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今日は昭和の日だが、平成が終わるという頃に、巷では、「意識高い系」という言葉が、矢鱈と流行りだして、意識が高いのではなくて、自己顕示欲が旺盛なのだと、自己顕示欲旺盛系に変わっていったが、そもそも、意識も、能力も、3次元空間の物質界では数値化できない、非線形現象なので、確率統計学でも持ち出してきて、同じ状態とみなせるサンプル数を一万個以上集めてきて、全体の正規分布などをつくって占うような推測しか成り立たないから、結局、どうにでも言える確率的な仮説での能力や意識論なのである。能力や意識を数値化しても、その数値の解釈を巡って、また別の議論がはじまる。そして仮説の上に仮説が上書きされていく。確率が低くても、ゼロでない限りは、起こりうるわけで、高くても、必ず起こるわけではない。例えば、10の事例のうちに、7の事例が該当するといっても、その7の事例に、今回の事例があてはまるかどうかは、結局、人間の思考力や観察力に負う。 意識高い系 - Wikipediaしかも、物質という、静的で安定的な、線形現象ならともかく、生物においては、動的で不安定な、非線形現象が、正規分布をつくるとも限らないので、生物統計というまた別の統計分布が考案されている。これらは、生物を物質化して表現する手法なのだが、生物を物質化してしまうから、データの取り扱いに注意しないと、条件でいくらでも変わり得るから性質が悪い。生物は、もともとは受精卵の一個の細胞から生まれるが、その細胞が分裂し、幹細胞となって多種多様に成長して、はじめて霊魂が受胎できる表現の場の容器となる。だから、容器だけをみていても、絵画の絵具を見るのと同じで、絵を道具から推測するだけになる。油絵具をみれば油絵だ、クレヨンならクレヨン画だと条件がわかるだけで、どういう絵画なのかは見当もつかない。生物統計学 - Wikipedia描かれた絵画の特徴が画一的で、例えば、動物ならば同じ種族においてある程度の集団性をもつのでまだしも、人間には、個人的な自我があり、それぞれ異なった個性をもっているのだから、それらを一緒くたに同じ基準で観測し、同一視するなどは、かなり独断と偏見の混じった与太話で、それらで持ち出される意識という表現は、もはや意識ではなく、画一された洗脳意識の統一効果といわざるをえない。だからして、令和になって、それらがパワハラの一種の、マウント系なのが明らかになってきて、意識が高い、のではなく、自己顕示欲や、自意識過剰で、名誉欲や虚栄心、そして利己主義の為せる業だとみなされるようになってきた。何が言いたいかというと、所詮、人類同士のなかで比較する意識の高低は、統計解析で出力する誤差の範囲内に収まってしまう違いでしかないから、出る杭が打たれるのが常で、平均からわずかにずれる差異にとどまるしかない。意識や能力の高低さは、全体からみれば、ほとんど同じで平均化されるだけなのである。第一、低い意識の持ち主が、高い意識を評価できるわけがないし、逆に、高い意識の持ち主が、低い意識を見下すわけもない。だから、高い意識という言葉自体が矛盾で、高い意識の持ち主が、高さを表明するわけがない。高い意識の持ち主は、常に向上を目指すので、高い意識に甘んじないだろうし、高いとも思わないだろう。高い意識を表明するのは、そのまま利己主義を象徴化している言葉なのである。自分を虚飾している言葉である。さて、先日、「太田×石井のデララバ」をみていて、料理というのは、誰が最初に発明したかはわからないが、その発明権利を主張せずに、パクられても多数の人の腹を満たすのを優先し、容認し、ほぼボランティアで成り立っている職業だと気がついた。勿論、生活費を稼ぐために、ある程度の金銭をとらないと経済的に物質界では長くやっていけないので、完全なボランティアというわけにはいかないが、無償の愛がないと、やっていけない聖職である。BS-TBS|太田×石井のデララバ太田×石井のデララバ | TVer日本人のほとんどが、ナポリタンや、ミートソースなどの料理の、発明者は知らなくても、その料理を口にしているのだから、料理発明者は、ヒト知れない人間社会の陰の功労者である。オカルトでは、このような無名の陰の功労者こそが、高い意識系のヒトと捉えている。また料理だけでなく、農家や畜産家や漁師も、ほぼボランティアで、聖職といえるかもしれない。このような聖職の、ボランティア精神がないと、人間社会は、詐欺師や盗人、強奪者に溢れて、社会や地球が破壊に満ちて、忽ち地獄の奈落の底へと落ちてしまうだろう。このようなボランティアの無私の精神こそが、人間社会を高めて、物質界を心の世界へと意識改革し、向上させていくのだから、このようなボランティア精神に溢れる人が、ホンモノの意識高い系なのである。発明は残り、人々を幸せにするが、名は残らない人こそが、意識高い系なのである。だから、キリストは、「人前ではなく、密かに祈りなさい」、と説いているし、仏陀も、「善行は、成就するまでは、黙っていなさい」と言っている。良い事をしても、それをひけらかしてしまえば台無しになり、かえって低い意識に落ちてしまう。そして、そのような低い志は、いずれ死んでしまう。善因善果から、日々常に善行を志し、努力して行う人には、占いは必要がないが、その人にとって何が善行となるのかは、その人の前世からの宿命、つまりカルマの法則から定まっているので、つまり、この世での立場と役割をボランティアとして、ボランティアで教えるのなら、占いが預言になる、ともいえるかもしれない。先日、ローマ法王が亡くなった、というので、ググってみると、日本ではあまりお馴染みのない、法王と教皇の違いに出くわす。法王とは、恐らく、物質界を超えた、心の世界の、更にその上の、人間の自我に関わる、神の天国の、法の意識にまで到達した霊魂を意味し、教皇とは、その意識を人類に教え諭す立場と役割を授かった霊魂を意味するもの、と考えられるので、ローマ法王、もしくは教皇と呼ばれる存在が、霊魂の不死の法を知らないわけがなく、亡くなった、と世間に公表されるのも、なんだかおかしな話ではある。ローマ教皇は、人間の霊魂が不死なのを教え諭す霊魂のはずなのである。そこには、本来、肉体の死の余地が入る隙間もないはずである。ローマ法王の選出基準に、独身が要件となるのは、結婚して、子孫を残すと、霊魂の不死性が、受精細胞の遺伝性により、失われてしまうからである。このことから、古代アトランティス時代には、子どもがいなかったのがわかり、霊魂は意のままに受肉していたのがわかる。ただし、現在のような物質的な肉体ではなかった。百歩譲って、過去にはなかった、人間の心よりも遥かに、中世以来から進化し、安定してきた肉体の感覚、もしくは世俗の物質界に合わせた、覚醒意識においての演出なのかもしれないが、ローマ法王が亡くなってから、一週間ほどたって、その追悼のために平和活動が進むのなら、世界も捨てたものではないが、「富を積むのなら、天に積みなさい」と言ったキリストの言葉を理解できる人がほとんどいなくなっているのが現状で、しかもいまだに戦争を続ける独裁者も沢山いるから世の中難儀である。富は天に積め - 横浜指路教会人智学は、人間の自我は、天国に由来し、心は心の世界のアストラル界に由来し、心を肉体につなげる、糊もしくは潤滑油のような役割が、水と呼ばれる、エーテル界に由来し、そして、肉体が、この地球の、光の反射などの可視光からなる結晶構造の物質界に由来するのを解き明かしている。これらは、オカルトの基礎的な幾何学では、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つの正四角形で表されている。だから、昨今の物質科学の超弦理論でも提唱されている並行宇宙論でいうなら、人間は、4つの並行宇宙の統合体ともいえるわけで、それぞれの宇宙の波動が、それぞれの意識から、バランスをもって、地球の物質界で、いわば、粒子や固体として顕現するように、統合されている。我々地球人は、その統合の結果だけをみているにすぎない。量子力学は、人間の意識が、物質界と共鳴し、量子状態を決めて、素粒子を現出させている、のを示している。ハイゼンベルグの不確定性関係は、人間の覚醒意識が、素粒子の観測に介入するのを数学的に証明している。人間は物質界と共鳴し、物質をつくれるが、それは人間が肉体という物質界に介入できる道具をもつときだけに限られる。だから、物質界に介入できる道具の肉体を失えば、それを基にして介入できた権力や富を失うわけである。それはネット掲示板での書き込みなどのアカウント権を失うのと同じである。だから、地に富を積んでも死んだら終わりなのである。物質そのものではなく、物質を変える方法、つまり、物質を操作する心こそ、重要なのである。さて、日本の巷はGWなので、本当は、このブログもGWにしようかと思ったのだが、先日ヴァイオレットエヴァ―ガーデンをみてから、「ルパン三世 カリオストロの城」を思い出し、改めてこの作品を考えてみたら、オカルト的に深い意味が隠されていたので、再度紹介したい。「ルパン三世 カリオストロの城」については、岡田斗司夫氏が以下の動画で持論の妄想から、詳しく解説しているが、オカルトの知識が不足しているので、あくまでアニメ作品の枠内での宮崎駿監督についての評価にとどまっている。【カリオストロの城】頭のおかしい狂った作画…実はこのシーン●●●が映ってます【ルパン三世/名セリフ/銭形警部】【岡田斗司夫/切り抜き】 - YouTube【カリオストロの城】伯爵の目的と伝説の偽札「ゴート札」の謎を解説します【ルパン三世】【岡田斗司夫/切り抜き】 - YouTube【カリオストロの城/完全解説 総集編】 これ一本でわかる! 登場人物や名シーン ルパン三世 カリオストロの城 の 設定に隠された すごい秘密を徹底解説 【岡田斗司夫 切り抜き】ルパン三世は、モンキーパンチ原作で有名だが、岡田斗司夫氏の動画をみると、宮崎駿氏が、ルパン三世というキャラを盗んで、当時の大人の視聴者を対象としたハードボイルド路線から、視聴対象を子どもにも拡げ、転換した経緯がよくわかる。泥棒という悪行を解毒して、善行にしたのが、宮崎駿氏のルパンアニメなんである。ルパンは、この作品で、この世の富の、権力や金銭を盗むのをやめて、人間の心や人類の未来を盗む、つまり先取りする泥棒となって、つまりは、あの世からの平和の予言者、もしくは占い師と転職したのである。このルパン三世の転職の話は、ルパン三世パート2の最終回の、「さらば愛しきルパンよ」でもわかる。【カリオストロの城/さらば愛しきルパンよ】完全解説【ルパン三世/岡田斗司夫/切り抜き】 - YouTube宮崎アニメのルパン三世は、この世から悪を奪うことで、あの世に富を積む、のを描いた作品なのである。つまり、作品をみた少年少女の未来の心を盗む、これまでの泥棒から、心を盗む占い師や予言者に変わった新しい未來の泥棒なのである。この世に富を積もうとする愚かな低い意識の悪人が、この世に、将来の地獄をもたらして、人類を破滅させてしまうのを、悪人が悪人と出逢って、改心する話なのである。だから、宮崎アニメのカリオストロのルパンは、カリオストロ伯爵に出逢って、自分のなかのカリオストロを捨てて、解放したクラリスとは、この世の恋人とはならずに、一緒にならずに、別れたのである。ルパンはカリオストロと同じ盗賊であったのを自覚している。このアニメでは主人公と敵対者での違いでしかない。ただその表現の違いでしかない。この主人公と悪役の違いは、聖書の人類史の、カインとアベルの違いが隠されているので、面白い。カインから見れば、アベルは悪役で、またアベルからみれば、カインが悪役となる。というのも、人類が大きく二つの、いまでいうところの、コンサバの保守とリベラルの革新にわかれた経緯が隠されているからである。コンサバとは、従来の秩序を維持する、つまり生命をそのまま保守する、アベルの羊飼いの子孫で、人類史では祭司系の血族を意味する。そして、ヤハヴェの月の神により生まれたアダムとエヴァの子がアベルである。対して、カインは、エロヒムの一柱とエヴァ(リリスという説もあるが)の子で、生命無きものから生命を生み出す土を耕す子孫なのである。だから、アベルには生命を見守る能力はあるが、カインのように無から生命をつくる能力はないので、神殿をつくる能力はない。そして、この違いが、ルパンのカリオストロの城では、アベルの血族がクラリスで、カインの血族が、カリオストロ伯爵として描かれている。カインがアベルを殺したように、カリオストロは、クラリスを略奪して、王位を継承しようとする。そして、両者の調停役としてルパンが登場する。アベルは天国に召されて、カインは追放される。カインとアベル - Wikipediaそして、このアニメのなかのカリオストロ伯爵は、無の紙幣から、偽札で、金の価値を生み出した悪の化身に描かれ、王位を継承して、人類の遺産を獲得しようとするが、ルパンに阻止される。カリオストロが悪に走った、その経緯は、上に紹介した岡田氏の動画で解説されているが、実際のカリオストロ伯爵は、このアニメの人物とは真逆の、一切の名声を求めない無私の存在だったので、永遠の生命を手に入れた、と、シュタイナーは語っている。そこで、カリオストロをググってみると、以下のウイキのような、『稀代の詐欺師として特徴づけられているカリオストロだが、壮年時期には愉快犯の色合いが強く、富裕層からまき上げたカネを貧民層に分け与えていた』という日本の鼠小僧のような面白い情報が挙げられているが、このウイキの内容とは違い、実際は、シチリア島出のジュゼッペバールサモと同一人物視されるのを、カリオストロは反対していたらしく、シュタイナーによれば、ホンモノのカリオストロは、フリーメーソンのグラントリアンの最高位に達し、永遠の生命を手に入れた人物だったという。そして、永遠の生命を獲得するには、肉体から、賢者の石を取り出す錬金術をマスターし、五芒星を認識する必要があるという。カリオストロ - Wikipedia鼠小僧 - Wikipediaそこで、カリオストロについて話したシュタイナーのフリーメーソンでの講演について短く要約して以下に紹介する。フリーメーソンを霊視すると、高位のメーソンには、特別の課題を果たす修行法がみつかる。メンフィスロッジとミスライムロッジが合体した特別の修行法があり、この修行法の課題は95もあり、その最高位のグラントリアンは第96番目の課題である。87番目から神秘的な課題がはじまり、この課題を96まで果たせた人は、欧州大陸には恐らくいない。これら高位の課題を霊視すると、その課題を与えた、ある人物が浮かびあがる。この人物は様々な名前で呼ばれ、非常に誤解されている。この人物こそ、特に歴史家たちに誤解され、悪名高いカリオストロ伯爵となっている人物である。彼はロンドンで、フリーメーソンを、新しい次元へと意識上昇させようとした。というのも、メーソンが18世紀終わりには低俗化しすっかり唯物論へと形骸化し、衰退してしまったからだが、しかし、ロンドンではうまくいかずに、次にロシアで、そして、ハーグでも次元上昇へと意識を高めようと指導したが、うまくいかなかった。しかし、リヨンでは、仲間と共に「勝利する叡智」と呼ばれるフィラレートロッジを設立できた。カリオストロの意識上昇(アセンション)の指導には、2つの課題を抱えていた。一つは賢者の石を合成することで、2つ目は神秘の五芒星の意味を知ることだった。この2つの課題は、現代人には嘲笑の的になるだろうが、神秘家にとっては究極の真実である。賢者の石の合成目的は、人間の寿命を5530歳まで延ばすことで、無神論者には馬鹿げたことに思われるだろうが、特別な修行で、肉体によらない生き方を学ぶことで、生命を延長できる。だから、この生命の延長とは、肉体の寿命を延ばすという意味ではない。簡単にいうと、肉体の死の瞬間に生じる経過を、非常にゆっくりと段階的に経過させ、肉体の死の瞬間には、肉体によらない生き方ができているので、肉体の死を意識しないのである。つまり、古くなったレインコートを脱ぐように肉体を脱ぎ棄て、新しいレインコートを着るように、新しい肉体を身にまとうようなものである。そして、2つ目の五芒星の認識は、人間の5つの体、つまり、肉体、エーテル体、アストラル体、自我、そしてマナスの霊我を区別できる能力のことである。肉体の中にいる限りは、この5つの体は認識できない。だから肉体の外に出て、外から肉体を認識できる、心の眼をつくる必要がある。カリオストロの弟子への指導は、この心の使い方を授けるものだった。人間にとっては、5つのなかで、肉体が最も進化を遂げ、次にエーテル体、そしてアストラル体、自我とほとんど未発達で、自我はまだ生まれたての赤子だからである。以上のような話をシュタイナーは述べている。シュタイナーは別の農業の講義で、賢者の石とは、炭素と述べている。肉体は、炭素からできているので、恐らく錬金術で、炭素の構造を変えて、金に変換することを、賢者の石の合成と呼んでいるのかもしれない。恐らく炭素の構造を変えて、例えば、黒鉛から金剛石と呼ばれるダイヤモンドをつくることなのかもしれない。ダイヤモンド - Wikipedia面白いのは、「金」という字の形が、五角形で、神社の入口の形も五角形が多いのに気づく。古代叡智では、人間の肉体は、神殿なので、五角形は、そのまま五芒星に通じる。以前、このブログでも紹介したが、契約の箱の形も五角形である。そして、人智学では、ポストアトランティス時代は、第5番目の時代で、その第5文化期のアーリア文化期が、いまの我々地球人が属している、人類の進化紀なのである。【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランティス時代~ | Noos Eggsだから、我々はいま第5の進化紀で、肉体の死を経験しているのだが、その死は、低次なカママナスによる、利己主義のための不安定な、みせかけのもので、赤子のように誕生したての幼稚な自我によるもので、無私のボランティア精神を発揮し、育てて、成人して、目覚めることで、真の霊我のマナス、仏教でいうところの空の、心眼を獲得できれば、五芒星の認識もできるようになるのかもしれない。肉体の外に出ると、覚醒意識を失ってしまうが、ボランティア精神を発揮すれば、肉体の外に出ても、心眼があるので、覚醒意識を失わずに、前世を思い出して、同時に霊魂の不死性を思い出すのかもしれない。シュタイナーによれば、人類の霊魂のほとんどが、古代アトランティス時代を経験していて、その時代では、霊魂の不死性は常識だったので、その時代の前世の記憶を思い出せば、霊魂の不死性も蘇るらしい。シュタイナーは、既に百年前に、現代での再生医学による発見は、古代アトランティス時代に生まれていた潜在意識のなかの、前世の記憶が動機となって、表層の覚醒意識に到達し、生まれるのだが、現代人はそれを現世での見かけ上の科学的発見と思い込むだろう、と預言している。そして、その発見を利己的に追及し、名誉欲や虚栄心につなげてしまうと、古代アトランティスの大破局と同じように、人類同士で戦いあって、地球という生命体から、利己的に、生命を略奪しあって、権力を求めてしまうので、再び地球という大自然からのしっぺ返しをブーメランとして食らうだろう、と預言している。それはカリオストロを、悪名高き人物に仕立て上げたのと同じように。だから、人類には無私のボランティア精神が不可欠で、それは地球という生命体にも、神という生命が宿るように神殿を協力してつくっていかないといけない、とシュタイナーは説いている。人類の遺産とは、この地球という大自然の神殿なのである。このようなオカルトの叡智が、カリオストロを通じて、隠されている。あなたがルパンとなって、このカリオストロの隠された叡智を表に出す時代なのである。宮崎駿アニメのルパン三世カリオストロの城には、実はこの古代アトランティスの水没した神殿が、カリオストロ伯爵の死と共に、時計塔の時計針の回転が一巡し、最後に現れる結末となっている。カリオストロ伯爵の肉体は、古代ローマ文化期を象徴する子羊の指輪を時計にはめ込むことで、それはまさに地上に神殿として地上に降臨した、光と闇のキリストを象徴するが、それら光と闇の肉体が、一巡した時計針に挟まれて消えてしまい、その肉体の死の贖いでもたらされたローマ時代の神殿を、ルパンは、「俺のポケットには大きすぎる」、と言って、放棄して、インターポールに委ねるのだが、伯爵の死を無駄にしないために、怖いオジサンたちインターポールに委ねずに、この神殿をかつての古代アトランティスの黄金に輝く神殿の、不死の霊魂へと、個人個人で、高めなくてはならない。このカリオストロの城のルパンのように、宮崎アニメが、地球の平和を先取りして、世界の人々にユートピアを表現して、ルパンがクラリスの心を盗んだように、多くの少年少女の心を、盗んだから、多くの少年少女が、奪われた心を取り返しに、いまこの日本に、インバウンドで訪れている。だから、銭形警部が最後の決め科白のシーンで、「ルパンは、大変なものを盗んでいきました」、というのと同じように、宮崎アニメは大変なものを盗んでいきました、というべきなのかもしれない。「いいえ、あの方は、何も盗んでいませんが」、と、クラリスは否定する。昭和一桁生まれの堅物の、銭形警部は確信をもって、「いや、あなたの心です。」とキザなセリフを吐く。宮崎アニメは、ルパンなどの人物を描くことで、地球の少年少女の、未来の心を盗んでしまった、とまるで銭形警部のように、決め科白をはいて、では失礼します、と画面からハードボイルドに去っていくのである。ルパンのハードボイルドは、このセリフの、銭形警部に盗まれたのがわかる。今度は地球の少年少女が奪われた心を地球に還す番なのである。そして、アセンションをボランティア精神で遂げる時代がいまこの時代なのである。地球の生命が、あなたの心にかかっている。盗まれた心の代わりに空のボランティア精神を灯すのは貴方次第。それが地球の生命再生となるだろう。あなたのなかのルパンが目覚めるときなのかもしれない。
2025年04月29日
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日本の文化を、神智学で解き明かすと、健康に良い習慣がしばしばみつかる。それは恐らく、神道や仏教の行事や作法から来たものと思われるが、例えば、家に入るときには、靴を脱ぐ習慣である。最近は、靴を脱いでも、スリッパなどに履き替える人も多いが、足の健康を考えるのなら、裸足でいるのが望ましい。裸足でいると、足のツボが歩く度に刺激されて、体内の内分泌腺を促すからである。また、日本の作法では、椅子などを使わずに、地べたに座るが、勿論、長時間ずっと座っているのは健康にもよくないが、座るときは正座で、頻繁に、座ったり立ったりすれば、スクワットの運動になるわけで、ふくらはぎを適度に刺激すれば、血行もよくなる。このような適度なストレッチ運動を取り入れたのが、日本の作法なのではないだろうか。床の座り方。座る姿勢や腰痛対策とは | 家具暮らしの情報空間スクワット - Wikipedia「ゆるスクワット」で一生歩ける体づくりを | 健康ライフ | からだケアナビふくらはぎの効果的な筋トレメニュー5選 鍛えるメリットも解説 | SIXPAD-シックスパッド公式サイト日本人の所作・礼儀作法の歴史 | 殺陣教室・東京のスクールまた作法ではないが、修行者には肉食が禁じられて、仏教の精進料理は、肉を食べないが、人智学では、肉食が肉体の物質界に同調させやすくするために、霊的修行者には、戒律で禁じられているのがわかっているが、更に、神智学では、甲状腺の機能を阻害するものとわかっている。肉食に加えて、飲酒も、甲状腺の機能を弱める。だから肉食と飲酒ばかりすると、甲状腺機能が衰えて、いずれ心臓疾患にかかるだろう。心臓発作の増加はフライや肉の多い欧米型食事が原因 | ニュース | 糖尿病ネットワーク甲状腺は、肉体の成長に関係しているが、摂取された毒物を解毒する働きを担っている。だから、過度の肉食は、甲状腺の機能を衰えさせるので、甲状腺機能低下症になりやすくさせる。甲状腺の機能が低下すると、その上で、甲状腺を刺激している脳下垂体が、そのバランスを埋めようと、甲状腺を刺激し過ぎるようになると、全体のバランスを失って、不安定になり、今度は、甲状腺機能亢進症に罹りやすくなってしまう。甲状腺機能低下症について | メディカルノート疲労感、むくみ、寒がり、便秘、体重増加、脱毛といった症状が引き起こされるようになります。放置して重症化すると、心不全や意識障害を引き起こすケースもあるため注意が必要です。また、甲状腺ホルモンは卵子の成熟や子どもの成長にも必要なホルモンであるため、甲状腺機能低下症を発症すると生理不順や不妊、小児期の成長・発達障害がみられることがあります。甲状腺機能亢進症について | メディカルノート甲状腺から分泌される甲状腺ホルモンは、体のさまざまな機能や新陳代謝を活性化するはたらきがあります。そのため、甲状腺機能亢進症によって甲状腺ホルモンの分泌量が増加すると、心拍数の増加や血圧の上昇、発汗、ほてり、手の震えなど交感神経が過度に刺激された際に生じる症状が見られます。さらに、活動性の異常な高まりや、基礎代謝が異常に高まることによる体重減少、消化管のはたらきが過剰になることによる下痢などさまざまな症状が現れるようになります。甲状腺の病気について|内分泌・代謝内科|独立行政法人国立病院機構 京都医療センターこのように人体は複雑なバランスで成り立っていて、それを制御しているのが心の世界で、3次元空間の肉体を、4次元以上の時空の霊魂で、高次の世界に同調して、休息をとったり、睡眠などで、偏った悪い制御の記憶を忘れるようにして、バランスを回復させているわけなんである。肉体を動かしているのが心であるように、心の操縦法を間違えると、心のバランスが崩れて、肉体に病気が生じる。だから、病気をつくりだしているのは患者の心なのを、神智学は解き明かしている。このことを、古代叡智は、人間の法は破れるが、神の法を破ると、自分が破られる、と端的に表現している。神の法の道徳を破ると、心のバランスが失われるからである。例えば、ガンになるのは、抑圧された感情がストレスとなっているせいと、神智学では解き明かしている。このようなネガティヴな心の闇があると、人体の内分泌腺のバランスが崩れて、特に解毒作用が働かなくなり、抵抗力を失うために、ウイルスや細菌などの感染症にかかってしまうわけで、このような寄生生物が病因となっているのではなく、それらは、病気を悪化させて、肉体上に、表出させているだけにすぎない。それらの寄生生物を除いたからといって、心の闇がなくなっているわけではないから、この思い癖がなくならない限りは、内分泌不足も回復せずに、また別の感染症に罹るだけなのである。だから、病気を治したいと思うのならば、自己を反省し、このような思い癖を取り除く必要がある。例えば、病気に罹ると病院にいき、医者に診てもらうのは、医者が病気を取り除いてくれる、と信じているからである。この医者への信仰心が、患者の思い癖からくる、罪を告白し、生活態度を改め、自己反省を促すから、思い癖が改善され、病気が癒されるのである。病院に行っても、医者を信じずに、生活態度を改めようともせずに、自己反省もないのなら、思い癖はなくならずに、内分泌不足は改善されずに、病気が癒されることもない。だから、何事も信仰心に勝るものはないのである。医者を信じる者は救われ、治される。ただし、患者の訴えに真剣に耳を傾け、患者が何を信仰しているのか、洞察できる医者に限られるが。診断というのは、患者の心のなかの信仰心を見抜く作業なのである。その際注意すべきなのは、患者の病気に至るネガティヴな感情に共感しないことである。この感情に同調すると、患者から病気をうつされる。巷の、ニセモノのキリスト教では、イエスが奇跡を行ったと吹聴しているが、神智学では、奇跡も、超能力も存在しないのを、意識の違いから、解き明かしている。キリストが、奇跡や超能力の代わりに、ただ「信じる者は救われる」という、宇宙意識の共鳴共感の、神の、あらゆる存在を救いたい、という愛との同調の法則を用いているにすぎないのを解き明かしている。「信じる者は救われる」という言葉の意味は、あらゆる意識に同調できるのが、神の意識で、あらゆる意識を拒絶するのが悪魔の意識といえるかもしれない。この同調の法則を、金儲けの道具や私利私欲に、悪用しているのが、物質界の悪魔崇拝教である。自分だけが正しいと思い込むのは、悪魔の信仰心に他ならない。そして、他者に、自分のこの間違った信仰心を強要するのは、信仰心の悪用で、悪魔に魂を売ることになり、地獄に堕ちていくだろう。自分が何を信じるのか、人間には自由な意識や意志がある。なにより、宇宙には多種多様な意識と意志がある。そのどれかに同調する、自由な意志を人間は与えられている。現代科学でも並行宇宙が提唱されているように、また量子力学からもわかるように、地上の人間が物質界で暮らせるのは、物質界を信じて、物質界を形成している意識、物理的にいえば、物質的な波動に同調しているにすぎない。霊魂の、物質波に同調する道具となっているのが、覚醒意識である。この覚醒意識が、光をみて、粒子あれと、物質界に同調するから、量子が生まれる、のである。それを客観的に説明するために、数学者のイメージによって、確率統計で、波動関数や行列式で表現しているわけなんである。パラレルワールド - Wikipediaさて、物質界では、毎日様々な出来事が起こっているが、その出来事に同調するか、しないかは、人間の自由意志と、これまでの輪廻転生で獲得してきた意識にかかっている。物質界の出来事を経験するために、この世に生まれてきたわけで、そのために覚醒意識をもち、日常の物質的感覚から、自分にされて嫌なことを自分が他者にしないように、自分に与えられた立場と役割の面から、霊魂を育てている。霊魂を育てることで、人間は不死の霊魂の存在だと知ることにある。だから、この地球で、人間は様々な死を経験し、死を乗り越えて転生してきた。昨今、シュタイナーが預言したように、前世を記憶している子どもや、前世を思い出す霊能者などが現れてきている。人間はこれから次第に死なない存在だと自覚していくだろう。ただ今自分に与えられた立場と役割を完遂することに努力し、霊魂を不死の認識へと成長させていくだろう。さて、ローマ法王が亡くなったという発表で、世界は追悼ムードに明け暮れ出しているが、キリストが『「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25〜26)』と言っているように、ただ肉体を脱ぎ捨てただけの話にすぎない。キリスト教カトリック教会のローマ教皇フランシスコが死去、88歳 - BBCニュースわたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 | 聖書入門.com人間の肉体は崩壊するが、霊魂は不死なので、永遠に続き、終わりはない。肉体は、霊魂の生まれ変わりの抜け殻で、物質界での一時的な居住地にすぎない。キリストの、この言葉を信じるものは、死んでも死なないのである。自分が死ぬ存在に思う人は死ぬだけである。人間には自由意志がある。だから、自分が思ったようになる。死ぬと思えば、死ぬし、死なないと思えば死なないのである。だから、信じる者は救われる、というのは、この宇宙の真実なのである。信じるとは、同調することで、神に同調するには、自分が神になるまでに、肉体を捨てて、純粋な霊魂として、同調しないといけない。神は常に愛として宇宙にあるので、その愛に同調できるかどうかは、あなた次第なのである。愛に同調すれば、それは万物流転の法則なので、愛が形を変えて蘇り、生命となる。確かに物質界では、肉体というアカウントをもって、時間の流れのなかに、ログインして生きるが、この物質界での立場と役割をカルマの法則から、解消して死期を迎え、ログアウトして、物質界から離れれば、また別の並行宇宙で生きる。そこが天国であるかどうかは、本人が、物質界で生きた時に何を学んだかである。物質界に染まらずに、常に愛と同調できていたか、心のなかの闇を拭い去る事ができたか、にある。なによりも、キリストが為したように、愛を与えて生きているかどうか、それは本人の心掛けで、信仰心によるのである。愛を信じられるかどうか、である。愛を信じるために、シュタイナーの「霊魂の探求において現れる善の道と悪の道」の講義を続けて紹介する。愛を信じるのなら、愛を与え続けなさい。愛は永遠なのだから。 ☆ ☆ ☆ガブリエルの時代の前の、アラヌス・アプ・インスリス、ベルナルドス・シルベストリ、フィオーレのヨアキム、ハンビルのジョンやブルネットー・ラティーニの時代の探求は全く別なものとなります。この時代を、人間の成長期に当てはめるなら、大体7歳の歯の生え替わりから、14歳前後の思春期までに、人間に働く力を、遡って振り返るときに獲得される力によって支配されていました。これが水星の力なのです。この人生期を、出発点として霊的な感覚器を発達させるとき、何か非常に意義深いものを経験します。歯の生え替わりから思春期までの時期は、いわゆる何でも知りたがる子どもですが、この人生期につくられる感覚器で知覚すると、子どもの、世界を知りたいという情熱を思い出すのです。この時代に属する人々に個人的に会いたいと望むのは、この感覚器のためです。そして、霊界に参入し、獲得する認識から、実際に情熱を叶えるのです。それは、10才か12才の子どもが目上の大人、例えば、教師と出会うように、ブルネットー・ラティーニのような人物に個人的に出逢うのです。霊界に参入するための、正しい認識を自分のものとするなら、物質界の出来事に無関心であってはなりません。大人であると同時に知識を渇望する子どもになるのです。ブルネットー・ラティーニと対等の立場で向き合い、彼から学びたい、という強烈な欲求を同時にもつのです。11世紀から15世紀までの時代に遡り、霊界に参入するための認識は、このような個人的な関係から来る特別な色合いを帯びています。それは地球と人類に対する主要な意識が、水星から与えられた時代なのです。水星を中心にあらゆるものが回っていた時代において、特別な重要性をもっていた存在が、ラファエルという名前で知られていました。ラファエルはルネッサンスに先立つ時代、ダンテやジョットーの時代における水星だったのです。歴史上ほとんど知られていない人たち、その名前が記録されなかった人たちと個人的に知り合いたい、と感じるのです。人智学の教えに精通するとき、その時代は、私たちには矛盾した反応を引き起こします。私たちは、はじめにブルネットー・ラティーニやアラヌス・アプ・インスリスのような人物について教科書などがほとんど何も記述していないことに当惑し、歴史的な事実がもっと得られないものか、と思うのですが、私たちの知性の地平線が広がるにしたがって、このような歴史の沈黙に感謝し、ありがたく思うようになります。何故なら、物質界での、歴史史料は断片的なものにすぎないからです。もし、私たちの時代の認識について、歴史上の副次的な枝葉末節の新聞記事が唯一の有効な存在証明と考えられるとしたら、それが子孫の目にどのように映るかを想像してみて下さい。私たちは、これらの人物に関して、百科事典のなかに見られる、限られた情報によって妨害されないことに感謝できるのです。そして、私たちは、今日、人智学協会が手にする、あらゆる霊的な認識を用いて、これらの人物との精神的な接触を試みるとともに、人智学の立場から、彼らについて確認できる、あらゆる事柄について報告できるのです。ラファエルの時代に、自然認識に携わっていた人物たちと関係を持つことはとりわけ重要なことです。自然についてのより深い認識や医学についての理解が、この時代の精神的な夜明け(9世紀から15世紀)のなかから、霊的知覚の前に現れて、その時代の多くの人物を通じて、私たちに現在流行している物質概念や宇宙と人間の関係を教示してくれるからです。私たちが超感覚的な視覚をもってこの時代をのぞき見るとき、その名が後世に伝えられて来なかった多くの無名の人物たちに出会うのですが、これらの人物たちは実際に存在していたのです。これら多くの人物たちが私たちの前に現れるとき、そこに現れるのは「大パラケルスス」なのですが、その名前は記録には残らずに、後の時代、ガブリエルの時代には「小パラケルスス」が生きていたのですが、彼は大パラケルススの自然の叡智を、もはや、大パラケルススの純粋かつ崇高な精神の形態ではなく、思い出としてもっていた、のがわかります。後のガブリエルの時代には「小ヤーコブ・ベーメ」が私たちの前に現れます。そして、そのときも、この人物は様々な伝統的な教えから学び取った崇高な真実、彼のインスピレーションに刺激を与えた崇高な真実を告げた、のですが、私たちが本当に「小ヤーコブ・ベーメ」を理解するのは、後世には知られていない、その名前もアラヌス・アプ・インスリスやブルネットー・ラティーニと同様、たまにしか触れられることのない「大ヤーコブ・ベーメ」が私たちの前に現れるときだけです。ルネッサンスに先立つ時代は-そして、その時代の終わりには、ダンテやブルネットー・ラティーニのような有名な人物やシャルトルの学院が、孤立した明かりのようにそびえ立つ一方で、その中心には、スコトゥス・エリウゲナが標石(訳注:氷河などに運ばれて意外なところで見つかる玉石)のように現れるのですが-力強い精神的な刺激を包含しています。中世についての物質的な歴史は闇に包まれていますが、この闇は今お話しした時代を照らし出す力強い人物たちの存在を隠しているのです。私たちが9世紀から15世紀までのラファエルの時代(原注)に入っていくとき、ダンテやジョットー、そして後世にその名が知られていない人物たち、あるいはまた私が触れた別の人物たちが大きく浮かび上がってきます。彼らは身近な人間の印象を、私たちに与えます。肉体のなかに一度も受肉したことのないラファエルは、更に後方の背景のなかに退いています。永遠に霊界に居住する、その他の霊的な天使存在たちはこの時代にはそれほどはっきりとは現れてきません。大きく浮かび上がってくるのは人間、特に死者の霊魂たちです。続くガブリエルの時代は、ゲーテ、スペンサー、バイロン卿、あるいはボルテールのような人物たちでさえ、霊界のなかでは影のような存在である、という印象を与えます。他方、私たち人智学徒は、霊能力を通して、人間というよりも超人のような印象を残す、素晴らしく壮大な天使存在を意識できるようになります。彼らは今日も存在しています。そして、地球が、誕生から死までの人間の住居であるように、月の領域が彼らの永遠の住居なのです。これらの霊的な存在たちが、私たちの注意を引く一方で、人間の死者の霊魂は、そのもっと後方の背景へと退いています。今日、私たち人間がそうであるように、これらの霊的な存在たちはかつて地球に暮らしていた、ということがわかります。人間は物質的な肉体のなかに生きていますが、これらの月存在たちは、地球上では、いまよりも精妙で高周波の波動をもつエーテル的な肉体のなかに生きていました。そして、太古の時代には地上にあって人間と交流し、人間の精神的な教師であった存在たちは、今でも私たちと共にある、のに気づきます。彼らは、彼らの地上での使命が成就したとき、月の領域へと退き、今日ではもはや地球には直接関係していないのです。私の本「神秘学」をお読みになった方はご存じのように、月はかつて地球と結びついていましたが、後に分離しました。これらの存在たちは月の分離に際して、月に同伴し、その後、月の領域の住人となりました。ですから、私たちは、死後間もない死者たちと連絡を取るのを可能にする霊的な認識レベルに入っていく霊界でも、通常の覚醒意識についての以前の認識をまだ保持しているために、私たちを取り囲む人たちはかつて地上において肉体を持った人間だった、のを、今日の覚醒意識によって認めるのです。つまり、私たちは、この異なる意識に参入するとき、ちょうど私たちが地球に属しているように月の領域に属する霊的な存在たちと共にある、ということにますます気づくようになるのです。彼らは普遍的に存在し、人間の行いに関心を寄せているのですが、それは今日の人間が行うような物質的な観点からではありません。かつて人類の偉大な教師であった存在たち、すなわち、もはや地球の住人ではなく、いわば月領域の住人となった存在たちのなかには、圧倒的な壮大さと最高度に発達した精神性をもち、内的に荘厳な精神に満ちた存在が見いだされます。宇宙の神秘に関する非常に多くのことがらを彼らから学ぶことができます。彼らの知識は、人間の通常の覚醒意識が到達できる知識を遥かに凌駕しているのです。けれども、彼らはこの知識を、人間のように抽象的な思考によっては表現できません。彼らのそばに近づくと、彼らが奏でる歌やハミングの波動に遭遇しますが、彼らはあらゆるものを詩や芸術的なイメージを通して表現するのです。彼らは、その独自のやり方で、ホメロスや古代インドの叙事詩では知られていなかった崇高な調和をもって私たちを喜ばせ、魅了するのですが、彼らが私たちの前に魔法のように出現させるものすべての中には深い叡智が横たわっています。とはいえ、彼らの中にはそれほど完全でないものたちもいます。ちょうど地上に愉快な連中もいれば、不愉快な連中もいるように、これらの異なる存在たちの間にも、その仲間たちほどの荘厳さや完全さを達成しなかったものたちを見いだすことができるのです。にもかかわらず、彼らは落第した生徒や弟子として地球領域を離れ、月領域に生きながら、そこで働き続けたために、ある程度の完成段階に到達しています。卑近な表現ですが、彼らとつき合うとき、彼らが地上の出来事に燃えるような関心を寄せているのがすぐに分かるのですが、それは全く異なる種類の関心なのです。 これらの存在は好意的ではなく、どちらかというと招かれざる連中などと想像してはなりません。彼らは、その仲間と比べれば不完全とはいえ、現代人が通常の覚醒意識をもって到達できるレベルを遥かに超えた明晰さ、賢さ、洞察力をもっているのです。彼らはいつでもその仲間と同じ習慣を共有しているのですが、今日の地上の人間とは異なる習慣や傾向をもっているだけなのです。
2025年04月24日
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迷惑詐欺メールが巷を席巻している現代において、騙されやすい高齢者をターゲットにした新にぃさとか、巷ではまたまた怪しい金融機関だけを喜ばせるアーリマン的な詐欺的な企みが時代を闊歩し始めているが、アインシュタインが複利を絶賛した、というような話が、付け焼刃で有名な某コメンテーターがTVで語っていたので、物理畑出の知識欲から、「アインシュタインがそんなこというかなぁ」と思ったので、ググってみると、やはり、一次情報ソースが不明ということだった。アインシュタインは本当に「複利は人類最大の発明」と言ったのか│商社のゲームそもそも、アインシュタイン自身が提案した一般相対論の数式に、宇宙の膨張を抑制する、いわゆる反複利式みたいな宇宙項を導入したのだから、複利を絶賛するとしてもジョークとして言ったものと考えられる。後にハッブルらの観測データから膨張宇宙がわかり、この宇宙項が取り下げられて、複利みたいな膨張宇宙の勝利に終わるのだが、そのときに言ったとも考えられるが、いずれにしても一次情報が不明なのは変わりがない。宇宙定数 - Wikipediaそこで、アインシュタインに間違われやすい、複利絶賛コメントを言いそうな理論物理学者を考えてみると、物理畑では「ご冗談でしょう、ファインマンさん」で有名なファインマンなら、言いそうなので、ググってみると、案の定、オイラーの等式の美しさを称える発言をみつけたので、おそらく、オイラーの等式に絡んで、複利を絶賛したもの、と考えられる。数学者がオイラーの等式の美しさを称える理由 | ワイズノーベル物理学賞受賞者である米国の物理学者リチャード・ファインマン(Richard Phillips Feynman)によると、オイラーの等式は「我々の宝石(our jewel)」であり、「数学において最も優れた、驚異的と言ってよいほどの数式(one of the most remarkable, almost astounding, formulas in all of mathematics)」です。上のサイトによると、ファインマンは、オイラーの等式を絶賛していたので、直接ではなく、間接的に複利を絶賛したわけで、複利の素となったオイラーの数、これはベルヌーイが発見したのだが、オイラーが名付け親なので、オイラーのおいらの数とされてしまい、ファインマンが、そのおいらの数のおいらの等式を「我々の宝石」、つまり、おいらたちの宝石と絶賛したようである。恐らく、ファインマンが、アインシュタインに間違われ、両者が、プリンストン(アインシュタインは高等研究所で、ファインマンは大学の違いはあるが)に在籍していたことがあるので、ファインマンの発言が拡大解釈されて、ファインマンの知名度よりも高い、なにしろお笑いのコンビ名にもなっているほどのアインシュタインなので、日本に伝わったときには、ファインマンからアインシュタインになったのではないかと思われる。リチャード・P・ファインマン - Wikipediaこのように、かつて偽ハーバード卒が巷を席巻したように、TVはよく知ったかぶりで裏もとらないで、迷惑詐欺メールのように喋る輩がいるので注意すべきである。科学を権威利用して語る似非科学者というのが結構いて、ネットでググればわかるから、確認作業が必要である。いずれにしろ、アインシュタインやファインマンも有名で偉大な物理学者だが、複利そのものを絶賛した、という話には?疑問符がつく。言ってもいないのに、言ったかのようになるのは、昭和のアインシュタインの来日ブームによるものかもしれない。このようなブームに踊らされることなく、にいさの手口に引っかからないように注意すべきだろう。以前、「私のバカせまい史」で、「偉人の本当は言っていない名言」を特集していたが、必見かもしれない。偉人の本当は言っていない名言 | 私のバカせまい史 2024/10/11(金)00:55のニュース | TVでた蔵「ブルータス、お前もか」はユリウス・カエサルの名言とされているが、史実によると暗殺者の多さにカエサルは何を言うこともできないまま亡くなったと書かれている。シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」でセリフとして書いたことで定着した。「一本ではたやすく折れる矢も三本にまとめると折れない」は死の床に伏す毛利元就が3人の息子を呼び寄せて言った名言とされているが、実際は元就が死の床に伏しているとき長男の隆元はすでに死んでいた。「敵は本能寺にあり」は明智光秀の名言とされているが、史実の中に言った記録はない。頼山陽が日本外史で明智光秀のセリフとして書いたものが広まった。織田信長は豊臣秀吉をサルと呼んでいたとされているが、実際ははげねずみと呼んでいた。「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」はマリー・アントワネットの名言とされているが、実際はルソーが書いた自伝「告白」の中に登場するとある高貴な女性がジョークとして言ったセリフ。リンカーンは演説で「人民の人民による人民のための政治」と言ったが、セオドア・パーカー牧師の自著に書いていた言葉を引用したものだった。「日本の夜明けは近いぜよ」は坂本龍馬の名言とされているが、1970年頃に笑点の大喜利で林家木久扇が映画「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎のモノマネで言ったセリフだった。そもそも鞍馬天狗も言っておらず、林家木久扇のオリジナルギャグが関係のない坂本龍馬の名言になった。ガガーリンはインタビューに「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」と答えていたが、これを日本の記者が「地球は青かった」と名言っぽく要約した。川上哲治選手の名言として知られる「ボールが止まって見える」は、同じ時代に活躍した小鶴誠選手の言葉。小鶴選手の知名度が低かったため、川上選手の言葉として記事になった。実は言ってない偉人の名言の歴史をバカリが研究|フジテレビの人気ドラマ・アニメ・TV番組の動画が見放題<FOD>ブームにのせられて、言ってもいないことが創作されてしまうのだから、本人はたまったものではない。しかも、裏とりをしないで伝達が、複利のように増幅してしまうから、ブームに乗せられて、まさに複利は言った者勝ちで、偉人の名言として賞賛されてしまう。さて、複利の勝算ではないが、この他にも、昭和の一大ブームといえば、ユリゲラーの超能力ブームを挙げる人も多いだろう。誰もがユリゲラーの真似をしてスプーン曲げに挑戦した記憶があるだろう。ユリゲラーのようにスプーン曲げができるようになるには、それ相応の訓練が必要である。3次元の科学的トレーニングを全て完遂し、それを超えた可視化されない、4次元の心の訓練が必要となる。だから、何度失敗しようとも、やり続ける不屈の精神が必要となる。ユリ・ゲラー - Wikipedia超能力者が、ヒーロー、もしくはヒロインになったのは、当時の科学者が否定的な意見を持ち出してきて、このときだけとなったが、その後で、ミスターマリックのハンドパワーの、マジックへと受け継がれていく。科学の世界では、誰もが実施できて、客観的な認識を必要とする物質的方法が吟味されるから、超能力などという、その人特有の能力など、得体の知れないものへの評価を持ち合わせていない。Mr.マリック - Wikipediaだから、天才がなぜ生み出されるのか、UFOやUMAなど、3次元世界を超えた現象への解答はほぼ不可能なのである。それらの特に、心の問題は、宗教が絡んでくるので、科学では解答できず、なにより数値化数量化できないから、誰もが同じ才能をもつように画一化、愚民化しようという教育的な圧力が、この物質界では権力者により推し進められている。目にみえるもので標準化した方が見えやすく管理しやすいからでもある。しかし、少し考えてみればわかるが、可視化された地上の世界というのは、以前、宇宙から来る宇宙線などの、放射線を含む電磁波の全波動域の一部の、ほぼ可視領域の世界でしかないが、その可視化世界に置き換えて、分子構造や結晶構造を推測しているのにすぎない。人間が覚醒意識で、感知できるのは、確率統計を用いた3次元の時間が止まった線形の世界だけなのである。アインシュタインの言葉を借用して、ぶっちゃけていうなら、神がサイコロを振った後のサイコロの目をみているにすぎない。神がサイコロを振る動作は見えないブラックボックスなのである。しかも、サイコロの目の情報は、複利の如く増加していく。アインシュタインは、量子力学に難癖をつけるために、神はサイコロを振りませんと否定したのだが、少なくとも、神がサイコロを振っている姿はみていないわけで、だから、幸運の女神には後ろ髪がない、といわれる。だから、とにかく人間の3次元の可視域に入ってくるまでに試行錯誤を繰り返して、失敗を続けるしかない。失敗を通じて、自分のなかから失敗のやり方を捨てて、放棄していくしかない。それは成功が目にはみえないからである。仏教の般若心経でいうところの、色即是空の、色となる前に遡り、空に達しないといけない。失敗は色で、色を通して空をみるという禅問答を続けていくしかない。幸運の女神には前髪しかない - Wikipediaつまり、3次元が色で、4次元以上が空なのである。空の4次元の世界を、色の3次元で捉えようとするから否定しかできない。数学でもわかるが、3次元空間を4次元に拡張するには、次元を付加して、3次元世界を超えないといけない。それは可視化できない世界、例えば、ミクロの世界や、マクロの世界に自分を縮小するか、拡大しないといけない。少なくとも、いまいる3次元の空間から抜け出さないと観測できない。だから、宇宙の果てはどこにあるのか?という哲学的な解答は、自分のなかにある、となる。自分を、宇宙の果てまで拡大して、つまり、失敗ばかりの、3次元空間を超えて、4次元以上の時空の世界まで、心を進化させないといけない。だから、古代ギリシア哲学では、汝自身を知れといい、仏教などでは、心眼の開眼が必要と説くのである。3次元世界の向こうには、4次元以上の異次元の世界があり、人間は、ほとんど3次元しか感知できず、ほとんど可視光しかみえないのだが、実はそれ以外の不可視の宇宙放射線の影響を受けている。神智学では、この宇宙放射線の人体への有害さを除けば、人間は一万年でも生きられるようになるのがわかっている。そして、この有害さを解毒するのが、人体のなかでは主に甲状腺なのがわかっている。人間には感知できない宇宙線の影響は、人間の霊魂の意識に生命的な効果をもたらす。それは霊光と呼ばれている。人間の知性は、この4次元以上の効果を受けている。そして、この霊魂の意志から、肉体の意志につなげるのが松果体なのである。だから、科学者の3次元にモノ化され、固定された視点から、4次元以上の、人間の意識に作用する特殊な才能を解放するには、いわゆる天才の、超能力を、ミスターマリックなどの、マジックの世界や、宮崎駿などの、アニメの世界にしてしまえば、表現も認められ得るものになる。だから、モノの視点や視覚を身近なものへと、可視化し、操作すればいい。現実の世界を少し非現実の世界で可視化すればいいから、アニメなどは、超能力には、もってこいの舞台となる。ハンドパワーやゴムゴムの木などは、いわば電磁力の超能力である。超能力が目に見える形になれば、ヒーローやヒロインが現れる。マジックの種を教えてもらうのではなく、自らの能力で拡大するのがヒーローやヒロインの種で、次世代の能力に植え付け、拡大すべきである。令和に還暦を迎える世代の、昭和の代表的ヒーローアニメといえば、「巨人の星」、もしくは「あしたのジョー」などが挙げられるが、ヒロインアニメは、「魔法使いサリー」、もしくは「キャンディキャンディ」が挙げられるかもしれない。それらの人気アニメをも凌ぐ一大ヒロインドラマといえば、やはり「おしん」といえるのではないだろうか。おしん - Wikipediaおしんの物語は、親たちと一緒に、子どものときにみたのもあって、ほとんど覚えていないのだが、先日、BS12で、ヴァイオレット・エヴァ―ガーデンをみて、この懐かしい、おしんを思い出させた。このアニメ作品は、どこか平成、もしくは令和の、おしんのような素朴で健気な雰囲気、人間の弱さのなかの、力強い成長を醸し出している。おしんを西洋風にすると、小公女セーラになるのかもしれないが、このエヴァ―ガーデンは、確かにキャラクターの設定は、中世の西洋風のルックスなのだが、どこか東洋風でもあり、異次元の夢の世界を感じさせ、宮崎アニメに出てくる西洋風にアレンジした非現実世界の雰囲気を醸し出している。小公女セーラ - Wikipediaヴァイオレット・エヴァーガーデン - Wikipedia宮崎アニメでいうのなら、「ハウルの動く城」の世界によく似ているかもしれない。ハウルも好きで、宮崎アニメはどれも好きだが、一番個人的に好きな作品は、「ルパン三世 カリオストロの城」で、このカリオストロの城に出てくる健気なクラリス姫が、このヴァイオレットエヴァ―ガーデンの主人公ヴァイオレットと被ってみえるのだがどうだろうか? クラリスとヴァイオレットの青い瞳にみつめられると、心が溶かされてブラックホールに吸い込まれてしまうように感じる。ヒロインの青い瞳は、宇宙の光を吸収し、不可視の光として放出するブラックホールを表現している。ハウルの動く城 - Wikipediaルパン三世 カリオストロの城 - Wikipediaルパン三世カリオストロの城の見せ場は、カーチェイス場面やクラリスが幽閉された城にルパンが乗り込む場面など、アニメでなくては表現不可能なシーンが盛り沢山なのだが、エヴァ―ガーデンも、アニメでなくては表現不可能な幻想的なシーンが、特に、機械や機器が一見古風なのに、その機能では、最先端を凌ぐ性能をもち、近未来的なのが、古いのか新しいのか、時代錯誤的でいて、アニメのなかで融合され、しっかりまとまっているシーンが盛り沢山なのである。だから、ヴァイオレットが、人間なのか、ロボットのような機械なのか、わからなくなる場面がよくある。アニメでないと表現不可能なシーンが多く、恐らく、ヴァイオレットエヴァ―ガーデンの実写化は、ほぼ不可能に近いが、それに近いものをつくるなら、ヒロインではないが、「フォレストガンプ」のような作品になるかもしれない。実際に見終わった後で、おしんを思い出した後に、フォレストガンプも思い出したからである。ヴァイオレットが成長と共に、周囲に幸福をもたらしていく幻想的なシーンが中世風の異世界として、綺麗に描かれている。フォレスト・ガンプ/一期一会 - Wikipedia愛とは、弱さを強さへと、人間を成長へと導く源泉なのである。愛の鞭とはよく言ったものである。アニメの世界では、しばしば、愛が超能力として表現されている。人間を成長へと導く、愛の生命力は、神の光であるのが、神智学から解き明かされている。光が当たるところには、神の愛が生命力として働き、光が当たった対象を見守っている。神は光といっても、可視光だけの存在ではなく、宇宙全体に行き渡る波動で振動である。愛をモノ的にいうなら、目にはみえない空の宇宙線で、人間は、そのうちの可視光だけの色をみているにすぎない。色の可視光だけしかみていないから、空の神の存在がわからない。古代ギリシアでは、空をプシュケーの魂と呼んだ。だから古代ギリシア的にいえば、空間は、魂間で、魂と魂のつながりとなる。この魂のつながりを水に喩えたのが、タレスの、万物の源は水である、の名言で、ヘラクレイトスが、魂のつながりがカルマの法則によるから、万物流転則を説いた。人間の肉体も電子などの殻をもった原子核などの元素からできているように、電子が電磁波の光が凝縮したものなのが、人智学により解き明かされている。神智学では、それら素粒子は、コスミックダストと呼ばれる、宇宙エーテルが凝縮したものであるという。ここら辺の話はまだ不勉強で私のアタマでは理解していないが、これらの魂間からなる、宇宙を固体化させ、物質化させているのが、神の意志で、人間のなかでも働いている、といわれている。心に緊張と緩みがあるように、神の意志にも、緊張と緩みがあり、緊張が固体化で、緩みが液体化である。光が緊張するときに物質を現わし、緩むときに非物質の生命力を現わす。だから、光は粒子と波の二形態で現れる。人間は、霊魂の霊体の空と、肉体の色の二つの光の状態を、心のなかで、緊張と緩みで、使い分けている。この使い分けを衝突させてしまうと、闇として、破壊させてしまう。陰陽五行説は、緊張と緩みを使い分けて、緊張同士や緩み同士での衝突を回避するために生まれた古代叡智である。日本の四季文化などは、緊張と緩みを使い分け、衝突を回避する、つまり空と色のバランスをとるための二刀流といえるかもしれない。このような霊魂と物質の、二刀流の世界の探求のために、シュタイナーの「霊魂の探求において現れる善の道と悪の道」の講義を続けて紹介する。 ☆ ☆ ☆ルドルフ・シュタイナー「霊魂の探求において現れる善の道と悪の道」 (GA243)トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日-22日佐々木義之訳改変要約 第七講 天空の世界の認識と、地上の、人類の歴史と、その霊魂の背景 前回の講義では、人生に現れる様々な難題と葛藤して、人間が精神的な成長を通じて、過去を振り返るのを霊的に見てきました。このようにして、人間は、意識を高めて、天空の世界との不可欠な霊的な交渉に向けて一歩一歩インスピレーションの上昇を達成します。もちろん、この天空の世界は、純粋な光に満ちた、霊的な存在たちと、純粋な真実を通じて、霊的な表現、顕現として理解しなければなりません。心のなかの扉を開き、その世界の探求に取りかかるには、それに必要な意識と霊魂の状態に、自らを到達させるために骨の折れる努力が必要となります。日常の覚醒意識を用いて、霊魂が探求できるという幻想を抱くべきではありません。この点を示すために、次のような、いくつかの特徴的な例えが役立つでしょう。霊魂の探求において、誤謬に導く可能性があるものを指摘する前に、次のような前置きをしておきたいと思います。心の扉の鍵を開け、いわば霊魂と対話するための知覚を可能にする、心の訓練に真剣に取りかかる人には、人類史的な進化が、時代毎に特徴的な性質をもち、すなわちその背後にある精神的な背景について、特徴的な違いがあるのに気づくでしょう。後に示す理由によって、私たちがミカエルの時代と呼ぶ、今(1920年)の時代は19世紀の終わりから3分の1、およそ1870年代に始まりました。この時代の前の時代は3、4世紀の間続きました。霊能力をもつ人たちにとっては、この時代の性格は、いまとは全く別のものでした。さらにその時代の前にも、やはり全く異なる性質の別の時代がありました。したがって、霊能力で、過去を振り返ると、それぞれ個々の時代が全く異なる印象を呼び起こすのがわかります。私は、これらの印象を抽象的な記述ではなく、具体的な例によって示そうと思います。この連続講義の中で、人類の進化について、様々の役割を演じてきた人々について解説してきました。例えば、有名なダンテの師ブルネットー・ラティーニ、シャルトルの学院の教師たち、ベルナルドゥス・シルベストリ、アラヌス・アプ・インスリス、フィオーレのヨアキムについて触れましたが、さらに、9世紀から12世紀あるいは13世紀にかけて、何百人の人々についても語れるでしょう。これらの人々はそれぞれがその時代を特徴づける人たちでした。人智学の立場から、人類の歴史を、例えば、ダンテやジョットーの時代、すなわちルネッサンスの時代を探求するなら、霊界にいる人間、つまり、肉体を脱いだ人たちと交わることが絶対に必要なのを感じます。つまり、隠喩的に言うと、死と再生の間にある人間たちと面と向かって出会わなければならない、と感じるのです。霊的な認識のなかで、ブルネットー・ラティーニのような人物との精神的な関係は、物質界と同じように、個人的な関係を築く必要がある、という明確な感情を持つのです。この感情については、以前述べた話のなかで示そうと試みました。つまり、フィオーレのヨアキムやブルネットー・ラティーニについて語ったとき、この時代の特徴として、できるだけ個人的な感情で描いたのです。しかし、19世紀の3分の2に至るまで続く、次の時代では状況は全く異なります。この時代に接触しようとする肉体を脱いだ霊魂とは、個人的な関係を持つ必要が遥かに少なくなるのです。むしろ彼らをその全体的な雰囲気のなかで見たいと感じるでしょう。つまり、彼らと直接的に接触するのではなく、何か地上的な認識、覚醒意識を通して、彼らと接触する必要を感じるのです。ここで、次のような個人的な経験を紹介させていただくのをお許しいただきたいと思います。この個人的な経験は、覚醒意識でも捉えられる、客観的なものだからです。その先立つ時代とは、ゲーテの時代でしたが、私は数十年にわたって彼の作品の研究に携わってきました。最近の数年間は、霊魂の存在として、霊界にいる彼と直接、個人的に接触する必要が生じたのですが、当初は、個人としてのゲーテではなく、いわば天空の世界の存在として、彼の宇宙全体的な関係性のなかで、死後の彼を経験する必要がありました。他方、ブルネットー・ラティーニや彼の時代の研究に関する人々の霊魂に接触したいときには、彼らと個人的かつ密接な関係のなかで、考えや意見を交換する直接的な必要性が感じられるのです。これは非常に重要な相違なのですが、それはこれらふたつの時代の精神的、つまり心の特徴が全く異なっている、という事実に結びついています。今日、私たちは、人間、もしくは全人類の霊的な真実を、客観的に直接理解できるという珍しい機会をもつ時代、つまり、人智学が、物質科学を通じて客観視され、普遍的な財産になる、という時代に生きているのです。私たちは、ちょうどいま始まったばかりのこの時代の、霊能力を獲得した人々が主流を形成しつつある事実に、世俗的な、物質感覚的な事実にではなく、霊的な事実に、心から到達することなしにやり過ごすべきではありません。これからの私たちの時代は、霊界に直接つながる霊魂の、心のなかへと精力的に探求していかなければなりません。そうでなければ、人類は天空から定められた課題を果たせないでしょう。私たちはますます精神的な、心のなかの時代へと入っていかなければならないのです。以前の時代には、別の力が人類の進化に主要な影響を及ぼしていました。そして、霊能力による真正なる天空の認識の立場から語ると、次のように言うことができます。前世紀の70年代に始まった時代では、霊界での生活と、物質界での生活、特に科学、宗教、芸術における、あらゆるもののなかで、とりわけ太陽から輝き出る生命力が、主要な影響力を及ぼさなければならないのです。私たちの時代では、太陽の力の影響と活動がますます広範に行き渡るようにならなければならないのです。霊能力から、真の認識をもつ人々にとって、太陽は現代物理学が記述するような高熱のガス球ではなく、高次の霊魂の存在たちの集合体です。そして、太陽の光が物質的、エーテル的に輝くように、精神を形成する生命力を放射する最重要な霊魂の存在たちは、異教的、もしくはユダヤ教的なキリスト教の命名法によれば、ミカエルと呼ばれる天使長存在のまわりに集まっています。ミカエルは太陽から働きかけます。太陽からの心のなかへの意識的な影響は、ミカエルとその仲間たちの影響と呼ぶこともできます。私たちの時代に先立つ時代では、人間の生活や活動、そして認識を求める探求の背後にある原動力は太陽の意識力ではなく月の意識力でした。3、4世紀にわたって続き、1870年代に終わりを告げた時代の背後にあった原動力は月の意識力だったのです。この時代、地球進化に影響を及ぼしていた指導的な存在たちは、古代の命名法にしたがってガブリエルと呼ばれる存在のまわりに集まっていました。別の名で呼ぶこともできますが、ユダヤ教的なキリスト教の伝統にしたがってガブリエルという名前を使うのが最もよいでしょう。こうして、私たちは天空の世界から導かれる人間の精神的な、心の活動を、私が示したような霊的な方法でわかるようになります。私たちの霊的な認識を通して、誕生から歯が生え替わるまでの時期のなかに働いている意識を確認するとき、宇宙に存在する月の活動に対する意識が獲得できます。言い換えれば、この子どものときの、誕生から最初の年月をインスピレーションで、遡及的に辿ることを通して、私たちは月の影響が特に活発に働いていたガブリエルの時代についての認識を獲得できるのです。一方で、私たちの時代の特徴的な性格を理解するには、子どもから精神的に成熟した、20代から40代にわたる頃の、より正確には21才から42才までの、人間の心のなかで、意識形成的に働いている力を洞察できるようになる必要があります。したがって、私たちの時代に先立つ時代では、宇宙的な進化の方向性について決定的な役割を果たしていたのは、幼0歳から7歳までの幼児たちでした。ガブリエルの時代の力は幼年期に働く意識のなかに投影されていたのです。しかし、私たちの時代では、太陽の力からの意識を受け取るように宿命づけられているのは30代や40代のいわば壮年の人たちです。つまり、この地上での。宇宙進化的な指導において決定的に重要な役割を担っているのは壮年たちなのです。これらの霊的な事実は、私が一昨日皆さんにお話しした霊能力での直感から得られる現実の成果です。それらは架空の仮説などではなく、実践的な霊感覚による成果なのです。ですから、お分かりのように、現在のミカエルの時代に先立つガブリエルの時代を理解するためには、その時代の肉体を脱いだ霊魂に個人的に出会う必要は特にありませんでした。これらの霊魂に向き合うには、幼年期のインスピレーション的な霊感が不可欠なので、大人の前に立つ子どものように感じられたのです。(次回に続く)
2025年04月22日
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映画「メンインブラック」をみると、嫌なことが忘れられた経験がよくあり、大好きな映画なのだが、その映画の中でよく使われる、メンインブラックが、宇宙人を見た記憶を失わせるために、ニューラライザーと呼ばれる「ターゲットあるいは目撃者の脳内の電気信号(インパルス)を絶縁させて記憶を消去し、催眠状態にすることで偽の記憶を植え付ける」機器のせいかもしれないが、自分の場合は、宇宙人の目撃ではなく、嫌なことを忘れる映画として、映画「メンインブラック」そのものをニューラライザーとして使っていたような気がする。メン・イン・ブラック (映画) - Wikipedia神智学によれば、実はこのニューラライザーは実在していて、人間がこの世に生まれてくるときに使われているらしい。そしてまた、生まれてくるとき以外にも、若干弱めだが、睡眠から、起きるときにも使われているという。交通事故などに遭って、このニューラライザーが誤作動してしまうと、記憶喪失になるらしい。人智学的には、エーテル体の一部が、肉体から分離すると、ズレて起こるようである。人間の霊魂は、エーテル体や肉体の衣服を着ているようなもので、肉体に合わない服を着ると、服が破れ、穴があくように、記憶の消失が起こるようである。健忘 - Wikipedia神智学によれば、人間の死は、この記憶喪失の延長上にあるらしい。つまり、この逆の記憶を失うのではなく、ニューラライズされる前の、過去の記憶を蘇らせることができれば、人間は死を乗り越えられるわけなんである。シュタイナーは、アクエリアスの時代が到来すると、ニューラライズされない、前世の記憶を覚えている子どもが生まれてくる、と預言している。つまり、仏教の仏とは、過去の全ての前世の記憶を覚えている人なのである。ニューラライズされても、宇宙人目撃を覚えている人なんである。さて、このようなSF映画ではなく、巷の大河ドラマや時代劇をみていると、感動やお涙頂戴モノを演出するために、武士道というのが、主君に生命を捧げ、忠義のために、生命を粗末にするシーンが矢鱈と描かれて、戦争モノでも、特攻隊などが美化されていたりするが、幕末に勝海舟なども、そのような似非武士道の、死を賛美する美学は、戦国時代を思い描いて、後に創作されたフィクションなのを語っている。ちなみに、海舟は、戦争などに行かされたとしても、決して死なずに、適当なところで、戦場から逃れて帰ってくるのを薦めて、友人が生きのび帰ってきて、戦後補償を言い出して、海舟を攻め立てて始末に負えないと笑い話で語っている。葉隠れの「武士道とは死ぬこととみつけたり」という名文句は有名で、江戸の武士文化を示しているようにいまでは勘違いされてもいるが、この葉隠れは、江戸の徳川中央政権とは程遠い、現在の佐賀県の、鍋島藩の山本常朝により、鍋島直茂を偶像崇拝し、伝承されたものと、ググると、以下のウイキからわかる。このウイキをよく読んでみると、死を推奨しているのではなく、生き続けるのには生きる目的を明確にしろと、逆に生命を無駄にするな、と説いているのである。葉隠 - Wikipedia 『葉隠』 は人の「生きる理由」に着目する。「死ぬよりも生きることを優先する」という人間大多数の原則には必ず何らかの理由があると説く。しかし常にその理由を意識し続けているわけではなく、一度でも忘れてしまえば腰抜けに生きるようになり、人生そのものが台無しになるだろう。 そこで死の覚悟を不断に持することによって、自らの生きる理由を見つめ直し「職分を落ち度なく全うする」べきであると説く。武士として恥をかかず、また人間として有意義に生きるために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのである。このように『葉隠』は死を礼讃しているのではなく、むしろ人生観について説いたものである。端的にいうなら、自分の生きる目的を常に明確にしろ、と説いているのである。無駄に生きるな、ということである。自分がこの世に生まれたのには、自分のなかに、その理由があるのだから、その理由を、自分が生きるなかに見つけなさい、という意味なのである。自分という存在はこの世に一つで、宇宙でも一つなのだから、その生きる意味と、生きる過程の日々を大切にしなさい、という意味なのである。だから、葉隠れを、言い直すとすれば、武士道とは、死の意味を知り、死を乗り越えて、永遠に生きること、といえるかもしれない。だから、武士道とは、カルマの法則を知ることで、道徳を実践する人なのである。神智学によれば、死とは、永遠の生命のなかの、肉体という時間という枠を与えられた一断片のなかにあるものである。量子力学でいうなら、本来の自由な波動が、井戸型ポテンシャルに囚われて、確率的に量子化された量子にすぎないわけで、死は生成とともに、やがて消滅する、波動の粒子形態なのである。人間は、睡眠中の記憶を忘れてしまうように、死の先にある世界を忘れてしまうので、ニューラライズされてしまうから、死がわからずに、生もわからない。自分が前世どんな人間だったのかニューラライズされて、覚えていないが、大抵、自分が前世で加害や迷惑を与えた罪滅ぼしで被害者に成り代わり生まれてくるので、前世で嫌な奴だった人間になって生まれているので、生命を粗末にしたり、自殺しないようにニューラライズされている、ともいえるかもしれない。例えば、前世で独裁者だったような人間は、不幸せになろうとしたり、自殺願望を抱くようである。だからニューラライズが意味をもつわけである。前世の記憶を失っていないと、生命を無駄にし、真剣に生きられないからである。人間は嫌なことを忘れないと生きられないからでもある。この世に生まれるのは、前世でこの世を卒業できなかった人が大半なのだから、前世の失敗を忘れるに越したことはない。逆に、前世を記憶している人は、嫌なことをしてこなかった人といえるかもしれない。「良かった、俺は、前世を覚えているよ」と言う人は、地球卒業まであともう少しなのかもしれない。シュタイナーは、前世で不慮の死を遂げた人は、そのような記憶が強く残っていて、残っていない人よりも、ニューラライズに耐性があり、記憶力がよいとも述べている。生まれながらにして肉体の一部に障害をもつ人は、前世の記憶をもつ人が多い、というようなことも述べていたような気がする。例えば、サヴァン症候群の人のなかには、古代の言語の記憶をもつ人もいる。異常に記憶力の良い人は、古代アトランティス人の生まれ変わりの可能性も高い。その代わり、現代特有の物質的で、論理的思考には逆に不得手になるようだ。トムクルーズで有名なディスレクシアなどは、あまりに古い前世の持ち主が現代に転生してきて、現代の読み書きに対応できないと考えれば辻褄があうだろう。読み書きに困難のある学習障害「ディスレクシア」とは | 日本財団ジャーナルさて、いま大阪では万博をやっているようだが、巷は、万博よりも、令和のなまはげトランプに大騒ぎで、連日連夜、トランプの関税悪魔詣でばかりを垂れ流し、見て損したと思うニュース番組ばかりで、最近は見ていなかったのだが、ついみてしまったのがモーニングショーで、相変わらず好き勝手なコメントを垂れ流していて、やっぱりオールドメディアの終焉を醸し出していて、見て損した、と思った。 なまはげ - Wikipedia「騙されたと思ってみてみると、やっぱり騙される」という表現が昔流行ったが、同じ時代に、大川興業のギャグで、キンチョーの宣伝に真似て、♪夏がくぅれば思い出す、遥かな声、赤尾敏♪の、右翼街宣車のような騒音を思い出すほど、トランプを散々に罵っていたのだが、一視聴者一国民からすれば、日本の総理や財務官僚だって、トランプと似たようなもので、国民の生活の苦しさを見て見ぬふりで、自己保身に走り、権力で弱い者虐めをする同じ穴の貉でしかない。大川興業 - Wikipediaトランプを罵るしか能のない、我が物顔のコメンテータは、権力の片棒を担いで、同時に国民を愚弄している。ドラえもんの世界で喩えると、ジャイアンの暴力を盾にして、弱いのび太を虐めるスネ夫のようなもので、好き嫌いで物事を判断しているうちは何の進歩も成長もないのがわからないらしい。ああいったコメンテータたちは、昔懐かしの右翼街宣車と同じで、公共の電波で垂れ流すのだから余計始末に負えない。財務官僚や官邸リーク情報を鵜呑みにして、官僚の愚民化政策通りに洗脳情報を垂れ流す無知不勉強で迷惑な輩である。情報リテラシーの欠片もない、単なる無知蒙昧の恥晒しである。前回紹介したように、なまはげは、なまはげに遭うことで、自分のなかにある、なまはげに呼応する心の闇を反省して、中和し、取り去ることに意味がある。パラケルススの格言のように、毒がクスリになるのは用量次第で、毒舌は、的確な表現なら、笑いをもたらすから、クスリになるわけで、笑えない毒舌は、面白くもなく、単なる毒でしかない。糞面白くもない毒舌は、聞くだけ野暮といえるだろう。そういう意味で、関西人が、常に話にオチを求めるのは、毒をクスリにしようとする頓智が効いていて、流石にお笑いの聖地といわれるだけある。だから、関東よりも、関西のほうが、風刺が効いていて、ニュース情報番組のなかでは、関西の『教えて!ニュースライブ 正義のミカタ』が秀逸である。日本の財政については、高橋洋一氏の動画が秀逸で、経済学の勉強にも最適である。教えて!ニュースライブ 正義のミカタ|朝日放送テレビ教えて!ニュースライブ 正義のミカタ - Wikipedia1250回 宮沢洋一が財政健全化を訴え!与し易いチャンネルでアピールも間違いだらけで炎上中 - YouTube髙橋洋一チャンネル - YouTube日本の裏話についての面白いトーク満載【規制ギリギリの激論!?】フジテレビ問題に追求!高齢経営者はリスクでしか無いのか??お金の無い政治家はアウト!? ④【洋一の部屋】高橋洋一 ✕ 佐藤尊徳(政経電論編集長) - YouTube【政治センスが無い奴ら】ガソリン&米の物価高騰。国民を無視する自民党に喝!!高市氏の動きも注目してるが… ③【洋一の部屋】高橋洋一 ✕ 佐藤尊徳(政経電論編集長) - YouTube【フジテレビ会見 クビ】芸能界の権力の闇。日枝、港、フジの上層部の進退 ①【洋一の部屋】高橋洋一 ✕佐藤尊徳(政経電論編集長) - YouTube高橋洋一と佐藤尊徳が総裁選の悲惨な現実 完全分析!最終●人位にある?安倍元総理から聞いた高市早苗氏の衝撃的丸秘発言。安倍氏に救われた人生最大の巻き込まれ事故。高橋×佐藤【洋一の部屋】8/26月13時~ - YouTube【ホリエモンが役員?】高橋洋一と佐藤尊徳が大炎上フジテレビ”裏の顔”全て暴く!日枝会長はホリエモンNG?なぜ日枝氏がここまで権力を握ったのか?ヤバい社内体質。高橋×佐藤【洋一の部屋】1/27月13時~ - YouTube残念ながら、関東圏には、官僚の情報統制が効いているのか、関西圏の、このようなエスプリの効いた番組はほとんど皆無で、前述の番組のように、官僚の流す情報を増幅させるだけのオウム信利狂しかいない。毒舌も単なる悪口の罵詈雑言でしかないから、見て損した気持ちになってしまう。毒を毒でもって解毒し、制するどころか、毒を心中に拡げて汚染させてしまう。トランプを出鱈目といいながら、自分たちも似たような出鱈目をやっているのだから、出鱈目の大小でしかなく、始末に負えない。関西にオチがあるように、関東にも昔は、粋(イキ)があったはずなのである。粋の意味を掴むのはなかなか困難で、詫び寂びの意味にもとれるが、江戸の粋が行き過ぎると、関西の特に大阪では、「イキる」といわれ、いきがっているようにみえて、かえって敬遠されてしまう。この「イキる」の意味を掴むのもなかなか困難で、令和でいうところの、マウントをとる、というニュアンスに近いようである。もしかすると、関西人には、イキらないように、オチがあるのかもしれない。足し算に対する引き算なのかもしれない。そこで、関西の、特に大阪がなぜお笑いの聖地となったのか、ググってみると、お笑いの文化とともに、大阪の歴史が出てくるが、大阪が東京に対して反権力で、反骨心を持つのがわかってくるが、お笑いとのつながりが、イマイチよくわからない。大阪と笑いの関係を論じたあるサイトでは、笑いは健康に良いとされるが、大阪人の平均寿命が短いから、笑いが健康に良いのは嘘だと結論していた。笑いはストレス解消によいと、前回紹介した手前、この結論に反論しないといけないのだが、大阪人は、笑いながら死んでいく、お笑い病のために、平均寿命が短いのではなかろうか、というような反論しか、いまは思いつかない。というか、実のところ、大阪人は、全てにオチを求めるために、笑いでストレスを解消するどころか、かえって逆にストレスになっている可能性もある。笑うというよりも笑わせるのに気を使っているようにみえる。だから、大阪人は死ぬことよりも、笑うことに命をかけているのかもしれない。大阪人にとっては健康よりも笑いが大切なのかもしれない。笑うよりも笑わせるほうが大変なので、大阪人は、笑いのために、寿命を縮めているのかもしれない。人間は泣きながら生まれてくるが、大阪人は笑いながら死ぬのかもしれない。だから平均寿命が短いのかもしれない。頓智で有名な一休さんは、大坂ではなく、京都の人だが、有名な逸話に、『弟子たちに「この先、どうしても困ったとき、苦しいときに開けなさい」と一通の手紙を残されたそうです。数年後、弟子たちが本当に困り果てその手紙を開けると、中には「心配するな、大丈夫、なんとかなる」と書かれていたそうです。』というのがある。この逸話のように、関西には、現状を逆手に取るというか、逆境のなかの開き直りのような生き方がある。それが笑いのオチなのかもしれない。心配するな、大丈夫、なんとかなる(伝 一休宗純) | 光華女子学園関西の、特に大阪がお笑いの聖地となったのを歴史的に見ていくと、やはり昔はエビスと呼ばれた堺の交易の影響が大きいように思われる。豊臣秀吉が、大阪城をつくり、天下の台所にしたのも、堺の交易、つまり南蛮貿易や異民族交流が背景にあったためだと、八切史観は読み解いている。八切氏によれば、秀吉は、日本を商業国家にしたかったらしい。ぶっちゃけていえば、日本人全てを大坂人にしたかったらしく、そのために、豊臣という姓をつくったようである。菅原神社|戎祭(えびすまつり)・八朔際(はっさくさい)|祭礼絵本太功記・夏祭浪花鑑|文化デジタルライブラリー豊臣という姓には、君臣豊楽という『君主から民衆に至るまでが豊かで楽しい生活を送るという意味』があるらしい。だから、秀吉は、関白となって、豊臣政権の武将を全て豊臣姓にさせている。家康も、豊臣政権下では、豊臣家康になっている。この事実は徳川家には不都合だったらしく、江戸時代になかった事にされている。豊臣という姓も、藤原をなくすために、秀吉によりつくられたが、八切史観によれば、それまでの藤原は、トウゲンの、大陸の唐を源流にする、「唐原」が、当て字で藤原になったらしい。八切氏によれば、秀吉は、藤原氏の朝廷を大陸に戻すために、唐入りを行ったという話なのである。日本を豊臣体制にして、それまでの藤原貴族体制を大陸に戻したいので、藤原氏を引き取れと、当時の明に使者を送って断られたので、武力行使に走ったようである。戦国時代からわかるのは、それまでの日本が大陸の傀儡政権だったらしい。だから、秀吉の豊臣政権になる前までは、朝貢外交で、貢物が不満だと、もしや独立するのか?と、元寇のような武力制圧が起こった。いまの日本政府も、米国に朝貢外交をしているのだから、小国の血は争えない。八切氏によれば、元と源は同じ民族で、その由来から、源義経がフビライハンではないか、という伝説が生まれたという。元寇も、傀儡の源頼朝による源氏政権を北条氏が掠め取ったことから、朝貢が少ないと、武力行使に至ったようである。元寇からの因縁か、日露戦争のときに、再び、ロシアのコサック兵のモンゴル民族と、日本帝国陸軍の騎兵隊で有名な秋山好古の、秋山姓が、甲斐源氏武田氏の分流なので、同じゲンとして対峙したのも、カルマの法則というか、歴史に不可欠な巡り合わせといえるかもしれない。豊臣氏 - Wikipedia朝貢 - Wikipedia元寇 - Wikipedia秀吉の出自は源氏ではなく、信長と同じで、八の民族の平氏だったので、ペルシャを起源にする海洋民族だったから、商業の交易を代々営んできたようで、信長も、旗印を、永楽通宝紋にしているように、天下布武によって、日本を商業国家にしようと目論んでいたようで、信長や秀吉から、八の平氏が、商業国家王朝の流れを汲んでいるのがわかる。対照的に、源氏は、四つ足の馬賊を起源にしているので、土地を目指して領地の開拓を目指し遊牧するので、海洋による金銭の交易よりも、陸地の土地に対して執着する。だから海と陸の違いが、秀吉と家康の違いに現れている。織田信長の家紋/ホームメイト秀吉は日本を豊臣家の大阪人の商業国家にしようとしたのだが、藤原氏を追い出せずに唐入りが不発に終わり、信長のように、イエズス会にも最後に裏切られて、ついにはキリスト教禁令で、伴天連追放令を出して、豊臣政権は一代で終わり、家康に大坂城を攻められて、家康が徳川幕府を開いて、豊臣姓を朝廷に返上し、公武合体策をとり、徳川家の勢力下に置くために、朝廷の後水尾天皇などを懐柔して、徳川家は朝廷を支配するようになる。後水尾天皇 - Wikipediaこのように、秀吉の死により、秀吉の大阪人を中心とする商業国家構想は、イエズス会の裏切りと、家康の公武合体国家構想に敗れて、一代で終わり、公武合体を目論む、徳川幕府カースト体制になり、キリスト教禁令から、交易も長崎の出島へと限定され、商人は最も低い身分へと弾圧されてしまう。早い話、大坂から江戸に国家の屋台骨が移動していった。現在の大阪がもつ、反東京的な反発感情は、豊臣家と徳川家の、特に家康の裏切りに端を発している、といえるかもしれない。大坂は家康に梯子を外されたわけである。大坂は家康の江戸の粋によって、梯子を外され、オチるしかなかった。だから大阪人は、公武合体などでイキる家康風情が大嫌いで、そのようなつくられた身分制度が大嫌いで、オチをもとめる、笑いが生まれたのかもしれない。この話はほとんど個人的な妄想でしかないが、大阪のお笑いの原点に戻ると、大阪の商業主義の、つまり、かつてエビスと呼ばれた堺の交易にあるのは、少なくとも、確かだとはいえるだろう。八切氏によれば、エビスは戎の、多種多様な異民族交流の意味をもつらしい。エビス様は、笑い顔でもよく知られている外来の神さまである。昔の、堺は異民族交流の貿易の町で、多民族が入り乱れる都市だったようである。いまでも東京とは違い、大阪には平等意識が根強いている。大阪は堺からわかるように、昔から異文化交流の場所だったのが、以下のアジアでも一番住みやすい都市となっているのでわかる。えびす - Wikipedia2:「自由・自治都市」として発展 ~ 堺 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産堺の歴史|ようこそ堺へ!|堺観光ガイド堺 - Wikipedia大阪のビジネス環境と強み -国際金融都市大阪 Global Financial City OSAKA江戸には武士道があったようだが、大坂には商魂があったようである。残念ながら、ググっても、これといった商魂についてのサイトはみつからないが、以下の科学との比較の批評がでてきた。面白いのは、武士道というブランドは東京にはないが、大阪には、大阪魂というブランドがあるところである。中谷宇吉郎 大阪人と科学精神shirin_021_2_357.pdf江戸では、武士は武士言葉、職人は職人言葉、商人は商人言葉で方言がそれぞれあったようで、職業身分で言葉遣いも違ったようだが、大坂では、大坂城代以外のほとんどが町人で、商人だったらしく、江戸よりは大阪弁を中心に、関西弁でほぼ統一されていたようである。だから、江戸で幕府を批判しようものなら、治安維持で、たちまち取締りに処分されてしまうから、江戸でお笑いが流行るはずもなく、武士道は死ぬことに見つけたりと、権力に忖度し、忠義面で死ぬ振りまでしなければいけない、息苦しい独裁身分社会だったのがわかる。対照的に、大坂で、お笑いが流行るのは、それが商魂とともに、現実に生きている証なのかもしれない。だから、紙面などで語られるものではなく、商魂が、「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」という会話と共に実際に現実にお笑いとして生きているのだろう。昔から、多民族交流の原点の商魂が、お笑いと共に育成されてきたのが、いまもオチを求める関西人の交流のなかにみられるような気がする。大阪弁 - Wikipedia武士道とは、関西人のいま生きる商魂の、お笑いのなかにみつけたり。沢山の人を笑わせられたら、次に生まれてくるときには、沢山笑う機会に出逢えるわけで、最後に笑う者が大きく笑う、笑う門には福来る。実は、お笑い芸人が、令和の武士なのかもしれない。大阪に生まれてくる人の前世は、お笑い道に永遠に生きているのかもしれない。
2025年04月17日
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病気になるのは、悪霊に憑りつかれるからだと、キリストが降臨した古代ローマ時代にいわれていたのは有名な話である。この日本にも、そのような悪霊が憑りつき病気になる話が信じられていたのは、キツネやタヌキに化かされた昔話などが残っていることからもわかるはずである。例えば、以下のサイトの話などは、病因となる、心のなかの歪んだ信仰心を説明しているのだが、古いキリスト教の信仰心のために、残念ながら、ルシファーの悪魔信仰に傾いているところがみられる。2022.5.8「悪霊追い出しの知識 ルカ10:17-20」 | 亀有教会このようなクリスチャンだけを特別視する考えも、利己主義で、マヤカシなのだが、それに気づいていないのだから、呆れてしまう。神は万人に平等なはずなので、クリスチャンだけを特別視するはずがなく、悪魔に対しても、配慮するのが神である。このサイトの大きな間違いは、霊をまるで物質的に捉えているところで、本来の霊というのは、目にはみえない、考えや意識、心情や感情の心の状態で、宇宙全体に流れる波動のことに言及できていないところにある。最近、巷ではインバウンドの紹介番組が多いが、「なまはげ」に興味をもつ外国人がとり上げられていた。「なまはげ」は、日本の独特の風習のようにみられているが、ドイツにも、なまはげに似た、黒いサンタクロースがやってくる風習があるらしい。以下のサイトによれば、またドイツ以外のヨーロッパにも、昔の風習としてあったようである。なまはげ - Wikipedia怖すぎる!悪い子には黒いサンタ!?子どもが恐怖する外国式クリスマス | &あんふぁんクネヒト・ループレヒト - Wikipediaこのなまはげのような、黒いサンタクロースは、『クネヒト・ループレヒト』と呼ばれ、悪魔の存在を代弁しているのが、その風貌などからわかる。これら悪魔の存在を、神秘学から解き明かすと、悪が宇宙に生まれた意味がわかる。水流が停滞し、澱むように、善として機能していた秩序体系が停滞し、自己保身に走ると、独善で、偽善になり、権力をもつ悪になる。だから、善は停滞しないように、絶えず最善を尽くし、悪を救っていかないといけない。このような意味で、親鸞は悪人正機説を説いたが、老子は、上善如水を説いている。親鸞の悪人正機も老子の上善如水も、自らのなかに悪をみつけ、常に悪を善導し、救っていく姿勢を意味しているようにみえる。人間の心の中には、恐怖心などの、自分の思い通りにいかなかったときの、虚栄心や利己心の裏返しがあり、これらがストレスとして、執着の源の、ネガティヴな心情をつくっているのがわかる。それらネガティヴの心情を、霊で表現すれば、先の悪魔崇拝教のサイトなどに書かれている。以下のような悪霊となるかもしれない。死の霊。自殺、殺人、死の願望、弱さをもたらす霊が一緒にいます。恥の霊。罪責、欺き、嘘をもたらす霊が一緒にいます。激怒の霊。怒り、苦々しさ、憤慨、意気消沈をもたらすが霊が一緒にいます。恐れの霊。思い煩い、心配、パニック、恐怖、恐れ、拒絶、孤独をもたらす霊が一緒にいます。嫌悪の霊。復讐、殺人、自己嫌悪をもたらす霊が一緒にいます。反逆心の霊。頑固をもたらす霊が一緒にいます。情欲の霊。姦淫、幻想、変態、好色をもたらす霊が一緒にいます。支配の霊。あやつりをもたらす霊が一緒にいます。第二は「感情」の霊、強迫観念や中毒をもたらす霊があります。中毒(依存症)の霊。ニコチン、アルコール、薬物、大食をもたらす霊がいます。パフォーマンスの霊。他の人を喜ばせたい、完全主義、競争心をもたらす霊です。同性愛の霊。同性愛は罪であり、背後に悪霊が働いているということです。宗教の霊。儀式主義、教義への執着、律法主義をもたらす霊です。第三は「オカルトもしくはカルト」の霊。この中には誤った宗教も入ります。フリーメーソン、薔薇十字会、ニュー・エイジエホバの証人、モルモン教、クリスチャン・サイエンス占い、手相占い、星座占い、タロットカード魔術、降霊術、呪文、呪物神道、仏教、先祖崇拝を伴った新興宗教、ヒンズー教、イスラム教これらは、心のなかのバランスを乱す素となる意味で、悪霊ともいえるが、そもそも、これらが心のなかでバランスをとって一つに融合し、互いに腸内細菌のように協働協調していれば、何の問題も生じないはずなのである。これらの悪霊を単独で活動させずに、いわば太陽系の太陽のように、バランスの中で統合するのが、キリスト原理なのである。だから、そのそれぞれの働きを理解する必要がある。孫子の敵を知り、己を知れば百戦危うからずである。自分のなかにある邪な利己心こそ、病気の素なのである。『百戦危うからず』のために|孫子に学ぶ情報セキュリティ|SKYSEA Client Viewそのようなネガティブな心情をもった悪人には、なまはげや黒いサンタクロースがやってきて、そのような心情を刈り取って、地獄送りにする、というのが、なまはげなどの文化的行事のなかに隠されているようにみえる。つまり、なまはげや黒いサンタクロースが悪いのではなく、そのような悪い存在を呼び寄せ、悪に共鳴する、人間の心のなかの、自分だけ救われ、利益を得ようとする、利己主義が悪い、というわけなんである。心のバランスを乱す、心のなかのキリスト原理を妨害する乱れが問題なのである。悪人正機 - Wikipedia故事百選上善水の如し - Wikipedia水のようにしなやかな生き方「上善は水の如し」 | 楠原海事法務事務所|横浜・東京・全国の海上保安庁、船舶登記、船舶検査お手続きなら老子道徳経8章-上善は水のごとし【早島天來の読み解く現代の老子】【エッセイ】上善如水|白ビジネスマンの理想のあり方「上善如水」 | 支援センター職員によるブログ | 中小企業支援センターさて、前回は、花粉症は内分泌不足で、神経の緊張からくる、心のバランスの欠如なのを、神智学や人智学から紹介したが、だからこそ、日常の生活から、心のリラックスとストレス回避が必要なのがわかり、お笑いなどはストレス解消のためによいので紹介した次第である。お笑いのほかにも、適度な運動、また精神的には、黙想や瞑想、お祈りなどが挙げられる。しかし、現代人が考えている瞑想や黙想、お祈りなどには間違いが多いのが、先の悪霊サイトからもわかるように現状で、なんでも、自己本位の御利益、御都合でやるのでは、かえって罰があたり、ストレスをためるだけである。自分だけが救われようとする信仰は、自己本位で、そのようなお祈りなどは、社会や自然を破壊する行為なので、偽善行為なので、百害あって一利なしである。そもそも自分だけが利益を得て、救われようとするのが、利己主義で、根本的に間違っているから、そのような間違ったことをすれば、良いことも偽善になってしまい、自ら地獄に堕ちるだけである。他者を馬鹿にする差別的な笑いや、体力を越えるような過度な運動、金銭や地位が絡んだ御利益、御都合主義の、黙想や瞑想、祈りなどは、すればするほど、悪魔を呼び寄せるだけで、そのような悪魔をみて、自分の心のなかを正し、バランスを回復させないといけない。人の振り見て我が振り直せ、である。祈りをした者だけが救われ、しないからといって罰が当たるのは、いかにも小器量な神様で、大体、神様は万人に平等なので、祈る、祈らないに関わらず、公平に宇宙を見通し、病気などに罹るのは、当人の執着心の問題なのを、お釈迦さんが仏教で解き明かしたわけで、その教えを末法にまでに歪めてしまって金儲けに走り、身分差別をつくっているのが、いまの日本の仏教界なのはいうまでもない。金銭は、貧しいものに与えられてはじめて平等の働きができ、バランスが回復される。だから、キリストは、金持ちが天国に行くのは、縄を針の穴に通すよりも難しいから、金銭を貧しい人に与え、裸一つで、私についてきなさいと、キリスト原理のバランス回復のために、心の中を浄化して、奉仕しなさい、と言ったのである。金銭は水の如く、貧しき人に流れるべきなのである。だから、金持ちは貧しい人のために寄付をすべきなのである。その働きが、巡り巡って、金持ちの次に貧乏人として生まれたときに、恵みとして与えられるわけである。このカルマの法則が、キリストの霊魂による再生の原理で、この世の物質界を超えた、いわば四次元の心のブーメランの神の法則なのである。人間の作った法はカネなどで破れるが、神のつくった法を破ると、自らが崩壊するわけで、健康を損ない、なんらかの病気に罹ってしまうわけなのである。そもそもお祈りをすることで、神様に救ってもらおうと考えるほうが、人間が、神様を使うようで、おこがましく、利己主義にみえる。だから、現代人がやっている、お祈りの大半は、自己満足で、大間違いなのである。悪魔崇拝教のなかには、神の名を何度も唱えて、お祈り自慢をするモノがいるが、神の名を妄りに唱えてはいけないわけで、そのような自分だけが救われたいとする御利益、御都合信仰は百害あって一利なしなのである。キリストが神殿で商売するものを怒り、神殿から遠ざけたように、自分だけが利益を得ようとする独裁者のような利己主義では、天国に行くどころか地獄に堕ちるだけなのである。このように、古代では、利己主義から行うものを、悪霊の振る舞いとして考えていた。だから、社会全体や、民族全体、更には地球や、宇宙全体を考えて、心の中に常に、そのような広大なイメージを描いて、バランスをとりながら活動していた。だから、協調性を欠いた行動が嫌われるのが、いまでも、日本のなかでは、形骸化した風習や文化のなかに残っている。古代人は、協調性や全体のバランスを欠いた行動について、心のなかに悪霊が憑りついている、と表現したのである。このように、古代人が、病気になるのは、悪霊に憑りつかれているせい、と考えていたのを、現代人が馬鹿バカしく、迷信のように思うのは、悪霊を物質的な存在とみなしているからで、例えば、悪霊をウイルスや細菌とすれば、現代人も、同じように考えているのがわかるはずである。花粉症については、花粉という抗原を悪霊として、アレルギー疾患で分類しているのだから、悪霊ごとに病気を分類している、のと同じである。古代人から、現代人のやっていることをみれば、ワクチンが悪霊払いのおまじないで、アレルギーを除く薬は、お守りのようなものといえるかもしれない。それら本来は、患者の心のバランスの欠如を回復させるための、精神的修養や静寂なイメージを、目にみえるように、物質化したのが、おみくじやお守りといえるわけなのである。古代人が瞑想やお祈りでバランスを回復させていたのを、現代人は目にみえるものしか信じられないので、実際は、電子顕微鏡がないと見えないのに、科学的信仰から、ワクチンや坑ウイルス薬や抗生物質として与えてもらって表面上はウイルスや細菌を除いた気になっている。現代人の欠点は目に見えるモノしか信じないところにある。現代人は、病気が、自分のネガティブな感情により生み出されたものというよりも、自分ではない何か他の病因により生み出されたものと信じたいために、何ものかを悪に仕立て、責任を押し付ける。例えば、ウイルスや細菌などの目にみえるものに、その罪をなすりつけようとし、いまでは、遺伝子を持ち出して、目に見える大きさになるまでに、PCRで増幅し、遺伝子病に分類しようとしている。自分は悪くはなく、悪いのは、自分のなかの細胞の遺伝子変異にある、と言って、癌が、自分の心のなかの、抑制された感情から生まれたのに気づかずに、癌を物質的に取り除くことで、決して死なない霊魂を、死の悪霊に憑りつかれて、貶めているのである。確かに、ヒトが、遺伝子の基のDNAの塩基配列を操作できるのは、遺伝子がヒトの心の操作によりつくられるのが基本になっている。DNAがRNAと塩基相補性となっているのは、物質界と心の世界が、鏡像対称性になっている、その現れともいえるかもしれない。高周波数の声に共鳴してグラスが割れるように、抑制された感情が、ネガティヴな高周波の波動となって、細胞のなかの塩基配列に変異をもたらす。それがバランスで回復されないと、内分泌不足から、バランスを失った肉体の弱い部位に、腫瘍として現れる。そのような心の中のバランスの欠如が、内分泌のバランスの欠如から、不足をもたらし、肉体の免疫不均衡を生み出して、炎症や腫瘍などの疾患をもたらすのを、神智学はすでに解き明かしている。だから、正しい祈りが重要で、正しく祈るためには、心のバランスが重要で、日常の生活から、神のために宇宙全体のために奉仕するように、少しでも神に近づくことなのである。だから、キリストは、真の祈りとは、他者にみせるためにやるのではなく、人に知られずに、密かに、心のなかで、天国に積善を積むように行いなさい、と説いているわけなんである。だから神社仏閣の人混みのなかで行う祈りは悪魔崇拝のなにものでもないわけなんである。正しい祈りは人にみせるものではなく、それでは偽善行為に成り下がり、地獄に堕ちるだけだからである。善い行いは、ヒトにみられないから、意味があり、利己主義から脱却でき、無償の愛につながる。そのような祈りの代表として、次のような、山中鹿之助で有名な、艱難辛苦の祈りがある。祈ることで自分を励ます――松下幸之助のことば〈68〉 | 松下幸之助.com病気は自分のネガティブな心が生み出したのだから、自分で治せないはずはないのである。悪しき習慣や悪しき生活から、悪しき想いから、自らを解放すべきなのである。自分の能力を信じるのが、ホンモノの宗教で、信仰心なのである。フランスには、艱難汝を玉にする、という諺があるらしい。艱難汝を玉にす - Wikipedia宇宙は人類の成長のために悪を与えているのであり、最近の、なまはげは、子どもと仲良くなって終わるらしい。悪は、人類に、自分を信じる重要さを教えてくれる。自分は永遠の生命なのである。我祈る、故に我あり。
2025年04月15日
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前回は、『にけつッ!!』のケンコバ氏の、「なんでも花粉症にするな」という批判から、現代人の独善的な価値観の押し付けやルッキズムが、日常生活のストレスを高め、単なる思い込みから、自己暗示的な病気に罹るのを増加させているのを紹介したが、神智学は、花粉症の病因をすでに解き明かしている。花粉症などの、免疫の不均衡な生体防御反応を呈する、自己免疫疾患を、現代医学では、唯物的に、免疫抗体反応の分類から、抗原を特定し、アレルギー疾患に分類しているが、それらは結果論としてアレルギー症状を呈しているだけで、神智学では、すでに数百年も前から、アレルギー疾患などは、内分泌の不足で、花粉症は、特に副腎によるアドレナリンの血中への分泌不足と解き明かしている。だからステロイドなどの副腎皮質ホルモンを投与すれば、症状は改善するが、それは肉体上の症状をいわば隠し、誤魔化している対処療法にすぎないので、副腎の分泌不足そのものを改善したわけではなく、更には副腎に分泌命令を出している脳下垂体の伝達不足でもあり、更にそれらをバランスよく統御している、心のバランスの問題で、結局は、クスリなどに頼らずに、心のバランスを回復させなければ、また第二、第三の花粉症に似たアレルギーの症状を併発するだけなのである。ストレスと自律神経、副腎ホルモンの関係について!(その2) | ミチワクリニック|東京都 中央区八丁堀から徒歩3分の心療内科それに矢鱈とステロイドなどを投与すれば、その副作用のほうが顕著になり、今度は薬剤依存症、もしくは薬剤耐性菌などを体内に生み出してしまい、免疫が防御不足がちになり、免疫防御が不均衡のままに、花粉症から感染症に移行してしまい、更に悪化すると、癌に罹りやすくなってしまう。だから、肉体上の症状を取り除いただけでは、病気を治すどころか、かえって悪化させるだけなのである。だから、心から改善しなければ、かえって肉体を弱めて悪化させるだけなのである。だから、アレルギー症状の奥に隠れた、人体の内分泌不足、もしくは過剰から、心のバランス欠如を見究め、心のバランスを保つ、健康のイメージを、当人に自覚させ、逆に、神経系を緊張させる、ストレスなどの病因を、日常の生活から、自分で取り除き、改善するために、日々のリラックスの重要性を説く必要があるわけなんである。結局は、このことからも、お釈迦さんの説いた悪因悪果、善因善果が正しいのがわかるわけで、日常の生活から、老苦の要因となる執着や不安や恐怖などのネガティブな心や意識を取り去り、ストレスをためない、善行を志すのが良いわけなんである。現代医学での外的治療だけでは、対処療法にすぎなく、心のバランスを回復できなければ、また似たような病気に罹るのは、時間の問題で、人の法は破れるが、神の法を破れば、健康を失い、いずれまた病気になる。対処療法は、付け焼刃でしかない。さて、巷の政治家や政治問題、権力者や独裁者を見ていると、心が荒んでくるのが、日々感じられる。相手への迷惑を考えない、モラルのない情報発信など、政治の低レベル化だけでなく、毎日届く迷惑な詐欺メールのドメインは、中国のcnやロシアのru、イギリス領インド洋地域のioなどもあり、日本のjpやcomは勿論のこと、その国のモラルが疑われてくる。自分がされて嫌なことは他人にしない、というモラルの原則を守り、行動を改めないと、自分のなかに闇が膨らみ、そのうち病気になり、肉体を失うと、心の闇から、そのまま地獄に堕ちるだけである。他人に嫌なことをしている自覚がないと、闇が膨らむばかりである。人がつくる法は破れるが、神のつくる法を破ると、自分が破れて、地獄に堕ちる。人に嫌なことをすれば、4次元の鏡の心の法則から、自分に返ってくる。3次元の物質界での内の自分の世界は、4次元の心の世界では鏡になって、外の他人の世界に成り代わるからである。だから、自他のバランスが大切で、他者に嫌なことをすれば、自分のバランスも崩れてくる。4次元世界では、3次元世界で、自分が他人にした行為が、自分をつくり、自分の世界となるからである。他人に嫌なことをすれば、自分が嫌なことをされ、ブーメランとなって返ってくる。令和では、自分にされて嫌なことを、ハラスメントやマウントなどで表現しているが、昭和では、一般的に「差別」と呼んでいたように思われる。昭和のドラマなどをみると、令和のいまではハラスメントやマウントと呼ばれる、みえにくい差別が横行していたのがわかる。とにかく、差別を我慢するのが当たり前の日常になっていたのがよくわかる。少しずつでも、見えない差別を指摘する世の中になってきたのは良いことなのだが、代わりにネット社会では、昭和どころか、江戸か、安土桃山かのような身分差別が横行し、戦国時代に回帰したかのような様相を呈している。迷惑詐欺メールなどはそれら氷山の一角といえるだろう。現代社会では、2人に1人が癌に罹って、この世での人生を終えるが、言い換えれば、それだけストレスをためこんで、抑圧された感情を解放できずに、心のバランスを崩し、肉体の弱い部分に転化し、腫瘍から癌を発生させているといえるだろう。天国に行くも、地獄に堕ちるのも、この世での生き方次第で、いかに心にストレスをためずに、ネガティヴなイメージを取り去るかにかかっている。日々、心を洗い、清めるのが、この世の人間のいわば仕事といえるかもしれない。この世の出来事から何を選択し、何を好み、何を実行するかは、個人の努力の賜物といえるだろう。現代社会では、至る所にストレスになる罠が張り巡らせてあり、それらのトラップにハマらずに、ストレスをためずに、いかに解消するかで、前世に貯め込んだ自らの罪を解消していくか、つまり、地獄から、自らで天国をつくりだすか、が問われる。それは地獄の海から辿り着く海岸の砂浜のなかから、天国へと着飾る美しい貝殻を見つけ出す作業といえるかもしれない。だから、病気にならないためには、ストレスをためないことで、なによりストレスがよくないのは、神経系に緊張をもたらすからで、緊張をほぐし、リラックスのために、適度な運動と笑いが必要なのはいうまでもない。だから、私の健康法は、お笑いトークのバラエティ番組をみることである。毎度となく紹介している、『にけつッ!!』はいつも面白い話術を展開してくれる。『マツコ&有吉 かりそめ天国』は、『マツコ&有吉の怒り新党』から二人の絶妙な面白トークで、楽しませていただいている。最近目覚ましいのは、『永野&くるまのひっかかりニーチェ』で、くるま氏が離脱してから、個人的には更に面白くなったように感じる。『太田上田』も面白いのだが、地上波で定期でみれないので、録画して、日常生活のなかでのように環境映像として、視聴できないのが難点である。高齢者にはユーチューブはまだ敷居がやや高い。にけつッ!! - Wikipediaマツコ&有吉 かりそめ天国 - Wikipedia永野&くるまのひっかかりニーチェ - Wikipedia太田上田 - Wikipedia特に昭和世代の井戸端会議というか、日常生活のドタバタ感が面白いのは、『ザワつく!金曜日』で、同世代の視聴者には、日常生活での共感から一服の清涼剤というか、日々のストレスからの解放感が得られ、心のクスリというか、良い意味で、ハマりやすいように思えてくる。鬼嫁を演じる代表の高島ちさ子氏や、馬鹿息子から馬鹿亭主を演じる代表の長嶋一茂氏、そして気象予報士から、世相予報士を演じる御意見番の石原良純氏の三者三様の日常生活のドタバタ感トークが三重奏のように面白い。ザワつく!金曜日 - Wikipedia出川一茂ホラン☆フシギの会 - Wikipedia昭和世代の一歩間違えれば老害といえる人達が、令和の時代の波の流れに必死に乗ろうとする波乗り陸サーファーのドタバタ感が、面白い。そのオフ会版というか、二番煎じの、『出川一茂ホラン☆フシギの会』も面白いが、日常生活から離れた非日常の、微妙なオカルト路線を模索しているようなのだが、まだまだコンテンツに乏しい感が否めない。非日常的なオカルト路線を展開するのなら、バカリズム氏のようなタイムリープ感を加えるか、『THE 世代感』のような世代間ギャップを絡めるほうがいいようにみえる。THE 世代感 - Wikipediaこのような、いわば面白トークバラエティ番組は、物質界での日常生活から生じるストレスの回避法を、面白可笑しく自らの体験として語ってくれる健康医療番組なのである。お笑いトークの毒舌などは、いわゆる毒は毒をもって制すの、自分の代わりにお笑い芸人が毒を吐いてくれるストレス解消法なのである。パラケルススは、「すべてのものは毒であり、毒でないものはない。用量だけが毒でないことを決める。」と、錬金術の秘密を語っているが、人体にとって、つまり肉体にとって、毒となるか、薬となるかは、肉体を操作する心の運用の、バランスの問題なのである。MESSAGE #01 | 先輩からのメッセージ | 厚生労働省 薬系技官 採用情報古代人は、火を使って、太陽のエネルギーを、物質界に再現してきたが、近代人は、それを熱とし、電気の使用にまで拡げた。そして、現代人は、原子核の壊変から、原子力の使用にまで拡げているが、この運用法、つまり用量を間違えると、人類滅亡への毒となってしまうのを、肝に銘じるべきである。原子力の錬金術を確立するのは、その操作法の問題で、心の問題なのである。毒を薬にするのは、錬金術の用量の問題である。どんなものでも摂りすぎると毒になり、逆に不足しても、病気になる。要するに、バランスの問題で、偏り、不均衡をなくすのが、錬金術の要諦なのである。神秘学から、心は、神の太陽光からつくられるのがわかっている。だから、心には七色の波長の違いがあり、それらは、十二の神経系を形作る。だから、人間は12種類に偏って、この世に生まれてくる。そして、その偏りをなくすために、この世で多様な経験を積む。だから、人間の性格を大別すると、12にわけられる。それは12にわけられる前の完全な性格のキリストと、12にわかれたその弟子たちで表現できる。現代でも、ググれば、次のような12分類を用いた性格診断が出てくる。古くは十二支などもその類である。これらは一般的に個性心理学と呼ばれているらしいが、利益追求や占いなどに使うのは利己主義的な運用で、毒になり、偶像崇拝なので、おススメできない。使徒 - Wikipedia個性學(個性学)の12分類とは?全種類の特徴一覧個性心理學研究所 | 個性心理學とは現代では、このような性格などの12分類を、コンピューターを使えば、統計的に容易に分類できるわけだが、上の最後の晩餐のように、12を一つにまとめている、バランス感覚を養うのが重要なのはいうまでもないだろう。つまりは、最後の晩餐の集いのように、12人の弟子が、師匠を囲んで平等に、各個性を対等に発揮して、各自が共に助け合うような、天国をつくることが重要なんである。このキリストの最後の晩餐の集いを理想の教育としたのが、前回紹介した吉田松陰の松下村塾といえるかもしれない。神秘学では、この最後の晩餐は、人間の松果体を中心とした12に分類できる、脳内の神経組織を表わすものと伝承されている。以前、脳内の脳室の構造が、鳩の昇天に似ているのを紹介した。さて、いまから約85年前に、オンとオフの、0と1の2進法の言語からなるデジタルの電気信号によるコンピュータが、この世に現れたが、コンピュータのソフトとハードは、人間の心と肉体の関係を、目に見えるようにした、ともいえるかもしれない。更に、その譬えを地球と人間にまで進めて考えると、コンピュータのハードの変遷が、地球の物質界の変化で、ソフトの変遷が、地球に転生する人間の霊魂の変化といえるかもしれない。誕生と発展の歴史-コンピュータ博物館コンピュータの発展<ハードウェアとソフトウェア<Web教材<木暮シリコンの半導体上の電子信号に、どのように言語体系を乗せて、命令を実行するかで、コンピュータはまるで知的生命体かのように動作するが、メインフレームと呼ばれた大型計算機から、パソコンと呼ばれる個人の小型計算機への変遷の歴史をみれば、メインフレームの端末が、個人的な自由度をもち、パソコンとなって、多目的な命令や、特定の中央演算処理装置に制限されずに、多様なネットワークを介して、他のパソコンとのつながりを形成してきたのが、人間の知的水準の変化として、おおまかにわかる。つまり、このコンピュータの歴史を通じて、人類の進化が漠然とみえてくる。人智学の説く、集団自我から、個人的自我への変遷である。だから、人間以外の、動物を、コンピュータで喩えるなら、いまだメインフレームで、植物は、電子回路が印刷され、わずかに半導体となったシリコンで、鉱物は、シリコンそのものといえる。では、0から1までのあらゆる確率的状態を網羅するといわれている量子コンピュータができるとどうなるかといえば、以前、このブログで、「量子もつれ」を紹介したように、この「量子もつれ」をいかにアルゴリズムとして言語体系化できるかにかかってくる。これは以下のサイトなどが参考になるかもしれない。量子もつれを破壊しないで特性評価できるアルゴリズム... | プレスリリース・研究成果 | 東北大学 -TOHOKU UNIVERSITY-量子コンピュータを、先の例えの、人間と地球の関係でいうなら、地球の転生を抜け出して、知的水準作業に見合う地球以外の様々な天体に転生することになるかもしれない。地球よりも進化した天体もあれば、地球よりも劣った天体もあり、命題や命令に応じて、その転生を選ぶ形となるだろう。だから、量子コンピュータの形は、地球というハード的に画一されたものではなく、個人の命題や命令、つまり知的水準に応じて、フレキシブルに改変される、多様なアルゴリズムが整備される必要がある。つまり、答えは一つではなく、状況に応じて移り変わる。だから、言語体系はダブルスタンダードにならざるを得ないだろう。つまり、試行錯誤して、できるだけ命題や命令に近い状態を選んでくる、人工知能AIのようなもので、その選出過程が問題となるだろう。AIは、正解ではなく、正解に近いものを選んでいるにすぎないからである。だから、予め、ネットワーク上に、正解に近い情報がないと無意味なのである。AIが出力する解答のようなものは、人間の知性をソフトランディングさせる目安でしかなく、正解ではなく、あくまで近似法なので、人類の知的水準を示す指数でしかない。それはただ地球人の現在の進化形態を示すものでしかない。例えば、いま現代人は、光を、粒子と波の、いわゆるダブルスタンダードで捉えているが、それは地球上の物質界での観測経験から演繹した知識である。物質界での光の反射や屈折、そのエネルギーを見積もり、数式化した言語体系上の認識で、それは地球上で得られる、光についての断片的な知識でしかない。光が物質にエネルギーとして作用すれば、アインシュタインが光電効果で発見した光量子となるが、時空間に伝わる波動の波として回折などの現象で観測すれば、不可視の振動として捉えられる。それらの中間状態を確率的に数式化したのがシュレディンガーの波動関数で、時空間をトポロジーのように群論で数式化したのがハイゼンベルグの行列力学である。いずれにしても、物質界での観測を基にした、光の性質を記述したもので、超対称性まで発展させないと、物質を操作する錬金術の、心の世界はみえてこない。神秘学では、心がカラダを司っているのだから、心のバランスをとるために、心を宇宙全体にまで拡げるために、宇宙の仕組みを知る知性が必要で、それらを体系的にまとめたのがモラルで、道徳なのを明らかにしている。一言でいうなら、健康の秘訣が、モラルで道徳なのである。道徳やモラルが、黄金の法則で、錬金術とは、心を、この黄金の法則にいかに近づけるかの方法である。だから、健康になるには、天国のイメージが重要で、キリストは、地上に天国を残した。キリストの説いた天国とは、人体の神経系を緊張から解放する、リラックス法で、いわば笑いのようなものである。シュタイナーは、このキリストが残した、天国のような笑いを、ツァラトゥストラの微笑みと呼んでいる。笑いは、自我に光をもたらし、アストラル体、つまり心を膨らませて、物質界から、自我を解放する。シュタイナーが、労働者のために病気について講義した話を要約して、ついでに紹介する。 ☆ ☆ ☆1922年12月27日にドルナッハルドルフ・シュタイナー ゲーテアヌムの労働者への講義「私たちはなぜ病気になるのか――インフルエンザ、花粉症、精神障害」 肉体の上に、外的に現れる症状とは、心の、内的な、つまり精神的苦痛の最終的な結果にすぎない。たとえ、病気が、肉体上の一つの臓器、器官しか侵さなくても、人智学的な治療は、心を含む人体全体から、病因を探して、根本から治療する。 喉が渇いたり、空腹を感じるとき、肉体上では、それは多少病んでいること、つまり不足を意味し、飲んだり、食べたりして、実際、治療している、のである。だから、飲食一つ一つの行為は、実は、(心のバランスをとるための)治療行為なのである。 運動などの後で、空腹としては意識しない、人体のなかの、不断の活動も考慮しなければならない。たとえ体内に何も入れなくても、例えば5時間、何も飲食しなくても、そのような精神的な、不断の活動は止まない。人智学では、人体内の、このような精神的な活動を、アストラル体と呼んでいる。 アストラル体は決して活動を休止しない。食物を破壊し、溶解し、活動を維持できるなら、内的な快適さに満たされる。この内的な快適さで満たされるとき、アストラル体は、内的な幸福感を持つ。しかし、食物を摂取しなければ、アストラル体は満足せずに、この不満は、空腹感として表出される。空腹感は不安定さを誘発し、不断の活動となり、静寂を知らない、荒々しい霊魂の活動となる。 この内的な活動は食物といわば恋愛関係となる。だから、この内的な活動が、食物に受け止められないなら、アストラル体は、捨てられた恋人のように、満たされぬ思いがする。この不満が空腹感である。だから、アストラル体の活動は、食物を分解することで成り立つ。人体の、役に立つものは血管に運ばれ、残りは糞尿を通して排泄される。 例えば、次のように想像してみる。生まれつき、座りがちな性格を持つ、運動不足の人がいるとする。そのような人は、長い時間、運動せずに、怠けて座り込んでいると、その人の、間抜けな頭だけでなく、間抜けな自我を喜ばせる。 さて、そのような座ってばかりの、運動不足の人の、動き回るアストラル体も、怠けがちになり、怠惰になる。すると、そのような人の、アストラル体は、もはや食物を適切に仕分けし、適切な臓器や器官に、必要なものを、運搬しなくなる。(神智学でいう、内分泌不足となる。) 肉体に栄養物は必要なので、糞尿などで体外に排泄されない。となると、本来、必要のない臓器や器官に栄養物が運ばれて、そこに溜まる。例えば、喉頭に向かうべき栄養物が、別の臓器や器官に蓄積される場合を考える。アストラル体が正常に働かないので、『喉頭の栄養物』は、間違った臓器、器官に分泌される。 すると、喉頭に栄養が届かずに、不足して弱くなる。喉頭に十分な栄養物が届かないため、弱くなり、苦しむ。その反面、喉頭に行くべき栄養物が、他の臓器、器官に間違って届き、不要物が、体内じゅうに広がっていく。人体の90パーセントは、水分の液体なので、喉頭に行くべき栄養物は、この液体のなかに溶ける。 人体が必要としている純粋で活力ある栄養分が、この液体を汚染させる。このような体液の汚染は、非常によく起こる。ある特定の臓器、器官に必要な栄養物が、体液に溶け、不要物として、全体を汚染させる、のである。喉頭の栄養物が、体液中に溶け、例えば、それが胃と何らかの関わりを持ったとする。その栄養物が、胃を破壊する事はない。というのも、胃には必要な栄養物が与えられ、不足していないからである。 しかし体液は、人体じゅうを流れ、喉頭にも浸透してくる。喉頭は、既に弱ったままで、この体液を汚染させた液体を受け取る。喉頭には、必要な栄養物が一部薄まって、別な形で溶けている。この汚染した液体を、喉頭は受け取るが、弱まっているために、刺激となって、喉頭は病気になる。喉頭に必要な栄養物は他の臓器、器官には影響を及ぼさないが、弱った喉頭を、病気にしてしまう。 誰かの話し声を聞くとき、人間は、ただ聞いているだけではない。微量な形で、喉頭は、その話の声を模倣、再創造している、のである。だから、インフルエンザに罹った人に会って、その人の話し声を聞けば、たとえ、心の底から、同情していなくても、喉頭が、その人の話し声を模倣し、肉体上の感覚で、お気の毒などと感じているので、その人への感受性が高まる。 人体に、インフルエンザなどの廃物(汚物)があれば、玉ねぎやニンニクを生産するために、土壌に添加する肥料と同じ物質、つまり[硫黄とリン]が、体液に溶けている。そして、やがて、その人は、玉ねぎやニンニクに似たような臭いを、体液を通じて放ち始める。 インフルエンザに罹った人から出る臭いを通じて、頭が鈍くなる。なぜなら、頭部の「感覚器」が必要とする物質が、適切に供給されないからである。人体中に、インフルエンザの廃物が入った結果として、頭部が適切な供給を受けなくなる。この臭いは、玉ねぎやニンニクに似ていて、繊細な鼻の持主には探知できる。 金切り声やかすれ声に、調子を合わせ、模倣するように、病人が出す声などの調子に合わせた結果、自身のアストラル体や活動が乱れる。このアストラル体の混乱が、化学的基盤を引き起こし、インフルエンザに罹患させる。玉ねぎとニンニクに相応しい土壌を作るようなものである。だから、病気のはじめは、細菌とは無関係で、人と人との交流などの関係にある。 では、なぜ病気になるのか、という問いへの、答えは次のようなものである。 人体が侵される場合、精神病と呼ばれる病気でさえも、何かに侵される。例えば、本来の目的でない、汚染された体液には、本来の臓器、器官で使われるべき物質が、不必要に溶けこんでいる。この汚染液が、人体を侵す。 インフルエンザから花粉症に目を転じると、花粉症の発生は、空気中に漂う花粉というよりも、季節に原因がある。花粉症に罹り易くなる最大の原因は、「アストラル体が怠惰になり、適切に物質を運ばずに、不要物を、排出できない」事にある。 春が近づき、液中で生命が成長をはじめるとき、体液もまた敏感になる。そのようなとき、体液、すなわちエーテル体に様々な物質が溶け込み易くなる。そうすると、体液が通常よりも、少し薄く拡がる。「花粉症に罹り易い人の体液は汚染され、薄く拡がりすぎるようになる。体液は、溶解した物質によって、四方八方へと押しやられ拡がる。体液が汚染され、乱れると、春に出現する全てに敏感に反応するようになる。特に、植物から放たれる花粉は格別刺激が強い。 だから花粉が花粉症を発生させるのではない。花粉は、花粉症を悪化させる。 人智学の洞察を基に作られた花粉症薬の効能へと話を移すと、薄まり、膨張し、汚染した体液を、元に戻すために、最初に溶け込んだ不適切な物質を外に排出させるために、その濃縮薬を注射した後で少し汗をかくようにすればよい。以上から興味深い事実が明らかになる。発汗は、アストラル体の調整に役立つのがわかる。 もし寝汗をかいたり、夜尿症に悩むなら、アストラル体に問題がある。子供にも、細心の注意を払う必要がある。例えば、少年犯罪者の生い立ちを調べれば、このような見方の正当性とは言わないまでも、方向性の正しさが立証できるだろう。 だからといって、人智学による花粉症薬を早急に求めないようにすべきである。患者が便秘でないのを、まず確認すべきである。便秘の人は体液が濃縮され、益々外に出づらくなるからである。「便秘の人は花粉症薬の注射と一緒に、通じをよくする薬も投与しなければならない。 有効な治療をするには、どの薬がどんな病気を治すのか、だけでなく、患者にどのような質問をすべきかが大切である。素晴らしい医療は正しい問診を行い、患者をよく知る事にある。問診は非常に重要である。なのに、患者に年齢さえ尋ねない医師によく出会う。年齢はエーテルの成長を知るのに意味をもつ。例えば五十歳と四十歳とでは、全く異なった治療法を用いる必要がある。年齢による体質を考慮せずに、ただマニュアル通りに「この薬は、この病気に効く」として治療してはいけない。 例えば、身近な、犬と猫の例を挙げる。犬の体質は便秘がちで、猫は下痢気味である。だから犬と猫に同じ薬を与えて、作用の違いを観察するとよい。人体は『物質の固体』だけでなく『液体』でもあり、更に、…『気体』でもある。『気体』は一瞬ごとに形を変える。ある瞬間には空気は外にあり、次の瞬間には内にある。 既に不要になった固体の物質が体液に溶け込むように、体液も、絶えず蒸発している。土壌の水が蒸発すると、大気中に上るが、体液が微量ずつ蒸発すると、吸い込んだ空気(大気)の中に侵入する。特に、肺がおかしい場合には気を付けるべきである。というのも、そのような場合、上述のような汚染した体液が蒸発したからである。そうすると、恐らく肺炎になるが、もし、体液に不当に溶け込んだ物質により生じた肺炎なら、物質を除去できれば、治療できる。 しかし、いまは肺炎が、表面に現れるほど悪化していない場合を考える。人体は敏感である。肺が炎症を起こすほど強く侵されなくても、少しばかり具合が悪くなる。このような軽い病気には耐えられるが、肺に浸透した物質が、体液のなかに微量に入り込んでしまう場合、肺の中の体液は不適当な物質を溶かしもってしまう。そして、このような汚染物質は、特に肺が健康でない場合、蒸発してしまう。 不適当な汚染物質が体液に溶け込むだけでなく、蒸発し、吸い込んだ酸素と混じり合うと、神経を侵し害を及ぼす。神経は純粋な酸素を必要とするのに、汚染された体液が蒸発し、酸素が汚染されるからである。肺に、このような蒸発が生じると、肉体的な疾患にならなくても、いわゆる精神病になってしまう。 精神病は、本当は精神の病などではない。なぜなら、精神、つまり霊は病気にならないからである。精神病は、体液が不適当に酸素の中に蒸発して、神経が分断され、麻痺するせいにある。だから、自分の体液の中には、不適当な汚染が広がらないよう、更には体液が不適切に蒸発しないように、絶えず体内の物質を正しく管理し、処理しなければならない。しかし、日常の生活でさえ、体液を不適切に蒸発させてしまう。喉が渇くとき、この事に気付くはずである。 以上のように、病気を特徴づけできる。喉の渇きは精神病への傾向をもち、空腹は肉体の病気への傾向をもつ。それから、非常に実践的な提案をしたい。 渇きを癒すのを探知するのが困難な場合がある。例えば、乳児である。乳児の飢えと渇きは明確に識別できない。両方ともミルクで満たされるからである。だから、もし母親や乳母の乳を通して有害なものが入ったなら、ずっと後になって、体液が不当な蒸発をしたときに、精神病を誘発する事もある。 また、間違ったワクチン接種を受けると、たとえ、体液が病気(感染症)にならなくても、体液と関わる諸臓器、器官が苦しめられる。不適切な接種の結果、汚染体液の蒸発が起こり、やがて精神病に罹り易くなる。今日非常に多くの人々が早発性痴呆症…に悩まされているのに、既に気付いている人もいるだろう。この病気は、比較的、若い時期に、神経が崩壊し始めるのだが、その大部分は乳幼児期の間違った食事に起因している。 赤子に与えるミルクを化学的に調査するだけでは十分ではない。全く異なる側面を吟味すべきである。現代になって人々は食事に関心を払うのを止めてしまったので、この病気が恐ろしい勢いで発生している。 以上から、この病気には、この治療がよいと医者を訓練するだけでは十分でないのに気付くだろう。人生全体を健全にするように努めなければならない。そのためにはまず、生活全般を見直し、健全さ、規則正しさを発見しなければならない。 人智学は、この理解に与する。人智学は、予防医学にも有効である。人智学は健康の諸問題の正しい把握を望んでいる。
2025年04月10日
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神秘学では、本物の預言者は占わないといわれている。というのも、お釈迦さんが説いたように、この世で生起するカルマの法則は、善因善果、悪因悪果なのだから、なるべく善因を遂げるに越したことはない。良い事をすれば、その良い事は必ず自分に返ってくる。しかし、善果を見込んで、善因を成すのは利を求めるので、偽善になり、詐欺行為なので、当てが外れて、利ではなく害が返ってくる。というのは、カルマの法則では、自分が他人にした行為が、自分に返ってくるわけで、他人に損害を与えて、自分が得をすれば、今度は立場が逆になる宿命を背負うからである。だから、老子などは、無為自然を説いて、利を求めて行動するのを戒めている。功利主義はダメなんである。尤も、真の功利主義は、功利というよりは、社会全体や宇宙全体の幸福主義というべきかもしれない。宇宙全体が幸福になるには、宇宙全体の各成員が宇宙全体を隈なく見通せる高度な知性をもつことであるから、この世から、自己本位の、低次の無知蒙昧をできるだけなくすことである。功利主義 - Wikipediaだから、占いというのは、自分だけ得をしようという発想で、占うのでは、百害あって一利なしなのである。アインシュタインは、神はサイコロを振り給わずと量子力学を批判したが、正確にいうなら、神はサイコロの目を自由自在に出せる、というべきだろう。占いなどをすれば、その占いの結果に左右されて生きることになるだけである。そのうち、占いが自己暗示になって、占いに依存し、占いの中毒になってしまうだけである。占いに一喜一憂して、霊魂が成長しないのでは、サイコロを振るだけのために、この世に生まれてきた根無し草人間である。子どものとき、いしいひさいち氏の「がんばれ!!タブチくん!!」という漫画が流行った。アニメ映画にもなったので、当時は一種のブームになり、特に印象的だったのは、うろ覚えだが、主人公タブチくんが捕手だったので、福本選手の盗塁に悩まされ、ゴキブリのようにみえてきて、ついには禅寺に修行に行き、ヒロオカさんに似た坊主に、不動心を教わるエピソードだった。がんばれ!!タブチくん!! - Wikipedia不動心 - Wikipedia結局、タブチくんは、不動心がわからずに、不動心という言葉に悩まされ、動かされて一喜一憂し、かえって不動心に揺さぶられるオチだったような記憶が残っているが、その後で、ゴジラ松井選手が、不動心という本を書いてベストセラーとなっているのは、当時の野球選手に不動心が半ば合言葉になっていたのがよくわかる。松井選手の本は読んでいないのだが、不動心をググれば、不動明王の姿からわかるように、『不動明王は格闘技の守護神でもあり、右手に剣を持ち迷信や無知を断ち切る一方、左手に縄を持ち"諸悪の根源"や暴力的かつ制御不能な感情を縛るものとされている。恐ろしい風貌をしているが、奴隷階級と関連のある髪型によって、慈悲心と奉仕の心に属するものとして象徴づけられている。』とウイキに書かれているから、現代でいうところの、メタ思考、メタ認知のようなものなのがわかる。メタ思考とは?高い人の特徴やトレーニング方法をわかりやすく解説 | アルー株式会社メタ認知とは?高い人・低い人の特徴とトレーニング方法を解説 | Talknote Magazineメタ思考やメタ認知を簡単にいえば、一種の俯瞰である。俯瞰とは、端的にいえば、自分の意見はあるが、その意見に自分が拘束されない自由な余地を残しておくもので、人智学的にいえば、いわば思考と感情と意志を明確に区別することである。前回紹介したように、神智学では、三途の川のような、思考の川があり、人間はその傍らで、その思考の川を眺めているだけにすぎないという。人間は思考の川に映った自分をみて、それを自分のものと、つまり自分の思考と錯覚しているらしい。俯瞰景 - Wikipediaこの思考の川を分離できないで、人間は感情的になると、ついには、思考と感情と意志が区別できなくなる。自分の意見がまるで自分の子でもあるように思えてくる。そして、自分の意見が否定されると、自分の感情や意志、存在までも否定された気分になる。特に権力をもつと、権力に依存して、これら3つを混同し、利己的行為に走りがちになる。そして、自分が神にでもなったような気分に浸り勝ちになる。だから、自分の意見に固執するのは一種の偶像崇拝なのである。不動明王が、右手に、迷信や無知を断ち切る剣をもつのは、従来の権力を捨て、つまり執着心を断ち切り、左手に諸悪の根源の破壊や暴力、制御不能の、否定的な感情を捕える縄をもつのは、心をバランスよく巧みに制御して、何ものかに依存する奴隷身分から抜け出して、自由に独立し、宇宙全体に慈悲心を巡らせて、奉仕せよ、と説いているわけなんである。前世からの因縁で、現世の今生で、たとえ戦う宿命になっても、その縁に感謝して、共に相手を敬い、切磋琢磨しなさい、という意味なのである。戦う相手は嫌いな場面が多いから、嫌いな相手を好きになれ、というのは、かなり困難な話なのだが、感情的にならずに、自分の立場を越えて、相手の戦う理由を思いやりなさい、という意味でもある。早い話、相手の攻撃に対して、感情的に応じて反発せずに、相手の意を汲んで、スルーしなさいという、一種の禅問答のようなものである。そうすると、相手の攻撃心は、受け手を失って、自分に返ってきて、策士策に溺れる、というようになる。火に油を注ぐのではなく、火には水で消火しなさい、という戒めなのである。禅にある、釈迦に会えば釈迦を殺せ、である。自分が出会っている仏は自分がつくりだした偶像なので、ニセモノだから、偶像を捨てろということである。自分のなかの、慢心がそのような偶像をつくりだしている。絶えず謙虚であり続けなさい、という戒めである。仏に逢うては仏を殺せ 父母に逢うては父母を殺せ (禅の名言) | 和魂美才そして、また破壊や暴力や権威などに、同じもので対抗するな、つまり、それらは噛ませ犬にすぎないのだから、それらとマトモに戦って、たとえ勝っても自分の実力と思うな、と不動心は説いているわけで、むしろ、自分のなかの破壊、暴力、否定的な感情を捨て去るのに良い機会としなさい、と説いているわけなんである。破壊、暴力、否定的な感情に共鳴、共感してしまうと、それらと共にいずれは地獄に堕ちてしまう教訓なのである。だから、負けるが勝ち、というわけで、武士の情けは、この負けるが勝ちにあるのかもしれない。負けるが勝ち(まけるがかち)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書「武士の情け」の意味は? 武士の特権や「情けは人のためならず」も解説 | Oggi.jpさて、巷はトランプ関税で大騒ぎだが、キリストは、悪魔には抗うな、と説き、右の頬を打たれたら、左の頬を指し出せ、と言ったのは有名な話だが、その意味を正しく理解している者がほとんどいないのは、この世が悪魔に支配されているからといえるかもしれない。コラム:「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の新解釈がだいぶ水平思考的だった件 - 謎解きのある日常。2016年9月4日「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」 - 日本キリスト教団花巻教会前回紹介したサイトでは、人間が、この世に生まれてくる目的は、「分離」を学ぶことで、分離により、嫌なことやネガティヴを体験し、霊魂を成長させるため、と説いている。人間が神から生まれ、独立して、神にまで成長するには、分離を学ぶのが必要なのは明らかである。神が人間にあわせるのではなく、人間が神にあわせるまでに成長する必要がある。例えば、子どもが親離れせずに、いつまでも親の保護下にあれば、親に依存してしまい、親の有難みがわからないで、独立して自由に一人で生きていけなくなる。いつまでも、子どものままで、自分の気持ちしかみえなくなってしまう。視野を拡げないといけないのに、視野を狭めるばかりになる。自分の殻を抜け出して、社会の仕組みや物質界の仕組み、そして宇宙の仕組みを知っていくために、その有難みを経験しないといけない。だから、悪魔はある意味スパルタ教師として、人類の反面教師役で、この世の物質界を支配している。悪魔に屈せずに、抗うことなく、悪魔と共鳴する心を、自らのなかから捨て去れるかどうか、の、いわば悪魔卒業の試験を、地球で受けているわけなんである。だから、右の頬を打たれたら、左の頬を指し出せ、というのは、簡単にいうなら、悪魔のような復讐心を捨てなさい、ということなんである。悪魔は、自分のなかの悪魔を映す鏡なのである。自分の心のなかに闇をつくるものを捨てれば、それは自然と天国をつくる素材となる。だから仏教では喜捨と呼んでいる。つまりは、この世の悪魔を見る事で、人間のなかに眠っている悪魔の心を放棄しなさい、という意味なのである。だから、悪魔の振り見て、我が身を正す、のが転じて、人の振り見て我が振り直せ、という諺になったのかもしれない。だから、悪魔は、自分の姿を映す鏡を恐れるわけなんである。悪魔は、人間の目に映る自分の姿がみれないからである。泥棒にも三分の理という諺がある。互いに三分の理を主張しあえば、自分が正しい、という自惚れ屋の世界で、血みどろの争いになり、怒りや破壊と、恐れのネガティヴな応酬合戦になるのは目に見えてくる。そうやって、どんどん人類は愚かになり、他人の気持ちがわからずに、社会全体や世界全体、そして宇宙全体を永遠に理解することなく、知的生命体は人間だけだと思い込んで、ただただ怒りの表明や破壊を繰り返してきた。そのような人類の思い上がった破壊、怒り、恐れの思想が、この世に数限りのない悪魔のような独裁者をつくりだしたわけである。 盗人にも三分の理 | 会話で使えることわざ辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス独裁者たちは、この世を支配し、地獄を生み出しているのに、自分が地獄に堕ちるしかないのを自覚できないでいる、無知蒙昧の愚か者なのである。そのような無知蒙昧を相手に戦うほど愚の骨頂はないだろう。そのような独裁者が、この世での生命を奪おうとも、それは肉体だけの話でしかない。というのは、霊魂は永遠に不滅で、自らで、死を認めない限り、死ぬことはないからである。我々人間は、神の子なので、永遠の生命をもち、それ相応の能力をイメージトレーニングすれば、いつでも地獄にでも、天国にでも、行けるのである。自分中心の地獄をつくれば、地獄に堕ちるし、自分だけでなく社会や世界や宇宙全体の幸せを考え、そのために奉仕すれば、天国に行けるのである。それは自分の幸福が宇宙全体の幸福につながるように、努力するかどうかにかかっている。自分だけ幸福で、他の人や社会全体が不幸のどん底なのは、地獄に堕ちるだけである。そのような闇をつくっていると、カルマの法則で、自分の支配欲や破壊欲や、否定欲により、自分が壊されて地獄に堕ちるだけである。この世のこれら否定的な欲望から自らを解放することが、この世に生き、学ぶことなのである。だから、賢者は心を自由自在に操作するのを学ぶ。自分の心を操作するには、自分の心の想い癖から、癖を読んで、脱却しないといけない。そのような否定的な想いをためると、肉体を蝕んで、病気となるからである。神智学では、癌は、自分の心の自由な想いの表明が、抑圧されたストレスにより生じるのを解き明かしている。自己が想ったままの自然な表明が、否定的な想いに拘束されてしまい、自由な想いを表出できないために、ストレスになり、それが肉体に抑圧された感情として、腫瘍化して現れる。本当は実現すべき自己表出なのだが、自分が周囲から否定的にみられるのを恐れて、抑圧してしまうのが、肉体に腫瘍をもたらして、癌化させてしまう。だから、神智学では、癌の病因は、否定的な抑圧された感情と解き明かしている。本当なら芸術などで表現されていた感情が、抑圧されたために、感情の代わりに、肉体に腫瘍の形で表現されてしまうのである。だから、癌とは、抑圧された感情の叫びというものかもしれない。だから、癌を美術で表現するなら、ムンクの叫びになるかもしれない。叫び (エドヴァルド・ムンク) - Wikipediaだから、ストレスをためないのが、癌にならないためによく、最近の医学でもわかりつつあるが、運動するのが、癌の予防になるのは、運動によって、破壊や暴力や否定的感情が、適度に発散され、それらの執着心を解放し、転化するので、よいわけで、また、笑うのも、免疫防御のバランスを回復させるのは、笑うことで、これらの否定的な感情が発散されるからである。笑う門には福来る、というわけなんである。とにかく、悪から学んで、自分のなかから、闇を捨て去って、なるべく自分のなかに天国をつくることが、そのまま健康のイメージトレーニングになるのである。人間の心は、地獄と天国をつくるツールなのである。だから、古代エジプトの最後の審判の図では、天秤に、人間の心臓を乗せて、天使の翼と均衡をとれるか、その死者の生前の行いにより審判される、のが描かれているのである。適当な図がみつからずに、上の図を拝借したが、間違いがある。天秤の左の皿にはツボのようなのが乗っているが、原図は心臓である。そして、右の図の皿にクシのようなのが乗っているが、原図は、天使の翼である。作図者が唯物論に染まり、唯物的にツボとクシに置き換えてしまったのだろう。古代史には、こうしたミスがよくある。さて、昭和のときに、くしゃみをしたら、誰かに噂されている、という迷信が残っていて、くしゃみをしたら、誰かによく言われたものだが、それでも、くしゃみが止まらず、3回以上続いたら、風邪が疑われたが、令和のいまでは、花粉症が疑われる風潮を、ほとんど欠かさずに毎週みている、「にけつッ!!」のケンコバ氏の面白トークで気づかされた。くしゃみの回数で意味が違うという迷信を友人と話していると解釈が違いました。何種類かあるのでしょうか。 | レファレンス協同データベースにけつッ!! - Wikipediaにけつッ!!|読売テレビこの、すぐに花粉症を疑う現代の風潮を、医療番組でもないバラエティ番組で、ケンコバ氏が批判していたわけなのだが、実は、この批判は、当たらずといえども遠からずで、神智学により解き明かされた、病気の根本についての古代叡智からくる「病は気から」という諺や、「馬鹿は風邪を引かない」の意味を面白可笑しく、わかりやすく解説している。「病は気から」は本当だった?――ストレスと免疫|朝礼deポン!ためになる話題|NECネクサソリューションズ馬鹿は風邪を引かない - Wikipediaケンコバ氏はくしゃみを数回しただけで、花粉症を疑うのは、かえって自分が花粉症ではないか、というストレスに誘導するので、そのようなストレスを受けないように、自分は花粉症ではない、と想うのが重要と、その番組で、すぐに花粉症を疑う風潮を批判していた。いわば病気の自己暗示的側面を指摘したのである。また、ケンコバ氏は、子どものときに、ほとんどの子どもが泣く映像をみて泣かなかったので、学校の先生に、異常と判断されて、親が呼び出されたそうである。そして、この先生は、ケンコバ氏を泣かすためにわざと意地悪をしたらしい。いまから考えれば、この先生のほうが、例外を認めない異常な教師というべきかもしれない。ケンコバ氏の話によれば、この先生は長年の経験から権威だったようである。現代にも、自分が正しいと信じて疑わない自惚れ屋さんが老害として巷に君臨し、世間を賑わせている。そしてまた、頭髪が黒々しく、白髪が全くないケンコバ氏は、髭には白髪が混じるので、頭髪を黒く染めているとよく疑われるので、全く迷惑で、人を見た目で勝手に判断する、ルッキズムの風潮も、ついでに批判していた。神智学が解き明かした古代叡智によれば、また、お釈迦さんも、病苦は執着心から生まれる、と説いているように、病は気から、執着心をもたない馬鹿は、風邪を引かない、というわけなんである。要するに、ストレスをためないのが、健康の秘訣といえる。要するに、執着心や、破壊的な心や、否定的な心をもつと、それが、病因となるわけである。神智学では、これらの考え方を、ネガティヴな心と呼んでいる。現代にも、英語には、シックネスとイルネスとディジーズの、病気の3つの表現があるが、ググると、シックネスは体調の悪さで、イルネスは、そこに個人的な不調が加わり、ディジーズは、公的な病名に使われるのがわかる。間違えやすい”ill”と”sick”の適切な使い分け方って?「病気」って英語で何て言う?sick・ill・deaseseの違いとは?病気は英語でsick?症状や場面で異なる言い回しをマスターしよう! | オンライン英会話のWeblio英会話コラム(英語での言い方・英語表現)Illnessは、体が正常に動かない状態を指し、個人の感じる不調全般に使います。Diseaseは、医者が診断するような具体的な病気を表し、もっと正式な言葉です。Sicknessは、具体的な症状よりも、体調が悪い一般的な感覚を表すのに使われます。Ailmentは、日常的に遭遇する軽い病気や体の不調を指します。神智学では、シックネスは、原則的に、ネガティヴな心からくる病気で、ディジーズは、人体のバランスが崩れたことで、外的要因やウイルスや細菌などが、肉体に広まり、発症する病気と、区別している。つまり、肉体レベルで起こるバランス不調と、その上の心のレベルで起こるバランスの不調の区別なのである。肉体を操っているのは、心なので、肉体の不調のレベルを、心にまで見通せるかどうかが、真の治療家には重要なのである。現代人には、唯物論しかないから、シックネスとディジーズの明確な区別ができないので、対処療法だけにとどまってしまう。だから、病気に罹るというのは、自分の心のなかにまだ闇が残っているわけで、肉体に現れた症状を取り去るだけでは、天国をつくることにはならないわけで、それはまだ悪魔の支配下にあるので、不動心で、悪魔の支配下から、自らを解放しなければ、天国にはいけないわけなんである。自分で、自分を悪魔の支配下から解放しない限りは、地獄に堕ちて、また地球に生まれる輪廻転生を繰り返すだけで、ついには地球もなくなってしまうと、霊魂を自らで消滅させてしまうので、永遠に自分で自分を殺しながら、死んでしまうのである。シュタイナーは、自分の心のなかに、天国をつくる、この不動心を、キリストと共に死に、精霊の名の下に蘇る、と表現している。これは、キリストのように、この世で善行を積めば、あの世で、天国をつくれるので、次の木星紀には、自由な愛の天使という名で、地球人を卒業し、次の木星紀では、人類の上位の天使として、次の木星人を教育するという意味である。それにしても、地獄に堕ちるのを自覚できない地球人が多いのに呆れ果ててしまうよね。いつまで戦うつもりなのかな。不動心どころか、恐怖心ばかりが増長増殖する地獄の世界の到来だよ。
2025年04月08日
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NHKの歴史探偵はたまにみるのだが、先日、吉田松陰をやっていた。吉田松陰の勲功で、いまの政治家が君付けで呼ばれるのは、松陰がつくった松下村塾での上下の身分をなくすためなのは割りと有名な話である。しかしながら、その勲功の恥晒しというか、いまの政治家は国民を平等に扱うどころか、国民を見下し、自分たちをさも上流階級扱いされるように、仕向けて欺いているから、松陰先生も浮かばれないだろう。歴史探偵 - NHK吉田松陰 - Wikipediaその番組では、学校教育のつまらなさを、松陰の「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり」の語録により、救われたある歴史タレントを紹介していたが、松陰も曲解され、長州明治政府の御都合主義から、愛国者に仕立て上げられて、いまに伝わっている人物なのが巧く紹介されていた。徳川幕府が毛利幕府に代わっただけなのは、靖国神社や、長州出身の総理大臣が多いことでもわかる。吉田松陰語録|語録|御由緒・松下村塾|【公式】松陰神社|山口県萩市鎮座 明治維新胎動之地 心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触(しょく)に従ひて発し、感に遇(あ)ひて動く。発動の機は周遊の益なり。 心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。この語録からもわかるが、この語録を古代叡智で読み解けば、心がこの世を生きる基点となり、大自然に触発されて、そのなかに人間の進化目的である、神の意識が読み解け、感動し、神の意識と共に人生が動きはじめる。その人生の旅は、人間進化の目的を与えてくれる、となる。このように松陰の思想とは、この世の従来の身分制度をなくし、四民平等にする、革命教育思想なのである。というのも、身分制度とは、遺伝を基にした、出自からくる利己の、利権の、この世のものでしかないからである。つまり、松陰の思想とは、この世は、松下村塾の互いが平等の学び舎というもの、なんである。大自然のなかに神の意識をみつけ、神の意識と共に人生を生き、自らのなかに神の意識を育てる、という意味なのである。だから松下村塾の松は、人体の松果体の松といえるかもしれない。松陰は松の陰で、まさに人体の松果体の影響という意味にもなる。オカルトでは、松果体は一つ目とも呼ばれている。後に、松下村塾の長州の塾生たちが、長州ファイブといわれ、トーマスグラバーのジャーディマセソン経由で、欧米のフリーメーソンと合流するのは歴史的なカルマの因果法則といえるだろう。恐らく、吉田松陰たち長州派閥とメーソンリーは、前世からつながっていたのかもしれない。さて、地球学校の廃校も近いのか、巷では天変地異が盛んに起こっているのでもわかるが、独裁者や政治家を中心にして、自分が進んで地獄に堕ちていくのを知らない人々が多いのだが、このブログでも何度も紹介してきたが、天国と地獄の違い、をわかりやすく紹介する、次のような有名な話がある。地獄の食事と極楽の食事(住職の法話) – 真宗 大谷派 存明寺 エンマさまが最初に開けたカーテンの向こう側は、地獄でした。人々は先を争うように長いお箸で料理をはさむのですが、誰一人としてその食べ物を口にできる者はいません。そこには、みにくい争いがありました。 次にエンマさまが開けたのは、極楽の食事風景でした。人々は同じように長いお箸を使っているのですが、料理をはさむと自分で食べるのではなく、目の前の人の口にその食べ物を運んでいるのです。お互いに交互に食べ物を与えあっています。そこに豊かでなごやかな食事風景がありました。上のサイトから、実は、この有名な話には続きがある。それは地獄に堕ちる人には三種類いて、自分からは与えずに、ただひたすら与えられるのを待つ人と、相手の好みを聞かずに、自分の思い込みで、矢鱈と与え続ける人と、相手と取り引きをする人である。この三種を、物質界に置き換えれば、消極的な人。利己主義な人。打算的な人といえるだろう。それらは、結局は、自己の価値観しかもたない人で、自分は善人で天国にいると思っているが、他からみれば、地獄なんである。そして、次の言葉で締めくくっている。堕ちる地獄は恐ろしく思えども、その地獄をつくる己の心を知らぬ地獄をつくっている、己の心を知らないから、地獄と天国の違いもわからないわけなんである。では己の心を知るにはどうすればいいのだろうか?子どものときに、小学校の体育館を使って、剣道を習っていたのだが、剣道をはじめる前と終わりに、黙想という一種の座禅をするが、その時はただ精神統一とだけ教えられて、黙想中は、「何も思いうかべない」という人もいれば、「振り子が一点に静止するようなイメージ」、もしくは「水面の波がなくなるようなイメージ」という人もいて、精神統一が何で、何が雑念なのか、子どもには全く意味不明だった記憶がある。黙想 - Wikipedia黙想を何のためにするのか、当時の人気アニメの一休さんが、頓智を考えるときに、黙想シーンをみてはいたのだが、剣道と頓智がつながらずに、全く別物と思い込んでいて、子どもには黙想が面倒くさいのもあり、単なる古臭い儀式のように思い込んでいた。精神が肉体を動かす根源なのを知らないからである。もしコンピュータで喩えるなら、ハードを動かすソフトなわけで、ぶっちゃけていえば、ソフトをインストールし、ファイルを読み込む作業ともいえるわけでもある。しかし、コンピュータは、ハードのメモリー制限があり、容量を超えると直ぐにオーバーフローになるが、当時のコンピュータは、まだ小型計算機の電卓がようやく普及しはじめたばかりで、計算といえば、ソロバンが主だった。だから、剣道の代わりに、ソロバン道にしたなら、その前後で黙想しなければならないだろう。だから、いま改めて、考えてみると、唯物論に染まり切っている現代人には、黙想の意味がわからないのは当然といえば当然かもしれない。肉体をオーバーフローさせないように、精神との統一融合を図る、簡単にいえば、黙想とは心のストレッチだからである。ストレッチをすると、身体が柔らかくなり、伸びやすくなるのは、巷の、超音波装置などを用いた通販番組での宣伝演技でもわかるが、それは、このブログでも何度も紹介しているが、人間は本来無限の可能性をもち、肉体だけに限定されない、霊魂の心の存在だからである。催眠術は、その応用でもある。痛いくらい伸ばすほうが効く。世界的権威が教えるストレッチの新事実催眠 - Wikipedia漫画のワンピースの主人公ルフィのように、ゴムゴムの悪魔の実を食べて、肉体がゴムのように柔軟に伸びるようなイメージトレーニングをして、実際にストレッチして、成功体験を習慣づけると、一種の自己暗示の催眠術に罹り、日常生活からくる、肉体の限界を超えることもある。火事場の馬鹿力などがそうである。スポーツ選手が、一般人を超える、超能力的な運動能力を発揮できるのも、霊魂の能力にある。「火事場の馬鹿力」は自らの意志で出せるのか?:“筋肉博士”石井直方のやさしい筋肉学:日経Gooday(グッデイ)現代科学の脳科学では、脳と筋肉との電気信号でしか分析できていないが、神智学では、4次元以上の、俗に霊能力と呼ばれる、生命力や、カルマの道徳力にも言及している。そして、それを脊髄脳の働きとして呼んでいる。脊髄脳については、現代科学では全く無視され、無いかのようにされている。というのも、覚醒意識では捉えられない潜在意識の心の奥の、東洋哲学の、超越心と呼ばれるアストラル界の存在だからという。神智学では、脳は電気信号の放電だけでなく、リンの発火や脳砂のなかの、オスミウム放射が起こっているのを解き明かしている。脳砂は、オスミウムとリンと、二種類のカルシウムからなり、オスミウムの放射は、アストラル界にある霊魂の想念を、脳や心臓に伝達する役割を果たしているという。神智学の、この超越心の解説は難解で、自分もまだ半分しか理解できていないが、わかりやすく解説するために、三途の川とホログラフィの概略図を用いてみたい。オスミウム - Wikipedia有名な「我思う故に我あり」と言ったとされているのは、デカルトだが、ググると、以下のウイキから、『アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』の中で、デカルトの発言は不徹底である、厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。』ように、神智学から、古代叡智を知れば、宇宙に流れる想念の大河から、「我あり」と思われる想念を、我が取り出してきているから、我あり、と考えるわけなのである。我思う、ゆえに我あり - Wikipedia「我あり」と考える我は、「我あり」の仮想の存在なのである。これが分離できるかどうかで、我の実体がわかる。我が死ぬと、分離できていない、「我」は仮想の我をみて、自分が亡くなったと思いこんでしまうわけなのである。ホンモノの自分と、いわば仮想の自分の間にあるのが、俗にいわれる、三途の川なのである。死ぬと、三途の川を越えるとよくいわれるのは、この想念の大河からとりだしてきた「我あり」想念を手放すからである。この三途とは、先に紹介した、脳の電気信号の放電の流れと、リンの発火の流れと、オスミウム放射の流れと考えられるわけなんである。例えば、この三つの流れを、ホログラムの図に当てはめてみると、三途の川が何なのか、漠然とみえてくる。三途川 - Wikipediaホログラフィー - Wikipedia記録⇒記憶再生このホログラフィーの原理の図から、レーザー光が、放電とリン発火とオスミウム放射であるのがわかる。ホログラフィーの図に、太陽光と自我の関係を当てはめると、ビームスプリッターが、太陽光を霊光と物質光にわける陰陽の月光と太陽光の関係で、鏡が、アストラル界にある霊魂の自我で、人智学でいう霊我で、真の自我、そして、物体は、物質界の肉体で、ホログラムが、覚醒意識での、見せかけの自我であるのが、漠然とみえてくる。この関係は、現代科学でも、対称性の自発的破れとして知られている。いわば高次の自我が低次の自我へと、自分という存在を安定化させるために、利己的であるように、物質界に転生するといえるかもしれない。例えば、ビッフェで、各自が料理を好きに取り分けて立食するスタイルの、自分を表現するために、自分を成立させる素材だけを、宇宙全体の意識のなかから取り出してくるようなスタイルで、これは自己組織化として知られている。自発的対称性の破れ - Wikipediaビュッフェ - Wikipedia自己組織化 - Wikipediaこのホログラムの原理による脊髄脳を理解すると、健康は、太陽光からいかに自分がバランスのとれた完全体であるのかをイメージできるか、そして、その健康のイメージトレーニングにより黙想で実現できているか、常に自分を抑圧せずに、リラックスした自由な状態に解放できるか、にあるのがわかる。あまりに理論的な話に終始しているので、では、実際にどうなのかというと、面白い記事を以下に見つけたので参照してほしい。来るべき水星紀の時代潮流を表現しているようにみえる。 ☆ ☆ ☆石井数俊氏 愛のない人間は滅びる | 2025年何かが起こる!?~予言/伝承/自動書記/社会問題等を取り上げ紹介~ | エッセイ・ノンフィクション | 小説投稿サイトのアルファポリスこの地球に生まれた理由と、どう生きていくか? | ノウイング・イノベーション人がこの地球に生まれた理由と生き方について私は2歳下の弟が知的障害者で3歳くらいから福祉施設で生活するようになりました。月に1回1泊だけ自宅に戻ってきて過ごすようになりました。私が毎月その施設に行くと、子供から大人まであらゆる知的障害者の人が集まっているわけです。そこで気がついたことは、施設に入っている人はハンディキャップを持ってますが、ある種の天才的な能力を持っているということです。その一例として、施設のある入居者が何十kmも離れている私の家に自転車で遊びに来たことがありました。その人は頭の中にナビゲーションシステムが入っているようなもので、天才的なものを持っていたのです。誰しも天才的な超能力を持っていて、その部分を上手く引き出してやると地球全体のバランスが上がるのです。優れている能力がある一方で、ダメな部分も当然あるのですが、この部分を補う仕組みがさえあればとんでもない超能力をみんなが享受できる世の中が実現するのです。(吉田松陰が松下村塾で目指した個性の教育でもある。)しかし、現実は皆が学校で一律の教育を受けて、個性のない人間が出来上がります。(長州閥による教育勅語の官僚養成の画一的教育)その後は就職して同じように働くことを何十年繰り返すことになります。(現代の利害組織による退廃的世界)このような平坦な人生を何十年も繰り返しても、魂の成長はほとんどしないのです。(落第生ばかりで、自ら地獄に堕ちる霊魂ばかり量産してしまう)そういうことをあなたにも理解してほしいという気持ちがあります。地球で人間が作られた理由例えば心が優しい子供がいると、とてつもなく理不尽な扱いを受けることがあります。多くの地球人は見た目とかで良し悪しを決めるので、学校とかで親が貧乏で家も服も汚い子はいじめの標的にされてしまいます。そこで、心のやさしい子供が、それを庇って普通に仲良くしてしまうと、「お前何かばってんだ」という扱いを受けて悪者のような扱いを受けて一緒にいじめられたりします。そう考えた時に、地球というのは暗黙の了解が成り立っている社会なんです。皆がこうだとレッテルを貼って、そこに同意した人間が便乗して組織とかグループとして成り立って、その中で違う意見を唱える人は一緒にやっていけないのです。こうした組織やグループが金儲けだと株式会社だし、心の教えの場合だと宗教となるのです。株式会社同士で競争をしますし、歴史的に見て宗教が原因で紛争が起こっていました。こうして考えると、地球がある目的は分離の実現なのです。人間で生まれてくる前の魂は、皆が愛の中の存在で、みんな仲良く愛し合っていたのです。それが当たり前だと、そのことが当たり前過ぎて有り難さを享受している自覚がなくなるのです。有り難さを自覚するには、分離を体験することが一番最良な方法なのです。何もしていないのにいじめられる、横取りされる、騙されるなど、散々ネガティブなことを経験をして肉体死を迎えることで、自分がもともと素晴らしい世界にいたのだと再確認ができるのです。嫌な経験ができた時にどうやって乗り越えるかという生き方ができると、悟りを得ることができるのです。地球で人間が作られた理由というのが、爬虫類系の宇宙人が金の採掘をするため、奴隷を作るために人間が作られたという説があります。ロクでもない宇宙人が支配していることで、それを真似する人間が出てくることは容易に想像ができます。今の昔も人類がお金が欲しい、地位や名誉が欲しい、権力が欲しいなどと追求するのはそうした理由です。地球独特のカルト宗教に毒された人々は、これから肉体死を迎えると魂ごと無くなるケースが出てきます。このような世界で、大衆の中でも損得勘定抜きで困っている人を助けたり、人に愛を与えることが生き甲斐をという人もいます。この地球でも特異な魂を持っている人というのは、これからの希望に満ちた地球で活躍してもらうか、肉体死を経てそれ相応の星に行っていただくことになるのです。人がこの地球に生まれた理由と生き方のまとめこの記事では、この地球に生まれてきた理由とどう生きていくかについて説明しました。人間として生まれる前は非物質の魂の存在であり、地球で人間として生まれてくることは分離を経験することが大きな理由です。分離の経験が魂を成長させるためには大切なことだからです。地球で人間として生きるとなると、良いことよりも嫌なことやネガティブに思うことのほうが多く経験することが多いと感じる人も多いでしょう。ある種、地球とはネガティブを体験するためのテーマパークのようなものと思えば合点がいくのではないでしょうか。 ☆ ☆ ☆上に紹介したサイトは予言めいた話が単刀直入に書かれているので、非常に面白い。
2025年04月03日
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世界中で巨大地震が起こっている昨今、ネットフーテンの寅さんの最近のフーテンぶりの日常は、捨てられた仔犬の育成動画鑑賞で、仔犬の成長ぶりをみて、癒される毎日なんである。捨てる神あれば拾う神ありで、捨てられた仔犬が運よく良い飼い主に拾われて成長するのは、恐らく一部だろうが、その背後には、1日平均6匹も犬が捨てられ、殺処分されているというから、人間社会の身勝手さが、巷の政治家たちの身勝手な発言と被って、日常のオールドメディアを通じて現れてくる。日本における犬殺処分の現状とは? その実態とゼロに向けた取り組みを解説 | ELEMINIST(エレミニスト)1年に何匹の犬が殺処分されますか?日本の犬の殺処分の現状環境省のデータによると、2022年4月1〜2023年3月31日までの1年間で引き取り数22,392頭に対して、2,434頭が殺処分されている。 年間で引き取り数の約1割が殺処分されており、これを1日に換算すると毎日6.6頭の犬が殺処分されていることになる。2024/01/31毎日60匹が殺されている…なぜ日本では「犬猫の殺処分」が一向になくならないのか 「殺されても仕方ない命」はあるのか | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)「捨て犬」「殺処分」がなくならない本当の理由 業界を知り尽くした男が語るペット流通の闇 | ペット | 東洋経済オンラインそこで、犬や猫の定義をググると、犬や猫のペット化した愛玩動物は、家畜ではなく、家畜は、一般的に、人間の社会に貢献するために、いわば人間が生きていくために不可欠な管理生物とされているが、犬や猫は、自然に属する野生生物でもなく、個人の愛玩の対象なので、個人の飼育の責任となり、捨て犬や捨て猫は、自己責任の放棄となるわけで、それらが害獣化すれば、必然的に、社会的な制裁や罰を受ける対象となるのが、以下のサイトなどからわかる。ペット問題の分析・ペットとは何か・自己中心性の構造分析このようなペット問題が背景にあるため、欧米などのペット先進国では、厳格なルールが、個人的な飼育に課されているようである。興味深いことに、ペット先進国と言われている国は、北欧やイギリスのように福祉が進んでいる国が挙げられている点にある。教育や医療がほぼ無料に近いのでも有名である。日本の場合は高い税金をとりながら、陳情や申告しないと、ほぼ放置で、教育や医療も有料で高負担の場合もある。つまり、平等とはいえず、賄賂やコネ社会といえる。世界の愛犬事情 - ヨーロッパ・ドイツはペット先進国?| Lutieペット先進国とは?ランキング上位の取り組みについて解説します!【日本の動物愛護は遅れている?】諸外国から学ぶ動物に優しい社会とは - 老犬ホーム Smile Flower「ペット先進国」といわれるイギリスの動物福祉について、渡英したインターン生が考えてみた | 特集記事ペット先進国の定義とは?ランキング上位はどこの国?法律や日本との違いも解説 | キャットフードの達人つまり、ペットの扱いについても、日本は法整備が遅れているわけで、全体に、政治が遅れているのは明らかである。近代社会に沿った法律をつくれないばかりか、欧米に真似た体裁だけで、看板を付け替えたにすぎないので、運用者によって、法律がザル法になってしまうのは、商品券配布が政治活動かどうかで、政治資金規正法をザル法にしてしまう、政党が、いわば無責任な政治家を野放しにするペット管理の放棄ともいえるわけで、政党の囲い込みから逸脱し、裏金を使って、政治家が害獣化してしまい、国民に迷惑をかける日常となっているわけなんである。こんな野蛮なもはや野犬と化した政治家の人生で、地球紀を卒業できると思っている政治家の低レベルさには辟易し、呆れてしまうが、党生物たちにはなんの自覚症状もないのが更に問題である。害獣政治家法をつくって、保健所で殺処分してもらったほうが国民のためではないのか?と思うわけでもある。さて、巷では、第三者委員会の会見により、フジの性接待が明らかになり、現政権のインチキぶりも商品券配布から明らかになりつつあるが、まだまだ混乱のなか、農水省の無策のせいで、コメの価格が高騰し、エンゲル係数を高値に引き上げているが、増税しかできない、政治家などはいなくなっても、生きてはいけるが、農家がいなくなったら、生きてはいけないのを、改めて考えてみる必要がある。半世紀50年前の、昭和世代の子どもたちは、核家族化が進みつつあったが、祖父や祖母の世代と食事を共にした際は、ご飯をコメ一粒も残さず食べるのを教育されたものである。その際の決まり文句は、コメという字は八十八からなり、農家はそれだけの手間をかけてお米をつくるのだから、お百姓さんに感謝して、一粒も残さず食べなさい、というものだった。そのようなCMも流されていた。お米という漢字の由来は八十八の手間からできている?実は知らないお米の作り方! - 新潟産こしひかり HIBARI 毎日食べる主食のお米。”未来の自然”と、”自身の未来”のために気にしてみませんか。わが家庭はほぼ三世代同居の家族形態だったので、その決まり文句は、祖母に、耳にタコができるほど聞かされたものである。祖父祖母には、政治家の悪口ばかりを聞かされたが、逆に農家は尊敬されていた。農家が農作物をつくらなければ生きてはいけないわけで、とどのつまり、生産者と略奪者の違いといえるかもしれない。政治家は悪、農家は善という世間的な基準があった。農家の畑は沢山あって、収穫物が安く売られていて、特に不足を感じなかったが、食卓はいつも焼き魚と、ご飯味噌汁の一汁一菜だったが、それで満足していた。政治家の豪邸も近くにあったが、我々から搾取した税金であんな大御殿を建てやがって、と裏で大人たちが文句を言っていたのを、子どもながらに聞いていて、政治家は悪い奴らだなと、水戸黄門の悪代官のように捉えていた。とにかく政治家は悪い奴で、農家は良い人という、子どもながらの世間的な価値観ができあがった。いまから改めて、昭和を思うと、日々食卓にあがるコメを通して、農家への尊敬があったように感じられてくる。それは恐らく、戦時中のコメ不足に起因するものだったのかもしれない。今も昔も、コメが不足するのは、作り手の乏しさに起因するのは、需要供給の経済法則から明らかである。戦時中のコメ不足については以下のようなサイトが挙げられるが、令和のいまのコメ価格高騰については、お馴染みの高橋洋一氏が、以下の動画でほぼ明らかにしている。edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/504020200.html#:~:text=米は慢性的に,重なる増税であった。1241回 備蓄米放出で価格はどれくらい下がるか経済学的に分析【これくらいやれよ💢農水省】 - YouTube コメ価格を安定させるには、いずれにしても、農業生産者を増やすしかないわけで、端的にいえば、政治家の所得を減らし、農家の所得を増加させるのが、経済的に有効なのが明らかである。農家がいなくては、食物に困り、人間は生きていけないわけで、農業は人間の生活の基本土台である。政治家の給料を減らしてでも、農家の給料を高くしなくてはいけない。つまり、いわば、政治家は、農家のペットにすぎないわけなんである。愚かな政治家は、農家こそが、ペットと思いがちだが、実際には、自民党の政治家は農家を票田としてきたわけで、農家に見放された政治家は落選してきたわけである。農家の人たちがもう自民党には入れないよといえば、自民党は自然解体するしかない。しかし、そのような政治家の組織票の票田となってきた従来の農家の人たちは後継者不足に逢い、新しい農業ができなくなっている。若者が、農業に未来を感じられないのが、核家族化とともに到来した、昭和から平成バブルの時代の価値観の転換で現れた時代変革で、それまで食を安定供給してきた農家への感謝を忘れて、安易な土地転がしで金儲けに走る土地バブルだったのである。この時期から、周囲の農地が住宅地に変わって、開発されていった。スーパーやコンビニなどができて、便利にはなったが、農家への感謝や、誰もコメの一粒など問題にしなくなっていった。農地が神聖な土地から、害獣政治家の暗躍で、モノ的な土地転がしに代わり、いまではコメの転売のコメ転がしに変わってしまった。恐らく害獣政治家の暗躍なのだろう。analysis_03_04.pdf古代では、農地は不可侵の神聖な土地として、必ず近くに神社を建てて、農作物を納め、神に農作物への天候の恵みを誓ったのが、後の祭りの前身となった。古代人は、農作物には、天候を通じて、太陽の恵みが実るのを知っていたのである。農作物は太陽光が蓄積したものなのである。そして、種子から果実へと農作物を遺伝する情報は、月光を含んだ雨水に含まれる、のを知っていた。太陽と月が、地球につくる農作物を世話するのが人間で、農夫であるのを、霊能力から理解していたのである。シュタイナーは、子どもの時に、周囲の農夫が霊能者であったのを述懐している。霊能者でなければ、大自然の営みを理解して、実りある農作物をつくれないと述べている。なにより、シュタイナーによれば、医食同源で、食物は人体の薬でなければならず、だから、農夫は薬剤師でなければならず、だから人間の医者でもあったが、自然の土地を癒す、大自然のヒーラーでもあったという。そのようなまだ残っていた古代の農業を、人智学で体系化して解説したのが、これまでも何度も紹介してきたバイオダイナミック農法なのである。この農法の真の目的は、人間を癒すだけでなく、地球を癒すことなのである。この農法を学べば、人間が、地球にとっての、いわば腸内細菌なのがわかる。人間が健康でいられるのは、腸内細菌が、肉体をバランスよく食物から肉付けし、物質化させるからである。腸内細菌はいわば腸内で、農業を行っているわけなんである。脳は、何の農作物が必要かの、収穫を腸に伝達しているのである。コメが不足すると、脳が働かないので、コメをつくってくれと、腸にお願いしているわけなんである。そして、腸内細菌たちは、太陽神経叢に貯めた太陽光から、霊光とも呼ぶが、必要な栄養やクスリをつくりだすのである。だから、バイオダイナミック農法を学べば、人体も学べ、地球も、宇宙も学べる。なにより、人間には、神の力が宿り、その根源が、4次元アストラル界にあるのがわかる。だから健康になるには、健康のイメージを4次元アストラル界につくる必要がある。肉体はそれを肉付けして、現実化しているだけなのである。バイオダイナミック農法とは? 月との関係性や有機栽培との違いを解説|マイナビ農業農業講座[本][バイオダイナミック]環境を回復《バイオダイナミック農法を実践》有機農業普及を目指す北海道「トカプチ」の挑戦 | AGRI JOURNALだからして、人間には健康の想念が必要で、人間が天国にいられるには、道徳を守らなくてはいけないわけで、人間の法は破れるが、神の法を破ると、健康を損なうのである。健康を損ない、死んでしまうのは、道徳を守らずに嘘などをつき、十戒に背くからである。全ては宇宙全体と繋がっている。自らの行いは自らにかえる。ホンモノの霊能者でないからわからないのだろう。ホンモノの霊能者は占わない。なぜなら、自分の行為が自分に返るのを知っているからで、占う必要がないからである。
2025年04月01日
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