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何度も言うが、私は特定の宗教団体に属してはいないし、特定の宗教団体は全て解散すべきだと思っている。 カトリックでも、仏教でも、なんでもかんでも宗教団体は即座に解散すべきで、十戒の「主たる神以外を信じるな」に十分に違反しているので、宗教団体は皆観光ツアーならぬ観闇ツアー後堕落集団として地獄に落ちて行くだろう。 というのも、地球紀というのは、自我を確立することが人類の進化目的であるからで、主たる神とは、自我の事で、どんな個人も、個人以外の存在を信じるべきではないからである。 早い話、自分教というのを確立する以外に宗教はあり得ないので、各個人が独自の信仰をもたねばならず、宗教団体などはあり得ないはずである。 こんな事を書くと頭がおかしいのでは? と思われるかもしれないが、十分頭がおかしいと思われても構わない。頭がおかしいことに気づかないアホバカ政権よりは遥かにマシだからである。 さて、インチキアホバカ政権はその悪事ぶりが顔に現れてきたようで、まるで悪魔の形相となってきていることを、お馴染みのサイトから紹介する。類は友を呼ぶというか、悪魔が悪魔を引き寄せてどんどん地獄へと陥れていきます。本人たちには自覚がないようです。 ★ ★ ★ 公邸には怨霊が棲み憑いてる http://my.shadowcity.jp/2017/05/post-11190.html 加計にやっと火が着いた。それにしても菅とか安倍とか、人相悪いよねw どんどん人相が悪くなって行くw 「一ヶ月前と比べて、雰囲気が変わった」とキャスターが言ってるんだが、完全に追求モード。加計学園の「巨額献金」問題が出てきたら、いよいよ本番ですw もうすぐだw 学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設計画をめぐり、安倍晋三首相への忖度(そんたく)が働いたかどうかが焦点となっている。行政が首相側の意向を過度に推し量り、計画に特別な便宜が図られたというのが野党の主張だ。「森友学園」(大阪市)に国有地が格安で売却された問題と同じ構図とも言える。 文部科学省の前川喜平前事務次官は25日の記者会見で、内閣府が早期開学を「総理のご意向」として文科省に求めたとする文書について、「確実に存在していた」と証言した。 加計は「アベシンゾーには年間1億円使っている」と普段から口にしていたらしい。毎日ゴルフやったって、そんな額にはなりませんねw ★ ★ ★ このアホバカたちは悪事は隠せばなくなるとでも思っているようですが、例えば、口封じしても、死者は霊界から悪霊を通じて犯人に働きかけます。 守護霊もそれが犯人の改心につながれば働きかけを支援します。犯人が地獄に堕ちてしまっては元も子もないからです。悪事がばれて改心しない限り、悪事の重さに応じて地獄に堕ちていきます。悪事が地獄への重しとなるのです。 このような話をアホバカは笑うでしょう。そして悪事を続けるでしょう。 しかし、アホバカに笑われれば真実なのである。 老子にも、アホバカに笑われる事こそ真実である、という出典があったようにも思うからである。 巷では最近、幸福のバカ学というのが流行り病のように伝播し、感染しているバカがいるが、そのような感染症にも、自分教を確立し、免疫を強化すれば罹ることはない。 このような洗脳に外から何を言っても無駄で、外から言うのに従うのもまた洗脳なので、とにかく自分でおかしいと気づくのが重要なのである。色々な感染症のように似非宗教があるのも、結局は自分で気づくことにつながればいいので、必要悪ともいえる。 世の中で良いといわれることでも、自分には悪いことかもしれないわけで、良いからやるのでは宗教の洗脳と変わりはなく、やってみて良く、誰がなんといおうが、自分には良いとわかるのが重要なのである。 しかし、世の中で悪いといわれることは大抵が自分にも悪いので、悪いのに手を出すのは非常に危険ではある。だから、悪いからやってみろという勧誘はほとんどなく、本当は悪いのだが、良いからやってみろと洗脳するわけである。騙されたと思ってやってみなさいと、騙されるのである。 さて、人智学を学んでわかったことの、いちばんの大きな収穫は、人間は死なない事である。堕天使悪魔が人類を支配するために、唯物論を流行らせ、人間は肉体の存在と洗脳されているが、霊魂の存在なのである。 だからして、死とは肉体を失うだけの話なのだが、霊魂は肉体の存在となることで、1つの個人という意識に目覚めるので、肉体を失うと同時に個人の意識も薄れていく事になる。 死後まもなく、走馬灯のように、個人としての自分が他者に対してしてきた事を振り返り、人生の反省をするという。仏教では49日と説かれているのは、「死苦」の語呂合わせのように感じる。 というのも、とびきりの善人でもない限りは、どんな人も他者に対して迷惑をかけてきたわけで、他者になりかわり、他者の視点で自分の行為を見つめ直すから、苦しみのように感じるわけである。 この感覚は、例えば、俳優や映画監督が、自分の作品をみて、もっとこうしておけば、ああしておけばよかった、と思うのと同じである。つまり、人生は自分の芸術作品と考えるとわかりやすい。 つまり、どんな人でも、人生に後悔が生じてくるので、苦しいわけで、それがいつまでも執着心として残ると、死んでも死にきれないわけである。特に自殺なんかは、自分の作品が出来上がらないうちにせっかくつくりはじめたばかりなのに、未完成でやめてしまうのと同じで、とりかえしのつかないことをしたと思うわけである。 だから人間の霊魂は様々な個人を体験し、人類のうちの個人として人類全体に貢献する能力を開発しながら、霊性を高めていくわけである。 上には上がいて、下にも下がいるのは、オカルトでいわれているホワイトロッジが人類の進化計画を策定している事でわかる。シュタイナーによると、地球の前の月紀に、地球の進化計画が策定され、それがコンパクトにされて、地球の素粒子になっている、との事である。 だから素粒子を解き明かす事は地球の進化計画を解き明かす事でもあるが、地球紀の現在でも、将来予定されている木星紀の進化計画が日々策定され、改変されているので、それを解き明かすのはほとんど不可能で困難なのである。 そもそもそれを解き明かすような能力があれば、既に人類を超えてしまっているので、人類には生まれてこないわけである。 さて、そのような話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー 「キリスト存在について」 その1 佐々木義之 訳 改変 デュッセルドルフ 1909年4月18日夜 *GA110『高次の霊と物質界での働き』第10講 -------------------------------------------------------------------------------- 今回のテーマには、前回の講義の最後に出された質問とは別に、つけ加える事が沢山あるが、宇宙に関する考察を10回の講義で行うのは不可能である。だから、主な問題を取り扱う前に、この考察の結論に関する幾つかの事柄を述べる。 最初に述べるのは、現代的な意識には実際に理解困難で、ほとんど理解不能なため、気づいておくに越したことはない、というような事柄である。 つまり、太陽系などの惑星系は、一度現れたのに、どうして再び消え去るのか、という質問に関する事柄である。 霊視から、惑星系の進化過程がどのように生じるのか、が明らかになる。あらゆる存在は、より高次の段階へと進化するが、惑星系が進化するには、以前の活動の場から離れて行く必要がある。 つまり、他の場所では獲得できなかった能力を、ある一定の期間にわたって発展させるために来ていた、それまでの活動の場から離れる必要がある。 宇宙の進化過程の、古代レムリア期と呼ばれる時代が近づいたとき、人類はその進化過程で、土星、太陽、月の進化段階を通じて達成できた能力を要約して、反復する段階にまで来ていた。 その後、人類は地球進化紀の環境の中に現れたが、それは更なる進化のために用意されていた、1つの過程なのである。人類は、レムリア期、アトランティス期を通過し、現代へと進化して来たが、地上の受肉から受肉へと移行しながら、未来に向かって更に進化して行くだろう。 そして、しばらくした後、ついには人間は再び地球を離れなければならなくなるだろう。そのとき、地球には人間に与えるべき能力が何もなくなっているが、それは更なる進化の可能性を提供できなくなっている、ということである。 人間が去った後の地球は荒涼とした廃墟となっているのは想像できるだろう。それは住民に見捨てられた街と比べられるかも知れない。そのような街がほんのわずかな時間経過しただけで、どのようになるかを、つまり、いかにそれが次第に土の塊になるかを知っている。 自然の力に曝された古代の都市を見ると、その風化のイメージが得られる。実際、今日でも、同じ状況だが、地球の未来には当てはまらない。 次のような観察が、将来の地球がどうなるのか?という疑問についての答えを導くだろう。レオナルドダビンチやラファエロのような人物、もしくは他分野の、他の偉大な天才たちの地球の進化に対する意義とは何なのか? ラファエロやミケランジェロが素晴らしい芸術作品を作り上げた事、そして、今日に至るまで何千、何万という人々に鑑賞されているが、そのことが地球の進化にとって、どのような意味があるのか? ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐」を見て、悲しみを覚える人もいる、そして、この素晴らしい作品は、あとどのくらいもつのだろう、と考えたかも知れない。 ゲーテは、最初のイタリア旅行で、まだこの作品が十分に輝きを放っている状態で眺めたが、現代(1909年)では、もはや、そのような状態では見れない。 ゲーテの時代から今日に至るまで、外界の物質環境の中に置かれた、この芸術作品の宿命とは、現代人には、もはや当時と同じ状態でみれないという、悲しみの感情を呼び起こす。 ゲーテの時代から現代までの時間と、今から同じくらいの時間が経った後では、この作品はもはや存在していないかもしれない。人間が地上の物質に刻印し、創造した全てについても同じことが言える。 地球や、人間の思考の産物についても同じことが言える。人間が、より高次の世界へと上昇し、霊化される、未来について想像してみる。 現在の言葉の意味での思考(科学的思考ではない、というのも、三、四百年もすればそれは無意味となるからである)、つまり、脳により作り出され、地上で意味をなす人間の思考は、より高次の世界では何の意味ももたない。 人間の思考は、地上だけで意味を持つ。けれども、人間は地球を去らなければならない。では、そのとき、何百年、或いは何千年にもわたって、地上で作り上げてきたものはどうなるのか? 霊視からまず考察すべきなのは、個人の進化である。レオナルドダビンチは、彼が達成した芸術作品により、更なる霊の高みへと上昇した。芸術作品が、彼の精神を向上させた。 人類は次のように自分に問うべきである。 偉大なる創造者たちが地球の物質の中に刻み込んだ偉大な思想や意欲は、地球の未来にとってどのような意義があるのか? 未来は地球を灰燼に帰し、土から、男女が作りだした全ては、地球という惑星がなくなったとき、消えてしまうのか? いま、ケルンの大聖堂を賛嘆しているが、それほど遠くない将来、1つの石が別の石の上に残っているようなことはないだろう。 このような風化により、人類がケルンの大聖堂を石の中に体現した事は地球全体にとって無意味となるのだろうか? いまは、人間が地球から持ち去るものではなく、いなくなった後の地球について考えている。惑星とは、実際、その進化過程で次第に小さくなっていく。惑星は縮んでいく。 それは惑星の物質性の宿命なのだが、それで話が終わるわけではない。その宿命は、肉眼とその道具によって観察できる表面に過ぎない。物質として観察できるものを超えて行く進化がある。 改めて今、物質を超えていく進化について考察するが、この考察は、現代人には理解困難な、ほとんど理解不能だと先に述べた事柄なのである。地球は絶えず縮小している。物質は周囲から中心に向かって押し潰されている。 (重力でわかる。ニュートンが万有引力の法則として示した。) さて、当然のことだが、覚醒意識に基づけば、力の保存測があるのがわかる。同じように覚醒意識に基づいて、神秘家に知られている別の事実、つまり、物質は中心へと次第に圧縮され、そして、何と、中心点で消滅している、という事実に気づく。 ある物質が次第に中心へと圧縮され、そこで消滅するのを想像してみる。別の側面に押し出されるのではなく、中心点で、それは実際に無と消え去るのである! 言い換えれば、地球の物質面が中心点へと圧縮されているために、最終的には中心へと消えていく。けれども、それで話は終わらない。中心で消えていく分だけ、中心とは正反対の円周(エーテル)で現れてくる。中心とは逆の面に再び現れる。 物質は空間の一点、つまり中心点で消え去り、また別の場、つまり中心点とは真逆の円周(エーテル)に再び現れる。中心で消滅するものは全て円周(エーテル)で再び生成する。空間の全作用が、物質に集中するように、惑星上の存在たちは、全ての働きを、物質に刻印した。 当然、物質は現在の状態ではなく、惑星の進化過程に沿った状態で、再び存在するようになるだろう。だから、ケルンの大聖堂の物質の破片が、中心点で消滅しても、(次の木星紀の)別の面から再び現れて来るのを見るだろう。惑星上で成し遂げられた事柄は何1つ、絶対に失われることはない。失われた物質性は、反対側の霊性から戻ってくる。 土星紀から続く惑星進化紀の中心点となる地球へと、地球進化の最初期から人類が成し遂げてきた事柄全ては、中心点の地球から、太陽系の外側の、天体を超えた外周(エーテル)へと移された。 太古の叡智では、この移行を、「石化した天国」と呼んだ。地球紀以前の進化に属した存在たちの行いは、天体を超えた外周(エーテル)に堆積している。それらは新しい人類の創造のための基盤を構成する。 (映画「2001年宇宙の旅」のモノリスを彷彿とさせる。アカシャ年代記のことかも。) 既に述べたように、以上のような事柄を、現代人の知性で理解するのは困難だが、それは物質面だけの考察に慣れきっているからである。物質が三次元空間中の一点で消滅し、別の次元を通過した後、どこか別の空間から、再び戻ってくるのを認めるのに、現代人は慣れていない。 三次元空間の文脈で考えるのに留まる限り、この事実は把握できない。 というのも、この現象は三次元空間を超越しているからである。だから、別の空間から再び三次元空間に入ってくるまで見れない。その間、それは別次元に存在している。この事実を理解しておくべきである。 というのも、宇宙の創造は、この上なく複雑で互いに関係し合っているからである。ある場所にあるものが、三次元空間中の全く別の場所にある別のものと複雑な形で結びついている。 ★ ★ ★ 長いので、次回に続く。 悪魔の唯物論に染まっている人には天国も地獄も空想に思うでしょうが、ではなぜ人の心に安楽と恐怖があるのでしょうか? 安楽は天国の経験から、恐怖は地獄の経験から生まれたと考えてみたらどうでしょう? この世で安楽を味わうとき、それはかつての天国の経験なのです。 この世で恐怖を味わうとき、それはかつての地獄の経験なのです。 この世では、その経験の氷山の一角しか現れませんが、それだけで十分だと思うわけです。だから地獄に堕ちることを安易に考えてはいけません。
2017年05月31日
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相変わらず私利私欲で政治を続けるアホ政権のために、この国の政治経済が混迷している。このような地獄堕ちの自覚のない輩に何を言っても無駄なので、改めて、シュタイナーの社会三分節化説から考えてみたい。 シュタイナーは、この説を、人体を解き明かすことで、提唱しているが、シュタイナーにとっては、社会も人体のようであらねばならないほど自明なのである。 社会は人間を生かす世界でなければならないので、人体と同じ構造でないと意味をもたない。だから、宇宙が人体をつくるように、社会は人体からつくられないと、宇宙との共生が成り立たないのである。 全てがフラクタル構造であることを見通した説なのである。 現政権が非常に問題なのは、行政権を拡大して、三権分立を安易に犯しているところにある。そこで、三権分立を、シュタイナーの社会三分節化説から考え、最後にシュタイナーの人体の話に結び付ける。 そこでまず、シュタイナーの社会三分節化説を、他のサイトから抜粋引用し、改変する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー『社会問題の核心』を読む[3]〜イデオロギー的社会論から倫理的個体主義に基づく三分節化へルドルフ・シュタイナー『社会問題の核心』を読む[3]〜イデオロギー的社会論から倫理的個体主義に基づく三分節化へ 社会の精神面においては、各人が自分の能力により自由に活動する。 社会の経済面においては、各人が連携した組織関係の中で、それぞれが自分の役割を遂行する。 社会の政治=法治面、つまり国家においては、各人が純粋に人間の権利を持つ。この権利は、自由な精神による活動から独立しており、各人の生産する財が連携した経済社会の中でどんな価値をもつのか、ということからも独立している。 (中略) 社会三分節化の統合は、この三分野がそれぞれ独立して発展できたときに生じる。 ★ ★ ★ シュタイナーの話は、原文がドイツ語で、ドイツ語訳が堅苦しいので、かなり意訳しないと意味が掴みとれない。社会三分節化説を理解するには、人智学の人体論を読み解き、照らし合わせるとわかりやすくなる。 社会の精神面とは、人体の主に頭部の神経感覚系を表し、社会の経済面とは、人体の腹部や四肢の新陳代謝系を表し、社会の政治=法治面とは、人体の胸部の律動系を表している。 これら人体の三分節が各々役割を守らずに、他分節を犯したなら、病気になるように、社会も荒廃するというのが、この説の要諦なのである。 シュタイナーの三権分立ならぬ、三分節分立は、精神、経済、政治=法治だが、現在の三権分立は唯物論に基づいているので、精神が抜け、経済と政治=法治が混合し、立法、行政、司法となっている。 だから、近いもの同士で組み合わせると、精神=立法、経済=行政、政治‐法治=司法となるだろう。 人体に直せば、立法が頭部の神経系、行政が腹部や四肢の新陳代謝系、司法が律動系となるわけである。 そこで、この国の現状を人体で表わせば、行政が暴走しているのを、司法が抑制できずに、立法までひきづられている顛末といえる。簡単にいえば、脳が下半身の暴走にひきづられ、認知症に罹って人体の機能麻痺寸前というわけである。 下半身が暴走し、新陳代謝が悪いので、至る所に血栓ができやすくなり、心臓が血流を制御できなくなり、血栓が脳にまでまわり、脳梗塞寸前というわけである。 というわけで、あるサイトから抜粋したシュタイナーの人体論を紹介する。 ★ ★ ★ 病気とは何か 1922年12月27日にドルナッハで、ルドルフ・シュタイナーはゲーテアヌムの労働者に、「人間はなぜ病気になるのか――インフルエンザ、花粉症、精神病」という話をしている。 労働者の1人が慢性の花粉症に悩んでいる旨を訴えて、人智学的医術が、花粉症の治療法を開発したと聞いたという。しかし、シュタイナーは治療法ではなく予防法と答える。ここに人智学的医術の先見性が現れている。 つまり、「外に現れる症状、つまり肉体の病気は、精神(霊魂)の苦悩が最終的に現れた結果にすぎない。」という現代の予防医学に通じる観点が重視されている。 人智学的な予防法は、花粉症のように眼や鼻という、肉体上の1つの器官が侵されていても、人体全体の根本を治療するのを目的としたものである。 例えば、骨折のような場合は、転落などの物理的要因が明らかだが、感染症の場合、「なぜ、感染者と接触すると、感染するのか?」という疑問が残る。 物理的に説明するなら、鍬で殴られると怪我をするように、細菌やウイルスに侵されると病気になる。この唯物的な考えを推し進めると、細菌やウイルスを兵器として使おうなどと考える。 ところが、事実はそれほど単純ではない。というのも、細菌やウイルスに侵されても、病気にならない人もいるからだ。 シュタイナーは大胆に次のように説明する。 例えば、喉が渇いたり、空腹を感じるのは、実は精神(霊魂)の苦悩なので、本当は、多少の病気に罹っているのだが、飲んだり、食べたりする事で、苦悩を解放できるので、自然に治癒する。 だから「飲食行為は、実は、治療行為なのである。」(医食同源) では一体、飲んだり食べたりするとき、人体には何が起きているのか? 唯物科学では、食物が口を通じて腸管から吸収され、消化酵素の助けもあって食物を分解しているとはいえ、食物に含まれる物質が化学構造のままで、体内に存在するもの、と想像している。そして、その物質に標識をつけて、体内でどのように変化したり、移動したりしているのか、を追跡している。 しかし、それだけでは、人智学では、片手落ち、にみえる。 食事のとき以外も、人体は絶えず活動している、という事を考慮に入れる必要がある。体内に何も入れなくても、例えば5時間、何も食べなくても、人体の活動は休止しない。 この活動のエネルギーはどこからくるのだろうか? 勿論、食物からとられるので、食後に補充されるはずである。この活動を行うのがアストラル体である。アストラル体は決して休止する事はなく。食物を壊し溶かしその活動を維持できたなら、満足し、幸福感に満たされる。 しかし、もし、食物を摂取できなければ、アストラル体は満足できない。この不満は空腹感で表出される。空腹感は体内で安らぐ事はなく、常に活動的で、静まる事のない霊魂の活動である。 この活動は、食物との恋愛関係といえる。だから、もし、この活動が、食物を受容できなければ、捨てられた恋人のように、満たされぬ想いをもち、この不満が空腹感になる。 このアストラル体の活動は、食物を分解する事で成り立っている。栄養分は血液に運ばれ、残りは糞尿を通して排出される。 アストラル体は人間の知性よりも遥かに賢い。というのも、知らないうちに溶かし、変容させた食物は絶えず血液を通じて器官に運ばれるが、例えば、肺が必要とする栄養は、脾臓が必要とする栄養とは異なり、アストラル体が、栄養分、つまり物質を識別し、区別し、分配している、からである。 ところが、アストラル体も、その賢さを失う事がある。「自我」による(アストラル体への)制御が緩む時で、シュタイナーは次のように言っている。 すぐに座りがちになる性分を持ち、長い時間、座り込むのは、怠惰な頭、つまり怠惰な自我を喜ばせる。 もし、座りがちな性分を持っていると、逆にアストラル体は歩き回る性分を持っているので、アストラル体も怠惰になる。すると、アストラル体は食物を適切に区別し、適切な器官に運ばなくなる。 ところが栄養分は人体に必要なので、糞尿などで排泄されない。となると、本来必要としない器官に運ばれてしまい、溜まる事になる。例えば、喉頭に行くはずの栄養分が、アストラル体が正常に働かないために、体内のあらゆる場所に放置されてしまう。 すると、必要な栄養分が与えられずに喉頭は弱くなり、活動を維持できなくなり、苦しむ。対照的に、喉頭に行くはずの栄養分が、体内の様々な場所に放置され、拡がるようになる。既に述べたように、人体の90パーセントは水なので、栄養分は、この水のなかに溶ける事になる。 栄養分が必要とすべき器官に届かずに、体液のなかに溶ける事で、活力ある純粋な体液が汚染される。 このような事は、体内で非常にしばしば起こる。体内のある器官に必要な栄養分が溶け、体液全体を汚染させる。 例えば、喉頭に必要な栄養分が体液のなかに溶け、胃と関係する場合を考えてみる。その汚染は、胃を壊す事はない。というのも、胃は必要とする栄養分を保持し、不足していないからである。 しかし体液はあらゆる処を流れ、喉頭にも浸透している。喉頭は既に弱った状態で、この汚染された液体、つまり喉頭に行くべき栄養分が溶けた水を受け取る。すると、喉頭は病気になる。喉頭へ行くべき栄養分は、他の器官には影響しないが、喉頭に病気を引き起こす。 ここでシュタイナーは霊視を披露する。誰かの話を聞くとき、人はただ聞いているだけでなく、非常に弱まった形だが、その話を喉頭(声帯)が模倣し、再生している。だからインフルエンザに罹った人の話を聞けば、その感染者に同情しなくても、話を模倣し、エーテル体が感じてしまうので、インフルエンザへの感受性が高まる。 このように病気を受け入れる土壌ができあがるところに、ウイルスが来ると、病気になる。だから、人智学は、ウイルス病因説や、そのような環境による感染説を否定しない。それらは、唯物論主流の現代では妥当な考え方である。 インフルエンザについては、シュタイナーはもっと具体的に指摘している。 体内にインフルエンザの廃物があると、外界で、上級の玉ねぎやニンニクを生産するのに、土に添加すべき物質(肥料)[硫黄とリン]が、体液に溶けている。そして、やがて、玉ねぎやニンニクと同じような臭いを発し始める。 インフルエンザに罹ると、その出す臭いのため、頭が鈍くなる。というのも、頭部の「感覚器(臭覚)」が、その臭いのために、必要とする物質が適切に供給されなくなるからで、インフルエンザの廃物がある結果、感覚器が適切な供給を受けなくなる。この臭いは必ず玉ねぎとかニンニクに似ていて、繊細な鼻の持主には探知できる。 金切り声やかすれ声を模倣するように、病人が発する調子にあわせてしまう結果、自身のアストラル体や活動が乱される。この撹乱が、化学的な基盤を揺るがし、インフルエンザに感染する。外界でいうなら、玉ねぎとニンニクに相応しい土壌を作るようなものである。だから、感染因は細菌(ウイルス)とは直接無関係で、人と人との関係に由来する。 さて、ここで、シュタイナーは「なぜ人が病気になるのか?」という問いに次のように答えている。 簡潔に言うなら、 人体の制御を何かが乱す事で生じる。精神病ですらそうである。汚染された体液には、本来、それを必要とする物質が誤って溶けこんでいて、それが害をなす。 インフルエンザから花粉症に目を転じると、花粉症の発生は大気中に花粉が舞う季節による。花粉症に罹りやすくなる最大の原因は、「アストラル体が適切に物質の排泄を行っていない」事が挙げられる。 春が近づき、あらゆる生物が水中で成長しはじめ、人体の液体組織もまた敏感になる。そのようなときには、この液体組織、すなわち「体液」=エーテル体に様々な物質が溶け込みやすくなる。すると、体液が通常よりも少し薄く拡がるようになる。 (現代の免疫学では、Th1細胞性免疫→Th2液性免疫になる。ヘルパーT細胞のTh1とTh2のバランスが重要。) 花粉症に罹りやすい人の体液は幾分拡大している。体液は溶解している物質によって、四方八方に押しやられ拡大する。このようにして、春に現われる花粉など全てに敏感に反応するようになる。特に、植物から放たれる花粉は格別に刺激が強い。 だから花粉が花粉症を発生させるのではなく、ただ花粉は花粉症(体液の拡大)を悪化させるだけである。 では人智学の霊的洞察から作られた花粉症予防薬の効能へと話を移す。膨張した体液を元に戻すために、少し濁らせる事で、最初に溶け込んだ不適切な物質を外へと排出させる必要がある。そのような薬を注射した後、少し汗をかくようにすればよい。 以上から興味深い事実が明らかになる。発汗作用はこのようなエーテル体とアストラル体の調整に役立つ。もし寝汗をかくなら、まして夜尿症に悩むなら、これは明らかにアストラル体の問題を指し示している。 子どもの場合にも、細心の注意を払わねばならない。おそらく少年犯罪者の生い立ちを調べれば、このような考え方の正当性とはいわないまでも、少なくとも、方向性の正しさは立証できるだろう。 しかし、ここでシュタイナーは性急に人智学の花粉症薬を求めるのを諌め、次の様に言う。 まず患者が便秘でないか確認しなければならない。もし便秘なら、薬で、体液は更に濃縮されてしまい、かえって外へ出づらくなるからである。 便秘なら、注射と一緒に通じをよくする薬も投与する必要がある。 効果的に治療するなら、どの薬がどんな病気を治すのか、知るだけでなく、患者にどのような質問をすべきか、などを知るのが大切である。偉大なる医術は正しい問診から、患者を熟知する事にある。 この事は、極めて重要である。それなのに、おかしなことに、患者に年齢さえ尋ねない医師にしばしば出くわす。年齢を尋ねるのは重要である。同じ病気でも、例えば50歳と40歳では、全く違った治療法を用いなければならない。ただ単に、「この病気には、この薬が効く」としてはいけない。 それは、犬と猫という身近な例を挙げればわかる。犬は便秘がちで、猫は下痢気味なので、犬と猫に同じ薬を与えて、作用の違いを観察するとよい。 人間は「固体」だけでなく「液体」でもあり、さらに、…「気体」でもある。「気体」は一瞬ごとに形を変える。呼吸の瞬間毎に、気体は体外にあり、また次には体内にある。 不要な固体の物質が体液に溶け込むように循環し、体液は絶えまなく蒸発している。土壌の水が蒸発すれば、大気中に上昇するが、体液が絶えず微量ずつ蒸発すると、体内に吸い込む空気の中に侵入する。 肺がおかしい場合には気をつけてほしい。というのも、上述したような浸入が起こったと考えられる。このような場合、肺が病気になるかもしれないが、もし体液に不当に沈殿した物質により引き起こされた病気なら治療できる。 しかし、肺の病として、表面化するほど悪化しなかった場合を仮定してみる。何と言っても、肺は敏感で、炎症するほど強く侵されなくても、少しばかり具合が悪くなる。このような軽い病気には耐えられても、実際には、肺の体液に入り、浸潤し、不適当な物質が溶けこんでいる事になる。そして、このような不純な物質は特に、肺が完全に健康とはいえない場合、蒸発してしまう。 不適当な物質が体液に溶け込むだけでなく、蒸発して、吸い込む酸素と混じり合うと、神経組織には害となる。神経組織は純粋な酸素を必要とするのに、汚染された体液が蒸発し、酸素と混じりあうからである。肺でこのような蒸発が生じると、肉体的には病気にならなくても、いわゆる精神病になってしまう。 精神病は実際には全く精神の病気などではない。というのも、精神、あるいは霊魂は病気にはならないからである。精神病は、体液が不適切に蒸発し、酸素が不適切に神経に分配される事にある。 だから、体液の中に不適切な物質が拡がらないように、更には体液が不適当に蒸発しないように、絶えず体内の物質を正しく管理、処理しなければならない。しかし、日常生活でさえ、体液を不適切に蒸発させてしまう。それは、喉の渇きとして気づく。 以上から、興味深い特徴づけができる。喉の渇きは精神病に傾かせ、空腹は肉体の病気に傾かせる。だから、次のような結論に至る、 状況によっては、渇きをうまく癒せない、のを探知するのが難しい事がある。特に乳児の場合、飢えと渇きを明確に区別できない。両方ともミルクで満たされるからで、だから、もし母親や乳母の乳を通じて有害な物質が入ったら、ずっと後になって、体液が不適切に蒸発し、精神病を導く事もある。 また、間違った接種を受けた場合、牛のリンパ球、もしくは患者のリンパ球を間違って選んで接種すると、体液と関わる器官を苦しめる。たとえ、体液が直接、病気を引き起こさなくても、不適切な接種の結果、体液が不適切に蒸発し、器官が正しく機能しなくなり、やがて何らかの精神病になりやすくなる。 今日(1920年代?)、非常に多くの人々が早発性認知症…に悩まされている事に既に気づくだろう。この病気は、若い時期に神経が崩壊し始めるのだが、その大部分は乳幼児期の間違った食事に起因している。 赤ちゃんのミルクを化学的に調査するだけでは不十分で、もっと別の側面を吟味しなくてはならない。現代になって、食事に関心を払うのを止めてしまったので、この認知症が恐ろしい勢いで発生している。 これまでの話から、この病気にはこの治療法がよい、という知識を基に、医者を訓練するだけでは不十分とわかるだろう。生命全体を健全にするように努めねばならない。それにはまず、健全な生命に関わる事実を発見する必要がある。 人智学はこのような理解を与える。人智学は、予防衛生学でも有効な認識を目的としている。人智学は健康の諸問題を正しく把握するのを望んでいる。 ★ ★ ★ 何事もバランスが重要である。 この国の行政=新陳代謝が、日本会議のような有害な食事ばかり摂り、依怙贔屓の暴走をはじめるので、善悪の見境を司法が失い、立法が悪法を生み出すようなほうちならぬ痴呆=認知症が進行しているのである。 あるものをないといったりしている現実をみれば明らかである。ゾンビである。
2017年05月25日
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当初は人智学的医術を再び紹介するために久しぶりにはじめた書き込みだが、政治があまりにも酷いので、このままでは確実にこの国はなくなってしまうので、再度警告の意味で書き始めたが、状況は益々悪くなっている。あんなアホ政権などすぐに自滅するかと思いきや、この国にはいまだ中世のお上が怖い奴隷根性が残っていて、勇気のないものばかりの事勿れ主義の日和見の魂が死んだゾンビのような地獄堕ちの連中ばかりであることが明らかになってきた。自分さえ良ければ今現在安泰でいられればそれでいいのか?自問自答してほしい。良心があるのか、考えてほしい。歴史から学ばないものは現在を生きる価値もわからない。ソ連が崩壊した理由を考えてみろ。ソ連は軍事を巨大化しすぎて崩壊したのである。軍事というのは黒魔術の代表である。何しろ人殺しを前提にしているのだから。兵器を増大したとしても、人間の恐怖心はなくならない。益々増加するだけだからである。軍事というのはネガティヴ想念の何物でもない。確かに恐怖心は現世では人を操るのに有効かもしれないが、恐怖心が一旦制御を失うと、自分に返ってくる、というブーメランを考えないと片手落ちである。恐怖心で人を支配しようとするバカ者は恐怖心に支配されるのである。恐怖心を育てれば、育て親に襲い掛かるからである。フランケンシュタイン博士の人造人間である。しかしあまりにもお粗末なアホ以下のジミンにいつまでも勝手し放題を見逃していて大丈夫なわけはないだろう。中露が喜ぶだけである。しかし中露は賢い。軍事で国が滅ぶことを経験したロシアは、軍事を巧く利用して日米の経済を共倒れに誘い込んでいる。中国軍事封鎖どころか、日米がM&Aのしすぎでマネーゲームに明け暮れ、モノづくりを忘れて、共倒れになり、逆に日本が経済封鎖されてしまっている現状になっている。何も解決策の見当たらない経済カオス状態に陥っているのは物質経済を離れた株価操作でも明らかで、口先だけの無能なアホ総理と間抜けトラのアホバカトップが何もできずにインチキばかりで叫んでいる現状をみれば救いようのない状態なのが明らかである。ジミンはアホ以下のバカしかいない、自浄能力の皆無から明らかであるが、もういい加減に茶番はやめてほしいのだが、どうでもいい皇室の婚約話やパンダ懐妊のアホ報道を大々的に宣伝するブラック企業電通のいい加減さに辟易してしまう。愚痴のオンパレードをしても仕方ないのだが、まぁ、とにかく酷いの一言に尽きる。現状がこんなに酷くなったのは、簡単に日本の政治史を振り返って探ると、その兆しは、中曽根の対米腰巾着外交にはじまる。政治家というものは国家の独立を理念に考えるべきだが、この中曽根は対米下請け植民地外交をしたのである。田中角栄がアジア重視の独立外交をしようとして、あわてて悪魔キッシンジャーに追い落とされたのがよほど怖かったのだろう。口先では改憲と威勢のいいことを言っていたが、結局、米国の犬外交でしかなかった。国民の大多数が嫌っていたのがその証拠である。次が加藤の乱で、野中がジミンの内輪の話を国政に持ち込んで古賀を取り込んだ大罪にあると私はみている。国政に、党内の事情を持ち込むのは国家を揺るがす大事である。このインチキからこの国の建前の民主主義が失われ、民主主義の良心をなくした。野中は民主主義の破壊者で地獄堕ちなのは明らかである。この野中は、小渕が死んだときも勝手に森を総理にしたのもかなりの大罪で、民主主義への裏切りで本来なら憲法違反で即刻牢獄に行くべきである。このときから、ジミンは民主主義でなく、数の論理で強行採決する独裁主義の傾向を帯びたのである。まぁ、地獄に行って自分のしたことを反省しなさい。野中がこのような暴挙にでなかったら、コネズミなんかも総理にはならなかっただろう。後の体たらくは語るだけ無駄である。政治でもなんでもない、国政無視のインチキ利益誘導である。伊藤俊輔の周旋と同じである。周旋は政治ではない。地獄でも周旋をする。政治とは正道(天国への道)を明らかにすることである。明治は西郷にはじまり西郷で終わったと私はみている。後はインチキである。明治維新の連中は皆地獄でも権力争いに明け暮れている。権力に見切りをつけた西郷と勝を除いて。それでも、人倫を踏み外さないように、警告として、以前紹介した、安岡正篤氏の本から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★ 大臣病 大臣になりたがり、なったが最後やめたくないというような人間には、大臣になる資格はない。真の大臣は、自分が大臣であることを、嫌だなと思うような心情を持っているものである。 ★ ★ ★ 恐らく簡単にいえば、自分に厳しい、ということなのだろう。自分に厳しくするのは辛いものだが、大臣という立場の人間なら、多くの人を守っていかなければいけないので、その分だけ自分に厳しくしないといけない、というわけなのだろう。 だから自浄能力がないとダメで、権力に染まりやすいと、自浄能力を失うので、失う前に次の人物をみつけて、辞めれる準備を常にしておくべきだろう。国家というのはそれだけ大きいというのだろう。 現在は小器量の人物ばかりで、国家も軽くなってしまった。買収で数合わせをして、国民の生活がどうなろうが知ったこっちゃないという自分だけしかみえてない獣の国になりつつある。 このような獣666の国に対して、天が最後の審判を下す日も近いことを、あるサイトから、シュタイナーの話を紹介して終わる。 ★ ★ ★ 来るべきオリフィエルの時代 天使長(時代霊)交代のときあるHPから転載し改変 ミカエルの(太陽の)輝く統冶は、次には、暗い、恐るべき時代に取って代わられる。その時代は、2400年頃にはじまる。今日においても既に、ミカエルと時を同じくしてマモン(アーリマン)という暗闇の神が自らの力を明らかにしている。 マモン(アーリマン)は、単なるお金の神ではない。マモンは、全ての低次の、暗い力の支配者なのである。マモンの群れは、人間の魂を攻撃するのではなく、人間の物質体=肉体をいわば貪り喰い、破壊するのである。 この暗黒の時代がやってくると、兄弟の間に争いが起こり、兄弟の間に戦争が起こる。貧弱な人間の肉体は、衰弱し、恐ろしい病気と災難の犠牲になる。罪の徴(シルシ=遺伝)が、人間の肉体の上に非常にはっきりと現れる。 オリフィエルは、人間を揺さぶり、恐れさせ、苦しませ、自らの本当の使命に気づかせる為に、やって来る。 ミカエルの導きの下で、霊界の進化計画に参加(参入)しようとする人は、ミカエルに仕えるよう求められ、ミカエルから学ぶ。これが、オリフィエルの恐るべき統治下での、高次の霊に仕える準備なのである。 霊界の進化計画に従って、自らの精神を浄化したいと思う人には、肉体の克服が要求される。霊界の使命を探求する人は、利己主義を喜んで捨てることができなければならない。 しかし、最も暗い力がその凶暴さを発揮する時は、同時に、最も明るい光が輝く時でもある。 オリフィエルは、過去においてリーダーシップを発揮したことがある。近い昔でいえば、それはキリストが、この地上に現れた時のことである。その時代は、最悪の堕落と頽廃が、この地上の全てを支配した時代であった。その時、人類を揺さぶり、進化させるために、恐るべき犠牲が払われた。オリフィエルは、怒りの大天使と呼ばれてきた。オリフィエルは、人類を強引に浄化させるのである。 キリストが神殿で両替商を鞭打つ話は、深い意味を持っている。 (神殿で商売をしてはいけないからである。昨今の宗教団体は金儲けの手段となっているが、これは恐ろしき神への冒涜である。死後、最下層の地獄に落とされる。) 人類の歴史における最も暗いこの時代に、キリストは人類を救済するために現れた。オリフィエルの統治は(AC)104年後に終わり、アナエルの統治に取って代わられた。それからはザカリエル、次にラファエルの統治が続いた。ラファエルは、ルネッサンスの時代を統治していた。 16世紀から1879年までは、ガブリエルが統治した。それからミカエルがリーダーシップを引き受けた。2400年頃オリフィエルの順番が再びやってくる。 そして、まさに、「時は満ちた!」と霊光が、暗闇のなかに燦然と輝くであろう。キリストが、再び地上に現れる。しかし、その時、キリストは違った姿(エーテル体)で現れる。人類の使命は、キリストを受け入れ、キリストに仕えることである。 (シュタイナー講演「ミカエル・光を放つ太陽」1905年12月ミュンヘン 友正剛訳) 三千年紀初頭(AC2000年)のアーリマンの受肉 オリフィエルの時代の暗さ、悲惨さ、残酷さが「どれほど深刻なものになるか」は、三干年紀初頭に受肉してくるアーリマンに対して、人智学運動がどこまで意識的に対決しながら、前進し、人類がアーリマンに屈伏・拝跪していくのを防ぐことができたかによって、変わってくる。 「ミカエルは、アーリマンの龍を足下に踏みつけている」。 オリフィエルの時代には深刻さが増強するとはいえ、オリフィエルの時代に戦い抜かれるべき戦いは、すでに今、このミカエルの時代にはじまっている、ということをはっきりと意識しておく必要がある。 アーリマンは受肉してくる(西洋のある大物)。アーリマンの受肉は、必然的で不可避である。大切なのは、「受肉してくるアーリマンは、何をしようとしているのか」を見抜くことである。 「受肉してくるアーリマンが何をしようとしているのか」は、受肉したアーリマンが勝利する為の準備として行っていることを見ていくと、かなりのことがわかってくる。具体的な詳細は、シュタイナーの『悪の秘儀』(イザラ書房)を参照。 ここでは、身近な具体例として、その一端をなしている超テクノロジーの問題をとりあげる。 NHKスペシャル「世紀を越えて」や「サイエンス・アイ・スペシャル」などをご覧になっている人は、90年代に様々なテクノロジーが凄まじい勢いで開発され、社会的に実用化されつつあることを知って、驚異と同時に脅威を感じているのではないだろうか。 日本政府が遅れを取り戻そうと躍起になっているインフォメーション・テクノロジーやバイオ・テクノロジー、ナノ・テクノロジー、オプト・テクノロジー、ロボット工学等の開発と研究者たちによって夢みられている未来予想像には、驚きの目を見張らされる。 「臓器移植が更に簡単に行えるようになり、人工臓器の開発が更に進めば、悪くなった臓器を次々に新品の臓器に取り換えていけるようになる。そうすれば、人間は、長年の夢であった不老長寿を実現できる。肉体を不死にして生き続けられるようになるかもしれない」と嬉しそうに語る研究者。 「すでに外科治療は、内視鏡手術の実用化まできた。ナノ・テクノロジーの開発が進んで医療器具が作られるようになれば、細胞1つ、1つを治療対象にしていくことができる。そうすれば、癌などの治療は、飛躍的に進歩する」と期待を満面に浮かべる研究者。 「オプト・テクノロジーの研究の急速な進歩によって、太陽光発電の効率は飛躍的に高くなってきている。石油を燃やす電力供給は、もうすぐ終わるだろう」と予測を語る(「これで、環境問題は解決される」と胸を張る)研究者。 「バーチャル・リアリティーの精度と解像度がもっと高くなれば、ヨガの修行者や臨死体験者が見たと語る死後の世界をバーチャル・リアリティで鮮やかに体験することもできるようになるだろう。その為には、バイオ・コンピュータが必要だと思いますけど」と語る研究者。その他、その他。 これらの中でも極めつけは、K・エリック・ドレックスラーをリーダーとして開発されているナノ・テクノロジーの1つ、「細胞マシン」である。これは、人間の細胞のなかで蛋白質が行っていることを人工的に再現して、「物体を一度原子に戻し、原子を組み立ててあらゆるモノを作り出す」機械の開発である。 「網胞マシンというのは、石ころでもゴミでも何でもいい。それらを一度原子に戻し、その原子を設計図どおりに組み立てていって、クルマでも、テレビでも、家具でも、何でもお望みどおりのモノを作りだせるナノ・マシンです。だから、細胞マシンが完成すれば、人間はこれまでの労働からまったく開放されることになります。早ければ2015年までに、遅くとも2050年までには、完成できると確信しています」と語られている(『ナノの楽園』工作舎、参照)。 このミクロを超えたナノのレベルで進行している様々な超テクノロジーの開発が目指しているのは、何なのか。簡潔に言えば、生(労働)の苦・病の苦・老の苦・死の苦からの開放である。 「生・病・老・死は苦である」とは、地上に生きて仏陀が発見した地上の真理でした。「夢幻[マーヤー]であるこの地上の世界において、唯1つ真の現実がある。それが死なのです。」(シュタイナー「霊的観点から見た宇宙の進化」)から。 だけど今、アーリマンは、人間を「生・病・老・死の苦」から開放し、地上を「生・病・老・死の苦のない楽園」にしようとしている、ともいえる。そして、この「楽園」が、まさに今、この地上に実現される時が近づきつつある。 けれど、その「楽園」は、抽象的な概念と感覚的イメージによって再現された人工的現実[バーチャル・リアリティー]の日常世界化であり、「霊魂が死体化された死の世界」であり、精神的、魂的には虚無の空間に過ぎない。 「アーリマンは、人間を地上の世界に閉じ込めようとしている」という言葉が、このような形で地上の現実になろうとしている。仮に、研究者が語っていたように「不老長寿が実現される」なら、人間は死の時を引き延ばし、そのため死後の世界で、地上で成し遂げた成長に見合った神々の叡智を受け取る機会がなくなってしまう (死後の審判を受けないので、宇宙進化から除外される)。 「ほとんどの病気が、ほとんど苦痛のない細胞1つ、1つの治療によって治せるようになる」としたなら、過去生における罪・過ちによって不完全になった魂を、カルマの力によってもたらされる苦しみ・痛みによって完全なものに浄化していく機会がなくなってしまう。 「生・病・老・死の苦がない」とは、カルマの働きが妨害・阻止されることであり、魂は頽廃・腐敗を深めて不完全になっていくばかりになる、ということである。 「アーリマンは、地上を生・病・老・死の苦のない楽園にしようとしている」と聞いても、50年代~80年代にかけて様々に語られてきたサイエンス・ジャーナリストの未来予想に幻滅と失望を味わされてきた人は、信用しないかもしれないが、ここまで紹介してきたのは、地下(霊界でいう地獄界)にあるアーリマンの学院で教育されて地上に受肉してきた人間が、受肉してくるアーリマンの勝利の準備の為に行っていることにすぎない。 アーリマンそのものは、これらの超テクノロジーの開発を踏まえながら、もっと凄いことをやろうとしている。それを知れば、「アーリマンは、地上の楽園をつくろうとしている」という言葉が、現実味を帯びてくるだろう。 (AIのことである。) 地上の人間に受肉したアーリマンが、善意から人間に教えたがっているのは「ゴンディシャプールの三つの知恵」である。 ゴンディシャプール(アラビアの科学として有名)の三つの知恵の第一は、誕生と死の秘密の開示である。第二は、医学である。第三は、エーテル体の振動を機械に移して、機械の動力にしていく律動(波動)学(気象兵器、飛行機などのこと)である。 ここで注意すべきなのは、ゴンディシャプールの三つの知恵の教授と実用化には、多くの人間がエーテルの霊視をおこなえるようになり、エーテル体の力を恣意的に操れるようになることが前提になっていることである。 アーリマンは、アーリマンが地上に設立する学院で壮大な魔術を行い、自我・魂が、それに相応しい成長・成熟を遂げていない人間に、エーテルの霊視力を与え、エーテル体の超感覚的な力を、地上的・肉体的・感覚的な欲望の実現・享受のために使うように唆そうとしている。 これについて、シュタイナーは以下のように語っている。 「正しい時期にアーリマンが西欧世界に受肉するならば、アーリマンは巨大な秘儀の学校を設立するだろう。この秘儀の学校では極めて壮大な魔術が行われ、それ以前では、苦労により獲得できた、あらゆる技術が、人類の上に注ぎこまれることになる。 ここで、『地上に降りてくるアーリマンが一種の悪魔のような姿をして、人間に可能な限りの悪を働く』等という俗物的な考え方をしてはならない。それは間違いである。「人智学について何も知りたくない」と言う不精な人たちは皆、アーリマンの魔力に負けてしまうだろう。 というのも、アーリマンは壮大な方法で、魔術によって非常に多くの人間を霊視者にできるからである。アーリマンは個人個人を恐ろしいほどの霊能者にする。しかし、どのような霊能者になるかは、個人個人で全く異なっている。(「アーリマンが受肉すると何が起こるか」松浦賢訳『悪の秘儀』イザラ書房p201~202) アーリマンの壮大な魔力によって人間が霊視者になり、エーテル体の超感覚的な力を恣意的に操れるようになり、ゴンディシャプールの三つの知恵を教授され、超感覚的な力を地上的・肉体的・感覚的な欲望の実現と享受のために使うように唆されたなら、「生・病・老・死の苦のない楽園」は本当に地上に実現される、と考えられる。 オリフィエルの時代のあの深刻な暗さ、悲惨さ、残酷さは、人智学を学ぶことを拒否した人たちが、アーリマンに負けて、「生・病・老・死の苦のない楽園」の実現を歓迎し、気持ちよく、楽しく、享楽的に生きてしまった結果である。だからこそ、「オリフィエルは怒りの大天使となって、人間を強引に浄化する」のである。 アーリマンの受肉、そして、ゴンディシャプールの三つの知恵の教授に対して、人智学運動はいかに対決し、何を為すべきか。 ゴンディシャプールの三つの知恵のうちの、第一の誕生と死の秘密の開示に対しては、人間は、実際にアーリマンやルシファーたちと意識して対決できるようにならなければならない、ということである。 (キリストのように受難死を受け入れること)。 第二の医学の開示に対しては、人間は、目に見えないものに対する絶対的な道徳意識を育成していかなくてはならない (霊性の獲得)。 そして、第三の律動学の開示に対しては、人間は、エゴイズムを完全に克服した社会秩序を人類の極めて広い範囲に生じさせていかなくてはならない (他者の不幸の基に自らの幸福を追求しないことで、他者の幸福の基に、自らの幸福を追求すること)。 これらは、ミカエルの時代のミカエルと人智学運動の課題と使命である (白い龍に乗ること。龍の使い手になること)。 アーリマンの受肉が人類に突きつけているのは、人智学運動を「いわゆるマイ・ペースで、自分の趣向に合った形で」やっていくのではなく、人智学運動の世界史的な使命を自覚して引き受け、受肉してくるアーリマンとの意識した対決を自分の内なる戦いとして戦い抜きながら、残された時間・限られた時間の切迫性を、目的意識をもって、強化に転化しつつ前進していかなくてはならない、ということである。 ここまできて、やっと、「ミカエルの考え」とは何か、という問いに、1つの答えを出せる。簡潔に、一言で語れば、 「ミカエルの考え」とは、「自由になった人間よ、私に従い、キリストとの深い結びつきをもって、アーリマンの領界(地獄)から脱け出る道を見つけ出せ!」ということである。その道を、ミカエルは指し示している。 ★ ★ ★ 天国と地獄は、人間の心にあるように実在する。良心=天国を欺くなかれ! 良心を育てることは容易ではないが、良心を育てないと、簡単に地獄に堕ちていく。すると、天国への階段を踏み外し、地獄を彷徨い歩くことになる。 良心は、天国への階段を照らす光なのである。光を灯さずに歩くなかれ! 悪魔が口を開けて待っている。
2017年05月19日
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第2の東京裁判が必要なこの国の体たらくというか恥の上塗りが巷を賑わせる今日この頃である。福島原発事故も唖然とさせるアホ総理の暴走を騙すゴミとブラック代名詞の広告代理店がアシストするという、かつての大日本妄想帝国が台頭しつつある極めて危ない状態に今この国は立たされている。この国の住人、特に上層にはかつてのバブルのようにイケイケドンドンで全く自浄作用がない官僚体制にひきづられカオス状態に陥りつつある。このようなときは、やはり客観的視点に立って、冷静にこの国の有様を善意をもって厳しい目で見つめなおさないといけない。先日私が大好きな番組「ワタシが日本住む理由」をみたが、イギリス人が震災後も日本に残って、東日本大震災の復興を仲間とともにしながら暮らす話をみて感動した。このイギリス人は当初は日本のバブルに憧れて職探しのために日本語を学ぶのだが、ある演劇を切欠にして石巻に仲間ができ、福島原発事故や震災被災後も仲間とともに石巻の復興に人生を捧げる決意をし、現在に至るという。動機は不純だったが、結果的には慈善活動に従事しているわけで、震災の不幸が転じて幸いとなっているわけで神の導きともいえる。人智学では、災害で生命を落とすのは確かに現世においては不幸だが、災害がなければ人生を続けられていた分を取り返す以上の恩恵を次の転生に与えるので、確かに災害は悪魔の仕業だが、その悪魔を超える恵みを神がもたらすので、災い転じて福となす、といわれている。さて、このように悪魔の誘惑も神により天国への導きとなるわけで、それも当人の自浄作用や心がけ次第なのである。とにかく善人への改心が大切である。同胞の不幸をみて助けようと思わないのは天国への階段を踏み外してしまう。親鸞の悪人正機説もこの改心の大切さを説いているわけである。あのとき改心していれば地獄に堕ちることはなかっただろうと、死後後悔しても後の祭りである。そのような地獄堕ちの連中に警告するために、お馴染みのサイト 渾沌堂主人雑記{大日本国終焉日記} から紹介する。 ★ ★ ★疲労しているうえに阿呆になっている。ご臨終です。戦闘教師「ケン」 激闘永田町編上記文抜粋・・・・・・・平等の価値について~または社会主義者である理由同僚との飲み会で、「貧困対策はなぜ必要なのか(不要では?)」という議論になり、意外なほど新自由主義的思考から「市場を活性化させれば良いのであって、貧困対策を併行して行う余裕はないのではないか」的な意見に賛同するものが多く、改めて「ミンチンはダメだ」と思った次第。しかし、問題提起そのものは重要だ。ミンチンもそうだが、自民党はもっと酷い。戦中・戦後(団塊)世代が引退して少数になり、貧困対策や社会保障制度などの社会政策を軽視する層が急増、「国防や新産業の育成こそが最重要課題であり、社会政策を犠牲にするのはやむを得ない(当然だ)」という意見の持ち主が相当数を占めるようになっている。戦争前後の貧困を知らない世代が多数を占めたことで、貧困の恐ろしさや社会的影響が理解・想像できなくなっているのだろう。先にも述べたことだが、太平洋戦争が終わって占領政策を策定するにあたって、アメリカでは「何が日本人を侵略に駆り立てたか」という議論が交わされた。そこでまとめられた大まかな見解は、「戦前の日本では、労働者の団結が認められておらず、政府と財閥が一体となって労働者を弾圧、ダンピングを行った結果、国内市場の成長が抑止されると同時に、労働者の低賃金と不安定雇用が常態化したため、国内需要も伸びず、海外に市場を求める侵略に大衆的支持が寄せられた」というものだった。GHQの見解以外に、日清・日露戦争を経て過剰な常備軍を持ったことや、朝鮮半島の植民地経営が大赤字・投資過剰だったことが、日本の国家財政を圧迫、インフラや社会保障を整備する余裕をなくしてしまった問題がある。また、台湾と朝鮮を植民地化した結果、そこで収穫された低価格の米が「国内産」として無関税で流通するところとなり、日本本土の米価は著しく低下、農村を荒廃させたことも大きい。具体例で見てみよう。1928年(昭和3年)の帝国日本の歳出は約15億円で、このうち4億円が軍事費だった。28年というのは昭和恐慌前で、張作霖が爆殺された年だが、二次大戦前の平時最終年と言える。にもかかわらず、予算の26%以上が軍事費で占められていた。また、植民地である朝鮮の経営も赤字続きで、5千万円からの交付金を出して補填していた。つまり、軍事費と植民地経営が国家財政を圧迫、社会政策を行う余裕を持たせなかった。大正軍縮を経た後でもこの状態だったのだから、後は推して知るべしだろう。ちなみに、この10年後に日華事変が始まるのだが、税収13億円のところに55億円の予算を組んでおり、「始まる前から終わってる」観がハンパ無いので、こちらの記事を参照して欲しい。・戦艦大和をめぐる日本人の財政感覚身の丈に合わない軍備と植民地を抱えた日本は、大衆から収奪することでしか財政を賄えず、また華族制度と制限選挙による議会に基づいた帝政では社会政策を主張するものを権力に寄せ付けなかった。昭和前期の二大政党のうち政友会は地主層に依拠し、民政党は新興資本家層の支持を受けていたが、どちらも社会政策や労働政策には無関心で、特に民政党は冷淡だった。普通選挙法による総選挙が初めて行われたのは1928年、労働者層に依拠する社会大衆党が議席を得たのは1936年のことで、すでに遅かった。1929年の世界恐慌を受けて、日本では翌30年から昭和恐慌が吹き荒れる。主要輸出品だった鉄鋼の価格は暴落し、生糸に至っては恐慌前の半分になってしまった。運の悪いことに、前年が豊作で朝鮮と台湾から米が大量に流入していたこともあり、米価も6割まで低下した。その結果、小作料を払えない小作人が大量に発生した上、都市部で失業した労働者の帰農が相次ぎ、農村で飢餓が発生、餓死者が続出して、女子の身売りが社会問題化した。そして、濱口雄幸首相や井上準之助蔵相に対するテロリズムを始め、後の2・26事件でも決起理由に「農村の疲弊と財閥の横暴」が掲げられた。現代では、当時の農村などの貧困は想像するのも難しい。だが、例えば1930年代に至っても、軍隊に入るので初めて汽車に乗ったとか、初めて靴を履いたとか、毎日白米が食べられるなどという話がありふれていた。これに対し、二次大戦期の米軍人の回顧録を読むと、「父親に兵舎までマイカーで送ってもらった」とか「軍隊の飯は不味いと聞いていてそれだけが嫌だった」みたいな話に溢れている。確かに貧困そのものは社会をひっくり返す要因には必ずしもならない。だが、貧困は社会に対する不満を増大させ、体制への不信を強め、著しく治安を悪化させる。この治安の悪化に対し、当局は暴力をもって応じるしかない。何故なら社会政策を進めるためには、貴族や資本家層に課税強化するか軍備を縮小して財源をつくる必要があるが、帝国権力が軍、貴族、財閥に依拠している以上、それは不可能な話であり、暴力によって不満を抑え込むほか無いからだ。今審議されている「共謀罪」もこの考え方に沿っている。ところが、貧困層を放置するということは、国内の消費が増えないと同時に労働生産性が上がらない(教育を受けられない)ことを意味する。結果、いつまで経っても国民は貧しいまま税収は上がらず、税収が上がらないため増税を課す、さらに貧困と不満が増大するという負のスパイラルに陥ってゆく。そして、権力に富が集中するため、腐敗が加速、急速に統治能力を失ってゆく。統治能力が低下するため、暴力行使のハードルも下がるというスパイラルに陥る。そんな中で起きたのが満州事変(31年9月)で、それまでは殆ど報じられることの無かった満州情勢が一気に脚光を浴び、マスコミによる煽動・宣伝もあって国内世論は軍部支持一色となり、抑制的だった若槻内閣の対応を「弱腰」と非難するようになっていった。この当時の空気感は、現代の日本とも通じるものがある。・右傾化は一線を越えたのか? ・リットン報告書をめぐる日本の報道について 濱口、若槻の両民政党政権の後には、政友会の犬養内閣が誕生する。高橋蔵相は、積極財政を進めるが、同時に満州事変を肯定、軍拡を進めたため、昭和恐慌は脱しても軍備負担や植民地負担は重くなる一方だった。1937年7月に盧溝橋事件が勃発、上海事変が起きて、日華事変が本格化すると、日本の国論は全面戦争支持で沸騰、「休戦とかあり得ない」という話になり、南京進撃と虐殺事件、さらに近衛内閣による「爾後国民党政府を対手とせず」声明に繋がっていった。・文民統制と和平交渉 日華事変も満州事変も、確かに「軍部の暴走」という側面が強かったが、そのいずれも国民世論の圧倒的支持という前提があり、その背景には「国内の貧困(不景気)を暴力と侵略によって解決しよう」という意識があった。例えば、桑島節郎『華北戦記』(朝日文庫)の冒頭、桑島らは中国戦線から帰ってきた地元の先輩のところに行って、「掠奪も強 姦もやりたい放題でサイコーだ」旨の話を聞き、「よっしゃ!俺もやるぜ!」とやる気満々になっている。満二十歳の徴兵検査を受ける年頃の若者たちは、これら帰還兵から、戦地での話をよく聞かされていた。それは「中国人を斬り殺した」とか「女を強 姦した」といったたぐいの自慢話が多く、これを聞いた若者たちは「戦争というのはおもしろそうだな」「俺も早く戦争にいってみたいな」などと思うようになっていた。親軍路線を進めた社会大衆党の浅沼稲二郎は、1940年6月に「欧米追随外交を清算し、日英.日米交渉を即座に中止すること。仏印経由の援蒋ルートを遮断し、実力をもって仏印当局の不誠実な敵性を放棄せしむるの保障を確保すること」と北部仏印進駐を政府に要請している。当時、社会大衆党の主流は、軍拡と積極財政によって社会政策を実現するという方針を採っていた。・浅沼稲次郎は何を訴えたか? 話を総合すると、貧困を放置すると、下部構造では消費が低迷して成長が止まる。貧困層は不満と体制不信を増大させ、いかなる形あれ(対内的にも対外的にも)で暴力的解決を希望するようになる。上部構造は、権力と富を集中させ、急速に腐敗、統治能力が低下し、社会不安を抑制するために武断支配と恐怖政治を行い、国内不満を海外に向けようと考えるようになる。そして、戦後は連合国の要求と戦前の反省から、軍備と植民地を放棄、農地改革を行い、財閥を解体、労働基本権を認め、社会政策を導入していった。戦後日本の繁栄は、人口増加もあるが、過剰な軍事負担を止め、社会政策に回したことで、「分厚い中間層」が形成され、消費が活性化、景気の好循環が生まれ、税収も伸び、それをインフラ整備と社会政策に投じ、富の再生産と分配が上手く機能したことによって生まれている。貧困放置は「ダメ、ゼッタイ」なのだ。・・・・・・・・・・・抜粋終わり>話を総合すると、貧困を放置すると、下部構造では消費が低迷して成長が止まる。貧困層は不満と体制不信を増大させ、いかなる形あれ(対内的にも対外的にも)で暴力的解決を希望するようになる。>上部構造は、権力と富を集中させ、急速に腐敗、統治能力が低下し、社会不安を抑制するために武断支配と恐怖政治を行い、国内不満を海外に向けようと考えるようになる。ケン先生の同僚はこれがわからんらしい。アホである。一応教師らしいが、教師は激務なのは、部活の件で最近知られるようになった。挙句のこの程度のこともわからん阿呆。そりゃ、学校が崩壊してイジメで子供が腐るほど死にますは。>確かに貧困そのものは社会をひっくり返す要因には必ずしもならない。それを為すのが天命を受けた天子である。天皇がそれでないとしたら、それをやめさせて、その天子が、日本の元首になる。それしか、日本が続く算段はあり得ない。革命こそが、日本を救うのである。易姓革命こそが。お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 次々と出てくるアホ政権と日本カルトの悪事を続けて紹介する。東京裁判ならず東京オリンピック裁判となりそうである。日本の恥たちを買収されて自分たちで裁けない日本の司法も問題だろう。 ★ ★ ★正式決定。たぶん東京五輪の始末の方法が決まったのか。http://xn--nyqy26a13k.jp/archives/30039 より上記文抜粋・・・・・・・・・【暗部】東京五輪終了か?「日本側からの“賄賂”」仏検察が正式に捜査開始決定!東京五輪で日本側から“賄賂”か 仏検察が捜査へ2020年の東京オリンピック招致を巡って、日本側からIOC(国際オリンピック委員会)の元委員側に多額の金が振り込まれたとされる問題で、フランスの検察は正式に捜査を始めると発表しました。・・・・中略・・・・・ ★ ★ ★ 日本の恥というべきアホ政権とカルト会議そしてブラックの代名詞となった広告代理店と御用ゴミ売り新聞。 歴史は繰り返すというが、戦争に突っ走っていった悪逆非道たち、ナチスと同盟していた連中たちの再来を彷彿とさせる。 地獄に堕ちて苦しむ姿が見えてくる。
2017年05月17日
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「しくじり先生」という番組は毎回見ているのだが、「日本のお笑いはオワコン」といった脳科学者の講義をみた。自分でお笑いをつくりだす能力に著しく欠ける私がお笑いを評論するのもお笑い沙汰なのだが、日本のお笑いがオワコンなのではなく、テレビ局が上下関係を重視して、時の政権に忖度してお笑いを自粛するのがオワコンといいたかったのだろうと、解釈した。 改憲の答弁に「読売新聞を読んでください」といったアホ総理は、泣きじゃくって世界的に有名になった地方議員ほどのお笑いの北のミサイル並みの題材なのに、何も取り上げないのは非常に残念である。 せめて、「読売新聞を読めない人はどうすればいいのでしょうか?」とか、「漢字が読めない総理はしっかりと読んでいるのか、ここでテストさせてください」との切り返しがほしいと思うのは私一人だけだろうか? 憲法よりも御用ゴミ売り新聞が大切なアホ総理の無責任発言は、フランス革命の要因となった「空腹ならケーキを食べればいいじゃない」というマリーアントワネットの発言とされた人類の最低おバカ発言として記録されるだろう。 脳科学者は物質的な脳でしか話せないので、自称霊科学者であるつもりの私が霊魂の解釈から弁護しようと思う。他の人を笑わせるのは苦手だが、他の人と違う考えをするのは得意だからである。 日本では、権威に歯向かったり、厳粛な空気の重い雰囲気を壊すお笑いはタブーである。それは葬式で悲しくなくても、悲しい表情をしなければならないし、決して歯をみせてはいけないのと同じである。 これはお笑いだけではなく、この国では古くから、お上に盾突くことはタブーで死罪とされてきたからで、特にキリスト教が禁止されたのは、古くからの伝統的な教えを壊されるのを何よりも怖れたからである。 反抗者を死罪にして斬首しても、あの世から祟られるのを畏れて、鎮魂するために弔いの神社を建てるほどおそれてきた国民性といってもいいだろう。 それはお上に盾突いて死罪になった代表というべき平将門のイメージが独り歩きしているのもそのせいといえるだろう。 この国には、相手を考える思いやりという美徳があるが、それが行き過ぎて騙すゴミのように権威の提灯持ちを進んでやったりして、個人攻撃や弱い者虐めをするのをよくみかける。 そして、この国には、業界にそれぞれ天皇がいて、その悪口や茶化しを公にいうことは侮辱ととられる風習がいまだに根強く残っているのである。つい最近もそれを言った芸人の発言が問題視された。 ナイナイの岡村氏が、茶道をお笑いにしようとして、茶道の先生から説教されたというような本人は真剣だが、お笑いの話もあるし。 つまり、お笑いの問題ではなく、そのようなお笑いの需要が少なく、お笑いに寛容ではなく、お笑いがまだ平等に市民権を得ていないのが問題なんである。 比較の問題ではないが、しかしまだ北よりも遥かにマシかと思われるが、北化しているようにみえる。 さて、日本のお笑いについて考える話だったが、何度もいうが、私は人を笑わせるのは苦手だが、お笑いをみるのは得意というか大好きなので、コメディは人並み以上にみてきたという自負心はある。 日本ではやはり三谷幸喜氏が最高のお笑いクリエイターに思うし、彼の作品はほとんど見たし、笑わされた。北野映画では、子どもを連れて親に会いに行く作品は大笑いしたし。他にも漫画から出たテルマエロマエも面白かったし、最近のピコ太郎の世界的ヒットでもわかるように、日本のお笑いはオワコンではなく、まだまだ可能性が眠っているだけで、日本の国内では需要が少ないのが問題なんだと思う。 人がなぜ笑うのかといえば、人智学からわかるが、笑うことで自尊心を高めるからである。笑いの簡単な例を出せば、ライターで火をつける文明人が、マッチで火をつける非文明人に優越感をもつようなものだからである。 この国には、つねに上層が下層を笑う優越感をもたないといけないようなルールがある。だから、笑いも、上の人が笑ってから、下が笑うというような、笑いにも上下関係があり、米国のテレビから始まった観客の笑いを入れる技術を、巧く日本に輸入してから、この国にも笑いの需要が増加したといえるだろう。 しかし、昭和の家庭では、ドリフの笑いについては下品で、家庭教育に影響があるとして、子どもには見せない家庭も多かったし、そもそも笑いを下品と上品に見分けられるほど大衆がお笑いに精通しているわけでもないほど、お笑いの需要が低レベルであったことは確かである。 子どもにとってみれば、親から禁止されるほど密かに闘争心がわくともいえ、隠れてほとんどがみていたようである。だから、当時の子どもは隠れキリシタンならぬ、隠れドリフタンなんであった。逆に文部省選定など糞くらえという子どもも多かった。 だから、この国の住人がお笑いを求めないのが問題で、上下関係を重視しすぎて、過労死になるよりも、もっと生活にお笑いを求めるべきに思われる。 脳科学者の舌足らずで、誤解を生んでいるが、ピコ太郎のヒットでもわかるが、この国だけに拘らずに、海外にはお笑いの需要があるはずなので、特に米国だけでなく、お笑い需要開拓のために、南米やアフリカなどに行って、お笑いで商社をつくって、お笑い外交してもいいのではないか、と思うわけである。 それには特に、海外での日本人のイメージというのを考えるべきに思う。昔、米国の「サタデーナイトライヴ」というお笑い番組で、ブルースブラザースで有名なジョンベルーシが、サムライデリカテッセンっていうのをやっていたが、見る人によっては、日本人を茶化していると捉えるかもしれないが、私は大好きだったし、大笑いした事がある。 日本人を笑うだけでなく、エディマーフィがいかにもアフリカからきたイカレタ恰好のミュージシャンに扮し、「白人を手当たり次第殺しまくる」と過激な音楽を歌ったりするのもあったし、とにかくサタデーナイトライヴは過激さを売り物にする笑いだったのを記憶している。 サタデーナイトライヴではないが、日本人のイメージは、メガネに出っ歯でカメラをもって集団で歩くというのもあったが、それは、日本でも、ポンチョをきたメキシコ人や、昔の長髪の丁髷をした中国人の「○○アルネ」の言い方など、どこの国にもある虚飾で、ゆるキャラの一種と考えればよくわかる。 しかし、この国では白人の真似をするときに鼻を高くする恰好をするとクレームが入るし、どうもお笑いへの寛容さに乏しいように思える。 確かに人生を真面目に生きるのも大切だが、休憩時間というのも必要で、神様は休息日を指定しているわけで、何より、笑いは、人間だけに与えられた特権なのだから、動物は笑いにみえる鳴き声もあるが、笑っているわけではないのだから、人間に生まれたのだから、大いに笑いを楽しむべきである。 私自身は、もちろん、日本の笑いも大好きだが、特に80年代の米国の笑いが好きで、ファミリータイズのような、古くは「奥様は魔女」のソフトな笑いで育ったので、米国の多様な笑いを求める需要の違いなどを比較してみるのがよいと思う。 米国には差別的で過激な笑いもある位に自由で、それは芸人の問題というよりも、国民性の問題にあると思う。日本人は笑うのをまだどこかハシタナイと思っている節があるし、職場で笑い声は禁止な雰囲気もある。 それに関東は保守的で、関西の進取の気性を嫌い、関西弁のせいか、関西人をどこかお笑い芸人のようにみるイメージもどこか残っている。東西のお笑いの違いは明らかである。東京は特に笑いに慣れていない。 というわけで、笑いについては、米国との比較がわかりやすいので、パックン氏の話が参考になるので以下に紹介する。 ★ ★ ★ 「まず名刺を配って」マルチタレント・パックンのキャリアを支えた日本の慣習 http://logmi.jp/126289 具体的には、アメリカのお笑いには3つの基本形があります。政治的なネタ、性的なネタ、そして、田舎者のネタです。時々、奇跡的にそれらが一緒になることがあります。ビル・クリントン政権のことです。3つの条件が完璧にそろったネタです。しかし、日本ではこれらのネタは規制されています。性的なジョークを言ってはいけません。政治的なジョークもダメです。これらのネタを生業とする芸人は、非常に少ないです。彼らは、小さなステージで、観客を前にしてネタをします。テレビに出ることはありません。その理由は、後ほどご説明します。 ★ ★ ★ ピコ太郎のPPAPは足し算だが、引き算版、もしくは入れ替え版もでてきてほしいと個人的には思って期待している。 例えば、爆笑問題が、漫才でやっていた北のキムと米のトラを交換しても、同じって感じで、あんまり需要ないかもしれないが。昔、ミュージシャンのPVで、米のレーガンと、ソ連のフルシショフだったか、プロレスさせたのもあったしなぁ。お笑いサーカス、オリンピックなんてあっていいと思うが。
2017年05月14日
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ブルゾンちえみ、という芸人が巷を賑わせているが、ダメガバメントに、国民は今いうべきである。 アホちゃん、アホちゃん、仕事、仕事。 祖父の改憲が忘れられなくて、仕事に集中できないって、ダメミニスター、 いい、明治憲法が忘れられないって、じゃ、質問です。 アホちゃんは、味のしなくなったダメ総理をいつまでもいつまでも続けるつもりですか? 新しい総理を食べたくない? 内閣はガムと一緒! 味がしなくなったらまた新しいのを食べればいい。だって、日本には大人が何人いると思っているの? 約1億人 その1億のうちで、ダメパーソンばかりを選んできたダメピープル。 日本は本当にダメカントリー といわれそうである。 日本人はお人好しで騙されやすくナイーヴというのが、無能総理のダメ長期政権を続けさせていることでも明らかである。 無能総理を支持しているのは、恐らく中露米のように思われる。 前回、陽明学者安岡正篤氏を知る本を紹介したが、その本のなかにも、国家を潰すには、無能者を指導的立場につける事だと書いてあるし、歴史が物語っている。 この国には昔から、三代続くと穀潰し、という諺がある。三代目がよほどの苦労人でない限りは、潰れてしまうのが世の常というわけである。 現アホ総理は岸を祖父として三代目でしかも苦労しらずの見栄っ張りだから、この諺の通りのアホバカ穀潰しにうってつけの人物であろう。 それは以下のデータをみても明らかである。 それにしても、中露は流石に懐が広く狡猾である。バカ総理は、日本のサラリーマンが稼いだ税金を湯水のごとく中露にばらまいて、中露はその資金で国内外で反日活動を続けているのだから、人が悪いというか、笑いが止まらないだろう。 最近は年金を株価工作資金にして、足元をみられ、かえって偽ユダヤたち投資家に強奪され、その資金で、日本系の企業が強奪されているのだから、振りこめ詐欺どころの話ではない。 つい最近も、「ワタシ、日本人で良かった」のモデルが実は中国人だった、というお笑い沙汰があったが、アホ総理を支持しているのは恐らく中露だろう。米国も経済を強奪するのに、都合がいい無能な人物だから、陰で支援しているはずである。 東芝が転落したのが最たる例である。中露米にとっては赤子の手を捻るようなもんだろう。 ★ ★ ★ 中国人で悪かったな http://my.shadowcity.jp/ 「私、日本人でよかった」のモデルが、実は中国人で悪かったな、という話なんだが、実はこの写真そのものは、昔で言うレンタルポジ屋さん、今は素材屋というのか、業者が使いまわしている画像で、他には「小顔」とか「くすみ」とか、美容関係で使われることが多いようだ。同じ顔が、ネットのあちこちにあるw ネット上ではポスターに登場するモデルの国籍についても議論の的になっている。写真会社「ゲッティ イメージズ」が管理する女性のイメージ写真と、そっくりではないかという指摘が出ているからだ。その写真は、中国の北京でカメラマンのLane Oateyさんが撮影した「Beauty shot of a young woman」。モデルの国籍は不明だが、「若い女性」や「中国人」というキーワードが登録されていたことから「モデルは中国人ではないか」と推測する声も出ている。 ★ ★ ★ そもそも、日本人が政治に無関心で、弱者を救おうとしない不真面目な姿勢が、無能者を指導的立場につけてしまう。 誰もが思う立派な人物を指導的立場につければ、他国にも人間として侮られることはない。 もっと真剣に選挙すべきである。そのツケは結局国民に還ってくる。大国なら少々失敗しても国が亡ぶことはないが、小国は致命的で、現に幕末と敗戦で結局英米に植民地化されてしまった。 この段階で、日本に賢い人物が指導的立場につくことは、英米に監視され、許されないのは、鳩山由紀夫が東アジア共同体という大東亜共栄圏の二番煎じを行おうとして、米国から失脚させられたことでも明らかである。 利用されていることに気づいていないアホバカこそ本物のアホバカである。これも世間知らずの、苦労知らずで、親の七光りや家系で高い地位についた驕りやエゴの堕落腐敗のインチキの積み重ね、と言わざるを得ないアホバカさである。 世間を舐めてはいけない。勝海舟は、「理屈は死んでいる、世間は生きている」と言っているが、政治の世界が競争社会以上の実力社会であることがわかっていないのだろう。 だから、田中角栄などは、選挙で苦労しないとダメだと言っていたのだろう。角栄もかなりの自信家だったのだろうが、結局、世間を舐めたから、国際舞台では、ロッキード事件で闇に葬られたのである。 あの勝海舟でさえ、日本は箱庭だといっている。日本の義理人情などは国際舞台では通用しない。だからこそ、海舟曰く、政治はただただ正心正意と説いている。 もし、安岡氏が平成のフィクサーを続けていたら、中曽根以降の人物を総理にしていなかったはずである。中曽根以降、この国の外交が腰抜けの米国ゴマすりに変わったからである。 実際、中曽根はレーガンの金魚の糞と呼ばれていた。不沈空母などと戯言を放ち、国民のなかではバカにされていた。 妖怪中曽根はまだマシとしても、コネズミからは眼も当てられない。 マシだったのは福田と民主の鳩山くらいだったが短命で終わった。恐らく外国が有能だと見込んだのだろう。巧くバカ殿を演じないとダメである。 もっとも演じるのでなく正真正銘のバカではこの国はお終いである。 現憲法での自衛隊の海外派兵をしておきながら、防衛大臣の問題と森友問題を抱えると、自己弁護のために撤収させ、今度は自衛隊派兵のための改憲を主張するなど支離滅裂である。 自分がした海外派兵を違憲だったと告白するような改憲論なんである。法を犯しておきながら、法が間違っているという傍若無人の我儘さは天性の苦労知らずの三代お坊ちゃんのなせる業といえる。 そういう地獄堕ちのアホバカに、陰陽明学や人智学などの高尚な学問を説いても、猫に小判であるから、とにかく国民が目覚めるために、ひたすらパブリックエデュケーションの「摂受」を説くしかない。 前回と同様に、最後に再び古典から、重要な部分を紹介する。 ★ ★ ★ 『呻吟語』(呂新吾著)には、第一等の人物資質を「深沈厚重」の人物、二等を「磊落豪雄」の人物、三等は「聡明才弁」の人物とあります、 「どっしりと落ち着いて物事に動じないのは、人間として第一級の資質である。 細かい事にこだわらず太っ腹なのは、第二級の資質である。 頭の回転が良く弁が立つのは、たかだか第三等の資質に過ぎない」 ★ ★ ★ これより下は、無能というべきだろう。更にまた老子。 ★ ★ ★ http://utsusemi.info/index.php?e=257 老子、道教の神となる 今から2千数百年前の老子の時代、中国は群雄割拠した戦国の世である。為政者はいかにして領土を広げ、自分の国を富ませるかに執心した。 このため、全国に諸子百家が現れ、リーダーのとるべき統治論を力説した。その最大勢力が孔子を始めとする儒家であり、彼らは仁義礼などのモラルを尊重して安定した政治体制を確立し、官僚の処世術を説いた。 司馬遷によれば、老子は「隠君子」であって、政治の只中に身をおかず、日の当たらないところにいる有徳の人である。 老子には、為政者に頼まれ統治論を展開した形跡はない。役人の職を辞し、独り旅に出た途中、関所の長官・尹喜に請われ、道について論述したといわれる。多くの弟子にかこまれた孔子とは対照的に、老子はひとり孤独である。 筆をとる彼の頭に浮かんでいたのは、為政者であったろうか。決してそうであるまい。世にもてはやされる儒家の面々ではなかったか。 「老子」はかつて「孫子」と同様、兵術を論じた学派、「兵家」の書とされたことがある。それほどに、権謀術数を駆使した戦術論が熱く語られている一方で、醒め切った人生哲学というべき、人間の本質をえぐるような言葉が述べられる。 そこには儒家思想に対するアンチテーゼとして熱弁をふるう老子の姿が垣間見える。 儒家が為政者、官僚を意識して語られるのに対し、老子が負け組というべき世間の脱落者や競争に破れた知識人に語りかけているふうにみえるのは、そのためであろう。 老子の思想の根源には「道(タオ)」が横たわっている。孔子のいう「道」とは人の道であり、道徳である。 これに対し、老子の「道」は自然科学であって、人を含めあらゆる存在は、なにかある法則に沿って動いているという宇宙観であり、万物を存在させている大きな力を指している。 儒家は為政者に対し、仁義を重んじ、礼を尊び、現体制を維持させようとした。これに対し老子は、仁義も礼も不要である。仁義や礼は、大いなる道が見失われたために必要になったもので、道にさえ従っておれば本来必要のないものである(大道すたれて仁義あり)とした。形ばかりの礼など何の役にも立たないというのである。 さらに、「学を断てば憂いなし」と、学問、知識すら不要であるといい、儒家に真っ向から反対している。つまり、道に従っておれば生半可な知識など、かえって不安や迷いを引き起こしてしまうだけだというのである。また為政者に対しても「大国を治むるは小鮮を煮るがごとし」といって、国をよく治めるには民をつつかず何も干渉しないほうが良い結果をもたらすとした。見方を変えれば、為政者は一見なにもしないふりをして、陰ではあの手この手を打たなければならないと言っているようでもある。 事実、「賢を尚ばざらば、民をして争わざらしむ」、「欲す可きをしめさざらば、心をして乱れざらしむ」といって、為政者が才能あるものを採り上げなければ人々は争わないし、為政者が欲望を持たなければ人々も無欲となる。したがって為政者たるものは、人々が不満を抱かないように努め、志を弱めて、無知無欲の状態にしておけば、民に反乱をおこされる心配がない。 さらに、「国の利器は以て人に示すべからず」と、民に対する厳しい統治の中身は、決して彼らにみせてはならないと言っている。 彼を穏健な好々爺と考えているむきには意外な一面を見た気がするだろうが、なにしろ戦国の乱世である。これくらいの権謀術数がなくて、為政者が務まるかという意気込みであろう。無論心底には、儒家の「あるべき論」を一蹴したいという意向がある。 彼は戦略家であるが、決して好戦家ではない。 「兵は不祥の器なり」といって、戦いはやむなくするものであり、極力さけるべきである。そして「善く敵に勝つ者は争わず」といい、戦わずして勝つのが老子の本意である。この点、孫子と同じ方向を向いている。 「大国は以て小国に下らば、則ち小国を取り、小国は以て大国に下らば、則ち大国に取らる」。つまり、大国のほうから小国にへりくだって声をかければ、無傷で勝利を手中にすることができるのである。面子など気にするなというわけだ。 また、「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇ならば、則ち活く」といい、尻込みしてあの手この手で戦いを避けようとするものは、結局生き残る。格好は悪くても生き残る方が勝ちだといい、可及的な生き残り戦術を勧めている。 老子の言葉は逆説的な表現に満ちているため、はっとさせられるが、その実、隠れた真理に気付かされることが少なくない。このため、儒教に縛られ閉塞した社会へ風穴をあけた発言として、多くの共感者を得た。 ただ、彼の頭から儒家が消えたとき、彼は長年抱いている人生哲学についてポツリポツリと語り始める。それは一体、誰に向かって語りかけているのだろうかと訝しがるほどに、普遍的な内容に満ちている。 彼の根源的な思想である「道」に従う生き方というのが、「無為自然」である。「道は常に無為にして、しかも為さざるなし」という。 道は何もなさないでいるにもかかわらず、すべてのことをなしているという、得意の逆説である。 じつは無為というのは、なにもしないでよいということではない。作為的なことをするなというのである。欲を出して、余計なことをしてはならない。自由な心で自然のままに(道にしたがって)生きようではないかという境地である。 そして「水」のなかに、無為自然が具現された姿を認め、「上善は水の如し」と称賛した。 すなわち、水は万物をはぐくみ、なにものにも抗わず、ひとが嫌うような低いところへと流れ、黙ってそこにおさまっている。一方で、水は柔らかでしなやかであるのに、岩のごとき固いものをも打ち砕く(柔よく剛を制す)。水はただ自然に任せて流れているだけなのに、多くの恵みを我々にもたらしてくれる。これこそ、道に従った理想的な生き方であるというのである。 そしてあるべき人間像について、つぎのように語っている。 「人を知る者は智なり。自ら知る者は明なり」といって、他人の心をよく汲み取れる人は智者である。しかし自分のことをよく判断できる人こそ真に明知の人というべきであるという。 また「希言は自然なり」、「知る者は言わず。言う者は知らず」といって、本当の知者は寡黙であって饒舌ではないという。さらに、人と和すことができなければ、他人から評価されることにはならない。自分に従わない者を排除するのではなく、「和光同塵」といって、自分の才能や知識は伏せ、一歩引いて自分のほうから相手に合わせるようにすべきであるという。 さらに「人に与えて、己いよいよ多し」といい、他人へ奉仕をすることを喜びとし、「怨みに報いるに徳を以てす」と、うけた怨みを早く忘れ、親しみをもって接することが、道にかなった態度であるという。実際には、なかなかできそうにないことを求めている。 また彼は処世の心構えを、老人の繰り言のように吐露している。 まず「天下の難きは易きよりおこり、天下の大は細よりおこる」と、いかなる困難や大事も最初は些細なことから始まることを肝に銘じ、「千里の行も足下より始まる」と、何事も地道にコツコツやることが大切だと言っている。 また、老子が繰り返し強調するのが、足るを知る「知足」という考え方である。 「禍(わざわい)は足るを知らざるよりも大なるはなく、咎は得るを欲するよりも大なるはなし」と、禍は満足することを知らない心にある。そして「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず」といい、分をわきまえ、ほどほどのところで満足せよといっている。 さらに「つまだつものは立たず」、「自ら矜(ほこ)るものは長からず」といい、自分を実際より大きく見せようとしたり、才能を誇示するようなものは、長続きしないと述べている。つまり、ひとは分相応の人生を送るべきであって、欲を出さず止まることを知っておれば、心安らかに暮らすことができるという。 また、「それ軽々しく諾せば必ず信すくなく、易しとすること多ければ必ず難きこと多し。是れを以て聖人すら、なおこれを難しとす。故に終に難きことなし」という。安請け合いしたり相手をあなどると、あとで大変な目に遭いかねない。慎重の上にも慎重を重ねるようにせよ。成功を夢見るよりも、失敗をしない生き方が大切であると言っている。 さらに「甚だ愛すれば必ず大いについえ、多く蔵すれば必ず厚くうしなう」といい、地位や名誉にこだわれば、命をすり減らすことになる。財を蓄えるのに執心すれば、いつかそれを失うはめになる。そこで「道を為すものは日に損す」といって、道を修めておれば、財産や地位を求める心も、病気を恐れる気持ちもなくなってしまうと言っている。 あるときは「曲なれば即ち全し」といい、曲がった木は使い道がないといって、切られずに寿命を全うすることができるが、真っ直ぐで見栄えのよい木は伐られてしまう。時と場合によっては、自説を曲げてでも相手に従い、身の保全をはかれという意にとれるが、一方、社会的弱者のほうが、生き残るにはかえっていいこともあるよと慰撫しているようでもある。 また道にかなった生き方について「我に三宝有り、持してこれを宝とす。一に曰く、慈、二に曰く、倹、三に曰く、敢えて天下の先と為らず」といい、一つ目は慈しみ、二つ目は控えめ、三つ目は人の先頭に立たないことだと言っている。 また老子はものの見方について、「天下みな美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。みな善の善たるを知るも、斯れ不善のみ。故に有と無と相い生じ、難と易と相成り、長と短と相いあらわれ、高と下と相い傾き、音と声と相い和し、前と後と相い随う」と述べている。つまり美も善も、有も難も、見方を変えれば、たちどころに醜や悪、無や易に変わってしまう。 したがって、この相対的な世界をよく自覚して、自然のなかで自由に生きていこうというのである。 そして人の本性として「持して之をみたすは、その已むるにしかず」といい、ひとは貪欲で、これでいいと満足することがなかなかできない。富や地位を得て奢れば、かえって災難を招く事になる。仕事を成し遂げたとおもったら、はやく身を引くことだ。そして「功成りて身退くは、天の道なり」と、引き際の大切さを力説している。 さらに「天網恢恢、疎にして漏らさず」といい、悪い事をすれば必ず天罰が下る。頭のいい者なら、いずれそういう自然の法則に気づくだろうとうそぶいている。 このあたり、戦国時代の人々だけでなく、現代のわれわれの臓腑にもしっくりと収まるものがある。 老子のこの無干渉主義は、前漢のはじめ為政者のための統治論として採用されたものの、七代武帝の時代になると、時代にそぐわないと切り捨てられた。そして以後2000年にわたって、儒教が中国の国教として採用された。ちなみに孔子の「論語」は、アジア世界で史上最大のベストセラーといわれる。 一方、「老子」は時を経るに従い、社会にうまく適応できない人々にとって「癒しの書」とあがめられる存在となり、後世、彼は神格化され道教の神となった。 ★ ★ ★ 最後の2つの文章には異論があるが、社会にうまく適用できない人々の心の書となるわけで、底辺を支える救いの教えであることがわかる。
2017年05月10日
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少し時間ができたので、本を読んだ。昔読んだ「安岡正篤 最上の人生設計」である。陽明学者の安岡氏は、「平成」の元号で有名だが、恐らくその漢字を選んだのは、平和を確かなものにする、という意志に私には思われる。 平和憲法を堅持していくという意志に私には思えるのである。 というのも、この本に書かれているように、パワーポリティクスの「勢力」に対して、パブリックエデュケーションの「摂受」を説いているからである。 結局、闘いは何も創造しないだけでなく、ネガティヴな想念を増大させ、苦悩の地獄に落とすだけなのである。勢力争いを続けるなら、いまのサルのように人類は退化していくだけである。 闘いではなく、指導者の話し合い、人格で解決すべきなのである。人類を霊的に進化させるには、どのような世界をつくるのか、で決めるべきである。 この本を一読するのを是非お勧めしたい。特に日本会議のような無知でバカな連中のように、論語読みの論語知らず、にならないように注意すべきである。安岡氏も、このようなバカな連中の看板に担がれるのは片腹痛しだろう。 日本が素晴らしいのは、この国の生活にこのような東洋哲学が残っていることにあり、古代中国の、シュタイナーに言わせれば、古代アトランティスの文明が残っていることにある。 私は勝手に安岡氏を著作を通じて、師匠にしているが、だからといって氏の発言全てを肯定するわけではなく、またシュタイナーも師匠にしているが、だからといって人智学教に染まらないように注意している。 自分に相応しい学問は自分でつくるしかないと思っている。しかし、良いと思われるところは受け継ぎ、改善していき、悪いと思われるものはあっさりと放棄していきたい。 陽明学の良いところはその改革思想だが、悪いところはあまりに過激になると、思想に凝り固まり、攻撃的になるところである。だから、陰陽論を合わせて、推していくだけでなく、引くべきところは引くという陰陽明学にすべきである。 というわけで、この本から、現代のご時世にとって、興味深い部分を紹介する。 ★ ★ ★ 日本には素晴らしい東洋思想が根付いている。それが日本人にとっての「素」であり、まずは、そこに立脚して物事をみるのが大事である。 「富貴に素しては富貴に行ない、貴賤に素しては貴賤に行ない、夷狄に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。」とは、環境に左右されるな、という戒めである。 これも、本当の自分を見つけていれば、どんな環境にあっても、それに振り回されることはない。自分自身というものが、定まっていないから、環境に振り回されるのである。 本当に徹底している人は、カネや地位などといったものに執着しない。 本当の自分というものがわかれば、カネがあろうがなかろうが、どこの国に行っても、どんな苦労にあっても、悠然としていられるわけで、いかに自分というものを掴むことが大事かということが「自得」なのである。 自得とは、自ら得るということで、自分で自分をつかむ。本当の自分をみつけることである。カネとか地位などというものは枝葉末節で、人間として大事なのは、本当の自分をつかむことである。 ところが、人間が一番失いやすいのも自分なのである。根本において、自分というものを掴んでいないことから、あらゆる間違いが起こる。まず自分を掴まないといけない。 それがあらゆる哲学、宗教、道徳の根本問題なのである。 ★ ★ ★ この本当の自分とは、現代物理の繰り込み理論と相通じるところがある。簡単に説明すると、裸の電荷の周りに、反対の電荷が引き寄せられるので、全体としては、引き寄せられた電荷が繰り込まれ、キャンセルされて、現れてくる、という話なのである。 この繰り込み理論と同じで、正味の自分は、周囲への欲望をまとって、現世に現れてくるので、執着のために、見えにくくなる、というわけである。 この正味の自分を見積もる眼を、心眼や霊眼というわけである。 さて、このような本物の眼をもつためには、人生の苦渋を味わう必要があるのだが、この本の最後には、その見分け方が載っている。恐らく、老子の出典をアレンジしたものといえる。 ★ ★ ★ http://www.roushiweb.com/category3/entry103.html 善戦者不怒 (善く戦う者は怒らず) 老子によれば、「戦上手な者は、安易な挑発には乗らないもの」。 優れた名士は、武力に任せて物事を解決しようとしたりしないし、怒りに身を任せて戦ったりしない。 上手に勝ちを収める者は競争しないものだし、上手に人を使う人はへりくだってお願いするものだよ…と言うのです。 ちょっと強引な解釈かもしれませんが、老子が言いたかったことは要するに「力まかせに正面からぶつかるんじゃなくて、頭を使えよ」…ということだったのではないでしょうか。 怒りに関していえば、何か腹の立つ出来事があった時、カッとなったその衝動に任せて怒りをあらわにしてしまう人は所詮、二流、三流。 一流の武士、ホンモノの「強者」は、一旦間を置いて、その出来事(他者の言動など)や自分の気持ちの変化を客観的に捉えられる余裕があるのでしょう。 すなわち、安易に周りに振り回されたりしないということ。 言い換えれば、自分自身の軸がしっかりしているということです。 ★ ★ ★ 続けて、四等と五等と六等の(ダメ)大臣の特徴だけを以下に抜粋する。 人気や自身の安隠ばかりを図り、国家の安危など真剣に考えていないのが四等大臣。 功名心や権力欲ばかりが強く、我儘で人と張り合い国政にとって有害無益なのが五等大臣。 大臣の権勢を利用して悪事を働き、善人を傷め、良民を苦しめ、人望を失うのが六等大臣。 ★ ★ ★ 現内閣はダメ大臣ばかりの寄せ集めにすぎないのが明らかであろう。 このようなダメ政権に、この国の行く末を任せていていいのだろうか。
2017年05月09日
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前回はシュタイナーの天国と地獄の引用が途中で難儀になり、中途半端になってしまったが、次回に改めて紹介したい。 さて、森友問題での失脚を恐れて、北朝鮮騒ぎを起こして、人気を回復し、憲法改正にもっていこうとしている卑劣で卑怯な地獄堕ちの無知な現政権に対して、もっと日本史と憲法を学ぶべきだ、と提言したい。失政の責任を戦争で誤魔化すな。 前回、日本国憲法の平和主義は、国連憲章に源流があることを紹介したが、先の2つの大戦は、以前に謀略論(アルバートパイクの書簡)で紹介したように、世界統一政府を考えている偽ユダヤに立案され、実行されてきたことがネットでは明らかになっている。 ★ ★ ★ 謎の男、アルバート・パイク http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hap/_floorB1F_ap.html それによると、まず、「世界を統一するために今後3回の世界大戦が必要だ」と書いてあり、 「1回目はロシアを倒すために、2回目はドイツを倒すために。3回目はシオニストとイスラム教徒がお互いに滅し合い、いずれ世界の国々もこの戦争に巻き込まれ、それが最終戦争に結びつくだろう」 (先の大戦の敗戦で、この謀略に気づいて、戦争に巻き込まれないように軛をつけたのが平和憲法なんである。) その謀略論によると、「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」 「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」 「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」 「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」 「予言は当たるものではなく、当てるものだ!」 この手紙(アルバートパイクの書簡)が書かれたのは1871年8月15日。 この時、まだ第一次世界大戦(1914年勃発)も、第二次世界大戦(1939年勃発)も起こっていなかった。 この手紙の中に書かれている「ドイツの国家主義者」を「ナチス」に、「政治的シオニスト」を「ユダヤ人」に置き換えると、第二次世界大戦の構図をはっきりと捉えていることが分かる。 一番不気味なのは、中東での戦争を引き金にして「第三次世界大戦」の勃発を予想している点であろう。 もちろん、当館はこのアルバート・パイクの“予言”を、そのまま信じるつもりはない。念のため。 しかし、「予言は当たるものではなく、当てるものだ!」という言葉がある。 もし、そのような考えのもとでイスラエルが中東に(強引に)建国されたのだとしたら恐ろしい話である……(そうでないことを祈りたい)。 ★ ★ ★ 以上の「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」をみればわかるように、シオニストとアラブ人とのあいだに紛争を起こすために、テロが行われていることがわかる。 地獄行きの連中の目的は、この世を地獄化して、悪魔を招来することである。それは以上の「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」と書かれているように、イルミナティの名称がルシファーのことで、ルシファーは人間に自由を与えたために、天界から追放された堕天使、つまり悪魔である、ことから明らかである。 地上を地獄化して悪魔を招来するのがイルミナティら悪魔崇拝教の目的で、その主張、つまり日本(文化)を賛美させる、という日本会議もこれに含まれることがわかる。 日本を宣伝する、というのである。 しかし、連中の説く「日本」は、「いまの日本」でなく、教科書にしかない明治期の単なる妄想の日本である。現憲法を明治帝の憲法に戻す、というような主張も、明治維新に無知な老人の妄想である。老人が青春時代を懐かしむ懐古主義と変わらない。 宣伝なんて言うのは悪魔のやることである。 なぜ宣伝する必要があるのか、そもそも賛美に値するものならば、宣伝の必要などないのではないか? 神が自分を崇めよ、というだろうか? 不自然極まりない。そこにあるのは単なる強制でしかない。 自分を崇めよ、なんていうのは悪魔でしかないだろう。つまり、このような考えはネガティヴ想念そのものである。 連中の議論には具体性が欠けている。 そして「予言は当たるものではなく、当てるものだ!」とイルミナティは述べているが、それは、この地獄堕ちの連中が、その目的を実行しようとしていることを意味している。 このように悪魔たちは常に人類を誘惑していることを念頭に入れないと国際社会では騙されて生け捕りにされ、先の大戦のように多大なる犠牲者を出し、国家が分断させる可能性さえも与えてしまうだけなのである。 当時の経済力が10倍も違う米国と太平洋戦争などする愚かさは、日本会議のような浅はかな悪魔崇拝、御利益崇拝にあるといえる。当時少しでも冷静さを保っていれば、国民の命を大切にしていたなら、大陸から撤退し、真珠湾のような英米の狡猾な罠にハマらなかっただろう。 有り難いことに日本は分割統治はされていないが、残念なことに至る所に米軍基地があり、独立国とはいいがたい状態にある。平和憲法が日本国民を守ってこれたのは、紛争や戦争に関わらない代わりに、日本の領土と統治の一部を米軍や米国に与えたためである。 つまり、日本は、日米の分割統治となっているわけである。植民地という言い方もできる。 なぜ憲法改正が問題になるかといえば、アジアに関わり、血を流すのは御免と米軍が言い出しはじめ、自衛隊が米軍の下請けをすればいい、という米国の本音が出てきたからである。 もっとあからさまにいえば、アジア人同士で戦わせて、白人が漁夫の利を得る計画だったのに、アジア人が戦わないために、漁夫の利が得られないではないか、という不満が出てきたというわけである。 こういう本音を見通さないと、この国はまた同じ敗戦を迎えるだろう。 そのためには、非常にわかりやすい近代の日本史を解説していた話をお馴染みのブログにみつけたので、以下に紹介する。 ★ ★ ★ 渾沌堂主人雑記 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/ 同感。正解かも 神戸だいすき より 上記文抜粋 ・・・・・・・・・ 騙されてきたこと(戦争) 姑は男の子しか育てなかったから 「男の子はね、歩けるようになると長いものを持って振り回すよ」と、まるで、闘争がオスの本能だとでも言いたそうだった。そして、一般にも、そう信じられている。 シンバだって、オスは己の王国を持っていて、そこに、複数のメスを置いている。 オットセイだってそうさ。 だから「戦争は、どうしようもないオスの本能の産物」だから、起こるのは自然の摂理だから仕方がない。 こういうジェンダー論によって、支えられているから、為政者が国民を戦争に駆り立てるのは非常にたやすい。 ここに、ナチス・ゲーリングの言葉がある、 「平和主義者は愛国心が欠けている」ナチス・ゲーリングの警句と「だまさ ... 「もちろん、国民は戦争を望みませんよ」ゲーリングが言った。「運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を懸けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも、同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるよう仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ」 この言葉を受けて、「騙されるのも罪」だと、伊丹万作が言ったそうだ。 私は、もしも大東亜戦争に打って出なかったら、日本は「攻撃され破壊された」と思い込まされていた。そして、戦争になれば平和主義者は「非国民」と言われた・・・こうして、騙されて戦争に駆り出された。 けれど、本当にそうだったのだろうか? 戦以外に方法はなかったのだろうか? 日清戦争の原因はひとつには、あまりにも李王朝がだらしないから、これではロシアが南下してくるという恐怖だった。 しかし、その前にフランス軍は清国を叩いていたらしい。 いや、もっと前にアヘン戦争だ。 つまり、ロンドンとパリのロスチャイルドは清国を奪い取ろうと画策、明治クーデターで、偽天皇を担ぎ、新政府で国家を征服した後、日本兵を傭兵に仕立てて、まずは、清国を侵略させた。 だから、戦で血を流し、苦労をして、勝利したのは日本なのに、戦後「三国干渉」と言って、ドイツまで加えて、分捕り合戦。 彼らは、日本に血を流させて獲物だけ奪った。 ついで、日露戦争は、さらに露骨だった。 日本に借金させて(たしか、大東亜戦争後まで返済が続いたはず)日本の戦勝に対する分捕り品は無しでしょ。 だから、小村寿太郎が焼き討ちされたのでしょ? 私は、大きく間違っていたわ。 明治日本は独立国になるために、周辺国からの侵略を防ぐための戦争をしたと思っていた。 日露戦争は帝政ロシアを壊滅させるためのユダヤの仕掛けの一つで、日本を利用して、日本の若者を殺し国力を減じて一石二鳥だと思った。彼らにとって。 でも、間違っていた。明治以後、日本が独立できた日はないんだ。 つねに傭兵として、戦争させられ、その分捕り品は、白人が享受した。 いや~おかしいおかしいとは思っていた。「なぜ、日本だけが植民地にならずに済んだか?」と言われるたびに「?」と首をかしげた。 日本は、本当に植民地ではなかったのか? だったら、なぜ? いや、欧米を排除して、日本風をまもったのなら、わかる。 形から見たら、完全に欧風化して、殖民地とちっとも変らない風景。 どこをとれば、日本に主体性があると言えるのだろう? 万世一系の天皇がおわしますから? でも、偽物でしょ? はっきり植民地だと理解していたら、独立運動もできただろう。 騙されて独立国家だと思わされ、騙されて次々侵略戦争のお先棒を担がされた。 はっきりいって、だまされるのは「罪」だ。 日本は有罪だ。そう思う。 こんどこそ、目覚めようよ。 明治維新は薩長の無頼漢によるクーデター。 そのあげくの敗戦後、今度はCIAが、自民党をつかって日本を支配した。 でも、今も昔も、殖民地なんだよ。 日本が独立国だったのは、江戸幕府まで。 ・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 抜粋終わり どうも明治天皇以降「すり替わった天皇」らしい。 となると、かなり明治帝国は、平家の思いを実現した王朝にも思える。 東京都~ 福原{神戸}遷都同様に、海外との交易で繁栄する首都。清盛の悲願だったが、これも途中で破たん。 明治天皇~ 京都の天皇を否定した新{天}皇 でちょうど平将門が新皇に成った。 が中途で破たんしたその夢を継いだのが、明治「すり替わり」天皇だったということ。 かなりその可能性が高いように思える。 だから逆に、清盛・将門を高く評価しなかったように思える。 でも平家は海外進出・侵略など考えてなかった・・。のにその「すり替わり=易姓革命=将門の後継者」の件でも脅されて、侵略者という日本人に似合わない役割を演じてきた・・かもしれない。 で、前の戦争で、「「すり替わり」を知っている連中」と「侵略を指嗾した連中」の排除を目論んだのが、戦後の抗争の一つだったかも。 幕末の幕臣の少壮官僚には、大政奉還の時に自決した人もいた。 明治帝国が「偽天皇」を掲げて戦う「侵略者」とわかっていたか、うすうす感じていたからと思う。 お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 日本が賛美されたい、のというのは自信のない証拠で、我儘なんである。ネガティヴ想念そのもので、以前にも述べたが、外国人の眼で、日本を再評価することが重要である。 というよりも、いつまでも日本とか言っているのは、中世の思考形態を抜け出ていないだけで、スポーツをみればわかるように、個人のプレーで示せばいいし、また大災害時に助け合う姿勢や態度、本来は、そのような善行はわざわざ宣伝やアピールして他者に示すのではなく、隠れて行うべきものである。 善行は密かに隠れて行うべき。 日本を賛美されたいのではなく、日本の若者が世界舞台で称賛されるように育てることであり、後進に道を譲ることである。天命を知るというのはそういうことである。自分の潮時(引退)を知ることである。 日本の危機をつくっているのは引退すべきときに引退しない老害たちで、勝海舟は自分の書で言っているが、国というのは新陳代謝が必要で、いつまでも老人が居座っていると、若者が育たなくなり、結局、世代交代が進まずに、国家が危うくなるよ、だから引き際というのが肝心だ、というのである。 勝も自身を戒め、大事をなしても引き際を誤れば全てが台無しになる、とも言っている。 そこいくと平成帝はやはり引き際というのをよく考えている。 老兵は死なず、ただ去りゆくのみ。
2017年05月07日
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先日、犬HK特集で平和憲法をやっていたが、当時の政治家が敗戦の経験もあり、現在の金権権力バカ政治家よりも非常に真面目であったことがわかる。 不戦の誓いを立てることで、子孫が戦争に巻き込まれる事を避けようとする配慮で、第9条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言が付記されたという。 「国際平和」とは何かといえば、以下の国連憲章が元になっている。 国際連合憲章 われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。 「共同の利益の場合を除く」を、「国際平和を希求し」に変えれば、ほとんどそのまま9条になる。共同の利益とは、国際平和を実現することである。 国際平和とは何かといえば、これを端的にいうなら人類から恐怖心や憎しみをなくす、ということである。恐怖心や憎しみのようなネガティヴな想念をなくすために、人間はこの世に生まれてくると、神智学者のドリールは説いた。 さて、地獄行きの連中が、改憲など子供騙しのような事をしようとしているが、A級戦犯たちがいま地獄の苦しみを味わっている事さえ知らないのだろう。 戦争に勝者も敗者もない。戦争に勝って生き延びたとしても、人間はいずれ死ぬ存在なのである。死んだときに敗者として死んでいった魂に顔向けできるかどうか、の問題なのである。 戦争をすれば必ず犠牲者がでる。戦争を指揮する事は、自らの指揮により、生み出した犠牲者たちと死後に霊界で出会うことになる。それはその犠牲者たちの苦悩を感じる運命を選ぶ、ということなのである。 つまり、戦争をしたモノは自ら犠牲者の苦悩の地獄へと堕ちていく、ということなのである。 キリストのような強靭な精神の持ち主ならば、地獄に行っても持ちこたえることができるかもしれないが、武力にすがろうとする軟弱な脆い精神では苦悩に苦悩を重ねるだけしかできないだろう。つまり永遠と地獄を彷徨うことになるだろう。 なにしろ霊界では心が丸裸になるからである。 だから戦争をしたモノは本能から極度に死を恐れることになるだろう。何物も自分を守るものはなく、自分で守るしかない。 自分を守るものは、何かといえば、この世で誰かを守ってきた心である。 キリストの「汝の敵を愛せよ。隣人を愛せよ。」である。 誰かを守る心、特に弱者を守る心が、自分を守るのである。 与えられるのではなく、与えることである。 さて、人智学では既に明らかになっているが、天国も地獄も存在し、端的にいえば、心が作り出す、のである。 天国と地獄は、人間の心のなかにある。心の眼をもてば、この世が、地獄と天国の狭間にあり、TVのチャンネルのように切り替えてみえることがわかるだろう。 現代物理学でいうなら平行宇宙で、空間という概念は無限の波動数で置き換えられる。 それは繰り込み理論で明らかだろう。無限大と無限大が繰り込まれて、有限の空間をつくる。 天国と地獄が繰り込まれて、この世がある。 さて以前、何度となく天国と地獄を紹介してきたが、再度紹介することにする。 シュタイナーの「天国と地獄」の紹介である。わかりやすく抜粋改変した。 ★ ★ ★ 地獄 進化を停滞させる闇の力(ネガティヴな想念) 進化を阻む力を考えてみると、この闇の力を、人間は、死後、根本から捨て去らないといけない、もし、この闇の力を少しももたなければ、人間は、過去から、未来へと霊(精神)的進化の原動力だけを運んできただろう。 人間は、過ぎ去った人生に自分を縛り付ける闇の力から離れないといけない。その闇の力、欲望、欲求から離れ、それを捨て去るべきだが、今生の闇の力だけは残ってしまう。 死後に捨て去るべき闇の力が、今生のなかで準備される。その闇の力は地上に誕生する前にはもたなかった。 人間は地上に生まれ、物質界のなかで成長していく。物質界での享楽への愛着(執着心)は、今生の経過のなかで次第に身につけ、自分の霊魂のなかに引き入れた闇の力なのである。 しかし、そのような物質界への愛着(執着心)は、人類の精神的進化には寄与しないものなのである。それどころか、この物質界への愛着に囚われると、人間は進化できなくなる。 物質界への愛着を人生に持ち込むと、闇の力に囚われる。だから、人間に闇の力をもたらすのは、今生なのである。 (今生、つまり現世が、聖書でいうところの、知恵の実なのである。知恵の実を食べると、人間は自分が裸であると知り、肉体という物質を身にまとうようになるが、その物質に愛着をもつと、宇宙の進化から逸脱してしまう。 権力は、この肉体の最たる象徴といえる。) 闇の力は、人間に、人生経験という果実をもたらす反面で、物質界に縛り付け、輪廻転生から、人間の霊魂を逸脱させる。物質界へと人間を結び付ける愛着を、人間が完全に克服するまで、闇の力は絶えず誘惑として人間を揺らし続ける。 人間は、この闇の力と、これを克服し、宇宙の進化へと前進していく精神力を合わせもっている。人間の中には、この闇の後退力と、この光の前進力があり、つまり人間は、地獄と天国をつくる二極の力をあわせもっている。 (続く)
2017年05月05日
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久しぶりに書く。20世紀もっとも発展したのはTVで、21世紀はネットだと思うが、その時代の流れを受けて私はすっかりTVっ子である。TVは地球の反対側を映し出すのに大きな役割を果たしたが、ネットはさらに文化や表現の多様性を発展させている。 両媒体を通じて、恐らく一番発展したのは、日本のアニメだろう。 さて、今回書きたいのは、実はアニメではなく、日本の生活スタイルである。日本社会は中世の没個性をいまだにひきづっているので、会社精神や上下関係などはまさにそれだが、事実、シュタイナーは、日本のこの全体主義的な没個性という古さを古代アトランティスの遺産として言及し、発展性のなさを指摘しているが、そこはやはり外国人の個人主義的な意識を移植すべきに思われる。 さて、BS7でやっている「ワタシが日本に住む理由」は私のなかでは一番の秀逸な番組だと思っている。 というのは、西洋に追い付け追い越せできた20世紀の日本人がふと気がついてみると、日本人とは何なのか、自信を失っている今日この頃の外国人による日本礼賛の付け焼刃的なナルシスト番組が多いなかでも、この番組は実際に日本に住んでいる外国人の眼からみた日本を浮かびあがせる異色な番組だからである。 このあいだは鎌倉に住むイタリア人の話だったが、非常に面白かった。心理学を学び、世界を旅したこのイタリア人の日本人の印象は「ナルシスト」ということだった。 褒め殺し、というのが随分前に流行ったが、日本人はどこか閉鎖的な(内向きな独りよがりの)ナルシストという感じがするのは確かである。 京都のようなひねくれた、洗練されたともいうが、婉曲表現の生活圏があるのに、褒められると有頂天になりやすく、常に周囲の目を気にして、体裁をつくろうのが、ナルシストにみえるせいかもしれない。 現政権をみていると「ナルシスト」そのものともいえるが、オナ ニーストといえそうでもある。 イタリア人のこの印象に対して、司会の高橋克典氏が、巧く切り返して、「西洋に追い付け追い越せできたがふと気がついてみると、日本とは何なのか、自信を失っている」と言っていたが、日本人は原点に還り、自国の文化に目覚めるべきに思う。 例えば、前回、日本文化の「わびさび」について一考察を紹介してみたが、このイタリア人が好きな一字を聞かれて、「龍」と書き、龍は西洋では悪魔の象徴だが、東洋や日本では神の象徴になっている違いを説いていたが、この違いに日本文化の特徴があるように思う。 西洋では悪魔を忌み嫌い、排除する傾向にあるが、東洋では悪魔を善導しようとする傾向にある。 悪というのは偽善なので、偽りを正しく元に戻せば、善になるはずだからだ! つまり、悪をカルマの法則に従わせれば、善になる。 カルマの法則とは十字架を背負わせることである。悪魔に十字架を背負わせると、善になるから、悪魔は十字架が嫌いなんである。 つまり、西洋は、特に外資系は、リストラが象徴で、使えないものは、切り捨てる傾向にあるが、東洋では、どんな人をも粗末にせずに、持ち場を与え、生かしてやるという、中世でも、浪人を雇うという風習があったはずなのである。 どんなもの、どんなひとにも親切にして、大切にする、というのが日本文化の徳目だったはずである。 しかし、西洋に追い付け追い越せで、この大切な徳目を切り捨ててしまった! 消費社会、利益追従の切り捨てが罷り通るなかで、日本人が日本の精神、心を失ってしまった。 西洋では悪魔を切り捨てているうちに、悪魔と同じことをし、金持ち悪魔の支配する悪魔崇拝の地獄世界になってしまったが、そのために東洋は散々犠牲者を排出してきたが、東洋はそれではダメで目覚めないといけない。 また、このイタリア人は、日本のアニミズムが残る風習に神秘性を感じていたが、万物に魂が宿るというのは、古代アトランティス文化の教えであり、実際そうなのである。 霊界から物質界が生まれているし、人間の霊魂が、物質界に降臨することで、肉体をつくっているのである。病気などは、霊魂の負の想念がそのまま肉体に現れたものにすぎない。 このイタリア人も言っていたが、人間は経験媒体であり、記録媒体なんである。だから、お墓は必要なく、一期一会がそのまま永遠に魂とともに運ばれ、そのやりとりが、カルマの法則とともに残っていくのである。 良き出会いは更に良きものに、悪しき因縁は良き因縁にと残すのが、カルマの十字架の救いの働きである。 千利休と後に呼ばれた宗易で有名な一期一会とは、永遠に続く霊魂の交わりの事である。一期一会ではなく、これまでの輪廻転生から既に出会っていて、出会うのは運命づけられていたのである。 このように日本の文化には、古代の霊性の文化が色濃く残っているために、この世を仮の世界と思っている節がある。神社や寺社などで、霊魂を祀っていることから明らかだろう。寺だって、日本にくれば、その仏像は、御釈迦さんの生前の姿ではなく、今も霊界で生きる、御釈迦さんの如来の段階に達した霊魂を霊視したイメージを表現したものなのである。 あまりにも霊に傾きすぎるので、霊がいつの間にか、空気になり、「空気を読む」という諺になっているが、叡智は何も、人間の頭だけに浮かぶものではなく、自然の働き全てが叡智からなっているわけで、それらは物質で表現できないから、「霊」で表現しているだけのことである。 日本人の会議が決断せずに、なかなか終わらないのは、霊能者が神霊に聞いてみる風習が形骸化し、省略されて、霊能者でもない天皇が神霊の役割をして裁断した形式だけが残っているためである。 キリスト教のカトリックでは神父がその役割を担うのと変わりはないが、西洋では混血や異族婚が進み、唯物化が発展したために、肉体に深く埋没するようになってかえって個人主義が芽生え、個性が生まれただけの違いがある。 だから、西洋のほうが、自我が物質的で、現実的なので、間違いを恐れない決断力に富むのである。科学が発展したのは西洋のこの自我の物質性にある。 対して、日本は集団主義、それも族長を中心とした上下関係の序列を重んじるので、どうしても没個性になりがちで、あちらをたてるとこちらがたたずで、根回ししないとダメで、優柔不断で決断力に乏しい。 どちらが良いとも悪いともいえないが、日本は個人主義を発展させないと、時代の流れに乗り遅れることは確かであろう。というのも、宇宙の人類進化計画では、霊性を失わさせ、個人個人で、その霊性を回復させるのが、現人類の進化の主題となっているからである。 そのためにキリストは一人の人間に降臨し、個人というものを明らかにした。キリストはかつては、族長モーゼに天界から語りかけた存在だったわけで、言葉が肉となったのである。 だから、いま日本に必要なのは集団性ではなく、個人性なのであり、集団性の日本文化のなかに、個人の日本文化を打ち立てていくことなのである。 日本に住みながら、外国人の眼をもつことが必要である。
2017年05月01日
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