子、形態霊)、アルヒャイ(権天使、人格霊)、アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊)、そして、アンゲロイ(天使、薄明の霊)の一部とも異なっている。 (人類に関わるのはトローネからアンゲロイまでの7大天使といわれている。逆に創世記の宇宙をつくった7大天使は、セラフィームから、アルヒャイまでで、俗に、宇宙は7日でできた、といわれているが、日ではなく、天使の間違いで、宇宙は7大天使によってできた。) 未来を覗き見て、人間は、次のように考えるようになった。 「私は、自分の行いに向けた意識を、自我のなかに追求する。例えばセラフィームのように、神の意志からではなく、自分の意志から行う。」 キリストは、従わせるような形で働く神ではない。人間がキリストに従うのは、ただ本人の理解から自由に行うときに限られる。キリストとは、様々な方向に進化しようとする、自由で個人的な自我を妨げる事を決してしない神である。 キリストは霊言の意味で、次のように言う。 「汝は真実を知るだろう。そして、真実は、汝を自由にするだろう。」 そして、ヒエラルキアに属する天使たち、悪を行う可能性のあるルシファーたちは、人間の力によって、再び救済され、自由にされるだろう。 このように、宇宙の進化は単なる繰り返しではないことがわかる。新しい要素が入ってくる。人類が経験するような人間の進化段階は、以前の天使、大天使、権天使が人間だった段階で見られたようなものではない。 人類は成就すべき全く新しい使命、上述したような使命を有している。人類が地上に降って来たのは、この使命を達成するためである。キリストは人類の自由を支援するためにやって来た。上から働きかける神ではなく、多くの神々の中で、最初に地上に生まれた存在としてやって来た。 ヒエラルキアを構成する一員としての人類の尊厳と重要性を十分に把握できるのは、以上のような考察だけである。より高次のヒエラルキアたちの高貴な本性と栄光を見上げると、次のような結論に至る。 「天上のヒエラルキアたちが、いかに力強く、賢明で、善(真の道から逸れない)であっても、自由と、自由とともに、地上の言葉の真の意味で、愛と呼ぶものをもたらせるのは人類だけで、人類の偉大な使命なのである。」 というのも、自由なしには愛の存立は不可能だからである。 特定の情動=意志に従うしかない天使たちは従うが、自由が可能な人間にとって、自由を可能にする唯一の力がある。その力が愛なのである。 自由と愛は相対する2つの対極なのである。 愛が、地上の世界に入ってくれば、特定の情動=意志に従わないのが可能となるのは、自由、つまり、ルシファーと、ルシファーに打ち勝つ者(人間を救済する者でもある)、つまりキリストに負う。 地球が愛と自由の宇宙である、のは、この理由によるが、重要なのは、人類を、謙遜により、ヒエラルキアたちから遠ざけようとするのではなく、西洋の秘教で絶えず知られてきたような一連のヒエラルキアたちに精通するようになる事である。 セラフィーム、ケルビーム、トローネは神の眼下で伝達される直接の意志に従う。キュリオテテス、デュナミス、エクスシアイは、より高次の力にまだ密接に結ばれているため、人間の進化を可能にするための反抗命令を受け取らなければならない。 大天使や人格霊でさえ、間違いを犯せず、自らの自由な決意によって悪に陥ったりできない。人間の直上に位置するヒエラルキアたちは、預言者たち、或いは大預言者たちと呼ばれるが、それは、天使たちが、自分の仕事を成し遂げるのではなく、上方から受け取った命令を遂行するだけなのを示している。 一方、人間は自分の仕事を遂行するように、徐々に成熟していくヒエラルキアなのである。木星紀、金星紀、そしてヴルカン星紀の進化を通じて、人類は自己の意識の成就に向けて、徐々に成熟していくだろう。今日、この目標はいまだ遙か遠くにあるとはいえ、いつか人類はその目標を達成するだろう。 では、ヒエラルキア(進化の階層)とは何なのか? セラフィーム、ケルビーム、トローネから始める。第1位階の天使は神から受け取った意志を遂行する事で権威を確立する。次の第2位階のデュナミス(運動霊)は、上方から受け取った力に負う。それはエクスシアイ(形態霊)にも当てはまる。 もし、上述の天使たちが悪の存在になるなら、神界の決定の結果として、悪の存在になる。 そして第3位階の、人間のすぐ側にまで降りてくる権天使(人格霊)、大いなる御使い(大天使)、そして御使い(天使)に至る。 人間は、どのようにしてヒエラルキアの位階に組み込まれるべきなのか? 大天使と天使(大いなる御使いと御使い)の後に続いて、ヒエラルキアの位階に置かれるべきなのは、「自由の霊」、或いは「愛の霊」とでも呼べるような天使である。上から下に数えるなら、この天使は「10番目のヒエラルキア(天使)」となる。 この「10番目のヒエラルキア(天使)」はいまだ発達途上にあるにも関わらず、霊界のヒエラルキアに属している。 宇宙は単なる繰り返しで進化するのではない。進化の1つの周期が完結する度に、新しい要素が導入される。そして、その新しい要素を組み込むのは、常に一番下の人間の進化段階にあるヒエラルキアの仕事なのである。 今回の講義では、人間の意味と重要性を、宇宙の意義から考察することで、推し量ろうとした。人間の意義に関する霊的な質問を、少なくとも、ある程度投げかけた。そして、秘儀の教えに従って、宇宙の中心にある人間の重要性を確立しようと努めてきた。 人間の重要性を確立する中で、宇宙の中心の謎、つまり人間の謎を、宇宙から解明しようとした。宇宙を円とすると、その円周上にある霊界の観点から、中心点にある人間の謎を解こうとした! 円周から中心点の謎を解く事で、その知識を、地上の現実に置く事になる。つまり、この事が、真の人智学的知識が、現実的で、具体的な知識でもある、という本質である。言い換えれば、人智学の知識が、宇宙と霊的なヒエラルキアの像を、地上に直接つくり出す。 人間は宇宙の中心にいる。 ★ ★ ★ 人間は善と悪の中心にいる。善になるのも、悪になるのも、人間の自由なのである。
2017年06月13日
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35憶の35分の1も総理立候補者がいるのに、いまだに総理を続ける味のしないガムのような政権に、愛国心から、終止符を打つために久しぶりに書きたい。 せいぜい流行語しか生産してないアホバカ政権をみれば、黒幕が広告代理店なのは一目瞭然であるが、このインチキ出鱈目地獄堕ちアホバカ政権につける薬は、12連敗のレジェンドをつくった、賭博問題闇に葬り印象操作のクリーンイメージ監督に挿げ替えたゴミ売りクソツネ私物化球団と同じように、もはやないようである。 「半沢直樹」というドラマが数年前に巷で大流行したが、いま巷では、前川元文科省事務次官が、半沢直樹で、実は予言ドラマだったのではないか、と思わせる位のインチキ政権と御用ゴミ売り新聞の悪事と闘う話題の主人公となっているようである。 悪逆非道の連中の得意技は人権無視である。お仲間の強 姦容疑も警察使ってもみ消す始末。 アホバカ北ばりの独裁総理は、野党に対して「印象操作」と罵詈雑言するが、ゴミ売りを使って、元次官を東スポでもやらない非人権記事を書いて誹謗中傷の印象操作したのは、アホ菅悪逆非道コンビである。 地位にしがみつくと批判しているが、インチキしていまの地位にしがみついているのは、アホ菅悪逆非道コンビである。このコンビはかつてのナチスか東条内閣を彷彿とさせる。 とにかくこの売国奴非国民コンビを操る日本会議こそ、共謀罪の組織的犯罪集団そのものである。 このような悪逆非道を続けさせてはいけないという記事のリンク先を以下に紹介する。 前川潰しの恐怖政治に国民戦慄 内閣支持率はまだ下がる https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/206996 このようなインチキ政権を潰さない限り、そのインチキ政権を操る広告代理店やゴミ売りのような悪逆非道を解体しない限りは、この国の運命は危ういので、倍返ししなければいけない、という話を続けて紹介する。 ルドルフ・シュタイナー 「キリスト存在について」 その2 これから紹介する話は、唯物論を土台に信仰している現代人には、あまりに奇想天外なので、物語風に聞いた方がいいかもしれない。 私自身、唯物論を信じて疑わない現代教育を受けた時点では、無神論者だったし、世界は素粒子といわれる物質からできている、という前提に立つのが精一杯で、その壁を超えるのは不可能だった。 しかし、シュタイナーの人智学に出会い、オカルトといわれるグルジェフなど神秘主義、ドリールなどの神智学の本を読むにつれ、唯物論の限界を感じざるを得なくなり、また量子力学の確率論やディラックが意図した負のエネルギーや、超弦理論にでてくるDブレインやら、10次元やらを知るに至って、平行宇宙を考えた方が斬新的であるように思われてきた。 平行宇宙論とは、我々の宇宙とは異なる宇宙がある、という仮説で、まだ実証はされていないが、昔から言われてきた霊界を考えれば、現代物理学が考えてきた問題をすんなりとクリアできる。 簡単な例を挙げると、超弦理論にはホログラフィーを前提にした双対性というのがある。これは、原子核を結び付けているグルーオンの量子色力学の特徴とも関係しているが、原子核をつくっているクォーク同士を引き離そうとすればするほど、ゴムのように強く結びつこうとする特徴をもっている。 譬えるなら、愛し合っているカップルを引き離そうとするようなもんである。 また他の言い方をすれば、孫悟空と御釈迦さんの掌の話が思い浮かぶ。孫悟空は筋斗雲を使って、御釈迦さんの掌から抜け出し、なるべく遠くに行こうとするが、結局、抜け出せずに掌の上だったという話である。 遠くに行こうとすればするほど進まなくなる、という4次元の世界を表わしている。端的にいえば、アベコベの世界を表わしていて、人智学では時間が逆に進むアストラル界を指す。 霊界の1つにアストラル界があり、人間がこの世=地上でした行為と逆の行為がこのアストラル界に記録されるという。 つまり、地上の正のエネルギーに対する、負のエネルギーと考えてもいい。超弦理論でいえば、超対称性でもある。物質粒子が非物質(場のゲージ)粒子になり、またその逆となる。 地上でのある行為がいわば負債となってあの世の行為となる。 この双対性は、平行宇宙論を考え、この世とは逆の平行宇宙があるとすれば、そっくりそのまま通用する。地上での現在の行為は過去してきた行為の代償であることがわかる。 どういうことかというと、地上の行為とは逆の行為があの世のアストラル界に記録され、それが地上の人間のアストラル体に送られて、動機となっている、と捉えられる。 例えば、地上でAがBを殴ったとする、と、その逆のBがAを殴るのがあの世に記録され、Aは自分のその行為を償うために、地上で、Bに殴られる動機をつくろうとする。 どうしてそのようになっているのかといえば、カルマの法則からわかるように、自分のした行為が宇宙全体に対してどのような意味をもつのかを自分で体験し、検証する為であることが、人智学では説かれている。 また、シュタイナーは唯物論を否定しているわけではなく、それは宇宙の単なる表面をなぞっているにすぎないと述べている。 そして、人間は、宇宙の一部でしかなく、そういう意味では神の一部なのである。 だから人間は孫悟空のように、御釈迦さん=神の掌で、神の一部として、神の掌を体験しているというわけである。 さて、続きをはじめる。 ★ ★ ★ 太陽系の惑星は、古い土星(いまの土星ではない)からつくられた。太陽系は古い土星から始まったのは事実である。そして、その活動は、いまの木星ができるまで続いた。木星で、太陽系全体の創造が始まったとき、その外側にいる全ての霊たちも、その創造に参加した。 しかし、太陽より内側(金、水、月)の霊たちが太陽系を創始し、自身の進化を続けるために働いたように、外側(火、木、土)にいる霊たちもまた、外から内に向けて働きかけた。ある霊たちが、中心から外側へと退いたように、外側にいた霊たちも同じく退いた。 木星が縮小するに従って、退いていた霊たちが集まって、天王星をつくった。同様に、火星が縮小する間に、退いていた霊たちが集まって海王星をつくった。 天王星(ウラノス)や海王星(ネプトゥヌス)は、古代人が、上述のような事柄に相応しいように、つけた名称では、もはや呼ばれていないが、それでも、天王星という名前にはまだ重要な意味が隠されている。 天王星は、正式な名前をつける際、まだ上述の事柄を理解していた時代に名づけられた。だから、太陽系を超えて存在する惑星は、複数形の「天王星(ウラノス)」という名で表現された。 このように、この2つの惑星は(近代の天文学では、太陽系の惑星と同列に扱うが)、実際には、全く異なる基盤の上に立ち、太陽系には特に関係していない。 この2つの惑星は、土星紀に、まだ人類と何らかの関係を持っていた霊たちが退き、太陽系の外側に住む場所を確立したことで生じた世界を表現している。このような事から、例えば、これらの惑星が退化してゆく月をもつ、というような多くの事実が導き出せる。 以上のように、太陽系の進化過程を大まかに概観してきたが、次のような疑問が生じる。 実際、人間の祖先の、より高次の天使たちとの関係では、人間はどのような位置にあるのか? 最高位にあるセラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)から始まる。実際、最高位の本性を特徴づけることで、人間について正しく考えられる。 しかし、セラフィームを超えて行くと忽ち、聖なる三位一体の領域に入っていく。この領域こそが、セラフィーム、ケルビーム、トローネがもつ特別な、宇宙の他の存在たちには手の届かない場所である。つまり、この天使たちには「神を直接見る」権限が与えられている。 この天使たちは人間が進化過程を通じて、次第に追い求めなければならない能力に初めから与っている。 人間は、思考、感情、意志、その他の高次の能力を開発するために、今日いる場所から始めなければならない。それらの能力を少しづつ達成しながら、次第に神に近づき、神と共にいるようにならなければならない。このように、まだ隠れている能力に向けて、自分を進化させなければならない、つまり、「神性」に近づかなければならない。 セラフィーム、ケルビーム、トローネが高い場所にいて、人間は低い場所にいるが、この高低の違いは、上述したとおりである。霊(精神)的な進化のヒエラルキア(天使の位階)では、この第一位階の天使たちは、進化のはじめから、神である聖なる三位一体と共にあった。 第一位階の天使たちは最初から「神性」が見れる位置にいた。セラフィーム、ケルビーム、トローネは、人間が将来向かって進むべき能力を初めからもっていた。第一位階の天使たちは初めから、神を仰ぎ見、命がある限り、常に神を見ている、のを理解するのは非常に重要である。 第一位階の天使たちの全行為は、神を見る事を通じて行われ、神は第一位階の天使たちを通じて働く。第一位階の天使たちの行いは、神の行為そのものである。第一位階の天使たちにとって、神の行為以外は不可能である。 神を見る事は強大な能力と影響を及ぼすので、第一位階の天使たちは神の間違いのない確かさと直接の意志をもって命じられる事を成し遂げる。 熟慮とか判断に似たものは、第一位階の天使たちには存在しない。第一位階の天使たちには、見た通りに実行するため、直接的な意識を受け取るための、神の命令だけがみえる。第一位階の天使たちは、神を、その本当の姿のままに見る。 第一位階の天使たちは、自分たちを神の意志と叡智を実現する存在と考えている。 最高次のヒエラルキア(天使)が置かれている状況とは以上である。 キュリオテテス(主天使)、デュナミス(力天使)、そしてエクスシアイ(能天子)、あるいは叡智霊、運動霊、形態霊と呼ばれる次のヒエラルキア(第二位階)にまで降りてくると、神を直接見れなくなる。 第二位階の天使たちは、神を直接、つまり、神を見ることはないが、神の顕現を、いわば神の表情を通じて、神が自らを現す、のを見る。 第二位階の天使たちには神の表情は自明である。セラフィーム、ケルビーム、トローネと同様、第二位階の天使たちもまた神の顕現を実行するための直接の意識を受け取る。その意識は強力ではないが、それでも直接的である。 セラフィーム、ケルビーム、トローネにとっては、神の命令を実行しない可能性はない。命令の不実行は考えられず、それは神の近くにいるためである。 また、キュリオテテス、デュナミス、エクスシアイにとっても、神が意志しない行為は問題外である。とはいえ、世界が更に進化していくには、何か非常に特別な事が介入する必要があった。 さて、神秘学の叡智において、ある程度の進化に到達した人たちでさえ理解が困難なテーマを紹介する。古代の秘儀では、次のような形で理解を可能にした。 古代の秘儀への参入で、弟子は残虐で恐ろしい形相をした敵対勢力が現れる段階へと導かれた。そして、その勢力は、弟子の目の前で、考え得る限りの恐ろしい所行をした。 実はこれをしたのは、仮面を被った司祭や聖人たちだった。必要な試験を行うために、司祭たちは恐ろしい、幽鬼的な姿に仮装し、考え得る限りの恐ろしい所行をした。 一体何のためか? 秘儀参入者である司祭が悪の姿で、悪の仮面を被って弟子の前に現れたのは何故なのか? それは、進化が、正しい道から、いかに遠く外れ逸れてしまうものか、という現実を弟子に示すためである。弟子に、悪に直面する、といういわば幻想を抱かせた。その後で、仮面を脱ぎ、弟子は真相を知った。幻想が拭い去られて初めて、弟子はその場面が試験であった、のを知った。 弟子に、悪に対して防御させるために、過ちを犯すはずのない司祭が忌まわしい姿で示した。これは宇宙進化の中で実際に生じた出来事の反映である。 火星進化と木星進化の中間段階に当たる時代を通じて、いささか浅薄な表現をすると、デュナミス=運動霊たちに対して「反抗命令」が出された。運動霊たちは、進化の影響を及ぼす代わりに、障害が生じるようにした。 この出来事は「天上の戦い」として知られるようになった。「反抗命令」を受けた運動霊たちの行為は進化に障害を生じさせたが、それは、天使たちを支配する宇宙の力が、もし、このまま進化がなだらかなら、新しい存在が生じない、と悟ったからである。もっと偉大な存在が生じなければならない! さていま、例えば、荷車を前に押しだすことで、筋力の発達を考えてみる。もし、荷車に重い荷物を積めば、強く押さないと動かないが、軽い荷物よりも、大きな筋力を発達させるようになる。 そこで、次に、神が宇宙の進化を木星紀に至るまで、更に、それを越えて進めようとした事を想像する。確かに人類はよく進化したが、その進む途上に障害が置かれたら、更に強く進化する可能性がある。 だから、運動霊たちが、反抗命令を受けたのは、人間を更に善に導くためだった。当初、運動霊たちは悪の存在ではなかった(悪の力と見なす必要はない)。むしろ、運動霊は進化の途上で障害を置くために自らを捧げた、と言っていい。 だから、これらの運動霊は、広義の意味で、「妨害の神」、或いは「抵抗の神」と呼べる。運動霊は進化の道に沿って置かれた障害、或いは抵抗の神たちだが、その障害や抵抗が置かれた瞬間から、未来に達成すべき事柄を成し遂げる可能性が生じた。 抵抗命令を受けた運動霊たちはまだ悪の存在ではなく、反対に、いままでの進化過程に反抗することで、進化の偉大な促進者となった。とはいえ、運動霊が創り出した嵐(障害)の中から次第に悪が生じた為に、悪の創始者となった。 「抵抗命令を受けた」運動霊の進化過程は仲間の運動霊とは非常に異なったものになった。これらの運動霊の活動が非常に異なったものになったことで、「月」の進化過程において、これらの運動霊たちは、当時の「天使([人間]の1つ上の位階)」たちの誘惑者となった。 「月」の進化段階で、「天使」たちは人間の段階を卒業していた。進化におかれた障害の影響を目撃した「天使人間」が「月」の上にいた。 「天使人間(当時の天使)」は次のように考えた。 「今、この障害に立ち向かい、「月」進化の流れの中に飛び込んでいけるが、それを差し控えたい。月の中に飛び込むのではなく、善き神々と共に上方に踏みとどまるのを選ぶ。」 以上の天使たちは、下方で月の進化が進展する間、その進化に障害をもたらした運動霊たちと袂をわかった。 ところが月の上には、また別の考えを持つ次のような天使もいた。 「我々は、これらの天使たちには追従しない。何故なら、追従したら、進化は停滞し、新しい可能性が生まれないから。」 確かに、月の進化以降、新しい可能性が生まれたのは、障害がもたらされたからである。 また、次のように考える天使たちもいた、 「我々は下方で起こる障害には関わりたくない。我々は劣った者たちとの交流を望まない別の運動霊たち(反抗命令を受けていない)と共にとどまる。」 反抗命令を受けた運動霊に追従しなかった天使たちは、古い月(今の月ではない)の進化が続いている間、月の塊から離れて、太陽の中で生じていた進化過程の追従者となった。この天使たちは、障害が与えられたために、太陽から放り出された月の上で生じていた進化過程に関わるのを望まなかった。 しかし、月の中に飛び込んだ天使たちは、月に進化の障害があった為に受け取る事になったもの(遺伝など)を、肉体をつくる本性の中に取り込まなければならなかった。もし、取り込まなかったら、なっていた存在よりも、もっと新しいもの、つまり自らを硬化させる必要があった。 (自由な個人の誕生) 月の進化の障害のなかに降下した天使たちの肉体の鞘は、以前より濃密になり、運動霊による反抗の結果を、その体の中に担うことになった。とはいえ、運動霊=デュナミスの行為は、神の宇宙進化計画の中に確実に基礎づけられた事は覚えておく必要がある。 (悪は神によりつくられた。) 以上の出来事は更に次のような結果をもたらした。月の進化が地球の進化に移行したとき、月の過程が、地球初期で繰り返された。月進化の潮流のまっただ中に自らを投げ入れた天使たちは、関わりを持たなかった天使たちと比べ、進化上遅れを取る事になった。 また更に遅れをとる天使たちがいたが、退行する進化に魅了されたからである。 だから、以上の出来事が起こった結果、地球進化の間、二種類の天使人間がいる事になった。先行(進化)していた天使たちと、後に取り残された(退行した)天使たちである。 先行する天使たちはレムリア期になると人間への働きかけを開始したが、それは人類が人間の自我の種子を受け取れるまでに成熟していたからである。 天使たちは人類にいわば選択肢を提示したが、その選択肢は、月の進化段階以降、宇宙の進化過程から逸脱した堕天使とは、関わりを持たずに、霊界に直接上昇するものだった。 人智学徒がルシファーと呼ぶ、進化から遅れた天使たちは人間のアストラル体への働きかけ(ルシファーたちは自我をもつまでには進化できなかった)を開始すると共に、「天上の戦い」の結果をアストラル体の中に注入した。 運動霊たちが反抗命令を受けて「天上の戦い」に参加し、「障害の神」となったことから、その行為の結果が人間のアストラル体の中に侵入し、別のより重要な意義を持つようになった。というのも、その結果、人間に、過ちと悪の可能性が生じたからである。 このように、人間は間違いを犯す可能性と悪の可能性を、ルシファーに与えられたが、同時に、自力で、間違いと悪を乗り越えて上昇する能力も受け取った。 第二ヒエラルキア(天使)に属する運動霊=デュナミスにとっては、悪となる可能性は全くなかった。運動霊は反抗を命令されただけである。第三ヒエラルキアに属する、人間に最も近い天使だけが、妨害をもたらす運動霊につき従う事も、もしくは、つき従わない事もできた。 障害に屈服しなかった天使たちは、天上で戦い得られた勝利を描く絵画の中に表現されてきた。この勝利を描いた絵画は、人間がアストラル体への受肉、つまり動物人間の段階にまで進んでいた月の進化段階に生じた出来事を表現している、と考えられる。 反抗に従わず、純粋なままだった天使たちは、月の進化過程に囚われず、下方の月上で起こった障害を免れた。 以上の出来事は様々な形で人間の霊魂の前に提示される。以上の話は、まずミカエルと龍の戦いとして表現されている絵画などに見つかるが、ミトラ教の牡牛の絵図にも割と明らかに表現されているが、その牡牛の絵図の中の、天使たちは、自らの義務を放棄したものではない。 以上の絵図が意図したのは、人間の将来の理想を描く事である。その絵図は次のような事を意味した。 「堕天使たちは下降するよりも、霊界に上昇するのを好んだが、人間の霊魂は『進化の障害たち』に従った堕天使たちと共に下降した。人間の霊魂は、いま取り入れた障害(遺伝)を克服し、その成果を霊界へと運び上げるかどうかは、人間自身にかかっている。天国に向かう道の途上で、人間はミカエルや雄牛の征服者になるような理想が求められる。」 この出来事の象徴は、上述のような二重の意味で理解されなければならない。 だから、以上からわかるように、人類が自分の力で、その目的を達成する可能性(セラフィームでさえ、自分の努力によっては達成できない)が与えられたのは運動霊たちが反抗命令を受け取ったからに他ならない。最も重要なのは、この事実にある。 セラフィーム、ケルビーム、トローネたちは、神が与えた直接的な意識に従う以外はできない。主天使たち(第二ヒエラルキア)も同様である。ただ運動霊の位階に属する一部が反抗命令を受けたにすぎない。 反抗命令を受けた運動霊が、進化の道筋を横切る障害のように身を投げ出したのも、神の命令に従ったにすぎない。「悪の源泉」と呼べるものを生んだのも、ただ神の意志を遂行したにすぎない。自らを悪の僕にする事で、この運動霊たちは、悪という回り道により、善をより強化した神の意志を達成した。 さて、では能天使、あるいは形態霊と呼ばれる天使たちにまで下ってみる。この天使たちも運動霊と同様に邪悪になれなかったが、この事はその下の人格霊(アルカイ、権天使)や火の霊(アルヒアンゲロイ、大天使)にも当てはまる。 というのも、大天使が太陽の上で人間の進化段階を経験していたときには、運動霊たちはまだ反抗命令を受けず、悪になる可能性もまだなかったからである。 悪になる可能性を、最初にもつのは天使(アンゲロイ)だが、この悪の可能性が、月の進化段階以降に生まれた事による。「天上の戦い」は太陽から月への移行期に起こった。 天使たちの多くがこの悪の可能性(誘惑)を拒否した。誘惑を拒否した天使たちはそれまでの本性に忠実であり続けた。このように、天使に至るまで、そして天使の一部もだが、より高次のヒエラルキアも、神の意志に従う以外はない。この事が最も重要である。 だから、二種類の天使たちがいる。第一に、運動霊たちが「天上の戦い」で生じさせた障害の中に身を投じた天使たちがいる。この堕天使たちは、後の行いにより、ルシファーと呼ばれた。 ルシファーは地球の進化の間に人間のアストラル体に働きかけるようになり、人間に悪の可能性を導入したが、同時に、自由な活動を通して、進化する可能性も導入してしまった。 だから、ヒエラルキアの位階の天使たちのなかで、自由の可能性が見つかるのは、天使の一部と人間だけである。自由の可能性は人間の1つ上の位階の「天使」から始まるが、十分に進化させれるのは唯一人類だけである。 人類が地球へと降りてきたとき、最初、ルシファーの大群による圧倒的な力の餌食にならざるを得なかった。 ルシファーの大群の圧倒力が、人間のアストラル体に浸透した結果、自我はその力の中に絡め取られた。古代レムリア期や、古代アトランティス期、そして、その後の時代でも、自我が、ルシファーの影響により生じた(アストラルの)雲の中に包み込まれている、のがわかる。 以上のような人間を弱体化させるような力に圧倒される事から、人間を守れたのは、上方にとどまった天使たちが人間に影響を及ぼし、人類を指導するのに選出された人物たちに受肉したからである。これらは後の重要な出来事が起こった時まで続いた。 それまで太陽と結びついていた天使(形態霊)が、かつての高次の霊たちのように、人間の肉体、エーテル体、そしてアストラル体に浸透できるだけでなく、人間の自我にまで、浸透できるほどに進歩した。 遥か古代では、高次の天使たちが下降し、人間の肉体、エーテル体、アストラル体に魂を吹き込んだ、という話を前に述べたのを覚えているかもしれない。 さて、時代の流れのなかでの、特別な瞬間に、最も気高い天使(かつては太陽と結びついていたが、今度は、自我の中にまで霊聴で働きかける霊)を、自我の中に受け入れるのに選ばれた個人(イエス)が立ち現れた。 自我は血を通じて、自らを表現する。血が自我の物質的表現であるように、血の熱、或いは火(体温)は、古い土星の火の名残りだが、自我の霊的表現である。 この自我の天使は、二重の形で、自らを表現しなければならなかった。火という霊的表現で、燃える林と、シナイ山上の稲妻において、自らをモーゼに告げ知らせた。 この自我の天使は、人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴から、モーゼに霊聴で語りかけた。 この自我の天使は、その暁を準備した後、血に浸透された体、つまりナザレのイエスの体の中に現れた。この太陽霊は、地上の個人の中に入り込んだ。人間の自我はそのとき、自我に浸透した力に益々満たされ、飽和するだろう。 人間の自我が太陽に満たされる事で、人間の自我は、自力で、自我を引きずり下ろそうとする力の影響を次第に克服できるようになるだろう。というのも、人間の自我に浸透した、この太陽霊は、以前、地上に下降し、肉体、エーテル体、アストラル体に魂を吹き込んだルシファーの性質とは全く異なるからである。 そこで、古代の聖なる導師(リシ)たちを考えてみる。以前述べたように、高次の霊は、導師のエーテル体の中に住んでいたが、それは崇高な霊が、偉大なアトランティスの祖先たちのエーテルの中に住み、それを聖なる導師(リシ)たちが引き継いだためである。 高次の霊の住むエーテル体は、聖なる導師(リシ)に伝えられたが、エーテル体から霊聴を通して流れてくる内容を、当時の自我とアストラル体では理解できなかった。時代から時代へと続く流行などは、理解できない霊聴のようなものだった。 人間は霊聴を受け取ってきたが、霊聴を受け取るときには常に自分のなかに、何か力のような存在を経験した。霊聴とは、今でいう、才能で掴むようなものだったため、自力で何とかする(努力)という、今では普通にある力は当時は衰えていた。 当時の人間が進化し、向上するには、より完全な高次の霊からの霊聴を受ける必要があった。宗教の創始者たちは皆、霊聴を受ける必要があった。天上の戦いを超越していた高次の霊たちが、宗教の創始者たちの中に霊聴を吹き込んでいたために、人間たちは自力に頼り、努力するようにはなっていなかった。 しかし、キリストという、以前とは全く異なった本性が現れた。キリストという存在は、全く何も強制しなかった。キリストへと導くのに、強制力を全く行使しない存在だった。この事は重要である! 例えば、キリスト教の伝播を考察すれば、キリストがキリスト教の布教について、その生涯には何もしなかった、という生き証言を見つけるだろう。 また、古代の宗教創始者たちを考察すれば、確かに偉大な人類の教師たちである。彼らは、人類の進化の、ある特定の瞬間から教えを伝え始め、そして、その教えは圧倒的な力をもって人類に働きかけた。 では今、改めてキリストについて考えてみる。実際、キリストは、その教えを伝え続けたのか? キリストの主要な貢献が、その教えにある、と考えるなら、キリストを真に理解していない。少なくとも第一義的に、キリストは、その教えではなく、その行いを通して働きかけた。 そして、キリストの最も偉大な行いとは、彼の死によって行いが終わった事である。その行いに実際の終止符が打たれた事だった。この事が重要である! キリストは行いを通じて働きかけた。そして、キリストの行為に関する知識が、世間に広まり始めたとき、もはやその行いは物質的には存在しなかった。この事がキリストと他の偉大な宗教創始者たちとの根本的な影響の違いである。この違いの理解は全く困難だが、最重要な違いである。 キリスト教の教えは記述でき、その教えは他の宗教の中にも見つける事ができる。この事は否定できない。確かに、キリスト教の教えの本質は、他の宗教の中にも含まれている。 しかし、キリスト教が広まったのは、その教えの内容を通してなのか? キリスト教を広めるのに多大な貢献をした人物は、その教えに頼ったのか? そこで、使徒パウロについて考えてみる! サウロからパウロへと、彼の変化が生じたのは、聖書の中に書かれている教えによるものだったのか? 彼は、十字架上で死を遂げた人物が雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロが、キリストは「生きている」という事実についての彼自身の個人的な神秘体験を持つまで、キリスト=イエスの追従者たちを迫害していた。 キリストの死や、キリストの行為の影響を、実際に体験する事が、パウロへの改心となったが、その事が問題である。他の宗教体系は、その教えを通して働き、その教えはキリスト教の中に見つかるのと同じだが、キリスト教では、教えは重要ではない。 本質は、キリストの「行い」にある。 キリストの行為が、ある人に実際に働きかけるのは、その人が、キリストの行為を実践するのを決意したとき、つまり、個人の自我がもつ絶対的に自由な意志と、その行為とが、1つに結びついたときだけである。人間のアストラル体の中にキリストがいるだけでは不十分である。 (キリストはエーテル体で地上にいるからである。キリストの復活とは、各個人がキリストが行った通りに行うことなのである。) キリストを、真に理解するには、自我の中にキリストがいないといけない。そして、自我は、キリストの受け入れを自由に決断しなければならない。この事が重要である。 ★ ★ ★ 悪に屈してはならない。キリストを受け入れずに神の国に行くことはない。 キリストを受け入れるとは、キリストが行った通りに行うことである。教えではない。
2017年06月05日
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