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かつてマッカーサーが、この国の住人の精神年齢が低いというような発言をしたが、この国の住人として、至る所に弱い者虐めが蔓延っている現状に、正直、その発言に納得してしまう今日この頃である。 前回、戦国時代の権力者の歴史を紹介したが、現在も、やっている事はほとんど変わらないばかりか、相変わらず旧態依然の身分制度が続いている。 天皇以外は平等というのが、明治維新の少なくともスローガンだったはずなのに、幕府が薩長閥に、旧大名が貴族に変わり、時代が移り変わるとともに、身分制度がそのまま上級市民と、下級市民に区分けされてきただけで、上級市民の放漫財政が続けられ、そのあおりで下級市民の税金の取り立てが深刻化し、恐ろしい事に、アホバカが総理になってから、中世にまた逆戻りし始めている次第なのである。 つまり、時代に逆行し、ジミンを中心に貴族制度を復活させようという気配がみえるのである。 余談だが、シュタイナーが、中国や日本が次の時代の精神を獲得できないのは、以上のような懐古主義に埋没する傾向があると指摘している。つまり、かつての古代アトランティス時代の精神を取り戻そうとする後ろ向きの思考形態にある。 時代に逆行するということは、進化に乗り遅れることで、この世から消滅する、ということを意味する。 宇宙はより多く、多様な存在を生み出し、多くを救い、まとめていく。老子の「天網恢恢疎にして漏らさず」である。 人類にとって幸福なより良い社会や生活を築くのが政治であり、それには個人が自由で平等で博愛を尊重するのが不可欠である。個人が政治家でなければならない。政治家だけに政治を任せてはいけない。 全員が政治に参加して、全員のための政治をしないといけない。特に弱者を助けないといけない。 少し前に巷で有名な脳科学者が、日本のお笑いは政治ネタを扱わないのでレベルが低いと発言し、巷を賑わせたが、お笑いが低いのではなく、政治のレベルが低すぎるのが問題なのである。 アホバカ政治家が無能なので、批判させるのを恐れる位レベルが低く、自己都合しか頭にない幼稚なのである。 いま米国では、人種差別に抗議するために、スポーツ選手が、国歌斉唱に跪く行為にアホバカトランプがまたまたKYおバカ発言をして、人種差別騒動を余計に拡大しているが、この国にも、似たような話が随分前にあったのを思い出す。 教職員が、学校の「君が代」斉唱に起立しなかったのに対して、国歌を冒涜しているなどというバッシングが盛んに行われたのを思い出したからである。 そのときは日本懐疑なるカルト集団を中心に、バッシングが巻き起こり、惨系などが、共産党に絡めて、日教組まるごと、まるで非国民のような報道をしたような記憶が残っている。 ある政治家は、米国では当たり前と知ったかぶりの俄か知識をひけらかしバッシングに加わっていたが、米国の憲法にある表現の自由と、我が国の憲法の表現の自由についての無知さを、米国の現状から曝け出している。 米国では、この国のように権力者による弱者苛めが起こらないのは流石である。 大統領でさえ、間違った発言をすれば、非難されるのが、健全な自由民主主義である。 対照的に、この国では、総理という憲法では単なる公僕にすぎないのに、平成帝を引退に追い込み、国家の最高機関を自己都合で解散し、三権分立を無視し、権力に阿る不正の権現騙すゴミを使って、独裁者ぶりを発揮しているのは、ミサイルを頻繁に飛ばして得意気になっている北の惨状と変わりがない。 権力者が中心になって弱い者苛めをするのが、ニッポンの正体なんである。 つまり、この国の住人の精神は、中世以来進歩していないのがわかる。文明開化や欧化政策で、物質的技術は獲得したが、精神が進んでいないのは、いまだに差別が巷に横行しているのでわかる。 その例として、昨今の厚労省のフリーターに対する偏見を助長するビデオがある。 このビデオをみると、フリーターを仕事ができない人として差別しているようにみえる。このビデオは、この国の差別問題を象徴している。問題を論理的に解決しようとするよりも、弱い者にバッシングすることで、すましているようにみえる。 若者の安定した雇用は、政治の要諦なのに、単なるバッシングですませているのは、国家としての政治がうまく機能していないせいである。日本は統一されているようで実は統一されていないように思える。中世の地方分権が、つまり大名家が欧化して、看板だけ変えて、そのまま企業になって、企業が中世の国のような機能や社会福祉も担いながら、利益追求に変わってきた。 やがて、夏目漱石が憂いたように、精神が中世のままで、外側の物質だけが近代化してきた。そして、近代国家という概念に乏しい無知なアホバカ総理のような人物が自己都合で政治をやる。 この国の住人の精神、弱者救済の精神を成長させないといけない。 そういうわけで、その警告としてお馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ アベノミクスでリーマンショック級大災害 http://my.shadowcity.jp/ 小池BBAが出て来たら、すっかりアベシンゾーの影が薄くなってしまった。ほとんどTVにも出ないしw 消費税なんだが、上げるんだったらとっとと上げて、日本経済を早く破綻させた方が良い。今の8パーセントというのは、これ以上高率になったらかえって税収が減るという分岐点を過ぎているので、上げたら確実に、経済が破綻します。一度破綻しないと再生も始まらない。 安倍晋三首相は26日に出演したテレビ番組で、2019年10月に予定される消費税率10%への引き上げについて、08年のリーマン・ショック級の事態が起きた場合は見送ることを示唆した。首相は過去にも「リーマン級の危機」を理由に増税を延期した「実績」があるだけに、「3回目の延期もありうる」との見方が出ており、波紋が広がっている。 10パーセントへの引き上げは、まぁ、普通に考えたら不可能だ。日本経済が壊れる。だからアベシンゾーもグズグズしてるんだが、だからって「上げろ上げろ」と煽るような真似をしているから、民進党は消滅してしまった。やっぱり、アベシンゾーが引き上げ阻止というんだったら、野党は「消費税廃止」だろw ★ ★ ★ 政治は滅茶苦茶なんで、せめて、医療だけは、マトモに進んでほしいので、人智学的医術の紹介を続ける。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」 第七講1920年 3月27日 ドルナハ -------------------------------------------------------------------------------- これまで注目してきた事例は、地球(地)や宇宙(天)への人間の適応について、第一に基礎とすべき知見だったが、地上の場所や天体の軌道というような、どちらかといえば空間的性質のものだった。この空間的性質を、時間的な性質と結びつけなくてはならない。 というのも、決して忘れてはならないのは、人間や人体を、宇宙全体の活動から観察する必要があり、すなわち、宇宙のなかの人間は、子供であると同時に成人でもあり、また老人でもあって、この成長についての3つの時間的要素が、更に、人体の各器官=臓器にも関わる形で組織されている、という事実である。 これまでの考察から獲得してきた知見を、更に霊的な知見と結びつける必要がある。そのようにして初めて、個人の人体にアプローチできる。 特に、注意すべきなのは、子供の教育に年齢の差、つまり誕生から歯の生え変わり(約7歳)までと、歯の生え変わりから性的成熟期(約14歳)までの成長の差を考慮しなくてはならないように、医学も、年齢差、すなわち誕生から死までの成長を考慮しなくてはならない。 既に述べたように、人智学の慣用表現をまず用いる。その後、最終的には、一般にも広くわかるような表現に翻訳できる段階に到達できればよいだろう。翻訳が容易にできるまでのしばらくは、この表現で考察を続け、先に進む。 特に、例えば、人体の観察で重要なのは、人智学でいう、「自我」と「アストラル体」が機能するように、肉体に加わるのは、7歳から大体14歳の時期である、という事である。 この時期から、「自我」と「アストラル体」の機能が、肉体の器官=臓器のなかに浸透し、その後、柔らかく弾力をもつエーテル体と共に実際に活動していく。従って、この時期に、高次の機能(霊魂)が低次の機能(肉体)に加わるのに関係した障害が出現するのも驚くにあたらない。 この障害は、特に7歳から14、15、16歳にかけての、つまりせい的な成熟を目指して、エーテル体が物質(肉)体に対して優位な立場を獲得する時期である。このとき、物質(肉)体とエーテル体の間の弾力が咬み合わない可能性が様々な形で現れる。 アストラル体の課題は、物質(肉)体とエーテル体の間に均衡をもたらす事なのである。物質体とエーテル体が共同して働かないと、アストラル体は、それを強化しなくてはならなくなる。その際、アストラル体が十分な力を持たないと、外科(物質)的に処置が必要な症状が現われてくる。 だから、この時期に、例えば「舞踏病」のような、物質体の放縦というような症状が現れるのがわかる。このような症状が物質体で生じる他に、精神的な障害にみえる症状が生じるのは、物質(肉)体とエーテル体の調停を、アストラル体が行えずに、異常になっているのに関係している。 更に、「舞踏病」と同様の症状が妊婦にも現れる、のがわかれば、以上の事実が究めて自明となるだろう。というのも、妊娠では、物質(肉)体とエーテル体の調和がしばしば妨げられ、この時期のアストラル体と同じ役割が、妊婦のアストラル体に求められるからである。 (妊婦の腹のなかの子にエーテル体が浸透しようとするので、母親と子のエーテル体や肉体の調和が困難になり、ツワリなどが生じる。) 従って、この時期に現われ、また妊娠に付随する症状には、アストラル体の調停力を強め(この問題は次回以降提示していく)、物質体とエーテル体に均衡をもたらす薬を探さないといけない。 このような症状について(年齢を考慮に入れるのが大切と強調してきたが)、多発性関節炎に類する症状を最終的に呈する本質的な発症の時期が、14、15、16歳から20歳の終わりになってからなのがわかるだろう。 (アストラル体の調停力が、完成するのが14、15、16歳から20歳の終わりだからである。その調停力が弱いと、物質体にエーテル体がよく浸透できずに、関節炎が発症する。エーテル体が物質体に浸透できずに、分離したままだと、腫瘍などができてくる。) 何しろ、この時期は、アストラル体が、物質(肉)体とエーテル体を、正しい位置に関係づけなくてはいけないため、その準備が不十分だと、正しい関係を保てずに、すぐに症状が出現するか、年齢がもっと進んでから出現するか、のいずれかとして現れる。 だから重要なのは、時間(年齢)を、病気の研究のなかに取り入れる事である。少々大胆に言えば、病気の治療を、容易に読み取れるようには、人体は都合よくできていない。 治療を、楽に読み取れるようには、人体はできていない。治療法が人体から楽に読み取れるのを期待しすぎている。 「症状が同じなら治療法も同じ」、という原則は、ある意味で正しいが、同じような症状でも、発症した年齢が異なれば、別の治療法が必要となる。 例えば、20歳前に、ある症状を生じさせた物質薬が、20歳以降では、逆にその症状の治療薬となる事もある。だから、よく主張される「症状が同じなら治療法も同じ」という原則には、年齢を考慮しなくてはならない。 しかし、健康、病気を問わず、人体をみるのに重要なのは、若年と老年という、2つの互いに対極を成す年齢の間に生きている事実である。若い頃には、老年とは別の影響に曝されている。 若年には、前回述べた事例に従って表現すれば、太陽の上位の惑星の影響、つまり土星、木星、火星の影響を多く受け、晩年(老年)になると、太陽の下位の(惑星)の影響、つまり金星、水星、月の影響が大きくなる。しかし、そのなかでは月の影響は比較的、最も早く、最も明確に現われてくる。 以上から、人体の考察にあたっては、空間的性質を時間的性質に結びつけねばならないのがわかる。そうしてはじめて、人体に現われてくる諸現象を正しい光のなかで見れるようになる。そして、正しい光のなかで人体を見るにはどうすべきか、また個々の症状にも少しずつ触れていきたい。 人体への作用は、根本的に、誕生前や受胎前から既に始まっている。このような事例を研究してみると、「一般に用いられている医学書のなかに、[原因不明の]とか、[原因を正しく特定できない病気]という記述があまりにも多いのは一体何故なのか?」という疑問が浮上する。 その理由は、次のような事実に全く注意を払わない為である。 「前回示した天体の作用により、3つの複合体(自我、アストラル体、エーテル体)が、誕生前だけでなく、受胎前に既に存在し、それらの肉体への作用が、受胎後や誕生後に、いわば写真を写すかのように、ネガとポジのように反射し、反作用を生み出す。すなわち、受胎前から既にある作用は、受胎後、もしくは誕生後に肉体に反作用を生み出す。」 だから、人生で観察できるのは、誕生後のいわばポジの写真だけで、それは受胎前に宇宙や自然との正当な関係のなかで既にあった作用に対する反作用なのである。 上述の反作用は、肉体の、特に骨化や硬化と非常に関係があり、受胎前には、既にその反対の活動を本質としてもっている。この反対の活動は、受胎前の人間の霊魂の拡大や増殖の活動に対して、反作用として正常なエーテルの形成活動に影響を与える。この事に注目する事が極めて重要である。 上述のように、硬化の活動を、受胎前や誕生前の人間の霊魂に現われてくる地球外(天)の作用と関係づけなければ、硬化症などを制する事はできない。 さてしかし、人体に出現しなければならない活動が、限界を超えて、つまり、均衡を超えて、内側(霊魂=精神)に向かう可能性もある。硬化、もしくは骨化のような活動が度を超し、均衡を超えて、つまり強くなりすぎ、霊魂=精神に向かう可能性もある。 すると、硬化、骨化は全く異なった形で出現する。最初は、霊魂=精神の素質で現われるので、この素質を探究しないといけない。 正常な骨化や硬化の活動が、人生の経過のうちに、度を超えて異常になってしまい、反対の軟化や増殖へと転じると、つまり、骨や骨格など適度の形成へと向かわずに、エーテル体のなかで展開すると、受胎前の異常な反対像が、様々な種類の癌腫への素質として現われてくる。 以上の事実に注目するには、人体の生成などを、宇宙全体の活動から洞察する必要がある。霊的に洞察しなければ、癌腫のような症状は、未知の病気となるだろう。 癌腫は、人体に必須の作用が、変成し、物質以外の領域に移行した結果と関係づけなければ、未知の病気となるだろう。 更に、別の症状も、同様に観察できる。幼年期に、水頭症や脳水腫の傾向として出現する症状もまた同様に観察できる。人間は皆本来、水頭症の素質をもち、水頭症となるのは必然なのである。もし水頭症にならなければ、脳や神経は正常に形成されないだろう。 というのも、脳や神経は、人体のなかの、液体性=エーテルから引き出されるからである。従って、幼年期には常に水頭症になる傾向と、水頭症の傾向を克服し、抑える活動との闘いが見られる。 (恐らく、ヘルパーT細胞のTh1とTh2に関わるものと思われる。) 実際、水頭症だけ語るのではなく、その反対の、つまり脳水が減少し過ぎる症状も語らなくてはならない。この脳水が減少する病気は、もしかすると、ほとんど考慮されていないかもしれないが(脳脊髄液減少症=低髄液圧症候群)、実際に考慮しないといけない水頭症の対極にある病気である。 幼年期には、水頭症と、その後に起こる反対の症状(脳脊髄液の減少)の両極の間を、一方から他方へと揺れ動く活動がみられる。 (幼年期には、水頭症と脳脊髄液減少症の動的平衡にある。) さて(臨床については今後詳しく入っていくが)、以上について見落としが起こる可能性がある。つまり、水頭症が、完全に完了する大凡の時期、いわば正しい水頭症の時期を見落とし、水頭症への傾向を、食餌療法や教育などにより、あまりに早く取り除いてしまい、つまり水頭症の傾向を、あまりに早く消滅させてしまう事態が起こる。 以上のように人生全体を見ない弊害が現われてくる。というのも、幼年期の水頭症と、後になって現われる梅毒になりやすい素質との関係を探究すれば、医学の博士論文を多数提供できるからである。 梅毒について、微生物を追求しても、実際には、ほとんど新しい知見は得られない。上述の事実を考慮すれば、新しい知見が得られる。梅毒の予防に究めて効果をあげるには、幼児の頃に、水頭症が正しく推移するように、機敏に配慮し、対処すればよい。 (水頭症となることで、様々な液性免疫をつくりあげるのでは。だから、早期に水頭症の傾向を取り除くと、免疫が未完成となる。昨今のアレルギーはこの水頭症を取り除く事にあるのではないか?) 少なくとも、診断の際に念頭に置くべき事は、以上の症状などについて、人体の成長活動の原点へと立ち返っていく事である。さて、この点について究めて重要なのは、次のような事である。 「人体の活動全体が移動していく事、つまり、人体上部の活動や、人体下部の活動も下腹部を経て、心臓に向かっていく、という事である。上下の調停を行う平衡器官=臓器の心臓に向けて、活動が、上下から押し寄せていく。」 しかし、このような移動は、様々な年齢で起こる。特に思春期に現われてくる症状、例えば、肺炎、もしくは胸膜炎に通じる症状の霊的な観察を習得し、総合的に考察すれば、この肺炎、もしくは胸膜炎は、水頭症が後年に進んだ症状で、幼年期に水頭症として現れる活動と同じ活動なのがわかる。 端的に言えば、水頭症が、一段下の胸部へとずれて、肺炎、もしくは胸膜炎になりやすい素質をつくる。だから、思春期の肺炎、胸膜炎は、幼年期の水頭症になりやすい素質でもある。 しかし、これらの幼年期の症状が後年では、その反対の経過を辿り、今度は、その対極の症状として現れる場合もある。 例えば、「患者の病歴のなかの、肺炎、もしくは胸膜炎に関わる症状が、思春期に、どのように現われたのか、知りたい」というような疑問をもてば、急性も含めた心内膜炎について、以上の見解を基に対処できる。 心内膜炎の背後には、思春期(14歳前後)に、肺炎や胸膜炎の症状が早められたり、もしくは急速に取り除かれたりした事が判明する。当然、両親や教育者などは、肺炎や胸膜炎の症状を、出来るだけ、急いで後退させようと切に望むからである。 しかし、成長に伴って生じる、以上のような傾向や症状を、その症状自体の運命に委ね、適切な経過を逸脱しないように、異常な進行を避ける為に、医師は、その場に居て、症状が発症部位にとどまり、自然に経過し、治まるように見守る、のが究めて重要である。 だから、以上のように、心内膜に関係する症状ほど、思春期の胸膜炎や肺炎と関係し、また子供の症状ほど、次のような事が必要とされる。 「今日、様々に呼ばれているが、[自然治癒(療法)]を適用し、すなわち、症状にできるだけ正常な経過を辿らせ、早めたり、短縮させたりしない(自然治癒力に委ねること)。」 重要なのは、以上のように、症状を早めたり、短縮したりすると、まもなく、心臓疾患などに罹り易い素質、もしくは、とりわけ多発性関節炎などに罹り易い素質を招いてしまう。 従って、特に注意を払うべきなのは、このような成長に伴う症状を、いわば妨げない事である。思春期の胸膜炎と肺炎が欲する活動を妨げなければ、後(年)に、心臓の不規則性として現れる疾患の素質が取り除かれる。 成長と共に現れる症状のなかに、人体の活動全体の、この対極的(動的平衡)な関係を発見できる。このとき、次のような事にも配慮すべきである。 「病気が深刻な状態にある極端な場合だけを見るのではなく、軽い状態、つまり、治療が比較的容易で、その必要性の有無を明確に区別できない患者に、『あなたが即座に病気の除去を望まなければ、比較的軽い病気で済みますよ。』と言うべき場合にも目を向ける必要がある。」 というのも、人体は、そう簡単に治せるようにはできていない、のを経験するのも必要だからである。治療は結構だが、次のような配慮も必要である。 つまり、次のような人物も珍しくはない。当人の言葉によれば、「沢山の病気に罹り、薬と治療も経験してきたので、高齢になったときには既にもう元気を与えられる治療が見当たらない」という人物で、いずれにせよ、このような人物は自分が常に病気に罹っている、と思い込んでいる。 このような人たちには、次のような意識を呼び覚ます必要がある。 「大抵の人は、当人が信じているほど、実際には病んでいない。」 当然、この事は、影の面も持っている。しかし、このような人物は、「あなたは病気ではない」と言われてもしかたないだろう。 さて、以上の事柄を光のなかで見る必要がある。つまり、人間は第一に、物質(肉体)体をもち、更にエーテル体が7歳から14歳まで、物質(肉体)体に加わり、強く働き、更に妊娠では、エーテル体が、再度追い出され、正に複雑な状態となる。 更にまた考慮すべきなのは、アストラル体が、秩序を保って加わるのは、14歳以降になってからで、自我が加わるのは、更に後になってからだが、例えば、自我をあたかも外にあるか、のような、また物体として想定してはならない。 覚醒状態では、自我は勿論、決して人体の外になく、自我が肉体に加わり、共作用が高まる。従って、人体に障害があるときは、自我が他の3つの体のなかで正しく機能するのに何らかの困難が生じている。 そこで、次のような結論に至る。 「今日(1920年)の医学は、この事実を知ることなく、既にずっと以前から、自我が、他の3つの体(アストラル体、エーテル体、肉体)と共に完全になる困難さについて、自我と他の3つの体との闘いについて究めて示唆に富む描写ができる処まで来ている。」 勿論、唯物論の時代に生きているので、この闘いを、内面(精神)に見る事はない。しかし、もし、熱曲線(体温の推移)を正しく描けば、上述の特徴をもつ、この闘いを正確に写しとれる。だから、このような関係を洞察するには、様々な病気の熱曲線(体温推移)を追求すれば明らかになる。 確かに、以上は、治療にとっては、病理学よりも、さほど重要ではないかもしれないが、理解しておくべきで、少なくとも一般にも、広く周知される必要がある。 というのも、例えば、肺炎、もしくは腸チフスを霊的に洞察するには、熱曲線(体温推移)の経過についての見解を獲得している必要があり、もし肺炎についての熱曲線(体温推移)に表れる主に2つの異なる曲線を研究すれば、その比較から、危険な経過と、危険でない経過の違い、つまり、物質体への介入を妨げられた自我が反撃するのに、危険なときと危険でないときでは、全く別の形で行われている、のがわかる。 例えば、肺炎の熱曲線(体温推移)のはじめは、「自我の闘い」を表すが、それから平熱よりも急激に降下すると、反撃(反発)が表れる(下図参照)。このような熱曲線(体温推移)では、自我のはじめの努力による、後から反撃(反発)の可能性が示される。 また別の曲線(下図、赤線参照)の、消散性(消滅型)の経過では、反撃(反発)の可能性が次第に少なくなり、失われていき、不規則な熱(体温)の降下を辿っていくが、これは危険な経過といえる(自我に反発力がない)。 特に、他の3つの体(アストラル体、エーテル体、肉体)についての自我の働きを見通すのによい事例は、チフスの熱曲線(体温推移)である。この曲線から、自我が、実際にどのように闘っているのか、の明確な像が得られる。 以上の紛れもない自然科学が、医学に流用されていく事例から、人間の4つの体(自我、アストラル体、エーテル体、肉体)の考慮が不可欠なのが示される。医学上の混乱は、科学が唯物主義になり、物質(肉)体上の観察だけに限定してしまった事により起こった。 しかし、物質体上の出来事は決して単独で起こるのではなく、重要なのは、物質体上の出来事は、その性質が同一ではない、という事である。 何故なら、物質体内部では特にエーテル体が働き、そして、アストラル体、あるいは自我の働きにも左右されるからである。物質上の出来事でも、それを特徴づけ、そのなかで働く、高次の人体に従えば、全く別の性質を持つようになる。 さて、地球外(天)の作用と地球(地)の作用に、人体が依存している、という事実について、前回述べた空間的な活動と、今回の時間的な活動について補足した事実とを総括すれば、次のように結論できる。 「人間や人体には、絶えず天体の作用が及んでいる。」 これらの作用は、人間の物質体やエーテル体を観察すれば以下のようにわかる。第一に、地球外(天)、それに対して反作用する地球があり、つまり、土星、木星、火星が発する作用と、既に地球に影響し、その作用に転化させられている、金星、水星、月が発する作用がある(下図参照)。 以上の事実を考慮しなければ、地球と月の関係から実際に起こる事について容易に思い違いを生じさせる。現代人は容易に、「月は、地球の上方にある。月は、上空から影響を及ぼしている。」と考えがちだが、それだけでは、月の作用を、完全に捉えている、とはいえない。 月は、地球の衛星として、上空から地球に作用するのと同じ作用が、地球のなかにも含まれている。地球は、内から外への月の作用を持っている(下図参照)。 物質上の、潮の干満他の多くの出来事、例えば月経の周期で示されるような出来事は、地球の作用ではなく、月の作用だが、最近の理論の主張のような上空で衛星となっている月の影響で起こるのではなく、地球のなかにある月の作用により生じている。 従って、これらの月に関する出来事は、外見上対応しているようにみえるが、厳密にいえば、直接時間的に関係しているわけではない。だから、太陽の下位にある惑星(月、金星、水星)について語るには、地球での、それらの反対像も探究する必要があり、更には、地上が発する、物質への反作用も考えなくてはいけない。 つまり、地球外の諸惑星については、霊魂への作用を考えないといけない。例えば、月は、次のような具合である。 「月は地球に向けて、霊魂への作用を投げかけている。この作用は、人間にファンタジーを生み出すような活動を高める。月は霊魂にファンタジーを生み出すのに多大な影響を及ぼしている。」 以上のような惑星の作用について一度研究するとよい。唯物主義の時代では勿論、ほとんど考慮されないが、明らかに存在している。月は、人間の霊魂に、ファンタジー創出について、非常に強い影響を持っている。 (月は人間に妄想させる。) その反対像、つまりエーテル体への月の作用は、地球のなかの月の作用から発せられて、物質体を通じて作用している。この事実を考慮すべきである。例えば、月の外にある、太陽下位(水星、金星)の惑星も同様である。 以上のように、人間には様々な形で、地球のなかに浸透した作用、つまり、地球の作用(地の力)や、また地球外の作用(天の力)が働きかけている。 さて、これらの作用を研究できるのは、これらの作用の共作用の結果を、人体のなかに霊的に見るときだけである。 人体の一部だけをみるのではなく、全体を見ないと真相は見えてこない。この共作用の結果がほとんど見えないのが、細胞である。この共作用が「細胞には、ほとんど見られない」のに注意すべきである。 では一体、細胞とは何なのか? 細胞とは、人体や人間に対して、本来独自の成長や独自の生命力によって、細胞自らの我儘を通用させる存在なのである。 (全ての細胞は、がん幹細胞である。) そして、人間を、地球(地)の作用と地球外(天)の作用の複合体と見て、細胞を観察すれば、細胞とは、地球の作用に密かに参画し、地球外の作用を破壊する存在である。 実際、人体は、絶えず、細胞の生命力(我儘)に対して戦っている。だから、細胞病理学や細胞生理学によって成立した見解はナンセンスも甚だしい。これらの見解は、細胞を基本に据え、人体を細胞の構築物と見ている。 細胞に対して、人体は1つの統合体、つまり宇宙の活動と関わり、細胞が持つ我儘に対して常に戦わねばならない統合体なのである。 細胞は、人体の構築に関わりながら、同時に、根本的には絶えず構築を妨げる。細胞病理学や細胞生理学的な基本的見解が、現代の思考全般に入り込んでいるので、人間や人体について、本末転倒した考察に到達するのも不思議ではない。 以上のように、人体の統合活動と個々の細胞活動による、2つの対立(相対)による力の複合体が現われてくる。人体の諸器官=臓器は、この中間に位置し、どちらが優勢かによって、肝臓や、心臓等になる。諸器官は、この2つの力の間で均衡をとり、複合体として現れてくる。 器官=臓器が細胞の作用を多大にもつことがあると、その後、この細胞の作用は、宇宙の作用により抑制され、克服される。或いはまた(後で、個々の器官の特徴を述べていくが)、宇宙の作用が優勢で、細胞の作用が後退している器官もある。 特に興味深いのは、人体下部の生殖-排泄の通路と心臓との間に位置する器官=臓器を、このような観点から考察するときである。 生殖-排泄から心臓までに位置する器官=臓器では、大抵、我儘な生命力を目指す細胞との類似が存在する。全器官=臓器を観察すると、大凡、以上に特徴づけた生殖-排泄から心臓までの器官=臓器と、その中の細胞はよく似ていることがわかる。 しかし、この結果、次のような疑問が浮上する。 「では、細胞自体は、一体どのような状態なのか?」 細胞はいわば状態を些か極端にする為に、我儘な生命力を展開する。細胞は我儘な生命力を展開する。 細胞が逐一展開する、この我儘な生命力に対抗して、絶えず逆の、つまり外から反作用が及ぼされる。そして、この外からの反作用が、細胞から、我儘な生命力を奪い、滴(液性)状の形態を与える。細胞から、生命力を吸い取り、細胞を滴(液)に変える。 (細胞の自殺=アポトーシスとしてわかっている。) 地球上で、滴(液体)の形態をもつ存在は、人体の内外に関わらず、2つの力、つまり、独自の生命力と、その生命力を抑制する力との合力から成るのを、実際に知る必要がある。 さて、興味深い事に、古代の医学が、「水銀」を、どの様に捉えていたか、を追求すると、次のような事実に到達する。 『「水銀」とは、(独自の)生命力を奪われて滴(液)状になっているものである。』 水銀は、我儘から生きた滴になろうと、つまり細胞になろうとするものが、水星の作用によって、細胞になるのを妨げられ、細胞の死骸(死体)、つまり水銀の小滴(液体)となっているもの、と見通す必要がある。 水銀は、塩と燐との中間状態で、同時に、諸惑星が、地球上にどのように作用し、人間が生かされ、人体に現れているのかを、霊的な洞察力を獲得する為の、複雑に絡み合った実践教育の対象である。水星という惑星がなければ、水銀の滴(液)は、どれも生命体になっているはずである。 そして概ね、人体内の細胞となるものは、上述した生殖-排泄から心臓までの器官=臓器は、水星という惑星の作用に曝されるのを、当てにしている。 つまり、排泄器(泌尿器)と心臓の間に位置する、下腹部の器官=臓器が持つ、我儘な生命力を展開しようとする傾向が、過度に妨げられず、また逆に、過度に進まないように、適度に生命力を麻痺させる水星の作用に曝される、のを当てにしているのである。 水星の作用に曝されないと、下腹部の器官活動は、中間状態に維持されずに、直ぐに増長してしまう。 (増長した細胞増殖に、適度に免疫細胞により、アポトーシスが誘導されていないと、大腸がんなどになる。) 以上の事例を更に引き続き追求すると、上述の下腹部の器官と水星の作用をもつ金属の水銀との間に成立する関係にまで到達できる。このような水銀の知見が、非常に合理的に獲得されるのがわかる。 超感覚的で、霊的な観察で発見できる事実も、現在、及び未来の人類には、外界の感覚的に知覚可能な事例によって、更に証明の必要があるので、鉱物や金属の作用、植物、もしくは動物のなかの鉱物や金属の作用が、人体に対して、どの様に振舞うのか、という事が、臨床的にも文献上でも追求できれば、良い結果が得られるだろう。 このような天体と金属の関係についての研究を、全く特殊な性質を反映する事例から着手できる。受胎前の、太陽上位の天体(火星、木星、土星)の作用の傾向が、受胎後の反作用を誘発し、骨化や硬化の働きを行うのを述べた。骨化や硬化は、天体の作用の完全な反対(反映)像となる。 骨化や硬化を増大させるには、人間に鉛毒を盛ればよい。勿論、動脈硬化を研究する為に、本当に鉛中毒を引き起こしてはならないが、重要なのは、自然が、自ら実験(施行)する際に現れてくる諸現象を、天体と金属の関係から追求し、鉛のなかの作用と同じ作用から、人体と、鉛との間に内的な親和性が成立する、という観点に到達することである。 鉛のなかの作用と、骨化と硬化の関係は、徹底的に研究すべきである。 同様に、錫のなかの作用から、上述した水頭症と、その反対物(脳脊髄液減少症=低髄液圧症候群)との相互作用として特徴づけた相互関係も研究できる。 (以下、意味が不明な部分) ☆ ☆ ☆ そしてその際、頭と腹との対極的な関係に従って作用するようになっていく、この幼児期(約7歳前後)の人体全体のなかに、錫のなかの作用と同じ作用が見つかる。 ☆ ☆ ☆ さて、この水頭症と、その反対の症状の相互関係が、後の年齢になって、肺へと押し進められるのを既に述べた。その際、(数世紀来の医学文献を正しく読んで総合すればよいのだが)、肺炎や胸膜炎に付随する症状に関係する活動と、鉄のなかの作用との親和性が読み取れる。 更に今度は、この関係を、血液のなかに、鉄がある事で起こる、血液の健常な活動にまで追求できる。血のなかで鉄が相互作用する際に起こるのと同じ活動を、肺にまで追求できる。 そうすれば、水頭症とその反対物(脳脊髄液減少症=低髄液圧症候群)との相互作用が、肺にまで押し進められた場合の、鉄の働きについての見解を得ることができる。このような事例は、互いに入り組んでいる。このように入り組んだ作用と、更に、外界との関係を通じてのみ、薬の治癒作用に到達する可能性が得られる。 だから、人間や人体を、以上のように霊的に見るのを尊重するなら、観察者に直観力の類が生じるのは疑いないだろう。この直観力は、どんな診断にも重要だが、特に重要なのは、多くの事象を総合的に観る事だからである。 いかなる診断にも、その人がどのように生きているのか、今までどのように生きてきたのか、今後どのように生きていく見込みなのか、という事に目を向ける必要がある。「今後、どのように生きていく見込みなのか?」とは、次のような意味である。 人間の現在の人体のなかには、既に、その人の残りの人生を加味して、特にエーテル体が費やす活動が、萌芽の形で(前もって)素質として存在している。 更に上記に述べた、鉛、錫、鉄の人体への作用について、金属として発せられる作用との関係を探究するなら、鉛、錫、鉄の対極に相対している、銀、水銀、銅の作用にも到達できるだろう。 以上は、特に、特定の薬の奨励には結びつかないが、金属のなかの作用が、他の物質のなかにも含まれているが、この金属の作用と、人体との間に、特定の性質の相互作用が成立しているのを指摘したい為に述べてきた。 従って、例えば、銅のなかの作用は、特定の、鉄のなかにある作用に対して反作用を及ぼしている。この反作用の関係から、例えば鉄の作用が強すぎるとき、その作用を抑制できる反作用を銅から取り出せる。 例えば、特定の症状の内部で鉄の作用が明らかに強すぎるのがわかる場合、銅や、銅に類似の物質を、これから見てゆくが、植物などから得て、この症状に適用できる。 さて今回は、多方面にわたって見てきたので、多くを要求しすぎたかもしれない。とはいえ、今回述べた知見を活用していくなら、更なる研究をどのように進めていくか、そして、このような研究から、医学研究制度や医学制度の改革に効果的な知見を、どうやって引き出せるか、などが理解できると期待したい。 1-7 人間は、人間の本性というべき、シリカ、カルシウム、シリコン、あるいは金属の作用(力)について、地球の直接の活動ではない活動を、人体のなかで、静止(動的平衡)状態に至らせた。 頭部の物質をつくる本質だけが、つまり、脱植物化にあたる粘板岩(結晶片岩)形成、脱動物化にあたる石灰岩形成だけが、人体内では、地球の活動なのである。他の活動は、これから見ていくように、地球の活動との関係で見つかるが、本来の地球の活動ではない。--------------------------------------------------------------------------------
2017年09月29日
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現代でも権力者が歴史の書き換えを行っていることは、アホバカの森友加計隠し解散で明らかだが、この国の歴史は権力者による書き換えの連続であるのは、八切史観を知れば明らかである。 今日、ほぼ毎日読んでいる日刊ゲンダイに「本能寺の変」について、秀吉、家康が書き換えたと思われる歴史を信仰している記事が載ってたので、反論するのもバカバカしいのだが、盲信や洗脳を解くためにあえて以下に反論する。 本能寺の変のおかしいところは、大きく2点挙げられる。一つは秀吉の中国大返しで、二つ目は家康の伊賀越えである。 現代でもほぼ不可能と思われていることがどうして本能寺の変のときだけ可能になったのか? 生物統計の帰無仮説ではないが、有り得ない低い確率が起こったので、対立仮説を選ぶべきである。つまり、以上の2点は後で書き加えられたと考える方が妥当なのである。 現代ではTVやネットが盛んだから、情報がほぼすぐに伝わるが、偽情報も沢山あるわけで、当時、すぐに本能寺の変が伝わるのはそれこそオカルトの神通力でしかない代物である。いまでも黒幕が明らかでないのに、なぜ光秀の犯行だとすぐに伝わったのだろうか? それこそすぐに光秀の犯行にみせかけた人物が黒幕である証拠である。 権力者、特に独裁者というのは、北をみれば明らかだが、有り得ない事を権力によって正当化してしまう宣伝を行うと考えれば、以上の2点は後で盛った話であることはほぼ疑いがない。 秀吉は、八(サンカ)の出と、安国寺恵瓊が手紙に書いているし、家康も、いまの日光市近くの徳川村の部落民だったことがわかっていて、秀吉はひえよし、家康は二郎三郎という名で呼ばれ、姓はなかった。 二人とも、得体の知れない出自なので、偉くなれば当然伝説をつくりあげるのは、幕末から明治維新で、家系図つくりが繁盛したのと同じ道理である。家系図などインチキなんであるから、正史として伝わる歴史も同じである。 そんなものを盲信しているのは、一種の宗教で、歴史教ならぬ歴史狂だろう。 つまり、秀吉の大返しと、家康の伊賀越えがインチキであるからこそ、後で歴史を書き換えたわけで、この2人が本能寺の黒幕であることは明らかで、実際に権力を握っていることでも明らかである。 そのことを八切史観は、目から鱗のように解明してくれる。 本能寺の変で大きく宣伝されているのは、謀反人明智光秀ということだが、光秀は、義昭の室町幕府では、信長と同格で、義昭の命令で、信長に与力しているので、義昭が信長に追放されたとはいえ、光秀の主君は義昭で、信長を討ったとしても謀反にはならない。 義昭が、信長を討てと諸家に手紙を出しているのは、当時の仏教カースト体制が反信長であって、信長が当時の朝廷や幕府にクーデターを起こしていたのである。義昭と信長はお互いに利用しあっていたといえる。 そこで、信長と義昭の違いをはっきりさせないといけない。信長は、仏教カースト制度の破壊であって、革命だが、義昭は、室町幕府の再興であって、仏教カースト制度の維持なのである。 だから、信長は比叡山焼き討ちをしているし、仏教徒を弾圧して、新しい王朝をつくろうとしたのである。その象徴が安土城なのは、切支丹の宣教師たちも、異教として伝えているところである。 信長が、切支丹を利用して、仏教を弾圧し、新しい王朝をつくろうとしたと考えれば、本能寺の変が起こるのは必然といえるだろう。 ちょっと長々と脱線してしまったが、光秀謀反人説を流したのは、後に太閤となった秀吉であろう。本能寺の変の前に、毛利と勝手に和睦してしまった秀吉が、信長が中国に来てもらっては一番困る立場だったからである。まして、光秀が援軍に来るとわかったら、その前に、毛利との和睦を隠さなければいけないわけで、秀吉が、信長自身が援軍に来てくれるように手紙を出したのは、そのせいと考えられる。 もし万が一、信長が来たら、義昭を囲んでいる毛利と組んで、信長を挟み撃ちにすることも可能である。毛利の兵と秀吉の兵を合わせれば、信長を十分に上回る。明治維新の長州は、実際、似たように戊辰を戦った。秀吉の兵は薩摩の兵になったが。 日刊ゲンダイの記事では、秀吉が義昭に手をだしてないことで、本能寺の変の黒幕でないことを否定するのは、勘違いも甚だしい。義昭を囲っていた毛利が、秀吉と和睦できたのはなぜだろう? 秀吉も毛利と通じていたことが、中国大返しの盛り話で隠されているわけである。吉川が秀吉を背後から襲わずに、逃がしたのは小早川の口添えと語り継がれているのも怪しいところである。 清水宗治が殺され損という反論があるかもしれないが、山中鹿之助のように、毛利に対して何か高額な金銭を貸し付けていたのかもしれず。名誉な戦死というのは、本家にとって都合の悪い証文を握っていたせいとも考えられる。 秀吉の後の家康が、関ケ原で味方したのにも関わらず、毛利を徹底的に弾圧したのも、そのせいと考えられる。関ケ原で味方したら恩賞何々という証文を残していたのだろう。現代だって、都合の悪い文書を隠すのに、当時なら猶更焼却処分である。 有名な話では、黒田官兵衛が竹中半兵衛に、秀吉の証文をみせたところ、半兵衛が直ちに焼却してしまって、こういう証文を残すと後々攻められますぞと助言したというのがある。 秀吉が、信長をなんとも思っていないのは、信長の跡取りを有楽以外、ほぼ根絶やしにしていることであきらかである。信長の妹の市が柴田勝家についたのも、秀吉の権力欲が凄まじかったせいであろう。黒田如水は、秀吉が晩年、自分の次は官兵衛だと言ったことから、すぐに隠居したことが、秀吉の権力欲の凄まじさを物語っている。 いまでも義理人情はカネ次第なのに、戦国時代に義理人情があったとは思えない。義理人情は江戸時代に劇として演じられた位で、現実逃避なのである。恐らく部落民が被差別を受けた報いで反仏共闘したぐらいであろう。しかし、いまでもお上を恐れ、権力に弱い、この国の住人の性根がそう変わるとも思えない。 さて、家康が黒幕というのに動機がないと、日刊ゲンダイの記事に書かれているが、八切史観では明らかである。家康は、松平元康ではなく、元康を殺して、成り代わった人物で、徳川村で生まれ、人買いに売られて、浜松に来て、サンカの野武士として、旗を上げて、元康とも実際に戦った伝承が残っているそうである。 つまり、松平元康と徳川家康は別人で、家康は、桶狭間の戦い(信長の騙し討ち)後で、元康を殺し、元康に成り代わったというのである。だから、元康の妻の築山と子の信康が邪魔になって、武田信玄と内通したと言って殺してしまったのを、信長のせいにしたというのである。 大体、跡継ぎを人質に出すのはあっても、自分で殺すなどは戦国時代でも有り得ない話である。寝返らないための人質なわけで、自分で殺してしまうなどというのは不審も甚だしい。 荒木村重が信長に謀反したときに、黒田官兵衛が説得にいった後、内通を疑われ、信長は、その子の長政を半兵衛に殺せと命じたが、官兵衛の内通も嘘だと伝わり、半兵衛が殺さずに匿っていたことを不問にしている。 三方が原の戦いは、元康に成り代わった家康が、浜松から出ようとしなかったのに不信に思った三河衆が、武田家に内通し、信玄も攻めにはきたが、三河衆を独立させると、引き返してしまったというのが本当らしく、無論、信玄には上洛の意志などなかったらしい。 だから、信長と信玄が敵対していたというのも、後世の家康による辻褄合わせかもしれず、それは伊賀越えのときに武田家の跡継ぎの穴山雪梅を殺したことでわかる。 詳細は八切史観に譲るが、信長が築山と信康殺しについて、信康の妻で信長の娘の五徳から聞き、家康を問い詰め、家康を殺そうとしていたことは、本能寺を攻めた兵たちが、家康を殺しにいくものと思っていたという手記も残っていることから、ほぼ明らかであろう。 つまり、家康の動機は、信長に安土城に招待された事で、自分の命を狙っている事を悟ったようである。だから、信長を殺さないと、自分が殺されるので、これが十分な動機なのである。
2017年09月26日
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この国と国会がアホバカ総理にジャックされ、民主主義を失い、独裁された状態が続いているが、戦後最低のアホバカ総理のアホバカぶりは、北のアホバカカリアゲとほとんど変わらない地獄行きの苦労知らずのアホバカにつける薬のない最も野蛮な理性を失った人間とも思えない痴性の持ち主であるのを証明した解散が近づいている。 他人の気持ちが最もわからない人間失格のアホバカな人物を指導者にすると、このような結果になるというのが、北とこの国の惨状なのである。他国だからと、そのようなアホバカを指導者にして傀儡政権をつくらせた米国も、似たような人物が大統領になってしまって自業自得の運命にあるが、人類はもっと賢くならないと、ダメだというのを警告しているのが、昨今の地球の天変地異のように思えてくる。 戦争は地獄が好きな地獄行きのアホバカが起こすというのを考えないといけない。 悪魔ならまだしも、人類が人類を殺して何の利益があるのか? この地球に平和で暮らせるように修行にきているのに、地獄にしては落第で、次の進化には進めないことをよく考えないといけない。 戦争なんかやるやつは人類から脱落するのだから、少なくとも、その覚悟をもって生きてくれ。戦争をして、自分が殺した人たちの苦悩と苦痛を永遠と味わうことになるのだから。 戦争高揚で愛国心を煽ろうとするのは外道や下衆の遣り口である。戦争しか打つ手がないというのは、政治的無能力者の証明である。つまりアホバカなのである。自分以外の価値観を認める器量がない。 そのようなアホバカ独裁者にはお馴染みのサイトから、以下のような警告を紹介する。 ★ ★ ★ 国会やったら5秒で解散 http://my.shadowcity.jp/2017/09/post-11867.html 街頭演説なんてとんでもない、国会なんか怖くて開けない、誰もいない国連の会場でしか演説できないアベシンゾーですw 国会やったら5秒で解散w とうとう国会が永遠に開かれないままになりますw 選挙で勝とうが負けようが、国会やったら激しい追求浴びるのは間違いないので、アベシンゾーが首相であり続ける限り、二度と国会は開催できませんw 28日召集の臨時国会冒頭の衆参本会議で採択する予定だった北朝鮮の非難決議が、衆院で見送られる公算が大きくなった。安倍晋三首相の冒頭解散方針に野党が反発しているだけでなく、決議案採択の手続きに入れば、野党が内閣不信任決議案を提出し、政府批判の演説の機会を与えてしまうことを与党が警戒しているためだ。 コイツは首相を辞めたら逮捕されるので、辞められない。死ぬまで辞めません。独裁者の末路はいつもそうだ。辞めたら殺されるから辞められず、終身大統領になるしかない。さて、チャウシェスクシンゾーの明日はどっちだ? ★ ★ ★ 国連で相手にするものはいないし、もはやあまりにあほらしくて罵声を浴びせる批判者もいない。トランプはまだ改心の余地はあるが、このアホバカにつける薬はないことは森友加計で明らかである。 戦犯の祖父の妄想のために国家を破壊し続けてきたし、いまもそう。インチキをいつまで続けるつもりだろうか、北のカリアゲと頭の中は同じである。敵対勢力を罵ることでしか、指導者という立場を演じられない裸の王様なのだ! より多くの人々を幸福にし、人類の救いの精神を高めるのが、理想の政治である。理想の政治は独裁者にはできない。幸福は十人十色だからである。多様性が追及されなくてはより多くの幸福にはつながらない。 マトモでない戦争がマトモにみえるのは、独裁者によって、言い訳がましく歴史が書き換えられているからである。戦争を起こした魂は地獄に行き、戦争の被害者の何倍もの苦しみを味わう。でないと、宇宙の平和が保たれないからである。 さて、以上のようなオカルトめいた話をしても、唯物論に染まっているアホバカには理解できないだろうから、せめて、唯物論者にもわかるように、戦争を経済的に考えてみる。 唯物論で考えるなら、戦争が可能かどうかは、GDPでほぼ決まるといってよい。この世で物質的な戦争をするには、お金がかかるからである。 この国の歴史教育がインチキなのは、経済論が全く抜けているところにある。戦国時代でさえ、戦にはカネがかかるからである。そのような視点で、戦国時代を描いたのが八切史観である。 例えば、信長はどこを攻めろと命令はするが、カネは出さなかったという。信長は部落民の頭目のような存在だったので、仏教徒の奴隷と化していた部落民を統合し、解放するのが目的だったわけで、だから、信長の兵は皆、得体の知れない部落民で、農民ではなく、兵農分離などは鼻から必要なかった。 つまり、信長は、仏教徒から財産や地位を奪って、部落民に分け与えたので、それが楽市楽座で、部落民の身分が向上するから、家臣となってついていったわけである。ならず者の集まりなのである。当時の尾張や三河、駿河には部落民が沢山いたので、奴隷商の貿易振興とともに裏経済が成立し、武装していったわけである。当時「戎」と呼ばれた堺などは、江戸時代の長崎の出島のような独立国だったわけである。 ちょっと話は長くなったが、信長の家臣は、戦支度や戦費は自前で用意しなければならず、だから、本能寺の変の前の、光秀は、信長に命じられた家康暗殺と毛利征伐隊に参加すべく、愛宕山に行って当時カネ貸しをしていた吉田神道にカネを借りにいっていたらしい。 秀吉の時代になると、秀吉はどこを攻めろといってカネも出したという。だから、秀吉政権には、前線部隊だけでなく、石田三成のような兵站を担う官僚が必要となる。 だから、関ケ原での戦いを三成がこだわったのは、兵站を生かした新しい総力戦だったわけで、家康はそれを見抜いて、唐入りの怨みを利用して、三成の味方をしないように豊臣政権の前線部隊を勧誘したわけである。おそらく三成のような後方部隊に負けるな、とかいったのだろう。家康も新しい総力戦を熟知していたわけである。しかし秀忠隊の到着が遅れたのは予想外だったらしい。秀忠が遅れたので、小早川に裏切らせたのだろう。 家康となると、家康は秀吉のように与えるのではなく、カネを貸したという。だから、ケチと言われたわけである。家康は取り立ても厳しかったらしく、筆まめで証文を発行していたので、重臣だった石川和正などは、秀吉に出奔してしまうわけである。だから、家康に味方すると、金銭の取り立てを見逃してくれるわけである。 つまり、カネがないと戦ができないというのを考えないと、戦で勝っても、国が滅んでしまえば、帰るところがなくなるわけである。 秀吉が莫大な財力を築きあげながら、唐入りが失敗したのは、三成ら官僚がいまの官僚の無駄使いのように、遠征戦を満たすのに潤沢な戦費を調達できなかったせいである。だから、豊臣政権の最前線に行かされた武将たちは、三成ら官僚たちを恨むわけである。 そういうわけで、戦費というのが重要なのである。 さて、仮にもし、北が単独で戦争をするとなると、GDPから考えても、中露から戦費を集うか、戦費の調達が叶わなければ、焦土作戦しか選択肢がない。国全体でテロするしかないわけで、自滅であり、アホバカでなければ、そのような選択はできないはずである。 かつての地獄に行ったアホバカ英機の大日本帝国がそのような状態だったので、無謀な戦費調達のアホバカぶりがわかる話を以下に紹介しておく。 昨年、中国と、米国が南沙諸島をめぐって、もはや一触即発か、と日本では話題になったが、中国にカネを借りている米国が戦争できるわけがないだろう。兵力世界一の中国とやって、米兵が4倍中国兵を殺しても、無傷でいられるわけがない。中国に米国債を売られて、ドルが暴落し、米国経済が崩壊するのが先である。 ★ ★ ★ 戦費でみる大東亜戦争の異常性 GDP換算4400兆円の驚異 http://ironna.jp/article/3827?p=2 加谷珪一(経済評論家) 参院選で改憲勢力が3分の2を超えたことで、憲法改正が具体的な視野に入り始めた。だが日本の安全保障に関する議論においてスッポリと抜け落ちているものがある。それは経済と金融の視点だ。経済体力を無視して戦争を遂行することはできないし、それを強行すれば太平洋戦争のように国家財政を完全に破たんさせてしまう。 日本は明治の近代化以降、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争という3つの大きな戦争を経験してきた。日清・日露戦争は経済体力の範囲内で遂行された合理的な戦争といってよいが、太平洋戦争だけはまるで状況が異なっている。太平洋戦争の異常さは数字を見れば一目瞭然である。 日清戦争における戦費総額のGDP(国内総生産)比は約0.17倍だった。当時の国家予算(一般会計)との比較では約3倍となっている。近代兵器が投入された日露戦争は戦費が大幅に膨らみ、GDP比では約0.6倍、国家予算比では約6.5倍になった。日露戦争はかなり無理をした戦争だったが、それでも国内の経済活動を犠牲にしなくても済むギリギリの水準に収めたとみてよいだろう。 ところが太平洋戦争になると根本的にケタが変わってくる。太平洋戦争(日中戦争を含む)の名目上の戦費総額は約7600億円だが、これはGDP比では33倍、国家予算に対する比率では280倍という途方もない数字である。当時の日本は、無理な戦費調達から歯止めの効かないインフレが進行しており、見かけ上の戦費が大きく膨れあがった。 インフレを考慮した実質的な戦費は2000億円程度になるが、それでもGDPとの比率では約8.8倍、国家予算との比率では74倍である。先ほどの数字よりは小さいものの、現在のGDPに換算すると4400兆円であり、天文学的なレベルであることに変わりはない。戦費を経済体力の範囲内に納め、国民生活に影響を与えることなく第二次大戦を乗り切った米国との違いはあまりにも大きい。 太平洋戦争の異常さは金額だけではない。その財務戦略もまるで異なっている。日清・日露戦争の戦費は基本的に国庫からの支出や国債の市中消化によって賄われた。特に日露戦争の戦費調達については、英国のシティと米国のウォール街にある投資銀行のネットワークがフル活用された。当時の資金調達の責任者であった高橋是清(のち蔵相・首相、2.26事件で暗殺)は、海外投資家に対して見事なプレゼンを行い、巨額の起債に成功している。 一方、太平洋戦争は費用があまりにも巨額であり、国債を市中で消化させることは到底不可能であった。当時の覇権国家である英国と米国を敵に回しており、グローバル市場で資金を調達することもままならない。結局、日本は戦費のほとんどを日銀の国債直接引き受けで賄った。 つまり日銀が輪転機を回し続けるという政策であり、当然のことながら、この施策は円の価値を激しく毀損させる。結局、日本は終戦をきっかけに物価が約180倍に上昇するという準ハイパーインフレを起こし、経済は完全に破たん。最終的には財産税によって国民の預金を根こそぎ奪う形で帳尻を合わせる結果となった。 日露戦争と太平洋戦争の顛末を比較すると、戦争というものが経済や金融と不可分であることがよく分かる。日露戦争では、日英同盟を背景に英国から最新鋭兵器を自由に調達することができた。資金面においても、シティとウォール街の協力を取り付けることに成功している。 一方で、経済力の問題から長期の戦争継続が難しいことをよく理解しており、奉天会戦と日本海海戦の勝利をもって、米国の仲介でロシアと講話条約を締結した。維新という半ばクーデターに近い形で政権を掌握した明治政府の指導者に対する評価は様々だろうが、現実主義的でグローバルな視点を持ち合わせていたことだけは間違いないだろう。 太平洋戦争はすべての面においてこれとは逆向きになった。グローバル経済に背を向け、戦費確保の見通しも立たないまま全面戦争に突入し、最後は国家を破たんさせてしまった。 太平洋戦争に至る経緯について、日本側には選択の余地がなかったとする見解が根強いが、果たしてそうだろうか。日露戦争後、満州への進出を強化した日本に対して、これを認めない米国との対立が深刻化したというのが教科書的理解である。だがこれは歴史をひとつの側面から見た解釈に過ぎない。経済やビジネスという視点で一連の経緯を振り返ってみれば、まったく異なった解釈も成立する。 日露戦争後、米国側からは満鉄の経営を両国でシェアするプランが提示されたが、日本側はなぜかこの提案を蹴っており、これが太平洋戦争の遠因になったともいわれる(桂ハリマン協定)。この協定が本当に戦争の原因だったのかについては諸説あるのだが、ビジネスという視点で考えれば、日露戦争の最大の功労者であった米国と、満州経営に関してパートナーシップを組まないという日本側の決断は常識的とはいえない。 戦争というものは、それ自体が独立しているものではなく、日常的なビジネスの延長線上に発生するものである。日本には日露戦争後の経済的グランドデザインがなく、場当たり的な対応を繰り返すうちに、米国と取り返しのつかない溝を作ってしまったと考える方が自然である。 戦争と経済・ビジネスを切り離して考えるなど、そもそも不可能である。グローバルなビジネス競争を勝ち抜き、豊かな消費経済を維持できる国は、イノベーションが活発になり、結果として戦争遂行能力も高くなる。 日本はバブル崩壊以後、グローバルな競争社会に背を向け、相対的な経済規模を縮小させてきた。国家の安全保障について真剣に考えるなら、日本がまず取り組むべきなのは、グローバル経済における競争力の回復だろう。 ★ ★ ★ 「日露戦争後、米国側からは満鉄の経営を両国でシェアするプランが提示されたが」とあるが、米国に満州の権益が奪われるのをアホバカ政府は恐れたようである。結果論だが、米国と共同経営していたら、日米戦は回避できたように思える。 明治維新以来、アホバカでなくマトモだったのは、勝海舟ぐらいだったように思える。勝は経済に明るく、薩長が江戸に進出するのを見越して土地を買い占めてたくらいだからである。 日露戦争で国が滅ばなかったのは高橋是清のお蔭である。しかし、その裏にはロスチャの策略があったが、そのことに気づいた日本人はいないから、大東亜などというアホバカが妄想を増殖し、国が疲弊した。 太平洋戦争はアホバカによるアホバカのためのアホバカの戦争である。皆地獄で苦しんでいる。 しかし、現在を振り返ると、既にアホバカ政権維持のために、GDPはマイナスになり、株価維持工作のために、国民の年金や福祉が費やされたのを冷静に考えるべきである。 アホバカ政権が拵えた借金は、1000兆円に達しているのである。これに戦争などすれば、その10倍には膨れあがるだろう。それはこの国の子孫たちに負債として残されるのである。借金をつくったのは政府やジミンとアホバカたち、日本懐疑の連中なのである。その贅沢な暮らしぶりをみればわかる。 連中こそ地獄に行く前にそれにふさわしい戦場の最前線におくるべきである。 連中だけが贅沢な暮らしをして、他者の苦悩を無視して人類を裏切り、自分を正当化するために、ミサイルをうち武装化し、他者を脅しているのである。ミサイルをうつより自国の貧困を救うのが人間だろう。 武装化するより、国民の生活を幸福追求に割り当てるのが未来の政治である。 アホバカがトップにいるから、ミサイルが飛び交い、国家間の憎悪が高まるのである。アホバカをその座からひきづりおろすのが先決である。
2017年09月24日
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久しぶりに書く。北がいまにもミサイルを飛ばしそうと国民を脅しながら、支持率を回復してきたインチキあほ政権には一刻も早く地獄に堕ちてほしいのだが、トイレにこびりついた糞のように全くしぶとい北のアホと同じである。 もりとも‐かけいは小さな問題といいながら、その追及を逃れるために国の最高機関の国会を解散するのだから、傍若無人も極まれりである。 戦後最大の独裁政権である。もし選挙中に北のミサイルが飛んで来たら議員は選挙のために地元巡りだろうし、国会の審議なしで内閣が暴走するのだろうか。 国会を解散させるくらいなのだから、北のミサイル問題は、もりとも‐かけいよりも小さな問題と思っているのだろう。まったく呆れ果てて何も言うことがない。 北のミサイルにアホ政権は助けられてきたのだから、ボタンを押しているのはアホなのではと巷ではいわれるほどにアホ政権になってから、北の専横や暴挙が目立ってきた。北を野放しにしてきたのは、アホ政権なんである。 北を野放しにしてきたくせに、自分の責任を棚にあげて、北を懲らしめろと口先だけのことをいう。一ミリも懲らしめてこれなかったくせに、逆にやりこめられ、ミサイルぶっぱなし放題で、米軍のお下がり兵器をいいなり価格の高い国民から搾取した税金で買うしかできなかったアホが、これから何ができるというのだろうか? 北のミサイルで脅かし、国民から税金を搾取して、米軍のお下がりの高額な兵器を買い集めるだけである。まかりまちがって、もし戦争がはじまったら、自分は後方待機の官邸の核シェルターにでも閉じこもるつもりなのだろう。 そんなに戦争したければ、まず、かつて西郷さんが望んだように、北に単独で乗りこんでいけ! ジミンや日本懐疑たちを北に送りつけよう。ミサイルの盾にしよう。どうせ北のスパイなんだから。連中は統一教会-勝共連合-紅卍の犬たちなんである。 冷静に考えれば、北にミサイルをうたれた時点で、この国の指導者として失格なんである。やられておいて、アベコベに支持率が上がるなんて、この国のアホバカさに平和ボケに嫌気がさす。 北のミサイルをうたれる度に国民を危険に曝しているのだから、支持率が下がらなければおかしいのである。騙すゴミも一緒になって支持率を上げる工作をしているのだから、かつての戦争高揚と変わりはない平和ボケの連中である。 アホの威勢のいい口先だけの、やってることは、単なる弱い犬の遠吠えにすぎない。米国や国連に泣きつくだけで、ジャイアンの太鼓持ちのスネ夫以下である。 まだ猪木氏のほうが単独で相手の言い分を聞きにいく勇気があるのだから遥かにマシである。国民の生命よりも先に自らの生命を曝せなければ指導者とはいえない。 あまりに、あほらしいので、この世を生きる気力さえも失わせてしまうくらいの日本社会総地獄化まっしぐらの現状に、せめて、国連監視団を、またインチキムサシを使わないように、この国の選挙に派遣してほしい。今度の選挙でまたインチキするのなら、この国はもう終わりである。 ホントにバカバカしくて、あほらしいので、せめて真面目に人智学的医術を紹介する。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー 「精神科学と医学」第六講-------------------------------------------------------------------------------- 第六講 1920年 3月26日 ドルナハ 今回述べる事は、実際、少々気懸かりである。というのも、充分に長い時間をかけたら、単なる幻想と簡単にみなされないだろうが、治療の特殊な面まで完全に理解できるように、わずかな時間で大まかに見ていくので、次々と項目別に並べ立てているかのようにみえるかもしれない。 それでもやはり、充分な根拠があり、それどころか今日の自然科学の土台となっている以上の基礎知識を表現していく。今回は、初めに、「植物の活動(プロセス)」を、宇宙との関係のなかに配置し、霊視する事から始める。 これまで見てきたように、人体では、「植物の活動(プロセス)」とは逆の活動(プロセス)が、機能的に働いている。従って、植物との直接の関係を見つけるには、「植物の活動」の、少なくとも裏側をみていく必要がある。 植物をみれば、その活動において、明らかに対立する2つの傾向を持つのがわかる。一方は地球(の中心)へと向かう。そして以前、既に考察したように、「樹」のような植物では、その「幹」のなかに、地球が捲り揚げられ、草のような下等植物が地球(土)に根付くように、花や葉が、幹の上に根付いている。 さて、植物の、地球(の中心)へ向かう傾向に注意が向く一方で、他面では、植物は、地球から離れようとしている。植物は、地球の引力に抵抗する生長力によって、地球から離れようとするだけでなく、生命力=エーテルの活動(プロセス)でも、地球から離れようとしている。 花のなかの活動は、根のなかの活動よりも、遥かに、地上を超えた、地球外の宇宙に依存している。そして、このような花の形成の本質が、地上にない宇宙の諸作用に依存している、のを見なくてはならない。 というのも、植物の花-種子の形成(生殖)を、花を超えて外に導くのに、植物が用いる宇宙の諸作用が、前回示した「人体の機能において、植物の活動を逆転するのに必要」なのがわかるからである。 この「人体のなかの、逆転した植物活動」は、人間の下腹部の、排泄、分泌、性(セクシュアリティ)の根底にみつけられる。このような人間と植物の逆転関係を探し出すときこそ、植物の地球上の活動と同様に、地球外の活動もまた具体的に見つけ出せる。 この講義で述べる事は、古代の医学文献から借用してきた知見ではなく、現代の人智学の研究に基づく知見である、のがわかるように努力を惜しまないつもりだが、ただ、ときおり、余儀なく、用語等を、古代の文献に依拠せざるを得ない事もある。 何と言っても、近代の文献は、医学分野の用語を、いまだほとんど開発していないからである。けれども、この講義で述べる知見を、古代の文書から引用しただけと考えるなら、全くの思い違いをするだろう。 地上から上へと伸びていく植物の生長を追求すると、まず、葉や花の形成活動が螺旋状に進行するのに気付く。植物の生長力は、茎を中心に螺旋状に巡って進行している。この螺旋状の進行は、植物の生長力から生じるのではなく、地球外の宇宙からの、特に主として、太陽の見かけ上の(太陽を巡る地球の相対的な運動)軌道の作用から生じる。 ガリレオの-数学による物理法則よりも、より正確な原理に従って、天体の運行を、この植物の螺旋状の進行から厳密に研究できる。というのも、天体の運行を、植物は忠実に模写しているからである。 (シュタイナーによると、ガリレオの楕円軌道の法則は、コペルニクスの第3法則を無視しているので、厳密には間違いという。平面の楕円ではなく、3次元の螺旋軌道なので、螺旋を斜めに輪切りにした平面では、楕円の交点が若干ズレるからである。) しかし、太陽に依存する、地球から上へと向かう、この螺旋状の進行だけが、植物に働いていると考えるのは間違いである。太陽を通じて生じる太陽系の運動と、他の太陽系の惑星が共作用して、植物のなかで合力をつくっている。 しかも、太陽の作用に対して、(天動説でいう太陽の軌道の)外惑星(火星、木星、土星)の作用が、螺旋軌道に沿って対抗しなければ、太陽の作用が、植物を独占し、生長を無限に継続させてしまう(下図参照)。 というのも、実際、諸惑星は、楕円運動ではなく、螺旋運動をしているからである。コペルニクスの世界観が今日再検討され、補足される必要がある。 (惑星の軌道を2次元でなく3次元で捉えるべき。) 火星、木星、土星の外惑星(天王星と海王星は、天文学では、太陽系に加えられるが、この両惑星は、本来は、太陽系ではなく、太陽系外にあった異物が入り込んだもので、いわば太陽系の、お客様で、除外すべき)の作用は、太陽の作用による、上へと向かう葉の生長を、抑制し、螺旋状にし、合力で、花-種子を形成する。 つまり植物の、葉から上(花や実)を観察すれば、その起源を、太陽と、火星、木星、土星との相互作用に帰する事ができる。 さてしかし、これら2つの作用は、単に一緒に働くだけでなく、この両者について更にまた、月からの作用と、(天動説でいう太陽の)下位(内)惑星、すなわち、水星や金星からの作用が影響を及ぼしている。 水星、金星、月は、植物のなかに、地球への、つまり下方への生長を生み出し、根を伸ばすなかに、その作用が見つけられる。従って、地上に出現する作用は、同時に月と関係し、太陽の下位にある惑星(水、金)に影響を受けている。 つまり植物のなかには、人体にもある、この太陽系が表現されている。植物や人体のなかにある太陽系を知らなければ、人間と植物との関係を見通せない。 実際、次のような事実に注目すればよい。根が発達している植物、つまり、花や実をあまり発達させていない植物を燃やすと、花、もしくはヤドリギなどの寄生植物を燃やすよりも、遥かに多量の灰が出る。 この違いから、端的に、根が発達している植物には、太陽の下位にある、つまり月、水星、金星が強く作用している事がわかる。灰のなかには、実際に、鉄、マンガン、珪石といった成分が析出し、植物を薬に用いる際に現われてくる成分が見つかる。 対照的に、花や実が発達している植物を燃やすと、灰の成分は僅かしか析出しない。この燃焼活動のなかに、植物が単に地球上の作用から生じるだけでなく、宇宙全体の作用から生じる物証が示される。 植物の活動を全体的に観察すれば、例えば、一年草の場合、種子の形成と共に、特定の季節に活動を休止する。本来は、この種子形成を継続して、主に地球外(天)の作用に還元しなければならない。 しかし、種子形成後、生長は休止され、再度、地上に委ねられる。もし、そのまま継続し、年を越えたなら、ある意味、もっと高い段階に到達した発達が休止され、新たな年となると、それよりも低い段階で再び継続される。 だから、植物の生育全体のなかに、特有の進行が観察できる。地球の表面を考え、更に、植物が地上から生え、地球外(天)に向かっているが、地球外(天)で生まれた花や実は、再び地球へと戻され、循環が新たに始まる(図参照)。 従って、植物の生育全体を観察するなら、天の諸作用が毎年地球に降下し、地球の諸作用と結びついて、生育を完了させ、新たな循環を始める、つまり、天の諸作用は毎年、花-実を、根のなかに沈降させ、植物の生育全体を支配する円環を完成させる。 いま指摘しているのは、地球の植物のなかに、地球(地)と地球外(天)との相互作用が、完全な形で示される、という事である。この事は、形態だけでなく、植物内の器官や化学現象にも及んでいる。というのも、地球の物質化に対して、宇宙から反対に液化されるように、植物での地球(地)の化学現象も、宇宙によって誘導されるからである。 そして、この地上の発展が、ある程度まで抑制され、今度は、地上で化学現象を示す為に、再度また地上に戻される。更に、化学現象は地上の作用を灰として、外的には鉱物として示し、つまり地上の化学現象は、生命から脱落し、下降する活動で現わされるのがほとんど明確になるだろう。 化学現象は重力に屈服し、植物の上へと向かう生長は、重力などの地球の作用を、絶えず克服しようとする。こうして重力と光の両極の対立について語れるようになる。 光は、絶えず重力を克服する。 そして、この光と重力との闘い、つまり、火へと上昇する作用と、灰へと下降する作用との闘いのなかに、植物は拘束されている。植物のなかに示されるのは、灰化する作用と、火のなかに開示される作用の両極の対立、眼にみえる物質と眼にみえない霊との対立である。 さて、以上のように、宇宙の関係のなかに成立する植物の霊視が得られた。 人間の観察を行うなら、既に前回からの議論により、人間も両極に方向づけて考えなければ理解できないのがわかるだろう。というのも、植物の下から上への生長が、人間では上から下へと成長する為、人体の生殖、及び排泄の活動では、摂取した植物の花や種子は下に向かい、根は上に向かう。 ただし、この上下関係は、人間では機能にあてはまり、植物では物質にあてはまる。 以上からわかるが、人間は、植物とは反対の機能をもつ。しかし、人体には反対の機能があるだけでなく、この反対の機能を担うエーテル体がある。従って、次のような結論に達する。 「人体は、上に向かって根を張り、下へ向かって花や実をつくる植物の機能をもち、そして、周囲の外界には、下から上へと生長する物質の植物がある。」 その為に、植物では、基本的に、上の領域から花や実をつくる事と、下の領域に根を張る事が、季節ごとに巧妙に行われるのに対し、人間では継続的に同時に行われる。そして、元々、人間の健康も病気も、この相互変動のなかにある。 以上に示したように、地球から上に向かう作用と、上から下に向かう作用が合同し、生命の担い手となっている。 人間の健康も病気も、以上の2つの作用の合力なのを、容易に見て取れるようになるには、次のような重要な事実を理解する必要がある。つまり、人体の、心臓より上の頭部と、心臓より下の腹部は、全く逆の別物として扱わなければならない、という事実である。 人体は、上下によって別の原理に従って観察すべきである。この事は、例えば、くる病の初発の症状と頭蓋ろうの症状の謎めいた違い、に現われている。 くる病(脊椎や四肢骨の骨軟化による湾曲や変形が主症状として現れる)と、頭蓋ろう(乳児の頭骸骨の異常な軟化)の両者は、上下を同じと捉えると、ほとんど同じ病気にみえるが、異なる上下(くる病は主に下半身、頭蓋ろうは、頭部の上半身)から発症するため、異なった原理での観察が避けられない。 この事は治療にも重要な意味をもつ。だから、くる病では、燐を用いた治療で、ある程度成果を示せても、おそらく頭蓋ろうには、成果が全くあがらないだろう。頭蓋ろうには、燐の治療とは逆の炭酸石灰を用いた(塩の)治療が必要だからである。 以上の事から、論争を呼ぶ、次のような事実がある。医学分野では、何らかの治療法が提唱されると、その逆の治療法もまた有効な場合があり、この両者は両極として相反関係にある。 ある症状を治癒に導けた治療法を、外見上、似たような症状に対して、人体上下の差異を考慮せずに適用すると、この治療法が無効で、全く逆の治療法を採用しなければならない場合も十分に起こり得る。 その為、1つの治療法が適用できるのは人体の1部位だけで、他の部位には、別の治療法を適用しなければならない事実を認識しなければ、ある治療理論を別の治療理論で撃退してしまう可能性がある。 しかし、重要なのは、植物の物質として現れる活動と、人体の機能を決める活動との差異を、正確に見据える事である。前回、外の自然特有の3つの活動(プロセス)に注目した。つまり、塩の活動、水銀の活動、燐や硫黄など特定の物質が、眼に見えない霊魂を、自らのうちに保存し、霊の担い手となる活動である。 (「プロセス」を直訳すると「過程」、もしくは「経過」となるが、それだと唯物的なので、「活動」とした。「活動」を物理的に表現するなら、「波動」である。自然のなかには、塩の波動、水銀の波動、燐や硫黄の波動があり、それらが物質や植物をつくっている。) いま述べた差異と関係し、外の自然の3つの活動の差異とは、一体何なのか? 塩の活動、もっと現代風に表現するなら、塩などとして現れる活動は、光などの精神の活動を、重力の支配領域に移行させる。 古代の医学書を読み、物質の塩化(活動)についての記述をみつけたら、次のように考えるとよい。 「塩の活動から生じた物質は重力の支配下にあり、一方、その反対の燐(光)の活動によって、眼に見えない霊魂が、重力の支配から解き放たれる。」 (塩の活動は悪魔の行為で、燐の活動は神の行為と宗教的にはいえる。) つまり、光を、眼にみえない霊魂の代表とするなら、外の自然でも一貫して、光と重力との闘い、つまり、宇宙を目指す光と、地上の物質を、地球の中心へと向ける重力との闘いを考える必要がある。 まず重力-光の対立がある。そして重力と光の間を揺れ動き、絶えず均衡を求める働きは、水銀(液体)のなかに現われる。水銀のなかの活動は、光と重力の間で絶えず均衡を求める。 さて、重要なのは、塩、燐、水銀の対立を、実際に、宇宙全体のなかの、つまり、重力と光、そして、この両者の対立や均衡を求めるなかに置いてみる事である。この完全な対立のなかに特別に置かれているのが、人間の心臓の活動である。 心臓については、現代の自然科学の見解の、例の心臓=ポンプシステムを支持できない理由は既に述べたが、この理由を除いても、心臓がまるで外界に対して、皮膚で閉ざされた活動のなかで尽きているかのように想定されているのは、実際、恐るべき事である。 今日では心臓は自身が脈打つ鼓動だけとの関係が想定されている。しかし、この心臓の想定は間違いで、人間は1つの器官(臓器)として宇宙全体の活動に組み込まれ、心臓は単なる人体のなかの器官(臓器)ではなく、宇宙全体の一部でもある。 そして、植物のなかで生じている太陽の上位の天体(火星、木星、土星)と太陽の下位の天体(月、水星、金星)との合力(共作用)は、人間にも生じていて、心臓の運動(鼓動)のなかに現れている。心臓の運動(鼓動)は、人体に生じている合力で動かされ、記録されているだけでなく、外の天体の関係も記録されている。 (運動の記録は、アストラル体に載っているらしい。アストラル体を読み解くのが、霊聴力である。仏教でいう心眼で、観音である。エーテル体を読み解くのは霊視力である。) 人間の心臓を正しく考察するなら、心臓のなかには宇宙全体の活動が土台として反映している。人間の本質は、霊-魂が個別化されているだけ(自我=霊)で、その他の人体は、宇宙全体の活動のなかに組み込まれている。例えば、心臓の鼓動は、人体に生じている活動だけでなく、宇宙全体の光と重力の間で生じている闘いの場でもあり、宇宙全体の活動に組み込まれている。 (心臓移植すると、心臓提供者の記録も移されることがわかる。重力は血栓をつくり、光は血栓を溶かす。心臓は両者を仲介する水銀の役目をする。) 以上の、宇宙の活動のなかに人間が置かれている事実を、次のような計算による、おおまかな具体例で説明する。 人間が1分間に大体18回呼吸すると考えると、1日=24時間では、18(回)×60(分)×24(時間)=25920回に達する。 次に1日を単位にすると、1年が約365日なので、平均寿命、つまり大体71歳まで生きる(長生きもあるが)、と考えると、その日数は、1日(24時間)の呼吸数とほとんど同じ、365(日)×71(歳)=25915という数になる。 更に、黄道十二宮を巡る太陽の運行全体、いわゆる1プラトン年を考えると、太陽が、例えば春分点を牡羊座から昇るとして、再び戻ってくるまでに要する時間の、25920年(春分点が黄道を1周する時間)となる。 以上から、人間と宇宙全体との関係を表わす、不思議な数の例証が得られた。というのも、この数の一致は、人間の平均寿命日数(25915)を、太陽の運行の年数、つまり1プラトン年(25920年)で示しているからである。 人間の平均寿命=1プラトン年(太陽の天球1周分) 以上の数の例証は、宇宙の無常な存立の深みまでも暗示している。実際、人智学でも強調してきた、次の事実に注目すればわかる。 「人間が、眠りにつくと、人間の自我とアストラル体は、物質体とエーテル体から離れ出て、目覚めるときにまた入り込む。」 この事実を、一種の呼吸と考え、つまり、物質(肉)体を通じて、霊-魂を吸ったり吐いたりする、「呼吸」と想定すれば、この霊-魂の呼吸により、人間は生存するので、生存期間、つまり平均寿命は、1日の呼吸数に帰すので、同じ25915、或いは25920となる(5日の差は閏日に由来する)。 1日の呼吸数(25920回)=人間の寿命日数(約71歳=25915日) 宇宙のなかの生命体は、この同じ数を通じて、太陽の見かけ上の運行と関係している。この数は、宇宙進行の1つのリズムである。このリズムは、大いなる宇宙霊の現われで、1人1人の人間の寿命のなかにも、1日の呼吸のなかにも現われている。 太古の賢者たちが、遺伝されてきた霊能力から、ブラフマーの昼と夜や、宇宙の呼吸について語っていたのも、以上の具体例から不思議に思わないだろう。というのも、この宇宙の呼吸が、人間の日々の生命の活動のなかに写し取られ、そのミクロコスモス(小宇宙)の像をもつ事実に、太古の賢者は気づいていたからである。 (ヨーガは、宇宙のリズムに合わせた呼吸法のようである。) 共感、もしくは反感でなく、以上のような具体例によって、古代の叡智を真に賛美できるようになる。数え切れない多くの具体例のなかに、次のような認識ができなければ、太古の叡智の賛美者にはなり得ないだろう。 「太古の賢者が知っていた事実を、古代の文献のなかに再発見でき、今日獲得できる知識のなかでは全く消滅していた事実が再確認できるようになった。」 真なる霊認識を目指して努力し、太古の叡智を賛美しながら、育成する学問は、太古の叡智の獲得を目指して、闇雲に猪突猛進するのではなく、現在でも成立する、具体的な関係を洞察する事から生まれる。 さて、光を探究するなら、太陽の上位の天体、つまり、火星、木星、土星に注目する必要がある。そして地球上で起こる全事象は、地球外からくる作用にもよるので、地上のなかに、宇宙で生じる作用を発見しなくてはならない。 宇宙の作用を探求するには、近代の分子物理学、もしくは分子-原子-化学が探究しているような、地上の物質のなかに、その配置や凝集状態の根拠を求め、抽象かつ空想的な方法で、記述していく方向では無駄な徒労に終わる。 この原子論を土台とした化学は、眼に見えない物質構造の内側を覗き込み、原子や分子について、ありとあらゆる好ましい予想や仮説を考え出し、更には(今日[1920年]では減ったが、数十年前には非常に誇らしげに語られていた)、物質の内部で生起している事象を、「天文学的認識」を用いて語る(現代でも、この抽象的な傾向は変わらない)。 少し前(1900年代)には、以上のような分子論が語られていた。前に、公開講演で述べたように(1;1920年3月24日の講演「人智学と現代の諸科学」‐「人智学と現代を生きるために」‐1950年、ドルナハ)、今日(1920年)では、このような予想や仮説の証拠として、写真撮影を行っている(実験データをとり評価している)。 (「精神科学」という用語は、現代の「精神医学」と混乱する恐れがあるので、「人智学」で統一している。) 心霊主義のグループですら、写真撮影の傾向をもち、霊の写真を撮ろうとする。今日(1920年)の自然科学者は、霊の写真を信用しない傾向にあるので、霊も原子も同じ存在と見通せる研究者が、原子の写真も霊同様に信用に値しない事実を承認させないといけない。 というのも、原子も霊の写真も、共通の同じ影響下(宇宙で生じる波動)にあるからである。 (余談だが、現代物理の量子場の理論では、ゴーストという幽霊のような波動をもつ場が、計算上出現する。これらは、素粒子の電荷やスピン、或いは速度等の物理量の計算において、アノマリーという無限大の発散を生じさせ、それを回避するために、実験で測定されたデータにより、物理量の数値を予め繰り込んで評価する繰り込み理論を生んだが、根本的解決には至っていない。 そこで超弦理論が登場したが、実験との兼ね合いを図る現象論ではなくなり、物理というよりも、純粋な数学の理論で、唯物論を超えたが、いまでは哲学の題材にもなっている。) 植物のなかに見られるのは、もはや原子や分子の力ではなく、地球の外で生まれ、地上の物質に影響を与えている力である。だから、地上に物質を配したなら、そのなかの力は、物質構造の配置に関わる原子や分子といった小さなデーモンたち(原子力や分子間力)ではなく、宇宙(天体)で生じた何らかのマクロの力なのである。 (ミクロ世界を知るには、マクロ世界を知らねばならず。化学力、つまりは電磁気力や核力というミクロ世界と、重力というマクロ世界の統一理論を阻む、スケール則での矛盾につながる。 有名なシュレディンガーの猫も同じ。観測値による波動関数の収束には、観測論として、マクロの認識が入り込んでいる。 このミクロがマクロで決められている矛盾は、数学では、超対称性を基に統一する超弦理論のTデュアリティー(双対性)にそのまま引き継がれている。 つまりは、ミクロとマクロを同時に計れる基準定規(秤)など困難で、大小を兼ねる存在って何? 結局、科学って偉そうに言ってるが、ギリシア哲学ほどにも知らない無知な存在か? 汝無知なることを知れ、とソクラテスが言った通りである。) 地球外の太陽系の天体に、ある配置が成立すると、例えば、土星が、地球上の、ある場所に特に優位に作用する配置、つまり、太陽、火星他が、土星の軌道の近辺に無く、できるだけ遠く離れ、土星だけが(孤立して)作用する配置が成立する(下図参照)と、地球の特定の場所に、土星の作用が集中し、この場所には、他の例えば、火星が強く作用する場所とは異なった構造の物質が生じる。 地上には天体の合力(共作用)から生じる産物がある。従って、いま土星が、地球のある特定の場所に優位に長く作用すると、この場所には鉛が出現し、この鉛のなかに土星の作用が隠れているのが明らかになる。 (人智学のこの認識法を、量子力学に当てはめると、フォック位相空間の<φ|は、土星などの天体の配置からなる作用を意味し、|φ>は、地上の場所からなる作用を意味することになる。) 以上が、地上の物質、特に金属が、地球外の天体の配置と関係づけられる理由である。人智学が提供できる知見を、いまでは再発見するしか理解できない太古の叡智との対比に導く事が重要である。 というのも、古代の文書は、今日の化学的、物理学的な思考では、基本的に読解不可能だからである。以下の例などは、それを教えてくれる。 北欧のある非常に聡明な学者(Theodor Svedberg、スウェーデンの化学者。「物質」‐[1912年]。1914年にドイツ語で翻訳出版された。)が著書のなかで、錬金術の歴史について、彼の言葉でいえば、「錬金術は、今日の化学の概念からすれば全く無意味な方法(プロセス)を挙げている。この方法からは何の化学的産物も生じない。」と述べている。 古代文書の記述をそのまま現代語に訳せば、確かに、何も生じないはずである。それは「鉛の方法(プロセス)」の事である。この善良な人物は、古代文書が「鉛の方法(プロセス)、つまり鉛の活動(プロセス)」によって、「種子形成活動(プロセス)」を説明しているのに気づかなかったのである。 彼は、この「鉛の活動(プロセス)」を、実験室内での化学合成と曲解したので、当然、何も生じないと断定した。このような古代の術語には、現代の解釈とは、別の解釈が必要で、全く別の意味をもつのを知らなかった為に、彼にとって、この「鉛の活動(プロセス)」は全く無意味となった(猫に小判)。彼の解釈は現代では正当だが同時に、古代では間違いとなる。 (歴史についても、中世人が、現代人と同じように考えていたと、現代人が考えているのは滑稽でさえある。 例えば、日本の中世の戦国時代には、輪廻転生が当たり前のように考えられていて、生まれ変わるためには、子孫を坊主にして、家系を絶やさないようにしないといけないと信じられていたそうである。つまり、自分の家系の子孫として生まれ変わってくる、と信じていたそうである。だから武士は後継ぎ以外は坊主に出した。 現代人にそんなことを言えば、大笑いされるがオチだろう。) 地上の物質は、周囲から働きかけてくる天体の作用と関係づけられる。これから特に金属の探究法を述べていくつもりだが、この探究法を実施すれば、特別な関係が明らかになる。 つまり、例えば、鉛は主に土星からの作用と関係づけられ、錫は木星の作用、鉄は火星の作用、銅は金星の作用、また今日の化学で、水銀と呼ぶ金属は、水星の作用(古代人は水星と、水銀を同じ名の「マーキュリー」と呼んだ。)と関係づけられる。 更に、銀と月の作用との親和性を認識する必要がある。今日(1920年)の文献を読むと、「古代に、銀と月の親和性が確立されたのは、月が銀色に輝いて見えた外見上の特徴に従った為」とされているが、とんでもない間違いである。 その頃なされていた金属の研究が、実際は高度だったのを知っていたら、このような間違いは容認できない。とはいえ、以上の事実から、銀以外の他物質(金属)も充分に地上に生成される機会が与えられるのがわかる。というのも、以上に挙げた鉛、錫、鉄、銅、水銀、銀は、金属のなかでも基本となるからである。 地球以外の他の天体からの作用が、競合しあう事で、つまり例えば、土星に、火星など他の作用が入り込むことで、上に挙げた以外の他物質(金属)についても、様々に豊富な生成の機会が与えられ、生じてくる。 しかし、いずれにせよ、地球の金属のなかに天体の作用を見つける必要がある。以上の事実から金属として特別な形で表現された天体の作用が、植物の器官とも結びつけられる。 というのも、物質を用いた薬のなかの、鉛、錫、鉄の活動を考えれば、植物の、地表より上で生じる、花-種子の形成活動が、ほぼ一緒に得られるからである。また、銅、水銀、銀の活動と関係するのは、植物の根の形成活動である。 また水星は、天体の作用を調停するが、他にも調停者を探索する必要がある。というのも、水星は、地球の作用と、他の天体の作用を調停するが、宇宙全体が、そもそも霊に浸透されているからである。 だから、宇宙全体の霊を調停する、別の両極性が成立している。いま、地上の作用と、天体の作用とを思い浮かべると、その両作用のなかに、光と重力の対立がみつかるが、それは地上(地球)の物質の平衡状態にすぎない。 しかし、物質とはまた別の、霊の平衡状態を探す必要がある。地上の作用と、天体の作用との物質の平衡状態と、宇宙全体の霊とを調停する。つまり、眼に見えない霊と、眼に見える物質との平衡状態も存在する。 物質の、いかなる一点においても、霊との均衡が保たれている。 この均衡は、宇宙でも成り立つ。人類に最も近い、宇宙の均衡を保つ調停者は、太陽である。太陽は、宇宙のなかの霊と物質の均衡を保っている。従って、太陽は同時に太陽系において秩序を保つ宇宙霊(天)に応じているが、この秩序もまた人間の物質体のなかに入り込む、天体の作用によって引き起こされる。 以上のように、太陽系の惑星と地上の金属の関係と同様に、太陽と黄金の関係も確定できる。この関係ついても、古代人たちは、黄金を、アーリマン(物質)的な価値から尊重したのではなく、太陽との関係から、つまり霊と物質の均衡に関係する為に尊重した。 (人体の関節が硬くなるリウマチなどの疾患に金製剤が使われるのは、人体の霊と物質との均衡に関係する、と考えられる。関節に霊魂が浸透していかないのを、金によって回復していると思われる。) さて、思考でも、地上の行為でも、人間が、外界の自然にした事は何らかの形で常に自然のなかで結合(融合)される、という事に注目すべきである。人間は思考する事で、光の担い手、つまり光の傾向を持つ活動を、重力に従う、塩の活動から、更には、この両者を均衡する水銀の活動から取り出す。 対照的に、自然では、人間の思考のように、物質などから光を取り出し、3つの活動に分離するのではなく、この3つの活動を互いに結びつけ、組み合わせ、非常に精巧な組織構造を創造する。この精巧な組織構造は、黄金の光輝のなかに含まれている。金を通じて、霊(光)が、純粋に、外界を覗き込むからである。 さて、いま括弧をつけて、注目すべき事を述べる。括弧をつけるのは、古代の文献から得られる知見を、近代の文献の解釈に役立てようと夢中になるかもしれないからである。前回の講義で引用した学位請求論文を作成するのなら、古代の文献を正しく理解さえできれば、多くの知見が得られるだろう。 古代の文献では、どの物質のなかにも、3つの活動、つまり、塩の活動、水銀の活動、燐、もしくは硫黄の活動が、多種多様に組み合わされている、と見ていた事、そして、物質から、この3つの活動を分離しようと苦心していた事、を理解するのが究めて重要である。 つまり、次のような見解を持っていた。 「鉛は、土星の作用により生じるが、黄金や銅と同様に、鉛も、3つの、つまり塩、水銀、燐の活動を含んでいる。そして、塩、水銀、燐の活動により、人体を治療するには、それらを取り出す事、つまり3つの活動が結びついている金属から、何らかの方法で、分離し、取り出す事が肝要である。」 古代の化学では、この活動(プロセス)について、究めて周到な注意を払っていた。この活動=波動の分離は、金が最も困難と見なされていた。だから、ローマの箴言「黄金を壊すより、黄金をつくる方が易しい」(ラテン語の原文は”Facilius est aurum facere quam destruere.”)は、実際、古代の叡智の賛美に通じる。 というのも、金のなかでは、塩、水銀、燐の活動=波動、という3つの自然の原理が最も強固に、均等に結び付いていて、金から、これらの原理を取り出すのが最も困難である、と考えられていたからである。 さて、古代人が3つの自然原理を苦心して取り出そうとして、当時行なっていた通りにやろうとしても、今日では困難なのは明らかである。しかし、この講義で考察するように、ときに、古代の文献に光を投げかけるだけでも、古代の叡智を全く度外視し、今日でも研究可能な分野に入っていくだけでも、次のような知見に到達できる。 つまり、前回と今回とで特徴を述べた、自然の物質から、これら3つのうち、必要な原理を取り出すには、実際、自然の物質に燃焼活動を引き起こす必要があり、つまり物質を燃焼する事ではじめて例えば、火や光を担う活動=波動が分離され、更に、なんらかの方法で、水銀の原理を取り出せれば、その結果、塩の原理が後に残される。 この事は更に、酸の性質を持つものでも、引き出せる。このようにして、植物、もしくは鉱物から、塩の原理をもつ薬が得られる。特殊な場合については、後で扱っていく。 このように地球外の、天体の作用を獲得する為には、自然のなかに、光を担う活動を求めるか、或いは、地上の物質から、天体の作用を取り去り、地球の作用のみの保持に努めれば、結果として、塩の原理が得られるが、或いは、この両者の均衡状態を作り出す原理の獲得を試みるか、いずれかやってみる必要がある。 しかし、ここで、性質は異なるが、いずれも、ある程度の目的に導く、次に紹介する2つの方法を用いる事ができる。本質的には、両方法を用いる事もできる。 よく知られた物質から、燐、塩、水銀の性質を持つ活動の摘出を目指し、その活動を用いていた古代の医師たちの方法を用いる事ができる。 古代の医師たちは、薬を、鉛から得たのか、銅から得たのか、によって多少の差異により生じていた特殊な作用を用いていた。つまり、薬を取り出した金属の違いを利用していた。 つまり、鉛から塩の活動を取り出すのと、銅から取り出すのとは、少し作用が異なった。従って、塩の活動について、次のような事を語っていた。 つまり、「塩の活動の本質は地上の作用だが、様々な金属から取り出された塩なので、地球外(天)の成分ももつので、その違いに応じて、人体の様々な器官=臓器と関係する。」 以上は次回にでも、詳しく特徴を述べる。 例えば、人体の塩活動を調整する治療に、この方法を適用できる。更に、古代人たちの霊的な方法が忘れ去られた後、人体を、単なるレトルト=機械以上の構造と捉えた明確な感性から選びだされた方法が適用できる。 この方法は、人体の活動の受容(抵抗)性を通じて、物質の特性を相乗することで、物質の根底にある3つの活動の利用を試みる方法である。この方法の本質は、ハーネマンによるホメオパシーの方向性とも同じで、古代の方法が既に忘れ去られ、地球外(天)の作用などについて、何もわからなくなった後に、医学の努力から、一種の新たな興隆を示した方法である。 そもそも、この現状は、現代の医療社会が絶望のなかにある、というのを示してもいるが、つまり、現代の医学では、地上の創造の土台となる活動、つまり地上を超えた作用を仰ぎ見る事なく、地上のなかの作用だけで上手く処理しよう、としている。 現状の地への執着を打破し、超えていこうとするのがホメオパシーの体系である。勿論、物理的な治療法も、現状を超えていこうとしているが、光の担い手、つまり燐の活動を正しく用いる方法、あるいは、空気(気体)の担い手、つまり水銀の活動を正しく用いる方法をもたないため、直接、光と空気(気体)を用いるしかないが、これが第3の治療法の可能性でもある。 しかし、本当に有効な方法は、人智学によって、鉱物、植物、動物と、地球外(天)の作用との関係に迫るときにのみ、再び開かれるだろう。動物からとった薬を用いるときには(既に、前回、述べたように)、人間へのアプローチはなかなか困難である。 (微生物の抗生物質に対する耐性獲得などの問題である。) この困難さの為に、古代人たちは境界を設けたが、これについては、また新たな研究から探究していくつもりである。実際に、古代人たちは、次のように語った。 「鉱物や植物の活動(物質、エーテル)は、太陽系の範囲内だが、動物の活動(アストラル)になると、太陽系を超える。つまり、太陽系内の活動よりも遥かに大きいので、その取扱いは禁じられる。」 動物、特に人間をつくる活動(アストラル、自我)は、鉱物や植物をつくる活動(物質、エーテル)よりも遥かに、宇宙に拡散している。動物や人間をつくる活動について、古代人は、獣帯(という境界線)を引いて、禁じた。 獣帯を引く事で、鉱物や植物のなかの活動(物質、エーテル)を超えて、治療薬を探し求めないように、少なくとも、獣帯を超えると、危険な領域に踏み込んでいく、という事を警告したのである。 今や、前回、既に少しばかり特徴を述べた方法(血清療法)によって、人類は、この領域に足を踏み入れてしまった。この方法については、病理学と特殊な血清(免疫)療法を話すときに、更に詳しく議論しないといけない。 動物を用いた治療法は、個別的な症状に通じる為に、強固な幻想を引き起こし、背後にある危険性を、完全に隠蔽してしまう。 1-6 人間の頭から自然に眼をうつすと、森羅万象のなかの始原岩層において、粘板岩(結晶片岩)の形成、つまり特にシリカから粘板岩の形成にまで至る、全体の活動をみるなら、このなかに働く天体の作用を、人間の物質体の頭をつくる活動の対極にある活動として捉える事ができる。 この活動は、人間と、周囲の環境との間に重要な関係をつくる。外界の鉱物化のなかの、この活動が、人間の頭のなかにも見られる。今日、まだ未完だが、地質学でも、ほぼ明確に理解されている、粘板岩をつくる活動、つまりシリカ(珪土)やシリコンが関与する鉱物化全体の活動は、脱植物化と呼ぶべき活動と関係する。 だから、粘板岩のなかに、鉱物となった植物を探す必要があり、そして地球の粘板岩形成と同じ働きをする脱植物化活動を把握する事で、人間の頭をつくる活動と対極をなす活動が把握できる。しかし、この活動にはまた同時に別の活動が働きかけている。この活動と共働する別の活動を、外界に探す必要がある。 この活動を、例えば石灰岩の山地が形成される場所に探す必要がある。そして、また、この活動も今日、唯物科学でも、地質学上、ほぼ真理となっているが、石灰岩の本質は、脱動物化活動と呼ぶべき土(固体)の生成活動に基づいている。 この脱動物化は、脱植物化の反対の活動である。そして、この脱動物化のなかにもまた対極となる活動が働いている。つまり、この活動が到達した均衡(平衡)状態のカルシウムとシリコンが、人間の頭の形成に関与するのを認めるとき、人間の頭の形成のなかには、外界の、少なくとも自然のなかで重要な役割を果たしている活動が入り込んでいる、という事を明確に理解すべきである。 シリカやシリコンを眺める事で、それらが頭で生じている活動の本質と親和性をもつ、という事から、その方向性が予見できる。シリカについては、脱植物化が平衡に到達した状態を示す。石灰の形成活動、つまり、カルシウムとして平衡状態に至る活動もまた、その対極にある活動と、つまり人間の頭のなかの対極的な活動と関係する。 今日でもなお、人間の周囲に探し出せる、これらの活動は、人間の頭では、地上に見られない別の活動、つまり、人間の頭が、エーテル体、アストラル体、自我の模写(表現体)である為に、その複製のなかに存在する別の活動とも関係している。
2017年09月20日
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この国のなかで、西郷さんほど伝説化されている人物はいないだろう。次に坂本龍馬、近年では乃木希典だが、その実像をしればそこらへんの一般人と代わりがないことに気づかされる。 英雄も単なる普通の人物だといえば、歴史家から総スカンを食らうだろうが、英雄も人の子というのが最も真実に近いと思われるので、あえて紹介する。 というのも、戦争高揚のためにまたぞろ歴史人物英雄化美化が巷に巻き起こってきたからである。先日、みかけたサピオの西郷隆盛像は、つくられたイメージそのものだったからである。西郷は聖人でもなければ人格者でもない。それは以下に紹介する話からわかる。 過去にも何度も紹介したが、被差別民出身サンカ作家の八切止夫氏の作品である。 この国の歴史詐術の酷さが、この作品から明らかになる。以下にリンクを張っておく。 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/shintyaku.htm 花の西郷隆盛 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/saigou.htm さて、上のリンク先の話から、サピオに載っていた西郷伝説を覆す真相がわかる。以下に一つづつ紹介していくが、その前に、坂本龍馬、本名は才谷梅太郎の暗殺の黒幕も、この話に載っているからついでに紹介する。 通俗史の「坂本龍馬」の暗殺の黒幕は、大久保一蔵と岩倉具視であろう。この二人は坂本だけでなく、孝明帝も暗殺しているし、暗殺の常習者で、それは西郷も同じである。 当時の薩摩も長州も、朝廷から征夷大将軍の勅命をもらい、自国(薩摩、長州)を独立国として他国を支配することを考えていたわけで、幕府とは自国の都合から敵味方になっていただけにすぎない。徳川家に表向きは臣従する振りをしていたにすぎない。 だから、薩摩と長州がとりあえず幕府を倒すために手を組んだだけで、実際に討幕した後も、どっちが主導権を握るかでやりあっていたことがわかる。 だから、慶喜が大政奉還したのには、薩摩も長州もいきりたったのは当然で、武力闘争で、味方につけたい土佐藩を恫喝するために、坂本を暗殺したことがわかる。その話を載せる。 ★ ★ ★ 「岩山八郎太の娘いとと祝言せい」と、慶応元年一月二十八日39才の西郷は新郎にされた。 「今度が三度の上の目か」未体験のおごじょの嫁を、いとおしむよう優しく扱かって、「おいどんの上へ跨がるがよか」といった。 久しぶりに新婚気分を味わっているのに、「京へ来ちょくれ」と大久保がいってきた。「長州が割拠というて独立ばすると、高杉とか桂らが騒いどる、また長州征伐だそうな」物騒な知らせが入ってきた。西郷はすぐ、「おはん長州へ行け」と黒田了介をだした。 その結果が、松平容保を親任されていた孝明帝の急死となった。少年の帝がたたれた。 「今でごわす。出京して九州独立のため京坂を国境にして、長州に守らせたらよかでごわそ」大久保に言われた通りを久光へ報告した。「念願のハヤト国か」島津は開戦をきめた。なのに坂本竜馬の進言で、土佐山内容堂が、徳川慶喜に大政奉還させてしまった。 「ふらちなやつだ、殺したれ」大久保は怒り、西郷には内緒で刺客をむける算段をさせた。が、和平気分が京の御所を支配しだした。「弱り、もうした」西郷も首ひねってしまった。 (西郷は後に大久保の仕業と気づき、今井信郎ら下手人を解放する。おそらく暗殺したのは土佐藩士の谷干城あたり。土佐藩の会合として呼び出して、中岡とともに暗殺したものと思われる。その証拠として薩摩藩邸に差し出して、土佐藩も討幕に傾く。) 「長州へ落ちのび今では九州大宰府の三条卿以下の復位。正式に岩倉具視の処分解除」そして、その日 新帝の母方の中山忠能卿は、土佐の陸援隊へ高野山を占拠するため出動させて、御三家の紀州藩の牽制をさせていた。薩摩の大久保から、「御玉音で、勅許がおりた」と発表された。だからして大村益次郎のごとき単細胞は、「・・・・まったく訳が分らん。御国(長州)はどないになるんじゃろ」眉をいかめ考えた。 12月9日。徹夜の会議がすんで徳川慶喜が退出した後、岩倉具視が参内して、はっきりと、「王政復古」を奏請した。帝はまだ幼少。 朝までは和平会議だったが、恐い顔をした岩倉具視に奏上されると、脅えたように、「あッ、そう」とだけ言われたという。 大阪から御所へ参内した徳川慶喜は、なんとかして平和的にと会議している間に、薩摩の大久保と岩倉がどんどん戦争の用意をした。 「まるで平行線じゃ。どうなるんじゃろうな」大村益次郎も双方の情報をきき迷っていた。 しかし岩倉と大久保は三井に命じて銀の有るだけを出させ、土佐だけでなく安芸の広島から尾張、越前といったインフレで困惑している雄藩に、みな金のクツワをかませた。 よく、義理と人情をハカリでかけりゃ、義理が重たい男の世界と唄にまでされている。が義理とは困った時に金を貰ったり、その金で助かることである。人情とは単なる感情である。つまり感情より勘定の方が重いというのである。雄藩連合が三井の銀で成功した。 小栗上野介の信任をえて弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。 「土佐の山内容堂侯は内ゲバせんとなんとかまとめようとしたというが、西郷が凄い目つきで、文句があるなら徳川より土佐を先に血祭りにあげると脅かした。海援隊はあっても坂本が死んでは何も期待できんし、陸援隊も中岡なき後は薩摩の傭兵化して中山卿についている。土佐も仕方なくうなづいたそうだ。いったい、どうなっとるぞなもし・・・・」 「西郷や大久保といった薩摩っぽは恐わい。どこまで彼らはやるか見当もつかんでいかん」せっかく兵庫まできたが、大村にはどうしようもなかった。桂小五郎も同じだったろう。なにしろ御所でも、大騒ぎだったから。 いつの世でも黒幕の力はもの凄いもの。京の二条城に会津桑名の兵と共に一万の精鋭はいたが、徳川慶喜はやむなく京を引き払い大阪城へ入った。もはや京には幕軍の手の者は新撰組すら伏見へ追われていなかった。 「このまま、もたついては如何でごわすか」西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は、「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷大久保岩倉ラインにのせられた。 「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」あまり気の進まぬ大村益次郎は、「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。 「大村さん・・・・とうとう来るところまできたぞな。ああたは三兵塾で育てた士官らに歴戦の諸隊の兵を、薩摩の言いなりに出して味方してつかあさい。それしかあかへんぜ」顔をしかめつつも、桂小五郎は口にした。 「うん、しかしそうせなお国の長州が、後で西郷や大久保にどない目に逢うか分らん。まあ品川弥次郎が来とるけん。あれに指揮させて、薩摩の尻にくっついて行くしか、他には何もあり申さん」と桂小五郎は神経質に目をまたたかせ、ぶすっとした大村を諫めた。その頃、岩倉具視も大久保一蔵や西郷へ 「おはんらの薩摩の殿さまが、○に十の字の旗をたてて天下統一したら、公家は一体全体どうなるんじゃ」とやはり危惧していった。 「まあ、そのことなら西郷どんに任せて貰わな、いかんでごわしょう」と大久保は薄笑いを浮かべて、ぬらりくらりとしてみせた。「すると次のえらい様は徳川に代わって、薩摩の殿さまが天下をとり、鹿児島がお江戸にとってかわるんですかのう」ずんぐりした身体を折りまげるようにして率直に大村は尋ねた。しかし桂小五郎は蒼い顔で無言だった。当の西郷も、ただ笑って大きくうなずき、「よかしますでごわしょう」力強くいった。 「なら一国一城は貰えるな」岩倉も答えた。しかし島津の殿さまは、二百五十年続いてきた主従関係をあくまで信じきって疑いをもとうとはしていなかった「西郷や大久保は世が世なら目見得以下の下賎な者らであるが、このたびの天下創業の働きはアッパレじゃなかか」と口にして、笑った。 「天下平定のあかつきには西郷には10万石大久保には5万石ほどの城持ち大名に取立てやるに、ヤブさかではない」といった。「有難き仕合せ・・・・」小松は平伏して答えた。 慶応四年1月3日。討薩表をもって島津の本陣へ向かおうとした滝川土佐守は、鳥羽伏見で薩長兵に阻止された。随行の旗本共は、「将軍家に対し奉って非礼である」と息まき実力で強行突破しようとした。が、「ババーン、ババーン」と伏せの構えをしていた散兵線の餌食にされてしまった。侍どもは 「イモや長州の木こりに負けるな」と先祖伝来の槍のサヤをとって突入したが、近づく前にバタバタみな撃ち倒されてしまった。なにしろ薩長兵は三千余りでも、銃は南北戦争でグラント将軍が押収した南軍の元込エーゲー銃。硝石も新しい払い下げ火薬である。てんで戦いにもなにもならず滝川土佐は「かくなる上は斬りこめ」と叫ぶのみだった。 処が滝川土佐についていった旗本共が持っていたのは江戸から担いで来た火縄銃。火薬は大阪天満に積んであった寛永時代からの湿気をおびたもの。撃っても鉛玉が転がるだけ、まるで小石をぶっつけているみたい。 鳥羽伏見での敗戦が伝わってきても、「味方は三万から四万」「敵は僅か数千なり」大阪城内にあふれた幕兵はいきまいた。しかし徳川慶喜は、硝石が古くて不発と呑みこむと、夜にまぎれ小姓に化けて乗船。 「追手に帆かけてシュラシュッシュ」とは、蒸気船ゆえ言わずだったろうが品川へ帰航。もちろん表向きは火薬で勝負にならぬ故とは発表せず、恭順のためと引きこもった。 12月18日になると桂小五郎は「徴士」の名で上洛を求められ、総裁局顧問を拝命した。 薩摩は、島津の殿さまの命令なりと、「徳川慶喜を死罪」と強硬に西郷は主張。「ならば現在の八百万石を全額没収すべし」と大久保は言いはったが、桂小五郎は、「それは酷である。せめて百万石」と主張。 しかし薩摩派は、島津の殿さまを棚上げすることを桂に認めさせる事によって妥協した。 つまり長州も殿さま抜きで桂藩となり、西郷藩みたいな薩州と、黒幕の岩倉や大久保の指示で動いた。大村益次郎は呆れ返った。「新撰組が陣地にしたから大半が焼けとる」ご親兵士官にするために、伏見奉行所で各藩よりの徴兵教育をいいつけられた大村はくさっていた。当人としては桂小五郎がもうちょっと良い役をつけてくれても可といった不満はあった。しかし5月に入ると桂から、トウケイと改名された江戸へと急使がきた。なんだろうと単身品川へゆけば、「上野の山に浮浪がたてこもっとる。おまさんが退治するようとの桂さんの意でごわす」迎えにきていた者から突然もち出された。 小男の大村益次郎は肉体的に圧迫感を催おすのか西郷をさけていた。話もせずだった。 西郷は金持息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と、皆殺した冷酷無惨な男と怖れていたのだ。 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した。 西郷一人にやらせたら後で長州の立場がのうなると桂は京から、大村を至急よばせた。死んだ高杉同様に西郷嫌いの大村益次郎は、「ハヤト国独立の手伝いなど・・・・」と、いやがるので桂が西郷と交渉し彼を司令官にした。それでも大村はむっつりし不愛想だった。雨の中でワラジがけで出陣する西郷を見送ろうともせず、大村は江戸城の中にいて、「薩摩苦戦・・・」と伝わってくるとニヤリとし、 「鍋島のアームストロング砲ばうたせえ」と命令し一瞬にして上野を焼野原にした。西郷の面目は丸つぶれにしてしまった。「東北の総司令も長州側となった」と、桂は喜び大村益次郎の手を握りしめた。西郷は面白くない。 そこで、有村俊斉こと海江田信義は やがて京三条小路の大村益次郎を襲撃させた。下手人共が粟田口刑場で斬られる寸前、「弾正台より御命令だ」と彼らを逃がしたのだ。 大村暗殺の一月前の明治二年六月に二千石。ついで西郷は功により正三位。四年には、政府参議翌年七月には薩軍元帥近衛都督に昇進。 「西郷や大久保めは代々の君恩を忘れ吾が島津の、国力を利用し、独立するとわしを乗せだましくさって立身した」と久光は激怒した。が西郷は出世し威張っていたのではない。 「日本がだめなら朝鮮半島に○に十の旗を」と、前殿さまの久光に進言、慰撫していた。しかし同じ加治屋町生れの大久保利通が、「今さら旧主のための征韓論でもあるまい」てんで相手にせずまっこうから反対した。 かねて新政府にあきたらぬ土佐の板垣や後藤それに佐賀の江藤新平も共に辞任した。薩摩出身の昔気質の者は、旧主の為に、身を殉じて帰る西郷についてぞろぞろ帰郷した。鹿児島の北の寺山の丘に塾をたて、ついで西郷は私学校を作り各地に分校を設けた。 木梨精一郎、とよぶ男がいる。黒駒の勝蔵をつつき甲府城占領させようとした西郷腹心で東征軍の参謀に昇進していた。が戦は、巧くない。だから東北遠征は、大村益次郎の長州に指導権を奪われた。 「口惜しい」と私学校生徒も彼が煽動したのだ。 ハヤト族は大和ちゅうとは、民族が違う。ひとまず薩摩ば独立させ、やがて九州を割拠し日本から分離させるしかないと大山格之進は鹿児島県令として、集めた税金を中央政府へは送らず私学校へ提供。別府晋介、辺見十郎太、村田三介ら旧陸軍少佐を区長に任命した。 「ハヤト国」として文武帝の頃に独立していた薩摩隼人の中にも、明治になると大久保利通のごとく新政府の実権を握って旧島津を思わぬ者もいた。川路の正之進もハヤトなのに逆に密偵を次々と送りこみ、火薬や武器を、大阪へ明治10年1月29日輸送替えしようとした。 「大村益次郎はとうに殺したる。もう恐いものはなか」と私学校生徒へ演説。 「虫よ・・・・・・・、虫よ、五ふし草の、根を絶つな。絶たば己も共、に死なん」と一万三千の薩摩健児は出陣した。さて、明治10年2月15日、熊本へ、宮崎とう天の兄の指揮する市民軍も参加し進軍。が、谷千城は必死になって熊本城を守った。 「敬天愛人」の西郷の、遺墨から温厚な大人物に仕立てて、私学校の若者に坦がれやむをえず大久保新政府に対して出陣したと今はする。 しかし皇国史観による教育用西郷論である。己の写真や肖像画の一切も焼きすてて、「サツマの為に」とハヤトとして出陣した。西郷軍政下に薩摩国は、独立した。 そうなると明治7年2月の江藤新平の乱に組し佐賀県から逃げてきた者や明治9年の神風連残党も熊本から逃げこんできた。そして鹿児島は、「易世革命は西南から」と今の山口県までを含む新国家創立の意気に燃えていた。 「樺山三円は、西郷の幼時からの友ゆえ熊本鎮台参謀長にせい」西郷の実弟従道をば、陸軍郷代理にした大久保はガンジガラメにし西郷を苦しめた。 孫が丸紅専務になって棘腕をふるうだけあって大久保は、薩人を、みな敵にする愚は避け有栖川宮を征討総督。第一旅団長 野津鎮雄。第二旅団参謀 野津道貫。別働第一旅団長 高島鞆之助。別働第二旅団長 黒田清隆。別働第三旅団長 川路利良。別働第五旅団長 大山巌。みな薩人のみを選んだ。 熊本城攻撃に敗れ田原坂で戦い三万の若者をなくし城山へ戻っても、まだ西郷隆盛は、「革命は最後まで死力つくすべきでごわす」と花々しく陣頭にたっていた。通俗史では、「東方に向かい頭を下げ切腹した」とする。実際は最後まで薩摩を守ろうと地元優先。桐野利秋、村田新八が倒れた後、腹と股を撃たれ別所晋介に肩をかり戦い、討死したのである。 ★ ★ ★ 以上のように、坂本暗殺は、大久保と岩倉で、孝明帝も、更には慶喜の首まで狙っていたが、勝海舟も狙われていたと思う。 さて、サピオの西郷伝説1は、「西郷は完全無欠の人格者だった」だが、これは丸っきりの嘘で、皇国史観による教育用西郷論である。 奇兵隊の高杉、大村が西郷を恐れたように、情け容赦のない人物なのがわかる。その部分を再度抜き出す。 ★ ★ ★「このまま、もたついては如何でごわすか」西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は、「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷大久保岩倉ラインにのせられた。 「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」あまり気の進まぬ大村益次郎は、「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。 ★ ★ ★ 人格者どころが極悪非道人に近い。 西郷伝説2「大の写真嫌いだった。」 暗殺を恐れて写真を撮らなかったという通説があるが、写真を撮らなかったのではなく、撮った写真は手当たり次第、焼き捨てて、極悪非道人の西郷のイメージを消したのである。以下に再掲する。 ★ ★ ★ 己の写真や肖像画の一切も焼きすてて、「サツマの為に」とハヤトとして出陣した。西郷軍政下に薩摩国は、独立した。 ★ ★ ★ 朝鮮に侵攻した際に、明治政府から写真が手配書として出回るのを恐れたのだろう。長州の元は朝鮮なので、朝鮮明治政府と朝鮮が組まれると薩摩には分が悪い。実際に日韓併合された。 西郷伝説3「江戸無血開城はイギリスの意向だった。」 ★ ★ ★ 西郷は金持息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と、皆殺した冷酷無惨な男と怖れていたのだ。 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した。 ★ ★ ★ 慶喜は既に恭順を示していて、第一、江戸城にはほとんど登城していない。問題が大奥にあることがわかるが、明日には江戸城総攻撃となった際、ほとんどの住人は疎開していたらしい。だから、勝が旗本屋敷を安く買い叩いていたのである。 それを知った西郷は、それなら、上野に旧幕臣共をあつめれば、慶喜の首は赦すと勝に厳命したものと思われる。勝は、大久保に進言し、大阪遷都を東京遷都にして明治帝を迎え、大儲けした金銭で、明治帝に寄進し、徳川家を存続させ、家康伝説をつくる。 無血開城ではなく、戦地になるので、お逃げくださいと、大奥を追い出したようである。決戦は上野でと幕軍を集め、官軍に受け渡した。それが品川で行われた西郷と勝の会談のようである。 イギリスは江戸が焼け野原になると、横浜から貿易で商売ができないので、官軍侵攻には反対したようだが、あくまで金銭の問題のようである。勝が金銭の算段をしたようである。 西郷伝説4「征韓論は朝鮮征伐が目的だった。」 ★ ★ ★ 西郷軍政下に薩摩国は、独立した。 ★ ★ ★ 薩摩の独立を外国に認めさせるため。古代中国人の藤原氏の朝廷から独立した倭人による国家をつくりたかったようである。いまは日本人とひとまとめにいわれているが、他民族国家なのはY染色体アダム説からもわかる。
2017年09月08日
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アホバカは相手にするのも疲れるので無視するが、度々くだらない書き込みをアクセスを変えてまで書き込んでくるので、少しは相手にすることにしたが、どうやらこのアホは現状を「国難」ととらえているらしいから、はっきりと言っておく。 国難にしたのはどこの誰だれか? 北のミサイルを多く飛ばさせて国民を危機に立たせたのはどの政権なのか? 自分の責任は棚にあげて、失敗全てを他のせいにしている無責任な輩は誰なのか? はい全てアホバカ総理である!!! いまが国難とするのなら、国難を解決できる総理を選出すべきである。 ジミンや傀儡ジミンのミンシュなんぞは落第である。この連中は中国共産党と同じことをしている。右翼と名乗っているが、実態は極左である。ジミンは改憲で平成帝を引退に追い込んでいるではないか? 右翼ならば護憲だからである。 私は常に中道主義でありたいと願っているので、いまの政治が左翼だらけなのに閉口している。共産党が最も右翼的立場にある。全くアホバカばかりである。そんなアホバカにかまっていられないので、神秘学の話を続ける。 唯物論者にオカルトと非難される神秘学書を、現代物理学を用いて読解するのを、個人的に試みているのだが、そのまぁ、ノートというかそういうものを、このブログで公開しているわけだが、思えば、自分も物理学を勉強していた若気の至りの頃は、霊魂などという全くそういう得体の知れないものを全く信じず拒否していた。 しかし、現代物理学を学ぶにつれ、特に物質の根本の素粒子となってくると、どっちがホンマやねん、と間違った関東風関西弁で突っ込みたくなるほど、怪しい得体の知れない話が盛り沢山となってくるんである。はっきりくっきり偉そうにいっちゃえば、数式で表現できればなんでもありの世界である。 ここで少し、若き頃の思い出を語る。小生の修士論文は、プレオン模型(狂牛病のプリオンではないぞよ)という、ゲルマンが唱えたクォーク模型を超える、クォークの中に更にまた素粒子があるという、その名はプレオンという素粒子を使って、標準模型の左利き(右利きだったけな?)の解消に挑んだものだったのである。 教官の指導されるままに言われるままに書いた論文だったので、論文発表会では、他の教官に電子より小さいプレオンなどは考えられないと鋭い突っ込みを入れられドギマギした場面もあったが、プレオンの利点である、弱い力による左利きの解消や、統一エネルギーをこれまでよりも低く見積もれること、何よりニュートリノに質量を与えられることを盛り沢山に強調し、なんとか幕を下ろした思い出が残っている。 確かに電子よりも小さいものがあるか、といわれれば、電子も眼にはみえない代物なんで、そんなことはわかりませんが、数式では出てくるわけなんで、ではゼロやマイナスという数字は眼にみれるのかい、ディラック関数は実在するのか、というようなもんである。電子は大きさがゼロで電荷がマイナスなんだからさぁ。 まぁ結局、超弦理論も、霊魂論も、どっちもどっちで同じにみえてくるわけで、相対論や量子力学などは、一般人だけでなく、専門家でさえも、本音をいえば、理解困難なオカルト話なんである。 実際、湯川秀樹は、講演で、シュレディンガーの猫について質問されて困っているし、アインシュタインは、自分で、空間と物質は同じであると相対論で主張したのに、学生が同じことを言っていたら、そんなことあるものかと否定したというエピソードもある。 大体、エネルギーといっても、直に見たものはいないのである。エネルギーがなんらかの形になってはじめて、そういうエネルギー論なる仮説が実証されるわけで、形になる前は誰もみたことも聞いたこともないオカルトもどきなわけである。エネルギーをハミルトニアンやら第一原理に変換してラグランジアンやらに記述して喧々諤々言っているだけである。 そこで、オカルトも、物理学も一緒くたに混ぜ合わせて、カオスのなかから出てくる、物霊理学というような学問を再構築すればいいんでないかい、と楽観的に高田純次氏のように無責任にもブログを書いているわけなんである。 さて現代物理学というよりも宇宙論では、並行宇宙論が提唱されているが、この世とあの世が並行宇宙と考えると宗教との整合性もよく辻褄があってくる。長年伝承されてきた話とつながってしまうのである。つながるつながる超弦理論である。 霊魂が、この世に転生するには肉体という乗り物を必要とし、仏教では肉体を乗り物と考えているが、肉体に乗るには、肉体の波動にフォーカスしないといけないので、肉眼でみれる世界しかみれなくなる。超弦が膜をつくる。 つまり、どの世界に生きるかは、どの世界にフォーカスするかにかかっているから、とりあえず、人智学にフォーカスするために、紹介するべ。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講-------------------------------------------------------------------------------- 1920年 3月25日 ドルナハ 今回の考察では、治療法のなかに、病理学が浸透し、両者に橋を架ける霊の領域へと益々肉薄していく事で、治療理念=治癒原理を示すが、そのままでは活用できないので、様々な治癒原理の背景に言及していく。 とはいえやはり、患者の治療にあたり、考慮すべき事例を概観すれば、個々の事例からでも、様々な治療法を引き出せ、少なくとも診断結果の断片からでも、病気をどう評価すればよいのかがわかる。 特に不可欠なのは、究めて特殊な病気でも、治療については、患者の霊魂を含めた全体像を認識する重要性に注目しなくてはならない。この全体像の認識は、患者の全人生にまで至るべきである。 (チベットの賢者によれば、患者の全人生を見渡して、わざと治療しない場合もある。病気は患者の精神=霊性を正すものなので、患者の精神を正さずして病気を治しても無駄だからである。) 医療関係者が信頼して、様々な話を受けたことがあるが、そのようなときに、よく驚かされたのは、例えば、ちょっと話をした後すぐに、「その患者さんは何歳ですか?」と訊ねると、患者の年齢を知らなかったことである。 次回以降も考察していくが、患者の年齢は正確に知っておくのが、治療の本質の1つである。というのも、治療はかなりの程度、患者の年齢に左右されるからである。 そして以前、ある治療薬について、ある場合には非常に良く効き、別の場合には効き目が無い、という事例を引き合いに出したが、患者の年齢が、この効き目が無いのと、どう関係するのか、という疑問は、治療の本質に迫る。年齢に応じて現れる効き目の違いを考慮して、治療にあたっては何にも増して、年齢を正確に取り扱うべきである。 更に、重要なのは次のような事である。患者が、どのような体格なのか、つまり背が低くてズングリしているのか、それとも、背が高くてヒョロっとしているのか、常に正確に見定めておく必要がある。 「背が低くてズングリしている」、もしくは「背が高くてヒョロっとしている」体格から推定して、エーテル体が、どのような性質を持つのか、を詳細に見て取る事が治療に大きな意味を持つ。 この「エーテル」云々という表現は、やむをえないが(この名については色々と考え込むが)、人体の機能を表す名としては恐らくほとんど馴染みがないだろう。 (日本語訳の多くでは、「生命体」もしくは「いのち」などと呼び換えている。この講義では、はじめは「再生力」と表現したが、エーテル体とも表現している。唯物論を土台にした現代科学で、エーテル体を表現するのは困難だが、最近の超弦理論の一つのM理論のなかのDブレインに近いもの、と考えられる。) このような表現を、人智学を知らない人にも、不自然でない表現に言い換えるのも可能に思うが、それができるのはこの講義の最後になるかもしれない。今のところは理解を深めるのを優先して、このような表現を用いる。 さて、このエーテル体の強度というか、性質は、患者の体格から判定できる。けれども、できる限り詳細に知る為に、問診で確認すべき事項は特に、患者が成長期に、ゆっくりと成長したか、もしくは、速く成長したか、すなわち、長い間小さいままだったか、もしくは割と幼い時期に急激に背丈が伸びてしまい、その後はゆっくりと成長したかどうか、である。 このような事項は、物質体=肉体に対するエーテル体、すなわち人体のいわゆる機能的な発現を示している。そして、この機能的発現は、人体と薬の関係を知るには、是非考慮すべき事項である。 (エーテル体は、肉体に霊魂を結び付ける糊のような役割をする。死ぬとき、このエーテルの糊が剥がれる。エーテル体の糊付けによって、霊魂の浸透度合いが異なるので、肉体への霊魂の影響に違いが生じる。 霊魂が肉体に深く浸透すると、男性になり、あまり浸透しないと、女性になるとシュタイナーは述べている。だから男性の方が筋骨隆々で背が高くなりやすく、肉体が発達しやすいが、逆に肉体に束縛されやすいので、精神が粗くなる。逆に女性が精神が細やかなのは、肉体にあまり浸透しないためで、だから精神=気が強い。 男性は肉体に勝るが、女性に比べて精神は劣る。今生の精神の細やかさ、つまり優秀さは、来世では、強い筋肉をつくるので、今生で女性だった霊魂は、来世では男性になる。霊魂と肉体を仲介するのがエーテル体なので、エーテル体が性差を司っている。 古代人の霊魂はあまり肉体に浸透しなかったので、肉体は女性だったから、古代の神様の姿は女神像なのである。人類はだんだんと肉体に深く浸透するようになるので、肉体は男性化していく。つまり男神像は、将来の人類を表している。 霊魂に性差はなく、肉体への浸透度で決まるが、「肉体に浸透しない」という意味で極論すると、受肉しない霊魂は、女性像にみえることになる。受肉しない女性像が、処 女の聖母マリア像になっていることがわかる。) 更に、必要なのは、物質体とエーテル体よりも高次の、すなわち、アストラル体と呼ぶ「魂」と、自我と呼ぶ「霊」との関係を認識することである。 物質体以外の、この3つの体を、患者から霊視する必要がある。だから、例えば、夢をよく見るか、あまり見ないか、といった質問をしなくてはならない。夢をよく見るなら、それは4つの体の関係について非常に重要な意味をもっている。 なぜなら、夢をよく見るのは、アストラル体と自我が、物質体から離れ、独自の活動を展開する傾向を持ち、つまり、霊魂が、物質体にそれほど入り込まず、密接でない為、霊魂の創造力が、物質体の臓器のなかに流れ込んでいないからである。 (女性に多いことがわかる。) 更に確認すべき事は、不愉快かもしれないが、患者が、活動的で勤勉か、それとも、怠惰な傾向にあるか、である。というのも、怠惰な傾向をもつ人は、アストラル体と自我では、逆に(精神的な)活動が活発だからである。 理屈に合わないように思えるかもしれないが、精神の活動性は意識されず、無意識にとどまる。この活動性が意識されない為に、患者は、意識の上では、どうしても勤勉ではなく、大体において怠惰にある。 (霊魂の活動性が、物質体に伝わらないために、霊魂のなかだけで浪費している。) というのは、勤勉とは、高次の人体の霊魂をもって、低次の人体、つまり物質体に介入していける能力、つまり、自我とアストラル体から、エーテル体と物質(肉)体へと活動を実際に導いていく能力だからである。 そして、怠惰な人では、この能力が非常に少ない。怠惰とは、人智学的に見れば(霊視すれば)、眠っている状態である。 続いて、確認すべき事は、患者が近視であるか、遠視であるか、である。近視とは、自我とアストラル体が、物質体に抑制され、霊-魂が、肉体-物質に介入していない最重要な徴候の1つである。 更に、将来実施可能な、病気の治療にとって究めて重要な情報の提供を指摘する。これは医療や社会への愛情が浸透していけば、実践できるようになるだろう。 つまり、歯科医が診断した、患者の歯や消化に関わる情報を、次のような方法で利用できれば、究めて治療に有益となるだろう(勿論、患者を味方にする必要があり、社会への愛情があれば達成できるだろう)。 すなわち、歯科医が治療の度に、いわば治療の概略図(カルテ)を患者に渡し、その知識(情報)を、他の病気の治療に活用できれば良い。その概略図(カルテ)には、歯の成長についての診断、例えば、早い時期に齲(う)歯(齲触症、齲歯、虫歯)への傾向があるかどうか、あるいは比較的、高年齢まで歯が良く維持されているかどうか、などを記録する。 これは、次回以降見ていくが、人体全体を判定するのに極めて意味がある。そして個々の病気の症例を治療していくべき医師が、このような指標、言うなれば人間の健康の指標を、歯の状態から見て取れるようになれば、医師には究めて重要な治療の拠り所となる。 更には、患者が何に共感し、何に反感をもつのか、知るのも非常に重要になる。特に重要なのは、患者が、例えば塩分をやたらと欲するか、或いは他のものを欲しがるかどうかを確認する。患者が、どのような食品を特に欲するか、聞き出しておく必要がある。 患者が塩を欲するなら、自我とアストラル体が、物質体、エーテル体と強く結びつき、霊-魂と物質-肉体とが究めて強い親和性を示すのがわかる。同様に、このような強い親和性は、例えば、肉体を急速に回転させれば、眩暈などが生じることで確認できる。だから、患者を機械的に運動させ、眩暈などを起こし易いかどうかを確認する必要がある。 (肉体労働者や、男性は、塩っ辛いものを好む傾向にあるから、霊魂と肉体の結びつきが強い) そして、常に調べておくべき事は、一般的によく知られた事だが、分泌の障害、すなわち腺の活動全般である。なぜなら、分泌障害のある部位には必ず、自我やアストラル体と、エーテル体や物質体との結合にも障害があるからである。 以上、問診の際に、基本的に知っておくべき事を挙げてきた。具体的特徴を挙げてきたが、その特徴が、そのまま人体の構成に関わっているので、その特徴から、どのような傾向にあるのか、想像つくように思われる。 また生活習慣、例えば不衛生な空気を呼吸していないか、といった環境について訊くのも段々と述べていく。これらの問診は、個別の問題を議論するときに考察する。 さて、このようにして、治療すべき患者の性質について、まずは一種の霊的な洞察が得られる。というのも、個別の疾患にあわせて、薬を、確実に調合するには、以上の事を知っているのが望ましいからである。 (ゲノム創薬の、霊的な場合。ゲノムの遺伝子情報ではなく、自我、アストラル体、エーテル体、物質体の4つの情報による創薬。) さて、これは既に、以前の考察から出てくることだが、まずは一般的に、外界との間に、人体は内的な親和性をもつのを指摘しておく。抽象的に伝承されている事だが、人智学的観点からよく言われるのは、次の事実である。 「人間は進化していくうちに、外界を、人間のなかから、外に出してきたので、外界は、人間の本性と、親和性を持つ。」 このような関係が、抽象的に伝承されてきたわけだが、この親和性を、個別的に、臓器=器官の治療に際して、指摘していくべきだろう。けれども、差し当たり、特に次の疑問を明確にすべきである。 「人体と、外の自然との治癒原理は一体何に基づくのか?」 この疑問については、論争が絶えず、これから先もっと厳密に語っていく治療法も、激しい論争の渦中にある。これらの論争のうち、特によく知られているのが、ホメオパシー(同症療法)志向の医師たちと、アロパシー(逆症療法)志向の医師たちの論争である。 さて、人智学が、この論争にどのように介入するのか、興味を引くかもしれない。けれども、介入するには(今回は、差し当たり一般論を述べ、後で、具体的な話に詳しく立ち入っていく)、本質的に、かなり特殊な話にならざるを得ない。 というのも、人智学では、根本的に、アロパシー療法が存在しない事が判明しているからである。実際に、アロパシー療法は存在しない。というのも、アロパシー療法として薬を投与しても、体内では、結局、ホメオパシーの原理に従って、防御反応によって、実際に癒されるからである。 従って、いかなるアロパシー療法家といえども、結局、人体がホメオパシーの原理に従って治癒するのを支えとしている。人体は、アロパシー療法家の意図に反して、つまり、薬のなかの個々の成分から派生する特性を止揚する(抑える)防御反応を生じさせ、つまり薬の成分への抵抗性(耐性)を根底で実行している。 (ホメオパシーの原理とは、簡単にいえば中和の原理である。外界の外力に対する人体の内力のことである。免疫反応もその1つで、人体は二極性による動的平衡からなっているが、症状を取り除こうとするアロパシーに対して、ホメオパシーは、症状を人体の防御力と捉え、症状を高める。 ホメオパシーの原理とは、現代科学風に端的にいえば、二極性による動的平衡のことである。) だからやはり、人体から、ホメオパシー原理と同じ防御力、つまり症状を取り除くか否かについては、治癒にかなりの差異がある。この差異が現れるのは端的に言って、薬が体内でホメオパシー化されるときに(抗原抗体反応など成分を減少させる作用で)徐々に現れてくる状態と、人体の治癒原理が相関している為である。 しかし、外界の物体が通常もつ性質そのものは、人体と対立するので、そのままの状態では、人体の治癒原理とは親和性をもたない為に、異物として摂取することになり、つまり、アロパシーの薬を投与するのと同じで、人体に、その抵抗力全てを負わせ、結局、恐ろしく負担をかけ、支障をきたしてしまう。 この物体の異物認識化を取り除くのが不可能な場合について特にもう少し述べる。 さて、以上から、わかるように、ホメオパシーとは根本的に言って、自然のなかの隠れた本質(霊性)について、細心の注意を払い、繊細な感性を研ぎ澄まして、学びとってきた治療法なのである。たとえ一時、熱狂的心酔から、さも意味ありげな飛躍をしてしまったことがあったにせよ、全般的には、秘教として密かに霊能力者により学びとられてきた。 しかし、重要なのは、外の環境と、人体に生じる個別の症状との間に、どうやって親密な関係=治癒原理をみつけるか、認識していくことである。しかも、既に以前述べたように、古代の医学書を、思慮深く読み解いていくのが役立つこともあるが、無論、古代の医師たちの発言を、そのまま真似るのは現代ではもはや不可能なので、例えば、現代科学のあらゆる手段をもって、外の環境と人体の相互関係を探求していく必要がある。 まず確認すべき事は、物質の化学的調査、つまり実験室で、個々の物質を分析するだけでは、治療については、あまり多くを成し遂げられない、ということである。既に示唆したように、上述のような顕微鏡による観察を、巨視的な観察、つまり宇宙全体の観察に換えていく必要がある。 今回はまず意味深い天の配剤(仕組み)を提示する。この配剤は、外の自然の三分節と、人体の三分節とが、どのように対応しているのか、をいわば提示してくれる。 特に着目すべきなのは、自然の「液化(溶解)」の活動である。「液化」とは、この地球という惑星の進化過程で特に大きな意味をもつ最後の特性なのである。地球で固体として現れた活動は、実際、その大部分が元々は、宇宙の液化活動に還元され得る。 この宇宙の液化活動が、地球で克服され、その生命(動)力が奪われて、固体を(静的に)沈殿させた。しかしながら、沈殿物の機械的な堆積を想定し、地学や地質学に、その基礎付けを求めるだけでは、皮相的な知見しか得られない。 地球での固体の出現が既にもう、本質的に、宇宙の液化活動からの結晶化、もしくは沈殿という特殊で異質な状態なのである。 だから、液化活動のなかの生命(エーテル)力は、外の自然のなかにある限り、かつて人間が外に出した生命(エーテル)力でもある、ということがわかる。 つまり、外界の液化活動には、人間がかつて出した生命(エーテル)力が隠れている。そのようなわけで、外の宇宙での液化活動が、人体の活動と、どのような関係にあるのか、を研究するのが非常に重要となる。 いま言及した関係から、霊-魂と肉体-エーテル体が、あまりにも強く結びついている人体の器官(臓器)が、塩分に渇き、もしくは飢えているので、人体は、外界の塩の沈殿化とは逆向きに活動している、すなわち、地球の固体化=塩化活動を阻止する活動で、塩を溶かし、根本的に地球が固体化する前の液体の状態へと後退させようとしている、のがわかる。 (塩を欲するのは、人体内で、塩を溶かし、液化しようと霊魂が活動している事を示し、塩を液化する事で、霊魂が、肉体の束縛から逃れようとしている。) 以上のような事実を考慮する事が特に重要である。そうすることで、人体と外の自然との関係を洞察できる。外界で生起している活動を逆行させ、抵抗する、人間の本性としての、臓器=器官の要求がある。 以前述べたように、脳を支えるために浮力が生じて重力に抵抗している事から、総じて、人体には自然の力に抵抗する傾向が存在している。 ではさて、地球の活動に抵抗するとは、一体どういう事なのか? その意味は、基本的に、人体下部を、霊-魂の制御から自由にし、霊-魂を、人体下部から、例えば人体上部へと駆逐する事に他ならない。 つまり、塩への渇望があると必ずわかる事は、人体下部が何らかの形で、霊-魂の強すぎる働きから自由になろうとし、霊-魂の強すぎる働きを、上部に流出させようとしている、という事である。 いま人体下部に、それとわかるような異常があると想定してみる。この異常を知る手段と、この異常に起因する個々の病気については次回見ていく。では、この異常に対して何ができるか? さて、いま1つの考察を差し挟む。この考察は、薬の使用に偏見をもつ人には意味をもつかもしれない。鉱物薬に嫌悪をもつ人がいるが、この嫌悪は正当とはいえないからである。 というのも、これから見ていくように、植物薬は、純粋に何と言ってもやはり特定の範囲内でのみ、その効力が発揮でき、更に深刻な病気となると、鉱物薬が大きな意味を持ってくるからである。 そこで、この基本的な考察に際し、鉱物薬から始めても、気を悪くしないで欲しい。鉱物薬とは言っても、この鉱物薬の効力を、器官=臓器の生命力に組み込む事だからである。特に、上半身との関係から、下腹部の治療について、牡蠣を研究すれば多大な知見が得られる。 牡蠣の殻の形成は究めて興味深い。というのも、牡蠣は、その炭酸石灰の外殻を、内から外へと放出するからである。さて、牡蠣は、確かに動物の進化系列のなかでは、下等生物だが、人智学的に探究するなら、宇宙全体の進化のなかでは、比較的高い位置を占めている、のがわかる。 というのも、牡蠣は、人間が、思考に用いるエーテル体を、外界に放出することで、宇宙の進化のなかで高い位置を占めているからである。 内から外へと殻を形成し、エーテル体を放出する、牡蠣の非生物(鉱物)化の活動が示すのは、もし、放出せずに、器官の成長と結びついたままだったら、牡蠣を人間のように賢くし、高等生物にしたエーテル体を、どのようにして、牡蠣が、鉱物の殻へと導くか、という活動だからである。 このような牡蠣の殻の形成を手掛かりに、炭酸石灰[kohlensaurer Kalk]、すなわちカルカレア・カルボニカ[Calcarea carbonica]=炭化(鉱物化)の働き、つまり、霊魂の強すぎる活動を肉体から引き離して導いていく働きを、紛れもなく、いわば手に取るように見れるようになる。 さて、下腹部に過剰な霊-魂の活動があり、この症状についても、これから見ていくが、それが特定の疾病として出現するのがわかったときに、獲得すべき鉱物薬を、炭酸石灰の持つ、この秘密に満ちた内から外へのエーテルの放出が、牡蠣の殻などの御蔭で得られる。 つまり、治療の本質とは、この内から外へのエーテルの放出のなかに、何らかの治癒力を見つけ出し、明確な知見を獲得し、それに基づくことである。カルカレア・カルボニカのような薬と結びつく治癒力や、それに類似した薬を、合理的に研究するには、以上のような関係のなかに、治癒原理を洞察することで達成できる。 さて、この内から外への炭酸石灰の駆逐力に対して、その対極として相対するのは、例えば、燐の活動(プロセス)である。 上述の炭酸石灰=塩の活動が、環境に身を捧げるように振舞う理由は、塩の活動(塩の性質を持つ)が、眼にみえない光などの霊-魂の働きから、対応する物質が解放され、露出させられる事で生じるからである。塩の活動は、塩の生成を通じて、眼に見えないエーテルを放出する。 対して、燐の活動は、炭酸石灰(塩の活動)等とは全く逆となる。だから、古代からの先祖伝来の認識が、燐を光の担い手とみなしたのは、実際全く正当なのである。というのも、燐が、眼にみえない光を実際に担っている事を、古代の霊認識は正確に見抜いていたからである。 塩が自ら遠ざけた光、つまりエーテルを、この燐は自らのなかに担う。つまり塩の対極として相対する燐は、いわば眼にみえない、特に光、または熱などを、内包し、自らの特性にする。 燐のなかにあるエーテル、もしくは、燐に類似する治癒原理は、以上のような事情に基づいている。従って、眼にみえないエーテルを内包する燐は、特にアストラル体と自我が、肉体=物質体に接近できない際に、肉体に戻すのに適している。 (塩、燐という言葉がでてきたが、現代でいう塩や燐ではない。エーテルを放出する活動や、エーテルを吸収する活動を指す。) だから、患者が病気で(個々の病気については後で述べる)、頻繁な夢に悩まされ、すなわち、アストラル体が物質体から離れて、独自の活動をする傾向をもつのが判明したなら、また、その患者が例えば、臓器=器官の周辺に炎症を呈する場合、アストラル体と自我が、物質体のなかに位置していない状態を示すが、アストラル体と自我を、物質体に関わらせる為に、燐のなかの、眼に見えないエーテルを使用できる。 不安定な睡眠生活を送っている場合、究めて様々な症状について、燐を使用できる。なぜなら、燐は、自我とアストラル体を適切な形で、物質体とエーテル体のなかに引き戻すからである。 このように、燐と塩は、ある意味で互いに対極的に相対している。そして、気づくべき事は、現代の化学により命名された個々の物質名よりもむしろ、これらの物質が宇宙全体の活動のなかで、どのような役割を担っているのか、に注意を向ける事である。更に、これから見ていくが、燐に類似した作用をする鉱物薬も同様に使用できる。 以上の事から、外の自然における2つの互いに相対する状態、すなわち、塩と燐の活動=過程(プロセス)を確定した。この両者の中間に位置するのが、水銀の活動である。 人間が、神経-感覚系、循環系、新陳代謝系という3分節化された存在であるように、つまり、循環が新陳代謝と神経-感覚活動の間にあって両者を仲介するように、外の自然では、塩ほど強くエーテルを放棄せず、かといって眼にみえない霊-魂を強く、自らのなかに保持する為に、エーテルを内包するわけでなく、この両方の間で釣り合いを保ち、液体となる事で、両者を仲介するのが、水銀である。 というのも、水銀は、根本的に、常温で液状になる傾向を持つからである。この「水銀」とは、今日の物質の水銀ではなく、液化の傾向にある塩の活動と、眼にみえない霊-魂を自らのなかに引き寄せるために、エーテルを吸収する傾向のある活動の間で釣り合いをとっている活動なのである。 (古代の医術が、水銀を用いたという記述は、現在の物質の水銀ではない。) つまり、水銀のなかに明確に含まれる働きを研究する必要がある。従って、この事からわかるが、水銀は、燐の働きと、塩の働きとの間に、適度な平衡をもたらすのを目的として、その両者に本質的に関わっている。 以上の水銀の平衡をもたらす働きと人体の働きとが矛盾しない事は、梅毒やそれに類する疾病について、個別的に述べていく時に、更に見ていく。 さて以上、燐、水銀、塩について、鉱物薬とすべき特に明瞭な基本型を提示した。牡蠣の殻に代表される塩の活動が、背後で密かに行われる器官=臓器の活動についても述べなくてはならない。 眼に見えないエーテルが、燐のなかに濃縮されるときも、器官=臓器活動の背後で密かに行われるが、その作用が内側(精神)だけに留まるので、外に向けて、それほど明瞭に顕現しない。 さて今度は、これまでのように、外界の典型的な鉱物の観察から、また別の進化段階に人間が放出した植物へと進んでいく。 植物は、既に以前、別の観点から見てきたように、人体の働きとは、逆に相対している。植物は、明白に3つの部位に分けられる。この3つ部位の区別は、下方の地中に向かって拡がっていく根と、上方へと向かって伸びていく花や種子や果実、そして、その間にある、葉や茎などから、明確に浮かんでくる。 既に外への方向性において、植物と人間の違い(動物は含めない)が観察できる。実際に究めて重要で意味深い人間との違いが存在する。植物は、根を地中に沈め、花、すなわち生殖 器を上方に伸ばす。人間は宇宙のなかで、上に向けて頭を根付かせ、生殖 器を下に向け、その構造についても、植物とは完全に反対になっている。 従って、人間は、上に向かって根を張り、下に向かって花、つまり生殖 器を開花させている、逆向きの植物としてイメージするのも無意味ではない。 以上のように植物は特別に逆向きで人体のなかに取り込まれる。今度は、この相違が、動物との違いを示す重要な指標となる。 動物は地上に横たわり、水平に活動するので、取り込まれた植物のほとんどは水平に横たわり、植物の生長の垂直方向とは、直角をなす、だから人間は、動物の九十度を超え、植物とは完全に反転し、つまり百八十度異なる。 以上の事は、人体の外界との関係を観察すれば発見できる知見の1つである。そして、医学研究者が、このようなマクロコスモスの神秘に立ち入るのなら、例えば、細胞に働く諸力について、顕微鏡での観察より遥かに多くの知見が獲得できるだろう。 というのも、細胞に働く諸力もやはり(植物か、動物か、人間かの違いはあるが)、マクロコスモス全体のなかで包括的に観察できるので、顕微鏡で観察してもほとんど捉えられないからである。 人間の細胞を知るには、垂直に上昇、もしくは下降し運動する細胞と、釣り合いを保って静止し横たわる細胞などの相互作用を研究するとよい。このような相互作用を、マクロコスモス全体にわたって研究すれば、根本的に、細胞の運動が、マクロコスモスの運動の写像に他ならない事がわかる。 さて、地球の植物を観察するのに、現在の方法ではそれほど意味がない。つまり、地球上をくまなく巡り、次から次へと植物を観察し、詳細に調べ、植物を1つの系列のなかに組み込むべく、区分する名称を考え出し、類型化しながら、分類していくのではなく、地球全体を1つの生命体として、人間の髪の毛が人体の一部であるように(確かに髪の毛はどれも似ていて、植物は互いに異なっている点で、考えにくいが)、植物全体も、やはり地球という生命体の一部である、という事実を考慮しないといけない。 髪の毛一本一本を、独立した個体として観察できないように、個々の植物も、独立した個体としては観察できない。植物が様々に異なるのは、地球が他の天体と相互作用し、様々な方向へ力を展開させながら、地上の生命体を様々に組織化する事に基づいている。 だから、植物の生長の根底には、地球という統一生命体がある。従って、次のような事実を考慮するのは重要である。例えば、キノコを観察すると、一見して、地球が母体となっている事に気づくだろう。 更に、キノコよりも高度な、草のような植物に眼を転じると、地球が、母体ではあるが、地球外の天体の影響を既に受けている、つまり、光などが、花や葉などの形成において影響を与えている事がわかる。 しかし特に興味深い事実を知るには、樹状の植物に注目すればよい。つまり、樹幹を形成することで、樹齢何十年の植物となっているが、この幹の形成のなかに、地面の上に直接生える植物では、通常、母体となっている地球(土の存在)の鉱物化の活動が継続している。 というのも、以上は次のようにイメージできる。つまり、地球から植物が生え出ている。そして、地球のなかに、植物の生長の根底にあって、宇宙から流れ込んでくる(溶解)力と相互作用しながら出現する鉱物化の作用が探究できる。 樹が生長するとき、地球の鉱物化の作用は、上記の幹の年輪のように、地球から直接植物のなかに流れ込んでいた力の上に、被さっていく(非常にショッキングだが、事実である)。地球が衣服を纏うように、植物の力の上に地球の力が覆い被さり、幹のなかに入り込む。 いうなれば、幹は地球の瘤である。このように考察しないのは、今日の実に忌まわしい唯物主義的な思考に起因し、地球を単なる鉱物の複合体のように考え、盲信し、疑う気配さえない。 地球は鉱物を形成し、分離する他に、植物のなかに突き進んでいく力をもっている。この力が捲り上げられ瘤となり、幹となる。幹の上に育つ植物は、幹については、草のような下等植物が直接生える地面と比較できる。 草のような下等植物にとっては、地球が幹であり、幹に花や種子形成器官を付けている樹状植物は、幹となる特別の地球を作り出している事になる。この違いから、植物薬として、樹から花を摘むか、草から花を摘むかでは、異なるのがわかる。 更に、この観点から、植物に寄生する植物、特にヤドリギに注目する。ヤドリギは、組織的に結びつき、寄生した植物を、幹として、その上で外への分泌活動を行う、花や種子を担う生殖 器官を付ける。従って、通常の植物の花や種子のなかにある力が、地球の鉱物化と結びついて上昇していく様子を、ヤドリギのなかに読み取れる。 鉱物化を免れた植物のなかの力が、ヤドリギの花や種子として解放される。だから、地球から上昇し、宇宙からくる力と相互作用する力が、ヤドリギがつくる花や種子のなかで、徐々に地球から独立し、自らを分離するのが見て取れる。 特に、ヤドリギには、強力に自らを個性化し、解放に至る様子が見てとれる。 さて、ヤドリギの、地球から独立したい、という特徴を、通常の植物での知見と結びつけると、次のような考えが浮かびあがる。 「根が発達している植物ほど、逆に、花が未発達というように、このような生長の違いから、植物の種類が生じる、のではないか。」 発育のよい根をもつ植物は、地球に向かう傾向をもつ。逆に、地球から、自らを解放する植物は、種子や花の発達へと上昇する植物で、特に、寄生植物である。 しかし、植物には、根、茎、葉、花、実などのいずれの器官の生長も、他より突出しようとする傾向があり(パイナップルをみると、幹が突出しているのがわかる)、主要な器官のどれもが、標準形から、独立しようと努力している。 また「トクサ」をみれば、茎の生育が突出しているのがわかる。また別の植物は、葉の生育が突出し、また別の植物は、茎と葉を萎縮させた分、花が発達している。 以上から、これら様々な植物の発達の傾向と、外の自然のなかに3つに分類できる鉱物の働きとが、並行している、という事実が明らかになる。特に、植物が自らを解放するなかで、寄生植物において最高潮に達する独立の働きに注目するなら、眼にみえない霊魂などを保持(精神化)する傾向を持つ活動が得られる(燐の性質)。 宇宙から地球へと流れ込む眼にみえない霊魂などは、種子や花の器官が発達しているなら、燐の活動と同じように、この生殖 器のなかに保持される。だから、花、種子、それからヤドリギなど寄生への傾向をもつ植物の本質は、燐の活動である。 そして逆に、植物の、地球に根を下ろす活動を研究すれば、地球を母体とみなし、展開する力が、塩の活動と密接に関わるのがわかる。 以上のような両極の活動に、植物のなかで直面する。そして上方を目指す花や実の活動と、下方に根を下ろす活動との間を仲介する働きのなかに、水銀の活動(プロセス)があり、両者に平衡をもたらしている。 従って、植物の構造が人間と逆転している事実を考慮すれば、次のような結論に至る。 「花-実をつくる活動は、人間の下腹部の臓器=器官と非常に強い親和性をもち、その背後には、燐の活動(プロセス)をもつ。」 この事が正しい事を次回以降も見ていく。この事について、植物の根の活動は、人間では、人体上部と特別の親和性を持つ。けれども、当然注意すべき事は、人体を単純に3つに分けるのではなく、例えば、下部に属する消化活動にしても、上を目指して頭にまで継続しているからである。 脳の灰白質のなかに、思考物質の本質がある、と考えるのは、全く馬鹿げた見解で間違いである。脳の灰白質の本質は、脳に栄養を与える為の消化活動というべきコロニー(栄養群)である。 脳の白質こそが、思考物質として大きな意味を持つ。従って、脳の灰白質を解剖学でみると、従来の見解から灰白質に帰せられている働きよりもむしろ白質を含む全体的活動が見つかるだろう。 だから、消化について正確に語るには、下腹部だけでは、事足りないことがわかる。植物の根についての人体の親和性に注目するとき、重要なのは人体上部だけでなく、他の部位とも関わり合うのも想定しなければならない。 植物の、花を咲かせ、果実を結ぶ器官と、根を伸ばす器官との間を調停する器官、つまり、一般の草などに現れている茎や葉をつくる活動を抽出した状態で、人体に投与すれば、循環障害や、上下間の律動的な調和に、特別な意味を持つだろう。 眼にみえない霊魂を内包する鉱物(燐)と、霊魂を遠ざける鉱物(塩)、そして、この両者間にある鉱物(水銀)を示したが、これらを、植物と対比できる。 (火の玉は燐、幽霊には塩という日本の風習はこの知識のせいか?) そして、鉱物と植物を対比する事により、植物の器官の発達度合いに応じて、人体との相互関係を確立する初歩の合理的治療法を、植物の霊的な観察から獲得できる。更に、この治療法をどのように特殊化していくかは、いずれ見ていく。 さて、これまで指摘してきた事は、植物、鉱物、人間との間に相互関係が成立している、ということだった。近代では、更に、人間と動物との間の親近性や相互関係が、何か非常に希望に満ち溢れた新しい治療法を生み出すか、のように喧伝されてきた。 とはいえ、血清療法が生まれた際の、奇妙な実験を度外視しても、いまも通常行われている血清療法について、以上の原則が通用するようになるべきである。 血清療法については、実際に奇妙な実験がベーリング(2)により行われたが、その論文を調べると、血清の周辺のほとんど錯綜する説明ばかりで、血清が実際に何の役に立つのか、に絞った文面をみると、医学の革命というべき印象を与える説明が出てくる。 ☆ ☆ ☆ (2) Emil Adolf Behring, 1854-1917 ベルリン大学衛生研究所および伝染病研究所勤務、ハレ大学教授、後にマールブルク大学衛生研究所所長。 ベーリングについて:1890年12月4日の「ドイツ医学週報」第49号においてベーリングと北里の論説「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」(*)は、次のような言葉で始まる。 「かなり以前から継続してきたジフテリア(ベーリング)と破傷風(北里)に関する研究において、我々は臨床上の問題、免疫性を与える問題にもアプローチした。これらの伝染病のいずれの場合にも、感染した動物を治療し、また健康な動物ももはやその後ジフテリアにも破傷風にも感染しないように予防処置をすることに成功した。治療と免疫の付与が、どのようにして達成され得るかについては、ここでは以下の文章の正当性を証明するために必要な程度のみ(脚注)触れておくこととしたい。」云々。 脚注には、「詳細な報告は衛生学の雑誌に掲載の予定。」とある。 (原文を読まないと意味が理解できないので、省略した。) 衛生学の雑誌への公表という約束は、1892年になってようやく果たされた。それ以前には見出せない。そこでは全部で60頭の動物による2つの実験群が記録されている。そのうち59頭においては既になんらかの免疫が与えられた実験がなされたか、またはジフテリアへの感染と同時に、或いは既にその数日前に血清を与えられていた。人間に起こる感染防御、つまり発病の1日、3日後に血清注射という方法が模倣されていたのは、1頭の動物だけであった。この動物は治癒した。 その他の「治癒した」動物においては病気が全く発生しなかったか(実験群II 1891年12月~1892年1月)、あるいは感染前に血清が与えられた場合はほとんど死んでしまった(実験群I 1891年9月~12月)。 当時の医師サークルの発表が悪くとられたのは、ジフテリア血清問題に対する批判的な論文を集めたある冊子に由来する(「ベーリングと彼の血清に関するあるいはそれに反対する医師たちの声」カール・ゲルスター博士編、1895)。 *「医学の歴史」(小川鼎三著 中公新書)によれば; 北里柴三郎(1852-1931)は、明治十六年東京大学を卒えてドイツに留学し、コッホの下で研究して、まず破傷風菌の純培養に成功した(1889)。この純培養から破傷風菌の毒素を取り、これをウサギに注射して、この動物の血清に抗毒素を生ぜしめて、その血清により、破傷風の治療および予防ができる。それは北里とベーリングの共同研究として、1890年12月3日に発表された。その一週間後に、ベーリングがジフテリアの血清療法を単独に発表した。ジフテリアの死亡率は、それより前は40パーセントを越えたが、以後、その10分の1以下にまで減った。こうして北里は血清療法の開祖の一人として名声をあげ、ベルリン大学から名誉教授の称号がおくられた。 ☆ ☆ ☆ けれども、そのとき行われた実験の記述を確認してみると、奇妙にも(決して誇張でないのを知っている人もいるだろうが)、人間に転用する為の、イルカを用いた動物実験から推定した血清療法では、「甚だしく多数」のイルカが、効果無し(不都合)なのが判明した。 つまり、血清で処置した多数のイルカのうち、有望な成果を示したのはたったの一頭だった。偽装された動物実験で、たった一頭のイルカの成果にも関わらず(血清療法の為に大々的に宣伝太鼓を打ち鳴らし始めた時期に、このような顛末である)、血清療法が成立した1つの事実として挙げておく。 恐らく、この事を理解している人もいるだろう。そして、この法外ないい加減さともいうべき、科学の場への登場の、このような顛末こそ、科学史において本来は厳密に追求すべき事だろう。 原則として今回の最後に、そして次回、或いは次回以降に挙げておきたいのは、何といってもやはり、いままで見てきたように、人体に直接治癒力をもたらす活動は、外界の表面に現れているような活動ではなく、自然のなかのより深い本質から取ってこないといけない活動である。 さて、人間、つまり人体は、自らが外に出した、鉱物の燐や塩の活動、植物の花や実をつくる活動、根を張る活動、葉を生やす活動などと親和性を持つが、これらの全活動を、実際に全く逆転させて、生きている。 人体は、外の自然のなかに現れている活動を止揚し、反対の活動に逆転させようとする傾向をもつ。 動物については同じではない。というのは、動物は、自然の活動を途中まで継続するからである。人間は同じ意味で、動物の反対に位置するのではなく、動物に対しては90度の位置にいて、植物に対しては180度の位置にいる。 そして、これは、血清などのような動物薬の使用について疑問が生ずる際に、最も考慮すべき事実である。 1-5 人間の頭を研究する事は、人体のなかの最多の神経-感覚系組織を研究する事である。人間の頭の構造は、人間の高次の本質という点でも、その他の部位とは区別できる。 つまり、人智学の観点から、人間の頭に注目するなら、頭とは、人間の霊魂の刻印(複製)であって、自我、アストラル体、エーテル体が、析出(排出)した物質、とさえ言える。 更に加えて、頭では、(親から受け継いだ)物質体が問題になるが、この物質体は、自我、アストラル体、エーテル体が刻印した物質とは異なる。そこで、次のような事実に注目する事で、人間の頭がもつ高次の本質を強調できる。 つまり、胎児の最初期の頭のなかに、高次の霊による性質を見て取れるが、人間の頭は、両親の人体だけからつくられるのではなく、宇宙からの様々な力がひたすら作用を及ぼしている。 エーテル体には、両親の人体からも多くが作用しているが、誕生以前の、更にいえば受胎前の霊-魂の存在だったときの、宇宙からの諸力も作用している。そして、アストラル体と自我に至っては、受胎前の霊界で関係をもった霊たちも作用し続けている。 (地獄界からはネガティヴな想念、天国界からはポジティヴな想念の影響を受ける。) 両親以外の、それら高次の存在が作用し続け、人間の頭をつくる。 自我の刻印(複製)を人間の頭に作り出し、アストラル体も、エーテル体も、その刻印(複製)を物質体につくる。地球の物質界ではじめて受け取られる物質体だけが、主として効力を発揮するので、物質体は刻印せず、主体となる。 だから図で示せば、人間の頭は自我の刻印(複製)である。自我の刻印は、頭のなかに、ある特別な形で組織される(この構造は後で度々語る)。それは、まず主として、頭の熱を集め、自我のなかで、その熱分布を創り出す事で組織する。 (例えば、風邪をひいて熱を出すのは、自我が熱を用いて、人体の再統合を図り、浸入してくる外力に対して、抵抗し、制御を図ろうとするため、と考えられる。) 更に、アストラル体が、頭のなかの、主に、頭を貫通する気体‐空気の活動(図参照)のなかに浸透し、その刻印を組織する。次いでエーテル体が刻印を組織し、そして、頭の物質体がつくられ、以上が物質が生じる活動の正体である(下図の黄三日月)。 例えば、人間の頭を霊視し、頭蓋骨の後頭部を、図(下図の白丸)のなかで示す事で、この活動を暗示できる。けれども、濃縮された物質体(黄)もまた、頭全体に拡がっている。人間の頭の、この物質体に、主要な物質活動がある。 (牡蠣の殻の形成と似た感じで、頭がつくられる。) この頭の図は、頭のみを表現し、頭の活動の完全体である。けれども、この頭の物質活動のなかにも、やはり二重性、つまり2つの活動の共作用がある。頭のなかでは、2つの活動の共作用が生じているが、これは外の宇宙で起こっている別の活動とともに霊視で概観できて、はじめて理解できる。
2017年09月05日
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久しぶりにブログを更新する。相も変わらず巷はアホ総理の疑惑すら解明できずに、北のミサイルに誤魔化されているていたらく。 アホ総理の支持率とかけて、ヤクザの恫喝ととく そのこころは、北朝鮮のミサイルで命拾い、といったところだろう。 都市伝説によると、北のミサイルはアホ総理の危機に飛んでくる、というから、北のミサイルが、アホ総理の正真正銘の自衛隊なんではないかと思うくらいである。 ただ確かなことは、北の豚とアホ総理の頭の低さは同レベルで、死後どちらも地獄の最下層に堕ちる、ということだろう。 さて、以前、核に関わると碌なことがないと警告したが、この際にはっきりと言っておきたい。 宇宙人も警告しているように、核兵器に関わることは、非常に危ういことで、というのも、地球の物質生成は、宇宙の天体の軌道によるので、地球の物質の配分を大規模に変えるということは、天体の軌道にも間接的に影響を与えることになるので、結局、地球の天候や天変地異を変えることにつながり、異常気象を誘発しやすくなる。 つまり、宇宙の営みから逸脱することになる。天から追放され、地獄行きというわけである。 それにもし、核兵器を使って、その被害者を出せば、カルマの法則により、死後に、その被害者の苦痛を大体3倍程度味わうことになる。 こんなことを書いても永遠の霊魂の生命や死後の世界を信じもしない輩には無駄だろうが、悪夢をみるよりも地獄は酷いところ、ということだけ警告しておきたい。 例えば、原爆を落とした連中やその開発に関わった輩全ては、カルマの法則により、原爆死傷者全ての苦痛と苦悩を大体3倍、死後に味わう義務や運命を背負うから、熱くて熱くて肌が丸焼けするような灼熱のマグマのなかに、死にたくても死ねない苦痛や苦悩を永遠と味わうことになることがわかる。地球の中心部に吸い寄せられ、堕ちることになるだろう。 核兵器などで自然破壊をしているわけで、地球という生命体にも苦痛や苦悩を与えているわけだから、地球がお前が何をしたか教えてやろうというようなもんである。 想像するだけで恐ろしいが、核兵器に関わる連中はそんなことには無関心で想像も及ばないからこそ、余計に死後に想像が及ぶように地獄を体験するわけである。 自分が何をしたのか、他人の視点でみてみるのが、死後最初に与えられる人生の反省の機会なんである。 さて、先日TVで、アニメのヒーローとヒロインの昭和と平成のランキング番組をみたが、コメンテイターが面白いことを言っていた。 昭和のヒーローヒロインは自分のために行動し、平成のは仲間のために行動するという違いがあるというのである。 ヒーロー1位は昭和も平成もドラゴンボールの孫悟空だったが、ヒロイン1位は昭和は峰不二子で、平成はワンピースのナミだったが、不二子は盗んだ金を自分のために使い、ナミは仲間の故郷を取り戻すために使うという点で、違いがあり、つまり、昭和は自分のための行動と、平成は仲間のための行動の違いがある、というわけなんである。 この発言が面白いと思ったのは、この国の歴史と、自我の発達度の違いが現れていたからである。 昭和の前には、アニメはなかったが、明治や大正などからの講談などをみれば、滅私奉公や自己犠牲をうたったものが多いことに気づくだろう。 戦前の昭和初期などもそうだが、中世の古めかしい集団主義が現れている。まだ個人主義や、自我に目覚めていない、古代アトランティス時代の動物の集合魂に近い原始人の精神といえる。 この集合魂の集団主義が残っている限りは、次の進化段階には進めないので、天皇制という集団主義に洗脳され、染まってしまった、この国の住人は、先の大戦で、不本意ながらも戦場に送られてしまって、現世を強制退去することになったとも考えられる。 もちろん、天皇制に抵抗した住人も牢獄に送られ強制退去させられてしまったが、集団に抵抗することで、改めて自我の個性に死後目覚めたはずである。 それは、戦後に生まれてきた住人が自分という自我を、明治大正よりは持っていたことでわかり、何より、戦後のヒーロー、ヒロイン像がそれを象徴していることでわかる。 戦後の昭和を代表するアニメの主人公が、良い意味で個性に溢れ、悪い意味では行き過ぎるとイケイケドンドンでエゴ丸出しなのでわかる。 平成になると、個性が行き過ぎると、周囲に嫌われ、かえって良くないという仲間意識が芽生え、エゴに歯止めがかかる。 個性が過ぎると及ばざるがごとし、というわけである。 最近、巷で、その例を示す、面白い出来事があったので、紹介する。 それはジャズプレーヤーの日野皓正氏が発表会で教え子を殴ったという出来事である。 これは個人的意見だが、クラッシックはともかく、ジャズやロックは、奏でる音楽は反体制的だが、音楽業界はバリバリの体育会系で体制的である。厳密な師弟関係、上下関係がある。 だから言うことを聞かない弟子は殴って当然という職人の世界に近い。そういう世界で生きていくには従うしかない。そういう世界を選ばなければいいので、義務教育ではなく、個人の選択の自由である。 何もプロで稼がなくても、音楽は趣味でできるし、その方が楽しめるはずである。音楽業界というのは先輩が絶対なので、特に芸能系はそういう世界である。だから、教育というくくりでなんでも当てはめるのには無理がある。 確かに行き過ぎの指導はよくないが、そういう身の危険を感じる場合は逃げるしかない。辞めるのも一つの手である。 音楽教育という表現も相応しいとはいえない。平成になったのに、昭和のヒーローやヒロインに憧れる勘違いした若者が多いのかもしれない。むしろ若者というより、その親に多いように思える。自分の夢を子どもに託すというような、中世的な思考形態をいまだに持っている人も多い。 個性や個人とは、それが全体のなかで輝くときにはじめて意味をもつのである。 親に強制された道を歩くのは単なる親の奴隷である。 日本のクラブ活動も、欧米などに比べて遥かに遅れている。学校で、専門でもないクラブ活動を教員が教えるのは不自然である。将来、その業界に進むのなら、その業界のしきたりを良く知る人物に師事するしかない。 必要以上にドラムを叩くのはドラムがかわいそうである。 ドラムだって生きている。音楽だって生きている。 殴られてみて、ドラムの気持ちがわかればいい。殴られてもへこたれずに、良い音を鳴らしてほしい。師に殴られるのは、若いときの良い思い出になるのだから。 というわけで、最近のていたらくぶりに警告するためにお馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ 他人の顔色が見えないドラマーなんてクソ http://my.shadowcity.jp/ 日野皓正が中学生を殴った、というんだが、彼は日本のジャズマンには珍しく幼少時からの叩き上げの人で、父親からタップダンスを仕込まれ、肺が成長すると9歳から「もう吹けるだろう」とトランペットを習った、という経歴です。その後はかまやつひろしの父親、ティーブ釜萢からジャズを習う。ティーブはアメリカ産まれで、生涯、日本語はちゃんと話せなかった。まぁ、青年期にJAZZに魅せられて、という人ではない。 ジャズトランペット奏者の日野皓正(てるまさ)氏が今月20日、東京都世田谷区で開かれたコンサートで、壇上でドラムを演奏していた男子中学生の髪をつかみ、顔に往復ビンタを加えていたことがわかった。 生徒にけがはなかった。この事業を主催した区教委は「(日野氏が)行きすぎた指導をした」と認め、今後は改めるよう日野氏側に要望した。 区教委によると、コンサートは中学生向けの体験学習事業の一環で、日野氏の指導を受けて約4カ月間練習してきた生徒約40人が成果を発表する場だった。 日野氏は終演後、生徒の保護者に対し「生徒のソロパートの演奏が長くなりすぎたので、止めようとした」と説明したという。 中学生のジャズバンドを編成し、コンサートでワンコーラスずつソロ回しをやっていたら、ドラムの坊やが夢中になり過ぎて、ソロを渡さなかったらしいw コンサート終了後、日野皓正は、「ジャズだから、こういう事もある。それがジャズだ」と言ったというんだが、その通りですw 他人の顔色が見えないドラマーなんてクソですw ★ ★ ★ 知り合いのドラマーは非常に神経質だけどね。ドラマーは全体がみれないとダメだと思うよ。ドラマーは大抵一番後ろで、全体の動きがみれる位置にいるから、まとめ役じゃないとダメでしょ。叩きすぎてたら、まとめ役でなく壊し役だよね。
2017年09月01日
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