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生活保護基準を切り下げるという方針をいよいよ政府は明言しだした。その基準以下で働いている人が沢山いるというのがその理由だが、なんとも納得しがたい。日本の最低賃金は諸外国に比べても低いのは周知のことで、なぜそんな低い最低賃金で問題にならなかったかといえば親族間の相互扶助が働いていたからだ。つまり最低賃金で働く人の多くは夫に扶養されている主婦であったり、親に扶養されている子であったり、逆に子に扶養されている老親であったりしたからだ。だからこそ、親族間扶助がほころびかけている昨今、低すぎる最低賃金が問題となっている。だったら議論すべきは最低賃金の引き上げで、それにあわせて生活保護基準を引き下げるというのは本末転倒の議論ではないか。生活保護基準は保護基準として「健康で文化的な最低限度の生活」という視点から見直すべきであろう。※生活保護基準が切り下げられれば最低賃金も低く抑えられる。保護基準切下げは今の生活保護受給者だけではなく、実は多くの国民に関連した問題である。保護基準ばかりではない。不安定な身分の非正規雇用が問題になれば、逆に正規雇用者の身分を保護しすぎてけしからんと金で解雇できる仕組みの導入が議論される。民間でリストラの風が吹いているのに身分の安定した公務員はけしからん、特に郵便局の内勤職員はけしからんといって郵政民営化を多くの国民が支持する。そしてもう一つの身近な公務員である小中学校の教員についても給料が高すぎるだの、M教師がいすわっているだのという議論がまっさかりだ。小中学校の教員は尊敬すべき職業だがいわゆるエリートというほどでもない。庶民同士がたがいに足をひっぱりあい、そしてそんなことがどこからか巧みに誘導されているうちにどんどんと住みにくい世の中になっていく。※石油値上げや温暖化問題のあおりでバイオ燃料に熱い視線があつまっている。米国では大豆に替えてトウモロコシ栽培がさかんになっているという。風が吹けば桶屋が儲かるじゃないけど、大豆製品が値上げしている。豆腐とか納豆とか安価な庶民の食材が上がっているわけである。そんな中で生活保護基準引き下げなどするのは、瀕死の鳥の羽をむしるような所業ではないのだろうか。
2007年11月30日
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権力が宗教を取り入れる、あるいは権力が宗教を作るときというのは、なんらかの権力交替期にあたる場合が多いのかもしれない。新しく権力を確立した側が自らを権威づけ、権力の正当化を図るために新しいパラダイムを必要とするのである。そう考えると、古代日本における仏教の受容そして国教化というのは、やはり豪族間の抗争を経て天皇中心の日本ができる過程と無関係ではないだろう。有力氏族それぞれに祀る神がいた古代社会では、天皇家の祖神であるアマテラスが際立って尊いというわけにもいかない。そこで天皇家の権威を高めるために、当初は異国の神と認識されていた仏教を国教化する必要があった。「きらきらし」と形容されるほど金箔に覆われ美麗な姿をほこった仏像は同時にあこがれの先進大陸文化の象徴でもあった。その仏像を祀り、難解な経典を読む姿は、当時の人々には非常にありがたく見えただろうし、そんな仏教理解の第一人者が天皇家であれば、天皇家の他の貴族に対する優越もはっきりしたことだろう。※こんな権力交替イコール新しい宗教という図式は明治期にもみられる。国家神道の創設である。天皇中心として国民を統合し(当時は日本人という意識すらなかった)、近代化に邁進するためには、なんらかの新しい価値規範を必要とした。そこで江戸時代に育っていた国学思想を基に創設したものが国家神道ではなかったのか。もちろん国家神道は民衆の間に根付いていた神道の神崇拝とは無縁である。※権力が宗教に介入した例はまだある。徳川時代の檀家受けという仏教優遇政策である。これもキリスト教弾圧という理由のほかに、神道の力を弱めるという目的があったのではないか。神話が示すように神道は天皇に対する尊崇の念と結びつきやすい。檀家受け制度で事実上の仏教の国教化をすすめることで、天皇やそれをかつぐ勢力の台頭を防ぐという狙いもあったのかもしれない。※ここでちょっと歴史のIFを考えてみる。もし日本の歴史で本能寺の変が起こらず、織田信長がずっと政権をとっていたらどうなったのだろう。彼は天皇の権威も既存の寺院の権威も認めない人物だったという。そうだとしたら、やはり既存の権威とは別の新しい宗教やパラダイムを取り入れようとしたのではないか。もし織田政権が続いていたら…キリスト教が日本の国教になったなんていうことだってあり得たかもしれない。
2007年11月29日
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坂出事件は祖母の義弟逮捕ということで解決をみた。この事件については、被害者周辺になんともいえない生活苦のにおいがあって、報道の初期からやりきれない感をいだいた人も多かったのではないか。無職の父親と病気の母親、そして働きづめの祖母の周囲に出没する債権者…。家の中での惨劇といっても、幸福そうな一家が突然襲われた世田谷の事件などとは全く違う匂いをこの事件ははなっていた。これにかぎらず最近の事件は貧困や生活苦が背後にあるものが多い。格差社会の影の部分が犯罪という形で噴出しているようである。そして気になるもう一つの事件。出所まもない男が年を越す金がないといって、最初から刑務所にはいるつもりで3人の人間を刃物で傷つけたという事件である。水際作戦という名の保護申請拒否や生活保護水準切り下げで最後のセーフティネットもほころんでいくと結局は刑務所が最後のセーフティネットになっていくのだろうか。一応、日本は民主主義国で生活困窮者も一票はもっているはずなのに、なぜ、こうした弱者の声をすいあげる政治勢力というものはでてこないのだろうか。もしそうしたものがあれば、経済界よりの労働政策やセーフティネットの切り下げなど行われるはずもないのだが。
2007年11月28日
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昨日の日記で「聖徳太子」のテレビ番組について書いたが、実は最近、あの時代にちょっと興味をもっている。いくら先進文明国である大陸の思想宗教とはいえ、国家をあげて仏教をとりいれたというのは、大変なことではないか。当然、既存の権威との整合性が問題になるはずだ。そこで考えてみると、これはもしかしたら既存の勢力に対抗するために、逆に新しい思想宗教を受け入れたのかもしれないという気もしてくる。ちょうど明治維新の後に幕府に代わる天皇中心の価値観を築くために国家神道という新しい宗教を必要としたように。※そうなると、蘇我氏と物部氏の争いというのは仏教導入が原因となって争いが生じたというよりも、物部氏を滅ぼすために、仏教を導入したというのが真相かもしれない。天皇家の神と物部氏の神とでは決着がつかないが、天皇方にはさらに異国渡来の仏の御加護まであるとなれば話は違ってくる。従って争いに決着がつけば、無理に仏教が既存の神々にとってかわる必要もなくなる。神仏習合というのは別に聖徳太子の発案でも、「いいとこどり」の思想でもなく、単に仏教導入の目的である蘇我、天皇方の勝利が達せられたからというだけのことではないのか。おおらかで現世的だけれども死については穢れの最たるものとして言葉にすることすら忌み嫌う神道と、逆に生は苦であり煩悩は滅却すべきものとしてあまり現世的ではないけど死者儀礼は充実している仏教。別に「いいとこどり」とか「日本文化の特質」とか言わなくても、神道と仏教の特質をみれば、生のための儀礼と死者のための儀礼で役割分担をしていったのは、極めて自然なことのように思われる。なんかこんなのは素人考えなのであるが、このあたりの歴史を書いた本など、今度図書館に行ったら探してみよう。※ところで古代の豪族物部氏というのはニギハヤヒを始祖とする一族で朝廷の中で神事や軍事を司る役割を担っていたらしい。神話ではニギハヤヒはアマテラスから生まれたことになっているが、もともとはその名のとおりの太陽を神格化した神で、物部氏というのは天皇家のライバルのような存在だったのではないか。いやそれどころか何かの本で古代物部氏はもののけを操る能力があったという話を呼んだことがあったが、もしかしたら天皇家をしのぐ呪術的力があったかもしれない。現代人の目からみればばかばかしいようだが、この呪術力というのは古代ではかなりの重みがあったはずだ。そうだとしたら古代史のある時期、天皇家やそれをかつぐ新興豪族と物部氏との間に対決があっても当然だし、その際には従来の「神の権威」をさらにうわまわる権威なり力がほしくなる。そこででてきたのが、大陸渡来の異国の宗教である仏教なのではないか。仏像というと今でこそくすんだ印象が強いが、当時はすべて金箔がはられていた。これについては、よく「きらきらし」という言葉が使われていたが、仏教は黄金の仏像のイメージであり、それは同時に先進文化の富と技術の象徴でもあったのだろう。そうした仏教の権威で朝廷はライバル物部氏を滅ぼし、民を服属させていったのではないか。※今、高橋克彦の「星封陣」を読んでいる。現代を舞台に物部氏の子孫が活躍する話で、あの「総門谷」ほどハチャメチャ奇想天外ではないけど、そこそこ気楽に楽しめるので、「カラマーゾフの兄弟」の後の口直しにはちょうどよい。なによりも蘇我物部の争いをテーマにしたという発想がよい。そういえば高橋克彦意の真面目な歴史小説の傑作「火怨」も東北蝦夷の祖先を物部氏だとしていたし、高橋氏は物部氏に関心があるのだろうか。だとしたらぜひぜひ彼に古代の蘇我物部の争いと仏教伝来とをテーマにした小説を書いてほしい。
2007年11月27日
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聖徳太子のテレビ番組をみていたら神仏習合は日本独自の文化でそれにより日本は世界のどこにもない「いいとこどり文化」の国になったという説明があった。中国でもたしか仏教とかの地の民族宗教である道教とは共存していたはずだけど、それと神仏習合とはどう違うのだろうか。そして神仏習合という方式が仏教を研究しつくした太子の発案というのは史実にあっているのだろうか。※ドラマ中で太子は現代の日本の夢を見る。鉄の鳥が空を飛んで、天にまでとどく建物があって。神仏習合どころかクリスマスや結婚式などでキリスト教文化も受け入れている今の日本。仏教を受け入れた程度にはキリスト教も日本人は受け入れているのではないのだろうか。そのうちイスラム教のラマダンとかイードなどという習慣だっていずれは日本に入ってくるのかもしれない。ヒジャブが女性の間ではやって、メタボリおじさんやおばさんがラマダンにはげみ、イードの祝いがあちこちで行われた後はハロウィーン、クリスマス、除夜の鐘で初詣と…そんなんだって悪くない。
2007年11月26日
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少子化が問題だと人はいう。本当にそうなのだろうか。問題だという人に逆に聞いてみたい。少子化が問題だというならば、じゃあいったい何が具体的に問題なの。※子供の声が聞こえないと寂しい?子供が少ない国は活力がない?ふうん、じゃあ子供の騒音についてはどう考える。※医療や介護の担い手が減っていく?警察や消防など社会に必要な仕事の担い手が減っていく?いっとくけどこれから生まれてくる赤ちゃんが「介護」をやるようになるには20年以上かかる。そしてお年寄りやもうすぐお年寄りになる人はますます増えていく。本当に介護の問題を考えるのなら、フィリピーナに熱視線をそそぐよりも介護労働者の待遇改善に本腰をいれたらどうなんだろう。介護の担い手なら、これから生まれる赤ん坊よりもまもなく退職する高齢者予備軍に期待する方がずっと現実的じゃないかしら。また、警察や消防の担い手がいなくなるという議論については、供給も減れば需要も減るということを考えてほしい。人口規模が全体に減っていくわけだから、一人当たりの警察官や消防官の数はたいして変わらないはずである。だいたい人口小国で警察や消防がなりたたなくなっているという話は聞いたことがない。※人口が減れば優秀な人材の数が減る?人口は国力だ?たしかにオリンピックのメダルやノーベル賞受賞者は少なくなるかもしれない。でも、それがなんだというのだろう。人口が減れば優秀な人も減るけど、犯罪者やその予備軍、社会のお荷物になるようなどうしようもない人間も減る。いいにくいのだけれども、これって量よりも質じゃない。フランスやドイツは日本よりもずっと人口が少ないけど、国際社会での発言力はどうみてもありそうだし、人類の科学史や芸術史をみると日本の何倍もの貢献をしている。一方で、バングラディシュやナイジェリアのように人口大国だけれども××な国もある。早い話が人口イコール国力なんて考えること自体、単なる迷妄ではないか。※少子化が続くと年金制度がなりたたない?でも、少子化対策は年金制度存続に対する処方箋とはいえないんじゃないかしら。今の国民年金の未納率をみれば、これから生まれる赤ん坊が年金保険料を払うようになる前に年金制度はなりたたなくなりそうだ。たぶん今後の最大の問題はワーキングプアやネットカフェ難民などの新たなタイプの貧困層の増加であろう。彼らにはもちろん保険料を払うつもりはないし、払う能力もない。本気で年金制度、いや明日の社会を心配するのであれば、少子化対策よりも、まずこうした貧困層に対する対策こそ急ぐべきではないか。※このままの出生率では800年後に日本人はいなくなる?知るか、そんなこと。同じトレンドが800年続くなんていう前提自体が非科学的である。今から800年間といえば鎌倉時代。そんな昔から一貫して続いているトレンドなど…あるわけもない。
2007年11月25日
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あの労働者派遣法の改正が行われたとき、それは決して大ニュース扱いにはならなかった。たぶんその年の10大ニュースにだって入っていないだろう。しかしその影響は強烈だった。企業は待ってましたとばかり正社員採用を控え、派遣社員やアルバイトがとってかわるようになった。そしてそれとともにワーキングプアやネットカフェ難民なども出現していく。今までは学生や主婦、高齢者が主に担っていた非正規就労を、自分で生計をたてなければならない人達が担うようになってきたのだ。「多様な働き方」といえば聞こえは良いが、実態は「企業に都合の良い働かせ方」であろう。普通、人は学校で学んだ後も、社会人として成長をつづける。その成長の場が企業であり、組織である。だから雇用の非正規化は多くの人から成長の機会を奪い、国民全体のレベル低下をもたらすこととなる。犯罪の頻発、社会モラルの低下、労災や事故の増加…皆、根は同じである。そして労働契約法の成立。これもやはり結局は正規雇用の地位を非正規雇用に近づけるだけで、今、日本で進行中の問題をさらに加速させるのではないか。そんな危惧をいだいている。
2007年11月24日
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坂出市で起きた祖母孫3人行方不明事件はわからないことばかりだ。3人もの人間が致死量にあたるほどの血痕を残しながら姿を消した。祖母の自転車はなくなっている。…でも自転車で血まみれの負傷者あるいは死体をかかえて運んだなんて考えにくい。最初は祖母が孫を連れて外出したようにみせかけるつもりだったのが、血痕を残す殺害方法になったのは「計算違い」か。それとも人間というものはこんなに血がながれるものだったとは思わなかったと。たしかにテレビなどでは被害者は刺殺されてもあまり血は流れないみたいだしね。※物盗りにみせかけた形跡はあるけど物盗りではない。第一、報道映像でみるかぎり失礼ながらとても物盗りが狙うような家にはみえない。そしてあれほどの多くの血が流れながら近所の人は不審な物音や叫び声を聞いていない。祖母といったって、いまどきの58歳は老婆というよりも中年婦人だ。侵入してきた不審者に抵抗もせず叫び声も出さないなんてことがあるのだろうか。※どっかのブログみたいに誰が犯人だなんてことは書かないけど(コメントでも書かないでね)、警察はきちんと捜査をしてほしいものだ。お役所仕事の悪いところに余計なことはやらないというのがある。仕事を増やしたところで給料があがるわけではない。だから役人は「やらない理由」を考えるのが得意だ。昨今の警察をみるとこのお役所仕事の弊害が警察にも及んでいるのではと思うことがある。被害を申告してもまともに捜査しない。ストーカー被害を訴えても動かない。でも警察がそれでは困る。事件が迷宮入りになろうが、なにしようが、警察官の給料も処遇もかわらないのかもしれないけど、こうした凶悪事件の捜査だけは、次の被害者がでるのを防ぐためにも、似たような事件を防止するためにもぜひ真面目にとりくんでほしいものだ。
2007年11月23日
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ついにカラマーゾフの兄弟を読み終わった。なんと2ヶ月近くかけて…なぜそんなにかかったか。もっぱら電車の中だけで読んだというのこともある。でもそれだけではなく、考えながら読まないとわからない部分が多すぎるのだ。いったいこの人何を考えているのか、すぐにわからなくなる。何度か読み返し、考えて、結局わからず前にすすむ。※大傑作であることは間違いない。一つの小説の中に入れ子のように様々な挿話があって、多彩で壮麗な物語世界を形作る。一番美しく感動的なのは満点の星空の下でアリョーシャが大地を抱きしめる場面であり、ゾシマ長老をめぐる一連の挿話であろう。でも、一番、印象に残るのはイワンの前で正体を現していくスメルジャコフとその後、イワンのところにやってきた悪魔の場面である。三兄弟のうちの誰が好きかと聞かれれば難しい。高校生の頃読んだときは圧倒的にアリョーシャに憧れたけど、あらためて読むとイワンもかっこよい。いや、ミーチャも頭は悪そうだけどけっこう魅力的だ。※解説の三層構造の説明をみて納得した。テーマをめぐる部分ではアリョーシャが主人公であり、独白部分ではイワンが主人公、そして物語部分ではミーチャが主人公だというのだ。いわれてみればそういうふうにも読める。それにしても、いじめ、親殺し、幼児虐待と今の日本に通じるテーマがとりあげられているのは驚くほどだ。実の母に無残に殺された幼女の話をとりあげ、だから神は存在しないというイワンの無神論は今の日本人にもわかりやすいのではないか。そしてイワンはさらに言う。来世もなく、神もなければすべてはゆるされているはずだと。でも本当にゆるされているということに人間は耐えられるのだろうか。※多彩な人物がいていろいろな読み方ができる。これも名作の名作たるゆえんであろう。
2007年11月22日
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厚生労働省では学識者を集めて生活保護基準についての見直しを行っていたが、やはり保護基準の引き下げという報告書がだされたらしい。始めに結論ありき…という感がしないでもないが、マスコミの扱いはいやに小さい。まあ、そうなるような報道発表の仕方だったのかもしれないけど。※この生活保護基準引き下げの理由というのはこうだ。働いても生活保護基準以下の給料したもらえない人々も大勢いるからそうした人達の勤労意欲をそがないため。※たしかに今の日本そうした保護基準以下の賃金の人たちも大勢いる。でも、それは日本の最低賃金が他国に比べても低くなっているせいではないか。もともと主婦や学生などは夫や親に扶養されているという前提の下で定められていたが、今やそれだけで暮らす人が増えたため大問題になっている。なにしろ賃金が低くて親に扶養されている中年男性だっているくらいなのだから。ならば議論すべきは、生活保護基準ではなく、最低賃金ではないか。生活保護基準は生活保護基準として、これが「健康で文化的な最低限度の生活」といえるものかどうか、過不足がないかどうかを独立して議論すべきであろう。※だいたいこの議論に加わった「学識者」は1ヶ月でも生活保護基準で実際に生活してみる体験をしたのだろうか。そうでなくとも実際の福祉の現場や受給者の生活についてどのていど知っていたのだろうか。「学識者」といっても大学の先生ばかりで、生活保護受給者と接しているような人は一人も入っていない。最近、石油価格の上昇を受けて物価が値上がりしている。それもちくわとか納豆とかといった我が家でよく買うようなものに限って値上がりしている。こうした中で最低賃金との比較だけで保護基準が削られていく。※ある大学で行われた憲法についての討論会では第9条よりも第25条の方にはるかに関心が集まったという。そりゃそうだろう。平和憲法といったって国際関係は相手があることだから、いくら戦争を放棄したって先方がミサイルをぶちこんでこないなんていう保障はどこにもない。これに対して25条は多くの人にとって実は身近な問題である。今、勤めていたって、明日にでも人事から電話がかかってきて退職を強要されないとも限らない。拒否すればパワハラ、モラハラ、集団無視などの職場いじめがありそうである。うつ病にだってなるかもしれない。そして仕事をやめたらあっという間に生活に困るだろう。サラリーマンの中でイチローや松坂のように個人の能力で勝負できる人材などごく一握りである。規制緩和の正体は実はこうした労働ビッグバンで、雇用の多様化といえばきこえはよいが、実態はその日暮らし社員と残業奴隷との二極化で、ほとんどの人は幸福にはなっていない。景気はよいといったって潤っているのは少数の勝ち組だけで、普通の人には恩恵はきていない。いやそれどころか、雇用不安定下の中で、かえって貧困を身近に感じている人も多いのではないか。憲法9条よりも25条の方にこそ目をむける時期ではないか。参考10月21日の日記http://plaza.rakuten.co.jp/aisya96/diary/200710210000/
2007年11月22日
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昨日のアサヒ新聞夕刊1面にどんとでていたあの記事。中韓首脳が日朝関係改善を希望するっていう記事、あれはいったい何だったのだろうか。東北アジアで最大の問題は、経済破綻した国家北朝鮮であることは間違いない。※あの国が崩壊すれば中国は大量の難民流出等で五輪どころではなくなる。そしてもっと大変なのは韓国である。吸収統一ということになれば、負担はドイツの比ではない。東欧の優等生といわれた東独でさえ西との格差はひどく、この負担を考えれば統一などしない方がよかったという声もあるそうだ。極貧の北を吸収したら韓国はせっかく手に入れた先進国としての生活を維持できるか。そしてまた東独よりはるかに惨い恐怖政治を行っていた北住民をとりこむことは社会的統合の維持という面でも、重大な問題となっていく…。そこで中国も韓国も必死に北を援助し、ささえている。これが現状である。特に韓国はこの間の首脳会談で北に対する大規模援助を打ち上げたものの財源はまだ準備されていない、という報道もある。そこで日本が北との関係を改善し、過去の清算といって大規模支援をしてくれれば中韓ともにねがったりかなったりである。※そう。北朝鮮との関係改善につづく大規模支援、この是非こそがまさに問題なのにどうしてマスコミはここにふれないのだろう。何兆円もの金が日本から北朝鮮にわたる。出所は日本国民の税金で、高齢化対策や若者の就労支援などに使われたかもしれない金である。レアメタルがどうのビジネスチャンスがどうのという前に、この「過去の清算」名目で天文学的な金額を日本が北朝鮮に支払うということを忘れてはならない。※それにしても「過去の清算」なんて約束をした平壌宣言ってすごい外交上の失態ではなかったのか。核開発などを理由にいずれは廃棄すべきものではないのだろうか。カンボジアはポルポトの恐怖政治で国をめちゃめちゃにした。そしてそれは決して旧宗主国フランスの責任ではない。北朝鮮も同様。今の経済破綻に日本はなんの責任もない。
2007年11月21日
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カラマーゾフの兄弟を読み終わった。読んでいるときも読み終わるのが惜しく、あえてゆっくりゆっくり読んでいたように思う。感想はまた近いうちに書くことにする。で、作者の序文によると、この大作は別の小説の第1部という位置づけらしい。主人公とされるアリョーシャはこの本ではどうみても傍観者的役割だし、彼が中心となる物語は第2部ということになるらしい。その第2部がどんな物語だったかは、作者が死んでしまった今となっては永久に謎だ。なにしろ構想は作者の頭脳にしかなく、そして作者のドストエフスキーは第1部「カラマーゾフの兄弟」を書いた後亡くなっているのだから。※作者が第2部の舞台となる13年後、アリョーシャは、そして彼の1番弟子コーリャはどんな青年になっているのだろうか。第1部の「カラマーゾフの兄弟」は文字通り、カラマーゾフ家の兄弟の話だったら、この物語の中では長兄は流刑あるいは国外逃亡、次兄についてはカテリーナとの物語は気が向いたら書くとか作者は言っているので、第2部ではたぶん重要登場人物にはならない。となると、第2部での兄弟というのはアリョーシャと彼を慕う青年達の物語ということになるのだろうか。そしてもし批評家が言うようにそれが皇帝殺しについての物語であれば、そこにも第1部同様に、そそのかしということが重要なテーマになっていくのだろうか。筆力のある小説家が続編を書けばよいのだが、ドストエフスキーに対抗できる人ってそういないだろうな。
2007年11月20日
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韓国が事実上の死刑廃止国になっているらしい。つまり制度そのものはあっても現実の執行は何年も行われていないってことである。昔々朴大統領夫人暗殺事件で犯人を2週間くらいで処刑した韓国も…というか韓国までが、事実上死刑廃止となったら、もう死刑廃止というのが世界の潮流なんだろうか。たしかに死刑は野蛮といえば野蛮だ。公開処刑が野蛮であることは異論がないだろうけど、公開して野蛮なものが非公開になったら文明的になるのだろうか。なるわけない。しかしながら、日本に限っていえば、光市母子殺害事件などについての世間の論調をみても死刑廃止は当面ありそうにない。犯罪という巨大な野蛮を前にすれば、死刑制度というより小さな野蛮は必要悪だ…とたぶんほとんどの日本人は自分も含めてそう考えている。※ただ、死刑制度に疑問を感じる瞬間がないわけでもない。それは死刑が必ずしも当然とはいえないような被告に死刑が求刑された場合である。例えば少女監禁で明るみに出た北九州市の親族連続殺人事件。あの事件について共犯とされた女性も死刑が求刑されているが、報道をみるかぎり彼女に対する死刑求刑には疑問を感じてならない。マインドコントロールというのはあるわけないと思うのだが、性的羞恥心や犯罪に関与した弱みによって人を動かすことはできる。彼女もまたそうしたもので、高校の同級生だった男の道具として使われただけではないか。実家の財産はすべて奪われ、父母、妹夫婦、甥姪と7人もの人間が殺され、解体されて死体も残らなかった。そして彼女自身も恒常的に虐待を受けており、いずれは殺されていただろう。なんかこの女性も究極の被害者ではないかと思えてくる。
2007年11月19日
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女性週刊誌をみていたら、大勢の女性の顔写真が掲載してある広告頁があった。女性週刊誌のはずなのになぜ風俗の広告が…と怪訝に思ったが、よくみると女性の中には明らかに年配の人やそれっぽくない人もいる。で、よくよくみたらなんとみな占い師の広告であった。霊感占い、水晶占い、タロット占い等々占いの種類の多さにも驚くが、こうしたものを信じ、大枚をはたく女性もまた多いのだろう。昨今の格差社会を妙齢の女性の側から考えると、占いにはしりたくなる気持ちもなんかわかる。「愛さえあれば」なんていう台詞は一億総中流の時代だからこそ言えるのであって、どんな男と結婚するかで女性の人生は天国と地獄ほどの違いがある。そしてそのどんな男と結婚するかなんてことは運しだいというか神のみぞ知る。人間界だったら占い師にも頼りたくもなる。今日の朝日新聞の朝刊に救急車の搬送拒否の背景に検診を受けない妊婦が増えていることを指摘した記事があった。定期的な妊婦検診なども金がなくて受けられないという妊婦も多いだろう。たとえ金銭的な助成があったとしても仕事が不安定ではそうそう休んでもいられない。全盲患者公園置き去りの背景にも医療費を払えない患者の存在があるようだし、格差社会がいよいよ生命の格差の領域にまで及んできているようだ。金のある男性と結婚したら豊かな経済生活が享受できるが、貧乏男性と結婚したら安全な妊娠出産の保障もないというのでは、女性も必死になるわけである。※もっともこんな格差社会になる前だって、結婚が女性の人生の重大事であることには変わりはなかった。そういえば昔から占い大好きは男性よりも女性と相場が決まっていたように思う。ただそんな傾向が格差拡大の中でますます激しくなってきたのかもしれない。
2007年11月18日
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こんな笑い話がある。ある村で祭りに使うクリームが不足した。そこで知恵者の村長は「水をクリームと呼び、クリームを水と呼ぶ」というおふれをだした。そしたらその村では「クリーム不足」はたちどころに解決した…という話である。こんな笑い話がしめすように言葉による解決は本当の解決ではない。いやそれどころかかえって本当の解決から遠ざけてしまう効果すらある。※敗戦を終戦といいかえ、占領軍を進駐軍といいかえ、そして連合国を国連といいかえた時、現実の国際政治がいまだに第二次大戦の勝者敗者の枠組みを残している現実から目をそむけていないだろうか。クソガキの大人顔負けの犯罪を「いじめ」と呼ぶことは、かえって必要な対策の手を縛っているのではないか。こんなのを「いじめ」とよんでいる限り、進学実績以外の理由で私立中学に行く子供は増加しつづけるだろうし、教職志望を躊躇する若者も増え続ける。投身自殺を「人身事故」と呼ぶことで、本当はあったはならないことが日常のありふれた風景になり、人々の心もそれに慣れていく。※同じようなことが「格差」という言葉についてもいえる。最近、そうも「格差」という言葉が、都市と農村との税収格差の問題に使われることが多くなっているようだ「格差」がこうした問題にすりかえられていけば、やがて最も本質的な貧困層の激増という問題はかすんでしまうのではないか。人口が減少していけば、日本列島のすべての街の商店街が繁盛するなんてありえないことではないか。廃村も増えていくだろうし、税収減でなりたたなく自治体がでてくるのも理の当然である。やがては国-都道府県-市町村という3層構造を全国すべてに適用することだって見直さざるを得ないだろう。そんな都市と農村の税収格差と個人間の格差を同じ「格差問題」という言葉でくくるのはおかしい。いや個人間の問題を「格差」という言葉でくくるのも、もしかしたら言葉による問題のすりかえかもしれない。問題とすべきは、個人間の「格差」ではなく、下の方の問題、つまり「貧困層の激増」なのである。かっては貧困というのは、障害者や崩壊家庭など、社会の一部分に特化していた感があった。ところが今では普通の人間が定職につけない、あるいは定職を失うことによって即座に貧困層に転落する。そんな貧困の一般化が起きているようで、これこそ大問題だと思う。かって会社は社員のための共同体であり、多くの人は会社の中で社会人として成長し、会社によって安定した生活を営んでいた。それが今では会社は投資家のためにあるのだそうだ。金のある富裕層はますます富み栄えるかもしれないが、本当にこれでよいのだろうか。社員を大事にしない会社はいつかは衰退するし、普通の人が幸福になれない国はほろびるのではないか。
2007年11月17日
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ドラゴンボール実写版というのはどうやら本当に作るらしい。で主役、つまり悟空役の俳優も決まったということでニュースで紹介されていた。25歳と老けすぎながらも、やんちゃで天真爛漫な役が似合いそうで、案外適役なのかもしれない。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071115-00000005-flix-moviどんな映画になるかは知らないけど、漫画とはたぶん別物という感じになりそうである。ところで映画の企画といえば、あの日本映画の傑作「生きる」をハリウッドがリメイクするという話があったが、あれはどうなったのだろうか。※銘菓「白い恋人」の販売が再開されるという。同じ頃偽装で問題視された「白い恋人」と「赤福」。ともに人気の銘菓ながら、よく考えると対照的だ。軽くて日持ちがして箱にたくさん入っている「白い恋人」は、出張などの際に職場に土産に持っていくのにはぴったりだ。これに対して重くて配るのに手間がかかり日持ちもしない赤福はやはり家族への土産向きだ。赤福については、今後は売れ残ったものを廃棄することにするらしいけど、いっそ冷凍のまま売り出した方がありがたい。そうすれば少量づつ解凍して食べていけるし…。もっとも全国どこでも食べられる冷凍赤福なら、土産ものとしての有り難味がなくなるのかもしれない。※昨日、クリスマスについて書いたけど、どうも日本の祝日というのは巷の盛り上がりとは全く関係のないものになっている。商業ベースとはいえ、盛り上がっているクリスマスやハロウィーンが祝日じゃなくて、わけのわからない海の日が祝日って変?それとも国家の祝日ってもともとそういうものなのだろうか。ちなみに韓国の祝日をみたとき、クリスマスと花祭りが両方、祝日になっているのがすごく変な感じがした。しかし、世界的にみると複数の宗教関係の祝日を定めている国はむしろ多いようである。
2007年11月16日
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外国人(といってもKorean)の方に「日本人て可愛そうですね。クリスマスが祝日でないなんて」と言われたことがあったので、こう言い返したことがある。「とんでもない。日本人は世界で一番早くクリスマスができて幸せなんですよ。だって東半球のそのまた東にある上、23日にクリスマスを祝うのですから…」と。我が家もそうだけれども、たいていの家では23日の休みにクリスマスケーキを食べているのではないのかしら。まあ、今年は24日も休みなのでそうでもないのかもしれないけど。どうして天皇誕生日の代わりにクリスマスを祝日にしようという声があがらないのか本当に不思議だ。※過去にもクリスマスの祝日化という議論はあったようだけれども、宗教色の強い祝日は問題だということで沙汰やみになったらしい。でも、現代のクリスマスってほとんど宗教色はないのではないか。恋人同士で楽しむ日というのが最も大きく、聖夜といっても字が違うのではないかと言いたくなるくらいだし…。そろそろ国際郵便用のクリスマスカード類が店頭に並ぶが、日本情緒をねらっているつもりかお寺の五重塔をあしらったようなデザインだってけっこうある。よく考えたらこれも変な感じもする。あ、クリスマスカードといえば、相手が外国人だと、どこの国であろうとクリスマスカードを送るというのも日本だけなのだろうか。以前、ちょっとしか外国人をよんだ集まりが秋にあって、その後、挨拶状を送ろうという話になった。「やはり時節柄クリスマスカードを送ったほうがよいのではないでしょうか」ということでさっそく文案を作って送付したのだが、よく考えたら外国人の中にはマレーシアのようなイスラム国の方もいたけど、よかったのだろうか?※商業ベースということもあるのだろうけど、街でもりあがっている行事と祝日とで一致しているのはお正月とこどもの日くらいで後は皆くいちがっているようだ。バレンタインデー、ひな祭り、七夕、ハロウィーンなどは祝日ではない。かわりに海の日とかなんとかわけのわからない日が休みになっている。日本中が盛り上がっているのに祝日ではないクリスマスなんてその最たるものだろう。
2007年11月15日
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最近、共感することの多い日経夕刊のコラム(柴田翔「あすへの話題」)でまたまたよいことを書いていた。新幹線の車内清掃で中年女性従業員があっという間に車内を綺麗にしてゆく手際に感嘆しながら、社会というのは実はこうした多くの「普通の人の仕事」に支えられているのではないかとコラム子は言う。車内清掃一つとってもこうした仕事がきちんとなされるから、先端企業の社員も気持ちよく出張ができる。そう考えると、実は格差社会の弊害の一つは「普通の人の普通の仕事」をだめにしていくことではないのだろうか。多くの仕事は、長時間の熟練を必要とするし、大なり小なりその職業に対する誇りがあってこそモラルが維持される。※もちろん高度の専門職と普通の人とが同じ給料待遇であるべきだなどというつもりはない。しかし普通の人の普通の仕事を軽んじて、そういう人々を非正規職やワーキングプアにすれば社会は、やがてなりたたなくなっていく。最近、郵便物の配達が面倒だといって郵便物を捨てた職員が解雇されたというニュースがあった。郵便配達を郵メイトという非正規職にまかせている限り、こうした事件というのは今後も起こるだろう。事故や労災の頻発や職業モラルの崩壊…こうしたものを防ぐためにも、格差社会の是正は必要である。少なくとも非正規化という流れだけはとめなければならない。※※どうも世の中はますます非正規化、格差拡大に向かいそうである。労働契約法にしてもこんな法律が成立したら労使合意の上で金銭で解雇できる仕組みが取り入れられることになろう。いくら合意といったって、使用者の立場に比べて被用者の立場はずっと弱いのだから。そうなれば非正規雇用者の地位向上どころか、正規社員の実質フリーター化が始まる。昨今の教育改革の議論にしても同様である。教員の任期制とかフリーエージェント制とか、教師の身分の不安定によっていったい何をやりたいのだろうか。教師の待遇低下やフリーター化は教育の質低下をもたらし、公教育を破壊してしまうことは明らかではないか。いっそ教育再生会議は「教育破壊会議」と名を変えた方がよい。
2007年11月14日
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最近のベストセラーの中には、何か小さなことで人生が変わる…という趣旨の本が多いようだ。たとえば掃除であったり、感謝であったり。まあ、一種の信仰のようにも思えないこともないのだが、具体的な行為であるだけに単なるお祈りよりも効果はありそうである。それに掃除にしても感謝にしても、やって損になるものでもない。そんなわけで最近始めたものが一つある。それは早朝ランニングである。実はこれも本の影響で「早朝ランニングの効用」という本を知り合いからもらったのがきっかけである。早朝ランニングをすると生活習慣病が治る、頭がよくなる、念願だった研究者になれたというもので、はじめは半信半疑であった。しかし、今の季節、早朝に外を走ると驚くほど気持ちがよい。もちろん今までだって早く起きるときはあったのだが、外にでないとこんな気分は味わえないだろう。それにしても6時過ぎだというのに外を走ったりラジオ体操をしたりしている人って驚くほど多い。それも皆60過ぎ、いや70過ぎのような方ばかりだ。早朝の街にでてみると、高齢化社会を実感する。たぶんこれは我が家周辺だけのことではないだろう。
2007年11月13日
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ワンルームマンションの建設反対の住民運動というのがあちこちであるらしい。ワンルームマンションに入居する単身者はゴミ出しのルールをまもらないとか、地域の行事の参加しないとか、そうした理由だという。なんかこれって単身者差別ではないのだろうか。日ごろもっともらしく差別反対なんてことをいう新聞や評論家がなぜこれを問題としない?高齢化にともない配偶者に死に別れた単身者もどんどん増えている。非婚化に伴い一人で住む中年者も増えている。そして他にも離婚や単身赴任、親と死別した元親同居中年など…。単身者が増えているのに、単身者向きの住居が近くにあるのはいやだなんてことが通るわけがない。それでなくても昔あったような単身者向きに格安の家賃で入居できるボロアパートはどんどん減っていて、今はワンルームといっても小奇麗なマンションばかりである。ネットカフェやホームレスが増えるわけである。
2007年11月12日
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世界中でムスリム人口が急増しており、このままでは米国も○○年後にはイスラム教国になるという議論があるらしい。ネット上ばかりではなく、「Ameristan」という米国のイスラム国化をテーマにした本もでているので、現実的にそうした脅威というか期待があるのだろう。イスラムは単なる内面的宗教ではなく、社会制度や政治体制にも影響力を有するので、米国がイスラム化したら世界に与える影響も大きい。その頃には9.11のグラウンドゼロも「アタ殉教の地」として記憶されるようになるかもしれない。そんなイスラム化の可能性は米国だけではなく、欧州でもいわれている。※ひるがえって日本はどうだろうか。低出生率とからめて800年後には日本人はいなくなるなんていうしょもない議論を大真面目にする人はいても、日本のイスラム化の可能性となると、日本が火星人に占領される可能性と同じくらいにしか考えない人が多い。本当にそうなのだろうか。30年ほど前の一億総中流などといわれ一部の評論家が戦後民主主義や「悪平等」をさかんに批判していた時代に、今日のような格差社会を予見した人はほとんどいなかった。本当のところ10年後や20年後の社会がどうなっているかなんて誰にもわからない。このままの状況で確実に増えていくのは高齢者。高齢期というのはいやでも自分の死に向かい合い、自らの死生観を問い直す時期だ。そして今のままの施策が続けばさらに増えていくのが貧困層。現在、親に扶養されている成人ニートやフリーターも親の死とともに街にほうりだされてくる。そうした人々の心を強烈な宗教がとらえたってなんら不思議はない。※それにもしかしたらイスラムの教えは日本のような社会でこそ必要なのかもしれない。イスラムにはザカート(喜捨)という信者の義務があり、富者は貧者に一定の施しをしなければならない。富はアッラーの力によって与えられたものであるからというのがその根拠である。日本には巨万の富を得たIT長者やスポーツ選手はいてもそうした人が熱心に貧者に寄付をしているという話はあまりきかない。いくら本人の努力があるとはいえ、能力や運などアッラーから与えられた恩恵だって大きいはずだ。それを考えれば恩恵を受けた者の義務として恩恵を受けなかったものに施すという考えも理由があるのではないか。そして富者の対極にいる貧者だって、生はこの世で終わるのではなく、死後の裁きや来世があると思うことによって身を処すことができる。死後の裁きを考えれば、いくら病苦や生活苦があったとしても群集の中に投身自殺をするなどの行為は躊躇するに違いない。なによりもよいのは、日本がイスラム化したら国の財政危機も解決するかもしれない。これはアッラーの恵みで石油が沸いて出るなんてのではなく、イスラムの教えが偶像崇拝を禁止している故である。イスラムでは偶像を厳格に禁止している。そうなると日本人はイスラムの信仰を守るために偶像を処分しなければならなくなる。日本にある偶像、いや仏像の類を世界中に売ったら国の借金も返せるのではないか?フランスのルーブルなんかよろこんで買い取りそうだし…。そして売れないもの、高崎観音のような巨大立像も偶像崇拝となるのを防ぐために上からシートをかぶせるのである。つまりチャドルを被った観音様である。(ああ、いくらたわごとでもこんな不敬な日記を書いていると地獄に落ちそう。もうやめておこう。)
2007年11月11日
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政府が始めて自殺対策白書なるものをだしたという。さっそくみてみたのだが、ちょっと前までのニートやフリーターについての議論を、ふと思い出してしまった。だってよく似ている。ニートやフリーターについても親の甘やかしや本人の勤労意識のせいにする人がいたけど、それと同じように今回の自殺対策白書なるものも自殺の原因を本人の精神病理やうつ病のせいにしている。本当にそうなのだろうか?社会全体に安定した職場という椅子が少なくなっている状況で、そこからはみ出た人間の「勤労意識」をいくら責めてもフリーターがなくならないのと同様、自殺していく人間の「精神病理」をいくら問題視したところで自殺者が減るわけがない。病苦を理由とする高齢者の自殺はさておき、経済問題を理由とする自殺というのは、本人の内面よりも本人をとりまく状況の側に問題があるのだから。自殺対策というのは白書でいっている「カウンセリング」や「心のケア」(気持ち悪い言葉!)よりも、生活や経済面における相談体制の整備こそが重要ではないか。経済面の相談に応じ、そして必要ならば福祉も利用できるようにする。「自殺対策」なるものに使う予算があるのなら、セーフティネットのほころびを少しでも直す方が先決であろう。この間も生活保護を断られた男性が、福祉のあり方に抗議するという遺書を遺して車の中で自殺した事件があったが、似たような事例というのはけっこうあるのではないか。一昔前は電車がきちんと時間どおりにくるのが日本社会の美点だなんてことがいわれていたが、今では人身事故、つまり飛び込み自殺でしょっちゅう電車が止まる。自殺者3万人というのは、社会全体の問題でもある。参照http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/sougou/taisaku/pdf/t.pdf
2007年11月10日
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「労働契約法」という法律が衆議院の委員会を通過したという。たぶんこの法律が成立したら日本社会は変わる。さらなる競争社会、そしてさらなる格差社会に。通常の民事関係と違って労働者と使用者はもとより対等の関係ではない。その対等でない中で労働者の生活権を守るためにあるのが労働法制である。そんな労働法制の中には明文にはないのだが、判例の積み重ねで認められてきたものもある。解雇権濫用の法理…労働者を自由に解雇できないなんていうのもその一つだ。こうした権利を得るためにどれだけ多くの悲劇や涙があったことだろうか。それなのにそうしたものが失われていこうとしている。「労働契約法」では雇用契約を明確にしておきさえすれば金銭で解雇することも自由になる。たしかに解雇を争って訴訟にまでなったケースで元の職場に戻ったという例は少ないのだが、しかし解雇権濫用の法理があって、法廷にまで持ち込まれる(企業のイメージダウンになる)可能性があるということが、企業にしてみれば解雇に対するブレーキになっていたことは疑いもない。なんのことはない。「労働契約法」というのは勤労者のほとんどを明日をもしれないフリーターなどの非正規雇用者と同様の立場にしてしまう法律ではないか。そういえば派遣法改正のときもマスコミはあまり問題視しなかった。通訳やプログラマー以外の非専門職にまで派遣を拡げたら、今のような凄まじい格差がでてくるのは予想できたはずなのに。「労働契約法」で正規雇用と非正規雇用の差は少なくなるだろう。非正規雇用が正規雇用に近づくのではなく、正規雇用の非正規化という形で。いよいよ日本も少数のエリートと多数の貧困層の途上国型の社会になっていくのだろうか。いや、もしかしたら途上国よりももっと悪いのかもしれない。だって日本には途上国の多くが持っているような共同体とか宗教とかそういったものがないのだから。※経済産業省は企業を守る。農林水産業は農民を守る(だろう)。でも厚生労働省は弱者も労働者も守らないし、そのつもりもない。
2007年11月08日
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大腸癌の母親を暴行し、放置したあげく死なせたという息子のニュースをやりきれない思いできいた。老人は自宅で最期を迎えるのが幸福だ…という人は多いのだが、社会の実態はどんどん変わっている。今の時代、親子同居といっても、実はこのニュースにあるような老人と成人した未婚の子供という組合せの方が多い。子供や孫に囲まれての三世代同居というのは本当に少ないし、もはやそういう時代でもあるまい。そして老親と同居する配偶者のない子供というのは、同世代の人に比べて生活力のないケースが多い。つまり生活力のある兄弟はとっくに家を出てしまって、安定した職業や十分な収入をもたない子供が老親とともに実家にとどまるというのが多いのである。老人への家庭内虐待が問題となっているが、老親と子供との「同居」といってもその実態が昔とは変わってきていることを前提として論議していく必要があるのだろう。老人にとって親子同居が幸福かといえば、必ずしもそうではない。自宅で死を迎えることが幸福かといえば、それもそんなことはない。狭いアパートで病気で下の世話が必要となった母親をもてあましていった息子のやりきれなさもわかるし、その息子をかばうため誰にも訴えずに庭先で寝泊りしていた母親もせつない。この事件についても、今の日本で波のように広がっている貧困、ワーキングプアや不安定就労の問題をみてしまうし、高齢化社会の現実についても考えてしまう。この母親は癌がすでに肝臓にも転移している状態だったという。本来であればとっくに入院が必要な状態だったのだろう。※※今回の大連立騒ぎの背後に某マスコミ人がいたという話がある。マスコミというのは不偏不党だったはず。マスコミ関係者が政治を動かそうとするのはルール違反ではないのだろうか?
2007年11月08日
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昨日の日経新聞夕刊の一面に面白いコラムが載っていた。社会主義体制の崩壊による冷戦の終結は本当に慶賀すべきことだったかというような趣旨のもので、社会主義がうまくいかなかったのは、結局、人間がそれほど立派なものではなかったというだけのことではないかということが書いてあった。たしかにあの計画経済がうまくいくためにはとてつもない叡智が必要だし、結果の平等を建前とする社会でモラールを維持するためには、「一人は万人のために、万人は一人のために」という善良な人間性を前提にしなければならない。社会主義は人間は神のような存在であることを前提とするが、資本主義は人間を欲望の塊と前提するといわれるゆえんである。だから社会主義が崩壊して資本主義が残ったとしても、それは「自由」とか「民主」とかいう高尚な理念が勝利したというわけではない。※思えば社会主義が生まれたのは、資本主義下の自由競争の結果、多くの敗者と悲惨が生まれたからではなかったか。揺籃期の資本主義の悲惨が思想ではマルクス、文学ではディケンズを産んだわけである。そして冷戦崩壊後の資本主義は、再び、そんなむき出しの弱肉強食の自由競争の方向に向かっているように思う。格差の議論になると、いつも格差拡大は世界規模の潮流でやむをえないという人がいるが、たしかにこうした競争の激化は世界規模で起きているのだろう。※弱肉強食の自由競争の行き着くはては多数の貧困者の絶対的窮乏と共同体の崩壊である。しかもこの新しい格差は、根源的には「能力の格差」を理由としているだけに、敗者にとってはより救いがない。19世紀、つまり初期資本主義にみられるような生産手段の所有と相続を理由とする格差、つまり資本家・地主階級と労働者・貧農階級との格差と今日の格差とはわけが違うのである。「機会の平等」や再チャレンジだけでは、決して今日の格差の処方箋にはならない。この貧困者の窮乏と共同体の崩壊という現象はもうすでに起き始めている。生活保護世帯の激増は多くの自治体で問題となっているし、北九州市の餓死事件は先進国の珍事としてニューヨークタイムズでも報道された。駅員への暴力など大小様々の犯罪は増えているし、モンスターペアレントの問題などもこの一環ではないか。※思えば日本というのは農村共同体の歴史が非常に長く続いてきた国である。共同体の中では凄まじい格差はなかったし、農業というのも個人の能力の差がそんなにむき出しにはならない。自由競争の結果としての格差拡大…ということ自体、日本社会にとっては、もしかしたら初めての経験なのかもしれない。
2007年11月06日
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派手なテレビCMで有名な英会話学校NOVAの経営危機が話題となっている。この学校の授業料がどれほどのものかは知らないが、英会話学校に通おうという人にいいたい。英会話学校に大枚をはたくよりかは、たぶんそのお金を海外旅行に使った方が効果がある。※そういえば以前英会話学校に通っていたことがある。入学金や授業料で何万円、そして通い始めたものの、仕事の都合などで欠席せざるを得ない日もあったりして、とてももとをとったとはいえなかった。結局、自分が求めていたのは英語力そのものというよりは、新宿の英会話学校に通っている、表参道の英語学校に通っているという自己満足だけだったのではないか。英語を仕事に使う場など、あの頃は皆無だったし、やる気などおきようわけもない。※才能、努力と語学上達にはいろいろな要因があるが、必要性というのも大きい要因だ。そして日本で普通の生活をしていると英語というのはまず必要がない。だから何が効果的かといえば、その必要を作るのである。海外旅行の計画をまずたてる。そして旅行先でのやりとりを想定して学ぶ。英会話の教材はあふれているし、あえて英会話学校という必要もないだろう。そして旅行に行ったら、怪しげな人と会話する必要はないけど、ホテルや店など様々な機会を活用してできるだけ英語を使う。もちろん英語圏の国でなくともよい。※あの頃、英語学校に払った金額で海外旅行に行っていれば、今よりも英語ができるようになっていたかもしれない?
2007年11月06日
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小沢辞任のニュースにはびっくりした。いや、辞任そのものにではない。あのやめ方にである。代表といういわば責任者の立場にあるのなら、辞めるにしても後任にあたりをつけ、周囲にも知らせた上で公にするのが普通ではないか。我々のようなそこらの安サラリーマンだって円満退社しようと思えばいきなり辞表を出すようなことはしない。おまけに「今の民主党には政権担当能力がない」云々と自党を否定するような発言まででる始末。今まで政権をとるために党一丸となってやってきたのではなかったのか。壊し屋の本領発揮といったところだが、民主党にとっては安倍総理の辞め方よりもひどい。そのうち日本中いやになったら放り出すというタイプの辞任が増えるのではないのだろうか。そうなると辞めるに辞められないのは「日本国の象徴」という職業だけ…?※想像力をたくましくすれば小沢氏ははじめからここまで考えていたのかもしれない。大連立をそれとなく持ちかけ、断られたら辞任する。その後は民主党をわって自民党に合流する…というシナリオである。それにしてもこんな騒ぎのきっかけとなったテロ特措法案ってそんなに重要な法律なのだろうか。自衛隊を派遣しないとテロとの戦いに遅れをとるとか国際社会で孤立するとか、といわれているがどうもよくわからない。素朴に考えれば帰国できる自衛隊員は喜んでいるのではないのだろうか。
2007年11月05日
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英国で怖い映画のアンケートを行ったところ1位エクソシスト、2位シャイニング、3位ハロウィーンという結果になったそうだ。http://journal.mycom.co.jp/news/2007/10/31/001/index.html実はどれも見たことがなく、4位のエルム街の悪夢をようやく見たというくらいなので、あまり知ったかぶりはいえないのだが、同じホラーといっても洋画と邦画では恐怖の質がちょっと違うのではないかと思う。※邦画をみていると怖さの本質は恐怖対象そのものというよりも、いつ「それ」がでてくるか分からないという間にこそあるように思う。たぶん怖さの程度という意味では邦画の方がずっと怖い。特に、見慣れた日常的な光景なのだが画面いっぱいに異様な雰囲気(霊気とか妖気とかいうのだろうか)がただよっていて不安そうな主人公の顔がアップになる…というような場面は本当に怖い。ただ、そんな怖い映画でも、いざ「それ」が画面に堂々とでてくるとかえって恐怖感は減退するのはなぜだろうか。具体的な映画名はあげないのだが、どうしてもメイクだとか作りものだとかという感が先にきてしまい、かえって興ざめしてしまう。「それ」はうんとぼかして見せた方がかえって怖さは倍増するのではないか。そうした意味で、今までみた中で一番怖かったのはwowwowでやっていた「女優霊」である。テレビ関係者の間で伝えられているような怪談話のようなストーリーなのだが、本当にこんなことってあるのではないか、霊がみえるとしたらきっとこんな感じなのではないか、と思わせるような怖さである。ただし、それは映画に期待するような後味のよいものではなく、後をひく。だから、この「女優霊」は、ビデオ化もされているようだが、二度とみたくない。※洋画のホラーは、見た範囲での話だが、日本のホラーのような陰陰滅滅といった雰囲気はあまりないようだ。そしてまた日本の怪談ではおなじみの、不幸な死者が幽霊となって生きている人間にとり憑くというパターンも少ないように思う。そうした意味で、ホラーというのも、もしかしたらその文化の基層にある死生観や世界観を反映しているのかもしれない。
2007年11月04日
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公務員をしている友人から聞いた話である。役所の窓口には「おなじみの客」というのがいるらしい。よく文句をいってくる住民である。アパートの窓に立て看板がかかっているから規制してほしいとか、近くの建物のせいでテレビが写らなくなったのは役所の怠慢だとかといった類である。文句をいってくるだけではない。中にはいくつもの訴訟をかかえている人もいる。裁判所でいう「マニア」である。そうしたマニアの中には特定の細かな法律については弁護士さんよりも詳しいという人もいるという。※もちろん役所にクレームをつける住民の中には正当な理のある人も多いであろう。いや、そういう人の方がほとんどでけっして役所に意見をいうのがいけないなどというつもりはない。しかし中にはごくわずかではあるが周囲に相手にしてもらえない鬱憤をそうした窓口ではらすような人がいるというのも本当だろう。役所の窓口ならどんなクレーマーにも対応せざるをえないし、いくら罵詈雑言を投げつけられても反撃するわけにもいかない。最近、教育現場でモンスターペアレントというのが問題になっているらしいが、その根っこは案外役所にやってくるクレーマーと同じなのかもしれない。無理難題を言っているなんてことは親の方も分かっているのだが、早い話、教師に鬱憤をぶつけているのである。本気で調査すると、また差別だなんだと問題になりそうであるが、モンスターペアレントの職業や家族環境をみると何らかの傾向がでてくるのではないか。そうした人の中には、たぶん職場や近隣で阻害されている人が多いように思う。※ちょっと前までは親達はよく「学校に子供を人質にとられている」なんてことを言っていたものである。学校や教師に不満があっても、子供のためを思って何もいえなかったわけである。そう考えると、この頃問題になっているモンスターペアレントにとっては、きっと自分の子供というのは「どうでもよい存在」なのだろうか。
2007年11月03日
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友達の友達はアルカイダ…というのはやはり「そんなのアルカイナ」ではとてもすまない。もしこんな発言をアメリカやイギリスなどの有力政治家がやったら、たぶんもっと大騒ぎになる。こんな発言を法務大臣がやって、この程度ですんじゃっているのなら、「日本はテロへの怒りを共有していない」なんてみられてもしかたない。※※まあ、政局の話はともかくとして最近の芸能ニュースでちょっと気になることがある。あのダルビッシュが日本国籍を選択したというのだけれども、名前は有で苗字はやはりダルビッシュのままなのだろうか。本人はよいけど、いずれ子供が生まれて、孫が生まれて…子々孫々ダルビッシュという名前だとちょっと不便なような気もする。ダルビッシュの孫の時代には日本もすっかり国際化してそんな名前も違和感がなくなっているのかもしれないけど。※それからダルビッシュはお父さんがイラン人というから、彼もやはりムスリムなんだろうか。ムスリムの男はムスリマかクリスチャンとしか結婚できないはずなのだけれども、婚約者がクリスチャンという話もきかない。そうなると結婚に際しては改宗とかするのだろうか。そのときは結婚式もイスラム教式でやるのかしら。だったら中継でぜひみたい。それとも、あの教義では結婚式の中継なんて禁じているのかしら。どうでもよいといえばどうでもよいのだけれども、疑問は疑問だ。どうして芸能マスコミはこうしたことはあまり書かないのだろうか。
2007年11月02日
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いろいろとびっくりするニュースがあるものだが、これには驚いた。ちょっと前にあった、男が少女を車に連れ込んでレイプしようとしたら逆に少女がそこにあった包丁で反撃をし、男が死んだという事件の続報である。男と少女との間にはもちろん面識はなく、典型的なレイプ目的の拉致事件で、しかも男には同様の前科もあった。状況からみても正当防衛であることはあまりにも明白な事件で、後は精神的にショックを受けているであろう少女の立ち直りをいかに支援するかということを警察は考えているのかと思っていた。ところがあにはからんや…「結果の重大性に鑑み」少女を書類送検したという。被害者の人生よりもレイプ犯の生命を重大視するなんて本当に不思議な国だ。これって国家権力によるセカンドレイプ、重大な人権侵害ではないのだろうか。日ごろ勇ましいことを言っているフェミのお姉さま方や人権屋さん達はなぜ黙っているのだろうか。この事件については、無神経に「刺殺」だの「殺害」だのという言葉を使っている報道にも怒りを感じてしまう。ああいう極限状況で反撃をし、身を守ることができたのは僥倖だし、十分に誇りに思っていいではないか。たぶん反撃をしなかったら犯人の男はさらに第二、第三の事件を起こし、被害者が生まれただろう。あの少女によって、もしかしたらこれから被害者となったかもしれない何人もの女性が救われたのかもしれないのだ。少女よ、あなたはよいことをしたのですよ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071101-00000201-yom-soci&kz=soci
2007年11月01日
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企業は収益を上げ、景気はよいというが、そんな実感がさっぱりないのはなぜなのだろうか。それはその収益が給与という形で多くの人に分配されないためである。昔の○○景気では、会社が儲かると、給料が上がり、皆が金を使い、さらにそれが会社の収益をあげていくという循環があった。ところが今の「好景気」では、逆に民間の給料は下がっている。企業は社員の非正規化や正社員の長時間残業などで人件費をぎりぎりまで削り、その結果としてあげた収益という果実を配当という形で投資家に分配したり、高額の役員報酬に向けたりする。かってと違い、今の好景気なるものは格差社会拡大を推進するばかりである。※一億総中流なんていわれていたよい時代はもう来ないのだろうか。あの頃、会社はムラ社会で、そこではスーダラ社員もダメオヤジも明日の心配をしないで生きていけた。そして皆がウチの会社が儲かれば生活がよくなると素朴に信じて働いた。でも、今の世の中、「ウチの会社」がいくら儲かっていても、明日にはリストラされるかもしれない。いや、「ウチの会社」を持たず、部品や機会のようにあっちの会社、こっちの会社とわたりあるく人も珍しくない。※もちろん人間には能力の差があるし、努力の多寡や運のよしあしもある。その意味で、平等な社会というのは幻想だろうが、それでも社会の軸足としては競争に重きを置く社会と結果の平等に重きを置く社会とがある。小さな政府と大きな政府である。アメリカなどは典型的な前者であるし、北欧などは後者に近い。世界中から人材を集めて発展するような移民国家では前者をとらざるをえないのだが、共同体としての国家機能を重視する場合にはむしろ後者に近くなる。北欧に安定した立憲君主制の国家が多いのは偶然ではない。この二つのタイプを考えた場合、日本の向かう方向として、はたしてどちらがよいのだろうか。
2007年11月01日
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