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久しぶりに書きたい。教育勅語のような似非宗教の洗脳などが権力者が大衆を都合よく支配するのに、またでてきたので、権力者に都合よく歴史が書き換えられる危険について話したい。 この間、徳川慶喜の話をTVでやっていたが、どうも八切史観とは比べられない位に浅かったのが残念に思える。TVで取り上げる話題はどうしても国内にとどまり、内向きで、世界の流れが考慮に入れられてない。 昨今は、世界史と一緒に日本史を教えるらしいので、日本史教育もやっと開国したようである。 国内では日本の文化は素晴らしいと喧伝されているが、ではどう素晴らしいのか、と問いかければ、ほとんど説明できないのは、日本史の教育が単なる暗記に終始しているからだろう。 日本の文化が単独で生まれた、などというのは妄想で、世界の流れのなかで、島国独特の閉鎖性から醸造された、と考えるのが合理的である。 日本列島に様々な海流が流れ込むように、様々な文化や人種が流れ込み、この島のなかで融合された、と考えるのが自然である。 そこで、日本の文化の特徴といえば、「わびさび」がまず代表として挙げられるが、その真意がわかっている人は少ない。 「わびさび」とは、八切史観によれば、先祖の苦労を、侘びる、寂びる、からきているという。その源流は、祖先崇拝にあるようで、仏教でも、この国にきたら、祖先崇拝が入り交じり、独特のものとなっている。 しかし「わびさび」は祖先崇拝だけでは語りつくせないほど、日本語のように曖昧で、陰陽道も交じっているようにみえる。 陰陽道を簡単にいえば、人生楽あれば苦ありで、今のスピリッチュアルでいう正負の法則といえる。陰陽では、完全になりすぎるのを嫌い、というのは、完全になれば、これまでの上昇や創造の相が転じて、破壊や下降、堕落、腐敗につながるからである。 ぶっちゃけていえば、「完全」は人間の思い込みで、自己満足にすぎない、と捉える傾向にある。循環論を基本とするからである。 循環論では「完全」は停滞ととらえる傾向があり、日本の庭園も対称性を嫌い、非対称のアシンメトリーになっている。 アシンメトリーは、対称性を超えた神の創造を表現しているようにみえる。対称性を融合した、清濁合わせもって、善導していく高貴な精神を表現しているようにみえる。 「わびさび」は、自然のなかに神々の造形力をみている。子が親から学ぶように、自然の創造から学び、祖先崇拝の先にあるのは創造神であり、人類は神の子であり、神にはかなわないという尊敬、謙遜の感情表現が、「わびさび」であるように思う。 人間のエゴ、驕りを戒める、栄誉を極めてはいけない、という戒めが、日本文化の、「わびさび」にあるように思える。 このように日本の文化は奥深いものだが、地球や自然や世界があっての日本なわけで、結局のところ、あらゆるものを愛でる精神、親切心が、「わびさび」の基本であるように思える。 だから世界あっての日本ということを忘れてはならない。 世界の流れにあわせて、国を変えていくのが外交であり政治である。人類がお互い助け合って、救いあって、霊的に向上する、という天使が導く進化の流れに沿っていく、のは言うまでもないが、現代はその岐路に立っている、といえる。 それはエゴが権力を手に入れて日増しに増加しているためである。権力を拡大する為の統合は人類を破滅に向かわせ、それに関わった人たちを地獄に落とすが、助け合いのための共同体や共有概念の拡大であるならば、人類の学びになるはずである。いま国の原点が問われつつある。 上に立つものが下々の生活の土台をつくる、というのは、キリストが最後の晩餐で弟子たちに行ったことである。 移民の受け入れについては、その踏絵となるだろう。移民を受け入れ助けられるゆとりの精神があるかどうかが国に問われている。つまり政治家の能力が問われている。権力の拡大しか頭にないのは政治家失格の烙印を押されるだろう。 国というのは人類に互いに助け合う精神を呼び起こすためのものだからである。 さて、司馬遼太郎氏の本で読んだと思うのだが、戦後、ソ連と米国が、日本軍を評価したところ、兵は優秀、下士官は並、将官は愚劣、という一致した見解が出たという。 現代におきかえても、一般人は優秀、官僚は並、政治家は愚劣という風に、この見解は当てはまっている、といえる。 経験に乏しく、どうみても無能なのに、家柄や門閥などで、官僚や政治家になれる、というのが問題なのである。 それでも官僚は学歴重視の傾向にあるが、学歴については、既知の知識の収集家であっては、人心を掌握できないどころか、未知の領域で創造活動を行う事はほとんど不可能なので、せめて研究歴を加味しないと片手落ちである。 無能者が国の重要なポジションにつけば、おかしくなるのは当たり前で、歴史からもわかるが、そのようにして国は滅んできたわけで、太平洋戦争敗戦で、現に、この国は分割されそうになったし、いまでも米軍に駐留され、米国から独立しないように監視され、傀儡政権を置かれ、沖縄問題を見れば明らかだが、独立国の体をなしていない。 さて、幕末に、勝海舟が渡米して帰ってきて、上官に向こうの様子を聞かれたところ、米国も日本もさほど変わりはないが、違うところは、あちらは上に立つ者ほど優秀で賢く、この国とは逆だ、と述べたところ、この無礼者!と叱られた逸話が残っているが、この国の体制は、江戸時代から変わっていないようである。 どうして、この国は表向きの看板は新しくなってはいても、中身の精神性などは、中世から変わっていないのか、改めて考えさせるものがある。 それは日本人の偽りの家系図づくりに現れているように、ゴマすりが出世する世界と考えられるからである。明治維新をみればわかるが、明治の元勲などと称されてはいるが、ゴマすりで出世した売国奴が多い。その代表が、山県有朋で、伊藤俊輔なども、ゴマすり極悪人である。 いまでもダマスゴミをみれば、政権の提灯持ちの記事ばかりで、政権の広報機関と化している。真実を伝えようとする気概など皆無で、権力者のいいなりで、権力者もろともに地獄に落ちるのが容易に想像できる。 八切史観を学べば、その源流はどうも白村江の戦いにあるらしい。大陸からきた藤原氏が、戦後のGHQのように全てを支配し、原住民を奴隷化した歴史からきているようである。 藤原氏の食糧調達のために、原住民のなかで無抵抗な者が選別され、農奴とされ、藤原氏のカースト制度に忠実な上等(浄土)宗教が、寺をつくり戸籍で管理した。原住民のなかには山河に隠れ、抵抗した者もいたので、用心棒が必要になり、藤原氏が朝鮮の新羅、百済から連れてきたのが独立し、武家になった。 藤原氏の内輪もめに乗じ、原住民が独立をはかり、抵抗した大きな争乱が、北条政子の「いざ鎌倉(朝廷打倒!)」であり、南北朝の後醍醐帝の楠木正成であり、戦国時代の織田信長で、明治維新の西郷南洲である。だから、昔からこの国の上層部は親中で、親大陸政権なのである。 西洋もその事を知っていて、中国大陸侵攻の足掛かりの橋頭保を確保するために、日本に、西洋のスパイである宣教師を頻繁に派遣した。 八切史観によると、古代の日本列島は8つの政権にわかれていたという。白村江の戦いの後、大陸の傀儡政権として、藤原氏を中心に大陸文化の広報活動の下に、カースト制度で統治されていたそうである。 それでも原住民による何回かの争乱があり、いまでは農民一揆とされているが、戦国時代をみればわかるように、この国は、多民族の地域ごとに入り乱れた多様な統治体制だったことがわかる。 例えば、鎌倉時代には、西の公家政権と、東の武士政権があり、元寇は神風で撃退したのではなく、同じモンゴル系原住民政権の北条氏への加勢出兵であることがわかる。だから北条時宗は帝を無視して、西の政権を弱体化させたのである。鎌倉幕府こそ正当な日本の総督府というわけである。 また、この事からもわかるが、後の徳川氏の公武合体策は、鎌倉幕府の朝廷弱体化懐柔策の焼き直しである。鎌倉幕府が失敗したのは、朝廷は男性上位で、鎌倉幕府は原住民の風俗なので、女性上位なため、朝廷の反発を招いたものと思われる。 鎌倉幕府が女性上位なのは、北条政子が実権を握っていたことでもわかる。源義経が兄頼朝に追放されたのは、北条政子の命令だったのだろう。 この公武合体策は、江戸時代には、大奥という巨大組織により、幕府内輪もめの要因となる。大奥という組織ができたのも、原住民出の信長、秀吉、家康が政権をとったので必然といえる。 信長は斎藤道三の娘の奇蝶に頭が上がらず、本能寺の変の遠因(当時は光秀でなく、奇蝶が主犯とみられた。なお八切史観では、主犯は家康、実行犯は斎藤利三。)となっている。 ちなみに、奇蝶の記録がほとんど残っていないのは、秀吉が光秀犯行説にするために、目ぼしき史料を焼いたためだという。ちなみに、幕末の西郷の写真も残っていないのは、下野したときに西郷自身が集めて焼いたためだという。 秀吉も、浅野家の娘の寧々に頭が上がらず、寧々は北政所となり、家臣の人質を世話し、後継ぎの有力家臣にしたので、織田家再興を願う市の娘の茶々を秀吉が側室の淀にしたため、秀吉亡き後、豊臣政権は北政所派と淀派の二手に分かれ、関ヶ原の戦いの要因となった。家康は女性の情報収集能力を見込んで後家を側室にして、ついには北政所を懐柔し、政権を奪取した。 北政所にしてみれば、豊臣政権は秀吉ではなく、自分がつくったといいたかったわけで、現に有力家臣は木下や浅野家の親戚でかためられ、秀吉の親戚といえば、弟の秀長くらいである。 秀吉にすれば、秀頼は北政所への唯一の抵抗ともいえ、現に北政所は、関ヶ原では、家康に味方しろと小早川秀秋を東軍に寝返らせる位だから、実際は、北政所と淀の女の戦いだったのがわかる。 北政所の立場に立てばわかるが、秀頼が誕生したため、秀次が割を食って、関白から外され、死に追いやられた恨みもあったのかもしれない。 織田政権でも、似たような派閥の尾張派と美濃派があり、美濃派の筆頭が奇蝶で、尾張の筆頭が信忠だった。信長を織田家の後継者にし、父道三の美濃をとらせたのは自分という自負心がおそらく奇蝶にはあっただろう。 派閥争いで、尾張の佐久間信盛、林佐渡と、美濃の奇蝶の右腕だった安藤伊賀が追放されると、今度は自分の番だと早合点し、安藤の次の側近の斎藤利三に、信長を討たせたとも十分考えられ、実際に信雄は、本能寺の変の下手人は、奇蝶と断定し、安土城を落城させ、口封じにし、秀吉の光秀謀反説を援護した。 織田政権、豊臣政権の滅亡の過程をみれば、女性上位なのは明らかである。 原住民の女性上位の風俗からみると、男性は看板で、女性が実権を握っているのがわかる。 現代でも「神輿は軽い方がよい」というような言葉があるが、大陸から来た進駐軍の傀儡政権が、原住民の風俗に取り込まれるうちに、上層部は単なる看板にすぎなくなり、正室が奥方といわれるように、黒幕が裏で実権を握り、支配し、下層民は奴隷というような体制ができあがったようである。 いまでも上級国民というような表現がでてきたように、この国は上層部と下層民に分けられている。 江戸時代になると、大奥に気に入られた老中が実権を握り、将軍は単なる看板となり、公武合体が進むと、朝廷までもが看板となった。このような日本史の背景がわからないと、幕末の攘夷運動の意味がわからない。 ちなみに江戸幕府の創業当時は、女性上位であることが、三代将軍を決める際の、春日局の福と秀忠正室の江との権力争いからわかる。 八切史観によると、2代将軍秀忠の正室の江は、織田家の血をもつ縁からか、家光が春日局の福の子で、父は天海(光秀の子光慶)であるのを知っていたようだが、家康の命を狙った信長の織田家の血を、家康が残したくないために、秀忠に本能寺の変の真相を話し、家光を3代将軍にした後、家康は不自然な死を遂げた。 徳川家が春日局の福と天海に牛耳られ、家光の代から斎藤家に乗っ取られ、更に家光が京都に上京した帰りの男色漁りが祟って、その相手が女だとわかり、それが後の綱吉の母の玉となるが、実は済州島の出だとわかり、徳川光圀などから5代将軍を決めるときに大反発を受けるが、朝廷に取り入って将軍となった見返りに、玉は西側の朝廷仏教勢力に有利な生類哀れみの令などを綱吉にやらせた。 生類哀れみの令がなぜ西側の仏教勢力に有利かというと、東側の神仏習合で神道と一緒になった薬師寺系の仏教徒には、原住民が多く、生物の毛皮や肉を扱うことで、生業をなしていたので、生物を殺せなくなり、生業を失って、治安が乱れ、景気が後退し、東側の寺社への寄進が少なくなり衰退していったからである。 だからせっかく原住民の出の家康が天下をとったのに、綱吉の代で再び西側の朝廷勢力の巻き返しで元の木阿弥になったが、このときの鬱憤が、幕末の攘夷運動と一体になって、原住民勢力による討幕運動に進む。 幕末、東側の原住民の頭目の弾左衛門が、原住民の身分制度撤廃を条件に、西郷南洲と約束して、薩長軍に味方したという。明治維新がなって、農地改革の下に、農奴は、寺の戸籍から解放され、積年の恨みから、廃仏毀釈が行われた。 では、いつごろ女性上位から、いまの男性上位に変わったかというと、江戸中期の、綱吉の元禄の大消費文化で、綱吉の母玉による、春日局福のような権勢に、恐れをなした老中の柳沢吉保は、大奥の評判を貶めて、大奥から老中に権力を移し、公武合体策とともに、幕府を女性上位から男性上位に移行したそうである。 そして、幕末になると、西洋は中国侵攻を狙い、日本をその橋頭保にするため、大陸の上海と、沖縄を海運の起点とし、薩摩と長州藩に食指を伸ばし、終いには懐柔に成功する。 親中で、親大陸が伝統の孝明帝は、この西欧の植民地政策の流れに反発し、幕府が独断で米国のペリーに下田港を使わせたことに激怒し、攘夷を訴え、徳川斉昭の運動もあり、斉昭に勅諚を与えるが、斉昭嫌いの大奥の運動で、井伊直弼に先手を打たれ、安政の大獄で、斉昭は隠居させられ、政権から慶喜は排除される。 しかし、この井伊の安政の大獄はかえって諸藩の恨みを買い、この後、慶喜の長州を抱き込んだ巻き返しがあるのだが、結局、長州の裏切りにあい、徳川幕府は滅亡する話は長くなるのでまた次の機会にしたい。有名なフルベッキの写真に関わる話で、色々調べたところ、この写真は、慶喜が上野彦馬に撮らせたもののようである。 というわけで、正史とされているのは、非常に怪しいということである。以下に八切史観を紹介しておきたい。 ★ ★ ★ 史疑・徳川家康 (八切史観) 【紹介者・注】 この一連の徳川物は、以前歴史会議室で議論されたものを、加筆訂正してここに改めてUPするものである。重複する箇所も多いが何卒御容赦願いたい。 現代、家康を尊敬している人間は非常に多く、彼の生き方を経営戦略の手引きとしている本もある。しかし、ここに敢えて水を差すような一文を書いたのは、事、日本史に関しては相当の碩学といえども、既成概念が強く、なかなか文部省歴史から脱却できないという現実が在るからである。以下に書かれている内容に驚かれ、反発されるも御自由です。しかし、人類の生活が大きく変わろうとしている今、この国の現状はどうでしょう。 今こそ新しい、高い目線で”新史観”が必要ではないでしょうか。それには勿論隣国の韓国や、中国との歴史の「スリアワセ」は不可欠す。さすれば日本は何時までも過去の呪縛から脱却出来ないでいる、「自己悪逆史観」や「お詫び史観」から脱却できると想うからです。さて、家康は天下を平定するまで随分と邪魔者を殺しております。 しかし時は、人肉を食べるまでに追い詰められた悲惨な時代でした。古今の英雄で「殺し」という行為を成さなかった人物は少ないでしょう。弱肉強食の中世にあっては、致し方もなかった事でしょう。父親に去られ、母親に売られた幼い家康は辛酸をなめました。戦乱で百姓も疲弊し、庶民も貧困のどん底の状況を見て育った家康は、徒手空拳の一介の土民の身から革命を志し、「おりゃあ、偉くなったる。世直しせなあかんぎゃあ」と、同じ虐げられた仲間を糾合して、ついには徳川政権を作りました。 そして家康は同族を解放し差別の撤廃を断行しました。これは立派な事です。これは秀忠の時代まで続きます。(現代で言えば、お上から搾取され続け、ただ黙々と体毛を剃られるため、働き続ける羊のような従順なサラリーマンを団結させ、政権を奪還するようなものでしょう)しかし、三代将軍家光の時から家康の意志は踏みにじられ、これが幕末まで続く事になる訳です。即ち、現代にま尾を引く差別問題です。(以下から、どうぞこのイントロ部分を頭の片隅に置いて読んで下さい) ●徳川家康について、明治三十五年四月十八日、村岡素一郎が『史疑徳川家康』を東京の民友社から出しました。八切説でも「家康二人説」ですが、明治史学界は『松平記』を出してこの説を封じ込んだ。しかし、明治の学会でも村岡説に同調というか、理解を示したような学者は皆無だった訳ではない。時の内閣修史局編修官東京帝国大学教授、重野安繹博士がそれである。博士は『史疑徳川家康事蹟』の刊行に際して序文を書き、 「東照公は幕府の烈祖三百年の基業を開く。世にその事蹟を云うる者粉飾避諱なき能はず。仮に豊臣氏の子孫歴世絶たざりしならば、則ちその太閤微賤の時を伝ふる、未だ必ずしも今日の史上の如くならざりしならん。流離関関、変故百出、而も功業を意料の外に成す。古今の大豪傑皆かくの如し。何ぞ独り東照公を怪しまんや」といっています。さらに「もし豊臣秀吉の子孫が現存し公爵にでもなっていたならば、やはり秀吉の卑賤な素性を糊塗し、先祖を藤原氏か源氏に持っていったであろう。だから家康もそのような工作を試みなかったとは言い切れぬ」と述べています。 また南条範夫著「三百年のベール」によれば、重野博士は村岡説に対して、「自分も徳川氏の出自が新田源氏だなどということは全く出たらめだと思っていた。しかし家康自身がささら者の倅だとは夢にも考えていなかった。全く驚くべき新説である」と批評し、村岡が「史実として成立し得るとお考えですか」という質問に対しては、「いやそこまでは断定できない。今君の挙げた全資料を自分は同じくらいの反対資料で片端から反駁できる」と答えた。 しかし、「自分の出来る限りの反論の方が正しいか、君の立場の方が正しいか、それは今のところ何ともいえない。徳川幕府は二百七十年続いたのだ。開祖家康についての不利な資料は悉くこれを破却し湮滅させた。公的、半公的な徳川氏の歴史は粉飾の極を尽くしたに相違ないし、又民間の史的述作も徳川氏に極力おもねってきたであろうことは疑いない。してみれば、君の立場もその粉飾され阿諛されつくした歴史に対する爆弾的宣言として大いに意義がある」ともいったという。ここまで理解していて尚かつ「松平記」を正史としているのですから、一体明治の歴史家と称する人達はどうなっているのでしょう。 (この辺は鹿島史観の「国史大儀」では「明治のボンクラ学者」と痛烈に批判してます)何といっても、明治史学会は華族会がスポンサーでしたから、致し方も無かったのでしょう。「学者の良心という概念」もこの頃には未だ無かったのでしょう。と、同情します。まあ考えて見れば、彼らは明治政府の親衛隊的存在の側面がありますから、重野博士の言っていることを良く解釈すれば、天皇家周辺の権力者に極力おもねった歴史を作った事実を、自嘲しているようにも思えます。 【家康二人説】(1) さて、この資料は公開されたのだろうか?また、いわゆる歴史家との討論はなぜなされていないのだろうか?不思議なところである。八切先生は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をフアンに限定販売や無料贈呈しました。明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。これらは古書相場十万から八十万です。先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。 嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。勿論、活字本になっているものも沢山在ります。 現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。 だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。酷い人間は「とんでも本」と侮辱しています。日本はまさに巨大な”偽史シンジケート”が牛耳っているのです。以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏の週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。 リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。 だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もせずこれらは無視です。そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっています。何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが以前、官学理系の助教授と話していたら「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。 「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。現在、日本的システムの世界化が急務ですが、21世紀を見据えた、大学改革も含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。 前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書ー国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です ○家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します。 次郎三郎は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。 さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。 次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。 しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。 つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこの間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。 是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、 為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩於尼公、従幼至志学之後、 「既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、 使人送葬干此然是行 戎役未息墳墓唯為封而己、(旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略) 龕 慶長十四年春三月 大將軍 翁 印 さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、 「禅尼(源応尼)がこのことで思い痛め心配した」という一句である。家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。 さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。 しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。 竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。 しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか?と疑問が生じる。俗説の家康がこれでは八歳で変てこでだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。 だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸(信忠)、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。-------------------------------------------------------------------------------- つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。 だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく(これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑である)と、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。 だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。 これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、 これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」と、既に元禄時代にこれを注意している。つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。 【家康二人説】(2) 石が瀬合戦から、森山くずれ、さらに武田信玄は、「家康、元康別人知悉説」までを箇条書きにしてみます。 遠州服部村の鍛冶屋の家を溜まり場にして、弓矢を鍛えさせ、武具を整え人集めした若き日の家康は、この天下争乱の時一旗上げようとした。だが今川義元亡きあとの氏真は出て戦わず、尾張の信長も勝って兜の緒をしめよと清洲城から動かない有様。そこで業をにやした家康は中に挟まれた弱体の三河を奪い盗ろうとしたて、遠州から矢矧川の上流を渡って攻め込んだ。この時松平蔵人元康は放ってはおけず、これを石が瀬の原で迎え撃った。 しかし何といっても、松平党は長年にわたって父祖の代から君臣の間柄。一方家康側は烏合の衆である。正面衝突してはとても松平党の敵でなく、負けて降参してしまう。降人した時家康は松平の家来にされるような話しだったが、抜け目のない家康は直ちに山中城を攻め、城主の松平権兵衛重弘を追って自分が城主となってからは、もう元康の家来ではなく合力衆のような形になった。刈谷城の水野信元を攻めた時など、岡崎勢の先手となって十八町畷まで押し寄せて戦った。ついで家康は元康に協力して野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ケ坪の砦と火を付けて廻ったから、元康も喜び「この分なら織田信長を攻め滅ぼして人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう」と、桶狭間のあった翌年の十二月四日、合力の家康や三河党をもって尾張に入り、岩崎から翌日は森山へ兵を進め本陣を移した。処が、その陣中で、粗忽な家臣の為に、元康は間違って討たれてしまった。仕方がないのでひとまず陣をはらって退却ということになった。 これが世に謂う「森山崩れ」だが、討ち果たされたのは、永禄三年より二十六年前の天文四年のことで、討たれたのは元康の祖父の清康と通説はなっている。しかし天文三年なら、信長の父織田信秀が岡崎城と目と鼻の先の安祥の城まで確保して、三河の半分は織田の勢力に入っていた頃、どうして岡崎衆が入りこんで尾張の森山へ陣取りなど出来るだろう。この頃の信秀は小豆坂合戦で今川や、松平を撃破して”東海一の弓取り”とうたわれ、尤も威勢の良かった時である。だから、それまで互いに戦いあっていた二人が、合併してその時から一人になる。 つまり松平元康が急死したので、当座しのぎの恰好で家康が後始末する為、元康の後釜に入った。ついで、尾張の熱田に居た、信康を取り返すため、家康は元康の死を隠して、まんまと顔の知られていない事を奇禍として、自分が化けて代わりに乗り込み、清洲城で信長と談合して起請文を入れ和平を誓い、信康を戻して貰った。その手柄を買われて松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち回り、幼い信康の後見人に収まり、やがて松平党を、その属とした。(ここは大事な処なので重複するが詳細に記しておきます) 殿様の松平元康が誤って家来の阿部弥七郎の手に掛かって急死した、岡崎城では跡目の信康がいないから困った。その時三州山中城を自力で乗っ取り、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿の身代わりに仕立てい」と言えば、松平党の面々は「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」と、賛成したものと思われる。だから、諸説は色々あるが、家康、元康の入れ替わりはこの時になる。 そこで、まんまと松平元康ん化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へ乗り込み、三河と尾張の攻守同盟を結んで、熱田に居たか、清洲に居たか(大須万松寺天王坊の説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は、既に何百と私兵を持った大勢力だったから「この儘で、元康様が成人の時まで後見人」ということになった。時に家康二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのは少し早いいが、何しろ苦労してきたので、ませた風采をしていたのだろう。だから信長もこの時は、永禄四年から毎年美濃へ攻め込んでは負けていた矢先であるし、まんまと尋ねてきた松平蔵人元康(家康)を本物と思ってしまい、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、東隣の三河と和平をした。そして足かけ三年も尾張にいたのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の倅らと仲良く遊んでいる様子に、その頃生まれた女の子に「信忠、信雄、信孝信康も加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と初手から嫁にやる気で五徳と名ずけた。 その縁談も信康を戻す条件として家康に持ちかけたものだろう。この時家康は一時の便法でまんまと信長を欺き元康に化けたものの、どうせ信長などたいした事はない、その内誰かに滅ぼされるだろうと、高をくくっていたが、これがどうして、頑張って美濃も攻略し稲葉山の井ノ口城をとって大普請し、岐阜城と改名。こうなると家康たるもの、化けの皮が剥がれて瞞していたことが判ったらどうしようと戦々恐々とした。よって元康と家康が別人であったなどという証拠は、ことごとく湮滅させた。だから、三河の一向門徒の騒動とは、 所詮は家康が元康に変身した為に起きた宗門争いである。というのは、三河岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手を組んでいた。そこに、野州二荒別所から、駿府の久能別所にいた家康は、その家臣達も大久保党は七福神系、本多一族は白山神社系。 榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子。酒井一族は修験者あがり、といったようにどれもが神信心の者達で占められている。時はお寺とこれらの社は仇敵同志の世の中である。反目している内に・・・・先ず岡崎城で、亡き松平元康の家老であった酒井將監が松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して猿投山中へ逃亡した。 ついで昔は城代までしていた三木領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきて明大寺合戦で一族もろとも家康に皆殺しにされている。この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲され全滅。そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢から来ている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、一向宗の力を借りたゆえ、表向きは一向宗騒動となったのである。 その後は三河岡崎城では最早家康に楯突く松平衆は居なくなった。家康に忠誠を誓う者は、松平姓でもそのまま許され懐柔策はとられていた。しかし合戦の時は徳川衆は「東三河衆」と呼ばせて、これを酒井忠次に率いさせ、いつも危険なところや先陣は石川数正率いる「西三河衆」を使った。たまりかねた石川数正は小笠原秀政らを伴って徳川を見切って、太閤秀吉の許へ走ってしまったのである。 【家康二人説】(3) <<武田信玄は家康の正体を知っていた>> 上州。ここは当時、榛名山麓箕輪城長野信濃守の勢力範囲で、厩橋城の長野左衛門が世良田辺りは押さえていた。処が天文二十年の大洪水で、それまで北を流れていた利根川が今日のごとく前橋の西へ変わったから、関東管領として上州平井城にあった上杉憲政がこれまでの天険の防ぎを失い、やむなく越後の長尾景虎の許へ逃げ込んだ。そこで上杉の姓と管領の肩書きを譲られた景虎(謙信)が、関白近衛前嗣卿を伴って上州へ攻め込み厩橋城を占領。そこを近衛卿の城として、関東制覇のため小田原攻めを敢行した。 永禄四年九月十日が川中島合戦になるのだが、謙信は小田原攻略に失敗したので、近衛卿が帰洛した後は、北条(きたじょう)高広が景虎の命令で厩橋城の城代をしていた。が、永禄六年十一月になると、武田信玄がこの城を力攻めで奪った。そこで上杉方も放っておけず取り返した。三年たった永禄九年に、箕輪城を落とした信玄は又も厩橋城を奪った。そして今川義元亡き後の駿遠二カ国もついでに己が領国となさんと信玄は企てた。 信玄は本願寺裏方の姉三条氏を妻にしている立場を利用して、当時一向宗と呼ばれた石山派の僧たちを、住民宣撫工作に招いた。元亀二年の織田信長の比叡山焼討ち後は、英俊、亮信、豪盛と呼ばれる延暦寺の名うての僧たちも、焦土と化した山を下って、信玄の庇護を求めてきた。そこで信玄は彼らを<宣撫工作班>として信州、上州の各地に派遣し寺を建てて近隣の住民を集め「信仰は御仏、領主は武田」といった説教をして聴かせた。この武田の進出に怖れをなしたのは徳川家康である。 自己防衛のため織田信長と攻守同盟を結び、元亀元年十月には「上杉家文書」「歴代古案」によれば、越後の景虎の許へ音物(金目の贈り物)をなして、同盟を結び信玄に対抗した。しかしそれでも武田の仏教宣撫班が、「武田の権僧正鬼より怖い、どどっと来たって、どどっと斬る」といった触れ唄を御詠歌調で口から口へ流すのには閉口した。何しろ幕末まで、この地口は伝わり、「甲斐の吃安、鬼より怖い。どどっと吃れば人を斬る」と転用される程だから、その当時にあっても、権僧正の位をもつ武田信玄の威名は鳴り響いていたのだろう。そこで家康は、今は仏法僧で名高い愛知県挙母鳳来寺の猿女と呼ばれる者たちの居る薬師寺に対抗策を講じるように求めた。 現代で謂う”宣伝合戦”である。そこで「家康こそ何を隠そう、鳳来寺薬師寺十二神將の一体の生まれ変わりである」と説いて回った。後には関ヶ原合戦で薬師寺系の大名を皆寝返りさせた程の実力のある全国的な組織ゆえ、「かしこまって候」と、鳳来寺から各地の医王山へ司令が飛び、それぞれの修験者達が家康のために武田に対抗した。 【紹介者・注】 武田の一向宗、つまり後の浄土宗や真宗の本願寺派は、西方極楽浄土を説くのに対して、薬師寺医王派というのは、白衣を纏い、正反対の東方瑠璃光如来、を教える東光派である。教義がまるで逆で、墨染めの衣を纏って読経するり、修験、修法を旨とする白衣派であり、「武田一派の本願寺派を折伏せん」と各地から動員されたものである。 こうして双方が宣伝合戦をしている内に、信玄は妻の義弟本願寺光佐の合力でまたぞろ出兵してきた。越中、越前、加賀の一向宗の勢力をもつて、越後の上杉景虎を防ぎ後顧の憂いをなくしたからで、やがて美濃岩村城を落とした信玄は遠州二股の城も降し、二万五千の兵は家康の浜松城めがけて殺到してきた。 家康は十二月二十二日、夜明けと共に、三河岡崎勢を前発させ、遠江勢を己の旗本として全軍を率いて浜松城を出ると、秋葉街道を南下してくる武田勢に向かった。が、あまりの大軍に驚き取って返し、籠城の支度をした。武田勢は姫街道の西へ出て追分けで北方へと隊列を変えた。家康を討つ胆なら、眼前の浜松城を攻撃すべきなのに、信玄はそうはせず、全く無視して三河岡崎城へ向かおうとしていた。さて、現在のように徳川史観そのままの「松平竹千代が成人して松平蔵人元康になり、それが姓も名もやがて徳川家康に 改名した」といった伝説を鵜呑みにしていては判らない話しだが、当時の武田信玄は、(松平蔵人が誤って森山で斬殺されたのを奇貨として、後家の築山御前めに近よってその倅の岡崎三郎信康めを籠絡、家康はまんまと替玉を勤めている。が、今や当初の約束は守らず、成人した信康に三河を返すどころか横領せんと企てている。 よって戦のたびに最前線に出され、損害の多い松平譜代の石川数正らは堪まりかねている。故に、三河を攻めて彼ら旧松平の者らを解放することこそ、街道制覇の焦眉の急である)と全軍を向けんとしていたのである。さて、前記したが、もともと三河は一向宗の地盤である。だから、不慮の死で急逝した松平蔵人元康の身代わりとなって、世良田二郎三郎(家康)が岡崎へ入って来た時、薬師寺派の彼に激しく抵抗した。やむなく家康はその与党を率いて、一向宗徒と提携した三河松平党の征伐をした。しかしとても完全に征圧できぬと知ると、家康は引馬城を増築して浜松城とし、さっさと岡崎を引払ってそちらへ移り住んだ儘である。そしてその後はあまり三河へは寄りついていない。 だから三河の土民や地侍達は、「三河解放」を豪語して信玄が乗り込めば、残存一向宗の者らと共に歓迎し、瞬時にして武田方へ靡くのは目に見えていた。だから、名を取るより実をとれと信玄は、目の前の浜松城をまるっきり無視し、この時三河へ向かうとしていたのである。そこで、閉じ籠もっていた家康も、(この浜松城へ攻め込まれんで助かった)と、ほっとするよりも、三河へ入り込まれ住民を煽動されたら大変であると周章狼狽。すでに日没になっていたが「追い討ちをかけい」と城門を開かせた。「三河物語」の中で、大久保彦左衛門は、 「家康公は浜松城から十二キロの余も撃って出て武田勢を追いかけた。もっと真暗になってから奇襲を掛けたら、勝利を得たかも知れないが、三河へ行かれるのを恐れてはやりすぎたので、薄暮の中で捕捉され失敗したのだ」と説明している。つまり、この三方原合戦で、家康は完膚なきまでに敗れ、また浜松城へ逃げ込んでしまい、勝ち誇った信玄は三河の大野へ出られる細江まで一気に進出した。しかし、信玄は瀬戸城に入って越年し、雄図空しくここで病没してしまう。 【紹介者・注】 信玄は一向宗の僧達を自在に使い、己の宣伝をすると同時に、他国(駿河、遠江、三河、尾張など街道沿いの諸国)にも一向宗の勢力はあるので情報収集もしていた。だから家康が元康の替え玉だ、ということも判っていて、己の兵力温存の意味からも、浜松城を力攻めせず、こうした合理的作戦を採ったのだろう。「加越闘争記」巻一の始めの書き出しにも、はっきりと、「是則ち、仏法は大魔にして、武士の怨敵なり」とでているぐらいで、元亀天正の頃は、徴税つまり年貢を取り課役を言いつける施政権の奪い合いで、仏教徒と非仏教徒の武士は不倶戴天の仇敵同志だったのである。だから、この時代を宗教闘争、民族闘争として捉えれば理解できる。 【紹介者・補記】 さて、八切史観で家康、松平元康を解明すれば以上の様になります。従って松平の血脈は信康(竹千代)で断たれ、松平一族は悉く殺されています。 そして、松平の「姓」は徳川に従うという意味から”属”とされ、大名にもこの姓を与えている。武鑑を見れば、九州の島津も、東北の会津も松平姓で、この姓は多い。だから、徳川秀忠と御台所(江与の方・信長の異母妹、於市の末娘で信長の姪御に当たる)の間に生まれた国松(駿河大納言忠長)には、織田の血が流れているというので、徳川姓は名乗らせず正式には”松平忠長”である。-------------------------------------------------------------------------------- 「右は神君大御所駿府御城御安座之砌、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書拝写之 忝可奉拝誦之者也秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 左大臣同 御次男 国松君 御腹 御台所 駿河大納言忠長公也 従二位 」とあるこの確定史料は現在内閣図書館に秘蔵されている<内閣蔵本>の<慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文>というのがある。 これは明治四十四年刊の国書刊行会のものに<当代記><駿府記>といった、徳川史料のものと並んで活字本で収録されている。これによると、生母が春日局と御台所との相違をはっきり出している。が、父の方は、忠長の方は明白に御二男としてあるが、家光の方は御長男、とせずに、御嫡男の文字を当てている。現代では”嫡出”といった用語もあるが、この時代は”猶子”といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決まると、<嫡出>とか<嫡子>とか書かれたものであって、一男とか長子という文字が無い限りは、その長男とは認められないことになっている。 これは当時の<陰涼軒日録>や<御湯殿之日記>にも、「嫡男とは長男とは違い、他から入って嫡男となり、そこの倅共と争う事など」と残されている。さて、家康~秀忠~家光~家綱~綱吉と続く徳川家であるが、 八切史観では秀忠は鍛冶屋の平太の娘、おあいの子(後の西郷の局)で、家康直系。家光も於福(春日局)に産ませた家康の子で、秀忠とは異母兄弟である。この春日局は本能寺で信長を襲った一万三千の軍勢を率いた斉藤内蔵介の娘なのである。当時於福は稲葉八左衛門の妻で四人の子持ちであった彼女を探しだし、夫の稲葉には五千石の扶持(手切れ金)を与え、夫婦の縁を切らせた。これを伏見城に連れてきて仕込んだ子が家光その人なのである。 (しかし、知らぬは本人なりで、家康は家光を自分の種だと思いこんでいたが、本当の父親は天海僧正らしい。これは「八切裏がえ史」や「徳川家康」「家康は世良田徳川の生まれ」の本に詳細。) 【紹介者・注】 何故に於福の産んだ子に徳川家を継がせたかの謎も、これ全て「信長殺し」に起因する。徳川史料を鵜呑みにして家光を秀忠の子とすると、何も判らないが、徳川家では家光を秀忠の子としないことには、まずかった理由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、神徒系の徳川家が全く仏教系に変貌してしまい、<神仏混淆>と言う時代に変遷してゆく為の糊塗策とも見られる。 【引用参考文献】八切止夫著「徳川家康」「家康は世良田徳川の出身だった」「元禄太平記」「徳川家康は二人だった」 駿府政事録・大日本国駿州城府分時鐘銘・駿河誌・武徳編年集成・城塁記事 世良田二郎三郎のこと 現在徳川物で広く流布されているのは、山岡荘八の「徳川家康」ですが、これの底本と言うか、下敷きになっているのは「松平記」です。これが問題なのです。政権が変わると前体制の悪政を暴露するのが通常です。家康も豊臣の生き残りを九州へ送り(豊臣松園)といった特別部落名さえ今も残ってます。 だから徳川慶喜は「明治の世代わりになっても、徳川期のことや、家康が部落出身だったことは絶対に蓋隠すること」を条件に、金のない新政府に三回にわたって献金した。さて、明治になって新政府は徳川慶喜に対し「汝その祖崇の地へ戻るべし」と駿府七十万石に戻され、やがて公爵になり、華族会の会長になる。「華族は皇室の藩屏となす」との明治大帝の勅によって明治十六年七月七日から徳川はまた権勢を回復してしまう。 それまで徳川時代の真相を暴露しておけば良かったが何しろ新政府は学のない軽輩ばかりで天下を取った喜びで酒食に溺れ、明治七年の佐賀の乱からは治安維持に追われていた。現代でも政権党になれば、地元に国家予算を分捕り、利権に預かる政治屋が多いのは慨知のことで、この国は明治以来政治体制はちっとも進歩していません。閑話休題。 だから徳川時代の事を調べ直す暇もなく神祇省廃止で当時の歴史家に当たる国学者も追放され関知出来ずでした。長州御傭い学者リースが、日本での博士号設定の時、学士会が設立され、これに権威を持たせるため華族会の下に入れ、その指示を受けるようになった。だから筑摩書房の「明治史論書」にも入っている村岡素一郎の「史疑徳川家康事蹟」が明治三十五年に徳富蘇峰の民友社より刊行されるや狼狽し宮内省華族会によって買い占めて絶版となった。だがこの本も大変な労作だが「三河後風土記」よりの引用が多すぎる。 しかもこれは贋本、贋系図造りの名人、元禄時代の沢田源内のもので、「松平記」も源内作だからこれを根本史料とした山岡荘八の「徳川家康」はまるで実像が違います。さて前段が長くなりました。本題に入ります。世良田二郎三郎が徳川家康なのです。 「本多元孝譜」に「永禄四年十一月一日には元康の御名で手紙類を出されていたが翌五年八月二十一日よりの送信や文書からは家康と改められた」と、当時の秘書役に当たる「物書き方」だった当人がはっきり書き残しているし、これは徳川家公認の指出系図を集めたものだから「まだ徳川初期の寛永年間にあっては、上州新田郡世良田村の二郎三郎という者が、神君東照権現にならせ給うまで、初めは元康と名のられたが、直ぐ翌年夏からは松平家康。次ぎに上下とも変えて徳川家康とならせられた」というのは公認されていた事実のようである。 この徳川という姓は、上州新田別所出身の新田義貞の生き残りの一族が、世良田、新田、日光、徳川と分かれ、元禄年間より本家は、新田を蔭姓として岩松と変わったが、代々、徳川家へ系図を貸してやり手当を貰っていたが、幕末、皮肉なことに徳川家が倒れると今度は本家の岩松満次郎が先祖の功により「新田男爵」となった。 また、元禄年間以降に編まれた徳川家の歴史では「松平清康ー広忠ー元康」となっているが、岡崎の大樹寺に葬られている広忠には「瑞雲殿広政道幹大居士」となっていて慶長十六年の寺の過去帳では、広忠の供養のため建立された寺だから「大樹院殿大居士」となっている。一人の松平広忠に二つの法号は変だが、同じ岡崎の松広寺にも広忠の墓があって、そこでは「成烈院大林寺居士」とあるし、その他にも「滋光院大林居士」の法号もある。 一人の死者に狭い岡崎の内で四つも戒名が有ると言うことは複雑すぎる。これは松平元康が徳川家康になったという元禄以降の仮説をもっともらしくするためには、「元康の墓や戒名が在ってはいけないから、四つの戒名を一つにして広忠にしてしまった」のだろう。これでも家康と松平元康は別人だということが判る。つまり本物の元康は家康の前身とされてしまったばかりに、戒名も墓も判らなくさせられている。 俗史では家康が三河へ入ると一向一揆がおきて、三河武者の大半がそれに荷担して家康に反抗したとなっているが、この真相も、「他所者を追い払おうとした当時のレジスタンス」であろう。何しろ家康になってからの二郎三郎は松平一族の長老の松平蔵人信孝を明大寺村で殺し、鵜殿康孝も殺し、松平好景も明丹宮で殺し、松平一族は殆ど全滅させている。そして全然無縁の連中に改めて松平姓を付けて糊塗したり、やがて本物の元康の子の「岡崎三郎信康」が成人すると、これに三河一国を返すのが惜しくなり、武田へ通謀ということにして、うるさい築山御前と共に始末している。俗史では、信長が、我が子に比べ三郎信康が利口なのをやっかんで、家康に命じて殺させたと言うが、本当の妻子だったら家康も殺すはずがないし、信長もそんな命令など出す訳がない。 この岡崎三郎は信長の猶子、つまり養子身分になって、信の字を名に付けて貰ってる位だから、これを信長か殺せと言う訳がない。天正二年に家康は鍛冶屋の服部平太の娘”あい”に作らせた長子秀康が、天正七年には後、二代将軍となる秀忠も生まれた。もうこうなると、信康やその母の築山御前は邪魔だから、産後のひだちが良好で自分の子達がよく育つとみきわめがつくや、親子とも始末した。勿論色々と体裁を作って誤魔化したろうが、これが信長に知れる。 と言うのは一介の土民から身を起こし、世良田二郎三郎と名のっても、尾張の名門の出の信長と違い基盤となる領地がない二郎三郎は三河に目を付け、松平元康が死んだ後、後見人と言えば恰好がいいが、本人になりすましたのである。(どうも、奇計を持って元康を殺したらしい。これは外国の推理小説に良くあるパターンである。 現在家康物を経営の手本とする本が出回っているが、この実像の家康を企業経営の手本としては”殺しの経営戦略”となってしまう) そして後に、松平蔵人元康として清洲城で信長と盟約を結んだ。この時人質として信長に取られていた本物の元康の子三郎信康を取り返し、三河と尾張が手を結ぶ一種の平和同盟である。 そして取り決めの誓紙二通に松平元康として署名捺印する。これはまさしく欺瞞、詐欺である。今で言えば私文書偽造だし、他人名義を詐称しての取り決めなどなんの効力も発生しないのは、当時であれ決まりである。これがばれたら信長に殺されるのは明白である。だから以後、信長の言うことを良く聞き、守ったのである。 こうした後ろ暗い負い目があるから、戦国時代には珍しく堅い同盟が続いたのである。だが「永禄四年に取り交わした誓紙の松平元康名が詐称だった」ことがばれそうになった。そこで慌てた家康は、五千両を持って天正十年五月十五日に、安土城へ命乞いにいった。 半額だけ受け取ってもらえてその場は納まったが、家康が京へ行くと五月二十九日に信長は小姓三十騎を連れ、突如として上洛してきた。家康は慌てて船便を求めてその日堺へ逃げた。しかし堺取締の信長の家臣松井友閑は一隻の船も自由にさせず、家康一行を軟禁した。 六月二日本能寺の変が起きた。そこで「フロイス日本史」では「三河の王(家康)を討たんとして信長は兵を集めた。しかし集まった者は裏切って、信長は髪毛一本残さず吹っとばされた」とある伊賀山中を越え、必死もっしの難行苦行で逃げ戻った家康は、直ぐ大軍を出して愛知県の鳴海に本陣、前衛を津島まで出した。しかし秀吉が十三日ライバル光秀を山崎円明寺川で全滅させてしまった。ところが家康はその五日後に至るまで鳴海で頑張っていた。 勝った者向かいといった勝ち抜き戦の有様なので、この時家康は秀吉を討ちたかったらしい。 しかし情報網を張り巡らしていた秀吉に(信長殺しは家康の差し金)という弱点をつかまれていたので、やむなく二十日に陣払いして戻っている。そして、(他へ知られたくない急所)を握られていたばっかりに、秀吉の在世中は諾々とその命令下にあったらしい。 なにしろ用心深い秀吉は、三河衆の筆頭石川数正を引きぬきして、いざという場合に備え生き証人にしていた。その他にも岡崎三郎の長女の夫小笠原兵部少輔秀政と次女の夫本多美濃守忠政の二人も秀吉の臣となってしまったので、これでは家康としては「信康殺し、信長殺し」と続けてボロが出てしまうので、鳴くまで待とうホトトギスと、時節到来まで辛抱していたのだろう。だから秀吉が死ぬと直ぐ、大阪城を焼いて天下を取った。そしてその間に信長殺しをさせた斉藤内蔵介の娘阿福が他へ嫁し四人まで子があるのに、 これを伏見に引きとって子をしこませ、やがて産まれた子と共に江戸の秀忠のもとに送り込んだ。家康としては、信長の異母妹於市の産んだ達子の子国松には、織田の血脈が流れているから「あれに徳川の家を継がせるなど、もってのほかである」と於福(後の春日局)に産ませた子の竹千代(後の家光)をもって三代将軍家光とした。 秀忠も老いた父の家康から信康殺し、そのためやむを得なかった信長殺しの顛末を聞かされると「徳川家の恩人斉藤内蔵介の娘の子」つまり異母弟にあたる家光が二十歳になるのを待って直ちに将軍職を譲ってしまった。家康は己の晩年の子の家光を三代将軍に決めて駿府へ戻ると安心したのか翌年に大往生をとげた。しかし三河の人間でないから駿府の久能山へ葬るよう遺言した。所が家光は「自分を将軍にしてくれた父家康の恩に報いるため」まず織田家の血を引く名目上の弟の駿河大納言忠長を上州高崎で殺させ、その母の達子は押し込め同然にした。ついで家光は世良田村の奥に日光別所があるのに目をつけ、ここへ今も現存する日光東照宮を建てた。戒名も墓も判らぬ松平元康に比べると、二郎三郎家康は幸せである 世良田事件 この事件は、徳川幕府崩壊後、初めての反徳川騒動である。徳川家は、明治三十年になって、徳川の由緒正しさ、出自の正当をことさらうたった「松平記」を創作して配布した。そして村岡素一郎の「史疑徳川家康」が出版されるや、徳川公爵家の権威で内務省警保局によって買い占めや発禁処分にし、この事件にも、ほおかむりの知らぬ顔を決め込んだ。よって今では隠匿され忘却の彼方である。群馬県、上州新田庄世良田郷というのは、今も「徳川」の地名が残っている、昔は特殊村落である。 権現様(家康)は此処の出身だから前名は世良田二郎三郎を名乗り、代々新田の長史である岩佐家の系図を「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わり岩佐家には新田郷の人頭税を取ることを許可した(この新田家は幕末まで続き維新後は男爵となる)此の地の人間は絶対に農耕をしないので、富裕ではないが「恐れ多くも此の地は神君家康公の生誕の地である」と、家康の御威光によって、近村から上納米を徴収して幕末まで徹底的に搾取してきた歴史がある。 さて、現代でもこうした特殊村落出身の成功者ほど、その出身を隠したがると、いわれる元祖は徳川前公爵家かも知れぬ。勿論、家康の血統の尾張の継友を毒殺して、その弟の宗春の子供も一人残らず仕末し、すっかり根絶やしにして、三代家光からは朝鮮の血を引く徳川に変貌したせいもあるが、臆面もなく堂々と、「徳川家康は松平蔵人元康の改姓名」とするような徳川神話を作った。これは、皇室の藩塀たる華族会長の徳川の祖先が、特殊村落出身ではまずいということで、誤魔化しの発表である。故山岡荘八がその現代語訳の大河小説「徳川家康」をそっくりそのままで書いているので、今では松平元康=徳川家康が通説となっている。 さて、明治時代まで近郊の者は世良田郷の人たちに遠慮し「世良田徳川は権現様の由緒ある地」と別扱いしていたのが、徳川公爵が「権現様は松平元康と同一人物で、三河の生まれ」と世良田生まれを否定したのが一般にも広まったから大変である。「よくもこれまで何百年も徒食していたな」と、積もりつもっていた積年の恨みが爆発して「二千の近在の者が、僅か二十四人しか住んでいない処へ乱暴して仕返しをした」のが、この世良田事件なのでである。 此の事件で、徳川公爵家は見舞いどころか、全く我関せずと頬被りした儘なのが後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。そこで世良田徳川の者は鬼石やその他近くの部落に応援を求めて竹槍隊を組織しこれが全国水平社運動の始まりとなるのである。 【紹介者・注】 この一事をもってしても、松平元康が徳川家康だとする説は嘘だと いうことが明白である。ここで留意したいことは、特殊部落から出て世間で立身した者はその前身を隠したがるのか、同じ部落出身者を酷く嫌う。現代でも有名な某会社等も、新入社員は興信所で身元調査を徹底的にさせているし、他の同じ部落出身の社長の処も会社側が極度に嫌っている。 『此処で誤解のないよう断っておくが、差別を容認したり助長するのが目的でこの文を書いているのではない。むしろ全く正反対で、謂われ無き差別は、歴史を正しく理解すれば解消される、という立場だという事を強調しておくものである』-------------------------------------------------------------------------------- 徳川家も家光以降は、此の傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえ有名な「三河風土記」は沢田源内の偽作であるし、大久保彦左衛門の「三河物語」は初めのものと大きく変わって、これも家康神話に迎合して彦左衛門の子孫が加筆した偽作である。 何しろ「人間の一生は重荷を背負って・・・」の遺訓が、明治になって勝海舟らの旧幕臣らによって偽造された。が、これは「そんなことは嘘だ」と尾張徳川家ではバラしている。海舟にすれば、幕臣なのに、自分はいち早く徳川を見限り、新政府に巧く取り入った罪滅ぼしか、徳川家のための最後のご奉公だったのだろう。徳川家は小田原合戦後、それまでの三河遠江駿河を取り上げられ、関東に移ったが家康は世良田徳川の出身だから、同族である関東の地侍もみんな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。 尾張の三河は、一向宗一揆の名目にはなっているが、国中が家康を目の敵にしたから、家康は生涯で半月も岡崎城には居らず、いつも浜松城にいた。だから、「三河譜代」と言うが、家康が召し抱えたのは関東の三河島衆のことで彼らを片っ端から旗本として召し抱えたのが本当のところである。「野史辞典」に、尾張三河の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎とは全部が三河島の地侍である。だが現地採用の彼らに箔をつけるため尾張三河出身と変えたのか、講談で誤られたか、広められて武鑑すらも間違えている。三河岡崎が家康の出身地なら、徳川家の直轄にする筈だし、家臣の水野五万石にするはずはない。 水平社運動 大正十二年の関東大震災前後から、日本全国の特殊部落の人々が、ただ恰好だけに過ぎない、明治四年に発令された「エタ非人称号廃止令」は返上し、昔のように自分たちの限定職業を戻して欲しいと各地で集まったのが、この運動である。明治維新後、近代国家建設を目指した薩長政府は、国民に税金を課すことになり、新しく戸籍を作ることになった。これを明治壬申戸籍という。 江戸時代までは百姓は寺人別帳、町人は町人別帳として、それぞれの人口把握はなされていた。しかし、これらの何れにも属さない限定地に住む日本原住民の数は把握されておらず、この当時、お上は数十万人と軽視していた。所がそれは家長のみの数で、大正時代にはいると自らエタと誇らしげに叫ぶ原住民でさえ三百万。 まだ身元を隠して都会などに流入している潜在人口を推定すると二千万に近いことが判明した。そこで叛乱を恐れた政府は慌てて「大和同志会」なるものを官費で各地に作って懐柔策に出た。この時出獄してきた松本治一郎が水平社を作り、小学校での差別や各企業での故なき解雇に対して、むしろ旗をたてて、人間は平等なり、の戦いを開始した。 これが日本労働運動の嚆矢である。こうなると政府としては「大和民族は単一民族なり」とする看板に傷が付くのを怖れ、時の山本権兵衛内閣は己も同系の出身なのにも係わらず、国家機密費をもって、金で動く右翼を作り、それによって水平社退治を全国的に官憲の応援のもとでやらせた。 「水平社運動史」の血生臭い各頁を見れば出ているが、縄文時代さながらに、竹槍で対抗する水平社の闘志に対し、日本刀や散弾銃、時には軍隊払下げ銃の右翼各団体が、一部落つぶせば何百万円の懸賞で襲撃した。当時奈良から岡山にかけては、殺されるのを恐れて部落民が各地区から次々と逃亡が続出した。妙な話だが、博徒系の右翼団体は歴っきとした日本原住民なのである。それか゛大正時代になってもまだ「夷をもって夷を制する」と藤原時代そのままで、金でつって戦わせたものらしいが、全く金が義理のこらえ性のない奴隷根性の民族性である。 勿論協力しなければ弾圧されるので泣く泣く右翼の連中は命令に従ったのだと「酒井栄蔵回顧録」には出ていて仕方がなかったらしい。昭和56年3月。NHKで当時の生き残りの水平社の人々の回顧放送があったが、苗字にみんな石とか伊の字が付いていて、当人は知らずだろうが、壬申戸籍で新しく部落の者にも苗字を付ける際、多くはその出身地名をつけたがその他は「夷」の当て字変えをしたからである。 終わり引用参考文献・八切止夫著「天の古代史研究」、「謎の徳川家康」幕末確定史資料大成・宮武外骨著「明治密偵史」日本歴史資料集大成明治史学会雑誌、松平記、徳川合戦史資料集大成
2017年04月29日
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またまた久しぶりに書く。 この掲示板でも何度となく紹介してきたドーリル(ドリール)の「療法の真義」という本を読み返しているが、訳が古い文体なので、意味が掴み取りにくいのだが、シュタイナーの人智学の知識からなんとか解釈している。 この本には生命の意味が書かれているように私には思える。 「病は気から」といわれているが、ドーリルは病はネガティヴな想念から生じると、この本で述べている。ネガティヴな想念をいかに克服するかが、人間がこの世に生まれてくる課題であるという。 ネガティヴ想念は死後そのまま地獄を作り出してしまうので、それを克服するのは、生きている間しかなく、自殺はせっかくのその克服の機会を失うので、最もネガティヴな地獄に堕ちることになるわけである。 ドーリルによると、自然界も、人体もプラスとマイナス、つまりポジティヴとネガティヴの二極性から生じ、そのバランスが崩れて、不調和に至り、ネガティヴに陥ると病気に罹るという。 ポジティヴが強すぎても、かえってネガティヴを呼び起こし、逆にネガティヴが強すぎると、ポジティヴを呼び起こして、それに応じてネガティヴも増幅されるので、結局はバランスの問題なのである。 つまり、足るを知ることが大切で、現代風にいうならば、動的平衡に保つ事が重要なのである。 老子にはこのようなことが説かれている。 だから、ドーリル風にいうならば、あらゆるネガティヴを克服するポジティヴを備えることが、この世を生きる目的で、病気というのはその切欠を与えてくれる、つまり、ネガティヴを克服する機会を与えてくれるものというわけで、病気を治すには、自力でポジティヴを身に着けるしかないのである。 この本を読めば、その極意が書いてある。はじめの章で、クンダリーニを松果体にまで上げるヨガの解説が載っているのに驚かされるが、クンダリーニを最上階の松果体にまで上げることが、病気などに現れるネガティヴ想念の克服法であり、そのために、人はこの世に生まれ、修行するのである。 この本の冒頭には、はっきりと、病気の治療は、患者に病気の真相を教えることである、と述べている。つまり、あなたは、このようなネガティヴな想念をもっているがために、病気となっているのです、と告知することだと説いている。 だから、よく医者が患者に共感すべきかどうかが、問題となるが、以上のことから、医者は、患者に共感してはダメであることがわかる。というのも、医者が患者に共感すると、患者のネガティヴ想念を自分自身に持ち込んでしまうからである。 病気の治療は、患者自身がもつネガティヴ想念にあるので、患者自身のポジティヴ想念で対抗するか、ネガティヴ想念を捨てなければいけないわけで、確かに患者のネガティヴ想念を受け継ぐことで、一時的に弱まることはありえるが、ネガティヴ想念をつくる思考の習慣は捨て去ってないので、またつくりだしてしまい、その想念に共感してしまうと、患者から感染症のように感染してしまうわけである。 譬えるなら、病気の治療とは、新興宗教に洗脳された信者を脱会させるようなものといえる。ミイラ取りがミイラになってしまってはいけない。 というわけで、この世の宗教信者は既になんらかの病気に罹っているといえるから、既存の宗教から脱会して、自分教をつくることを推奨したい。宗教を学ぶことはいいことだが、その宗教に依存してはいけない。というのも、人間一人一人のなかに既に神がいるからで、その主たる神以外の神は神でないからである。 だからいかなる宗教も必要ではなく、ただ自分があればいいのである。自分を極めるのが哲学であり、宗教なのである。 というわけで、病気を知るために、人智学的医術の紹介を続ける。 ★ ★ ★ 今回は、人智学と医学の専門家からの次の発言からはじめたい。 「今回の講義は、人智学の講義のなかでも、最も理解困難な部類に入る。」 霊的な治療法を理解する困難をある程度認めなければならないが、また医学の面からの理解が容易ではないのも認めなくてはならない。しかし、この発言から究めて多くを学べる。 そこで、霊的な治療法をわかりやすくさせる具体例を取り上げてみる。いまは2つ挙げられ、1つ目は、現代人にも比較的わかりやすい例で、2つ目は、現代人にはほとんどわかりにくい例である。 1つ目の例とは、唯物論の現代故に理解し難い治療法である。この治療法を理解するのが人間でなく、ツグミならばすぐわかる。ツグミにはお馴染みの治療法で、しかも実践しているからである。 ツグミは、禁欲的な鳥ではないので、ときどき、誘惑に負けオニグモを食べる。しかし、オニグモを食べると、必ず不快感を催し始め、ヒヨス(1)が近くにあれば、すぐに近づいて食べ、ヒヨスをその適切な治療薬とする。 ツグミにとって、ヒヨスはオニグモ病の治療薬なのである。というのも、近くにヒヨスがなければ、ツグミはヒキツケを起こし、激しい痙攣と震えのなかで死んでしまうからである。 (1)ヒヨス:学名 Hyoscyamus ベラドンナ、マンドラゴラとともにナス科に属するヨーロッパの伝統的な毒草。古代から良く知られている。ルネサンス期のイタリアでは「歯痛草」として有名であり、歯痛の守護聖人にちなんで「聖アポロンの草」と呼ばれ、歯痛に用いられた。 この植物は強い毒性を持つアルカロイド(植物中の、窒素を含む塩基性化合物の総称。ニコチン、コカイン、カフェイン等もこれにあたる)、ヒヨスキアミンを含み、これには強い鎮痛作用があって、現在も鎮痛剤、喘息の発作緩和、モルヒネ中毒の緩和剤などに使われている。 http://kitola.hp.infoseek.co.jp/dokusou/hiyosu.html ツグミは自身の持つ治癒能力を通じて、ヒヨスが近くにあると、飛んで行って、啄ばみ、オニグモの毒を解毒する。このツグミの治癒能力は、現代人でも理解できる霊的な治療法である。 しかし、現代人からは既に遠く隔たってしまっている、2つ目の霊的な治療法も、ツグミの治療法と親和性がある。つまり、太古の人間は、この治療法に似た治癒能力を発達させていたが、いずれにせよ、今ではヒポクラテス医学のなかに集約されている治療法を、太古人は既に幾らか本能的に、つまり治癒能力としてもっていた。 理解困難という発言を顧慮しながら、ツグミと同様の治療法をもつ他の多くの鳥たちの叡智(治癒能力)を少し研究してみるのもよいだろう。 では、ツグミがオニグモを食べると何が起こるのか? オニグモの生体は、地球外の宇宙との関係のなかに組み込まれている。そして、オニグモの四肢やその模様も、地球外の宇宙に由来し、紡ぎ込まれている。だから、オニグモは多くの惑星活動を行っている。 オニグモは地球外の惑星活動を行っている。 (オニグモは宇宙生物らしい。) ツグミは、この惑星体験から離れ、惑星活動を生体(エーテル体)内に移行させた。ツグミがオニグモを食べると、ツグミのなかで、この惑星力を感じ取るようになる。 オニグモを食べたツグミのなかで、この惑星(エーテル)力はなおも生命(霊=アストラル)化する傾向をもち、ツグミに浸透しようとするので、ツグミは、この惑星力と闘わなければならない。 ツグミは、オニグモを食べた瞬間、内からの欲求に従い惑星活動の模像(コピー)となる。 ツグミは、解毒に必要なヒヨスを求めて飛んでいく。 ヒヨスは、宇宙とは逆の、地面から生えることで、しかも惑星の影響力を完全に相殺するのではなく、毒として残すことで、惑星力に対立する地上力に類似した毒をもつ植物となる。 ヒヨスのような植物を求め、ツグミのような鳥は飛んでいき、救済を求める。このような事実から、ツグミのなかで、オニグモの毒が作用する瞬間すぐに、それに抵抗する治癒能力が喚起され、治療法とも呼べる叡智に遡れる。 これは毒の攻撃作用が、即座に生体の防御反応へと移行する現象である。だから、蝿が眼に止まる瞬間に、眼を閉じたり、反射的に手を動かしたりするような人間の防御反応と同じ現象が、眼の前で具体的に展開されている、とも考えられる。 動物や植物での、このような現象の観察は究めて重要である。というのも、このような事実に通じれば、次のような教訓を得るからである。 「知性や理性という叡智は、人間の頭のなかだけにある。」という過信から救われる。 すなわち、知性や理性という叡智は、宇宙全体を飛び回っている。というのも、上述のような攻撃作用に対する鳥類の防御反応は、叡智そのものだからである。鳥に解毒を思い至らせるのは、外界を飛び回る理性と知性であり、人間は、ただ頭を用いて、知性と理性に参加する能力を持っているだけである。 人間は宇宙を飛び回る叡智に参加できるが、もてるわけではない。人間が叡智をもつ、というのは間違いで、ナンセンスで、ただ叡智に参加できるだけである。鳥はまだ特別な体をもつので、人間のように、頭を使って、攻撃、もしくは防御の叡智に参加しないだけである。 頭部を通じて理解する人間よりも、鳥は肺を通じて宇宙をよく理解している。そして、鳥はまた、肺を通じて、ヒヨスキアミン(2)に対する防御反応を呼び起こす。というのも、鳥は、人間のように、叡智に参加するのに、肉体の頭という回り道をせずに、肺という宇宙のリズムを呼吸で感じ取る器官で(本能的に)思考できるからである。 (2)ヒヨスキアミン:ヒヨスに含まれるアルカロイド。(1)参照。 人間は、思考を、肺、つまり律動器官から抜き出してしまった。だから、人間は、回り道した分、思考について思考でき、思考について、鳥よりも少しだけ(客観的に)詳しく述べられる。 (鳥は議論できないが、人間は議論できる。鳥は議論せずに答を出すが、人間は議論しないと答を出せない。) しかしいずれにせよ、もはや、人間は、鳥のように本能的に(直観で)思考していない。つまり、もはや、鳥が宇宙(のリズム)とそのまま結びついて、思考するように、人間は宇宙と結びついて、肺や心臓などで思考してはいない。 この肺や心臓による思考は、人間が再び修得すべき課題である。 では、人間を、宇宙や自然と直接結びつけた、鳥の治癒能力のような叡智の、その最後の名残りを、人間から取り去ってしまったのは誰なのか? という疑問が浮かんだなら、次のような答えに辿りつく。 「人間から、この治癒能力を奪い取ったのは、これまでの学校教育であり、その最後の名残りまで奪い取ったのは、大学教育である。」 というのも、現代で行われている教育や、その関連全ての根本は、人間と自然との共生を妨げる性質を持っているからである。 現代の教育は、ルシファー的な巧緻な知性偏重へと向かわせる一方で、他方では、アーリマン的な巧緻なセクシュアリティ(官能的な耽美性偏重)へと向かわせ、どちらか一方へと一面的に漂わせていく。 太古の人類においては、まだ中心(本質=本性)にあった叡智(TAO=タオ)が、現代の人類においては、専ら、この両極端に分離している。 さて、人間が、科学的な営みにおいて、再び健康になれるかどうかは、実際に正しい宇宙理解(関係)を再発見できるか、にかかっている。現在、残念ながら病んだ(唯物的)科学で研究されている事を、唯物病から回復し、健康になった科学で研究しなければならない。 さて、以前、述べた事実に結びつけて、人間観察から、治療法を再発見する見方を少しばかり扱う。 太古の人類では、この本能的な治療法が高度に養成されていた。太古の人間が何らかの異常を感じたら、即座に治療法も同時に思い浮かんだ。この治癒能力は、現代の人類からは失われてしまった。 しかも、現代人は神通力を獲得しても、例えば、古代人の本能から思い浮かんだ治療法に到達するのは稀である。けれども、現代人は進化してきた。本能から主知主義を経て神通力の獲得へと再び向かう、のである。 主知主義的な進化を通じて、損なわれた多くのなかに、生理学と医学も含めなくてはならない。1つ具体的な例として、糖尿病を取り上げてみる。 そもそも一体、糖尿病が、その異常な進行として示す、のは何なのか? 糖尿病を、霊視すれば、自我の弱さに起因するのがわかる。つまり、糖をつくる活動を制御できないほど自我が弱いのである。なので、その活動で生じる霊魂の働きを、正しく解釈できなくてはならない。 糖尿病は、結果として、糖が血中に流出するのだから、自我が強すぎるせいだろう、と単純に考えるのなら、間違いである。糖尿病は、自我が弱すぎるのが原因である。 というのも、糖尿病を進行させている自我は、糖が適切な形で人体をつくる要件を満たすように、他の3つの体(アストラル体、エーテル体、物質体)と共に参加できていないからである。 この事が、糖尿病の本質である。最終的に、糖尿病の進行は、自我の弱さと関係している。例えば、過剰に甘味な食事と一緒にアルコールを飲むと、糖尿病発病の微かな兆候を体験できるだろう。 このような兆候は、再び消滅することもあるが、自我が弱まっていることで、生じている活動の本質を、自我が克服できないと、糖尿病のような病気が現れてくる。 重要なのは、自我や他の霊体に生じ得る活動全てに注目してみることである。これまでの霊的な観察ではまだあまり述べていないが、多くの人々が疑問をもつ、ある問題について述べたい。この疑問については、これから、もっと詳しく立ち入っていく。その疑問は、糖尿病で大きな役割を果たしている遺伝である。 遺伝は、自我の弱さに原因がある。自我が弱く、自我が他の霊体(アストラル体、エーテル体)や物質体と共作用しなくなると、遺伝に依存し易くなる、という関係がある。 というのも、単純に、人が皆、遺伝に依っている、と思い込むと、その言葉通りに、遺伝に洗脳されるからである。遺伝に依らない場合もあるのは、結局、自我が強く、良く機能している。 ただし、注意すべきなのは、糖尿病の場合、かなり心理的な要素が関わり、興奮し易い人が経験する興奮が、糖尿病の病因とかなり関係していることである。というのは、自我が弱いために、他の霊体や物質体に入っていかずに、その周辺で活動してしまうので、脳を通じて、強固な主知主義を押し進めるために、肉体の活動を制限してしまうからである。 自我が弱いと、他の霊体や物質体、つまり、蛋白質をつくる場所、つまり植物性蛋白質を、動物性蛋白質に変成させる場所にまで入り込んでいけない。自我が、その場所にまで到達できない。 そして、自我がとどかない代わりに、その場所では、それだけ一層、アストラル体の活動が活発になる。というのは、アストラル体の活動は、主に胸部の消化-血液-呼吸の律動系の活動間で、最も活発だからである。 この胸部の律動系の活動が、自我が弱いことで放任される。この放任された活動は、他の人体と関わりをもたずに、アストラル体を中心に、胸部独自の我儘な活動を進行させ始める。だから、糖尿病になり易いという遺伝は、自我が、アストラル体からしめ出されている事にある。 さて、このアストラル体の活動、いわゆる分泌活動はまた、心情、感情と密接に関係している。しめ出された自我が、脳を通じて主知主義の活動を求めるので、分泌活動は、自我に管理されずに我儘になる。 以上の事実は、感情に影響する、ある心理の制御を失うのに関係している。 興奮させるような出来事が周囲で起こっても、平静さを保てるのは何故なのか? 冷静でいるには、知性を腸にまで送り込まないといけない。知性が、頭脳だけでなく、人体全体に浸透すると、平静でいられる、のである。 頭脳だけで色々思案すると、平静でいられない。頭脳が主知主義的な活動をはじめると、アストラル体は独自の活動を始める。すると、興奮し易くなって、興奮により、アストラル体が本来行なうべきことをやらずに、興奮を促進させてしまう。 興奮の本質は、アストラル体で興奮を促進する事にあり、アストラル体はまず知性に浸透され、理知により興奮を和らげてから、感情に働きかけるべきである。 さて、以上において、何が本質なのかを、はっきりと理解することが重要である。 つまり、自我の無力にある。自我は、人体に最初に働く地球外(天)の力で、つまり地球に対立する惑星の力と親和性を持っている。 だから、自我の力は全て、地球の外(天)からやってくる。 従って、自我を強化するには、地球外(天)の、自我と関わり、親和性をもつ活動を理解しなくてはならない。そうすれば、その地球外(天)の活動に、適切に参加できるように、自我を転移すればよいとわかる。 さて、自我が、他の人体(霊体や肉体)のなかで共に働く、のと同じように、地球外(天)から誘導される活動が、地上の様々な場所に存在する。この地上の場所に、地球外(天)の力が働き、地上の鉱物や植物に、いわゆるエーテルの油をつくる能力を与える。 天の力が働き、エーテル油をつくる能力を与える、この地上の場所に、自我を導かないといけない。自我が、眼という、いわゆる肉体の外湾のなかで、実際に外界と接するように、自我を、地上のエーテル油をつくる活動に関係づけなくてはならない。 恐らく、以上を可能にするには、霧状の微粒子の、エーテル油をつくって、エーテル油に浸る治療法を試みるのがよい。どのような微粒子をつくり、用いるか、何回浸るべきか、など試行錯誤してみる。 以上のエーテル油浴法は、肉体を侵し、荒廃させる糖尿病を克服する治療法である。この治療法から、外界の活動を見抜く事と、外界と人体内の活動を共に考える事が、自然や人間や他の生命体の治療法ともなる生理学を現実に生み出すだろう。そして、この生理学は、いまだ途上で、将来、人類にとって完成すべき道なのである。 さて、この事実からもわかるが、人間の本質は、環境と親和性を持つ、のである。 再び、地球の植物全般を、霊視すれば、植物は地面から上方へと向かい、花のなかで、植物のエーテル体の活動が霧散し、果実のなかに再結集している様子がわかる。 更に霊視を続けると、植物には、何千もの不思議で多様な生命活動が存在するのがわかる。種子をつくるために結集する多様な活動が、葉をつくるために、その一部を抑制し、草状に厚くなったり、また、全活動を閉鎖する前に、一部の活動だけを抑制し、種子の外皮を厚くしたりするのがわかる。 植物の活動のなかに、ある一部の活動を抑制することで、可能な限りのあらゆる多様性がみられる。 しかし、この植物の生命活動を、決して、例えば、地球の物質面から、或いは物質に対抗する光(エーテル)の面から、一面的に見るだけでは駄目である。実際、植物は物質体とエーテル体をあわせ持ち、地球外の力(天)が、地上の力とぶつかる処で、植物の物質体とエーテル体も、宇宙からくるアストラルと交わっている。 以上から、次のような結論に至る。 「植物は動物を目指して進化するが、到達できない。」 地球内部は、植物のエーテルの生命活動に充分浸透されている状態で、また植物が成長していく大気圏は、動物のアストラルの生命活動に浸透されている。この動物のアストラルの活動は始まりも終わりもなく、植物は動物に向かって進化していくが、植物には到達できない生命活動なのである。 動物の精神を担う動物のアストラル活動は、植物の上の方で織りなされる花を咲かせる活動でもあり、地球全体に対して円環の性質を持っている。そして、この動物のアストラル活動全体が、地球の動物たちの中心の自我に集められる。つまり、大気圏のアストラルの活動が動物内(精神)に移される。 動物は、植物の上方で生じているアストラル活動を分化させ、自分の内部(精神)に移す。そして、動物がもつ、植物に勝るアストラル体は、通常は、地球の周囲の外界から、地上の植物に向けられているが、それを取り込むことで、動物は自我の為に用い、自我を中心に展開する。 (動物の自我は、人間の自我と異なり、集団的であるという、人間は個的である。) さて、この動物のアストラル活動は、人間にもある。ただし、人間では物質体内にもっている。このアストラル活動は、消化から造血、そして呼吸活動を司る胸部に主に関わっている。だから、人間の消化、造血、呼吸活動については、同時代期の動物のアストラル体によく似ている。 従って、人間の物質体内のアストラル活動は、植物のエーテル活動全般と親和性をもつので、植物のエーテル活動に有効な生命活動を用いて、人間の特に胸部活動を調整するのが期待できる。しかし、人間は、動物に優る自我を持っている。 人間の自我は、動物がアストラル体を用いて、植物と行っているエーテル活動を遂行するだけでなく、アストラル体を超える意志を用いて、鉱物と行っている物質(エネルギー)活動を遂行する基礎となる。 だから、次のような結論に至る。 「現在の地球進化の人類の特徴は、鉱物の物質(エネルギー)活動を、地球と共に行なっている事にある。」 動物のアストラル体のなかで、蛋白質の変成(植物→動物)が行なわれているように、そのアストラルの蛋白質変成よりも、更に地球の外側にある活動、いわゆる、天と鉱物との間で生じている活動が、人間の自我で行なわれている。 以上は、科学には全く無視されている活動だが、これを表現するなら、その特徴に従って、脱塩プロセス(溶解過程)と呼べる。 実際、人体では、絶えず脱塩プロセスが働いている。これは塩(鉱物)の生成を逆転させる傾向をもつ。そして、動物を超え、人間がもつ思考の本質は、この脱塩プロセスに基づいている。 人間は、動物に似たアストラルの胸部ではなく、頭部で、塩の生成に逆らっている。通常、土(固体)をつくる植物のエーテル体に、動物のアストラル体が対抗するように、人間は思考することで、塩(鉱物)の生成に対して、脱塩プロセス(溶解過程)を対抗させている。 (あまり思考しない人は、自我の溶解過程が弱いので、血中に糖を放出する糖尿病の傾向をもつ。) 植物薬では治療できない、自我に関わる病気については、塩の生成に対抗する脱塩プロセスをもつ鉱物を探し求めなくてはならない。植物薬だけで治療するのは、人間を、専ら、単なる動物として見ていることになる。 地球の周囲で、地球の鉱物化に対抗して行なわれている、この激しい脱塩化の闘いに、人間の参加が期待でき、実際に加わり、この激しい闘いへと自我を導くと、自我は祝福され、叡智を授かる。 例えば、石英を用いた治療は、実は、石英を脱塩(溶解)させる自我の力、石英のような硬い鉱物を克服する自我の力に訴えている。鉱物薬での治療は、地上ではもはや全く起こらない、地球の外(天)で生じている闘いに、自我を参加できるような強さを与える。 この闘いの場では、地上の固体を、熱で粉々にするほどの力が働いている。実際、宇宙空間は、惑星のなかで丸く密集している固体を、粉砕し、粉々に打ち砕く特性を持っている。 日常生活では、人間は滅多に、以上の事を行わず、行うのは稀である。宇宙空間の以上の作業を、最も多く行うのは数学者で、特に、幾何学などの、図形のイメージを駆使し、その思考体験に慣れた、数学の思考に長けている人である。というのも、数学的思考は、鉱物を分解(溶解)する知識に基づくからである。 対照的に、数学に反感をもち、むしろその反対の塩プロセス(鉱物化)に依存する人は、数学に似た設計図などを扱う技術者にはなれない。自我の脱塩プロセスの強弱により、数学的性質をもつ人と、数学的でない性質の持ち主との違いが現れる。 このように地球の鉱物化の活動に対抗することは、治癒能力(治療理念)の根底を為す。 以上の自我の強さと治癒能力との関係はまた、端的にいって、古代の人類の攻撃-防御反応のなかに含まれていた事でもある。古代人は、自我が弱くなり、自分が思考しなくなったと気づいたら、鉱物を摂取し、自我の力で鉱物を打ち砕くことで、地上から遥かに隔たった、地上を超えた宇宙空間から調和に至る能力を獲得した。 さて、以上の事柄が正当だと、いわば手で掴めるほどはっきりとわかるように、外界の自然のなかに追求できる。自然の観察によって、良い検証が得られる。上述を検証するために、非常に興味深い植物、つまりベトゥラ・アルバ、シラカバ(3)を観察してみるとよい。(3)シラカバ:カバノキ科。ハーブ療法でも、シラカバの葉の利尿作用が指摘されている。また、シラカバの精油(樹皮と小枝から抽出)には、関節部分の尿酸の蓄積を減少させる働きがあるので、通風、リウマチ、関節炎、及び筋肉痛一般に効果があり、また、膀胱と腎臓の結石を溶解させる力もあるとされる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%90 シラカバは、二手に分かれる形で、植物をつくるエーテル体の通常の活動に抵抗している。シラカバは通常の植物をつくる活動には参加しない。 つまり、シラカバの樹皮をつくるエーテル体の活動を、シラカバの葉、特にまだ褐色がかった綿毛のある春の若い葉をつくるエーテル体の活動と混合できたなら、通常の植物をつくるエーテル体の活動が出現する。 シラカバの、この互いに分離された二つの活動を混ぜ合わせた結果、シラカバの樹皮の働きが、シラカバの葉の働きと、ある場所で一緒に働くようになれば、不思議な葉のような花をつけた草本植物が得られる。 シラカバは端的にいって、蛋白質をつくるエーテル体の活動が、普通の植物よりも、余計に葉に与えられることで、葉のなかに蛋白質活動が集中し、逆に樹皮のなかには、アルカリ塩をつくるエーテル体の活動が集中することで成立している。 シラカバのように、樹皮にはならずに、葉の状態にとどまる他の植物では、この両活動は融合し、根のなかの、アルカリ塩をつくる活動は、蛋白質をつくる活動に浸透されている。 シラカバは、通常他の植物が混合しているエーテル体の活動を、根から、樹皮へと分離し、樹皮のアルカリ塩をつくる活動にした後で、今度は、葉のなかに分離し、蛋白質をつくる活動としている。 以上により、シラカバを薬とすれば、人体に対して2つの方向に働きかけられる。 シラカバのアルカリ塩を適度に含む樹皮を薬とすれば、人体が脱塩に導かれ過ぎて生じる病気、例えば発疹などに対して、シラカバでは、樹皮のなかのアルカリ塩をつくる(塩化の)働きが、脱塩の働きを抑制し、治癒に導ける。 また、蛋白質をつくる働きが集中するシラカバの葉を薬とするなら、人体が塩化に導かれ過ぎて生じる、痛風やリウマチに対して、脱塩の働きの良薬として実証できる。 この脱塩の働きを更に高めたいなら、シラカバ内の鉱物(物質)を取り出すために、例えば、木質部から、植物炭を調合すればよい。そして、例えば下腹部の腸での塩化の働き(便秘など)に対して、体外から湿布で塗り込むなどして、塩化を抑制する治癒力が得られる。 人体の薬となりえる、植物の外界での生態を、霊視する術を学ぶ必要がある。ベトゥラ・アルバ(シラカバ)を研究すると、実際次のような結論に至る。 「シラカバを、人体の薬となるようにイメージするなら、外界のシラカバのイメージを逆にしなくてはならない。 樹皮や木質の塩化プロセスを、物質体の皮膚などの外への働きに一致させ、葉の脱塩プロセスを、物質体内のエーテル体への、内への働きに一致させるように裏返しにする。 シラカバを、人体の薬にすると逆のイメージをもつ。」 (シラカバの樹皮は、物質体の脱塩を抑え、葉はエーテル体の塩化を抑える。) シラカバの樹全体を、人体の働きと一致させ、以上のようにイメージするのが必要不可欠である。つまり、人体の本質に沿って、外界のシラカバの樹のイメージを逆転させ、薬のイメージをつくるわけである。 また例えば、根の塩化プロセスを特に強く発達(発育)させ、根のなかに、アルカリ塩やナトリウム塩を沈殿するほどの植物を見つけたなら、この植物の葉のなかには、この根の強力な塩化を抑制する脱塩プロセスがあるはずなので、それぞれ、出血などの脱塩病には、この植物の根を薬にし、腎臓結石などの塩化病には、この植物の葉を薬にすれば、治癒に導ける。 上記のような出血や、腎臓結石などの病気に良い薬となる植物は、カプセルラ・ブルサ・パストリス、ナズナ(4)である。(4)ナズナ:ナズナ属アブラナ科。ハーブ療法でも、泌尿器系の殺菌、血液凝固作用があるとされ、いろいろな出血、膀胱炎、静脈瘤などに用いられる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BA%E3%83%8A さて、例えば、日常にみられるトモシリソウ、コクレアリア・オフィシナリス(5)のような植物を考えてみる。このような植物も研究すると興味深い。この植物のなかには、硫黄の油が含まれている。(5)トモシリソウ:トモシリソウ属アブラナ科。ヨーロッパ原産。西洋わさびの一種。葉の形は広心臓型でスプーンに似ている。薬草療法でも、消化不良、壊血病、口内や歯の痛みに用いられる。 硫黄の油を持つことで、この植物は硫黄を通じて、蛋白質に直接働きかける。さて、硫黄は、鉱物のなかで、蛋白質をつくり、促進するように働きかける。蛋白質をつくる活動は、不活発になると、硫黄を添加することで促進される。 硫黄の油とは、トモシリソウのような植物がエーテル体の活動により作り出した産物である。 特別な生息地に生え、特別な形で自然に組み込まれることで、トモシリソウは、蛋白質をつくる活動が極度に不活発に運命づけられたが、素晴らしい自然の本能(治癒力)により、不活発な蛋白質活動を促進する硫黄の油をつくることで、その均衡がもたらされた。 さて、この硫黄の油により促進された蛋白質活動は、他の植物がもつ蛋白質活動とは異なる。この違いを常に念頭に置く必要がある。勿論、数多くの植物に、トモシリソウと同じような蛋白質活動を見つける事ができる。 しかし、活動が同じでも、トモシリソウのように硫黄の油により活発化された活動ではない。トモシリソウの生長では、元々不活発な活動が、硫黄の油により活発化されているわけで、これが例えば壊血病などの薬に用いるのを可能にする。というのも、壊血病で起こっている活動が、トモシリソウの、この活動に究めて類似するからである。 さて、個人的に修練し、外界の自然の活動と、人体の活動を、共に考察することを身につければ、実際、かなりの治療法を獲得できるだろう。このような考察により、自然と人体との重要な親和性に到達するだろう。このような考察により、他では決して獲得できない人体の理解にも到達するだろう。 というのも、何と言っても、人体以外のものを完全に理解するには、人体を通して理解できなくてはならないからである。だから、両方を一緒に研究できなくてはならない。 更にもう1つ、人体のなかで脾臓が果たしている独特の働きについての話を付け加えるが、これは次回以降の考察に是非必要となる。 脾臓は、非常に強い霊の傾向を帯びている。それ故かつて、「オカルト生理学」という連続講義のなかで、次のように述べた。 「脾臓を切除しても、代わりにエーテル体の脾臓が容易につくられ、つまり脾臓は、エーテル体にとって最も容易な代替可能な器官である。」 しかし、脾臓は下腹部の他の臓器ほど、新陳代謝の本質に関わっていない。脾臓は、新陳代謝にはあまり関係しないが、新陳代謝の調整には非常に関わっている。 では、脾臓とは一体何なのか? 人智学の研究により、脾臓は、物質的な新陳代謝と、霊化されたリズムとの間に、調和を作り出す使命を持つ、ことがわかっている。 つまり、脾臓は、他の臓器と比べて、例えば、ある臓器は霊の傾向が高く、ある臓器は低いが、根本的に言って、高度に霊的な、潜在(無)意識上の臓器で、栄養摂取のリズムに究めて敏感に反応している。 休みなく食べ続けるのと、適度に休んで食べるのとは、脾臓の活動が全く異なってくる。例えば、この事は、つまみ食いばかりしている子供の、落ち着きのない脾臓の活動に、みてとれる。つまみ食いばかりしていると、脾臓の活動に落ち着きがなくなってくる。 また、以上の事は、栄養摂取がしばらくないと、眠くなり、しばらくしてから脾臓の活動が休止状態に入ることでも観察できる。勿論、脾臓は独自の形で、休止状態に入るが、つまり、脾臓は、人間の栄養摂取のリズムを霊化する為の知覚器官なのである。 栄養摂取の際の、リズミカルでない有害な影響を、少なくとも和らげる為に、反作用として展開すべきことは何かを、脾臓は潜在(下)意識のなかで語りかける。 この為、脾臓の働きは、肉体の新陳代謝よりは、リズミカルな霊(エーテル)体の活動の方に導かれ、その活動に関わり、肉体による栄養摂取と、霊体の呼吸リズムとの間に生じる必須のリズムに関与する。 呼吸リズムと、特にリズムという性質をもたない栄養摂取との間に、リズムを挿入し、仲介するのが脾臓である。呼吸リズムを通じて、人間は厳密な宇宙リズムのなかで生きられるが、不規則な栄養摂取を通して、人間は絶えず、この厳密な宇宙リズムを侵害している。そして脾臓が(両者の)仲介者なのである。 このような事実は、人体の観察から、簡単に確認できる。解剖学-生理学などに実際に見つけられる知見を、以上の事実に導かれながら、更に研究して欲しい。細部に至るまで全てが実証できるのがわかるだろう。 外見(解剖学)からみても、上述した、脾臓が呼吸リズムと粗い代謝リズムの中間リズムであることが、脾臓の人体での配置、つまり、脾臓の動脈が、ほとんど直接大動脈とつながり、呼吸リズムと関わり、他方で、門脈へと進んで肝臓と直接関係する脾臓の静脈が、全体に行きわたっていることにより、栄養摂取に関わる代謝リズムの仲介を行うのが実証できる。 脾臓では、外からの物質体の非リズムと、霊体のリズムとが共に合わされ、互いに調整されている。呼吸のリズムと新陳代謝の非リズムとの間に挿入されているのが、脾臓の働きである。 脾臓の活動が病的に異常になったら、脾臓が仲介する呼吸器系と、新陳代謝系との関係、或いは血液循環系と新陳代謝系との関係に基づいて、調整しなければならない。 脾臓の生理が、唯物論的科学から、疎かにされてしまったのは何ら不思議ではなく、唯物論的科学では、新陳代謝系、循環-律動系、神経-感覚系という人体の三分節化については、実際、何も知りえないからである。 1-15 人体上部(頭部)と人体下部(腹部と四肢)が、人体中部(胸部)を基点とし、対極関係にあるのが理解できれば、次のような結論に至る。 「自我が、シリカを用いて、四肢から作用するのと、頭から作用するのとの間には、対立があるはずである。」 シリカを用いて、頭部から作用する場合、自我は集積されずに、いわばエゴイズムから解放されている。そして、この頭部からの作用を、人智学で研究すると、細分化(分裂)を行っている、のがわかる。 ★ ★ ★ 病は気からというのは本当で、病はネガティヴ想念から、である。病気を克服するには、ネガティヴ想念を中和するポジティヴ想念を生み出すことである。
2017年04月12日
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